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RSSフィード [37] ご当地小説始めました!
   
日時: 2011/09/04 21:17
名前: 片桐秀和 ID:eyYh/LA.

さあ、今日この瞬間よりまったり始まりました。ご当地小説!
改めて説明しましょう。
ご当地小説とは、TCを利用している我々が、おのおのの住んでいる(住んでいた)地域の名産、観光地、歴史、風俗、方言、などを盛り込み、小説を書いて投稿しようという企画です。何か一点でも作者として思う地元感(地元愛?)が出ていれば、ご当地小説とみなされます!

  投稿場所:このスレッドに返信する形で投稿。一般板への同時投稿も可能(その場合一週間ルールは守ってください)。
  枚数制限:なし
 作品数制限:なし
  ジャンル:不問
感想の付け方:ミニイベント板の感想専用スレッド
    期間:スレッド設置以降無期限
 地域の重複:問題なし
  参加資格:誰でもOK
 
 ※投稿の際、タイトルの横に、どこの都道府県の話か書き添えてくれると、読む方も選びやすくなると思います。お願いします。

といった感じですー。感想は別のスレッドということだけ注意してください。たくさん投稿されると、どこに感想があるか分かりにくいと考えてのことです。また、一般板へ投稿されている場合は、そちらへ感想を書くことを優先した方が、作者さんも喜ぶかも。

えっと、とりあえずスレッドとして立てますが、各地方ごとに投稿分布を載せたり、スレッド主の独り言を書いたりと、定期的にスレッド自体も更新していこうと考えてます。ぜひともこのミニイベントをお楽しみいただけると幸いです。

メンテ

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かもがわでるた。これは京都のおはなしです。 ( No.1 )
   
日時: 2011/09/04 21:14
名前: みずの ID:qNg6eiHA

 河川敷に腰掛けて、買ったばかりの本を読んでいる。コインロッカーベイビーズ、ちょうどアネモネっていう女の子が出てきたところだ。
 午後の空には雲が曖昧に広がっていて過ごしやすく、左の方、下鴨神社の方から涼やかな風が吹いている。夏の盛りはもう過ぎたのかもしれない。
 視線を上げると、鴨川がちろちろと流れていて、その向こう側に出町柳駅への小さな入口があり、そのさらに向こうには大文字の送り火が焚かれるという山がそびえている。
 風が吹いてくる方を見ると、ふたつの川に挟まれた三角地帯にこんもりとした緑があり、下鴨神社はその向こうにあるらしいのだけれど、僕には神社やお寺を巡るという習慣がなく、こんなに近くに住んでいながら一度も訪れたことがない。世界遺産であるということさえつい最近まで知らなかった。
 名前を呼ばれた気がして視線を戻すと、川の流れに置いてある飛び石の上にあなたが立っていた。サルエルパンツだかなんだか忘れたけれどそんなのに袖の短い白いブラウスを合わせていて、そこから透けているインナーもまた白っぽく、その微妙な光り加減の違いについ目がいってしまう。
 どこかの男の子が奥の方の飛び石から勢いよく跳ねて来ていて、それに気づいたあなたは最後の飛び石を蹴って川を越え、僕の傍まで小走りでやってきた。

 何読んでるん? と訊きながら本の表紙を覗き込み、おっ、限りなく透明に近い村上龍やん、とつぶやいてひとりで笑っている。
「てかさ、下鴨神社って世界遺産やってんな、知ってた?」
 本に目を落としながら僕は言う。
「…いや、それあたしが教えてんけど。舐めてるん?」
 あなたはまた笑う。
「行ったことある?」
「ないよ、なんで行かなあかんねん」
 なにキレてんねん、といつものように僕がつぶやく。あなたの満足そうなにんまり顔が浮かんできたので目をやると、やっぱりそこにあった。僕は本を閉じる。

 なにもせずにぼんやりとしていると風がさらに気持ちいい。本格的なジョギングスタイルのおじいさんが軽快な足取りで僕らの前を通り過ぎる。さっきの男の子は向こう岸で母親とじゃれ合っていて、すぐ傍にかかっている橋の上からは外国人のバックパッカーたちが川を見下ろしている。ちろちろとせせらぐ水音。
「あと半年したら、東京やな」
 ひとりごとのように僕が切り出す。
「まぁな、ここおってもしゃあないしなー」
 伸びをしながらあなたが言う。確かにそうだな、と思った。
「準備しなあかんこととかあるん?」
「うん、まぁいろいろあんねん。今度見せたるわ」
 あたしのすべて、と付け足してあなたはまた笑った。僕はあなたが時折見せる、没頭しつつも無関心さを装っているような、奇妙な横顔を思い出す。
「あたしのすべて」
 僕がそのままなぞる。
「お、興味津々やん。今度と言わず今すぐ見たいんやろ?」
 にやにやしながら僕の顔を覗き込む。
 恥ずかしいから絶対に打ち明けたりはしないけれど、こういう時のあなたの勝ち誇ったような表情とかしぐさとか言葉とかは僕をなによりもやさしくかき乱し、いちいち手を当てなくても心臓が動いているのがわかる。まともじゃない、とは自分でも思う。

「今すぐっつーか、いつでも見たい、かな」
 どう切り返そうか悩んでいるうちに本音を零してしまった。頭の中では、他愛のない予定調和の掛け合いを楽しむような時間は残されていないのかもしれない、という不安や愛しさが瞬いていて、それと似たようなものがあなたの表情にも浮かぶのを見逃したりはしなかった。僕は言葉を継ぎ足す。
「…てか別にすべてじゃなくても、えろいとこだけでええけど」
「はいはい、後でな」
 間髪いれずにあなたが返す。一拍置いて漂う間延びした期待というか予感。あなたもそれを感じているかもしれない。どちらからともなく、少しだけ距離を縮め合う。よくある女の人のいい匂い、そのずっと奥の方に隠れているあなた自身のいい匂いも、今日はしっかり感じ取れる。
「あたしおらんくなったら寂しくなるやろ?」
「うん、まぁな」
「ふふ、そっか。あたしも寂しいけど、向こう行ってからはわからんで?」
 冗談とはわかっていても、心臓は素直に縮む。
「オトコのことなんて考える暇ないやろ」
 と返すぐらいしか出来ない。
「うん、まぁな、そこやねん」
 なんか粘液みたいな感情が、だらしなく垂れさがっている。戻っていくこともなく、ぽたりと落ちることもなく。僕はタバコをくわえてあなたを一瞥し、それから火をつけた。粘液が垂れさがっている部屋とは別のところに、煙が貼り付いてまた出ていく。それはいつも通りの味であてが外れたので、残りは奥まで落とさずに軽くふかした。煙はほわほわと風に流され、あなたの髪をかすめて見えなくなっていく。ちょっと、風向き考えろやー、と言いながらあなたは僕の右側から左側に移り、んしょ、と声を漏らして座る。
「俺も東京行けたらええんやけどなぁ」
「ほんまやで、1年待っといたるからちゃんと来てよー?」
「うん、まぁまずは会社決めんとな」
「せやけどさー、あたしでもいくつか決まったんやから大丈夫やって」
 そのあと全部蹴ったけどな、と言って笑う。
「あんたやったら絶対大丈夫やで、センパイとして断言したるわ。ついでにあんたが変態やってことも、カノジョとして断言したるわ」

 こんなしょうもない励ましでも、あなたが言うとただの気休めには聞こえない。垂れさがっている部屋が震えて、堪えきれずにぽたりと落ちる。こんなことに愛情を感じるなんて、俺もまだまだガキやな、などと心の中でうそぶいてみても消えてはくれない熱。それならむしろ信じる方が現実的だと思った。
 吸い始めたばかりのタバコはなんだかもう邪魔で、コンクリートで火を潰す。

「もし東京であかんかったらさ」
 吸い殻を携帯灰皿に押し込みながら、あなたの顔を見ないように、僕の顔を見られないようにしてつぶやく。
「俺がなんとかしたってもええで」
 言い終わるとすぐに、立ちあがって伸びをする。相変わらずの薄い空をとんびが一羽、旋回しながら東の方へ東の方へと渡っている。
 あなたは少し黙った後、僕のわき腹を弄りだす。くすぐったくて思わず振り向くと、座ったままで僕を見上げて、
「あほか、調子のんな」
 と言った。僕も少し泣きそうだった。

メンテ
うぉんたなの怪  兵庫県明石の話です ( No.2 )
   
日時: 2011/09/05 23:15
名前: 時雨樹舘 ID:V07AvWcE


 魚の棚商店街、通称「うぉんたな」は今日も賑わっていた。干し蛸の匂い、店の上の大きい蛸の看板、やけに魚屋が目立つ通り。
「はぃはぃはぃー!安ぅいよォ――!!」
 あちこちから聞こえる客寄せの声。
 そんなうぉんたな、端から端まで通りきるまで何人の人にぶつかるか分からない。数える人などいないだろう。まともな人ならそんなことを数えずに、店の方に夢中になっているはずだ。そうに違いない。
「97、98、99……あああっ!100超えたぁっ!」
 が、今日私はぶつかってきた人の数を数えるので必死だった。それは最近の噂と言うか何と言うか……ともかく、そんなことが私の学校で流行っているからだ。
 端から端まででぶつかった人が100人を超えると、何か悪いことが起こる。
 内容を端折るとこんな感じだが、その悪いことは必ずうぉんたな内で起こると言う余計なオプションまで付いているため、とにかく厄介だ。
 こうなったらさっさとうぉんたなを抜けてしまうに限る。
 私はそう考えて少し早歩きになった。
「……って、うぉあぁぁっ!何や何や何やっ?!」
 途端に何かに滑って転ぶ。
「すまんなぁ嬢ちゃん、蛸逃げ出したねん。ひろてくれるか」
「うぅ……痛いなぁほんまにもう」
 どうやら私がつまずいたのは蛸だったようだ。何にせ生きた蛸はたちが悪い。発泡スチロールの箱から逃げ出そうともがいた挙句地面に落ちてぬめぬめと這いまわっていたりする。そんな時は大抵店のおじさんが拾って元の場所に戻し、ついでに値札を蛸の上に貼り付けたりするのだが……。
「はい、蛸。もう逃げ出さんようにしといてよ。……あぁー、スカート臭なってもた」
 そんなことを思いながら、私はおじさんにそう言って蛸を返した。何か悪いことって、これだったのかな?
「ん、お礼とお詫びや」
 スカートに付いたほこりを払って立ち上がった私の前に突き出されたのはなぜかするめ一掴み。
「あ……ありがとうございます」
 私はそれを頂いてまたうぉんたなを歩き始めた。
 するめは固い。あごが外れるかと思う程固かった。もしかするとこれも何か悪いことなのかもしれない。良い事のような気もするが。
 そのまま私はうぉんたなを抜けた。悪いことは、どうやら蛸関連のあれだけだったらしい。

 翌日、私は学校で蛸で滑ったことと噂のことを友達に話した。
「え、もしかしてあんたそんなこと信じとったん?あれ嘘やで、嘘」
「何で嘘てわかるんさ」
「だってうちが広めてんもん、あの噂。ひっかかる人なんかおらんやろなて思とったのにまさかあんたがひっかかるとはなぁ。そういや今日何かあんたのスカート生臭い思た」
「やったらめっちゃ必死にぶつかった数数えた私の苦労はどこいったんよ」
「そんなん知らんがな」
 
 友達を水筒で殴ろうかと思った。いや本気で。

メンテ
横断する帯 新潟県の話です。 ( No.3 )
   
日時: 2011/09/23 20:26
名前: 雪国の人 ID:ffY7J04g

 新潟大学の大まかな印象というのは、ちょっとした高台にうずくまった哺乳類のようだ。犬でもカバでも、何でもいいが、端から端まで歩こうと思ったら、そこそこに敷地は広い。海がすぐ近い。地方の、いわゆる駅弁大学であって、私の通う母校である。怪談研究会という名前を持った、実体のないサークル活動はそこで行われ、私は会員の一人だ。
 私はその日は、帰宅をする途中、大学の西門をちょうど通ったところだったが、メールの着信音がした。怪研の先輩会員からで、彼女の住むアパートまで用があるという。学生アパートの密集する地区があって、JRの越後線と新潟大学に挟まれた形、少し急勾配の坂状の立地で、段々畑のようにして十字状の道路が走っている。私は通学に電車を利用していて、先輩会員、倉持さんに用があると言われても、それは帰り道にちょっと寄ることができた。
 気温の低い日だった。日差しはほとんどなかった。冬にはだいたい、強い西風がふくものと決まっていて、その日もそうで、空では何か低い大きい音が鳴っているのに、目に見えるような動きは、暗く湿った一面の雲にはほとんど見られない。歩きながら学生数人とすれ違った。ため息をついていたり、つまらなそうな顔。歩道は歩きづらい。雪が積もって、朝の内に踏み固められて、しかしとけないような冷たさの日には夕方まで残って、その夜にまた降る。毎日、雪の上を歩いていると、なんてことない、アスファルトの地肌が懐かしくなる。それは新潟にやってきて一年目の、学生の友人達はそんなことを言った。私は同感だったが、しかし春がきてからの、あの気分の落ち着きの無さはどういった感覚なんだろうか……足元が妙にふらついて、また時々、暑い日があって、歩いていると疲れる。
 段々畑と形容してみても、アパート密集地の道は当たり前に斜面になっていて、固まった雪の歩道は気を抜くと滑って転ぶのだった。そうすると結構痛いので、歩き方にはちょっとコツがあった。踏まれきっていない塀側の端を歩くか、車道との境を歩く、とか、靴のカカトの置き方に気を使って歩くとか。何にせよ面倒だし、見た目が良くない。倉持さんの部屋のチャイムを鳴らすと、彼女はすぐに顔を見せた。疲れた気分はそれでやわらいだ。
「今まであまり何にもしてこなかった怪研だけど……」
 怪談研究会は、主には空のスチール缶をたくさん作ってきた。ここ数年はずっとそんな感じだったという。倉持さんは私にコーヒーが入ったままのスチール缶を一つ渡して、自分でも一つ持ちながらコタツに収まった。私もそれにならう。
「このあいだ、私達でも行けそうな、手軽な怪談スポットを発見したのよ、私が」
「怪談スポット?」
「うん」
 倉持さんはどことなくテンションが高めだった。
「このあいだの夜、車に乗せてもらってたら、何か見たの」
 倉持さんは話しながら、部屋の壁際に何列か詰まれた怪談ブックをちらりと見た。コンビニなどで売っているタイプの本だ。彼女はいずれ小説家になるのだという。
「まあ、うまく話せないんだけど、場所はほら、大きい道路があるでしょ、あそこ」倉持さんは「あっちのほう」と言って部屋の一方を指し示す。彼女の言う方向の大きい道路というと国道116号線だった。新潟市からずっと南の遠く、柏崎市までを結び、中長距離トラックから休日の家族連れまで、非常に大勢の人々の自動車を運ぶ。
「ありますね、はい」
 私は頷く。
「夜だったから、あんまりはっきりと見えなかったけど、真っ白いものが見えたのよ、車の窓から外にね、助手席だったから、フロントガラスの向こう側に、一瞬だけ、パッと、そしたらもうあたし達の車が通り過ぎて、慌てて振り返ったらもう何もなかったんだけど」
 私はあまり恐怖じみた期待はしなかった。しかし倉持さんが怪談だといって話すのだから、これは怪談ということだった。
「白いものって、具体的にどういうものだったんですか?」
「え、うーんと、……すごく大きい蛇よ、心霊写真みたいなの」
 倉持さんはボールペンとメモ帳をテーブルに置いて、書きはじめた。
「道路があるでしょう、こう……」メモ帳に縦線を二本引く。「そしたら、こう、車が走ってたら、道の横から、白い影がぼうっと伸びているのが見えたの」
 二本線を遮るように、もう二本、ボールペンの線が追加された。それぞれが直角に交わって大きく十字模様をかいた形になる。あとから追加されたほうが、116号線を横切る白い影というものだ。
「透明な大蛇みたいだった。この世のものじゃないって感じがした。わかる?」
 倉持さんが聞いてきて、私は頷いた。
「まあ、なんとなくですけど。でもそれ、あんまり怖くない……」
「……怖いかどうか確かめたいんだけど、今日これから暇? 夜まで」
 私はちょっと呆気にとられたが頷いた。計画を聞くと、私の運転する車で現場まで行きたいというので、電車に乗って私の家まで来て、そこからまた出かけるのだという。それで倉持さんのアパートを出て、駅へ向かった。

 電車の窓の外の風景を私は見ていた。JR越後線は新潟駅から伸びて柏崎駅までを結ぶ。新潟駅から少しすると水田地帯である越後平野を通り、新潟大学前駅から電車に乗る私達は、ちょうどこの部分の路線を利用することになる。住宅地……というより、平成の前の頃からずっとある集落の延長のような地区と隣り合わせになって電車は走り、つかず離れずの距離で、これはちょうど日本海に対する海岸と、弥彦山脈を挟んでほとんど平行する形になって続き、同じく国道116号線もまたちょうど平行に、水田地帯の真ん中を伸び続けている。窓からは水田地帯と、国道116号線が見えていた。この季節、雪が降ると一面が白く覆われる。雲間ののぞくような時には、とけた表面の水滴が光の乱反射を起こして美しく輝く。この日はそうではなかった。雲はひたすら厚く、低く、また雪も降り続けていた。早々に明るく照明のついた電車内から見上げる降雪は、暗い灰色の空から、ひたすら灰色の雪が落ちてくるのに、目が回って、眩暈がする。見上げた場合の雪は灰色をしている。それだからか、すでに降り積もってしまったほうの雪には、よそよそしさも感じる。
 電車内はよく暖房が効いていた。倉持さんと私の持った傘からは水滴が落ちて床に水たまりを作っている。倉持さんは着ているコートの腰の後ろの部分をしきりに気にしていた。倉持さんのアパートを出発してすぐ、彼女が足を滑らせて転んだからで、しかし特に汚れているようには見えなかった。
「どうして、こう……ねえ、寒いのかしら、新潟って」
 倉持さんはぼやくようにして言う。私は首を傾げた。
「別に新潟が特別寒いってわけじゃないと思うんですけど、冬ですし」
「なんか……雰囲気とか。わかるでしょ?」
 私は県外で生活したことがないので、比較の対象がなかった。
「こうやって電車に乗ってて、あったかいでしょ、温度が。でもなんだか、寒い気がするっていうか。雰囲気なのよ、音とか」
 私はわからなかった。倉持さんは考え考えで話したが、「わかんないかな」と言って私の顔をまじまじと見上げた。
「いえ、わからないっていうか……」
「……まあ、ずっと暮らしてたらわからないのかな」
 倉持さんの寒さの話はそれで切り上げのようだった。しかし彼女は電車内に傘を忘れて駅のホームにおりた。

 新潟によく雪が降るのは、特別に気温が低いからではなく、冬の西高東低の気圧配置のおかげだった。海上から吹く強い西風が、新潟の上空で雪を落としていく。これは高地でそうした水蒸気が引っかかるために特に顕著で、いわゆる豪雪地帯として知られる新潟の一部の地域は、標高が高いのだ。新潟市であったり、越後平野のような水田地帯である平野部には、二メートルも、三メートルもの雪は積もらない。せいぜいが五十センチメートル程度であり、見渡す限りの水田を銀世界一色に変えてしまうのには、それだけで十分だった。
 私は車を運転しながら、そうやって倉持さんの話を考えていた。私は冬のそうした水田の眺めは好きだった。胸が締め付けられる思いがする。誰も、雪の積もったあの風景の中にポツンと立つことはできないし、しない。季節が変わって鬱陶しい春がくれば消えてなくなってしまう。毎日、ずっとその風景ばかりを見ていなくていい約束がされている。素晴らしい約束で、同じ意味というので、最高の安心とも言える。自分でも知らないうちに、ため息をついている。窓に、すでに暗くなってよくは見えないそうした景色が映し出されていて、陰鬱な気分で、私は少しの間の落ち着きを得る。
 車は、116号線を走っていた。倉持さんは黙ったまま、助手席で窓の外をじっと見ていたが、不意に「もうしばらく先のほうだったわ、つまりね、私が白い影を見たのは」と言った。
 車は旧新潟市方面へ向かっている。JR越後線を使い、一旦は柏崎市方面へ新潟市から遠ざかり、また次に今度は越後線に平行して走る116号線でUターンをしている形になる。ちょうど水田地帯の只中であり、そういう時間帯なのだろう、私の車の前後をずっとヘッドライトの明かりが列になってつながり、対向車にしてもそういう具合で、スピードは出ない。降雪は明かりの中に白く鋭い霧のように浮かび上がり、ゴウッという一瞬の衝撃で車体を揺らす。そうしたぶつかる音とは別に、天井の高い場所で、低い不規則な、力強さそのものという具合の雲の流れが聞こえ続けている。それはBGM的だった。
「篠森さんに乗せてもらったときは、もうちょっと遅い時間だったのよね」
 車内の暖房は強すぎるくらいだった。強い風がハンドル操作に負担をかけさせる。路面へ吹き付けられた雪が、自動車のタイヤに踏まれて水状になり、滑りやすかった。
 しばらくそうして車を走らせていると、左手に防風柵の壁が見えはじめた。最近になって作られたもので、何も無い平野部を走行する車を、横殴りの風から遠ざけている。私のワガママではあるが、水田に対する視界も遮るのであった。折りたたみ式で、春から秋にかけては開放され、西風の強くなる冬に、つまり向かって左手側、日本海側からの強風を遮る役割をはたす。
「このへんで見たの」
 倉持さんが言った。車内は静かになっていた。風の叩く音は、遠く、ずっと高い場所からのものだけになって、助手席の窓の向こうに、防風柵が立っている。十メートル弱の長さのある防風柵は連続して並んで、それの切れ目から吹雪が116号線に吹き込む。
「ねえ、あの……倉持さん」
 助手席から窓をのぞいていた倉持さんは、突然私を振り返った。
「何?」
 白い影を見た時に、雪が降っていたかどうか、倉持さんに私は聞いた。
「降ってなかったと思うけど。うーん、……多分降ってなかった……けど、何かあるの、そのことが?」
 白い影はアスファルトの、地面すれすれを這っていたのだろうか。それが道路を横断していたのだとしたら、風の強い夜に、雪が舞い込んだだけのことだった。ヘッドライトで白く照らし出された、一部分的な地吹雪だ。私は脱力した。倉持さんに私の考えを説明すると、彼女は頷いた。
「じゃあ、今日は見れないのね、雪が降ってるし、……そうなのよね?」
「はい、多分……」
 倉持さんは何か考えていた。私は明日、授業を午後からの時間帯のものしかとっていなかった。倉持さんは午前中にゼミの用事があるといい、それで、これからまたわざわざ電車に乗って帰るのは億劫だといった。倉持さんのアパートに駐車場はなくて、学生の自動車通学は認められておらず、また大学にも学生用の駐車場などなかったので、私の明日の、そういう予定は都合が悪くなかった。防風柵の切れ目の見えて、上手い具合に駐車スペースのありそうなあぜ道については、どこにでも見つかるので、それで倉持さんはそういう風に言った。良い考えだったので、私は頷いた。
「じゃ、今夜が失敗に終わってもとにかく、冬の間に、なんとか、出かけつつ雪が降らないで風も強い夜を待たなきゃいけないわけなのね。……そしたらこの間見たのが、また見れるのかしら。でもあれでしょ、ほら、篠森さんは忙しそうにしてるし……」
 この時私は運転に集中していた。

=====
こんばんは。はじめまして。雪国の人と申します。よろしくお願いします。
飛び入りで失礼いたします。楽しそうな、新潟県人的に郷土愛をくすぐられる企画を発見いたしまして、投稿させていただきました。

メンテ
河内のおっちゃん  大阪の話です。 ( No.4 )
   
日時: 2011/09/27 23:41
名前: 楠山歳幸 ID:yaqTXUvQ


11月の有名な山言うたらよー。もう冬山やんけー。
 そやさけよー。西の方やったら行けるやろ思ってよー。九州の祖母山に行ったんよー。九州の山言うたらそらもう大きいてな。他と違うてこう、女の肌みたいな、げへへ、いや、ちゃうやん、なんやこう女性的ちゅうやつやんけ。
 ほいてよ。登ったやんけー。麓から登ったやいしょー。葉っぱももう落ちでもうてなー。木ぃなんか茶色でなー。上も下もまっ茶っ茶の坂えっちらほっちら登ったわいしょー。山小屋は九合目にあんねん。営業小屋とちゃうで。ほんまは小屋番さんがおんねんけど、11月やさけえ、もうおらへんかったんよー。そやさけ来る人も2、3人ぐらいちゃうかーって思っとってん。ほんで最初もそれぐらいやってん。ほんならよー、後から来よる来よる、、わんさか来よったわいしょー。二十人ぐらいのパーティーやんけー。その小屋、自家発電があってよー。灯りつくさけぇそいつら夜遅ぉまで宴会しくさってよー。あんなぎよーさんの食いもん、絶対高千穂のほーから楽ぅに来よったんやで。ほんまあいつらうるそーて寝られへんかったわ。ほいてよー、パーティーのおばちゃんよー、朝の早よからビニールの袋でガサゴソ音立てくさりやがってよー。わし、いっぺんに目ぇ覚めてもうたがなー。ほいてもよ、おばちゃんの横の兄ちゃん、頑張って寝てたでー。ほんならよー、おばちゃんそれ見てなんて言うた思う?
「いやー、この兄ちゃん、こんなにうるさいのに寝てるわ」やでー。なんでやねん。寝てへんがなおばはん、その兄ちゃんめっちゃ顔ひきつってんがな、誰かつっこんだれよ。
 こん時わし思たわー。これ、大阪のおばちゃんの海苔やんけー。テレビで言うとるあれらって、こいつらみたいな奴らちゃうけ?考えてみぃやー。ここらへん皆田んぼで生駒まで見えたんやからのう。ほんまの河内弁喋る人かってもぉおらへんしのー。つか、おったらネタやんけ。
 こいつらご来光言うからよー。わしも見に行ったろ思たら靴あらへんがな。えらいこっちゃって探したらボロボロの靴しかあらへんがなー。ほんまこないなボロと新品とどないしたら間違うねん。ほんで結局わし、その靴で帰ってもうたがなー。


 北河内には楠正儀の末が開墾した村がある。京街道に近いこの地で何故彼らに根付くことができたのかが不思議である。この一帯の人情的な理由なのか、あるいは、、もしかすれば、反社会的下地でもあったのかも知れない。
 遠くには賞金首の一族。
 江戸期から戦前までは大忠臣の一族。
 曲がりくねった帰路を歩く。田の畦道がそのまま道になったと昔に聞いた。河内の人たちは変わり行く地元の風景を見て何を思っただろう。

メンテ
東京のおいしいお店 ※東京の話です ( No.5 )
   
日時: 2011/10/04 00:56
名前: ねじ ID:.b.6/J0k

 十二時から一時までが、東京地裁のお昼休みだ。
 日比谷公園のベンチに座って、僕たちは延々と話を続ける。さきほどまで傍聴していた、二つの裁判について。一つは窃盗。一つは詐欺だ。いつものことだが二つとも、三十分ほどの裁判を聞いた限りでは、事件の概要はほとんどつかめない。僕たちは弁護士、検事、裁判官、そして被告の断片的な、そして、外部の視線を拒絶したかのような予定調和な発言の数々から、どうにか事件の全容を作り出そうとする。決して答えのわからないパズル。
彼女の関心は特に詐欺事件に集中している。裁判長の、被告の母親に対する「実家は一戸建てですか」という質問を、何度も何度も口真似する。
「こういう事件って、再犯ばっかり」
「二つとも、執行猶予中でしたね」
「コース取り間違えてるよね」
「コース取り?」
 言葉の意味が取れずに聞き返すと、彼女はちらりと僕の目を一瞥する。
「人生の」
 ああ。
「あのお母さん、すごいきょろきょろしてたよね。気の毒」
 さして気の毒とも思ってなさそうな口調で言い、スニーカーのかかとで、土を削る。
「酔っ払って隣の人の部屋に入るって、どういう感じなんだろ」
 それは詐欺事件ではなく、窃盗のほうの話だった。僕は苦笑して、さあ、とだけ答える。彼女は気にしたふうでもなく、どんどん言葉を繋ぐ。
彼女の話は飛び飛びになり、最近読んだ推理小説や、政治家や、彼女の家に沸くというコバエにまで言及していく。ときおり、彼女の小さな色の淡い唇はふっと閉ざされ、僕たちの間に沈黙が下りる。秋の初めの乾いた風が、木々を、そして彼女の細い髪をささやかに揺らす。その音さえ聞こえるみたいだ。それはどんな会話よりも、僕たちの間を近しくする沈黙だ、と僕は勝手に思う。
 まばらな長い細い睫を伏せて言葉を捜すように下唇をかんでいる彼女のことを、実は僕はよく知らない。名前も知らないし、連絡先も、年齢も、どこに住んでいるのかも、正確には知らない。知っていることは、彼女が裁判の傍聴を趣味にしていること、東京に来たのは最近だということ、化粧をほとんどしないこと、首筋を覆うその細い髪を、一度も染めたことがないこと、そして、結婚している、と、いうこと。そのぐらいだ。
 僕は法学部の二回生で、週にだいたい二回ぐらい、実益をほんの少し兼ねた趣味として、裁判を傍聴している。整理券が配られ、ニュースで法廷画が流れるような話題性のあるものには興味はない。いつも、傍聴人も五人いるかいないか、というしみったれたものばかり傍聴している。被告はたいてい中学のときにクラスに一人はいた柄の悪いやつがそのまま更正せず大人になったようなどこにでもいそうな人間で、たまに証人として呼び出されている被告の家族も、親戚にいてもおかしくないような、本当にごく平凡なおばさんだったりする。その、近しいのにとてつもなく遠い、あの感じ。
 こうやって言葉と、そして沈黙を交わすようになる少し前から、僕は彼女を知っていた。といっても、姿を見たことがある、というだけだけれど。初めて見かけたのは、入口の手荷物検査を、亡羊と突っ立って待っている姿だった。人より細い線で描かれたかのようなそのどこか淡い姿は、裁判所の無骨で物騒な雰囲気の中、ふわりと浮き上がるようで、彼女がどうというより、何か不思議な風景として、記憶の隅に刻まれた。
その後も入口や廊下、そして法廷で、彼女を見かけることがあった。傍聴しているとき、彼女は細い首を僅かにかしげ、怪訝そうに眉を寄せ、膝に乗せた黒い布の鞄をぎゅっと抱きかかえている。そしてその姿勢のまま、動かない。淡々とした裁判に似つかわしくない子供のような無防備な没頭ぶりが、奇妙で、面白かった。彼女が一体どういう人間なのか、ふいに興味が沸いた。
だから、声をかけた。一つの裁判が終わり(車に関係した詐欺事件だったと思うのだけれど、そういう裁判の常として、一体どういう事件だったのかよくはわからなかった)、法廷を出た彼女に、よく来ていますね、と、言ってみた。彼女はぼんやりと色の薄い、少し斜視気味の目で僕を見上げ、あなたもね、と答えた。親しみはこもっていなかったけれど、拒絶の気配も、そこになかった。
それ以来、僕たちは朝十時前に地裁で待ち合わせるようになった。待ち合わせといってもいい加減なもので、彼女が来ることもあるし、来ないこともある。そこに法則性を見出すことは今のところ僕にはできていないし、彼女に理由を尋ねることもない。そしてもちろん僕も、来ることができない日がある。それでもだいたい週に二回は、二人の時間を持てる。二つぐらい裁判を一緒に傍聴して、昼休みの間、日比谷公園や裁判所の食堂で、それについて話し合う。一時になると、彼女は帰り、僕も学校に行く。そういうことを、もう二ヶ月ぐらい繰り返している。
ナンパ、と呼ぶしかないのだろうけれど、あの行為についてそんな言葉を使われるというのは、不当な気がする。僕は二十年生きてきて、あのときを除いてナンパなどしたことはないし、これからだって、しないだろう。そういう人間じゃないのだ。その言葉と、僕との間には、法廷にあるあの柵に似たものがある。同じ空間にいることもあるけれど、僕は「こちら側」の人間で、「そちら側」に行くことは、ない。
「おなか、すいた」
 脱力したように、彼女が言葉を漏らす。そして僕の答えを待たず、ところどころが白っぽく掠れている黒い布の鞄から、コンビニの袋を取り出した。中にはいつものように、野菜ジュースのパックが一つと、菓子パンが二つ、入っている。野菜ジュースのパックにストローを突き刺し、一口啜ると、パンの袋を一つ、開ける。チーズの蒸しパンのようだ。
 手でちぎったりせず、そのままかぶりつく。咀嚼という作業をほとんどせずに一つ食べ終えると、もう一つのパンを取り出し、袋を破る。チョコレートの入ったクロワッサン。見ているだけで自分の喉が詰まりそうになるスピードで、黙々と口に運ぶ。空になったパンの袋をコンビニの袋に戻すと、するすると野菜ジュースのパックを啜る。細い首がこくこくと小気味よく鼓動する。軽くパックを潰して野菜ジュースを啜りきると、それもコンビニの袋につっこみ、そのまま立ち上がって、ゴミ箱に袋を捨てた。
 昼食の所要時間は、一分に満たない。
「おなかいっぱい」
 つまらなさそうに言い捨てて、薄いおなかに手を当てる。いつもの彼女だ。
 ベンチに戻り、鞄を抱える。ぼんやりと宙とも地面ともつかないあたりを見つめ、つぶやいた。
「おいしいものが、食べたいなあ」
 僕は笑ってしまう。
「お昼、食べたばっかじゃないですか」
「だって、これは燃料みたいなもんだもん」
 かかとで地面を削り、削った土をぽんぽん、と靴底で叩いて地面をならす。
「おいしいもの、食べたいなあ」
 眉を寄せ、切ないぐらいの実感をこめてのたまう。
「食べればいいじゃないですか、おいしいもの」
「東京のお店とか、わかんないもん」
「自分で作るとか」
「自分の料理、美味しくない」
 確かに彼女は料理上手なタイプには見えない。そう思ったことが伝わったのか、咎めるように言葉を継ぐ。
「別に私、料理下手じゃないよ。ただ、自分が作った料理は自分の思った以上には美味しくならないじゃない。わくわくしない」
 そんなものだろうか。僕は彼女のもろそうな手首と、すんなりとなめらかな指を見る。料理と彼女が、どうしても上手く結びつかない。旦那さんのためなら、この手で料理もするのだ、と考えるけれど、どうしても、イメージができない。
「学生のときは、パンも食べ歩いてたんだけど」
 そちらのほうがまだ、想像ができる気がした。
「パン、好きなんですね」
「好き。ケーキも好き。ピザとか、パスタとか、小麦のものが好き」
 日差しに顔を向け、うっとりと目を閉じ、唇には軽い微笑みさえ浮かんでいる。つやつやと頬が輝き、睫の先にきらきらと光が踊っていて、いかにも幸福そうだ。僕は感動にも似た驚きで、その表情を見守る。僕の中の彼女は、そんな顔をする人ではなかったからだ。
 彼女には、僕の知らないことが、たくさんある。
「大学の近くにはね、おいしいパンのお店が、たくさんあったの」
 熱っぽい早口で、彼女は語る。その大学は、どこにあるのだろう。僕は思うが、たずねることはしない。
「昼休みになると、近所のパン屋に急いで行って、チーズとベーコンのパンを買うの。焼き立てで、トレイに乗せるとトレイ越しに手に温度が伝わるぐらい熱い。それと甘い系のデニッシュとか買って、その辺で急いで食べるの。チーズのやつはバケットの表面がぱりぱりで、チーズが焼けどしそうなぐらいとろとろで、ベーコンの油で噛むと口の中に飛んで、本当に美味しい。本当に、美味しい。デニッシュもざっくざくで」
 おいしそうですね。僕の相槌に促されるように、うん、うん、と頷いて、彼女は滔々と捲くし立てる。
「他にも美味しいお店がいっぱいあって、手に持つとずしってするぐらい餡子のはいったあんぱんのお店とか、焼きたてのくるみパンが何種類もあるお店とか、いっぱいあるの。ちょっと遠出したら田舎なのにすごく有名なパンのお店もあって、ときどき行ってた。すごく小さい店で、三人もお客さんいたらいっぱいになっちゃうんだけど、いろんなパンがばーって置いてあって、いつも何かが焼き立てなの。パンはもう具がいっぱい入ってて、メロンパンにはバターがじゅーってしみてて、何食べても噛んだら具が落ちないようにするのに必死だし、食べ終わったら手も口の周りもべったべたになっちゃうの。美味しいの」
 美味しいの。と、彼女は繰り返し、目を閉じる。ああ、とため息とない交ぜになった声を漏らす。
「おいしいもの、食べたいなあ」
「東京にも美味しい店、たくさんあると思いますよ」
 そう言ったのは、単純に、そう思ったからだった。僕だって、一応生まれも育ちも東京なのだから、そういう店ならいくつか知っている気がした。大学の近所のカツサンドが有名なパン屋とか、教授や芸術家が集まるチーズケーキが美味しい喫茶店とか、他にも、ぱっとは思い浮かばないけど、色々。知っている気が、したのだ。けれど、その言葉が耳に届いた途端、その馬鹿馬鹿しさに気付き、恥ずかしくなる。
 彼女は顔を熱くする僕を見て、ふ、とひどく穏やかに、目元を緩めた。その目尻に、細かな皺がよる。その皺に、この人は僕より年上なんだ、と思い知る。もしかしたら、彼女と出会って、初めてそう思ったのかもしれない。
「……そうかもね」
 その声の落ち着きに、僕はわけもなく、苛立ってしまう。そんな顔をして笑ってほしくなかった。僕の知っている彼女は、そんな顔で笑う人じゃない。でも現実に彼女はそんな顔をするような女性で、それをただ、僕が知らなかっただけなのだ。地裁の入口に、頼り無く、亡羊と立ちすくんでいた、彼女。その淡い輪郭の中に封じられたものの、一体何を僕は知っているというんだろう。
「おいしいもの、食べたいなあ」
 目を伏せ、今までよりずっと小さな声で、彼女はまた、繰り返す。
「おいしいお店に、行きたいなあ」
 飴のように、言葉を舌先で弄る。
 連れて行ってあげたい、と、思った。東京のおいしいお店に、彼女を、連れて行って、あげたい。
そう、思うのだけれど、僕にはそんなお店の持ち合わせが、ない。ひとつも、ない。
 彼女のスニーカーが、がりがり、と、地面を削る。僕と彼女の間を、その音が、埋めている。
 時計を見る。もうすぐ、一時になる。

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のぼってゆく 静岡県西部の話です ( No.6 )
   
日時: 2011/10/07 00:58
名前: 端崎 ID:A5qA/nnI

 あじさいの咲く家先をとおりすぎた。雨はあがっていた。むんむんと土くさく、日は沈んでいるというのに、しっけて、暑かった。
 団地の坂までは一本道で、用水路に沿って往復するだけだ。信号機がちいさくみえている。コンビニから出ると、宅地と畑が両脇にしばらくつづく。名ばかりの橋を渡って、またすこし畑。それから左手に養鰻池。いつのまにか廃池になっているようだが、水はまだ張ってある。そこをとおりすぎると、交差点を渡り、田んぼのひろがる場所に出る。
 いまの交差点を左に折れれば宅地も増える。町内はそちらだ。小学校の裏山もくろぐろと腰をすえている。
 右には、ひとまずなにもない。田んぼが先の先まであって郡の境の車道にぶつかる。そのむこうにはまた田んぼ。さらに先に山。裏山の倍は高かろう山が、ふたつほどそびえている。山のがわからは、くろうくろうとアマガエルが、左からはもっと短い濁った調子でトノサマガエルが鳴いている。どちらからともなく猿の叫び声のようなものがきこえてきたのは姿こそみえないが鷺かなにかのようだった。おなじやつが往返しているのだか、何羽がかかけあっているのだか、あちらで鳴けばしばらくしてからちがう場所で声がした。
 交差点から信号までのなかほどにくると、農道へ折れる道があり、外灯が一本立っている。団地のため池からなのだろうか、用水路へ水がいきおいよく落ちる音がする。外灯はふるびていて、灯りの色はどことなく茶けている。
 外灯のちかくまでさしかかると、落水の音とはべつに、右側の田からばしゃばしゃと水面を叩く音がした。なにかとおもってそろりとちかづくと田んぼの影のほうで魚がのたうちまわっている。灯りのてらしているところまで波紋がひろがってきて、くらがりではなんども白い腹がひらめいた。水音はしだいにひどくなり、巻きあげられた泥もこちらまでただよってきた。だんだん近寄ってくるようで、息をころしていると、灯りのほうにそのからだがさらされた。と、ねじくれていた身はいずまいをただし、そろそろとすすんだかとおもうと、とまり、くらがりへするするものすごいはやさでいざり去ってしまった。ながい髭とふとい胴はなまずかともおもわれたが、それにしては尾までがおなじようにふとく、からだもまたながすぎるようだった。
 なまずが子を産むのはたしかにいまごろではあるが、などと考えるうちにいまみた光景がなんともいやったく、遠のく蛙の声を背に団地の坂をのぼった。

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木更津で共に 千葉県木更津市の話です ( No.7 )
   
日時: 2011/10/10 15:33
名前: ゆうすけ ID:vYVtU3ws

「私ね、木更津を出たいんだ。東京で暮らしたい」
 突然のサトミの言葉にマサキはただうろたえるばかりだった。しばしの間をおいてから問うのが精いっぱい。
「なんで? 木更津が嫌なのかい」
「だってつまんないじゃん。駅前はシャッター通りだし、面白いショップとかないじゃん。いるのは田舎者ばっかだしさ。こんなお先真っ暗な田舎にいちゃこっちまで暗くなっちゃうわ」サトミは間髪いれずにぴしゃりと返答する。
 木更津金田海岸近くに生まれ育ったマサキ、家はノリやアサリで生計をたてている。マサキはこの木更津が好きだった。たしかに駅前は寂れるばかりだけど、田圃に行ってホタルを観たり、春にはタケノコを採ったり、ハマグリや落花生を盗んで食べたり、そんな木更津が好きだったのだ。幼馴染でいつも一緒にいたサトミが、まさかそんな事を考えていたなんて、自分を否定されたみたいでショックだった。
 朴訥なマサキに、いつもサトミは明るく話しかけてくれた。一緒にいればそれだけで楽しかった。高校を卒業して早五年、そんな日々がずっと続くものだと漠然と考えていたマサキなのだった。
 マサキはいつものように、親友の安西に相談した。
「サトミちゃんが木更津を出たいって言うんだ。木更津なんてつまらないんだって言うんだよ。俺はずっと木更津で一緒にいたかったのに」
 安西はしばし腕を組んで考えて、そして提案する。昔からマサキとサトミがいつも一緒にいるのを知っていて、人知れず応援していた安西なのだ。
「だったら木更津の良さを教えてやろうぜ。そうだ、同窓会を兼ねてすだてをやるんだよ。あとな、お前しっかりサトミちゃん捕まえとけよ。そうだ、きっちりと皆の前で宣言しろよな。お前が煮え切らないからサトミちゃんは木更津を出たいなんて言うんだぞ。男ならきっちりと腹をくくれよ」
 こうして、同窓会を兼ねたすだてをやることになった。

 滅多にない週末と大潮が重なる晴天の朝、なにやら祝福されているような春の陽気、アクアラインを左手に見る金田海岸にサトミを伴ってやって来たマサキは二人して海を眺めていた。岸壁には複数のすだて用の舟、中央にテーブルを置いて座る所によしずを敷いた舟が客を待っている。海面をよく見ると、シラスウナギやカニがいた。
「あんた集合時間は十時なのに、なんで八時に来るのよ?」
 サトミはいつものようにふくれっ面でぼやく。マサキときたら、時間に厳格すぎて集合時間の二時間前に到着していないと気が済まないのだ。毎度毎度巻き込まれる私の身になって欲しいと、毎度毎度言うのだけどマサキはわかっているのかいないのか。
「でもだって、遅れる訳にはいかないし」
 マサキは既にドキドキしていた。サトミに木更津の面白さを分かってもらいつつ、皆の前で宣言する、恥かしいやら緊張するやらで、ついカニの動きを見つめてしまうのだった。
苛立ったサトミがマサキの背中にエルボー攻撃をし始め、期待したリアクションがなくて更に苛立ってスリーパーホールドに移行した頃、ようやく仲間達が集まってきた。高校時代、一緒にバカをやって遊んだ連中だ。
「よっしゃ、今日は呑むぞ!」ビールを満載した大きいクーラーボックスをかついでやって来た安西が、「お前ら今日も仲いいな、ははははは」サトミとマサキを指さして大笑いする。慌てて離れるサトミと、命拾いしたマサキ。
 ぽっちゃり体形を隠すことなくピッチリとした服を着ているサトミ、木更津名物のタヌキに似ていると皆思っているけどそこがまた可愛いと評判だ。マサキは家族ぐるみで毛髪が少なくて、三十路前にして禿げるだろうと衆目の一致する朴念仁。この二人がうまくいけばいいとずっと思っている安西と仲間達なのだった。
 我先にと舟に乗り込む同級生達、舟は揺れて女の子達はおっかなびっくりだ。安西がマサキを見ていると、案の定、乗り込むサトミをエスコートしちゃいない。とはいえ身軽なサトミはひょいと飛び乗っていたが。
 舟はうららかな日差しの中、沖合にある定置網に向けて出航した。対岸には、左の方に港みらいが見えて、右の方にスカイツリーが見える。アクアラインを渡ればすぐに遊びに行けるんだから木更津は面白いと思うんだけどなと思うマサキ、毎度思っているだけだからサトミに伝わっていないのが難点だ。
 定置網に到着した舟は、ここで潮が引くのを待つ。カモメや鵜が飛び交い、遠くにはタンカーが見える遠浅の海。潮が引けば舟底は海底に乗っかり、舟を降りて歩けるようになり、そして定置網の中の魚達は逃げ場を失う。
 網のそこかしこに刺さってもがく鋭く尖ったダツ、ボラの最終成長形態トド、恐くて誰も手を出さないフグ、意外とすばしっこいアジ、漁師さんが好意で入れておいてくれたと思しきタイとかヒラメとかスズキとか、膝までの水深の中で人間との追いかけっこが始まった。
 すだてでは御馳走も出る。調理用の舟があって、海上で新鮮な魚の天ぷらやお刺身を調理して食べさせてくれるのだ。細長いダツは天ぷらになり、タイやヒラメはお刺身になる。木更津名物のノリも美味しい。
 もともと子供っぽい男達は大騒ぎして魚を追い掛け、持参したビールを飲みながら御馳走を食べまくる。マサキも負けじと魚を追いかけるがトドしか獲れないのだった。これは臭くてあまり食用には向かないのだが。一方サトミは完全に干上がった砂浜で潮干狩りに精を出し、着実にアサリを稼いでいるのだった。
 魚獲りも一段落して皆舟に戻ってきた瞬間、安西がおもむろに宣言する「注目! マサキがサトミちゃんに宣言することがあるんだってよ! 皆しっかりと聞こうぜ」
 安西に肩を叩かれたマサキは気の毒なほどうろたえた。そうだ、宣言するんだった、魚獲るのに夢中になって忘れていた、昔から一つの事に集中すると他がおろそかになるマサキなのだった。サトミはきょとんとして見ている。
 いざとなったらやる男だと、自分で思っているだけあってマサキは決意したら気が早い、意を決して話し始める。
「サトミちゃん、木更津は面白いだろ。だからさ、木更津を出たいなんで言うなよ。あとさ……俺と、一緒に……俺と……。」
 肝心な所で一時停止、誰もがプロポーズすると思い固唾を飲んで見守る中、間を開ける事でより深いプレッシャーに苛まれるマサキ。
 へ、何? なんなの? もしかして、あのマサキ君が私に、プロポーズ? サトミも緊張して見守る。
 重い空気を払うように力強くマサキは吠えた「俺と付き合ってください!」
 その場にいた仲間全員が突っ込んだ「お前ら付き合ってなかったんかい?」腰砕けになってずっこける仲間達。
 とっくに付き合っているものだと、マサキ以外の誰もが思っていた。サトミだってそう、ちょっと真面目すぎるからあまり触れてこないだけだと思っていた。なんて純朴なんだろう、ほんとにこの人って田舎者。
「じゃあさ、ちゃんとに私をエスコートしなさいよ。退屈させるんじゃないわよ」
 仁王立ちで上から目線で言い放つサトミ、人間優位に立つと本性が出るものだ。
「キース! はいキース!」安西が手を叩きながら煽る。まあいいか、次回の同窓会でプロポーズさせよう、こいつら俺がいないとだめなんだからな。安西はどこまでもおせっかいなのだった。きっちりと気が効いたセリフを言うようにマサキの野郎に言っておいてやらんとな。
 そして二人は、ぎこちなくファーストキスをした。

 すだてが無事に終わってその日の夕方、サトミはマサキに手を引かれて木更津港にある中の島大橋に来ていた。しっかりエスコートしろと言われたマサキは全力でエスコートすることにしたのだ。思えばマサキから誘ってどこかに行くこともあまりなかった。彼氏になったからには、どこまでもエスコートしていこう。行きつくとこまで行くまでだ! 純朴はマサキの心は煮えたぎっているのだった。
 シーズンともなれば潮干狩り客でごったがえす中の島公園と鳥居崎公園を繋ぐ高さ二十五メートルの中の島大橋、ここには都市伝説があるのだ。
 橋の一番高い場所に来た二人。西を見れば東京から横浜にかけてのビルの林と、富士山をバックに夕陽が眩しい。東を見れば夕陽に映える木更津の町並み。北は自衛隊、南にはラブホ、これは蛇足。サトミが意外なまでの景色の美しさにみとれていると、マサキはポケットから南京錠を取出して橋の欄干にガチャッっとはめた。気が付いたサトミが見ると丁寧に相合傘が書いてあった。仲良く並んだ二人の名前。橋の欄干にはたくさんの南京錠がはめてあって、「私達結婚しました」との報告の落書きも見えた。なかなかロマンチックじゃない、サトミはうっとりとなった。
「ここに鍵をかけると結ばれるんだよ。サトミちゃん、知ってた? あとさ、聞いて欲しい事があんだけど……」
 マサキに両肩を掴まれて相対する格好になったサトミはどきっとした。まあ、なんて積極的なんでしょ。それにしても夕陽が眩しいわね。ちょうどマサキ君の頭に反射して……。
「俺が君を照らす光になる! だから俺と一緒に木更津で暮らそう。結婚してくれ!」
 サトミは爆笑した。確かに照らしてくれているわ。それにマサキ君となら退屈しないで済みそうね。昼に告白して夕方プロポーズって、笑わしてくれるじゃない。「あんた、やる時はやるじゃない。一緒になりましょ。こちらこそよろしくね」
 橋を降りて二人、こっそりと見守る安西の存在に気が付かないまま、南の方に行くのだった。


一般板以外の投稿、即ちイベント初挑戦ですので非常に緊張しています。地元愛を前面に出すように頑張りましたが、肩に力が入り過ぎた気もします。

メンテ
ふるさとの、空は狭く 長崎県長崎市 ( No.8 )
   
日時: 2011/12/09 23:26
名前: HAL ID:g3jD5znQ
参照: http://dabunnsouko.web.fc2.com/

 空港のロビーで、でんでらのメロディーが流れていた。
 羽田に比べれば笑ってしまうほどこじんまりした空港ビルから、むっと熱気の押し寄せる外に出たあとも、まだ耳の奥に、そのメロディーが残っていた。流れていたBGMはオルゴール風の音で、歌声はついていなかったけれど、頭が勝手に古い記憶の底をさらって、歌詞を探そうとする。
 ――でんでらりゅうば、でてくるばってん、
   でんでられんけん、でてこんけん……
 案外覚えているもんだなと、妙な気分になる。だけど子どもの頃に覚えたものごとというのは、そんなものかもしれない。
 夏の盛りとはいえ、嘘のような暑さだった。手で額を拭っても、まだ汗が噴き出してくる。空港が海上にあるせいかもしれないが、湿度の高い、粘るような熱気があった。
 空港バスに乗り込んで、背もたれに肩を預けると、あとからひとつ後ろの席に乗り込んできた若い女ふたりが、高い声で喋りだした。少しはしゃいだ調子の会話には、訛りがない。観光客だろうか。煩いな、と思ったのはほんの数秒のことで、長時間移動の疲れが出たのか、体が宙に浮くような感覚があって、あっという間に意識がまどろみに引きずり込まれていった。


 うとうとしながら、方々に飛ぶ思考の片隅で、ずっとでんでらのメロディーが流れていた。
 乗り換えのためにバスを降りて、まっさきに、暗くなりかかった空を仰いだ。傘を持ってきていない。薄く雲が出ているが、幸いいまのところ、降り出しそうな気配はなかった。
 空、狭っ。
 そうだったな、と思う。市内はほとんど山に囲まれているし、そうでなくとも狭い土地に、ぎゅうぎゅうに建物が詰め込まれているから、それほど高いビルもないというのに、どこでもやたらに空が狭い。
 交通量の割りに道が狭いのも、そこに頻繁に原付が割り込んでくるのも、自転車の姿が全くといっていいほどないのも。住んでいた頃には当たり前の風景だったはずなのに、久しぶりに見ると、なにか妙な気がする。かすかに火薬のにおうのは、昨日が精霊(しょうろう)流しだったからだろうか。
 バスは定刻どおりにやってきた。
 始発のターミナルが近いので、席には余裕があった。おかげで座ることが出来たけれど、バス停をひとつふたつと通り過ぎると、嘘のように混み合う。学生だのサラリーマンだのがぎゅうぎゅうに押し合いへしあいして、しまいには運転手が降車口から乗客を乗せる始末だ。
 中心部をほんの少しはずれると、道はぐんと狭くなる。
 ぐねぐねと曲がりくねった、狭い上り坂だ。これでもかとみっしり建てられた家々の間を縫う、普通車でも入り込むのを躊躇するような道。こんなでかいバスが通るわけがないだろうと思うようなところを、魔法のようなドライビングテクニックで、ぐいぐい抜けていく。住んでいた頃にはまだ免許も持たなかったから、それが普通だと思っていたけれど、自分が大人になって車を運転するようになってから見ると、冗談のような光景だ。
 道路の右側、連なっていた家々がふっと途切れて、市街地を見下ろす格好になる。目に飛び込んでくる、夜景。小さな光がひしめき合って、車のヘッドライトがせわしなく行き交う。遠くに、稲佐山の展望台が見えた。
 こんなにきれいだったかな。
 夜景はすぐに途切れた。通りかかった家の塀で、縞猫が伸びをしている。長い尻尾が、先端近くで鉤型に折れていた。そういえば、向こうでは折れ尻尾をほとんど見かけなかったなと、そんなことを思ううちに、通り過ぎて姿が見えなくなった。
 バス停で降りて、家々の隙間に伸びる長い階段を見上げた。実家までには、さらに荷物を抱えてここを上らなければならない。
 母は毎日、この階段を歩いて買い物に出ているはずだ。住んでいた頃にも、すきっ腹を抱えて上る階段が憎いと思うことはったけれど、車も入らない場所に住むことの不便は、そういえば意識したこともなかった……
 インターフォンを鳴らすのに躊躇したのは、中で炊事の音がしていたからだ。ご飯の炊ける匂いがしている。晩飯、食ってくるっていったかな。いったよな、俺。
 迷った。鍵は持っている。十年の間に変えられていなければ、の話だが。鞄を揺らして少し考え、やめた。
 インターフォンを鳴らすと、中から妙にどたばたした足音が近づいてきた。
 鍵を開ける気配もなく、そのままがらりと音がして、引き戸が開く。
「お帰り」
 面食らって、一瞬、言葉が出てこなかった。出てくるはずの母ではなく、仏頂面の従姉が、そこにいた。
「お袋は」
 ほかに何をいいようもなく、訊くと、芙美は不機嫌そうな顔のまま、首をすくめた。
「台所。さっさと上がって、顔、見せれば。あんたの家やん」
 いうなり、芙美はさっさとこちらに背を向けて、ぺたぺたと足音を立てている。見れば、裸足だった。
 お前の家じゃなくてな、といいかけて、やめた。なにも十年ぶりに会った従姉との会話を、憎まれ口からはじめることはない。
「……ただいま」
 気後れしながらそういうと、芙美は振り返って、にやりとした。


 廊下を歩くと、床が軋むのが耳についた。蝋燭と、線香のにおいがする。仏間に入ると、畳んだ提燈が隅に寄せられていた。盆のときだけ納戸の奥から引っ張り出してくる、古い提燈。子どもの頃に一度ふざけていて破いてしまい、散々に怒られた覚えがある。
 いまの会社には盆休みがない。休暇はことし初盆の先輩に譲って、自分は入れ違いに終わってから戻ってきた。仏壇に手をあわせながら、だけどもう親父は向こうに戻ったあとかなと、益体もないことを考える。
 盆には先祖の霊が帰ってくるなんて、誰が言い出したんだろう。あっちでは今日、送り火をやっている頃だ。こっちでは一日早い十五日の精霊流しだが、意味は似たようなものだろう。
「あんたちょっと、痩せたっちゃなかとね」
 声を掛けられて振り向くと、ビール瓶とコップを載せた盆を持って、母が目を眇めていた。
 そういう母のほうが、痩せた。それともそう見えるのは、皺が増えたせいだろうか。罪悪感に胸を掴まれて、なんでもないような声を作るのに、少し苦労した。「そうでもないよ。ちゃんと食ってるし」
「何ン、その標準語」
 居間のほうからからかいの声が飛んできた。芙美だ。
「やぜかな」
 ぽろっと長崎弁が口からこぼれて、自分の言葉に、妙に落ち着かないような居心地の悪さが残った。襖の向こうで、叔父の懐かしい声が、上機嫌に笑うのが聞こえる。すでに一杯ひっかけているのだろう。
「家にいるときでも、鍵、開けっ放しにすんなよ。無用心だろ」
 憮然としながら母にそういうと、「そうたいねえ」と、いかにも気のない返事が返ってきた。親は子どものいうことになんか、聞く耳はもたないのだと、会社の誰だったかがこぼしていたのを、ふっと思い出す。
 襖を開けて、狭い居間に顔をみせると、叔父は赤ら顔で手酌をしていた。
「おいちゃん、久しぶり」
「おう。どげんや、仕事は」
「まあ、ぼちぼち」
 横に座ると、当然のようにコップを突き出された。
「なんか、変な感じするな」
 ビールを注いでもらいながら、思わずそう呟くと、叔父が可笑しそうに喉を鳴らした。「帰ってきたら、学生ん頃に戻ったごたる気のすっとやろ」
 言い当てられて、素直に頷いた。高校卒業と同時に就職して以来、一度も戻ってきていなかった。時間が巻き戻されたような錯覚が、ずっとかすかに、背中のあたりにつきまとっている。瓶を受け取って注ぎ返すと、叔父は皺ぶかい目を細めて、膝を叩いた。
「わい、本トに食いよっとか。刺身ば食え、刺身ば」
 わざわざ買ってきたのか、テーブル並んだ刺身の皿を、叔父がおしやってくる。思わず苦笑がこぼれた。
「おいちゃん、俺の住んどるとこにも、港、あっとよ。あっちでも刺身、食うとっよ」
「なんな。長崎ん魚よっか旨かこたぁなかろもん」
 自信たっぷりにいいきる叔父は、もとは漁港の出身だ。祖父は漁師だった。母もそうだが、もとは家業を嫌って長崎市内に出てきたそうで、亡き祖父のことは昔から悪くいってばかりなのに、それでも地元の魚は自慢らしいのが可笑しかった。
「皆ンな、元気にしとっとやろ」
 ぼちぼちな、と笑って、叔父は煙草を吹かした。その視線が仏壇の位牌をなぞったことに、気がつかないふりをするのは、簡単なことではなかった。
 この狭く古い家に、母は一人で住んでいる。それでも近所に叔父と芙美がいるのだから心配はないだろうと、繰り返し、いいわけがましくそう考えてきた。ちょうど今みたいに、ときどき顔を出してくれているのだろうから、大丈夫のはずだと。
「いつまでこっちにおっとや」
 訊かれて、一瞬、ためらった。
「明日の夜の飛行機で戻るよ」
「……呆れた。この薄情者」
 芙美がきつく眉をしかめてそういうのに、叔父が苦笑で助け舟をくれた。
「そがん言うてやんな。忙しかとやろ」
 曖昧に頷いて、ぬるくなりはじめたビールを呷る。苦味ばかりが口の中に残った。
「まあ、でも放蕩息子がようやく顔みせて、おばちゃんも安心やろ」
 芙美がいって、母の手から盆を取り上げる。
「人を家出少年みたいにいうなよ。就職して家を出てんだから」
「ろくに顔も見せんとやったら、たいして変わらんやん」
 気まずく視線を逸らすと、母は説教をたれる芙美を応援するでも止めるでもなく、嬉しそうににこにこ見つめている。拍子抜けして、立ち上がった。「便所」
 窮屈なトイレで用を足したあとも、すぐには居間に戻らなかった。障子戸を開けて、縁側をのぞく。庭というのもためらうような、狭い敷地だ。母が育てているのだろう、トマトだかキュウリだかの鉢が、せめて日当たりのまだよさそうな、南側よりの端においてあった。
 芙美から唐突な電話があったのは、ひと月以上前だった。
 ――おばちゃん、倒れたよ。
 携帯に出るなり開口一番に言われて、絶句した。聞き間違いかとも思った。次の瞬間、いやな汗がぶわっと出て、財布を掴んで職場から走り出そうとした。
 ――ってゆうたら、あんた、帰ってくる?
 電話の向こうで、不機嫌そうに芙美は続けた。
 いっとき、口をぱくぱくさせていた。何事かと振り向いた同僚や上司に目線で謝って、ともかく廊下に出ると、ほとんど怒鳴るようにいった。
 ――あのなあ、いっていい冗談とわるい冗談が、
 ――真面目に答えんね。もしホントにそうやったら、帰ってくっと?
 ぐっと飲み込んで、一息吐いた。
 ――当たり前だろ。
 ――そんなら、いっぺん帰ってきて顔ださんね。いつまでも元気と思とったら、あんた、後悔すっよ。
 苛立ち任せに電話を切って、気まずい思いをひきずったまま、席に戻った。
 憎まれ口の利き方は、昔と少しも変わらない。棘の混じった芙美の声は、いつまでも耳に残って、苛立ちをさそった。
 それでも次の休日、近くの旅行代理店に出向いて飛行機の予約をしたのは、芙美の電話があったからだ。
 足音がして、廊下が小さく軋んだ。芙美が手にビールの入ったコップを持って、立っていた。
「飲めんの? お前」
 ちょっとはね、と答えて、芙美は隣に腰を下ろした。本当にちょっと、なのだろう。頬がかすかに上気していた。少し隈が浮いて、疲れたような顔をしている。仕事が重いのだろうか、ほかに理由があるのか。それでも、目つきの強さは昔と同じだった。
「お前、変わんねえなあ」
 いってから、嘘だと思った。気が強いのは変わらないけれど、表情はすっかり大人のそれになった。痩せすぎていた十年前に比べれば、いくらか頬に肉がついて、笑うとめだっていた八重歯を、いつの間にか矯正している。
 小さく肩をすくめて、芙美はビールを舐めた。家からそのまま出てきたのだろう、いかにも普段着らしいTシャツから、柔らかそうな二の腕がのぞいている。いつも真黒に日焼けしていたのが、ずいぶん白くなった。
 さりげなく視線を外して庭を見ると、野良猫が、塀に飛び乗って通り抜けていくところだった。
「どうよ、久しぶりに帰ってきて。こっちもだいぶ、変わったやろ」
 訊かれて、少し考えた。
「コンビニ増えたな。あと、あれびびった。でかい観覧車」
「ココウォークのこと? 茂里町の」
 たぶんそれのことだろう。頷くと、芙美はちょっと笑った。「あんた出てったとき、まだ話もなかったやんね」
 隣の犬が、一声吼えた。さっきの猫でも見つけたのかもしれない。
「じゃあ、ステラなくなったのも知らんやろ」
「まじか。映画どこで観んだよ」
「……駅のアミュプラザにも、ココウォークにも、でかい映画館入っとるし。まさかアミュできる前から、一回も帰ってきとらんやったと? この親不孝者」
 呆れたようにいわれて、肩をすくめる。お袋が逆に向こうに出てきたことは、何度かあったけれど、本当に一度も、戻ってきていなかった。盆も正月も。いつも電話一本だけ入れて。
 芙美はしばらくぶつくさいっていたが、やがてふと、思い出したように訊いてきた。
「向こうは、どんな?」
 訊かれたとたん、胸のどこか奥の方からいっぺんに言葉があふれだしかけて、喉の奥で詰まった。
 空が、広かったよ。都心から電車一本っていうのがちょっと信じられないぐらい、辺鄙なところで、駅からちょっと離れたら、畑と田んぼばっかりで。ほとんど誰も通らないような農地のど真ん中を、綺麗な広い道が突き抜けてて、そこをたまに通りかかる地元の車が、ばんばんとんでもないスピードで走っていって。ちょっと走れば海が見える。漁港の雰囲気は、ばあちゃんちのあった田舎にけっこう似てて、こういうところはどこもそんなに変わらないんだなって思ったよ。何もないけど、とにかく、空が広くて。
 そういうことがいっぺんにこみ上げてきて、喉でつっかえて、もつれ、口から出てきたのは結局、なんでもないような言葉だった。
「いい所だよ」
 へえ、と頷いて、芙美は足を縁側から下ろした。ぶらぶらと揺れる、裸足のつま先。それを目で追いながら、訊いた。
「いま、何してんの」
 芙美は首をかしげた。
「フツーの事務員。いちおう正社員。小さい会社やけどね」
「こんな平日に、ゆっくりしてていいのか」
「明日まで、お盆休み」
 結婚は、と聞こうとして、ためらった。伝わったんだろう、芙美はちらりと視線をこちらに投げて、
「ひとりだよ」
 そういった。
 何も答えずにいると、ふっと、笑って、「……っていったら、あんた、帰ってくんの」
 むかっときて足を蹴ると、抗議の声が上がった。
 叔父が居間から呼ぶのが聞こえた。腰を上げると、芙美が急に、真面目な声を出した。
「来年、結婚する。と思う」
 息が詰まった。表情には、かろうじて出さなかった、と思う。
 会社の後輩なのだと、芙美はいった。ちょっとぼうっとした頼りないやつだけど、とにかく気がやさしくて、おおらかな男なんだと。
「……へえ」
 とっさに、それだけしか出てこなかった。芙美は、こちらを見なかった。足をのばして、自分のつま先をじっと見つめている。
 招待状を送っていいかとは、芙美はいわなかった。いずれ、叔父が出せというかもしれないし、そうすれば形だけ送ってよこすかもしれないけれど、どちらにしても、行く気はない。それが来年だろうが、五年後だろうが、きっと参列する気にはなれないだろう。
「ほんとに、もうこっちには戻ってこんと?」
 お前が、それを訊くか。いいそうになって、ぎりぎりで飲み込んだ。
「仕事、面白いし」
 答える声がぶっきらぼうになったことくらいは、大目にみてもらうしかない。
 叔父が居間から呼んでいる。立ち上がって、芙美に背を向けた。
 十年。十年も経てば、それこそいろいろなことが変わっていて、当然なのだろう。目に見えることも、ぱっと見にはわからないことも。わかっているつもりで、心のどこかで、故郷の時間だけが止まっているような錯覚を覚えていた。そういう自分を、やっと思い知る。いまさら。本当に、いまさらだった。
「馬ぁ鹿」
 背後で芙美が毒づいたのに、聞こえない振りをした。


「じゃあな」
 いうと、芙美はうなずいた。そっけない仕草だった。叔父が車の鍵を握り締めて、玄関から出てくる。
「空港まで送っちゃるけん」
「よかよ、バスですぐやし。おいちゃん、昼もけっこう呑んどったやろ」
 少しためらって、言葉を継ぎ足した。
「……また、顔出すけん。来年くらいになったら、いましよる仕事も、ちょっとは落ち着くやろうし」
 そうか、と笑って答える叔父の横から、巨大な紙袋を持って、母が出てきた。ぎょっとしながらとっさに受け取ると、まあ、あれこれ入っているの何の、梅干だの干物だのアオサだの、五島うどんやらカステラやらで、ぱんぱんに膨れ上がっている。
 俺がカステラ嫌いなの知ってるくせにと、そう頭の中で思うなり、先回りして母がいった。
「会社の人たちに食べてもらわんね」
 ぐっと飲み込んで、荷物を持ち直した。後ろで芙美が、にやにやしている。紙袋はずっしりと重く、持ち手が手のひらに食い込んできた。これを持って飛行機に乗るのかと思えば、いまからうんざりする。コンビニから宅急便で送るかと、ためいきを呑みこんで抱えなおした。
「もう、バスくるから」
 背を向けても、誰も家の中に引っ込む気配がなかった。振り返るのが気恥ずかしくて、前を向いたまま黙って階段を下っていると、ずいぶん遠くなってから、芙美の声が追いかけてきた。
「ホントに帰ってこんばよ」
 振り返って顔を見せるのがいやで、荷物を持った手を、軽く挙げた。


 歩きながら頭上を仰いだら、夕暮れ時の空はやっぱり狭くて、ごちゃごちゃしていた。そういう町だ。古臭く、不便で、せまっ苦しくて、何もこんなに詰め込まなくていいというくらい、建物がひしめきあっていて。
 どうしてこれまで帰ってこなかったと、誰かに訊かれたら、変に里心をつけたくなかったのだと、そう答えるつもりだった。本当のところは、いえるはずもなかったので。
 けれど誰も訊かなかった。芙美も、叔父も、母も。わかっていて訊かれなかったのなら、それはそれで、癪な話だった。
 空港バスに乗り換えるバス停の、すぐ近くにコンビニがある。そこから荷物を送ろうと思っていたのだけど、直前で気まぐれを起こした。このまま手で持っていこう。それくらいの重荷は抱えていくのが、放蕩息子の、せめてもの義務だろうから。
 清掃車が集めそこなったらしい爆竹の滓を踏んで、バスに乗り込むと、かすかな火薬のにおいが追いかけてきた。

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 通じるかどうか微妙だな、と思った言い回しをいちおう参考程度に。

でんでら……でんでらりゅうば。童謡。長崎っ子ならCMなどで頻繁に耳にして育つ……はず。
      Youtube http://www.youtube.com/watch?v=coYDBV3CpvM&feature=related
痩せたっちゃなかとね……痩せたんじゃないの。
やぜかな……ウザいな。うっとうしいな。
どげんや……どうだ。
戻ったごたる……戻ったような
なんな……なんだよ。
なかろもん……ないだろうよ。
そがん言うてやんな……そう言ってやるな。

メンテ
道に迷ったら、帰ろうぜ――神奈川の津久井の話―― ( No.9 )
   
日時: 2011/12/22 03:44
名前: zooey ID:L69o12.6

 昔から、運動神経は良い方だった。小学校、中学校、高校と、運動会――高校だと体育祭――では、毎回リレーの選手に選ばれていたし、成績も「体育」だけは常に最も高い評価、中学や高校で言えば「5」という、栄誉ある数字を獲得していた。が、その他の全ての教科は、常に、毎回、本当にいつも、「3」という可もなく不可もない数字が印字されていて、その結果、冗談のように見やすい成績表を、彼は手にしていた。「3」が並ぶ中なぜか一つだけぽつりと「5」、しかも「体育」。だが、当時の彼は、そのやたら見やすい成績表を、どこか誇らしく感じていた。「3」という平坦な道の中に、突如、にょっきり「5」という小山――その、シンプルに自分の特技を主張する成績表を見る度に、彼は心に満足感が、じんわり広がるのを感じたものだった。
 
 山田樹は、今年で三十一歳の会社員だ。勤め先は大手学習塾。学生時代、体育が唯一の特技だった自分からは考えられない職業だったが、それなりにやりがいを感じていた。もともと子供は好きだったし、先生、先生、と言って生徒が懐いてくるのは、可愛いものだった。それに生徒がいい点を取ったり、成績が上がったりするのが――なぜか自分のことのように嬉しくもあった。こんな気持ちになるとは、思いもよらなかったのだが、笑顔で成績アップを知らせてくる生徒を見ると、もう、嬉しさが全身に広がって思わず飛び上がりたくなるほどだったのだ。
 しかし、どこか物足りない気持もあった。彼は昔から体を動かすことが好きだったが、この仕事をしているとその機会が滅多にないのだ。一応、会社にひそかに存在する「部活動」なるものには大抵参加しているが――野球部、ゴルフ部、卓球部、AKB愛好会――行う活動は年に一回野球観戦に行くとか、社員旅行での宴会前にゴルフ場に行くとか、果てはゲームセンターで卓球するとか――AKB愛好会にいたっては活動をしたことすらなかった――そんな程度に収まっていた。結局、彼の抜群の運動神経を発揮する機会は全くと言っていいほどなく、スーツの下の隆々とした筋肉は使われないまましまわれていた。
 唯一、その肉体が効力を発揮するのはネオンが眩しくきらめくホテルでだ。
「腕、すごい太いね。硬いし、すごい」
樹がシャツを脱ぐと彼女はそう言って細い指で彼の腕を触る。腕に指の感触がすると――それは本当に細くて、ひやりと冷たくて、そして遠慮がちな触れ方だからだろうか、生まれたばかりの小鹿みたいな弱々しさを感じさせた。本当に可愛い彼女。彼は一人で風呂に入る時も、彼女の指の感触が恋しくて、自分の指で腕の筋肉を触ってみたりした。それで彼女のあの指を、顔を、体を、想像するのだ。彼の至福の時だった。
 だが、それでも、やはり物足りなさは消えない。彼の筋肉は彼女から「すごいね」と言って触れられるだけでは満足していなかった。もっと、思い切り体を動かしていた頃が、動かし過ぎて体が悲鳴を上げそうだったあの頃が、どうしても懐かしいのだった。彼の心には常にもやもやしたものが煙っていた。
 そのもやもやとした感情は、あることによってさらに大きくなっていた。
 樹は入社して七年目。その七年の間に、後から入社した、いわゆる後輩にあたる社員たちが、次々に自分より先に昇格し、教室長を任されるようになっていった。もともと、肩書にそれほどこだわりがあるわけではなかった樹だ。はじめのうちは、「そんなもんか」と考え、さして気にも留めていなかったが、四年、五年、六年――不満は少しずつ、広がった。その不満は、最初の内は小さく、あるかないか分からないくらいだったのが、次第にその量を増し、だんだん、だんだん、濃く、厚く、心に充満していった。
 だが、文句を言ったところでどうにもならない。彼は心で渦巻く不満の煙を押さえつけながら、毎日を過ごした。仕事をした。
その仕事の大部分を占めるのが電話がけだ。例えば、保護者へ子供の勉強の状況伝える電話。これにはちょっと注意が必要だ。
「お子さんは本当に頭が悪いです。中学生になっても通分の仕方を理解していません。英語でも、bとdを逆に書いて『ドッグ(dog)』を『ボッグ(bog)』と書いたりします。何とかしないと落ちぶれてしまいます」
 と言いたいところを、なるべく遠まわしに、やんわりと、でも必要なところは伝わるように言わなくてはならない。そして、上手い解決策を提案して、補習をしたり、通常授業とは別の課題を与えたりして、学力を上げて、そして、家庭の満足に繋げなくてはならないのだ。そんな電話を毎月、一人で二百件ほどかけるのだ。
二百件もあると、クレームを食らうこともある。
「数学が苦手で通わせてるのに、全然できるようにならない。何を教えてるんだ?」
「塾に友達が多すぎて勉強に集中できていないように感じる」
「部活との両立が厳しく本人が疲れ切っている。どうしてくれるんだ?」
 そんな話を聞きながら、「はい、そうですよね。分かりますよ、はいはい」などと、全く理解できなくても言っておき、――数学ができないって、こっちが出した宿題やりもしないで、何言ってんだ。病院でもらった薬を飲みもしないで、治らねえって文句言ってるようなもんじゃねえか――「でもですね」と切り返しては、保護者が気分よくなれるような褒め言葉を交えつつ、数学ができない根本的な原因は宿題をやらないからだということを伝えるのだ。こうした電話は、感謝してくれていればこちらも楽しく話ができるが、そうでない場合は、気のめいる業務だった。
 しかし、電話がけで最も大変なのは、家庭連絡ではない。営業の電話だ。学習塾といっても、会社である以上は利益を上げなければならない。そのため、各教室には体験授業に参加させる人数の目標や、その体験を受けて入塾させる人数の目標、逆に退塾を何人までに抑えればいいかの目標など、さまざまな数字が課せられ、その達成に、向けて動いていかなければならない。しかも、会社の方針として、「最終的に達成できる」のでは全く意味がないとされていた。どれだけ早く達成できるか、自分の教室が全社で何番目に達成できるか、それが重要だった。そのため、九月ごろから、冬期講習に向けて、達成できるよう動いているのだ。
 そこで、やっていくおもな作業の一つが電話がけなのだ。
 が、その前に、電話がけのためのリストを作成しなくてはならない。まずは教室で全生徒にアンケートを取って、何年生のなんというきょうだいがいるのかの情報を集めて、「きょうだいリスト」を作成する。そして、別のところから過去に体験したり、問い合わせをした「過去問い合わせリスト」を作成する。さらに、生徒たちに、知り合いで塾を探していたり、この塾に来たがったりしている子はいないかを聞いて、「友人紹介リスト」を作成する。そうやってできた気の遠くなるほど膨大なリストを元に、気の遠くなるほど何度も電話をかけていくのだ。それで数字が動かないと、勤務時間より三時間早い出勤を義務付けられたり、週休に休むことを許されなくなったりする。全く、とんでもない罰ゲームシステムだ。
 また、塾講師として、当然授業だってやらなくてはならない。樹は文系講師だったので、小学生から中学生まで、国語、社会、英語の三教科を担当している。さすがに七年もやっていれば予習しなくてもそのまま授業できるようになるが、やはり広い教室でも後ろまで聞こえるように、声を張って授業するのは、そこそこ体力を削られるものだった。
 そんな風な毎日。電話、授業、電話、授業――時々、数字が出てないための上長から激詰め――の毎日。ストレスがたまっても、それを発散するために体を動かすこともできない。その毎日をやり過ごす傍ら、なんで自分は教室長をやらせてもらえないんだろう? という疑問は日に日に増し、色濃く心を侵食していった。
 そして、七年目の冬――樹の教室の近く、新百合ヶ丘で冬期講習に開校する新規校ができるらしい。その校舎の新室長が、今日の会議で発表されることになっていた。期待しないように、とは思っても、「新室長」という言葉を思い浮かべると、まるでおまけでくっついているかのように自分の名前が連想され、どうしたってにやけてしまう。
 そもそも、毎日、あれだけの業務を一人でこなしているのだ。樹の教室の数字が良いのも、彼が電話がけをして数字を動かしているからだ。しかも、入社して七年目のベテラン講師だ。それを考えたら、期待するなという方が無理だろう。
 黒板の前には、やたらと長く間を取りながら、もったいぶって、まさに新室長発表をしようとしているエリア長。それを見ながら、樹の心で黄色い気持がそわそわと動くのを止めない。ああ、早くオレの名前を呼んでくれ――
「では、新百合ヶ丘校の室長は――」
 樹の胸にぐうっと熱い期待が湧き上がった。山田、山田……心の中で何度も呟いた。そして――
「田中雄太先生です! おめでとう!」
 その瞬間、一気に周りの音が遠のいた。その遠くの方では拍手の音が、そして、「田中雄太室長」を祝福する冷やかしの声が聞こえてくる。だが、何と言っているのかまでは分からない。頭の中は真っ白で、周りの物すべてが意識の方まで届いてこないのだ。またしても教室長にさせてもらえなかった。ただ、漠然とその失望が胸に広がっていた。
 その日の会議を終えて教室に戻っても、落胆は拭えなかった。むしろ、時間が経ったことで、より現実味を帯びて彼の肩にのしかかる。オレは室長をやらせてもらえないんだ。いつの間にか、彼の中でそれが事実になっていた。この会社にいたって、この会社で頑張ったって、オレは評価なんかしてもらえないんだ。彼の中で何か大事なものが崩れていった。
 その日、室長の野崎先生が
「今日、残念だったな。オレもさ、あんたが室長やるんだと思ってたよ」
 言われると、胸が熱くなり、それが一気に喉元にまで上がってきた。爆発して怒鳴り散らしてしまいそうな自分を抑えて
「いや、もう、しょうがないすよ」
 言うと、少し自分の声が震えているような気がした。
「あのさ、うちの教室、結構調子いいし、あんたも疲れてるだろうから、来週の金曜日、有給使って休みなよ。模試だから授業ないし」
 
 それで、野崎先生の言うとおり、金曜日に休みを取ることにした。
 
 その金曜日がだんだんと近づいてくる。直前になるまで、樹はただ漠然と「休み」に向けて仕事をこなしていた。だが、そうしながら実際休みに何をしようとか、そういったことは全く考えていなかった。やっとそのことに意識が向いたのは前日の木曜日の夜中だった。
 しかし、考え始めようとしたとき、妙な、そう本当に妙な感覚に襲われた。何も思い浮かばないのだ。どんなに意識を集中しても、頭の中は空っぽ。細い糸をたぐって、やりたいことを考えようとしても、その糸自体が見当たらないような、そんな感じだった。そう、彼にはやりたいことが全くなくなってしまったのだ。それに気づくと、失望が黒い海のようにどっぷりと満ちていった。昔はこんなんじゃなかったのに……。そう、本当のオレはこんなんじゃなかった。樹は彼自身が、自分が望む自分ではなくなったことを知ってしまった。
 樹の胸の中で、潮が満ちるようにぬううっと失望が広がる。彼はただ茫然と目の前の空間を見つめた。その何もない空間は人間的な温もりが一かけらもなくて、ただ、ただ、冷淡に彼を見つめ返した。そうしていると、なんだか自分自身を見つめているような、奇妙な錯覚が生まれた。オレって何のために生きてんだろう? そんな疑問が頭をよぎる。
 そうやって、数時間、ずっと枯れてしまった自身を見つめていると、逆に過去の自分がやけに輝いて見えてきた。そうだ、オレだってキラキラしてる時もあったんだ……。そう思うと、ある考えが、一つだけ、ぽつりと、しかしシンプルだからこそにはっきり、頭に浮かんできた。
――家に帰ってみよう。そうだ、帰ったら、きっと昔みたいになれるかもしれない――
 そんな根拠のない期待が、黒い海の中、微かにきらめいた。
 
 翌日、樹は津久井にある実家へ向かっていた。津久井とは神奈川と山梨の県境辺りに位置する町だ。いや、今は「市」か。数年前に相模原市に合併されたのだ。そのおかげで、相模原市は政令指定都市となり、津久井も、「緑区」なんてたいそうな名前を付けられた。尤も、「緑区」の由来は、緑が多いから、という安易なものだったが。
 車で16号の広い道を走っていく。橋本駅を過ぎたあたり、ちょうど立体になっている道を左に曲がると――懐かしい景色が目の前に広がった。実家は津久井だったが、高校は橋本だった。高校生の頃よくぶらついていたその場所が、いっぱいに迫ってきたのだ。右手には、レンタルビデオ店が24時間営業であることをでかでかと謳った看板を掲げており――よく学校帰りに寄って、DVDを見漁っていた。借りたことは一度もなかったが――その向かい、左手には東急ストアが堂々と店を構えていた。冬にはよく百円コロッケを買って、食いながら歩いてたっけ。
 ああ、そうだ、オレはそういう高校生だったんだ。
 そして、そのまま高校前を通り過ぎ――不思議と高校自体には何の感慨も抱かなかった――ずっと道を下っていく。あとはほとんど、この道をまっすぐに進んでいけばいい。学校帰りのバスから眺めた風景を横目で見ながら、樹は車を走らせた。そのうち、ふいと、右手に「カフェガスト」の看板が見え、何やら不思議な気持がわいてくる。最後の最後まで粘った、元「すかいらーく」だ。日本から「すかいらーく」が消え去る、本当に直前まで、「すかいらーく」のままで頑張ってたんだ。
 それから、さらに道を進む。そうすると、次第に前方の山が大きくなっていき、それと同じくして、ああ津久井に戻ってきたんだ、と彼は実感していった。
 車はいよいよ津久井湖へさしかかる。湖をぐるりと囲むように走る道は、スピードを出すと曲がりきれないため、いつも渋滞する。のろのろと動く車の前方は、山の断面になっていて、昔はそこに「ようこそ津久井へ」という黄色い標識があった。今は、相模原市になってしまったため取り去られているが、その標識があったところだけ、風雨にさらされず、濃いきれいな色になっている。なんだか、それは、そこに標識があったということを、そこから先が「津久井」なのだということを、言葉を取り去られた今でさえ主張しているようだった。そう、津久井だ――。
 津久井湖展望台のところを通り過ぎると、すぐに、左右に隙間なく商店や家々が並び始め、湖の景色を完全に遮る。建物同士の間が少し空いていても、その背に木々が生い茂っていて、やはり湖を見ることはできない。子供の頃、湖を見て自殺したくなる人が出ないようにそうなっているのだと、誰かが言っていた。子供だったか、大人だったか、定かでないし、そもそも、その話自体が本当かどうか疑わしいが、幼かった彼はそれを真に受けて、湖に一抹の恐怖を感じていた。歩いているとき、ちらりと生い茂る木の葉の間から、青さが見えると、首筋が寒くなるような感じがしたものだった。
 さて、湖を過ぎ、だんだん道がすいてくると、車のスピードも徐々に上がる。左右の建物が素早く視界の隅を通りすぎる。――と、前方にひときわ目を引く大きな看板――内閣総理大臣賞受賞という文句が謳われ、その上で自由の女神の模像がどう見ても懐中電灯にしか見えないものを掲げている、ブランデーせんべいの店だ。そう言えば、昔はこの店の前を通る時は必ず「内閣総理大臣賞ってなんなんだよ? で、それがなんで自由の女神なんだよ。しかもせんべえかよ。マジ意味分かんねえ」などと言ってはしゃいでいた。
 それからしばらく進むと、ひたすらまっすぐ走り続けていた道を、右に入る。で、「新境橋」という、樹が小五の時にできた橋を渡ると――橋ができる前は山を一度下ってから、再び登るというかなり意味のない労力を使わなければならなかった――実家はすぐだ。そこまで来ると、樹の心を懐かしさが柔らかく包んでいた。
 到着――。樹は車を駐車場の空いているスペースに入れた。そして、懐かしい我が家へ――
「ただいま」
 家に入ると、
「ああ、お帰りー。思ったより早かったね」
 母は、樹が久しぶりに帰ってきたことなど微塵も感じさせないような――そう、高校や中学の頃、学校から帰ってきたときと同じように、「普通」な調子で彼を向かいいれた。それが彼にはうれしかった。
「ねえ、腹減ったからなんか作ってよ」
「その前に、手ぇ、洗いなさいよ」

 それから樹は、昨日の残り物の煮物というご馳走を食べ――「おふくろの味」というものが本当にあるんだなあ、と変なことを思った――その後、特にすることもなかったので、ソファに座ってテレビをつけた。ERの再放送がやっている。それを見ていると母が思い出したように言った。
「ああ、そうだ。あんた、とも君、覚えてるでしょ? ほら、中学の頃の」
「ああ、覚えてるよ」
「あの子ね、今、家に戻ってきてるんだよ。結婚するんだって」
「ふうん」
 樹は何の気なしに言った。別に、結婚なんて珍しい話ではないし、特に何も思わなかった。
「ねえ、おめでとうの一言ぐらい言ってやりなよ。電話してみな」
「ああ、あとでな」
 彼はそう言ってERを見続けていた。

 ERが終わると、再び手持無沙汰になってしまった彼は、昼寝でもしようとそのままソファの上で寝転がった。そんな彼を見て、母は「全くもう」と言いながら、それでも毛布を持ってきてくれて、自分は夕飯の買い物へ出かけていった。
 樹は、再び一人になり、毛布にくるまり、そのふわりとした感触を肌に転がした。そうしていると、ふと、自分が全く眠くないことに気が付く。どうしたって眠れそうにはない。それで、彼は昔のことを思い返し始めた。

 すぐに頭に浮かんだのは――さっき話題に上がったせいだろう、とも君こと山田智弘のことだ。
 とも君は、ぽっちゃりとした「太っちょ」体形で、性格もクラスで一番おっとりしていた。何をするのも遅くて、みんなから、しょっちゅう「お前ホントとろい奴だよな」なんてことを言われたりもしていたが、それで嫌な顔をしたところを、樹は一度も見たことがなかった。いつもにこにこ、にこにこ、していた。
 樹ととも君は、同じ山田という名字だったので、出席番号順に並ぶと、必ず前と後ろになった。体育の授業の短距離走も、出席番号順に行っていたので、必ず二人で走ることになる。が、実は短距離走では二人の走りが一番の見もので、クラスのみんなは、好奇の光を輝かせ、二人がスタート位置に立つところを眺めた。なぜか? それは、クラスで最も足の速い樹と、最も足の遅いとも君が一緒に走るからだ。
「よーい」
 ドン、という音とともに、二人がスタートする。その瞬間から二人の距離はどんどん、どんどん離れていくのだ。まるで自転車とバイクが走っているかのようなその光景は、はたから見ると最高に面白いらしかった。みんな笑いながら、「ともー、がんばれよー」などとはやし立てていた。
 これなら手加減したって、絶対に負けない。しかし、その頃の樹はどんなことに対しても全力投球をする質だった。それに、とも君をどれだけ引き離せるか、というのも彼の中で一つの目標になっていた。それで、全力疾走でゴールした後、後ろを振り返り、とも君が遠くの方で、えっさえっさと走っているのを見ると、ようし、という、意地悪な喜びを感じていた。
 そんなあるとき、とも君が、
「すごいよなあ、たつは。足が速くて、すごいよなあ」
 その顔はいつも通りの、にこにことしたやわらかい笑顔で、その言葉が嫌味だとか妬みだとかではないことを物語っていた。すると、樹の中にふうっと恥ずかしさがわいてきた。足の遅いとも君を見て、にんまりしている彼自身の姿が、脳裏に浮かんできたのだ。それを掻き消したい気持ちに駆られて、
「そんなことないよ。オレは運動できるけど、でも勉強は全然だめじゃん。とも君はさ、オレなんかよりずっと頭良くて、やっぱオレから見たらすげーよ」
 苦し紛れにそう言った。それで、とも君が、うんと言ってくれれば、罪悪感がちょっとは減る気がしたのだ。でもとも君は
「いや、オレは暗記するだけだもん。それに、結構時間かけて勉強してだから、そんなすごくないよ。でも、たつの運動神経は、そうじゃないもんなあ。すごいよ、やっぱり」
 そう言ってにこにこ笑うとも君の顔――。きっと忘れることはないんだろうな、と樹は思った。それは、当時の樹の足の速さとか、友達への思いとか、意地の悪さとか、そしてとも君の優しさとか、そういうものを全部含んだ笑顔だったから。絶対に忘れられない――いや、忘れたくない宝物だった。
 それから、とも君はこうも言った。
「たつはきっと、将来、スポーツ選手とかになるんだろうなあ。そしたら、きっとすごいよ。オレ、たつがそうなってくれたら、うれしいなあ」
 それを思うと、悲しさがぶわりと胸に広がった。ならなかったよ、とも君。スポーツ選手になんか、なれなかったよ……。

 一時間ばかりすると、母が買い物から帰ってきた。
「とも君に電話した?」
 母に言われて、樹の意識が思い出から離れた。
「……してない」
「しなさいよ。とも君、あんたに会いたがってるって、とも君のお母さん、言ってたよ」
 そう言って、母は買ってきたものをしまいに台所へ姿を消した。

 樹は少しの間、電話を手に取ることができないでいた。とも君が期待してたみたいな大人に、自分はなってない。その事実が彼の気持ちを挫いて、とも君と話す勇気が出なかった。しかし、とも君が――樹のことを「すごいなあ」と言って、あの笑顔をくれたとも君が、結婚するんだったら――彼は手を止めようとする劣等感を振り払い、電話をかけた。

「もしもし?」
 とも君の声――。卒業してから十六年たっているけれど、全く変わっていない、おっとりとしたとも君の声だった。
「あ、あの、樹だよ。覚えてる? 同じ苗字の、山田樹」
 すると電話の向こうの声が高く、そして大きくなった。
「そりゃ、覚えてるよ。久しぶりだなあ。元気か?」
「うん……、あのさ、おふくろから結婚するって聞いて」
「ああ、そうなんだ。今、契約社員だからさ、金銭的にはきついんだけどね。これからオレも頑張らないと」
 とも君はそこで言葉を切ると、少し間を置いた。電話の向こうで、とも君が息を吸い込むのが分かった。で、続けて
「たつは、えらいよなあ。オレは仕事やっても、なかなか続かないんだけど、頑張ってずっと先生やってるんだろ? 大変そうなのに、すごいよ」
 その言葉が、すうっと樹の心に入ってきた。そして、凍り付いていた心を、あったかく、ゆるりとやわらげた。目の前には中学の時と同じ、あのとも君の笑顔が浮かんでくる。目の中にも熱いものがたまってきた。
「すごくなんかないよ。オレは全然ダメだ。なんか、ダメなんだよ……」
 そう言うと目から涙がぽろりとこぼれた。声も震えていた。しかし、それが恥ずかしいとか、止めようとか、そんなことは思わなかった。とも君の優しさに、気持ちが緩んで、もう崩れてしまいそうだった。
「なんかあったの? 大丈夫か?」
 とも君の声はやはり樹の心にそのまま溶け込んでくる。
「だって、オレ、スポーツ選手とかさ、なってないじゃん。塾の先生だって、長く続けてたって室長にもしてもらえないんだ。七年やってて、室長よりもっと上に行ってる奴なんて、たくさんいるのに。全然ダメなんだよ」
 樹が言うと、とも君はしばらく黙ったままでいた。とも君らしい、ゆっくりとした呼吸が耳に届く。で、その呼吸がふいっと止んで
「でも、先生、やめちゃだめだよ」
 その言葉も樹の心に直に届いた。やめちゃだめだよ――
「たつがすごいのはさ、運動神経が良いとか、そういうことじゃないんだよ。運動神経もすごいけど、何やるんでも、すごい一生懸命になってたじゃん。運動会とかさ、合唱コンクールとかさ、英語劇やった時とかさ、大掃除の時だって、クラスで一番頑張ってたよ。そういうのがすごいんだよ。だから、オレ、中学ん頃、クラスで一番たつが好きだったよ。どの友達も好きだったけど、たつが一番好きだったよ」
 樹の心に光がさあっと差した。とも君の言葉がうれしかっただけじゃない、昔の自分はそうだったんだと、思い出したのだ。何でも全力投球だった。そう、本当に何でも。それを自分のいいところとして意識したことは一度もなかったが、でも、とも君の言うとおり、一生懸命だったんだ。心にできていたしこりが、どこかへ消えていくのを感じた。
「ありがと……」
 胸に気持ちがいっぱいに詰まって、そのくらいしか言葉が出なかった。
「オレもさ、たつみたいに頑張るよ。ちゃんと正社員で働けるようになる。そうしなきゃ、どうにもなんないもん。頑張るから、見ててよ」
 で、とも君の言葉を聞くと、樹は思い出した。大切なことを。そして、ふわりと言葉が浮かんできて、そのまま、
「とも君……おめでとう、結婚。おめでとう」

 その日の夜、樹は自宅へ向かう車の中で、自分の気持ちを再び見つめた。その気持ちは、もう、黒い海ではなかった。一生懸命にやろう。そう思った。それで評価されなくたって、それは、それだ。オレは自分なりに全力投球しよう。そうすれば、オレは、オレのまんまでいられるんだから。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ご当地になるのだろうかという疑問を感じつつ……。
無難な話になった気がします。

メンテ

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