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RSSフィード [37] ご当地小説始めました!
   
日時: 2011/09/04 21:17
名前: 片桐秀和 ID:eyYh/LA.

さあ、今日この瞬間よりまったり始まりました。ご当地小説!
改めて説明しましょう。
ご当地小説とは、TCを利用している我々が、おのおのの住んでいる(住んでいた)地域の名産、観光地、歴史、風俗、方言、などを盛り込み、小説を書いて投稿しようという企画です。何か一点でも作者として思う地元感(地元愛?)が出ていれば、ご当地小説とみなされます!

  投稿場所:このスレッドに返信する形で投稿。一般板への同時投稿も可能(その場合一週間ルールは守ってください)。
  枚数制限:なし
 作品数制限:なし
  ジャンル:不問
感想の付け方:ミニイベント板の感想専用スレッド
    期間:スレッド設置以降無期限
 地域の重複:問題なし
  参加資格:誰でもOK
 
 ※投稿の際、タイトルの横に、どこの都道府県の話か書き添えてくれると、読む方も選びやすくなると思います。お願いします。

といった感じですー。感想は別のスレッドということだけ注意してください。たくさん投稿されると、どこに感想があるか分かりにくいと考えてのことです。また、一般板へ投稿されている場合は、そちらへ感想を書くことを優先した方が、作者さんも喜ぶかも。

えっと、とりあえずスレッドとして立てますが、各地方ごとに投稿分布を載せたり、スレッド主の独り言を書いたりと、定期的にスレッド自体も更新していこうと考えてます。ぜひともこのミニイベントをお楽しみいただけると幸いです。

メンテ

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道に迷ったら、帰ろうぜ――神奈川の津久井の話―― ( No.9 )
   
日時: 2011/12/22 03:44
名前: zooey ID:L69o12.6

 昔から、運動神経は良い方だった。小学校、中学校、高校と、運動会――高校だと体育祭――では、毎回リレーの選手に選ばれていたし、成績も「体育」だけは常に最も高い評価、中学や高校で言えば「5」という、栄誉ある数字を獲得していた。が、その他の全ての教科は、常に、毎回、本当にいつも、「3」という可もなく不可もない数字が印字されていて、その結果、冗談のように見やすい成績表を、彼は手にしていた。「3」が並ぶ中なぜか一つだけぽつりと「5」、しかも「体育」。だが、当時の彼は、そのやたら見やすい成績表を、どこか誇らしく感じていた。「3」という平坦な道の中に、突如、にょっきり「5」という小山――その、シンプルに自分の特技を主張する成績表を見る度に、彼は心に満足感が、じんわり広がるのを感じたものだった。
 
 山田樹は、今年で三十一歳の会社員だ。勤め先は大手学習塾。学生時代、体育が唯一の特技だった自分からは考えられない職業だったが、それなりにやりがいを感じていた。もともと子供は好きだったし、先生、先生、と言って生徒が懐いてくるのは、可愛いものだった。それに生徒がいい点を取ったり、成績が上がったりするのが――なぜか自分のことのように嬉しくもあった。こんな気持ちになるとは、思いもよらなかったのだが、笑顔で成績アップを知らせてくる生徒を見ると、もう、嬉しさが全身に広がって思わず飛び上がりたくなるほどだったのだ。
 しかし、どこか物足りない気持もあった。彼は昔から体を動かすことが好きだったが、この仕事をしているとその機会が滅多にないのだ。一応、会社にひそかに存在する「部活動」なるものには大抵参加しているが――野球部、ゴルフ部、卓球部、AKB愛好会――行う活動は年に一回野球観戦に行くとか、社員旅行での宴会前にゴルフ場に行くとか、果てはゲームセンターで卓球するとか――AKB愛好会にいたっては活動をしたことすらなかった――そんな程度に収まっていた。結局、彼の抜群の運動神経を発揮する機会は全くと言っていいほどなく、スーツの下の隆々とした筋肉は使われないまましまわれていた。
 唯一、その肉体が効力を発揮するのはネオンが眩しくきらめくホテルでだ。
「腕、すごい太いね。硬いし、すごい」
樹がシャツを脱ぐと彼女はそう言って細い指で彼の腕を触る。腕に指の感触がすると――それは本当に細くて、ひやりと冷たくて、そして遠慮がちな触れ方だからだろうか、生まれたばかりの小鹿みたいな弱々しさを感じさせた。本当に可愛い彼女。彼は一人で風呂に入る時も、彼女の指の感触が恋しくて、自分の指で腕の筋肉を触ってみたりした。それで彼女のあの指を、顔を、体を、想像するのだ。彼の至福の時だった。
 だが、それでも、やはり物足りなさは消えない。彼の筋肉は彼女から「すごいね」と言って触れられるだけでは満足していなかった。もっと、思い切り体を動かしていた頃が、動かし過ぎて体が悲鳴を上げそうだったあの頃が、どうしても懐かしいのだった。彼の心には常にもやもやしたものが煙っていた。
 そのもやもやとした感情は、あることによってさらに大きくなっていた。
 樹は入社して七年目。その七年の間に、後から入社した、いわゆる後輩にあたる社員たちが、次々に自分より先に昇格し、教室長を任されるようになっていった。もともと、肩書にそれほどこだわりがあるわけではなかった樹だ。はじめのうちは、「そんなもんか」と考え、さして気にも留めていなかったが、四年、五年、六年――不満は少しずつ、広がった。その不満は、最初の内は小さく、あるかないか分からないくらいだったのが、次第にその量を増し、だんだん、だんだん、濃く、厚く、心に充満していった。
 だが、文句を言ったところでどうにもならない。彼は心で渦巻く不満の煙を押さえつけながら、毎日を過ごした。仕事をした。
その仕事の大部分を占めるのが電話がけだ。例えば、保護者へ子供の勉強の状況伝える電話。これにはちょっと注意が必要だ。
「お子さんは本当に頭が悪いです。中学生になっても通分の仕方を理解していません。英語でも、bとdを逆に書いて『ドッグ(dog)』を『ボッグ(bog)』と書いたりします。何とかしないと落ちぶれてしまいます」
 と言いたいところを、なるべく遠まわしに、やんわりと、でも必要なところは伝わるように言わなくてはならない。そして、上手い解決策を提案して、補習をしたり、通常授業とは別の課題を与えたりして、学力を上げて、そして、家庭の満足に繋げなくてはならないのだ。そんな電話を毎月、一人で二百件ほどかけるのだ。
二百件もあると、クレームを食らうこともある。
「数学が苦手で通わせてるのに、全然できるようにならない。何を教えてるんだ?」
「塾に友達が多すぎて勉強に集中できていないように感じる」
「部活との両立が厳しく本人が疲れ切っている。どうしてくれるんだ?」
 そんな話を聞きながら、「はい、そうですよね。分かりますよ、はいはい」などと、全く理解できなくても言っておき、――数学ができないって、こっちが出した宿題やりもしないで、何言ってんだ。病院でもらった薬を飲みもしないで、治らねえって文句言ってるようなもんじゃねえか――「でもですね」と切り返しては、保護者が気分よくなれるような褒め言葉を交えつつ、数学ができない根本的な原因は宿題をやらないからだということを伝えるのだ。こうした電話は、感謝してくれていればこちらも楽しく話ができるが、そうでない場合は、気のめいる業務だった。
 しかし、電話がけで最も大変なのは、家庭連絡ではない。営業の電話だ。学習塾といっても、会社である以上は利益を上げなければならない。そのため、各教室には体験授業に参加させる人数の目標や、その体験を受けて入塾させる人数の目標、逆に退塾を何人までに抑えればいいかの目標など、さまざまな数字が課せられ、その達成に、向けて動いていかなければならない。しかも、会社の方針として、「最終的に達成できる」のでは全く意味がないとされていた。どれだけ早く達成できるか、自分の教室が全社で何番目に達成できるか、それが重要だった。そのため、九月ごろから、冬期講習に向けて、達成できるよう動いているのだ。
 そこで、やっていくおもな作業の一つが電話がけなのだ。
 が、その前に、電話がけのためのリストを作成しなくてはならない。まずは教室で全生徒にアンケートを取って、何年生のなんというきょうだいがいるのかの情報を集めて、「きょうだいリスト」を作成する。そして、別のところから過去に体験したり、問い合わせをした「過去問い合わせリスト」を作成する。さらに、生徒たちに、知り合いで塾を探していたり、この塾に来たがったりしている子はいないかを聞いて、「友人紹介リスト」を作成する。そうやってできた気の遠くなるほど膨大なリストを元に、気の遠くなるほど何度も電話をかけていくのだ。それで数字が動かないと、勤務時間より三時間早い出勤を義務付けられたり、週休に休むことを許されなくなったりする。全く、とんでもない罰ゲームシステムだ。
 また、塾講師として、当然授業だってやらなくてはならない。樹は文系講師だったので、小学生から中学生まで、国語、社会、英語の三教科を担当している。さすがに七年もやっていれば予習しなくてもそのまま授業できるようになるが、やはり広い教室でも後ろまで聞こえるように、声を張って授業するのは、そこそこ体力を削られるものだった。
 そんな風な毎日。電話、授業、電話、授業――時々、数字が出てないための上長から激詰め――の毎日。ストレスがたまっても、それを発散するために体を動かすこともできない。その毎日をやり過ごす傍ら、なんで自分は教室長をやらせてもらえないんだろう? という疑問は日に日に増し、色濃く心を侵食していった。
 そして、七年目の冬――樹の教室の近く、新百合ヶ丘で冬期講習に開校する新規校ができるらしい。その校舎の新室長が、今日の会議で発表されることになっていた。期待しないように、とは思っても、「新室長」という言葉を思い浮かべると、まるでおまけでくっついているかのように自分の名前が連想され、どうしたってにやけてしまう。
 そもそも、毎日、あれだけの業務を一人でこなしているのだ。樹の教室の数字が良いのも、彼が電話がけをして数字を動かしているからだ。しかも、入社して七年目のベテラン講師だ。それを考えたら、期待するなという方が無理だろう。
 黒板の前には、やたらと長く間を取りながら、もったいぶって、まさに新室長発表をしようとしているエリア長。それを見ながら、樹の心で黄色い気持がそわそわと動くのを止めない。ああ、早くオレの名前を呼んでくれ――
「では、新百合ヶ丘校の室長は――」
 樹の胸にぐうっと熱い期待が湧き上がった。山田、山田……心の中で何度も呟いた。そして――
「田中雄太先生です! おめでとう!」
 その瞬間、一気に周りの音が遠のいた。その遠くの方では拍手の音が、そして、「田中雄太室長」を祝福する冷やかしの声が聞こえてくる。だが、何と言っているのかまでは分からない。頭の中は真っ白で、周りの物すべてが意識の方まで届いてこないのだ。またしても教室長にさせてもらえなかった。ただ、漠然とその失望が胸に広がっていた。
 その日の会議を終えて教室に戻っても、落胆は拭えなかった。むしろ、時間が経ったことで、より現実味を帯びて彼の肩にのしかかる。オレは室長をやらせてもらえないんだ。いつの間にか、彼の中でそれが事実になっていた。この会社にいたって、この会社で頑張ったって、オレは評価なんかしてもらえないんだ。彼の中で何か大事なものが崩れていった。
 その日、室長の野崎先生が
「今日、残念だったな。オレもさ、あんたが室長やるんだと思ってたよ」
 言われると、胸が熱くなり、それが一気に喉元にまで上がってきた。爆発して怒鳴り散らしてしまいそうな自分を抑えて
「いや、もう、しょうがないすよ」
 言うと、少し自分の声が震えているような気がした。
「あのさ、うちの教室、結構調子いいし、あんたも疲れてるだろうから、来週の金曜日、有給使って休みなよ。模試だから授業ないし」
 
 それで、野崎先生の言うとおり、金曜日に休みを取ることにした。
 
 その金曜日がだんだんと近づいてくる。直前になるまで、樹はただ漠然と「休み」に向けて仕事をこなしていた。だが、そうしながら実際休みに何をしようとか、そういったことは全く考えていなかった。やっとそのことに意識が向いたのは前日の木曜日の夜中だった。
 しかし、考え始めようとしたとき、妙な、そう本当に妙な感覚に襲われた。何も思い浮かばないのだ。どんなに意識を集中しても、頭の中は空っぽ。細い糸をたぐって、やりたいことを考えようとしても、その糸自体が見当たらないような、そんな感じだった。そう、彼にはやりたいことが全くなくなってしまったのだ。それに気づくと、失望が黒い海のようにどっぷりと満ちていった。昔はこんなんじゃなかったのに……。そう、本当のオレはこんなんじゃなかった。樹は彼自身が、自分が望む自分ではなくなったことを知ってしまった。
 樹の胸の中で、潮が満ちるようにぬううっと失望が広がる。彼はただ茫然と目の前の空間を見つめた。その何もない空間は人間的な温もりが一かけらもなくて、ただ、ただ、冷淡に彼を見つめ返した。そうしていると、なんだか自分自身を見つめているような、奇妙な錯覚が生まれた。オレって何のために生きてんだろう? そんな疑問が頭をよぎる。
 そうやって、数時間、ずっと枯れてしまった自身を見つめていると、逆に過去の自分がやけに輝いて見えてきた。そうだ、オレだってキラキラしてる時もあったんだ……。そう思うと、ある考えが、一つだけ、ぽつりと、しかしシンプルだからこそにはっきり、頭に浮かんできた。
――家に帰ってみよう。そうだ、帰ったら、きっと昔みたいになれるかもしれない――
 そんな根拠のない期待が、黒い海の中、微かにきらめいた。
 
 翌日、樹は津久井にある実家へ向かっていた。津久井とは神奈川と山梨の県境辺りに位置する町だ。いや、今は「市」か。数年前に相模原市に合併されたのだ。そのおかげで、相模原市は政令指定都市となり、津久井も、「緑区」なんてたいそうな名前を付けられた。尤も、「緑区」の由来は、緑が多いから、という安易なものだったが。
 車で16号の広い道を走っていく。橋本駅を過ぎたあたり、ちょうど立体になっている道を左に曲がると――懐かしい景色が目の前に広がった。実家は津久井だったが、高校は橋本だった。高校生の頃よくぶらついていたその場所が、いっぱいに迫ってきたのだ。右手には、レンタルビデオ店が24時間営業であることをでかでかと謳った看板を掲げており――よく学校帰りに寄って、DVDを見漁っていた。借りたことは一度もなかったが――その向かい、左手には東急ストアが堂々と店を構えていた。冬にはよく百円コロッケを買って、食いながら歩いてたっけ。
 ああ、そうだ、オレはそういう高校生だったんだ。
 そして、そのまま高校前を通り過ぎ――不思議と高校自体には何の感慨も抱かなかった――ずっと道を下っていく。あとはほとんど、この道をまっすぐに進んでいけばいい。学校帰りのバスから眺めた風景を横目で見ながら、樹は車を走らせた。そのうち、ふいと、右手に「カフェガスト」の看板が見え、何やら不思議な気持がわいてくる。最後の最後まで粘った、元「すかいらーく」だ。日本から「すかいらーく」が消え去る、本当に直前まで、「すかいらーく」のままで頑張ってたんだ。
 それから、さらに道を進む。そうすると、次第に前方の山が大きくなっていき、それと同じくして、ああ津久井に戻ってきたんだ、と彼は実感していった。
 車はいよいよ津久井湖へさしかかる。湖をぐるりと囲むように走る道は、スピードを出すと曲がりきれないため、いつも渋滞する。のろのろと動く車の前方は、山の断面になっていて、昔はそこに「ようこそ津久井へ」という黄色い標識があった。今は、相模原市になってしまったため取り去られているが、その標識があったところだけ、風雨にさらされず、濃いきれいな色になっている。なんだか、それは、そこに標識があったということを、そこから先が「津久井」なのだということを、言葉を取り去られた今でさえ主張しているようだった。そう、津久井だ――。
 津久井湖展望台のところを通り過ぎると、すぐに、左右に隙間なく商店や家々が並び始め、湖の景色を完全に遮る。建物同士の間が少し空いていても、その背に木々が生い茂っていて、やはり湖を見ることはできない。子供の頃、湖を見て自殺したくなる人が出ないようにそうなっているのだと、誰かが言っていた。子供だったか、大人だったか、定かでないし、そもそも、その話自体が本当かどうか疑わしいが、幼かった彼はそれを真に受けて、湖に一抹の恐怖を感じていた。歩いているとき、ちらりと生い茂る木の葉の間から、青さが見えると、首筋が寒くなるような感じがしたものだった。
 さて、湖を過ぎ、だんだん道がすいてくると、車のスピードも徐々に上がる。左右の建物が素早く視界の隅を通りすぎる。――と、前方にひときわ目を引く大きな看板――内閣総理大臣賞受賞という文句が謳われ、その上で自由の女神の模像がどう見ても懐中電灯にしか見えないものを掲げている、ブランデーせんべいの店だ。そう言えば、昔はこの店の前を通る時は必ず「内閣総理大臣賞ってなんなんだよ? で、それがなんで自由の女神なんだよ。しかもせんべえかよ。マジ意味分かんねえ」などと言ってはしゃいでいた。
 それからしばらく進むと、ひたすらまっすぐ走り続けていた道を、右に入る。で、「新境橋」という、樹が小五の時にできた橋を渡ると――橋ができる前は山を一度下ってから、再び登るというかなり意味のない労力を使わなければならなかった――実家はすぐだ。そこまで来ると、樹の心を懐かしさが柔らかく包んでいた。
 到着――。樹は車を駐車場の空いているスペースに入れた。そして、懐かしい我が家へ――
「ただいま」
 家に入ると、
「ああ、お帰りー。思ったより早かったね」
 母は、樹が久しぶりに帰ってきたことなど微塵も感じさせないような――そう、高校や中学の頃、学校から帰ってきたときと同じように、「普通」な調子で彼を向かいいれた。それが彼にはうれしかった。
「ねえ、腹減ったからなんか作ってよ」
「その前に、手ぇ、洗いなさいよ」

 それから樹は、昨日の残り物の煮物というご馳走を食べ――「おふくろの味」というものが本当にあるんだなあ、と変なことを思った――その後、特にすることもなかったので、ソファに座ってテレビをつけた。ERの再放送がやっている。それを見ていると母が思い出したように言った。
「ああ、そうだ。あんた、とも君、覚えてるでしょ? ほら、中学の頃の」
「ああ、覚えてるよ」
「あの子ね、今、家に戻ってきてるんだよ。結婚するんだって」
「ふうん」
 樹は何の気なしに言った。別に、結婚なんて珍しい話ではないし、特に何も思わなかった。
「ねえ、おめでとうの一言ぐらい言ってやりなよ。電話してみな」
「ああ、あとでな」
 彼はそう言ってERを見続けていた。

 ERが終わると、再び手持無沙汰になってしまった彼は、昼寝でもしようとそのままソファの上で寝転がった。そんな彼を見て、母は「全くもう」と言いながら、それでも毛布を持ってきてくれて、自分は夕飯の買い物へ出かけていった。
 樹は、再び一人になり、毛布にくるまり、そのふわりとした感触を肌に転がした。そうしていると、ふと、自分が全く眠くないことに気が付く。どうしたって眠れそうにはない。それで、彼は昔のことを思い返し始めた。

 すぐに頭に浮かんだのは――さっき話題に上がったせいだろう、とも君こと山田智弘のことだ。
 とも君は、ぽっちゃりとした「太っちょ」体形で、性格もクラスで一番おっとりしていた。何をするのも遅くて、みんなから、しょっちゅう「お前ホントとろい奴だよな」なんてことを言われたりもしていたが、それで嫌な顔をしたところを、樹は一度も見たことがなかった。いつもにこにこ、にこにこ、していた。
 樹ととも君は、同じ山田という名字だったので、出席番号順に並ぶと、必ず前と後ろになった。体育の授業の短距離走も、出席番号順に行っていたので、必ず二人で走ることになる。が、実は短距離走では二人の走りが一番の見もので、クラスのみんなは、好奇の光を輝かせ、二人がスタート位置に立つところを眺めた。なぜか? それは、クラスで最も足の速い樹と、最も足の遅いとも君が一緒に走るからだ。
「よーい」
 ドン、という音とともに、二人がスタートする。その瞬間から二人の距離はどんどん、どんどん離れていくのだ。まるで自転車とバイクが走っているかのようなその光景は、はたから見ると最高に面白いらしかった。みんな笑いながら、「ともー、がんばれよー」などとはやし立てていた。
 これなら手加減したって、絶対に負けない。しかし、その頃の樹はどんなことに対しても全力投球をする質だった。それに、とも君をどれだけ引き離せるか、というのも彼の中で一つの目標になっていた。それで、全力疾走でゴールした後、後ろを振り返り、とも君が遠くの方で、えっさえっさと走っているのを見ると、ようし、という、意地悪な喜びを感じていた。
 そんなあるとき、とも君が、
「すごいよなあ、たつは。足が速くて、すごいよなあ」
 その顔はいつも通りの、にこにことしたやわらかい笑顔で、その言葉が嫌味だとか妬みだとかではないことを物語っていた。すると、樹の中にふうっと恥ずかしさがわいてきた。足の遅いとも君を見て、にんまりしている彼自身の姿が、脳裏に浮かんできたのだ。それを掻き消したい気持ちに駆られて、
「そんなことないよ。オレは運動できるけど、でも勉強は全然だめじゃん。とも君はさ、オレなんかよりずっと頭良くて、やっぱオレから見たらすげーよ」
 苦し紛れにそう言った。それで、とも君が、うんと言ってくれれば、罪悪感がちょっとは減る気がしたのだ。でもとも君は
「いや、オレは暗記するだけだもん。それに、結構時間かけて勉強してだから、そんなすごくないよ。でも、たつの運動神経は、そうじゃないもんなあ。すごいよ、やっぱり」
 そう言ってにこにこ笑うとも君の顔――。きっと忘れることはないんだろうな、と樹は思った。それは、当時の樹の足の速さとか、友達への思いとか、意地の悪さとか、そしてとも君の優しさとか、そういうものを全部含んだ笑顔だったから。絶対に忘れられない――いや、忘れたくない宝物だった。
 それから、とも君はこうも言った。
「たつはきっと、将来、スポーツ選手とかになるんだろうなあ。そしたら、きっとすごいよ。オレ、たつがそうなってくれたら、うれしいなあ」
 それを思うと、悲しさがぶわりと胸に広がった。ならなかったよ、とも君。スポーツ選手になんか、なれなかったよ……。

 一時間ばかりすると、母が買い物から帰ってきた。
「とも君に電話した?」
 母に言われて、樹の意識が思い出から離れた。
「……してない」
「しなさいよ。とも君、あんたに会いたがってるって、とも君のお母さん、言ってたよ」
 そう言って、母は買ってきたものをしまいに台所へ姿を消した。

 樹は少しの間、電話を手に取ることができないでいた。とも君が期待してたみたいな大人に、自分はなってない。その事実が彼の気持ちを挫いて、とも君と話す勇気が出なかった。しかし、とも君が――樹のことを「すごいなあ」と言って、あの笑顔をくれたとも君が、結婚するんだったら――彼は手を止めようとする劣等感を振り払い、電話をかけた。

「もしもし?」
 とも君の声――。卒業してから十六年たっているけれど、全く変わっていない、おっとりとしたとも君の声だった。
「あ、あの、樹だよ。覚えてる? 同じ苗字の、山田樹」
 すると電話の向こうの声が高く、そして大きくなった。
「そりゃ、覚えてるよ。久しぶりだなあ。元気か?」
「うん……、あのさ、おふくろから結婚するって聞いて」
「ああ、そうなんだ。今、契約社員だからさ、金銭的にはきついんだけどね。これからオレも頑張らないと」
 とも君はそこで言葉を切ると、少し間を置いた。電話の向こうで、とも君が息を吸い込むのが分かった。で、続けて
「たつは、えらいよなあ。オレは仕事やっても、なかなか続かないんだけど、頑張ってずっと先生やってるんだろ? 大変そうなのに、すごいよ」
 その言葉が、すうっと樹の心に入ってきた。そして、凍り付いていた心を、あったかく、ゆるりとやわらげた。目の前には中学の時と同じ、あのとも君の笑顔が浮かんでくる。目の中にも熱いものがたまってきた。
「すごくなんかないよ。オレは全然ダメだ。なんか、ダメなんだよ……」
 そう言うと目から涙がぽろりとこぼれた。声も震えていた。しかし、それが恥ずかしいとか、止めようとか、そんなことは思わなかった。とも君の優しさに、気持ちが緩んで、もう崩れてしまいそうだった。
「なんかあったの? 大丈夫か?」
 とも君の声はやはり樹の心にそのまま溶け込んでくる。
「だって、オレ、スポーツ選手とかさ、なってないじゃん。塾の先生だって、長く続けてたって室長にもしてもらえないんだ。七年やってて、室長よりもっと上に行ってる奴なんて、たくさんいるのに。全然ダメなんだよ」
 樹が言うと、とも君はしばらく黙ったままでいた。とも君らしい、ゆっくりとした呼吸が耳に届く。で、その呼吸がふいっと止んで
「でも、先生、やめちゃだめだよ」
 その言葉も樹の心に直に届いた。やめちゃだめだよ――
「たつがすごいのはさ、運動神経が良いとか、そういうことじゃないんだよ。運動神経もすごいけど、何やるんでも、すごい一生懸命になってたじゃん。運動会とかさ、合唱コンクールとかさ、英語劇やった時とかさ、大掃除の時だって、クラスで一番頑張ってたよ。そういうのがすごいんだよ。だから、オレ、中学ん頃、クラスで一番たつが好きだったよ。どの友達も好きだったけど、たつが一番好きだったよ」
 樹の心に光がさあっと差した。とも君の言葉がうれしかっただけじゃない、昔の自分はそうだったんだと、思い出したのだ。何でも全力投球だった。そう、本当に何でも。それを自分のいいところとして意識したことは一度もなかったが、でも、とも君の言うとおり、一生懸命だったんだ。心にできていたしこりが、どこかへ消えていくのを感じた。
「ありがと……」
 胸に気持ちがいっぱいに詰まって、そのくらいしか言葉が出なかった。
「オレもさ、たつみたいに頑張るよ。ちゃんと正社員で働けるようになる。そうしなきゃ、どうにもなんないもん。頑張るから、見ててよ」
 で、とも君の言葉を聞くと、樹は思い出した。大切なことを。そして、ふわりと言葉が浮かんできて、そのまま、
「とも君……おめでとう、結婚。おめでとう」

 その日の夜、樹は自宅へ向かう車の中で、自分の気持ちを再び見つめた。その気持ちは、もう、黒い海ではなかった。一生懸命にやろう。そう思った。それで評価されなくたって、それは、それだ。オレは自分なりに全力投球しよう。そうすれば、オレは、オレのまんまでいられるんだから。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ご当地になるのだろうかという疑問を感じつつ……。
無難な話になった気がします。

メンテ

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