幸福論的殺意

懸命に生きているひとを見ると

            死にたくなる


  たとえばそれは

           海の向こうの

  発展途上の
        国の子供達


        激流を遡る 鮭の群


    画面の向こう 駆け抜けるランナー


         段ボールの中
               舐め合う仔猫



生きようとするひとを嗤うひとを見ると

               殺したくなる


   たとえばそれは


        「貴方のため」を謳う大人


 死にたがることを否定する あの人


             仔猫を虐める あの子




『そうは言ってもそれが本当のこと』



   どうにか
          こうにか


 隣に手繰り寄せられないか

          変えられやしないか って


   呟いてみても

          結局それも嗤われて


『偽善者の癖にずいぶん偉そうじゃないか』


    嗚呼

                もう

     自分が嫌いになるんだ


 やるせなくて

        泣こうにも泣き方がわからなくて


  カッター突き立ててみたり

           踏切眺めてみたり


  こんなことばかりやってる自分が




『何が不気味かってそれを普通と見る世間が不気味』




   一番殺したい奴は
            もちろん他でもない



         自分自身あいつ





少なくとも
     死にたいと思うその瞬間だけは

             死にたいと思っている





          『アイラビュー』



    せめて自分のことくらいは

         無条件で愛してあげたかった


    命を煌めかせて燃える

          彼らと同じように


        生代
            くしく



  ねぇ
      僕が



『明日もし僕が死んだら泣いてくれる?』





    自己否定

         自己満足ばかりで


  何もできない

          何もできない僕のために


    せめて自分の信じたことくらいは


   信じてあげなきゃ
            いけなかったのに



『こんどはこたにわりやのごとばかりで
         くるしまなあよにうまれてくる』



  今度はあなたの幸福のために

     今度は僕の心のために



   『偽善でだってかまわないから』





   嘘をつかずに



    生まれてきたいな




                    なんてね
時雨ノ宮 蜉蝣丸
2014年11月20日(木) 17時14分43秒 公開
■この作品の著作権は時雨ノ宮 蜉蝣丸さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
変な当て字してますが意味的には読んで字の如くです。
後半出てきた東北弁は宮沢賢治「永訣の朝」より。

最近こんなことばっかり考えてて辛いです。

この作品の感想をお寄せください。
No.7  時雨ノ宮 蜉蝣丸  評価:0点  ■2014-12-04 13:54  ID:pn2EBTM/3HY
PASS 編集 削除
陽炎 様

コメント感謝致します。

諦めることは、ある種の救いというか、『アクションを起こす』タイプの防御ができなくなった、あるいはし尽くしたが何も起きなかった際の最終手段です。
その環境をどうしようにもないこととして受け入れ、さも通常のことのように考えることで、精神を守ろうとする脳の防御反応。

大抵の人は、諦めようとする人を見ると「まだ早い」と引き留めてきます。けれど、俺からすれば失礼にしか見えない。
本当にまだ何か手段があるなら知りませんが、特に思い付きもしないのに縫い止めるのは、せっかく逃げられそうになった人の退路を断つことと同じです。

残念ながら俺は、まだこの世から手を離す勇気がありません。
これっぽちの幸福かどうかも疑わしい“それ”を棄てられない、色気見せてるだけです。

近いうちにまた、前みたく風景的な詩が書けるようになりたいです。
ありがとうございました。
No.6  陽炎  評価:30点  ■2014-12-02 08:10  ID:OJmj6OeLU/s
PASS 編集 削除
遅ればせながら、感想を

死にたくなる気持ちと、殺したくなる気持ち
わかるような気がします

特に自分が苦しいとき
正論ばかりを並べ立てる人
一見励ますような顔をしながら
却って余計に追い詰めていることがわからない人

それに腹が立って仕方がないのに
自分を責めることしかできない自分

この詩に描かれていることが
蜉蝣丸さんのいまのすべてではないでしょうが
痛々しい言葉を吐き出さなければならない
その辛い気持ちがにじんでいるようでした

来世ではしあわせに生まれてきたい
という思いは
裏返して見れば
生きているいま現在にはなにも期待していない
諦めました、と云っているように思えたからです

疲れた時は休んで
辛くなったら、少しでも吐き出して

いまの自分と、付き合ってあげてください
No.5  時雨ノ宮 蜉蝣丸  評価:0点  ■2014-11-25 00:46  ID:2yvcLrrqfRc
PASS 編集 削除
遅くなってしまい申し訳ありませんが、お返事させていただきます。



笹竜胆 様

コメント感謝致します。
たとえばそこが、冷たい水底であったとして、俺は浮き袋を無くした魚だったり、揺蕩うことのできないマリモだったり。
仄暗い水を捨て去ることを、一番の目標にしてみようかとか考えてみたりもします。
いつか前を向くことにも、振り返ることにも怯えないようになりたいです。
ありがとうございました。



菊池清美 様

コメント感謝致します。

最初に「永訣の朝」に出会った時、何と美しい詩だろうと心底感動しました。
結構前から宮沢先生のことは尊敬していたのですが、銀河鉄道と同じくらい衝撃を受けた作品でした。
こんなにも透明に誰かの死を描ける人を、俺は宮沢先生含めほんの数人しか知りません。霙のように脆い、推敲などしようものならば、すぐに壊れてゆくでしょうね。

俺にとっての「作品」は、楽しみであり勝負でもあります。毎回言葉と戯れながら、その人の一番柔く嫌な部分をどう抉ってやろうかとか、逆に一番深い傷はどう撫でてやるべきだろうかとか、そんなふうに考えています。単純に戯れただけなこともありますが。
何にせよそれで壊れてしまうには、まだ早いかもしれないですね。
ありがとうございました。



A 様

コメント感謝致します。

ここまで読み込んでいただいて、何だかここまで読めるような代物だっけ……? とか思ってしまいました。
人間、勧善懲悪を徹頭徹尾貫くなんてまず無理です。けれど周りは、必ず「どちらの人間であるか」を追求して偏らせようとしてきます。
それは、対象が自身の味方で同じ価値観を持つ同類かどうか、見極めて『to be or not to be?』の概念に当てはめようとしているからではないかと俺は考えます。この詩で言う、「嗤う人であるか否か」「嗤う人である『僕』は殺されるべきか否か」は、この理論を基にして在ります。
だからこその、Aさんの「『嗤う人である僕』を肯定してあげるべき」というのは、一種の諦めであり、今似たような境遇で泣く人全員が掛けられるべき「理解的な愛」の形なのかもしれません。

純粋って案外、二面性を秘めてる言葉ですよね。しかし、偉そうなこと言っちゃったなぁ……。
紹介していただいた本、読んでみます。何か凄そうなタイトルですね。
ありがとうございました。



逃げ腰 様

コメント感謝致します。
改行詩ですか、ありそうで無い感じですね。
確かに改行しまくってるあたりはエキスパートかもしれないです(笑)

やっぱり中途半端に長くなるんですよねぇ……ここはもう割り切ってしまおうか。
この半端具合も実は、心理的な何かによるものなのかもですね。
ありがとうございました。
No.4  笹竜胆  評価:30点  ■2014-11-22 10:29  ID:cPyn82F0Qb6
PASS 編集 削除
拒絶への拒絶、受容への受容。
根を詰めずに上がっておいで。
冷たい水は長く浸かるものじゃないよ。
No.3  菊池清美  評価:50点  ■2014-11-21 05:39  ID:te6yfYFg2XA
PASS 編集 削除
今度はこんなに我の事ばかりで苦しまない様に生まれて来る…
病弱で生まれたのも自分の所為だと言わないばかりですね、賢治で無かったらこの言葉の重さに気付かなかったかも知れない。

末期の水…もう冷たい水しか受け付けない体、雨ゆじゅとてちてけんじゃい…妹が呉れた最後の仕事、霙の日で良かったですね。

賢治も啄木も郷土の詩人ですが其れで身を立てる気は無かった思います。
詩とは知性の遊びでしょうか、思い詰めない方が良いかも知れません。
   
No.2  A  評価:20点  ■2014-11-21 03:24  ID:pA0QzJ9KbiA
PASS 編集 削除
拝読させて頂きました。

もし、「僕」が嘘をつかずに生きるとしたらどうなるのでしょう?「僕」は自分以外の者が生きる事は肯定出来るが、「僕」については生きる事が肯定出来ない。むしろ殺意を抱いていて、(死にたい)と感じている。この詩では、「自分以外の者」の生の肯定と、「僕」の生の否定の間に、「生きようとするひとを嗤うひと」というものへの殺意が描写されています。「僕」の生を肯定するには、「生きようとするひとを嗤う人」に「僕」が勝つ必要があるのだろうな、と思いました。この詩でも「嗤い」に対抗して「偽善」が掲げられますが、「偽」という語がついているように、「僕」はそれを純粋に善なるものと信じられないでいる。何故か?実は、「僕」だって「嗤う人」なのではないでしょうか?だから、「僕」は「嗤う人である僕」を殺したいし、「嗤う人である僕」は「僕」を「偽善者」と呼ぶのではないでしょうか。「僕」は「嗤う人である僕」を肯定してあげるべきだと思います。それは「死にたい」という気持ちを肯定する事であり、「殺したい」という気持ちを肯定する事でもあります。「嗤い」のない「純粋さ」はあるのかもしれませんが、それに我々は癒されるかもしれませんが、僕はそれが全てではないと思う。そうでなければ、世の中ピーチクパーばかりになってしまいますからね。いや、もしかすると「僕」は「嗤う人」を超えて純粋な何かを生み出す事が出来るかもしれません…「僕」は生み出せるでしょうか?

追記

江川隆男の『超人の倫理』という本があります。機会があれば読んでみてください。
No.1  逃げ腰  評価:50点  ■2014-11-20 23:42  ID:IrIj9PJlmeE
PASS 編集 削除
改行詩なる新語を作りました笑
そのあたりエキスパートということで笑

それゆえ少し長い印象を他の人は受けると思いました、僕が思っただけですが・・・
個人的にはもっと長くても僕は楽しかったですね
総レス数 7  合計 180

お名前(必須)
E-Mail(任意)
メッセージ
評価(必須)       削除用パス    Cookie 



<<戻る
感想管理PASSWORD
作品編集PASSWORD   編集 削除