ある男の覚書
 創作について考えるとき、私は、自分が自尊心でものを書いているのではないか、という気がして、血が冷たくなるように感じることがある。
 童話をつくっていて、美しい描写を思いついて、それがイメージ通りかそれ以上に書けているときも、ふと、こういう描写を書くことで、私は、芸術に携わっているつもりになって、自尊心を満たそうとしている。そう思うと急に覚めてしまい、書いたもの全てがつまらないものに見えてくる。
 全てつまらないものなら、自分が今まで書いて、それで達成できたと思っていたのは、一体何だったのだろう。 私には創作に取り組む理由がある。それは、私にしか知らない、私にしか分からない理由である。しかし、自尊心を満たすためにものを書いている自分に直視できないから、その理由にすがりついているだけのことかもしれない。
 苦しい。

 書くということは、私にとって、心に球根を植えて、それが芽を生やして花を咲かせるまで待つ作業である。
 花を咲かせない球根もある。
 そこから咲くかもしれない、グロテスクな花を私は見たくない。
 それはかすかに芽を生やしたまま、根を私の心のなかで伸ばしていく。
 心は蝕まれていく。
 私は、それが完全な開花を遂げたところをイメージする。
 そして、それを思い切り心から引き抜いてみる。
 根は、心の隅々にまで侵食している。
 それが無理に引き抜かれたために心は夥しい血を流す。
 しかし私は是非そうしたいと思う。
 その花を引きちぎって、夥しい心の血にまみれながら、立っていたい。
 もしそれがかなうなら、私は書かなくともかまわない。
新地
2011年01月30日(日) 01時23分14秒 公開
■この作品の著作権は新地さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
あまりにひどい内容なので投稿しようか迷いましたが、やはり意見を聞いてみたかったので、載せます。
私が思うほど、読む人にショックを与えないかもしれませんし……というより、その可能性のほうが高いですよね。

この作品の感想をお寄せください。
No.6  笹原咲倉  評価:30点  ■2011-02-15 15:56  ID:lkU71LnoveU
PASS 編集 削除
自尊心で書いているのではないか、という考えに惹かれて読みました。
昔の作品を読み返すと消してしまいたくなる。それは作品を完成させた恍惚から冷めて、他の誰よりも自分が傲慢さを作品に嗅ぎ取るから、という経験が多々あります。
ですが、基本的にスイートピーのような清楚可憐な花より一輪で存在感を放つ南国系のグロテスクな花のほうが好きです。
自分のものではない作品に関しては、理性で押さえつけようとする間からこのグロテスクな花が覗いていると、とても趣深く感じます。
新地さんが花を無理やり引き千切ったとして。
それが血に塗れてよりグロテスクな姿になっていたとして。
私は大切なものを扱うように、そっと代わりの土に植えてやりたいと思います。

比喩的な感想、失礼しました。
No.5  新地  評価:0点  ■2011-02-12 03:52  ID:dfFBWEwzjz.
PASS 編集 削除
陽炎さん<
いえ、拙いなんて……。ありがとうございます。

私は、むしろ無私にものを書きたいなぁと考えています。
ですが無私どころか無心にもなれないので、書くときに自分で自分を苦しめてしまうことになります。
まあ、血の通った人間なら当然ですが。
死んだ人間しか作家にはなれない、という名言を思い出しますね。
No.4  陽炎  評価:30点  ■2011-02-09 21:10  ID:AmGH0NyvUK2
PASS 編集 削除
拝読しました
自尊心のために書いてると思ってしまうと
確かに冷めてしまいますね

ただ、私なんかはグロテスクな花こそ
ぜひとも見てみたい、読んでみたいと思ってしまいます

夥しい血にまみれ、七転八倒しながら
それでもこれが書きたいんだという意気込みみたいなのを
読む側に感じさせることができたら
めっけものなのではないでしょうか

拙い感想で申し訳ないです
また読ませてください
No.3  新地  評価:0点  ■2011-02-03 21:58  ID:DlrHOQu0rww
PASS 編集 削除
zoonyさん<
ありがとうございます。
これはまあ……その、言い訳ではないですが、覚え書きなので、ブログに書いていたものを一字一句校正せずに載せました。
よく読んでみると、自分の真情が現れているな、と。それで私が感じるように人が読んで感じるものか、知りたくなりました。
その分、未熟さがあらわになった形でお恥ずかしいです……。

なにかが閃いて、衝かれたように書き出す、というのが私の創作へのイメージなのですが、そうして書かれたものが、私にとっての「花」です。
その「花」が咲くまで、「題材」は心に居座り続けている。
居座り続けていると私は苦しい。
しかし花が咲くと苦しさは消えていく。
しかし、もし、そんな手続きを踏まなくても「題材」を心から引き千切ることが出来たら。
というのが、二段落目の真意です。こう言っても分かりづらいかもしれませんが、生きたまま自殺したい、という心理です。
それにしても、こんな殴り書きで、真意に気づけというほうが無理ですね。

感想を聞いてみて、あらためて作品として出すべきではなかったと感じました。しかしこの話が出来ただけでも載せた甲斐はあっただろうと思います。

Fnoonさん<
うーん、確かにこの文章は匂い立たないですね。
最近は、詩らしい文章はまったく書けなくなりました。
詩として文章を練っていると、自分の真情から外れていくようですし、そうして練っているうちに、好きな詩人の構成を真似ているだけになってしまったり。
その真似というのも、意識的にやっていればそれなりに見れるものになるんですが、気づいたら似てくる、という場合は、見れば見るほどグロテスクに思えてきます。まあ……非常に難しいですね、詩を書くのは。

ありがとうございました。
No.2  Fnoon  評価:20点  ■2011-02-03 20:19  ID:lyoIOi/aNj6
PASS 編集 削除
ひどく、はないと思います。
創作の類は自慰と同じようなもので、べたっとそこに張れば、匂いたつようなものもあるし、匂いたたないものもある。
匂いたつものを書くには、自分の核――経験とか感性とかそういう類のもの――から根をぐさっと引きちぎっていかなければならないと思うんです。
「夕暮」を書くときでさえ、それは自分の蓄積であり、蓄積でなければならないんです。

ってことか!?とzooeyさんの解釈を当てはめてみました。

ショッキング的な内容ではないと思いますよ。

詩であるなら、一語一語をどう表わすか、が大事になってくると思います。
No.1  zooey  評価:30点  ■2011-02-03 18:39  ID:qEFXZgFwvsc
PASS 編集 削除
読ませていただきました。

書き手の(ご自身の?)心理を深く掘り下げた、興味深い作品ですね。
自尊心を満たすために書いているだけではないかという、自分への恐れ、
なんとなく共感しました。

後半は、何度も読み返して意味を考えたのですが、
「グロテスクな花」というのは「自尊心の花」なのでしょうか。
それを心から引き抜く、というのは、自尊心に浸食された心から、
その根を抜くということ?
読み違いだったら大変失礼なのですが、
そう思って読むと、暗い中に情熱を感じるような比喩表現と感じます。
すごくいいと思います。

ただ、少しわかりにくいので(私の読んだ通りだとすればですが)、
たとえば

 私は 見たくない
 グロテスクな花 自尊心の花
 私の心に 根を伸ばし 蝕んでいく花を

みたいな感じにすると、伝わりやすいかなと思いました。

あと、詩と文章の中間のようなイメージでした。
詩であれば、前後のつながりよりも、リズムが大事になると思うので、
言葉は最小限に抑えて(指示語や接続語、「~だ」「~である」などの表現はあまりいらないと思います)、
そのかわり、もっと、「音」を大事にするといいかなと。

と言っても、私はまだ1作しか詩を書いたことはないのですが(笑)
私のほうこそ、分をわきまえてないですね^_^;
ただ、伝えようと思ってらっしゃることは、とてもいいものだと思うので
少しもったいない気がしてしまって……。
また、小説のほうも読ませてください。
では(^o^)丿
総レス数 6  合計 110

お名前(必須)
E-Mail(任意)
メッセージ
評価(必須)       削除用パス    Cookie 



<<戻る
感想管理PASSWORD
作品編集PASSWORD   編集 削除