霊界放談
「皆さん、ご無沙汰しておりました。霊界の宣伝マン、笹山哲郎です。こちらに来てなんやかや、ばたばたしていましたが、どうやら少し落ち着いたので、少し、仕事でも、まあ、しようかなと言うことで、今日から『霊界放談』と言うのが始まります。
 もっとも、『今日から』と言うのは、あくまでそちら側の話でであって、こちらでは日にちとか関係無いんですな。うん。今日は、私が、かねがね、お話伺ってみたいと思っていたお二人にお越し頂きました。
 凄いよ。ふふ。おふたりとも”超”と言うかね,桁外れの大物。うん。霊界の宣伝マンとしての、生前の、私の働きに免じて、来て頂けたと言うことかな。恐山のイタコだって、なかなか難しいわな。このおふたりを同時にお招きするのはね。
 あ〜。私が、いつまで喋っていても仕方がない。早速ご紹介しよう。平将門公と織田信長公です。」
将門「宜しく」
信長「わしも、笹山さんには、会いたいと思っていた。」
笹山「いやいや、びっくりしました。普通ですな。私がこの間まで行っていた世界では、信長公なんか、鬼のように恐ろしい人と思ってる人が多かったから、いきなり『無礼者、誰にものを申しておるか!』って怒鳴られるかと、じつは心配していたんですな、うっふっふ。」
信長「いや、実はわしは、本来優しいんだ。信じないかも知れんがな。ただ、時代が時代だったから、身近な者達には、恐れられていた方が、何かと都合がいい。下々には結構人気があったぞ。何しろ、わしの領内では、盗人もいなくなるし、関所や座にいちいち銭を取られなくても済むようになるからな。
 その方らの時代で分かりやすく言えば、財界(堺の商人)や、しこたま貯めこんでいる大宗教法人(石山本願寺)から税(矢銭)を取り、中小企業(小商人)の税負担は軽減したと言う訳だ。
 ところで、話は別だが、わしは、越前織田の荘の剱(つるぎ)神社の神官の末だ。しかし、将門公などは、桓武天皇五世の孫だから、別に帝になっても良かったんだよな。何も悪くない。」
笹山「そうそう、将門公は、”新皇”と名乗ったんでしたね。」
将門「お蔭で、向こうの世に居た期間は短かった。信長の殿は50年近くも向こうに居た訳ですな」
信長「それこそ、”敦盛”の一節じゃないが、人間50年に少しだけ足りんかったが、あっと言う間に過ぎて、やりたいことの半分も出来なかった。」
笹山「そこで、おふたりにお聞きしたいんですが、それぞれ、最終的に何を目指していらしたんですかね。まず、将門公から……」
将門「う〜ん。はっきり言って、成り行きだったんだな。
 都で栄達の見込みがない者がどうするかと言ったら、地方に根を張って、経済基盤を確立し、それを子や孫に引き継いで行く。それしか無い訳だ。
 だから、祖父や父は一所懸命荒地を開墾し、領地を広げていた。麿もそうした。土地は命と同じと思っておった。
 ところが、都から戻ったのち、叔父たちと土地のことで争わざるを得なくなってしまい、それが、あっと言う間にたいそうなことになってしまったと言うことかな。」
笹山「朝廷に取って代わって、日本の主になろうと思ったのは、どの段階なんですか?」
将門「いや、最後まで、そうは思っていない。
 当時、朝廷は藤原氏に牛耳られていて、上から下まで、物でも貰わなければ何もしないと言う状態だったから、せめて、坂東だけでも、少しはましな政をしてみたいと思うようになったことは事実だが、その後のことまでは、正直考える間もなかった。」
笹山「例の”除目(じもく)”の頃ですか?やはり、興世王(おきよおう)の入れ知恵と言うか、その辺が大きかったんですかね。」
将門「朝廷のことに詳しいのは興世王くらいしかいなかったから、有職故実、祭事については、もちろん、全て興世王の意見に従った。
 だが、朝廷のやり方に大いに不満があったのは、何も麿だけではなく、坂東に土着した者のほとんど全てが、不満を持っていたと言っても過言ではなかろう。
 だから、麿、ではなく、他の誰かが先に立っても、遅かれ早かれ、ああいった事件は起こっていたと言うことだ。
 例えば、俵の藤太(たわらのとうた=田原()の住人郎秀郷)が麿の立場に立った可能性も無いとは言い切れない。藤原だから、新皇は名乗らなかったろうが、坂東を制圧するくらいは有り得た。(後の奥州藤原氏は天慶の乱を鎮めた藤原秀郷の子孫を称する豪族である。)
 内輪のもめ事から、たまたま麿の武力が知られるところとなり、麿が担がれることになっただけだ。藤原玄茂(はるもち)や玄明(はるあき)、平真樹らは熱心であったな。そして、形を整えたのが、興世王と言う訳だ。
 あ、それから、藤原玄明のみ、ごろつきみたいに後世描かれているようだが、大差ない。藤原玄明も玄茂も、立場は違うが、俵藤太、つまり藤原秀郷でさえも、同じ豪族であり、官に反抗するようなこともやっている。
笹山「道真公を介した、八幡大菩薩の神託については?」
将門「上ツ毛におるとき、八幡大菩薩が帝になれと神託を下した件な。
 ……あれな。あれはな、人々にこだわりなく受け入れさせる為には、策が必要ということだ。不必要なもめ事を起こさなくて済む。……もっとも、これも興世王の受け売りだがな。」
笹山「はっきり言って、”やらせ”は承知の上だったと言うことですな。」
将門「そうだ。やむを得んと思った。」
笹山「まっすぐで、嘘の付けない人と思ってましたが……」
将門「作り事、作り事。そういう役にしたんだろう。」
笹山「なあるほど……。当時でも、何でもかんでもみんなが信じていた訳じゃないんだな。しっかり、政策として使っていた訳だ。
 お待たせしました。ところで、信長公の方は?」
信長「第六天魔王信長と申す」
笹山「はっはっはっ。恐れ入ります。それ、生前にご自身で仰ってるんですよね、確か……」
信長「そう、そう。自分で言った。魔王にでもならにゃ出来んことを、色々やっとるからの」
将門「麿は、死んでから怨霊と言われたわ!」
笹山「はいはい。首が京から坂東まで飛んで来たりして。」
将門「麿の首は空飛ぶ円盤か!」
信長「いや、公は随分新しいことをご存じで。感服仕った。」
将門「ところで、命(みこと)は、”自ら神であるとして、石を拝ませた”と異国の坊主に書き残されたそうな。」
信長「ハ見寺(そうけんじ)に”盆山”という庭石のようなものを置いてな、わしが神で、”盆山”はわしの身代わりだからと言って拝ませたという話か?
 将門公の”八幡大菩薩のお告げ”と同じことよ。
 わしは神官の子孫のくせに、本来、神や仏に手を合わせると言うことが大嫌いだった。そのわしが、自分は神だから代わりに石を拝めと言うのも随も分変な話と思うだろうが。あの頃から気が変になっていたと言う者も居る。わしが人と違うのは最初からで、何も、あの頃始まった訳ではない。
 本気で自分を神にしようと思ったなら、石などではなく、黄金の等身大の信長像でも造らせたわ。要は、石像はただの石、大仏は金を塗った金物に過ぎん。だから、盆山も神と思えば神ということじゃ。
 拝ませた理由は簡単。“信心”と言うものの恐ろしさを嫌と言うほど味あわされたからだ。
 本願寺の信徒など、飛蝗の大群を叩き落としているようなもので、殺しても殺しても、後から後から湧き上がるように進んでくる。これは、正直恐ろしい。死ぬことを何とも思っていない人間ほど恐ろしいものはない。
 あれから比べれば、信玄も謙信も者の数ではないわ。・・・言い過ぎか?うん。
 だが、考えてみれば二人とも、この罰当たりな信長が危機一髪の時に、揃いも揃って死んでくれおった。まさか、天がわしに味方する訳もないのにな。何しろ、謙信など、わしの千倍も万倍も信心深かったし、信玄も一応坊主になっておったのだから、加護があるなら、あの時謙信や信玄でなく、わしが死んでいて当たり前だろう。
 ところで、安土に城を築いた頃から、わしは自分の生きる時間があまり残されていないことにあせりを感じるようになっていた。
 元々人間50年と割り切ってはいたが、永禄3年。27歳の時、運良く、田楽狭間で今川義元に勝つことが出来て以来、わしは、戦国の世をこの手で終わらせたいと思うようになった。
 その頃、わしなど数ある武将の中では、者の数にも入っていなかったろう。また、尾張兵は甲斐や越後の兵に比べて、まったくの弱兵であった。
 しかし、誰かが終わらせなければ、戦乱の世は果てしなく続く。わしがやってみせる。何の裏づけもなく、漠然とそう思った。
 そして、その時、必要なら鬼にも魔王にもなってみせると決めたのだ。
 越前に居た将軍義昭からの使い、明智光秀がわしの前に現れた時、それが実現出来ると確信するに至った。永禄11年。35歳の時。残り15年で何としてもやり遂げなければならない。出来るか?とてつもなく困難だ。やはり、魔王になろう。そう思った。
 そんなわしが、本気で自分が神だなどと思うか?”盆山”はただの石だ。それと同じように、地蔵もただの石だし、大仏もただの金(カネ)だ。いずれ、それを皆に分からせてやるつもりだった。そのために、とりあえず拝ませた。分かるか?」
笹山「長島、石山本願寺攻め、叡山焼き討ち、伊賀攻め・・・。みな、第六天魔王の仕業と言う訳ですな。」
信長「だが、安土までで10年かかった。倒すべき敵はまだまだ居る。残された時は少ない。もはや、第六天魔王くらいでは間に合わなくなった。あの嘗ての本願寺信徒が仏を信じたように、皆がわしを神仏のごとく崇めれば、5年かかって出来ないことでも、2~3年で出来る。そう思ったが、気持ちが追いつめられていたとはいえ、これはわしにしては全く浅はかで馬鹿な考えであった。
 だが、皆の力を集める方法はもうひとつあった。朝廷だ。足利将軍など及びもつかぬ、桁外れの力を秘めている。これをうまく使うしかない。そう思ったのだ。
 しかも、太政大臣だの征夷大将軍を有り難く拝命するなど、悠長なことをやっている場合ではない。わし自身が帝になるくらいでないと、思うように、しかも余命があるうちに国中を平らげることなど出来ない。そこまで考えたのだ。」
将門「麿の場合は持ち上げられて、どさくさ紛れにと言う感じだったが、命(みこと)は確信犯的な朝敵ですぞ。」
信長「はい。しかも、公と違ってわしは皇孫でもない。将門公の場合は、れっきとした桓武帝五世の孫。男大迹王(おおどおう=継体天皇)よりも血筋ははっきりしているのだから,もし成功していれば、日の本の歴史は変わっていた。
 しかし、公が運悪く、早々に討死されてしまってから、”朝敵は必ず滅ぶ”と言う思いが世に強くなってしまい、腐れ公家どもでも何とか朝廷を担いで来られる下地が出来上がったと言う訳だ。」
将門「済まぬ。・・・いや、そう言うべき事柄ではないか。
 ああ、そう言えば、命(みこと)も”平三郎(たいらのさぶろう)”を名乗りとされておったのう。吾家系という訳か?」
信長「いえいえ、わしの時代の多くの武士は、源平藤橘を勝手に名乗っていましたから。特に成り上がり者は。
 わしは、藤原を名乗ったこともある。
 松平とて、最初藤原を名乗り、その後、上野(こうずけ)で新田源氏の末となる”徳川”の名を拾ってきたようなものじゃ。仲介したのは、近衛前久。
 さっきも申した通り、我が家はもともと越前の神官の出で、本姓は” 忌部(いんべ)”だ。これとて、実際は分からんがな。」
笹山「ところで、将門公は”易姓革命”はご存じだったのでしょうか?」
将門「弟のひとりが学問好きだったので、唐の書物を師から借りて、書き写したりしておった。
 皇帝の運勢が衰えると、天が次に皇帝となるべき者に命を下すとか。しかし、麿にそれを教えてくれた弟が、”新皇”を名乗ることには、最も強く反対した。”トツクニと我が国は違う”と言ってね。」
信長「わしも勿論知っておったが、この国の朝廷はなかなかに強い。武力ではない。権威だ。 それで、結局、わしも朝廷に殺された。」
笹山「明智光秀ではなく?」
信長「光秀など、足利幕府を再興して、その要職に就こうと思っていたぐらいで、他人が考えもせぬことを、考えられるような奴ではない。頭は良いが融通の利かぬ石頭だ。
 腐敗して内紛ばかり起こし、天下を統べることが出来なくなり、応仁の乱を引き起こした足利幕府を再興してみてどうすると言うのだ。
 そんな男に、己一人でわしを倒そうなどという度胸があると思うか? 
 足利義昭めが、朝廷に、誰ぞを通じて言立てたのであろう。そして、『帝も、信長のことでは、御心が休まらないご様子』などと言って、朝廷の名を出して光秀を唆したのであろう。正親町(おうぎまち)帝には、わしがご退位を迫ったこともあるしな。
 本能寺の一件は、朝廷の了解のもとだが、失敗した時を恐れて、光秀ひとりの考えと言うことにしたということだ。
 万万が一の場合でも、すでに生きる屍同然の足利義昭までで留める条件だったに違いない。
  朝廷も、近衛前久(このえ さきひさ)あたりから、安土の城に、「天守」ではなく、「天主」と書かれた額が掛けられていると聞いて跳び上がっていたところだったのだろう。」
 笹山「しかし、本能寺の変後、光秀は朝廷工作にかなりの金を使ったらしいが、はかばかしく行かなかったようですが。」
信長「朝廷と言うところが、どう言うところか、将門公にも伺って見ると良い。
 少しでも危ないことには近寄りたくないし、都合の悪いことは人のせいにし、言ったことでも都合が悪くなればしらばっくれる。そんな、公家どもがうじゃうじゃしておった。
 大方、光秀の人気が思いのほか良くないので、様子見を決め込んでいたのであろう。
 金柑頭(光秀)が猿(秀吉)に負けた時、様子を見ていて良かったと、胸を撫で下ろした奴も多かったはずだ。
 話は前後するが、最初公事に詳しい光秀を朝廷対策にあたらせたが、結局公家どもに取り込まれそうになったので、むしろ、そんなことは全く知らぬ猿に変えたことがあったな。あれで正解。相手が猿では、いくら公家どもが丸め込もうとしても無理であったわ。」
将門「さもあろう。さもあろう。
 ところで、所詮ふたりとも、この国では受け入れられぬ運命であったと言うことか……な。」
信長「いや、光秀の心を読み切れなかったのは、わしの失策じゃ。」
将門「麿も、常平太(じょうへいた=陸の住人平太郎貞盛)を甘く見過ぎていた。うん?いやいや、そのまま続けて。」
信長「光秀は、叡山焼き討ちについても、ずいぶんと悔いが残っていたのであろう。
 しかし、多くの荒法師を抱え、強訴によって朝廷さえも脅かす寺でらの勢力を根絶やしにせん限り、この国の統一は出来んと言うことが、あ奴には分からなかったのだ。
 大大名なみの武力を持つ、寺社を残したままでは、何を変えることも出来なかった。
 しいて言えば、わしが一番、やったぞと思っているのは、そこのところだ。
 実際の評判は真逆のようだがな。このことについての評判は最悪らしいな。 だが、猿と徳川だけは、分かっていたと思う。
 余談だが、猿のやったキリシタン禁令も朝鮮攻めも、もともとわしの考えの中にあったのだ。猿はそれを知っておった。キリシタンを放っておけば、いずれ乗っ取られる。戦がなくなった後、戦しか出来ぬ無骨者どもがあふれていたら、不満を持ち内乱を起こす。外に出すしかあるまい。しかし、問題は時期とやり方だった。」 
笹山「なるほど。ところで、信長公は宗教、特に仏教嫌いということでしたか?」
信長「いや、何を信じようと、それはひとの勝手とわしは思っている。ただ信じているだけならな。それを力として使うことが許せんだけよ。財を築き、武力を持ち、権威付けをして民を操る。すでに腐っておったわ。
 だから、命がけで海を越え布教に努める伴天連どもの方が純粋に見えた。また、南蛮はわが国に比べて進んでおったから、話を聞くのが楽しかった。
 しかし、学ばなければ、いずれやられてしまうだろうとも思っていた。あ奴らに勝つために学ぶことが必要だった。後世、坂本龍馬という者も同じように考えたようじゃが。
 叡山に突き付けた最後通牒と同じように、わしは、オルガンチーノに最後通牒を突き付けたことがある。
 荒木村重が叛いた時、キリシタンである高山右近を味方にするよう命じた。引き受ければ布教を許すが、断れば布教を禁止し追放するとな。
 結果、叡山は浅井、朝倉を匿い、キリシタンはわしの命に従って、高山右近を口説き落とした。だから、叡山は焼き、キリシタンは庇護した。
 しかし、盆山の件と、わしの生まれ日を祝い日として、ハ見寺に参拝するよう触れをだした時には、流石に陰でわしの事を“悪魔”と呼びだしたようじゃ。伴天連どもが。」
笹山「最大の庇護者と思っていた信長公が、実は、自分たちのイエズスと同じになろうとしている。彼らに取って、こんなそら恐ろしいことは、他に無いでしょうな。悪魔と言うのも無理は無い。……いや、失礼つい調子に乗って。」
信長「良い良い。悪魔でも魔王でも、わしは何でも良いわ。」
笹山「なかなか、話が微妙にないって来ましたが、今回はこの辺で。
 ご両所有難うございました。次回は聖徳太子にでも加わって頂けたら、更に興味深い話が聞けるかも……というところですな」
信長「極悪人ふたりと聖人という組み合わせは、どういうものかな?」
笹山「いやいや、おふたりとも、極悪人なんてとんでもない。大人気、大人気。
 ところで、俗界の皆さん。この『霊界放談』なんですけど、言っておきますが、地デジ用のアンテナ立てたって観られないから注意してくださいよ。
 必要なのは『霊感アンテナ』それじゃ、また」               (消滅)
青木 航
2011年01月15日(土) 03時52分28秒 公開
■この作品の著作権は青木 航さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 小説じゃないと言われそうです。変な作品で申し訳ありません。

※下総に勢力をつちかっていた将門は東国で同族間の私闘を続け、935年(承平5年)伯父の国香を殺し、次いで939年(天慶2年)常陸国司に抵抗した藤原玄明を助けて常陸の国府を襲撃し、公然と朝廷に反抗するに至った。ついに関東8国を手中に収め、新皇と称した。翌年、朝廷の鎮圧軍が到着する以前に、藤原秀郷や平貞盛のために敗死。

※継体天皇(けいたいてんのうは第26代の天皇。『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。
506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため大連(おおむらじ)・大伴金村らは越前に赴いて、武烈天皇とは血縁の薄い男大迹王をヤマト王権の大王に推戴した。これを承諾した王は、翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。

 戦後、現皇室は継体天皇を初代として樹立されたとする新王朝論が盛んになった。それ以前のヤマト王権との血縁関係については現在も議論が続いている。(ウィキペディア)

※除目(じもく)とは平安時代以後行われた大臣以外の官を任ずる朝廷の儀式で、除目を行えるのは当然朝廷のみである。

※興世王(おきよおう生年不詳 - 天慶3年2月19日(940年3月30日))は平安時代中期の皇族。出自は不詳だが、桓武天皇の後裔で、宮内卿・高枝王の孫とする系図がある[1]。承平天慶の乱の首謀者の一人。官位は従五位下武蔵権守、将門私授上総介。







この作品の感想をお寄せください。
No.5  Phys  評価:30点  ■2011-01-27 10:51  ID:FrzK3tXpZ4M
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拝読しました。

歴史の漫画を見ているようで、とても楽しめました。
学生の頃、私は日本史が大嫌いだったため予備知識は
ゼロに近いのですが、さすがに信長や将門の基礎的な
情報くらいは知っています。そんな私でも読めたので、
そんなに読む人を選ぶわけではないのかなぁ、と思い
ました。たまに語りが単調になり、動きがないように
感じられるところもあったものの、概してスムーズな
筆運びだと思いました。

確かに小説ではないのかもしれませんが、少なくとも
教科書を読むよりは参考になったので、勉強になりま
した。ただ、どこまで史実と整合性があって、どこか
らが創作なのかという線引きが私は難しかったので、
(八幡大菩薩の神託がやらせ、というのは合意が得ら
れていることなんでしょうか?)みなさんが仰られる
ようにどうせなら完全創作に近い作品に仕上げてしま
ってもよかったのかもしれません。

いずれにしても、教養のある方だとお察しします。
歴史の楽しさを伝えてくれるような、素敵な物語を
期待しています。また、読ませて下さい。
No.4  青木 航  評価:--点  ■2011-01-19 23:38  ID:JIcKmB8A7uc
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 皆様小説にもなっていない拙作に貴重なご講評ありがとうございます。直せる部分は直させて頂きました。
 ただ、最大のポイントである全体を小説にする力がありません。いずれ、部分的にはそうしてみたいと思っております。
No.3  かなたん  評価:20点  ■2011-01-16 19:21  ID:iJiFGoenU4w
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読みました。
設定が面白いですね。かつ、過去の人物なのにポップな語り口というギャップも良い方向に働いていたと思います。
が、歴史が苦手なぼくとしては、イマイチ面白さが伝わりませんでした。
知識を持っている人だけに限定してしまう面白さというのは、もったいないと思うのです。
幅広い読者さんに読まれ、楽しんでもらうには、色々な工夫が必要だと思います。
たとえば、物語。
もっと人物を動かし、語らせ、ドラマを作る。
そういった蘊蓄以外で魅せる工夫をすれば、さらに面白くなるのではないかと思いました。
では。
No.2  k-suke  評価:30点  ■2011-01-15 21:54  ID:lNnl8BDOAHo
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 はじめまして。
 楽しく読ませて頂きました。確かにジャンル分けは難しい作品ですが、面白いということに間違いは無いです。歴史上の人物をこういう風に扱うのは新鮮だと思います。他のバージョンも見てみたいです。

 あと、筆者さんの意図とはズレてしまうかもしれませんが、ただ単に対話というでけでなく、対話したことによって史実が変化するとか、お互い入れ違った時代に帰ってしまうとかがあると更に広がるのではないか、とも思いました。
No.1  ゆうすけ  評価:20点  ■2011-01-15 12:29  ID:ySrKhKJdka.
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拝読させていただきました。
う〜ん、位置づけが難しい作品ですね。
なかなか踏み込んだ歴史解釈が面白く、信長らしさがでていていいのですが、これを楽しむにはある程度の知識が必要であり、興味がない人は素通りしそうですね。戦国ファンである私は信長部分は楽しめましたが、将門部分は分かりませんでしたし。
歴史解釈が語られるだけであり、物語としての盛り上がりやオチがないのも残念です。小説なのですから、作者さんならではの無茶な歴史解釈があってもいいのではないかと思いました。

戦国武将ファンとしては、武田信玄と上杉謙信(実は愛し合っていたなどのオチをつけて)とか、信長秀吉家康(最後は取っ組み合いの大喧嘩)とか、読んでみたい気もしますが、マニアックになるほど読者を選んでしまうのが、難しいですよね。
総レス数 5  合計 100

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