静かに消えていく
     1

 久しぶりに見た姉は、死んでいた。
 黒い棺の中で、冷たくなって横たわっていた。
 綺麗だった顔を触るとひんやり冷たくて、そこに魂はすでになくて、忍にはそれが最愛の姉だとは到底信じられなかった。
 交通事故だった。
 警察の話によれば、夜、バイトからの帰り、姉は突然国道に飛び出したそうだ。ちょうどそこを走ってきたスピード違反の大型トラックに撥ねられ、対抗車線に投げ出され、さらに乗用車に轢かれた。即死だったらしい。辛うじて姉であることが分かるような、悲惨な状態だったそうだ。
 姉、稲葉結音の葬式には、小、中、高、大学のそれぞれの友人、恩師と大勢の人が集まり、姉の早すぎる死を悼んだ。それは姉の人柄を物語っているようでもあった。
 一週間も前のことだ。週に一度は掛かってきた姉からの電話は、もう二度とない。こちら掛けることも――。
 姉は生きていれば、今年の春から国立大学の四年生になるはずだった。姉は小柄で華奢であったが、長く伸びた黒髪に雪のような白い肌をしていた。控えめで、賢く、芯のしっかりした姉だった。そんな姉が異性からもてないはずはなかった。ときどき忍に、男性関係でやんわり相談を持ちかけてくることさえあった。それでも、特定の男性と付き合ったなんて話は、聞いたことがなかったし、そんな素振りさえ見たことがなかった。そんな姉は忍の自慢だったし、憧れでもあった。
 どうして姉さんが、死ななければならないの?
 その思いだけが、忍の頭から離れない。もう何ヶ月も経った気分なのに、それがたったの一週間しか経っていないなんて、信じられない。大学の長い春休みを実家で過ごすことを考えると、気が重くて耐え切れなかった。どこか疲れきったような茫然自失の父も母も見たくなかった。独りになりたくて、忍は一人暮らしをしているアパートに戻った。けれど、部屋にいることも苦痛でしかなくて、行きつけの喫茶店にいた。
 忍は頬杖をついて、ぼんやりとマドラーでコーヒーをかき回す。コーヒーの独特の香りが鼻腔を刺激する。
 街中にある雑居ビルの地下一階、コーヒー専門店『琥珀』――その名の通り、琥珀色のコーヒーを出してくれる。カップの底が見えるほど、澄んでいるコーヒーだ。
 カウンターの一番奥に、忍は座っていた。忍の一番のお気に入りの席だ。カウンターの中では、いつの間にか仲良くなったバイトの佐伯裕人が、黒いエプロンを着けて、白いコーヒーカップを洗っている。コーヒーを淹れてくれたマスターは、奥で焙煎をすると言って、ここには居ない。
 忍は姉について、誰にも言わなかったことがある。
『私がもう一人いるの。それで、その人は、私を見て、ニタッて笑うの。ドッペルゲンガーっていうの……?』
 姉が死ぬ一週間くらい前に、電話で忍にそんなことを言っていた。その後、『なんてね、冗談よ』と、明るく続けたけれど、今思えばその頃すでに姉は、得体の知らない何かに憑かれていたのかもしれない。
 一瞬、嫌な想像が忍の脳裏をよぎった。
 忍は顔を上げて、ゆっくり首を回す。高級ホテルのバーをモデルにしたと言われる店内は、四人掛けのテーブル席が四台、椅子はカウンター席も含めて、全てゆったり座れる革張りの一人がけソファーを使っている。ブラウンを基調とした内装で、薄暗い。いつもと何も変わらない。客は自分以外、誰もいない。
「ドッペルゲンガーなんてね……」
 いるはずない。そんなことと分っている。それでも、そこに立っているような……そんなことを、考えずにはいられなかった。なぜか、すぐそこにいるような気がして――。
 忍は大きく息を吐いて、苦笑する。
「馬鹿らしい。いるわけないんだから」
 姉の通っていた大学の友人から、姉が悩んでいた、様子がおかしかったなどということは聞かなかった。でも、姉は本当に見たのかも知れない。そんなことを冗談で言うような姉でないことは、忍が一番よく知っている。
「え?」
 再び、コーヒーに視線を移そうとしたときだった。視界の端で何か動いた気がした。忍は思わず顔を上げて、目を凝らす。そこには、誰も居ないテーブルがあるだけだった。
「いるわけないよね……」
 店の中には、カウンターの中の裕人と自分だけ。落ち着こうと、コーヒーを飲む。
 もし、ドッペルゲンガーがいるのなら、文句の一つくらい言ってやろう。そうしよう。あんたのせいで、姉さんは死んだんだと。少しくらい気が晴れるかもしれない。
「どうかした?」
 やることがなくなったのか、カウンターを挟んで裕人が前に立っていた。
 裕人は忍の大学の先輩に当たる。といっても、大学では一度も会ったことはない。『琥珀』にしょっちゅう行くうちに、顔を覚えてもらって、親しくなった。こうやって裕人の手が空いたときに話すのは、忍の密かな楽しみになっていた。だが、今は裕人と話すような、そんな気分にはなれない。
「どうもしません」
 忍は裕人を見上げる。心配そうな裕人の顔がそこにあった。
「なら、いいんだけど……。ここんとこ来なかったけど、どうしてた?」
「……姉の葬式に行ってました」
 忍は裕人から視線をはずして、投げやりに答える。そして、カウンターの奥にある棚にずらりと並べてある、豆の入ったキャニスターを眺めて、息を吐いた。裕人が驚いたのが、一瞬息を呑んだので分かった。
 店で流れている、静かなピアノのBGMが、ふっと忍の耳に入る。裕人が動かず、申し訳なさそうに突っ立っているのを、横目で見ながら忍は続けた。
「交通事故でした。道路に飛び出すような、そんな性格じゃないのに。ほんと、小学生じゃないんだから……」
 裕人は「そっか」とただ一言だけ漏らして、何も言わなかった。忍はわざとそれを見ないように、カップを口に運ぶ。
「ここでゆっくりしていけばいいさ」
 優しそうな表情の裕人に肩を軽く叩かれる。
「そのつもりです。私に変な気を使う暇があるなら、何か仕事でもしたらどうですか?」
 忍はわざと語気を強める。裕人が少し困ったような表情を浮かべて、「分かったよ」と離れていった。忍は、裕人に悪いことをしたと思ったが、謝る気分にはなれなかった。
 この日、裕人から話しかけられることはなかった。

 忍が『琥珀』から出たときには、辺りは暗くなり始めていた。時計は五時になろうとしている。冬空はどんよりと曇って、風が少し強い。どこから飛んできた枯葉が舞う。
 忍は国道の横の歩道をゆっくり歩く。寒いことは寒いが、あまり気にならなかった。
 自分の髪の一房を掴んで見た。脱色させた髪は、いつの間にか、肩の下まで伸びていた。ふと、姉の髪を思い出してみる。
 姉である結音は、艶のある真っ直ぐ長い黒髪をしていた。忍もそうなりたかった。髪を伸ばせば、姉と同じようになれると信じて疑わなかった。しかし、いくら伸ばしても結音のようにはならなかった。髪質も似ていたが、どうしても姉のようにはならなかった。
 結局、高校に入ってから、あきらめたなぁ。ばっさりショートにして、色も抜いて……。
 力を抜くと、手の中の髪は風に吹かれた。
 そろそろ、切るころかもね。この気分も変わるかもしれないし――。
 忍は行ってみたかった美容室が、この通りにあることを思い出した。
 結音の印象は、一見、大和撫子を思い起こさせる。本当に、純和風美人の典型だと忍は思う。成人式のときに結音の着た振袖は、全体が雪を思わせるように白くて、足元で弧を描いた紺は波のようであったし、大きく円を描いて散りばめられた淡い桜は、振袖に咲いているようでもあった。紅の帯が純白の振袖によく映えていた。あの黒髪も上げて、赤や白、ピンクの桜を彩った髪飾りを付けた。そして化粧をしてもらった姉は艶っぽく微笑んでいて、それはいつも見ていた姉より、何倍も美しく見えた。忍はそのとき十七歳で、そんな姉に見惚れていた。その半面で、自分にはない、姉の美しさがうらやましくもあった。
 姉のことを考えていると、その美容室の前に来ていた。美容室は雑居ビルの一階にあり、大きな曇りガラスで中の様子はいまいちわからない。
 忍はガラス戸を押し開けて、中に入る。すぐに温かい空気がまとわりついて、空調がよく効いているのが分かる。白く明るく店内は、清潔感に溢れている。大きな窓際に置かれている、大きな観葉植物の緑に目が引かれた。忍の他に客はいない。全ての席が空いていた。平日の夕方だから、こんなものかもしれない。
「いらっしゃいませ」
 受付にすぐ二十代後半くらい美容師がやってくる。細身でローライズのジーンズに、淡い緑のブラウスがよく似合っている。セミロングのナチュラルなヘアスタイルが、とても女性らしく思える。ファッションショップもそうだが、こういうところの店員というのはお洒落だと思うし、そうでなければならないのだろう。
「予約とかしてないんですけど、大丈夫ですか?」
「ええ、構いませんよ。どうぞこちらへ。まず髪を洗いますね」
 コートとマフラー、バッグを預かってもらって、導かれるままシャンプー台に座らされた。二十歳くらいのアシスタントか、見習いの女性店員が、髪を洗ってくれた。
 それが終わると、忍は窓ガラスを背にして、カット台に座らされる。すぐに女性美容師がやってきて、忍の首にタオルを巻いて、準備する。
「じゃあ、今日はどうしましょうか?」
 美容師は忍の肩にそっと手を置いて、鏡からにっこり忍を覗き込む。さっきの見習いの女性店員が、一礼してハサミなどの一式揃った専用台を運んできた。
「そうですね、ちょっと気分を変えたくて、ショートするのも悪くないし……」
 忍は鏡を見ながら、自分のウェーブのかかった髪の先を弄ぶ。
「うーん……どうしよう?」
 考えながら、自分の髪をピッと真っ直ぐ伸ばしてみる。姉さんの髪はこのくらいだった気がする。
「どうしましょう? こういうの悩みますよね」
 にっこり笑いながら、美容師が髪を櫛で梳かし始める。
 こんなことされると、早く決めろと急かされている気分になるのよね。そんなつもりはないんだろうけど。
 忍は鏡に映る美容師を見る。
「じゃあ、ナチュラルな、軽い、こんな感じ」
 手で自分のイメージを伝える。
「そうすると、結構顔が包み込まれるような感じですね。お客様だと毛先に軽くパーマをいれるといいと思いますけど、どうされます?」
「そうですね。お願いします」
 考えるのも、どこか億劫になって、言われるがままに任せる。そこまで酷くはならない、きっと。
 美容師が櫛で耳に掛かっている髪を触る。
「前髪はいかがされます?」
「そうですね……」
 忍は右手でまだ髪の先をいじる。
「少し、切ろうかな」
「わかりました。じゃあ、ハサミいれますね」
 美容師が左側に立って、左手で忍の襟足に櫛を入れて、ハサミを持った右手の親指と人差し指を開く。
 この髪を黒く戻して、まっすぐにすれば、今なら姉さんみたいに見えるかな?
 一瞬、鏡に映る自分の顔が姉に見える。
 私は……。
「やっぱり!」
 気がつくと、忍は両手で髪を抑えていた。美容師は驚いてハサミを高く挙げていた。
「す、すいません。あの、やっぱり、ストレートにしてください」
 忍は鏡に映る自分を見つめた。

 忍はアパートに帰って、洗面台の前に立った。鏡に自分の顔が映る。前に乗り出して、正面、右、左と角度を変えてみるが、どうもしっくりこない。
「何か落ち着かないのよね……。失敗、かな?」
 活発そうだったのが、一気に大人しくなったようで、居心地が悪い。姉を真似していた頃は、感じなかったことだ。
「そういえば、この髪型って、いつ以来だっけ? 確か、高一――」
 一瞬、その当時の自分にトリップする。思い出したくないことまで、思い出してしまう。
「先輩に振られたから、その日のうちに切ったのよね」
 生まれて初めて告白した自分。恥ずかしくて、多分顔は真っ赤だったと思う。先輩は驚いて、そして、困った顔をして、言いにくそうだったけど、はっきり言ってくれた。
 そう、あのとき姉さんみたくなるのをあきらめたんだっけ。姉さんは髪を切った私を見て、びっくりして、でも似合うよって笑った。嫌になるくらい優しくて、やっぱり綺麗だった。
 良い思い出だねなんて、そんなこともあったねなんて、まだ言えない。四年経った今でも――。
 忍は口をぐっと噛み締める。かきあげた右手に自然と力が入る。胸何かが込みあがってきて、熱くなる。
 洗面台に手を置いて俯き、目を閉じる。息をゆっくり吐いてから、目を開け、顔を上げる。そこには、姉と同じ髪型をした自分がいる。
 忍は髪をかきむしった。
 突然、携帯が鳴る。この着信音は実家からだ。多分母だろう。
「もしもし、お母さん?」
『忍?』
 母の声は元気がない。電話越しに疲れきった母の姿が浮かぶ。
「うん。何?」
『別に用事があったわけじゃないんだけどね。あんたがどうしてるか、気になってね』
「大丈夫だよ。本当は、もっとそっちに居れれば良かったんだけど……母さんも父さんも、大丈夫?」
『こっちのことは、あんたが気にしなくても、いいよ。父さんも母さんも何とかやってるから』
 父も母も姉が死んでから、一気に老け込んでしまった気がする。父も母も、自分より姉に期待していた。姉が全てだった。それは「姉」だからではなく、器量とか才能とかが結音にあったからに他ならない。
「うん。ごめんね」
 本当は、忍は実家に居たくなかっただけ。何もないのに、課題が残ってると嘘まで言って、戻ってきた。それが後ろめたくて、辛い。
『あんたは、あんたのやるべきことをやればいいのよ』
 父も母も、姉が全てだった。妹の自分はおまけのようなもの――父も母もそんなことは口にはしなかったし、そんな態度は微塵もなかったけれど、忍はずっとそう思ってきた。姉が死んだ今、それがどうなるのだろう?
「うん。今日髪を切ってきた」
『そう。気晴らしにはいいかもね』
 電話越しの母は、泣いているようだった。
「それでね……」
 忍は言おうとしたことを、止めた。いや、言えなかった。
『……父さんと替わるね』
 携帯から保留音が流れて、すぐに止んだ。
『忍か?』
「うん」
『頑張ってるか?』
「うん。ちゃんとやってる」
 本当はやることなど、何もない。何かする気にはならない。そう言えれば、どんなに楽だろう。
『そうか。足りないものとかはないか?』
 いつもは厳しい父の声に、すでに覇気はなかった。
「ないよ」
『足りないときはちゃんと言えよ』
 今までそんなことを、聞いてきたことなどなかった。ずっと自分には無頓着だった。でも、きっと姉には言ってきた言葉だろう。
「わかった。ありがと」
『じゃあ、切るぞ』
「はい。おやすみなさい」
『おやすみ』
 家を出て、一番長い電話だった。結局、姉と同じ髪型にしたとは言えなかった。

     2

「あいつ大丈夫かな?」
 いつも忍の座る席を見つめる。いつも何でも思いつくままに話しているような忍が、何も語らなかった。姉が亡くなったことを考えれば、それは仕方のないことには違いない。だが、重く沈んだ忍の表情を思い出すと、掛ける言葉も見つからなかった自分が歯がゆい。
 入り口のダークブラウンのドアが開く。
「いらっしゃいませ」
 一人の男性客が入ってくる。裕人の初めて見る顔だったが、どこかで会ったことがあるような気もする。裕人は忍のことを考えるのをやめて、気を取り直そうと頭を振ったが、あまり上手くいかない。
 客はそのままカウンターの一番奥に座る。さっきまで忍が座っていた席だ。これには、裕人は顔には出さないが、正直に驚いた。
 裕人は大学一年のときから『琥珀』でバイトをしているが、初めて来店した客で、テーブルが空いているにも関わらず、カウンターに座った客は初めてだ。当たり前だが、初めて来店して客がカウンターに座ってはいけないという決まりがあるわけではない。もっとも、カウンター席というのは決まって常連客が座って、マスターとの会話を楽しむことが多い。そんな常連客でもない限り、カウンターに案内されないと普通は座りにくいものだろう。もっともそれは、裕人の思い込みかもしれないが、そういう理由で、初めからカウンターに座る客というのは、相当珍しかった。
 裕人はすぐにその客に、水とお絞りとメニューを持っていく。
「お決まりになりましたら、お呼びください」
 あれ?
 軽く一礼した瞬間、裕人はこの客に、はっきりと妙な感覚を覚えた。まるでその客が、忍であるかのような――。
 裕人はカウンターの中から、男性客を横目で見る。
 彼は着ていた黒のコートを脱ぎ、首のグレイのマフラーを外して、それぞれ横の椅子に掛ける。濃紺のジーンズと体にフィットしたベージュのセーターを着ていた。背は裕人と同じくらいだが、体格は良さそうだ。黒の短髪で、何かスポーツでもしている印象を受ける。一方の忍は、身長が男性平均の裕人の肩くらいで、見た目は華奢なのだが、本人談によると、それはそれでバランスの良いプロポーションで、脱ぐと凄いそうだ。髪は茶色に染めて、肩下くらいまで伸ばしている。つまり、この男性客は、忍とは性別も違えば、体格、容姿とあらゆる点で似ても似つかないのである。
 だが、頭で理解している現実が、まったく意味をなさない。『忍』ではないと完全に否定できないのである。否定どころか、肯定できるような、奇妙な感覚だ。
 ちょうどそのときマスターが、「いらっしゃいませ」と奥の部屋から出てきた。客にコーヒーを淹れるためだ。裕人は、未だに客にコーヒーを淹れることを許されていない。自分で飲む分には構わないのだが。
「モカ・マタリを」
 裕人は思わず息を飲んだ。
 男性客が接客をした裕人ではなく、マスターに向けて慣れた感じで注文し、カウンターに肘をつけてメニューを裕人に向ける。それはいつもの忍のしぐさで、それが完全に男性客のしぐさとダブったのだ。
 ありとあらゆる感覚が、彼を『忍』だと告げている。
 誰……なんだ?
 裕人は動けない。男性客をじっと見つめたまま、頭の理解が追いつかない。唾をごくりと飲み込む。裕人の直感ともいうべき感覚が、『あいつは忍なんだ』とはっきり告げる。その一方で、現実感覚が『そんなことはない』と囁く。
 そうこうしているうちにマスターが、「かしこまりました」とメニューを受け取りにいく。
「裕人君、どうしたの? ほら、マタリ出して」
「あっ。す、すいません」
 マスターのいつもと同じ口調を聞いて、裕人ははっと現実に還る。コーヒーの種類の数だけ棚に並べてある、透明の大きなキャニスターから、マタリの入っているやつを慌てて取った。
 『琥珀』では二杯強くらい飲めるように、コーヒーをポットで出す。そのため、豆も二杯分の約二十グラム、取り出さなければならない。
 裕人は一度大きく深く息をして、気持ちを落ち着つかせる。大丈夫だ、そう自分に言い聞かせて、豆をメジャースプーンで量りながら取り出す。そして横にある電動のコーヒーミルで豆を挽く。豆を挽く音のせいで、店内を流れるBGMが聞こえなくなる。しかも、いつもなら気にならない時間が、やけに長く感じる。後ろから視線を感じるのは気のせいなんだろうか?
 裕人は挽き終わった豆をマスターに渡して、マスターがコーヒーを淹れるのを見る。そうでもしないと、きっとあの客をじっと見てしまう。
 『琥珀』はネル・ドリップでコーヒーを淹れる。マスターが布フィルターに豆を入れて、竹べらで真ん中を少し掘る。そしてお湯を軽く注いで、豆を蒸らす。そうすると、豆が盛り上がってくる。
 コーヒーの香りが立ち込め始める。それを嗅ぎながら、裕人はゆっくり息を吐く。蒸らし終わって、マスターがさらに円を描くようにお湯を注いでいくと、フィルターの中で泡が立っていく。そして琥珀色の一滴一滴がサーバーに静かに落ちていく。
 裕人もカップに砂糖、ミルクをアルミのプレートに並べる。
 マスターが湯を注ぐのをやめる。それでも裕人の目はフィルターをじっと見つめることに努めた。
「裕人君もフィルターを洗ってくれたら、何か飲んでいいよ」
 ふいに、マスターから声を掛けられた。
「あ、ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えます」
 裕人は一度、深く息を吐いた。
 コーヒーを飲んで、休憩しよう。絶対そうした方がいい。
 裕人は今抽出に使った布フィルターを洗う。マスターを見ると、マスターはサーバーに溜まったコーヒーをミニポットに移し替えて、プレートを運んでいた。
「ありがとうございます」
 客である『彼』が、軽くお辞儀をする。マスターは『彼』の前で、ミニポットからカップにコーヒーを注ぐ。
「ごゆっくり、どうぞ」
 マスターの対応は、いつもと何も変わらない。忍のことを知っているにも関わらず――。
「じゃあ、あとは頼むよ。奥で焙煎の続きをしてるから」
 肩を叩いて、マスターはまた奥に行ってしまった。裕人は一瞬呼び止めようとしたが、声にならなかった。
 正直、マスターが何か言ってくれることを期待していた。
 裕人にはどうしても『彼』が、忍であるかのように感じてしまう。見えるのではない。感じるのである。裕人の五感は感じるままに、目の前の現実を裕人に伝えている。紛れもなく、『彼』は忍ではない。それに反して、錯覚でもなく、裕人の感覚とか直感が、紛れもなく忍であることを告げている。
 落ち着け。
 裕人は自分に言い聞かせる。だが、それとは裏腹に、自分の中で何一つ形にならず、散り散りになっていく。
 もう、一体何なんだよ?
 裕人は大きく息を吐く。考えれば考えるほど、この客が、忍のように感じられて仕方がない。
 考えるのは止めだ。休憩しよう。
 いつもと同じように、自分のために、自分でコーヒーを淹れる。いつものオリジナルブレンドだ。手順はさっきと同じ。裕人は手際よく動いた。
「これじゃ、だめだな」
 自分で淹れたコーヒーに、裕人は苦笑する。
『いつも同じ、最高の味を出せるようになって、初めてプロと言える』
 マスターの口癖だ。今、淹れたコーヒーはいつもより雑味が混ざって、苦味が強く出ていた。色も透き通る琥珀色には程遠く、濃い茶色といった感じだった。お客に自分の淹れたコーヒーを飲んでもらうには、まだまだ訓練がいるようだった。
 裕人はコーヒーを飲みながら、ちらっと横目で男性客を見る。左手で頬杖をついて、右手でカップを口に運ぶ。そのしぐさは、忍そのもの。忍ではないのに、どうしても忍に見えてしまう。
 裕人は布フィルターを洗って、煮沸し始める。これで、あとは水に入れて、冷蔵庫で保存すればいい。
 裕人はテキパキと動きながらも、その客から観察されている感覚が消えない。この何とも言えない感覚と、奇妙としか言いようのない沈黙の“間”が、どうしようもなく耐えがたい。もういっそのこと、名前でも聞いて、誰なのかはっきりした方が気持ちは楽になりそうだ。カウンターに座っているのも、都合が良い。
 意を決して裕人は、彼を見る。いきなり目が合った。思わず逸らしそうになった瞬間――。
「大分混乱してるようだね」
 裕人は、ドキッと胸を射抜かれた気がした。
「何を言ってるんですか?」
 裕人は、わざと惚けてコーヒーを飲もうとしたが、手が震えている。
「僕に感じている感覚は、別に間違っているものじゃない。信じるべきは、目に映る現実ではなくて、その直感とか感覚なんだ」
 見透かされている。もう何がなんだか分からない。
「あ、あんた、誰?」
 もはや店員と客という関係なんか、どうでもいい。
「稲葉忍だよ」
 頭を大きなもので殴られた。そんなショックが襲う。
「い、いや、だって……」
 嘘でもいいから、知らない名前でも言ってくれたら、どんなに楽だったろう。
『稲葉忍』
 その言葉の意味が、ゆっくり裕人の頭に浸透していく。
「あんたは男で、俺の知ってる稲葉忍は女の子で……でも、感覚は……」
 裕人は頭を抱えていた。
「余計混乱させてしまったようだね。なんと言えば良いのか……説明のしようがあまりないのだけれど、ドッペルゲンガーと言う奴が一番近いかもしれない」
 彼は少し困ったように笑って、コーヒーを飲む。
 ドッペルゲンガー――。
 自分と同じ姿をしたもう一人の自分で、それを見た人は死ぬと言われている、アレだ。しかし、彼は忍とは似ても似つかない。
「とは言っても、僕が誰かなんて、大した問題じゃないんだ。本当の問題というのは、実にやっかいで、いつも些細なことから人知れず起こって、気がついたときには、手も付けられないくらい複雑になってる」
「何言っているんだ? 問題?」
「まぁ、すぐに分かるさ。ごちそうさま」
 彼が一瞬笑ったように見えた。そして彼は、コーヒーの代金をカウンターに置いて、席を立つ。
「え? お、おい。ちょっと待ってくれ」
 慌てて裕人は呼び止める。が、彼はコートとマフラーを腕にして、足早に店を出て行く。裕人はレジ横からカウンターを飛び出して、彼の後を追って店を出たが、そこには誰もいなかった。いつもの登り階段があるだけだった。不思議とその階段がやけに長く見えた。

 裕人は帰ってから、夕食もそこそこに、ドッペルゲンガーについてインターネットで調べてみることにした。
 椅子に座って、机の大部分を占領するデスクトップと向き合う。すでに最新とは言えないパソコンに電源を入れて、起動するまでゆっくり待つ。
「ドッペルゲンガーか……」
 ふと、部屋の中が静かなことに気がつく。パソコンの音がやけに大きく聞こえる。調べることが調べることだけに、何もいないことは分かっていながらも、後ろに何かいるかもしれないと思わずにはいられない。
 裕人はそんな気持ちを紛らわせるために、ミニコンポをつけて音楽をかけた。お気に入りのロックバンドのノリの良い曲が、スピーカーから低音を利かせて、ワンルームの八帖の部屋に響く。
 “ドッペルゲンガー”と検索をかけると意外と多い。多くは映画や小説、中には、ドッペルゲンガー占いなんてサイトまであった。その中からドッペルゲンガーそのものについて書いてあるサイトをいくつか回る。そこから、ドッペルゲンガーについての要旨をまとめると次のようなことになる。

・ドッペルゲンガーとはドイツ語で、ドイツの伝説では、ドッペルゲンガーを見た者は数日のうちに必ず死ぬ、と言われている。この伝承は西欧だけにとどまらず、中国、日本にも同様の伝承がある。
・精神医学的には、オートスコピィとか、自己像幻視と呼ばれている、自分の身体意識が外部に投影される現象である。
・目の前数十センチないし数メートルのところ、あるいは側方に自身の像が見える。多くは動かないが、ときには歩行、身振りに合わせて動作をする。黒、灰色、白などモノトーンであることが多い。全身像は少なく、顔、頭部、上半身などの部分像が多い。平面的で立体感を欠き、薄いという場合もあれば、透明な姿で見えることもある。自身の姿とかならずしも似ておらず、表情が異なったり、衣服が異なったり、さらには若かったり甚だしく老けて見えたりすることもある。
・どのような姿をとって現れても、その人物像が自分自身の像であると直感的に確信して疑わない。

 重要なポイントは最後の箇所だろう。ドッペルゲンガーの見え方は異なれど、ここだけは一致しているようだ。
 確かに、裕人は『彼が』忍であることは直感的に確信して、疑えなかった。それでも自称、忍のドッペルゲンガーである『彼』は、存在がはっきりしすぎるくらいだが、例外なのかもしれない。でも、そもそも他人のドッペルゲンガーを見ることなんてあるのか?
『電車の中からホームを見ていて階段を降りていく自分が見えた』
『ショーウィンドウに映る自分を見ながら髪を整えていたとき、隣で同じことをしている自分が映っており、何か話しかけてきたが間もなく消えた』
『買い物をしていたら窓の外に、信号待ちをしている自分が見えた』
 ドッペルゲンガーに関するどのサイトの記述も、こんな自分自身の像を見た人のものばかりだった。
 結局、知り合いを見たが、そのとき本人はそこにはいなかった、という程度の、よくある他人の空似で片付けられる出来事が、可能性としては一番近い。だけど――知り合いなら、話し掛けても不思議じゃない。けど……自己幻視ならぬ他己幻視とでも言うのかね、こいつは……。他人の空似なんかとは、レベルが全く違う。大体、性別が違うってのが……。
 これ以上は、ネットでは調べようがない。裕人はため息を吐いた。
 今のところの問題は、あいつを見たら、忍が死ぬかもしれないってことかもしれない。あるいは、俺自身が――。
 裕人はとりあえず後ろを振り返る。
「まっ、いるわけないよな」
 布団が敷かれたままの黒のパイプベッドが、置かれているだけである。何がいるわけでもない。いつもと同じである。裕人は息を吐いて、苦笑した。
 俺が変になった、ってことか?
 CDが最後の曲になる。
 あいつがもう一度店に来たら、聞いてみればいいか。今日みたいな感じなら――。
 スピーカーからバラードが流れだした。

 翌日――三月だというのに、外は相変わらず真冬なみに寒い。それに比べて『琥珀』は暖房が効いて温かい。それにもかかわらず、客が誰一人いない。
「暇だ……」
 裕人はカウンターの中央で突っ伏した。時計を見ると、三時になろうとしていた。これが休日なら多少のお客も期待できるのだが、あいにく今日は平日だった。
「来ないとき来ないもんだよ。多分、五時前には来るだろうけどね」
「よく分かりますね」
「長くやってれば、それくらい予想はつくよ。僕は奥で焙煎してるから、こっち頼むね」
「はい」
 マスターが奥の作業場に行くと、店の中やけに静かになった。ピアノソロのBGMが、相変わらずそっと流れている。
「何かないかな?」
 裕人は暇が潰せそうなものを探して、店の中を見渡す。テーブル席の脇のポケットに入っている、黒いファイルノートが目に入る。いわゆる、『琥珀』の交流ノートである。お客同士、お客からマスターへと交流できるようにと、各テーブル、カウンターの中央、両端の足元にある金具に黒紐で掛けられているノートである。
「久しぶりに、読んでみるか」
 裕人自身、雇ってもらう以前は、たまに書き込んでいたものだった。
 裕人は体を屈めて、そこに掛けられているノートを取り出す。随分久しぶりに読むからなのか、不思議とわくわくする。
 裕人はノートを開いた。
『ここのコーヒーを飲んで、初めてコーヒーが美味しいと思えました。今までインスタントでしたけど、もうインスタントなんて飲めません』
「まぁ、インスタントしか知らない人には、ショックが大きいんだよな」
 これは結構多いコメントで、大抵は本当のコーヒーの味を知らない客のコメントだったりする。
『また時間が経つのも忘れて、マスターと話し込んじゃった。今日も、美味しいコーヒーと楽しい時間をありがとう!』
 マスターの人柄なのか、話しているうちに、ふと時間を忘れてしまう客がいる。中には、お悩み相談をしてしまう客もいるくらいだ。
『マスターと話したかったんだけど、忙しそうで、話しかけられなくて、残念。その代わりに、店員さんと話してみました』
「え?」
 裕人は思わず、自分のことが書かれていて、目を疑った。まさか自分のことが書かれているなんて思いもしなくて、妙に恥ずかしくなる。しかも、丸っこい字で書かれているあたり、女性客だろう。
 それにしても、こんなことあったけ……?
 裕人は記憶を探ってみるが、思い当たる節がない。
『話してみると、いつかマスターに認められて、お客様にコーヒーを出したいとか。密かに応援してます』
「えーと……」
 顔に火が点いたように熱い。思わず顔がにやけてしまう。
「ふふふふ……」
 口から、嬉しさがこぼれる。
「これじゃ、変な奴だな」
 それでも、にやけた顔は元に戻らない。
 そのとき、入り口のドアの開く音が聞こえて、裕人は振り返る。
「いらっしゃいませ――っ!」
 半ば反射的にそう言ったものの、入ってきた客を一目見るなり、思わず息を飲んだ。さっきの嬉しさも一気に吹き飛んでしまった。そこにいたのは自称『稲葉忍』を名乗る彼だった。
「おいおい、そんな顔することないだろ? 曲がりなりにも、客なんだから」
 彼は裕人の横を通って、真っ直ぐカウンターの一番奥に向かう。
 裕人は水とメニュー、お絞りを出した。『彼』がメニューを軽く一瞥してから、
「マタリを」
「また、それか」
「好きなんだよ。いいじゃないか」
「かしこまりました。マスター、マタリです」
 奥にいるマスターに声を掛ける。
「はーい。すぐ行くから、準備をやっといて」
「わかりました」
 裕人はコーヒーを淹れる準備を始める。ポットを火にかけ、豆を取り出す。一度、『彼』を横目で見てみる。
 この妙な感覚にはなれないな。
 稲葉忍であって、稲葉忍ではない。店内を流れるマスターのお気に入りのピアノソロが、少し気持ちを落ち着かせてくれる。裕人はゆっくり息を吐いて、ミルのスイッチを入れた。
「この曲なんて言うの?」
「『セピア色の写真』だよ」
「そう。良い曲だな」
 『彼』が目を閉じて、頬杖をつく。流れる音楽に耳を傾けているようだ。
 あれっ?
 裕人は唐突に気がついた。忍と話しているのと全く変わらない感覚で、自分が話している。
 一体何なんだ、この違和感は? 現実と感覚の埋めようのないギャップとでも言えばいいのか?
 ポットの湯が沸騰したところで、マスターが一礼して出てきた。
「いらっしゃいませ。準備は出来てる?」
「はい」
「ありがとう」
 にっこり笑ってマスターが早速、布フィルターに螺旋状に湯を注ぐ。コーヒーの香りが立ち込めていく。
「じゃあ、お願いします。僕は続きをするから、お客さんが来たら教えて」
「わかりました」
 マスターが奥に戻るのを見届けてから、裕人はコーヒーをプレートに乗せて運んだ。
「お待たせしました。モカ・マタリです」
「どうも」
 『彼』が会釈で返す。忍がよくする仕草でもある。裕人はいつものようにポットとミルク、砂糖を並べて、ミニポットからカップにコーヒーを注ぐ。
「ごゆっくりどうぞ」
 裕人は『彼』をじっと見つめた。
「美味いね」
 コーヒーを一口飲んで、『彼』が満足そうに頷く。
「一つだけ、確認したいことがある」
「なんだい? 改まって」
「お前は本当にドッペルゲンガーなのか? ドッペルゲンガーっていうのは、その――」
 裕人は昨日調べたことを『彼』に教えた。
「――ということなんだよ……他人のドッペルゲンガーとなんて会えるものなのか?」
 最後の方なんかは、どうもぐちゃぐちゃで、上手く説明できたかどうかわからない。それでも、『彼』が大きく頷いているところをみると、伝わったらしい。
「まず、ドッペルゲンガーというのは、完全に本人の姿をしているというわけではない。幼かったり、老けていたり、体の一部分だったり、モノクロだったりする。しかし、それでいてそれを見た本人は、それが自分だと疑わない。そんなところでいいかい?」
「ああ」
「それで、君の言うところだと、自分が稲葉忍のドッペルゲンガーに会ったことが不思議だと?」
「そういうこと」
 そこで『彼』はコーヒーを飲んで、一息つく。
「昨日も言ったかもしれないけど、正確に言えば、僕は君の言うところのドッペルゲンガーではない。そもそも本当にドッペルゲンガーなんているのか、僕だって疑問だよ。まぁそのドッペルゲンガーに近い存在であるということはできる」
「どういうことだ?」
「君の疑問に答えたことになるのかどうかわからないけど、君にとっては、結局のところ『稲葉忍』に会ってるに過ぎないんだ」
「まぁ、確かに……」
 話し方も雰囲気も全く違うのにもかかわらず、感覚だけは稲葉忍と話している以外の何ものでもない。
「決して君がおかしくなったわけじゃないないんだ」
「いや、まぁ……」
 自称『ドッペルゲンガー』に言われても、どうリアクションすればいいのか。
 もっとも肝心なことを聞いてみる。
「お前と彼女が会えば、彼女は死ぬのか?」
 とりあえず、自分のことは置いておく。
「それはどうだろう? 僕自身にはそんなことはできない。今ならまだ、『彼女』が僕を自分だと信じて疑わないくらいさ」
 何が引っかかったが、今はとにかく疑問をぶつけることを優先して、裕人は早口で巻くし立てる。
「そもそもお前は、どうやって生まれたんだ?」
「それを言われると耳が痛いよ。僕もできることなら、出てきたくはなかったんだけどね」
 聞いてはいけないことだったのか、彼が酷く困った顔をした。忍がそうしているようで、何とも言えず、ばつが悪い。
「悪い。言い過ぎた」
「いいさ。別に君の気にすることじゃない」
 『彼』が笑ったように見えた。
「コーヒーは早く飲めよ。味が落ちる」
「それくらい、分かってるさ」
 『彼』がコーヒーを口に運んだ。
「これからどうするんだ?」
「さてね。こればっかりは、なるようにしかならないんだ」
 『彼』はそのまま何か考えているような、酷く難しい顔をする。そんな顔をされて、裕人は何も言えず、ただ時間が過ぎていく。一分ほどのはずなのに、ひどく長く感じられた。
 突然、入り口のドアが開く。
「いらっしゃいませ」
 三人の女性客が入ってきた。壁際のテーブル席に座る。裕人は早速、水とメニュー、お絞りを人数分プレートに乗せて運んだ。
 再びカウンターに戻ったときには『彼』の姿はなく、ただコーヒーの代金だけが置かれていた。
「いつのまに……ったく」
 裕人はドアを睨みつけた。時計を確認すると、五時を回っていた。

 それから、しばらくして忍がやってきた。
「こんばんは」
「髪型、変えたんだ」
「似合います?」
 忍がどうですか、と言わんばかりに髪を手で揺らす。
「なんか印象が全然。なんて言うか、知らない人と話してる感じ」
「高校一の頃まで、こういう髪型だったんですよ」
「ちょっと意外だな。前のウェーブの奴しか知らないからな。悪くないんじゃないか?」
 忍がまんざらでもないように笑う。だが、裕人は何か不自然な印象を受ける。別に髪型が似合っていないとか、そういうことではない。とりあえず、別人というより他に形容のしようがない。
「今日は何しますか?」
 裕人はメニューを渡す。
「今日は、そうですね……コロンビアにします。あ、そうだ。たまには佐伯さんが淹れてくれませんか?」
 忍が上目遣いでにっこり笑う。
「うーん……」
 いつもなら嬉しい申し出のはずなのだが、なぜかそういう気分にはなれない。裕人は断わる理由を探す。
「ほら、コロンビアって飲んだことないだろ? まだちゃんと淹れられない俺が淹れるより、マスターの美味い奴で最初は飲んだほうがいいって」
「よく私が飲んだことないの知ってますね。何か嫌がってません?」
 大きな瞳を揺らして、忍が覗き込んでくる。なかなか鋭い。
「そんなことないよ。俺が淹れたとしても、ちゃんとした味を知らないんだから、感想を言われてもね。先にマスターの味を知ってからにして欲しいだけよ」
「分かりましたよ」
 忍が気に食わなそうに頬を膨らませる。それはいつもの忍の表情に見えた。
「マスター、コロンビアです」
 裕人は奥に居るマスターに声を掛けて、コーヒーの準備を始める。
「最近、何か変な夢みて、目覚めが悪いんですよ」
「そりゃ、大変だ」
 意識は忍に向けながら、豆を量る。
「どんな夢なの?」
「それが、よく憶えてないんですよね。それで二度、三度起きてる気はするんですけど」
 裕人は、それが亡くなった姉のせいと思ったが、それを口に出すのは、やはりはばかられた。
「ストレスでも溜まってるんじゃないか? 体でも動かせば結構違うと思うけど?」
 結局当り障りのないことを言ってしまう。
「そうですね。買い物にでも行って気晴らしでもしようかな」
「それで、いいんじゃないか?」
 何故か忍と話しているあまり気がしない。髪型が変わったせいだろうか、どうしても別の誰かと話しているような妙な違和感がある。
 忍はコーヒーを飲み終わると、珍しく長居もせず、そそくさと帰っていった。
『本当の問題というのは、実にやっかいで、いつも些細なことから人知れず起こって、気がついたときには、手も付けられないくらい複雑になってる』
 なぜか不意に『彼』の言葉が浮かんだ。

     3

 ベッドの上で頭まで布団をかぶって、もぞもぞと動く。布団の隙間から、部屋の冷気が入りこんできて、さらに体を小さくする。心なしか、頭が痛い。布団から右手だけをぬっと突き出して、横の小棚の上で素早く動かす。がちゃがちゃと置いてあるものを触りながら、目当てのものを見つけると、これまで以上のスピードでそれを布団の中に引きずり込む。布団の隙間を少しだけ開けて、差し込んでくる光で、忍はそれを見た。すでに十二時を回っている。
「も、もう、こんな時間なの?」
 一瞬にして、目が覚めた。布団から起こした体に寒さがしみる。小棚の上に置いてあるリモコンで暖房を入れて、赤のパジャマの上から、部屋着にしているグレイのフリースの上着を羽織る。
「昨日、寝たの何時だっけ?」
 頭を抑えて、記憶をトレースしてみる。
 布団に入った時間は、確か十一時前だったような気がする。疲れていたのに、ずっと眠れずに寝返りを打っていた。ときおり確認した時間で、最後に記憶にあるのは、三時二十分。それから、多分一時間くらいは起きていたと思う。
「七時間? あんまり寝た気がしない。熟睡できなかったし」
 忍は溜め息を吐く。なぜか三回くらい目が覚めた憶えがある。
「寒ぅ……」
 ベッドから降りるようとすると、寒さと睡眠不足の特有の体のだるさのせいで、思うように動けない。フローリングの床がやけに冷たく見える。のろのろとスリッパを履いて、カーテンを開ける。指先もつま先も、一気に冷たくなってしまった。
 忍の窓から見上げた空は、重く分厚い雲に覆われていた。雪でも降ってくれれば、この寒さも我慢しがいがあるというのに、その気配は微塵もない。
 ようやくエアコンから温風が吹き出す。
「変な夢を見たな……なんだったんだろ?」
 一度目が覚めて、もう一度寝に入ったときだろうか。二回目だったかもしれないが、夢を見た。姉の結音、自分自身、そして、男がいた。何か争っていたような憶えがあるが、はっきりと思い出せない。
「前にも見たことがあるよう気もするんだけど……一体何だろう?」
 とても大事な気もする。姉と、彼は一体……?
「でも、どうせ夢だし、気にすることもないよね」
 自分に言い聞かせるように言う。すると、ぐーっとお腹がなった。思わず笑ってしまった。自分以外誰も聞いていないが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「お昼ご飯、何食べようかな?」
 忍は冷蔵庫の中を見に、台所へ向かう。
「パスタがあったっけ」
 冷蔵庫の隣にある食器棚の引出しを開けて、それを確認する。
「あれ?」
 冷蔵庫を開けるが、期待していたはずの材料がない。
「しめじはあったと思ったんだけどな」
 それどころか、調味料を除いて、タマネギが半分に、ピーマンが一つとにんにくが一欠片――忍は冷蔵庫を閉めて、ため息を吐く。
「何か買ってこないと……」
 とはいえ、買ってきてから作るというのも、面倒くさい上に、一体いつ昼食にありつけるか分かったものじゃない。コンビニという手もないわけではないけれど――。
「食べ飽きてるし、さして美味しいわけでもないし」
 台所から部屋に戻る。
「外に食べに行こうかな? どうせここに居ても……」
 全身の映るルームミラーが目に入る。鏡に映る自分――姉を真似た自分を見つめる。夢が一瞬フラッシュバックする。姉は彼に向かって、何か言っていた?
「姉さん……え?」
 一瞬、鏡に映る自分の顔と姉の顔がダブる。思わず瞬きをする。そこにはやはり、姉と同じ髪型の自分がいる。
「目の錯覚……よね?」
 エアコンの音だけが妙に耳に入ってくる。鏡には、相変わらず、驚いた顔の自分がいる。
「あんまり寝てなかったし、こんな髪型じゃ見間違えても仕方ないかも……」
 忍はそう自分を納得させる。
「あーもう、やだっ!」
 頭を何かを振り払うかのように振る。
「らしくない。外に食べに行って、適当にぶらつく。そうすれば、気分も変わるでしょ!」
 そう決めるとすぐさま忍は化粧をして、服を着替えていると、すでに時計は一時を回ってしまっていた。
 外に出ると、空は相変わらずどんよりと重たい。バスを待っている間、冷たい風が吹きつけてくる。思わず体を小さくする。雪でも降らないかと見上げるが、やはりそんな気配はない。溜め息を吐くと、ますます気が重くなった。そうこうしているうちに、バスはやって来た。

 忍は街に着くと、ぶらぶらと歩いてどこで食べるか散々悩んだあげく、結局、雑居ビルの二階にある行き着けのパスタ専門店に入った。
 すでにお昼時のピークは過ぎて、十人程度しか座れない狭い店内には、一組のカップルと女性客の二人がいるだけだった。
 すっかり仲良くなったこの店のおばさんに案内されて、忍は窓際のテーブルに座る。メニューを見て選ぶのも面倒で、おばさんが水を持ってくるのをついでに、お気に入りを注文する。
「そら豆と海老のフィットチーネを」
「かしこまりました」
 別に他のパスタを食べたことがないわけではないけれど、初めて食べた『そら豆と海老のフィットチーネ』は、手打ちパスタとそれに絡みつくホワイトソースがたまらなかった。
「外は寒かったでしょう?」
 外をぼんやり眺めていると、仕事がなくなったのか、おばさんが話し掛けてくる。いつもならもっと何か話しているのだけれど、忍はそんな気分になれない。
「ええ。もう三月なんだから、少しくらい温かくなって欲しいですけどね。また寒波がきてるらしくて、もうしばらく寒い日が続くみたいですよ」
 昨日だったか、そんなことを天気予報で言っていたことを忍は思い出して、適当に返す。
「そうなんですか。早く温かくなるといいですね」
 おばさんは残念そうに言った。が、忍は疲れきったようにため息を吐いてしまった。と同時に、自分の対応の悪さに気がついた。
「あ、すいません。ちょっと最近、いろいろあって……」
「別に気にしてないですよ。ゆっくりしていってください」
 おばさんが本当に気にしていないふうに笑ってくれて、忍は安堵する。おばさんは気を使ってくれたのか、厨房の中へ行ってしまった。
 街路樹の枯葉が、風に舞い散る。それを忍は、ぼんやり見つめて、ため息を吐く。
 何をやっているんだろう。
 心がちぐはぐになった感じだ。噛みあってくれない。
 目の前にある街路樹の枝が風に揺れて、枯葉が落ちていった。
「そら豆と海老のフィットチーネになります」
 おばさんが皿を持ってきてくれた。何か言いたそうな表情だったが、新たに女性客がやってきて、すぐに行ってしまった。
 フォークとスプーンでパスタを絡めて食べる。フォークをゆっくり回して、いつもより時間を掛けて、ゆっくり食べる。いつもと同じ味なのに、なぜかあまり美味しく感じられなかった。結局、三分の一も残してしまった。
 帰り際、おばさんが忍にお釣りを渡しながら、声を掛けてきた。
「あんまり悩んでると体に悪いから、気晴らしになるような、好きなことでもしてみたら?」
 あんなことをいったのに、気にかけていてくれたことが、嬉しい。素直にそう思える。胸が苦しくなる。
「そうですね。お気遣い、ありがとうございます」
 忍の口から自然と言葉がこぼれた。

 忍はぶらぶらと街中を歩く。
 好きなこと……。独りでカラオケっていうのはごめんだし、映画っていうのも……。
 いざ考えてみると、なかなか思いつかないし、結局何かを楽しむような気分でないことに気がつく。
 そのとき、よく行くCDショップが忍の目に入る。
 そういえば、CD出たんだっけ……。
 先週、好きなバンドが新しいCDを出したことを思い出して、そのCDショップに向かう。店から出てくる人を避けて、中に入る。
 入り口の一番目につくところに、新譜のCDが平積みされている。しかし、目当てのアーティストは、こんなところに並べられるほどメジャーではない。が、朝焼けを写した綺麗なジャケットに目を奪われて、足を止める。アーティストの名前を確認して、忍は息を呑んだ。
『この人は絶対メジャーになるっ! 忍も聞いてごらんよっ!』
 姉が嬉々として語っていた男性アーティストが、その他の有名アーティストと同じく並んでいる。ついぞ、このアーティストのCDを姉から借りることはなかった。
 忍はCDを手に取る。ショップのスタッフが書いた紹介を読んでみる。
“人気急上昇中! 情緒溢れるピアノとその歌声に癒されて下さい。視聴できます。オススメは――”
 足が勝手に視聴コーナーに向かう。ショップのスピーカーから流れる、女性アーティストの曲が、なぜかうるさい。すれ違う人も邪魔で仕方がない。すぐにでも切れてしまいそうな感情を何とか押さえ込んで、ようやく視聴コーナーに辿り着く。運良く、誰も居ない。忍はヘッドを耳につけて、そのアーティストのCDを選択する。再生を押す指はなぜか震えていた。
 イントロはピアノで始まった。この静かで穏やかなピアノが自然と姉を思い出させる――姉の笑顔を、声を、仕草を――ダメッ! 
 忍は十秒も経たないうちに、ヘッドホンを力任せに振りはずした。ヘッドホンは忍の手から音を立てて床に落ちた。
 どうしても、聞いてられなかった。どうしても、姉を思い出してしまう。心がざわざわとかき乱されるようで――心臓の鼓動が何故か、やたらと速くなっていた。
 気づくと、数人の客とショップのスタッフが、こっちを見ていた。忍は気まずくなりながら、ヘッドホンのコードを使って引き上げる。
 ヘッドホンから曲が流れてくる。忍は一瞬戸惑って、それを消した。それだけで、なぜか落ち着いた。ヘッドホンを元に戻して、忍はショップを出た。
 出てからすぐ本来の目的を思い出したが、すでにどうでもよくなっていた。
 何をやってるんだろう?
 忍はため息を吐いた。道行く人が擦れ違っていく。仲良しそうに手を繋ぐカップル、友達同士で楽しそうに笑いながら歩く人たち、バイトでティッシュを配る男性――こんなに人に囲まれて、どうしてこんなに、こんなに……胸が苦しい。
「え?」
 忍はそんな人の中に、見知った後ろ姿を見つけた。
「な、なんで?」
 全身に鳥肌がたつような悪寒が走る。
 彼女がすっと動き出す。人の波など苦にならないように素早く動く。
「ち、ちょっと!」
 忍は慌てて後を追った。
 そんなはず、ない。だって、あれは――。
 忍には、彼女の後ろ姿以外目に入らない。彼女が角を曲がろうとする。すれ違う人が邪魔であったが、忍は彼女を見失うまいと歩く速度を上げて、ほとんど彼女の一瞬あとに角を曲がった。
「あれ……?」
 だが、そこには彼女の姿はない。
「どこに?」
 辺りを見渡しても人通りはまばらで、小さなブティックや雑貨店、飲食店が並んでいるだけである。いくらなんでも、あの一瞬で、これらのショップに入るのは不可能のように思える。
 何かの見間違えよ……ありえない。
 彼女の後ろ姿を思い出す。
 ドッペルゲンガーなんて……。
 あの後ろ姿は紛れもなく、自分だった。それも髪を切る前の。
「見間違えて、見失っただけよ」
 忍は自分にそう言い聞かせた。それでも念のためと、一番近いブティックに入る。
「いらっしゃいませ」
 店に入ると店員が声を掛けてきた。
 入り口付近に並んだ冬物は、そのほとんど全てにセールの札が貼られて、店内には春物が掛けられている。ぐるっと店内を回ってみても、忍の他に数人の客がいるだけだった。
「ほら、ただの見間違えよ」
 そう自分に言い聞かせて、大きく息を吐く。
 このまますぐ店を後にしてもいいのだが、せっかくなので軽く物色してみる。目についた白のブラウスを取って、横の鏡であわせてみる。似合っておらず、すぐに元に戻す。
 不意に何かに見られているのを感じて、忍は振り返った。
「なんだマネキンか……」
 忍は大きく息を吐いた。そこには全身を春の新作でコーディネートされたマネキンがあった。忍は近付いて、それをじっと見つめた。
 私なんかより、どちらかと言えば、そう、姉さんに似合う……これなんか特に――忍はマネキンを見つめる。マネキンの着ている、胸元をねじった柔らかい感じの白のセーター、下は淡いピンクのマーメイドスカート――シンプルで女性的な服装が姉さんは好きだった。
「こちらのセーターは、下にキャミソールを重ね着したりも出来ますし、今の季節でもジャケットのインナーとしても着られるんですよ」
 いつのまにか、店員が横に立って、説明をしてくる。忍は適当に「そうなんですか」と相槌を打って、逃げるようにスカートが売られている方へ移動する。
 そう言えば、スカートってあんまり着たことなかったっけ――意識したわけではないが、忍はスカートを穿くとなぜかそわそわして、ボトムスの方が不思議と落ち着いた。
 昔はそんなことなかったんだけど……。高校に入ったぐらいからだっけ? その反対で、姉さんはスカートの方が好きだった。まぁ、何を着ても様になるんだけど。
 忍は花柄のスカートを自分に合わせてみる。
「姉さんならね……」
 自分に似合うとは、とても思えない。少なくとも、姉さんには似合う、そんな確信がある。
 忍はため息混じりにスカートを戻す。その場から離れようとして、鏡に映った自分を見て、足が止まった。
 誰? 鏡に映る自分は、自分ではないようで……まるで姉さんのよう――笑ってもいないのに、鏡の中の自分がふっと笑ったように見えた。
 さっきのマネキンが鏡に映っている。
 ああいうのを、着てみるのも……。
 これまで、忍はシンプルで活動的な服装を好んで着てきた。だからと言って、女性らしい落ち着いた服装をしてみたいと思わないわけではない。
 でも、きっと似合うわけがない……。
 気持ちとは裏腹に、足が自然とマネキンの方へと動く。
「すいません」
 忍はマネキンの前で、店員を呼んでいた。

    4

「どうですか、これ?」
 忍が、他に客がいないことを良いことに店内でくるっと回ってみせた。着ていたスカートが拡がって、白い足が少しだけ露わになる。上着には胸元をねじった白いセーターを着ていた。
「いいんじゃないか?」
「それくらいですか? もっと他の言葉はないんですか?」
 忍がつまらなそうに顔を膨らませる。
「可愛いとかか?」
「そうそれ!」
 妙な気分だった。忍の髪型が変わり、服装が変わった。
「化粧も変えた?」
「そうなんですよ! 気がつきます?」
 忍が満面の笑みで答える。
 大人びたと言えなくもない。髪型に服装、化粧と、ついこの前までの印象とはまるで違う。それはそれで似合っているのだが、何と言えばいいのか……。
 裕人は忍に掛ける言葉を見つけられない。別人と話しているとでも言えばいいのか。
「今日は、佐伯さんが淹れてくれませんか?」
「俺が?」
 忍が大きく頷いて、上目遣いで見てくる。こんなことする娘だったっけ? どうしても、そこに妙な違和感を感じずにはいられない。
「マスターが良いって言えば、構わないけど……」
 裕人がマスターを見ると、にっこり笑っている。どうやら構わないらしい。
「マタリでいい?」
「うん」
 にっこり微笑む彼女は、どことなく艶やかで、色っぽく見えた。
 裕人はコーヒーを準備しながら、横目で忍を見る。忍は頬杖をついて、ため息を吐いていた。
「他のことに気を取られていると、抽出に失敗するよ」
「はい」
 マスターに注意されて、裕人は気を入れ直す。『の』を書くように慎重に、お湯が一定になるよう注いでいく。耳に、またため息が聞こえた。
「マタリ、お待たせしました」
「あ、どうも」
 裕人はカウンター越しにカップにコーヒーを注いだ。
「いただきます」
 忍がコーヒーを味わうように目をとじて、カップを口に運ぶ。
「マスターが淹れるマタリと比べて、少し酸味が強い気がします。それでもその辺にあるコーヒーよりも、十分美味しいですね。まぁ、それは技術の差というより豆の差かも」
「悪かったな。どうせ、まだ未熟だよ」
 なんとなく悔しかったが、裕人は忍のペースに付き合ってみる。
「まぁ、あれだけ注意が逸れていれば、お湯の量が一定にならないのは仕方ないよ」
 マスターが横から入ってくる。
「一定じゃなかったですか?」
「一定じゃない上に、もっと細くしたほうがいい。全体的に太くなってたのにも気がついてないでしょう? 蒸らすのも、全体に行き渡ってなかったよ。お客様に出すにはまだ早いね」
「うっ……」
 裕人は反論のしようもなく、言葉に詰まった。
「そのマタリで、お金は取れないね。それの代金はいいですよ」
「本気ですか?」
 マスターの言葉に、思わず言葉がついて出た。
「まぁ、裕人君のバイト代から引いてもいいんだけど、許可したのは僕だしねぇ。彼女はいつも来てくれるし、たまにはサービスしないとね。他のお客様には内緒ですよ」
 マスターがにっこり微笑む。
「本当に、いいんですか?」
 忍は嬉しそうに声を上げた。
「ええ。その代わり、また飲みに来てくださいね」
「もちろんです」
 裕人は忍がやっと笑った気がした。マスターもそれを見てにっこり笑って、奥にいった。
「何かあったのか?」
「まぁ、それなりに……」
 そこで忍が一息つくように、コーヒー飲んだ。
「裕人さん。ドッペルゲンガーって信じます?」
「な、何? 突然?」
 突然の質問に、『彼』のことが脳裏をよぎる。
「だから、ドッペルゲンガーです」
「何だってそんなことを聞くの?」
 まさか、会ったのか?
「姉が見たって言ってたんです。死ぬ前に……」
「そっか……」
 裕人はほっとするとともに、そのことを言葉にできなかった。代わりに、以前、調べたことを教える。
「ドッペルゲンガーを見た人は、それが自分だと信じて疑わないんだって。だから、一種の幻覚か何かだと思うけど……」
「そうなんですか」
 忍は淡々としていた。
「君はどうなの? いると思う?」
「私は……」
 忍は少し考え込んで、答えた。
「いると思います」
「どこに?」
 裕人は、あえて「なぜ」とは聞かなかった。
「仮に、君のドッペルゲンガーがいるとしたら、どこにいると思う?」
 どうしても忍の答えが知りたかった。
「どこにって……ドッペルゲンガーだから――」
 裕人は、最後まで待たずに忍の言おうとしている意味に気がつく。
「すぐそばに……って、ちょっとやめてくださいよ。それって怖いじゃないですか」
 忍が目くじらを立てて、店内を見渡す。
「ごめん、ごめん。まさか、そんなこと言うなんて思わなかったから。何もいないって」
 だが、ある意味的を射ている。確かに『彼』も忍といつ出会ってもおかしくないところにいる。『彼』がいつここに来てもおかしくはないのだから。
『本当の問題というのは、実にやっかいで、いつも些細なことから人知れず起こって、気がついたときには、手も付けられないくらい複雑になってる』
 その言葉がまた裕人の脳裏をよぎった。
 店のドアが開く。
「いっらっしゃいませ」
 新しい客が訪れて、この話はいつの間にか、うやむやになってしまった。
 ドッペルゲンガーがいるのなら、どこにいるのだろう?
 裕人はそれ以上、湧き出た疑問を忍の前で、口にすることはできなかった。

「やぁ」
「いらっしゃいませ」
 相変わらず、『彼』は忍と同じところに座った。
「どうして、そこにいつも座るんだ?」
「そんなことは稲葉忍に聞いてみてくれ」
「だから、聞いてる」
「ふむ。それはそうだ。まぁ、いいじゃないか」
 にっこり『彼』が笑う。
 確かにどうでもいいことには違いないが、『彼』の笑顔の後ろに忍が見えて、裕人は妙に居心地が悪い。
「今日もマタリ?」
「そうさ」
「マタリ入りました」
 裕人は奥に居るマスターに声を掛けて、すぐにコーヒーを淹れる準備を始める。
「いらっしゃいませ」
 ゆったりした感じで、マスターが現れる。
 しばらくすると、コーヒーの香り立ちこめていく。
「いいねぇ、コーヒーは。人類の作り出した至高の飲み物だよ。もっとも本当のコーヒーの味を知ってる人は、そうはいないけどね」
 一口コーヒーを飲んでから、『彼』が言う。
「愛情を込めれば、コーヒーはそれだけ美味しくなる。マスターの受け売りだけど」
「まったくだ。こんなに手間をかければ、愛情はおのずと入るだろうね」
 常連客が居なかったり、客が少なかったりしたとき、マスターは奥にいることが多い。それは奥で死に豆や欠け豆をハンドピックで取り除いたり、焙煎したり、ブレンドの調合をしているからだ。これらを丁寧やってこそ、コーヒーは美味しくなる。単に上手く淹れれば良いというものではない。今日もマスターはコーヒーを淹れて、奥に戻っていった。
「ところで、稲葉がなんというか、いつもと同じなんだけど、何か違う感じだったんだ」
「まるで、別人と話しているみたいに感じたのか?」
 見透かしたように、『彼』が言った。
「ど、どうして分かるんだ?」
「僕が追い出されたことで、そうなることは予想できた」
「追い出されたって? 親に追い出されたわけでもあるまいし」
 何を言っているのか、理解できない。
「僕が好き好んで、出てきたとでも思っているのか?」
 心外だと言わんばかりの口調だ。
「僕だって、本当は『彼女』の中にいたいんだよ。まぁ、ここでこうやって、コーヒーを飲むのも悪くはないけどね」
 彼がコーヒーをすする。
「コーヒーはホットに限る。こう寒いときは、特にね」
 堪えられないといった感じで、彼は息を吐いた。
「それで、何に追い出されたんだ?」
 裕人は半分冗談で聞いたつもりだったが、『彼』は真剣な顔で答えた。
「『彼女』の姉だよ」
 裕人は一瞬言葉に詰まった。
「もう亡くなったんじゃ?」
「正確には、『彼女』の中の姉だよ」
「どういう意味だ?」
 ますます分からない。
「人間と言うのは心の中に、他人を自分の好きなように住まわせてる。簡単にいえば、テレビに出る有名人をろくに知りしないくせに、勝手にあれやこれやとそのイメージを作るだろう?」
「アイドルとかに心酔するようなことか?」
 裕人の頭の中に今売れている女性アイドルと、その熱狂的なファンが浮かんだ。
「そういう奴は、極端だけど。要するに、『彼女』の中には、自分で作り上げたほとんど絶対的な姉がいるんだよ。ほとんど畏怖してると言ってもいい」
「畏怖? そんなに怖い姉だったのか?」
「存在の大きさのことだよ。『彼女』にしてみれば姉というのは、完璧すぎたんだよ。だから『彼女』は姉に憧れもし、憎みもした」
「憧れと憎しみ?」
「何をやっても完璧な姉は、『彼女』とっては自慢であるし、そうなりたい存在でもあった。その反面で、『彼女』が何をやっても、いくら努力しても、認められなかったのは、姉のせいでもあったってことだよ。少なくとも『彼女』は心のどこかで、そう思ってる」
「なるほど……」
 きっと姉が大好きなんだろう。だからこそ、憧れてそうなりたいと思いながらも、比較され認められない自分が歯がゆく、憎まざるを得ない。その葛藤は、一体どれほどのものなのだろう?
「とはいえ、『彼女』もずっと姉を目指しつづけたわけじゃない。あきらめて、自分らしさを発見しようとしたんだ。でも、それまでやってきたことを簡単にあきらめきれるはずがなくて、抑え込んできたものが、姉が死んだことで解放された」
「じゃあ、今のあいつの変わり様は……?」
「自分を見失ってるんだろうね」
 このところの忍への感覚の変わり様が、ようやく納得がいく。が――冷静になって考えてみる。
「本当のところ、お前は彼女にとっての何なんだ? お前が追い出されたってどういうことなんだ?」
 しばらく考えて、『彼』は口を開いた。
「君は、自分が『女性』だったらとか、考えたことはあるかい?」
「そりゃまぁ、あるな」
「僕は『稲葉忍』の選択されなかった可能性なんだ」
 何を言っているのか、さっぱり分からない。
「君もそうだし、『彼女』だってそうさ。誰だって、無限にある可能性の中から一つを選択して、生きている。でも、誰にだって選ばなかった可能性というやつがあるんだ。たとえそれが、否定した可能性だったとしてもね。その選択されなかった可能性は、その人の中に宿って、形を変えて、新たな可能性を生み出していくんだ」
 唐突に『彼』が難しいことを語りだす。
「それが、一体何だって言うんだ?」
「その最初の選択が、生まれるとき、男として生きるか女として生きるかの、性別の選択なんだ。『忍』は女だから、選択されなかった可能性として、僕は男なんだよ」
「つまり、お前は、彼女が男である可能性だと?」
 なんとか意味が分かったことを返す。
「そうとも言えるね」
 普通なら、何馬鹿なことを、と済ませるところだが、その本人が自分の目の前にいるのである。『稲葉忍』が。女ではなく、男の――。
「そんなお前が、どうして追い出されなくちゃならないんだ?」
「邪魔だったんだよ。『彼女』の中の姉は、『彼女』の欲望であり、捨てきれない可能性なんだ。選択されなかった可能性の象徴である僕とは、それが大きければ大きいほど、どうしても対立してしまう。それに、『彼女』の中で、姉は女性らしさの象徴なんだ。男としての可能性である僕はとにかく邪魔なんだよ」
「お前があいつの中にいないと、どうなるんだ?」
「僕と『彼女』は相互に影響し合っている。僕が『彼女』の中に居なければ、『彼女』は生きていられない」
「どうして?」
「選択の結果は、その他の選択されなかった可能性の上に成立つからね」
 つまり、選択の結果である『あいつ』と、選択されなかった可能性である『こいつ』は、コインの表と裏ということで……つまり必要不可欠――!
「その上、新たな可能性が無くなれば、行き着く先は、生きているものは全て同じだろう?」
「死……」
「それが、どういう形でそれが訪れるかは、わからないけどね」
 死ぬ? 死ぬかもしれないのか? あの少し生意気で、人懐っこいあいつが……。まだ、コーヒー淹れさせてもらえないの、と言ってくるあいつが……。結局のところ、こいつはやはりドッペルゲンガーか……。
「俺に何か、できることはないのか?」
 『彼』はなぜか面食らったように、一瞬表情固まったのが分かる。
「君は良い奴だなぁ」
 『彼』が心底嬉しそうに、うんうんと微笑む。こいつがそんなこと言うなんて思ってなくて、思わず、面食らってしまった。
「さて、そろそろ行かないと」
「まだ、聞きたいことはあるんだ」
「君はどうしてそんなに、『彼女』のことを気にするんだい?」
「え?」
 一瞬、裕人は理解できなかった。『彼』はそのまま出て行く。
「そんなこと……」
 裕人は『彼』の出て行ったドアを見つめた。

     5

「結音?」
 忍は姉の名前に反射的に振り返っていた。
「せ、先輩……」
 通り過ぎていく人の中で、背の高いスーツ姿の男性が、目の前に立ち止まっている。姉の同級生で、忍が高校のときにテニス部で出会った槙村先輩だった。レンズの小さい、上縁の眼鏡を掛けた先輩は、当時と変わっておらず、それが相変わらずそれが様になっていた。清潔感のある短髪も当時のままだ。
「どうしてこんなところに?」
「わ、私は、こっちの大学なので」
 どぎまぎして答える。
「そうだったんだ。……そういう格好だし、思わずお姉さんと見間違えたよ。いるわけないのにな。お姉さんのことは……何といえばいいのか」
 先輩の顔に暗い影がよぎる。先輩も姉の葬式に来ていた一人だった。そのとき忍は、わざと先輩を避けていた。
「大丈夫?」
「まぁ、なんとか」
 作り笑いを浮かべてみる。
「そっか……」
 先輩はそのまま何も言わない。
「先輩はどうしてこんなところに……」
 別の県外の大学に進学したと聞いていた。
「こっちにやりたい企業があったから、就職活動で。今はその帰りで、ちょっとぶらぶらして……こんなところで会えたのは、もしかすると結音のおかげかもな……」
 冗談混じりに先輩が笑う。
 姉さんのおかげ……? 
 心の中がざわざわと虫が這うように、落ち着かない。忍は奥歯を強く噛み締める。
 私は、そんなことは信じない。姉さんのおかげなんて。
 と、そこで、あることに気がついた。
「先輩って、姉のこと『結音』って呼んでましたっけ?」
 先輩が一瞬戸惑ったような表情を浮かべる。
「……稲葉さん、今、時間ある?」
「ありますけど……」
 突然の誘いだった。正直に言えば、この先輩とあまり一緒に居たくない。思い出したくないこと思い出してしまう。
「えっと……」
「ちょっと、話さないか? 聞いて欲しいことがあるんだ」
 先輩の真剣な表情に、忍が断わりたかったが、断われず頷いてしまう。
「そこに喫茶店があるね。そこで良い?」
 忍が曖昧に頷くと、先輩は「じゃあ、そこで」とだけ言って、すぐそこにある喫茶店へ向かった。
 この喫茶店は、『琥珀』のようなコーヒー専門というより、入り口でドリンクと一緒に軽食を注文するタイプだった。味にあまり期待は出来ない。
「こんなところで悪いね」
 入り口でメニューを見上げて、先輩が言う。
「い、いえ、そんなことないです」
「ここは俺が出すから、好きなの頼んで」
「そんな悪いです」
「無理に連れてきたんだし、いいよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて。ブレンドを」
「ブレンドを二つ。どこか座ってて。持っていくから」
 忍は言われるまま、奥に向かった。
 気軽に入れるのが売りなのだろう、奥に広い店内を見渡すと、夕方にしては、思ったより客が多い。一番奥の席が空いていたので、忍はそこに座ることに決めた。先輩もすぐにやってきて、忍の前にコーヒーを置いた。
「こうやってちゃんと話すのは、いつ以来だっけ?」
「大分久しぶりですね」
 感情を隠すために、忍はコーヒーを飲んだ。
 不味っ。
 思わず、忍は顔をしかめる。
「苦い?」
「いえ、そうではないですけど……」
 こういう不味いコーヒーは、ミルクと砂糖で味を変えるに限る。
「それより、話ってなんですか?」
 テーブルに備え付けられている、生クリームと砂糖を取り出しながら。忍は尋ねる。
「そうだな。稲葉さんは、本当は、俺とは顔も合わせたくないだろうけど……」
 どうやら、見透かされていたらしい。忍は自分の表情が引きつったのが分かった。
「どこから話せばいいのか? 思い出したくないかもしれないけど、君が俺に告白したとき――」
 努めて思い出さないようにしてきたことが、せきを切ったように忍の脳裏に蘇ってくる。
 忍は高校一年の夏、先輩が好きだった。男子も女子も同じように練習していたから、先輩が引退してからも、時折、部活に指導しに来てくれるのは、忍にとって何よりも嬉しいことだった。
 忍が先輩に告白したのは、部活が終わってから、先輩を一緒に帰ろうと誘って、わざと他のみんなと帰る時間をずらした。夕暮れ時で、影が妙に長かった。
『中学のときからずっと……好きでした』
 告白したとき先輩の顔は夕日に照らされていた。一瞬のような、永遠のような、そんな時間が過ぎて、先輩はこう言った。
『ご、ごめん。俺は……稲葉結音が好きなんだ』
 姉さんは、いつも私の欲しいものを持っている。
 あのとき、心の底からそう思った。
 それから、忍は姉と同じ髪型を真似るのをやめた。テニス部もやめた。先輩のことも避けた。
「君が告白したとき――俺は結音と付き合っていた……」
 付き合っていた? 
「本当は、あの時、そう言うべきだったけど、結音からどうしても君にだけは言わないでくれって、言われてて」
 姉さんと先輩が?
「結音がどうしてそんなことを頼んだのかは、わからないけど、とにかくあの時、俺たちは付き合っていた」
 姉は知っていたのだろう。あのときの私の気持ちを――考えてみれば、あの姉が誰とも付き合っていないはずがない。
「姉とはどうなったんですか?」
 心の中で何かがざわざわと動き出して、気持ち悪い。
「それが大学が違ったということもあって、行き違いが多くなって……別れたよ」
 先輩は言いにくそうだったけれど、はっきり言った。
「そうだったんですか……でも、どうして今ごろになってそんなことを?」
 何故かイライラする。噛み締めた奥歯が痛い。
「本当は言う気はなかったんだけど……」
 先輩は言葉を探すように、コーヒーを飲む。
「多分……ずっと謝りたかったんだと思う……」
 『何を』とは、聞けなかった。『誰に』とは、聞けなかった。先輩は私を見ながら、別の人間を見ている。先輩にあるのは後悔だけだ。それに気がついた瞬間、はっきりとした何かが込み上げてくる。
「先輩は、まだ姉のことが好きなんですね」
 忍は先輩を見据えて、はっきり言ってやった。先輩がはっと息を飲む。
「そう、だな……まだ……」
 姉さんの代わりなんてまっぴらだ。これ以上、ここに居る必要はない。いや、居たくない。
「じゃあ、私は行きますね。コーヒーご馳走さまでした」
 先輩は力なく俯いて何も言わない。体がテーブルに当たって、コーヒーが揺れる。
 込み上げてくる何かは抑えているのに、溢れ出て止まらない。
 姉さんが巡り合せた? 
 何のために? 
 そんな良いものじゃない。
 どうして私を苦しませるのよ?
 私を苦しませて、何がそんなに楽しいの?
 これじゃ、私は姉さんのピエロじゃない……。姉さんの手の上で踊る――。
 アーケード街を出ると、太陽はすでに沈んでしまったのか、すっかり暗くなっていた。人通りを避けて、早足で歩く。
「寒い……」
 忍は周囲を見渡すと、路地には誰も居ない。ぽつんぽつんとある街灯がやけに遠くに見えた。
「寒い……」
 何かが頬を伝った。
「あれ? こんなつもりじゃないのに……」
 それを拭う。
「何で、泣いてるの?」
 理由さえ分からない。ただ悲しかった。足が思うように動かない。
 ずっと姉さんのようになりたかった。姉さんのようになれば、比べられることもなくて、誰もが私のことを見てくれる。そう思ってた。でもそれは姉さんを引き立てるだけ。ピエロだ、私は――。
 湿った風が、まとわりついてくる。
 でも、もう姉さんはいないから……私が姉さんになればいい。これはいいチャンスなんだ。もうピエロでいることなんてないんだ。そうすれば、きっと――。
 何故か全身が震えている。
 視界の端に何かが現れる。
「姉さん……?」
 姉の形をそれは、ゆらりと忍に近付いてくる。
「違う……」
 街灯が明滅を繰り返す。
「何?」
 突然、街灯が消えて、何も見えなくなる。
 次に街灯が点いた瞬間、それは目の前にまで来ていた。
「えっ!」
 はっきりと認識する。
 私!
 それは、にやっと笑った。口の右端が不自然なほどに釣りあがって――忍の背すじに何かが這うような嫌な感触が走り抜ける。
 それは右手をぬっと突き出してきて、忍の胸を触ろうとする。忍は逃げ様にも、何故か体が動かない。
 それの右手が胸に触れたところで、一度止まる。
「な、何をするの?」
 自分の心臓の音がやたらと大きく聞こえる。
 それは楽しそうに大きく口を開けて、笑って――。
「あ」
 次の瞬間、忍は目を疑った。すっと右手が忍の胸の中に消えていた。痛みも何もない。ただ、融けて混ざり合う――。
 街灯が消える。ほんの一瞬だけ、何も見えなくなる。
 次の街灯が点いたとき、そこには誰もいなかった。
「何?」
 胸を触ると、何ともない。
 ふっと、街灯が消える。
「あああああ……」
 走った。
 奥歯が震える。
 一体、何なの? 怖い……怖いよ……。
 歩きなれたはずの路地なのに、どこまでも続いているようで、走っても走っても、どこにも交わらない。すぐそこにあるはずの交差点が、遠い。
 カツ、カツと後ろから聞こえた。
 一度後ろを振り返る。何もない。
「キャッ!」
 足がもつれた。体が支えを失って落ちていく。
「あっ……」
 両手のひらが痛い。反射的に体を守ったようだ。肩にかけていたバックから化粧ポーチや財布、ハンカチ、ミラーが少し散乱していた。
 辺りを見渡すとまだ路地の半分ほどだった。誰もいないけれど、次の交差点はすぐそこに見えた。
 忍はほっと息を吐いて、落としてしまったものを一つずつ拾っていく。四角のミラーを拾ったとき、顔が映る。
「誰……?」
 そこには他の誰でもない姉である結音の顔があった。
「わ、私は誰なの……?」
 震える手からミラーがこぼれ落ちていく。そして、鈍い音がしたあと、割れる音が響いた。
「誰、私は?」
 無性に誰かに会いたくなった。
 裕人の顔が浮かぶ。
 会いたい――彼なら私を救ってくれる。
 足が自然と『琥珀』へ向かった。

     6

『明日は北からの寒波の影響で、零時過ぎから雨、また雪が降るでしょう。所によっては――』
 裕人はぼんやりベッドの上で、寝返りを打った。時計は朝の八時を回ろうとしている。
『路面が凍結する恐れもありますので、お車を運転される方は十分にお気をつけてお出かけください』
 裕人が忍と出会って、もうすぐ一年になる。忍はこっちに越してきて間もなかったのか、『琥珀』には一人で来ていた。まだ高校生らしさが抜けきれないで、大学にまだ淡い期待を持っていたであろう頃だ。さもスポーツをやっているような活発な印象を受けた。
 そのときはたまたま座る場所がなくて、空いていたのがカウンターの一番奥だった。それ以来そこ以外に座ったことがない。
 初めて注文したときは、どことなく緊張していたように思える。
 忍はコーヒーがポットで出てくることに驚き、コーヒーを飲んだとき「あっ」と小さな口で漏らした。
「何でこんなに憶えてるんだよ?」
 鼓動が早く感じられる。
『お客さんは、大学生?』
 馴れ馴れしいかなと思いながらも、話し掛けた。
『はい』
『俺もそうなんだ。そこの――』
 未だに大学で会ったことはない。学部が違うのだろう。
『じゃあ、私の先輩ですね。私は今年入学してきたんですよ』
 そう忍は明るい声で言った。
『サークルとか入ったりしたの?』
『入ってもいいかなって思ってたんですけど、やめました』
『どうして?』
『何かここだ、って思えるのがなかったんですよ。長続きしないところに入っても、面白くなさそうだし』
 忍は手のアクションをオーバーに、少しつまらなそうに顔を膨らませる。
『俺もそうだったな。その代わりここを見つけたんだけどね』
『良い所ですね。気に入っちゃいました』
 さっきは顔を膨らませたと思ったら、にっこり笑っていた。
 それから、忍はよく顔を見せるようになった。表情が豊かで何でも気軽に話せた。
「認めたくねぇけど……」
 妙に悔しい。
 裕人はもう一度寝返りを打った。

 『琥珀』――。
 昼過ぎから、客足が止まらない。ずっと動きっぱなしだ。
「一体、どうしたんですかね、今日は?」
「こういう日もあるよ」
 マスターがコーヒーを淹れながら笑う。
「ところで何か今日はそわそわしているようだけど、どうかした?」
 マスターの言葉に一瞬、どきりとした。
「どうもしませんって」
「そうならいいんだけど。これは三番テーブル」
「わかりました」
 裕人はカウンターから出て、コーヒーを運ぶ。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
 今日、あいつは来るだろうか?
 ポツリと空いている、カウンターの一番奥の一席を裕人は見つめた。
「裕人君、ブルマン出して」
「あ、はい」
 マスターの言葉に、慌ててカウンターの中に戻る。
「いつもあそこの座る友達が、気になる?」
「え?」
 裕人は思わず、ブルマンのキャニスターを落としそうになる。
「最近、様子がおかしくなかった?」
 なんだそういうことか。
「そうですね。ちょっといろいろあったらしくて」
 落ち着いて、そう返す。
「早く元気になるといいねぇ」
「ええ」
 裕人はブルマンをミルにかけた。
 今はピアノのBGMは聞こえない。
 夕方には客足も減ってきた。
 一番人気のマスターのオリジナルブレンドは、すでに切れていた。

「今日は来なかったね」
「誰がです?」
「彼女だよ」
 深夜十二時の閉店間際、心配そうにマスターがカウンターの一席を見つめる。すでに客は誰もいない。
「そうですね」
 忍がいつも座る席を、エプロンを脱ぎながら裕人も見つめる。
「まぁ、大学は休みですし、そのうち来ますよ」
 裕人は明るく言う。
「そうだね。僕が心配することでもないけど、またコーヒーを飲みに来てくれることを祈るよ」
 どこか遠い目をマスターがする。切ない表情で――
『飲みに来なくなったお客さんのことを考えると、寂しいねぇ』
 昔、マスターがそんなことを漏らしたのを思い出す。
「ちゃんと来ますって。何なら、俺が引っ張ってでも連れてきますよ」
「ありがとう」
 そう言えば、あいつも来なかったな……。
 店の忙しさと忍のことですっかり忘れていたが、『彼』も姿を見せなかった。
 そのとき、ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
 忍だった。
「なんだって、こんな遅い時間に。もう閉店だぞ」
「まだ開いてるんだから、いいじゃないですか」
 裕人の前、カウンターの真ん中に忍が俯き加減で座った。
「奥まで行かないのか?」
「……そこまで歩くのがめんどうなんですよ」
「おい」
 イライラする。俺の知っている稲葉忍はこんな奴じゃない。洗っていたカップに力が篭る。
「そんなに睨まないでもいいじゃないですか?」
 忍に上目遣いをする。
「あのな」
 声に怒りがこもって、大きくなっていた。
「裕人君」
 マスターが制そうとするが、それを無視する。
「お前は誰だ?」
 一瞬、忍の表情が凍りついたのが分かった。顔から血の気が引いていく。
 忍が黙って席を立った。
「おい、一体どうしたんだ?」
 じっと忍が見つめていた。裕人はそこで今日初めて忍の顔をはっきりと見た。化粧もぼろぼろで泣いた後が、はっきりしていた。瞳も赤く、涙を溜めていた。思わず謝ろうとしたが、何かにすがろうとしていた瞳に、言葉が出なかった。
 忍がそのまま駆け出す。
「待てよ」
 忍はそれを聞かず、店を出て行く。裕人は呆然とドアが閉まるのを見ていた。動けなかった。一瞬、忍の顔が思い出される。何かあったに違いなかった。
 何をやってるんだ、俺は。
「裕人君」
 マスターの方を振り返る。
「マスター。俺は――」
 マスターはただ黙って大きく頷く。それが背中を押してくれているようで――裕人は腹を決めた。
「マスターちょっと行ってきます」
 裕人はカウンターから飛び出して、忍の後を追った。
 店のドアを開けた瞬間、寒さが肌を突き刺す。
 階段を駆け上がって、外に出ると雪が舞っていた。目の前にある国道には、まばらに車が走っている。
 思えば、こんな時間帯に忍が店に来ていること自体がおかしかった。
 どうしてそれに気がついてやれなかったんだろう?
 自己嫌悪で胸が一杯になる。だけど今は後悔しているときじゃない。
 裕人は辺りを見渡して、歩道の向こうに忍の姿を確認する。
「待てって」
 裕人は声を上げて走り出した。
 忍は振り返ると、逃げ出した。
「なんだって、逃げるんだよ!」
 裕人はスピードを上げた。今を逃すと、忍にはもう会えない、そんな焦燥感があった。
 雪が目に入る。
「あの馬鹿!」
 忍はヒールのある靴で走っていた。あれじゃ、すぐ転んでしまう。
 裕人はさらにスピードを上げた。
「きゃっ!」
 短い悲鳴が聞こえた。交差点を曲がろうとして、案の定忍は転んだ。
「ほら」
 裕人はすぐに追いついて、忍に手を差し出す。
「何、やってんだよ?」
「何がですか?」
 街灯に忍の顔が照らされる。雪が忍の顔に、肩に、胸に舞い散る。
「そんな着慣れない格好して、高いヒール履いて。似合ってないぞ」
「うるさいわね。私はずっと姉さんみたいになりたかったんだから。女らしく姉さんみたいになれば……」
「いいから、立て」
 腕を掴んで持ち上げようとするが、それを忍はキッと睨みつけて止めさせる。
「放っといてくれない? あんたに一体何がわかるっていうのよ! 先輩面がしたいわけ? 大体、店員と客でしょ! 関係ないじゃない!」
 こんなぼろぼろの忍は見てられなかった。それでも忍はまくしたてる。
「姉さんが死んだのは良い機会よ! 私は姉さんになるの! 姉さんと同じような格好をして、同じ髪型をして――」
 髪を振り乱して、泣きじゃくる子どものようだ。
「いい加減にしないか!」
 裕人は大きく声を荒げた。忍がビクッと一瞬硬直した。
「姿、形をどんなに真似ても、お前はお前だろう」
「違う。姉妹なんだから。ずっと姉さんを見てきたんだから! 性格だって……」
 忍は首を左右に大きく振って、がくがくと震えていた。
「お前の思っていた姉さんというのは、誰かの真似をするような人だったのか? そんな人に憧れていたのか?」
 忍が息を呑む。大きな瞳は涙を溜めて揺れていた。
「違うんじゃないのか?」
「そうよ。姉さんはそんな人じゃなかった……」
 忍はどこか遠くを見ていた。
「もう、気がついてるんだろう。どうしたって姉さんのようには、なれなかったんだろう? 違うか?」
 裕人は出来る限り優しく声を掛けた。
「どんなに真似をしても、姉さんのようにはならなかった。化粧だって同じのだし、髪型だって同じよ。服だって――。でも、鏡に映った私は姉さんのようでも、姉さんじゃない……。私は誰? 分からないよ。助けて……私が誰か教えて……」
 忍がすがるようにどこか遠くを見て、腰にしがみついて来る。痛くなるくらい、きつく、きつくしがみついて来る。裕人はそっと忍の肩に手を置いた。
 ずっと怖かったのだろう。不安だったのだろう。誰も自分を見てくれず、憧れていた姉を真似れば真似るほど、そこに自分はいないのだから。それでも真似ずにはいられない……自分が壊れてしまうまで続く悪循環――。
 裕人は唐突に分かった。
 どうしようもなくて、助けが欲しくて、だからこんな時間でも忍は『琥珀』に来たのだろう。
「まったく。いいか。一度しか言わないから、よく聞けよ」
 裕人は吐き捨てるように言った。

     7

「俺が好きになった稲葉忍は、そんな奴じゃない」
 裕人が何を言ったのか分からなかった。
「表情がころころ変わるやつで、少し生意気で、人懐っこい奴なんだよ。お前の姉さんがどんな人だったのかは、知らないけど、お前はお前だろう? 外側だけどんな取り繕ったって、お前は稲葉忍以外にはなれないんだよ」
「私は、私以外になれない……?」
 意味も分からず繰り返す。
「もう一度聞くぞ。お前は誰だ?」
 裕人が覗き込んでくる。
「私は……」
 自分の顔が脳裏をよぎる。でもそれは自分の顔じゃない。他の誰かの顔。
「姉さんのようになりたかった。でもなれなかった。それは誰だよ?」
 そう私は姉さんになりたくてもなれなかった。姉さんのようになろうとした私は、そう――
「私は、稲葉忍……」
「そうだよ。姉さんになりたかろうが、何だろうが、そんなのも全部ひっくるめて、お前は稲葉忍なんだよ。俺はお前が稲葉忍だから、好きになったんだよ」
 裕人がにっこり笑った。
 温かい感情が、胸の中で拡がっていくのが分かる。
 この人は見てくれていた、私を。ちゃんと――。心がすっと楽になった気がした。
「ほら、立てって。こっちはシャツ一枚で寒いんだよ」
 顔を上げて見ると、裕人は白シャツに黒のスラックスという格好で、雪の降る中では寒すぎる。
「あ、はい。すいません」
 裕人の差し出した手を取って立ち上がる。薄い手袋越しでも、彼の手の冷たさが伝わる。涙が溢れて止まらない。
「分かったから、泣くな。こっちまで恥ずかしくなる」
「すいません。だって――」
 そこから先は言葉にならない。
「だから泣くなって」
 裕人が心底困った顔を浮かべて、溜め息を吐いた。
「それで、どうなの?」
 恥ずかしそうに裕人が顔を逸らす。何を言っているのかわからない。
「告白したんだ」
「あっ!」
 口から小さく漏れた。
「え、えっと……」
『いつか、美味しいコーヒーを淹れてやるよ』
 そう裕人が笑った。マスターの淹れるコーヒーを真剣に見つめている裕人を横で見てきた。
 だから、ノートに書いた。『応援してます』と。最初に飲むのは心密かに自分だと、そう思っていた。
 裕人と『琥珀』で話す時間が、何よりかけがえのない時間だった。当たり前すぎて忘れていた。
「よ、よろしくお願いし――」
 車のクラクションが鳴り響く。
 背後のことに裕人を振り返ろうとする。それよりも早く忍は思いっきり、裕人を横に突き飛ばす。
 裕人は何が起きたのかわからない表情で、しりもちをつく。それも一瞬――そんな忍の視界を遮って一台の車が、曲がりきれず、後輪を滑らせてくる。
「え?」
 何故か裕人の声が聞こえた。
「やっぱり、あれはドッペルゲンガーだったのかな」
 忍はそんなことを呟いて目を閉じた。
 
「ここは……?」
 霧の中にいるような、そんな感覚だった。ふわふわして、どこか落ち着かない。
 足音が聞こえた。忍はその方向へ振り向く。
「姉さん?」
「まったく、どうしてくれるの? せっかく表に出てこれると思ったのに」
 彼女はあきらめたような表情を浮かべていた。
「違う……あなたは私。私の中にずっとあった、願望。……私は姉さんのようになりたかった」
 今なら素直にその感情を認めることができる。
「ことあるごとに、出てきたのに、もう無理みたいね」
 姉の姿をした彼女が微笑む。
「姉さんのようになれないのは、私が一番よく知ってるのにね」
「それでいいのよ。本当になれるかなれないかは、やってみなくちゃ分からないんだから。もう十分でしょう? もう私を押さえ込むこともないでしょ」
「うん。姉さんのことは、本当に好きで、私の憧れで、でもやっぱり嫌いよ」
 忍は笑った。
「私の役目は終わったわね。もう姉さんの影に惑わされることもないでしょう」
 姉の姿をした彼女が、すがすがしく笑って背を向けた。
「どこにいくの?」
「霧の向こうよ。私の帰るべきところに帰るだけよ」
「何があるの?」
「まだ何もないけれど、あなたに必要な全てがあるところよ」
 彼女は霧の中に消えて、もう現れることはなかった。
 霧の向こうから彼女と、もう一つ、男性の声が聞こえてくる。
「やっと、戻ってこれた。こんなことはこれっきりにしてくれ」
「私は私の役目を果たしただけよ。私が完全になるにはあなたは邪魔だったんだから」
「それはわからないでもないんだが――」
 それはやれやれといった感じの男性の声だった。それは自分の声とは似てもいなかったけれど、間違いなく自分の声だった。

     8

 忍が目を覚ましたのは、丸一日も経ってからだった。路面の凍結によるスリップ事故だった。車もあまりスピード出てなかったことが幸いして、大したケガもなかった。さすがにケガの割に、目覚めるのが遅かったのは、裕人も心配だった。医者も念のためと、入院を二日も延ばした。
「一番、姉にこだわっていたのは、私だった。私が一番自分と姉を比較してた。でも、今は何か吹っ切れた気がする。憑き物が取れた感じ」
 見舞いに行ったとき、病院のベッドの上で忍がそう言った。
 裕人は忍の両親にも会った。車の運転手がしきりに頭を下げていたが、二人ともそれどころではないくらいに、気が動転しているようだった。
 忍が目を覚ますと、二人とも強く抱きしめていた。
「お前まで亡くしたら――」
 忍は抱きしめられながら、「ごめん、ごめん」と泣いていた。
 その光景を見て、裕人はなんとなく、ほっとしたのを感じた。
 もう大丈夫だろう。忍に感じていた妙な違和感もない。代わりに、忍が一回り大きくなったようにさえ感じる。
 その忍が今日、退院してくる。
 裕人は退院には付き添わない。どうせ両親が付き添うのだろう。そこに自分が入り込めるとも思えない。だから、裕人は今日もいつもどおり、『琥珀』へ行く。
 裕人は忍の事故の前日以来、『彼』を見ていない。
「どうしてるんだか?」
 結局のところ『彼』はなんだったのか? 考えてもわからない。端から見れば、忍に起きたことは、姉が死んでその影を追いかけていたに過ぎない。だが、『彼』が新たな可能性であることを信じるとすれば――
 雑居ビルの階段を下りて、真正面に現れるダークブラウンのドアを開けた。
 中から談笑する声が聞こえる。裕人が来たことにさえ気づかないようだ。レジ横を通って店内を見渡す。客は一人だけのようだ。
「本当に人生には美味しいコーヒーが必要だ」
「そうですねぇ」
 マスターが頷くその先に、いつもの場所に『彼』が居た。
「あ、やってきたみたいです。裕人君、君のお客さんだよ」
「やぁ」
 『彼』が軽く手を上げた。
「今まで、どうしてたんだよ?」
 裕人は驚きで、少し声を張り上げてしまっていた。
「無事、元に戻れて、いろいろやることがあったんだよ」
「それでせっかく戻ったのに、出てきてどうするんだ?」
「心残りがあったんだよ」
 『彼』が真剣そのものといった感じだったので、裕人は身構えたが――
「君の淹れたコーヒーが飲みたいんだ」
 裕人は思わず拍子抜けしてしまった。
「それくらい、別にいいけど、マスターが」
 ちらっとマスターを見る。
「僕は構わないよ。淹れてごらんよ」
「わかりました。マタリで良いのか?」
「よろしく頼むよ」
 早速、準備を始める。マスターが隣で見守っている。『彼』は頬杖をしてBGMに耳を傾けている。
 ポットを火にかける。豆をメジャースプーンで量って、ミルで挽いていく。冷蔵庫で保管している布フィルターを取り出して水気を布巾の上から軽く叩いてとる。さらに、蒸気に触れさせて暖めてから、挽き終わった二杯分のコーヒーの粉をフィルターの中へ移す。フィルターのしわを直して、一回目の注湯が全体行き渡りやすいよう竹べらで真ん中を軽く掘っておく。沸騰したポットを、火を消してコンロから外して、中のお湯をサーバーに移して、またポットに戻す。これを二度行って、お湯の温度を九十度くらいに調節しておく。
 次が一番重要なポイントになる。この蒸らしで味が決まってしまう。湯がフィルターに触れないように、粉全体にできるだけ静かに注ぐ。約三十秒、フィルターの側面に湯が染みてきて、コーヒーの香りが漂いだす。あとは粉の中心から外へ十円玉の大きさをキープしながら、泡が膨らみ過ぎないようにお湯の量を調節しながら、糸のように細く注いでいく。二杯強のコーヒーが入ったのを見て、フィルターを外した。
「お待たせしました」
「ありがとう」
 サーバーからカップへ、『彼』の目の前で注ぐ。それは底が見えるほど、澄んでいた。
 裕人はここで大きく息を吐いた。横目でマスターを見ると満足そうな表情を浮かべて、奥へ行ってしまった。
「どう?」
「美味しいね」
 満足そうに『彼』が頷いて、席を立った。
「さてと」
「お、おい、どうしたんだ? まだ残ってるじゃないか」
「僕のやるべきことは終わったんだよ」
「なんだよ……まだ残ってるだろ?」
「それは僕の分じゃないよ」
 『彼』がふっと笑って、ドアを開ける。不意に妙な寂しさを覚えた。
 これで、俺はもうきっとこいつに会うことはない。
「そんな顔をするもんじゃないよ。すれ違う多くの人たちは、どうでもいい他人だろう? いつどこでどうなろうとも、気にもしない。僕はそういう存在なんだよ」
「そんな淋しいこと言うなよ」
「僕は『稲葉忍』以外の何者でもないし、それ以外の意味はない。あとは、静かに消えていくだけさ」
 裕人は言うべき言葉を見つけられない。『彼』が出て行って、ドアは静かに閉まる。裕人は『彼』を追ってドアを開けた。
「わっ!」
 そこには驚いた顔の忍がいた。
「よく私が来たって、分かりましたね」
「……まぁな」
 裕人は唐突に閃いた。
「コーヒーを淹れたんだ。飲んでくれる?」
「もちろんです」
 にっこり笑って、忍はいつもの席に座る。飲みかけのコーヒーの置いてある――それを確認して、裕人は外へ続く階段の先を見上げる。そこには青く狭い空があった。
 不意に『彼』の言葉が浮かんだ。
『僕が誰かなんて、大した問題じゃない。本当の問題というのは、実にやっかいで、いつも些細なことから人知れず起こって、気がついたときには、手も付けられないくらい複雑になってる』
 裕人は思う。結局のところ、全ては『彼』が仕組んだことなのかもしれないと。
「それも終わってしまえば、何が問題だったのかも分からないじゃないか……」
 少しだけ胸が締め付けられた。
 そして、裕人は店の中に戻った。
「これですか?」
 忍がコーヒーを指差す。カウンターにはマスターがいた。
「淹れたばっかりだから、飲んでみて」
 忍の横に裕人は座った。
「透き通る琥珀色ですね」
 忍がカップを口にした。
「……美味しい」
 忍の目が丸くなった。
「だろ?」
「君は何が問題なのか考えているみたいだが、そこにある意味は、結局のところ、自分で見つけないといけないんだ。誰も教えちゃくれないんだから」
 不意に、『彼』の言葉が聞こえた気がした。
「おいしいですよ」
「あ、ああ」
「どうかしました?」
 
「俺も飲もうかな、と」
 裕人がカップに手を伸ばすが、
「あげません」
 忍がカップを口に運んだ。
「私、この曲好きなんですよ。なんて曲でしたっけ?」
 いつの間にか、BGMが変わっていた。いつか裕人が『彼』に教えた曲だ。
「えーと」
 裕人が教えるより早く、
「そう『セピア色の写真』」
 ああ、そうか。ちゃんと『彼』は忍の中にいる。
 裕人はまじまじと忍を見つめた。
「その格好……」
「これですか?」
 忍は胸元のねじれた白いセーターに淡いピンクスカートを着ている。
「あのときと同じ格好なんですよ。不思議と気に入っちゃって。こういうの嫌ですか?」
「いや、いいんじゃないか。似合ってると思うよ」
 素直にそう思えた。忍の表情もぱっと華やいだ。
 
「仕方ない。マスター、自分の分も淹れてもいい?」
「ああ。いいよ。これからは、自分の分と言わずにお客さんの分まで淹れてもらおうかな」
「本当ですか?」
 マスターが大きく頷いた。裕人は思わず、ぐっと拳を握っていた。
「良かったですね」
 忍も自分のことのように喜んでいる。
「もう春だね」
 マスターそう目を細めた。

end
RYO
2011年10月17日(月) 23時14分12秒 公開
■この作品の著作権はRYOさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
7年前の作品です。
6年前に20枚ほど加筆したらしいです。
……元は、私がTCに来る前に作品ですね。
TCに投稿するにあたって、加筆したんだっけか?

今、読んで見ると、途中から話が一気に進んでしまってますね。もっと長い尺で書けばよかったかなと今更ながら思います。
キャラの性格の何か微妙に変わってないか?

今回改めて投稿したのは、今考えている作品の設定の根本が何か似ているからだったりします。テーマは完全に違うので、まったく違う話になるとは思いますが。

長い作品になりますが、お時間があれば感想をいただければ幸いです。
コーヒーを飲みたくなれば、なお幸い。
登場する「セピア色の写真」は、ピアニストであるアンドレ・ギャニオンの曲になります。興味があればお聞きください。

この作品の感想をお寄せください。
No.4  ラトリー  評価:40点  ■2011-11-20 22:04  ID:x1xfMMn8lDg
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 こんばんは。たいへん遅くなりましたが、読んでみた感想を書いてみたいと思います。

 改めて読みなおすと、なるほど長編向きの文体ですね。一文ずつを変に飾り立てることなく、一連の流れから物語が浮かび上がってくるような構成になっていると思います。すらすら読めて、自然にお話を形作っているものが見えてきます。自分が書くとどうしても間延びしやすいので、参考になります。

 このお話を振り返る上で、やはり欠かせないのがコーヒー。コーヒーへの強いこだわりが、いろんな意味で独特な味わいをもたらしていたような気がします。自分の場合、まず物語が起こっている情景を映像として思い浮かべ、それを文字に起こすような書き方を続けているので、どうしても視覚的な情報ばかり先行しがちになり、全体として作り物めいた空気を作ってしまうことが多々あります。このお話の場合は、衣装やインテリアなどの小道具もさることながら、何よりコーヒーの香りまで漂ってくるような細かな描写が印象的ですね。視覚ばかりでなく、聴覚や嗅覚、味覚もきっちり書きこんである作品のほうがリアル感が増すのは間違いありません。
 一方で、ドッペルゲンガーの恐怖→あわやお姉さんの二の舞→救済、という本筋にはほとんど絡んでこなかったのは、個人的にはちょっと物足りないかなという気もします。あの香りが生死を分けた、この味に触れるたびあなたを思い出す、みたいな直接的な役割を果たしてくれてもいいかなと思いました。もちろん、完全に脇役に徹して、物語を周りから彩るポジションも充分アリとは思うので、あくまで個人的な好みですが。

 他に思うこととしては、物語にもう少しケレン味というか、派手さがあってもいいかな、と。あまり必要以上に怪奇に怯えたり、感情の揺れ幅が大きいとお話自体に落ち着きがなくなって、「大人の物語」としての引き締まった空気が失われてしまうとは思うのですが、より先を読みたくなる、続きが気になる出来事があってもよかったように感じます。
 忍が『姉』(より正確には、姉のようになりたくてもなれなかった彼女自身の深層心理)の意識にむしばまれ、やがてすべてを乗っ取られてしまうのではないかという恐怖、さらに忍を名乗る『彼』の得体の知れなさ、謎めいた振る舞い。それら一連の興味を引くものがさらに強調され、終末で一気に解決され、カタルシスをともなって押し寄せてくる。個人的に、読み終えて一番満足できるものを考えた場合、そういうものが欲しい感じです。

 こんなところでしょうか。総じて、たいへんいい雰囲気の作品なんですが、何かしらのインパクトをいま少し求めたくなる印象でした。以上です。
No.3  RYO  評価:0点  ■2011-10-30 17:11  ID:oic0vDYEV26
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お読みいただきありがとうございます。
>夕凪様
以前、夕凪さん、この話を途中で止めてらした記憶があります。
今回は最後まで読んでいただいてうれしい限りです。

>HAL様
いつもありがとうございます。
誤字がー誤字がーと叫んでおりますが。どうも、助詞が抜けたり、誤るのが悪いクセのようで。気をつけてもどうにもなりません。
話の展開についてはそこがやっぱり唐突ですよね。
具体的なエピソードをさらっと入れられるといいな。力不足と、想像力不足ですね。

ではでは。
No.2  HAL  評価:40点  ■2011-10-22 22:05  ID:8mSeDCoUzDI
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 拝読しました。

 面白かったです。ドッペルゲンガーの正体、という謎に興味を惹かれて読み進めるうちに、だんだん明らかになっていく、心の問題。物語全体を通して漂うやさしい雰囲気が、とても好きでした。これまで拝読したRYO様の作品の中で、いちばん好きかもしれません。

 お姉さんの真似のつもりで買ったはずの服を、反動で捨てたりするのではなくて、気にいってこだわらずに着られるようになったくだりが、ああ、本当に解放されたのだなあという感じがあって、よかったです。

 これは本作への感想というのとはちょっと違うかもしれませんが、RYO様の小説にコーヒーが出てくるのを見ると、なんだかにやりとしてしまいます。
 美味しいコーヒーが飲みたくなりました。こういう描写を読んでいると、自分が好きなものについて書く、って大事なことだなと、改めて思います。

 気になったところがひとつ……細かい点で恐縮ですが、

>  それでも、特定の男性と付き合ったなんて話は、聞いたことがなかったし、そんな素振りさえ見たことがなかった。そんな姉は忍の自慢だったし、憧れでもあった。
 ここの文脈が、「男性と付き合ったことがなかったから」「自慢だった」というように読めてしまうのが、ちょっとひっかかりました。

 あと、気になったというのとは違うのですが、しいていうなら、お姉さんと主人公のあいだにあった具体的な思い出や、裕人さんが主人公に惹かれるにいたったエピソードなどは、もう少し掘り下げた描写が読みたかったような気もしたのですが……でも、いまの形できれいに話の流れができているので、付け加えたりするのは難しいかもしれませんね。

 それから、誤字が少し。自分もよくやらかすのでひとさまのことはいえませんが(汗)、発見報告まで。

> 早く決めろと急かされている気分なるのよね。
> いつも何でも思いつつくままに
> どこかで会ったことのあるような気もする。(「会ったことがあるような」または「会ったことのある顔のような」の間違いかな?と)
> 「何を言われてるんですか?」(誤字じゃないんですけど、敬語の使い方に違和感がありました)
> すでに時計は一時を回しまっていた。
> 「本当は、あの時、そういう言うべきだったけだけど、
> 行き違い多くなって……
> お車を運手される方は
> マスターのオリジナルブレントは、
> 「俺が好きなった稲葉忍は、
> 何よりかけがえなかった。(かけがえのないものだった。の間違いかな、と)

 楽しく読ませていただきました。あいかわらずの拙い感想、どうかお許しを。新作、楽しみにしてますね!
No.1  夕凪  評価:40点  ■2011-10-19 17:53  ID:qwuq6su/k/I
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 歯医者から帰ったばかりなんで、頭が良く巡ら無いんで 琥珀の先輩の前に 怪しい男が登場した辺り迄読みました。一、二行目から読み始め 非常にスームースに入られ 「おお、巧いじゃん。」と読み進め 後から作者を見たら
RYOさんだったんで、まぁこの位巧いのは、当然だらふと思ったんですが・・昔のtcを思ひ出し、何か懐かしいと言うか切ないやうな気分が、、。姉を突き飛ばして道路へ投げたのは、忍なんでしやうか?あたしも、夢の中に侵入して、付き合いを再開しやうとしたり 絵を描く資料を盗ったりする(偶々夜明けの目覚め際に 見たんで気が付いた)嫌われ者の中高の同級生が居るんで、夢の中で悪さしたりするのを書いて頂ければ〜もっと長い尺で書けば良かった〜面白い物が出来ると思ひました。 
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