蝙蝠
蝙蝠こうもりって、好きか?」
 質問を投げた真也は問い掛けたことを忘れたように、落ちかけた煙草の灰をけだるそうに見ていた。
「どうしたの、急に」
 恭子はブラウスのボタンをとめ終わると、テーブルにあった灰皿を真也の前に差し出した。
「好きか?」
 真也は仕事を終えた吸い殻を灰皿へと伸ばす。天井まで昇っていた紫煙が揺らいだ。
「別に。あまり好きってことも無いけど、大嫌いってわけでもないよ。あんまり見たことないしさ」
 恭子は髪を梳かしながら答えを返すとブラシをテーブルの上に置き、真也の隣に座った。ベッドがゆっくりと沈んだ。
「そう、か」
 オレンジの夕陽が窓から部屋にたちこめる。最近は陽の落ちるのが早くなった。冬が近づいて来ているのだろう。
 
 ――どうして聞いてきたんだろ?
 興味をそそられた恭子の瞳が、真也の憂鬱そうな顔を捉えた。
 恭子にとって、この新しい恋人は普段から口数の少ない男だった。黙っていても絵になるくらいの容姿をしており、表情は常に悲しみのようなものを湛えていた。そんなミステリアスな部分に惹かれてか、彼のまわりにはいつも複数の女が群がっていた。彼女らが求めたのは自分の隣にいて見栄えのする男だ。要は見た目さえよければいい。恭子とてそれは同じで、真也を勝ち取った時は愉悦の笑みを浮かべたものだ。

「子供の頃、蝙蝠を殺したことがある」
 真也はベッドから下り、オレンジのベールが差し込む窓の側に立った。
「家でひとり、留守番をしてたんだ。その時に窓から黒い影が入ってきた」
 恭子はベッドの上で膝を抱えて座り、たまにはいいかと話に耳を傾けることにした。つき合って一ヶ月になるが、彼女はこれまで彼から話らしい話を聞いたことが無い。必要最小限の会話。真也はそういう男だと恭子は思っていた。

「夏の暑い日、俺はベランダで夕涼みをしてたんだ。そうしたら突然、蝙蝠が飛びこんできた」 
「へえ、そんなことあるんだ。珍しいね」
「確かにな。俺もその時初めて見たよ。驚いた俺は奴から目が離せなかった。すると、ふとそいつと目が合ったんだ」
 恭子はクスッと笑った。そんな彼女に対して、真也は真剣な表情でゆっくりと首を振った。
「気のせいじゃない。奴は俺の前で静止して、睨んできた。確かに目が合ったんだ。そして突然、殺らなきゃ殺られるって殺意に支配された」
「……」
「俺はベランダにあった金属バットを手に取った。奴はずっとこっちを見続けていた。恐かった。俺はいつのまにか背中にべっとりと汗をかいてたよ」
 そこで真也は、大きく息を吐いた。
「それで、どうなったの?」
 真也は話に夢中になってきている恭子の方に、体の向きを変えた。
「最初に言ったろ。殺した。手に持ったバットで散々殴って、赤い血が手や服に飛び散って泣きそうになった」
「そうなんだ。大変だったね」
 感心したような声を出して、恭子はベッドから下りて帰る支度を始めた。

「まだ終わってない。話はここからだ」
 沈んだ声で真也は恭子の身支度を止めた。
「二年くらい前からか。奴が頻繁に夢に出てくるようになった」
 恭子は真也の顔に、微かな笑みが浮かんでいるように見えた。
「奴って、蝙蝠のこと?」
 怯えた様子で恭子は尋ねる。真也は窓を背にしたまま、全くといっていいほど動かず答えた。
「ああ、そして奴は俺にこう言うんだ『私はお前の中にいるぞ』ってね」
「……」
「信じなくてもいいさ。だが、俺はしっかりと感じている。分かるんだ。奴が俺の体を侵食してきているのが」
 そう言うと真也は片手を胸の前まで上げて、細い指先でなにかをかきむしるように動かした。
 恭子は言葉を失った。冗談を言っているとは思えなかったからだ。真也の言葉の一つ一つが、ゆっくりと頭の中で反復される。

 ――この男は頭がおかしい。どこか狂っている。

「そろそろ抗えなくなってきている。奴は俺に命令するんだ。女の血が欲しいってね」
 うごめく指を顔の高さまで上げて、真也は過呼吸したように細かく息を吸い込んだ。
 恭子は失神寸前になった。心臓が胸の中で暴れまわり、他の内臓を押しつぶすんじゃないかと錯覚する。近くにあったハンドバッグを引ったくり、急いで部屋を出ようとした。
「待てよ。どこに行く」
 真也の生気を失ったような声が背を追いかけた。恭子の全身がわなわなと震える。嫌な汗がとめどなく体を這っていく。玄関で靴を履きながら、恭子は叫びに近い声で答えた。
「ちょ、ちょっと急用思い出しちゃって。は、早く帰んなきゃいけないから。だっ、だから」
 真也はしっかりと恭子を見据えて口を開いた。
「そうか、じゃあ明日だな。また、来てくれるんだろ?」
 透き通るような優しい声だった。恭子の呼吸はどんどん早まっていく。真也の目は大きく見開かれたままだ。
「うっ、うん。じゃ、またね」
 ドアは一瞬で開き、一瞬で閉まった。恭子は泣くのを必死にこらえながら、街の喧騒へと飛び出した。
 夕闇迫る街は、今まさに活動を始めようとしていた。

「くくくく……」
 真也は堪えきれずに笑みを内へと響かせた。
「くっ。我ながら蝙蝠が中にいるなんて、よく考えたもんだぜ」
 押さえ切れない笑いと共に、真也はベッドに横になった。この話を真也が女にしたのは今日で五度目だった。いずれの場合も女たちはその後戻ってこなかった。これが彼の別れの方法なのだ。どこか影のある容姿が功を奏して、この計画は失敗したことがなかった。

「さて、しばらく女はいいか」
 ベッドの上で大の字になりながら、ひとり呟いた。まぶたを閉じた彼の胸の奥で、なにかがドクン…… と鳴動した。

「イヤ、ソロソロ、ツギノオンナデ……」
 自分の口から漏れた言葉は、しかし彼の鼓膜を振るわせることはなかった。
 己の体に巣食う影が大きくなっていることを、彼はまだ気づいていない。
弥生 灯火
2013年11月12日(火) 22時54分07秒 公開
■この作品の著作権は弥生 灯火さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
蝙蝠がベランダに飛び込んできたことがあるというのだけは実体験です。
読んで下さった方には感謝を。

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No.2  弥生 灯火  評価:--点  ■2013-11-14 23:08  ID:dPOM8su8lqs
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拝読、感謝します。
私は東京下町育ちなので、蝙蝠は珍しかったですね。
今後、似たような作品を書く時には、頂いた意見を参考にしようと思います。
感想、ありがとうございました。
No.1  お  評価:30点  ■2013-11-14 01:26  ID:jEFqhZMHooM
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ども。
なかなかイイカンジでした。
短い中にうまくまとまってる。煽りも利いてたし、強いインパクトはないけど、小品ホラーとして、楽しみました。
前半、ちょっとゴシック張りの雰囲気、後半現代的なドライさ、そして落ちでまとめる。男女の仕草をもう少しウェットにして、男一人の時の語りをもっとドライに悪ぶった感じにするとか減り張りを強めるとまた面白くなるかもしれないなぁとか思いました。
他の町は知りませんが、京都の堀川を夜歩くとコウモリがばさばさ飛んでます。
総レス数 2  合計 30

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