そこにあるから ( No.2 ) |
- 日時: 2011/04/02 20:27
- 名前: 脳舞 ID:a7wswWew
美しすぎて、何が悪いと言わんばかりのその威容に魅せられたからというのは、結局のところ後付けの理由に過ぎなかった。何故山に登るのかという質問に理路整然とした答えを返せる人間は、山に登ることそのものを目的にしているわけではないと私は思う。 三〇〇〇メートル級の峻険な雪山を登攀している私は、まるでぼろ布のようだった。いろいろなものを置き去りにして一歩一歩を踏み締めて進んでいる。カラビナもスリングも、そしてツェルトさえも今の私の背にはない。そもそも、それらを収納するザックすら持ち合わせてはいない。 そして何よりも、相棒の姿がない。 私と水原がコンビを組んで雪山に挑むようになって、もう五年ほどになる。最初は経験の浅い水原をリードする形で比較的易しい雪山を選んでいたのだが、メキメキと腕を上げる水原を見ていると、私の方がそれでは物足りなくなっていった。単独行では不可能な雪山も、水原と手を組めば制覇出来ると思え、実際にいくつもの登頂を成し遂げてきた。 その集大成として私と水原はこの雪山に挑んだ。海の向こうの山に挑むための腕試しでもあったのだ。しかし、それはもう叶わぬ夢になっていた。
「水原、右のナイフリッジに気をつけろ」 「わかってますって。先輩こそすぐ前のベルグラ踏まないようにしてくださいよ」 まるでそこから切り取ったかのようにすとんと雪が落ちた細い雪陵に私が注意を促し、お返しとばかりに薄氷の張った岩に水原が言及する――軽口のようで真剣なやり取りを交わしながら、私たちは九合目過ぎを進んでいた。山頂は目前とはいえ、ここからが最も厳しい道程になることを私たちは忘れていたわけではない。 だが、横殴りの強烈な吹雪によるホワイトアウト寸前の視界ではすべてを見通すことは難しい。それでも先行していたのは私であったから、やはりあれは私のミスだったのだろう。 深い積雪を蹴り除けていた時、ふいに地響きのようなものが感じ取られ、足元がずれるような感覚が襲ってきた。私は水原に向かって叫んだ。 「吹雪に負けるな、風上に逃げろ!」 その声が水原に届いたかどうかはわからない。最後まで言い終えないうちに私の体は宙に浮き、白い悪夢に飲み込まれていた。
脱臼した右肩の痛みを考えないようにするためにも、私はその時のことを思い返していた。私と水原はヒドゥンクレバスの上に乗ってしまったらしい。岩の裂け目――クレバスの上に、雪が積もってそれを覆い隠している状態のものだ。 一見すればただの雪原だが、要は落とし穴のようなものだった。人間二人分の体重を支えるだけの頑強さがあればどうということはないが、必ずしもそうであるとは限らない。私と水原は雪にもみくちゃにされながら、途轍もない勢いで斜面を滑落していった。 意識すらも振り落した私が次に見た光景は、目の前に突き立ったアイスアックスだった。雪に突き刺して登攀の手掛かりを作るための道具だが、柄の方が雪に埋もれ鈍色の刃が私の頬を掠めるように光っていた。 刺さっていたらと思うと背筋が寒くなったが、現実の寒さはそれ以上の厳しさで私を戦慄から引き戻した。 なんとか上体を起こして辺りを見回してみると、背負っていたはずのザックはどこかへと消え失せており、相棒の姿もなかった。 雪に埋もれていた足を引きずり出そうと力を籠めた時、体中に強烈な痛みが走った。右肩の脱臼を知ったのはこの瞬間で、それ以外にも胸の辺りが尋常ではなく痛んだ。どれだけの距離を滑落したのかは判然としないが、この程度で済んだのはむしろ僥倖と言えた。死んでいる方が当たり前の事態だったのだから。 そう考えたところで、私はおそらく雪の下で冷たくなっているだろう相棒の捜索を諦めた。上半身の埋もれ具合からして気を失っていた時間はそう長くはないだろうが、そんなことをしていてはミイラ取りがミイラになるのは間違いない。もっとも、この怪我ではどのみちミイラは免れそうもないのだが。 そして私は、下山をも諦めた。アイスアックスを拾い上げ、幸いにも靴から外れていなかったアイゼンを確かめると、ほとんど空身の状態で立ち上がった。辺りを見回すと、ザックからこぼれた落ちたらしい煮炊き用のコッフェルや記録用のデジタルカメラが半ば雪に埋もれるように転がっていた。私はカメラだけを拾い上げると、アイスアックスを斜面に突き立てて上を目指し始めた。 下山は叶わない。ならば頂上を目指すまでだった。その方がまだ可能性があった。 吹雪はいつの間にか止んでいて、気まぐれな雪山の空にはくすんだ灰色が貼り付いていた。外れた右肩の感覚はもうほとんど失せ、あばら骨がぎしぎしと悲鳴を上げていたが、私は何度も気を失いかけながら山頂へと辿り着いた。 大きな岩に背を預けるようにへたり込んで、私は最後の一枚を撮るべくカメラを掲げた。だが、液晶を覗き込むまでもなく望むような光景は撮れないことがわかった。 当たり前のことだったが、動転していたのかすっかり失念していた。山の美しさは、山からは撮ることができない。 私は腕を静かに下ろし大きな溜め息を吐いた。直後、胸の痛みが私の咳を誘った。純白の雪に緋色を点描しながら、私はゆっくりと視界が霞んでゆくのを自覚していた。 「……先輩、やっぱりここでしたか」 雪に溶けかけていた意識を引き戻したのは、そんな声だった。顔を跳ね上げるようにそちらを見ると、そこに立っていたのは水原だった。 「お前……無事で……?」 絞り出した私の言葉に、水原は曖昧な笑顔を浮かべた。 「隣、失礼しますよ」 私の左側に腰を下ろして、水原はひとつ大きな息を吐いた。私と同じく、水原もザックを持ち合わせてはいなかった。今頃はどこかで雪に埋もれていることだろう。 水原が曖昧に笑った理由はすぐにわかった。水原のウェアの左腕がだらりと下がり、広範囲に赤黒く染まっている。滑落した時にアイスアックスが刺さったのか、それともこの出血の具合からして折れた骨が皮膚を突き破っているのかも知れない。そして、水原の利き手は左だ。 「……済まん、俺はお前を置いて行った」 「それを謝るのはナシですよ。俺だって先輩が埋もれてるのかも知れないのに、こうしてここに来たんですから。先輩ならきっと上を目指すと思ってましたよ」 「それなら、こんな山に誘ったことを謝らせてくれ。無事に帰らせてやれなかった」 「それもダメです。俺は先輩について行くのが楽しくて仕方なかったんですから」 水原の言葉がいちいち痛かった。私は遠くを眺めて黙り込むしかなかった。 「……先輩、こんな時まで登攀の記録をしていたんですか?」 そう言った水原の視線は私の左手に注がれている。そこには最後の、いや最期の一枚を撮り損ねたデジタルカメラがあった。 「なあ、水原。もう少しこっちに来い」 「何ですか。裸で抱き合って暖め合うなんてのは御免ですよ」 「馬鹿野郎、そこまで行ったらもう死は目の前だ。まだ少しくらいは……」 死、という単語を口にしたことでそれとの距離は縮まったような気がした。裸で抱き合うというのは寒暖の区別もつかないほどに精神がやられている状態であるから、それよりは幾分かマシではあったが、もう大差ないことは知れていた。 「……最期の一枚を撮るんだ。思いっきり笑って、後悔なんてどこにもないような顔を残すぞ。右腕は動くか? 動くなら俺の肩に腕を回せ」 私は左腕を精一杯伸ばして自らと水原にレンズを向けた。水原は何も言わずに腕を私の首の後ろから右肩にそっと回してきた。右肩を脱臼しているのは水原もわかっているだろうが、私が意地を張っているのには気づかない振りをしてくれていた。雪と口元に残る吐血の跡があってはそんなものに意味などはないかも知れなかったが、私は精一杯の笑顔を作った。見えはしないが、隣の水原もきっとそうしているはずだ。 私は糸の切れた操り人形のように左腕を下ろした。どう映っているのかを確認する力は残っていない。シャッターを切った感触も凍てついた指には伝わらない。 「……俺たち、笑えてましたかね」 小さく呟いた水原に、私ははっきりとした答えを返してやれなかった。
「……大規模な崩落の痕跡があったそうです。そこから二〇〇メートルほど下の斜面の雪の中からザックやツェルトなどの遺留品が発見されました」 「ザックはわかるが、ツェルトってのは何だ」 「ええと、緊急露営用のテントのようなものだそうで……他に見つかったものでスリングは補助ロープ、カラビナはロープ結束用の金属環、コッフェルが……」 「もういい、聞いてもわからん。事件性がないならもうその件は終わりだ。暇を持て余してるからって舐めやがって」 報告をする若い刑事の言葉を遮って、初老に差し掛かった刑事が缶ビールを呷りながら不機嫌そうに零した。 「いいじゃないですか、暇ってことは平和だってことですよ」 「だからって雪山での遭難なんか知るかよ。そんなとこで殺人なんかやらかす馬鹿がいるか。山頂で二人が凍死、不審な点なんか何もねえ。お前もそんなの真面目に取り合ってんじゃねえよ」 宥めるような若い刑事に、初老の刑事が噛みつく。若い刑事は困り顔だったが、何か矛先を変えるものを見つけたらしく、 「不審というか、不思議な点があるんですよ。この二人、亡くなる前に山頂で写真を……あ、フィルムじゃないから画像か。デジタルカメラってわかります?」 「……馬鹿にしてんのか」 「失礼しました。まあその、デジタルカメラで一枚撮ってるんですが、彼らは笑ってるんですよ」 「死因は失血と内臓破裂だったっけか。雪山から転げ落ちたせいでそうなったってんなら、それは落ちる前に撮ったんじゃねえのか。そんな状態で笑ってたら馬鹿だ馬鹿」 「一度山頂まで行って一枚撮って、それから滑落して、また山頂へってことですか? まあそれも一応考えましたが、そうすると疑問点が出てきてしまいまして」 面倒くせえ、と顔に出して初老の刑事が先を促した。 「デジタルカメラのバッテリーがザックから少し離れた地点で見つかったんですよ。山頂で亡くなっていた二人の所にあったデジタルカメラにはバッテリーはありませんでしたし、そうなると当然撮ることなんかできませんし」 「よくそんな小せえがモン見つかったな。そのデジタルカメラのバッテリーなのは 間違いないのか?」 「……おそらく。見つかったのはほとんど偶然だそうです。つまり、滑落の時に落としたのだとすれば、二度目の登頂後にデジタルカメラを使うことなんかできません。しかし、画像でははっきり出血した腕が写っています。これはほぼ間違いなく死因になった傷だそうで、一度目の登頂で撮ったとも考えられません。二度目の登頂の時に彼らはバッテリーなしで最期の一枚を撮ったと考えると一番無理が少ないわけですが、無理であることには変わりなく……あ、そもそも二度の登頂があったと仮定しての場合になりますが」 若い刑事が難しい顔で考え込んでいるが、初老の刑事は軽く笑いながらこう言った。 「山の女神の仕業だな。死にかけた二人に同情してちょびっとだけ力を貸してやったんだろ」 「真面目に考えてください。大体、なんで女神なんですか。女かどうかなんかわからないでしょう」 「どう考えても山は女だろ。エベレストは『虎に乗った貴婦人』とか何とか言われるそうじゃねえか。大体、あの形を見てお前は何を連想する」 酒のせいなのか心もち下卑た笑いを浮かべ、初老の刑事が若い刑事をからかったが、 「……力こぶですか?」 本気でそう答える若い刑事に、初老の刑事は苦い顔をした。 「詰まらんやつだな。もういい、今日は帰れ。酒が不味くなる」 しっしっと追い払うような初老の刑事の仕草に溜め息をついて若い刑事は、 「じゃあ何かあったら連絡下さいよ。すっ飛んで行きますから」 諦めたように部屋を出て行った。それをとろんとした眼の端で見送って、 「……そうさ、女神の悪戯に決まってんだろ……」 二本目のビールを傾けて、初老の刑事は机に突っ伏すように微睡み始めた。
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三時間半くらい、五千文字弱。任意お題は無理でした。
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