とりさと様 『月を踏む』のリライトに挑戦しました ( No.29 )
日時: 2011/02/20 13:24
名前: HAL ID:OJJpIXfY
参照: http://dabunnsouko.web.fc2.com/

 小鬼のチャボは生まれて三日で母に先立たれ、この世界にひとり放り出された。
 見渡すかぎりの氷原に、たった一本生える木。青白い月光に照らされて、足元に長い影を伸ばすその木の上に、チャボは住んでいる。家族もおらず、仲間のひとりもいなかった。淡い月光に身を任せながら、何をするでもなくぼんやりすごしていた。
 かつてはこの地に大勢あふれていたはずの小鬼という小鬼はとうに死に絶え、いまではチャボが最後のひとりだった。小鬼は従来、土と葉っぱと自分の髪の毛一本があれば、そこからいくらでも殖えることができる。地の底に秘された彼らの産屋をたずね、持ち込んだ材料を捏ねて放り込めばいい。あとは青白く光る産屋の中でじっと時を待つだけで、自らとすっかり同じ姿をして同じ記憶を受け継ぐ同族が生まれてくるのだった。
 それだというのに、小鬼のほとんどは絶えた。チャボも仲間を増やそうと思えば、繁っている葉っぱのぶんだけ増やせるのだけれど、そうする気には、ついぞなれなかった。自分の死期が近づいても、母親がそうしたように死に際に産屋に行くとも思えない。チャボはひとりで生き、ひとりで死ぬだろう。チャボが死ぬときが、小鬼という種族が絶えるときになる。それでかまわない、チャボは月を見上げながらそう思う。
 チャボは、月が好きだった。
 月は、空の天蓋にあいた穴だ。そこから、穴の向こう側の眩しい光が漏れ出て、世界を照らし出している。足元に広がるこの氷原は、どこまでも冷たく凍りついており、地の果てには眼を灼く白い光の壁があって、そこを超えた先には、この世の涯まで永遠に劫火に焼かれ続ける、灼熱の砂漠があるといわれている。氷雪と劫火に閉ざされた世界。それがチャボのいるこの大地だ。
 昔はこうではなかったのだと、チャボの中の遠い記憶がいう。氷原は氷原でなく、砂漠は砂漠ではなかった。木は一本きりではなく、世界にはたくさんの生き物があふれていた。けれどその記憶は、ひどく断片的であやふやなものだった。親から子に写され続けていくうちに、だんだんと劣化していったのだろう。
 ただ、この氷と炎に閉ざされた世界から、ゆいいつ抜ける道がある。それが月だ。天上で輝く月は、世界にぽっかりと開いた穴である。いつもそこにあり、形を変えることのないあの月を抜けると、その先には楽園が広がっているのだという。この世界に生きるわずかばかりの住人は皆、そこに辿りつくことを望みとしていた。
 チャボも例外ではなかった。
 この想いは、この世界に生きるすべてのものに、原初より刻み込まれた本能といってもよかった。小鬼の寿命は、そう長いものではないけれど、これまで連綿と受け継がれてきた小鬼たちの記憶には、もう途方もないほど昔から、その願いが刻み付けられていた。それにもかかわらず、結局その誰も、月に辿りつくことはかなわなかった。チャボは月に行くことをとうに諦め、そのかわりに、ただ憧憬の想いを月の向こうに向けている。


 ぼんやりと氷原をながめていたチャボは、おや、と声を上げた。月光に照らし出される氷原のなかほどに、小さく光るものがあったのだ。
 光るものはだんだんと木のほうに近づいてきて、やはり、おや、と声を上げてチャボを見た。そしてぎしぎしと関節を軋ませながら、立ち止まった。
 それは人間だった。
 チャボは意外に思いながら、木の低いほうの枝に飛び移った。チャボより十代ほど前の小鬼が、偶然この氷原でであった人間から、月を抜ける手段を手に入れたと聞いていた。チャボが受け継いだ記憶の中で、たまさかここを通りかかったその人間は、銀色の体に月光を弾いて、ぴかぴかと顔をかがやかせながら、「もうすぐ私たちは月を抜けられる」と語っていた。そのしばらく後に、小鬼は遠く離れた場所で、先の尖った細長いものが何本も月に向かって宙を駆け上っていくのを見た。そしてそれきり、この氷原を通りかかる人間はなかった。だからチャボも前の小鬼たちも、もう人間はのこらず月を抜けていったのだと、そう思い込んでいたのだった。
 いまこうしてチャボを見上げる人間の顔は、どうしたわけかくすんで、かつてのようにぴかぴかと輝いてはいなかった。それどころか、ところどころ錆びついているように見える。チャボがそんな疑問を口に出すよりも先に、人間がいった。
「まだ小鬼というものが、生き延びていたのだねえ」
 その声は、しみじみとした響きを帯びていた。そして人間はひとつぷしゅうと、ため息のような音を立てた。そうすると、細い蒸気が人間の首からたなびいて、空中でそのまま凍りつき、その微細な粒がきらきらと輝く。
 人間は皆、月を抜けたのではなかったのかと、チャボがそう訊くと、人間はもうひとつぷしゅうと音を立てた。
「月を抜けたころ、か。ずいぶんと昔の話になるね」


「ロケットが完成した当時、私たちは、そりゃあ喜んだ。半狂乱になった。当然だ、月の向こうにいくことが、この世界に生きるものすべての望みなんだからね。何台も何台もロケットを作って打ち上げ、仲間たちが月に向かっていくのを見て、私たちは無邪気に心を躍らせていた。自分の番はまだかと、待ちきれなくてうずうずしていた。ただね、そんな中である日、ふと誰かが呟いたんだよ」
 そこで言葉を区切って、人間は空の月を見上げた。
「誰一人として帰ってこないな、って」
 人間は、いっとき無言で月を見つめていたけれど、その顔に浮かべる表情は、小鬼のそれとはかけはなれていて、この人間がいま何を思っているのか、チャボにはよくわからなかった。
「多分それは、本当に純粋な疑問に過ぎなかったんだ。でもね、その一言は、私たちの胸に波紋を投げかけた。私たちはずっと、月の向こうには楽園があるって信じてきたけれど、それが本当だっていう証拠は、どこにあるんだろう。誰も見てきたものはいない。誰も戻ってきたものはいない」
 チャボは口を挟まなかった。ぷしゅう、と音がして、氷の微細な結晶が光る。
「それでも勇気のある人たちは、月へと旅立っていった。往復するだけの燃料を積んで、涙ながらに絶対もどってくるって、そう誓って出発した人もいた。どんなに遠くからでもつかえる通信装置を積んで、厳重な装備で出発した人もいた。だけど、通信は入らなかったし、誰も戻ってこなかったんだ。誰ひとり」
 人間は沈黙した。チャボはしばらく無言で待っていたけれど、もしかして凍り付いて動作を停止してしまったのではないかと、そう不安になるほど、いつまでも人間が黙っているので、思わずそれで、と先を促した。そうすると、人間はまたぷしゅうと音をさせて、口を開いた。
「いやな噂が立ちはじめた。月を抜けた向こうが楽園だなんて、嘘っぱちじゃないのか。あの向こうには、もしかしたら想像を絶するような、おそろしい地獄が待っているんじゃないか。月を抜けた仲間たちは、いまもそこで苦しんでいるんだ。そんな、噂だ」
 チャボは人間から視線をはずし、月を見上げた。月はいつもと少しもかわらず、ただ中天で青白く輝いている。その向こうには、おなじように明るく輝かしい世界が広がっているだろう。チャボにはやはり、そうとしか思えなかった。
「その噂はどんどん広がっていった。最終的にはそれが人間の常識になってしまったんだ。あの穴に飲み込まれたら最後、二度と抜け出ることのできない煉獄に縛り付けられるかもしれない。ただの想像、ただの噂だったはずのそれが、いつしか強迫観念になって、いまでは私たちは誰も、月を抜けようとはしないんだ。本能が、どれだけあそこに行きたいって叫んでも、ね」
 人間は語り終えると、それじゃあと軽く手をあげて、歩き去っていった。金属の足がぎしぎしと騒々しく不協和音を奏でるのを、チャボは聞いた。人間と呼ばれる彼らは、かつての記憶の中では、自分の整備に余念がなかったというのに。


 その人間に出会ってからも、チャボの月への憧憬はやまなかった。
 空の穴から漏れる、青白い光に照らされた氷原。そこに奇跡のようにただ一本、ひょろりと生えた木の上から、チャボは世界を見、月を見ていた。
 月。
 空の月は皓々と明るく、チャボの目には、あいかわらず希望に満ちて見えた。それはこの世界に残された唯一つの救いであり、涯なき想像を広げてくれる楽園への入り口だった。
 いつか月を抜けて、その先にある世界を踏む。チャボは今日も、そんな素晴らしい夢に身をゆだねる。

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 よりSF寄りにアレンジしてみました……が、原作の幻想感が台無しになった気しかしないっていう……orz とりさと様ごめんなさい(土下座)