あまりある言葉/リライト「歌と小人」 ( No.4 )弥田さん ( No.21 )
日時: 2011/02/14 04:48
名前: 星野田 ID:.6nuytUk

 こんにちは! 私は弥田月子といいます。可愛い中学生です。身長はりんご十二個分くらいでしょうか。体重がりんごいくつ分なのかは秘密です。こういうふうに自己紹介をしますと、なんだか私の機嫌がいいような印象を与えるかも知れませんが、それは違います。むしろ機嫌は悪いです。最悪です。サイアークです。というのも、お母さんに人参とじゃがいもを買って来いと言われて、ルンルンした気分で買い物に言ったのに、夕飯はカレーではくて肉じゃがだったからです。なんで肉じゃがだったの? 肉じゃがにするんなら、どうしてりんごも一緒に買わせたのです? 私はてっきりりんごが入ったカレーという、自家製バーモンドカレーを予期していたのに。りんごは明日ウサギさんになって私のお弁当に入るそうです。いまどきの女子中学生がそんなもので黄色い悲鳴をあげると思うなよ。肉じゃがなんて、料理を習い始めた中学生でも作れるような初等料理ではないですか。一方、カレーはちがいます。どう違うのか、ここで語ってもいいのですが、そうすると紙面が足りなくなるのは目に見えているのでやめておきましょう。
 ともかく、気分を害した私が、夕飯が終わってから家出をしたと考えてください。真っ暗な道は、怖くないんだよ。
「そこのお嬢ちゃん」
 まあ。こんな夜遅くに可愛い中学生に声を駆けてくるだなんて、怪しいおじさんか緑の小人以外に考えられません。運のいいことに声の主はおじさんではなく、緑の小人でした。頭のてっぺんが、わたしの腰までしかない。だいたいりんご七個分ですね。つまり私の頭から腰までと、腰から靴までの比率は五対七くらい。私は暗算が得意なのです。それにちょっと私って、スタイルよくありませんか?
「歌いたいんだろう?」
 緑の小人は言いました。そんな、唐突な。でも小人はいつだって唐突です。私は小人にりんごを差し出しました。明日うさぎになる運命のりんごです。でも小人は首を振って「そうじゃないだろう」と言いました。
「歌いたいんだろう? 言わなくともわかるさ。君は歌いたがっている」
「そんなの決め付けです」
 決め付けはよくありません。人参とじゃがいもを買ったからって、今夜はカレーだとは限らないのです。私は今日それを学びました。
「ぼくは緑のこびとだからね。それくらいお見通しなんだよ」
 それから小人は踊り始めました。ポロンポロロンずんたった。けれども、なにを歌えばいいのかわからない。一番好きな曲にしようか。カラオケで上手に歌える曲にしようか。たとえば黒猫のタンゴとかどうでしょう。CMソングは、世代を超えて誰でも乗ってこられるので、ファミリーでカラオケをトゥギャザーするときに盛り上がります。何が盛り上がるか、なんてことを考えながらカラオケの本をめくり曲を探っている時って背中がざわざわしますよね。ああ言うとき、私は歌いたい曲を歌っているのではなく、その場が求めている歌を歌わされているのかも知れません。歌うって自由なんでしょうか。歌えば支配から卒業できるなんて本当なのでしょうか。アイラビューが言いたくて言っているのではなく、歌詞にあるから読みあげているだけなのではないでしょうか。カラオケの語源は「空っぽのオーケストラ」。そういう事を含めて、小人はお見通しなのかも知れません。
 小人の踊りはめちゃくちゃで、なんていうか、とても自由そうに見えました。
「ねえ、その踊りはなんて言うの」
「名前なんてないよ。しいて言えば月の踊りかな。さぁ、きみもはやく歌いなよ。歌詞がわからなくても、メロディを知らなくても。思いつくまま気のむくままにさ。どうせ誰も見ちゃいないんだ」
 そうでしょうか。ご近所さんが見ているかも知れません。写真に取られて、来週の特報王国に『怪奇!月夜に小人と踊る中学生(りんご十二個分)』とかいうタイトルで投稿されるかも知れません。そんなのごめんです。私は今夜カレーだと思っていたらいつの間にか肉じゃがだった、何を言っているのか分からねーと思うが、私にも分からない。そんな気分でちょっと夜のミッドタウンを散歩しに出かけただけなのです。なのに翌週テレビで報道されてたらますますワケが分からねーじゃないですか。ドゥーユーアンダスタン?
「私はマイクがないと歌わないことにしてるの」
「嬢ちゃん。なかなかわかってるじゃねえか」
 小人は胸ポケットからカラオケマイクを取り出しました。
「さあ、シャウトしな。お前の翼を羽ばたいて見せな!!」
 そこまで言われて歌わないのは、流儀に反します。私の美声に夜が昼になっても、後悔するなよ。私は歌いました。最初はスローな出だし。感情を抑えるように。固く、固く、じっくりと……。さぁ、前奏は終わった! 喉を震わして、ことばを使って歌おう。 先の歌詞なんて考えないでいい。前後のつながりなんて気にしないでいい。一言一言、一文字一文字を大切にして歌うのだ。あぁ、いい気持ちだ! カレーじゃなくてもいいじゃない。肉じゃがもカレーも、人参とじゃがいもが入っているという点で何も変わらない。そもそも構成原子がせいぜい水素と炭素と窒素と硫黄と言う点で、どんな食べ物も変わらないのです。肉も、野菜も同じ原子から出来ている。私たちも、ブロック塀も、木も山も月も星も。そう考えると
身体の中からもやもやが抜けていきました。明日はカキフライが食べたいだなんて思っていたけど、どうでもいいじゃないそんなこと。梅干しとうなぎの食合せなんてどうでもいいじゃない。
 するとどんどん、私が歌っているのか、歌っているのが私なのか分からなくなってきました。ソビエトロシアでは歌が私を歌う!! みたいな。そういえばせっかくの綺麗な月夜なのに、月の描写を全くしていませんでした。とても綺麗な月です。りんご四個分綺麗です。いえ、そもそも美しさを数値化する必要はあるのでしょうか。数値化って大切なのでしょうか。心が割り切れないように、美しさも割り切れないのです。割り切れないということは余りがあるということ。美しいものには余りがあるのです。余りある美しさってそういうことなのね。ああ月の描写でした。ええっと、月面でうさぎがぺったんぺったんお餅を突いています。これは月と突きを掛けた古代人の隠したダジャレでしょう。そのうさぎのついた餅が地上に降り注いでいるかのような、純白の光が私と小人を照らしていました。。
 小人の踊りが私の歌を引き出します。私の歌が小人の踊りを誘います。踊りが先か、歌が先か。まあ、小人から先に踊りだしたという事実を突き合わせれば、答えは自ずと導かれますが。ともかく、この疾走感。チーズフォンデュのなかからエッジのきいたブロッコリーが飛び出してきた!!みたいな感覚でしょうか。悪くありません。
「HEY!!いいぜいいぜ!のってきたぜ!歌え歌え」
 緑の小人が私を調子に乗せました。私の歌は小人と一緒にホップステップジグサクダンシングってかんじで、月光をズタズタに引き裂き、コンクリートをチーズにして、特報王国への投稿を狙うカメラ小僧をずんだ餅にしました。いまのは私一流の比喩表現です。ずんだずずんだずんだ餅。東北のリズム天国度合いをなめてはいけません。小人のリズムと私の歌が、私の中までもを切り裂いていきます。もしも出会ったのが怪しいおじさんで、おじさんと私の歌が私の中を切り裂いていたら警察をよばなければいけないところでした。いまさらどうでもいい話ですね。とどのつまり、私はいま歌にけずられているのです。鉛筆削りみたいな。鉛筆が主役なはずなのに、鉛筆は削られている。同様にして、私が歌い手のはずなのに、私が削られていく。ごりごりごり。いまのは「ゴリラ学名はゴリラゴリラ」の略ではありません。どうでもいいですが、しりとり、りんご、ごりら、の流れは日本人の魂に染み付いた心の故郷なのかも知れません。心の故郷ってどこにあるんでしょうか。家は合掌造りとかなんでしょうか。囲炉裏で五平餅とかを焼くんでしょうか。そんな偏った故郷感を我々は許していいのでしょうか。四畳半のコンクリートアパートや、シャンデリアのある西洋風の部屋が心の故郷ではダメなのでしょうか。そんな気持ちを歌にしました。ごりらごりら!!
 言葉を出す。ということは、言葉が抜けていくということなのかも知れません。いつしかここにあるのは私の言葉と、踊る小人だけになっていました。コンクリートはチーズになってしまいましたしね。チーズとカメラの「はいチーズ」を掛けた私のダジャレに気がついた方は何人いるのでしょうか。古代人に負ける弥田月子ではありません。ああこれでもう、私のいいたいことは大体言い切ったような気がします。
 突き立ての餅のような月光が、地上を照らしていました。私はもういません。あるのはりんごだけです。

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ごめんよ