黒傘の少女は、もういない

 0「プロローグ」

 ――ジリリリリリッ。

 けたたましい目覚まし時計の音が部屋いっぱいに鳴り響く。毎日決まった時間、決まったアラーム音のおかげで、俺の目は嫌でも目覚めるのであった。大きな欠伸をするついでに、目覚まし時計のスイッチを消した俺は布団から抜け出した。
 いつものように日課である花の水やりをやり、軽めの朝食をとり、顔を洗い、歯を磨き、髪の毛を整えて、慣れない手つきでコンタクトレンズをつけ、鞄を持ち、「行ってきます」と言って、家を出た。
 外に出ると特別代わり映えの無い閑静な住宅街が目に映ってくる。
 太陽は空高く昇っており、夏特有の紫外線をガンガン放ち、俺の肌を焦がしてくる。
 外に出て数分もしない内に、鞄を持つ手は汗ばみ、二の腕にはぽつぽつと汗の粒が出てきた。
 この暑さの根源でもある太陽に向かって、人間風情の俺はいつものようにこう言うのだった。
「おはようさん」
 俺の何の代わり映えの無い一日は、こうして始まる。
 そう、代わり映えのない一日だ。

 そして、数分後。それが誤りだと気づいた。

 その日、俺は世間様の交通ルールをきちんと守り、信号が青になったときに横断歩道を渡った。信号は、青になったら渡るという行動は、俺がおぎゃーとこの世に誕生してから何千、何万回と繰り返してきたことだ。大人げない信号無視なんかしちゃいないし、自慢じゃないが俺は交通ルールを破ったことが一度も無い。遠い昔、お袋に「赤信号で渡ったら幽霊が出るんですよ」と聞かされたことから怖くて渡れなくなったのだ。
 その日も信号無視が出来ない腰抜けな俺は、信号が青になったのを目できちんと確認してから歩道を渡った。
 嘘じゃない本当だ。
 ただ、その日の俺は少しぼんやりとしていたかもしれない。期末テストがやっと終わり悪戦苦闘で勉強していた毎日から解放されたためだろう。気が緩んでいたに違いない。
 だからだろう、歩道の丁度真ん中に来たときまでその存在に気付かなかった。
 突然、大きな音が隣から聞こえた。
 何事か、と音のした方角に目を向ける。
 すると、大型トラックがこちら側に迫っていた。
 それも猛スピードで、だ。
 トラックは何度もクラクションを鳴らしている。運転手の男は目を見開いて怯えたような顔をしていた。
 命の危険を察知した俺は反射的に逃げなければならないと思った。この危機的状況から逃れなければ……と。
 でも……。
 体はまるで凍った様に動かなかったのだ。極限の緊張状態からか、筋肉ががちがちに硬直しており、無理矢理にでも動かそうと試みてもぴくりとも動こうとしない。
 本格的にやばいと思った。動け動けと命令してもびくともしない体。すごい勢いで迫り来るトラック。
 鉄で出来た大きな塊は、もうすぐそこまで迫っていて、その距離は俺の貧相な体が奇跡的に動いてもどうにもならない距離で……。

 ――ドンッ。

 その衝撃は、懐かしい匂いとともにやってきた。
 
 1「平穏な日常」

「で?」
 細いフレームの眼鏡を掛けている俺の幼馴染の木藤すみれは、驚いた様子で話の続きを催促してきた。もったいぶるような話でもないので俺は簡単に続きを言った。
「トラックの運転手は慌てて逃げて行った。終わり」
 そう言った後、俺は学校の購買で買った好物の焼きそばパンを頬張った。うん、この香ばしいソースと焼きそばの絡み具合は出来立てならではのもの。作ってくれたおばちゃんに感謝だな。
「いや、そうではなくて……」
 すみれは今朝起きたばかりの俺の話に、納得したようなしないような半信半疑の表情をした。それから意を決したように、すみれはこの話の問題点と呼ぶに相応しい事柄を指摘した。
「徹は今日の朝、事故に遭ったのだろう?」
「ああ」
「では、何で……」
「ああ、心配しなくて良いぞ。幸い周囲に人影はいなかったから誰にも現場は見られていない。警察なんて面倒なもんに通報される心配はご無用……」
「そんなことを心配しているのではない!」
 急にすみれは席を立ち、大きな声で俺に言い放った。それまでの昼休みの和やかな空気は消え失せ、皆、何事かと言わんばかりの好奇の目で俺たちを見てくる。

「『何だ何だ』『また木藤さんと曽野川か』『離婚騒動勃発?』」

「おい、すみれ……」
「あ……すまん」
 俺が小声でそう言うと、すみれは恥ずかしそうに自分の席に座り直した。しばらく俺たちが黙っていると、クラスの視線は各々の方へ戻っていき、また穏やかな昼休みの風景になっていく。
 すみれもいつの間にか落ち着いたようで、事前に買っておいたペットボトルのお茶に口をつけている。その様子を見た俺は、再び食事を再開しようとした。
「で、徹は交通事故に遭ったはずなのに……なぜそんなにピンピンしている?」
「……」
 ガブッ。
「……食うな」
 ゴクッゴクッ。
「……飲むな」
 ヒョイッ。
「私の弁当からおかずを取るな!」

 ……。

「……おい」
「……すまん」
 俺の行動にすみれはいちいち文句を言ってくる。いつもの俺なら「いいじゃないか、今は昼休みなんだし、ランチタイムを悠々自適に満喫するのは俺の勝手だろ」と反論したくなるが、昼休みに、今朝自分の身に起きたばかりの体験を話し始めたのは俺自身なので、そんなことを言える立場ではない。
 それに、すみれが訝しがるのも無理はない。俺自身、自分の体に傷一つ無いのが不思議でしょうがないのだから。
 ふむ、話してやるか。
 俺はまず焼きそばパンの残りを口に放り込み、その後紙容器に入っていた牛乳の残りを飲みほし、口の中のもの全てを胃に流し込んだ。適度な満腹感を実感しながら、俺はこの話のオチを言った。
「黒い少女が俺を助けてくれた」
「黒い少女?」
「そ。綺麗な子だったな。真っ黒い長い髪をしていて、同じぐらい真っ黒い服を着ていて、もっと同じぐらい真っ黒い傘を持った女の子だ」
「傘?」
「そう。その女の子が、自分の命を顧みずに俺を抱きかかえるようにして、助けてくれたんだ。で、俺がトラックの運ちゃんの逃げぶりを感心しながら見ている内にその女の子は消えていた」
「消えた……」
「ああ」
「……全部お前の作り話だったら、私は怒るぞ」
 嘘は言ってない。全部本当のことだ。なのに、言葉にしてみると、随分と信憑性が薄いものになってしまうのは何故だろうか。
「……まあ、いい。徹が無事だったのだからな……」
「え、あ、うん」
 ……まあ、いっか。
 本気で俺のことを心配してくれて、俺の身が無事だったのを安堵してくれる幼馴染の顔を見ていたら、あれこれ考えるのが馬鹿らしくなってきた。過ぎたことを根掘り葉掘り考えるのも、俺の性に合わない。こうして幼馴染と仲良く昼飯を食えているだけで充分ではないか。
 それにしても……。俺は幼馴染の弁当を凝視する。
「お前の弁当って本当に小さいよな」
「そ、そうか? 女子はこれぐらいの量だと思うが」
 すみれの弁当がどれくらい小さいかと言うと、さっき拝借した小さいハンバーグが無くなれば、ウインナーと卵焼きと海老フライだけ。どれも一つずつ。米はない。
「それにいつも食べないし……」
「そ、それは……」
「全部俺の好きなものだし……」
「だ、だから」
「お前……」
「ち、違うぞ。別に徹の好きなものあえて入れてるわけじゃ……」
「ダイエットするなら、野菜とれ」
「……ダ、ダイエット?」
「……あれ?」
 この反応、どうやら俺は地雷を踏んでしまったらしい。その証拠に、すみれの拳の骨が小気味の良い音を出した。いや、幻聴に違いない。
「……えと、ちょっと俺、外の空気吸ってきます」
 おもむろに椅子を引き、立ち上がる。自分の席を立った理由はもちろん外の空気を吸いたいからではなく、すみれと一緒の空間にこれ以上いるのが、危険だと本能が察知したからだ。
 教室の後ろに設置してあるごみ箱に今日のごみを入れて、俺はそさくさと一人教室を出た。

「立ち入り禁止」の張り紙を素通りして、俺はドアを開けた。
 その場所は昼休みだというのに、生徒の数は人っ子一人おらず、殺風景な古びた二つのベンチと、所々錆びれたネットフェンスがあるだけ。
 学校の屋上とは、そんな場所だ。
 しかし……まあ……。
「死ぬほど暑いな……」
 これほど快適で自由な場所なのに、生徒が居ない理由は……この暑さが原因だった。
 夏特有の熱気がまとわりつき、お天道様が汗を出せよ出せよと呼びかけてくる。太陽の光は容赦なく俺の全身に降り注ぎ、そのおかげで黒い学ランは今にも燃えてしまいそうだった。それぐらいの暑さだった。
 前々から、学校サイドは「屋上への立ち入りは極力控えるように」と生徒に伝えていた。この場所ではボール遊びをする者や、金を賭けた遊びをする者、それにイジメをする現場にもなっていたからだ。しかし、危ない生徒がいる一方で、普通に屋上で雑談をしたり、昼ご飯を食べたりと、ちゃんとした使い方をした生徒もいる。だから、安易に学校側も立ち入り禁止にするのも可哀相だと思っていたらしい。だが、今年の夏、注意レベルが一気に立ち入り禁止までした決定打になった事件が起きた。熱中症で倒れてしまう生徒が相次いで発生したのだ。それ以来、学校の連絡掲示板には「屋上への立ち入り禁止」と、書かれた張り紙がでかでかと張り出され、屋上の立ち入りは事実上閉鎖された。
 それなのに何故俺は屋上に入ることが出来るのか? もちろん普段なら重い南京錠の鍵が掛けられているはずなのに……。
 その理由を説明するのは簡単だ。
 ――アイツがいるからだ。
 俺は古びたベンチには目もくれず、昼の時間帯では、唯一日陰がある給水タンクの裏側に向かう。
 その涼しい特等席にはやはり……。
「よう」
 ――いつものようにあの男がいた。
「やあ」
 その先客は、優雅な笑顔を顔に浮かべて、左手を上げた。
「何してるんだよ?」
 屋上の扉を何故か開けられる男、山崎和義は、優男特有の微笑みを崩さぬまま、俺の質問に答えた。
「何してるとは心外だね、曽野川徹くん。学校の屋上は全校生徒みんなのものだよ。僕がここに居ちゃいけない理由でもあるのかい?」
 全校生徒みんなのものじゃなくて、実質今はお前のものだろ。と俺は心の中でツッコミを入れる。そもそもこいつはどうやって合鍵を作れたんだろうか。
「いやいや、俺が言いたいのはそうじゃなくて……」
 溜め息一つして山崎の、右手を指差した。
「ここは喫煙場所じゃねーぞ」
「ああ、そうだね」
 指摘した意図が正しく伝わらなかったらしい。山崎は素知らぬ顔で右手に持っていたタバコをまた口元まで運び……ブレイクタイムを続行する。
 それを見た俺は、少しカチンときた。
「毎度毎度、同じこと言わしやがって……。学生がタバコなんて吸ってんじゃねーよ。自分の体は大事にしろって親に教わらなかったのか? てか、未成年の喫煙は法律違反だからな」
 親身になって当たり前のことを言ったのに、山崎はタバコを吸う行為を、一向に止めようとしない。それどころか、ニヤニヤと口元を歪ませ、
「確かに今の日本の法律には喫煙は二十歳からだけど、それを守っている人々が、この世の中にはどれ位いるのかな」
 と、阿呆なこと言ってきた。
「へ〜、お前は皆がルールを守らないから自分も守らなくていいって言いたいわけか」
 まるで、赤信号みんなで渡れば怖くない、だな。
「そうじゃないよ、徹君。そもそも僕は年齢制限というものが気に喰わないんだ。それは子供と大人とを差別していると感じてしまうんだよ。年齢制限なんて法律に設ける位なら、いっそのことタバコを廃止すればいいと思うんだ」
「じゃあ、お前の言ったようにタバコを吸うのに年齢制限を廃止したとしよう。そしたらどうなる? そこらにいる、タバコを吸ったら大人の仲間入りとか思っている好奇心一杯のガキ共が、うじゃうじゃとタバコ屋に行き、『おばちゃんタバコを一ダース下さいな』と言う光景が見られるかもしれないんだぞ。それにタバコ自体を無くすことだって不可能に近い。あれを廃止すれば世の中の働くお父さん方は、どうやって日頃のストレスを発散するんだ?」
 ちょっと考える素振りを見せたイケメンスモーカーは、持っている古びたオイルライターを指で弄りながら「そうだね……」と前置きをしてこう答えてきた。
「愛のあるセックス……かな」
「はぁ?」
 珍回答をした男は自分のボケが、笑いのつぼにはまったらしい。一人で大袈裟に笑っていた。その無邪気な笑い方は、いたいけな童女が見たら心の蕾が咲き乱れるようなもので……。
 神様がいたなら俺は質問したい。こんな奴を何故イケメンにしたのですか、と。
「……アホらし」
 不良少年にかまっていても時間の無駄だ。そう判断した俺は、久しぶりに昼寝でもしようと思い、足を大股に広げ、給水タンクに体を預けて、双方の瞼をゆっくりと閉じた。眠気はすぐに訪れた。
 そこには夢の世界が広がっていた。
 俺のための、俺だけの、俺しかいない、自由な世界だった。
 気持ちいいな、と感じた俺は外気を思いっきり吸う。
 すると、素晴らしい匂いが俺の鼻をくすぐった。
 この匂いは自然の匂いそのもの。
 大地から俺に贈られてくる自然の息吹だった。
 そう、俺の鼻孔は、ニコチンの香りで優しく包まれたのだ。
「ふぅ〜〜」
……。
……ニコチンの香り?
「へ? ブゥッフ、ゴッホ、ゴフッゴウッゴウッ」
 な、なんでタバコの煙が?
「徹君は知ってるかな? 主流煙より副流煙のほうが人体に害を及ぼすらしいよ。しかも僕の吸っているタバコはレベルで言うと最上級のものだ。これは間違いなく体に悪いよね」
 ……犯人確定。
「お、お前……」
 ゴッホゴッホと咳き込みながら俺は山崎を睨んだ。奴は俺に対して悪ぶれる様子もなく今度は高笑いをしていた。
 それを見て俺は……心の制御装置であるリミッターが外れる音を聞いた。
 毎度毎度、親切な態度をとってきた俺も、さすがに堪忍袋の緒が切れた。何のためらいも無く右手で力こぶを作る。やられたらやり返す。勢いよく繰り出した右ストレートは、風を切り奴の左頬を完全に捉えたはずだった。
 はずだったんだ……。
「無駄だって」
 ――ヒョイッ。
「あ」
 全身全霊の怒りを乗せた俺の鉄拳は、山崎によって、情けないほど呆気なく簡単にかわされてしまった。そして、かわされただけならいざ知らず、無様にも俺は屋上の熱いコンクリートの上に倒れ込んでしまった。すぐに立ち上がろうと体を起こすが……。
「徹君程度の動きなら、いくらでも読めるよ」
 徹君程度……。
 山崎のこの一言によって俺のプライドは粉々に砕かれた。同時に立とうとする気力も砕かれたらしい。体は土下座の姿勢のまま固まった。
 そして、なぜか手からはぷすぷす黒い煙が出始めていた。
 そりゃそうだ。熱中症が出るぐらいだもの。そりゃ熱いよ。黒い煙だって出るさ。
 ふん、今の俺は、さながら熱々のフライパンに投入された哀れなバターだな。
 あーなんだか手から肉が焼ける匂いがしてきたぞ。こんがり肉の出来上がりか、ははは……。
「あっつぅっ!」
 火傷の危険を感じた俺は、すぐに立ち上がった。急いで手に息を吹きかける。
 ふーふーふーっ。
 その光景は、山崎にとって、まさしくドつぼにはまったものだったらしい、
「と、徹くん、プッ、お、面白すぎ、ププッ、るよ……」
 気付いたら、奴は笑い転げていた。その笑い方は純真無垢な子供そのもので……。
「はぁ」
 いつの間にか怒る気力も無くなっていた。もといた場所まで戻り、先程のように足を大股にして、手を頭の後ろで組んでゆっくりと瞼を閉じた。そして、なぜか口元が緩む錯覚を覚えた。
(こういうのも、まあ、悪くはないな……)
 まだムシムシと暑さが残る昼下がりの屋上で、山崎の馬鹿な声を聞いて不意にそう思った。繰り返される学校の授業を聞き、幼馴染と弁当をつつき、友人? と馬鹿なことをする。
 うん、まあ、悪くはない。悪くは……ないな。
 ギンギンと照りつける太陽の光と、時折くる涼しくはないが暑くもない生温い風。それを受けた影響かはわからないが、俺の口元は笑っていた。
 そして、意識が途切れる寸前に、少しだけ、懐かしい匂いが鼻孔をくすぐった。

「……る、……おる、……と、」
(――くん)
「……え?」
「徹っ!」
「あ?」
 誰かに揺さぶられている。……ああ、この声はすみれか。そう気付いた瞬間には、左頬に衝撃が走った。
「いってぇーーーー!」
 眠気で薄ぼんやりとしていた意識は、どこかに飛んでいき、代わりにやたらと鮮明な夕空が俺を迎えた。そんなどこかノスタルジックな光景を見ながら、疑問を抱く。
「……今って何時だ?」
 今の季節は夏だ。それも真っ只中。このくそ熱い季節で、夕焼けが見える時間帯なんて六時以降のはずだ……よな?
「この馬鹿! お前はいつまで寝てるつもりなのだ! もう閉門五分前だぞ」
 閉門五分前? はて、何のことだ? と俺が首を傾げようとしたとき……。あるものが目に止まった。
「今の季節が春なら、お前の今の現状はかろうじで許せる! でも、今は四季は何だ? 夏だ! それも今日は、特に暑い日だとニュースでも取り上げていたほどの熱気と蒸し暑さだ! なのにお前ときたら午後の授業にも出ずに、屋上で何時間眠りこけるつもりなのだ? ああ、信じられない、普通は気付くだろ! お前は昔からどこか鈍感なところがあるとは思っていたが、まさかここまでとは夢にも思わなかったぞ! この馬鹿者が!」
 すみれの説教は相変わらず長い。そんなことだから彼氏の一人も出来ないのだ。と、失礼極まりないことを頭の片隅で考えつつ、俺は先程からあるものを凝視していた。もうちょい、左かな。
「――ちょっと、聞いているのか?」
「……あ、ああ、聞いてる、うん、聞いてる」
 目の保養をしながらだが……。
「全然聞いてないだろ! 本当にお前は!」
「ばっ! おい、すみれ! 今、動くんじゃない!」
「……?」
 突然の俺の大声に、疑問系の返事をして困惑顔のすみれ。俺は、あるものが見える最適なポジションを探しつつ、すみれに命令した。
「いいか、すみれ。動くんじゃないぞ。お前が動くことで世の男子高校生が泣いて喜ぶほどのお宝映像が見れなくなってしまうんだ。だから、ジッとしててくれ。俺からの一生のお願いだ」
「? 何言っているんだ? 意味がわからな……」
 俺はすみれに気付かれないように、そろそろと体を慎重に動かし、しかし、確実にあるものが見えるポジショニングを探した。そして、隠密行動の甲斐あってか、とうとうそれを見つけることが出来た。よし、グッジョブ、俺。
「もうオーケーだ、すみれ。さあ、豚を罵るぐらい思う存分、俺に罵詈雑言を浴びせてくれ」
 そう言って俺が、チラリ、とすみれの顔を見たところ……。
「……へえ、そうなのか」
 恐ろしいぐらい満面の笑みをしたすみれの顔が、そこにはあった。その表情を見て、俺は体中のありとあらゆる毛に、鳥肌が立つのを感じた。なぜならば、すみれの目には、憤慨の炎がメラメラと灯されていたからだ。
「見たな?」
 すみれの優しい声色は、俺にとって銃口を突きつけられているのに等しかった。
「な、な、なんの話ですか、す、すみれさん……」
「怒らないから正直に答えていいぞ」
「ぼ、ぼ、僕にはよくわからないな……」
 ふぅ、とすみれは嘆息し、ゴクリッ、と俺は生唾を飲み込んだ。
「私の名前は?」
 とびっきりの笑顔ですみれは聞いてきた。俺は慎重に言葉を選んだ。
「す、すみれさん……です」
「私の今日のパンツの色は?」
「す、すみれ色……です」
 ……。
「あ」
 重大な過ちに気付いたときには、時既に遅く、すみれの神速の足は俺の脳天を完璧に捉えていた。

「あ〜〜、いてぇ〜〜」
 頭に出来たでっかいこぶを撫でながら、すみれを恨めしげに見る。
「自業自得だ!」
 そう言うと幼馴染は俺と目も合わせたくないのか、プイッと横を向き俺の視線を見事に受け流した。
 頭が痛過ぎる。……あ、でかいこぶが二つもある。あいつ、二回も蹴ったのか……恐っ!
 いつもより遅い下校時。もうそろそろ日が沈みかけようとする頃。でかいこぶを持った哀れな俺と、超暴力女は並んで帰路へとついていた。
「ところで……徹はなんであんなところでずっと寝ていたんだ?」
 通学路の中頃に見えるコンビニを通り過ぎてから、すみれは何気ない口調で質問してきた。その顔を横目でチラリと見ると「なにかあるんだろ」と言いたげな目だ。
「理由もなにも……普通に寝てただけだって」
 正直に答える。が、すみれは俺の回答に対して納得しなかったみたいで、「う〜ん」とひとしきり唸った後、断言するようにこう言ってきた。
「お前があんな暑い中を、たった一人で寝ていたなんて信じられないな」
「いや、給水棟の影で寝てたからそこまで暑くなかったぞ……たぶん」
 うん……たぶんね。
「直射日光を浴びてなくても、外にいるだけで汗がダラダラ流れてくる気温だったのだぞ。夏大好きっ子でも、長時間も眠れる訳ないだろう」
 うん……そうだな。でも、実際寝てたからなぁ。他にどう説明しろと言うんだ。それに……。
「というか、昼休みの時間、もう一人屋上にいたんだがな……あいつめ、起こしてくれてもいいのに……」
「……誰だ?」
「山崎和義っていう男。あ、お前はあいつのこと知らないか……」
「なっ!」
 急にすみれの足は止まり、絶句したように俺を見てきた。
「え……まさか……知ってるのか?」
「……あ、ああ」
 歯切りが悪そうにすみれは答えた。
 意外だと思った。木藤すみれという俺の幼馴染は、自慢じゃないが、俺以外の誰かと仲良く話している光景を見たことがない。今まですみれに話しかけてくる奴ら全員を、すみれはことごとく無視して来た。誰かに話しかけられても、すみれは言葉を発しようとしないのだ。どうしても話さなければならない用事が出来たときしか、話さなかった、そう、俺以外とは。何故かすみれは、言葉遣いこそ少し変なものの、昔から俺とは普通に話してくれたのだ。もちろん何故俺以外と話さないのか聞いたことはある。しかし、返ってくる返事はいつも「面倒臭い」「どうでもいい」「必要じゃない」と曖昧なものばかりだった。だから、すみれが山崎のことを知っているのには、単純に驚いた。
「え……もしかして友達とか?」
 どことなく俺の声音に嬉しそうな響きがあったからだろう。すみれはジト目で俺を見た。
「全然違う。友達は徹だけで間に合っている」
 と言い、さっさと先に行ってしまう。……待ちたまえ、ガール。
「嘘つくなよ。お前が他人の名前を覚えているなんて、よっぽどのことじゃないか」
 先導するすみれの足が突然止まった。
「……徹、お前は何を言っているのかわかっているのか? お前は私にこう言っているんだぞ。木藤すみれは人の名前も覚えられないような馬鹿者だ、と」
「その通りだろ?」
「人の名前ぐらい覚えている!」
 やれやれ、と思いながらも俺は血相を変えたすみれにクイズを出した。
「じゃあ問題だ。『あ』で始まる出席番号一番のクラスメートの名字は?」
「ふんっ! 人を馬鹿にするのもいい加減にしろ! 大体お前はいつも……」
「に・げ・る・な。プリーズ、アンサー」
「そんなの簡単だ。えっと、確か、あ、あ〜、あっ、『阿部?』」
「『明石』さんだ! 『阿部?』の人なんてクラス名簿どこ探したって載ってない!」
「ああ、そう言えば『阿部』は校長だったな」
「校長でもねーよ! ちなみに教頭でもねーよ!」
「た……」
「担任でもねーよ!」
「ふむ……」
「すみれ自覚してくれ。お前が人の名前を覚えるのなんてよっぽどのことなんだ。だから、本当はあいつと友達なんだろ? 仲睦まじいご関係なんだろ?」
「何で徹はそこまで山崎和義と私との仲を気にかけるんだ。……嫉妬?」
 ちょっと待ってくれ。俺はお前と山崎との仲を嫉妬してる訳ではない。むしろ彼氏彼女の関係になってくれた方が喜ばしいのだ。なぜなら、言いにくいことなんだけど、お前の保護者役は、いい加減疲れたからだ。お前が俺以外と話さないせいで、俺がどれだけ苦労しているのかお前にわかるか? お前と友達になりたいと言ってくる女子生徒の悩みの相談や、お前と付き合いたいと言ってくる男子生徒のすみれ攻略の仕方や、お前がいつも朝の挨拶をしないせいで、教育指導の先生の愚痴が日常化しているのも、全部俺が引き受けているんだぞ。挙げ句の果てにクラスの連中から『夫婦』とか呼ばれているんだぞ。そのせいでクラス内では俺とお前は、二人でワンセット、みたいなポジションになっているんだぞ。いい加減にしてくれよ。
 言いたい、言いたいけど、言ったら……。
「殺される……」
「殺されたいのか?」
「ヒィッ!」
 思わず背格好だけは一人前な俺は、情けない悲鳴をあげてしまう。それもそのはず、木藤すみれという人間は、あらゆる武術で大の大人を瞬殺するぐらいの腕前なのだ。詳しくは知らないが、木藤家は古来から伝わる武術の一家で、すみれはその後継者らしい。そのため、幼い頃からすみれはあらゆる武術を学んできた。だから子童である俺が、すみれに喧嘩なんぞ仕掛けた暁には、血の海を見るだろうことが予想される。降血確率百パーセントだ。
 俺が情けなく震えていたせいだろう。通りがかりの男子小学生からは鼻で「フッ」と一笑された。その小さく遠ざかっていく背中を見ながら、俺は心の中で呟いた。
 少年よ、男には時として負けてやることも大切なんだ。男はいつだって紳士でなければならない。そう、俺は敢えて、わざと負けてやっているに過ぎない。でなければこんな女の言いなりになんか……。
「おい、聞いているのか!」
「ハイ、キイテマス」
 ……ならないように努力したいな。
「あれ? なんの話してたっけ?」
「だから、もう少し用心しろと言っているんだ……馬鹿者め」
 はぁ、とすみれはまたため息をつく。そして、何かを考えている様子だった。ため息をつくと幸せが逃げるぞ、と教えたくなったがまた殴られそうなので止めておいた。

 通学路にあるコンビニの前を通りかかったところで、
「ときに、とおる……」
「ん?」
「期末テストが終わった今、待っているのは何だと思う?」
 突然、幼い少女のように、今にもはしゃぎ出しそうな様子で、すみれは俺に聞いてきた。
「え〜〜と……」
 急に質問をされて答えに詰まる。しかし、すみれの質問の仕方によると、考えられる選択肢はそう多くなさそうだ。その「待っているもの」というのはすみれにとって期末テストよりも飛び抜けていいものに違いない。そしてこの質問を俺にしてきたということは、俺にとっても喜ばしいものなのだろう。あと、補足するならこの手の質問は、イベントごとに関係している可能性が、大だ。
 導きだされる答えは一つ!
「夏休みだ!」
「そうだ! そしてもちろんあの約束は覚えているな?」
「約束?」
「そうだ、あの約束だ」
 ……思い出せない。
「えーと、朝のラジオ体操を一緒にする、とか?」
「私は朝は弱いが……」
「あー、スイカの種吹き競争をする、とか?」
「いや別に吹かないが……」
「こ、コミックまー……」
「何を言っている?」
 困った。まるで思い出せない。
 俺が答えを窮しているのを悟ってか、すみれが溜め息まじりに助け舟を出してくれた。
「ほら、期末テストのときの……」
 ぼそり、とすみれはそう言う。
「期末テスト……ああ。もしかして……アレか?」
「もしかしなくても、アレだ」
 自分の髪をぽりぽりと掻く。そして、俺は勉強会をしたあの日の出来事を思い出していた。

 期末テストが始まる直前の日曜日。
 俺はその日、昼からすみれの家を訪ねていた。
 なぜ俺が休日の日曜日の、それも本来ならぐっすり寝ているはずの昼間から幼馴染の家に行かなければならなかったのか、それには重大な理由があった。
 学生の敵である、テストのためだ。
 俺の成績は、残念なことに下から数えた方が早いもので、すみれの成績は、ムカつくことに上から数えた方が早いものだった。
「徹は、明日の期末テストの勉強、どれぐらいしているんだ?」
「してない」
 学校での俺の成績が芳しくないことを、前々から知っていたすみれが急遽俺のために勉強会を立ち上げてくれて、俺はすみれの家の玄関の前まで来ていた。
 この辺の新興住宅街に二つはないだろう広大な土地。遠くからみてもその立派さがわかる純和風の門構え。そして、仰々しく「木藤」と書かれた表札。それが木藤すみれが暮らしている家だった。
 俺は迷いのない動作でインターフォン、ではなく携帯電話を取り出して、すみれの携帯電話の番号に電話をかける。ツーコールもしないうちに「はい」とすみれの声が聞こえ、「着いたぞ」と俺は言った。
 一分もしない内に玄関のドアが、ギイッとどこか古くさい音を立てて開いた。
「入っていいぞ」
 声を聞き、すみれの顔を見て、不覚にも俺はドキッとした。いつもかけているはずの眼鏡をかけていなかったのだ。
「お前、今日眼鏡は?」
「……ああ、そういえば部屋に置いて来てしまったな。どうりで見えにくい訳だ。それがどうかしたか?」
「いや……別に」
 似合っている、とは口が裂けても言えない。
 紺色のワンピースを着ていたすみれはどこか落ち着いた感じの目をして俺を見つめていた。蒸し暑い夏の昼下がり、すみれの格好は暑い夏によく冴えていた。
「では、行こうか」 
 先に歩き出したすみれの後ろ姿を追いかけて俺も家の中へと入っていく。
 丁寧に切り揃えられた植栽、年季の入っている灯籠、心地よい水音を立てるつくばい、それらを囲む草木。見事な和の空間が目の前に広がっていた。すみれの後ろに従って着いていくと、道が二つに分かれているところに出る。左は大きくて立派な母屋へと続き、右の道は離れへと続いている。すみれは迷わず右へ進み、俺もそれに続く。
 ほどなくして表れる離れの建物は、この空間に似つかわしくないものだった。
「いつ見ても場違いな建物だよな」
 俺が素直な感想を述べると、
「いつ見ても素敵な建物だな」
 と、すみれは俺の感想に反論して来た。
 すみれ曰く、素敵な建物らしいソレは明らかに周りの空間とはミスマッチだった。
 溜め息を一つ出す。
「離れがログハウスっておかしいだろ」
 ぼやきながらログハウスの家へ入っていった俺は、それから夜遅くまですみれと一緒に勉強をした。
 そのお陰か、期末テストの赤点回避には成功したのだった。
 はい、めでたしめでたし。

 まあ、めでたしめでたしで終わらないのが現実なんだけど……。

「私はちゃんと勉強を教える代わりに条件を出したはずだ」
 条件、ねぇ。
「はいはい、確かにおっしゃいましたね。『勉強を教える代わりに夏休みの間は私に付き合って欲しい』って」
「じゃあ……いいんだな?」
「何が?」
「夏休みの間は、私に付き合ってくれるのだな?」
 こいつは何を言っている?
「だから、勉強を教えてもらったんだろ? 今更そんなこと聞くなよ」
 当然のように答えてすみれの横顔を見ると俺は驚いた。
 奴は「フフフフフフ……」と口を歪ませて低い声を出して笑っていた。
 笑っている? ああ、そうだ。すみれは笑っているのだ。こいつは昔から嬉しいことが起きると、気持ち悪い笑い方をする変な奴なのだ。正直言って怖い。いや、もっと言うと、キモい。
 そうこうしている内に俺の家の前までたどり着く。
「ではまた明日な、徹」
「おう、また明日な」
 いつもの別れの挨拶。何気ない日常。そしてやってくるだろう明日。
 俺はそれを信じて疑わなかった。
 すみれが去り行くのを見て、家の中へ入ろうとしたとき。
「……」
 誰かに見られている気配を感じた。
 慌てて後ろを振り向く。
 だが何もいない。人っ子一人いない。そこには軒並み並ぶ住宅街が広がっているだけだ。なのに……。
「……誰もいないよな?」
 俺は声をかけていた。自分でも不思議なことをしていると感じていた。しかし、何かの存在を感じたのだ。
 声に答える者は当然いなく、俺は家へと帰ろうとして、不意に空を見た。
 いつも見ているはずの夕日が、少しだけ暗く見えるなと思った。

「ただいま。うおっ!」
 俺が玄関のドアを開けると、そこは見知らぬジャングルで、モンスターが俺に襲いかかってきた。不意をつかれた俺は、為す術もなくモンスターの抱きつき攻撃を受けてしまった。 
「徹ちゃん、こんな時間まで何処にいたんですか? 徹ちゃんの帰宅時間があまりにも遅いから、お母さん心配して今から探しに行く所だったんですよ!」
 ……失敬。
 そこにいたのはモンスター……身長百四十六センチメートルの童顔少女で、俺の母親である曽野川香織がいた。
 ……まあ、つまりはアレだ。実の母親に俺は現在抱きつかれている形になる。絵的には妹に抱きつかれている感じだろうか。
「いやお袋、探しに行くったって……」
 抱きつかれる格好のまま自前の腕時計を覗き込み時間を確認するが……。
「まだ夜の七時前だぞ。高校生にとってこれぐらいは普通なんじゃ……」
「じゅうぶんに遅いです!」
 反論されてしまった。
「でも……」
「徹ちゃんは、毎日家には六時に帰る、と私と約束しました」
「そんなのは口約束であって、約束の内には入らないような……」
「約束は約束なんです!」
 我が母親ながら子供みたいな人だな、と俺が胸中で思っていると……。
「徹、今帰ったのか?」
「あ、親父」
 居間から出てきたのは鋭い眼光をした一匹の野獣で、俺は走馬灯を見ることもなくあの世へと召されたのだった。
「徹、遅くなるときは電話しろとあれほど口を酸っぱくして言っているだろう。お前があまりにも遅いんで警察に届け出るところだったんだぞ」
 ……あ〜〜失敬。
 表れたのは俺の父親である曽野川厳次郎だった。厳しい眼差し、引き締まった体つき、そして頬の十字傷から見てもわかるように、はた目からは極道の人だ。
 他人から見てこの二人が結婚しているとは到底思えない。息子の俺だって信じられないのだから。例えば母親が「実は私、徹ちゃんの妹なんだよね」と言ったら嘘偽りのない真実だと受け取るし、父親に「実は俺、曽野川組十二代目の組長なんだよね」と言われたら俺は若頭なんだと納得してしまうだろう。
 そんな違和感ありまくりの夫婦の間に生まれた俺って……。
 ――プルルルルルルッ。
 自分の運命を嘆いていた俺だが玄関横にある電話の音により我に返った。
「はいは〜い」
 お袋が可愛らしい声を上げながら受話器を取る。
「はい、曽野川ですが」
 この時間帯に電話と言えば……親父とお袋の仕事関係の電話だろう。
 お袋は、明日来るだろう仕入れの確認電話を早々に切った。そして、親父の顔を、恐る恐ると言った感じで見ながら、早口でこう言ってきた。
「厳ちゃん。明日はマリーちゃんとパンちゃんとサルちゃんがいっぱい来るから、がんばって売っちゃおうね!」
 ことの顛末を知った俺は「またか……」と思ったが、親父は嫌な顔一つせず、
「僕ら二人の愛があれば、どんな困難でも乗り越えられるよ! かおりん!」
 と実に顔に似合わないセリフを吐いたのだった。
「そうだね、厳ちゃん!」
 たまに二人の会話にドッと疲れるのは気のせいだろうか。
 ちなみにお袋は親父に何を伝えたかというと……。

 ○訳○ 厳次郎さん。明日の朝六時頃に、マリーゴールドとパンジーとサルビアを大量に間違って仕入れてしまいました。頑張って厳次郎さんの力で完売してください。

 といったところだろう。
 マリーゴールド、パンジー、サルビアの名前からわかるように家は花屋をやっている。近所の間では、ヤクザの組長のような顔した親父と、ランドセルを背負っていても違和感のないお袋とのアンバランスな関係が面白いらしく、そこそこ繁盛しているようだ。繁盛しているのだから、もう少しぐらい小遣いアップをしてほしいのが俺の本音だが……。
 ひとしきりの話は終わったので俺は自室がある二階の階段を上ろうとした。
「あっ、徹ちゃん」
 しかし、お袋の声で呼び止められる。
「何?」
「あのね、今日は徹ちゃんの大好きなトンカツなんです……」
「トンカツ……」
 トンカツは俺の大好物だ。そして、お袋が作るトンカツはこれがまた殺人的に旨い。そのトンカツは口の中に入れると、パリッとした衣と、ジューシーな肉汁との絶妙なハーモニーを生み出す、プロ顔負けの一品。
 口の中から自然と出てくる生唾を飲み込む。
「わかった。すぐに着替えてくる」
 俺は急いで自室に駆け出そうとする。しかし……。
「着替えはまだしちゃ駄目です!」
 お袋は何かを慌ててか、俺の制服の裾を引っ張って来た。
「え? 何で?」
 いま一つ話が見えない俺に、お袋は「実は……」と内緒話をするみたいに俺の耳元まで口を運ばせて小さな声であることを言った。

 ――シャー。
 夜の住宅街を自転車で駆けて行く。下り坂を快調に滑りおりていくときの、風が頬を切る感触がたまらなく気持ちいい。坂を下ると目の前の信号機は青から赤に変わる頃だった。俺は迷わず左手の力を強め、ブレーキをかけた。
 なぜ俺が夜の町を自転車を使って移動しているかと言えば、お袋のせいだ。
『実は……トンカツソースを切らしているのを忘れていて……徹ちゃんに買って来て欲しいんです。テヘッ』
 とお袋は俺に言った。何が「テヘッ」だ。
 トンカツソースのないトンカツなんて俺にとってはありえない。とのことで、急遽、俺は近所のコンビニへと買い出しに出掛けている最中だ。
 真夏の蒸し暑さは夜になっても継続しており、信号待ちをしている俺は、少しずつ服が汗ばんでいくのを感じた。
 そして、俺は歩行者用の赤信号を見ながら、今日、俺に降り掛かった事故について考えた。
 昼休みの教室ですみれに話したときにはあまり実感が無く、起きたことをそのまま言っていた。しかし、今、朝の事故を思い返すと、とんでもないことに遭ったのだと思い始める。
 だって事故だぞ? それもあの子の助けが無かったら、危うく死にかけたのだ。そう、あの黒い少女がいなかったら俺は今頃……。
 あの少女はいつの間にか俺の側にいて、いつの間にか消えていた。俺の網膜に焼き付いたのは彼女の黒くて長い髪の毛と、同じぐらい黒い傘だけだった。
「黒い傘をもった少女……か」
 信号が青に変わった。
 自転車のペダルに力を込めて俺は横断歩道を渡った。

 買い物を終えて、二十四時間営業のコンビニを出るとポツリポツリと水滴が手の甲に降って来た。首を勢いよく上空に向けると、間の悪いことに雨が降り出し始めていた。
「今日はついてないな」
 仕方ないからビニール傘でも買おうと思い、コンビニに足を向けようとするが、ある重要なことに気づく。金が無かった。お袋がトンカツソース代しかくれなかったのを思い出す。慌ててポケットを弄るが、出てくるのは五円玉や飴玉の袋などのガラクタばかりだった。
 雨の状態を察するに、まだ小雨程度。
 ……これなら多少濡れても大丈夫か。
 決断は早かった。トンカツソースが入った袋を、自転車の所々形がおかしくなったカゴに入れ、サドルに跨がった。

 その五分後、小学生の頃通っていて今は営業していない駄菓子屋の屋根下に俺はいた。すぐ側に、今日の朝事故をしそうになった交差点が見える。別に小学生の記憶を懐かしんでここにいる訳ではない。問題は別のところにある。
「は、はっくしょんっ、はっくしょん、は、は、は、はっくしょん!」
 寒さのせいで大きなくしゃみが連続して出るが、気にしない気にしない。
 問題となっているのは視線の先にあった。そう、雨だ。それも大雨。現在、俺は虚ろな瞳で雨粒を見ている最中だった。コンビニを出たときの小雨だった雨は大降りになり、お陰で前方は見えなくなるし、服はびしょびしょになるしで、踏んだり蹴ったりな状態だった。
 携帯電話というものを、うっかり家に忘れた俺にとって外部との連絡手段はない。こんなことならコンビニにあった公衆電話で親父に迎えに来てもらえばよかったと思い、今更ながら後悔した。
 雨はどんどん本降りになり、駄菓子屋の向かい側にあるクリーニング屋の看板がまったく見えなくなるぐらいだった。
 まるで、世界から俺だけがこの空間に存在しているようだ。そう詩人めいたことを考えながら、相変わらず降り続ける雨を一人悲しく見ていた……はずだった。
 
「ん?」
 雨宿りをしているのは俺しかいないと思っていたが、どうやら暗くなっている端のほうに、もう一人誰かいたようだ。
 連続した大きなくしゃみを他人に聞かれてしまったことを恥ずかしく思いながらも、俺は横目でチラリとこの不思議空間に一緒にいるもう一人の住人を見た。
 所々ペンキがはがれたベンチに座っているそいつは、全身黒尽くめの女の子だった。長くてくせ毛一つない黒い髪、黒いワンピース、黒い靴、全身が黒、黒、黒だった。極めつけは黒い傘を大事そうに両手で持っていた。
 俺はその風貌を見て、その少女が、今日俺を助けてくれた命の恩人だとすぐに気がついた。声をかけようとする。
 が、少女の瞳はどこかずっと遠くを見ており、他者を受け付けない壁がそびえ立っているように見えた。
 少し躊躇してしまった。
 するとどうだろうか。なかなか声をかけようにもかけられない。
 それから暫くの間、俺とその少女は豪雨が降りそそぐ中をひっそりと過ごした。
 奇妙な時間だった。
 どうも居心地が悪かった。命を助けてくれたのだからやっぱり声をかけるべきだと思うのだが、どうも声をかけづらい。それに雰囲気的にも話しかけられたくなさそうだ。
 いや、しかし、でも……。
 悶々と悩んでいる俺の背中から冷や汗が一滴流れるのと、少女がベンチを立ったのは同時だった。
 少女は横に置いていた黒い傘を手に取り、傘を広げずにそのまま土砂降りの雨の中へとゆっくりと入って行った。
 少女の突飛な行動を見て呆気にとられる俺だったが、すぐに異常に気づいた。
 雨が、少女の体を、通過していた。
 その証拠に少女の体は半透明に透けて見え、雨粒が彼女の体を通過していく様子がはっきりとわかった。
 長く真っ直ぐ伸びた髪や、黒い制服にも濡れた後がなかった。
 雨に入って行った少女だったが、さっきまで気にもかけていなかっただろう俺を不意に見た。
「え……」
 その目には色がなかった。
 生きている人間なら誰しもが持っているはずであろう、命の色がまるでなかった。
 そして、急に少女は俺の目の前から忽然と姿を消した。
「!」
 その時、俺は今日の朝に起きた出来事と現状がリンクする。繋がっているのはもちろん少女が消えたという不可思議な現象だ。
 しかし、驚いたのも束の間、少女はまた現れた。先ほどと同じ場所に。
 かと思ったらまた消える。そして、また現れる。
 消えて、現れて、また消えて、また現れる。
 その光景を見て俺ははっきりと何かを実感した。その何かは、じめじめとした場所で這いずり回り、目を合わせたら最後。俺の喉仏は食いちぎられていた。
 空気が冷たいと思った。そしてチクチク痛いとも。
 何かを追い払おうと、必死で言葉を出そうと、叫び出しそうになったとき、
 ――バサッ。
 少女は持っていた黒い傘を勢いよく開いた。
 その音とともに黒い傘から、雨に打たれる音が聞こえた。
 一瞬何が起きたかわからなかった。そして、すぐに新しい異常に気付く。
 今、俺の前にいる少女は半透明にもなっていなかったし、雨が通過してもいない。ちゃんとそこに立って、ちゃんと存在していた。
 これは、一体どういうことだ。慌てて両手で両目をこする。少女が半透明に見えたのは俺の目の錯覚だったのか。
「あなた、顔が真っ青ですよ」
 どこか苦しそうにしている少女の声が至近距離から聞こえた。目を開けて見ると、鼻と鼻がぶつかりそうな距離に、本人の顔があった。
 急な事態に慌てた俺は、少女からすぐに距離をとろうした。しかし、少女はまるで俺の行動をなど予想していたかのように先回りして、俺の首を強引に引っ張り、そして……。
 ……キスされた。
 少女の温かい唇の感触は生々しく扇情的だった。
 映画やドラマの世界でしかなかったキスシーンが、俺のほんの目の前で展開されていた。
 そのキス行為はほんの数秒か、はたまた数分か、時間の感覚が俺にはわからなかった。
 それほどに、何かを忘れさせてくれるほどに、甘く、とろける、そんな時間だった。

「落ち着きましたか?」
 ベンチに座って俺は頭を抱えた。
 同じくベンチに座った少女は先程のつらそうな声はどこへ消えたのだろうか、健康そうな声の調子で俺の心配をしている。
「あぇ」とか「ぅお」などの意味のわからない言葉しか発するしかない俺は、ただただ混乱していた。
 俺の狼狽ぶりを楽しむように、横からは少女の品の良い笑い声が雨の音と共に聞こえて来ていた。
「……何でキスなんてしたんだ?」
 暫くして落ち着いた俺は、少女の目を標的を狙うハンターのごとく睨んだ。少女の唇を出来るだけ見ないようにしてだが……。
 少女は何かを隠す素振りも見せずに平然と、
「あなたの顔が尋常とは思えないほど、真っ青になっていたので」
 と、俺にキスした理由を告げる。
「たったそれだけの理由で?」
 驚いた俺がそう聞くと、少女は案の定したり顔をして、
「ウソですけどね」
 と、今度はフフフと嫌な笑い方をした。
 コロコロと変わる少女の表情の変化に俺が戸惑っていると、今度は急に真剣な眼差しで、
「あなたにキスした本当の理由は言えません。言ってしまったら、あなたは私を許してはくれないでしょうから。でも、私にとってあなたと唇と唇を重ねることは必要不可欠だったのです。しょうがなかったんですよ」
 理由を言ったら許してもらえないから言わない……だと。
「お前……これから俺が言うことをよく聞けよ……」
「はい?」
 俺はベンチを立ち、息を思いっきり吸って、間髪入れずに少女へ怒りを露にした。
「キスって行為はな、愛し合う者同士がお互いを思う気持ちによって初めて成り立つ行為なんだよ! そんな見ず知らずの他人にホイホイとささげていいもんじゃないんだよ! 何が、必要不可欠だ、何が、しょうがなかっただ、てめぇの理由なんて知ったこっちゃないんだよ! そんなこと言う暇があったら俺を過去へタイムスリップさせろ! 俺の、俺の、ファーストキス返せ、この野郎ぉぉぉぉぉぉぉぅ!」
 言った、言ってやったぞ。こんなに他人を怒鳴り散らしたのは小学校の入学式以来だ。おかげですっきりした。……アレ、でも何か最後の辺りで何か叫んだような……。
 大声で罵詈雑言を浴びせたのに少女の顔はケロッとしていた。それどころか、ニタニタといやらしい笑みを浮かべて笑っていた。
「な、何がおかしいんだ?」
 口調を尖らせて少女に詰問する俺だったが、自分の声が震えていることに気付いた。少女はそんな俺を見て、かわいそうな子羊を見るような目つきでこう言った。
「ファーストキス……ですか。ファーストキス……ね。フフッ」
「なっ!」 
「そういうの、男の人でも気にするんですね」
「お、お、お、お前」
 声が自然と裏返る。
「初々しいですね。フフフッ」
「あ、あわわわわわわわわわわ!」
 自分でも頬が紅潮して呂律が回らないのは自覚していたが、何か言っていなければきっと、俺は死ぬ。恥ずかしすぎて死ぬ。
「う、うるさい! お、お前みたいに俺は経験豊富じゃないんだよ! 人の純情を弄ぶな!」
「経験豊富?」
「そ、そうだ! お前みたいに誰それかまわずやりたい放題にしている奴には、俺のハートの脆さはわからないだろうけどな! この、淫乱女!」
「失礼な人ですね。私だってあなたとしかキスしたことないのに」
「はいはい、そうだろうよ。お前だって俺としかキスしたことないだろうよ。でもな、もう一度言うが、お前のような奴とは俺は…………ん?」
 今、こいつ何て?
「私はあなたとしかキスしたことがありませんよ。これなら文句ありませんか?」
「は、はぁ?」
 それって……こいつも、初めてってことか?
「あ、もうこんな時間ですね」
 少女は駄菓子屋の前に設置してある時計で時間を確認すると、ベンチから席を立ち、黒い傘を広げた。
 そして少女は、俺の目を見るとどこか寂しそうな表情をしたのだ。
「お話が出来て楽しかったです。……さようなら」
 どこか無理のある笑いをしながらそう言うと、少女は足早に雨の中へ消えた。
 呆気に取られていた俺だったがすぐさま雨の中へ飛び出し、
「ちょっと待て!」
 少女を引き止めていた。
 そして、
「お前の名前は?」
 少女の名前を当然のように聞いている俺がいた。
 名前を聞かれた少女は、今日この時初めて驚いた顔をした。いや、驚いたなんて生易しいものじゃない、少女の顔は驚愕して慌てふためいていた。
「え……あ、あの……えっ?」
 そして、どうしたら良いのかわからずに目を泳がせる始末。
「俺の名前は曽野川徹だ。……お前の名前は?」
 俺は自分の名前を名乗るともう一度少女の名前を聞いた。
 聞かなければならない、絶対に。なぜだかわからないが直感的にそう感じている俺がいた。

 もし、このとき、俺が少女の名前を聞いていなければ、ソレとは関わり合う生涯を持つことはなかっただろう。俺の人生観を百八十度変えてしまった面倒くさい災難の数々にも、遭いはしなかった。そして、あの事件を知ることもなかった。
 もしもこの世界がゲームの世界だと仮定したら、間違いなく少女の名前を聞くココはセーブポイントだ。
 ひとつの選択肢では「平穏な日常」がいつまでも続き、もうひとつの選択肢では「日常の崩壊」が訪れる。
 こんなに重要な人生のターニングポイントが表れるのに、プレイヤーはなんの心配も抱かない。重要な選択肢があってもそこでセーブをして、間違ったならセーブしたところからやり直せばいいからだ。
 簡単だろ?
 でも、この世界は現実だ。
 現実のこの世界ではゲームのようなセーブもロードも出来ない。間違った選択肢をしてしまっても、やり直しは決して出来なくて、間違った道の上を、前へ前へと足を進むしか方法がないのだ。
 予め言っておこう、「少女を呼び止める」という選択肢は俺にとって間違った選択肢だ。
 幼馴染の木藤すみれとのやり取り、屋上でよく会う山崎和義との馬鹿騒ぎ、どう見ても子供にしか見えないお袋や極道みたいな親父、そして、俺に関わる全ての、普通のもの。
 変化はないが穏やかな日常を俺は悪くないと思っていた。いや、違うな……。
 俺、曽野川徹はこの普通の何でも無い生活が好きだった。この何気ない日常が、長く続けばいいと本心から思っていたんだ。
 だからこそ、「日常の崩壊」なんてものを俺は望んでなんかいなかった。もっと言えば、諭吉さんをいくら積まれても願い下げだ。
 でも、それでも……俺は……。
「……ヒカリ、です」
 俺はこの選択肢を選んだことを、後悔していない。

 2「日常の崩壊」

 ――ジリリリリリッ。

 反射的に俺は奴の頭をぶっ叩いて、盛大に鳴り響いていた自慢の音をあの世へと沈めていた。
「う、ううん……」
 いつも思うが朝の目覚ましの音ほど不愉快な物はないと思う。すやすやと眠っている人間様にこんな乱暴な起こし方をしていいと、奴(目覚まし時計)は本気で思っているのだろうか。
 ……まあ、相手機械だし、セットしてるの俺だし、言ってもしょうがないのはわかってるんだけどさ。
 ああ、今日もいつも通り学校に行くのは憂鬱だ。
 ん? でも俺はいつ家に帰って来たんだ? まったく覚えが無い。
 まあ……どうでもいいけどさ。あ〜……眠い……。

 ――ジリリリリリッ。

 再び目覚まし時計が鳴り響き朝の静かなひと時をぶち壊す。
「……あ〜、うるせーな……」
 もう一度鉄拳制裁を加えようとしてのろのろと手を上げた。
「いい加減目を覚ました方がいいですよ。今日も学校なんでしょう?」
「……え?」
 パチリパチリ。瞬きを二度繰り返す。
「ほら、昨日の夜とは打って変わって今日はいい天気ですよ。絶好の登校日和ですね」
 ガバッ。寝惚け眼だった目を開眼させて声が聞こえる方を見る。
「……私も学校に行きたいな。……あ、ようやく起きましたね」
 普段俺が使っている椅子の上に、そいつは座っていた。そいつは優雅に微笑みながら俺を見ていた。
「なんでお前がここにいる?」
「私は『お前』なんて名前じゃないんですけどね……」
 言いながらそいつはわざとらしくシクシクと泣くポーズを俺に見せてきた。いかにも白々しい。
 昨日の黒い傘を持った少女、ヒカリが俺の部屋に何故かいた。ヒカリの手をみるとその傘を案の定握っていた。
「そもそも人の家に許可なく入っていいと思ってるのか。不法侵入でお前を訴え……」
「『お前』ではなくてヒカリです」
 にっこり笑顔、語気やや強めで、また呼び方の訂正を要求してくるヒカリ。微妙に笑顔が怖かった。
「わかったよ、ヒカリ……さん?」
「さんは余計です」
 さんは余計って……俺はすみれ以外に女子を名前で呼んだことがないんだが……。
「……ヒカ、リ?」
 試しに呼んでみる。
「はい!」
「うっ」
 名前を言われて顔を子供のように笑うヒカリは、昨日の雨の日に見たときのような冷たい印象とは別人のように明るかった。
 ……その、何と言うか、少しだけ、本当に少しだけ、かわいいと思ってしまう俺がいた。
「今、私の顔を見てかわいいと思いましたね」
 え、読心術?
「なっ…………思ってねーよ……」
 図星を突かれたが一応は否定しておく。
「照れなくても良いですよ。昨日熱いキスを交わした仲じゃないですか」
 昨日のキスの話が出て俺の顔が一気に赤くなる。
「あ、あ、あれはお前が一方的にしたんじゃねーか! 俺の純血を返せ!」
 そう俺が言うと、ヒカリはまるで腐った魚のような冷めた目で、
「男があんまりファーストキスとかに拘らない方がいいですよ。……少しキモいですから」 
「き、キモくねーよ! どこぞの誰かわからないお前の方がよっぽどキモチワルいよ! ってかそもそもお前は何で俺にキスにしたんだ? それにいつの間に俺は自分の部屋に帰って来たたんだ? それと何でお前はここにいるんだよ?」
「そ、それは……」
 ヒカリが何か言葉を発しようとした時……。

「と、徹ちゃん……何で家の中に女の子がいるんですか?」
 今、一番聞きたくない声が聞こえた気がした。
 恐る恐るドアに視線を向けるとそこに立っているのはどう見ても小学生にしか見えない童女だった。
「あ、かわいいお嬢さんですね。妹さんですか?」
 妹ならどんなに良かったことか……。
「お袋……」
「え?」
 驚いた顔をして俺とお袋を交互に見てくるヒカリ。……まあ、お袋の容姿を見て驚かない方が無理か。
「徹ちゃん、ちゃんと説明して下さい。今までどこに行っていたんですか? それに何で徹ちゃんの部屋に女の子が……それに……それに……私は徹ちゃんの妹じゃありません!」
「……え? え、私ですか? えっと……ふふ、すみません」
 いきなり方向転換してヒカリに詰め寄るお袋。ヒカリもどうしたら良いのかわからずにとりあえず謝っている。そして、なぜだかわからないが少し楽しそうだ。
 お袋が怒るのも無理はない。ヒカリがお袋を子供扱いしたことは曽野川家の家訓に反しているからだ。
 曽野川家では三つの家訓があるのだ。

 その一――花の水やりを欠かしてはいけない。
 その二――困ったことが起きたら家族に相談すること。
 その一は家が花屋を営んでいるから。その二は家族を信頼するために。
 そして、最後にして絶対守らなければならないものが、
 その三――お袋を子供扱いしてはいけない、だ。
 
「私がどうして徹ちゃんの妹になるんですか。どっからどう見ても大人の女性にしか見えないはずです!」
 いや、どっからどう見ても小学生ぐらいの童女です。
 ……絶対言わないけど。
「このナイスバディをちゃんと見て下さい。どう見てもボン・キュ・ボンじゃないですか」
 いや、どう見てもキュ・キュ・キュです。
 ……絶対言わ(以下略)
「それに大人の女性である私は香水だってとびっきりのを使っているんですよ」
 いや、そのせいで俺の小遣いが。
 ……絶対(以下略)
「あと私の笑い方は奥ゆかしいと近所で有名なんです」
 いや、愛くるしいの間違い。
 ……絶(以下略)
「さらに言えば、私の最愛の夫である厳ちゃんからは毎日『かおりん』と言われているんです。愛称で呼び合える夫婦仲はまさに大人の関係。もっと言えば、毎日あんなことやこんなことも……。キャー、キャー、も〜何言わせるんですか。照れちゃいます(ポッ)」
 ……(以下略)
 のろけ状態になったお袋を尻目にこっそりと俺はヒカリの側まで近づき、耳元で囁いた。
(おい、ヒカリ。事情は後で聞いてやるから、とりあえず一旦家から出て行ってくれ。お前がいると色々ややこしくなる)
 それを聞いたヒカリは首を縦に振るかと思った、が……。
「いやです」
 きっぱりとそう言うとお袋を正面から見て、
「お母様、お話を聞いて下さい」
「え? お母様? 私が?」
 俺のお袋に向かって『お母様』と言っていた。
 のろけ状態だったお袋は『お母様』と言う言葉に敏感に反応して元のお袋に戻った。いや、『元に』という言葉には語弊があるな。正確には「……私がお母様? ……私がお母様。……私が、私がお母様!」と『お母様』という言葉にうっとりとしている童女がそこにいた。
「お母様、昨日起きたことをすべてお話します」
「あ、いけません、つい忘れるところでした」
「忘れるなよ!」
 お袋のボケはともかく……ヒカリは昨日起きたことを話し始めた。
「昨日の夜、私は自分の家へ帰ろうとしていると、近所の駄菓子屋の前で見知らぬ男に襲われそうになりました」
 ……え?
「私は咄嗟に逃げようとしました。しかし、予期しない事態に体が震えてしまって思ったように動きません」
 ……え〜と……ヒカリさん?
「ニタニタと下品な笑い方をした男がゆっくりと私に近づき、もう駄目だと思ったその時でした。颯爽と現れた一人の男性がいとも容易く男を倒し、私の窮地を救ってくれたのです」
 お袋が興奮した表情でヒカリの話を聞き入っている。その姿はまるで、大好きなアニメを見ている女の子そのものだった。
「私は『あなたのお名前は?』と聞きました。すると、男性は『名乗る程のものではない……』と言い、また颯爽と去って行きました。その姿はまるで映画のワンシーンのようでした」
「うんうん、それでそれで?」
 お袋はなおも興奮した面持ちで話の続きを促す。すると、ヒカリは残念そうな表情を浮かべて、
「……私が覚えているのは残念ながらここまでなんです」
 と締めくくった。お袋は「え〜そんな〜」と駄々っ子のように拗ねた口調をした。
「ですが、話の続きは私を助けてくれた当人が答えてくれるでしょう」
 そう言うとヒカリは俺の顔を直視した。お袋も同じようにまじまじと俺を見てくる。
 この展開ってどう考えても……合わせるしか道はないよな。
 俺は内心ため息を一つすると、
「ああ、そうだ、ヒカリを変態野郎から助けたのはこの俺だ。その後、ヒカリがいきなり気絶するもんだから、とりあえず家に連れて帰ってきた……というわけ」
 と嘘を言った。我ながら演技力の無さに飽きれてしまうが、お袋は白馬の王子様を見るように目をキラキラさせていた。ヒカリはというと……少し目が笑っていた。
「徹ちゃん、とっても偉いです。女の子を変な男から救い出し、その上気絶したその子を家まで運んで、ベッドで寝かせるという紳士のような気遣い……。なかなか出来るものではありません!」
「あ、ありがとう……」
 嘘八百を言ったことへの罪悪感が重くのしかかる。
「それから、ヒカリちゃん。さっきは取り乱してしまって本当にごめんなさい……」
「いえ、お母様が取り乱すのも無理はありません。私もすぐに事情を話すべきでした。すみません……」
 お袋とヒカリのどちらもが相手に頭を下げる。自分の母親と昨日会ったばかりの少女が頭を下げあっている光景はなんだか変な感じだ。
「あの〜ヒカリちゃん、お詫びの印と言ってはなんですが……朝ご飯食べて行きませんか? 昨日の残り物のトンカツなんですけど」
「え?」
 ヒカリは驚いたように瞬きを数回繰り返した。そして、なぜか俺の顔を見てきた。その表情から察するに「いいんですか?」と訪ねているようだったので、俺は慌てて自分が出来る最大限の笑顔をヒカリに向けた。
「い、いいに決まってるだろ。お袋の作るトンカツはやばいぐらい旨いからな。ハハハッ」
 すると、何がそんなに嬉しいのか、ヒカリはとびっきりの笑顔を俺に見せてお袋に続いて部屋を出て行った。
 ヒカリが出て行ったのを確認して俺はこう呟いた。
「……これでヒカリが、一体何なのかわかるかも……な」
 俺はどうしても昨日の夜に見た光景が忘れられずにいた。
 半透明になって雨が体を通過していったり、死人のような目をしていたあいつ。
 幻や目の錯覚だと普通なら思うだろう。だが、ひそかに俺はこう思っていた。
 ヒカリは……もしかしたら……。
 幽霊かもしれない。

「ヒカリ……」
「ふぁい、ぁんでぅすかぁ?」
「お前って、見かけによらず、大食いなんだな……」 
「ふぉんぬぁくぉと、ぁいでぅえふよ」
「いや、だって……」
 女の子がご飯のおかわり六杯目ってどうなんだ?
「よく食べる子は、よく成長するんですよ、徹ちゃん」
「そうだぞ徹。お前もヒカリちゃんを見習って、もっと食え」
「あ〜、うん……」
 なぜだか知らないが、親父は俺がリビングに着く頃にはヒカリといつの間にか親しげに話していた。そして、俺の姿を発見するや否や、俺に抱きついて見事なまでに男泣きをしたのだった。どうやら、お袋はヒカリが適当に作った話を親父にしゃべったらしく、親父は目に涙を浮かべながら「父さんはお前を誇りに思う!」と俺に言ってさらに強く抱きついて来る。親父の号泣に釣られてかお袋も「徹ちゃんは私たちの自慢の息子です」と背中から俺に抱きついて来た。
 俺はこの両親を改めて温かいなと思うと同時に、とてつもなく心配になった。こんなことが続けば詐欺に騙されてもおかしくない気がする。息子がしっかりしなければ、と両親の熱い抱擁を受けながら固く決意する俺だった。

 飯を食ってるヒカリを見ながら、俺はなんて馬鹿なんだろうと思っていた。
 ヒカリは幽霊じゃない。
 現にもりもりトンカツを頬張っている。食事を摂る幽霊なんて俺は聞いたこともない。
 自分の考えが取り越し苦労だとわかり、内心俺はホッとした。
「……ん?」
 しかし、食事が続く中で俺はあることに気付いた。食卓の机がヒカリと隣同士になっている俺は、ヒカリが膝の上に黒い傘を置いているのを発見したのだ。どうせ、傘をどこかに置いてくるタイミングを逃したのだろう。たぶん膝の上に乗せているのは先端部分が床に当たるのを防ぐ為だ。道理で少し食べにくそうにしていると思った。ヒカリの小さな心配りに、俺は笑いを隠せなかった。
「ヒカリ、膝の上に乗っけてる黒い傘貸せよ。傘立てまで持って行ってやるから」
 と、俺は席を立ちヒカリの黒い傘を受け取ろうとした。しかし……。
「ふぁい? (ゴクンッ)……えっと、あの、これは……いいんです」
 なぜか拒否された。俺の表情を見て、ヒカリは説明不足だと思ったのだろう、静かに箸を置いてポツリと言った。
「……これは、母の形見なので、肌身離さず持っていたいんです」
「えっ! あ、悪い……」
「いいんですよ。ふふ、家族っていいですね」
「……」
 俺は自分の席に座り直した。お袋と親父は二人の世界に入っていたようで、どうやら俺たちの会話は聞こえなかったみたいだ。
 目の前に置かれているみそ汁を片手に持ち、一口すする。
 みそ汁はすっかりぬるくなっていた。
 
「昨日の雨が嘘のような天気の良い朝ですね」
「……ああ、そうだな」
 朝、玄関を出るといつもと代わり映えしない夏特有の眩しい光と熱気が体を襲う。家を出て少ししたら、いつものように汗がじわりじわりと肌から吹き出してくる。昨日の雨のお陰で少しは涼しくなっている筈なのだが、やはり夏なのだと思い知らされた。
 学校への通学路として使用している平坦な道からは、聞きたくもない蝉の大合唱が絶え間なく続き、並木道に生えている木からは緑の香りと温かな木漏れ日が俺に降り注がれる。
 コンクリートに生えている雑草や、電線に止まって羽を休めている小鳥達、そして昨日の雨の名残である水たまり。
 いつも何気なく見ている日常の風景なのにどこか新鮮に感じている俺がいた。
 そう俺がセンチメンタルに感じているのも、隣で一緒に歩いている少女の影響かもしれない。
「私の咄嗟の演技はどうでした?」
「強姦魔に襲われそうになったところを俺が助け出した、とかいうやつか?」
「はい!」
 キラキラした目で無邪気に俺を見つめてくるヒカリ。
「いや、あれは、そうだな……うん、迫真の演技だった! もう、女優顔負けだな!」
「そうですか! うん、私も自分の才能が末恐ろしく感じていたところです」
 俺の両親にしかあの設定は通じないと思うぞ、とは言わないでおこう。
 俺より少し前を歩き出したヒカリは見るからに上機嫌で、今にも鼻歌でも歌い出しそうな勢いだった。そんなヒカリを見て俺は微笑ましい気持ちになりながらも、あることを不思議に思う。
 ――ヒカリは学校に行かないのだろうか?
 ヒカリの年齢を外見から察するに俺と同い年か、それより下に見える。だから、ヒカリが高校を卒業しているとは考えにくく、この平日に本来ならば学生服を身にまとっていると思うのだが……。まあ、俺のお袋のような特殊なケースも考えられる訳で……。
「ヒカリ、ちょっと聞いていいか? お前今日学校はどうしたんだ?」
 自分の頭の中で考えるのも馬鹿らしくなったので、本人に聞くことにした。あ、もしかしたら創立記念日とかで休みなのかな、とすぐに安易な考えが脳裏によぎる。しかし、それまで気分良く歩いていたはずのヒカリの足がピタリと止まり、少し沈んだ声でこう言った。
「学校には……ちょっと、事情があって、行けなくなってしまったんです」
 雲一つない快晴なのに、雷がいきなり俺の脳天めがけて落ちてきた、いやそれほどの衝撃を受けた。そして、俺は自分がなんて馬鹿な質問をしたんだろうと今更気付いた。そうだよ、何でこの可能性を考えなかったんだ。ヒカリが不登校かもしれないってことに。
「夏は……いいですね」
 気を利かしたつもりだろうか。ヒカリは話を変えてくれる。俺も、それ以上は聞けなくなり、ヒカリに会話を合わせた。
「……そうか? 鬱陶しいぐらい暑いだけだろ夏なんて」
「いいえ、日本の四季の中で、夏ほど日常の風景が新鮮に見えるものはないですよ。ほら、徹さん見て下さい。アリの大群ですよ」
 ヒカリが指差す方向を目で追ってみると、電柱の下の隅にアリの群れがスイカの割れた欠片に群がっていた。
「うわ、気持ちわる……」
「どうしてですか? 可愛いじゃないですか」
「アレを可愛いと思える神経がわからない……」
「失礼ですね……。女の子でも虫が好きな子はいますよ」
「いや、絶対少数派だろ」
「徹さんの知っている人にも絶対いますよ」
「俺の知っている奴……」
 そういや……すみれは虫が好きだったな。昔からセミの抜け殻とか、カマキリの卵とか俺に見せて来た記憶がある。俺が虫嫌いになったのは、そのせいかもしれない。うん、多分そうだ。
「すみれめ……。いつか仕返ししてやる」
「ほう、その人物に恨みでもあるのか?」
「大アリだ。いつもいつもあいつの理不尽さのお陰で俺がどれだけの苦労をかけられたことか。まったく、いい加減学習して欲しいっての……ん?」
 瞬時に戦慄が走る。まるで、背後に腹を空かせた虎が今にも襲いかかってきそうな錯覚だ。俺はロボットダンスをする人みたいなカクカクした動作をしながら、背後に目を向けた。
「私が、いつ、徹に、迷惑を、かけたんだ? ん?」
 そこには笑顔で笑う鬼がおりました。
「あ、え〜と、その、現在進行形で……」
「なんだと?」
「ひぃ! 待て、待つんだ、すみれ。暴力はいけないぞ。そう、争いからは何も生まれないんだ。話し合いという平和的解決を望もうではないか。……と言うか、何でお前がここにいるんだ? 朝は殆ど会わないのに……」
「そ、それは……も、問答無用だ!」
 すみれはそう言うと、右拳を振り上げ狙いを俺に向けて来た。どうすればいい、こんなときどうすれば最悪の事態を回避出来るんだ? 誰でもいいから俺を助けてくれ! ど、どら……。
『こういう場合の女の子には変なことを言うんですよ』
 頭の中からふっと言葉が湧き出た。これは一体……? ええい、そんなことより今の状況だ。眼前には既にすみれの強烈な右ストレートが迫っている。変なことを言うんだったな。変なこと、変なこと、変なこと……よし、キミに決めた!
「すみれはいつ見てもかわいいぞ!」
「なっ!」
 ……あ、あれ? 恐る恐る閉じていた目を開けると、そこには思いっきり右拳を俺に叩き付けようとしているすみれが確かにいた。
 しかし、俺の幼馴染はまったく動いていなかった。RPGでいう石化状態のようなものだろうか?
 こんな状態の幼馴染の姿は滅多に見られないので、俺は亀が動いているような忍び足で、すみれに近づいてみる。
 綺麗に透き通るような髪。大きく見開いた二重まぶた。そして、制服越しでもわかるほどの見事な体つき。冷静にすみれを観察してみると、やっぱり美人だなと思う。
 幾ばくかの間フリーズしていたすみれだったが、俺がジロジロと見ていることに気付いたのか、急に動きだし俺から距離をとる。気のせいか若干頬が赤い。その姿はいつもの気丈な彼女とは比べ物にならない程に可愛く、思わず俺は目を逸らした。
「か、か……」
「か?」
 紅潮した顔で俺を見ながら「か」を連発するすみれ。「か」ってなんだ? まさか虫の「蚊」か? いや、それならこいつは一瞬で潰しているはずだし……。「か」を連発しているってことは……もしかしてサッカー選手の? いや、こいつがサッカーなんか見るわけないし……。はっ! もしかして、これはすみれなりのモールス信号か! すみれは事情があって今言葉を発することが出来ないとか? それを俺に伝えているってことなのか? 確かにこの「か」は何かの言葉とは到底……。
「か、かわ、かわ、かわいいって……」
「へっ?」
「い、いつ見ても、か、か、か、かわいいって……本当か?」 
「あ、ああ」
「そ、そうか……」
 ……。
 へっ? それだけ?
 ぼー、と俺が突っ立っているとすみれはいつもの気色悪い笑い方をした。
「フッフフフフフッ。か、かわいい、へ、へへへへへへっ」
 そして、怖い笑い声をしながら学校へ向かうすみれ。あっ、男の人にぶつかった。何か怖いものでも見たかのように叫び声をあげながら走り去る男の人。あっ、今度はおばあちゃんにぶつかった。おばあちゃんも、百メートルスプリンターばりの速さですみれから走り去る。
 ……ち、近づきたくない。
 だが、チャンスだ。すみれが離れてくれたお陰で今ならヒカリに昨夜のことを聞ける。
「あのさ、ヒカリ、昨日の夜のことなんだけど……」
 一体何があったんだ? どうして、俺は自分の部屋に戻っていたんだ? そもそも、俺たちは昨日会ったばかりなのにお前はどうして俺の部屋を知っていたんだ? などの言葉を投げかけようとした、したんだが……。肝心の少女が何処にもいなかった。さっきまで確かにいたはずの少女は、辺り一帯を探してもいない。代わりに、少女が先ほど家で言っていた、母の形見であるはずの黒い傘が、電柱の側に立てかけられていた。

「……見てない」
「……嘘だ」
「……くどいぞ。見ていない」
「……み、た、ん、だ、ろ」
 ――ピシッ。あれ? なにか硬い物が壊れたような……。
「……何度言えばわかるのだ……そんな奴は見ていないと言っているだろう!」
 教卓を見ていたすみれはいきなり俺に向き直り、俺のカッターシャツを締め上げて大声で怒鳴り散らした。すみれさんの堪忍袋の緒が切れました。
「朝から何度も言っているだろう! 徹を見かけたときには黒い傘を持った少女など私は見ていないと! 見ていないものは見ていないのだからしょうがないだろう! それとも何か! お前はこの私の二・〇の視力を信じていないと、ええっ、そう言いたいわけか!」
「す、すみれさん、と、とりあえず、落ち着いて、なっ、俺が悪かったって……、どうっどうっ」
「悪いと思っているならなぜ執拗にしつこく聞いてくる! わかっているのか徹! 今は授業中なんだぞ!」
「授業中だから、取りあえず、落ち着け、なっ」
「そうだ! 授業中なのだから私以外にみんなにも迷惑が…………」
 ようやく気付いたのか、すみれは教室内にいる総勢三十人の人間を見渡した。当たり前のことだが……授業中に大声で怒鳴り続けたら誰でも注目する。クラスメートたちはただひたすらに俺とすみれを見つめ続けていた。
 そのときチョークが割れる音がした。一斉に数多の視線はそちらを注視する。
「……木藤さんと曽野川くん」
「「は、はい!」」
 声の主は今教卓に立っていた。その人は現代文の先生でこのクラスの担任の富竹雄治先生だ。その貫禄がある声が俺とすみれを捕まえる。富竹先生は本来は温厚で生徒思いの良い先生なのだが、自分の授業中に生徒が問題行動を起こすと、笑顔で鬼のようなことをやらせるので有名な先生だ。なぜこのような指導をするのかと言うと、噂では富竹先生は元ヤクザだったらしい。と言うのも、富竹先生の左手にはいつも黒の革手袋がはめられており、生徒の間では、無い小指を隠すためにこのような処置をしているのだと言われている。富竹先生が元ヤクザだと言う噂が広まってからは生徒達には「鬼の富竹」という名で恐れられている。そうそう、記憶に新しい鬼の指導では、自分の授業中に喧嘩騒動が起きたときだ。問題の二人の男子生徒にグラウンドを百周させたという恐怖の伝説もあり、それ以降富竹先生が教壇に立つたびに教室全体が物音一つ立てないほど静かになったのは言うまでもないだろう。その「鬼の富竹」の授業中に騒ぎを起こしたということは……。
「君たち二人には……」
 あ〜、なんでこうなったんだ。ヒカリのことなんか後で聞けばよかったのに……。
「今日の放課後……」
 すみれもすみれだ。絶対見ている筈なのに、白を切るような真似して……。
「二人で……」
 何言われるんだろ。前の時みたいにグラウンド百周? もしかしてもっと酷いことか?
「一緒に……」
 お願いです神様仏様。あなたにもしも慈悲があるのなら、せめてグラウンド百周より軽いものにしてください。このところ運動不足なのか知りませんが、すぐに息が挙がるんです。いや、山崎の副流煙の餌食になっているからかもしれませんが。本当にお願いします。頼みます。一生のお願いです。
『フフッ。大丈夫ですよ』
 え? また頭の中から声が聞こえた。
「屋上の掃除をしてもらいます。放課後、鍵を取りにくるように。いいですね?」
「「……はい」」
「案外普通だったな……」「面白くないね〜」「どうせなら教室掃除にしてくれればよかったのに……」と言ったひそひそ話がなりを潜め、元の授業風景に全員が戻って行く中、俺だけが一人取り残されたままだった。俺は自分の机の横に立てかけてある黒い傘に目を落とす。ヒカリにとって母親の形見であるはずの黒い傘は、どこかこの場にそぐわない異質な雰囲気を出していた。

 放課後、俺は一人で掃除道具を持ちながら屋上にいた。すみれはと言うと図書室で借りていた本を返却するために少し遅れてくるらしい。それはいい……それは全然いいんだが……。
「……何でお前がここにいる?」
 夕暮れの屋上には、ここに居て当然のように、山崎和義が古びたベンチに腰掛けていた。もちろん、タバコもプカプカと吸っていた。
「何でお前がここにいるとは心外だね、徹君。学校の屋上は全校生徒みんなのものだよ。僕がここに居ちゃいけない理由でもあるのかい?」
 ……気のせいだろうか。昨日と同じ事を言われた気がする。
「居ちゃいけない理由云々よりも……どうやってお前は屋上に入っているんだ? 合鍵でも作ったのか?」
「それは秘密さ。言ってしまうとロマンがないだろ?」
 ……男がロマンとか言うなよ。心の中でツッコミを入れつつ、俺は先生に渡された鍵をポケットにしまい、持って来た掃除道具の箒二本とちりとり一つと、なぜか持って来てしまったヒカリの黒い傘をドア付近に置いた。富竹先生が言っていた掃除内容は、屋上のゴミを箒で掃くと言う、至ってシンプルなもので、すぐに終わる内容で俺は安心した。これがもしも隅々まで掃除をしなければならないような内容だったらと思うと……背筋が凍る。
「徹君はここの掃除かな?」
「ああ、富竹先生の授業中に騒いだお陰でな……。まあ、伝説のグラウンド百周よりはましだけどな」
「ふ〜ん、徹君はやっぱり馬鹿だね〜」
「うっ……」
 改めて馬鹿呼ばわりされると何気に傷つくな。心境が表情に出てたのだろう、山崎は励ますような声の調子で傷ついた俺をフォローした。
「でも大丈夫、そこが君の唯一のイイところさ」
「フォローじゃない?」
「いいかい徹君、僕思うんだけど、馬鹿ってことは実はすごいことなんじゃないかと思うんだ。例えばお笑い芸人なんかは、見ている人達を笑わせるために馬鹿な真似をするじゃない。でも、お笑い芸人がやる馬鹿な真似は、パフォーマンスだよ。お笑い芸人と、それを見ている観客がいて初めて成立する笑いなんだ。でも、君がやる馬鹿な真似は違う。なぜなら、君が真面目にやっていることは、僕の目から見たら不真面目にしか写らないからだ。そこが面白い。そこが君の唯一のイイところだよ!」
「……褒められている気が微塵もしない」
 さらに落ち込んだ俺を見て、山崎は親指を上に立てて最高の笑顔を俺に向けて来た。

 ところでさ……。
 
「徹君は一体何を悩んでいるんだい?」
「?」
 不意に山崎は訳の分からないことを言い出した。
「僕は君の親友だし、相談なら乗るよ」
 ……は? 親友? 一体いつの間に俺とお前が親友に? いやいや、疑問を持つところはそこじゃない。いや山崎の親友発言にももちろん異議を唱えたいところだが、今はそこじゃない。「話って、何の話だ? 別にお前に相談することなんか何も、」
 ふぅ、と。まるで物覚えが悪い奴の相手をするみたいに山崎はため息をこぼす。
「僕ってさ、こう見えて勘が結構鋭いんだよ。第六感ってやつかな? だから、徹君が何かを悩んでいるのが手に取るようにわかるんだ」
「あのな……俺は別に何も悩んでなんか」
「君は何か不思議な体験をしているんじゃないかな?」
 最後に言うはずだった「ない」は山崎の言葉によって言えなくなる。
「今までに見たことがないような光景とか……見たんじゃないの?」
 こいつのえせスマイルに騙されたのか、それともこの肌を焼き尽くす夏の暑さにやられたのか、俺の口は自分の知らないうちに開いていた。
  
「お前は幽霊を信じるか?」
 幽霊。ああ、なんて非常識な単語なのだろう。
「幽霊?」
「そうだ。幽霊……妖怪……ドッペルゲンガー……はたまたそれに近い超常現象の類いを、お前は信じるか? 例えば、頭の中から声が聞こえるとか……」
「徹君、僕、知り合いに優秀な脳外科医の先生がいるんだ。そこで一回診察を……」
「いやいや、頭がおかしくなったわけじゃないから!」
「わかったよ、徹君、ついに……君もそっち方面に目覚めたんだね……」
「目覚めてねーよ! ……と言うか、そっち方面って何だよ?」
「わかってるくせに……」
「わからないよっ!」
「……はっ! と、徹君、き、君の背後に、ゆゆ、幽霊が……」
「え、うそーん?」
 慌てて背後を振り返るが、もちろんそこには幽霊らしきものはいなかった。
 慌てて山崎の方に目を向ければ、
「う・そ。ぷ、ぷぷぷ、本当に、君ってば、おもしろ、ぷぷっ」
 案の定笑い転げていた。いつも同じように騙される俺も俺だが、奴もよく飽きないよなと思ってしまう。
「はあ〜。お前に相談しても意味なかったな」
 俺は止めていた手を動かし、掃除を再開する。
「さて、冗談はここまでにしようか」
 と、山崎が意味深なことを背中越しに言って来たので、俺の足はピタリと止まる。ゆっくりと振り返ると、山崎和義の顔にはいつもの笑みは消えていた。かなり真面目な表情でこちらに視線を向けている。
「お前がそんな顔したとこ、初めて見るな」
 その顔を永久に保ち続ければ、多分男でも過ちをおかす人が現れるだろう。
「そうかい? 僕だって真剣な話し合いをするときぐらいあるさ」
「へえ……」
 そして、奴は言った。こいつらしいシンプルな答えを。
「僕は自分が実際に見たものしか信じない主義なんだ」
 ……なんだ。じゃあ結局は信じないのか。
「そうか……。くだらない話をしたな。今さっきの話は忘れてくれ」
 俺は山崎に背中を向け、また掃き掃除を再開しようとした。
 しかし……。奴は、山崎和義は、奇妙なことを言い出した。
「だから、信じるよ」
 
「僕は幽霊だからね」

 幽霊だからね。ゆうれいだからね。ユウレイダカラネ。エコー。エコー。エコー。
「……冗談はよせ」
 俺は山崎の顔を再度見た。この空のように澄み切った瞳をしている男の顔を見た。
「これが冗談でもないんだよ」
 自嘲の笑みを奴は浮かべていた。
「じゃあ、徹君。君に一つ面白い質問をしようか」
「?」
「僕を学校の屋上以外で見たことあるかい?」
「見たこと……」
 見たことあるに……決まって。
 ……?
 ……見たこと……ない?
 なんで?
 いつも賑わっている朝の教室の風景にも、ランチを食べている昼の時間にも、最終下校時刻で校門が閉まってしまう場面にも、脳の中で山崎和義の姿を追っていくが、奴は、どこにも、いなかった。
 いるのはいつも決まって、昼休み。それも屋上限定だった。
 ……ははっ、特殊キャラすぎるだろ。
 奴はいつものようなニヒルな笑いの欠片も出さずに俺をじっと見つめている。
「僕にはこの学校の出席番号も在籍しているクラスもない。元々この学校には本来いちゃいけない存在なんだよ」
 ……幽霊だからね。ボソリと聞こえるか聞こえないかの声量で奴は呟いた。
 頭が理解出来ない。自分がいちゃいけない存在? 幽霊?
「……あっ! なるほどなっ!」
 俺は山崎にグッと近づき、奴の筋肉がしっかりとついた肩を無理矢理叩きながら自分の考えを言った。
「山崎、お前またからかってるんだろ」
「え?」
「そんな頻繁に騙されるほど俺は馬鹿じゃないぞ」
 そうだ。そうだった。この前もこいつに騙されたじゃないか。それを性懲りもなくまたこいつは俺を騙そうとしているのだ。そうに違いない。うん。
「いや、本当なんだけど……」
 いやいや、そんな馬鹿な。現に……。
「現に俺はお前の肩に触れてるんだぞ。これはどう説明するんだ?」
 ややあって、山崎は「あっ! 本当だ!」と大袈裟に目を見開いて驚いた。そして、まるで大事なことを忘れていたみたいな口調で、
「徹くん言うとおりだね。幽霊でいる期間が長いと大事なことを忘れるからいけないな……」

 と言い、山崎和義は俺の目の前から姿を消した。

 消えたのは一秒にも満たない時間だった。しかし、俺の瞼には山崎が消えて行く様子がはっきりとこびりついていた。肉体がこの世界の闇から喰われていくと言えばいいのだろうか。頭や手や足の外側からどんどんと何か黒いものに喰われていき、最後には腹あたりが喰われて何もかもが綺麗さっぱりなくなっていた。
 山崎の肩辺りをつかんでいた手は、無意識のうちにダランと下を向き、もう片方の手からは持っていたはずの箒の感触が無くなっていた。
 なんだ、なんだこれ……。
暑くて暑くてたまらないはずなのに、冷や汗ばかりが脇から出てくるのを感じる。そして体感温度が一気に五度は下がったような寒気に襲われた。
 俺はギュッと目を閉じて視界を真っ暗にした。見ているもの全てが偽物のような気がした。今まで見てきた現実が否定されたような気がした。山崎が世界に喰われていく様子が本物の現実だと誰かにそっと耳で囁かれた気がした。
 何かが俺の首元を喰いちぎろうとする。そう、それは、ヒカリの時と同じで……。
「徹さん、呼びました?」
 ヒカリの時と同じ感覚で……って、あれ?
「ねえ、ねえ、徹さん?」
 この懐かしいような、くすぐったいような声は、まさか……。
「ヒカリか! って、おわっ!」
 俺が目を開けたのと同時だったと思う。何か柔らかいものに俺は包まれたのだ。それは小さいながらも感触は柔らかくて、そして暖かかった。「ドクッドクッ」という力強い音が背中から振動して伝わって来た。堅くなっていた筋肉がゆっくりとほぐれたように思えた。負の感情が一枚ずつ丁寧に剥がされていくのを感じた。
「落ち着きましたか?」
 耳元で柔らかい声が聞こえた。今日の朝聞いた声なのに、随分と懐かしく感じた。
「ああ」
 俺は目を開けた。
 そして、目の先には当然のように山崎和義の姿があり、後ろを振り返ると思っていたとおり、ヒカリがこちらを見て笑っていた。
 とりあえず、山崎には色々と聞きたいことはあった。でも、すぐに今の現象を聞くのは勇気が必要だった。だから、少しばかりの現実逃避をするために……。
「ヒカリ、お前いつの間に学校に入ってきたんだよ。ってか、今日の朝どうしていなくなったんだ?」
 ヒカリに話しかけた。まだ出会って日が浅いのに、郷愁を感じさせるこの少女に、だ。
「えっ……。ははは」
「いや、とりあえずな感じで笑わなくていいから」
「実はー、そのー、えー、そ、そうっ! 猫がいたんです!」
 猫、とな?
「そうなんです! 徹さんと朝の通学路を共にしていたら、かわいらしい三毛猫さんの姿が見えてトコトコと着いて行ったら、知らないところに行き着いてしまいまして……」
「つまり、迷子になった……と」
 うんうん、と首を思いっきり縦に振るヒカリ。お前は犬かと言いそうになったが……。
「ちょっと待て。迷子っておかしくないか? ヒカリはここら辺に住んでるんだろ? だったら、何で少し道に迷ったぐらいで迷子なんかになるんだよ?」
「えー、と、私は、そ、そう! 超がつくぐらいの方向音痴なんです! もう履歴書の特技欄に書けるぐらいの」
 方向音痴って……威張って言うなよ。
「……わかった。一応は納得する。でもさ……」
 俺は屋上のドアに目を向け、そこに立てかけられている代物に指を指した。
「お前が肌身離さず持っていた、あの黒い傘を電柱に置いて行ったのは何でなんだ? 大事なものだったんだろ」
「うっ……」
 どうも痛いところをつかれたらしいヒカリは悶々と「えーとですね……、そのですね、あのですね……」と言い訳を言おうとしている。
「なあ、ヒカリ。説明を――」
「『黒傘』さん。いい加減、もう隠し通すのは無理ですよ」
 さらなる言葉の追求を畳み掛けようとした俺の言葉を遮ったのは、俺の目の前から消えたり現れたりした山崎だった。
 ヒカリは山崎に向き直り……。諦めたようにため息をついた。
「『ライター』くん。また勝手なことをして……。怒られても知りませんよ」
「『黒傘』さん。それはあなたも同じだと思いますよ」
 二人はお互いを見て苦笑しあっていた。
 もう、この際細かいことはどうでもいい。俺は山崎とヒカリ、両者に向かって、今自分が一番疑問に思っていることを言った。
「お前達は……その、幽霊なのか?」
 
 3「テラー」

 山崎は耳慣れない言葉を最初に告げた。
「テラー。それが僕たちの正式な呼び名だよ」
 て、てらー?
「えっ、幽霊じゃないの?」
「うーん、まあ徹君からしてみれば一緒に思うかもしれないけど、厳密に言えば違うものだよ。まずは、そうだね……幽霊について説明しようか。徹君、幽霊ってどんなものだと思う?」
「え、そ、そりゃ、死んだ人間の魂が成仏出来ずに、この世に漂ってる……人魂みたいなものか?」
「うん、そうだね。大方それで間違っていないんだけど、補足説明させてもらうと、幽霊っていうのは、言わば魂の残滓なんだ」
「魂の残滓?」
「そう、残滓。残りかす。つまり魂本体は完全に成仏されているんだ。でも、死んだ人間の生前の思い残しや後悔の心があると、魂と切り離されちゃうんだ。その切り離された残滓が幽霊の正体ってわけ」
「ちょっと待て、お前の言う魂の残滓が幽霊の正体なら、この世は幽霊だらけにならないか? 死んで行く人間なんて思い残しや後悔の心を誰しもが持っているもんだろ?」
「ご名答だよ、徹君。この世は幽霊だらけさ。みんなが見えていないだけで。現に君の横にも、サラリーマンの幽霊がいるよ」
「はっ?……えっ、マジで?」
 山崎は嬉しそうに「マジで」と言った。瞬間俺は鳥肌が立った。
「まあ、殆どの人は見えないよ。幽霊の思いの力なんてそんなに大したことはないからね。大体の幽霊が一週間も経てば消えてしまう。だから、徹君の横にいるサラリーマンの幽霊も、ほぼいないのと同じだよ」
「へ、へぇー……」
 納得出来るような出来ないような……。でも、いるんだよな……。そこに……。
「幽霊の話の続きを言うと、幽霊には種類があるんだ。まず、そこらへんに無数に漂っているのが浮遊霊と呼ばれる低級霊。殆どの幽霊がこのタイプにあたるね。低級霊は生前への思いの強さが低いから人間に害を及ぼすことは、まずない。そして次に守護霊と呼ばれているのが中級霊にあたる。この霊は先祖代々の低級霊たちの集合体みたいなものかな。決して強い力は持ってないんだけど、憑いた人間を守ろうとしてくれる良い霊だよ。そして、上級霊にあたるのが地縛霊と呼ばれる霊。この霊は本当に強い思いの力を持っている霊で、こいつは魂の残滓と言うよりは、魂の恨みの部分が残った霊なんだ。人間の一番強い感情は、怒りや憎しみだからね。地縛霊は人に憑いたり出来るし、土地に憑いたりも出来る。これが主な霊の種類かな」
 そこまで一息しゃべると、山崎はベンチに戻り、なんとスポーツドリンクを「ゴクッゴクッ」と喉を鳴らしながら飲み始めた。その音は人間そのもので、俺はこの話の中で一番聞きたいこと言った。
「それで……テラーって何な訳?」
 お前らは一体何なんだ? 見えるし、触れるし、食べれるし、飲めるし、それに……消えるし……これじゃ幽霊とか人間とかじゃなくて……。
「化け物だ」
 頭の中に浮上していた考えを俺の代わりに告げる冷たい声が聞こえた。後ろを振り返るとそこには、やや息を荒げて、図書室に寄っていた幼馴染の姿があった。
「すみれ、お前……」
 驚いた俺はその見慣れた幼馴染の顔に驚かされた。すみれの顔は俺が今まで見たことないほどに怒り狂っていた。美人が顔を歪めると、般若のような恐ろしい顔になるのだと俺はそのとき初めて知った。
「徹、そいつらは化け物だ。人間みたいな顔をした……なっ!」
 そう言うと、すみれは脱兎の如く山崎に向かって走り出していた。俺の横を通り過ぎる間際、何か夕焼けの光に反射されてキラリと輝くものが見えた。一瞬の間に見えたそれは鋭利な形をしており、人の柔肌などに突き刺したら、深紅の赤い液体が吹き出すだろうと思われる代物で……。
「おいっ、すみれっ! や、やめろっ!」
 その正体に気付いた俺はすみれの跳ねる黒髪を夢中で掴まえようと、右手を伸ばしたが、伸ばした手は無情にも届かなくて……。
 ――ブスッ。
 そして、俺は見た。
 俺の幼馴染の木藤すみれが、山崎和義の左胸にナイフを突き刺しているのを。

 ちょっと待ってくれ。冷静になろう。こんなときは「入」と言う字を手の平に三回書いて飲み込むと気持ちが落ち着くと聞いたことがある。よし、早速実践だ。「入」「入」「入」で飲み込む。……あれ本当に「入」だったか。「人」じゃなかったか。
 あれ、あれ?
 と言うか、この状況は何だ? なぜか幼馴染が殺人鬼になってしまっている。意味がわからない。誰か説明してくれ。おい、山崎。いや、あいつは今すみれに刺されている。じゃあ、ヒカリ。これはどういうことだ? ってあれ? 声が出ていない? 何で? 何で?
「……なんで?」
 幽霊みたいな声が聞こえた。これは、俺の声だ。極度の緊張のせいか、喉がカラカラになっているのが自分でもわかった。今すぐにでも水が欲しかった。これは悪い夢だと思い込みたかった。
「……なんで、こんなことに?」
 瞬間、俺は地球の重力に引っ張られた気がした。それと同時に何かに支えられた。後ろをゆっくりと振り返ると、ヒカリの柔らかな笑顔があり、俺は自分の膝が折れたのを知った。
「大丈夫です」
 ヒカリはもう一度繰り返し言った。「大丈夫」だと。その言葉とヒカリの体は暖かかった。
「『ライター』君は生きていますよ、ほら」
 彼女が指し示す方角には驚くべき光景があった。それはヒカリの体が半透明になっていた時や、山崎が一瞬にして俺の視界から消えたことを遥かに凌ぐ出来事だった。
 山崎和義は俺に向かって親指を立てて笑っていたのだ。そして……。
「あまりにも不意打ちな攻撃で少し驚いたよ。『吸魂師』さん」
 そう言うと、山崎はすみれの肩を掴んで、勢いよく前方に突き飛ばす。そして、自身の左胸に突き刺さっているナイフの柄を、両手で持ち勢いよく引き抜いた。大量の赤い液体が出てくるかと思ったが、一滴も出てこない。よくよく見ると、山崎の刺された左胸からも、そのしたのコンクリートの地面からも、血らしき赤い液体は付着していなかった。
「『ナイフ』さんに少し吸われてしまいましたね……」
 山崎は先程まで自分の胸に突き刺さっていた凶器に目を落とし、ナイフに語りかけるように少し寂しそうに言った。
「返せ!」
 山崎に突き飛ばされたすみれは暫くの間、尻餅をついていたが、いきなり立ち上がり、山崎からナイフを引ったくった。そして……。
「徹から離れてください!」
 すみれはそう言うと、今度は俺の方へと猪突猛進してくる。狙いは……ヒカリか!
「やめろっ!」
「っ!」
 ヒカリの前で俺は両手を大きく広げた。
「と、徹? ど、どうして?」
 俺の行動がよっぽど意外だったのだろう。すみれは先程の凶暴な風貌は打って変わり、オロオロとどうしたらいいかわからないようにしている。
「何考えてるんだよすみれ! 山崎をナイフで刺して、今度はヒカリを……。正気かよ!」
「ち、違う! 私は、私は、ただ、この化け物達から徹を守ろうとしただけだ!」
「守るだって? こいつらは俺に何もしてないぞ!」
「気付いてからじゃ遅いんだ! ……いや、もう充分遅い。いいから、徹、そこをどけ!」
「いーや、絶対どかない。何でならここにいる女の子は俺の命の恩人だし、そこのヘラヘラ男は曲がりなりにも友人だからだ。だから俺はここを、絶対にどかない!」
「くっ……なら……仕方ないな」
 そう言うとすみれはニッコリと不適に笑った。俺はすみれが普通の笑った瞬間背筋が寒くなった。なぜならこいつが普通に笑うときは何かがあるときだからだ。
 そして、すみれはニッコリとした顔のままナイフをまるで竹刀に置き換えて、剣道の構えをとったのだ。
「なら……無理矢理にでもわかってもらうしかないな!」
「なっお前……」
 そして、一瞬で俺の間合いに入り、俺めがけてナイフを突き刺して来た。
 動物の本能に従って俺は目をつむった。でもそれがいけなかった。すみれは俺の鳩尾にボディブローを打って来たのだ。息が詰まるような一撃は俺の体を易々と倒れさせた。その隙にすみれはヒカリに向かってナイフを向ける。そして……。
「覚悟してください」
 とすみれはヒカリに向かって言った。
 だが、ヒカリはすみれの行動を予想していたようで、いつの間にか手に持っていた黒い傘を広げた。大きな黒い傘はヒカリの体を隠した。でも、すみれは構わずヒカリに突っ込み、黒い傘にナイフを突き刺した。黒い布生地部分はいとも容易く切り裂かれると思ったとき、あり得ない音を聞いた。
 ――キーンッ。
 それは鉄と鉄とがぶつかり合うときに生じるような音だった。刀鍛冶が熱した刀を大きなハンマーで叩くような音だった。その音の発生源はすみれのナイフとヒカリの黒い傘から聞こえた。
「なっ……『魂の力』?」
 すみれのナイフは容赦なくヒカリの体を切りかかろうとするが、ヒカリの傘はまるで魔法でもかかったみたいにすみれの体の軌道を読み、向かってくる鋭利な刃をその黒い傘で防いでいる。普通はヒカリの持っている黒い傘などボロボロに切り裂かれている筈なのだが、黒い傘はどうした訳か鋼のような頑丈さですみれの攻撃を防いでいた。
 これは一体。それに魂の力って言うのは何だ?
「徹君……」
 二人の女の子の戦いを傍観していた俺の背後から山崎の声が聞こえた。慌てて振り返ろうとすると……。
「ごめんね……」
 ――ドスッ。
 その瞬間、首付近に痛みが走った。
 そして俺はいつの間にか地面に横たわって手をついていた。視界はだんだんと薄らぼんやりとしてきて……。
 ――とおるっ!
 意識がある中で俺が最後に聞いたのは幼馴染が俺を呼ぶ声だった。

 目が覚めると、ヒカリの顔が至近距離で写った。それはまるで男と女がまさに体のお付き合いをし始めるワンシーンのようで、俺はそんなヒカリの頬に両手で優しく手を乗せ……そして……熱いキッスを……。
「にゃにうぉするぇんでぅえすぅくぅあっ、とぅおぅるすあん」
 するわけなく、思いっきりヒカリの頬を両手でつねっている俺がいた。
「ははは、面白ーい」
 ぐりぐりと頬をつねり回し、それを続けているとだんだんと意識が回復してきた。
 たしか俺は屋上で掃除をしていたら、山崎和義に会って、山崎は幽霊で、ヒカリは山崎の仲間で、すみれが山崎の胸にナイフを突き刺して、山崎は生きていて、それからヒカリとすみれが戦って、それを見ていた俺はなぜか知らない内に意識を無くして、気付いたらこの埃臭いどこかの部屋で、ヒカリの頬をつねっている……と。
 ふむ……。
「なんじゃそりゃーーーーーー!」
 ヒカリは思わず俺から離れた。それもそのはず。これを聞いたら神様もおそらくびっくりするぐらいの驚きだ。
 俺は絶叫した。
 目や口が己の限界まで開いているのを感じる。でも、でも、許してくれ、本当に俺の今の心理状況はパニック状態なのだ。だって幽霊だぞ。消えたり現れたりしたんだよ。しかもその幽霊に触れるんだよ。しかもしかも、俺の幼馴染み、その意味わからない幽霊をナイフで刺して殺人鬼になっちゃったんだよ。こんな支離滅裂な展開ってあり? いやなしだろ!
「ふぎゃーーーーーーーーーー!」
「ちょっと徹さん、今、夜なのでもう少し静かに……」
「ぱおんーーーーーーーーーー!」
「徹さんいいかげんに……」
「みゃおーーーーーーーーーー!」
「うるさいですよ」
「ぶべらっ!」
 叫び続ける俺の左頬に向かって、見事なコークスクリューパンチがえぐり込まれた。そして俺は自分が寝ていたところから放り出され、部屋の隅に置いてある棚に衝突。その棚から次々と自分の頭に重たいものが降ってきたのは、言うまでもない。意外とお強いんですのね、ヒカリさん。

 ――ここは私たちテラーの隠れ家です。
 ヒカリの話によると、俺はどうやら屋上でヒカリとすみれが戦っているときに、山崎によって気絶させられ、この家に運ばれたらしい。ここは学校からすぐ近くのところにある古い民家だそうで、今は誰も住んでいないことをいいことにアジトにしているらしい。床は変色し放題で、壁もなんだか汚く、掃除はろくにしていないようだった。
「山崎は?」
 俺をここまで運んだという山崎の姿が見えず、部屋の中をキョロキョロ見るが、いなかった。
「『ライター』くんなら、私がここに戻って来てから、この辺り周辺を偵察に出掛けています」
「偵察。ははは、まるで誰かから命を狙われているみたいだな」
「狙われているみたいではなく、狙われているんですよ」
 笑えない冗談だった。冗談ならどんなにいいか。でも、現にすみれはナイフを持って山崎を……。
 一度大きく深呼吸をする。吸ってー、はいてー、はいまた吸ってー、はいてー。よし、心の準備は整った。覚悟も……多分、できた。
「全部説明してくれないか、ヒカリ。すみれは何で山崎をナイフで刺したんだ? 今、何が起こっているんだ? お前達……テラーって何なんだ?」
「……」
 黒い傘を持った少女は、コクリと首を縦に振った。

「まず、私たちテラーについて説明しましょう。テラーも言うなれば幽霊と呼ばれる一種です。ですが、決定的に違うのが魂の量です。幽霊は魂のほんの一欠片が現世に残るもの。だから生前の記憶もあやふやですし、自分たちがなぜ幽霊になっているかもわからないのです。でも私たちテラーには、生前の記憶がはっきりとあります。なぜならテラーには魂の量が人間と変わらないからです。人間と言う生物が魂と肉体だけで形成されているとしたら、私たちは肉体のない人間なんです」
「ちょっと待てよ。テラーが肉体のない人間だったら何で触れるんだ? まさか魂が肉体を生み出しているとか言わないよな?」
「ふふっ」
 まるで俺が馬鹿だと言わんばかりにヒカリは可笑しそうに笑った。
「魂だけで肉体を作り出すことは不可能です。魂単体だけでは現実に干渉する力は持ちません。だから私たちは、何か現実に存在しているもので、生前の私たちにとって、思い入れが強いものを『依り代』として、現実に干渉するんです。そう例えば……これ」
 と、ヒカリは俺にあるものを差し出して来た。
「黒い傘?」
 それはヒカリの母親の形見であるはずの、黒い傘だった。
「そうです。この黒い傘が私の依り代、人間で言う肉体。魂の容れ物です」
「じゃあ、この黒い傘がお前の体になるわけか……。ん? だったら何で……」
「『何で私には人間の肉体があるか?』ですね?」
 それは……。
「私たちが『魂の力』というものを使っているためです」
 すみれが口走っていた名前。
「それは何なんだ?」
「『魂の力』というのは幽体である私たちが現実に干渉するための力の源です。つまり、人間の肉体を、作り出すために使われる力です。この力を使う事で、私たちはこの世に存在することが出来るのです。車でいうなら、ガソリンみたいなものですね。ガソリンが無ければ、車は動かない。このガソリンが無くなれば、私たちは現実に干渉するための人間の肉体を失い、ただの魂だけの存在となり、そして魂の残滓になり、最後には消えます。だから、存在するためにも、目的を達成するためにも、『魂の力』はどうしても必要なんです」
 ここまでの話を俺は自分でも不思議なぐらい怖がらずに聞いていた。結構なチキン野郎である俺が、だ。
「要するに、人間を車として例えるなら、車に乗って車の操作をしている人間が魂としての役割で、車のボディが、お前達の生前の思い入れがあって現実に存在している物。そして、ガソリンの代わりになる動力源が『魂の力』ってわけか」
「そうです。その三点があって、初めて私たちはこの世に存在することができるのです。その三点の内、一つでも欠けるがあれば、それは私たちの死を意味します」
「ふむ、なるほどな」
 俺は次の質問をなんとなく聞いた。なんとなくだ。
「あ、気になったことがあるんだけど……」
「はい?」
「『魂の力』の正体は一体何なんだ? よっぽどテラーには大事そうなものだけど……」
「……」
「ヒカリ?」

「……命、ですよ」

「……え?」
「生きている人間の寿命。生命エネルギーと言えばいいでしょうか。それが『魂の力』の正体です」
「い、命?」
「はい、そして私が今、存在しているのは……。徹さん、あなたのお陰なんです」
「俺の、お陰?」
「はい、あなたが本来生きていける時間から、およそ一年分の寿命を、私は頂きました」
「……なっ!」
「あの雨の日に行ったキスという行為で、私はあなたの寿命を奪いました。端的に言えば、私は徹さんから頂いた命を使って現在生きているというわけです」
「う、嘘だろ……」
「本当のことです」
「……」
 この蒸し暑い部屋の中でいきなり冷水をぶっかけられた気がした。自分でもブルブルと体が震えているのが手に取るようにわかった。
 そして、今更ながら、すみれの言葉を思い出す。
 ――化け物。
 俺の幼馴染みは、そんな暴言を易々と吐く奴じゃない。それは身近にいる俺自身が一番わかっていたことだ。無愛想な所もあるが、本当は人に気が遣える優しい奴なんだ。
 だからこそ、すみれが「化け物」と言うのにはそれ相応の理由がある筈だったんだ。山崎の胸に刃物を突き刺したのには理由があったんだ。
 それなのに……俺は……俺は……。
 
 ヒカリが俺を交通事故から助けてくれたのは何の為だ?
 ――元々俺の命を狙っていたからだ。
 
 雨の日、駄菓子屋のベンチに彼女がいたのは何の為だ?
 ――『魂の力』を俺から奪う為だ。

 そして、隠れ家に連れて来た目的は……。
 ――もちろん、俺の命を全て奪うためだ。
 
 動物としての本能が俺に命令した。逃げろ、と。
「ヒッ、ヒカリッ!」
 緊張で声が裏返った。
「何ですか?」
「えと、あの、と、トイレは、どこだ?」
 我ながら馬鹿な質問だと思う。こんなのまるで、今から逃げます、と宣言しているようなものじゃないか。
「ふふ……」
 それなのに何故か、ヒカリはさっきからニコニコと楽しそうにしている。おそらく、俺がこの家から逃げようとしている様子が手に取るようにわかっているのだろう。
 部屋の隅に置いてある古い置き時計の秒針が、カチッカチッと時を刻む音がはっきりと聞こえる。
 ……もう、強行突破しかないなと思い始めたときだった。
「この部屋から出て、左手の方をずっと進むと見えてきますよ。あ、ちなみに玄関は右手の方です。思い出すのに手間取っちゃいました」
「あ、ありがとう。じゃ、行ってくるわ……」
「はい、廊下の明かりが点いていないので、足下に注意してくださいね」
「お、おう」
 そろりそろり、と忍び足でドアに近づく。そして、取っ手を回し部屋から出る寸前――。
「徹さん……」
 ヒカリに呼び止められた。俺は恐ろしくて声が出ない。一刻も早くこの場所から逃げ出したい衝動に駆られた。心臓の鼓動はもう爆発間際で、いい加減泣きたくなってきた。
「徹さん……」
 もう一度、ヒカリは俺の名前を呼ぶ。何だよ。もうやめてくれ。俺をもう現実の世界に帰してくれ。あの温かな日だまりの世界に、俺は一刻も早く戻りたいんだ!
「とー……」
 三度目の呼びかけが、ヒカリの顔を見る引き金になったらしい。
「何だよっ!」
 勢いに任せて、俺は背中を振り返った。
 そして、俺は、見た。

 少女が笑っているのを。そして……涙を流しているのを。

「……何で泣いてるんだ?」
「泣いてなんかいません。ちゃんと笑っていますよ」
「いや、でも……」
「ほらほら、トイレなんですよね? 早く済ませちゃってください」
「あ、ああ……」
「早く、行ってください」
「うん……」
「徹さん……」
「……」
「ありがとう」

 部屋を出た。
 一歩、二歩、足を進める。
 すぐに左右の分かれ道がある。
 迷う事は……ない。
 右手の方に進んだ俺は、古い民家を音も無く出た。外気の温度は自分が思っていたよりも涼しく、それに少し風が吹いているこの場所は心地よかった。
 門を出た。
 学校の場所がすぐに確認出来る。
 そして、家に帰る道順もおおよそわかった。
 でも、なぜだか足は動かなかった。
 今すぐにでも家に帰りたい筈なのに、ここを離れられない自分が何故かいた。
 不意に少し気になり、門越しにヒカリ達の隠れ家を見る。
 しかし、期待していた明かりは一つもなく、ただただどこまでも続いている暗闇が、家を包んでいた。
 道端には頼りない電灯からの光が。近隣の家には窓からの温かな光が。
 しかし、隠れ家からはぽっかりと何かが抜け落ちていた。
 目で見る事は出来ない、何かが。

「気になるかい?」
「っ!」
 すぐ隣から聞き慣れた声が聞こえ、飛び上がる俺を無視して、声の主は言葉を続ける。
「この家はね、部屋に明かりが点いていても、外からは光が漏れないようになっているんだ。あ、ちなみにこの作業は僕がやったんだよ。『黒傘』さんは何も手伝ってくれなくてね。あの人以外と不器用だから……」
 山崎だった。
「聞いてる徹君? というか何でそんなに怖い顔してるのさ?」
「……決まってるだろ。怖いんだよ、お前が……お前達が」
 俺の返事を聞いて、考え込むポーズをとった山崎は、しばらくして、笑った。
「……ああ、なるほど。『黒傘』さんがあの事言っちゃったんだね。それで君は今、気が動転して隠れ家から逃げてきたという訳か……」
 山崎は相変わらずいつもと同じへらへらした笑いを見せる。その笑い方は出会った当初から変わらないもので、俺を少しばかり安心させた。でも……こいつは……こいつらは。
「徹君、もう逃げた方がいいよ」
「……」
「君が思っているとおり、木藤さんの言葉を借りるなら、僕たちは化け物だよ。それも人間の寿命を奪う、人類にとって最高にたちの悪いもの。僕がその気になれば簡単に君は、」
 ――死ぬよ。
「現に僕は『テラー』なんてものになった当初、一人、人を殺したんだよ。いとも容易く呆気なくさ。今でもその殺した日のことは、昨日起きた事のように覚えている。その人は疲れた目をしたOLさんで……」
「やめろ」
「もう人生諦めてるみたいだった」
「やめろって」
「夫も子供もすでに死んでいた。楽に死にたいって言ってたから、死なせてあげたんだ。場所は、彼女の自宅だったところでね。いや本当に安らかな死に顔って綺麗、」
 骨と骨とがぶつかりあう生々しい音が聞こえた気がした。そして硬く握りしめた右の拳からは、にぶい痛みを感じた。
「いたた……グーは流石に痛いよ……」
「……」
 地面から山崎のくぐもった声が聞こえるが、俺は何も言い返さなかった。
 あれほど山崎のタバコの喫煙に対して、説教臭いことを言ってきた俺が一言も。
 沈黙と静寂は長くは続かない。俺は目の前の何かから背を向けて、逃げ出した。

「と……る……ん。……おるちゃん。徹ちゃん!」
「え……あ、な、何?」
「こぼれてますよ!」
 「何が?」と聞き返す前に、体の一部分に強烈な違和感を覚えた。その場所は男女の決定的な違いを表す所で、男にとって無くてはならない大切な部分。そこが……熱かった。
「あつぅっ!」
「げ、厳次郎さん! た、大変です! 徹ちゃんの大切な部分が私の作った味噌汁で……」
「かおりん……心配しなくていい。徹はもう普通の刺激だけでは満足出来なくなってしまったんだ……」
「えっ、そんな……。私達の自慢の息子がそんな性癖に目覚めるなんて……」
「大丈夫だよ。男なら誰だって必ず通る道なんだ。色々と試したい年頃なんだよ」
「そ、そうなんですか?」
「でも、僕はもう……かおりんじゃないと満足出来ないけどね……」
「げ、厳次郎さん!」
 二人だけの世界を勝手に作り出している両親を無視して、俺はさっさとこぼれた味噌汁を片付けた。
「……風呂、入ってくる」
 こぼれた味噌汁の片付けが終わると、俺は両親に目も合わさず風呂場に向かった。後ろから俺を呼ぶ両親の声が聞こえたが、俺は聞こえない振りをした。

 体についた汚れという汚れを洗い尽くし、湯船に、ざぶぅと入った。
 風呂に入ったら少しは気が紛れるかと思ったが、どうやら無駄だったようだ。
 体は熱々の湯船に浸かっているはずなのに、心はどこか冷たかった。
 暖かいと肌は感じているのに、心はまるで無頓着だ。
 俺は一体どうしたんだ?
 俺の心はどこにいるんだ?
 わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない!
 ……やっぱり、わからない。
 わからないくせに、なぜ、俺はわからないことを考えてしまうんだ?
「そんなの……わかるかよ」
 そんな独り言を愚痴って、ふとドアの方を見ると人影が見えた。
 その人影はごそごそと自分の衣服を脱いで、俺が入っている風呂のドアを勢いよく開けた。
 現れたのは、THE・男。
 屈強な体は威風堂々としており、見るもの全てを圧倒する迫力。そして、目つきは殺人的に悪く、一睨みしただけで相手を殺せそうだった。
 動物に例えるなら,まるで虎。そして、人間で例えるなら、極道の人。
 外見で言えば男の中の男である、そんな俺の親父が風呂場に入って来た。
「徹、入るぞ」
「……もう入ってるじゃん」
「ははは、まあ、細かい事は気にするな」
 そう親父は言うと、風呂桶にお湯を溜め、勢いよく自分の背中にかけ始めた。すぐそこにシャワーという便利な物があるのに、親父は使わない。使った所を見た事が無い。
 そんな風にわざわざ無駄に一手間かける親父が、俺は好きだった。
「……なあ、徹」
「何?」
 親父は自分の背中を乱暴な手つきで洗う。俺はそんな親父の背中を見る。
「なんかあったか?」
「……」
「話せない事か?」
「……」
「そうか」
「……」
 俺は何も言葉を発さなかったのに、親父は一人で何かを納得したみたいだった。
 それからは、親父も俺も黙り込んだ。
 その場の空気はゆっくりとしていて、静かで、でも居心地は不思議と悪くない。そんな家族特有の時間だけが流れた。
 俺は湯船にずっと浸かって、親父の背中を適当に見る。親父は相変わらず自分の体を乱暴に、でも時間をかけて丁寧に洗っていた。
 そして、親父は自分の体と髪を綺麗さっぱり洗い終わると、おもむろに立ち上がった。
「湯船入る?」
 俺はそう言いつつ、湯船から立ち上がる。どうやら少し長く入り過ぎて湯あたりしたみたいだ。体が若干フラフラしていた。
「いや、いい」
 親父はそう言うと真正面から俺の顔を、目を見た。
「徹……」
「な、何?」
「全力で後悔しろ!」
「……は?」
「そして、全力で後悔するな!」
「……え?」
 親父はそう言うと、すっきりした顔をして、風呂から姿を消した。
 後に残されたのは、すっかり湯あがりした俺だけだった。
「全力で後悔しろ……そして、全力で後悔するな……か」
 どっちだよ……。
 正直、意味がわからない。言ってることが矛盾している。
 でも……。
 でも、なぜだか、ストンと、体と心が繋がった気がした。

 4「鈴の音」

「起立、礼、ありがとうございました」
 ホームルームが終わる。
 それと同時に一学期最後の日は終了し、夏休みが始まった。
 この瞬間を待ってましたとばかりに、教室中が興奮と活気の海で満たされる。らんらん、うきうき、わいわい、るんるん、くすくす、がはがは、などのオンパレードだ。
 クラス中が楽しい雰囲気で包まれる中、俺だけはどこか馴染めないでいた。
 理由は、今日が終業日だから、今まで置き勉していた全教科の教科書やノートを鞄に入れて家に持って帰らなくてはいけないから、ではない。
 それは、あいつら、ヒカリや山崎のことを考えていたからだ。
 俺は親父から激を飛ばされた日の翌日の放課後、もう一度、学校の東側にあるテラーの秘密基地に足を踏み入れていた。
 少し怖かったが、あの日あいつらから逃げたことを謝りたかったのだ。そして、気になったことを聞いてみたかったのだ。
 でも、あいつらはいなかった。夜中まで帰ってくるのを待ったが、黒い傘も、銀のオイルライターの姿も見えなかった。
 それから、俺は放課後にこの町を徘徊して、あいつらを探したが、見つかることはなく、終業日の日を迎えてしまった。
 あいつらは俺の目の前から消えてしまった。幽霊が本当に幽霊になってしまった。まるでそれが自然な流れだと神様は言わんばかりだ。
 ……腹が立つ。
「……かわ、曽野川!」
 考え事に夢中になっていたらしい、気付いたらクラスの男子が目の前で手をブンブンと振りながら俺の名前を呼んでいた。
「何?」
「今からクラスのみんなでカラオケでも行こうかって話になってるんだけど、お前も来るか? ってか、行こうぜ!」
「そーそー、この夏休みが始まるという最初の高揚感を歌で共有しよう!」
 クラスの男子で比較的仲の良い連中が俺に詰め寄ってくる。あまり付き合いの良くない俺にとって、この誘いは正直意外で驚いている自分がいた。
「あー、そうだな……」
 行くか、行かないか、を考えていると、
「徹!」
「あ、すみれ。ちょうど良い所に……って、うわっ!」
 幼馴染は強引に俺の腕をがっしりと奪い、すたすたと教室の出口へと向かう。
「おい、すみれ! どこに行くつもりだ?」
「決まってる。帰るんだ!」
「いやいや、まだ話が……」
「終わってる」
 終わってないよ?
「それに、腕がいた……」
「いたわってる」
 いたわってないよ? すごく痛いんだよ?
「いい加減、はな……っぐお!」
 せ、を言おうとした瞬間、すみれはやっと俺を開放してくれた。しかし、何故かすみれは自分の胸を庇うポーズをとり、気持ち悪そうな顔でこう言った。
「鼻血って……徹……」
「出てねーよ!」

「結局帰るわけか……」
 隣を歩くすみれには聞こえないように俺は溜め息をこぼした。
「いいではないか。あんな連中と時間を過ごすより、私といた方が百倍有意義だぞ」
「百倍って、お前な……」
「それに徹は夏休みの間は私に付き合ってくれるのだろう。そう約束したよな?」
「……あー、そうだったな」
「夏休みなんて学生に与えられた特権だ。精一杯楽しむべきだ。徹はどこに行きたい?」
「そうだな……」
 行きたい場所か……。
「私は裏山で虫取り合戦がしたい。山は虫の宝庫だからな。摂った虫は最終的に昆虫標本にしよう。おお、夏のいい思い出になるぞ。どうだ、徹?」
 なるほど。それはなかなか大変そうだ。そして面白そうだ。
 でも、そこに辿り着く前に……。
「……なあ、すみれ」
「何だ?」
 ――俺は、お前に聞きたいことがあるんだよ。
「『吸魂師』って何なんだ?」
「……またその話か。答えないと言っているだろう」
 すみれはそう言うと、さっきまでの機嫌の良さはどこかへ行ったように、立ち所に不機嫌な顔をした。あいつら関係の話題を俺が何度振ってもすみれは「答えない」の一点張りだった。
「すみれがそう言うのもわかる。俺を危険なことに巻き込みたくないんだろ。でも、俺は自分の命を狙われたんだぞ。知る権利ぐらいはあるんじゃないか?」
「……」
「なあ、すみれ。教えてくれ」
「……駄目だ。教えることは出来ない」
「どうしてもか?」
「どうしても、だ」
「……そうか」
 俺が納得したと思ったからだろう。隣を歩くすみれから安堵の息が伝わった。だから俺はすみれの口から聞き出すのはやめた。
 もう一人に聞いたんだ。ここにいるもう一人に。

(じゃあ、俺たちの会話を盗み聞きしてるそこのあんた。教えてくれ)

 声には出さずに俺は心の声で聞いた。一言一句はっきりと。
(おい、そこのあんただよ。いい加減声でも出したらどうなんだ)
 俺はじっと、すみれの鞄を見た。隠されているはずの鋭利な刃物を見た。

『……何が聞きたいんだ?』

 睨んだ通り、声はあのときのように頭の中から聞こえた。しわがれた低い男の声だった。
 すみれにはどうやら聞こえていないらしい。隣を歩く俺に向かって、一方的に夏休みの予定を言っていた。それに構わずに俺は心の声を出した。
(やっぱりお前達テラーは心で発した声が聞こえるんだな)
(……なぜわかった?)
(以前……ヒカリが俺にこの話し方をしたことがあるからだ)
(……そうか)
 そう、あのとき、頭の中で脳に直接響いた声の主はヒカリだったのだ。
(それで、山崎が言っていた吸魂師って何なんだ?)
『……私がそれを答えると思うのか?』
(答えなかったら、俺はあんたの本体を壊す。それでもいいのか? 『ナイフ』さん)
 この状況がさも気に入らないように『ナイフ』と呼ばれた声の主は言葉に語気を強めた。
『……ふん、『黒傘』か『ライター』あたりがしゃべったのか。相変わらず何を考えているのかわからない奴らだ。こんな小僧にテラーのことを知られるとは……』
(それを言うなら、あんたも相当な馬鹿だろ。捕まってるんだからさ)
『……そうだな、その通りだな。そして、お前と言う本来私たちとは関係のない第三者にまで命を握られている始末。……滑稽だな』
 そう言うと、疲れたようにこの声の主は笑った。
(……吸魂師について教えてくれ)
『……吸魂師か。吸魂師とは私達テラーにとって唯一無二の敵の存在だ』
(敵……)
『……そうだ……敵だ。奴らは読んで字の如く魂を吸い取り祓う存在だ。どんな理由や目的があるかは知らないがな。まあ、お前にとって、奴らは私達悪しき魂を祓い、人間の生きる力である『魂の力』を守る正義の味方……と言ったところか』
(そんなことは言ってない!)
『……そうか、お前の思いを代弁したつもりだったのだがな』
(……本当に理由や目的は知らないのか?)
『知る訳無いだろう。それにこの期に及んで隠してどうなる? 命の危機に陥っている私に隠すメリットがあるか?』
(……そうか、そうだな。ところで、吸魂師は何人ぐらいいるんだ?)
『……何人……か。ふん。吸魂師はある血族の名称の事を指している。その血族の末裔がお前の隣を歩いているものだ』
(すみれの家が……)
『……ああ。生まれつき霊感が強く、この世に漂う魂と言うものが見え、それらを退治して廻るもの達。それが木藤家。私達の忌むべき存在。かつての同胞たちは奴らに魂を……』
(……そうなのか)
『……』
 『ナイフ』と呼ばれた男は突然黙り込んだ。この男が人間の姿で俺と話していたのなら、間違いなく瞳には復讐の炎が見えただろうと思えた。
(最後の質問をしてもいいか……)
『……ああ』
(……)
『……どうした?』
 俺は最後の質問をするのを躊躇った。なぜならこの質問はあの少女に聞きたかったものだからだ。そして、多分あいつはそれを聞いて欲しかったんだ。
(お前達、テラーは……何の為に生きている?)
 もう本来この世にはいない、いや存在することが許されない者が、それでも存在し続けようとしている理由。あいつらの存在する意義。
『……その前に、聞きたい事がある』
(なんだ?)
『……なぜ吸魂師について聞いた? お前にはもう関係がない事柄だろう』
 関係がない……か。そうだな。
(……わからない。ただ……)
『……ただ?』
(……後悔する気がした。うまく言えないけどそんな気がしたんだ)
 声は『……そうか』と言うとどこか寂しげ鼻息をこぼした。
『……もう一ついいか?』
(ああ)
『……お前にとって木藤すみれと言う女は一体何だ?』
 ――ブッ。
「ど、どうした徹? なんで吹いたのだ? 腹か? 腹でも痛いのか?」
「い、いや、すみれ。何でもない。気にするな」
「何でもないって……」
 俺は「気にするな」とすみれに愛想笑いをして心の声に意思を再び傾ける。
(おい! 何てこと聞くんだ! 次、変なことを言ったら本当にお前の本体を叩き割るぞ!)
『……この女の事をどう思っている?』
 『ナイフ』と呼ばれる男は俺の声など聞こえていないみたいに、また同じ質問を繰り返す。
(ど、どうって……)
 俺は答えに詰まるが、雰囲気から察するに『ナイフ』と言う男にとってこの答えは重要なものらしく、頭に響いてくる声の主は俺の返答を待っているみたいだった。俺は思ったことを心の声で言った。
(そりゃ、まあ、子供の頃から一緒にいる、たった一人の幼馴染だからな……)
『……』
(大事な奴だ。……自分自身よりも大切にしたい存在だ)
『……そうか……だったら、お前は私たちの、て……』
「聞いてるのか! 徹!」
「おわっ!」
 意識を自分の中に向け過ぎていたせいか、はたまた自分の耳の至近距離で大声を出されたせいかはわからないが、「ナイフ」の声は完全にかき消された。
「そんな大きな声でどなるなよ……。俺の耳が潰れたらどうするんだ?」
「大丈夫だ。この程度の音量じゃ潰れないはず……」
「おいおい、まるで誰かの耳を潰したことあるみたいな言い方だぞ」
「失礼だぞ、徹。私は実際に潰したことが……」
「えっ」
「あ」
 ……おい、まじか。
「すみれさん……もしかして誰かの耳を再起不能にしたことが……」
「な、何を言っている? だ、大丈夫だ。人間の耳は一つだけじゃないからな……」
「えっ」
「あ」
「やっぱり、お前……」
「こ、この話はおしまいにしよう。うん、そうしよう。さあ、楽しい夏休みの話に戻るぞ」
「そ、そうだな」
 そして、俺たちは多少無理矢理ながらも、これから過ごす夏休みの計画を立てた。ギクシャクしていたはずの会話の流れは、長年の阿吽の呼吸で自然に解消した。
 幼馴染との会話に夢中になっていたせいだろう。誰かの頭の中をかすめた言葉は俺には届かなかった。

『……吸魂師か……ふん、随分といい名前になったものだ……』

 俺はまだ知らない。知りたくもなかったことを、いや、本当は知りたかったことを、まだ、知らない。

 楽しいはずの夏休み初日。
 自分の部屋の窓からはぽつぽつと雨が降っていた。
 もう梅雨は明けた頃かなと思っていた俺にとって、あまりに不意打ちの雨だった。
「……ああ……ああ……でも今日はしょうがないだろ。だって、雨の中で虫取りしたって虚しいだけだぞ。高校生の男女二人が、虫網と虫かご携えて歩いているだけでも異質なのに、その上、雨の中森をうろうろしてたら補導もんだぞ。え、じゃあ、お前の部屋で遊ぼう? ……う〜ん、それもな〜。……どうせ明日になったら雨は上がるらしいし、今日はもう遊ばなくてもいいんじゃないか?」
 すみれが多少不満そうにしていたが、渋々納得したようで、俺は携帯電話での通話を終えた。
 連日の晴天が嘘のような曇天模様の空は、俺の夏休みの幸先を暗示しているかのように思えた。
 昨日の『ナイフ』との会話は、あの後再開することはなかった。俺がすみれとの会話中、ずっと語りかけているのに応答がなかったのだ。
 何度、本体を壊すと脅して質問に答えさせようとしても無駄だった。
「タイミングが……悪い、よな」
 肝心なところは何も聞けてない。何も。
 ベッドに倒れ込み、蛍光灯の点いてない灰色の天井を仰ぎ見る。そこは無味乾燥で何の面白みも感じられない。
 少し視線を下にすると、やたらと整理整頓された学習机が俺に向かって「勉強しなさいビーム」を放ってくるが、宿題もろくにしない俺は華麗に無視を決め込む。
 横に目を向けると、折りたたみ式の机があって、その上には目覚まし時計が置かれており、大小二本の時計の針は午前十一時の時刻を示そうとしていた。
 午前十一時……微妙な時間帯だ。
 二度寝を決行するにはちょっと遅過ぎるし、昼飯を食うのには早過ぎる。家の仕事であり日課でもある花の水やりは、もうやり終えた。読書やゲーム、音楽などの娯楽関係もどこか億劫に感じる自分がいる。
 暇で、何もすることがない。
 おもむろに、しとしとと聞こえてくる雨音を見ようと窓辺に近づく。
 ガラス一枚隔てたところから見る雨は、何の色も無い。
 こんなに暇だからだろう。ある一人の少女のことを考えてしまう。
 想像上のその子は、黒を基調とする服を優雅に着こなし、癖毛一つない長い髪は、そよ風に吹かれて、さらさらと揺れていた。
 おそらく、黙って微笑んでいたなら、誰も放っておかないに違いない。
 でも、俺は知っているんだ。
 その子は大食いチャンピオンでも白旗を挙げるほどの胃袋を持っており、すみれと同等かそれ以上の虫好きで、少し嘘がへたくそで、自分の名前をちゃんと呼ばないと怒りだす。
 そんな女の子を、俺は知っている。
 そんな本来この世には居ないはずの少女を、俺は知っている。
 その子の名前は……。
「ヒカリ」

 ――チリンッ。

「えっ……」
 窓の外から鈴の音が聞こえた、ような気がした。
 いや、おそらく気のせいだ。今、この状況では雨の音しか聞こえない。それに、眼下に広がる殺風景な住宅街からは鈴らしきものは見えないし、自室を見渡してもそんなものは部屋に置いてないことにすぐ気付いた。
 だから、気のせい。思い違い。錯覚。
「って、昔の俺なら考えただろうな」
 そう自虐的に笑いつつ、勢いよく窓を全開に開けた。
 雨音がさらに鼓膜を揺らし、微風が頬や髪をなびかせる。
 そして、俺は探した。鈴を。
 首を窓から思いっきり出して、目を出目金より大きく見開いて、雨に濡れようとお構いなしで探した。きっとある、と確信を持って探した。
 そして、見つけた。金色の小さな鈴を。俺がいる部屋からほぼ真下。玄関前の階段にちょこんといる。
 俺は窓を閉めた後、部屋の扉を開けて一階の玄関に向けて走った。しかし、途中で小さな小動物(母)にぶつかった。
「い、痛いじゃないですか! 徹ちゃん!」
「あ、ごめん」
 急いでいた俺は半ば強引に立ちふさがる小動物(母)の横を擦り抜け、玄関に向かった。
 しかし、小さな手はギュッと服の裾を掴んで俺を行かせまいとする。
「ちゃんと、あ、や、ま、り、な、さ、い!」
「美人でエレガントでファンタスティックなお母様、この手をお離しになって!」
「えっ、そんな私が美人だなんて……」
 小さな小動物(母)に向かって、おだてる攻撃。効果は抜群のようだ。この隙に、もちろん俺は……。
「逃げよう」
 ……と、もう一度逃走を図ろうとするが、服の裾は強く掴まれたままだった。仕方なく俺は小さな小動物(母)に向き直り、
「……ごめんなさい」
 と、素直に頭を下げた。
「はい、いいですよ。あ、そうそう、徹ちゃん、これ……」
 そう言うと、小さな小動物(母)はニッコリと笑って俺にビニール傘を手渡して来た。
「えっ? あれっ?」
「どうかしましたか? 徹ちゃん?」
「……いや、まあ、いっか」
 急いでいた俺は母に手渡されたビニール傘を持って外の世界の扉を開けた。
 その鈴は確かにあった。でも俺が拾い上げようとすると、消えた。
 ――チリンッ。
 そしてまた鈴の音が聞こえた。今度は公道のど真ん中にあった。
 家を出て、それをまた拾い上げようとすると、また消えた。
 今度は数十メートル先のところに金の鈴はあった。
 俺をどこかへ案内しようとしている? でもどこへ?
 不安が少しだけ心の中で芽生えたが、それでも行くべきだと思った。
 きっと、この道はあの子へと続く道だと思うから。
 ふと、俺は視界に入るビニール傘を見る。さきほどお袋に妙な笑顔で手渡されたものだった。だから、余計に疑問に思うのかもしれない。
「お袋、ビニール傘は買わない主義じゃなかったっけ?」

「はぁ、はぁ、はぁ……ここは?」
 金の鈴の跡を追って、辿り着いた先は、古びた神社だった。
 俺は辺り一帯に目を走らせ、あの小さな塊を探そうと躍起になろうとするが、すぐにここが目的の場所だと理解出来た。
 理解出来たのは、この先に続いている道無き道をこれ以上通すまいとしている、激しさを増した雨のせいではない。
 もちろん、苔がびっしりと付着した鳥居や、今にも自然災害によって壊れそうな社が、なんとなく場の雰囲気に合っているからでもない。
 少女だ。
 まだ年端もいかない和服姿の美しい少女が、紅色の和傘を広げて優雅に立っていた。
 和服の色は少し紫がかった黒色を基調としており、赤い牡丹の花柄がモチーフとなっている。
 その少女が、音もなく目の前に表れたのだ。
 和服の少女は何をしゃべることも無く、ただ俺の顔を、いや俺の目を、瞬きもせずに見てきた。
 まるで、この場に居るのが相応しいのかどうかを試している、そんな目だった。
「まだ、怖い?」
「えっ……」
 突然少女の口が動き出した。
「幽霊や、テラーのこと、まだ、怖い?」
「……怖いさ」
 幽霊やテラーの存在がもう怖くないと言えば、嘘になる。怖かったからこそ、俺の寿命を奪ったヒカリやその仲間の山崎から逃げ出し、日常に戻ろうとしたのだから。
「でも……」
 俺はビニール傘の柄を、強く握った。
「怖い存在だからって、安易にそれを認めたくないと思ったんだ」
「……」
「あいつらのことを何にも理解せずに、幽霊だとか、化け物だとか、テラーだとか、一括りにして怖い奴らだって思うのは簡単だ。でも、それは、何か、嫌なんだ」
「なぜ?」
 俺は和服姿の少女から視線を一旦外し、手に持っている色が見えない傘を見つめた。
「あいつらと一緒にいるのが楽しかったから。それが、もう俺の普通になってしまったから。あいつらがいない日常は退屈なんだ。ちっとも面白くないんだよ。だから、人とは違う怖い存在だからって、そんな理由だけで、あいつらのことを忘れたくないんだ。無かったことにしたくない。……そう、思うんだ」
「そう……」
 赤い傘の少女はそう言うと、俺に手を差し出してきた。
 その小さな手には、先程見た黄金の鈴がちょこんと置かれている。
「これは?」
「これは……鈴」
「は、はあ……」
「……でも、きっと、あなたを、導いてくれる」
「導く?」
「……そう」
「……俺に、何か出来るかな?」
「……大丈夫」
 そう言うと少女はゆっくりと、微笑み、
「……あなたなら、きっと救える」
 そして、鈴の音と共に、少女は、消えた。

「まったく……」
 急に何か出て来たと思ったら、消えちゃうんだもんな。
 俺は少女からもらった鈴をじっくりと観察することにした。
 ただの鈴だ。売店で見るものと別段変わらない。
「この鈴が導いてくれるって、あの子は言ってたけど……」
 どう導いてくれるのだろうか?
 試しに振って音を鳴らしてみたり、鈴を色々な方向に動かしてみたり、としてみるが「チリン、チリン」と小気味の良い音色を鳴らすばかりだ。
 現状で鈴に何かを期待するのを諦めた俺は、勢いの強くなって来た雨をしのぐため、神社の本殿に腰を下ろした。
 ビニール傘を少し離れたところに立てかけて、一息つく。そして、濡れているだろう顔をTシャツの袖で拭こうとしたが、
「ん? 全然濡れてない」
 雨の影響でずぶ濡れになっていると思っていた全身は、濡れている痕跡がなかった。濡れていたはずの靴下も、買ったばかりの白のスニーカーも、激しい雨と泥水などで酷い有様だと思っていたが、家を出る前と何も変わっていないように見える。
「……まあ、いいか」
 あれこれ考えても仕方がない。そう思った俺は視線を外に向けた。
 激しくなっている雨は一向に上がる気配を示さず、俺はこの窮屈な空間に閉じ込められていた。まるでこの世界には最初から俺一人しかいなかったみたいな感覚を覚える。
「……前は、もう一人いたんだよな」
 雨に行く手を封じ込められた同居人が、確かにあの時はいた。自分と同じ空間を共有していた少女が。一緒の雨空を見上げていた少女が。雨宿りをしていた少女が。
「この世には存在しないはずの少女が、確かにいた」
 今なら、いや今だからこそ、彼女の気持ちがわかる、そんな気がする。
「うれしかったんだよな? ヒカリはあの時、俺が側にいて、俺がヒカリの存在を受け入れたのが、うれしかったんだ」
 自惚れではない自信があった。
「だから、消えるのを、思いとどまったんだろ?」
 俺があの場に居合わせなかったら、ヒカリは消えていた。ひっそりと、誰にも知られないまま。二度目の死を、受け入れていた。けど……。
「もう一度、人間として生きてみたいって思ったんだろ?」
 ――そうだろ、ヒカリ?
 この場にはいない少女に俺は、問いかけ続けた。
 ……だからだろうか。俺が呼びかけ続けたからだろうか?
 このはげしい雨の中を、傘もささずにこちらに走ってくる人影が見えた。
 俺は自分の目を疑った。彼女がこちらまで到着する間、ほっぺたをつねったりする。しかし、その子がこちらに近づく音も、頬の痛さも、そしてさっきまで冷えきっていた体が急に火照ってくるのを感じるのも、あまりにリアルだった。
 だから、土砂降りの雨の中、この神社に雨宿りにきた少女は、間違いなく本物なのだ。
 ヒカリだ。ヒカリがいた。
「ふうっ、やっと到着! うわっ、全身びしょびしょですね……」
「え……あ、ああ!」
 いきなり話かけられて、俺は何を言い返したらいいのかわからなかった。頭が真っ白になったのだ。それは、急にヒカリが俺の前に表れたから、心の準備が出来ていなかったからかもしれないし、雨にすっかり濡れてしまった彼女が、なぜか輝いて見えたからかもしれない。
 ……いや、たぶん、どっちもだ。
 すぐ右隣に腰掛けたヒカリは俺のことなどまるで気にする素振りもなく、自分の鞄からタオルを取り出して、艶めかしい長い黒髪を拭いている。
 この場合はどうしたらいいのだろう? やはり自分から何か声をかけるべきなのだろうか? いや、でも何て? この間は突然いなくなってごめん、とか? それは、それで気まずくなるんじゃないか? でも、やっぱり、まずは謝らないと。えっ、でも、どうやって?
 などと、どう話かけたらいいのか悩んでいたが、それはすぐに杞憂に終わった。
 それは、ぽつりと、ヒカリが呟いた一言が原因だった。
「はぁ……一人っきりで雨宿りするのは、やっぱり寂しいものですね」
 ……は?
 最初意味が理解出来なかった。一人っきり? いや、すぐ隣に……。
「俺、いるじゃん……」
 俺がポロッと零したように出た言葉は、小さいながらも間違いなくヒカリの鼓膜に届く距離だった。しかし……。
「……」
 隣の少女は俺を無視したままで、こちらの顔を見ようともしない。それどころか、今もなお、降り続く雨を見て「早く、止まないかな〜」などと言い出す始末だ。
 さすがにムカッときた。確かに俺はヒカリ達の隠れ家から怖くなって逃げた。最後まであいつらの話を聞かずに逃げ帰ったさ。だから、ヒカリと再会出来たとしても責められるのは当然だと思っていた。しかし、いくらなんでも無視することはないではないか。いくら怒っているからって、まるで俺を空気みたいに扱うのは酷いではないか。
 だから、俺はヒカリの肩を掴もうと右手を伸ばし、無理矢理こちらに注意を向けようと思った。そして、無視したことを怒り、それから、謝ろうと思った。
 後悔していたのだ。あの場から逃げたことを、彼女たちを理解しなかったことを、そして、人だと思わなかったことを。
 幽霊とか、化け物とか、テラーだとか、この世には存在しない何かだとか、正体はどうでもいい。
 目の前にいる女の子は、ヒカリという名前で、心を持った、女の子で……。
 そして、ちゃんとした、人間なのだ。
 それを俺は言いたかった。伝えたかった。誰に何と言われようと、ヒカリは、人なのだと。
 言うつもりだった。ちゃんと。
「おい!」
 でも、伸ばした右腕は、華奢な肩を掴む筈だった五本の指は、空を切った。
 えっ……。
 そして、俺はすぐに血の気が失せるのを感じた。なぜなら俺の右腕は、ヒカリの肉体に触ることなく通過していたから。すぐに手を引っ込め、右腕を確認する。左手で右腕を丹念に触るが肉や骨や血管がついた正真正銘、自分の腕だった。
「何だよ、何だよ、これ……」
 ただ、一つ異常があるとすれば、右腕だけでなく、全ての体が……。
「何で、俺、体が透けてるんだ?」
 半透明に透けてみえるところ、か。

 5「少女の死」

 冷静になろうとしたが、無理だった。
 手当たり次第とはまさにこのことだろう。俺は自分の目に入るもの全てに触ろうとした。隣にいるヒカリの体、座っていた階段、古びた木の柱、しめ縄に、大きな鈴や、ボロボロになった鈴緒、小銭があるかわからない賽銭箱、それらに触ろうとした、でも俺の伸ばした腕からは何も掴めなかった。勢いよく外に出て全身を雨に打たれようとしたが無駄だった。冷たいであろう雨水は無情にも自分の体には触れずに通過していく。
 体が勝手に震えてくる。
 自分の存在が、はっきりと恐いと思った。
 誰にも見られず、何も触れず、一切の干渉が出来なくなっている。
 これでははまるで……。
「俺が幽霊になったみたいじゃないか……」
 幽霊、そのワードを口にした瞬間、俺は山崎が言っていたことを思い出した。
 幽霊とは魂の残滓、残りかす、後悔の念、そして、このままいけば……。
「もしかして、消えるのか? 俺?」
 消えるという言葉を口に出した瞬間、叫び出しそうになる。でも、例え俺が発狂して、叫び狂ったとしても、目の前にいる少女は俺に気づいてはくれないのだ。なぜなら、彼女は……。
「ヒカリは生きてるんだな……」
 少女が生きてる証拠に、肌身離さず持っていた黒い傘の姿がどこにもなかった。あれがなければヒカリはこの世に干渉する力は持てない筈だ。それに、幽霊のヒカリだったら俺の声が届くはずなのだ。だから、彼女の黒い服がぐっしょりと雨の水分を含んでいるのも、紛れもく生きているからで……。
「はっ、ははっ。俺たち立場が逆転してるじゃん」
 無理矢理、笑おうとしたが、笑顔はひきつっていた。
「何で、こんなことに……」
 謎はすぐに解ける。
「そうか、あの子が消えてからだ」
 あの和服姿の少女が消えてから、おかしくなったのだ。そして、気付く。
「違う。あの子が消えたんじゃない。俺が、消えたんだ……」
 恐らく、あの現実世界から、なぜかこの異常な世界に飛ばされたのだろう。そして、俺はなぜか幽霊になってしまって、ヒカリは生きている。でも、何で?
「あ……」
 今更ながら俺はポケットの中に入れていたある物を見るため、ゆっくりとそれを取り出した。
 そこにはもちろん金の鈴があり、そして、案の定、強い光を俺の瞳に映し出していた。
「こいつが原因か」
 つまり、この金の鈴は現実世界ではない、何らかの異次元世界に飛ばせる力がある。
 そしてこの世界ではヒカリが普通に生きている。俺はなぜか幽霊になっている。
 立場が逆転した世界で再会した俺達。
 会えたのは只の偶然ではない。何か意味がある筈だ。
 そう、あの和服姿の女の子が言っていた言葉。
 ――「あなたなら、きっと救える」
 この言葉を信じるなら、この世界を見ることで俺はヒカリを何らかの形で救えることが出来るということだろう。方法は見当もつかないが……。
「……はぁ〜」
 深い溜め息が自然に出る。そうすると、今まで張り詰めて堅くなっていた空気が一気に柔らかくなる感じがした。
 謎は何も解決していないが、まあ、取り敢えず、前には進めた。
 ヒカリ達の元への繋がる大事な一歩を、歩むことが出来た。
「ヒントは……あるはずないか。自分一人の力で救うしかないのか……」
 目の前で物思いにふけっている少女を。
 ぐぅぅう〜。
「あ〜、お腹がぺったんこに……」
 ……訂正。目の前でお腹を空かしている少女を、だ。

 雨の勢いが段々と弱くなるのに、そう時間はかからなかった。
「ふー、やっと上がりましたね。家に帰ったら服着替えない、とっ……」
 独り言を呟きながら、ヒカリは立ち上がり、大きな伸びをした。
 そして……こちらを振り返った。
 そして、何かに気付いたように少し驚いた顔をした。
 俺の目はヒカリを捉え、ヒカリの目も俺を捉えている。
 ヒカリは……もしかして……見えているのか?
 そう思った刹那、ヒカリは笑った。俺のよく知っている笑い方だった。
「さて、行きましょうか」
「ぇ……」
 俺の目を見て、はっきりとそう告げたのだ。
「お、お前は俺の姿が見えて……」
 言葉が言い終わらない内に、ヒカリは次の言葉を言った。
「猫さん」
 そう言うと、俺の体を通過して一匹の黒猫がヒカリの元へと、そろりそろりと近づいて行く。
「もう、いつから私と一緒に雨宿りしてたんですか?」
 そう言って、ヒカリはその黒い猫を抱きかかえ、笑いながら俺から背を向けた。
 ゴソゴソと鞄からタオルを出して、その黒い猫の体を拭いていた。その姿は、まるで生まれたての赤ん坊をあやしている母親みたいだった。
 ばいばい、と言う言葉がヒカリから出るまで、体も心さえも動けなかった。
 そして、ヒカリは、俺から離れて行く。何を言うこともなく。
 それは、自然な流れで、当然の振る舞いで、当たり前で……。
 一歩、一歩、確実にその背中は小さくなっていった。
 追いかけなくちゃいけないのに、踏み出す足は動かない。
 今のヒカリは、人間だ。幽霊になってる俺が見えるはずがない。
 だから、この行動は何もおかしくない。まったくの正常だ。いない人間を気にかける奴がいたら、そいつは異常だ。
 でも……心は、どこかで期待していた。
 なんだかんだで、俺に気づいてくれた、と思ってしまった。抱いている不安を馬鹿馬鹿しいものに変えてくれる笑顔を、俺に向けてくれた、と思った。
 でも、違う。
 自分の半透明な姿を自分だけしか見ることが出来ない。どんなに大声をあげても、誰にも聞こえない。滑稽すぎて、可笑しすぎて、非現実的すぎる。
 俺という自我のイメージを保てなくなると、本当に消えてしまいそうだった。ろうそくの火を消すのと同じぐらい簡単そうだ。
「この世界では、俺は、一人なんだ」
 俺の口にした言葉は、誰にも届かない。
 幽霊の気持ちが、少しだけわかった気がした。

 ――コンッ。
 音が聞こえた。
 すぐ隣で何か落ちる音が。見れば立てかけてあったはずのビニール傘が落ちていた。俺は腰を浮かし、柄の部分を掴んだ。
「えっ」
 驚いてしまった。雨の影響で冷えきっているものだと思ったプラスチックの柄が、暖かかったからだ。まるで、そう、人の手を掴んでいるみたいだった。
 でも、何も不思議がることはないのかもしれない。
 今の俺は、普通の人間ではないのだから。だから傘の柄が多少暖かくても、この空間では変ではないような気がした。
 それに、さっきまでの不安が嘘のように和らいでいるのを感じた。それはこの少し暖かいビニール傘のお陰だった。物を掴んでいるという確かな感触が俺に生気をくれた。
 前を見る。ヒカリは……まだ、見えた。
 その瞬間、俺は足に力を入れて、少女を追いかけた。

 尾行中、いや、ストーカー中、俺はあることに気付く。
 何かと言うと……幽霊の体についてだ。
 頭が冷静になってくると、この体が人間のものではないことがわかった。
 ついさっき経験した、自分の体の半透明化と、存在している物体に触ることができないなど以外に気付いたこと。
 まず、視界から見えている世界が微妙に白っぽい。
 見えてくる、車、住宅街、木、存在している人間、それらがもやがかかったように薄らと白く霞んで見える。
 そして、妙に頭がぼぅとしてくるのだ。
 睡魔に襲われるとかの類いではない、気がつけば心ここに在らずになってしまう。
 意識的に集中していないと、自分でも気付かない内に、ろうそくの火を消すのと同じぐらい「ふっ」と消えてしまいそうだった。
 ……あと。
「……ぉっ!」
 幽霊はやっぱり……宙に浮くことができる。
 理由は見当もつかないが、足に力を込めてジャンプをしたら呆気なく体は地面から離れた。
 その瞬間、感動と恐怖が同時に沸き上がって来た。慣れ親しんだ自分の町が、まるで初めて来た土地に思えた。
 他にも人間の体との特異点があるかどうか調べようとしたときだった。
「あ……」
 俺と同じ同類を発見した。
 山崎の、この世は幽霊だらけだよ、と言う言葉が嘘ではないとわかった瞬間だった。
 最初に見つけたのは幼い男の子だった。電柱の側で物憂げにこちらをみていた。次に目に付いたのは痩せた長身のスーツ男。そして、やせ細ったおじいさんとおばあさん。お腹をさするふくよかな女性。男の人、女の人。男、女、女、男、男、男、女、猫、女、お……。
 振り払え。何もかも見るな。ただ一人のことだけを考えろ。
 彼らに話しかけようとは思わなかった。だって、初めてヒカリと会った雨の日の、死んだ目をしていたから。

 住宅街を抜け、道路を渡り、そして……俺にとって見慣れた道が視界に入る。数分もしない内に脳内で思い描いていた形は現実の立体感になって浮き出て来た。
「学校?」
 気がつくと、俺とすみれが通っている高校の前まで来ていた。
 ヒカリは正門の前まで来ると、学校の時計塔を見て、「セーフですね」と言いながら、門に体を預けた。
「おい、俺たちの学校に何の用だよ」
 当たり前のように、返事は返ってこない。
「大体、見つかったら先生に注意されるぞ」
「……」
「……何か言えよ」
「……」
「……こっち向けよ」
「……」
「……誰、待ってんだよ?」
 俺はヒカリを見るのが嫌になった。何も言ってこないから、顔をこちらに向けないから、質問を返してこないから、理由は色々あったが、一番ではない。
 一番は、彼女の顔を見ればすぐわかった。
 チャイムの音が耳に届く。
 それからヒカリの待ち人が来るまでの時間は、早く過ぎるように感じた。いや、無理矢理早く感じるようにした。
 五分ほどしてから生徒達が門をくぐる時に見せる奇異の視線など、彼女にとってはまるでお構いなしのようだった。アウトオブ眼中。
 ヒカリの目は踊っていた。何かを期待していた。どこかくすぐったそうに笑っていた。
 女の子だった。
 ……俺は最後にもう一度だけ彼女の名前を呼ぼうとする。でも、止めた。俺にはその資格がないから。俺はヒカリの待ち人ではないから。
 その名前を呼べるのは、たった一人だけだ。
 なのに……。
 ――ヒカリ。
 自分の声がはっきりと聞こえる。まるで声を出した覚えがないのに、だ。
 すぐ隣の彼女を見る。彼女は俺を見ない。でも確かに誰かを見ている。
 自分と同じ声の誰かを……。

 ――おはようさん。
「ふふ、もう放課後ですよ」

 誰かって……誰だ?

「……え」

 誰かって……俺だ。

 ヒカリの待ち人は、曽野川徹という名前の、俺ではない俺だった。
 驚いている暇はなかった。さらに続く衝撃が俺を待っていたから。

「徹っ! 待っていろとあれほど……あっ」
「あっ、すみれちゃん、久しぶりですね!」
「お、お久しぶりです、ヒカリさん」
 ……お前が敬語を使うなんて珍しいにも程があるだろ、すみれ。
「はぁはぁ、ちょっと、徹、君、走る、のは、校、則で、禁止、されて、るんだ、よ」
 ……ヘビースモーカーが似合わないことをしないでくれよ、山崎。
「和義君もお久しぶりです!」
「ヒカリ、さんも、お元気、そうで……。タ、タバコ……を」
 ――和義、あれだけ学校には持ってくるなと口が酸っぱくなるほど言ったよな。
「言われた、覚えは、ある、けど、聞いた覚え、は、ないよ」
 ――これはもう没収だ。
「徹君、今ここで、先生を呼んでもいいんだよ」
 ――ふん、呼べるもんなら呼んで……。
「はい、すみれさん」
「……えっと、私は一年五組の曽野川徹と言うが、使った形跡のあるタバコを拾ったのだが……」
 ――っておいすみれっ! 俺の名前っ!
「私の特徴、ですか? ええっと、そうですね……ふふ、一杯ありますよ」
 ――ヒカリも、悪乗りしないっ!
「慌てて切ったってもう遅いよ、徹君。君のクラスと名前はばっちりと先生の鼓膜にインプットされただろうからね」
 ――じょ、冗談だろ!
「徹君の想像に任せるよ。まあ、十中八九、呼び出しは間違いないよね?」
 ――お、俺の今後の学校生活がっ!
「……ププッ、君って、ほんとに、お、おもしろっ」
 ――そうか、いつもの冗談か。冗談には冗談で返さないとな。
「えっ、ププッ、冗談って何が……」
 ――いやー、今日のゴミ当番が俺でよかったな、和義。
「へっ?」
 ――焼却炉に感謝だな。
「じょ、冗談だよね? 徹君?」
 ――和義の想像に任せる。
 ……これは何の冗談なんだよ、曽野川徹。
「幼馴染四人、揃ったことだし、そろそろ、行きましょうか」
「……そう、ですね」
「僕のタバコが……」
「キャッ……」
 ――おいおい、こんな何もない所で転ぶなよ。ほら。
 俺ではない俺が、ヒカリの前に手を差し向けた。
 そして、少女は当然のごとくそれを掴み、少年は思い切り引っぱりあげた。
「ありがとう。とーくん」

 ……とーくん、って誰だよ、ヒカリ。

 何かがおかしかった。
 仲良く談笑しながら、帰路についている四人組の笑顔は俺をあり得ないぐらい動揺させた。
 何故なら、無かったから。
 仲の良い幼馴染が二人増えているなんて記憶は、頭の片隅にも存在していなかった。
 だから、これは普通に考えればパラレルワールドだった。
 俺とヒカリとすみれと山崎の四人が、幼馴染だったなんて都合の良い夢だ。
 だって、ヒカリと山崎に出会ったのは、つい最近のことだった。
 ヒカリとは、俺が交通事故を引き起こしそうになったあの日。
 山崎とは、二年の新学期が始まる、あの屋上で。
 生まれたときから俺の側にずっといたのは、すみれただ一人だけだった。
 だから、これは実際にあった出来事なんかではなく、ただの妄想だ。
 なのに……。
 目が離せなかった。
 四人の笑い声から、心地よい空気が俺の全身に流れ込んでくる。
 彼らの一挙一動があまりにも自然だからだろうか。それとも自分自身のちょっとした思いつきだろうか。
 こんなことを考えてしまう。
 おかしいのは、俺なんじゃないか、と。
 今見てるこの光景は、ありえない架空の世界じゃなく、実際にあり得た現実なんじゃないか、と思ってしまった。
 そう思えたのは、たぶん……。
 俺から見た、俺が一番よく知ってる、俺自身である、目の前の曽野川徹が、幸せそうな柔和な微笑みを浮かべていたのが目に入ったからだ。

 彼らが到着した先は、俺たちが通っている高校からさほど遠くない一軒家だった。何ら変わったところもない、ごくごく普通の土地面積しかない、中流家庭の家。
 しかし、俺は驚いていた。
 庭周りに色とりどりの花が植えられていたから、ではない。
 表札の名前が「戸野村」だったから、でもない。
 彼らの着いた場所が、テラーの隠れ家だったからだ。
「戸野村」と言う性に俺は心当たりがなかった。俺の友達にそんな名字はいない。
 でも、そもそもが知らない奴ならいた。
 名前しか知らない、最近会ったばかりの女の子ならいた。
 つまり、ここは隠れ家は……彼女の。
「お父さん、今帰りました。あと、とーくん達もいます」
 俺の知らない「戸野村」ヒカリの家、だった。
 夏休みに入り、以前俺が何度も足繁く訪れたこの場所は、俺が知っている所ではなかった。
 埃をかぶった汚いソファや本棚しかなかったリビングには、家具家電が当たり前のように綺麗に完璧な配置で鎮座していた。
 以前の蜘蛛の巣まみれだった室内には、塵一つないまでにピカピカに掃除が行き届いている。
 時が止まり死んでいた空間は、人が心地よく住んでいる生気を俺の瞳に映し出していた。
 そして……。
「ヒカリ、お帰りなさい。みんなもよく来たね」
 優しい顔をした、でも声に威厳の漂う、そんな大人の男性が彼らを迎えていた。
「始業式はどうだった?」
 始業式?
 俺は、家にあったカレンダーを見た。するとそこにはもう夏はなく、秋の絵があるカレンダーとなっていた。そして一番始めの日は大きな赤丸が描かれていた。
「もう、校長の話が長くて長くて。早速で悪いんですけど灰皿とライター、あとタボコを一本恵んで……いたっ!」
 ――和義、冗談はほどほどにな!
「いや〜、徹君。一割は冗談が混じってるけど、残りの九割近くは本……とっ!」
「まったく、お前は本当に馬鹿なんだな」
「すみれさん、馬鹿じゃない僕がご所望なら、肺にニコチンを入れないとだ……めぇっ〜!」
「和義君、駄目ですよ。あなたはまだ成人していないんですから」
「ヒ、ヒカリさん……僕のめ、目から、光を奪う気ですか?」
「ははは、山崎くん、肺にニコチンは与えられないけど、胃にカフェインを取り入れることなら大歓迎だよ」
「いや、同じアルカロイドだけど全然だ、めぇっ〜〜じゃないです! ごめんなさいっ!」
 三人からの集中攻撃を喰らった山崎は、ヒカリのお父さんが出したコーヒーを黙々と飲んでいく。すごく悲しそうな溜め息をまじえながら……。

 優しい時間だった。
 彼ら四人は、今日学校で起きた出来事や、休みの日に遊ぶ予定などを話す。
 ヒカリの父親は少し離れた所にある座椅子に座りながら、自分の淹れたコーヒーを啜りつつ、本を読んでいた。
 そんなホームドラマに出てくる暖かい光景がそこにはひろがっていた。
 でも……そこに、俺は居ない。
 その代わりに俺じゃない俺が楽しそうに笑っていた。
 その光景は何だかすごく、胸がもやもやして肌寒い。
 見ていたいけれど、見ていたくはない。
 ヒカリもこんな気持ちだったのかな。
「さて……」
 本がパタンと閉じられたのを合図に、一斉に視線がヒカリの父親に集中する。
「みんな、もうこんな時間だからそろそろ帰りなさい。親御さん達が心配する」
 そう言うと、お父さんはテレビの横にある大きな古時計を指差した。
 時計の針は、そろそろ夕方から夜になる時刻を指し示していた。
 ――はい。「はい」「はーい」
 各々が返事をして帰り支度をする。そして、彼らの向かう先が当然玄関だと思っていた。しかし、彼らは入り口とは逆の方へと向かっていく。
 どこに行くんだ?
 そう思ったのも束の間だった。なぜならこの道は通ったことがある。
 正面の方へ続く道と、左へ折れる道がある。
 彼らは左の道を選んだ。
 覚えていて当然だった。夏休みの間、何度もこの場所へ足を踏み入れて、何度もこの道のりを辿ったのだから。
 彼らが足を踏み入れた部屋は、俺がヒカリから逃げ出した場所だった。
 
 部屋には仏壇があった。
 彼らは写真の人に線香をあげていた。
 時折、鐘が鳴る。
 写真には綺麗な女の人が写し出されていた。
 和服は紫がかった黒を基調としており。
 そして髪飾りには金の鈴をつけていた。
 あれ?
 この人は……。
 あの女の子?
 いや、違う。あの女の子よりも、もっと歳が離れている。
 だったら……彼女は?
「さて、帰りますか?」
 山崎はそう言うと、一足早くにこの場所から出た。
 彼に続くように彼らも部屋から出て行った。
 そして、最後に俺だけが残される。
 ヒカリの後を追わなければならない俺は、ここにいる理由はなかった。
 彼らに続くように俺も部屋を出た。
 でも、もう一度だけ俺は後ろを振り返った。
「っ!」
 さっき見た写真の女の人には髪飾りの鈴があった。
 でも、今の写真の女の人には、それが無かった。
 これはどういうことだ?
 俺は疑問に思ったが、この部屋に居るのが怖くなり、すぐに立ち去った。
 玄関に行くと、もう一人の俺が、靴を履き終え家から出ようとしてるところだった。
 ――じゃあ、またな。
「はい、また。あ、とーくん」
 ――ん?
「信号無視しちゃ駄目ですよ。あと、途中で傘を買うのも」
 ――え? 信号無視はしないけど……傘?
「……なら、いいです。ふふ」
 ――何でそんなこと言ったんだよ?
 え、ええっと。ヒカリは慌てたように何か言い繕うとしていた。そして、閃いたようだった。
「赤信号で渡ったら幽霊が出るんですよ」
 ――えっ?
 えっ!
 その言葉は俺が昔お袋に言われた言葉だった。
 なのに、なぜヒカリが言うんだ?
 ……いや、そもそも本当にお袋が言ったのか?
 俺は、わからなくなった。
 そして、程なくしてもう一人の俺も別れの挨拶をして出て行った。
 隠れ家には、もうヒカリと彼女のお父さんしかいない。
 彼らは、リビングに行き、暫くすると家族団らん会話が聞こえてきた。
 でも、俺にはその幸せな会話は耳に届かなかった。
 それよりも、この世界の俺について思いを巡らせていた。
 この世界は何なんだ?
 過去なのか?
 いや、俺の過去なら、ヒカリや山崎と会ったことなんかないはずだ。
 でも、違うと言い切れない。
 じゃあ、ここは、パラレルワールド?
 本当にか?
 わからない……わからない。
 そして、俺は……ヒカリの何を救えばいいんだ?
 リビングのドアが開いたの聞いて、俺は我に返った。
「お父さん、雨ですよ、雨!」
 彼女の言う通り、外は先程の夕立の続きとばかりに、また雨が降って来た。
「私、とーくんに傘を届けに行って来ます!」
 リビングから彼女の父の柔らかい声が聞こえた。
「曽野川君だけにかい?」
「この家から一番遠い家はとーくんの家です。それにとーくんは今日傘を持って来てなかった。あと、とーくんと……」
 俺と……何だ?
「相合傘したいんです!」
「なっ!」
「相合傘……か。いいよ、行って来なさい。でも、あまり遅くならないように」
「はい、お父さん!」
「ちゃんと帰ってくるんだよ」
「はい!」
 玄関前で父親とのやり取りを終えると、ヒカリは勢いよく飛び出して行った。
 一本の傘を携えて。
 俺はその傘は黒い傘だと思った。
 彼女の母親の形見であるあの傘だと。
 でも、少女が持っていたその傘は、何の変哲も無いただのビニール傘だった。
 また疑問が生まれる。
 なぜ、ヒカリは黒い傘を持っていかないんだ。
 いや、違う。俺は慌てて傘立てを見た。
 そうだ。そもそも、この家の傘立てには黒い色の傘など一本もないのだ。
 じゃあ、あの黒い傘はなんなのだ。
 あれは一体、どこに?
 すぐ後ろで、彼女の後をつけているのに、何も聞けないことが歯痒かった。
 こんなにも、幽霊と言う存在は無力なのか。
 何も出来ない。
 本当に何もない。
 ただ、ここにいるだけだ。
 これは、生きているんじゃない。
 生きているフリをしているだけだ。

「あ、とーくん!」
 
 どうやら、ヒカリが探している想い人が見つかったらしい。
 とーくんは、俺がヒカリに初めて助けてもらった交差点にいた。
 そして、今、赤から青に変わった信号を急いで渡ろうとしていた。
 もう一人の俺は、髪や服がびちゃびちゃで今にも風邪をひきそうだった。
「とーくん!」
 少女の叫びは、とーくんには届かない。
 多分、この雨が邪魔をしているんだろう。
 俺はヒカリが不憫になった。
 とーくんに振り向いて欲しいと思った。
 でも、それ以上に、振り向かないで欲しいとも思った。
 嫌な予感がしていた。
 大事なものを失うような気がしていたんだ。
 だから、本当はヒカリを止めたかった。
 進んでいる足を、本当はこちらに向けさせたかった。
 でも、それは出来ないから。今の俺では……。 
 俺は、宙を浮き、もう一人の俺の元へと一足早く追いついた。
 そして……。
「止まれよ」
 と言って手を広げてもう一人の俺の前に立った。でももちろん俺の声なんて、こいつに届く訳がない。
 そして、予想通り俺の体を、もう一人の俺は通過していく。
 何故だか、それが異常にムカついた。

「あいつはお前を呼んでるよ」

「気付けよ」

「後ろを振り向けよ」

「何でヒカリの声を聞いてやらないんだ!」

「とーくんって呼ばれてるだろ!」

 何度呼びかけてももう一人の俺は、俺の体をすり抜けて行く。
 だから、俺は……。
 鈴を取り出す。
 そして願った。
「こいつと俺を繋いでくれ」
 そして俺は、とーくんの体に自分の体を重ねた。
 その時、鈴が思い切り光った。それは眩い光で、幽霊である俺も目を覆いたくなる程だった。
 そして、気付けば。
「「ん?」」
 髪はぐしょぐしょで、服はべっとりと水分を含み、靴の中は想像もしたくない有様だった。
 俺は、この世界の曽野川徹に乗り移れたのだ。
「とーくん!」
 声が聞こえる。
 ああ、懐かしい。
 鼓膜に彼女の声が聞こえる。
「「ヒカリっ!」」
 そして、俺は声を出す。俺の声で。
 俺は少女の姿をいち早く見たくて、すぐに後ろを振り返った。
 ヒカリはそこにいた。
 彼女の目の焦点は、俺に向けられているのがわかる。
 それがたまらなくうれしくて、俺はすぐに駆け出した。
 駆け出した瞬間だった。

 ――雷の光と音がすぐ近くで響いた。

 そして、横断歩道を渡っていたはずの彼女の足が止まった。
 ああ、そうだ、ヒカリは雷が苦手だったっけ。
 俺は知らない筈の彼女の弱点を知っていた。
 その強過ぎる光と轟音を全身に浴びると、足が震えて動けなくなるんだ。
 彼女は横断歩道の真ん中で立ち尽くしてしまった。
 早く、俺が行ってヒカリの不安を取り除かないと。
 まったく、あいつは子供の頃から、本当に手がかかる。
 もしも、こんなとき、車が猛スピードで走ってたらどうするつもり……。
 そう心の中で愚痴りつつ、右手を見た。
 すると……。

 ――大型トラックがすごいスピードを出して、少女の元へと向かっていた。
 
 俺はその瞬間、何も考えられなくなった。
 頭が真っ白になる。
 でも、絶対にこの足だけは止めるわけにはいかない。
 もっと速く、彼女の元へ辿り着かなくては。
 そこから先はなぜだかゆっくりと時間が過ぎて行く。
 だから、必死で動かしている足が、鉛のように重い。
 走っているのに、とてつもなく体が冷たい。
 口も開いているのか、閉まっているのか、わからない。
 ヒカリの場所に行くのがとても怖い。
 行かなければいけないのに、俺は逃げ出してしまいそうになる。
 そして、徐々に、徐々に俺は彼女に近づく。
 それは、右手に見える大型トラックも一緒だ。
 なぜ? まだ歩行者の方が青信号なのに、こっちにくるんだ。
 やめろ、お前は来るな! 来るんじゃない!
 もう少しだ。もう少しで、彼女に触れる。
 彼女とこの場を切り抜けられる。
 絶対に大丈夫だ。
 すぐ側に、死が近づいていても。
 絶対に俺がなんとかするから。
 だから。
 届け。
 俺の右手。
 自分の存在なんか……もうどうでもいい。
 本当にどうでもいい。
 勝手に手が伸びるのは当たり前だった。
 後先なんて考える必要がない。
 衝動を抑えられる訳が無い。
 この気持ちは……何だ?
 この純粋な気持ちは何だ?
 わかるよ。
 わかるから。
 だから。
 間に合って……。
 
 青色の点滅が終わり……、そして、赤に変わった。

「ヒカリィィィィィッィィィィィィーーーーーーーーーーーーー」
 
「と……」






 ――ドンッ。





 
 何がいけなかった。
 どこで間違えた。
 何でお前は……。
 こっちを見たんだ?
 何でお前は……。
 足が動いたんだ?
 何でお前は……。
 俺の手をとろうとしたんだ?
 余計なことするなよ。
 じっとしててくれよ。
 助けるんだから。
 助けたいんだから。
 俺とヒカリの手は触れ合う。
 あの時の俺たちの気持ちは一つだった。
 俺はヒカリを助けたかった。
 ヒカリは俺に助けられたかった。
 俺はヒカリと向こう側に。
 ヒカリは俺とこちら側に。
 行きたかった。
 でも、行けなかった。
 なあ、ヒカリ?
 俺はあの時どうすればよかった?
 いや、答えなんて決まってるよな。
 お前の望むように、お前の手を引けばよかった。
 いつもみたいに。
 なんで、俺はおまえの手を突き飛ばしたんだ?
 思いっきり押したんだ?
 なんであいつを奈落へと突き飛ばした!
 なんで、なんで……。
 ごめん。
 お前の意図を汲み取れなくて、ごめん。
 突き飛ばして、ごめん。
 最悪の間違いして、ごめん。
 ごめん。
 俺の手とヒカリの手は重なった。
 でも、すぐに離れて行った。
 俺は、ヒカリの行きたかった場所へ。
 ヒカリは、俺の行きたかった場所へ。

 ――そして少女は死んだ。
 
 大型トラックによる事故死。
 即死。
 悲惨な事故。
 でも、俺にとっては真実ではない。あるはずがなかった。
 ヒカリが死んだのは……。
 俺のせいだった。
 曽野川徹の手によって。
 純粋で、真っ白で、熱い気持ちのこもった右手によって。
 ヒカリは死んだのだ。
 俺はヒカリだったものに近づく。
 そして、右手で少女を起こそうとする。
 右手は一瞬にして、少女の血に染まった。
 血の色は鮮やかな深紅で、生きているみたいに生暖かかった。
 彼女を救うはずだった右手には、裏切り者の烙印が押された。

「ぅ……」

「ああっ……」

「あ、あっああぁ……」

「あ、あぁぁぃぁああああっ、ああぅああ、いやだぁあああっあああぁぁ」

 戸野村ヒカリは、曽野川徹によって、殺された。

 彼女を轢いて行ったトラックはもういない。
 残されたのは、無様に生き残った哀れな男と。
 血だまりになった人間だった肉塊。
 そして、雨を遮るはずだった一本の傘だけ。

 その傘は、何かの血で赤く染め上げられる。
 そして、いつかは真っ黒い傘になる。
 一つの意思を持ち、いろいろな感情を見せる、一本の傘に。

 ヒカリが俺を交通事故から助けてくれたのは何の為だ?
 ――元々俺の命を狙っていたからだ。
 ――違う。
 『魂の力』を得るなら誰でもよかったはずだ。なのにヒカリは自分の危険を冒してまで、俺を助けた。俺だから、助けたんだ。
 
 雨の日、駄菓子屋のベンチに彼女がいたのは何の為だ?
 ――『魂の力』を俺から奪う為だ。
 ――違う。
 あいつはあの日、消えようとしていた。そして最後に、生前出来なかった行為をした。俺だから、したんだ。

 そして、隠れ家に連れて来た目的は……。
 ――もちろん、俺の命を全て奪うためだ。
 ――もちろん、違う。
 あの日、あいつは俺に全てを告白するつもりだったんだ。胸の内に抱え込んでいたもの全てを、俺に吐き出すつもりだったんだ。俺だから、告白するつもりだったんだ。
 そして、受け入れて欲しいと思っていたんだ!

 頭が突然痛く鳴り出した。
 これは何だ? 何の痛みだ?
 いや、頭だけじゃない。体全体が熱くて痛い。
 そして、頭や体だけでなく、俺の内側。
 そう、魂の中まで痛かった。
 何かが消えて行く。
 大切だったはずの何かが消えて行く。
 それは何だ? 何なんだ?
 俺は真相を確かめるべく、目を思いきり見開いた。
 そしたら、そこには、すみれがいた。
 幼馴染の木藤すみれが、いた。
「徹、しっかりしろ!」
「「俺が……ヒカリを」」
「徹! こっちを向いてくれ!」
「「ヒカリを……殺したんだ」」
「なっ!」
「「この右手で……突き飛ばしたんだよ」」
「そんなはずはない! お前がヒカリさんを殺すはずがない!」
「「でも、ヒカリは……死んじゃった」」
「っ!」
「「ごめんなさい。本当にごめんな、さい」」
「お前は何も悪くない……」
「「なあ、すみれ。俺、どうしたらいい?」」
「徹……」
「「もう、俺……生きていけない」」
「……」
「「もう、生きられない……」」
「……心配するな」
「「え?」」
「私が徹を助けるから。絶対に、な」
 ――どうやって?
 彼女はとても優しい微笑みで俺を見た。
 すみれはゆっくりと俺を抱きしめ、そして。
 唇に何か温かいものが当たる気がした。
 そして、俺はまた、大切なものを無くした。
 とても、とても、大切な思い出を。

 気がつけば俺は、雨に打たれていた。
 ヒカリが俺を助けてくれた交差点で。
 俺がヒカリを助けることが出来なかった交差点で。
 ただ、そこに居て、雨に打たれるだけの存在になっていた。
 そして、そこには少女が居た。
 ずっと、ずっと、探していた少女が。
 寂しそうに立っていたんだ。

「ごめん……」
「なんで徹さんが謝るんですか?」
「……だって、俺は……俺はお前を……」
 ――助けることが出来なかった。
「助ける? 徹さんはあの時、必死に私を助けようとしてくれましたよ」
 そんなのは違う。助けられなかった。
「確かに私は死にました」
 ヒカリの口から「死」という言葉が出て来て、俺はみっともなく体が震えた。
「でも、あなたは助けてくれた」
「助けてなんか……」
「救ってくれた」
「……」
「私は、嬉しかったです。あの時あなたが私に向かってきてくれたこと」
「……」
「私は……私はそれだけで満足なんですよ」
 ……ふざけんな。
「ふざけんな」
「え?」
「じゃあ、何で……何で俺の目の前にまた現れたんだ!」
「……それは」
「全部納得していたら、お前はテラーなんて存在になっていないんじゃないのかよ? お前は……満足なんかしていない!」
「そんなこと……」
「ヒカリは……俺を許してなんか……いない!」
「そんなの……そんなこと……」
「そうだろ? なあ!」

「当たり前じゃないですか!」

「わ、わたしは、生きたかった! 生きていたかった! まだまだ全然生きてないんですよ。それなのに何で私は死ななければいけなかったの? それも、助けようとしてくれたあなたの手で。酷いですよ。そんなのあんまりですよ。何で、何で、」

「私を助けてくれなかったんですか? とーくん!」
 
 雨が降っていたんだ。
 決して途切れず止む事の無い雨が、俺と彼女の間に、ずっと。

 俺はどうすればいいのかわからなかった。
 このまま泣き崩れればいいのか? それとも、ヒカリに対して土下座でもなんでもして、許しを請い、謝りたおせばいいのか?
 多分、俺が今更何をどうしようと、何も変わらない。
 ヒカリは死んだ。
 そして、それも俺に殺された。
 でも、そんな記憶は俺には一切なかった。
 ヒカリと山崎が俺と幼馴染同士だったなんて記憶は、欠片も存在しないのだ。
 それなのに、ヒカリを殺した記憶なんて微塵も思い出せないのに、俺が殺したのだと確信してしまう。
 それは、あの事故を見せられた時から、右手にずっと違和感を覚えていたからだ。まるで、生温いものがずっとへばりついているみたいだった。
 いや、確かにあるのだ。存在しないし、目で見る事は出来ないが、何かがそこにある。
 温かで、人肌のぬくもりさえ感じる、でも、決して優しくはない何かが。
「なあ、ヒカリ?」
「……なんですか?」
 彼女は確かに先程まで泣いていたはずなのに、もう元の声音を取り戻していた。
「神様って何がしたいんだろうな?」
「……」
「死んだ筈の人間を、再び蘇らして、結局なにがしたいのか全然わかんねーよ」
「神様なんていませんよ。私は死にましたけど、そんな存在を見ませんでしたから」
 ――あと。
「私は……蘇ってなんかいませんよ」
 蘇ってない? そんな訳あるか!
 俺はヒカリの肩を思いっきり掴んだ。
「でも! こうして触れる。会話だってできる。これが蘇ってないのならなんだって言うんだよ!」
「……痛いですよ」
「痛さだって感じてるじゃないかよ!」
「感じてるから、何なんですか? 痛さを感じてるなら、その人は人間なんですか?」
 掴んでいたはずの肩は……ヒカリの体は、一瞬にしてなくなった。
 そして、また俺のすぐそばに現れた。
「こんな、一瞬であなたの目の前から姿を消せるのが人間なんて呼ばれる生き物ですか? 違いますよね? こんなのはこんなのは、化け物」
「化け物なんかじゃない!」
 化け物なんかじゃ決して、ない。
「徹さんだって、そう思ったから、逃げたくせに。私から、逃げたくせに……。今更そんなことを言うなんてふざけてるんですか?」
「残念ながら俺は、普通の、しょうもない、ただの人間なんだよ。怖いときは……逃げるさ」
「だったら、何で、何でまた私の前に姿を現すんですか? まだ私が怖いくせに……。そのまま逃げ続けてくれたら、どんなによかったか」
「だって、逃げ続けてたら、もう一度向かい合わないでいたら、ヒカリはいつの間にか消えるんだろ?」
「そうですよ。それが正しいんですよ。死んだ人間なんて消えて当然なんです」
「じゃあ、今すぐ消えてみせろよ! 俺の目の前からいなくなれよ!」
「っ!」
「ごめん。でもさ、出来ないだろ、そんなこと。だって、お前はさ、人なんだから」
「違う! 私は化け物なんです。だって、だって、皆にそう言われました」
「皆って誰だよ」
「この近くにいる幽霊たちは、私達のことを化け物扱いしますよ。私達がすみれちゃんのお家の人と勘違いしているんでしょうね。それに、すみれちゃんも。あと、お父さんも」
「お前のお父さんは、どこに行ったんだ?」
「どこか遠い所に行きました。当たり前ですよね。この土地でお母さんが死んで、私もお父さんの記憶から消えたんだから。だから、私は最後にお父さんに会ったんです」
 ――でも、でも。
「でも、お父さんは、覚えてなくて、私のこと何も覚えてなくて……」
 ヒカリが……泣いている。
「徹さんも、私から逃げて行くんです。離れて行くんです!」
 だから、俺は泣いている女の子の涙を止めたかった。
「もう逃げないよ」
「もう、嘘つかないでください」
「それに、お前が逃がしてくれないだろ?」
 俺は持っていたビニール傘をヒカリに見せた。
「このビニール傘さ、あの黒い傘だろ?」
「えっ?」
「おかしいと思ってたんだよ。俺のお袋さ、ビニール傘が極端に嫌いでさ。資源の無駄遣いだから買うなってうるさいのなんのって。だから、家から出る時お袋にこの傘を渡されたとき驚いたんだよ。でもさ、お袋は多分この傘をビニール傘と意識していなかったんじゃないかって。
あの笑みは、ヒカリにこの傘を返してやれっていう感じだったと思うんだよ」
「……」
「俺がヒカリを捜している間、お前はずっと近くにいたんだな。そして全部見てたんだな」
「私は、私は……」
「もう俺は逃げない。自分のした過ちから、絶対に。だから、ヒカリも逃げないでくれ! 俺と向き合ってくれっ! 頼むからっ!」
「うっうう」
「今度こそ、お前を助ける! そして、何もかも受け入れる!」
 雨は相変わらず止む気配がない。でも、いつかは止むんだろう。
 でも俺たちはそれまで待てないんだ。
 無防備に濡れたくなんかないんだ。
 だから、俺は少女に向けて少女の傘を差す。これが少女の体になってるなんて俺は信じない。
 だって、目の前の少女は確かに泣いてるから。
 こんなに弱くて、か細い体の女の子が、化け物な訳がない。
 俺は抱きしめる。壊れてしまわないように。繊細なガラス細工を両手で包み込むように。
 この雨から、俺はヒカリを守りたいと強く思った。

 6「幼馴染み」

 その視線に気付いたのは、雨があがってからだった。
 横断歩道の向かいに、人影が見えた。
 ――すみれ、だった。
 俺の幼馴染は俺たちに冷たい視線を送っていた。
 横目でヒカリを見ると、大して驚いた素振りも見せずにすみれの方を見ていた。
 おそらくヒカリはずっと前から、すみれがこの場にいたのを知っていたんだろう。
 でなければ、こんなに物怖じしない反応が、ヒカリから見れるわけがなかった。
 しばらくの間、俺たちはお互いを監視し合っていた。
 本来あってはならないはずの緊張感が俺の中に芽生えた。
 ヒカリに、ではない。すみれに、だ。
 そして、俺はすみれが次に出る行動がなぜか予想出来た。
 それは、すみれが笑ったからだった。
 いつもの、不細工な笑顔ではない、本当に綺麗な優しい笑顔だった。
 こんなすみれは俺は知らない。知らない筈だった。
 でも、知っていた。知らない筈がなかった。
 あの時のすみれだ。

「……えっ」
 気付いたときには、すみれは目と鼻の先にいた。そして、すみれは俺を目で捉えると、両目を閉じて俺にさらに近づこうとしてくる。自分と他者にあるパーソナルスペースに侵入してくる。その先にある答えを俺は瞬時に理解した。
 でも、今更遅い。もう到底間に合わない。
 すみれの暴走を止めることは誰にも不可能だった。
「やめてください」
 たった一人の例外を除いては。
 俺の口から伝わる感触は、ヒカリの手の甲だった。そして、すみれの唇には、ヒカリの手の平が。確かに壁となって存在していた。
 すみれは、暫くすると、ゆっくりと俺たちから距離をとった。
「ヒカリさん、あなたは今しがた何をしたのかわかってるんですか?」
 落ち着いた声ですみれはヒカリに質問をした。それをヒカリは、
「……本当、何やってるんでしょうね」
「あなたと話しても、無駄のようですね。……徹」
「……」
「行くぞ」
「行くってどこに? それに今俺に何をしようとしたんだ?」
 俺はすみれの背中に向けて言葉を投げかける。
「帰るんだ」
 一つめの質問は答えてくれたが、二つめは無視される。
「……帰れるわけないじゃないか」
「徹の親御さんだって今頃心配している」
 ズキンッと胸が痛んだ。
「私だって随分心配した。だから、もう帰ろう」
「……帰らない」
「……何で?」
「ヒカリをここに置いて帰れるわけないだろ」
「……」
「家族にもすみれにも心配をかけたのは悪いと思っている。でも、心配する相手がもう一人いてもいいじゃないか」
「……」
「何で誰もヒカリを心配しない。ここに居るのに。お前にもちゃんと見えてるのに。なあ、何でだよ、すみれ!」
 すみれはようやく、俺と向き合ってくれた。でも、そこには一欠片の優しさも垣間みることはなかった。

「死人のことを誰が心配するんだ?」

 足はすぐに動いた。俺はすみれの前に立ち、手をあげようと……。
 軽い音が周囲に響く。そして、誰かが倒れる音も。
「えっ」
 俺は何が起きたのかわからずに、まぬけな声を出した。
 女の子をぶったのは、女の子だった。
「私は……死人じゃありません」
「違いますよ。あなたは、ヒカリさんは、もう死んでるんです。そして、死んだ人が生きている人の邪魔をしちゃ駄目なんです」
「……」
「だから、もう私達の目の前に現れないでください」
「……くっ」
「お願いします」
「ふざけないでください!」
 ヒカリは本気で怒っていた。
「じゃあ何で消したんですか? 死人として扱って欲しかったら、なんで私の、私の記憶を徹さんから……世界から消したんですか?」
「徹が悲しむからです」
 すみれは俺を見た。その顔はあの時、俺を助けてくれたすみれの顔だった。
「悲しむ顔を見たくないと思った。もう私には、徹しかいないから」
「私は……ここにいますよ」
「死んだ人は、私には……」
 そこまで言うとすみれは開いていた口を固く閉ざした。まるで、その先を絶対に言わないとでも言わんばかりに。
 でも。
『食料にしかならないからな』
 その声は唐突に俺の中に入ってきた。
 この音が耳から聞こえるのではなく、脳に直接響く感覚を俺は知っていた。そして、それが出来る奴がこの場にいることも。
 すみれは自分の鞄から一本の道具を取り出す。そして……。
「黙れ」
 取り出した『ナイフ』に向かって、低い声で威嚇していた。これ以上何か話したらこの場で壊すとでも言わんばかりに。しかし……。
『フン。壊すなら壊すがいい。しかし、この私を壊せばお前の空腹を処理するものなど誰もいない。生憎幽霊達はこの場にいない。そうなったらもう……あのテラーの少女を喰うしかなくなる。あの少年の前で」
「うるさいっ」 
『別に私を喰らってもいいぞ。まあ、結果的に少年の目には、お前の本当の姿が見えるだろうがな』
「黙れ、黙れ」
『知っているぞ。もう随分と魂を喰らっていないこと。腹が減って仕方がないのだろう』
「……っ」
『何を迷う必要がある。どこに疑問を抱く余地がある。お前等は今までもそうしてきたはずだ。ずっとそうしてきただろ。腹が空いたら食い物を喰らい。闇雲に弱者をいたぶり続けてきただろ。でも、間違ってはいないさ。それが自然の摂理だ。それがお前等の生き方だろう。吸魂師にとって、いや、吸魂鬼、鬼にとって食料が魂なのだろう』
「っう……言う……な」
 ――カランッ。
 すみれは持っていたナイフを地面へと落とした。
『……私は不思議だよ。木藤すみれ。何の感情もなく魂を貪り続けていたお前が、ここまで苦悩するとはな』
 ――本当に不思議だよ。
『この人間はお前にとって特別なのだな……』
 地面に落ちていたナイフは、独りでに宙に浮いた。
 そして。
『お前が何もしなのなら……。私が……私であるために、彼の命を頂くとしよう』
 その言葉を俺達の意識に届いたと同時に、鋭利な刃物はまっすぐにこちらに向かって来た。
 狙いは、俺だった。
「徹っ!」
「徹さんっ!」
 二人の女の子の声が俺の鼓膜に届くが、遅かった。
「ぐぁっ」
 俺の胸はナイフの刃物によって、深々と貫かれる。そして鮮血が俺の胸から飛び出し、俺は痛さと驚きで苦渋の声をあげる。もう誰の目にも助からないことが明白の重体になっていた。
 ……脳裏によぎるイメージではそうなるはずだった。
「……痛くない」
 驚いたことにまったく痛さを感じなかった。反射的に閉じていた双方の瞼を開ける。
 すると……驚いた。
「僕は猛烈に痛いよ。徹君」
 俺の前に山崎和義が立っていた。俺を守るように、そこに立っていたんだ。
「『ナイフ』さんに刺されるのはこれで二回目ですね」
『お前は何をしているのかわかっているのか?』
「わかっていますよ。僕は『ナイフ』さんの獲物に手を出している……」
『その行為がどんな風になるのかも予想しているのか?』
「もちろん。これはテラーにとっての重大な裏切り行為ですよね」
『そうだ。もうお前に味方するものは誰もいないぞ』
「居ますよ」
 そう言うと山崎は俺や、ヒカリ、すみれに向かって、
「ちゃんとここに」
 笑顔を向けた。
 その笑いはいつもの嘲笑や軽い感じでは無く、ちゃんとまともに向けてくれたものだった。俺たちのことをまるごと信頼してくれているものだった。
『ふっ、ふふふ、青臭いな。滑稽だ。お前達は何もわかっていない。仲間や友達なんぞ、理解出来ないものに直面すればすぐに手の平を返したように裏切るのだ。我が身可愛さ故にな』
「……そうかもな」
 俺は『ナイフ』の言葉を聞いてそう発言した。
「理解出来ないものが突然表れたら怖いもんな。そりゃ普通に逃げるさ。幽霊とか宇宙人とか怪物なんか表れたら、自分の身を守るために、な」
『ふん。『ライター』の言う味方はとんだ臆病者だな。こんなのが仲間か?』
 ああ、俺は臆病者。チキンさ。でも。
「でも、それはそいつのことを理解出来てないだけだ。なにもかも全部引っ括めて、そいつのことわかることが出来たら、怖くなくなる。例えそいつらが人間じゃなくても、ちゃんと友達になれる」
『わかっていない。わかっていないぞ! 曽野川徹っ! お前はただ現実を直視出来ていないだけだ。私達は人間ではないのだ。人間はお前だけなんだぞ。正常な人間なら……』
「正常な人間なんてこの世にいるかよ! 完璧で何も間違えない人間なんてこの世にいるかよ! ここにいるのは間違ってばかりの人間だけだ! あんなも、俺も……」
『馬鹿が……』
 ――後悔しかしないぞ……。
 たぶん『ナイフ』の言う事は正しいのだろう。間違っているのは俺たちだ。正常な人間なら死を受け入れて、未来に生きる。それが、そいつの為にもなるし、俺の為にも繋がる。こんなのはただの時間稼ぎだ。それでも。
「どっちみち後悔するなら、自分が納得する方を選びたいんだよ」
 少なくとも、俺は。
『そうか……。だが、覚悟しておけ。次に会う時は……』
 ――お前は、私の、敵だ。
 そう言うと、ナイフは虚空へと消えて行った。

「ふう」
 俺は争っていた女子二人を交互に見た。そしてついでにあの男も。
「少しだけ、昔の記憶を見た」
 すみれだけが肩を震わせたが、あとの二人は俺の言葉を黙って聞いていた。
「……俺たち、幼馴染みだったんだな。なのに……俺は皆のこと忘れてて……。ごめん。本当にごめん」
 俺はすみれを見る。
「すみれ……」
「徹……」
「お前が俺の……ヒカリや山崎との記憶を消したの……見たよ」
 何を怯えた目で見てるんだこいつは。俺は深呼吸をして、それから。
「ありがとう」
 と言った。
「っ! な、何で?」
 俺の発言にすみれは驚いていた。
「わ、私は徹の大事な記憶を消してしまったんだぞ! 恨んでもらっていい! それぐらいの覚悟でやったんだ! 感謝なんてしないでくれ! さっきも、また徹から大切な記憶を奪おうとしたんだ!」
「でも、俺のためにやってくれたんだろう? 二人から憎まれるのを覚悟で……」
「そ……それは」
「随分……お前にも、重いものを背負わせてしまってたんだな」
「わ、私は」
「俺は、もう大丈夫だよ。全部のことを受け入れるって決めたから」
 ――だから、だから。
「お前の苦しみを……俺にも半分持たせてくれ」
「徹……ぅ」
 俺の名前を言うと、唯一の記憶が残っている幼馴染みは俺に抱きついてきた。
「本当は嘘が下手くそなのに、よく一年間も頑張ってくれたな……」
「ぅう、ううぅう」
 俺は知っている。今は泣いているけれど、いざと言う時は、誰よりも優しくて、かっこいいこの少女を。
 だから、今は、ゆっくりと抱きしめる。今はかっこわるい少女でいいからな。

 しばらくたって、すみれが落ち着いたのを確認してから、俺は言った。
「自己紹介しないか?」
「「えっ?」」「ぷっ」
「俺の名前は曽野川徹。人間だ」
 二人の女の子は素っ頓狂な顔をしていた。まるで意図を掴めていないみたいに。
「僕の名前は山崎和義。ナイフに二度心臓を刺されても平気な、人間」
「ぷっ」
 今度は俺が吹いた。山崎の顔をみるとニヤニヤしている。
「わ、」
 今度はヒカリが言う番だ。
「私の名前は戸野村ヒカリ。テラーと呼ばれる現実に干渉し存在することができる、幽霊です」
 幽霊……か。
「逆だろ?」
「えっ……」
「ヒカリ、お前は人間だろ」
「……あっ」
 そう言うと、ヒカリは。
「言い直してもいいですか?」
 と言った。
「いいよ」
「私の名前は戸野村ヒカリ。死んだ人が見えたり、壁をすり抜けたり、宙を浮いたり、幽霊になる超能力を持つ、人間です!」
 俺はすみれの方を向いて、
「お前は、誰だ?」
 と聞いた。
「君は誰?」
「すみれちゃん……」
「私は……私は……」
 すみれは苦悩していた。そして自分の紹介をした。
「私は木藤すみれだ。吸魂師……いや吸魂鬼と呼ぶ魂を糧とする、鬼だ。私は私だけが皆と違う。人間じゃない。根本的に違う」
 違うよ、すみれ。お前が俺たちと違う存在な訳があるか。俺たち、幼馴染みだろ?
「角はあるのか?」
 俺は鬼の特徴である角の有無をすみれに確認した。
「えっ? いや無いが……」
 それなら、決まりだ。いや、角があっても無くてもかわらないけどな。
「じゃあ、鬼じゃない」
「そ、そんな訳があるか! 私は鬼だ。化け物なんだよ!」
「お前が鬼と言い張るなら、俺も人間じゃない」
「なっ」
「だって、お前に魂を食べられて、それにヒカリにまで命を食べられた。そんな奴、端から見れば人間じゃない。でも俺は人間だって言う。意地でもな」
「私は、私は……」
「すみれ、お前は……誰だ?」
「……」
 すみれは観念したようだった。俺の意図に気付かない幼馴染みなんていない。そこには少しの笑顔があった。
「私は木藤すみれ。魂を食べる……人間だ」
 ――元に戻ろうとしている。いや、戻すんだ。そして、ここから始めるんだ。
「あー、なんだか女の子同士でピリピリしてるなー」
 山崎は俺に目配せする。いやウインクだった。返事をする代わりに親指を立てて笑顔で返した。もちろん親指の方向は地面を向いている。
「ヒカリ、すみれ」
 肝心の二人に俺は言う。大事な、もしかしたら俺とヒカリの間以上に大事な事を、言った。
「喧嘩をしたら、仲直りしよう」
 そうだ、これは喧嘩だ。喧嘩にしなくちゃいけない。
「徹……ヒカリさんとの問題は喧嘩じゃ」
「喧嘩だよ。俺にはそうとしか思えない」
「徹さん。それは許せたらの話じゃないんですか?」
「二人はお互いを許せないのか?」
「私は……」
 すみれは本当は許したいし、許されたいのだろう。わかるよ。
 多分、ヒカリや山崎を狙ったのも、俺に近づいたからだ。
 すみれが本気で家の仕事をやっていたら、二人はこの世に居ないだろうから。
「私は、許せません」
 ヒカリは答える。はっきりと。
「だって私にとって、とーくんや他の人との記憶はかけがえの無いものですから。それをすみれちゃんに奪われたことは、今までの時間を無かったことにされたのと同じことです。私が生きていなかったことと、同じ事です」
「そうか……」
 考えてみればそうなのだろう。すみれの行いは俺のためにしたこととはいえ、ヒカリにとったら、自分の存在がこの世から消されたのと同じことなのだから。誰もヒカリを覚えていないのだから。
 ふと、山崎を見る。奴も少し何か思うところがあるようだ。
「許せない。でも」
 不意に彼女は笑顔になる。
「みんなが今の歳の二倍生きれたら、許します」
 時間は取り戻せない。過去は覆せない。過去にあったことを無かったことにするのは、過去を侮辱する行為だ。過去があるから今があるし、その先がある。
 昔を変えることは出来ないが、今から過去をなぞることは出来る。
 新しく作って行くことはできる。
「だから、すみれちゃん」
「……」
「私ともう一度、友達になってくれませんか? もう一度、やり直してくれませんか? 私は、私は、とーくんを守って、自分だけが悪者になろうとする……。そんな本当はすごく優しいすみれちゃんが、やっぱり……大好きだから!」
「ヒカリ……さん」
 すみれは、小さな、本当に小さな声で「はい」と言った。そしてヒカリが差し出した手を取って、泣き崩れた。
 その場面に、既視感を覚えた。もう無くしてしまった記憶だけど、でも、多分その場面はあったんだ。

「『黒傘』さん大人だねー」
 『黒傘』さん、か。次はこいつだな。
「山崎、もうその呼び方やめろよ」
「えっ?」
「『黒傘』さんなんて言うなよ。『黒傘』なんて言う女の子は、もうここにはいない。いるのは戸野村ヒカリっていうただの女の子だけだ」
「徹君、さっきは人間だって言ったけど、僕らは生前の生き物とは違う存在なんだ。だから、名前なんてものは本来捨てなくちゃいけない。それがテラーのルールなんだよ。人のルールとはまた違う、ね。ルールがないと……駄目なんだよ」
「そうか。じゃあ、俺もお前のこと『ライター』君とでも言えばいいのか?」
「お好きにどうぞ」
「絶対呼ばないからな。だって、お前にはさっき自分が言った名前があるだろう。山崎和義って言うちんけな名前が」
「ちんけって、何気に酷いね。もう少しで下ネタ発言だし」
「わかってるさ。これが俺の単なるわがままだって。でも、頼むから、そうしてくれよ」
 俺は頭を思い切り下げた。友達に。親友に。
「りょーかい」
 そう言葉を聞き、山崎の方へと目を向ける。奴は何だか照れているようだった。
「おう。わかってくれたか」
「でも、一つだけ条件があるよ」
「条件?」
「僕のことも下の名前で呼んでくれないかい?」
「……」
「徹君、今の間はなんだい?」
「いや、男に自分の名前を呼んで欲しいとか言われると、妙な悪寒が走ってさ」
「奇遇だね、僕もだよ。言ってしまったことを後悔しかしてないよ」
「まあ、呼ぶしかないなら……『和義』」
「……やっぱりなしで」
「は、はぁー? お前が呼べって言ったんだろ?」
「いやー、やっぱりキモいかなーって」
「キモいだと……。意地でも言うからな!」
 
 こうして、俺たちは仲直りをした。四人が四人でいるために。変わってしまったものを変わらないものにするために。もう一度、ここから始める為に。

 7「restart」

 あの鈴による、過去の体験を見せられた日から一週間ばかりが経った。
 俺達四人は森で虫を取っていた。いや、主に女性陣がだが……。
「すみれちゃん、そっちにでかいアゲハ蝶が行きました!」
「任せてください、ヒカリさん!」
 そう言うと、すみれは見事なフットワークで、蝶を虫網で捕まえていた。
 キャー、と言う女の子特有の歓声が飛び交っている。
「女子は楽しそうだな……」
(そうだね〜)
 男性陣は、木陰で休憩中だ。まあ、虫取りが始まってからずっとだが。そして、終わるまで。
「お前も取りに行けば?」
(いやー、無理でしょ。僕、虫嫌いだし)
「あー、だから、か」
 だからお前は俺の胸ポケットにいるんだな。あー、今すぐその小さなナリを踏みつぶしてやりたい。
(いや〜、徹君。それ、リアルに死んじゃうから)
「いやいや、この暑さで、今俺はリアルに死ねるぞ。大体、お前は何で人間の姿じゃないんだよ。不公平だろ。お前も苦しめよ」
(うわ、自分の苦しみを人に押し付けるのはどうかと思うな。人間性疑うよ)
「それぐらい暑いんだよ。大体、女性陣が異常なんだよ。なんであいつらあんなに元気なんだ。人間の力を超えてるからか?」
(単純に楽しいからじゃない? 虫好きには夏の森ってたまらないらしいから)
 夏の森が楽しい? こんな虫だらけのデンジャラスゾーンが、か。虫除けスプレーを体中にかけまくったのに、蚊取り線香も焚いているのに、今日だけで蚊に五カ所も刺されたのに、か。
 あいつらは最近の女の子じゃない。最先端のブームに乗った女の子だ。一生訪れることのないブームのな。
「はー、暑い」
 シャツを掴み扇ぐようにしながら、風を胸に取り入れる。暑い。無駄な努力だったらしい。
(ご愁傷様)
「いや、本当に、苦しみを分かち合ってください。和義様」
(う〜ん、ちょっと今は無理かな)
「だから、何でだよ?」
(最近、『魂の力』を使い過ぎたせいで、そのストックが無くなりかけてるんだよね)
「え?」
(だから、節命しないと。節命」
「何、節電みたいに言ってるんだよ……。それより、その、大丈夫なのか?」
(う〜ん、まあ一応はね。そろそろ補充しないといけないけど)
「そう、か」
 俺は考えていることを言う。
「その、俺に手伝えることがあれば言えよ。協力するからさ」
(えー、徹君には、もうヒカリさんがいるし、これ以上はさすがに……)
 俺は胸ポケットにあるライターをぐりぐりと握り締めた。
「和義、お前とそんな仲になることは一生ねーよ」
(痛い痛い痛っい! 本気で痛いから止めてください! 僕が悪かったです! すみませんでした!)
「俺が言いたいのは……」
(わかってるよ。最近の徹君は冗談が通じないからなー。本当に困るよー)
「おい……」
(……アイムソーリー。ヒゲソーリー)
「はあぁ……。もう勝手にしろ」
(うん。本当の話、手伝わなくていいから。一人でやるほうが効率いいし)
「そうか……。あ」
 俺は疑問に思っていたことを聞いてみることにした。
「お前達テラーって一回の……その、キスで、どれぐらいの寿命を得ることが出来るんだ?」
(んー、そうだねー。まあ、どれくらいでも得ることは可能なんだよ)
「調節が出来るってことか?」
(うん、まあ最初の内はやり方がわからないから、結構苦労するけどね。人によっては、その人の命まるごと得ることもできるし、その逆で、一時間分くらいしか得ることが出来ないこともある。まあ、段々とコツがわかってきたら、命の一日分くらいの量がわかってくるんだよ。それを目安にしてる感じかな)
「へー」
(まあ、その一日分の目安が出来ないと駄目なんだけどね)
「何で?」
(人間の命を得るんだから、その影響が命を吸い出された人に来ない訳がないんだよ。大体の一日分の寿命を僕が貰ったら、その反動で、失った人間は二、三時間ほどは眠っちゃうんだよ。
一日分でそれだから、少し多めに十日分程摂っちゃったら、その人間は二、三日は眠っちゃう。だから、下手に何回も命を頂くことは出来ない。人間側に怪しまれたら駄目なんだ。だから慎重に、確実に行動しなくちゃいけない。そのために、主に寝ている人から奪うことが基本だね)
「奪ったら寝る……ああ、なるほど」
 だから、俺がヒカリから寿命を奪われたとき、いつの間にか自分の部屋に居たのか。命を奪われた影響で眠ってしまったんだ。そして、ヒカリが俺の家まで俺を運んだ。そういうことか……。
 でも……。
「一回で一年間の命は奪い過ぎだろ……」
(何?)
「独り言だ。それよりもそんな面倒臭いことがあるのか。大変だろ?」
(まあ、何でも慣れだよ。人間関係でも仕事でも慣れたらどうってことないでしょ。それと同じだよ。霊体である自分にも慣れたらどうってことない)
「そんなものか……。それで、命を吸われた人間側に害はないのか?」
(あー、それは、まあ大丈夫。健康的な人はちょっと暫く体がだるく感じられる程度だね。人間側が何か病気を患っていたら、進行は早くなるけど。あ、もちろん病気の人の命なんて奪わないよ。リスクが高いからね)
「そうか……。それを聞いて安心した」
(ん?)
「何でも無い。でも命って人間だけじゃないだろ。その、植物や、動物とかは駄目なのか?」
(んー、まあ命を貰うことは出来るけど、やっぱり量が少ないね。根本的に)
「そうなのか」
(まあ、人間の生命力はやっぱり高いよ。そして、女の子は最高だね! 特に夏服の制服姿がいいね!)
「……ああ、なるほど」
(何で制服ってあんなにいいものなのかな? やっぱり日本は変態が多いのかな? で、なにがなるほど?)
「うちの高校。屋上での熱中症被害の原因は……お前だったか」
(ん〜、何のことかな?)
「とぼけるなよ。確かに今年の夏は例年より暑い。熱中症になる生徒が居てもおかしくない。でも、屋上という一つの場所で、何人もの生徒が倒れるなんてのは不自然だ」
(ははは……バレたね)
 本当に……この男は。あ……だったら俺が寝ていた原因も。
「それじゃあ、あの時もお前のせいで放課後まで寝てたのか……。くそ、何で男なんかと……。あのときのすみれの蹴りは痛かったし、散々だ……」
(え?)
「何が『え?』なんだよ。よく男にも出来るよな。信じられねー」
(出来るって……何のこと?)
「だから……き……接吻だよ! 俺が放課後まで倒れてた原因はお前なんだろ?」
(へ?)
「まったく、俺の寿命まで奪いやがって……」
「徹君のなんか奪ってないよ」
「嘘つけ」
(いや、本当に。僕、女の子限定って決めてるし)
「……じゃあ、何で俺はあの日屋上で倒れてたんだ」
(……まあ、自分で考えるしかないよね)
 え……何その意味深な発言。
 ……まさか。
「もしかして……ただの熱中症? え、俺の体やばいのか……。健康状態じゃなくなってるのか」
(何でだろうね〜。ふふ)
 和義は何がそんなに可笑しいのか含み笑いをしていた。こいつ、俺を見て楽しんでやがる。   
 なんて薄情な奴なんだ。これだから女のケツをすぐに追いかける奴は信用できないんだ。
 俺はひたすらに和義の情の無さに辟易としたからだろう。次の和義の言葉が聞こえなかった。
(まあ、あの子は純情だってことだよ。ずっと君の側にいたい程にね)
「何か言ったか?」
(何にもー)

 あんまりにも蚊に刺されまくるものだから、俺は休憩を止め、虫取りに参加……する訳もなく、近所を散歩することにした。もちろん、和義は置いて来た。
 散歩と言っても、ほんの十分ほどにするつもりだった。近くのコンビニの店内で暫しの間だけ涼んで、アイスでも買って帰る予定だった。
 しかし、ちょっとした予定が加わった。
 なぜなら、森からコンビニまでの道中に、俺とすみれが通う高校があり、そこの門前の花壇に美しい花が咲き誇っていたからだ。
「へー。夏休みなのによく手入れされてるな」
 一応、花屋の息子である俺は少しばかりの知識は持ち合わせているので、その手入れのされ方に感心してしまった。まあ、親父やお袋と比べたら、月とスッポン程違いはあるが。
 少しの間、花を見つめていると、門から人が現れた。
 その人は、水が入っているだろうじょうろを持っていた。
 俺は驚いた。
 なぜなら、我らが担任の鬼の富竹雄治先生だったからだ。
「おや、曽野川君」
「……あ、どーも」
「こんにちは」
 あいさつを交わすと、富竹先生はじょうろに入った水を花が植えてあるプランターにやっていく。
 その水やりをする姿はとても自然で、見る限りじゃ適量をちゃんとわかっているようだった。俺が意外そうにその光景を見つめていたからだろう。
「私が水やりをする姿は意外ですか?」
 と、富竹先生が聞いてきた。
「いや……あの、はい」
 温厚そうに見えるのは外見だけで、内面はヤクザみたいな人だと思っていたから。
「正直でよろしい」
「こういう仕事は学校の用務員とか、校長先生あたりがやると思っていたので」
「まあ、時々、こうやってやらせてもらってるんですよ」
「そうなんですか」
「本当は昼の時間帯じゃなくて朝にやらなければならなかったんですがね」
「もしかして……朝の水やりを」
「やってません。当番の用務員が食あたりになったらしくてね。代わりに私がやってるんですよ。流石にこんな炎天下の中、朝、昼、水をやらないとなると可哀相でね」
「なるほど……」
 水やりをする富竹先生を見ていると、何と言うか、ただのどこにでもいるおっさんにしか見えなかった。
 これが、鬼の富竹か……。なんだろう、この親しみ深い感じ。いつもなら何かが目に入り、生徒達をビビらすのだが……。
 あ、そうか……。
「今日は左手の革手袋、嵌めてないんですね」
「ああ、さっき誤って水を思い切りかけてしまってね」
 そう言うと、ポケットから問題の革手袋を出し、すぐ近くの門の上に乗せた。
「それは……災難ですね」
 俺は悟られずに、しかし、注意深く先生の左手の小指があるのかをみた。
 あった。よかった。
 だが、先生が左手に持っていたじょうろを右手に持ち替えた時、驚くべきものを見てしまった。
「その手は……」
 見ると、左手にはくっきりと刃物で切られた跡があった。
「ああ、昔、ちょっとね。恋人と喧嘩したときに……」
「恋人……ですか」
「そう。この傷を生徒に見せると皆怖がっちゃうでしょ。授業にも支障が出るし。だから普段は見せないように、こうして革手袋で隠してるんですよ」
「……ああ、なるほど」
「はは、本当は堂々としていたいんですけどね。夏場は汗をかいちゃうから毎日洗濯しなくちゃいけませんし、細かい作業にも一苦労ですよ。まあ、でも仮にも教師。そこはちゃんとしないといけませんから」
「大変ですね……」
「そうですね。でももう慣れましたけどね」
 富竹先生は優しい眼差しで自分の左手を見て、傷跡をさすった。
「曽野川君」
「はい?」
「この傷、どう思います?」
「……」
 今までの俺なら、質問の意図が解らず、狼狽えていただろう。でも、今の俺なら答えられる。
「なんか、その、言うことおかしいかもしれませんけど……とても……かっこいいです!」
 それは、その傷を見せても堂々と誇らしげに立っている富竹先生を見れば明白だった。
「でしょ?」
 そう言うと、富竹先生は、じょうろの水を足す為にまた学校内へ入って行った。傷を隠す革手袋を残して……。
「忘れてました」
「はは……」
 意外と天然なのかもしれない。いい意味で。
「おっと、この傷のこと内緒ですよ。男同士の約束です」
「……了解です」
 俺は別れの挨拶を交わすと、またコンビニの道中へと戻った。
 暫くして、俺はふとしたことに気付いた。
「ナイフの傷、か」
 富竹先生の左手の傷は、すみれが所持していたあのナイフによって切られたものじゃないのか。もし、そうならば、あのナイフは富竹先生を……。
「……考え過ぎだな」
 たしか、あのナイフの声は男の声だったし。富竹先生はあの傷を恋人につけられたと言った。だから、絶対に関係はない。
「それよりも……暑い」
 これは、本格的にやばいな。俺は今頭から考えていたことを無理矢理追い出し、道を急いだ。

「生き返る……」
 クーラーのきいた店内は本当に涼しく、まさにここは地上に舞い降りたオアシスだった。地元にあるただのコンビニが、こんな汗だく状態で入ると楽園に思えてしまう。人間って安いな。
「さて……」
 ひとしきり涼んだ後、アイスコーナーへと足を運ぶ。
 なになに、レンジで溶かすアイスか。コンビニもすごいことを考えるようになったな。
 え、高過ぎだろ。こんなの誰も買わないって。
 もっと安くて、懐かしいもの……。
「あ……」

(遅いよー、徹君)
「悪い、悪い。ちょっと、道草くってた」
 俺はビニール袋を拡げて、アイスを取り出した。
「僕はー、何にしようかな〜」
 和義はこんな時にだけ、人間の姿になりやがる。まったく現金な奴だ。
「アイスですか!」
「おお、徹にしては気がきくではないか!」
 女性陣もさすがに遊び疲れたのか、俺たちの方へ集まってきた。
「ふーん」
 和義はビニール袋にあるアイスを見て、俺を見た。
「なんだよ……」
 相変わらずニヤニヤするのが好きな奴だ。そんなにこのチョイスは駄目か?
「何があるのかなー。……あ」
「ヒカリさん? どうしたんですか? ……う」
 二人も俺が買って来たアイスを見て、各々違った反応を見せた。
 和義は相変わらず、ニヤニヤしている。ヒカリは、少し驚いた顔を。すみれは……お前ふざけるなぶち殺すぞ的な感じだな。
「やっぱり……か」
「何か思い出したんですか?」
 ヒカリは少しの期待を込めた声音で俺に聞いた。
「いや、そういうわけじゃない。記憶は何も思い出せない。でも……」
 俺はすみれを見る。先程より表情はましになったが、相変わらずブスッと不貞腐れたままだ。
「すみれがこのアイス、大っ嫌いだったのを思い出して。それでも何回もすみれと、このアイスを買ってた記憶があって。嫌いなのに何で何回も買ってたんだろうかって、思って。もしかしたら、この四人で毎回食べてたんじゃないかな、と」
 俺が買ったのは、「おみくじアイス」と呼ばれるアイスだった。
 このアイスは、味はソーダ味しかなく、よくある普通のアイスキャンデーだ。でもアイスを食べ終わり棒を見てみると、自分の今日の運勢が書かれているという代物だ。
 運勢の種類は「大吉」「中吉」「小吉」「吉」「凶」「大凶」と六種類ある。
 で、なぜすみれがこのアイスを嫌いかというと……いつも悪い運勢だったからだ。
「私は……食べないぞ。結果が分かってるんだからな」
「すみれちゃん……久しぶりに食べてみませんか?」
「ヒカリさん……でも……」
 さすがに毎回毎回「大凶」が出るアイスを食べたくはないか。どうやらチョイスを失敗したみたいだ。
 そして、俺が全員分のアイスを捨ててくると言おうとした時だ。
「すみれさん、怖いんだ」
 と言う、和義のおちょくる声が聞こえた。その声に反応してか、すみれは和義を睨みつける。
「誰が、いつ、怖いと言ったんだ!」
「お、おい……」
「だって結果が出てもいないのに、そんな逃げ腰なんでしょ。怖がってる証拠だよ」
「和義君……すみれちゃんを挑発しないであげて……。食べたくないものは食べなくても……」
「誰も食べたくないなんて言ってないです!」
 ……いや、言ったよ! ついさっき! はっきりと! まあ、余計なことを言ったら殴られるのがオチだから言わないけど。
「私は食べる。ちゃんと、このアイスと向き合う。挑戦する!」
 そしてすみれはヒカリをキツい目で睨みつけた。まるで今から勝負をするみたいに……。
 いやいや、たかが運試しのアイス一本でそんな本気にならんでも……。
 俺はビニール袋を両手でつり下げて各々がとっていく。
「ふんっ!」「そうですね……これにします」「僕こーれ」
 最後の一本が俺になった。
 俺たちは、せーの、で食べ出した。
 アイスキャンデーは何だかわからない議論をしていたせいで、かなり溶けていた。
 俺はすぐにアイスを平らげ、自分の結果を見た。
『吉』
 うん、微妙。
 次に和義が俺にニンマリと結果を教える。
『大吉』
 あー、こいつ本当にムカつくな。
 その次はヒカリだった。
『小吉』
 うん、普通だな。しかし何故だがヒカリは満足そうだ。
「何がそんなに嬉しいんだ?」
「ふふふ。だって小吉ってかわいい感じがしません?」
 ああ、そういや、こいつ小さいものが好きだったな。……アリとか。
 そして、すみれの結果は……。
「……」
「……すみれ、どうした?」
「また、悪い結果だったんじゃない」
「和義君! そんな言い方は……」
「フ」
 ふ? 不? 腐? ああ、負か……。これは後処理が大変だと俺が覚悟した時だった。
「フッフフフッ。へ、ハハハハッ。ヘハハハハァア!」
 すみれが、壊れてしまった。
 まあ、それは冗談なのだが……。
 すみれは俺たちの前に堂々とおみくじの結果が書かれたアイスの棒を出してきた。
 その結果は。
『中吉』
 だった。
「勝ったぁああああああぁっ!」
 そして大声で勝ちを宣言したのだ。俺はすみれが何に勝ったのか全然わからなかった。
 ……自分自身にか?
 その日の帰り道。すみれの喜び様は本当にすごかった。終始会話をしていても笑いっぱなしだった。
 その笑いっぱなしだった笑顔も、帰り道も終盤に差し掛かると少しずつ普通の顔に戻って行く。でも、なんだかやっぱり楽しそうだ。目も口も、優しい笑顔だから。
 いつも怒った顔しか見てない俺にとって、そんなすみれは本当に珍しく、ついポロリと本音を呟いてしまった。
「かわいいな……」
「え……」
 案の定隣を歩いていたすみれにだけ聞かれた。
 ヒカリと和義は少し先を歩いていて、俺の呟いた言葉は聞こえなかったみたいだ。
「あー、その、なんだ……、まあ、いいかもな」
「そ、そうか……」
 なんで俺が照れてるんだよ。それにお前も頬を赤くするなよ。調子が崩れるだろうが。
 俺が何か言葉を発しようとしても、中々次の話題が出てこない。
 焦っていると……すみれが話しかけて来た。
「私、初めてなんだ」
「え……何が?」
「ヒカリさんに、勝ったの……」
 ヒカリに勝った? ああ! おみくじで勝った宣言をしたのは、ヒカリに勝ったってことか。
「そんなにうれしかったのか?」
「うん、すごく、な。一度もあの人に勝ったことがないからな……」
「そうなのか?」
「でも、今日は勝てた。今日だけは私が勝った」
 そう言うと、すみれは俺を真剣な眼差しで見つめて来た。
「だから、今なら、今だからこそ言う」
「何を……」
 いや、俺は知っていた。すみれが俺に何を伝えたいのか。何を思っているのか。
 本当は全部、わかっていた。

「私は徹が好きだ」

 すみれとは幼馴染で居たかった。この居心地のいい関係をずっと保ちたいと思っていた。
 だから、いつもすみれが真剣な話をしようとしても適当にはぐらかすのを、俺はずっとやってきた。今までそうしてきたはずだった。
 でも、今日はなぜだかそんな気分にならなかった。
 それは、おみくじアイスですみれに『中吉』が出たからの影響ではない。
 あんなものはただのきっかけに過ぎない。
 多分、俺が逃げないで向き合おうと思ったのは、色んな隠し事を知ったからだ。
 ヒカリや、すみれや、和義。そして、俺の中にある隠しているもの。
 それを知ってしまったからだ。
 だから、俺はもう逃げない。はぐらかして、安易な言葉で終わらせたりしない。ちゃんとしたものを今の俺は持ってるから。
「俺は……」
「徹。私はまだ話したいことがあるんだ。全部聞いて欲しい」
 ――そして。
「ヒカリさんにも聞いて欲しいです!」
 すみれは前方にいるヒカリに声を掛けた。ヒカリは俺たちを見た。隣の男も。
「私は徹の記憶を、ヒカリさんと和義の思い出を消した。それは徹が悲しむからだと言った。徹の悲しむ顔を見たくないからだ、と。でもそれが全部の理由じゃない」
 ――今から最低なことを言う。
「私は、ヒカリさんとの記憶を徹の中から消し去りたかった。全部。木っ端微塵に。一つの欠片も残さずに。そして、徹の気持ちを私に向けさせようとした。徹が好きだったから。自力じゃ絶対に徹を振り向かせることは無理だと思っていたから。だから、ヒカリさんが死んだとき、悲しかったけど、少しだけ嬉しかった。チャンスが来たと思った。これで徹を手に入れることができると思った」
「すみれちゃん……あなたは……」
 ヒカリは何かお茶を濁す言い方を考えていたようだけど、すぐにやめた。
「最低ですね」
「知ってます」
「そんなこと言ったら、徹さんにもマイナスの印象しか与えられないのに……。何で今言ったんですか?」
「徹には……」
 その顔は何も迷っていない強い顔だった。正直で、真っ直ぐで、曲がったことが大嫌いな、俺の良く知っている、かっこいいすみれだった。
「徹には、私の全部を知ってもらって、その上で、好きになって欲しいと思ったから」
 ――だから。
「言いました。隠し事はやっぱり嫌ですから」
「そう……ですか」
 少し小さい声でヒカリは「強いね……」と言ったのが聞こえた。
「徹?」
「ああ……」
「返事は……夏祭りの時に聞かせて」
「わかった」
「あと、二人きりで行って欲しい。それぐらいいいだろ? 徹は、夏休み間は私に付き合うんだから……」
「うん」
「じゃあ、また」
 すみれは一人で帰って行った。
 その後ろ姿は、本当に女なのかと思う程、威風堂々としていて……そして。
 綺麗だった。
 それから、すみれとは夏祭りの日まで会うことはなかった。

 俺は日課になっている朝の水やりを終えると、夏休み中、もう一つの日課になったある場所へ足を運んだ。
 それは、赤い傘を持った少女に出会った場所である、あの古びた神社だった。
 少女には、何度足を運んでも出会うことはなかった。
 そして、今日も……結果は変わらないらしい。
「まったく、どこに、いるのかなーっと」
 俺はいつも持っている金の鈴だったものを宙に放り投げた。
 すると、落ちてくるはずだった鈴は落ちてr来ず、代わりに……。
「えっ?」
 あの少女が落ちて来た。
 俺は咄嗟の機転で落ちて来た少女を抱きかかえた。重力で重いものだと思っていたが。殆ど重さを感じなかった。
「あ……どうも」
 ぎこちなくなりながらも、あいさつをする。
「危ない……」
「あ、すみません」
「用は……何?」
「あの……それを返そうと」
 そう言いながら、俺は赤い傘の少女の手にすっぽりと収まった鈴を指差す。
「律儀……」
「いや、借りたままなのは嫌だったので」
「……そう……ありがとう……」
「いえ……」
「そして……ありがとう」
「え……」
「あの子を……救ってくれて……」
「ヒカリ、ですか?」
「……うん」
「……俺は」
 本当に救えたんだろうか?
「救えたはず……。その証拠に……」
「え……?」
 見ると、着物姿の女の子はゆっくりと透けていっていた。
「私の存在意義が達成されかけてるから……」
「存在意義、ですか」
「……もうあんまり時間がないみたい」
 そう彼女は言うと、さきほど返した鈴を俺の手に置いた。鈴は、どこか年季を感じさせるほどくすんで見えた。
「これには、もう力はないけど……」
 過去を見せる力……か。
「……持っていて欲しい。その……」
「ヒカリに……ですよね?」
 そう言うと、言葉足らずの少女は少し驚いたみたいだ。
「なんとなく……そんな気がしてたんで」
「そう……」
「これで、あいつ、あの傘が形見なんて言わなくて済みますね」
「……本音を言うと」
「はい……」
「あなたのこと、恨んでた……」
「……」
「あの子を助けられなかったあなたを……殺したいほどに……」
「……」
「都合良く何もかも忘れたあなたを……本当に……」
「……」
「筋違いだけど……」
「……そんなこと」
「本当に悪いのは、赤信号なのに運転していたトラックの運転手。それと、そのトラックに気付かなかった、不注意なあの子」
「……」
「あなたは、助けようとしてくれたのに……」
「……」
「ごめんなさい。……でも、こればかりは、どうしようもないみたい」
「それでいいと思います」
「そう……ありがとう」
「いえ……」
「そういえば……」
「はい?」
「あの子を殺したトラックの運転手のこと……気になる?」
 それは俺が一番誰かに聞きたかったことだった。でも、誰にも聞けないことだった。
 なぜなら、俺の中でも、ヒカリの中でも、ヒカリを殺したのは俺なのだから。
 そのことを聞くのは、自分の罪から逃げようとしているみたいで嫌だったのだ。
 でも、本当は、すごく。
「気に……なります」
「そう。あの運転手は……もうこの世にいない」
「死んだんですか? もしかしてヒカリとの事故のときに」
「違う……。殺されたの」
「殺された? 誰に?」
「言ってもいいの? 後悔しない? 覚悟がいるよ」
 少女の声は、少しずつ今までの声とは違う声音になっていった。
 蛹が蝶にかえるように。少女が女になるように。
「教えて、ください」

 ――君の友達の。
「山崎和義君が、殺した」

「……え?」
「そして、トラックの運転手の名前は」

 ――山崎重信。和義君のお父さん。

「じゃあ、行くね」
「……ヒカリに会わなくていいんですか? あと、あなたの旦那さんにも」
「もう昔に、さよならは言ったから」
「でも……」
「それにまた会えるよ」
「え?」
「たぶん、ううん、きっと」
「……そうですか」
 この人が言うんだから、そうなのかもしれない。
 過去を知る力があるのだから……未来を視ることもできるのかもしれない。
「最後に言いたいことがあるの」
「何ですか?」
「あの子は最後の最後で臆病な子。だから、あなたが、偽物じゃない本物のあの子を見つけてあげて」
 偽物じゃない本物。
「ありがとうございます。あの……お元気で」
 その人は、ヒカリと同じような笑い方をした。
「またね、曽野川徹君」
「はい……ヒカリのお母さん」
 女の人は輝いた光に包まれて、消えた。

 夏祭り。
 すみれは、名前通りの色の浴衣を着ていて、それがとても綺麗だった。
 大事な、これからも大事な幼馴染みと、二人だけの時間を過ごした。
 たこ焼きを食べた。金魚すくいをした。そして、花火を見る。
 最後の花火が散って祭りは終わった。
 そして、俺はすみれに告白の返事をした。
 ちゃんと考えた上での返事だ。
 すみれもちゃんと受け止めてくれた。
 そして……受け止めた上で、すみれは……。
「私は、徹を諦めるつもりはない。例え死ぬまで徹が私を好きにならなくても、私は徹を好きで居続ける。そして、そして……絶対に、私に振り向むいてもらうから!」
 と、大粒の涙を乗せながら宣言してきたのだ。
 本当に、俺の幼馴染みはかっこいい。
 胸が熱くなった。胸が熱くなったのは夏のせいじゃない。
 春でも、秋でも、冬でも、きっと俺は今のように胸を焦がしたに違いないから。
 そして、全部が終わり、帰ろうとしたとき。

 ――ヒューーーー……パーンッ。

 本当に最後の火の花は、前と長い間隔を経てから、咲いた。
「綺麗だな……徹」
「ああ……」
 ああ、そうだ。木藤すみれが、俺の幼馴染みが、とても、とても……。
 綺麗だったんだ。

 四人だった。四人で遊んだ。四人で楽しんだ。四人で笑った。
 そこには、仲の良い四人組しかいなかった。
 笑い合う日々を、四人で、共有したんだ。

 そして、あの日がやってきた。
 一年前、少女が死んだ日。
 全てが始まり、全てが終わった場所。
 長い夏の休みが終わり、新しい毎日が始まろうとしていた。

「はぁ、はぁ、また、ここか?」
「……徹さん」
「何でまたいなくなろうとする?」
「居なくなってなんかいませんよ」
 居なくなってたじゃないか。学校から帰ったらお前は居なかったじゃないか。
「じゃあ、何で、この日に、またこの場所へ来るんだ?」
「……理由が、必要ですか?」
「当たり前だろ」
「そう……ですね」
 そう言うと、ヒカリは歩道から車道へと飛び出した。
「っな!」
 そして、見計らったかのように、車が来て……。
 ぶつかった。
 でも、ぶつからなかった。
 なぜなら……。
「こうゆう事……ですよ」
 ヒカリは初めて会った時のように、半透明化していた。
「お前……」
「私……消えるんです」
「な、なんでだよ! 意味わかんねーよ!」
 俺が混乱しているのに、ヒカリは楽しそうに笑うのだ。
「だって、私もう死んでるんですよ。死んだ人間がこんな所に居ちゃいけないんです」
「お前は、ここにいるじゃないか!」
「魂は生きていても、体は死んでます」
「それは……でも、お前」
「幽霊になれる超能力を持った、女の子なんかじゃないんですよ」
 ヒカリは自分で言ったことを否定する。何もかも嘘であったように。何もかも幻であったかのように。
 そして、彼女の目には、命の色がなかった。
「私は……ただの死に損ないです」
「そんな言い方するな! お前は消えたい訳じゃないんだろ!」
「はい、消えたくないですよ」
「だったら」
「でも、私の存在意義はもうないんです」
「存在意義?」
「はい」
 ――私ね……願ったんです。
「誰に?」
「神様に。私をもう一度、生き返らせてくださいって。こんな結末は嫌だって。もう一度……」
 ――徹さんと、すみれちゃんと、和義くんと、笑い合いたいって! 
「そしたら、神様が私に体を与えてくれたんです。そして、それは……叶う事が出来ました」
 叶うことが出来たのか? 本当に?
「だから、もう、駄目なんです。思い残すことがないんです」
「そんな……そんなのって」
「私、満足しちゃったんです。その証拠に……」
 ――ほら。
「綺麗に消えようとしてます」
 眩いほどの光は彼女を包み込んでいた。
 その光は見たことがあった。幻想的で現実では絶対にこんな現象は起こらない。
 それは本当に神が彼女を迎えに来たように感じられた。

「さよなら」
「ヒカリ……」
 さよなら。
 その言葉を言うと彼女は消えてしまう、そんな気がする。
 それでもヒカリが本当に満足して、思い残すことがないのなら……言わなければならない。
 ヒカリが本来居るべき場所へ帰さなければならない。
 それが、正しいことなのだから。
 この状況で誰しもが考えられる、最善の答えだ。
 だから……。
 苦しくても、辛くても、今にも泣き崩れそうになっても。
 言わなくては。
 別れの言葉を、笑って。
「さよなら、ヒカリ」
 多分俺は上手く笑えたと思う。彼女の顔は嬉しそうに笑っていたから。
「さよなら、とーくん」
 そう言いながら、ヒカリは手をこちらに差し出した。
 俺は彼女の意図を汲み取り、こちらもヒカリに向けて手を出す。
 それは、最後の握手だった。そして、綺麗に別れるための最後の交わりだった。
 俺はヒカリの半透明になった手に、触れた。
 もう幽霊化してる手に、触れることが出来た。
 消えようとしている手には、感触があった。
 生きている、と思った。
 突然疑問が生まれる。
 なぜ触れることが出来るんだ?
 もう消えようとしているのに。自分は人間じゃないと言っているのに。テラーであり続ける存在意義が消えたのに。
 瞬間、俺はわかった。
 ヒカリが隠していること。本当にして欲しい事。
 そして、他の誰でもない、俺自身がしたいことが、わかった。
 もう俺は間違えない。
 今度こそ、俺は少女の手を。

 ――こちら側に引き寄せた。
 
 そして勢いよく抱き寄せて、顔を近づけ。
 唇を無理矢理奪った。
 多分下手くそなキスだ。歯と歯が思い切りぶつかったから。
 それども真摯にやり続ける。俺の勝手な行為を、邪魔する手は無かったから。
 そして、俺はイメージする。俺の中にある様々な感情や思い出を、ヒカリの中に注ぎ込むことを。
 息を止めたまました行為は、肺が酸素を吸うことを欲したときに終わった。
 俺とヒカリは暫くの間、何も話さず、息を整えた。
 そして、頭の整理をした俺はまた息を吸い込む。そして、大きな声で、はっきりと。

「好きだ!」

 告白した。
「ぇ……」
「ヒカリが好きだ。だから俺の側に居てくれ」
「し、死んだ女の子を好きになってどうするんですか? もう、私は過去なんです。徹さんと同じ歩幅で歩くことは出来ないんですよ!」
「ヒカリは俺のこと、好きじゃないのか?」
「そ、そんな問題じゃないんです! 徹さんは幸せにならないと駄目なんです! ちゃんと生きているんだから!」
「俺は……幸せにならなくてもいいよ」
「え?」
「俺は、ヒカリと居たい。例えお前と歩く歩幅が違っても、お前と歩く道が短くても、その道が茨の道でも。一緒に居られる方法があるなら、その道を選びたい」
「……馬鹿なんですか?」
「残念ながら生まれたときから、な」
「私は……徹さんの幸せを願っているんです! あなたの幸せが、私の求めている唯一のことだから!」
「俺の幸せはお前の幸せだよ。ヒカリが本当に笑っていることが、俺の幸せだ」
「なんで……なんで……」
「返事を聞かせて欲しい」

「ヒカリは俺のこと、どう思ってる?」

「好きに決まってるじゃないですか!」

「あなたが私を想う気持ちがミジンコぐらいだとすると」
 俺の想い小っさ!
「私があなたを想う気持ちは、宇宙の果ての果ての果てまであるんですよ!」
 ヒカリの想い大っき! つか重っ!
「まず、徹さんの顔が私は大好きです。その普通でどこにでもいる素朴な優しい顔立ちが。少し癖っ毛なところも、肌の感触も。時々、どこか遠い所を見ているような危ない感じも。まだまだ外見や、雰囲気で好きな所は言えますが、次は内面を……」
「いやいや、もういいって」
「よくありません! 私は、私は、死んでからもあなたとずっと一緒に居たんですから」
「え?」
「死んでからもあなたと一緒の時を過ごしていたんですから。片時も離れることなく! ストーカーよりもずっと近く、あなたを見ていたんです。それに……それに……」
「……」
「私は寝ている徹さんにほぼ毎日キスをしていたんですから! あなたの命を削ってしまう行為だと知っていても!」
「……ああ、一年間って、なるほど」
 小まめに摂取してたんだな。
「私の存在している目的が達成されても、消えないのは……あなたと生きていたいから! あなたと一緒の時間をちゃんと過ごしたい。それが、私の次の存在意義になってしまったからです!」
「そうか」
「間違っているのはわかってるんです。正しくないのも知ってます。でも、それでも、この気持ちは確かにここにあって、それが真実だと確信してるから」
「うん」
「私と……戸野村ヒカリと……」
「うん」
「相合傘してください!」
 ――へ?
「その……嬉しいときとか、つらいときとか一緒に共有して、生きて下さいという私なりの告白……です」
「ぷっ」
「な、なんで笑うんですか?」
「いや、だって、相合傘って、面白くて……」
「私も自分で言って失敗しました。もっと普通に言えばよかった……」
 途端にシュンと項垂れてしまったヒカリが、とても愛おしく思えた。
「いいよ」
「えっ」
 だから、ヒカリの持っている黒い傘を俺は奪い、そして俺は、右手で柄を持ち、俺たちの上に拡げた。
 もちろん今は雨は降っていない。気持ちいいぐらいの快晴だ。
「俺は、曽野川徹は……」
 まっすぐに、少女を見つめる。あの日届かなかった純粋な想いが、今なら届く気がする。
「この黒い傘と……」
 右手で持った黒い傘を見つめる。少女の血で染め上げられ様々な感情を持った傘を。
「戸野村ヒカリを……」
 ヒカリを見つめる。ただの一人の女の子を。
「愛します」
 俺たちは、抱き合い、キスをして、笑い合った。
 黒い傘は俺たちを優しく包み込み、闇は共犯者となった俺たちに光を与えてくれた。
「わ……」
「うそ……」
 漆黒の黒い傘がまばゆい光で包み込まれる。そして、闇は光で溶かされ、俺たちを遮るものはなくなった。
 透明となった傘は、生きている光を俺たちに浴びせてくれた。
 偽物じゃない、ここにあるのは、ここに触れているのは、ここに……感じられるものは。
 本物の、ヒカリだ。

 8「エピローグ」

 ――ジリリリリリッ。

 目覚まし時計の音が部屋中に鳴り響く。その音を俺は勢いよく止め、そしてもう一度静寂な空間で惰眠を貪ろうとする。
 しかし……。
(徹君……いい加減起きなよ)
「う〜ん」
(遅刻するよ)
「放っとけ……」
 妨害する奴がここに一人いた。
(は〜、これだからゆとりは……)
「お前も……ゆとりだろうが」
(僕はもう死んでるから関係がないんだよ)
 何を誇らしげに……。
(そういや……いつから目覚まし時計なんて置いてるの? 昔は無かったよね)
「ん……。そういや、いつからだっけ」
 記憶の糸をたぐり寄せる。昔の俺は早寝早起きだった。今も昔も店に置いてある花の水やりは俺の仕事だし、朝は強いはずだった。だから、ずっと目覚まし時計は必要なかったんだ。
 いつからだろうか……こんなに朝が弱くなったのは。
 ああ、そうか……一年前か。
 あいつらの常套手段は寝ているときだもんな。
 だから、こんなにも朝が弱くなったんだ。こんなにも眠いんだ。
 そうか、あいつが……。
 姿を見せられなかったから、あいつが……置いたんだ。
「で……今何時?」
 和義は俺の質問に呆れ果てたみたいに、大きな溜め息をついた。
 和義の言った時刻。それを聞いた俺はすぐさま目を開く。
 いつものように、日課の花の水やりなど時間的に無理で、軽めの朝食はとれず、顔は十秒だけ洗い、歯もすぐさま磨き、髪の毛はくせ毛のままで、コンタクトレンズは慌ててつけ、鞄を逆さまに持ち、ついでにごついライターも仕方なく持ち、「い、行ってくる」と言って、家を出ようとした。
 しかし。
「徹ちゃん!」
 愛らしい我が家のマスコットキャラクター……ではなく、小さなプリティーモンスター……でもない、そう、彼女は……。
「お話があります!」
 俺のただのお母さんです。
「あ、朝の水やり出来なくてごめん! 寝坊した! でも、急いでるんだけど! 用事があるなら帰ってから……ぐえっ」
 息子の襟を思いっきり掴むお母さんです。首が……息が……新鮮な空気を……。
「昨日、あなたの部屋を掃除していたら……」
 そう言うと、お袋は可愛いエプロンから何かを取り出す。
 タバコの箱だった。
「これは……これは……どういうことですか!」
「え……あ……それは、俺のじゃなく」
「徹ちゃんの部屋になぜか灰皿もありました……。何本もタバコの吸い殻がありました……」
 おい、和義!
 奴は陽気な調子で口笛を吹いている。
「それに、私の嫌いなビニール傘も買ってるし……」
「げっ」
 それも見つかったか……。
「朝っぱらから、どうしたんだ?」
 店に出ていた親父もこちらに顔を出した。
 もうこれは……逃げるしかない!
「えっと、帰ってから、な! 帰ってからちゃんと言うから。だから、だから、いい子にして待ってて。それじゃっ!」
「あ、徹ちゃん! こらっ!」
「かおりん、何があったの? かおりん?」
「徹ちゃんが……家の家訓を全部破って、不良になりました」

 そして、すみれと待ち合わせしている、いつもの交差点にやって来た。
「徹っ! 遅いぞ、何やってたんだ!」
「すまん、すみれ! こいつのせいで遅れた!」
(痛い、痛い、痛い、本気で痛い!)
「和義……その痛みより、後で俺がくらう痛みの方が大きいんだぞ!」
(そんなの知らないよ! 勝手に受ければいいんだよ)
「お、お前、最近調子に乗りやがって!」
「はぁ、まったく、これだから男は……」
 すみれは俺からライターを取り上げた。
「あ、すみれ!」
(すみれさん……今なら、好きにな……。えっ)
 そして、すみれは道の隅にある下水溝まで移動し、ライターをその真上で持ったまま。
「和義……落とされたくなかったら。黙れ」
 と言った。
(はい……すみません)
 何だろう……やっぱりすみれは、いや、すみれさんはとても恐ろしい方だ。
 そして一陣の風が吹いた。
 それは、懐かしい……いや、もう聞き慣れた声を一緒に運んで来た。

「徹さん!」

 とーくん、という昔の呼び方ではなく、今の呼び方で俺の名前を呼ぶ。
 その人は、俺たちと真向かいの歩道にいた。
 彼女は真っ黒い髪を風になびかせていた。
 その髪には、昔には無かった髪飾りある。
 金色の小さな鈴。
 少し汚れているけれど、彼女に似合っていた。
 そして、いつもの黒い服を着ていた。
 この前、その服は替えられないのかと質問したことがある。
 どうやら無理らしい。
 死んだときの服しか着ることは出来ないと寂しそうに笑っていた。
 ――でも、この服はお母さんの服だから。それに最後にお父さんと笑うことが出来た思い出の服だから。
 好きですよ。と彼女は言っていた。
 信号はまだ赤なので、道路越しに彼女に言葉を届ける。
「ヒカリ! 勝手に先に行くなよ!」
「いいじゃないですか、だってカエデの葉がこんなに綺麗なんですよ」
 そう言うと、ヒカリは楽しそうに笑っていた。
 喜びを体現するように、紅葉が降り注ぐ中をくるくると舞っていた。
 紅葉じゃなく、ヒカリが綺麗だった。
 秋。様々な花が咲き、多くの果実や実りあるものが結実する季節。
 信号は青になった。
 そして、俺は彼女の元へと行く。
 しっかりと根を張る植物のように、地面に足を強く踏みしめる。
 自分の姿を見て貰いたい花のように、堂々と俺は彼女に近づく。
 生命の源である太陽に向かって、ヒカリに向かって言う。

「「おはようさん!」」

「なっ!」
 ヒカリを見ると、してやったりと言う顔をしていた。
 すみれはやれやれと言った感じで、でも楽しそうに。
 和義は姿は見えないが、多分、ニヤついているに違いない。
 俺の何の代わり映えの無い一日は、こうして始まる。
 そう、代わり映えのない一日だ。
 黒い傘を持った少女は、もういない。
 ここにいるのは、ただのビニール傘を持った女の子だ。

 黒傘の少女は、もういない。
                                       
                                       おわり
南 洸助
2015年03月16日(月) 05時38分40秒 公開
■この作品の著作権は南 洸助さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
「黒い傘」というキーワードから何か作ってみたいと思い、書きました。
長いですが、よろしくお願いします。

この作品の感想をお寄せください。
感想記事の投稿は現在ありません。

お名前(必須)
E-Mail(任意)
メッセージ
評価(必須)       削除用パス    Cookie 



<<戻る
感想管理PASSWORD
作品編集PASSWORD   編集 削除