きみはオフィーリアになれない
episode 1 安達凛子(前編)

     1

 両手が荷物でふさがっているが、なんとか手をひねってバッグからキーケースを取り出す。その姿勢のまま、キーをドアノブに刺そうとしたが、さすがに無理だとすぐにあきらめて、バッグを地面にそっと降ろす。左手に持ったキーケースを右手に持ち替えて、がちゃりとドアを開けた。
 玄関に入ると、うだるような暑さが部屋に充満しているのがわかった。初夏とはいえ、換気をしていないマンションの一室にこもる熱気はすさまじく、部屋にあがるのが躊躇われた。ため息をついて靴を脱いだとき、かかとのあたりが少し痛いことに気が付いた。もしかしたら、靴擦れをしているのかもしれない。靴を下駄箱に仕舞うのもわずらわしく、玄関に脱ぎすてて部屋にあがりこんだ。
 バッグをダイニングの椅子に置き、エアコンのスイッチを入れる。そのまま奥のソファに直行し、倒れるように深く腰掛ける。喪服を早く脱がないと皺になってしまうが、そんなことはすぐにどうでもよくなった。シャワーを浴びなければならないが、一度ソファに身を預けてしまうと、立ち上がる気力もなくなってしまった。感情をぶつける先がわからず、クッションを抱きしめたが、部屋にはまだ冷気が行き渡っていないせいで、ひどく暑い。気をまぎらわすためにテレビでもつけようかと思ったが、リモコンがダイニングテーブルの上にあるのを確認して、手が届かないとわかると、すぐにあきらめた。
 もう何もする気力が残っていない。
 今日は先輩の葬式だった。凛子のみっつ年上の二十八歳で、大学時代の先輩だった。自分の身内以外の葬式には行ったことがなく、ネットで調べてあたふたと準備をした。祖父がなくなったときに購入した喪服があったので服はそれでもよかったが、たとえば、友人の葬式に参列するとき、香典にはいくら包めばいいのかわからなかった。焼香ってそもそもどうやってやるんだったっけ? それに、式場では、ご親族になんて言葉をかければいいんだろう?
 そうやって、死者を悼むのとは関係のない作業に没頭していると、先輩の死という現実を少し忘れることができて、気持ちが楽になった。葬儀がバタバタしていて全く落ち着きがないのは、もしかすると、煩雑な事務手続きを行うことで、死者のことを一瞬でも忘れられる、そういう効果を狙っているのかもしれない。
 そして今に至る。葬儀中のことは、あまりよく覚えていない。かつての大学の友人たちが参列していたが、みんな突然の友人の死をどう受け止めればいいのかわからない様子で、顔を合わせても、おう、とか、久しぶり、とかいった曖昧な挨拶を互いに交わすだけで、そこが普段みんながたむろしていた研究室ではなく、着ている服もその頃のものではなく、当然だが全体的に似通った黒っぽい服装で、それが場にあっているにも関わらずなぜか場違いに感じて、急にみんながコスプレをしているような、そんな妙な感覚にとらわれて、まさかそれが先輩の葬式に参列するためだけに集まっただなんてとてもじゃないが信じられなかったし、おそらくみんなも似たような感想を持っているはずで、みんなの顔をみているときだけはそれを忘れることができて、なんとなく、心に温かいものが感じられた。
 先輩とは同じ大学に通っていたが、一緒に授業を受けていたわけではない。そもそも凛子は文学部、先輩は工学部で学部も違ったし、学年がみっつも離れていた。
 知り合ったきっかけは合コンか何かだったような気がするがあまりよくは覚えていない。それよりも、同じ大学のキャンパス内なのに、普段自分が行き来している文系の校舎とは違う空間に足を踏み入れたとき、たったそれだけのことで、異世界に迷い込んだような、そんな大げさな感覚がした。会いたいと思った人に二度会うのは、最初に出会うことよりもずっと難しい。研究室は自由な雰囲気で、決して開放的な感じではなかったが、部外者の凛子が迷い込んできてもごく普通に受け入れてくれ、それぞれが研究しているテーマを紹介してくれたりした。はじめはわかりやすい言葉でていねいに説明してくれるのだが、熱を帯びてくるとだんだん早口になり、凛子は何を言っているのか途中からわからなくなったが、そんなふうに何か好きなことに没頭している人たちを見ているのは楽しかった。
 先輩は工学部で画像処理関係のテーマを研究していて、やがてその研究室で修士過程にすすんだ。先輩には同じ工学部に所属している美奈さんという彼女がいて、大学にいるあいだふたりはずっと付き合っていた。それでいて凛子とは週に何度かメールをやり取りをしていて、休みの日には一緒にお茶をしたりすることもあったのだが、卒業と同時に先輩はその彼女と結婚をした。大学を卒業すると先輩は駅前の一等地の片隅にオフィスを構えるITベンチャーに勤め始め、昼も夜もなく雑事を含めたあらゆる仕事をこなし、新婚生活ではハネムーンにも行かなかったらしい。
 だが卒業したあとも、先輩との関係は友人関係としての平行線を保ったまま、なんとなく続いていた。とはいっても、休みが偶然重なった日に一緒にランチをしたりする程度だったが、それでも大学の研究室の雑然とした雰囲気とはちがっていて、すこし大人な、煌びやかな時間に感じられた。先輩は多忙なのか、ときおり目の下に隈をつくったりもしていたが、それでも、凛子のために時間を割いてくれた。せっかく会っても話すのは大学時代の仲間内のどうでもいい噂話ばかりだったが、凛子にとっては、それだけでもかけがえのない時間だった。
 凛子の自分の部屋の中を眺めまわす。ソファの正面に小振りな液晶テレビがあり、その脇の棚の上を大きめの水槽が占領している。凛子の住む2LDKには不釣り合いな大きさだが、これは先輩から譲ってもらったもので、用具も一式、先輩から貰ったものだ。コポコポというエアーポンプの音が部屋に響いているが、これは常に部屋に流れるBGMのようなもので、常に流れているためもはや音が流れているという感覚すらない。きっとエアーポンプの電源を落とせば、堪え難いほどの静寂が部屋を包みこむだろう。
 水槽の中では水草に見え隠れする位置に白い魚が死んだようにうずくまっている。この魚を先輩から貰った。なんと言う魚なのかは知らない。どこか熱帯のほうで泳いでいた魚らしいが、全体的に白くてわずかに赤みがかったその目はすぐにこの部屋に馴染んだ。なぜこれを先輩がくれたのかはわからないし、今となっては知る由もない。あるとき、一緒に食事をしていたとき、何かのついで、という感じで、思い出したように、熱帯魚を預かってくれないか、と請われたのだった。先輩が何か頼み事をしてくるのは非常に珍しいことだったが、凛子はなんの疑問ももたずにそれを受け入れた。友人からもらったものなんだけど、あまり世話をしてやる時間がなくて、少しの期間でいいから、お願い。そう請われて。
 凛子のイメージにぴったりだ、と話した先輩のその言葉からかはわからないが、凛子はその魚を一目で気に入った。休みの日を合わせて、先輩が水槽と用具一式をもって凛子の部屋にはじめてきて、ひとつひとつ説明してくれた。ただ、エサは基本は水槽に生えている水草とコケだけで、特別にやる必要はないらしい。
 説明を受けながら、熱帯魚を飼ったことのない凛子はそんなものかと納得するしかなかった。そもそも、先輩が凛子に何かをお願いするということ自体が珍しく、自分の部屋に先輩が存在している緊張感で凛子は少しめまいがしてきて、疑問をはさむ余裕などなかった。
 いまも魚は水槽の中に沈んでいる。食べているところを見たことがなく、先輩から預かっている魚を死なせてしまうのではと焦ったが、魚はいつも変わらずに水槽の底のほうで静かに浮遊している。生きているのか死んでいるのかよくわからないが、しばらく見つめているとかすかに動いたりして、生きていることは確認できた。光沢のない純白のウロコをしていて、見つめていると、鏡を至近距離で見つめているような、不思議な気分になった。観賞用としてはあまりに無愛想だけれど、もともと無愛想な自分の部屋にはよく合う、と思った。しかし、こんなに手がかからないのならば、なぜ先輩はこの魚を自分に預けたんだろう、という疑問は残った。
 冷房が効いてきて凛子は身震いをした。リモコンに手を伸ばし、室温設定温度を少しだけ上げる。しばらく休んだおかげで少しだけ体力が回復してきた。先輩の葬儀場で、先輩の奥さんの美奈さんに会ったことを思い出していた。美奈さんは先輩と同じ研究室に所属していたが、仲間内ではあまり目立つ存在ではなく、いつも黙々と自分の作業に打ち込んでいて、仲間同士の集まりでは隅のほうで控えめに笑い、飲み会などでは店員と小さな声でみんなの注文のやり取りをする、そんな人だった。
 このたびは、御愁傷様でした。葬儀場であたふたと立ち回る美奈さんに対し、そんな間の抜けた言葉しかかけられなかった。美奈さんは、凛子ちゃん、少し痩せたんじゃない? と微笑んでくれた。やり取りはほんの一瞬しかなかったが、この薄い微笑みをもつ人は、これからどうやって生きていくのだろう、といったことを、不謹慎だと思いながらも、ぼんやりと考えた。
 気付くと凛子は立ち上がっていた。先ほどまでの重苦しい空気はいつの間にか消えていた。引き戸になっている大窓をあけて、ベランダに出る。瞬間、また熱気を感じたが、不思議にイヤな感じはしなかった。ベランダの柵にもたれかかり、ぼんやりと夜景を眺める。街を走る車の音が、ノイズのように暗闇に響きわたっている。
 先輩の死は事故死だった。少なくとも、警察からはそう聞かされている。雨の日に、バイクで制限速度を超えて暴走した結果、カーブを曲がりきれずにガードレールに激突したそうだ。ほぼ即死だったらしい。原因はよくわかっていない。そもそも、バイクは先輩自身のものではなかったそうだ。先輩がバイクに乗るのが趣味だったということも聞いたことがない。あまり詳細は聞かされていないが、凛子は、先輩は事故に巻き込まれたのだ、と凛子は思った。これは天災だ。先輩の死に顔は、葬式でも直視していない。あとから、事故のわりには綺麗な死に顔だったと一緒に参列していた知人に聞いたが、きっと、直前に復元されたものなのだろう、とそのときは感じた。そういうことを専門でやる人がいるということを、どこかで聞いたことがある。
 ベランダの柵にもたれかかり、暗闇の底を眺める。ここから飛び降りたら、どうなるだろう。地上七階のベランダから落ちたら、ただではすまないだろう。
 凛子は手すりを掴むと、台によじのぼるような動きで、柵の上に立った。普段は全く意識しない、ビル風のようなものが身体を駆け抜けた。あと少し、ほんの少し重心を前にずらすだけで、死ぬことができる。凛子は背中にぞくっとしたものを感じ、柵から降りた。全身から汗をかいていた。
 ここから落ちたら、綺麗な死に顔ではいられないだろうな、きっと。顔面はぐちゃぐちゃで、復元など到底できなくなるはずだ。
 顔が復元不可能なほど痛んでしまった場合は、どのようにして棺桶におさまるのだろう。
 でも、ひとつだけ言えることがある。ここで死んだら先輩に会える。だけど、ぐちゃぐちゃの顔のままで、どんなふうに先輩と会えばいいのかわからない、そんなことを考えた。私の顏も、誰かが復元してくれるのだろうか。
 ベランダから室内に戻る。テレビの脇でブルーの光を放っている、水槽に目をやる。
 この子に噛まれたら……と凛子は思った。
 この子に噛まれたら、きっと綺麗な死に顔でいられる。
 先輩がこの魚を連れてきた日の会話を凛子は思い出していた。あらかた説明が終わったあと、「あ、そうそう」と先輩は言った。「この子は毒があるから気をつけてね」
「え?」凛子は作業をしていた手をとめる。
「熱帯のほうの魚だから、弱いけど毒があるんだよ。でも大丈夫。普通にしてたら噛むことはないけど、素手では触らないようにして」
 この子には毒がある。
 凛子は水槽の中を凝視する。
 この子の毒でもし死ねたら、綺麗な死に顔でいられるだろう。
 まさか死ぬことはないはずだが、ずっと噛まれ続けたら、あるいは……。
 天国で先輩に会った時、恥ずかしくない顔でいられるだろうか。
 凛子はそっと手を水槽に近づける。
 水槽を上から覗き込む。
 袖もまくって、そのまま深く腕を水中に差し込む。
 水が袖の中にしみ込み、服がべったりと皮膚に張り付く感触がした。
 魚はぴくりともせず、水草の中でうずくまっている。凛子は短いため息をついた。
 手を抜こうとしたそのとき、魚が不意に動き、凛子の手首に噛み付いた。牙をむいたその顔は、今まで見せたことのないような凶暴な表情をしていた。魚の歯が手首に深く食い込んでいる。
 噛まれた……。
 歯から毒を流す魚などいるのだろうか。
 瞬間、凛子は反射的に手を抜き、魚を振り払おうとした。だが、手は動かない。水槽の中がまるでセメントで固められたように、重くなっているような感じがした。
 ひょっとすると、痺れているのかもしれない。
 しかし、ちょっと噛まれたぐらいで、そうなるものだろうか。
 呼吸が苦しくなってくるのを感じた。
 魚がどんな毒をもつのかは知らないが、熱帯のクモやカエルなどは、強い神経毒をもつと聞いたことがある。
 徐々に筋肉が麻痺し、呼吸が困難になる。腕は固められたように動かない。
 左手を水槽に突っ込み、魚を振り払おうと思ったが、すぐに全身が動かなくなった。魚の牙はまだ、手首に食い込んでいる。凛子は、ふと、身体から力が抜けていくのを感じた。
 水の中にいるような、そんな不思議な気分だった。準備運動なしでプールに飛び込んだときのような、氷水のように冷たい感触を全身に感じた。
 だんだん、呼吸ができなくなる。声もでない。凛子は視界が暗くなっていくのを感じた。

     2

 不意に睡眠のスイッチを切られたように、突然凛子は目を覚ました。何が起きたのか、状況がわからなかった。
 すぐに耳に例のコポコポという水槽の音が聞こえてきて、そうか、ここは自分の部屋か、と気付いた。自分の部屋の床にうつぶせになって倒れていた。エアコンの冷気がすぐに当たる場所に寝転がっていて、自分の背中に当たる風が冷たい。
 どのぐらい意識を失っていたのかわからない。もしかすると、かなり長いあいだ倒れていて、そのあいだずっと、エアコンの冷気にさらされていたのかもしれない。
 意識が正常に戻ると、信じられないものをみて、凛子は目を見開いた。
 ……知らない人間が、いる!
 瞬間、のけぞるように身をそらせた。
 自分の倒れている場所のすぐ隣に、自分と同じぐらいの背格好の女性がいた。
 あまりにも驚いて、声も出なかった。恐ろしい体験をしたときに、間髪入れずに大声を出す人がいるが、あれは嘘だ、そんなに唐突に声が出せるほど息が急に吸えるわけがないもの、と少し場違いなことを考えた。そうやって冷静さを保とうとしているのかもしれなかった。凛子はのけぞるだけでなく、立ち上がってその場を離れようとしたが、腰が抜けていてうまく立つ事ができず、中途半端に足に力が入り、そのまま背後にあるシェルフに激突した。そこで、まじまじとその女を見つめて、さらに驚いた。
 この人は……。
 『私』だ。
 紛れもなく自分自身がそこにいた。さっきまでの自分と同じく、うつぶせになって倒れていたが、顔を見れば、自分自身だということがわかった。何より、自分とまったく同じ服を着ている。
 これは……。この状況は、いったいなんだろう?
 凛子は立ち上がり、冷静に倒れている自分自身を見た。これが自分自身だとすれば、いまここに立っている自分は何なのか?
 自分が死んで、幽霊になってしまったことを考えた。さっき、ベランダのフェンスに立った瞬間、勢いあまって落下してしまったのだろうか。自分自身と見られる女にそっと近づいた。呼吸をしていて、顔色も悪くない。 
 これはまぎれもなくあたし自身だ、と凛子は思った。だが、そうなると、いまここにいる自分は何なのだろう? 幽霊……。幻覚……。ふと思い立って、凛子はダイニングの上にあるリモコンを手に取り、テレビをつけた。一瞬、信号を受信するための間があり、遅れて、砂嵐のような音が響いた。これは夢だ、と凛子は思った。あまりにも鮮明すぎるし、あまりにもリアルすぎるけれど、これは、夢だ。
 これが夢だとすると、それはそれで奇妙だな、と凛子は思った。夢で、現実と全く同じ部屋が出てくることは少ないからだ。間取りが違ったり、よくわからない空間と繋がっていたりして、現実とは微妙に違う。だから、そこにいる空間を夢だと実感できるのだ。
 この、いま自分が置かれている空間からすると、夢だと言われなければ、そうであることを実感できなかった。
 しばらく部屋を歩き回り、現実との相違点を探した。
 部屋の中にある家具、小物、細部に至るまで、自分の把握している部屋そのものだった。だが、水槽には魚がいなかった。魚がいないこと、そして、自分が二人いること、確認できる限り、違いはそれだけしかない。
 どうすれば夢から覚めるのだろう、と凛子は考えた。夢から覚める方法について考えたことなどない。そういえば、寝ることも、そして起きることも、毎日何気なくやっていることだけれど、どうやってそれをやっているのか、そんなことを考えたことはないな、と思った。どうしても覚められない夢があるとして、そこから現実世界に戻るにはどうしたらいいのか、そんな問題に自分が直面するなんて、考えたこともなかった。
 凛子は靴を履いて、自分の部屋を出た。靴を履き替える瞬間、サンダルにしようかと思ったが、着ている服に合う黒いパンプスにした。
 マンションの自分の部屋を出て、共用廊下に出た。いつも見ている景色と全く同じ景色が眼下に広がっていた。共用の廊下はマンションの外側になっていて、柵が設けられている。棟の中央にエレベーターがあり、凛子の部屋はエレベーターのすぐ横にあった。
 凛子のマンションのすぐ向かいに土手があり、そこを越えたところが川になっている。大きな川を渡す橋があって、遠くを自動車のヘッドライトが橋を渡っていくのが見える。凛子は柵に手を置き、その動きをじっと見つめた。遠くでクラクションの鳴る音と、そのさらに遠くに救急車のサイレンのような音が聞こえる。
 凛子はゆっくりと歩き出す。これが夢なら、いつ覚めるのだろう、と思った。逆に、夢でないなら、さっさと寝支度をして寝ないと、と思った。腕時計に目をやると、時刻は、二十二時をまわっていた。
 不意に誰かに見られているような感覚がして、凛子は振り向いた。だが、背後には誰もいない。遠くの車の音は相変わらずひっきりなしに聞こえてくるが、このあたりに人がいるような気配はない。エレベーターも、ずっと止まっているようだ。もう夜だから、エレベーターが動いていなくても不思議ではないが、それにしても静かすぎる、と思った。
 不意に、ぺた、ぺた、という足音が背後から聞こえた。エレベーターとは真逆の方角だ。共用廊下はまっすぐに伸びているから、音だけが聞こえて視界に入らない、ということはない。ドアが開くような音もしなかった。
 ぺた、ぺた、というサンダルか何かを履いているような、乾いた足音が続いている。音はしだいに大きくなっていく。こちらに近づいてきているのか、と凛子は思った。
 姿は見えないが、何かがこちらに近づいてきている。凛子は夢だとわかりつつも、後ずさりし、足音の主とは反対の方向に駆け出した。
 マンションの狭い廊下の突き当たりにはすぐに着いてしまった。フェンスにもたれかかるようにして、その音と向き合った。
 ぺた、ぺた、というサンダルのような音は、はじめは速く近づいてきたが、しだいにゆっくりと間隔が長くなり、そして、完全に停止した。
 凛子は目を見開いて対峙したまま、声もでない。そして頭のどこかで、これが本当に夢だったら、だいたいこれぐらいのタイミングで目が覚めるはずなんだけど、ということを考えた。
 足音の主は動かない。少なくとも、音は何ももう聞こえない。もうそこにはいないのだろうか、と凛子は考えた。
 じっと見つめていると、共用廊下の電灯だけの暗がりの中で、少しずつ、人の形に影が出来ていくのが見えた。
 凛子は座り込んだまま、じっとその影を見つめていた。どういうつもりなのかはわからないが、少なくとも敵意を持っているわけではなさそうだ。
 その影を見つめているうちに不思議な気分になってきた。少なくとも、イヤな気持ちではない。まるで、自分のよく知っている人に向かい合っているような……。こういう気持ちになったことが、以前にもあっただろうか、と考える。凛子は、ふと、先輩のことを一瞬だけ思い出した。先輩は待ち合わせの時間に遅れることが嫌いで、必ず凛子を待ってくれていた。待たせてしまった申し訳なさと、そこに確実に待ってくれている先輩に会える嬉しさで複雑な気持ちになりながら、いつも凛子は小走りで駆け寄っていった。でも、だいたい凛子との距離は三十センチまでで、そこから先の距離が縮まることはなかった。
 影はしばらくじっとしていたが、やがて消えてしまった。
 しばらく呆然として、何も考えることができない。
 不意に、凛子のすぐ右に位置する部屋のドアに、何かをこすりつけるような音が聞こえた。ドアのすぐ脇で、何かがこすりつけられているようだった。はじめは猫かと思ったが、しばらく規則的にそれは続き、やがて、ぷつりと絶えてしまった。凛子は身じろぎもせず、ドアを見つめる。聞こえてくる音をすべて聞き取ろうとした。だが、もう何もそれらしい音は聞こえない。
 夢ならそろそろ覚めて欲しい、と凛子は思った。いつも、夢として残るのはほんの断片で、こんなに長い夢は見ない。きっと、起きたときにはこの半分も憶えていないのだろうな、と思った。
 小さく、ノックのような音が、コン、コン、と二度、聞こえた。ノックだろうか。鉄製のドアは、ノックをするのに適した材質ではないから、それはかなり不自然に聞こえる。そもそも、ノックは通常、外側からするものであって、内側からノックがされるというのはおかしい。そんなことをつらつらと考えながら、さらに待っていると、もう一度、コン、コン、という消え入るような、遠慮がちな音が響いた。間違いない、ノックだ。

     3

「誰?」
 おそるおそる、凛子はドアに向かって声をかけた。自然と身体が前のめりになっていた。誰がそこにいるのだろうか。もしここが夢の中なら、少なくとも知らない人ということはなさそうだけれど、と凛子は考えた。
 ノックの音は続いている。
「開けて欲しいの?」
 また遠慮がちに凛子は声をかける。ドアの向こうからは、返答はない。声が届かないのかもしれない。
 向こうからはドアを開けられないのだろう、と凛子は思った。
 相手は、こちらにドアを開けてほしい、と思っているのだ。
 凛子は全身に鳥肌が立つのを感じた。開けたら、何が起きるのだろう。ノックをしてきている、ということは、ドアのすぐ向こう側に人間がいる、と予想できる。何らかの理由で、こちら側に来ることはできないらしい。ドアを開けられないそのノックの主は、控えめなノックをして、凛子が扉を開けるのを待っている。
 凛子はどうするか考えた。開けたほうがいいのだろうか。知らないふりをすることもできるが、好奇心がわき起こるのを感じた。
 凛子はゆっくりと立ち上がり、ドアノブに手をかけた。鍵がかかっていたとしたら、普通は全くノブが動かないはずだ。だが予想に反して、そのまま力を入れると、すっとドアは開いた。
 扉のすぐ後ろに、誰かがいるのだと思っていた。思い切ってドアを引いてみると、明かりのない暗い玄関があった。暗いというよりも、暗闇をそこに張り付けたように、奥が見えない。部屋の奥はおろか、玄関の間取りすらも見えない。
「誰かそこにいるの?」
「クラゲさんですか?」
 暗闇の奥から、声が聞こえてきた。少し掠れたような、少年の声だ。声はひどく幼い。まるで小学生のようだ。
「え?」
「クラゲさんです?」
 声の主は再度、そう問いかけてくるが、凛子には意味がわからない。いえ、違います、あたし、と曖昧に返事をする。
「あれ、クラゲさんじゃないです? いや、でもそこクラゲさんの部屋なんですけど……」
「クラゲさんの部屋?」
「あ、じゃあ、クラゲさんの部屋に入ってる人かな。どうやって入ったんですか? って聞きたいところですけど…そんなことはどうだっていいです。とりあえず、こんにちは」
 軽い調子で声の主はそう言うので、「こんにちは」と凛子も返事を返してしまった。
「あなた誰ですか? クラゲさんはどこにいっちゃったんですかね?」
「ちょっと待って、そのクラゲさんっていうのがあたしにはわからないんだけど」
「クラゲさんは、クラゲさんですよー。それ以上のことはわかんないです」
「あなたのお友達?」
「お友達……」数秒ほどの短い沈黙があった。「そうですかね? 僕はクラゲさんのお友達です?」
 会話が噛みあわず、言っている内容もほとんど要領を得ない。相手は、こちらがクラゲという人物の部屋に入っている、と認識しているようだ。クラゲという人物を凛子は知らない。海月、という名前なのだろうか。何より、凛子は自分の部屋があるマンションの廊下にいるのだ。他人の部屋にいるわけではない。
 だが、話の内容からすると、声の主は、こことは違うどこか別の空間にいて、ドアを隔ててここと繋がっている、そういう状況のようだ。もちろん、常識では考えられないが、会話の流れからするとそういうことになる。もしここが夢だとしたら、夢なんてそんなものかもしれない、とも思う。ただ、もしもここが死後の世界なら、それはあまりにも地味だな、と凛子は思った。
「何か勘違いしてない? あたし、別に人の部屋の中にいるわけじゃないんだけど」
「あ、そうなんです? でも、そんなことどうだっていいんですよ。僕から見て、そっちの空間のことを「部屋」って呼んでるだけです。そっちの空間が、部屋にみたいになってようが、学校みたいになってようが、そんなのは僕には関係ないことですから」
「あなたはどういうところにいるの?」
「え、それ、聞いちゃうんですか? 内緒ですよ? そういうこと訊くのって、マナー違反じゃないです?」
 凛子は戸惑って、闇の奥を見つめる。声の主は、ちょっといたずらっぽく笑った。「あんまり、そういうプライベートなことは訊いちゃ駄目ですよ。マナー違反ですから。僕の名前はエイジです。ずっとここにいます。クラゲさんはときどきやってきて、たまにお話してくれます。あなたはクラゲさんのお知り合いでは?」
「クラゲさんがどういう人かはわからないけど……たぶん、知らないと思う」
「じゃあ、どうやってここに来たんです?」
「どうやってって……」
「さ、か、な」とエイジと名乗る少年はゆっくりと発音した。「魚でしょ? あなたは、クラゲさんの魚に噛まれたんだ」
 凛子は少しだけ記憶を取り戻す。そうだ、あの白い魚……。あの魚に噛まれてから、この奇妙な空間に迷い込んでしまった。これはあの魚の毒による幻覚なのだろうか? だとすれば、ここは夢の中、自分の妄想の中、ということになるが……。
「あなたもあの魚に噛まれたの?」
「それ以外にここに来る方法はないですよ。何も知らないみたいですし、少し説明しましょうか?」
 凛子は黙っていたが、エイジと名乗る少年は続けた。
「魚に噛まれると、この世界に来れます。どういう場所なのかは、人によって違います。ここは現実世界の空間じゃあないです。他には誰もいません。だいたい、みんな、自分の世界の中にドアがあって、それが別の人の世界に通じてます。こうしてノックすると」
 急に会話が途切れ、トン、トン、というノックの音が聞こえた。
「……相手にノックの音が聞こえます。ドアを開けると、その人と会話することができます」
「なんか、ネットみたい」と凛子は言った。相手の姿は見えないが、コミュニケーションを取ることはできる。まるでインターネットのチャットのシステムみたいだ、と凛子は思った。
「ネットに近いかもしれないです。相手がドア開けてくれないと、会話できないですしね」
「勝手にお話はできないわけね?」
「できないですか?」
「なんであなたが訊くの?」
「さあ?」
「ごめん、頭痛くなってきた」
 凛子は床に座りこみ、深呼吸をした。エイジと名乗る相手の少年の言うことが、まるで掴めない。
 以前、乖離性同一性障害に関する本を読んだことがある。乖離性同一性障害、すなわち、多重人格だ。多重人格者は、本人の自覚なしに人格交代が行われることが多いが、症状が進行すると、自分の中の内なる他人、すなわち、「他の人格」を意識し、人格を意識的に「交代」させることができるようになるらしい。その際に、自分の中に他の交代人格と交代するための「空間」が生まれるらしい、が……。
 それにしても、こんな具体的な場所ではなく、もっと暗闇の中のような場所で、人格が交代するときは、自分にスポットライトが浴びせられるような感覚になるようだ。凛子は床に座りながら、コンクリートのマンションの床をそっとなでる。ざらついた感触。指に、埃とわずかな砂利が付着した。こんな具体的な場所が、自分の頭の中にあるものだろうか?
「頭いたいです? どこかぶつけました?」
「ごめん、そういう意味じゃない」
「はじめてだから、ちょっとびっくりしたかもしれないですね。でも。現実世界なんかよりずっといいですよ。誰も邪魔してこないですし。自分の好きにできます」
「あたしが入ってくるのは構わないわけ?」
「だって、あなた、まだ僕の部屋には入って来てないです。このドアから先には来れないです。僕の許可がないと。僕らはこうやって、ドア越しに話してるだけ」
 本当にインターネットのチャットみたいだ、と凛子は思った。自分の好きなときに相手に呼びかけ、好きなときに会話を打ち切れる。しかし、ちょっと考えればわかることだが、これが本当に他人の思考と繋がっているわけがない。あくまでもここは自分の夢の中で、エイジという少年は、自分の妄想にすぎないのだ。
 自分の妄想? でも、こんな意味のない妄想をするものだろうか?
「ここを自分の妄想だと思ってます?」とエイジと名乗る少年がそう言い、凛子はどきっとした。こちらの考えていることが読めるのだろうか。
「いま僕の説明したこと、わけがわかんないと思ってます? でも、それはそうだと思います。僕も最初ここに来た時、他の人と夢の中で話せるなんて思いもしなかったです。あなたが考えてることはだいたいわかります。ここは自分の夢の中に違いないけど、だったら、いま話してるこの相手は誰なんだろう、って。はじめて会う人だったら、自分の記憶の中にない人だったら、この人は自分の何を象徴してるんだろう、って。でも、そんなに難しく考える必要はないです。僕は僕で、ちゃんと存在してますし、あなたの妄想でもなんでもないです。僕は僕で、ちゃんと独立して存在してるので、だいじょうぶです。安心してください」
「あなたはどこにいるの?」
「またそれ訊きますか? ルール違反ですよ? でもまあ、いちおう言っておくと、あなたの知らない場所だと思いますよ。僕が、あなたが知らない情報をしゃべって、僕が独立している他人だってことを証明してもいいですけど、それだと僕のプライバシーが侵害されるので、イヤです」
「あなたはずっとそこにいるわけ?」
「そうですね、ずっとですね」
「ずっと、って?」
「ずっとです」
「そこから出たことないの?」
「最初に入ったきり、ずっとここにいます。出たいなんて思ったことないです。こんなに快適なのに」
 こともなげにエイジと名乗る少年はそう言う。凛子は不安になった。
「ちょっと待って、あたしもずっとこのままなの?」
「さあ?」
「どうやってここから出ればいいの?」
「…………?」
 しばらく沈黙があった。物音一つ聞こえないので、凛子は、エイジと名乗る少年がそこにいなくなったのではないか、と思った。
「僕は興味ないから知らないです。でも、クラゲさんは……たぶん出てたんじゃないかな、と思います」
「どうやって?」
「知らないですよ。自分で調べてください」
 エイジと名乗る少年は投げやりにそういった。「僕もう疲れたんで寝ます。おやすみなさい」
「ちょっと、ちょっと、待って! あたしはどうすればいいの?」
「人に訊いても答えは出ませんよ? でも、寂しくなったらいつでもノックしてくださいね。お話相手になります。あ、そうだ、まだ名前訊いてませんでしたね?」
「あたしの名前?」
「そう、名前です。誰にでも名前はついてますよね?」
「凛子」と凛子は言う。
「リンコ」とエイジと名乗る少年は繰り返した。
 かわいい名前ですね、間延びした声とともに、ドアが閉まった。凛子は床に座り込んだまま、しばらく呆然としていた。
 今までのことは、本当にすべて自分の妄想なのだろうか? 筋が釈然としない部分は多いが、夢にしてはディテイルがやたらと凝っているな、と凛子は考えた。
 だが、と凛子はぼんやりと思う。これから、どうすればいいのだろう?
 エイジと名乗る少年と会話をしているときには気がつかなかったが、いつの間にか顔が火照っている。頬を触る手が、小刻みに震えている。怖いのだ、と思った。恐怖は、想像をすることで生まれる。自分が奇妙な世界に迷いこんでいると気付いた瞬間は、何が起きているのかを理解することで精一杯だったが、いまは、先のことを考えてしまっている。
 覚めない夢はない。夢では、恐怖を感じても、いつかは覚める。どうやったら夢から覚められるか、そんな問題は今まで意識したことがなかった。
 問題は、と凛子は考えた。これが夢ではなく現実だった場合で、しかも、ここでただ待っていても、元いた世界に戻れないかもしれない可能性がある、ということだ。そっちがどんなふうになっているのかはわからないが、こんな無機質な、殺風景な、普段自分が目にしている、マンションの廊下だったりはしないのだろうか。もしここが自分が制御できる世界であれば、自分の好きなように作り替えたりはできないのだろうか。
 落ち着こう、と凛子は思った。ゆっくりと立ち上がり、服についた埃をはらう。とりあえず、自分の部屋に戻ろう、と思った。
 中央エレベーターのすぐ脇が自分の部屋だ。ドアノブに手をかけたとき、また異形のものが飛び出してくるんじゃないかと怖くなったが、あっけないほど普通にドアは開いた。部屋は空調が効いて涼しかった。
 自分の部屋に戻ると、ここが現実とは違う世界だとは信じられなかった。
部屋の奥には、自分と同じ姿をした人間が倒れている。まるで蝋人形みたいだ、と凛子は思った。気味が悪かったが、近づいていき、身体を起こす。冷静に自分を見ると、鳥肌が立った。どうしようかと思ったが、そのまま引きずるようにして、なんとかソファの上に乗せる。人間ひとりが、こんなに重いということを初めて知った。
 テレビをつけると、テレビ放送はなく、砂嵐になっている。突然、画面越しに誰かが話かけてくるような感じがして怖くなり、すぐに消した。キッチンからコーヒー豆を取り出し、ミルにかける。まずは落ち着こう、と思った。
 コーヒーを淹れ、小振りのダイニングテーブルに腰掛けた。ここはどこなのだろうか、と思った。よく知っている自分の部屋だが、自分はなぜここにいるのだろうか。
 なぜ? 毎日、なんとなく働いて、なんとなく帰ってきて、寝て、そしてまた働く。なんのために?
 それは生きるためだ。生きて、自分の稼いだ金を使って、自分の生活を買う。家賃七万円のこの狭い2LDKも、凛子の給料のかなりの割合を占めている。だが、稼がないと生きていけないし、生きていくためには稼がないといけない。
 自分の世界、それがなんだかよくわからないが、要するに、ここは夢なんじゃなく、死後の世界なんじゃないか、そんなふうに凛子は思えてきた。エイジと名乗る少年が、ここから出たくない、と言った気持ちも、わかるような気がする。ここにいれば、生きるために稼ぐ、稼ぐために生きる、そのループから抜け出すことができるんじゃないだろうか。あんがい、自分の求めている生活が、ここにこそあるのかもしれない……。
 いや、と凛子はかぶりを振った。何を考えているんだろう。これじゃ、自殺をする人と同じ発想だ、と思った。
 自分は疲れているだけなのだ。そう、ちょっと疲れているだけ……。
 ちょっとだけ、眠らせて……。
 うとうととして、コーヒーマグを自分の前から退け、テーブルに突っ伏して寝ようとした。
 そのとき、ガタッと、玄関と部屋を繋ぐ引き戸が開いた。
 あまりにも普通にドアが開いたので、一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
 エイジと名乗る少年が入ってきたのか、と瞬間、そう思った。
 凛子は椅子をはねのけて立ち上がった。引き戸は開け放たれたものの、人が入ってくる気配はない。心臓が高鳴っているが、後ずさりし、やがてやってくる何者かと対峙する心の準備をした。
 引き戸の奥の、玄関の闇の中から、ゆっくりと、影が近づいてくるのが見えた。
 ……さっき、廊下で出会った、影?
 突然、足音とともに現れ、そして消えてしまった、影。
 やはり先ほどと同様に、ぺた、ぺた、という足音を鳴らしながら、ゆっくりと部屋に入ってくる。さっきの廊下で会ったときよりも、その姿はよりくっきりと見え、完全な人型だとわかった。身長は凛子よりも少し高めで、一七〇センチはあるだろうか。一歩一歩、床を踏みしめるようにして中に入ってくる。
 凛子は、異形のものを部屋に迎えるというよりは、どこか、奇妙な親近感のようなものをその影に感じていた。自分で考えてみても不思議なことだが、その影が敵意をもっていないことが、なんとなく、肌で感じられるのだった。
「こんばんは」
 凛子はそうやって、影に話しかけた。相手の顔はわからないが、こちらのことを見つめているような感じがした。
「……もしかして、先輩?」
 凛子は先ほど抱いた自分のシンプルな疑問を口にした。自然と口から滑り落ちてきたので、言ってしまってから自分でびっくりした。
 影は、おそらく、こちらを見つめ続けている。
 肯定も否定もしない、そんな影の様子を見て、先輩だ、と凛子はなぜかそう確信した。
「先輩、ここにいたんですね」
 影は見つめ続けている。
「先輩、コーヒー飲みますか?」
 影がコーヒーなんて飲むわけがないだろう、と思いつつ、凛子はそう口に出してみる。
 影が、かすかに、首を振ったような気がした。
 影の正体が先輩だと確信しても、凛子はどうすればいいかわからなかった。またさっきのように、消えてしまったりはしないだろうか。凛子と同様に、影も、この世界でどう振る舞えばいいのか、わかっていないように思える。この世界に来たばかりだとしたら、それは当然だろう。
 かすかに、影が、何かを発声したような気がした。
 影が声を出したというよりは、ビル風が通り抜けるときのような、びゅうとした風音のようにも思えたが、影の様子を見ていると、何かを言いたそうにしていることがわかった。
「か」と影は言った。掠れるような声を、凛子は聞き取った。
「か?」凛子は繰り返す。
「か、……え、り」と影は言う。
「か、え、り?」
「お……か……え……り」
 影が何が言いたいのかがわかった。影は、ゆっくりと、足を引きずるように部屋の奥へと向かって行く。凛子はただ見守ることしかできない。ゆっくりと時間をかけて、影は部屋の奥に向かうと、ベランダの大窓の前で立ち止まった。
 ゆっくりと影がベランダの床を指さす。目をむけると、そこに、先輩から貰った白い魚が、ぐったりと横たわっていた。
 凛子はあわててベランダに駆け寄り、大窓をあける。そして、白い魚を、両手で拾い上げた。
 鱗の感触が指に伝わる。魚はぐったりしたままで、触れても微動だにしない。死んでしまったのだろうか。振り返ると、影はじっとこちらを見つめている。いや、影に顔があるわけではないから、見つめられているかどうかはわからないが、見つめられているような感じがする。
 凛子は白い魚をもったまま、部屋の中へ戻った。生きているかどうかはわからないが、水槽に戻さなければ、と思った。
 水槽の中にそっと白い魚を入れる。
 魚は、ぐったりとしたまま、水の中に沈んでいき、そして、身をわずかにふるわせて、体勢を立て直した。どうやら、死んではいなかったらしい。
 その瞬間、パチン、と火花が散ったような感覚がした。
 頭がぐらぐらと揺れるような、不意に脳髄を殴打されたような、そんな鈍い衝撃。
 貧血で立ちくらみがしたのか、と思った。一瞬、気を失っていたのかもしれない。横を見ると、さっきまでいたはずの影はもういない。
 部屋を見渡すと、さっきまでの空間と、温度が違うような気がした。ここの空間には、自分ひとりしかいない。水槽では、白い魚がゆらゆらと泳いでいる。
 ダイニングに目をやると、コーヒーマグはなく、奥のコーヒーメーカーにも、コーヒーはなかった。
 戻って来たんだ、と凛子は思った。唐突に、そしてあっけなく。

     4

 今までと変わらない日常がやってきた。あの日、部屋で目覚めた凛子は、自分の身体に異常がないことを確かめると、すぐに着替えてベッドに潜りこんだが、色々なことを考えてしまい、一睡もできなかった。
 翌朝、会社に行く身支度をしているときに、異変に気付いた。自分の手首に、魚に噛まれたあとがくっきりと赤く残っていて、その周り、腕の裏側の部分が、不自然に白く変色していたのだ。
 あまりにもくっきりとあとが残っているのが気になって、少し迷ったが包帯を巻いて出社することにした。何か言われれば、お湯をこぼして火傷をした、ぐらいの言い訳をするつもりだった。
 会社に着くと、気持ちが切り替わった。ロッカールームで制服に着替える頃には、すっかり昨日のことなど忘れてしまっていた。
 凛子の勤めている旅行代理店は、店によって売上げが大きく違う。一番よくお客さんが入るのは、駅中の構内にある店舗で、アクセスが良いから一見の客もそこに足を運ぶことが多い。一方、凛子が勤めている店舗は、駅からのアクセスが悪いわけではないが、住宅街の中に位置していて、店舗の雰囲気は落ち着いている。売上げだけを見るなら、人の集まりやすい駅中のほうが断然有利だが、住宅地の近くのほうがリピート客を掴みやすい。実際、常連の客の顔はほとんど憶えている。
 月曜日の朝はたいてい閑散としているため、事務処理に集中できる。お客さんが増えてくるのは午後からが多い。凛子はカウンターで、端末に情報を打ち込みながら、隣の席に座っている梶原に目をやった。彼女は机の下で、こっそりと携帯をいじっていて、注意しようかとも思ったが、短い時間であれば携帯をいじるなんて誰でもやっていることだし、緊急の用事かもしれないと思い留まった。だが、お客さんがやってきたらすぐに接客をしなければならない。
 そうやって葛藤していると、凛子の視線に気付いたのかはわからないが、そう思っているうちに彼女は携帯の電源を切り、デスクにぶらさげているハンドバックの中に入れた。片目でこちらを窺い、いたずらっぽく微笑んだ。凛子はどう対応しようか一瞬迷ったが、反射的に、微笑み返してしまった。こういうことが抵抗なく、自然にできてしまう子はすごい、といつもながら思う。
「全然お客さん、来ませんね」
 世間話でもするかのように梶原は言った。凛子は端末を操作する手を止めない。カウンターでの接客業務の場合、仕事の中心は接客になるが、旅行代理店は旅行に必要な手続きはすべて代行するため、やるべきことは多い。凛子はとても手を止めるような余裕はないが、梶原は先月入社したばかりの派遣社員なので、まだ手持ちの仕事が少ないのだ。だが普段の彼女は、時間を持て余すことなく、手があくと次の仕事について質問をしてくるような、要領のよさを持ち合わせていた。
 もっとも、要領がよくないと旅行代理店のカウンター業務はつとまらない。高いコミュニケーション能力と、確実な事務処理を求められる仕事だ。業務内容はそこまで専門性の高いものではないが、仕事としての人気は高く、学歴は高い人が多い。梶原自身も、出身校を尋ねたことはないが、とても頭の回転が良いので、勉強もできるに違いなかった。
「梶原さん、安達さん、もう休憩行っちゃっていいよ。恩澤くんもそろそろ戻ってくる頃だしね」
 支店長の安江が事務所から出て来て声をかけた。凛子と梶原はペアで仕事をすることが多い。凛子は、はい、と返事をすると、端末を操作する手をいったん止め、窓の外を見た。近くに小さな公園があり、たまにひとりになりたい時はそこでお昼を食べるのだが、梶原がいる手前、それはできないなと思った。
 更衣室のロッカールームで弁当を取ってきて、梶原と休憩室に向かった。梶原も、最近は自分の弁当を持って来ている。梶原は、入社した当初は何もお昼を持って来ていなかったので、外食に行ったりもしたのだが、なかなかお互い毎日外食するだけの金銭的な余裕はなく、じきに自分の弁当を持ってくるようになった。
 休憩室に入ると、チーフの恩澤が、流行のアニメのストラップをたくさんつけた携帯をいじりながら、テレビのワイドショーに目をやっていた。
「お疲れ様です」
 お疲れ様でーす、と恩澤も返してくる。ここは休憩室だが、雑居ビルの中の空き部屋が休憩室として開放されているだけで、他の会社の社員も休憩室としてここを利用している。休憩室に居るのは、恩澤一人だけだった。
「支店長、機嫌悪くなかった?」
 恩澤が携帯に目を落としたままそう訊いてくる。恩澤は男性だが、ちょっと間延びしたような、極めて女性的な気の抜けた話し方をする。女性が多い職場なのでそうなったのかと思ったが、どうも昔からこんな感じらしい。
「別に普通でしたよ。なんでですか?」弁当を広げながら凛子は言う。恩澤は、会話がしたいのか、リモコンを操作してテレビのボリュームを下げた。恩澤は凛子たちとは入れ替わりで店に戻らなければならないから、すぐに戻らなければならないはずだ。
「だいぶ会議で絞られたって話だよ。ほら、最近、売上げ悪いからさぁ」
 会議というのは支店長以上が参加するエリア会議のことで、各支店の収支報告をする会議だ。接客業務を担当している凛子はどういったことが話し合われているのかはわからないが、チーフの恩澤は売上げの低迷を受けて発破をかけられているのかもしれない。支店長の安江は、人柄は温厚なのだが、気が小さいのか、ちょっとしたことですぐに機嫌が悪くなる傾向にある。恩澤も繊細な人柄なので、支店長から八つ当たりでもされて、ストレスが溜まっているのかもしれなかった。
「そうなんですか。じゃあ、もっとお客様を取らないといけませんね」
「またぁ、そうやって優等生みたいなこと言って。売上げは二の次、まずはお客様の声を聞くこと、接客業で売上げ主義になっちゃ駄目だよ」
 凛子は入社してカウンター業務をやるようになってから、ひとつ年上の恩澤に仕事のイロハを教えてもらった。一見の客が多い支店と比較して、住宅地の合間に位置するこの店は、リピーター客が売上げの中心になる。恩澤はかなりのリピート客を顧客として持っていて、お客様ごとの記念日などもかなり記憶している。凛子にも固定の客はついてはいるが、数では恩澤にかなわない。
「恩澤さん、戻らなくていいんですか?」梶原が横から遠慮がちに口を挟む。
「いいよ、だってまだ時間内だし。梶原さんたちが早くきただけじゃん。あと五分ぐらいしたら行くから」
「そうですか。すみません」
「いや、別に謝らなくてもいいよ。ただ、いまはちょっと仕事したくない気分なんだよねぇ」
「今日はお客様も少ないですしね」
「午後は反動で増えるかなぁ」
 恩澤と梶原が他愛もない会話をしているのを聞きながら、凛子は弁当を口に運んでいた。左手首の袖口まできちんとカフスを留めているが、二人はこの包帯に気付かないだろうか、と少し心配した。
 そろそろ戻るかな、と恩澤は言い、席を立った。部屋には梶原と凛子だけになり、テレビがついているのに、ちょっとした静寂が訪れた。
「安達さん、お弁当、毎朝ご自分で作られてるんですか?」遠慮がちに梶原がそう聞いてくる。
「うん、そうだよ。梶原さん、それ、自分で作ってるんじゃないの?」と、梶原の弁当を指す。凛子の弁当箱は、女性向けのごく小さいものだったが、梶原は小柄なわりに、女性にしては大きめの弁当箱を持ってきていた。まるで料亭の重箱でも持って来たかのような、立派な弁当だった。冷凍食品ばかりの凛子のものとはあきらかに違う。
「ええ、自分でつくることもあるんですけど。お弁当、作ってくれる人がいて。自分で作るよりよっぽどうまいから、ついお願いしちゃうんです」
「え、何? 料理人の彼氏とか? そっちのほうがよっぽどうらやましいよ」
「いえ、違います。身内みたいな人で」
 自分から水を向けたわりには言葉尻を濁すので、凛子は、ふうん、としか返すことができなかった。彼女が派遣社員だからというわけではないが、他人のプライベートなことにはなるべく立ち入らないのが凛子の流儀だった。
「すごいですね、安達さんは」
「え、何が?」
「いや、普通に振る舞えるのがすごいな、って」
「どういう意味? なんのこと?」
「確か、こないだ、お知り合いの方のお葬式だったんですよね? あ、イヤなことを思い出させたらごめんさなさい。恩澤さんからそう聞いたので」
 先輩の葬式の日、凛子は出勤の予定になっていたが、恩澤に無理を言って欠勤にしてもらった。本来、会社のルールでは身内以外の人間が葬式になっても当日欠勤は認められないが、恩澤は気を遣って、体調不良ということにして休ませてくれた。しかし、梶原にはそのことを言ってしまったようだ。もちろん、それを止める権利は、凛子にはない。「いや、別に。構わないけど」
 少し沈黙があった。
「それで、何もなかったように振る舞える安達さんが、すごいな、って。あたしだったら、何日か休んじゃうかもしれないです」
「そんなふうに見える?」
 情に薄い女だ、とそういうつもりで言ったのではないのだろうが、そのニュアンスを感じ取ってしまった凛子は、視線を落として、少し大きめの声でこたえた。言い方が少しきつく感じたのか、梶原は箸の手を止めた。
「いえ、そういうつもりで言ったんじゃないです、本当に。ごめんなさい」
 また沈黙。少し気まずい時間が流れた。
「いくら大事な人が死んだって、あたしたちは、生きていかなきゃならないわけだし」と凛子は言った。
 顔をあげると、梶原は凛子の目を見ている。何も話さないので、凛子は続けた。「悲しんだって、その人が戻ってくるわけじゃないから」
 何を言ってるのだろう、と凛子は自己嫌悪に陥った。そんな陳腐で当たり前のことを、こんな子に言ったってしかたが無いのに。でも、自分が口にしたその言葉が、そのまま自分の気持ちを表しているような気がして、少し心の中の靄が晴れたような気がした。そう、あたしたちは生きていかなければならない、たとえ、大事な人が死んだって、残りの人生を、ずっと。
「あたしも、大事な人をなくしてるんです」と梶原は言った。「去年のことなんですけど、兄が、急に、脳梗塞で」
 そう、と凛子はどう返せばいいのかわからず、気の抜けた返事をした。
「そんなに仲の良い兄弟ってわけでもなかったんですけど。でも、精神的にちょっと落ち込んじゃって、勤めてた会社もそれで辞めちゃったんです。立ち直るまでにちょっと時間もかかりました」
 梶原が何を言いたいのかわからず、しばらく凛子は沈黙していた。
「ごめん、そんなこと言われても、どう言えばいいのか……」
 正直にそう言った。すると、梶原は慌てて顔の前で手を振った。
「違います。ただ、心配なんです。安達さんのことが」
「心配?」
「普通にしているけど、じつはぜんぜん大丈夫じゃない。そうですよね?」
「どうして?」
「いつもと同じようにしてるけど、ちょっと様子が違います。心の中に、ぽっかり穴が空いてるみたいで」
「そんなことないよ」
「そういうことは、自分ではなかなか気付けないものなんです。ちゃんとしたケアが必要だと思います。余計なお世話かもしれないですけど、心のケアを専門にしている先生がいるんです。あたしも、その人にお世話になりました」
 精神病院のカウンセラーでも紹介したいのだろうか。梶原が何をしたいのかはよくわからないが、何かを勘違いしていることは確かだった。
「そういうの必要じゃないから、悪いんだけど」
 そう言ってはみたが、昨日は一睡もしていないし、化粧をちゃんとしているような余裕もなかったから、普段通りに振る舞っているようで、そうではないのかもしれない。会社の同僚は普段通りに接してくれているが、凛子の状態が普通でないことはみんな気付いているのかもしれなかった。
「あたし、兄が死んだとき、変な夢を見たんです」
「夢?」
「他愛もない、変な夢なんですけど。そこで、死んだ兄に会ったような気がしたんです」
「夢の中で?」
「そうです。そして、そのことも、先生はきちんと説明してくださいました。ちゃんと言葉にしてもらえると、安心するものですよ」
そう言って、梶原はハンドバッグの中からメモ帳とペンを取り出すと、ページを一枚破り、何かを書き付けた。
「これ、先生のクリニックの住所と電話番号です。初診の場合は、予約が必要なんですけど」
「ちょっと待って、要らないから、そんなの」
最後に、梶原はにっこり笑ってこう付け足した。
「大丈夫ですよ。守秘義務はちゃんと守っていますから、安達さんが行っても行かなくても、あたしにはわかりません。取っておいてください」
 梶原は、紙を手に取ったまま動けない凛子に、そろそろ休憩終わりですね、と微笑んだ。

     5

 瀧本クリニックは、繁華街のはずれの雑居ビルの中にあった。凛子は仕事が引けてからすぐにそのクリニックに向かった。
 昼休みに電話予約をすると、若い女性が出た。
「お電話ありがとうございます。瀧本クリニックのカワシマが承ります」
「あの、診察の予約をしたいのですが」
「当クリニックのご利用ははじめてですか?」
「はい」
「申し訳ございません、はじめての方は、電話予約できないことになってるんです。開院している時間帯に、直接お越し下さい」
 凛子は、何かがおかしいと思った。梶原からは、行く場合には電話予約をしてから行くように、と言われていたからだ。
「あの、安達という者なんですが、梶原さんの紹介でお電話しています。梶原さんからは、行く前に予約をするように、と言われていたんですが」
「梶原様のご紹介ですか? ……少々お待ちください」
 通話が保留になり、軽快なメロディが受話器から聞こえてきた。梶原は、凛子が来るかもしれないということを、この病院に話していたのだろうか。だが、どんな内容で? 何か、自分の知らないところで物事が進行しているような、薄気味の悪いものを感じた。
「大変お待たせいたしております」
 しばらくしてから同じ女性が出た。「安達様、診察のご予約ですね。失礼致しました。承ります」
「大丈夫なんですか?」
「はい、申し訳ございません、大丈夫でございます」
「えっと、何時まで開いてるんでしょうか」
「通常の診察時間ですと午後五時半までですが、先ほど確認したところ、瀧本は何時でもいいと申しております」
 何時でもいい? 何時でもいいというのは、いったいどういう意味なのだろうか? 文字どおりの意味で受け取ってもいいのだろうか?
「あの、仕事が終わるのがだいたい六時なので、それ以降でないと難しいと思います。ここからだと、そちらに到着するのは七時前後になってしまうと思うのですが」
「承知いたしました。何日がよろしいでしょうか?」
「たとえば今日とか……」本当はもうちょっと間隔を開けたほうがいいのかもしれなかったが、気持ちが急いていることもあって、なるべく早く行きたい、と思った。だが、心療内科などこれまでの人生で行ったことがない。心の準備はまだできていない。矛盾している。
「今日でも結構ですよ。場所はおわかりですか?」
「あ、はい。ネットで調べます」
「承知いたしました。それでは本日の七時、お待ちしております。お気をつけてお越しくださいませ」
 どこまでも丁寧な口調の電話は切れた。凛子は脱力するのを感じた。
 就業時間ほぼちょうどに仕事が終わり、凛子はロッカーで着替えて外に出た。もちろん、梶原には何も言っていない。梶原は凛子よりも一時間早く定時を迎えるので、もうすでに退社していた。
 地下鉄に乗り、いつもとは反対方向に向かう。三十分ほどで降り、階段をのぼって地上に出た。そこは繁華街で、大通りにはネオンがあふれ、路地にバーや飲み屋が連なっている。凛子はそれらを尻目にあるきつづけ、ビル街の端にある雑居ビルに向かった。瀧本クリニックは、古ぼけた雑居ビルの三階にあった。狭いエレベータで三階にあがると、小綺麗なフロアに出た。
 凛子が入り口でまごついていると、中にいる女性が凛子に気がついて会釈した。凛子もつられて会釈を返し、導かれるままクリニックに足を踏み入れた。
「お電話ありがとうございます。お待ちしておりました」
 丁寧にカウンターから女性が出て来た。小柄だが、ほっそりとした体格の女性だ。少したれ目でぽってりとした唇をしているが、かなりの美人だ、と凛子は思った。彼女は看護師か何かなのだろうか、と凛子は思った。
「わたくしは、当クリニックで瀧本のアシスタントをしております、川嶋と申します」
 胸のところにネームプレートがあり、『川嶋美穪子』という文字が確認できた。画数の多い名前だな、と思った。アシスタントという立場がどういう立場なのか、凛子にはわからない。
「すみません、こちらの都合で、こんな遅い時間になってしまって」
 凛子がそう言うと、川嶋という女性は笑顔を崩さず会釈し、どうぞこちらへ、と部屋の奥のほうを手で示した。
 クリニックの入り口は白とベージュを基調とした明るい色彩で構成されていて、観葉植物がいくつか壁に配置されている他は簡素な内装だ。入り口の正面に受付があり、その奥にのびる廊下の先が診察室になっているらしく、廊下は引き戸で仕切られていたが、いまは開放されている。その奥の廊下の電気は切れていた。もう診察時間が終わっているからだろうか。他に人は誰もいない。
「どうぞ奥へ。瀧本がお待ちです」
 川嶋という女性に促されるまま、クリニックの奥へと足を踏み入れた。突き当たりのドアに手をかける。
 診察室は広く、床にはカーペットが敷かれ、部屋の中央に丸テーブルと椅子が置かれている。その奥に、執務用のデスクがあり、パソコンのディスプレイが二つ、並ぶように配置され、奥が大窓になっている。窓の外は一面の夜景だった。男性が一人、執務用の机に向かって書類に目を通していたが、凛子が入ってくるのがわかると、ぴたりと動きを止め、ゆっくりと振り向いた。
 座っていてもわかるほどの長身の男性だった。
「どうぞ。お入りください」
 声は低いバリトンで、張りがあり、それでいて攻撃性を感じさせない、柔らかな声だった。
「失礼します」
 凛子はおそるおそる部屋の中に入る。
「遅い時間にご苦労様です。さ、そちらに掛けてください」
「いえ、突然押し掛けたのはこちらですから」
 それには応えず、瀧本は椅子から立ち上がると凛子の側に寄り、握手を求めた。凛子はおずおずとそれに反応する。大きな、力強い、相手に安心感を与えるような握手だった。きっと、患者に接するときには、恐怖心を与えないように、この人に相談すればなんとかなる、そういった印象を相手に与えているのだろう。
「初めまして、瀧本と申します」
「安達です」
「さ、おかけになって」と瀧本は椅子を薦める。
「あの、自分がなんでここにいるのかもよくわからないんです。同僚の、梶本さんに紹介されて」
「そうですか。梶本さんからはお話は伺っていますよ。だけど、そうですね。相談したいことがあれば話せばいいし、何も話したくなければただ雑談をすればいい。ここでの会話は、すべてあなたの自由です。何かお飲みになりますか?」
 そう言うと、瀧本は飲み物の名前が書かれた紙を差し出した。ここでは、飲み物を飲みながら、自由に話をすることができるらしい。
「いえ、おかまいなく」
「まあ、そう遠慮せずに。僕はコーヒーを飲みますが」
「じゃあ、同じもので」
 瀧本がテーブルの上のボタンを押すと、少し間があって、扉が開き、先ほどの川嶋と呼ばれる女性が立っていた。瀧本は彼女にコーヒーふたつを注文する。まるで喫茶店のようだ。
「お仕事帰りで大変お疲れでしたね。いつもこのぐらいの時間にお帰りですか?」
「はい、だいたいそうです。残業して長引くことはありますが」
「そうですか。僕もね、若い頃は自分の時間なんてもたずに働いたものですが、四十を過ぎてから、少し自分の時間を持つようにしたい、と思うようになりました。年を取るとそうなるんですかね」
「先生は、どのようなご趣味が?」
「そうですね、趣味といえるレベルではないかもしれませんが、最近は、休診の日にあちこち旅行に行ったりしますね。だいたい、前日の晩に移動をして、ほぼ日帰りのようなものですが」
 川嶋という女性がノックして入室してきて、二人の前のテーブルにコーヒーカップを並べる。凛子は、瀧本の言葉を聞きながら、旅行というのはひとりで行くのだろうか、瀧本は結婚しているのだろうか、などと下世話なことを考えた。
「あの、私、旅行代理店に勤めてるんです。今度、どこかに旅行されるご予定がありましたら、是非お声掛けください」
「ああ、これは失礼。そうですね、梶原さんと一緒に旅行代理店にお勤めなのでしたね」
 かなり以前から梶原を知っているような口ぶりだが、梶原とはいつごろからの知り合いなのだろう。梶原は、ここのクリニックに相談に来たというが、もしかするとそれ以前からの知り合いなのだろうか。
 つい気になり、「ところで、先生は梶原さんとは、いつぐらいからのお知り合いなんですか?」と質問していた。
 瀧本はコーヒーカップを持ち上げるところだったが、わずかに顔をあげる。「おや、聞いていませんでしたか。僕は、梶原江利子の叔父です。彼女は、僕の姪なのですよ」
 患者と医師という関係ではなく、叔父と姪の関係だとは想像していなかった凛子は少し驚いたが、梶原は「医師としての」瀧本を紹介したのだから、別段それで不都合はない。確かに、自分に叔父のところに行け、というよりは自然だ。
「もちろん、だからといってここで話をしている以上は、医者と患者としての関係でしかありません。当たり前ですが、安達さんのことも彼女には一切何も話しません。守秘義務はしっかり守りますのでご安心を」
「いえ、そんなことは心配していません」と凛子は返した。
 何を話したものか、凛子は迷っていた。ここに来た当初の目的を思い出してみる。梶原は、お昼休憩のときに、自身が見た「夢」の話をした。そこで、彼女は死んだはずの兄に会ったような気がした、確かにそう言った。先日、凛子自身が体験した奇妙な体験、それをこの瀧本という医師に正直に話したほうがいいのか、それとも、あんなことはただの勘違いだったと忘れてしまうべきか……。あの時に自分が体験したことを、馬鹿正直に医師に話すと、まるで自分が狂人になってしまったみたいにはならないだろうか……。
「そう思い詰めた顔をしないで。聞きたいこと、相談したいことがあったら、いつでも言ってください。前後の脈絡がなくてもかまいません。話したいことを、話したいタイミングで話してもらえれば結構です」あくまでも優しい口調で瀧本は言う。
「先生のご専門は、何になるのでしょうか?」と凛子は尋ねた。考えてみれば、何の予備知識もなくここにきたのだ。
「僕は長く外国をぶらぶらしていましてね。医者になったのは、三十を過ぎてからです。それまで、ややオカルト的なことに興味がありまして、インドのあたりでヒッピーのまねごとのようなことをしていましてね。今となっては、あんなことができたのは、若かったな、と思いますが」
「インドですか」
 実直そうな現在の風貌からは想像がつかない。だが、嘘を言うわけはないので、本当のことなのだろう。
「インドはいいですよ。あんなにゆったりとした時間の流れる場所は、日本にはないでしょう。喧噪でごみごみしているのに、時間の捉え方が長い。仏教もそうですが、インド哲学では時間のスパンが非常に長いんです。まるで、個人の生きるたかだか数十年が、あたかも塵のように感じるぐらいに。そうやって、長い時間の感覚に身を委ねていると、自分の人生なんて、いかにちっぽけなものか、そう思えるんです。自分の小ささを自覚するために、わざわざ外国に行くのも、酔狂なものだとは思いますが」
 落ち着いた口調の瀧本が語り出すと、意味を咀嚼するよりも先に、ひとつの音楽を聞いているようで、次第にリラックスしてきた。凛子が口をはさまなくても、瀧本は落ち着いた口調で続きを語り出している。
 時間の捉え方が長い。個々人の過ごした、たかだか数十年の歴史など、無視してしまえるぐらいの長さ……。
 自分と先輩の過ごした時間は、どれぐらいだったろう。出会った頃から数えても、まだ十年も経っていない。出会ったばかりの頃と比べると、自分も先輩も年をとった。はじめは子どもだったかもしれないが、大人になった。まだ本当の意味では大人とは言い難いかもしれないが、とにかく、自分で生きていくことができるだけの年齢になった。自分には、まだ人に誇れるようなものは何もないが、とにかく、時間が経って大人になったのだ。これからも、年を取り続けていくだろう。
 だが、先輩は、死んでしまった。
 先輩の歴史は、そこで終わる。たったの、二十数年間で、先輩は、自分の歴史に終止符を打ってしまった。
 先輩は、このまま、みんなの記憶からも消えてしまうのだろうか?
 私が忘れたら、先輩は永遠にいなくなってしまうのだろうか?
 顔をあげると、瀧本がにこやかな顔のままこちらを眺めている。不意に、凛子は見られてはいけないものを見られてしまったような、そんな、ばつの悪さを感じた。
「先生、死んだ人に会うということは、あるのでしょうか」
「死んだ人に?」
「そうです、もう死んでしまった人に、会うことは、できるのでしょうか」
「そうですね、死者に会う、というのは、決してありえないことではありません。古来より、夢枕に死者が出てくる、という話は多くあります。あなたが望めば、それは、不可能ではありません。
 ……誰か、会いたい人がいるのですか?」
「いえ……違います。私も、実際に、その夢を見たんです」
「いつですか?」
「昨日です」
「それは、あなたのお友達なのですか?」
 言葉をひとつひとつ区切るように、丁寧に瀧本は発声した。まるで、小さな子どもに言い聞かせているような口調だった。
「はい、そうです」
「とても大事な友達だったのでしょうね」
「はい、とても大事な、友達、でした。いまは……どこにも……」
「……どこにも?」
「どこにも……」
 急に視界が歪み、一粒の涙が頬を伝った。小さな頃から、幾度となく涙を流してきたが、こんなに感情を揺さぶられずに流す涙ははじめてだった。まるで泉から湧く天然の水のように、自然に、音もなく凛子の眼球から溢れ出した。にじむ視界の向こう側に瀧本は変わらずにいて、真剣な、穏やかな眼差しでその様子を見守ってくれている。もちろん、凛子と瀧本のあいだにはテーブルをはさんで物理的な距離があったが、この空間にはふたりだけしか存在しなかった。凛子は、泣いていいんだ、と耳元で囁かされたような錯覚がした。
 その瞬間、止めどない感情に凛子は揺さぶられた。堰を切ったように、次々と水が溢れ出してくる。瀧本は、その様子を変わらない穏やかな表情で見守り続けている。凛子は、自分がたとえここで何をしても、瀧本はただ自分のことを見守り続けてくれるだろうと感じた。その安心感が、部屋全体を包み込んでいた。
 次第に凛子は感情が高ぶってきて、声をあげて泣き始めた。先輩の葬儀のときですら、ほとんど涙を流さなかったというのに、なぜこのタイミングで、こんなにも感情が押し寄せるのだろう、と意識の片隅で感じたが、もう自分の意思ではどうにもならなかった。瀧本はそんな凛子の様子を見て、少しも慌てた様子がなく、落ち着いた動作で立ち上がると、自分の執務用の机の引き出しからハンドタオルを取り出し、凛子に手渡した。にじむ視界の隙間から凛子はそれを受け取ると、化粧が流れ落ちることも忘れてただひたすら慟哭した。
 やや時間が経って、少し落ち着いてくると、瀧本がゆっくりと口を開いた。
「落ち着きましたか」
「すみません、先生。こんなところを見せてしまって」やっとのことで凛子は震えた声を絞り出す。
「安達さんは、いま、自分の蓋をしていた感情を一気に開放したのです。当然、だからといって傷が癒えるわけではないが、いくらかは楽になったでしょう。人は、あまりにも強大なショックと向き合うと、現実を受け入れられずに心に蓋をしてしまうのです。でも、そうやって無理矢理蓋をしてしまうと、心身ともに無理が生じてしまう。開放するのが必ずしも良いとは限りませんが、とにかく、少しは落ち着いたのではありませんか。今まで、誰の目も気にせずに泣けるような環境はなかったのではありませんか」
 凛子は言葉にならず、ただ首を縦にふることしかできなかった。そして、不思議なことだが、このような失態を見せてしまった瀧本に対して、このクリニックを訪れたときよりも確かな信頼を感じていた。
「他人の死を受け入れるのは、つらいことです。なぜなら、亡くなる人は何も持たずに旅立っていけるが、あとに残された人は旅立っていった人が持っていたものも抱えて、これからの人生を生きていかなければならない。生きるというのはつらいことです。これはお釈迦様もそう言っています。生きるということは、他人の死を背負って行く、ということなんです」
 生きるということは、他人の死を背負って行くこと。確かにそうかもしれないが、生きれば生きるほど、周りの人はどんどんいなくなっていくから、最終的には自分のまわりには亡霊でいっぱいになってしまうだろう。
 思考が拡散している。
 瀧本に本当に聞きたかったことは、たったのひとつしかない。
 『白い魚』は、いったい何なのだろうか? その鍵を、瀧本は握っているかもしれないのだ。
 もう一度、『白い魚』に噛まれ、あの不思議な世界に入ることは可能かもしれない。エイジと名乗る少年は、クラゲという人物が世界を行き来していることを示唆していた。
 梶原は『魚』を使って自分の兄に会ったのだろうか? たとえそれがそうだとして、瀧本はすべてそれを知っているのだろうか?
 いいや、そんなことはどうだって良い。
 重要なのは……。
 そう、重要なのは。
 あの「影」の正体が先輩であること、を確かめること。
 そうすれば……。
 いつでも先輩に会える。
 先輩は消えてしまったわけではない。
 あたしだけが行ける、あの世界に行きさえすれば、いつでも会うことができるのだ。
 二人のあいだに流れる沈黙をかき消すように、凛子は覚悟をきめて奥歯を噛み締めた。
「先生は、『白い魚』のことをご存知なのですか?」
 瀧本は、凛子をじっと見据えたまま、微動だにしない。ややあって、「魚?」と低い声で聞き返した。
 瀧本は何も知らないのかもしれない。本当は、梶本自身に問いただすべきだったのではないか、瞬間、そう後悔したが、時はすでに遅かった。瀧本は口をひらくと、「魚って、なんのことでしょうか?」と凛子に質問をしていた。
 あとに引けなくなり、凛子は説明を開始する。とある人から、白い魚を譲り受けたこと、その魚に噛まれてから、自分が不思議な体験をしたこと。その世界で、エイジと名乗る少年と話したことは伏せた。だが、その世界で、先輩だと思われる「影」の存在は話さざるを得なかった。瀧本の反応は、彼があらかじめそのような情報を知っているのか、知っていないのか、わからないものだった。彼はただ凛子の話す内容に傾聴し、的確なタイミングで相づちを打ってみせるだけだった。
「それは、幽体離脱と呼ばれる現象かもしれませんね」と瀧本はぽつりと言った。
「幽体離脱ですか?」凛子は聞き返す。
「精神だけが肉体を離れて、自由に動き出す。あたかも現実の世界にいるように感じ、現実であるかのように知覚することができる。動物が本来もつ能力のひとつでもあります。実際に自分の目で見ているわけではないのに、全容をイメージし、足りない部分を脳で補完する。
 そもそも、我々が感じている現実というものは、情報としては不完全なものです。目で見たり、耳で聞いたり、肌で触れたりした部分的な情報をもとに、足りない部分を脳で補完し、あたかも目の前で起きていることが『現実』だと錯覚しているにすぎません。いま、こうして、僕とあなたがしゃべっているこの部屋も、現実世界である保証はどこにもありません。あなた自身の夢かもしれないし、僕の夢のなかにあなたが紛れ込んでいるのかもしれない。あなたがこれを『現実』だと感じている、それが現実のすべてです」
「ここが、現実世界である保証はない?」そう聞き返すと、瀧本は軽く咳払いをした。
「失礼しました。変なことを言っているとお感じでしょうね。あくまでもそれは究極のたとえです。つまり、あなたが紛れ込んだと感じた世界は、夢のようなものだということです」
 夢のようであって、現実ではない。凛子も、最初はそう感じた。だが、エイジと名乗る少年は、一体誰なのか? あれも自分の妄想にすぎないのか。それを瀧本に話そうと思ったが、なかなかうまく言葉にできない。
 そう思っているうち、あんなものは証拠になどなりはしないのだ、そんな声が自分の内側から聞こえてきた。
 こうなってくると、もはや答えはでない。同じ問いを延々と考え続ける、禅問答に近い。
「どこでそのようなものを手に入れたのかはわかりませんが、ある種の幻覚作用をもつ毒性を保有する種のひとつなのかもしれませんね。魚で、そのような毒性をもったものがいる例はあまり知りませんが、ありえないことではありませんね」
「…………」
「どのような経路でそれを入手したのかは私の職務外ですから問いません。しかし、このことは、誰にも口外しないほうがいい、そのように感じます。そのことは忘れて、ただ普段通りに生活することをお勧めします」
 凛子が言葉を紡がなくなっても、淡々とした口調で瀧本は語る。むしろ、その語りが途切れることがないのが不自然なようにも思えるのだった。
 少なくとも瀧本は何も知らない。そう確信した凛子は、梶本の夢に関しても、もはや質問する気力は残されていなかった。
 結局、瀧本との出会いは、あの体験は夢のようなものだった、と結論づけただけだった。それで十分だ、と割り切るべきなのかもしれなかった。
 凛子は会話を打ち切り、瀧本に暇を告げた。瀧本は寂しそうな表情を見せたが、エントランスまで送ってくれた。凛子が振り返ると、川嶋嬢と並んで立つ瀧本の姿があった。



episode 2 安達凛子(後編)


     1


 自分のマンションのエレベータをあがるたびに、そこが現実世界であるかどうかを確かめたくなる。もちろん、眼前に広がっている情景こそが現実だ。
 相変わらずうだるような暑さを溜め込んでいる自室に戻った凛子は、水槽で泳いでいる『魚』と向き合った。
 先輩から貰った『魚』。他に、先輩とやり取りした物はほとんどない。なにせ、自分が知り合った当初から、先輩には彼女がいて、事件が起きたときにはその彼女と結婚していたのだ。先輩の彼女である、美奈さんと先輩は同じ研究室に所属していたから、もちろん凛子は面識があった。だが、だからこそ、モノとして残る贈り物なんてできるわけがない、と思った。
 葬式のときの美奈さんの顔を思い出す。少しやつれた顔に、精一杯の笑みを浮かべていた彼女。先輩を失って、これから、どうしていくのだろうか。先輩を失った喪失感は、自分の比ではないはずだ、と思った。
 そうか、と凛子は気がついた。先輩は美奈さんと結婚していた。つまり、同じ家に住んでいた。だから、この『魚』を自宅に置いておくことができなかったのではないだろうか。つまり、この『魚』は、誰かからもらったもので、それを美奈さんに見られたくないから、凛子に預けたのではないだろうか。そう考えると、今まであまり凛子に頼みごとをしてこなかった性格の先輩が、やや強引に、凛子の家に来てまでしてこの『魚』をこの部屋に置いていったことも、辻褄が合う。つまり、これがここにあることを知るのは、凛子だけなのかもしれないのだ。
 この『魚』の正体はなにか。そして、ふたたび『魚』を使って、先輩に会うことはできるのか。これらの情報を、どうにかして集めたい、と凛子は思った。
 自分の手首に目をやる。毎日、会社に出勤するたびに包帯を巻いて、帰ってくると解いている。袖口までカフスを留めているから目立たないとは思うが、毎日包帯を手首に巻いて出社する姿を、不自然に思われていないだろうか。特に、一緒に仕事を進めることの多い梶原がどう感じているかが気になる。
 表面上はふたりとも普段通りに振る舞っているが、この子は自分の考えていることを表に出さない子だ、と凛子は分析していた。この包帯に対して、彼女が何も言ってこないということに、むしろ凛子は気がかりを感じていた。
 『魚』に噛まれた手首の傷あとはくっきりと残っているのだが、問題は肌の色にあった。噛まれた場所を中心として、色が白く変色しているのだが、日を追うごとにその変色の度合いが強くなっている。白くなっている部分が弾性を失い、パサパサと硬くなってきている。まるで……、まるで、魚の鱗のように。
 凛子は、買い物に出かけることにした。普段、会社がある日は会社帰りに駅前のスーパーに寄って買い物をすませてしまうのだが、今日はうっかりしていて寄るのを忘れてしまった。窓から外を見ると、小雨がぱらついていた。
 エレベータを降り、エントランスから外に出る。マンションの自室から見えた感じでは小雨がぱらついている程度のように見えたが、実際に外に出てみるとなかなかの雨量だった。凛子は傘を開いて外に出た。
 マンションのエントランスの脇に自転車置き場があり、その横に女がひとり立っていた。はじめ、その自転車置き場に置いてある自転車に乗ろうとしているのかと思ったが、女は直立したまま動かないので、近づいたときに、異変に気付いた。女は傘もささずに、自転車置き場の脇に立っている。凛子は不審に思い、あまりかかわり合いにならないほうがいい、とそそくさと通り過ぎようとした。
「あら」
 女が唐突に、何か珍しいものでも発見したような、甲高い声をあげた。声のトーンがあまりにも日常的なもので、しかも明るかったので、逆に凛子はぎょっとした。振り返るまいと思ったが、つい顔を女のほうに向けると、小さく声が漏れた。
 女は美奈さんだった。ジーンズにTシャツで、髪も後ろでまとめているだけの格好だったので、近づいてみるまでわからなかった。研究室にいるときの美奈さんは、いつもワンピースかロングスカートを履いていたので、そんな格好をしているだけでずいぶんと印象が違った。あと、昔は髪型がショートヘアが多かったが、いまはだいぶ髪が長くなっていた。数日前に先輩の葬儀で会ったときよりも、さらに印象は違っていた。何よりも、凛子のマンションのエントランス脇にいるという状況が不自然だった。
「凛子ちゃん? あら、どうしたの、こんなところで」
 あきらかに様子が普通ではなかったが、声のトーンは、凛子の知るそれと同じだった。それが、不気味さをより際立たせていた。
「あ、美奈さん」
 いま気付いた、という風を装いながら、小声で返事をすると、美奈はその場から動かず、にっこりと微笑んだ。雨が降り注いでいるせいで、シャツはべっとりと身体に張り付いている。
「奇遇ね、こんなところで会うなんて。凛子ちゃん、この近くに住んでるんだっけ?」
 自転車置き場からエントランスのほうを見ていたのだから、凛子が出てくるところを注視していたことになる。だが、あきらかに様子がおかしい美奈に対してそういった当たり前の返答をすることが怖くて、そこから駆け出してしまいたい衝動に駆られた。しかし、買い物が終わったら当然ここに戻ってくることになるので、結局は同じことだろう。凛子は、なぜこのタイミングで買い物に行こうと思ったのだろう、と後悔したが、こんなことを予測できるわけがない。
「あ、あの……」
 上擦って声がうまく出せない凛子を遮るようにして、美奈は続ける。
「近くを歩いてたら、凛子ちゃんに似ている人がいるから、あら、と思って。そっかー、ここに住んでるのかぁ。けっこう良さそうなマンションね、ここ。駅からも近いし。ひとりで住んでいるの?」
「美奈さん、そこだと濡れちゃいますよ。とりあえず軒下に入ってください」
「いいの、いいの。歩いてたら突然降ってきただけだし。それに、別に濡れてもなんてことない服装だし」
「風邪ひいちゃいますよ、そこだと。お願いします」
 とりあえずもと来た道を戻り、マンションのエントランスに入った。エントランスの明かりの元に立つ美奈は、まるで別人のように変わり果てていた。姿形がどうとかいうわけではなく、服装もそうだが、纏っている雰囲気のようなものがガラリと変わっていて、まるでまったく別の他人が似た顔のお面をつけているみたいだった。お面のように張り付けられた笑顔を絶やさないところに、凛子は恐怖を覚えた。この人は、いったい何をしに来たのだろう。そもそも、どうやってここがわかったのだろうか。
 美奈と面と向かって会話をしたことはほとんどなかった、ということに気が付いた。凛子と美奈のあいだには、常に先輩がいたのだ。たとえば仲間内で飲みに行ったりするとき、先輩がいて美奈がいないことはあっても、その逆はなかった。ましてや、美奈とふたりきりで話をする機会も、そうそうなかった。あくまでも、凛子のなかでは、美奈の存在は「仲間内のひとり」という認識にすぎず、一対一で何かを話す機会も必要性もなかったのだ。何をどういうふうに切り出せばいいのかわからなかった。ましてや、こんな普通ではない様子の美奈をどう扱えばいいのか、凛子は途方に暮れていた。
「美奈さん、びしょ濡れですね」
「ああ、いいの、大丈夫。勝手に乾くから」
「傘とかも持ってきてないんですよね?」
「大丈夫だから、ほんと」
 あまり意味の感じられないやり取りを交わしながら、ここがマンションのエントランスであるということが気にかかっていた。こんなところを、誰か近所の人に見られるのは嫌だな、と直感的に思った。
 だが、こんな状態の美奈を追い返すことはできるだろうか? だが、ここが自宅でまだよかった、とほっとしている自分もいた。もし、客として店舗に来られたら、それこそ対応できなくなっていただろう。
 あまりにも美奈がびしょ濡れで、しかもそれをどうにかする気がなさそうだったので、凛子は自分の部屋からタオルを持ってこようかと思ったが、それこそマンションのエントランスに長時間、美奈を待たせることになるし、なにより、彼女がそこからどういう行動に出るか予測がつかない。全く気はすすまないが、自分の部屋に連れて行くしかないのだろうか、と覚悟をきめた。
「ここにいるのもなんですし、わたしの部屋までいきましょうか?」
 そう提案すると、美奈は「いいの、いいの、そんな」と言ったが、帰る気配がないので、何か目的があってここに来たのは明らかだった。こんな茶番を続けているよりも、さっさと部屋で話を聞いたほうがはやいかな、と凛子は判断した。それに、と凛子は思った。先輩が美奈から隠したかった、あの『魚』について、何かわかるかもしれない。先輩の意図と反することをするのは気が引けるが、なにせ、もう先輩はいないのだ。いまは、あの『魚』にまつわる情報だったら、なるべく集めたい。これは願ってもない状況だ、と凛子は思った。
 自分の部屋に着き、ドアを開ける。先ほど帰宅した際に空調をつけておいていたので、もう部屋はだいぶ涼しくなっていた。
「美奈さん、ちょっと待ってください。タオル持ってきますから」
 そう言って、玄関脇の脱衣所からバスタオルを取ってきて、美奈に手渡した。美奈は黙ってそれを受け取る。下駄箱から、来客用のスリッパも出した。
 バスタオルで顔や手をぬぐった美奈から、タオルを受け取った。着替えも出したほうがいいだろうか、と思ったが、こちらから頼んだわけでもなく、突然押し掛けてきたこの来訪者に対してそこまでするものだろうか、と逡巡した。そこではじめて、美奈が訪ねてきた、という事実を、迷惑だ、と感じている自分をはっきりと自覚した。美奈の様子がおかしいことは確かだったが、だからといって、こんな気持ちで普通は迎えるものだろうか、と思った。大した親交はなかったものの、大学時代は何度も何度も顔を合わせていたというのに。同じ仲間グループのうちのひとりだったというのに。自分は薄情な人間なのだろうか。
「ちょっと着替えを持ってきます。とりあえず、中に入ってください」
 ばたばたと駆け出し、寝室からとりあえずの着替えをもってくる。美奈がラフな格好をしているので、そんな程度のものでいいだろう、と思った。美奈は黙って部屋に入ってきて、しばらく茫然自失としていた。とりあえずの着替えを手渡し、寝室で着替えてくるように促す。さっきまでの、美奈に対して抱いていた恐怖心もだいぶやわらいでいた。後ろ姿を見ながら、こんなに小柄な人だったっけ、とぼんやり思った。
 ひとまず落ち着いた美奈をダイニングの椅子に座らせ、コーヒーを淹れていると、「良い部屋ね、ここ」と美奈がしばしの沈黙をやぶった。「家賃、どれぐらいなの?」
「いえ、そんなに高くはないんですけど、私の給料からしたら、けっこう、カツカツで」と凛子は答える。
「でも駅から近いし、まだそんなに古くないし、それにアパートじゃなくてマンションでしょ? すごいなあ、こんなところに住んでるなんて」
 美奈は椅子から立ち上がり、大窓のほうに歩いていった。窓の外の景色を見ようとしているらしいが、その脇にある水槽の前で止まった。
「へえ、熱帯魚飼ってるんだ」
 水槽の中をのぞきこんでいる。水槽の中では、もちろん、『白い魚』がゆらゆらと泳いでいる。美奈は飽くことなくその魚を見つめている。
「きれいな魚ね。でも、この一匹だけ? 熱帯魚って、普通、何匹も一緒に飼うもんだって思っていたけれど。なんていう魚なの?」
「知り合いから譲ってもらったものなんですけど、あんまり熱帯魚には詳しくないんです。ただ、部屋に合うから、ってもらっただけで」
 まさか名前すら知らない、ということは言えず、少し話題をそらして言った。美奈はまだ魚に注視している。
「そっかあ。でも、熱帯魚飼うのって、最近流行ってるのかなぁ。『あの人』の……」と言って美奈は言葉を切った。「あの人」、というのは、言うまでもなく、先輩のことだろう。「……『あの人』の社長さんが、そういえばこんな魚を飼ってたな。会社に行った時、函南社長の部屋にこんなのがたくさんあったもの」
 凛子は美奈の言う「函南社長」のことを思い出した。新進気鋭の、ITベンチャーの社長。携帯ゲームアプリから事業をスタートさせ、いまではネットメディア、金融、SNSなど、多方面で成功している会社で、函南社長自身もカリスマ経営者として知名度は高い。凛子は彼らの会社のゲームをしたことはないが、SNSサービスは日常的に使っている。
 函南社長は、ブログやSNSなどを積極的に活用し、経営者としての自分自身を前面に押し出す経営をしている。凛子も何度か、話題になった彼のブログを読んだことがあるが、博識で、いろいろな知見に富んでおり、さすがにカリスマ経営者と呼ばれるだけのことはあるな、と感心したことがある。先輩は、学生時代に函南社長と知り合い、学生時代からアルバイトとして会社にはよく出入りしていたそうだ。そのまま、大学を出ると、函南社長の経営するカンナミコーポレーションに入社した。
「シンプルな部屋だね。魚がいるだけで、他に何もないなんて、ほんとに凛子ちゃんの部屋だな、って感じがする」
「物がごちゃごちゃしてるの、苦手なんです。片付けをするのも面倒だし」
「あの人とは対極だね。ほんと、学生の頃から机の上はゴチャゴチャ。下宿先にも、いろんな趣味のコレクションが集められててさ。そんなにお金もなかったはずなのに、大人買いだ、とかいって、くだらないオモチャばかり買って」
「男の人って、そういうものなんじゃないでしょうか」
「でもね、いなくなってしまったら、そんなの、ただのガラクタだから。もう持ち主がいなくなれば、ただのガラクタだから。いくら残された人が後生大事に持ってたって、何にもならないのよ。もう大部分は、捨てちゃった。それでね、部屋の中がスッキリしちゃって、別にそんなに広い部屋でもないんだけど、あの人が居たっていう痕跡すらなくなっちゃったような気がして、それでなんだか不安になって……」
 早口でまくしたてる美奈にどういう言葉をかければいいのかわからなかった。
「凛子ちゃんの部屋に行けば、一緒に写ってる写真のひとつもあるかと思ったけれど、どうやらそれもないみたいだし」
 気付いていたのか、と凛子は思った。自分と、先輩との関係を。といっても、何も後ろめたいことがあるわけではない。たまに、二人だけで食事をしたりしていただけだ。あくまでも、友人同士として。
 あの、と凛子が言葉を紡ごうとすると、美奈はそれを制するように、小声でまくしたてはじめた。
 いいの、いいの、ぜんぶ、わかってるから。あたしじゃ駄目なんだってことぐらい。あの人のそばで、ただニコニコしているだけじゃ駄目なんだってことぐらい。あの人には、拠り所が必要だったの。精神的な拠り所が。自分が向かうべき方向を示してくれて、自分がやりたいことを一緒に指し示してくれる人が。あたしじゃ駄目だったのよ。本当に……。
 やっぱり家に入れるんじゃなかった、と凛子は思った。冷たいようだが、先輩がいなくなってしまった以上、美奈がここにきてもできることは何もない。そして、自分がしてやれることも、何もない。
 それどころか、そうやって自分の感情を、思うままに、他人に吐露できる美奈に対して妬みにも近い感情が生まれた。そうやって、他人に、自分の感情に任せて気持ちをぶつけることなど、自分には、到底、できない。
「……この子」と美奈は言い、水槽の中の魚を指差した。「あの人のよね? 間違いないわ。もらって帰るわね」
 凛子は言葉がでなかった。美奈がこの部屋に来た時点でそうなることを予期していたはずだったのに、言葉が出てこなかった。
「いえ」と凛子は、なるべく落ち着いた声で言った。少しだけ、声が震えていたかもしれない。「それは、先輩のではありません」
「嘘。あたし、わかるわ。これは、函南社長のものよ。あの人が、社長からもらったんだわ。間違いないわ、この目でハッキリみたもの」
「いえ、違います。それは私が、別の知り合いからもらったものです」
 凛子は嘘をついた。嘘をつかざるを得なかった。
「証拠は? それをもらったという証拠はあるの?」
「証拠はありませんが、美奈さんだって、証拠はないですよね」
 言葉を受けて、美奈の顔が歪むのがわかった。人の顔って、こんなふうに歪むんだ、と凛子は思った。まるで、別人のお面をつけたかのような顔に。いや、いままで付けていた面をはぎ取ったのか。どちらなのかはわからない。だが、研究室で穏やかに微笑んでいた美奈はもうどこにもいなかった。髪型も違うし、服装も、化粧も違うその人は、凛子からすれば、突然押し入ってきた強盗のようなものだ、と思った。
 いままで日常だと思っていた風景が、その人の存在によって、いっぺんに違う風景へと変わる。ここが自分の住んでいるマンションの部屋だということも忘れてしまった。
「言う必要はない? いいえ、言う必要はあるわ。あるに決まってるじゃないの。あの人のものなんだから。あの人が、函南社長からもらったものなんだから」
「だから、違うって言ってるじゃないですか」
「じゃあ誰なの! 答えてよ!」
 美奈は絶叫した。後ろで結んでいた髪留めが取れ、長い髪を振り乱しながら叫ぶ様に、凛子は凍り付いた。人間という生き物の深淵を見たような心持ちがした。
「美奈さん、落ち着いてください」
「どうして、どうして……、みんな私から奪って行くのよ? そんなに多くのことを望んでいたわけじゃない。ただ、当たり前の……普通の幸せが欲しかっただけなのに……」
 美奈の声が部屋じゅうに響き渡る。その一言一言が、凛子の胸に刺さった。人がひとり亡くなれば、周りの人の心は、傷つけられる。しかし、いちばん側にいたこの人が、いちばん傷ついている。それを向ける先もなく、ただ周りの人に当たり散らしている。
 だが、と凛子は思った。魚を取られるわけにはいかない。
 なぜなら、『魚』は、先輩自身だから。『魚』を使って、『あの世界』に行きさえすれば、いつでも先輩に会えるから。
 だから、取られるわけにはいかない。相手が誰であろうと。
「いいわ、確認するから」
 美奈はそう言うと、携帯電話を着替えのポケットから取り出した。おそらく、さっき着替えたときに元の自分のジーンズから移したのだろう。
 函南社長の番号を知っているのだろうか、と凛子は思った。この『魚』の出所を、凛子は聞かされていない。なんの前兆もなく、突然、先輩本人から、これを預かってくれないかと請われ、その理由を問いただすこともできずに、先輩はひとりでいなくなってしまった。この『魚』は、買ったものなのか、もらったものなのか、それすらも凛子は知らない。
 もし、函南社長から先輩が譲ってもらったもので、本人にじかに確認を取られたら、凛子の嘘がバレてしまう。どうしよう、と逡巡した。あきらかに異常な精神状態の美奈が、電話をかけたところでまともな対応をしてくれるとは思えなかったが、もし確認を取られてしまったら。
 コール音がかすかに聞こえる。
 美奈から携帯電話を取り上げることは可能だろうか、と思った。だが、美奈の抵抗を押し切って取り上げることができるとは思えなかったし、それに、そんなことをしたら、自分が嘘をついていることを認めることになる。コール音が鳴り響く時間が永遠にも感じられたが、凛子はどうすることもできなかった。
 何度コール音を鳴らしても、函南社長は出ないようだった。凛子はほっと胸を撫で下ろしたが、美奈は急にぐったりと脱力し、どうして、と呟いた。
 美奈はうなだれた状態のまま、リビングを突っ切り、玄関のほうへと向かった。凛子は、このまま帰るのだろうか、と思った。
 美奈はダイニングの前で足を止めると、壁にかけてあった包丁を手に取った。
「この泥棒猫が……」
 低くうめくように叫んだ。テレビドラマ以外で、泥棒猫なんて言葉を聞いたのははじめてだな、と凛子は場違いなことを考えた。
 じりじりと美奈は包丁を構えたまま、間合いを詰めてくる。どうして、と凛子は思った。どうしてこんなことになったのだろう。皆が傷ついている。
 ふと、外に降っている雨音が耳に突き刺さるような感じがした。気付けば、大声で叫び声をあげていた。


      2


「どうしたんですか、そんな荷物を抱えて。さあ、そちらにどうぞ」
 診察室の中へ入っていくと、瀧本は変わらない笑みを浮かべていた。満面の笑みという感じではなく、口端をわずかに持ち上げて、微笑んでいる、といった表情だ。以前とまったく変わらない光景に、凛子は心が落ち着いていくのを感じた。
 あの事件からひと晩が経っていた。美奈に包丁を向けられた凛子は叫び声をあげ、それを聞きつけた隣室の住人が駆けつけた。四十がらみの体格のいい男性で、ご近所づきあいというほどのものはなかったものの、通路ですれ違うと会釈を交わすぐらいの面識はあり、たまたま外出先から帰って来たところに叫び声を聞きつけ、異常を感じてドアを開けてくれたのだ。ちょうどそこに居合わせた別の住人も加勢し、二人がかりで美奈を取り押さえた。刃物を振り回すことで美奈はさらに興奮状態になり、まともに口が聞けるような状態ではなかった。男二人が力づくで押さえつけているあいだに、凛子が自分の電話で一一〇番通報し、およそ二十分後に到着した警察官によって美奈は取り押さえられた。
 美奈は数回、凛子に向かって刃物を振り回したが、幸い、凛子にケガはなかった。被害も、部屋にあったティーカップが床に落ちて割れただけだ。美奈には器物破損にくわえて殺人未遂の容疑までかかったが、事が大きくなることを避けて凛子はすべての被害を取り下げた。騒ぎがおさまりかけた頃、父親から携帯電話に着信があった。だいじょうぶなのかと聞かれ、本当は普通の精神状態ではなかったが、だいじょうぶと返答した。また休みができたら帰ってこい、そう言い残して父親は電話を切った。両親は凛子が高校生の頃に離婚し、以後、凛子は父親と一緒に暮らしていたが、もともとあまり家に居着かない人で、大学に進学してからは凛子もあまり家に帰らなくなり、ほとんど会話らしいものはなくなった。帰ってこい、というが、実際に実家に帰り、父親とふたりで何を話せばいいのかわからない。今回の電話も、本当に心配しているというよりは、警察から連絡があったから、とりあえず電話をした、というようなニュアンスだった。
 美奈は取り押さえられてから支離滅裂な言動を繰り返しているようだった。美奈自身のことも気にはかかるが、凛子は函南社長とコンタクトが取れたのかどうかという点が最も気になった。
 『魚』のことを、凛子は何も知らない。これを持ってきた当の先輩は、もういない。だが、よく考えてみれば、この『魚』をここに先輩が持ってきたということ自体が不自然な感じがした。美奈が指摘したように、それはもともと函南社長が所有していたもので、それを譲り受けたものなのだろうか?
 だが、それだとなぜ自宅に持ち帰らなかったのか、という疑問が残る。やはり、函南社長が所有していたこの魚を、先輩が勝手に、つまり、盗み出したものなのだろうか。しかし、なぜ凛子の家に?
 問題は、この盗み出された可能性のある『魚』を、函南社長が取り戻しにくるかもしれない、という点にある。事情を知らなかったとはいえ、盗品の現物がここにある、ということになるのだ。警察が凛子の部屋に入って事情聴取をしたとき、凛子はリビングの片隅にある水槽のことが気になった。もし、警察官がこの魚の存在に気がついたら? しかし、水槽はどこにでもあるごく一般的なものだし、『魚』も小振りなごく普通の魚だったから、誰もそれが盗品であると思いはしなかっただろう。とりあえずその場はしのげたので、凛子はほっとした。
 美奈は普通の精神状態ではなくなっているが、もう函南社長とコンタクトは取ったのだろうか。函南社長が被害届を出し、美奈が凛子の部屋にそれがあったと証言していたら厄介なことになる。
 結局、翌日、凛子は恩澤に事情を話し、もう一日休みをもらった。こんなに欠勤が続くのははじめてだったが、恩澤は、梶原さんもそろそろひとりで仕事できるようになってきてるから大丈夫だよ、それよりも、大変だったね、と気をつかってくれた。細かい事情までは恩澤は知らないはずだが、気をつかってくれてやっぱりいい人だなと凛子は思った。
 夜は不安で一睡もできなかった。先輩との思い出がぐるぐるして、ベッドに入ってからも目を閉じるたびにどうでもいい思い出がひとつひとつ蘇り、そのたびに神経が高ぶった。それに、なんであんな嘘をついてしまったんだろう、と後悔する自分もいた。美奈の興奮状態がおさまり、『魚』のことを警察に話したら、警察はここに来るかもしれない。あるいは、既に函南社長が、盗難届を出しているかもしれない。
 だが、と凛子はかぶりを振る。これが盗品である証拠はない。函南社長から譲り受けた、あるいは購入したものかもしれない。あるいは、函南社長のものだということ自体、美奈がそう主張しているだけにすぎず、本当はもっと別のところから手に入れたものなのかもしれない。何しろ手元にある情報が少なすぎて、何も判断ができない。
 確かなことは、この『魚』がここにあるのは危険だ、ということだった。もともとこれがここにあるのは凛子の意思ではないのだから、盗品であるという自体に問題はないだろう。これをここに持ってきた先輩はすでに他界しているが、調べれば凛子に疑いがかかることはないはずだ。問題は、いまは『魚』を必要としてしまっている、ということだった。
 これを手放せば、永遠に先輩と離ればなれになってしまう。
 『魚』をどこかに移動させなければならない。だが、どこへ? 凛子は思いつくかぎりの知り合いを思い浮かべてみた。大学の同級生……職場の同僚……。実家は論外だった。おそらく、父親は凛子がこんな『魚』を実家に持ち込めば、ただちにどういう出所のものなのかを探ろうとするし、盗品の可能性があるとわかれば、ただちに警察に届け出るだろう。
 半日近く考えたのち、瀧本しかいない、凛子はそう確信した。『魚』をどのような手段で移動させればいいのかわからなかったが、ネットで一般的な熱帯魚の運搬方法を調べ、準備をした。厚手のビニール袋に水槽の水を入れ、発砲スチロールなどの箱に収めれば運搬は可能らしい。ただし、魚にストレスがかかるので、長時間の移動はできない。凛子は前回と同じように、瀧本クリニックに電話で予約を取り、通常の診察が終わる午後六時に訪問する旨を伝えた。
 ネットで見た通りに準備をして、魚の入った箱をキャストつきのキャリーケースに詰め、凛子はマンションを出た。移動にはタクシーを使った。瀧本クリニックに着くと、以前と同じように、川嶋嬢が受け付けてくれ、奥の診察室に通された。まるで、ここだけ時間が止まっているかのように、何もかもが以前と同じだった。
 瀧本に勧められて椅子に座ったものの、何をどう切り出せばいいのかわからなかった。押し黙っていると、江利子から多少は事情を聞きましたよ、と瀧本は切り出した。「といっても、江利子も何が起きているのか、よくわかっていないようでしたが。おそらく、その件で相談に来られたのですね? もしよろしければ、お聞かせ願えますか」
 いざ瀧本を前にすると、言葉が何も出てこない。だが、瀧本は医師で、コミュニケーションのスペシャリストだ、回りくどい言い方をする必要はない、と思った。
「先生、『魚』を預かって頂けないでしょうか」
「前回、安達さんがおっしゃっていた、『魚』のことでしょうか?」
「ええ、実は、それをいまここに持って来ています。このバッグの中に、それがあるんです」
 瞬間、ぴくりと瀧本の眉が動くのがわかった。瀧本がわずかながらでも表情を崩すのはそれがはじめてだった。
「ちょっと見せてもらえますか」
 凛子は頷き、足元に置いてあるキャリーケースのジッパを開けた。ケースにギリギリ入るぐらいの大きさの発砲スチロールの容器があり、その蓋を取ると、厚手のビニール袋の中で静かに泳いでいる白い魚が見えた。瀧本はそれを覗き込みながら、綺麗な魚ですね、と呟いた。
「お預かりすることはかまいません。ですが……」と言葉を切った。「それがどのぐらいの期間なのか、つまりですね、安達さんが、この魚をふたたび受け入れる体勢が整うのはいつなのか、それを教えて頂くことはできませんか。細かい事情は問いません。安達さんが相当お困りなのは、表情を見ればわかりますから」
 やはり瀧本は、細かい事情を聞かずに承諾してくれた。凛子は安心して思わず表情がゆるんだ。どんなに小さなことでも、人に頼みごとをするとき、相手がそれを受け入れてくれるかどうか、不安になる。そして、それが断られたとき、その内容の重要さに関わらず、自分をまるごと否定されたような、そんな心もとない気持ちになる。その逆に、相手が自分の頼み事を何も言わずに受け入れてくれたとき、まるで自分のすべてを受け入れてくれたかのように錯覚してしまう。凛子には、もう瀧本に頼るしか道は残されていなかった。
「ここの上の階が僕の住居になっています。既に色々なものを飼っているので、必要なものはあります。良ければ、僕の部屋でお話しませんか。この魚の世話のやり方も、そこでお聞きします」
 凛子は少し驚いた。瀧本は、このビルの上階に住んでいる、という。ここは繁華街のはずれにある古ぼけた雑居ビルで、マンションではない。住宅用の設備はあるのだろうか。
 瀧本は、少し仕事を片付ける必要があるので、待ち合い室で待っていてくれないかと言った。『魚』は、あとから持って行くからそこに置いておいてくれ、と付け加えた。凛子が診察室を出て、待ち合い室に行くと、そこには瀧本のアシスタントだという美穪子がカウンターの椅子に腰掛けていた。カウンターの中には大きなディスプレイのパソコンが設置されており、美穪子はそれを眺めている。サボっているというわけではないが、どうも仕事をしている感じではなさそうだ。凛子が診察室から出てくるのを見ると、顔をあげて、細く微笑んだ。精神状態が不安定な人に満面の笑みを向けると、それだけで相手に不安感を与える可能性があり、それを避けるためにこうやってうすい微笑みを身につけるのかもしれない、と凛子は考えた。
「大変お疲れ様でした。今しばらくお待ちくださいませ」
 美穪子はその表情のまま、抑揚のない口調でそう言った。そして、凛子に向けた微笑みを、無表情の一歩手前まで戻しながら、ふたたびカウンターのパソコンのディスプレイに目を落とす。そのまま、人形のように固まってしまった。まるで、精巧に出来たアンドロイドみたいだな、と凛子は思わず考えた。先輩の専攻は情報工学で、専攻しているテーマは画像処理関係だったが、関連する研究室で人工知能とアンドロイドを研究し実際にプロトタイプをつくるところもあった。凛子は先輩に連れられて、実際にその研究室に行き開発中のアンドロイドを見せてもらったことがある。要するにロボットなのだが、配線がむき出しで、胸部から上しかなく、顔の部分だけ精巧に作られている。こちらの存在をカメラで認識し目で追い、そして、シリコンの皮膚を婉曲させて、微笑む。その様がいかにも不気味で、凛子は怖くなった。
 先輩は、それを見せながら、いわゆる「不気味の谷」だね、と教えてくれた。人間とは似ても似つかないものに対して不気味さや恐怖を感じることはないが、人間に似せれば似せるほど、本物の人間との差異が気になって、それが不気味さに繋がるのだ、と説明してくれた。だが、ある点、つまり人間とほぼ同じところまでアンドロイドが近づくことができたら、それに対して不気味さを感じることはないのだ、と言った。美穪子を見ながら、この人は間違いなく人間だが、精巧に出来た未来のアンドロイドだと説明されても、きっと自分は信じ込んでしまうだろう、とバカなことを考えた。
「まだお仕事は終わらないんですか?」と凛子は待合室のソファに浅く腰掛けながら声をかけた。もう時刻は十時を回っている。このクリニックは朝九時からやっているので、朝からいるのだとすると、かなりの長時間労働になる。
 美穪子は少し驚いたような表情になり、一瞬、凛子のほうを見て、そしてすぐに逸らした。その様子が普通ではなかった。そして、ええ、と小さく、かき消えるような声で返事をした。
 凛子は質問をしながら、自分がまだここにいるから、美穪子は仕事が終わらないのだ、と思った。「ごめんなさい、こんな遅い時間に来てしまって。私がいるから、まだ帰れないんですよね」
 すると、驚いたことに、美穪子はカウンターから立ち上がり、「ち、ちがいます」と少し大きめな声で言った。そして、すぐに座り、また目を逸らしてしまう。凛子は、もしかしたら美穪子も精神的に不安定な状態にあるのではないか、と思った。「だ、大丈夫です、わ……私のことなら、気にしないでください」
 美穪子に抱いていた、冷静で知的な印象の女性、というイメージが少し変わったような気がした。どちらかというと、いまの声のトーンは、幼かった。美穪子はいくつなのだろう、と凛子は考えた。最初に出会ったときは、落ち着いた様子から年上かと思っていた。だが、いま話した声の感じだと、自分よりも年下に思える。
 世の中には接客業と呼ばれる職種はたくさんあるが、本当に会話の能力が求められる仕事はそれほど多くはない。例えば、コンビニの店員や、ファミレスの店員など、マニュアル通りの接客をする職種の場合は、マニュアルに記載されている文句を覚えるのがまず最優先で、たいていのトラブルはマニュアル通りに対処するし、もっと大きなトラブルになれば上役が対応するシステムになっているので、自分で会話の内容を考える必要がない。だから、急にマニュアルにない対応を求められる事態になると、どう対処すればいいかわからなくなってしまう。マニュアルのない職場であれば、常に臨機応変に対応することに慣れているので、あらゆる事態に対処することができるが、現代ではマニュアルのない仕事というのは少ない。凛子は、軽い世間話のつもりで美穪子に話しかけただけだが、それが美穪子を緊張させる結果になってしまったようだ。
 凛子はこれ以上、美穪子に話かけてもいいものか迷ったが、美穪子はディスプレイを見続けているだけで仕事をしている様子はない。できるだけゆっくりとした口調で話かけることにした。
「少し、お話してもいいですか?」
 美穪子はまたびっくりした表情をして、凛子を見た。凛子は、顔を本当に真正面から見るのはこれがはじめてだな、と思った。端正な顔つきに、薄い縁なしの眼鏡をかけている。ほとんど度が入っていないので、目が悪いわけではなさそうだ。凛子に話かけられ、戸惑った表情をみせながらも、はい、と美穪子は頷いた。
「それ、度が入ってるんですか?」と凛子は美穪子の眼鏡をさしながら言った。
「いえ……これは、ちがいます。度が入っているわけではなくて、その……。パソコンを見ていると、目が悪くなるから」
「あ、ブルーライトを遮光するやつ? 最近、かけてる人、多いですよね」
「そう……ですか?」
「そうそう、うちの大学も、理系の人は眼鏡かけてる人が多いけど、ブルーライトを遮光する眼鏡をかけてる人も多いですよ。だいたい、みんな一日じゅうディスプレイ見つめてるような人たちばかりだから」
 他愛のない会話をしばらく続けた。会話をするうちに、少し打ち解けてきたような雰囲気があった。今まで、このクリニックで、こんな感じで美穪子に話かける人はいなかったのだろうか。考えてみれば、精神になんらかの問題を抱える人が訪れるクリニックなのだから、こんなふうに気さくに話かけてくる人は少ないのかもしれない。そのことを美穪子に話すと、そうでもないんです、と彼女は言った。クライアントの中には、躁病というか、異常にテンションの高い人もいて、美穪子はその人が来ると何を言われるのか予測がつかず、いつも緊張するのだ、という。やってくるなり、仕事の終わりの時間を訊いてきたり、どこかに遊びに行こうと誘ってきたり。そういうときはどうするのかと聞くと、最近は少しずつ慣れて来たのでなんとか自分でも対処できるようになったが、瀧本先生が直接出て来て対応されることもある、と美穪子は言った。
 確かにこれほどの美人なら声をかけたくなる気持ちはわかるが、こんな病院の待ち合い室で堂々と声をかけるなんて、一体どういう人なのだろう、と凛子は思った。
 ここに勤め始めてどのぐらいなのか、凛子は訊いた。あまり立ち入ったことを訊くのは本懐ではなかったが、このぐらいの質問なら問題ないような気がした。そうですね、ここに勤めはじめたということなら、まだ一年ほどです、と美穪子は消え入りそうな小さな声で言った。ただ、ここに住み始めたのは、もっと長いです、と彼女は言った。凛子は驚いた。ここに住んでいる? 瀧本はここの上階に住んでいると言っていたが、まさか一緒に住んでいるのだろうか。そう確認すると、そうです、と美穪子は答えた。


   3


「お待たせしました」
 瀧本が引き戸を開け、待合室に入ってくる。右手でキャリーケースのハンドルを握り、左脇には書類ケースを抱えていた。それを潮に、美穪子は立ち上がり、カウンターから出て来た。瀧本はキャリーケースをガラガラと引いてクリニックを出ると、エレベーターのスイッチを押した。凛子はそれについていく。背後では、美穪子が最初に来たときと同じように、軽くお辞儀をして見送ってくれた。ここでは、クライアントが帰るときはそうする決まりになっているのだろうか。美穪子はクリニックの戸締まりをするのかもしれない。
 瀧本が先にエレベーターに乗り込み、上階のスイッチを押す。瀧本が押したのは六階で、このビルの最上階だった。ドアの向こうには、非常灯がついているだけの殺風景な廊下があった。こんなところに本当に住んでいるのだろうか。
 瀧本はエレベーター脇のスイッチを押し、廊下の電気をつけた。突き当たりまで歩くと、ガラスのドアがあった。オフィスの入居しているいわゆる雑居ビルなので、ドアの横にオフィスの社名を表示するための白いプレートがあるが、そこに「瀧本」という味気のない明朝体の表札があった。
「驚きましたか」と瀧本は言った。「このビルは知り合いが所有しているビルなんですよ。僕は、クリニックのフロアと、この最上階を貸してもらっています。もともとはオフィスが入居していたようですが、改装したんです」
 瀧本は家に入ると、靴を脱いだ。靴箱の脇に、スリッパを立てるスタンドがあり、瀧本はそこからスリッパを出し、凛子に勧めた。
 玄関を入ると廊下が右に折れている。その奥には元はオフィススペースだったのだろう、広い空間があった。手前に薄い青色のソファーがコの字型に配置され、その正面にテレビがある。だが、部屋の奥は、白い鉄製のラックが縦列に配置され、そこに水槽がいくつも配置されていた。どの水槽にも水草やコケがびっしりと密生している。よくみると、小さな熱帯魚などが水槽の中に浮遊している。まるで熱帯魚の専門店のようだった。
 部屋の奥に入っていくと、水槽だけではなく虫やマウスなどのケージもあった。その雑然とした感じは、どこか、大学の研究室を思わせた。
 瀧本はソファの横にキャリーバッグを寝かせ、ジッパに手をかけた。凛子は魚が無事か少し不安になった。瀧本はおそらく熱帯魚には詳しいだろうから、雑な方法で運搬してきたことに対して気分を害するかもしれない、と思った。
 ジッパを開け、発砲スチロールの箱を取り出す。箱をあけると、魚が入ったビニール袋が見えた。水槽の中と同じ感じで、魚はゆらゆらと動いていた。
 瀧本はしばらくじっと見つめたまま、声を出さない。凛子は急に心配になってきた。これだけ熱帯魚がいるのなら、扱いには慣れているだろうが、余分なトラブルに瀧本を巻き込むことになってしまうかもしれない。
「綺麗な魚ですね。こんなに綺麗な魚は、見たことがありません。責任をもって、お預かりいたします」
 瀧本が力強くそう言ったので、凛子は少し安心した。
 凛子は魚の飼育に関する簡単な説明をしたが、凛子が持っている知識はごく初歩的なものだったので、あまり時間はかからなかった。特別なものが何も必要ないとわかると、瀧本は水槽の準備をはじめた。
 凛子は手持ち無沙汰で、瀧本に勧められるまま、ソファに腰掛けた。それにしても、と思う。あの、川嶋美穪子は、ここに住んでいると言った。まさか、この部屋に一緒に住んでいるのだろうか? オフィススペースの奥に廊下が伸びていて、まだ複数の部屋があるようなので、そのうちのどれかが寝室なのだろうが、まさか寝室も一緒なのだろうか、と思った。いや、本当にそうだとしたら、こんなに開けっぴろげに言うはずがない、おそらく、ルームシェアのような形で、リビングなどのスペースを共有しているだけなのだろう、と思った。
 それにしても、部屋には女性が住んでいる気配がほとんどなく、瀧本の私物と思われる置物や飾り物がいくつか、テレビのまわりに配置されているだけだ。どこかの民族ふうの置物や、藍染めのクロスなど、異国情緒溢れるものが多かった。
 美奈が部屋にやってきたのは昨晩のことだが、遠い昔のことのように感じられた。いまは、どうなっているのだろう。やはり、自分の冷淡な対応が、彼女にああいう行動を取らせたのだろうか、と凛子は取り留めのないことを考えた。本人はもとより、先輩の遺族のことを思うと、暗澹とした気持ちになった。
 ふと、携帯を開くと、知らない番号から着信があることに気がついた。瀧本と会っている最中はマナーモードにしていて気がつかなかった。知らない番号から電話がかかってくることは少ない。もちろん、仕事関係でかかってくる可能性はゼロではないが、普段は恩澤からかかってくる。緊急の用事だろうか、と考えながら、携帯のディスプレイを見つめていた。
 その瞬間、携帯が震えた。同じ番号からの着信だった。鼓動がはやくなる。同じ番号から二度も着信があるということは、かけ間違いではないのかもしれない。重要な用件だろうか。
 別室に行ったのか、瀧本の姿が見えない。もし仕事関係の電話であれば、無視することはできないと思い、凛子は立ち上がって、玄関のほうへ歩きながら電話に出た。
「もしもし」
 男性の声だ。声に心当たりはない。うかつに名乗るのは良くないなと警戒し、抑えた声で、もしもし、とだけ返事をした。
「安達凛子さんの携帯で、いいですか」
 独特の低いトーンの、けだるい感じで声の主は言った。相手はこちらの名前を知っている。「いいですか」の「で」の発音が小さく、「いいっすか」というふうに凛子には聞こえた。相手はどうやら若い男性のようだ。
「あの、すみません、どちら様でしょうか?」肯定も否定もせず、凛子は尋ねた。
「あ、ボク、カンナミエイイチっていうんですけど」
 目の前がくらっとした。函南栄一。先輩が勤めていた、カンナミコーポレーションの社長。結局、美奈はあの後、函南にコンタクトを取ったのだ。
 数秒間、沈黙があったせいで、電話口から、もしもし、聞こえてますかという声が聞こえてきた。もちろん聞こえている。ただ、すぐには反応することができなかった。
「ぶしつけな電話で申し訳ないです。ボクのこと、たぶん知ってるとは思うんですが、知ってますか」
 はい、と凛子は返事をする。ちょっと間の抜けた声になっていたかもしれない。
「実はですね、安達さんにちょっと、お渡ししたいものがあるんですよ」
「え?」
「いや、たいしたものではないんですけど。お渡ししたいもの、というか、お話したいこと、というか。電話口じゃあちょっとアレなので、できればそっちに伺いたいと思ってるんですが」
 動悸がはやくなる。凛子は、先輩が『魚』を何らかの形で函南のところから持ち出した件について話されるとばかり思っていたので、予想外の展開に驚いた。相手が何をしたいのかは不明だが、『魚』に関する何か、であることは確かだ。
「いえ、もしお会いできるということであれば、私がそちらに伺いますが」
「いや、そんなに大したことではないんで、でも、もしそちらのほうがいいというなら、お願いできますか」
 軽い感じで電話口の函南はそう言った。
 二日後、函南の会社で会うことになった。美奈のこともあり、知らない人間を家にあげるくらいならば、こちらから行くほうがいい、と凛子は思った。
「仕事のお電話ですか」
 玄関からオフィススペースに戻ると、瀧本がこちらを見ている。真剣な顔でぼそぼそと通話していたので、仕事の電話だと思われたのだ。凛子はあいまいに返事をした。大丈夫ですか、顔が真っ青ですよ、と瀧本は声をかけてくれる。凛子は少し迷ったが、水を一杯頂けないでしょうか、と言った。
 瀧本は、いま気がついた、というような仕草をして、せっかく安達さんが来てくれたのに飲み物も出さずに申し訳ない、と言って、キッチンに行こうとした。凛子は、いえ、大丈夫です、水だけで、と返す。
 瀧本が淹れてくれたコップの水を飲むと、少し気分が落ち着いた。これから何が起こるにしても、瀧本に相談すればいい、とシンプルに考えることにした。
 瀧本に礼を言い、凛子は暇を告げた。瀧本は玄関口まで見送ってくれた。
 エレベーターまでの廊下を歩いていくと、チンという音が鳴り、エレベーターの扉が開いた。てっきり美穪子があがってきたものだとばかり思った凛子は、顔を見て驚いた。職場の後輩の、梶原江利子だったからだ。
 凛子は驚いたが、向こうも同様に驚いていた。梶原もここに住んでいたのだろうか。ただ、梶原と瀧本は姪と叔父の関係にあたるらしい。叔父を尋ねてきたのかと思ったが、わざわざ仕事帰りに来るものだろうか。
「あ、安達さん、来てたんですね」と梶原は凛子に声をかけてくる。クリニックに来ていたのか、という意味であれば、瀧本の自宅に来ているのはおかしい。なんだか、凛子がやってくることを予期していたような、そんなニュアンスがあった。
「うん、ごめんなさい、会社、休んじゃって」
「いえ、仕方ないですよ、あんなことがあったんですから。それよりも、大丈夫ですか?」
「何が?」と凛子は返す。
「顔、真っ青ですよ」
 ここが暗いから、そう見えるだけだと思うよ。凛子はそういいながら、エレベーターのボタンを押した。扉は開きっぱなしになっている。
「梶原さんも、ここに住んでるの?」
「ええ、あ、いやだ、もしかしたら、川嶋さんもここに住んでること、知ってます?」
 まるで、あそこのスーパーって、野菜が安いって知ってます? というような口調で梶原は言った。梶原と瀧本は親族なのだから、一緒に住んでいたとしても不自然ではないが、そこに美穪子がいるのは自然なのだろうか。凛子は、もしかしたら自分の認識のほうがおかしいのかもしれない、と混乱した。
「川嶋さんのことなら、確かに、同じ家に住んでるのは不自然に思えるかもしれませんね。でも、なんていうか、ほら、川嶋さんて、おじさんの弟子みたいなところがあるから」
 弟子? と凛子は引っかかった。凛子は気分が優れないこともあって、それ以上理解するのをあきらめ、ごめん、先、急いでるから、とエレベーターのほうへ向かった。
「安達さん」背後から梶原が声をかける。「また、会社でお会いできますよね?」
 凛子は曖昧に頷いた。


   4


 立っているのもつらくて、凛子は普段はあまり使うことのないタクシーを使って自宅まで帰った。たったの三十分足らずの距離だったが、メーターに表示された金額を見て驚いた。
 這うように自分の部屋に戻ると、なんだか、見慣れた自分の部屋が借り物のように感じられた。水槽のエアーポンプは電源を落としてあって、もう水槽には何もいない。ほんのちょっと前、『魚』がやってくる前までは、こんなに静かだったんだ、と驚いた。
 手首から腕にかけて焼けるように痛い。毎日、包帯を巻いているが、包帯を取るのが怖くなっている。最初は、『魚』に噛まれた部分を中心にして肌が白く、パサパサになっていたのだが、その範囲が徐々に広がっている感じがする。医者に行ったほうがいいのだろうか。本当は、もっとはやく医者に見せるべきだったのかもしれない。だが、もう何もかもが面倒くさくてやる気が起きない。
 結局、医者にも行かず、二日は普通に会社に行った。腕の痛みは、朝起きたときと、夜、家に帰ったときに少し気になる程度で、仕事をしているとあまり気にならなかった。何より、仕事に打ち込んでいると、倦怠感から開放されることができた。家にいるとほとんど何もする気力が起きないが、会社に行って接客をしていると、まるで別の自分になれる。そのエネルギーがどこから沸いてくるのか、自分でもよくわからなかった。
 二日後、カンナミコーポレーションの入居しているビルに凛子は向かった。駅前の高層ビルなので場所はよく知っている。エレベーターホールの前に受付があり、函南社長にアポがあることを伝えた。受付嬢から入館証のストラップを受け取り、それを首から下げながらエレベーターに向かう。
 高層ビルのエレベーターをあがりながら、緊張してきた。先輩が働き始めた頃の会社は、もっと雑然とした雑居ビルに入っていて、いかにもベンチャー企業という感じのたたずまいだった。それが、こんな高層ビルにオフィスを構えるまでに急成長している。そういえば、最近はテレビCMなどもはじまった。その会社の社長に、これから会うのだ。なんだか実感が沸かない。
 目的の階につき、カンナミコーポレーションと書かれたオフィスに足を踏み入れる。小綺麗なエントランスには、壁際に固定電話が置かれていて、凛子はそこで函南社長とアポイントがある旨を伝えた。すぐに女性が出て来て、応接室に通された。函南は、いま打ち合わせ中で、もうしばらくしたら来るという。
 応接室は簡素なつくりで、革張りのソファと低いテーブルがあるだけだったが、部屋の広さと、景色がすごかった。もう街はすっかり暗くなり、夜景になりはじめているが、全面のガラスに映し出された風景に凛子は圧倒された。雰囲気にのまれてしまいそうだった。
 しばらくすると、ノックがあり、金髪でTシャツを着た男が部屋に入って来た。函南だった。実際に会うのははじめてだが、ネットの対談記事などで顔は知っている。あと、先輩から写真を見せられたこともあった。髪は金髪で、眉もしっかり整えられている。Tシャツにジーンズというラフな格好だが、なぜか洗練された印象を受ける。新進気鋭のIT企業の社長、という雰囲気が漂っていた。
 あ、座ってください、と立ち上がった凛子を制すようにして函南は言った。電話で話したときの印象と同じ、どこかぼくとつで、ぼそぼそとした声で話す人だな、と凛子は思った。
「わざわざ来てもらって申し訳ないです。場所、迷わなかったですか」
 いえ、大丈夫でした、と凛子は答えた。
「安達さんのこと、聞いてたんですよ、よく。あいつから。なんかこう、どうでもいい話なんですけど、いっぺんお会いしたいな、と思ってました」
 凛子はどきまぎして、どう返答すればいいのかわからず、あ、はい、と返事をした。あいつとは、言うまでもなく、先輩のことだろう。函南に自分のことを話していたというのが意外で、いったいどんなことを話していたのかと気になったが、そこにはあまり触れないことにした。
 函南はぼそぼそとした声で話し、あまりこちらの目を見ない。凛子はなぜ自分がここに呼ばれたのかもわからないまま、じっと函南の顔を見つめていた。すごいビルですね、と凛子がいうと、まあ、このほうが目立つし、通勤も楽なんで、と函南は言った。そういえば、同じビルのマンションスペースに函南は住んでいると、ネットの記事で読んだことがあった。
「安達さん、会社って、どうやったら潰れるか、知ってます?」
 突然、函南がそう問いかけてきた。質問の意図がわからず、いや、わからないです、と答えた。なんの脈絡もなくそんな質問が出て来たので、意図がわからない。お金がなくなったときとかでしょうか、と凛子は答えた。函南は少し口を歪ませて笑う。
「お金がなくなっても、別に会社は潰れないですよ。どっかから借りてくるとか、投資してもらえばいいだけなんで。というか、まず、会社をつくるときにはお金なんてないわけだから、基本的にはどっかから借りたり投資してもらったりするんですね。うちもそうで、エンジェル投資家っていうのがいて、ベンチャーキャピタルみたいなものなんですけど、個人でお金を持っている人からお金を出してもらって、それで会社を作ったんですよ。で、会社って、普通の人の感覚とは違って、借金してたり、人からお金を出してもらってたりっていうのが当たり前の状態なんですよね。こう、お金を稼ぐときに、自分の手持ちのお金がちょっとしかなかったら、その範囲内でなんとかやっていって、時間をかけて成長させていこう、っていう人と、人からお金を借りてでもでっかいことをやろう、っていうふたつのタイプがあると思うんですけど、経営者の面からいえば、前者の場合は、うまくいくこともありますけど、あんまりいいとはいえないです。結局、発想がちっちゃくなっちゃって、逆に危ないです。借金するのって怖いことなんですけど、していかなきゃいけないときもあるんですよね」
 函南はぼそぼそとした声だが、途切れなく、そんなことを凛子に話しかけてくる。主旨がはっきりしないので、凛子もあいまいに頷くことしかできない。
「で、最初の質問に戻るんですけど、会社が潰れるってのはすごく簡単なことで、つまり、不渡りを出すってことなんです。約束したお金が、約束したときに払えなくなるとそうなります。赤字になろうが何しようが、会社ってのは潰れないんですよ。約束を守れなかった時に潰れます。極端ことを言うと、約束を守るためにどんなに借金が膨らんでいっても、不渡りさえなければ、会社は潰れないんです。いちばん大事なのは、約束を守ることと、『この事業なら成長するだろう』という期待をもってもらう、ってことなんですよ。そして、適切に資金を循環させること。それらをちゃんとやってれば、まあなんだかんだいってお金ってのは自然と集まってきます。会社は倒産しません」
 ドアがノックされ、スーツを着た女性が、失礼します、と言いながら部屋に入ってくる。手にはレストランで見るようなメニューを持っていた。何か飲み物を注文することができるらしい。ボクはコーラ、安達さんも何か飲みますか、と函南が訊いた。凛子は、じゃあ、アイスコーヒーを、とリクエストした。ガムシロップはいかがなさいますか、と訊かれ、いえ、おかまいなく、と答えた。
「で、どこまで話しましたっけ。あ、そうそう、どうやったら会社が潰れるか、ってことですよね。ある知り合いの会社で、実際に倒産したところを知ってます。最後はすごかったらしいですよ。もう自分の車とか、家とか、万年筆とか、自転車とか、売れるものはなんでも売っちゃうし、最終的には、つまり、不渡りを出す寸前のことなんですけど、残った社員で財布の中身を出し合って、あと十万円足りないからみんな現金を貸してくれとか土下座してですね、そのまま現金をつかんで銀行に駆け込んだりだとか。それまでフェラーリとかポルシェとか、そんな車を何台も乗り回してた社長さんがですよ。もっとも、ボクもいつそうなったっておかしくないです。実際のところ、会社は大きくなってますけど、借金も膨らんでるんで、もう何がなんだかわからない、自分がいくらお金を持ってるのかもよくわからない、そんな状態なんですよね」
 ふたたびドアがノックされ、さっきの女性がお盆に飲み物をのせて入室してきた。いつもそうなのかもしれないが、函南の前には、缶にストローをさした状態のダイエットコーラがおかれる。凛子の前には、ブラックのコーヒーのグラスが出された。
「要は信頼、信用、そういうのがすべてってことです。で、そういうのって、結局、人とのつながりじゃないですか。人間、ひとりで生きてたら、信頼とか、信用とか、要りませんよね。でも、生きている以上は、他人と関わらざるを得ないんで、信頼とか、そういうのがすごく大事になってくるんです」
 あの、何をおっしゃりたいのか、話がよく見えないんですが、思い切って凛子はそう言ってみた。函南の話は、あちこちに話題が飛ぶので、ついていくので精一杯だった。おそらく、会社の経営のことで頭がいっぱいなのかもしれなかったが、凛子にはわけのわからない話に思えた。そう伝えると、あ、そうか、ちょっと自分の考えてることを話し始めると止まらないんですよね、そう言って、コーラの缶に手を伸ばした。
「すみません、話が逸れました。それで、あの、『魚』のことなんですけど」
 突然、話が核心に入り、凛子は驚いて、口を付けていたコーヒーが気管支に入り、少しむせてしまった。ポケットからハンカチを出して口元をぬぐう。大丈夫ですか、と函南が訊いてくる。
「あいつの奥さん、美奈さんって言いましたっけ、聞きましたよ。ちょっと支離滅裂でしたけどね。安達さんが魚を盗んだとかどうとか、そんなことを電話ですごい剣幕でわめいてましたね。魚を盗んだって、サザエさんじゃあるまいし、って思って爆笑したんですけど」
 そう言って、函南は声をあげて笑った。魚のことはやっぱり函南に伝わっていたのだ、と凛子は思ったが、あまりに軽い口調で函南が言うので、拍子抜けしてしまった。魚、と、サザエさん、という組み合わせがあまりにも日常的で、平凡で、そんなもののために怯えていた自分を笑い飛ばされているような、そんな感じがした。
「あの魚ね、確かにボクが飼ってたものですね。けっこう熱帯魚とか、好きなんですよね。オシャレだし、しゃべったりしないじゃないですか、犬とかとちがって、あ、犬もしゃべらないか、つまり、懐いたりしないってことですけど。ああいうのって、けっこう投資家とかには人気で、つまり、絵とかの美術品とかも、値段が高いものって、税金の対策にもなるんで、買う人がけっこう多いんですよ。ボクも、あれは投資家の人の紹介でもらったものなんですけど、あれ、違法なんで、気をつけてくださいね。本来、日本とかにいちゃいけない魚なんで」
 あまりにも軽い感じで函南は言うので、今まで悩んでいたのはなんだったんだ、という感じがした。確かに、日本にはいなさそうな魚ではあるが、違法というのはどういうことだろう。今まで知らなかった、魚に関する情報が一気に入ってくるので、凛子は混乱した。
「毒があるんですけど、一種の麻薬みたいなものですね。ハシシとかそういうのとはまったく別で、もっとぶっとんでるっていうか。幽体離脱したみたいな感じになるみたいなんですよ。あんまりすごいんで、けっこう話題になったらしいんですけど、なんか特殊な魚なんで、手に入れようと思って手に入るものでもないです。ボクも、最初はそこまで興味もなかったんですけど、知り合いの投資家から紹介されて、とりあえず買った、みたいな感じでしたね。一億ぐらいしたんですけどね」
 一億、と聞いて、凛子は卒倒しそうになった。自分の家の水槽に浮遊していたあの魚は、一億円もしたのだろうか。にわかには信じ難いが、まるで、あのシャンパンって百万円するらしいよ、とバーで言うような軽い感じで函南が言うので、逆に本当なんじゃないか、と思った。だが、百万円のシャンパンとは、桁が二つも違う。
「で、いいんですよ。安達さんがいま持ってるなら、それでも。ボクはかまわないです。熱帯魚なら、ボクの部屋にもたくさんいるし、それがどこにあるか、っていうのと、誰が持ってるか、っていうのは大きな問題ではないんで。いったんお預けする、という形でもかまいませんよ」
 面倒なことになってきた、と凛子は思った。『魚』は、函南が取り戻しにくると思って、瀧本に預けてしまったばかりだ。瀧本に言って戻してもらうか、あるいは、そのまま瀧本に引き続き預かってもらうか。いずれにしても、あの魚が一億円もする、というのを聞いただけで、自分の手に負える話ではない、そう感じたのは事実だった。そもそも、骨董品や美術品ならまだしも、生き物である魚が一億円もする、というのがどうもピンとこない。現実離れしている。死んでしまったらどうするのだろうか。死んだら、一億円の価値はそのままなくなるのだろうか。
「死にませんよ。まともに飼育している限り、あの魚は死なないです。すでに五十年近く生き続けているみたいです。長寿の生き物って、それ自体は別に珍しくもなんともないです。百年生き続けるカメとか、いますし、鶴は千年、亀は万年、っていう言葉もありますよね」
 あの『魚』は死なない、というその話を、そのまま信じたのだろうか?
「信じられないかもしれないですが、一応ですね、ちゃんと確認を取ってですね、その上で買ってます」
 確認? と凛子は聞き返した。そこで、函南は、ぷっと吹き出し、失礼、と言いながらコーラの缶に手を伸ばした。
「やっぱり気になりますよね。ま、当たり前か。額が額ですからね。十万円ぐらいだって言ってたら、そこまで疑うことなかっただろうけど。そうですね、もうわかると思いますけど、ボクも自分で、あの魚の毒は試してます。たぶん、同じところだと思うんですけど」
 そう言いながら、函南は手首につけていたリストバンドを少しずらして見せた。確かに、手首に魚に噛まれた跡が残っているが、皮膚は凛子ほど白くなってはいない。函南は、あきらかに凛子の手首の包帯には気付いているようだった。
「もう、凄かったですよね。幽体離脱というか、現実がもう一個別にあるんじゃないかと思うような、そんな感じで、ぶっとんでて。ああ、これはちょっと、半端じゃないな、そう感じましたね」
 先輩は……、その魚を、譲ってもらったのだろうか。
「譲った、というか、貸した、というか、とにかくあいつは、それを欲しがってたみたいですね。結果的には、盗んだ、という形になったんじゃないかな。ボクがいないあいだに、ボクの部屋に入って、持って行ったわけだから」
 盗んだ……。
「まあ、権利書だのなんだのはまだボクの手元にありますけどね。まあ、結局、あの魚はあいつの手を経て、いまは安達さんのところにある。そして、互いにもう『あっちの世界』を経験しているわけだから、もう前置きはこれぐらいでいいですかね。たぶん、安達さんがまだ知らないことがあるはずなんですよ。それを教えたくて呼んだわけ」
 函南は足を正し、凛子に正面から向き合った。凛子はソファの背もたれに軽く背をつけていたが、少しだけ前のめりになった。
「あの魚の毒は、ただ単に変な世界にトリップする、ってだけじゃなくて、重要なところは、ネットワーク性にあるんですよ。誰か他の人と、あそこで話しませんでしたか?」
 エイジと名乗る少年のことを凛子は思い出した。だが、ここで名前を出すのはなんだかためらわれて、とりあえず曖昧に頷いた。
「あの魚を持つほかの人とネットワークを作ることができます。テレパシーっていうわけじゃないですが、他人の思考と自分の思考をつなぐことができるんです。で、もっともっと深く入り込んでいくと、もっともっと、他の人、つまり、『魚』とはなんの関係ない人の思考も、どんどん取り込んでいって、ネットワークをつくることができるんです。さらに、自分の空間も、もっと自在に作り替えることができる。自分だけの世界を、他人も巻き込んで、理想の空間にしていくことができるんです」
「ネットワーク……」
「早い話が、バーチャルな世界をもうひとつ作って、そこに永遠に住むことが可能になるんです。早い話、現実世界とおさらばできます。ドラえもんの秘密道具で、『もしもボックス』っていうのがありますよね? 電話ボックスの中に入って、『もしも、世界がこうだったら』って言ったら、現実になる、っていうやつ。あれです。いちばん特殊な点は、自分でつくった自分の世界に、他人も巻き込めるってことなんですよ」
 函南の話の内容が聞こえるが、ほとんど内容が頭に入ってこない。ドラえもん? この人は、いったい何の話をしているのだろうか?
「ボクはちょっとだけその世界を見て、そして戻ってきましたけど、もうハマりこんだらたぶんずっと戻ってこないと思いますね。でも、ボクはいまは現実世界のほうが楽しいから、まだこっちのほうがいいです。だから、『魚』は、安達さんに、しばらく、預けます。そして、くれぐれも、ですが」
 函南は少しだけ声を低くして付け加えた。
「この話は他言無用でお願いします。それが誰であっても、です。『魚』の存在は、安達さんまでで止めておくようにしてください。さもないと、話がそれだけではすまなくなります」
 背中から冷水を浴びせられたような感覚がした。瀧本からすぐに『魚』を返してもらわなければ、と凛子は思った。


episode3 瀧本達郎(前編)


   1

 瀧本達郎は、山間の小さな町で生まれた。街から遠く離れているわけではないが、周囲を山に囲まれており、電車も一時間に一本しかなく、「陸の孤島」という表現がぴったりの、平凡な町だった。この町から出て行くことはあっても、わざわざ訪れるような人はいなかった。新幹線の沿線に町があったため、新幹線の停車駅を誘致する運動もあったようだが、その看板は一日に一本しかこない駅の片隅で錆び付いてボロボロになっていた。地元の人間は、ほとんどが農家か公務員で、たまにマイカーで隣町まで通勤しているサラリーマン家庭がいるぐらいだった。
 瀧本の父親は公務員で、町役場に勤めており、母親は実家の酒屋を手伝っていた。二人とももの静かで、これといった特徴のない人々だった。
 父親はほぼ毎日、夕方の六時きっかりに家に帰り、まず風呂に入ってからビールを飲み、プロ野球を見る。そのあいだに、母親が慌ただしく夕食の支度をして、子どもたちは配膳の準備をする。それが小さいときの家庭の風景だった。
 母の実家は酒屋だが、田舎特有の雑貨屋のような感じになっており、酒だけではなく米や味噌、駄菓子、文房具、そして近所の農家から仕入れる野菜なども置いていた。それでも、夕方になると店を閉める。父は酒を飲んでも荒れるようなことはなく、巨人が勝ったらニコニコし、負けたら少しだけ機嫌が悪くなる、ただそれだけの人だった。父が食卓につくまでは食事がはじまることはなく、父のお酌はかならずそばにいる誰かがやることになっていた。決して怒鳴ったり、頭ごなしに叱ったりすることのない両親だったが、子どもたちの前では精一杯の威厳を保っている、そんな雰囲気を瀧本は幼い頃から感じていた。
 瀧本にはふたつ上の、史朗という兄がいた。閉じこもりがちで、学校の図書室で本を読んでいることが多かった瀧本と違って、兄はほとんど家におらず、外を遊び回っていた。数名の仲間とともにあちこちに自転車で出かけては悪さをし、常に身体のどこかに生傷をつくっていた。町内に小学校はあったが、各学年にひとつしかクラスがないので、遊ぶ相手もおのずと限られてくる。兄は、小さい山をひとつ越えたところにある中学校の近くまで自転車で行っているらしかった。瀧本は、小学校の小さな図書室でひとりで本を読んでいることが多かった。決して仲が悪いわけではなかったが、あまりに性格のちがう兄を見ていると、どうして兄弟でここまで性格が違うのだろう、とつねづね不思議に感じた。
 時間が止まっているような町だった。この町で生まれ育った瀧本は、テレビに映し出されている世界が、ほんとうにこの世に存在しているのか、にわかに信じられなかった。たぶん、地球のどこかにはあるのだろうとは思うが、実感としてよく掴めない。本当は、世界は、自分がいま住んでいるこの町と、隣町ぐらいしか存在しないのではないか、そんなふうに思えた。学校の図書室は、瀧本にとって外界の世界を知る手がかりのひとつではあったが、児童向けの本ばかりが集められたその図書室の本は、やがてほとんど読み尽くしてしまった。
 両親は旅行などにはほとんど関心がなく、家族で数回、温泉旅行に行ったことがある程度だった。父も母も、地元の人間だけを相手に仕事をし、来る日も来る日も、同じ人間とのみ交流し続けた。それが自分たちの生き方なのだというメッセージが、言葉ではなく、身体全体から滲み出ていた。
 転機は、瀧本が小学校五年生のときに訪れた。瀧本の小学校に、転校生がやってきたのだ。転校生は伊崎かんなという名前の女の子で、はじめて彼女の姿を見た時に瀧本は言葉を失った。まったく異質の人間がそこにいたからだ。
 今日からみんなと一緒に勉強することになった、伊崎かんなちゃんです。担任は彼女をそう紹介し、教壇の上に立たせ、黒板にチョークで伊崎かんな、という字を書いた。そのあいだ、誰も声を発しなかった。かんなと紹介された少女は、大きな栗色の目で興味深そうに教室を眺め回していた。その様子には、全員から注目されているというこの状況に、少しも臆しておらず、堂々としていた。その態度がまず、瀧本にとっては驚異的だった。かんなと紹介された少女は、担任が自分の名前を書き終わるのを待って、伊崎かんなといいます、今月からこの町に住むことになりました、このへんのことはなんにもわからないんですけど、いろいろ教えてください、よろしくおねがいします、とよどみなく挨拶をした。みんなその様子に圧倒されて、何も反応することができない。担任の先生が、はい拍手ー、といって手を叩きはじめたので、そこでやっと空気がいつもの教室の感じに戻り、みんあ控えめに手を打ち合わせた。瀧本は、そのとき、はじめてかんなを見たときの数秒間を、決して忘れることができない。
 かんなはまぎれもない日本人だったが、瀧本にとっては完全な「異邦人」だったのだ。
 休み時間に入ると、みんなはさっそくかんなを取り囲み、質問攻めにした。ねえ、どこからきたの。なんでこの町にきたの。その服、どこで買ったの。
 かんなはそのひとつひとつの質問に正確に答えていた。あたし、東京からきたの。パパとママが別々に住むことになって、ママの実家のあるここに来ることになったから。このワンピース、こないだのお休みに、ママに買ってもらったんだよ。かんなは、黒いすらっとした、袖が水玉模様になっているワンピースを着ていて、それがよく似合っていた。この町では、誰もそんな格好をしている人間はいない。瀧本たちにとって、自分たちのこの世界と、他の世界は切り離されていた。かんなは、そんな「あちら側の世界」の住人のように思えた。だが、気取ったところのない彼女はすぐにクラスに溶け込み、素朴な田舎の子どもにすぎなかった瀧本たちはかんなのことを異邦人として、受け入れた。
 だが同時に、瀧本は疎外感を味わうようになった。かんなはすぐに教室の中心となり、みんながかんなに合わせて行動するようになっていた。かんなはすべてが洗練されてみえた。まず、言葉使いからして違う。自分の両親のことをパパ、ママと呼ぶ人間が本当にいるなんて、瀧本は想像もしたことがなかった。
 瀧本はかんなに話しかけることはできなかった。かんなは容姿端麗であるばかりでなく、驚くほど聡明だった。彼女はいつも教室の中心にいて、教師でさえ、彼女に一目置いていた。そんな世界の中心に、自分が近づくことができるはずがない。結局、新しい何かがやってきても、それは自分とはやっぱり無関係のもので、世界はこれまでどおり、自分を疎外したまままわっていくのだと、そんな自覚を強めただけだった。異邦人は異邦人にすぎない。これだけ近くにいても、自分とは何の関係ももつことができないのだ。
 もともと内向的だった瀧本は、かんなの存在が登場したことで、さらに内にこもるようになり、授業以外ではほとんど誰とも会話をせず、図書室にこもるようになった。小さな図書室には司書もおらず、たまに担任の先生が顔を出し、瀧本のために図書室にはおいていないような、小学校高学年向けの本を持ってきてくれ、瀧本にとってはそれが唯一の、世界と自分をつなぐ架け橋だった。
 その頃、兄はほとんど毎日のように自転車で隣町に出かけており、夕食の時間になっても帰ってこないことが多かった。ある時、夜十時を回ってから帰宅した兄を、ほとんど怒っているところを見たことがない父が激高し、兄を殴りつけ、吹っ飛んだ兄が叩きのガラス戸にぶつかり、派手に扉が壊れた。兄は自分が殴られたということが理解できない様子で、しばらく鼻血を出したまま呆然としていたが、そのまま踵を返して家を出ていった。翌日、父は警察に呼び出された。兄は近所の商店に無断で侵入して、金庫を漁ろうとしていたところを、たまたま店に居合わせた店主に見つかり、通報された。父はひたすら、すべての人に対して低頭していた。結局、父や母の日頃の人徳のおかげで、商店の店主は被害届を取り下げ、事件は収束したが、その頃から父と兄のあいだに決定的な確執が生まれ、会話がなくなった。瀧本ももともと、どちらに対してもあまり仲が良いとはいえなかったから、学校も家もどちらも居心地のいいものではなくなった。ますます、図書室が瀧本にとって唯一の心が落ち着ける場所となった。
 そんな折り、かんなが図書室にやってきたのは偶然だったが、いつも放課後は図書室にいる瀧本と出会うのは必然だった。ガラガラという木造校舎の立て付けの悪い引き戸が開けられる音がして、瀧本が振り返ると、そこにかんなが立っていた。びっくりした、とかんな大きな目をさらに見開いて驚いた。かんなは今日は赤色のワンピースを着ていて、黒ずんだ木造校舎とは不釣り合いだった。かんなは図書室に誰もいないと思っていたのか、目を見開いたまましばらくじっとしていた。ほんの数秒ほどの時間だったはずだが、瀧本も同様に驚いていた。ここに先生以外の人間が来ることはまれで、しかもその相手がかんなだったからだ。
 瀧本くん、いたんだ、と言いながらかんなは図書室に入ってくる。瀧本は読みさしの本を手に持ったまま、どうすればいいのかわからず、戸惑っていた。そもそも、かんなが瀧本の名前を知っているとは思っていなかった。
 考えてみたらあたし、この学校に来てから、図書室なんて来たことがなかったな。かんなは興味深そうに部屋の中を眺め回している。瀧本くん、本、好きなの? と問いかけてきたので、うん、と小さな声で瀧本は答えた。図書室は他の教室と同様、黒ずんだ木造の校舎の中にあるから全体的に暗いが、校舎の角に位置しているため、それでも日当りはいいほうだった。児童にも取りやすいような、背の低い本棚がいくつもならんでいるが、部屋自体も狭いし、蔵書もそう大したものではない。こんな至近距離で、かんなと二人きりの空間にいるということが信じられなかった。しかも、そこが自分だけが入り浸っている図書室だったせいで、まるで自分の部屋にかんなが入って来たような、そんなむずがゆい感情を持ち、何事もなかったように本に目を落とそうとしたが、うまくいかなかった。ねえ、何読んでるの。かんながそう問いかけてきたので、小さな声で、たいしたものじゃないよ、と答えた。ねえ、見せてよ。かんなが顔を近づけてくる。そのとき、瀧本は担任の先生に勧められて、海外のファンタジー小説を読んでいた。四人の兄弟が、衣装たんすを通って別の世界に行き、ライオンとともに氷の魔女と戦う物語だ。
 あ、あたし、この本、読んだことがある。パパが買ってくれたの。こっちに引っ越してくるときに、持っていた本はぜんぶ友達にあげちゃったんだけど。瀧本はなぜか、耳まで赤くなった。男なのにファンタジーの物語なんて読んで、気持ち悪いと思われないだろうか。
 放課後、かんなが何をしているのか、詳しくは知らなかったが、家が厳しいのでたいていの日はすぐに帰るのだと聞いたことがある。まだ帰らなくて大丈夫なのだろうか。今日はね、ママがいない日なの。瀧本の疑問を先回りするように、かんなが答えた。ママはね、毎週火曜日になると、夜にお出かけするの。ねえ、この話ってさ、衣装箪笥の中に入ると別の世界に行くじゃない? でも、衣装箪笥なんかに入ったって、どこにも行けないよね。当たり前だけど。かんなはそう言った。瀧本は何も言うことができない。
 外では蝉がけたたましく鳴いていたが、少しずつ陽がかたむいている。校舎の西側にある大きなけやきが長い影を落としていた。校庭では下の学年の男の子が三人でサッカーをしている。瀧本は、こんなところを誰かに見られないかと不安になった。かんなと二人きりでいるところを見られたら、何を言われるかわかったものではない。
 かんなはすでに瀧本のそばを離れ、本棚の本を手にとっている。ねえ、この本、寄贈されたものだよ。これも。ここにある本、だいたい、誰かがくれたものなんだね。あたし、本、好きなんだ。だって、誰かにあげたり、もらったりできるじゃない。パパに買ってもらった本も、もうないけど、もらった、っていう事実はずっと覚えてるもの。本そのものがなくなっても、思い出には残るんだよね、そう思わない? ねえ、隣の町のさ、駅の近くにね、ちょっと大きな本屋さんがあるの、知ってる? あたし、そこに行ってみたい。前にママと車で近くを通ったことがあるけど、ママはくだらない本を読むのはやめなさいっていうの。パパはいつも、もっと本を読みなさい、っていっていろんな本を買ってくれたけど、ママはそんなのもぜんぶ捨てちゃって。
 行くって、どうやって? と瀧本は尋ねた。連れてって、とかんなは微笑んだ。瀧本は、いつも兄が自転車で隣町までいくのだから、不可能ではない、と思った。しかし、瀧本は自分だけでこの町を出たことがない。この町は山に囲まれているので、自転車で行くにしても、長い坂を超えていかなければならない。瀧本は自分ひとりで行くことはできないと思ったし、ましてや、かんなを連れていくことなどできないと思った。できないよ、ひとりで隣の町なんて行ったことがないし、行けるとも思えない、と小さな声で言った。
 かんなは少し寂しそうな顔をして、そうか、そうだよね、あたし、なんでそんなことを言ったんだろう、ごめんね、忘れて、と言った。
 瀧本は、その瞬間、手に掴めそうなものが近くまできたのに、それを遠く逃してしまったような、そんな気持ちになった。
 あと、少しだけ。
 少しだけ手をのばせば、届いたかもしれないのに。
 ごめん、行こう。行けるかもしれない。瀧本はそう言い直した。かんなが顔をあげる。ほんと? うん、自転車で、ふたりで、行こう。
 瀧本はすぐに家に帰り、家の駐車場にとめてある自転車にまたがると学校に戻った。かんなは自転車を持っておらず、自転車に乗ったこともなかった。かんなは校庭の隅で、後ろに手を組んだまま立って待っていた。瀧本が近づいていくと、ここに乗るんだね、と自転車の後ろの荷台を指した。瀧本は、女の子を荷台に乗せたことがなく、不安になった。同級生の男子を乗せるのとはわけがちがう。だが、かんなはひょいと荷台に乗ると、しゅっぱーつ、と陽気な声をあげた。
 そこからのことは、後になっても切れ切れにしか覚えていない。必死になって自転車をこいでいたが、やはり坂を超えるときには瀧本の力だけでは越えることができず、途中でかんなが降りて手伝ってくれた。隣町に着いた頃には、すっかりあたりは暗くなり、重苦しい闇が町全体を包み込んでいた。瀧本は、自分が何かとんでもないことをしでかしたような気持ちになった。かんなは、暗がりのなかで見るとまるで別人のように見えた。かんなはかんなで、それは変わらないのだけれど、こんな時間に、知らない場所で、自分と二人きりでいる、そのことに少しも現実感がわかなかった。夢ごこち、というようなおだやかな感情ではなく、まるでどこかの金庫から大金を盗み出して逃走してきたような、心もとない、不安な感情に包まれていた。
 ねえ、ここだよ。かんなが指差した本屋は、営業時間を終了して、シャッターが降りていた。なあんだ、もう閉まっちゃったんだ。かんなはあっけらかんとした口調でそう言い、シャッターにもたれかかるようにして座り込んだ。瀧本はどうすればいいのかわからず、かんなの隣に立っていた。ねえ、綺麗だよね、ここ。かんなが瀧本に言う。隣町の駅前に本屋はあったが、正面が上り坂になっていて、マンションや家の明かりがぽつぽつと灯り、とても綺麗だと瀧本も思った。瀧本の町にも似たような風景はあるが、もっと殺伐としていて、こんなに綺麗に舗装された道路もない。
 本屋は残念だったけど、でもここまで来れたね。かんなはそう言った。瀧本はまだ立っている。ありがとう、でも、もう帰らないとね。かんなはごく自然に手を瀧本に向かって差し出した。起こしてくれ、という意味だと瀧本は思い、その手を取ってぐっと引っ張る。かんなは立ち上がる。こうやって、あたしが手を出したら、また引っ張ってね。かんなはそう言った。瀧本は頷こうと思ったが、うまくいかなかった。かんなはくつくつと低い声で笑った。
 また同じ道を通って町まで戻った。もうすでに時間の感覚はなかった。ただ、行きのときよりは、後ろにかんながいる、ということに意識を向けることができた。かんなは瀧本の肩をつかんだり、腰に手をまわしたりして荷台に座っていた。瀧本は、家まで送っていこうと思い、道を尋ねた。かんなは小さな声で後ろから教えてくれる。かんなの家は、町のはずれの農家だった。舗装された道路を越えてしばらく自転車で進むと、途中から砂利道に変わった。大きな家の脇の砂利道に、白いセダンが乱雑な方向を向いて停めてあった。瀧本たちが敷地に入って行くと、すぐに家の玄関の引き戸が開け放たれ、中から母親らしき女性が出て来た。瀧本の母親とはまるで違い、濃い化粧をして、服装も外行きのものだった。
 母親らしき女性は、砂利道を踏みしめながらこちらに近づいてくる。黙ってぐっとかんなの手をつかむと、じっと手を見た。手を洗いなさい、と強い口調で言った。それまでかんなとのあいだにかすかにあったような温もりが、その一言で、根こそぎ洗い流されてしまったような感じがした。かんなの母親は、瀧本を一瞥しただけで何も言わなかった。ここは自分の帰る家ではないのに、瀧本は自分だけが外に置き去りにされたような感覚がした。
 それきり、かんなと二人きりで過ごす時間はなかなか訪れなかった。


   2


 その日から、瀧本は少しずつ他の生徒とも関わり合いをもつようになった。教室がかんなを中心にまわっているように感じたのは事実だったが、もちろん教室にいる生徒はかんなだけではなかった。今まであまり気にしていなかったことだが、同級生には色々な連中がいた。既に親の家業を継ぐことが決まっている連中。勉強をして、町を出ることを決めている連中。瀧本の住んでいる町には中学校はなかったので、中学にあがると隣町まで毎日通学する必要がある。そして、その隣町には高校もないので、高校に進学するためにはさらに遠くへ行かなければならない。大学となると、さらに遠くだ。みんな、そこまで将来のことを考えているわけではなかっただろうが、それでも瀧本から見れば、しっかりと自分の意思で自分の道筋を決めているように見え、ひどく大人びて見えた。瀧本は、自分は、どうなのだろう、と自問自答した。母親の実家の酒屋は、兄が継ぐのだろうか。だが、父とのあいだに確執が生まれてしまっている兄が実家の家業を継ぐとは思えなかった。だとすれば、自分にお鉢が回ってくる可能性はあるが、こんな田舎で、酒屋なんかを継いだところで展望が開けるとはとても思えなかった。両親も、あまりはっきりしたことは言わない。はっきりしたことは決まっていないのだろう、と漠然と結論づけた。
 兄は中学へ進学すると、ますます荒れた。中学校の不良グループとつるむようになり、毎日喧嘩に明け暮れているようだった。国道沿いの道を、スクーターで二人乗りをしているところを何度か見たことがある。父も母も何も言わなくなった。中学にあがると兄の身長は急に大きくなり、兄と父を較べると、兄ほうが体格面では勝っていた。家庭内では、兄のことは腫れ物にさわるように、触れてはいけないもののようになっていた。母の愛情が次第に自分のほうに向いてくるのを感じ、瀧本は閉塞感を感じた。だが、欲しいものがあると、両親に言えばたいていのものは買ってくれた。当時発売されたばかりのファミコンを買ったので、家に友達が遊びに来ることもよくあった。両親からの閉塞感を味わってはいたものの、瀧本は兄のようにならなければ、兄とは違う道に進めば、周りは認めてくれるのだ、と思った。兄はたびたび警察に補導され、その度に父は警察に出かけていった。
 いったい兄は何が不満なのかがわからなかった。兄は、この町全体を憎んでいるように思えた。どこか遠くへ、ここではないどこかへ行きたい、と思っていたのかもしれない。瀧本にとって、ここではないどこかは、頭の中にあった。世界で起きていることは、テレビの中にあり、本の中にあった。どこか遠くへ行きたい、という気持ちは同じだったかもしれない。しかし、兄は親に反抗し、社会に反抗するという形でそれを実現しようとし、そして、それはひどく幼い行動のように思えた。なぜなら、どれだけ遠くへ行きたいと思ったところで、経済的に自立しているわけではなく、所詮は社会の枠組みの中に収まっているにすぎないからだ。補導されれば、警察の厄介になり、その尻拭いをしているのは父親だ。兄は、周りに迷惑をかけているだけで、実は、周りに依存することしかしていない、瀧本はそう感じていた。自分は違う。自分は本を通じて、親から与えられる他のものを通じて、世界と繋がっているし、そこから外に出て行くこともできる、そう感じていた。
 だが、ある日、瀧本は、兄の運転するスクーターの後ろに乗るかんなの姿を見た。はじめは見間違いかと思ったが、間違いなくかんなだった。兄の運転するスクーターはけたたましい音を立てて田んぼのあぜ道を走って行く。その後ろに、かんながまたがり、きゃははは、と甲高い笑い声をあげていた。瀧本は見たくないものを見てしまったと思い、その夜、布団の中で声を殺して泣いた。何が悲しいのかはわからないが、ただひたすら、胸が締め付けられるように苦しかった。やがて、かんなは学校にも姿を見せなくなった。たったの一年前には教室の中心だった彼女は、急速に輝きを失っていった。女の子たちは、それぞれテレビの中のアイドルに夢中になり、かんなのことは次第に忘れられていった。
 やがて瀧本も中学にあがった。かんなも当然、同じ中学に通っていた。お互い、制服に身を包むとぜんぜん違う他人に見えた。あの夜、必死で自転車で駆け上った坂も、今ではただの通学路にすぎず、軽々と、乗り越えることができる。その頃にはかんなと会話をすることもほとんどなくなっていたが、かんなも自転車で平然と坂を越えていくところを何度も見た。お互いに、お互いを必要としない存在になったのは明らかだった。かんなは極端に無口になり、教室でもほとんど誰とも話すのを見たことがなかった。お昼の時間になるとふらりとどこかにいなくなり、授業がはじまる時間になると戻ってくる。休み時間になると机に伏して寝ていることが多かった。隣町の中学校には、他の学区から通ってくる生徒も多く、五つもクラスがあり、そんな人波の中にあっという間に僕らは飲まれた。かんなはすぐに、「その他大勢」の中に埋没してしまった。
 かんなが兄と付き合っていると人づてに聞いたが、それを話す友人も、話題のひとつとして持ち出しただけで、あまり興味もなさそうだった。お前の兄貴、伊崎と付き合ってるんだってな。そんな感じで何げなく告げられた。瀧本は心がざわつくのを感じた。だが、中学には他にも色々な女生徒がいる。かんなは、もはや瀧本にとっても、「その他大勢」のひとりにすぎなくなっていた。
 かんなはある日突然、転校することになった。瀧本は、それを朝礼のときにはじめて知った。担任の教師が、朝礼のときに連絡事項を告げたあと、伊崎が転校することになった、と言った。教室がかすかにざわめく。瀧本は初耳だったから、きっと教室のほとんどの生徒にとっても初耳だったのだろう。その直後に、抜き打ちの英単語のテストがあり、かんなの話題はそれで完全に打ち切られた。瀧本の斜め前に座っていたかんなは、テストをやるわけでもなく、ぼんやりと窓の外を眺めていた。その様子は、瀧本に、小学校のときの図書室での様子を思い起こさせた。隣町まで連れていって欲しい、と自分に言った、あの時のかんなを。だが、隣町に行っても何も起きなかったし、そして、いまも何も起きていない。かんなはどこに転校するのだろう。今度は、自分の手を借りることなく、どこかへ行ってしまうのだろうか。
 かんなと仲が良かった何人かの生徒がかんなに話しかけたりしていたようだが、瀧本は話しかけにいく気になかなかなれなかった。かんなのことを気にしている、というのがなんだか気恥ずかしかった。知りたい、と思えば思うほど、足がそちらへ向かなくなっていく。気付けば、放課後になっていて、瀧本は教室にひとり残っていた。他の同級生は三々五々、部活動に行ったり、帰宅したりしていた。瀧本は急いでカバンを手に取り、駐輪場に走った。駐輪場ではかんながいて、自転車のスタンドを外そうとしているところだった。
 転校するのか、と瀧本は訊いた。かんなは頷く。こんなふうに二人で話すのはずいぶん久しぶりだな、と瀧本は思った。どこに、と瀧本が重ねて訊くと、遠く、とかんなは答えた。なぜ、と訊くと、ママが遠くに行くことになったから、とかんなは答えた。どこに行くのか、あたしもわからないから。
 手紙を書くよ、と瀧本は言った。誰かに宛てて手紙を書いたことはなかった。かんなは首を振った。だから、あたしだってどこに行くのかわからないって言ったじゃん、と言った。本当にわからないんだよ。落ち着いたら、こっちから手紙書くよ、瀧本くんの住所を教えて。瀧本はカバンから紙を出すと、自分の家の住所を書いた。ありがとう、きっと送る。かんなは小学生のときに感じたような煌びやかな印象はほとんどなくなっていたが、口元にかすかな微笑みを見せて、瀧本は心にじわりとわき水が噴き出してくるような感情を抱いた。ただ、そんな手紙なんてきっと来ないだろう、とも思った。
 かんながいなくなってから兄が急変した。ある日、瀧本が帰宅すると、床の間で床に手をついて両親に対して土下座している兄の姿を目撃して、瀧本は驚愕した。兄は、いままで親にさんざん迷惑をかけてきたことを詫び、高校に進学させて欲しい、と頼みこんでいた。兄は学校にもほとんど真面目に通わず、地元の不良グループとつるんでばかりいたのだが、その豹変ぶりに、両親は驚くというよりも呆気に取られていた。父は、なかなか言葉が出てこないようだったが、お前が真剣にやるなら学費は出す、ただ、行く価値のないようなレベルの低い高校に進学させるだけの余裕はない、その場合は、地元で就職するか、母さんの店を継ぐんだな、と告げた。兄は低頭したまま、県で一番レベルの高い高校の名を上げ、そこに行けないようなら、母さんの店を継ぐ、と言った。兄の学力はもちろん、瀧本でも行けるかどうかわからないような進学校だった。それを聞くと、今度は父がため息をついた。所詮は口だけだ、と思ったのかもしれない。
 その日から兄は猛勉強をはじめた。うちには学習塾に通うだけの余裕はなかったので、学校の熱心な先生に放課後、自習してわからないところを聞きに行ったりしていたようだ。瀧本と兄は小学生の頃から同室だったが、瀧本よりも早くに兄が寝ることはなかった。兄は壁に勉強の計画表を貼り出していた。見ると、いまの自分の学力のレベルから、志望校のレベルに到達するまでの計画が、事細かに記されている。そして、その表を見る限り、それは予定通りに進行しているようだった。その場限りの勢いではなく、兄は本当に志望校に行こうとしているのだ、と思った。
 翌年、兄は本当にその志望校に合格してしまった。瀧本の住んでいた町では、地元で職を見つけるか、隣町で就職するか、せいぜいそのさらにちょっと遠くにある、レベルのあまり高くない高校に進学するぐらいが関の山だったが、東大生も多く輩出しているような、県下でトップクラスの高校に進学したことで、狭い町では大きな話題になった。まさかあの史朗が、あの高校に進学するなんてなあ。みんな口々にそう言い、瀧本はちょっとだけ誇らしい気持ちにもなった。なにか心が入れ替わるような出来事もあったのか。町で瀧本の姿を見かけると、地元の人は口々にそう問いかけてきたが、何が兄を変えさせたのか、瀧本にもわからなかった。
 兄は進学と同時に、家を出て、下宿をすることになった。同じように、田舎から進学してきて一緒に下宿する他の学生たちと、共同で生活するのだそうだ。新聞配達のアルバイトをして、学費と寮費の足しにすると兄は言っていた。春、両親は兄と下宿先で暮らすための準備をしにその町へ出て行った。がらんとした部屋の中で、瀧本は、兄はおそらく、二度とここの部屋には戻ってこないだろう、と思った。小学生の頃から、この町を出て隣町に行っていたような兄は、ついに自分の足でこの家を出ていったのだ。スクーターで町を駆け回っていただけの、幼稚な反抗はもうそこにはなかった。
 兄は世界の仕組みを知ったのかもしれない。
 世界には、世界を変える資格のようなものがあって、まずはそのチケットを掴まなければ、何も変えることはできないのだ、ということを。
 兄は、勉強をすることが、その別の世界に行くためのチケットだとある日突然気付き、そのチケットを取るための勉強をはじめたのだ。そのエネルギーは誰にも止めることはできなかった。両親がそれに気付いているかどうかはわからない。
 だが、瀧本には、兄はただこの町を出たかったのだろう、と気付いた。
 その手段を知ってしまっただけなのだ。
 瀧本の予想は当たり、兄は家には滅多に帰ってこなかった。お盆休みにちょっと顔を見せたが、実家ではすることもなく、居心地が悪そうだった。兄は正月も、補講がある、年賀状配達のバイトがあると行って戻らなかった。たまに電話で話す母の背中を見ることがあった。たっちゃん、お兄ちゃんだけど、電話に出る? と母は訊いたが、もはや兄弟とはいえ何を話せばいいのかもわからない。そのたびに、瀧本は首を横に振った。
 そんな折り、ある夕方に家に帰ると、ポストに一通の封筒が入っていた。表面に、瀧本達郎様、と宛名が書いてあり、裏面の差し出し人を見ると、伊崎かんな、とサインペンで記してあった。
 瀧本の手が震えた。


   3


 あれから一年以上も経ってしまいました。かんなです。わたしのことを覚えていますか。こんなふうに手紙を誰かに書いたことなんてないんですが、書いてみることにします。
 わたしはいま、隣の県の山奥で暮らしています。一番近くの村まで、だいたい車で一時間ぐらい。ここには、だいたい五十人ぐらいの人が、コミュニティと呼ばれるところで、共同で生活しています。テレビもラジオもなし。新聞もありません。住んでいる家も、男の人と女の人が住む建物がそれぞれあって、みんなで暮らしています。
 朝は日の出とともに朝早く起きて、飼っている動物の世話をして、午前中は畑仕事。お昼をはさんで、午後は織物をしたり、ちょっとした家具を作ったりもします。それで、日が暮れると、もう活動をやめて、みんなで歌を歌います。時計がないので、正確な時間はわかりませんが、だいたい八時ぐらいにはもうみんな寝てるんじゃないかな。毎日が穏やかな、その繰り返しです。
 ここの人たちは、みんな、他人のことを思いやって暮らしています。自分ひとりだけで生きている、なんて思っている人は誰もいません。みんながみんなのために働いて、そして、みんなの働きによって、みんなが生かされています。人間だって、自然の中で勝手に生きているわけじゃなくて、自然に生かされているんだな、と感じます。そういうことを、肌で感じることができるんです。
 ここでは、誰も財産を持っていません。みんながすべてのものを共有しています。この便せんも、封筒も、いまこれを書いているペンも、わたしの所有物ではありません。みんなが共有しているところから、わたしが借りているだけです。どんなに小さなものでも、個人のものは持っていません。なにかを所有したい、なにかを支配したい、そんなことを考える人はここにはいません。毎日が穏やかです。
 瀧本くんの町、わたし、最初に来たとき、とても窮屈だった。みんながじろじろとわたしをみて、いつも、評価されてるんだなって思ってた。たしかに、あたしがもともといた町に比べたら、穏やかな人たちが多かったと思う。でも、ここから出たい、と感じている人は他にもいたし、やっぱり窮屈だったんじゃないかな。わたし、イヤな思い出ばかりじゃないけど、それでも、瀧本くんの町を出れて、ここに来れて、ほんとうによかったと思います。ここには、あたしの求めていた暮らしが、まるごとあるから。一度、遊びに来てください。
 瀧本は手紙をもう一度読み直した。手紙は、便せんに三枚あったが、すぐに読み返すことができた。不思議な手紙だった。まぎれもなくかんなから来た手紙なのに、自分のことがまるで綴られていない。かんなはいったいどこにいるのだろうか。手紙からは、かんなの温もりがほとんど感じられなかった。まるで、かんながいま所属しているという団体の、パンフレットみたいな内容で、嫌な感じがした。瀧本は手紙を丁寧に折りたたみ直し、封筒に入れて自分の机の引き出しにしまった。夏休みになったら会いにいこう、と瀧本は思った。
 夏、瀧本はひとりでかんなのいる団体を訪れることにした。そのための準備はしていたし、親には、同級生の多くが中学生になるとバックパックを背負って一人旅に出るのだと嘘をついた。バックパックに着替えとラジオ、本を詰めて電車に乗った。ほとんど遠出をしたことのない瀧本は、電車に乗った経験もほとんどなく、切符の買い方すらわからなかった。駅のホームに立っていた駅員が、そんな瀧本の様子をみかねて、目的地をたずね、切符の買い方を教えてくれた。瀧本はこんなので、行った事のない場所に行くことができるのだろうかと不安になった。
 途中で二度、乗り換えをした。瀧本の地元の駅を出て、一度都会の駅に出たが、そこで乗り換え、進むうちに、どんどん人の数は減って行った。色々な人が乗ったり降りたりしていったが、瀧本の座席の正面に位置する座席に座っていた青年は、瀧本と同じような格好をして、バックパックを背負っていた。瀧本が乗り換えの駅に着くと、その青年も同じように電車から降りた。同じ目的地なのだろうか。どちらからともなく、話をした。青年は瀧本に目的地を尋ねた。それなら違う、おれはもっと奥へ行くんだ、と青年は言った。まさかお前、入会するつもりなのか? と青年は言った。入会というのは、かんなが所属するコミュニティのことだろうか。なにか知っているのか、と瀧本が尋ねると、細かいことは知らないけど、あまりいい噂は聞かないな、と青年は言った。何か危険なことでもあるのだろうか、と訊くと、いや、そういうわけじゃない、と青年は言った。
 青年もその駅で乗り換えをするのははじめてのようで、駅員にこのホームからの列車で目的地に着くかどうかを確認してくれた。まだ列車が来るまでに一時間ほどあるという。青年と瀧本はがらんとしたホームのベンチに座り、話を続けた。
 学生運動で革命を夢みていた連中が、結局は何も達成することができなくて、ド田舎に農業コミューンのようなものを立ち上げて、資本主義社会に反したような活動をしている。その団体がどういう出自なのかはおれも詳しくは知らないんだが、最近は、そういう宗教じみたものが増えてきているから、おそらくその手合いだろう。危険なことはないだろうが、長くそういうところにいると、社会復帰がむずかしくなる。おれは、違うよ。ただ、夏休みのあいだ、山にでもこもって、秋になったらもちろん学校に戻る。いまはただの骨休めだ。
 青年はそう言うと、カバンから一冊の本を取り出して、瀧本に手渡した。カール・マルクスの「資本論」という本だった。面白いから、気が向いたら読めばいい、もう時代が変わってるから、そんな本を読んでいたところで別にアカだとか叩かれるわけでもないからな、ま、楽しめ。
 瀧本は目的の駅で降り、青年と別れた。目的地の駅は無人駅だった。山のふもとにある駅だが、周囲には何もない、荒れ地のような土地だった。駅も、申し訳程度にホームを作りました、という程度の祖末なもので、切符を入れるところさえなかった。事前にコミュニティを来訪することは連絡済みで、コミュニティの側から簡単な案内があった。それによると、その駅の近くにコミュニティの小屋があるので、そこの近くで待っているように、とのことだった。駅を出たところに、木造の物置のような小屋があったが、鍵がかかっていて中に入ることができない。近くにあずま屋のような建物があり、瀧本はそこで待った。青年にもらった「資本論」を開いてみたが、さっぱり内容がわからなかった。
 しばらくすると、白塗りの軽トラがやってきた。周囲には瀧本以外は誰もいなかったので、迎えだとすぐにわかった。
 瀧本くんね、と迎えにきた人物はそう言った。トラックの運転席から出てきたとき、瀧本はぎょっとした。相手は声からすると女性のようだったが、手術室にいるときの医師のような白衣に身を包み、顔にはマスクのようなものを装着していたからだ。顔がほとんど見えず、外見だけでは性別は判定できなかった。声からして、若い、二十代ぐらいの女性だということはわかった。
 はい、では、持ち物を検査します。白い衣装の女性はそう言った。コミュニティでは、個人のものを持つことが禁止されています。だから、外部の人も同じように、個人のものを持ち込むことを、極力、禁止しているのね。それに、ラジオなどの機械類は厳禁です。本も駄目。時計も外していってね。大丈夫、持ち物は全部、あの小屋で預かることになっていて、帰りにはちゃんと返してあげるから。とにかく、コミュニティに入るときには、それが最低限のルールなの。守ってくださいね。
 瀧本は言われるままに荷物を預けた。そして、これ、と女性はウェットティッシュのようなものを差し出す。これで、全身を拭いてください。あなたの周りについている電磁波とか、そういうよくない電波みたいなものをね、これで拭き取るの。そして、これを着てちょうだい。女性は、いま自分が着ているような、白い衣装を手渡した。要するに、これらの「儀式」を済ませないと、コミュニティには立ち入ることはできない、ということなのだろう。瀧本はそれに従った。そして、女性の運転する軽トラに乗り込み、コミュニティを目指した。
 車内では、女性がときおり、いいところでしょう、とか、秋になると紅葉が綺麗なのよ、などと話を振ってくるが、ほとんど耳に入ってこなかった。道はやがて獣道のようなものに変わり、振動で女性の話を聞くどころではなかった。一時間ほど車を走らせたのち、軽トラが止まり、ここから先は歩きなのよ、と女性が言った。女性が先導し、軽くなったバックパックを背負った瀧本があとに続いた。あたりはもう山そのもので、道のりはほとんど登山に近かった。岩から岩へ、ひょいひょいと身軽に登っていく女性を追いかけるので精一杯だった。
 ここまできたら、もうそれ、取っていいわよと女性は言って、自らもマスクを取り、そこで素顔があきらかになった。美人だ、と瀧本は思ったが、実はこの人もまだ十代なのではないか、と思った。山を登り切ったのか、辺りは平坦な道になっていて、遠くにコミュニティの居住施設らしき木造の建物が見えた。
 女性について建物に近づいていくと、何人かの人が畑仕事をしているのが見えた。そのうちのひとりがこちらに気付き、手を止め、持っていた鍬を置くと、駆け寄ってきた。かんなだった。髪は長く伸び、真っ黒に日焼けしていたが、栗色の大きな瞳は見間違えようがなかった。来てくれたんだ、とかんなは言った。瀧本は軽く頷く。最初に出会った頃とは似ても似つかないが、その頃の雰囲気に戻っているような感じがした。少なくとも、中学校にいたときの、ほとんど親しい友達もおらず、ひとりで机に伏していた頃とは全然違っていた。
 かんなは先導していた女性と二言三言、言葉を交わすと、来て、案内してあげる、とコミュニティを案内してくれた。ここがみんなが寝泊まりしている宿舎で、あっちが講堂。こっちが牧場。ここにいる人たちのほとんどが若く、十代、二十代の人たちがメインのようだった。かんなと一緒に歩いていると、ある男性から話しかけられた。かんなは瀧本を紹介する。男は、ゆっくりしていってください、と瀧本に言った。ここには何もないが、同時にすべてがある、ここは、人々が最終的にたどり着く場所なんだよ、と言った。瀧本にはその意味がよくわからなかった。
 見て、とかんなは宿舎の横に作られた花畑を指差す。綺麗でしょう、と嬉しそうに笑顔をみせた。花畑の隅のほうに、赤い、ハイビスカスのような花が植えてあった。これはね、カンナっていう花、あたしの名前とおんなじ。あたしの名前の由来の花なんだよ。そう言って笑った。
 夜、日が暮れるとみんなは作業をやめ、コミュニティの中央にたき火が焚かれた。どこからともなく、ギターやマンダリン、二胡などを持った人がやってきて、みんなで低い声で歌った。英語ではない外国語の歌詞で、内容がわからない。この歌はね、パーリ語っていって、仏教の、お釈迦様の言葉をね、そのまま表現しているものなの。ここにきた人は、こうやってまずは歌を通じて、お釈迦様の教えを学ぶのよ。仏教についての講義もあるわ。ここでの暮らしが、仏教の実践そのものなのよ。
 色即是空、空即是色、そういう言葉って聞いたことない? 仏教のね、これは、原点を漢語訳した般若心経の一節なんだけど、この部分が、すべての世界の真理を表現しているの。どんな物にも、色ってついているでしょう? だから、「色」っていうのは、この世の物質のこと。でも、空気とか、原子とかって、人の目には見えないじゃない。だから、それを「空」と呼ぶの。でも、すべての物質は、その見えないもの、原子とかの素粒子でできているのね。つまり、「色」っていうのは、「空」から成り立っている、ともいえるの。つまり、「色」も「空」も、本質的には同じものなのよ。目に見えているすべての「色」は、実は今はたまたま仮の姿をしているだけで、常に流動しているのね。あたしたちの、細胞は常に循環しているのよ。あたしの細胞が、死んで、また別の物質になって、そして巡り巡って、また私の細胞になる。途中で、瀧本くんの細胞になってたりしてね。世界は、そうやって色と空を行ったりきたりしながら、流れるように、循環していっているのね。
 お金もそうよ。お金だって、目に見えないじゃない。たとえば一万円札がここにあるとするでしょう。お札それ自体に、一万円の価値があるわけじゃないよね。日本の銀行が、それを「一万円分の価値があります」と認めてくれているから、それを一万円札として使うことができるわけよね。ということは、日本の銀行がぜんぶなくなっちゃったら、お金としての価値はなくなるの。もともと、お金に実体なんてないの。価値があるような気がしているだけ。お金の価値も、絶対的なものじゃなくて、色と空のあいだを揺蕩ってるの。ここでは、誰もお金を持たないから、そういうものに縛られることはない。ぜんぶ自分たちで生活すべてをつくりなおして、共同で生きていき、学ぶという、修行なのよ。
 たき火の火に当たりながら流暢に語るかんなを見ていると、自分が感じた、この集団に対するきな臭さのようなものが少しずつ溶解していくような感覚がした。かんなが話していることは難解だったが、確かにそうだと感じさせるようなところもあった。
 あっちに行くと星が綺麗だから、とかんなに連れられ、たき火のそばを離れてふたりで崖の近くまで歩いた。みんなが寝泊まりする宿舎は高台に位置しており、見通しが良いが、脇の雑木林を隔てたところに崖があり、岩肌がむき出しになっている。その奥は荒れ地になっていて、満天の星空が広がっていた。ほら、綺麗でしょ、とかんなは言う。はじめてふたりで自転車に乗って隣町で来た時に見た、町の街灯のことを思い出した。あのときも、普段見ているかんなと、そこにいるかんなは別人のようだ、と思った。ここにいるかんなも、まるで別人のようだ。ここ一年で、お互いすっかり変わってしまった、ということもあるだろうが、また別のかんなの側面が見れたような気がする。
 瀧本くんもここで暮らせばいいのに。ここにいる人たちは、みんなほんとうの家族みたいなんだよ。かんなはそう呟く。そういえば、かんなの母親もここにいるのだろうか。疑問に思い、それを口にすると、かんなは首を振った。ううん、ママはここにはいないの。この共同体にはね、いくつもの支部があって、ここはその一部に過ぎないの。誰がどこにどう割り当てられるかは、あたしたちが関与するところじゃないから。共同体を運営するうえで、何か障害があったりすると、人の入れ替えなどが行われたりするのだろうか、と瀧本は考えた。だが、そんなことはどうでもいいことだった。
 そうね、人はたまに入れ替わるわ。春になると、あたらしい人たちが入ってくるの。出ていく人もいるけど。そうやって、循環させていくの。ぜんぶ。
 空を見上げながら、かんなはたぶん、二度このコミュニティの外には出てこないだろう、と思った。かんなは瀧本を誘っている。だが、瀧本は、ここが最終的に自分の行き着く場所だとはどうしても思い込めなかった。
 翌朝、瀧本はコミュニティをあとにした。かんなからも、他の誰からも、しつこく勧誘されることはなかった。どこまでいっても穏やかな人たちで、感情の起伏があまり感じられなかった。季節ごとに、地域の住民と交流するためのイベントなどを企画しているようだが、それ以外ではほとんど外部と交流を持たないそうだ。入会を希望するならいつでもどうぞ、と簡素な手書きのパンフレットを渡された。
 夏の終わり、電車で会った青年に電話をした。電話口で、青年はかんなが所属するコミュニティに関する新たな情報をくれた。入会するためには、持っているすべての財産をコミュニティに寄付し、それまでの自分の人生であったすべての嫌なこと、つらかったこと、嬉しかったことなどを告白させられる。その後、お堂のようなところで五日間の断食をし、現世とお別れとする儀式をするのだそうだ。その後は、文明社会からは切り離されたところで生活していく。断食の最中には、洗脳に近いようなことも行われるらしい。瀧本は、コミュニティの、特徴の少ない人々について思い出していた。かんなもゆくゆくはあの中のひとりになってしまうのだろうか。
 かんなに会いに行くという目標を抱えて生きていた瀧本は目標を失い、自分が何を目指しているのかわからなくなった。旅行から戻って来て、自分の部屋でひとりきりでいるときに、ふと、あのコミュニティと、現在、自分が暮らしているこの町はいったい何が違うのだろう、とぼんやり考えた。この町での暮らしは、あのコミュニティでの暮らしよりも立派なものなのだろうか。少なくとも、ここにいても、自分は幸福だ、ということを実感したことなどなかった。
 季節が移り変わり、瀧本は受験生になった。家を離れて、遠くの高校へ行こう、と考ええるようになった。


   4


 瀧本の学力で高校に進学するのは、さほど難しいことではなかった。兄が通っているような県のトップレベルの高校の試験にパスするのは難しいかもしれないが、三本目ぐらいのレベルの高校に合格することは、きちんと準備をすれば十分に可能だ、と担任からも言われた。両親は複雑な表情をしていた。予想していたことではあったが、兄は高校に入ってからますます疎遠になり、一年に数回、帰ってくるかこないかという頻度でしか帰ってこなかった。帰ってきても特にすることもなく、落ち着かないのか、家に荷物を置いたきり同級生のもとを尋ね、ひと晩寝たら戻っていった。兄にとって、この町はもう完全に過去のものになりつつあることは明らかだった。両親は、口にこそ出さなかったが、お前もこの町を出て行くのか、と言っているような感じがした。
 結局、瀧本は遠くの高校に合格したが、兄のように下宿をすることはせず、家から二時間かけて通った。朝はやくに家を出て、夜遅くに戻ってくるので、家族と会話をすることもほとんどなく、実質的には遠くの街に住んでいるのとあまり変わりはなかった。瀧本は長い通学の時間を読書に充てた。そして、高校での生活は、中学の頃よりもさらに瀧本の世界を押し広げてくれた。
 夏頃に、瀧本は隣の席の男子生徒と仲良くなった。函南栄一というその男は、夏ごろになるまで、ほとんど声を聞いたことがなかった。前髪が長く、表情が読み取れない。いつも俯いて、ノートに何かを書き付けていた。人を寄せ付けないような暗い雰囲気があり、まったく友人がいなかったためにいじめの対象にすらならなかった。高校に入学してからの数ヶ月で友人が作れないと、その後は誰とも接点を持たないまま残りの高校生活を送ることになる。だがそんなことを本人が気にしている様子はなかった。
 周りと接点を持とうとしていなかったので、瀧本も彼に関心を持つことはなかったが、ある日、瀧本は英語の教科書を自宅に忘れてきてしまい、仕方なく隣の席に座っていた函南に、教科書を見せてもらえないだろうか、と頼んでみた。函南はこちらの顏も見ずに、黙って教科書を押し付けてきた。自分はまったく勉強するつもりはないようだ。ただ、教科書を押し付けるそのとき、彼が熱心に書き付けているノートがちらりと見えた。何か、英語が書き付けられているように見え、それ、何、と小声で質問してみた。書き付けられているのは英語だったが、いま行われている英語の授業とは関係がないような気がしたからだ。
 函南はちらりとこちらを一瞥する。函南は黒ぶちの眼鏡をかけていたが、その奥の瞳は意外と幼いな、と瀧本は思った。函南は黙ったまま、自分が書き付けているノートも瀧本に渡す。ノートの文字は、何かの暗号のようだった。意味はさっぱりわからない。これ、何? と瀧本が質問すると、いま書いているプログラム、とぼそっと言った。瀧本は、プログラムの意味がわからなかった。そして、プログラム? と聞き返すと、そう、コンピュータの、プログラム、とまた短い返答があった。質問に対する返答があまりにも短いので、相手の反応に対して質問を重ねていく必要がある。だが、対話は成立した。何度か往復した質問によると、函南は授業中の時間はすべて、ノートにいま自分が作っているプログラムのソースコードを書き付け、自宅に帰るとそれをコンピュータに打ち込んでいるらしい。そんなことをしている生徒をこれまで見たことがなかった。
 函南と瀧本はじきに仲良くなった。函南はクラスの中では完全に浮いていて、誰も彼に話しかけようとはしなかった。学校の勉強に関心を示さず、いま自分が関心の向いているものにしか思考しようとしない。だが、彼は頭がいい、と瀧本は思った。彼の思考は、明晰で、論理的だった。何かひとつのテーマについて、ひとつひとつの断片を構築していくのではなくて、頭の中ですでに全体図がイメージできているようだった。
 瀧本は自分の本を函南に貸し出した。彼はそれまでに、ほとんど読書をしたことがなかった。小説には彼はあまり関心を示さなかったが、理系の本には強い関心を示した。その頃の瀧本は、生物学にはじまり、宇宙論、物理学、社会学、その他文字のある本ならなんでも読むようになっていた。子どもむけのファンタジーから、もっとリアリティのある活字の世界に身を投じることができるようになったことが嬉しかった。
 函南は生物学に特に強い関心を示した。リチャード・ドーキンスという生物学者の書いた、「利己的な遺伝子」という本に書かれている内容に惹かれたようだった。その本は、物理的な肉体は遺伝子の乗り物にすぎない、と主張していた。本の中で紹介されていた、遺伝子のゲーム理論に彼は共感を覚えたようだった。生存に必要な戦略として、常に相手を攻撃する者、常に相手から逃げようとする者、いろいろな戦略があるが、ゲーム理論によると、常に最高のスコアをはじき出す戦略というのが数学的に導き出されているらしく、それは「しっぺ返し戦略」と呼称されている。相手に対し、最初は友好的に接し、相手がこちらを裏切ったらこちらも裏切り返す、相手が改心してふたたび友好的になったら、こちらも友好的にもどる、というシンプルな戦略だ。これが生存には最も有利な戦略となるらしかった。函南は、シンプルであるがゆえにあいまいなところがない、理想のプログラムに近い、と言った。
 やがて瀧本は函南の自宅に遊びに行くようになった。彼の自宅は高校のすぐ近くにあり、初めて訪れた時に、瀧本は圧倒された。街中にあるため敷地は広くはなかったが、家の作りがまるで違った。函南の家の玄関が、瀧本の自宅の居間ぐらいの広さがあった。函南はほとんど自分のプライベートなことを話さなかったので、彼の親が何をしているのかなどはわからなかったが、いつ瀧本が自宅を訪れても両親のいずれもいなかった。
 函南の部屋は二階の角部屋で、神経質なぐらい綺麗に片付けられていた。ただ、机の上には乱雑な文字や図形が書き付けられたコピー用紙が散乱していた。机の上にはコンピュータがあったが、瀧本は学校でそれを見たことがあるぐらいで、それを実際に触ったことがなかった。函南は、自作のプログラムと、パソコン通信で知り合った仲間たちのことを紹介してくれた。瀧本には函南の開発したというプログラムについては何もわからなかったが、彼の作ったゲームを見せてもらうと、率直に、すごいと思った。
 函南は、学校ではほとんど誰とも会話をしていなかったが、自分がいま考えているテーマについては、驚くほど饒舌に語った。瀧本は理解できる範囲でそれに付き合ったが、函南の思考についていけず、ただ聞き役にまわることもあった。函南は現実の友人としては瀧本しか話し相手がいなかったが、パソコン越しには多くの友人がいるようで、頻繁に議論していた。ちょうどその頃、インターネットが一般にも普及しつつあり、函南はパソコン通信からインターネットに関心の対象を移していた。
 インターネットには無限の可能性がある、と函南は語った。インターネットはネットワーク上で情報をやり取りするから、無数に張り巡らされたネットの回線を通じて、どういうところにでもアクセスすることができる。まだ回線が弱いから文字情報ぐらいしかやり取りできないけれど、通信速度がどんどん速くなっていけば、きっと革命的なことが起きる。まずは画像、次に動画がネットワーク上で共有できるようになって、最終的には、人間の脳をネットワークに繋ぐことができるようになる。人と人の思考がダイレクトに繋がったら、画期的なことが起きるはずだ、と彼は語った。瀧本は、熱心に語る函南を見ながら、本当にそんな世界が来るのだろうかと訝しんだ。ただ、そういう世界がきたらどういうことが起こるのだろう、と想像することは楽しかった。函南は、高校においては瀧本以外に友人はおらず、完全に孤立している。だが、彼はインターネットを通じて、世界と繋がっている。この場合、外に対して開かれていないのはいったいどちらなのだろうか、と瀧本は考えた。
 年が明けてから、受験生だった兄から、東京大学に合格した、との知らせが入った。兄は高校でも熱心に勉強を続けていたようだった。すっかり疎遠になっていたが、瀧本は合格の知らせを聞いてから、兄が新しく獲得した世界を見に行くために、兄に会いに行った。考えてみれば、兄の住む街に行くのははじめてで、実家以外で兄とゆっくり話すこともほとんどなかった。自分とはほとんど全く接点のない兄だった。兄の下宿先に行き、それから近くに評判のラーメン屋があるというのでそこまで歩いていった。どうだ、学校の勉強は、とすっかり声が低くなった兄が聞いてきた。まあ、なんとかやっているよ、と返すと、そうかと興味があまりなさそうにラーメンを啜っていた。大学に行ったら、とりあえず結婚しようと思ってる、と兄は言った。瀧本は驚き、箸を止めた。兄は、いま付き合っている彼女と一緒に上京して、いずれはその人と結婚するつもりらしい。そんな先のことまで考えているのか、と瀧本は驚いたが、さらに兄は驚くことを言った。その人は有名な国会議員の娘なのだが、そこの私設秘書をアルバイトでやって人脈を作って、自分はゆくゆくは官僚になるつもりだ、と。将来の展望など何一つ考えていない瀧本にとって、そこまでの人生設計をしている兄の姿は、まるで別世界の人間に思えた。
 すっかり変わってしまった兄は説教がましいことは何も言わなかったが、ふと、付け加えるように、かんなの話題を持ち出した。伊崎かんな、覚えているか。瀧本が頷くと、あいつ、学校を中退して、変な宗教コミュニティに入ったんだけど、知ってるよな。そのコミュニティに実際に行ったということは瀧本は話さなかった。そのコミュニティだが、内部で色々と抗争があって、最近、解散したらしい。兄はあまり興味もなさそうにそう言った。やっぱり、革命みたいなことをしても、いまの世の中ではうまくいかない、学生運動のような幼稚な真似をしていた世代だって、結局は何もできなかったじゃないか。俺は国家の中枢に入って、もっと大きなものを見るつもりだ。こんな田舎に居たんじゃ、何も見えないからな。
 兄との会話はどこまでもぎくしゃくとして、まるで弾まなかった。結局、小一時間ほどで帰路についた。かんなの所属していたコミュニティが崩壊した、ということがわかっただけだった。かんなは一体どこで何をしているのだろうか。ただ、あの奇妙なコミュニティから開放されたというだけで、どこか安心するような心持ちになった。彼女を探そう、と少し考えたが、どうやって探せばいいのかもわからなかった。


   5


 月日はあっという間に過ぎた。瀧本は高校では陸上部に入り、長距離走の選手として練習をしていた。たまに練習をさぼって、函南の家に遊びに行った。同時に、同じ陸上部の女子で彼女もできて、忙しい日々を送っていた。最初の一年はあっという間に過ぎ去った。
 ある日、事件は起こった。その日は朝から、かすかな心のざわめきを感じていた。朝のニュースで、東京の地下鉄で異臭騒ぎがあった、との報道を見た。テレビの画面は混乱していて、何が起きたのか判然としない。そのまま、何が起きたのかよくわからないまま学校に行くと、教室は異臭騒ぎの話題で持ち切りだった。ガスパイプが破損したのが原因だと主張する者もいれば、外国からのテロ攻撃だと主張する者もいた。瀧本は、それが東京の地下鉄で起きた、という点が気になった。しかも、事件は複数カ所で起きているようで、その中には兄が住もうとしているエリアも含まれていた。
 担任の教師が教室に入ってくると、教室は静かになり、何事もなかったかのように授業がはじまった。だが、不意に、学年主任の教師が教室のドアを開け、瀧本に、職員室に来るように、と告げた。職員室に向かう途中の廊下で、落ち着け、と学年主任は言った。君のお母さんから電話が入っている、大事ではないと思うが、とりあえず落ち着いて話を聞くんだ。抑えた声で、学年主任は瀧本にそう告げた。
 瀧本の悪い予感は的中した。母親は押し殺したような声で、お兄ちゃんが、と言った。それだけで、瀧本には何が起こっているのかがわかった。大丈夫、お母さん、落ち着いて。母親が取り乱しているのが電話越しにわかると、瀧本はなぜか自分の心をコントロールすることができた。先ほどまでは、自分自身の心のざわめきを押さえつけられなかったが、母親が取り乱しているのと対称的に、自分の心をコントロールすることができた。しばらく沈黙が続いたが、そうね、取り乱していても何も変わらないものね、と落ち着きを取り戻した声で母親は言った。これから東京に行こう、と瀧本は冷静に言った。
 母親と合流し、その日の午後に兄のいる病院に着いた。兄が事件に巻き込まれた場所からはかなり離れた病院だったが、周囲の病院は患者が大量に搬送されたため、周囲の病院に手当たり次第に振り分けられているということだった。病院名はわかったが、兄の居場所がわからず、母親と探しまわった。兄は病院の二階の廊下のベンチに腰掛け、ぼうっと壁を眺めていた。目の焦点が合っておらず、瀧本は一瞬、誰だかわからなかった。
 なんだ来たのか、わざわざ悪かったな、兄は焦点の定まらない目でそう言った。大丈夫なのか、と瀧本が言うと、大丈夫だからこんな廊下のベンチで放置されてるんだろ、と気怠げに言った。あたりは満員列車の中のように人でごった返しており、看護師が間を縫うようにせわしなく往来していた。まるで戦場だった。中東の、内戦の絶えない地域にいるような錯覚を覚えた。比較的軽度な症状の人が廊下のベンチに座らされているのだろう、と瀧本は思った。ということは、兄は軽度と診断されたことになる。
 母は兄を前にしてもなかなか言葉が出てこないようだった。兄は母の肩にそっと手を置き、もう大丈夫だから、達郎を連れて帰ってくれ。兄はきっぱりとした口調でそう言った。
 そうはいってもすぐに帰るわけにもいかず、医師から話を聞いてから帰ることにした。ベンチの空いた席で時間が過ぎるのをただ待っているあいだ、瀧本は、隣の席の男性の様子がおかしいことに気がついた。俯いて、肩が小刻みに震えている。兄が母に対してそうしたように、肩に手を置いて慰めようかと咄嗟に思ったが、見ず知らずの人にすることではない、と躊躇した。だが、隣の席の人が恐怖のために震えていることは明らかだった。
 瀧本は思い切って、大丈夫ですか、と隣の席の人に話しかけた。しばらく反応はなかったが、その男性はぼんやりとした顏をこちらに向けた。兄と同じく、焦点の合っていない、弛緩した目つきだった。しばらくぼんやりとした表情でこちらを眺めていたが、やがてゆっくりと口を開いた。私は、私は、私は、私は、これから私はどうしたらいいんですか、私はこれからどうなるんでしょうか、そんなことを男性はうわごとのように繰り返した。男性は混乱しているのか、取り留めのないことを矢継ぎ早に話し出した。
 男性は三十代ぐらいに見えたが、ひょっとしたらもっと若く、二十代ぐらいかもしれない、と瀧本は思った。まだ事件現場の興奮から脱しきれないでいて、混乱している。瀧本は、相手の言うことに相づちを打ち、ときおり、相手の話を促すような言葉をかけた。そして、必要なときに、必要なタイミングで、大丈夫ですよ、安心してください、と優しい声をかけた。
 大丈夫である根拠などもちろん何もなかったが、そういう言葉をかけずにはいられなかった。話が具体的なものにおよぶと、瀧本の干渉できる範囲を超えているため、聞き役に徹した。こうして、相手の心の膿みを少しずつ押し出し、出し切るように、話を聞き終えるときには、相手の混乱も多少はおさまっていた。
 瀧本は、混乱し、興奮している相手に対し、どのように対応すれば相手が落ち着きを取り戻すのかが手に取るようにわかった。まるで、激しく揺れている振り子を、どのようにすれば勢いを相殺することができるのかがわかるように、感覚として、そういうことがわかるのだった。
 男性が落ち着いて、ベンチに座りながら浅い眠りについたとき、瀧本は混乱している別の患者のところに行き、また同じように相手と会話をした。瀧本がしていたことはただ相手と会話することだけだったが、結果として、相手は落ち着きを取り戻していった。瀧本は、そのとき自分に、相手の話を傾聴し、心を落ち着かせる効果が自分の声にあることを知った。そして、それを適切なタイミングで発することができることも知った。
 その後、医師と面談をしたが、現状では症状に関してわからないことが多く、今後どうなるということもはっきりとはいえない、と言われた。母はそのことに少なからずショックを覚えたようだが、瀧本は兄なら大丈夫だろう、と思った。これも何も根拠はなかった。周囲の人には誰も外的損傷はないので、安心したのかもしれない。例えば、戦争のドキュメンタリのような、爆弾で手足を失ったような人々と比較するとインパクトが薄かった。我ながら薄情だなと思ったが、だからといってどうすることもできない。母親は東京に残ると言い放ち、瀧本はひとりで地元に帰った。
 何日かが過ぎると、事件の被害の全容も大きく報道されるようになった。既に死者が何名も出ているらしく、主犯は、近頃世間を騒がせていたあるカルト教団だということがわかった。その教団の名前は聞いたことがあった。瀧本はほとんどテレビを見ないが、よくテレビに出演し、若者の支持を集めていた教団だった。瀧本は、かんなのいたコミュニティがそれに関わっていたわけではないことに安堵したが、同時に、かすかな心のざわめきを感じた。
 瀧本くん、お兄さん、大丈夫だった? と函南が学校で話しかけてきた。ありがとう、とりあえずは問題なかったよ、と瀧本は答える。瀧本個人のことについて函南が関心を持つことは珍しかった。函南は事件のことを知りたがっていた。瀧本は、自分の兄のことを思い出すのが嫌で、しばらくはぐらかしていた。函南は、事件の背景について、瀧本よりもよほど詳しい情報を持っていた。本当に実行するなんて凄いよねえ、国家の転覆を目論んでいたんだよ、函南は嬉々としてそういうことを語り始めた。教室でそういうことを言い始めたので、瀧本はここではまずいと思い、函南を校舎の屋上に連れ出した。
 函南、何がそんなに気になるのか知らないが、あんまり変なことを教室で言うなよ。函南は黙って首を振り、わかってないな瀧本くんは、と言った。いまの社会はとっくに無理がきてるんだよ。資本主義社会が行くところまで行けば、先にあるのは破綻だけだ。発想を飛躍させる必要がある。いまある体勢を転覆させるか、あるいは、新しい思想を打ち出して、新しい何かをはじめるか、だ。
 一瞬、函南の言っていることがかんなの所属していたコミュニティにいた連中と重なり、瀧本は一瞬、言葉に詰まった。理想の社会、理想の人生。そうやって嬉々として語る人はいるけれど、そんなものはみんな、幻想ではないのか。本当にそんなものがあるとしたら、なぜ、かんなみたいに苦しんでいる人がいるのだろう。
 函南も、瀧本のそんな様子を察したのか、すぐに口をつぐんだ。あんな連中を救うことができるとしたら、きっと、対話以外にないだろう、と瀧本は思った。思想で思想をねじ伏せることはできない。もしそんなことができるとしたら、この世から軍隊など必要なくなるはずだ。
 瀧本は、病院で自分が周りの人たちに話しかけたことを思い出していた。ただ静かに、彼らの言うことに傾聴する。自分の全神経を、彼らの会話の行方に集中させる。そして、揺れている振り子を鎮めるように、彼らの心を鎮めていけばいいのだ。それを繰り返していけば、いつかはすべての悩みは消えてなくなる。
 捜して欲しい人がいるんだけど、と瀧本は函南に言った。捜して欲しい人? と函南は繰り返す。パソコンに精通する函南なら、もしかしたら、かんなに通じる情報を入手できるかもしれない、と思った。函南は、瀧本の知るかぎりのかんなに関する情報を聞くと、ふうん、と鼻を鳴らした。ずいぶん興味深い人と知り合いなんだね、と感想を言った。
 函南は、ふた晩で、瀧本の欲しい情報を探し当て、教えてくれた。瀧本はまた、函南の家まで行き、函南が調べてきてくれた内容を聞いた。わかったのか、と瀧本が聞くと、まあね、と函南は言った。函南の部屋は最初に来た頃とほとんど変わりはないが、少し音楽のCDや本などが増えているような気がした。函南は椅子に深く腰掛けたままなかなか本題に入ろうとしない。瀧本は焦れて、見つかったのか、見つからなかったのか、と強い口調で言った。函南は表情を崩さず、手を顎に押し当てた姿勢のまま、けっこう簡単なことではないんだよ、人を捜すのって、と言った。
 厳密に言えば、ピンポイントで見つけたわけじゃなくて、可能性が高いってことなんだけど、と函南は言い、パソコンのディスプレイを指し示した。大勢の人間が、大きな穴を取り囲んでいる写真だった。穴の中心にはたき火のような炎が燃えていたが、それがキャンプファイヤーのための火でないことぐらいはすぐに見てわかった。みな一様に白い装束を纏っていて、一目でかんなが所属していたあのコミュニティの人間だとわかった。穴を取り囲んで、何か儀式めいたことを行っているのだ、と思った。
 まあ想像できると思うけど、と函南は言った。これがこの人たちの最後の姿となったらしいんだよね。撮影者は、この集団の関係者だったそうだけど、カメラなんかは持ち込めないらしかったから、どこかに隠し持っていたのかもね。
 彼らは、マントラのようなものを唱えながら、集団でたき火の中に飛び込み、集団自殺した。もちろん警察沙汰になったけれど、あまりにショッキングな事件だったから、大々的には報じられていないそうだ。瀧本は、食い入るように画面の写真を見つめ、その中にかんながいるかどうかを探した。画像は解像度が低く、ぼやけていて、細部までは良く見えない。三十人は下らない人数の、端から順に丁寧に顏を確認していった。途端に、見覚えのある顏に行き当たり、瀧本はあっと声を上げた。いたの? と函南が言う。
 瀧本が発見したのは、かんなではなく、かんなの母親だった。かんなの母親に会ったのは、かんなを連れて隣町の本屋に行った日だけで、しかも化粧をしていない顏だったので印象が違ったが、間違いない、と瀧本は思った。かんながここにいる可能性もあるのでは、と隅々まで画像を確認したが、かんなの姿はどこにもなかった。瀧本は安堵したが、まだ安心はできない、と思った。かんなとかんなの母親は、そもそもコミュニティの違う支部に所属していたのだ。この画像は、かんなの母親が所属していた支部のものに違いないから、かんな自身が映っていなくても当然なのかもしれない。
 この画像によってもたらされた情報は何もなく、ただいたずらに不安を煽っただけだった。
 瀧本は、絶望的な不安と、身を焦がすような怒りに包まれた。
 だが、その感情のやり場をどこに向ければいいのかわからなかった。
 この人たち、炎の中に飛び込んで、焼身自殺したんだよ。燃えて、自らの肉体を空中に散布することで、世界と一体になる、ということらしいんだけど、それってあんがい、理にかなっているかもね。函南は淡々とした口調でそう言う。この世界の、素粒子の数は、宇宙開闢以来、変わっていないという研究結果があるらしいんだよね。つまり、僕らの肉体は、宇宙の中のある素粒子によって構成されているわけだけれど、いまはたまたま、かりそめの姿として生き物の形を保っているだけで、もともと僕らが食べ物として摂取したものが変化した僕らの細胞になっているだけだし、死んだあとはただの物質になってまた宇宙の中を循環することになるわけで、それって、生命がはじめて誕生してから連綿と続けられてきたことなんだよね。僕は宗教なんてまるで信じないんだけど、科学的なものがなにひとつなかったような時代に、お釈迦様が似たようなことを考えついて、仏教という体系にしたというのは興味深い話だよね。僕は、けっこう、この人たちにシンパシーを感じているんだよ。
 黙れ、と瀧本は低い声で言った。函南が言っている内容が正しいか正しくないかはどうでもいいが、少なくとも今聞きたいような内容ではない、と思った。第一、瀧本はかんなの現在の所在が知りたいだけなのだ。一目でいいから会って、かんなが無事に生きているかどうかを、どうしても確かめたかった。その約束を遂行せず、わけのわからない、本当かどうかもわからない写真を見せつけて悦に浸っている目の前の男を、本気で殴り飛ばしたいと瀧本は思った。
 自分の思ったことを言っただけだよ、と涼しい顔で函南は言った。瀧本は函南を睨み続ける。函南はそんな瀧本の様子を見て、これ以上は何も話しません、というふうに両手を上げてみせた。
 こいつは、と瀧本は思った。
 こいつは、きっと、心から誰かを愛しいと思ったことなんてないに違いない、と思った。
 確かに生命は、それだけではただの物質かもしれない。しかし、色んな人との関わりを持ち、その他人との関係性を通じて、ただの物質以上の感情を生み出すことができる。これ以上は何を言っても無駄だと思った。ありがとう、参考になった、と言い残して瀧本は立ち去ろうとした。瀧本の後ろ姿に向かって、函南は。やっぱり人を捜すなら、足を使って捜さないと駄目だよ、人に頼ってないでさあ、と言った。その声のトーンには、嘲笑のニュアンスが含まれていた。瀧本はその言葉を振り切るようにして函南の家を出た。
 苛立ちながら通りを歩きつつ、瀧本は考えた。函南の言ったことは図星だった。図星だからこそ、腹が立つのだ。かんなについて、本気で足取りを追いたいのならば、自分で学校でもなんでも休んで、探しに行くはずだった。本来なら、チャンスはいくらでもあったはずだ。コミュニティに行った時も、本気でかんなを自分のほうに引き寄せたいのならば、そのチャンスはあった。いや、もっといえば、初めて二人で隣町に行ったあの時から、引き寄せようと思えば自分のほうに引き寄せることができたはずだ。
 結局、そんなチャンスなどもすべてなかったことにして、自分の欲望には向き合わなかった。自分は兄とは違う、と強く実感した。兄は、自分の欲望に素直に向き合い、それに対して、自分で自分を律しながら計画を立て、それを実行に移している。自分はそうはなっていない。
 翌日から、瀧本は学校を休み、かんなを捜しはじめた。コミュニティに向かう際に、電車で一緒になった青年なら、何か手がかりを持っているかもしれない、と思った。


    6


「失礼します」
 不意に女の声がして、瀧本は目を覚ました。いつの間にか椅子で眠っていたようだった。目を開けてもなかなか焦点が合わず、ぼんやりと白い天井が視界に入るばかりだ。ここはどこだろう、とぼんやりと考えた。仰向けになって寝ているので、よくわからない。目の端に、ドアが開け放たれているのが見えた。誰かが入室してきたのだ、とわかっった。
 目の焦点が少しずつ合ってくる。ドアを開けた人物が、扉を完全に開け放って、こちらに足早に近づいてくるのがわかった。
 瀧本は、一瞬、目を見開いた。
「かんな?」
 思わず、そう声を出していた。
 女性が立ち止まる。
 瀧本は女性を見つめ続けた。
 永遠に近い時間が流れた。
 女性は少し戸惑ったような表情になったが、こほん、とひとつ咳払いをした。
「いえ、違います。美穪子です、先生。誰ですか、かんなって」
 声の主はくすくすと笑いながらそう言った。瀧本は顏を手をこすりながら、体勢を立て直す。ここは自分の診察室だ。仕事をしているつもりが、いつの間にか眠ってしまったらしい。自分の診察室で居眠りをするなんて、これまでに経験はなかった。こちらを覗き込む美穪子の顏は、くすくすという笑いをたたえながらも、どこか心配そうな光をたたえている。
 瀧本は決まりが悪くなり、わざとらしく頭のかきむしる。
「悪い、最近、少し寝不足で。……眠ってしまっていたようだ」
「いえ、……ここは先生のクリニックなんですから、どう過ごされようと、先生のご自由です。それよりも先生、風邪ひきますよ、毛布持ってきましょうか?」
「いや、いい、大丈夫。どうしたんだろう、仕事していたつもりだったんだけど、こんなことって滅多にないよな。大丈夫、もう起きたよ」
「あの、よろしいでしょうか?」
「うん?」
「診察の、ご依頼があったんです。お入れしてもよろしいでしょうか?」
 美穪子は遠慮がちにそう聞いてくる。診察の予約は、システム上の端末に入力すると瀧本のパソコンにも連動する仕組みになっているから、わざわざそんなことに断りを入れる必要はない。もちろん、美穪子は事務手続きは一通り習得している。どういう意味だろう、と一瞬、考えていると、美穪子は慌てて付け足した。
「あ、あの、いちおう、初診の方なのですが、ご予約をされたいとのことで。安達さんという方なのですが、江利子ちゃんのお知り合いだとおっしゃってます」
 安達、という名前を聞いても、すぐにはピンとこなかった。
 だが、一瞬遅れて、頭の中のパーツがひとつに組み上がるような感覚があった。
 ……安達凛子……。
 ……仁科くんの恋人……。
 血が激しく巡り、瀧本はすっかり覚醒した。すぐに取り次いで、と少し大きな声を出した。それまで微笑んでいた美穪子が、怯えたような表情に変わった。瀧本は、あわてて、とりなすように優しい声を出した。「ごめん、時間外でもいつでも受ける、と伝えてもらえるかな」
 美穪子は怯えたような表情のまましばらく黙っていたが、「何時ぐらいにお取り次ぎしたらよろしいでしょうか?」とおずおずと質問した。
「何時でも大丈夫だよ」
 承知いたしました、と言って美穪子は静かに扉を閉めた。たったあれだけの動揺でも、美穪子は敏感に異常を感じ取ってしまう。こちらの表情を常に観察し、自分に落ち度がないかどうかを、常に探っている。
 常に美穪子と接するのは楽ではない。だが、いまは一緒に住んでいるわけだから、さすがに慣れてはきたが、それでも不意に自分の素が出てしまい、彼女を怯えさせることになる。
 素の自分。この仕事についてから、何が自分の素なのかがわからなくなった。クライアントに対しては誠実に向き合っている。嘘をついている自覚はない。だが、一人になったときと全く違う自分がいるのも確かだ。どちらが本当の自分なのかわからない。もちろん、どちらもまぎれもない自分自身であり、状況に応じて、色々な人柄を使い分けているだけだ、ということも理解している。本当の自分、本来の自分は、あの山間の小さな町にいたときのままなのかもしれない。
 美穪子は、いまごろ安達凛子に電話をしている最中だろうか。安達凛子は、いつごろの診察を希望してくるだろう。それによって、彼女の状況がわかる、と瀧本は思った。もし本日中を指定してきたら、ほぼ間違いないといっていい。
 函南が所有していた『魚』を、仁科くんが持ち出した、と聞いたとき、これはチャンスだと思った。函南の会社に飼育されている『魚』を持ち出すのは容易ではない。自宅で飼育するよりも会社で飼育したほうが安全だというのが彼の考えだったのかもしれないが、実際、それは当たっていた。部外者である瀧本は函南の社長室に入ることはおろか、彼のオフィスのフロアを歩くことすらできない。あらゆる人が出入りするオフィスにあえて持ち込むのは、セキュリティが万全だし、理にかなっているのかもしれなかった。
 仁科は、もともと瀧本のクリニックに通っていた、クライアントの一人だった。不眠を訴え、睡眠導入剤の処方を希望してクリニックにやってきた。彼はIT企業に勤めていたのだが、そのあまりに過酷な労働環境に瀧本は驚いた。これまで、ありとあらゆる若者たちの悩みを聞いてきたが、ここまでひどいと感じたのは初めてだった。彼の会社では、アメとムチを上手に使い分け、社員を酷使していることがわかった。
「でも先生、うちの会社は本当に凄いんですよ。こんな若手にも、こんなチャレンジをさせてくれるんですから。こんな会社、他にないですよ」
 彼らの会社が手がけるプロジェクトの内容を聞いても、瀧本には無理があるようにしか思えなかった。どう考えても足りない人手、経験、予算。仁科のような、大学院を出ている優秀な人材が、それこそ昼夜を問わず不眠不休の労働をして、それでなんとか形になっているようなプロジェクトの数々。
 その名前を聞いて、とても驚いた。それは瀧本のよく知る人物だったからだ。
 函南栄一。彼の立ち上げた会社で、仁科は働いていたのだった。
 函南が仁科に対して使っていたのは、典型的なマインドコントロールだった。最初にプライドを粉々に打ち砕き、その上で追い打ちをかけるように、ありとあらゆる方法を使って精神的に追いつめる。追いつめて追いつめて、相手が限界に達する直前、救いの手を差し伸べる。未来のビジョンを滔々を語り、その未来の実現のためにはお前の力が必要だ、と鼓舞する。そして、これまでやってきたことは仲間として選ぶために「選別」するためにやってきたことだ、と説明する。その手口は、宗教家とそう変わらない。
 優秀な学生ほど、この手にかかりやすい。彼らは、漠然とした不安を常に抱えている。とりあえず自分の欲しいものを一通り持っていて、それでいて欲しいものが無い。いまの自分の持っているものを失うことを極度に恐れている。やりたいことも特にないが、このままでは駄目だということもわかっている。自分の居場所を求めているが、それを自分で作るだけの力もない。自分を認めてくれ、自分を必要としてくれる人になびいてしまう。同じような境遇の仲間たちと、同じ方向を目指すことを望んでいる。自分を認めてくれる人が自分を傷つけても、その人のために尽くそうとする。真面目で、気弱な人間がこの手によくかかる。
「君がいないとこのプロジェクトは成功しない」
 そういった甘言に、いままでどれだけの若者が騙されてきたのだろう。それを函南が本気で言っていないことは瀧本にはわかる。
 何度も会社を辞めることをアドバイスした。辞めることが無理なら、休職という選択肢もある、と提案した。しばらく休んで、今後のことと、いまの自分の体調を考え直してみたらどうですか、と。彼はその度に、今度はまた新しいプロジェクトが立ち上がったから、これから忙しくなる、自分だけが休むわけにはいかない、そんなことを言って、頑なに休みを取ろうとせず、ただ睡眠導入剤の処方だけを望んだ。函南の会社では、プロジェクトごとに社内ベンチャーのような形でチームが編成され、そのチーム内での調整が求められるため、過酷なスケジュールを自分たちで生み出しているようなものだった。
 やがて仁科にも限界がくるだろう、と瀧本は考えた。そんな折り、仁科から『魚』の話を聞いたのだった。
 仁科は、『魚』がもたらす幻想世界について語った。いや、実際のところ、彼はそれを幻想だとは思っていないようだった。本当に、頭の中に別の世界があり、そちら側に行くことができるのだ、と彼はそのように考えているようだった。彼は、函南に言われるままにその『魚』を試し、その「毒」を体内に取り込んだ。
 そして、そちら側の住人になったのだ。


episode4 瀧本達郎(後編)


   1


 約束の時間ちょうどに、安達凛子は現れた。夕方の五時半に通常の診察が終わり、瀧本は自分の部屋で事務作業をしていた。受付のほうで音がして、安達凛子が来たのだ、とわかった。かすかに緊張が走ったが、悟られないようにしなければならなかった。
 ほどなくして、美穪子の案内で診察室に入って来た安達凛子は、瀧本が抱いていた印象と大差はなかった。仁科からの情報に加え、江利子からも話を聞いていたせいかもしれない。受け答えはきびきびしていて、しっかりとした印象を与える。いかにも仕事ができそうだ。だが、同時に一抹の危うさも感じる。ふと、なにかの拍子にそれまで自分を支えていたつっかえが外れると、そのまま全てが崩れていってしまうような、そんな危うさを。毅然とした態度が、彼女のアイデンティティで、毅然とした態度をとることで処世をしている様子が見て取れる。
 江利子から聞いている旅行代理店の勤務の様子からしても、プロとしての責任感をもって仕事しているようだ。だが、同僚や上司に対しては一定の距離を保ち、プライベートなことに立ち入らない。自分が立ち入られることを望んでいないため、他人のプライベートにずかずかとあがりこまないのだろう。そういうクールな態度が、彼女の仕事上での評価を高める。旅行代理店は接客業だが、結局のところ、そのような個人的な事情に踏み込まないドライな接客のほうが好まれるのだ。人々は、表面では心のこもった接客を必要としていても、実のところ、適切な距離感を保った接客を求めているからだ。
 安達凛子は仁科和人の恋人だと聞いている。仁科は妻帯者なので、その関係は不倫ということになる。どういうクライアントと接するときもそうなのだが、瀧本は倫理観を持ち出さない。たとえそれが世間一般では不倫と呼ばれる関係であったとしても、それがクライアントの心の平穏のために必要なものであれば、是と考える。もちろん、明確に法律に反している行動の場合は別だが、基本的には、その行動が正しいかどうかは問わない。相手にとって、それが本当に必要かどうかだけをみている。
 安達凛子は、仁科を失ったショックから脱し切れていないようだった。瀧本は、まず彼女の信頼を得ることが必要だと思った。重要なことを聞き出すためには、まず彼女の信頼を勝ち取らなければならない。だが、安達凛子が静かに語り始めたとき、瀧本は自分が彼女の物語を聞きたがっているということに気がついた。
 話が終わりかけたとき、安達凛子は『魚』の話題を自分から持ち出した。
「先生は、『白い魚』のことをご存知なのですか?」
 ……白い魚……。
 瀧本は実物を見たことがない。
 それどころか、その存在については、半信半疑だった。
 瀧本の持っている情報の大部分は、仁科から聞いた話だけだ。
 最初は、彼の虚言、あるいは妄想だと思っていた。
 まるでシーラカンスのような見た目の、『白い魚』。赤い目をしていて、短くするどい牙をもつ。
 ふだんは藻などの海藻を食べているが、食事は必ずしも必要ではなく、水と日光だけで何年も生き延びる。寿命はおそろしく長く、既に五十年近く生き続けている。
 その牙がもつ毒には強力な幻覚作用があり、噛まれたのち、数分で意識を喪失し、肉体は仮死状態に陥る。
 肉体的に仮死状態となっているあいだ、意識の中では、現実とほぼ同じ世界が展開される。そこでは、同じく『魚』に噛まれた者同士で通信することが可能で、慣れると、意識内の世界そのものを自在に改変することができる。
 解毒剤などはなく、意識自体は三十分程度で戻る。だが、その昏睡時の意識内で、覚醒のための「カギ」があり、それを発動しない場合、蘇生が遅れる、あるいは蘇生しない可能性がある。
 意識そのものは三十分程度で戻るものの、意識内の世界、精神世界の中の時間の流れはそれに依らない。もっと短く感じることもあるし、場合によっては数十時間の時の流れを感じることもある。
 同じ魚に噛まれた人間同士で、同じ幻覚を共有することができる。たとえ、自分自身が死んでも、他人の意識の中で、自分を生き続けさせることができる……。
 幾度もの診療を通じて、瀧本が仁科から得た情報はそのようなものだった。はじめ、瀧本は違法ドラッグの使用を疑い、法的な立場からの警告をしようと思ったほどだったが、やがて『魚』は本当に実在し、しかも違法でも合法でもなく、世間一般には認知されていない類いのものであることもだんだんとわかってきた。
 仁科は、日を追うごとに、『魚』の毒による精神世界に魅入られていった。やがて、この世界のくびきから逃れ、そちらの世界で生きることを望むようになった。
 そして、仁科は行動を起こした。函南のもとから『魚』を奪ったのだった。だが、『魚』を外部に流出しないように、どこかに隠したらしい。仁科は魚を盗みだしたことはもちろん瀧本には言わなかった。言葉の端々から、そう推測したにすぎない。
 瀧本はそれをどうしても欲しいと思った。それを手に入れなければならなかった。
 だが、突然、仁科は生命を絶った。バイク事故による死。
 自殺をするようには全く見えなかった。だが、本当に彼が自分の意志で死んだのならば、彼が話していた内容が、本当に確からしいことを意味している。
 安達凛子が話した内容は、仁科の話していた内容と概ね一致するものだった。
 瀧本は、仁科が自分に話した内容が真実であると、あらためて確認できたのだった。
 もちろん、安達凛子が仁科と一緒になって、同じ虚構を語っている可能性はある。しかし、彼女の口調は真に迫るものがあった。それは仁科も同じだ。職業柄、相手が嘘をついているかどうかが瀧本にはわかる。
 間違いない、『魚』は存在し、いま、安達凛子の手元にある。
 診察を終え、瀧本は入り口まで彼女を見送った。美穪子も、瀧本につられるような形で表口から彼女の帰宅を見守った。
 瀧本は、どうすれば『魚』を手に入れることができるか、それだけを考えていた。


   2


「先生、お顔の色がすぐれませんが……」
 安達凛子が帰宅したあと、美穪子は心配そうな表情を見せた。瀧本は微笑し、大丈夫だよ、と言った。美穪子はその心配そうな表情をなかなか崩さなかったが、やがて頬に微笑みを取り戻した。
 実際は、瀧本は自分がやや興奮状態にあることを自覚していた。それを意識して押さえようとしていたので、表面的には気落ちしているような表情になっていたのだろう。だが、実際の内面の感情はそれとは反対だった。
「私、もう今日のお仕事はほとんど片付けちゃいました。先に上で、お夕食の支度をしてきますね。今日はちょっと遅くなっちゃいましたから、お買い物に行けなかったので、有り合わせのものになってしまいますが、よろしいでしょうか?」
 もちろん、と言いながら、瀧本は自分の診察室に戻ろうとした。コーヒーでも飲んで、心を落ち着けよう、と思った。
 診察室のドアを閉め、飲みさしのコーヒーに手を伸ばす。ドアの向こうから、美穪子がクリニックを出て行くような音が聞こえた。これで安心して思索にふけれる、と瀧本は安堵した。
 美穪子は現在、瀧本のアシスタントとして働いているが、もともとは瀧本のクリニックに通院するクライアントのうちの一人だった。瀧本のクリニックは、繁華街に位置していることもあり、さまざまな若者たちが訪れる。仕事上のトラブル、職場での人間関係、先行きの見えない将来に対する不安、そういった様々な諸問題が彼らを悩ませる。
 瀧本の仕事は、そんな彼らの話に傾聴し、心の振り子をゆっくりと、時間をかけて鎮めていくことだった。自分にはその天性の才能があることに気が付いていたし、それをより効果的に行うだけの技術を磨いてきた。医学的な知識も身につけた。医師としての実績を積むにつれて、それらは自信へと変わっていった。だが、決して驕ることなく、一人一人のクライアントに、誠実に向き合ってきた。
 ある日、瀧本のクリニックにある女性が尋ねてきた。五十過ぎほどのその女性は、ひどく怯えた様子でクリニックにやってきた。女性は診察室で瀧本と向き合うなり、診察を必要としているのは自分の姪なのだと言った。自分の姪は、早くに両親をなくし、自分が引き取って育ててきたのだが、ある日、自分の部屋に引きこもったきり、出てこなくなってしまったのだという。奨学金を借りて大学にも通っていたが、いまは休学しており、閉じ切った部屋の中で誰とも接触せずに閉じこもっている、という。
 瀧本は穏やかに、自分はしがない心療内科の人間にすぎず、ひきこもりとなってしまった方の治療は対象外なのだ、ということを説明した。社会的な要因からひきこもりになってしまった人に対してはそれを専門でやっている団体がいくつかあり、それは瀧本の専門外だった。瀧本のクリニックの対象者は、あくまで自力で通院が可能なクライアントに限られており、入院設備等も備えていないため、そういった対応はできないのだということを説明した。
「もう、そういうところにはひととおり当たりました。ですが、ちっとも事態が進展しなくて……。……要因がわからないんです。なにしろ、普通の、その……、ひきこもりの方たちとは、その……少し違うようでして」
 弱り果てた様子でその女性はため息まじりに瀧本は打ち明けた。その女性の姪は、埃ひとつない整然としたモノの少ない部屋の中で、扉も雨戸も締めきった状態で、耳栓をして、部屋の中央でずっと座りつづけているのだという。
「まるで、修行僧か何かが瞑想しているような感じで……」
 女性は口にするのも憂鬱そうに、そう言う。外部からの一切の情報を断ち、ほんのちょっとした物音などにも敏感に反応するのだという。他の医者も匙を投げているような状態で、強制的にでもどこかの施設に送るしかないかと思っていたが、瀧本の評判が非常に良いので、わらにもすがるような気持ちでここに来たのだ、という。
 瀧本は迷った。ここで追い返すのは簡単だった。それは自分の専門ではない、という先ほどしたような説明を繰り返し、それでも納得ができないようなら、そういうことを専門で行う病院への紹介状でも書けば良い。実際に、そのような対応をしようかと考えたが、ふと手を止めた。
 なぜなのかはわからない。女性が必死になっていろいろな病院や、行政を当たっているのは間違いないだろう。だが、どちらかというと、瀧本には、女性が厄介払いをしたがっているのではないか、と感じた。女性にとって、彼女の姪とは、引き取りたくもない親類の一人なのだ。話していて、本当に困ったという表情を女性は見せるのだが、その表情の裏には、どうしてもこの厄介者をなんとかしなければ、といったニュアンスがあった。
 閉め切った部屋、外界から完全に隔絶された部屋。その部屋の中央にいて、誰からも相手にされなくなっている少女。
 瀧本の頭の中では、なぜかその女性はかんなではないか、と感じていた。なんの根拠もないが、瀧本の脳裏では、暗がりの中、床に膝を抱えて座り込むかんなの姿があった。外界から拒絶された場所で暮らし、その場所すらも奪われた、かんな。結局、瀧本はかんなを見つけ出すことはできなかった。
 瀧本がその家を訪問することに決めた。そのことを告げると、女性はとても喜んだ。瀧本は、数日後、その女性の家を訪れた。
 その女性の家は市内の郊外にある、立派な構えの古民家だった。そのあたり一帯の土地を所有しているという話だったから、地主なのかもしれない。それだけに、閉め切った部屋に閉じこもっている姪の存在を、近所に知られたくないのだろう。車で迎えに来てくれた女性は、車窓を指差し、あの部屋です、と言った。牢屋のように、雨戸が閉め切られた部屋だった。
 家に入るとスリッパを出され、居間で家族と簡単な挨拶を交わしたのち、瀧本は二階にあるその部屋の入り口の前まで行った。ノックしてもいいかと小さな声で女性に訊いたが、ノックのような音にも過剰に反応するので、できればしないほうが、との答えが返ってきた。
 瀧本は少し躊躇ったが、覚悟を決めると、ドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開けた。暗がりの部屋の中に、まっすぐにこちらを見つめている人影があり、覚悟していたとはいえ、ぎょっとした。人影は、こちらを見据えている。瀧本がドアを開けたにも関わらず、一切の関心を示そうとしなかった。ドアを少しずつ開けて行くと、その漏れる光を避けるように、身体をずらした。それ以外の感情は何も持っていないようだった。
 瀧本は逡巡した。瀧本はひきこもり対策のプロではない。心療内科医としての瀧本の仕事は、通院してくるクライアントに対し、基本的には話を通じて治療の糸口を探っていく。だが、この相手は対話が成立しそうな相手ではない。瀧本はドアノブに手をかけながら、途方に暮れていた。この状況をどう打破すればいいのか。正直なところ、依頼を引き受けたことを後悔していた。
 瀧本がドアを完全に開け放つと、部屋の中の少女は警戒心をあらわにした。光を避けるように、部屋の隅へと逃げていく。瀧本は、その間に、部屋の中を眺め回した。確かに、話に聞いていた通り、異常なほど整然とした部屋だった。必要最小限のものすらそこにはない。まるで新築の部屋に引っ越したばかりで、いくつかの家具をひも解いただけ、という状態の部屋のように見えた。少女は神経質に掃除ばかりをしているらしく、床にも、家具にも、塵ひとつない。そんな、時間が停止したような部屋の中で、少女は瀧本に警戒心をむき出しにして、怯えていた。
 瀧本はゆっくりと部屋の中に入ろうとする。相手にも緊張が走るのが伝わった。大丈夫ですよ。私は、あなたの叔母さんに頼まれてここにカウンセリングに来た者です。もしよろしければ、少しお話させてもらえませんか。
 当たり前だが、そんな言葉をかけたところで相手の警戒が解かれるわけがない。まるで手応えはなかったが、瀧本はゆっくりと、低い声で、相手を安心させるように言葉をかけ続けた。
 そして、不意に、少女の顏がしっかりと見えた。
 その顏は、かんなにそっくりだった。
 瀧本の中で、
 何かが弾けた。
 ここに、
 居たのか。
 少女の名前は美穪子と言い、かんなとはなんの関係もなかった。一瞬、かんなの娘か、親戚なのではないかと思ったが、それも違った。とはいえ、瀧本が最後にかんなと別れてから、既にもう数十年の月日が経っている。かんなの顏も、瀧本の記憶の中にしかなかった。
 かんなは死んだのだ、と瀧本は自分の中で結論づけた。伊崎かんなは、もう死んだ。瀧本が中学生のときに行った、コミュニティの、星空がよく見える丘で、素粒子の輪廻転生についてかんなが語った丘で、かんなは死んだのだ。そして、この暗がりの少女に乗り移った。
 宗教などまるで信じない瀧本は、自分の中でそう結論づけることにした。それほどまでに、美穪子という少女はかんなにそっくりで、瀧本の目には、彼女の生まれ変わりのように感じたのだ。
 美穪子は何不自由ない裕福な家庭で生まれ育ち、特になんの問題もない幼少時代を過ごした。小さいときには、むしろ活発な女の子だったという。
 変化に気付いたのは、小学校に上がったときぐらいからだった。生まれたばかりの頃は、自分の両親と、親戚の顔色をうかがっていればよかった。幼稚園に上がってからも、そこまで複雑な人間関係は要求されなかった。だが、小学校にあがると、より複雑な社会に直面するようになった。
 教師と生徒の関係。仲良しグループの中の関係。意地悪をしてくる男子との関係。仲良しの友達との関係。女子グループの中の序列の関係。
 美穪子は、誰に対してでも、誠実に、嘘をつくことなく、付き合おうとつとめた。周りの誰も傷つけず、みんなのためになるように。自分のことばかりでなく、周りのことを第一に考えて生きていた。周囲から嫌われたら生きていけないと思った。誰からも嫌われず、常に良い子であろうとした。
 だが、年を追うごとにそれは難しくなっていた。美穪子にとって、処理できる情報の量には限度があった。普通に生きていたら、いったい一日で何人の人に出会うだろう? そのすべての人の顔色をうかがいながら生きて行くことなど、不可能だ。しだいに美穪子は嘘つきと呼ばれるようになり、無視されるようになった。
 居場所に固執したあまりに、自分の居場所を失ってしまった。
 居場所を失ってからも、美穪子は自分の居場所を探し続けた。
 真っ暗がりの部屋の中で、美穪子はすべての情報から自分を遮断しようとしていた。これ以上、何の情報も入ってこないように。これ以上、誰との接触も持たないように。それは、これまで自分の中に蓄積してきた情報を、ゆっくりと、溶解させて、処理する時間だった。
 瀧本は、それを時間をかけて、ほぐしていこう、そう考えた。
 社会にうまく適合できない若者たちを、もとの歯車の位置に戻す。それが、瀧本がずっとやってきた作業だった。毎日毎日、あらゆる「不具合」を抱えた若者たちが、瀧本クリニックの扉を叩く。あらゆることに不安を感じ、その不安によって身体に影響をおよぼしている若者たち。彼らを救うのではなく、ただ元のあるべき場所に戻す、それが瀧本の仕事だった。
 むしろ、いまのような社会において、まったく支障なく日常生活を送っている人間ほど、無神経なことはないのではないか、彼らと接していると、そのような気持ちにすらなってくる。神経を麻痺させるぐらいの図太さがなければ、この社会でやっていくことはできないのではないだろうか。
 むしろ、瀧本クリニックに訪れるクライアントのほうが、純粋で、真面目で、自分の人生に対して真っ正面から向き合っているように思える。真面目に取り組みすぎるがゆえに、ちょっとしたひずみが生じたとき、うまく処理することができない。そういったひずみを認識することすらできない無神経な人間のほうが、社会的には成功していると感じる。
 姪の江利子は、そういった社会の荒波からはうまく逃れながら生きているように思えた。江利子は小学生の頃からオカルト的な方面に関心が高く、同年代の子どもたちが夢中になっているものに関心を示さなかった。だから、他の子どもたちとは若干の距離を置いていたが、決して孤立してはいなかった。自分の価値観を持ちつつも、他の子どもたちとも付き合えるだけの適応力を持ち合わせていた。この社会で生きていくためには、そういった、ある種の特殊な能力が必要になるのだろうか。
 瀧本は、自分の仕事は十分な成果を挙げていない、と自己評価していた。瀧本がやっていることはただ、彼らの悩みを緩和しているだけだ。実際に、歯車をもとの位置に戻そうとしても、その試みがすべてうまくいくわけではない。たいていは、ひずみはひずみのままとして残り、彼らをうまく社会に適合させることはできなかった。
 ただ一人の例外が、美穪子だ。瀧本は、美穪子に対して、自分の流儀を外して対応した。彼女の人生に深く関わろうとした。
 江利子は頻繁にクリニックに出入りするうち、美穪子とじきに友人になった。他人の顔色を窺うことでしか自己を確認することができなかった美穪子だが、江利子と接するうちに、他の人がごく自然にやっている、他人との接し方を学んでいった。同時に、瀧本は、彼女に対して他のクライアントに対してはしないほど、彼女の人生そのものに関わろうとした。
 瀧本にとっては、美穪子だけが例外的な存在だった。ある特定の人間を贔屓することは、瀧本のポリシーに反した。だが、皮肉にも、瀧本のクライアントの中で、最も成功している事例が、美穪子の事例だった。

   3

 安達凛子が帰っていってから、もう小一時間近くが経過している。そろそろ閉めるか、と瀧本は立ち上がった。安達凛子はもう帰宅しただろうか。一応、『魚』のことは口外しないように釘を刺しておいたのだが、逆効果だっただろうか。あるいは、すでに仁科からそのような指示を受けているのか。
 少し『魚』をどうやって手に入れるか、ということを考えていたが、おそらく、次に安達凛子に接触するのは時間の問題だろう、と思った。現在、安達凛子には頼れる人間は自分しかいない。すぐに自分にコンタクトしてきた事実がそれを裏付けている。もし、本当に『魚』の毒を体内に取り込んだのなら、またここに来るしかないだろう。そのときに、『魚』を奪取することができるかもしれない。
 一番厄介なのは、『魚』が再び函南の手に戻ってしまうことだった。一度戻ってしまえば、もう瀧本がそれを手に入れるチャンスは限りなく小さくなる。だが、いまは待つことしかできない。
 自宅に戻ると、キッチンで忙しそうに動く美穪子の姿があった。覗くと、あと少しでできますから、と笑顔を見せた。瀧本は自室で着替え、ソファに腰かけ、テレビをつけた。
 しばらくすると、ドアが開く音がした。江利子が帰ってきたのだ。
「おかえり」
 そう声をかけると、ただいま、と江利子は言った。安達凛子のことを話すべきか悩んだ。おそらく今日、安達凛子に自分のことを話したのだろう。あとで、美穪子のいないところでお礼を言っておこう、と思った。
 しばらくテレビを見ていると、パーカにジーンズのラフな格好の江利子が自室から出て来た。手にはバドワイザーの缶ビールを持っている。悪いけど、僕にも一本取ってくれないかな、と瀧本は言った。江利子は黙って冷蔵庫のほうに向かって歩き、扉を開けて缶ビールを取り出した。
 カウチに腰掛けていると、キッチンにいる美穪子は見えない。何か料理をしている最中で、ここで何か話しても、聞こえることはないだろう、と思った。
「ねえおじさん」
「なに?」
「……来たの?」
「来たよ」
 江利子はカウチに座りながら、そう、良かった、と無感情に言った。
 安達凛子に、瀧本クリニックを紹介すると言い出したのは江利子だ。派遣会社の社員として派遣会社に登録しているから、安達凛子に近づくことは可能だ、と言ったのだ。瀧本は『魚』のことに関して江利子を巻き込むつもりは全くなかったが、江利子が自分の派遣先を安達凛子のいる旅行代理店にすると言いだしても、止めるわけにはいかなかった。
 安達凛子がここにやってくるまで、彼女が『魚』を持っているという確証はなにもなかったが、江利子は淡々と旅行代理店で働き続けた。彼女は派遣社員として色々な職を転々としていたが、接客業は性に合っているようだった。
「あとは時間の問題だと思うよ。必ず、安達凛子はここにまた来る。『魚』を持ってね」
 瀧本がそう言ったが、江利子はどことなく悲しげな表情で、ゆっくりと缶ビールの缶を傾けている。
『魚』を手に入れて、どうするのか。仁科が辿ったような未来を、瀧本も追うことになるのだろうか。
 死ぬ覚悟はとっくに出来ている。いずれにしても、放っておいても、もう長くは生きられない。
「安達さんにね、嘘ついたんだ」江利子が缶ビールのプルタブを弄びなら言った。
「どんな?」と瀧本は質問する。
「だって、何にもないのに、こんなクリニックに来いなんて、言えないよ。どう考えても不自然だし、警戒されちゃう。だから、嘘ついちゃった」
 それはそうだ。他人を思い通りに動かすことなんて、そうそうできることではない。人は、人を動かすために、嘘をつかなくてはならないこともある。
「江利子を嘘つきにさせちゃったか」
「違う、これは全部あたしの意思だから。ただ、ちょっとイラッとしたのは、事実かも」
「どうして?」
「だって、安達さん、仁科さんが死んだっていうのに、まるで普段と変わらないんだもの。寝不足だったのか、お化粧だけちょっと崩れてたけど、あとは本当にいつも通り。仕事をバリバリこなす安達先輩、って感じ。それに、ちょっとだけ、イラッときて」
「それは安達さんの本心だと思う?」
「思わない。でも、やっぱりね、どちらかというと、本質は、そういう人なんだと思う。自分の感情を表に出さないで、いつもクールで。そうやっていられたら、どんなに楽なことか」
「安達さんはね。さっき、診察室で泣いてたよ」
「本当に?」意外そうな顏で江利子は言った。
「そんなことで嘘は言わないよ。子猫みたいに、震えて、泣いてた」
「そう」
 江利子は少し興を削がれた、とでも言うように肩をすくめた。缶ビールはもう空になったようだ。
「あのね、瀧本クリニックに行くように安達さんに嘘つくときにね。あたし、自分のお兄さんが死んだって言ったの。自分のお兄さんが死んだときに、ショックを受けて、瀧本クリニックに行ったんだって。そのとき、もしもおじさんが亡くなったら、どういう気持ちになるのか、ちょっとだけ考えてた」
「そうか」
「おじさんが亡くなったときのことを考えて嘘ついたって、ひどいと思う?」
「思わないよ。それを言うんだったら、安達さんを騙しているようで、僕だって気が引けてる」
「二人でこそこそ、何話してるんですか」
 背後に美穪子がいたことに全く気がつかなかった。美穪子のことをすっかり忘れていた、と瀧本は焦った。話していた内容を聞かれただろうか。江利子はそ知らぬ顏で缶ビールの缶を軽く握りしめている。
「安達さんのお話をしていたんですか?」
「いや……」曖昧に瀧本は返事をする。安達という名前を聞かれてしまったのだろうか。通常、クリニックの外でクライアントの話なんてするわけがないから、不自然に思われただろうか。
「安達さん、すごく素敵な方ですよね。クールで……」と美穪子が言う。
「そうだね」と瀧本は相づちを打った。
「あ、そうだ。江利ちゃんのお友達なんでしたね。今日、ご予約がありました」
「美禰ちゃん、そういう話、病院の外でしちゃ駄目なんだよね』不機嫌そうに江利子がそう一言挟むと、途端に美穪子は黙った。さっきまでの笑顔が完全に凍り付いている。
「江利子、そういう言い方ないだろ」
「だって事実じゃない。クライアントの話は、クリニックの外ではしないんじゃなかったの?」
 江利子が棘のある口調でそう言った。明らかに機嫌が悪い。
「それはそうだけど……」
 もういい、この話はおしまい、打ち切り、そう言って江利子は強引に話を打ち切ってしまった。


   4


 瀧本の予想通り、安達凛子は再びコンタクトを取ってきた。前回の来訪からたったの数日しか経っていない。何か動きがあったのは事実だった。
 江利子から、安達凛子がなんらかの傷害事件に巻き込まれたようだ、という情報が入った。それも、事件は安達凛子のマンションの一室で起きたらしい。最悪のシナリオは、函南が『魚』を取り戻しにきた、というものだった。だが、仁科が『魚』を持ち出した直後から函南が動かなかったところからみても、その可能性はあまり高くはない。ただ、仁科の自殺によって、世間的に函南が注目されつつあるので、場合によっては回収に乗り出す可能性はないこともなかった。限られた情報しか入ってこない中では、推測することしかできない。
 仁科の死は、事件直後、マスコミでも報道されていた。カンナミコーポレーションは、いまやテレビでもCMを打ち出しているような新進気鋭の会社だが、そこのプロジェクトリーダーが事故死したということで、いいワイドショーネタになったようだ。函南自身も何度かテレビで取材に応じているのを見たことがあったが、結局、大きな問題にはならなかった。これを契機に長時間労働の実態を浮き彫りにしようという動きもあったようだが、たいした成果はあげられなかった。人の噂は七十五日とはいうが、現代ではそんなに長続きする噂話はない。
 近いうちにまた来訪があることは予想していたが、まさか二度目の来訪で『魚』を直接、クリニックに持ってくるということは予想できなかった。安達凛子は、前回と同じぐらいの時間に、キャリーケースを引いて現れた。聞くと、中に『魚』が入っているという。本当かと瀧本がボストンバッグのジッパを開けると、中に発泡スチロールの箱が収められており、そっとその蓋を開けると、中にはビニール袋に収まった『白い魚』が泳いでいた。
 これが……。
『白い魚』か。
 安達凛子がいる手前、自分の表情をコントロールしなければならなかった。不自然に歪んでしまってはいなかっただろうか。この状況では、わずかな微笑みすら許されない。相手からは、あくまでも「厄介なものを受け取った」という表情をたたえておかなければならない。
 かすかに手が震えているのを感じた。まさかここまでうまく行くとは想定外だったが、とにかく、『白い魚』は、いま自分の目の前に存在するのだ。これは動かし難い事実だった。しかも、これを安達凛子は自分に預けに来ているのだ。
 そして今、瀧本は自宅に『魚』とともにいる。安達凛子はたったいま、帰っていった。入れ替わりで、江利子が帰宅してきた。瀧本は、とにかくこの『魚』を水槽に入れなければ、と思った。長い時間運搬されてきて、きっと弱っているに違いない。
 江利子は不機嫌そうな表情を隠さないまま、また自室に引っ込んでいってしまった。美穪子はまだ料理の支度をしているようだ。不意に玄関のチャイムが鳴った。こんな時間に、誰か来たのだろうか。来客の予定はない。
 不審に思いながらも、玄関まで歩いていくと、薄手の白色のパーカーを羽織った小柄な男性が玄関に立っていた。白のパーカーの下はジーンズで、きわめてラフな格好だった。繁華街からそのままここに紛れ込んで来ました、というような風貌だった。
 瀧本の家のドアはオートロックになっている。家が繁華街の雑居ビルの中にあるため、セキュリティ上の必要からだ。だから、玄関の内側に人が立っているということ自体が、ありえなかった。瀧本は不意を付かれ、しばらく声が出てこなかった。
「こんばんは」
 丁寧に男性はそう切り出したが、声もだいぶ若い印象を受けた。まだ十代かもしれない。瀧本はとっさに、自分のクライアントかと思ったが、その顏に心当たりはなかった。瀧本のクリニックのメインの顧客の年代は二十代から三十代前半ぐらいで、十代のクライアントは少ない。十代でメンタルに問題を抱えたクライアントは、それを専門で行っている業者が担当することが多く、瀧本はあまり相手にしたことはなかった。何より、パーカーを着た少年は自信に満ちた目つきでこちらをじっと観察している。そういう目つきにはあまり慣れていない。物怖じするところがなく、きわめて挑戦的な目つきだった。
「すみません、こんな時間に訪問してご迷惑でしたね。僕の名前はトバと言います。瀧本先生でよろしいでしょうか」挑戦的な目つきとは裏腹に、やわらかい物腰で少年は言った。
「そうですが、なにかご用でしょうか?」
 やや棘のある言い方だったかもしれないが、急に来訪した人間に対しては精一杯の口調だった。相手の目的がわからない以上、丁寧に応対したらいいのか、追い返せばいいのかがわからなかった。
「失礼、僕はカンナミコーポレーションの人間です。先生に、伝言と、警告をしにやってきました」
 カンナミという名前を聞いて、心臓がどくんと跳ねた。まさか、『白い魚』がここに運び込まれたことを、もう把握しているのだろうか。この『白い魚』は、先ほど、安達凛子の手によってここに運び込まれたばかりだ。もし函南が『白い魚』の動きを察知しているのだとしたら、安達凛子のことをずっとマークしていたことになる。
 まさか、『白い魚』を奪い返しにきたのだろうか。瀧本は一瞬身構えたが、すぐに警戒を解いた。まだ相手から何も聞かないうちから警戒すると、かえって相手を刺激するのではないか、と思った。
「伝言と警告?」
 穏やかな様子を装って瀧本は話しかける。少年の態度は変わらず、「ええ、メインは、警告です」と繰り返した。
「先ほど、安達凛子さんがこちらにいましたね」
「さて、なんのことでしょう」
 瀧本は無駄だと思いつつも、とぼけた。トバと名乗る少年は、なおも続ける。「大丈夫です、とぼけなくても。見てましたから」
「クライアントさんの情報は、外部の方には教えられませんよ」
「クライアント? だってここ、先生のご自宅でしょ?」
「確かにここは私の自宅ですが、だったらなおさら、勝手に部屋の中にあげることはできないね」
「あ、失礼しました。ただ、警告するにはただドアのチャイムを鳴らしただけじゃ不十分かなと思いまして……」
「悪いが今は手が離せないんだ。お引き取り願えるかな」
 明らかに厄介な手合いであることは確かだった。冷たくそう言い放つと、トバと名乗る少年は小さく肩をすくめた。
「じゃあ、手短かに言います。部屋の奥にある『魚』のことですが、函南社長から伝言があるので、ここで言います」
 伝言? 函南が『魚』を奪いに来たのではないかと思った瀧本は、一瞬、気を緩めた。
「今夜、零時に『魚』を使うように。そこで見せたいものがあります」
「なんのことだ?」
「安達凛子さんが持って来た魚ですが、あれは差し上げます、とのことです。ただし、条件があって、今夜零時に『魚』を使ってください、とのことでした」
「函南がそう言ったんだな?」
「だからそう言ってるじゃないですか。分からない人だな」
 呆れた、というふうにトバと名乗る少年は言った。瀧本はここで議論をしてもしかたが無い、と思った。
「警告、というのは文字通り警告です。僕なら、ここのオートロックぐらい簡単に破れるし、やろうと思えば、あなたの同居人たちに危害を加えることもできます」
 これ以上ここで会話をするのはまずい、と思った。美穪子が不審に思うし、江利子が自室から出てくるかもしれない。
 函南は一体何を考えてるのだろう。今夜零時に『魚』を使えという指示だが、何が起こるのだろうか。
 だが、いずれにしても瀧本は『魚』を使うつもりだった。そのために、安達凛子に接触したのだ。
「わかった。用件はそれだけか?」
 やっとのことでそう言うと、トバと名乗る少年は軽く微笑んだ。
「じゃあ、伝言は伝えましたよ。それでは」
 それだけ言うと、踵を返し、すぐに廊下の奥の闇に消えていった。
「誰かお客様ですか?」
 美穪子が、前掛けをしたまま玄関まで出てくる。いや、なんでもない、と小さな声で言うのが精一杯だった。


   5


 瀧本は二十三時半に自室から出て、リビングのソファに移動した。食事を済ませ、シャワーも浴びた。リビングには誰もおらず、水槽の脇に添えられたライトだけが小さく点されている。瀧本は部屋の電気をつけながら、ソファにゆっくりと腰掛けた。
 トバという少年が言っていたことが頭の中でぐるぐるめぐっている。あの少年は、どういうトリックを使ったのかはわからないが、瀧本の家のオートロックを破って、部屋の中に入ってきた。本来ならば、その時点で不法侵入罪で警察を呼ぶこともできたが、そんなことすれば『魚』の存在が明るみに出て、瀧本の目的は達せられなくなる。おそらく、そういったことはすべて見越しているのだろう。警察に通報できないということがわかったうえで、こちらの意図に反したことをすると、いつでも潰せるぞ、ということを示すために、わざわざオートロックを破って家の中に入って来たのだ。また、安達凛子が帰って行った直後のタイミングで姿を現したのも、警告の一部なのだろう。いつでもこちらのことは監視している、というわけだ。場合によっては、この部屋の中に盗聴器ぐらいは既に仕込まれているのかもしれない。
 いずれも函南がやりそうなことだ、と瀧本は思った。学生の頃から、何を考えているのかわからなかったが、社会的な成功をおさめつつあり、ますますそれが増長しているような感じさえ受ける。正直なところ、仁科青年が自分に語ったことも、どこまでが本当のことなのかわかったものではない。だが、事態はもう後戻りができないところまで来てしまった。
 こちらの目的と函南の目的が一致している、というのが最も気に入らないところだった。さらにいうと、安達凛子の目的とも合致している。あらゆる人間の意図がここに集積されているようで、気分が悪かった。自分の意思で行動していたつもりが、全く別の意思によって動かされているような感じがする。そして、具合の悪いことに、それはほとんど事実だということだった。
 瀧本は立ち上がり、キッチンに向かった。棚からブランデーを出し、ストレートのままコップに少しだけ注ぐ。自分の血が静かに流れているのがわかった。
 キッチンからゆっくりとリビングに戻り、リビングの奥半分を占有している水槽の群れの中に向かって歩く。ありとあらゆる魚たちの群れの片隅に、その水槽はあった。トバと名乗る少年が帰ったあと、水槽をセッティングしたのだ。ビニール袋から解き放たれた『白い魚』は、いまは水槽の底でじっとうずくまっている。水槽の上からみても、その白い鱗のなめらかさがわかる。その色合いからして、その魚がただの魚でないことは明らかだった。
 少しだけ……。
 少しだけ手を伸ばせば、
 そこに、
 魚がいる。
 魚の持つ牙が食い込めば、
 違う世界に自分は、
 引きずり込まれるだろう。
 だが、
 それは、
 ずっと自分が望んでいたもので、
 これから、自分が求めるものだ。
 瀧本は覚悟を決め、
 手を、
 水槽の中にすっと差し入れる。
 瀧本の動きに反応するようにして、
 それまで水槽の底でじっとうずくまっていた魚が身じろぎをする。
 まるで……、
 まるで、機械のようだ、と瀧本は思った。
 自分を別の世界に連れていってくれる機械。
 魚が動く。
 まるで瀧本が手を差し入れるのを待っていたかのように、ぎょろりとした赤い目を上に向けた。
 瀧本先生、という声が聞こえた。少女の声だ。
 かんなの声だろうか。魚は水槽の底で素早く身を反転させると、まっすぐに瀧本の手に向かって泳いでくる。瞬きほどの時間しかなかった。魚の牙が、手首に食い込む。突き抜けるような痛みが脳髄を駆け巡り、指先の痺れる感覚が瞬く間に腕全体へと広がる。
 瀧本先生……。
 絶叫するような少女の声がまた続く。
 薄れ行く意識の片隅で、瀧本は、パジャマ姿の美穪子の姿を捉えた。
 美穪子は髪を振り乱しながら瀧本を突き飛ばすような格好で、近づいてきた。
 暗転。
 暗くなる。
 美穪子……?
 脳髄の奥がずきりと痛んだ。
 ゆっくりと目を開ける。
 まず最初に目に飛び込んできたのは、ベージュのカーペットと、メタルラックの脚だった。ここは自宅のリビングか、とすぐに気付いた。意識が途切れているせいで、時間の経過がよくわからない。手が完全に痺れていて、指先に全く感覚がなかった。『魚』に噛まれたあと、床に倒れ込んで、そのまま意識を失っていたのだと思った。まず時間を確認しなくては、とゆっくりと上体を起こす。そこで、異変に気付いた。
 目の前に『魚』が入っていた水槽があるが、その中に『魚』はどこにもいない。まさか、噛まれたあとで水槽の外に出てしまったのだろうか。慌てて上体を起こすと、瀧本は信じられないものを目にした。
 自分の背後に、自分と全く同じぐらいの背格好の男性が倒れていた。鼓動が早くなり、身体が細かく震え出した。男性は自分と同じ服装をしているが、うつぶせになっているので顏を確認することはできない。
 そして、その隣に、さらに信じられないものを見た。瀧本のすぐ隣には、美穪子が倒れていたのだ。
「美穪子」
 そう呼びかけると、美穪子の姿をした女性は寝返りを打つように身体を反転させた。本当に美穪子なのだろうか?
 瀧本はすぐに冷静さを取り戻した。これは……間違えようがない。
 「来た」のだ。こちら側の世界に。
 『魚』の毒によって、意識だけが別の世界にリープし、そこでは自分の分身ともいうべきドッペルゲンガーがいる。いわば、自分の身体、自分を取り巻く世界を俯瞰するように見ている自分がいる。
 ここにいるのは本当の自分ではない。
 自分ではなく、新しい「視点」なのだ。
 ここにいる自分の身体は、便宜上、自分の脳が生み出した幻覚にすぎず、新しい視点を運ための乗り物にすぎない。
 自分が二人いるように感じるのは、幽体離脱をしたからではなく、どちらも自分ではない、それが最も正しい。
 ここにいる自分は、ただの「視点」でしかない。
 だが、この隣に眠っている女性は……。
 本当に……、美穪子なのだろうか?
 先ほど、『魚』に噛まれる際に聞こえた声は、美穪子から発せられたものなのだろうか?
 まさか、美穪子も噛まれたのだろうか?
 瀧本は美穪子のそばに寄った。白雪姫のように目を瞑っているその顔は、間違いなく美穪子だった。自分が魚に噛まれる瞬間、偶然、美穪子に目撃され、美穪子も『魚』に噛まれたのだ。
 そんなことが……。
 うかつだった、と瀧本はすぐに後悔した。たとえ『魚』の毒が短時間で消えるものであったにしても、もっと人目に付かないところでやるべきだった。明らかに冷静さを欠いていた。だが、もう後悔しても遅い。これからどうするかを考えなければならない。
 美穪子、と再度呼びかけると、かすかに反応があった。通常の医療対処では、上体を起こしたり、揺さぶったりすることはしない。精神世界でどのように対処するのが正しいのかはわかりようがないが、ここでは誰にも頼ることはできないのだから、呼びかけるしかない。
 じきに美穪子は目を覚ました。目を見開き、先生、と呟いた。
「ここは……?」
「リビングだよ」
「そうだ……あたし、先生を……」
「起きれるか?」
「先生……怒ってます?」
「全然」
 正直なところ、どういう感情もわき起こらなかった。ただひとつ、明確な落ち度として、自宅のリビングで魚に噛まれた、ということが挙げられる。零時ならば二人とも寝ている時間帯だが、そこに美穪子や江利子が来ることを想定していなかった。
「手首は大丈夫?」
「手首?」
「噛まれてない?」
「噛まれる? 何にですか?」
 美穪子の手を取って確認してみる。手首に瀧本と同じような、噛まれた跡があった。ということは、瀧本と同じようにこちら側に「来てしまった」のだろう。つまり、美穪子は瀧本の幻覚ではなく、明確にこちら側の世界にいる、ということだ。
「先生、誰か倒れてます」
 美穪子が隣の空間を指差して言う。だが、そこには何も無い。瀧本には見ることができない。
「誰が?」
「女の人です。私と同じぐらいの」
「それは、君自身じゃないの?」
「私自身?」
「そう、君そのものじゃない?」
 美穪子はおそるおそるといった感じで、瀧本には見えない空間に手を差し伸べる。その瞬間、あたりの空間が大きな悲鳴で包まれた。美穪子は汚いものでも触れたかのように手を離すと、部屋の壁まで飛び退いた。
「やっぱり、君自身だったか」
「な、なんなんですか、これ」
「その人は、君自身だよ。僕らがいるのは、幻の世界。ここは夢の世界なんだ」
「夢の世界? あたし、瀧本先生の夢を見ているの?」
「そういうことになるね」
「じゃあ、いつもの夢ってことね」
「そうなの?」
 美穪子はすぐに落ち着きを取り戻した。例え精神世界の中とはいえ、一度興奮状態になってからこれだけすぐに落ち着きを取り戻すのは以前では考えられなかったことだ。瀧本は心の中で安堵したが、同時に途方に暮れてもいた。一体、これからどうすればいいのだろうか。
 トバと名乗る少年は、零時ちょうどに『魚』を使え、という函南の伝言を伝えてきた。魚の毒がまわってからどれほどの時間が経っているかわからないが、もう時間に近いはずだ。これから一体何が起こるのだろうか。
 美穪子の分身、つまり、動いている美穪子とは別の、眠ったままの美穪子は、瀧本は見ることができない。ということは、瀧本の分身も、美穪子には見ることができないのだろうか。
「美穪子、ここに誰がいるか、わかる?」
 瀧本は自分の分身を指差しながらそう訊いてみたが、美穪子は、質問の意図がわからない、というように首を傾げるばかりだった。お互いの分身は見ることができないらしい。
「ここに僕の分身がいるんだ。美穪子には見えないかもしれないけど、確かにいる。逆に、僕には美穪子の分身を見ることができない。そういうことみたいだね」
「どういうことですか?」
「お互いの分身は見れない、ってことだ」
「意味がわかりません」
「僕だってわからないよ」
「だって、先生がそうおっしゃったんじゃないですか」
「僕はただ、自分が体験していることをそのまま客観的に分析しただけだ。これがどういう状況なのかはわからないよ」
「変な先生。何を言ってるのかわからないわ」
 美穪子はそう言って口を尖らせた。こんな状況なのに、他愛もない会話を交わしている自分たちが不思議だった。だが、ここは夢というにはあまりにも鮮明で、寝付けない夜に美穪子と二人で世間話をしているような、そんな錯覚に襲われた。
 それはですね、という声がどこからともなく聞こえた。瀧本が顏をあげると、リビングの向こう側、玄関のある廊下側に、パーカーを着た少年が立っていた。 
 トバと名乗る少年だった。
「それはですね、先生。先生と、川嶋さんは、同じ空間にいるようでいて、実は全く別の時空にいるからなんですよ。同じ空間にいるように、錯覚してるだけです。同じ場所にいて、同じものを見ているようでいて、実はぜんぜん違う空間にいる。違うレイヤーの住人なんですよ」
「どこから入ってきた?」
「どこから、って、もちろん玄関からですよ。部屋には玄関から入るものでしょう?」
「トバ、お前も『魚』を持っているのか?」
「持っているといえば持っているし、持っていないといえば持っていません。仁科さんからいろんな話を聞いているかもしれませんが、あの人は完全な情報を持っていたわけではありません。たとえば、僕のような存在を、彼は死ぬ直前まで知らなかった。彼が知らなかった情報は、瀧本先生はもちろん、安達凛子も知らないわけです」
 美穪子はいつの間にか瀧本の後ろに隠れて、ぎゅっと服を掴んでいた。初対面の人間に対する対人恐怖はなかなか克服できない。ましてや、ここは何が起こるかわからない、夢の中だ。怖いのは瀧本も同じだったが、瀧本はいうと、美穪子がそばにいることでそこはかとない安心感を感じていた。
「入ってもいいですか、瀧本先生」
「もう入ってるだろう」
「いいえ、まだ入ってませんよ、僕は。入ってるように見えますか?」
「どう好意的に見ても、この部屋に土足で入り込んでるように見えるけど」
「じゃあ、もう先生としては入ってるのと同じということで。失礼させて頂きますね」
 トバという少年はそう言うと、靴を脱いで部屋の中に上がり込んできた。その瞬間、今までぼんやりとしていた少年の輪郭がはっきりしてくるような、そんな感覚を覚えた。
「えっと、川嶋さんははじめまして、ですね。先ほどはお会いはしていませんね」
「……?」
 美穪子は沈黙している。瀧本も黙っていた。
「実はですね、瀧本先生。僕は夕方、オートロックを破って入ってきたと言いましたね。ひとつ、種明かしをしましょうか。僕はオートロックなんて破ってないんですよ」
「合鍵でも作っていたの?」
「まさか。もっとスマートなやり方……。僕はですね、はじめからこの部屋の中にいたんです」
「はじめから?」
 まさか、そんなはずはない。この家には美穪子も江利子も出入りするし、隠れられるような場所もないはずだ。それに、瀧本は玄関のチャイムが鳴る音を確かに聞いた。だから玄関に出ていったのだ。
「もうおわかりでしょう。僕はね、瀧本先生の頭の中にいたんです。瀧本先生が見ている幻なんですよ。チャイムの音も、瀧本先生にだけ聞こえるように鳴らした。瀧本先生の頭の中で鳴らしたんですから」
「幻?」
 トバと名乗る少年をじっと見ていると、不意にまたその輪郭がぼやける。闇夜に灯される灯籠のように、その姿は曖昧だった。言われてみれば、彼が幽霊や幻覚の類いだと説明されても納得できる。
「僕は、人の意識の中に潜り込むことができます。いま、僕は瀧本先生と川嶋さんの意識の中に潜り込んでいますが、お二人とも、僕を同じ姿で認識することができているはずです。でも、僕の実体は、いまお二人が見ているものと少し異なります。実をいうと、僕に明確な実体はないんです。お二人の意識の中に入り込んで、あたかも『そこにいるかのように』見せかけているだけです。僕自身が幻なんですね」
 トバと名乗る少年はリビングを歩きながら、テーブルの上に置いてあるコップを手に取った。「ここなら、お二人の意識の中ですから、僕は好きなように動けます。こうして、テーブルの上のコップを手に取ることもできる。現実世界だとこうはいきません。幻覚みたいに、そこにいるように見せかけることはできますけどね」
「何が目的だ?」
「目的なんかないですよ。僕には実体が無いんですから、こうして誰かの意識の中に住むしかない。僕に家はないんです。常に誰かの意識の中に居候してるんです。強いていえば、あらゆる人とネットワークを繋いでいくこと、それ自体が僕の望みです」
「なぜカンナミコーポレーションの人間だと名乗った?」
「そのほうがわかりやすいんじゃないかと思って。僕は普段、函南社長の意識の中に住んでますからね。まあ、言ってみれば、定宿みたいなものですかね。彼とはよく会話もしますし」
 床に座ったままトバという少年と向き合っているが、見下ろされるような格好になってあまり気分が良くない。背中をぎゅっと掴んでいる美穪子を促して、ゆっくりと立ち上がった。トバと名乗る少年はかなり身長が低く、長身の瀧本は、彼を見下ろすような格好になった。だが、もしトバという少年に本当に実体がないのだとしたら、自分の姿形を変えることぐらい雑作もないことだろう。
「僕はあらゆる人の意識のネットワークを繋ぐことができます。そして、自分自身が、そのネットワークを移動することもできます。逆にいうと、そうやって意識を繋いでいかないと、その人が死んだときに一緒に消えてしまいます。いくら自分だけの世界がここにあるとはいっても、自分だけの世界に閉じこもっていたら生きていけません。それは、人間であるあなたたちにとっても同じです。ずっと自分の意識の中に閉じこもっていること、それは、引きこもりと同じですよね。
 自分だけの殻に閉じこもって、外界から隔絶された生活をずっと続けていると、どんどん気分が暗くなります。刺激がないので、自分から行動しよう、という気持ちもなくなっていきます。社会と同じです。
 社会生活を送るのって、とても難しいですよね。刺激があったらあったでストレスになるし、刺激がなければないで人生が暗くなる。ちょうど良いバランスを保つことはとても難しいことなんです。
 あなたたちは、『魚の毒』を使って、たったいま、『誕生』した新しい意識なんです。『魚』に噛まれる以前のことを覚えているかもしれませんが、ただ記憶に連続性があるというだけで、あなたたちとは全くの別人のお話です。あなたたちは、基本的にはそれぞれの脳の中にある意識の中で暮らしていきますが、僕がいろんな人とネットワークを繋いでいくので、いろんな人と交流ができるようになります。わかりやすく言えば、実体を持たない、クローン人間のようなものでしょうか」
 トバと名乗る少年は語り続ける。瀧本は押し黙ったまま、トバの言うことを聞いていた。
「仮に、瀧本先生、川嶋さん、あなたたちの肉体が死んでも、問題ありません。いまこの瞬間に、脳髄を破壊しても、あなたたちの意識は途切れません。僕が先ほど、『入っていいか』と訊いたタイミングで、意識をネットワークの中に移しましたから。あなたたちの記憶は、肉体を持っていたときと連続しています。だから、肉体が生きていようが、死んでいようが、全く関係ありません。いつまでも、この意識の中で生きることができます」
「その場合、誰の意識の中で生きているといえるんだ?」
「誰の意識でもないです。言うなれば、意識の集合体でしょうね。みんなの脳の領域をちょっとずつ借りてきて、それを使うんです。それをネットワークで結ぶと、意識らしきものが生まれます。
 それに対して、仁科くんは面白くなかったですね。彼は、ネットワークを拒絶した。この世界を、自分ひとりだけの妄想にすることで満足してしまった。他人とネットワークを繋ぐところまでは、彼の関心は向かなかった。精神世界でも引きこもりなんて、哀れでしたね、彼は」
 トバと名乗る少年はリビングの中を横切り、壁の時計を見た。「そろそろ約束の時間ですね」
 ほどなくして、ノックの音が聞こえた。トン、トンと最初は遠慮がちに鳴っていたが、だんだん、ドン、ドンと叩くような音に変化していく。
「誰か来たようですよ」
 トバと名乗る少年はわざとらしく言った。
「誰だ?」
「誰でしょう。開けてみたらどうでしょうか」
 瀧本は、頭の中を整理していた。仁科から聞いていた話より、現状のほうが飛躍している。
 ここは、自分の意識の中であると同時に、ネットワークの中の意識でもある。
 ということは、もはや、自分を自分たらしめているのは、ここにいる、「自分」という自我しかない。
 仁科は、ネットワークとの接続を拒んだ。自分だけの世界を望んだ。
 そして、彼はあっけなく、死んでしまった。バイク事故で。
 彼は、トバと名乗る少年の説明するところによると、「意識をネットワークの中に接続」しなかったらしい。
 では、彼は誰の意識と接続していたのだろうか?
 ノックの音は途切れることなく続いている。瀧本はゆっくりと玄関に向かって歩き出した。
「このドアを開けると、何が起こるのかな?」
 試しにトバと名乗る少年に聞いてみる。だが、ただ肩をすくめるばかりだ。
 開けないという選択肢はあるのだろうか、と瀧本は考えた。おそらく、ないだろう。トバと名乗る少年は、このドアを開けることを期待している。そして、いまの瀧本が置かれた状況からすると、彼に従うしか道は残されていない。もちろん、美穪子のこともある。
 ドアノブに手をかけ、半回転させる。
 ドアを開けると、向こう側は真っ暗闇だった。
 まるで暗闇を張り付けたかのように、ドアから先は全く見えない。
「こんばんは」
 ドアの向こう側から声が聞こえ、瀧本は驚いた。比較的、至近距離から声を発しているらしく、不意に、知らない人間が背後から話しかけてきたような恐怖を感じた。
「瀧本先生、挨拶をしていますよ」トバと名乗る少年が淡々とした声で言う。そんなことはわかっている。
「誰が向こうにいるの?」
「訊いてみたらいいじゃないですか?」
「わかった」瀧本は頷いた。「君は誰?」暗闇に向かって話かける。
「僕が誰かって? そう訊いてるんですか?」
「そうだ」
「まず、自分が名乗ってくださいよ。それが社会の礼儀じゃないですか?」
 まだ若い、こちらも少年のようだ、と瀧本は思った。
「僕は瀧本達郎。医者だ」
「瀧本先生ですか。さすが、大人の方だけあって、落ち着いてますね。僕は、エイジといいます」
 暗闇の向こうにいる少年はエイジと名乗った。本名なのだろうか。だが、そんなことはどうだっていい。ただ、相手が何者なのか、何が目的なのか、それが問題だった。函南に関連している人物なのだろうか?
「クラゲさんはそこにもいないです?」
「クラゲさん?」
「そうです、クラゲさんです」
「誰のことだ?」
「クラゲさんはクラゲさんですよー」
 誰かのあだ名だろうか。クラゲと聞いても、思い当たる人は誰もいない。
「エイジさん」とトバと名乗る少年が呼びかけた。「僕はトバです。エイジさん、クラゲさんに会いたいですか?」
「トバさん」とエイジが繰り返す。「クラゲさんに会いたいか、ですか? もちろんです。会いたいです。クラゲさんはいろんなことを教えてくれましたからね。面白い人ですよね」
「僕ならクラゲさんに会わせることができますよ。クラゲさんのところに連れていきましょうか」
「クラゲさんに会えるんですか?」扉の闇の奥から弾んだ声が聞こえてくる。「本当ですか?」
「何をするつもり?」瀧本がトバと名乗る少年に訊く。
「いえ、『繋ぐ』だけですよ」トバと名乗る少年は淡々と言う。「瀧本先生や、川嶋さんにしたのと同じことです。ただ意識の海に『繋ぐ』。彼もネットワークの一部に加えるだけです」
「でもですね、やっぱりダメです。クラゲさんに会うことはできません」
 暗闇の奥からエイジと名乗る少年はそう言い出した。
「どうして?」と瀧本が質問する。
「止められてるからです。ボクは、誰とも繋いじゃいけないって」
「誰から?」
「それは、内緒です」
「もう遅いですよ、エイジさん」とトバと名乗る少年は言った。「もう、繋いじゃいましたから」
 トバと名乗る少年がドアに手をかけると、ドアの奥の暗闇が薄れ、光が差し込んだ。
 ドアのすぐ前にいたエイジと名乗る少年が姿を現す。黒い長い髪に、大きめの緑のパジャマを着ている。
 彼は、函南栄一だった。ただし、その姿は彼の記憶の中の、高校生のときの函南よりも幼く、中学生ぐらいの姿をしていた。だが、その姿は見間違えようがない、函南栄一そのものだった。瀧本は絶句し、しばらく頭の芯が痺れるような感覚がしたが、じきに意識が正常に戻るのを感じた。
「こんにちは、瀧本先生。はじめまして」
「函南……?」
「函南栄一とは違います。僕はエイジです。エイイチじゃなくて、エイジ。エイイチさんから生まれたから、自分でエイジと名付けたんですけれど」
 エイジと名乗る少年はドアを通ってこちらに入ってこようとする。瀧本は、少年が函南と同じ顔をしていて、それでいて自分の知る顏とは違っているため、恐怖を覚え、彼が自分の家の玄関に入ってくるのを許してしまった。エイジと名乗る少年は躊躇うことなく玄関に入ってくると、なるほど、ここが瀧本先生の部屋ですか、とあたりを見渡した。
「ボクがこっちの世界に来れたということは、瀧本先生もボクの世界に来れるということですね。困りましたね。ボク、自分の部屋を片付けてないですからね」
「本当に函南なのか?」瀧本は疑問を口にした。姿形は確かに函南の幼年期という印象だが、彼の口調とは少し違う。
「あ、瀧本先生、ボクが函南栄一のイメージと違うからって、違う人だと思ってるんです? そういうの良くないですよ、見た目で人を判断するのって」
「見た目じゃない、君の雰囲気というか、感じが違う気がする」
 だから、と言いながらエイジと名乗る少年は瀧本を軽く小突くような仕草をした。「だから言ってるじゃないですか。ボクは函南栄一じゃなくて、函南栄一から生まれた別の存在だって。栄一とは別の、エイジという存在なんですってば」
「これが見せたかったものか?」瀧本はトバと名乗る少年に問いかける。トバと名乗る少年は、首を横に振った。
「まさか。こんなのは、別にどうということないじゃないですか。函南はですね、あ、つまり函南栄一は、ということですけど、瀧本先生、あなたにプレゼントをしたいと思ってるんですよ。ちょっとしたサプライズ。そのために、エイジさんが手助けできるんじゃないかと思って、呼んだだけですよ。お見せしたいのは、これからです」
「サプライズ?」
「瀧本先生……」トバと名乗る少年は口元だけを歪めて微笑んだ。「お会いしたい人がいるんじゃないですか?」
「何のことだ?」
 表情には出さないようにしていたが、瀧本は全身汗だくだった。自分の意識の中の世界で汗をかくということがありえるのかはわからないが、とにかく、はっきりとわかるほど汗をかいていた。
 自分はなぜ、こんなところにいるのだろう?
 色々なことが自分の周りを通過していった。
 色々な人が、自分の周りをすり抜けていった。
 すべての日常は、やがては洗い流される。
 いまは当たり前にそこにあると思っているものが、
 ゆっくりと、
 時間をかけて、
 溶解し、
 崩れ、
 はがれ落ちて、
 自分の周りから消え去っていく。
 瀧本にとって、生きるとは、
 失うことと同義だった。
 何かを得ても、やがては失っていく。
 自分の記憶さえも、劣化していく。
 トバと名乗る少年は身を翻し、リビングの方へと歩を進めた。何処へ行くんだとは誰も言わず、黙ってあとをついていく。トバと名乗る少年は立ち止まり、これが函南からのプレゼントです、と言った。
 トバと名乗る少年が手をかざすと、掌のそばからかすかな光が漏れる。リビングの中は薄暗く、水槽の近くしか明かりが灯っていないため、おそらく掌から発せられている光も、光量としては大したことはないのだろう。
 トバと名乗る少年がまっすぐに手を振り下ろすと、まるでそこに幕が張られていたかのように、全く別の部屋が姿を現した。
 瀧本の家のリビングの続きになるようにして、全く別の家のリビングが姿を現したのだった。
 別の家のリビングには煌々と明かりが灯っていて、その明かりが瀧本の目に飛び込んだ。
 一瞬、視界が光のために遮られたが、すぐに目が慣れた。「隣の部屋」だ、と瀧本は感じた。そして、その隣の部屋にいたのは、先ほど帰宅したばかりの、安達凛子だった。
 安達凛子は驚いた表情を見せた。それは当然だろう、と瀧本は思う。突然、空間が裂けたかと思ったら、全く別の空間が姿を現して、しかもそこに人が四人もいるのだ。安達凛子はテーブルに座っていたのだが、泥の塊のようなものと向き合って座っていた。
 安達凛子は立ち上がり、何、どういうこと、と叫び声をあげた。
 瀧本は、僕です、瀧本です、と安達凛子に向かって叫んだ。
 先生? 瀧本先生? 安達凛子は驚いていたが、瀧本の姿を見ると安心したようだ。少し落ち着いた表情を見せた。先生、どうしたんですか、いきなり。
「ここは安達さんの部屋ですか?」
「そうです。どうしたんですか、先生」
 少し落ち着きを取り戻した安達凛子は、トバと名乗る少年や、美穪子の姿をみて、目を白黒させた。瀧本からしてみれば、夕方、安達凛子との面談を終えたばかりだったので、帰宅したばかりの彼女の部屋に押し掛けたような気分になった。だが、目の前にいる安達凛子が本物だとすれば、これは安達凛子の意識の中であって、ここは彼女の部屋そのものではない。
「突然すみません、安達凛子さん。僕の名前はトバと言います。突然押し掛けて、非礼をお詫びいたします」
 安達凛子はトバと名乗る少年に対しては、どう対応して良いか分からないようで、やはり目を白黒させている。
 安達凛子は、テーブルの向かい側にぐったりと横たわっている、大きな人形のようなものをかばうような仕草を見せた。
「安達凛子さん」とトバと名乗る少年はゆっくりと語りかける。「その方を、見せて頂けませんか」
「その方?」と瀧本は言う。トバと名乗る少年が言っているのは、人形のことだろうか。
 よく観察してみると、人形には、顏がなかった。ショッピングモールか何かに置いてあるような、マネキン人形だった。
「なんだ、それは?」
 安達凛子は椅子から立ち上がり、瀧本のほうへ向き直った。
「先生、紹介します。こちらが、先日お話した、先輩です」安達凛子は笑顔を作って、言った。「仁科先輩と言います」
 瀧本は、その人形に、仁科和人の面影を見いだした。


episode5 川嶋美穪子(前編)


   1


 瀧本の様子がおかしいと感じたのは、安達凛子という女性がクリニックに来てからだった。初回から予約を希望してくるクライアントは多いが、クリニックのルールでは、予約は二回目からしかできないことになっている。ただ、安達凛子は江利子の紹介ということだったので、一応、瀧本に確認をした。すると、驚くべきことに瀧本は予約をとることを許可したばかりか、何時に来ても良いと言ったのだ。江利子の紹介というよりは、まるで瀧本が安達凛子の来訪を事前に知っていたかのようだった。もっとも、江利子の知り合いだというぐらいなのだから、瀧本と安達凛子が知り合いだったとしても不自然なことではない。しかし、クリニックに「診察」の名目で連絡を入れてきたことからみて、知り合いというのは少しおかしかった。
 そこまで考えたが、だからといって詮索をするようなことはしたくなかった。これは仕事なのだ。当たり前だが瀧本には瀧本のプライバシーがある。なんらかの事情で、安達凛子からのコンタクトを待っていて、それがいま来たということなのだろう、と結論づけた。もっとも、そのときはちょっと気になった程度で、特別そのことに関して違和感を抱いたわけではなかった。
 ただ、安達凛子が当日の診察を希望し、しかも勤務先から直接来ると言ったので、少し驚いた。かなり切迫している状況なのだろうか。そこで、美穪子は違和感の正体に気が付いた。安達凛子の声が、あまりにもしっかりとしていたのだ。精神的な不安定さを全く感じさせない声のトーンと、ボリュームだった。はじめてのクリニックに電話するということで若干の緊張は感じられたが、それでも聞き取りやすい声ではっきりと発声していた。通常は、こんなにしっかりとした声で電話をしてくる人はあまりいない。美穪子は、声のトーンからその人の精神状態を見抜くのが得意だった。
 もしかすると、接客業に就いている人間なのかもしれないな、とぼんやりと考えた。そこで美穪子は、江利子の新しい職場が旅行代理店であることを思い出し、安達凛子はその旅行代理店の同僚なのではないか、と推測した。とはいえ、そのこと自体に何か問題があるわけではない。江利子が、自分の同僚に、自分の叔父のクリニックを紹介した、それだけのことだ。美穪子はそこまで考えて、またパソコンのディスプレィに目を落とした。だが、安達凛子とは一体どういう人物なのだろうという好奇心を抑えることができず、ディスプレィに映る文字がまるで頭に入ってこなかった。
 江利子の友人。凛とした声。若い女性。旅行代理店勤務。美穪子が得た情報から推測しうることはこれだけだ。
 髪の色は?
 職場での仕事の様子は?
 同僚との関係は?
 両親の人柄は?
 好きなファッションは?
 好きな映画は?
 小学校の頃、いちばん好きだった遊びは?
 次々にわき上がる疑問が渦を巻いた。いけない、とパソコンの画面にピントを合わせる。このまま妄想の世界に入ってしまうところだった。
 世間の普通の人は、自分ほどぼんやりしていないのだ、ということに気付いたのはまだ小学生の頃だった。美穪子は何をやらせても人より遅く、ぼーっとしている、集中力がない、とよく先生に言われた。小学校にあがってしばらく経った頃、世間の普通の人は、ものを見るときに、ものそのものだけをありのままに見ていて、それの裏側がどうなっているのか、その中身はどうなっているのか、そういうことはほとんど気にかけていないらしい、ということを知った。だからみんな、きびきびと行動することができるのだ。それは、美穪子にとってそれまでで最大の発見だった。
 近所に住んでいたマリちゃんとおままごとをしていたときのことだ。パパに買ってもらったといううさぎの人形の家を買ってもらったマリちゃんは、上機嫌で美穪子を自分の家に呼んで、ままごとに興じた。
 はあい、みねちゃん、ごはんですよー。マリちゃん扮するうさぎのママがキッチンでせわしなく立ち働いている。美穪子が扮するうさぎの子どもは、マリちゃんママに質問をする。
 お夕食はなあに?
 今日は、ビーフシチューですよ。
 やったぁ、ビーフシチューだ。お肉はどこで買ってきたの?
 ええと……。近所のスーパーで買ったんだよ。
 スーパーはどこにあるの? うさぎでも買えるの?
 買えるよ!
 お金はどうしたの? どこから持って来たの?
 パパがね、お仕事して、持ってきてくれるの。
 パパはどういうお仕事してるの?
 …………。
 ねえ、パパはどういうお仕事してるの? どこで働いてるの? 会社の人? それとも自営業? 警察官? 小説家?
 ……パパはね、海外でお仕事してるの。だから滅多に帰ってこないの。
 どういうお仕事を海外でしてるの? 外国語は話せるの? 話せるなら何語? 外国語を使ってお仕事してるの? 英語? フランス語? それとも日本語が話せる人がいるの?
 美穪子が質問を繰り返すと、決まってマリちゃんはしどろもどろになり、しまいには泣き出してしまった。そのたびに、美穪子は途方に暮れていた。
 美穪子は、もちろん目の前で展開されているうさぎの人形たちの世界は架空のものにすぎず、マリちゃんも本気でうさぎたちの世界を演じたいのではないということぐらい、理解していた。ただ、頭の中で沸いてくる、そういったイメージを抑えることができなかった。どうしたらそれらを押しとどめられるのか、その術を知らなかった。
 そのうち、マリちゃんと遊ぶとき、美穪子は無口になった。じっとマリちゃんを見つめながら、彼女が何を考えているのか、そればかりを考えていた。それを全部口に出してしまうと彼女に嫌われてしまうから、美穪子はそれらを口には出さず、自分の頭の中だけで考えていた。自分の頭の中だけで、マリちゃんと会話をする。美穪子には人形の家など必要なかった。美穪子の頭の中にはもっと鮮明な映像があって、その世界に浸ることができた。自分の頭の中の世界にばかり注意を向けていたから、はたから見れば美穪子の頭脳は停止しているように見えたかもしれない。しかし、静的な見た目とは裏腹に、美穪子の中ではダイナミックな世界が展開されていた。みんなはどうやって自分の内側と、外部の世界の折り合いをつけているのだろうと疑問に思っていたのだが、どうやらみんなはさほど「自分の内側」というものを持っていないのだ、ということにだんだん気付いていった。
 急に無口になった美穪子は、みんなに気味悪がられた。両親は心配し、あらゆる病院に連れていって検査をした。だが、誰にも原因はわからなかったし、美穪子も誰にも言わなかった。
 年を追うごとに、美穪子はどんどん孤立していった。美穪子の周りからどんどん人が離れていった。そのうち、自分の妄想の世界と現実の世界との区別がつかなくなり、周りから嘘つき呼ばわりされるようになった。美穪子には嘘をついたという自覚はなかった。ただ、美穪子の中では、きちんと整合性のあることだったのだが、他人からはそうではなかったというだけのことだ。美穪子に友達はほとんどいなくなり、最終的にはゼロになったが、美穪子はちっとも寂しくはなかった。むしろ、普通の世界で情報の渦に飲まれながら生きるほうが、よっぽど苦痛だ、と思った。
 本物のマリちゃんとはやがて疎遠になったが、美穪子の中には永遠にマリちゃんがいた。マリちゃんは、美穪子の中では、小さな時と同じ容姿をしていたが、思考のレベルが常に自分に近く、よく話が合った。美穪子は身の回りのこまごまとしたことや、自分の考えていることなどをマリちゃんと話し、共有した。美穪子は、現実世界よりも、空想の中のマリちゃんがいる自分の世界のほうが心地良い、と感じるようになった。
 あらゆる情報の海から救い出してくれたのは、瀧本と江利子だ。瀧本は本当に根気よく、美穪子の空想の話に付き合ってくれた。空想の世界を否定するのではなく、また肯定するのでもなく、「ただそこにあるもの」としてその存在を認めてくれたのだ。美穪子は、服を着たり、食事をしたり、歯を磨いたりするのでさえ、自分の意思ではなく、『マリちゃん』の指示のままにやっていたのだが、思い切って瀧本にそのことを打ち明けても決して否定せず、受け入れてくれた。
 病気なんていうものは、この世界には存在しない。ただ、生活する上での支障があるだけだ。「他の大多数の人と違っていて、そのことで生活に支障がある」というだけのことにすぎない。きちんと生活ができるのなら、無理に治療をする必要はない。その「存在」と一緒に、生きていけばいいんだよ。瀧本はそのように言ってくれた。だんだん美穪子の中で、マリちゃんの存在は薄くなっていき、自分の要素の一部として感じられるようになった。
 安達凛子の姿を見たとき、なんとなく、マリちゃんのことを思い出した。容姿が似ていたというわけではない。ただ、自分と近しいものを彼女から感じた。
 瀧本のクリニックに初めて訪れる人は大抵、心療内科というところに来たということで不安を抱えている。そうでなくても、心身に不安を感じているからこそクリニックの扉を叩くのだ。
 瀧本が彼女を呼び寄せたという疑惑は、のちに確信へと変わった。瀧本の様子がいつもと少し違ったからだ。おそらく他の人には見分けることはできないだろう。美穪子だけが感じることのできる、微妙な差異。
 美穪子は、安達凛子に対する自分の妄想を抑えることがなかなかできなかった。


   2


 安達凛子が二度目にクリニックに来たのは、それから数日後のことだった。安達凛子は前回と同じ時間を指定してやってきた。前回とはあきらかに様子が違っていた。彼女は今回は青色のチェックのワンピースに眼鏡をかけていて、まるで別人に見えた。化粧や服装が違うだけでなく、体全体から「生気」が削がれているような感じがした。前回の来訪のときに感じたような凛とした感じがなかった。
 彼女はキャスター付きのキャリーケースを引っ張っていた。そこに何が入っているのかはもちろんわからないが、なんの意味もなく引いてきたものだとは思えなかった。地味な服装からして、どこかに出かけていたというわけでもなさそうだ。美穪子は、これは瀧本に何かを預けにきたのかもしれない、と直感した。
 診察室に彼女を通したあと、中でどういう話し合いが行われているのかが気になって仕方がなかった。美穪子はパソコンのディスプレイを見つめながら、診察室の中で話し合われている内容について、つらつらと取り留めもなく思いを巡らせていた。
 三十分ほどで安達凛子は出て来た。そして、キャリーケースを引いていなかった。忘れてきたのだろうか? いや、まさか、そんなことはないだろう。渡してきたのだ。瀧本に。そして、それが、今日ここにきた理由なのだろう。
 待合室で話しかけてきたので、少しだけ会話をした。他愛のない会話だったが、こちらが緊張していることは伝わったに違いない。話しているうち、美穪子は安達凛子は信頼できる人物なのかもしれない、となんとなく感じていた。だが、彼女は前回の来訪と比較すると明らかに様子がおかしく、心配になった。だが、そう気軽に相手の事情に立ち入るわけにもいかない。
 しばらくすると瀧本がキャリーケースを引いて診察室から出て来たので驚いたが、さらに瀧本は安達凛子を自宅に上げるというので、さらに驚いた。自分の知らないところで、何かが進行している、と怖くなった。美穪子はめまいがするほどの恐怖を感じたが、なんとか表面上は平静を保つことに成功した。
 さして親しそうな様子もなく、瀧本と安達凛子は上階へと消えていった。キャスター付きのキャリーケースの中には、何が入っているのだろう。あらゆる想像が美穪子の中を駆け巡る。どうしてもネガティブな想像ばかりしてしまう。どうしよう、どうしたらいいんだろう。美穪子は息苦しさを感じ、胸のあたりを抑えた。呼吸がおかしくなっている。背筋を正し、ゆっくりと息を吐いた。はじめは浅く、ゆっくりと息を吐いて呼吸を整えていく。息を吸えなくなるとパニックに近い状態になるが、息が吸えないのは、吐くことを忘れているからだ、という瀧本の言葉を思い出した。大事なのは、ゆっくりと息を吐くことだ。手慣れたその動作を何度か繰り返すと少しは落ち着いたが、じわりと背中に張り付くような不安感は拭えなかった。
 呼吸は落ち着いたが、心臓が高鳴っている。逆に、血が冷えているのを感じる。どうしよう、どうしよう。気持ちが落ち着いても、不安で身体が強張り、うまく動くことができない。
 これまで、何か自分に不安なことがあったとき、瀧本がそばにいてくれて、話を聞いてくれた。そのおかげで、自分はここまでやってこれたのだ。だが、その不安の原因が瀧本の場合は、一体どうすれば良いのか。美穪子は必死に脳を駆け巡らせ、江利ちゃんしかいない、と思いついた。
 必死にバッグの中を漁り、自分の携帯電話を取り出す。履歴から、江利子の番号を呼び出して、コールしようとしたとき、ふと、安達凛子が先日やってきたときに江利子にそのことを告げたら、露骨に嫌な顏をしたことを思い出した。ダメだ、江利ちゃんにこんなことを話すわけにはいかない。だが、もう指はコールボタンを押していた。取り消そうとしたが、江利子はすぐに電話に出た。
「もしもし? みねちゃん、何かあったの?」
 慌てて携帯を耳につけると、江利子の声が耳に飛び込んできた。
「ううん、違うの。江利ちゃん、何もないから」
「何もないってことないでしょ。ちょっと声、変だよ。どうしたの?」
 瀧本や江利子は、いつも美穪子が何か言いたいことがあるときは、こちらの意図を察して質問をしてくれる。
「あのね、安達さんが。こないだクリニックに来た、安達凛子さんが、また来て」
「うん」
「それで、瀧本先生と話してて。安達さんと一緒に家まで行って……」
「え? 家まで行ったの?」
「うん」
 一瞬、沈黙があった。美穪子は、何かまずいことを言ってしまっただろうかと心配になった。
「大丈夫、みねちゃん。あたしもじきに帰るから、おじさんと話しとくね。安達さんのことなら大丈夫、任せといて」
 急に江利子が明るい顏になった。何かを察したのかもしれない。美穪子は、さらに強い疎外感を感じた。まさか、江利子もそちら側に加担しているとは。電話なんてしなければ良かった。どうしよう、どうしよう。もう自分には、信頼できる人なんていない。また、私はひとりぼっちになってしまう。せっかく、瀧本先生や江利子に出会うことができたのに。
「もしもし、美禰ちゃん、聞こえてる?」携帯電話の向こう側から江利子の声が聞こえる。美禰子はショックで、返事をすることが出来なかった。
「ちょっと、大丈夫だから。なんでもないの。安達さんについては、あたしがあとからまた説明するから。だからちょっと待ってて。ね?」
「…………」
「ねえ、電話じゃ話せないようなことなんだってば。話すと長くなるから……。でも、別にみねちゃんに隠し事をしたりしてるわけじゃない、それだけはわかって」
「隠してるじゃない」
「だから、あとで説明するから」
「……嘘だよ」
「どうして嘘だって思うの?」
「だって……だって、こんなの、今まで、なかったから」
「ないことだってあるよ、そりゃ」
「…………」
「ああ、もう、こんなことが言いたいんじゃない。心配しないでね、って言ってるの。もう、面倒くさい」電話口で江利子はまくしたてるように言った。
「面倒くさいって、江利ちゃん、前からそう思ってたの?」
「もう、そういうことじゃない。とにかくもう、切るよ」
「…………」
 美穪子が何も言えずに黙っていると、電話は切れた。もう終わりだ、と美穪子は思った。江利子にまで見捨てられたら、もう生きていけない。美穪子は急いでバッグから精神安定剤を取り出し、一粒だけ口に投げ入れた。
 しばらく、誰もいない待ち合い室で、パソコンのディスプレイを見つめながら呆然としていた。ディスプレイにはデスクトップの壁紙が表示されているだけで、何も映ってはいない。壁紙は、瀧本や江利子と行った温泉旅行の写真が中央に表示されている。自分の両親を失って、二人と出会ってから、この二人を本当の家族だと思って美穪子は生きてきた。二人を失うことは、自分の人生を失うのと同義だった。
 不意に掛け時計がポーンと鳴り、七時を告げた。精神安定剤が効いてきたのか、少しだけ現実的なことについて考える余裕が出来ていた。みんなの夕食を作らなければ。美穪子はヨロヨロとは立ち上がった。
 瀧本と出会ってから、美穪子が熱中したのは、料理だった。それまで全く料理などしたことがなかったが、ふと、クッキーを焼いてみようかな、と思い立った。女の子というものは小学校の高学年ぐらいになると、クッキーを焼くことができるようになるらしい、と思い出したのだ。なぜクッキーなのかはわからなかったが、インターネットを使って材料を調べ、買い出しに出かけた。道具で足りないものがありそうだったので、それも買うことにした。インターネットで作り方と材料、それを売ってそうなお店を探し、そこまでの道のりもすべて調べた。当日に着ていく服も用意した。買い出しに出かける前日は緊張して、なかなか寝付けなかった。すべての情報が書かれたメモの束を握りしめながら美穪子はこっそりと家を出て、店へと向かった。
 はじめは自分のことを周りの人が見ているんじゃないかと緊張したが、じきに誰も自分のことなんて気にしていないんだ、ということがわかった。特に、道具を買うときに緊張が走った。料理なんてろくにしたこともないのに、こんなものを買って、おかしくないだろうか。恥ずかしい。買うときにカゴに入れるときも恥ずかしかったが、それをレジに持って行くときが最も恥ずかしかった。相手になんて思われるだろう。目をどこに向ければいいかわからない。だが、レジ打ちの店員はそんなことを気にするふうもなく、淡々と会計をし、金額を告げた。その突き放し具合が、なんとも心地よかった。だが、買い物が終わる頃には、全身に冷や汗をかいていた。
 家に帰って叔母に説明しなければならないことが憂鬱だったが、叔母は美穪子の荷物を見るとすぐにキッチンを使わせてくれた。なんて説明すればいいんだろうと途方に暮れていた美穪子にとって、何も言わずに場所を使わせてくれたことがありがたかった。
 慣れない手つきで、インターネットで調べた通りのものを作ってみたのだが、結果は惨憺たるありさまで、自分には分不相応なことだったのだと絶望した。だが、日をあらためてもう一度チャレンジしてみると、前回よりは少しだけマシなものが作れて、わずかな前進が感じられた。別に人に食べさせたりするために作っているわけではないけれど、わずかでも前に進んでいるという実感があるのは嬉しかった。
 時間をかけて、少しずつ菓子作りに挑戦していると、叔母が色々と料理を教えてくれるようになり、美穪子の生活には張りが出て来た。とてもシンプルだが、確かに喜びが感じられる生活だった。いつか瀧本に食べさせてあげることができるかもしれない、と思った。
 美穪子はヨロヨロと立ち上がると、買い物に行かなければ、と思った。もう冷蔵庫にほとんど食材は残っていないはずだ。もうこんなに遅い時間になってしまっている。急いで立ち上がると、それだけで少しだけ心持ちが軽くなったような気がした。
 近所のスーパーで簡単な買い出しを済ませ、帰宅した。瀧本はもちろん家に居たが、声をかけても生返事しか返してくれなかった。安達凛子はもう帰宅していて、リビングにはいなかったが。瀧本によれば、江利子も自室にいるとのことだった。
 どうしよう。もう話し合いは終わったのだろうか。美穪子は冷蔵庫に買って来た食材を仕舞いながら、リビングのソファに腰掛けたままの瀧本を盗み見た。テレビが付けっぱなしになっていて、瀧本はそれを見ているが、目はちっとも画面を追いかけていない。瀧本に話しかける勇気は美穪子にはなかった。
 なるべく余計なことを考えないように努力しながら美穪子は夕食の支度をはじめることにした。自分の部屋からエプロンを取ってきて、キッチンに戻るとき、リビングの片隅に、見たことのない魚を見た。初めて来たときからこの家には水槽があったが、毎日目にしているものなので、違うものがあればすぐにわかる。はじめは見間違いかと思ったが、こんな魚は見たことがない。驚くほどの白い魚で、赤い目が特徴的だった。あまりにもつかみどころがなさすぎて、神々しさを感じた。まるで、白い石を削り出した置物のような、そんなものを感じさせた。
 そしてその瞬間、理解した。安達凛子が持って来たのはこれなんだ、と。この「魚」を、瀧本に渡したのだ、と。なんのために?
 だが、この魚がカギなんだ。この魚がすべての中心だ。
 安達凛子に対する、瀧本の不自然な態度は、すべてこの魚に集約されているような予感がした。
 これは、何かの取引の材料なのでは? という疑問が、すぐに頭をもたげた。だが、それ以上は思考が続かない。当たり前だ。情報が少なすぎる。
 美穪子はしばらく、魚のことも安達凛子のことも忘れ、料理をつくることに没頭した。江利子が部屋から出て来て、ビールを取り出し、自室に引っ込んで行ってしまった。
 不意に瀧本が立ち上がり、玄関のほうへ向かったので、美穪子はなんだろうと疑問に思った。誰か来たのだろうか。しかし、玄関のベルも何も鳴ってはいない。
 耳をすませると、かすかに瀧本の低い声が聞こえる。誰かと会話をしているようだ。だが、相手の声は聞こえない。
 心配になって出て行き、お客様ですか、と問いただすと、真っ青な顏をして、瀧本は何でも無い、と言った。
 それ以上言葉を重ねる勇気は美穪子にはなかった。


   3


 食事が終わり、食器を洗っていると、江利子がいつの間にか後ろに立っていた。食事のときもほとんど会話がなく、疲れた顏をしていた。反対に、美穪子は日々のルーティンをこなしているうちに、普段の調子に戻ってきたような感じがしていた。あとで部屋まで来て、と小さな声で江利子は言い、美穪子も小さく頷いた。
 久しぶりに入る江利子の部屋は、少しものが減っているような気がした。同じマンションの中に住んでいるが、もちろん互いの部屋はプライベートな空間だ。美穪子もこの家に暮らし始めてから一年近くが経過しているが、瀧本や江利子と一緒に生活しているというよりは住み込みで働いているような気分だった。
「突っ立ってないで、座ってよ」
 江利子が美穪子に呼びかける。だが、江利子も立ったままだ。美穪子は言われるがまま、ドアの横の化粧台の前に置いてある小さな椅子に腰掛けた。江利子は部屋の奥にあるパソコンデスクの回転椅子に腰かけた。
 前は、美穪子もたまにこの部屋に遊びにきた。江利子はエスニック的な置物やアクセサリーなどを売っているお店をよく知っていて、部屋に遊びにいくとどこかの民族のお面や、珍しいお香、ピアスなどを見せてくれたりした。いまはそれらの多くは棚の奥のほうに仕舞われ、会社に行くときに着るための服やバッグ、化粧品などに取って代わられている。気怠げに座る江利子を見ていると、ここ最近の江利子とは違って、ちょっと昔の感じに戻ったような感じがして、美穪子は心が軽くなった。
「えっと、何から話したらいいのか」
 江利子は椅子に座ったまま、ガムのタブレットの入った缶を引き寄せると、ひとつ噛み始めた。美穪子も勧めたが、美穪子は首を振った。
「なんか顔色も良くなってきてるからちょっと安心したよ。安達さんのことだけど、大丈夫、気にしないでもいいよ。さっきおじさんとも話したから」
「気にしないでもって?」
「みねちゃんが心配するようなことは何もないってこと」
「安達さんは、何をしにきたの?」
「瀧本クリニックは心療内科なんだから、何しに来たかぐらいはわかるでしょ?」
「あの『魚』」と美穪子は言った。「あれが、関係してるんじゃないの?」
「なんのこと?」と江利子は言った。
「さっき、リビングに見たことない『魚』があったけれど……」
 江利子は視線を美穪子から外し、噛んでいたガムを紙に吐いた。そして、なんでそんなにわかりやすいところに置いたんだろうな、と独り言を言った。
「ねえ、江利ちゃん、ちっとも話してくれてない。余計に訳がわからなくなっただけだよ」
「全部を話すわけにはいかないの、まだ。そのうち話すよ、きっと」
「どうして?」
「どうしてかって? わからない? みねちゃんに洗いざらい、いま起きてること、これから起こることを話して、それで何もかもが良くなるんなら、あたしだってそうしてるよ。そういうわけにもいかないでしょう」
「どういう意味?」
「もう……知らない」
 しばらく沈黙があった。
「とにかく、時期が来たら、全部話すから」
「あの『魚』はなんなの? あれを安達さんが持ってきたんでしょう?」
「もともとは、仁科さんのものなんだよ。覚えてるでしょ? 仁科さん」
 美穪子は小さく頷いた。仁科は、以前からクリニックに通ってるクライアントだ。クリニックのクライアントは、美穪子は当然、把握している。そういえば、最近、姿を見なくなった。以前は、毎週のようにここにきていたのに。
「仁科さんが飼っていた魚なんだけど、ちょっと事情があって、安達さん経由で持って来たんだよ。それだけ」
「どうして安達さんが持ってたの?」
「そんな細かいことまで、知らないよ」突き放すように言うと、江利子は美穪子を追い立てるように立ち上がった。美穪子はしぶしぶ立ち上がり、部屋を出た。人の顔色ばかり窺って生きてきたけれど、江利子には不思議と自分の意思を示すことができた。ふとしたことで彼女が突き放すような態度を取ることもあったが、彼女はどこにも行かなかった。変わらずにここにいる、信頼してそう言うことができるのは、彼女だけだった。
 自室に戻ってから美穪子はベッドの上に座った。自分の部屋は現在の江利子の部屋よりもさらに簡素で、必要最小限の家具と、料理に関する本しかない。部屋に戻るとき、それとなくリビングにいるはずの瀧本に目をやったが、姿は見えなかった。もう自室に戻ってしまったようだ。
 仁科さんから安達さんを経て瀧本に手渡された『魚』。それが一体何かはよくわからないが、きっと何かあるに違いない。
 仁科和人。よく瀧本クリニックに来ていた人だった。あの人がはじめてクリニックに来たときのことをよく覚えている。とても痩せていて、長身で気が優しそうな人だったが、よく目の下に隈を作っていた。あの、はじめて来たんですが。遠慮がちに低い声でそう言った。美穪子は他のクライアントに接するときと同じように、機械的に応対した。はじめてのクライアントには簡単な問診票を書いてもらうのだが、仁科はそれを書き終え、美穪子に手渡すとき、ねえ、僕ら、どこかで会ったことありましたっけ、と話かけてきた。
 美穪子は機械的な対応をすることはできるが、イレギュラな対応はなかなかこなすことができない。普段は受付にもう一人のアシスタントがいて、イレギュラな会話をされたときなどに助け舟を出してくれるのだが、今日はあいにく誰もおらず、瀧本も診察中なので呼ぶわけにもいかなかった。美穪子が焦っているとあ、そう、川嶋さんね、と仁科が言ったのでハッとした。しかし、彼の眼球が素早く動いたのを見て、ただ単に自分のネームプレートを見られただけなのだとわかった。あ、覚えてないって顏してるね。無理ないな、こっちも顏見てやっとわかっただけだから。
 僕、仁科って言うんですけど。ああ、この問診票に書いたから名前はわかりますよね。仕事はシステムエンジニアっていって、IT関係の仕事をしてるんだ。そこでね、プロジェクトリーダーをやってる。仕事が忙しくて、睡眠も不規則になりがちだから、つい睡眠薬が欲しくなっちゃうんだよね。君はここに勤め出してどのぐらいなの? もったいないな、君ほど可愛い子がこんなところでたかが受付やってるなんて。僕の会社だったら、社長秘書だって出来そうな感じなのにね。いや、社長秘書、合うかもなあ。そんな雰囲気あるよね。そういうことって言われたことある? うーん、なんだったら、僕の秘書になってもらってもいいぐらいなんだけど。
 はじめてボソボソと朴訥としていたが、次第に熱っぽくなっていき、どんどん口調が滑らかになった。精神の安定を欠いていることは明らかだった。もっとも、そういう人間ばかりが治療のためにここに来るのだから当然といえば当然のことだ。美穪子はそう考えると、少し冷静に対応することができた。
 あ、ゴメン、こんなところで話をするのはダメだよね。これ、僕の携帯番号なんだけどさ。彼はそういうと、上着のポケットから名刺を取り出し、美穪子に差し出した。そこにはカンナミコーポレーションと書かれた社名ロゴが右上にあり、その下に「チーフプロジェクトマネージャー」という肩書きとともに仁科和人という名前が記してあった。その下に、携帯電話番号も記載されている。美穪子はどう対応したらいいのかわからず、途方に暮れながらも、さっき問診票に記載してもらった中に電話番号が入っていたから、別に電話番号は知ろうと思えばわかるんだけどな、といったことを考えていた。そこで、クライアントの情報はいかなる情報であっても診察以外に使ってはならない、という大原則を思い出した。
 しかし、仁科が何を要求しているのかわからない。日常会話のようなことがしたいのかもしれないが、意図がわからない。「今日はいい天気ですね」という挨拶に似ている。美穪子は受付で、「今日はいい天気ですね」と話しかけられることがたびたびあったが、その会話が意図するところがわからなかった。いい天気なのは自明のことなので、わざわざ共有するような情報ではない。しかも、さほど親しくもない人とそんな情報を共有しても、その人と何かをするわけではないのだから全く意味がない。一体どういう意図で「今日はいい天気ですね」とこの人は話しかけてきたのだろう、そんなことを考えているうちに相手に返答する機会を失してしまうのだった。その会話によく似ている、と美穪子は思った。
 だが、仁科和人は美穪子に対してなんらかのアプローチをしてきていることは確かだった。美穪子は俯いて、曖昧な返事を返すことしかできなかった。
 それから、仁科は頻繁にクリニックに診察を受けるようになった。彼に処方したのは主に睡眠薬だった。やはり頻繁にクリニックに出入りする江利子と彼は顔見知りになったようだ。たまに、階下のカフェでお茶をするというのを聞いたことがあった。仁科はつかみどころのない人物で、最初に美穪子に話かけてきたときのように、妙に話しかけてくるときもあれば、返事すらしないこともあった。もっとも、そういうクライアントは珍しいことではないのであまり気にはしていなかったが、基本的には心優しい人間のようだった。
 仁科和人。彼はいま、どうしているのだろうか。結局、携帯に電話をかけることなどなかった。だが、一度だけ、クリニックが閉まってから、彼が待合室で話しかけてきたことがあった。
 ねえ、川嶋さん、自分の思い通りになる世界があったら、行ってみたい? ずっとこんなところにいて、つまらないなって思ってない?
 美穪子は、どうでしょうか、と曖昧に返事をした。彼がなぜ急にそんなことを言い出したのかはわからなかったが、目つきが真剣だった。
 ふと思い立ち、仁科和人の名前を携帯で検索してみた。仕事の分野では、彼は何かまとまった功績を残しているのかもしれない、と思ったのだ。
 検索をかけると、色々な同姓同名の人がヒットした。明らかに仁科とは関係がなさそうな、他の「仁科」さんの記事を見て行くうち、ふと気になる記事に当たった。バイク事故の記事だった。
 記事を開いて、美穪子は驚いた。仁科和人という人が、バイクで事故をして、死亡したというのだ。そういえば、最近、そんな事故があったような気がする。さして興味がないので、名前までは見ていなかったのだが、確かに同じ名前だ。しかも、二十八歳の男性で、都内のIT企業に勤めている、とのことだった。
 胸騒ぎがして、別の検索キーワードを入れて検索してみると、また関連した記事が出て来た。そして、他のニュースサイトに、「仁科和人」の顔写真があった。学生の卒業アルバムか何かの写真だったのだが、確かに仁科その人だった。美穪子は息を飲んだ。
 仁科和人は、
 死んだのだ。
 なぜか、じわっと波のような熱さが胸の奥からこみ上げてきた。一瞬、息苦しくなり、遅れて、目から大量の涙が流れだした。
 死んだ。
 彼は……。
 事故で。
 しかも、死因は交通事故だった。美穪子は自分の両親を失った事故を思い出した。もう二度と思い出さないと誓っていたのに。しかし、そのイメージは無慈悲に美穪子の中に入り込んでくる。胸の奥から侵入し、内蔵を引き裂いていく。
 ひとしきり泣いたあと、美穪子はベッドに倒れ込んだ。仁科が死んで残していったもの、それがあの『魚』なのだ。
 一体なんなのだろう、あの『魚』は……。江利子が言葉を濁していたのも、あれが仁科和人の所有物であった、というところが大きく関係しているに違いない。何も知らない振りをして、瀧本に尋ねることもできるが、たとえそうしたところで、瀧本は本当の事を話さないだろう、という予感がした。
 瀧本の様子を見張ろう、と美穪子は考えた。持って来たばかりのあの『魚』に対して、なんらかのアクションを取る可能性がある。
 瀧本は自室に行っていたので、美穪子は瀧本が部屋から出てくるのをただ見ていればよかった。美穪子は自分の部屋の扉を半開きにして、瀧本が部屋から出てこないかどうかを見張ることにした。
 常に耳をすませていなければならないので、何もすることができない。美穪子は部屋の隅に膝を抱えて座って、ただ時間が過ぎるのを待った。まるで、瀧本に出会う前の自分に戻ったかのようで、ちょっと可笑しかった。掛け時計のカチカチとした音だけが部屋に響いている。
 どれぐらいの時間が経っただろうか。不意に、ガチャリとドアが開く音がして、美穪子は意識を集中させた。瀧本が部屋から出て来た音だ。足音がまっすぐにリビングのほうへと消えて行く。美穪子は立ち上がり、そっとドアのあいだから様子を窺った。ドアの向こうに伸びる廊下の先に、瀧本の後ろ姿が見える。瀧本はしゃがみこんで、水槽と向き合っているのがわかった。
 美穪子は音がしないようにゆっくりとドアを開け、瀧本の背後に忍び寄った。瀧本は水槽の中に手を入れようとしているところだった。美穪子は直感で、何か危険なことが進行している、と思った。気付いたときには駆け出していた。
 瞬間、瀧本がこちらに気付き、驚いたように目を見開く。手に『魚』の牙が食らいついている。美穪子は瀧本を突き飛ばし、『魚』を引きはがそうとした。瀧本は意識を失ったのか、ほとんどなんの抵抗も示さなかった。
 『魚』は身を翻し、美穪子に噛み付こうとする。まるで、テレビで見たことのある、ピラニアのように。毒があるのだろうか。瀧本はなぜこの『魚』に噛まれようと思ったのだろう。
 瀧本は死ぬのだろうか。
 そして自分も?
 だが、瀧本と死ねるのなら、それでもいいと思った。
 それで満足できる、と思った。
 気付くと、美穪子は床で寝転がっていて、隣には、瀧本がこちらを見ていた。


   4


 『魚』に噛まれた影響で気を失っていただけか、と思っていた。自分は寝ていて、瀧本が隣にいたならば、その状況ならば、誰だってそう思うだろう。手首はほとんど痛まない。ちょっと頭がぼうっとしているが、頭痛がするというほどでもない。
 どれぐらいの時間、そうしていたのかわからない。そばにいた瀧本から、信じ難いことを言われた。ここは、現実世界ではなく、自分の意識の中だというのだ。何を言っているのだろうと訝しんだが、頭が痛くて、ぼうっとして、正常に思考することができない。瀧本は、あきらかに異常だと思われるこの事態に、淡々と対応しているように見えた。これを予期していた、というよりはこうなることを望んでいた、というような態度だった。
 その不思議な世界には、「私」がもう一人いた。はじめは驚いたが、すぐに瀧本が説明してくれた。ここは私の意識の中の世界であって、自分が二人いるように感じるのも錯覚なのだ、と。何を言っているのかはわからないが、とにかく瀧本を信じよう、と思った。少なくとも、目の前には瀧本がいて、自分を守ってくれている。美穪子には、その実感があればそれで十分だった。
 部屋にはもう一人少年がいて、トバと名乗った。瀧本とトバは顔見知りのようで、何か会話をしていた。美穪子は会話の内容を理解することができず、途中から考えることをやめてしまった。
 これはなんの時間なんだろう、美穪子はぼんやりとした頭で考えていた。まだほんの小さいとき、たとえば小学生ぐらいの頃、子どもたちが集団で集まって、何かワイワイやっているようなときに、ふとみんなの動きが止まって、何かを待っているような状態に入ることがあった。要は、何かしなければならないことがあって、みんなそれを待っていたのだと思うのだが、美穪子はいつも、自分がそのときに何をすればいいのかわからずにただ戸惑っていた。あの感覚に似ている。世界は確実に自分に何かを干渉してきているけれど、自分がどうやって世界と干渉したらいいのかがわからない。いま、自分がどう振る舞えばいいのかわからない。
 瀧本が何を話しているのかを理解することは放棄したが、ただ瀧本についていよう、と思い、彼の服のすそをぎゅっと握った。これだけでだいぶ心が温かくなった。そして、これだけ存在感のある瀧本が幻のはずがないと思ったし、ここが自分の意識の中だなんてことはとても信じられなかった。
 それから何があったのかはよく覚えていない。もしかすると、話についていけず、少しまどろんでいたのかもしれない。気付くと、いつもの部屋のリビングと繋がるような形で、もう一つのリビングが姿を現していた。
 驚いたことに、リビングの先に居たのは、安達凛子だった。今日の夕方に見たような病人のような姿ではなく、最初にクリニックにやってきた時のような、凛とした姿をしていた。安達凛子の前に、泥のような塊があり、彼女はと向き合っていた。
 瀧本は今度は安達凛子と会話をしている。安達凛子は、彼女の目の前にあるマネキン人形のようなものを仁科だと紹介した。美穪子は瀧本の顏を見た。瀧本は表面上はいつもと全く同じ表情に見えたが、明らかに動揺しているのが美穪子にはわかった。それはそうだろう。ただの人形を仁科だと紹介されて、誰が納得するだろう。
 瀧本が静かに歩いて、安達凛子へと近づいていく。
「あ、先生、ダメですよ、あまり近づいたら。まだ、身体が完成してないですから」と安達凛子が言った。瀧本は足を止める。「完成?」
「はじめ、先輩、つまり仁科さんは、単なる影だったんです。単なる影で、私が、先輩だと気付いたんですよ。そしたら、先輩もそうだって言ってくれて」
「でも、仁科くんは……」と瀧本は言葉を切った。「亡くなったんですよね? 君からもそう聞いたし、ニュースでも見ましたが」
「何言ってるんですか、先生。ここは意識の中の世界なんですよ。死んだ人ぐらい、簡単に蘇らせられるはずですよね?」
 安達凛子はそう言って笑った。
「彼を生き返らせようとしているんですか?」と瀧本が問う。
「生き返らせるというか……。ここは私の意識の中なんでしょう? 人間一人ぐらい簡単に生き返らせられるんじゃないんですか?」
「人間一人を再現するのは簡単なことではないですよ」とトバと名乗る少年が口をはさんだ。ずいぶん長いこと、話していなかったような気がしていた。「確かに、ひとりの人間のことを思い出すことは簡単にできます。でも、ちゃんとした人間らしきものをつくるのは、簡単ではないです。人間一人が考え出す思考、人格、それらすべてを再現するのは大変なことなんです。もう死んでしまっているわけですから、彼のメモリはどこにもありません。ゼロからつくらなければなりません。そして、安達さんがつくったそのメモリを、他人が『認識する』ということがどうしても必要になります」
 トバと名乗る少年が語るのをぼんやりと美穪子は聞いていた。さっきよりは、少しは思考がクリアになっている感じがする。安達凛子は、この空間に仁科を再現しようとしていて、あの肉の塊のようなものは仁科を再現したものである、ということらしい。
「ゼロから人をつくるには、いろんな人の記憶を借りてくる必要があるんです。大学生のときの仁科さん、家庭での仁科さん、病院にいるときの仁科さん。どんな人も、いろいろな側面を持っています。安達さんから見ての仁科さんだけでは、完全に再現することはできません」
「じゃあ、ここにいるのは……」と安達凛子は言った。「一体誰なんですか?」
「あなたが仁科さんだと思い込んでいるモノです」
「変な人だわ。先輩はここにいるっていうのに」安達凛子は口を尖らせる。「ただちょっと、身体が思うように動かせないだけよ」
 美穪子はじっとその人形を見つめた。それはとても仁科には見えないが、言われてみればシルエットに面影があるような気がする。安達凛子の目にはどのように見えているのだろうか。かつて、自分の中にマリちゃんがいたときのような感覚を彼女は感じているのだろうか。他の人にはとてもマリには見えないようなものも、美穪子はマリの存在を感じることができた。例えば、彼女が大事にしていた熊のぬいぐるみにマリという名前をつけ、頭の中のマリではどうしても不都合なときには、彼女は熊のぬいぐるみをマリと見立てて会話をすることができた。安達凛子が、あの肉塊を仁科さんだと言い張っているのは、それに近くはないだろうか。
「『それ』って、もしかして、クラゲさんです?」と長髪の少年が駆け寄りながら言った。名前は確か、さっきエイジと名乗っていた。この少年にしたところで、全く素性が知れない。先ほどは瀧本と親しげに会話をしていたが、一体何者なのだろうか。
「クラゲさんのようにも見えますけど、全然似ても似つかないですね。ただのゴミのようにも見えますし。触ってみてもいいですか?」
「ちょっと、何するのよ」安達凛子が声をあげる。
「何って、別に何もしないですよ。ただ、触ってもいいですか、って訊いただけですけど」
「ダメよ、そんなことしたら」
「どうしてです?」
「触ったら、壊れちゃうじゃない」
「壊れちゃうんですか?」
「そうよ」
「人間なのに?」
「…………」
「人間だったら、触っても大丈夫ですよね?」
「ちょっと、やめて。やめてったら」
 安達凛子が制止するのを無視し、エイジと名乗る少年は手を伸ばし、マネキン人形に触れる。その瞬間、腕に相当する部分が根本から取れ、床に落ちた。ゴロ、という大きな音が響いた。
 安達凛子は目を見開き、茫然自失となっているのがわかった。エイジと名乗る少年は自分の指についた液体を袖でぬぐい、あれ、取れちゃいましたよ、と言った。安達凛子はそれでも動かない。そして、形相を変えて、この人殺し、と叫んだ。
「人殺しですか? ボクはただ、触っただけなんですけど」
「黙りなさい。あなたが取ったんだから、あなたがつけなさいよ! さあ! 早く!」
 安達凛子はテーブルを回り込み、エイジと名乗る少年につかみかかるような姿勢で叫んだ。美穪子は怯えて、瀧本の影に隠れた。エイジと名乗る少年は、気圧されたように少し後ずさりをしたが、虚勢を張るように背筋を反らせた。
「これでいいですか?」エイジと名乗る少年は、足元に落ちた腕を拾い上げながら言った。マネキン人形のように見えたそれは、よく見ると骨があり、皮膚のようなものがあり、それらが爛れた状態で床に滴っていた。その雫がエイジと名乗る少年の手を伝って、袖口を濡らしていた。
 美穪子は胃の底からこみあげてくるものを感じ、咄嗟に手で口を抑えた。前に立っていた瀧本がそれに気付き、美穪子の身体を支えてくれる。吐瀉物が喉まで出掛かったが、ここは自分の意識の中なのだ、何も出てくるはずがない、と思うと少し落ち着いた。そして、テレビを見るような冷静な目で目の前の状況を観察した。
 エイジと名乗る少年は、液体がかかるのも構わず、拾い上げた腕を元の位置に押し込もうとしている。押し込むたびに、腕の断面がつぶれ、中からさらに液体が溢れ出してくる。安達凛子は、その脇に立って、呆然とした表情でそれを眺めている。すべての時間が止まり、その空間の中で動いているのはエイジと名乗る少年だけだった。
「駄目ですよそれじゃ」トバと名乗る少年がゆっくりと口を挟んだ。エイジと名乗る少年はいたずらっぽく笑うと、まるでゴミを捨てるような仕草でそれを床に落とした。すると、椅子に座っていた人形は、首からボロボロと崩れていった。ほんの一瞬の出来事だったが、あとにはゴミのような残骸だけが残った。
 トバと名乗る少年は続ける。
「安達さん、あなたが仁科さんだと思い込んでいたものは、ご覧の通り、他の人にはそうは見えないわけです。あなたは特別ではありません。誰にだって、そういうものはあります。思い出の品、形見なんてのは、その典型ではないでしょうか。他人から見たらガラクタ同然のものでも、自分にとっては、ある人の思い出が詰まったかけがえのない品である、ということは往々にしてあります。でも、他人にはそんな価値なんて当然わからないわけです。言葉でも伝えることはできません。他の人は、また違った情報を持っている。それらを、繋ぎ合わせてはじめて現実になるんです。意識をネットワークで繋ぐことによって可能になるのは、そういうことなんです」
「ですね」エイジと名乗る少年が言った。「自分にとっては宝物でも、他人から見たらガラクタ、これは結構よくあることですねー。まあ、本当はそういうことが話したいんじゃなくて」と区切った。「安達さんを救ってあげるために、お二人に協力してもらいたいんですよね」
「協力?」瀧本が質問する。その言葉に、エイジと名乗る少年が頷く。
「そう、協力です。安達凛子さん、哀れでしょ? こんな、自分の妄想の世界の中に閉じこもっていて、しかもこんなに苦しんで。安達さんが拠り所にしていた、仁科さんも、結局のところ、こんなゴミのようなものでしかないわけです。僕らが手伝ってあげましょうよ」
「どうやって?」瀧本はすぐに質問をする。美穪子には信じられないことだったが、瀧本はもう自分が置かれた状況がどういうものなのか、理解しているようだった。
「記憶を提供してあげるんですよ。仁科さんがどういう人だったのか。こういう状況なら、仁科さんはどう振る舞うのか。彼はどんな時に笑うのか。どんな時に怒るのか。女の子と喋る時、男の子と喋る時、街中を歩いているとき、休日の過ごし方、仕事の仕方。ありとあらゆる、彼の『側面』があります。それらを、僕らで補完してあげましょうよ。そして、認めてあげるんです。そうすることで、仁科さんは再現できます。僕らの意識の海の中で」
 エイジと名乗る少年は安達凛子にゆっくりと近づいた。安達凛子は顔面蒼白で、今にも倒れそうだった。だが、それは美穪子にしたところでさほど変わらない。ただ、吐き気はいくらか収まっていた。エイジと名乗る少年は、安達凛子に向かって微笑みかける。足元には、仁科和人だった残骸が転がっている。彼は、バイク事故で亡くなったとニュース記事で読んだ。もちろん、死体を見たことはないが、もしかすると彼はこんなふうになってしまったのだろうか。
「先輩が、生き返る……」と安達凛子は言った。「本当に?」
「あなたがさっきまでやっていた、おままごとじゃないですよ、きっと」とエイジと名乗る少年は言った。「ただし、ここにいる僕らだけじゃ到底足りません。今まで、生まれてから彼がどれぐらいの人間と接触してきたと思います? 彼の社会性を形成するまでに、どれぐらいの人が必要だと思います?」
「さあ、想像もつかないね」と瀧本が答える。「でもね、それらがすべて必要だとは思えないけれどね。だって、仁科くんがそこらへんを歩いていたとして、それが仁科くんだと認識している人は一体どれぐらいいる? 普通の、そこらへんの通行人からしたら、ただの男性に過ぎないわけだよね。その人たちの記憶まで必要になるのかな?」
「だから、あなたはわかってないんですよ、瀧本さん」エイジと名乗る少年は大げさに笑う。「わかってないなあ。そうじゃないでしょ。いろんな人の視点が必要って、そう言いましたよね。彼の会社の肩書きが一般の人にどう見えるか。彼の髪型、彼の服装、彼の喋り方、そういった複合的な要素をすべて含んだ『彼自身』が、そこにいないと意味がないんですよ。第一、彼の存在を『みんな』が認識できなかったら、存在していないのと同じことじゃないですか。そういうのが欠けていたら、彼は社会性もへったくれもない、ただのオモチャです。そう、ちょうどいま安達凛子さんの妄想のカレ、つまり、『これ』みたいにね。そうじゃないんですよ。人が生きるっていうのは。人が生きるっていうのは、つまり、人との関係性ってことでしょう。人と人がどういう関係を持っていて、誰と誰がどう繋がっているか、そういうネットワークこそが人間を規定するんでしょう。そのために、彼と特別に親しかった人だけの情報だけあれば彼が形作られるかっていったら、ノーです。あらゆる人の記憶が要ります。文字通り、あらゆる人のです。彼が生まれてから接触した人すべてと、彼を目撃したことのある人の記憶すべてです。それではじめて、社会性のある『彼』が形づくられます」
 喋りながら、エイジと名乗る少年の身長がみるみる高くなっていき、美穪子と同じぐらいの身長になった。それでも瀧本よりは低いが、顔つきは同じぐらいの年代になっている。美穪子は見たことのある顏だ、と思った。
 函南、と瀧本は言った。そうだ、と美穪子はピンときた。確か、テレビで話してるのを見たことがある。函南栄一、カンナミコーポレーションの社長。美穪子は詳しくは知らないが、自分が知っているぐらいだから有名人だろう、と思った。
「全部お前が仕組んでいたのか?」と瀧本は問いかける。函南は肩をすくめる。
「仕組むって? 何を?」
「この一連の事件だ」
「事件? 彼、仁科くんは自殺したんだよね? ボクのところには、警察が簡単な聴取に来ただけで、特別なことは何も起きなかったけれどね。自殺ということで問題なく収まったみたいだけど」
「言動に不可解な点が多い」
「それは、瀧本くんの主観だよね?」
「主観だ」
「主観で何が言える?」
「今までの言動からして、お前が何かを匂わしているのは明白だ。論点をはぐらかして、こちらを煙に巻いている」
「ま、それは否定しないけど」函南は笑顔で言った。「ただ、煙に巻いていたわけじゃないよ。このほうが面白いと思ってさ。僕はただ、『クラゲさん』とおしゃべりして遊んでただけだよ」
「なんのために?」
「彼が、つまり、仁科くんが、それを求めてるんじゃないかと思ってさ。好きそうだろ? 子ども相手に、自慢話をべらべら話したりするの」
「そうは思わない」
「じゃ、それは僕から見た仁科くん、ってことで。瀧本先生は知らない、彼の意外な側面がまたひとつ、見つかったね」函南は安達凛子に笑いかけた。「安達さん、君にはどんなふうに見えてたのか、僕にはわからないけれど」
「私は……」と安達凛子が口を開く。
「ああ、いい、いい。別に興味もないし。仁科くんからはたまに君の話も聞いたりしたよ。へらへら笑顔浮かべてさ、ああ、こいつ、たぶん安達さんっていう子のことで頭がいっぱいなんだろうな、っていう感じがしたよ。奥さんもいるくせに、どうしようもない奴だなって」
「先輩は、そんな人じゃありません」
「じゃあどういう人だったの? 君は、仁科先輩が既婚者だってのは知ってたわけだよね?」
「それは……」
「まあ、なんとでも都合の良いように言えるだろうね。僕は別に、そんなしょうもないモラルの話がしたいわけじゃない。ただ、あいつは、君が思ってるような完璧な人間でもなんでもなくて、ただの俗物だったってこと」函南は大げさにため息をついてみせた。「こんなことを言うのも気が引けるんだけどね」
「先輩を生き返らせることができるって、本当?」と安達凛子は函南に尋ねた。
「さあ、僕だって確証があるわけじゃない。なにしろ、他の人と『意識』を繋いだのもはじめてだし。今まではエイジの人格を使って、それこそ『クラゲさん』とおしゃべりしてただけだったからね。そこのトバ少年と会って、はじめて『意識』を繋ぐ話を聞いたわけ」
「彼は何者なの?」と瀧本が尋ねる。
「本人に直接聞いたほうが早いんじゃない?」と函南は答える。
 瀧本がトバと名乗る少年に視線を向けると、彼は小さく肩をすくめた。
「君は現実に存在している人間なの?」と瀧本が静かな声で質問する。
「いいえ」とトバと名乗る少年は答える。「僕に実体はありません」
「こっちの世界の住人ってこと?」
「そう言うと聞こえはいいですけどね。僕は意識のネットワークの中から生まれた生物です。僕に実体はないんですよ、ほんとに。皆さんの意識を繋ぐだけの存在、ただそれだけです」
「函南が言ってることは正しいのかな?」
「さあ、僕には、『存在する』ということの定義が、よくわかりませんから。チューリング・テストってご存知ですか? 人工知能の性能を試すためのテストなんですが、人工知能と、パソコン上でチャットをしたとしますね。こちらが質問をすると、それに答えるわけですが、相手が人間なのか、人工知能なのか、区別がつかなかったらテストは合格です。その人工知能の性能が、人間なみになった、ということです。それと同じで、『彼』に関するあらゆる記憶を統合していくと、複合的に、『彼』という存在が浮かび上がってきます。そうすれは、『それ』は『存在する』と言えますか? 社会的な実体がない? では、得たら、どうなるでしょうか。つまり、ネットワークです。どんなに完璧な人間も、人間関係が閉鎖された環境に放置されると、人格が荒廃してきます。ですので、『彼』を生成するためにいろんな人の記憶などを統合しても、『彼』を存在させるための器、つまり、社会がなければ、存在しえないんです。さらに、そういった『彼』を運用するだけの演算が必要です。これも、いろんな人と意識を繋いでいけば可能になります」
 トバと名乗る少年は淀みなく一気にそこまで話をした。美穪子は何を言っているのかさっぱり理解できなかったが、瀧本は真剣な顔つきでトバと名乗る少年を見つめていた。
「『魚』はどういう作用をもたらすの?」と瀧本はトバと名乗る少年に続けて訊いた。
「『魚』は……、『魚』の持つ毒は、使った人の意識を分断して、新しい意識にもう一人の人格を作ります。つまり、いま瀧本さんがいるような、ここのことです。いま、瀧本さんが『魚』を使う前からここにいるような気がしているのは、記憶の連続性があるからです。ここに来る前の記憶があるから、あたかも地続きでここにいるような気がしているだけです。本当は、いまここにいる瀧本さんは、たったいま生まれた新しい存在なんですよ」
「なるほど、記憶の連続性、か……」瀧本は納得したように頷いた。「確かに、記憶の連続性さえ確保できていれば、ここが現実の地続きであるかのように錯覚することは可能だな。ということは、ここから戻るときも、ここでの記憶を確保したまま、また元の世界に戻るわけだ」
「そうです。ただし、元の世界に戻ったとしても、ここでの人格はそのままに進行していきます。いわば、この世界の自分は、もう一人の自分なんです。一度、『魚』の毒を摂取した時点で、表の世界とは無関係にこちらの世界は進行していくんですよ。いわば、裏の世界、と呼べるかもしれませんね」
「じゃあ、いまの安達さんは、表の世界とは無関係に進行しているわけだ」
「そうなります。もちろん、ふたたびこちら側の世界にやってくれば、表の世界の記憶と、裏の世界の記憶が同期します。記憶が混ざり合っていくんです」
「じゃあ、仁科さんの再現って……」
「そうです。表の世界、つまり現実世界にも、彼は存在できます。そのためには、社会全体が、彼の存在を容認することが必要です。あらゆる人に毒を摂取させ、ネットワークを作っていけば、どんな人でも存在させるように思わせることが可能です」
「面白いでしょ?」と函南が口を挟んだ。「こんな面白いことが、本当にできるなんてね」
「それは存在しない人を存在させるということ?」と瀧本が口を開く。「単なるバーチャル・リアリティの世界だな」
 函南の表情が止まり、真顔になった。しばらく、誰も動かなかった。美穪子は、時間が止まったのだろうか、と思った。
「瀧本くん、単なる、ってどういうこと?」
「何?」
「あんたは、はじめからそのつもりで、『魚』を安達凛子から奪ったんだろ? 自分の大切な人を、生き返らせるために」
「違う」
「違う? あんたはずっと、伊崎かんなの影を追っていた。彼女を生き返らせることが、あんたの望みだったはずだ」
「それは違う。かんなはもう、死んだ。生き返らせたいなんて思ったことは、ない」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
 美穪子は混乱した。伊崎かんなとは、一体誰なのだろう? そして、函南と名乗るこの男は、瀧本とはどういう関係なのだろうか?
「すべては、美穪子のためだ」
 急に自分の名前が出て来て、美穪子の心臓がどくんと跳ね打った。瀧本はゆっくりと美穪子を振り返る。澄んだ瞳をしていた。まっすぐに自分のほうを、見てくれている。
「僕が死んでも、僕は美穪子の中で生き続ける。永遠に」
「どういう意味?」函南が問いかけた。
「額面通りさ。僕はじきに、死ぬ。たぶん、余命はもう何年もない。まず筋力が低下して、身体の自由がきかなくなる。やがて呼吸も自力ではできなくなって、自分の意思で物事を伝えることができなくなる」
「嘘だろ」
「なんだ、意外と穴だらけなんだな、お前のネットワークとやらは。こっちはもうずいぶん前からわかってたんだ。もう気持ちの整理もついてる」
 美穪子はぼんやりと瀧本が話すのを聞いていた。これは、函南と名乗る男を騙すための演技か何かなのだろうか。瀧本の言うことに、思考がついていかない。
 瀧本は、じきに、死ぬ? まさか、そんなことが……。
 目を見開いて俯いた美穪子に、瀧本が肩に手を置いた。瀧本は何も言わなかった。安心して、という声がどこからともなく聞こえた。瀧本が発した声はないようだが、美穪子は確かにその声を聞いた。
「もう僕らは『ネットワークに繋がっている』わけだから、いつ死んだって構わないんだよな?」
 瀧本がトバと名乗る少年のほうを向いて言った。
「何をもって、『生きている』かとするかに、よります」とトバと名乗る少年が答える。「そこに転がっている仁科さんのように、単なる人形としてなら、可能です。でも、さっきも説明した通り、ここにいる数人分の脳の領域を借りてくるだけではまるで足りません。もっと、もっと、あらゆる人の記憶の領域を使わないと」
「なるほど」と瀧本は納得する。「スペックが足りないわけだ、現状では」
「現状では、そこにいる仁科さん程度の再現が限界でしょうね。もし仮に、川嶋さんだけに認知される存在になる、ということでしたら、また少し話は変わってくるかもしれませんが」
 瀧本が美穪子を振り返る。
 また急に水を向けられ、反応することができない。瀧本の言っている内容がわからない。
 美穪子は手で顏を覆い、頭を抑えて、うずくまった。理解できない。
 瀧本がいずれ死んで、こちらの住人になる。それは、何を意味するのだろう?
 瀧本は、本当に、死ぬのか?
 そして、自分の頭の中で、本当に生き続けるのか?
 生きるとは、そして、死ぬとは、一体なんだろう?
 安達凛子が仁科その人だと死んでいる肉塊のように、瀧本はなってしまうのだろうか?
 それは、瀧本が生きていると、生きている状態だと、本当に言えるのか?
「わからない」うめくように美穪子は言った。「死んでほしくない、先生」
 瀧本は黙り込んでいた。そして、ちらっと、仁科の残骸に目をやった。
「ただのバーチャル・リアリティの世界だったんだな」と瀧本はため息をついた。「いや、バーチャル・リアリティそのものか。頭の中にしか存在しない世界なんだから。でも、それを可能にするのは、人間の脳か。色々な脳と接続することによって、はじめて社会性を得る、と。なるほど、色んな人と接続しないと、そりゃ社会性も何もないよな。色んな人と繋がなければならない、というのは、そういう意味か」
 瀧本の言葉を受けて、美穪子の中で何かが弾けた。瀧本とはじめて会ったときのことを思い出していた。暗い部屋、何もものがない、薄暗い冷たい床。洪水のような情報の海の中で、美穪子は自分と世界を遮断していた。自分の中から生まれてくる情報さえも抑え切ることが出来ず、外部からの刺激を断ち切りたいと思っていた。
 そこに、瀧本があらわれた。瀧本をわたしにすべてを与えてくれた。わたしに人格を与え、人間関係を与えてくれた。瀧本を通じて、世界と通じることができた。それまで世界だと思っていたものは、ただ単に自分のフィルターを通しただけの、自分の心の中にあった鏡像だった。鏡像は見ることはできるが、実体ではない。いや、実体なんてどこにもない。
 世界は、ただそこにあると、感じることが必要なのだ。それまでのわたしは、それが出来なかった。
 瀧本が与えてくれた自分の役割。瀧本の助手。それがわたしの仕事。その仕事を通じて、わたしは世界と繋がり、世界を感じることができた。
 いま瀧本が言っていることは、それに近くはないだろうか? 全然違うかもしれない。でも、きっとそういうことだ。
「安達さん」と美穪子はテーブルの向かいにいる安達凛子に声をかけた。「あなたは、仁科さんと、どうしたいのですか? どうありたいのですか?」
「わかってるでしょう。ここで、先輩と暮らすの」安達凛子はそう言い放った。
「そこに転がっている仁科さんと、ですか?」
「そこにいる男が壊したのよ。人殺しよ」
「私にも、そこにいるのが仁科さんとは思えません。本当に仁科さんだと思いますか?」
「何言ってるの?」
「でも、その感覚は、普通だと思います。誰だって、世界の本当の姿を見ているわけじゃない。みんな、自分の見たいものしか見てないんです。その人の本当の姿なんて、誰にもわからない。見ている人の数だけ、世界は存在するから」
「……」
「私も、昔は、そうでした。暗い部屋の中で、自分ひとりの空間に閉じこもって、外の世界とは全く接触しない生活を送ってきました。世界には、いろんな情報がありすぎるから。いろんなノイズで満たされているから。でも、自分の世界に閉じこもっていたら、ますます世界との実体から乖離していくだけです。現実を受け入れないと。仁科さんは、もうどこにもいません」
 途端に函南が笑い声をあげた。おかしくてたまらない、というふうに、口をおさえ、失笑をこらえているかのような笑い方だった。
「じゃあ、川嶋さんが記憶をあげればいいんだよね。君は、安達さんの知らない仁科君を知ってる。だったら、その記憶をあげちゃえばいいんだよね。そしたら、仁科くんに近づくわけだから」
「それで本当に仁科さんになるの?」と美穪子が尋ねる。
「もちろん、完全には仁科くんにはならない。近づくだけだ。でも、ある地点から、彼は自分で自分の記憶を獲得していく。そうして、彼自身になっていくんだよ」
 安達凛子は美穪子を凝視していた。美穪子はその顏を見て、鳥肌が立った。まるで、猛禽類が獲物を見つけたような目をしていたからだ。
 安達凛子が動き出す。美穪子は金縛りにでもあったように、身動きが取れなくなった。瀧本が美穪子をかばうように立ちふさがるが、安達凛子はそれでも構わずに接近してくる。
「逃がさない」と安達凛子は言った。「あなたたち、全員」
 美穪子は呪いを振り切るようにかぶりを振り、部屋の隅に逃げようとする。美穪子の背後にはトバと名乗る少年と函南がいたが、いつのまにか少し離れたところでこちらを見ている。
「安達さん」と瀧本は言った。だが、そのあとの言葉が続かない。
 美穪子が函南を見ると、何かトバと名乗る少年に耳打ちをしているのが見えた。何を話しているのかはわからなかった。
 瞬間、目の前が暗転した。
 停電したのか、と美穪子は思った。
 目の前に、火花が散った。
 気付くと、自宅のリビングに腰掛けていた。瀧本は居ない。リビングには誰もいなくて、すべてのドアは閉じられていた。水槽もない。海底のように静かで、ひんやりと冷たかった。
「先生?」
 呼びかけるが、何も応答がない。美穪子はゆっくりと立ち上がった。『魚』に噛まれる前の状態に戻ったのか、と思った。床がひんやりと冷たく、そこに床があるという実感がある。
 美穪子は歩き回り、ドアノブに手をやった。閉じられている。いくらドアノブを捻っても、ドアはびくともしなかった。閉じられている。
「先生! 安達さん!」
 力の限り叫んだが、応答はなかった。
 閉じ込められたのだ、と美穪子は思った。


episode6 川嶋美穪子(後編)


   1

 寒い、と美穪子は思った。どんどん室温が下がっているような気がする。背後の水槽には水が溜められているが、魚は一匹もいない。水槽の中を照らす蛍光灯の無機質な光が部屋全体を冷たく照らしていた。
 自分の家にいながら、閉じ込められたなんて。このままどんどん室温が下がって、凍えて死んでしまうのだろうか。温もりが欲しい。瀧本の温もりが欲しい、と思った。
 小一時間ほど経過しただろうか。物音ひとつしなかった。相変わらず部屋の中は寒いが、時が止まっているように何も動きがない。案外、死とはこんな静かなものなのかもしれない。外界からの刺激のない、穏やかな世界。
 不意にドアが開く音がして、玄関のほうに目をやると、トバと名乗る少年が立っていた。彼はパーカのフードを下げて、こちらを見ている。よく見ると、かなり優しい目をしている。見た目は東洋人だが、顔立ちがおそろしく整っているせいで、男性にも女性にも見える。彼は玄関に立ったまま、無表情でこちらを見ている。
「気分はどうですか?」落ち着いた声で彼は言った。不思議なことに、彼がそういう声を出すと、それまで張りつめていた自分の心までゆっくりと落ち着いてくるような心持ちがした。美穪子は軽く頷いた。
 入ってもかまいませんか、と彼は続けて美穪子に尋ねる。もう部屋に入っているようなものではないか、と美穪子は思う。そういえば、そんなやり取りを瀧本がしていたな、と彼女はぼんやり考えた。彼は誰かの部屋に「入室」するたびに、そういうことを訊くのだろうか。
 何が起きたの、と美穪子は尋ねた。記憶が途切れ途切れになっている。思い出すのは、安達凛子の凄まじい表情だ。彼女は鬼にでもなってしまったのだろうか。
「安達凛子さんが暴走しそうだったので、函南が全員の隔離を指示しました。いったん、みんな別々の部屋に隔離しています。僕の許可がなければ、行き来することができない状態になってます。もちろんみんな無事です」
「先生は?」
「瀧本さんも、ここと同じ部屋にいますよ。ただし、あくまでも瀧本さんのパーソナルな空間ですね。いまは繋いでいないので、あちらの情報はこちらには入ってきません」
 トバと名乗る少年は部屋の中を歩いている。この光景だけを見れば、ありふれた日常のような風景だ。
「現実世界でも時間は進行しているの?」と美穪子は尋ねる。
「ええ、もちろんです。美穪子さんは、表の世界では既に就寝されたようですね。こっちには全然情報が入ってきませんが、次に美穪子さんが表の世界で『魚』の毒を摂取すれば、再び表の世界の記憶が流れ込んでくるでしょう。同時にこっちの記憶も表のほうに漏れ出すので、記憶がどんどん混ざっていきますね」
「ここいるあたしとは、全く別の人格、というわけね」
「人格、そう、それが適切な言葉かもしれません。「表」のほうとは、少しずつ性格も変わってきているはずです」
「ただの妄想の人格だから?」
「ただの妄想というわけではないですよ。他の人とも、ネットワークを繋ぐことができるんですから。立派な、美穪子さんの、『もうひとりの人格』です」
 美穪子はため息をついた。
「もういいわ、もう帰りたい。どうすれば帰れるの?」
「帰る? 帰る場所なんてどこにもないですよ。ここがあなたの場所なんですから」
「イヤよ。先生と話したい、先生と一緒にいたい」
「いまは無理です」
「どうして」
「函南と、そう決めたからです」
「どうして二人で勝手に決めるの」
 トバと名乗る少年が少し目を細めて、薄く笑った。まるで駄々をこねる子どもを見るような目で。
「美穪子さん、あなた、面白い人ですね。引っ込み思案のようでいて、自分の主張するべきことはハッキリと主張する。どんな状況におかれても、肝が据わってる」
「答えになってないわ」
「それは、僕らがゲームのルールを決められる立場だからです。安達凛子さんも、瀧本さんも、あなたも、僕らからみればただのプレイヤにすぎません」
 トバと名乗る少年の表情は一貫して変わらないが、どこか不遜な態度に、腹が立った。美穪子はすっと立ち上がった。
「どこへ行くんですか?」トバと名乗る少年が言う。
「決まってるじゃない、探すのよ。魚を」
 美穪子は部屋の中をでたらめに歩き回った。『魚』の毒によってこの不思議な世界に来たのなら、また『魚』の毒によって元の世界に戻ることができるのでは、と思ったのだ。確証があるわけではない。安達凛子は、瀧本クリニックにはじめて来たときに、この不思議な世界についての話をしに来たのだろう。であれば、ここの記憶を元の世界に持ち帰ったということだ。なんらかの方法で、元の世界に戻る方法があるに違いない。
 美穪子があちこち探しまわるのを、トバを少し離れたところから見ていた。彼はこちらに干渉してくることはどうやらできないらしい。
 美穪子はリビングの中をあらかた探すと、自分の部屋に行こうとした。さっきは回らなかったドアノブだが、強い力で回すと、わすかに回転した。美穪子はドアノブを両手で持ち、渾身の力でそれを回す。
 ギイ、という音がしてゆっくりと扉が開いた。中は真っ暗闇だ。リビングの明かりが部屋の中に差し込み、その部分だけ光が入り、カーペットの床が見える。妙に広い部屋で、元々美穪子がいる部屋ではない。
 美穪子はドアを思いっきり開け放った。暗い部屋の中央に、小さな少女がいた。後ろを向いていて、顏はわからない。少女の髪は長く、座っていると髪が床につくほどだった。膝を抱えて座っているのだろうか。腕もこちらからは見えない。
 明かりをつけよう、と美穪子は思った。ドアの横にあるはずのスイッチに手をやるが、そこにスイッチはなかった。ずっと探っていると、スイッチらしきものが手に触れたが、それを押してもなんの反応もない。
 私はあの少女を知っている、と美穪子は思った。顏は見えないが、私にはわかる。あれは、幼い私だ。自分の殻に閉じこもって、表に出てこない私。私の姿は、あの頃からちっとも変わっていない、と美穪子は思った。
 おそるおそる部屋の中に入って行くと、少女がこちらを振り向いた。少女にはまるで表情がなく、美穪子はたじろいだ。私は、こんな顏をしていただろうか。少女は自分には到底見えなかった。かといって、他の誰でもない。これは、誰なのだろう?
 美穪子がさらに一歩を踏み出すと、少女は薄く笑い、そして消えた。少女が消えた場所には、白い魚が、ぐったりと横たわっていた。
「それに触ってはいけません」トバと名乗る少年が背後から声をかけてくる。美穪子はゆっくりと振り向いた。
「どうして?」
「……」トバと名乗る少年は何も言い返さない。
「答えられないんじゃない。安達凛子のゾンビ計画が実行できなくなるから?」
「いえ、そうではありません。あんまり、こちらの世界とあちらの世界を行き来すると、負担が大きくなるからです」
「なんの負担?」
「精神の負担ですよ。ふたつの世界の記憶が混ざって、混沌としてきます。それに、身体にも影響が出る」
「別にかまわないわ。来たくて来たわけじゃないもの」
「じゃあ、もう止めません」
 美穪子は少しトバと名乗る少年の言うことが気にかかったが、構わず、白い魚のもとへと寄った。部屋の中央まで来ると、そこは広い空間だということがわかった。かつて美穪子が閉じこもっていた部屋と似ているが、少し違う。美穪子は深呼吸をして、床に落ちてぐったりとしている魚を拾い上げた。
 魚は濡れているわけではないのに、ぐったりとした身体を持ち上げると、鱗の部分のぬめりが指に絡み付く。魚は軽く身を震わせた。
 噛まれる、と美穪子は思った。ここに来たときと同じように、魚が身を翻して……そして、元の世界に戻れる。
 魚は美穪子にまっすぐその牙を突き立てた。


     2


 すべては夢だったのか、と美穪子は思った。目を開けたが、暗闇の中にいるせいで、何も変化が見られない。そのまま寝てしまおうかとも思ったが、身を起こして、部屋の明かりをつけた。
 目が慣れるのにしばらく時間がかかる。ぼうっと窓の外を眺めていると、次第に頭がクリアになってきた。ここは自分の部屋だ。そして、ここはまぎれもない、現実の世界だ。帰って来たのだ、と美穪子は思った。
 瀧本は隣の部屋で眠っているのだろうか。いまこの部屋を飛び出て隣の部屋に行ったら、会うことができるのだろうか。もしそんなことをしたら、なんと言うだろう。瀧本は向こう側の記憶を持っているのだろうか。持っていなければ、自分が言うことなんて理解してもらえないに違いない。
 そうだ、向こうの記憶を持っていなければ、向こうの記憶を持ってきていなければ、それは「なかったこと」と同じになるんだ。瀧本が自分に対して言ってくれた言葉。瀧本が自分に明かしてくれた秘密。それらも、瀧本が向こうの記憶を持っていなければ、なかったことと同じになるんだ。美穪子は、なんだか、瀧本の秘密を勝手に覗いてしまったような、そんな恥ずかしい気持ちになると同時に、手が届かないぐらい遠い存在になってしまったような気分になった。
 瀧本のところ行くべきか、行かないべきか、迷いながら朝を迎えた。結局ほとんど寝付けなかったが、たとえ眠気がおそってきたとしても美穪子は眠るのを拒否しただろう、と思う。今度眠りについたら、どんな世界に連れていかれるのかわかったものではない。
 朝になると起き出さないわけにはいかず、美穪子は自室を出てリビングに向かう。コーヒーを淹れ、テレビをつけて眠気を取り払ったあと、朝食の支度をする。瀧本はまだ起きてこない。
 美穪子がキッチンで朝食の支度をしていると、江利子が起きてきたのがわかった。江利子の横顔を見た瞬間、自分と、彼女の分の弁当を作っていないことを思い出した。
「ごめん、江利ちゃん、お弁当、作ってないの」
 江利子は眠そうにあくびをかみ殺していたが、美穪子のその言葉を聞くと、少し驚いたような表情で美穪子を見た。
「え、ほんとに?」
「ごめん、うっかりしてて」弁解するように美穪子が言うと、いやそうじゃなくて、と江利子は顏の前で手を振ってみせた。「美穪ちゃんが寝坊するなんて珍しいね。いや、そんなことってあったっけ?」
「いや……」なんと返せばいいのかわからず、曖昧な返事を返すと、いいよもちろん、いつも作ってくれてありがとう、今日はどこかでお弁当でも買ってこうかな、と陽気な調子で江利子は言った。気を遣わせてしまって申し訳ないな、と美穪子は思った。
 江利子はそんな美穪子のことなどをほとんど気にせず、鼻歌まじりでコーヒーを淹れている。瀧本はまだ起きていない。瀧本は朝に弱いが、江利子は朝が一番元気だったな、とかそんな平和なことを考えていると、さっきまで「あちらの世界」でトバと話していたことや、安達凛子と対峙していたことなどがまるで文字通りの「別世界」のように感じられた。
 江利子はコーヒーメーカーに入ったコーヒーを自分のマグカップに注ぎ入れている。彼女は今日も普通に出社して安達凛子と会うのだろうか。安達凛子は今日はどんな顏をして仕事をするのだろう。
 江利子はソファに座ってテレビを眺めながらコーヒーを啜っている。美穪子はベーコンとレタスと卵焼きをはさんだサンドイッチを作っていたのだが、ふと自分の手首に目をやってぎょっとした。左腕の手首のちょうど裏側に、絆創膏が貼ってあったからだ。そんなものを貼った覚えはどこにもない。だが、どことなく手首が痛むような感じはする。
 美穪子はおそるおそる、絆創膏を剥がしてみた。そして、確信した。「魚」に噛まれたあとがくっきりと残っていたからだ。「魚」に噛まれた歯のあとが二つ並んでくっきりと残っている。そして、その周りがまるで「魚」の鱗のように真っ白で、ざらついていた。その部分だけ、自分の皮膚ではないみたいだった。
 とっさに指でこすりつけたが、その白さは全く取れない。こすればこするほど、より白さが際立ち、自分の皮膚の色が取れていくような感じがした。美穪子はすぐに怖くなって、こするのをやめた。
 これを江利子に見られなかっただろうか。ちらっとリビングにいる江利子に目をやったが、気付いた様子はなさそうだ。何かの方法でこれは隠したほうがいいな、と美穪子は思った。
 顏を上げると、瀧本が起き出してきているのが見えた。玄関に行って、新聞を取り、彼もまたコーヒーを淹れにキッチンに入ってくる。おはよう、と彼は美穪子を見ずに挨拶をした。それは普段と全く同じ態度で、美穪子は咄嗟に反応することができなかった。少し遅れておはようございます、と言うと、彼は一瞬引っかかったような顏になったが、コーヒーを淹れたあとリビングに戻って行った。彼はいつも通りなのだが、何かが違う。それは、自分が敏感に反応しているせいだろうか、と美穪子は考えた。
 三人で朝食を取ったが、会話らしい会話はない。もっとも、これはいつものことだ。私たちは、もはや家族だ。たとえ一言も言葉を発しなくても、会話は成立する。瀧本は新聞を四つ折りにして読みながら食べている。江利子はテレビに目をやって、時折、テーブルの上に置いた携帯を手に取る。いつもと全く同じ光景だった。
 江利子はさっさと食事を済ませ、慌ただしく立ち上がった。家を出るのは江利子が一番早い。次に美穪子が階下の病院に行って掃除や書類整理などを行い、最後に瀧本が病院にやってくる。
 ほどなくして、江利子は慌ただしく家を出て行った。瀧本はソファに移動し、コーヒーを飲みながら新聞の続きを読んでいる。テレビもついていたが、おそろしいほどの沈黙があった。
「あ、そういえば」と瀧本が口を開いたので、美穪子は飛び上がらんばかりに驚いたが、もちろんそんなことを表面に出すわけにはいかなかった。もっとも、瀧本は新聞に目を落としたままだった。「昨日の夜は、大丈夫だった?」
 美穪子は激しく混乱した。大丈夫だった? 一体なんのことを指しているのだろうか? 問題は、瀧本があちら側の記憶を持っているのか、ということだった。もし、あちら側の世界の記憶が残っているのだとしたら、そんな暢気なことを言うはずがない。どちらだろうか、と美穪子は身構えた。
 美穪子が黙っているので、瀧本は不思議そうな顏をして美穪子に視線を向けた。美穪子が反射的に手首を隠すと、素早く視線がそれを追いかけた。
「その手首」
「…………」
「見せなさい」
 瀧本が静かに近づいてきて、美穪子の左手首を見た。
「どうしたんだ、この傷。まさか、昨日の?」
 そう言って、自分の手首を見つめる。だが、瀧本の手首には、わずかに丸い傷跡がついているだけで、傷跡と呼べるものはなかった。皮膚の色も、肌色のままだった。
「なんでこんなに白くなってる? 昨日まで何もなかったのに……少し待ってて」
 瀧本は慌ただしく立ち上がると、自室へと消えていった。おそらく、医療用具を取りに行ったのだろう。だが、美穪子は確信した。
 瀧本は、こちらの世界に記憶を持ってきていない。おそらく、昨日の晩、魚に噛まれたあと、少ししてから目覚めたのだろう。そして、美穪子と自分は、「魚」に噛まれたショックで気を失っていた、と判断した。その後、なんらかの処置はしたかもしれないが、結局は眠りについた。
 瀧本が記憶をこちらの世界に持ってきていないということは、瀧本は「魚」を発見しなかったのだ。あちらの世界では。
 「魚」を見つけることができなかったのだろうか? いいや、と美穪子は小さくかぶりを振る。おそらく、安達凛子は「あちらの世界」に行き、そして、戻って来ている。瀧本だけが戻って来れないとは考えにくい。
 瀧本は、あちら側の世界を望んだのだ。
 では、こちら側にいる瀧本とは、一体誰なのだろう?
 美穪子の中で永遠に生き続けると言った瀧本は、こちらの瀧本なのだろうか?
 もちろん、それはそうだろう。瀧本が二人いるわけではない。ふたりとも同じ人間なのだ。
 だが、片や、美穪子に自分の死を宣告し、美穪子の中で永遠に生き続けると宣言したが、片や、そうはなっていない。同じ人間で、ほとんど同じ記憶を共有しているにも関わらず、そこには大きな断絶がある。まるで、境界線のギリギリのところの、こちら側とあちら側に瀧本が存在しているような感じがするのだった。
 そう考えると、自室へと消えていった瀧本が、まるで自分の知らない人になってしまったかのような錯覚に襲われ、美穪子は全身に鳥肌が立つのを感じた。
 あの人は、一体誰なのだろう?


   3


 二日が過ぎた。結局、美穪子は体調を崩し、仕事を休んだ。瀧本に手当てをしてもらってからしばらくするとふたたび傷口が痛みだした。時折、刺すような、鋭利な痛みが襲ってきて、頭の中が痺れたようになる。だが、そのことは瀧本には言わなかった。ただ、だるいからしばらく休ませて欲しい、とだけ告げた。 
 まどろみながら、美穪子は昔のことをぼんやりと思い出していた。リビングには、変わらず「魚」がゆらゆらと泳いでいる。日中、美穪子はヨロヨロとリビングまで歩いて行くと、飽くまで「魚」を見つめ続けた。「魚」は、ただゆらゆらと水槽の底で揺れているばかりだ。
 瀧本は、自分が死んでも、美穪子の中で生き続けると言った。だが、もちろん、死んでしまえば、人はいなくなってしまう。瀧本が生き続けると言ったのは、あくまでも美穪子の心の中での話だ。当たり前だが、瀧本は死ぬということだ。そして、当の瀧本は、美穪子に自分の死を明かしたということ自体を知らない。
 自分は、これからどうすれば良いのだろうか。ふたたび、「魚」の毒を利用して、「向こう側」の世界に行き、そこで瀧本と暮らせばいいのだろうか。その場合、現実世界にあるものすべてを捨てることになる。
 しかし、その場合、現実世界の瀧本は一体どうなるのだろう?
 瀧本が死ぬ瞬間、私は、そばにいてあげることができない……。
 瀧本は……。
 死んでしまうのだから……。
 関係ないことなのかもしれない……。
 美穪子はそういった取り留めのないことを考えながら、再び長い眠りについた。すべてを正直に瀧本に打ち明けることも考えた。だが、どう切り出せばいいのかもわからなかった。
 ときどき、左手首に貼ってある絆創膏を剥がし、傷の状態を確認した。「魚」の牙が刺さった傷はすぐにふさがったが、皮膚が剥がれたような跡があった。白くなっているのは相変わらずだが、少し皮膚が硬くなっているような感じがする。まるで、魚の鱗みたいだ、と美穪子は思った。
 まどろみからふと目覚めたとき、チャイムの音が鳴った。遮光カーテンを閉めているせいで、時間の感覚がない。だがそれも、夢の中で鳴っているのか、現実世界で鳴っているのか、区別がつかない。しばらく待っていると、再度ベルが鳴った。郵便でも届いたのだろうか。ベッドから降りて部屋から出ると、天井がぐるぐる回っているような感じがした。そのまま、壁に手をつきながら玄関に向かう。
 玄関のカギを開け、ドアをゆっくりと開く。目を丸くしてこちらを見ている顔があった。安達凛子だった。てっきり郵便か何かだと思っていた美穪子は言葉を失い、固まってしまった。だが、来訪した安達凛子自身も美穪子が出てくることが意外だったようだ。お互いに沈黙し、一瞬、気まずい時間が流れた。
 いま何時なんだろう、とふと美穪子は気になり、反射的にリビングにある時計を見やった。まだ十二時を回ったばかりだ。先生はいまごろ、お昼休みを取っている頃だろう、とのんきなことを考えた。安達凛子はずっと沈黙したままだったが、やがて口を開いた。
「先生は……」
「先生?」と美穪子は聞き返す。もちろん、先生といえば瀧本だということぐらい、わかっている。
「先生は、いらっしゃいますか?」
「先生は、いまはこちらにはいらっしゃいません」
「瀧本先生に、会わせて」安達凛子は苛立ちを抑えるように、低い声でそう繰り返す。
「ですから、いらっしゃいません、と……」
「いいから!」安達凛子が叫んで、美穪子はびっくりした。身体が強張り、手が震えた。
「あの、私、ちょっといま手が離せなくて、ごめんなさい」美穪子がそう言って扉を閉めようとすると、待って、と安達凛子が大きい声を出したのでびっくりした。他の階にも響き渡るのではないかと思うぐらいの声だった。
「いいの、先生はあとでいいの、そうじゃなくて、先生にお渡ししてたものがあるんです、それを返してもらいたいだけなの」
「ちょっと、困ります、先生もいないのに、そんな」
「大丈夫です、先生にはお渡しするときに、ちょっと預かってもらうだけだから、って言ってあるものなんです。あとで、先生には私からお話しておきますから」
 安達凛子は強引に部屋の中に上がり込んできた。美穪子は止めようとしたが、力が強く、止まらない。安達凛子は履いていたスニーカーを玄関に脱ぎ捨て、部屋の中にどんどん入って来た。美穪子はどうすることもできず、ただあとをついていく。
 安達凛子は『魚』の前で止まった。前に来たことがあるからか、その動きに迷いはなかった。
「ちょっと、安達さん」
 安達凛子の目は『魚』に釘付けになっている。安達凛子は、前回来たときと同様、手にキャリーカートを抱えていた。そこに『魚』を入れて持って帰るつもりなのだろうか。
「ちょっと、安達さん、困ります。先生もいないのに、そんな」
 美穪子も必死で安達凛子を制止する。いま、魚を持っていかれたら。さっき、自分が考えていたことも、永遠に叶わなくなってしまう。瀧本が、遠くに行ってしまう。
「安達さん!」
 安達凛子の耳元で必死で叫ぶ。美穪子のそんな声にはっとしたように、凛子は目を見開き、まっすぐに美穪子のほうを見据えた。瞳孔が開かれ、驚きの表情を浮かべている。
 その目が、「魚」に向き、そして、美穪子の腕へと移った。美穪子は、咄嗟にさっと腕を隠す。だが、凛子にすぐに手首を掴まれてしまった。
「この傷は……、もしかして、噛まれたの。あなたも」
「これは……」
「つまり、そうよね。噛まれたのよね。だって、これ、あたしのものと全く同じだもの。ねえ、そうなのよね」
 安達凛子は左手で、右手の手首に巻かれていた包帯をほどいた。美穪子と同じように、手首には「魚」に噛まれた跡があり、その周りが真っ白に変色していた。
 自分と全く同じだ、と美穪子は思った。自分と同じように、安達凛子の腕は白く変色している。
「確かに、『魚』を使うな、とは言わなかったけれど……」と安達凛子は呟いた。「そうなのね。じゃあ、瀧本先生も、そうなのよね、きっと」
「違うんです。その、なんというか、偶然、はずみで、その」
「別に責めてるわけじゃないわ。別にいいの。もともと、あたしだって似たような立場なんだし。ただ、私は、この『魚』を返してもらいたいだけなの」
 魚を返してしまっても構わないのではないか、と美穪子は一瞬思った。だが、魚を渡したら最後、二度と触れることができないような気もする。せめて、あともう一回だけ。あともう一回だけでいいのだ、魚の毒を体内に取り込められたら……。
 それを安達凛子に提案してみようかと考えた。自分が望んでいるのは、あともう一度「魚」の毒を使って「あちら側」の世界に行くことで、それさえさせて貰えれば、あとはどうなっても構わないと。
 ただ、向こうの世界に行くだけでいい。もうそれだけの覚悟はできている。
「安達さん……」
「え?」
「あ……」
 安達凛子は、自分の願いを聞き入れてくれるだろうか? 第一、「魚」の毒があとどれぐらい持つものなのか、わからない。もしかすると、「魚」の毒があと一回分しかない可能性だってあるのだ。
 だとしたら、答えはひとつだ。渡すわけにはいかない、と美穪子は覚悟を決めた。これは自分のものだ。絶対に、渡すわけにはいかない。
 気付いたら、美穪子は安達凛子を力まかせに両手で突き飛ばしていた。安達凛子は受け身を取らずに、そのままよろめいて、背後の棚にぶつかった。ガラス棚の中には食器があり、扉が開いて皿がこぼれ、派手な音を立てて割れた。安達凛子は呆然とした表情で美穪子を見た。
 一瞬遅れて、自分がいま何をしたのかを理解した。いつもそうだった。行動した直後に、自分のしたことの大きさを自覚するのだ。自分を押さえつけられないのではなく、動かそうという認識を持つ前に身体が動いてしまう。美穪子は泣き叫びたくなった。声を出そう、どんな声でもいいから、声を出そうと思ったが、喉の奥が掠れるばかりで、代わりに涙で視界が滲んだ。凛子の姿も見えなくなる。少し遅れて、雄叫びのような慟哭が喉の奥から漏れてくる。泣いている、自分はいま泣いているのだと思った。子どものように泣き叫びながら、その場にうずくまった。
 火花が散った。頬に鈍い衝撃を感じた。凛子に殴られたのだ、とすぐに気付いた。それで目が醒めたような感じがした。美穪子はすぐに立ち上がり、凛子に向かっていった。人とこんなふうに争うのは初めてのことだった。凛子の服に掴みかかり、めちゃくちゃにしてやろうと思った。凛子も負けじと美穪子の身体に掴みかかってきて、もつれて、組み合ったまま、ふたりとも倒れた。
 もう、どうなったっていい。既にこの世に未練はない。いつ死んだっていい。だって、あたしには何もないから。空っぽだから。空洞だから。昔いたあの部屋の中のように、ひんやりとして、真っ暗で、何もないから。
 自分が欲しいものなんて何もない、ただ、瀧本に生きていて欲しい。願いなんてたったひとつ、それだけしかないのに。
「気は済んだ?」
 気付くと、美穪子は仰向けになっていて、安達凛子が馬乗りになり、美穪子の両手首を手で押さえつけていた。美穪子は汗だくで、安達凛子も肩で息をしている。美穪子は全く身動きが取れない。物理的に押さえつけられているだけでなく、金縛りにあったように身体が強張っている。
「あたしはね、そんなに変なことを要求してるわけじゃないの。ただ、預けたものを返してもらいたいだけ。先に手を出したのはそっちだけど、まあ、それは、いいわ、こっちだって突然押し掛けたわけだし、確かに非常識よね、でもね、こんなに取っ組み合いをする必要は、ない、と思うんだけどな」
「殺して!」
 美穪子は叫んだ。身動きが取れないから、叫ぶしかない。驚く安達凛子を見据え、もう一度、殺して、と叫んだ。安達凛子の目の動きが止まる。
「は?」
「もう殺して。あたしなんか、もう生きてたって何の価値もない。生きていたくないのよ!」
 安達凛子は手首を押さえていた手を離し、平手で思い切り美穪子の頬を打った。破裂音と共に、視界が滲む。一瞬、意識が飛んだかのように、真っ白になった。そのあと、鋭い痛みがやってきたが、さっきのような鈍い痛みではなく、皮膚の表面が瞬間的に焼け付くような感覚で、痛い、と思った。馬鹿じゃないの、と小さな声で安達凛子は言った。
「死んだらね、痛いっていう感じることもできないんだから。死んじゃったらね、何もかもが、消えてなくなっちゃうんだから」
「痛い……」
 確かに痛い。だが、少しだけ気分が落ち着いた気もする。あらゆる痛みが全身を襲ってくる。さっきの取っ組み合いで、身体のところどころが打撲しているようだ。
「痛いっていう感覚はね、生きてる証拠なんだから。痛いっていう感覚がなければ、人は生きていくことができないんだよ」
「『魚』を持っていって、どうするつもりなの?」
 美穪子は冷静さを少し取り戻して、安達凛子に静かにそう問いかけた。答えはもちろんわかっている。「あちらの世界」で美穪子が見た通りだ。安達凛子は、ふたたびあの世界に戻るつもりなのだろう。
 いや、それはおかしい、と美穪子はそこで気付いた。
 安達凛子は、向こうの世界からこちらの世界に戻ってこようとしていなかったはずだ。美穪子にとってはただの人形にしか見えなかったが、仁科さんとあちらの世界で暮らすことを心底から望んでいた。ということは、ここにいる安達凛子は、美穪子が知っている「あちらの世界」の安達凛子とは、記憶が同期していないというだけでなく、そもそも別人だということになる。
 そうか、と美穪子は気付いた。魚の毒を使って、向こうの世界に行った場合、自分の記憶は向こう側に移るが、同時に、現実世界にももう一人の人格を置いてきてしまう。そして、現実のほうに取り残された人格は、何度でも、「向こうの世界」に行こうとして、『魚』の毒を使おうとするだろう。だが、使っても使っても、そのたびに記憶が同期するだけで、現実のほうに人格は取り残される。そして、その取り残された人格は、何度でも、何度でも、魚の毒を使って「向こうの世界」に行こうとするだろう。
 そんなことを続けたら、一体どうなる?
 美穪子は自分の手首が白くなっていることを思った。そして、「向こうの世界」で、トバと名乗る少年が言っていたことを。肉体にかかる負荷が大きすぎる、と彼は言っていた。おそらく、この手首が白く変色していることと無関係ではないだろう。「向こうの世界」と、「こちらの世界」を行き来することで、どんどん身体が浸食されていくのだろうか。
 だが、それでも「向こうの世界」に行きたいという感情が消えなければ、何度でも、何度でも魚の毒を摂取し続けるだろう。その果てには、一体何が待っているのだろうか。
「安達さん、聞いてください。伝えたいことがあります」
「え?」
 安達凛子は驚いた表情をした。
「『あちら側』の世界に行っては、いけません」
「…………」
「その手首の傷。痛むんでしょう? 私だってそうです。身体への負担が大きいんです。何度も行き来したら、どうなるかわかりませんよ」
 安達凛子は肩で息をしながらじっと美穪子の目を見つめている。美穪子を押さえていた手を離して額の汗を拭った。そして、自分の手首を見やり、また視線を美穪子に戻す。
「『向こうの世界』に行ったら戻って来なきゃいいってことじゃないの?」
「いえ、違います。同じことなんです。いまの安達さんが『向こうの世界』に行こうが行くまいが、必ず、こちら側に誰かは取り残されるんです」
「誰か?」
「安達さん自身です。『あちら側に行けなかった安達さん』が残るんですよ。こちらの世界に」
「でも、いまここにいる「私」は行けるわけでしょう?」
「そうです。でも、またこちらにいる安達凛子さんが『魚』の毒を使って向こうに行こうとする。でも、必ず、こちらには残るんです。こちらに残る人が抵抗する限り、それは終わりません」
 安達凛子は顏を歪め、じゃあどうしたらいいのよ、と叫んだ。安達凛子は、あの仁科という男を愛していたのだろうか。安達凛子を見ていると、愛、という感情とは少し違うような気もする。少なくとも、いまの美穪子には、それほどの犠牲を払ってあの仁科という男に会いたいという気持ちは理解できなかった。
 だが、その対象を瀧本に置き換えたら。
 そして今、美穪子が置かれている状況は、安達凛子のそれと何も違わないのだから……。
「とにかく」と安達凛子は言った。「あの『魚』は返してもらいます。ここにある理由がもうないもの」
「あ……」
 待って、と言おうとしたが、声は出なかった。本当は、自分も、向こうに行くことを欲しているのか。
 だが、と思い直した。そうだ、同じなんだ。『魚』の毒で浸食されて死のうが、瀧本が現実世界で死のうが、同じことなんだ、だったら、いまの私が『魚』を使って『向こうの世界』に行ったほうが、よっぽどいい。今の状態のまま、何もできないで先生の死を待つぐらいなら……。
 安達凛子が立ち上がり、背を向けて水槽のほうへ歩いていくのを目で追い、美穪子も立ち上がった。 安達凛子は迷いのない足取りで水槽の前まで歩いていくと、そこで立ち止まった。
 何か言わなければ、と美穪子は思った。声を出そうとするが、掠れるばかりで、声にならない。
 安達凛子はゆっくりと振り返ると、じっと美穪子の目を見た。そして、美穪子の手首に目をやる。次に安達凛子が何を言い出すのか、美穪子はわかったような気がした。
「ねえ、行っちゃおうか、いま、ここで。よくよく考えたら、『魚』を奪い合う必要なんてどこにもないわけよね。お互い、やりたいことはおんなじなんだし」
「『魚』は使っちゃいけないって、さっき……」
「いいじゃない、もう、そんなの。またここで私たちが倒れて、それでまた『魚』の毒に噛まれても。『今』の私たちは救われるわけだから。それで十分じゃない?」
「でも、安達さんは、そんな……」
「何?」
「安達さんは立派な社会人なのに、どうして……」
 安達凛子は口元だけ歪めて、笑った。
「私が立派? そういう風に見える?」
「見えます」
「立派なわけないじゃない。いまやってることって、強盗みたいじゃない?」
「いえ……」
 安達凛子は少し落ち着きを取り戻したようだった。美穪子も急速に心が落ち着いていくのを感じた。先ほどまでの心の高ぶりはどこかへと消えてしまった。
 急に安達凛子が押し黙ってしまい、美穪子は途方に暮れた。じっとその顏を見ていたが、何を考えているのかわからない。
 安達凛子のことはほとんど何も知らないに等しい。こないだクリニックで会ったのが最初だから、ほとんど初対面のようなものだ。だが、私たちには共通の知り合いがいる。仁科さんだ。美穪子は、安達凛子が感じているほどに、仁科さんに親しみを覚えていないし、仁科さんに、特別な感情を抱いたこともない。線が細くて、それでいて尊大な、不思議な人だった。誰からも好かれるような性格ではないだろう。線が細いが故の弱さがどこか透けて見える人だった。
 安達凛子は、あんな彼のどこにそんなに惹かれたのだろう。同じ人間をみても、ここまで違うものだろうか。
「会いたいんですか、そんなに」頭で考えていた言葉が口に出てしまい、美穪子は驚いた。「仁科さんに、会いたいんですか」
「え?」
「そうじゃないんですか。仁科さんに会いたいんじゃないんですか」
「先輩を、知ってるの?」
「知ってますよ、もちろん」
 安達凛子は驚いた顏をした。まさか、知らなかったのだろうか。「どうして。どこで、知り合ったの」
「だって、仁科さん、クリニックに通院してましたから」
「通院してた? 先輩が?」
「……ご存知なかったんですか? もうずいぶん前からですよ。もっとも、そんなにひどい症状ではなかったようですけど」
「……知らなかった。なんでそんなことを言ってくれなかったんだろう、先輩」
「心配をかけないようにと……」
「あなたに何がわかるの」
 子どもみたいだ、と美穪子は思った。誰だって、他人のことを完全に理解することなどできないのだ。自分の思いもよらないような、相手の側面が見えることだってある。そんなのは、当たり前のことではないか。
 同時に、安達凛子のことを見ていると、まるで自分のことを見ているようだ、とも感じた。そうだ、私たちは同じなのだ。大切な人を失った存在、大切な人を失いつつある存在、そんな二人なのだから……。
 もうごちゃごちゃ考えることは辞めよう、と思った。もう一度、向こうの世界に行けばいいのだ。こちら側に誰かが取り残されるとか、そんなことはもうどうだっていい。とにかく、今のこの私が、向こうの世界に行って、そこからすべて考えればいいことなのだ。
「安達さん、行きましょう。『向こうの世界』に。行って、確かめてきましょう。それが一番いいです」
「確かめるって、何を?」
「仁科さんはそこにいます。実際、何がどうあれ、そこに行けば仁科さんはいるんです。行って、確かめてみましょう」
 安達凛子は腕を身体の前で軽く組んで、考える仕草をした。美穪子はそんな安達凛子の手を強引に取った。


   4


 どんな体験も、一度くぐり抜けてしまえば、あとはそれをなぞるだけだから簡単だ。これから何が起こるのかがわかっていれば、怖いことは何も無い。おそるおそる水槽の中に自分の右手を差し入れると、じっと動かなかった『魚』はその身を震わせ、美穪子の手首めがけてピラニアのように噛み付いた。激痛が走り抜けたが、それは掠れていく意識の中の心地いいスパイスのようなものだった。自分の身体を駆け巡る電流にただ身を任せ、これから起こることに備えてじっと目を瞑っていた。
 気付くとうつぶせに倒れていた。そっと目を開け、隣に自分の姿を認める。二度目だと驚きは少ない。すぐに気を取り直し、上体を起こす。
 あたりを見渡して、あることに気が付いた。そばにいるはずの、安達凛子の姿がない。前回、瀧本と一緒に『魚』に噛まれたときには、そばに瀧本がいた。安達凛子が先に『魚』に噛まれたので、当然、先にこちらに来ているものだとばかり思っていたが、どこにも姿が見えない。
 美穪子は立ち上がり、まずは部屋の中を点検した。ここは、自宅のリビングで、細部に至るまで正確に再現されている。とても自分の意識の中とは思えない。
 リビングから繋がるそれぞれの個室のドアもちゃんとあった。美穪子はおそるおそるドアに近づき、そっとドアノブをひねる。何が出てくるかと身構えたが、見慣れた自分の部屋があるだけだった。拍子抜けして、正面の姿見に映る自分の姿を呆然と眺めていた。
 明るいな、と美穪子は思った。『魚』に噛まれる直前の時間、つまり現時刻は昼過ぎで、自分の意識もその時間らしい。窓から見える風景も、現実そのものだった。というより、現実となんら変わらない状態であるため、リビングに倒れている自分の分身がなければ、ここが自分の意識の中だと言われてもわからないだろう。
 安達凛子はどこに行ったのだろう? 美穪子は家の中を隅々まで点検してみたが、どこにも安達凛子の姿はなかった。
 瀧本と一緒の世界を共有していたこと自体が、おかしかったのだろうか。普通は、『接続』しない限り、他人と世界を共有することなんてできないのかもしれない。瀧本と自分は特別だったということだ。美穪子は、少しむずがゆいような気持ちになった。
 外に出てみることにした。自分の意識の中とはいえ、そのままの格好で外に出るのは憚られたので、自室で軽く身だしなみを整えた。
 玄関のドアを開けるのも恐ろしかったが、ここから出ないことには何もはじまらない。美穪子はドアノブを手に取ると、ぐいと捻った。
 だが、ドアはびくともしない。ドアが硬いのではなく、ノブそのものが固定されているように、全く動かないのだ。カギがかかっているという感じではなく、はじめから開けられるようにできていないように、まるで手応えがなかった。
 前回、ここから元の世界に戻ったときのことを思い出した。安達凛子の鬼のような形相。ここから逃がさない、という抑えた声。そうだ、こちら側にいたとき、自分は閉じ込められていたのだ。
 外に出たい。外に出て、瀧本に会いたい。
 この家は確かに自分の居場所だが、ずっとここに居たって、出来ることは限られている。とにかく、この部屋から出なければ。何も変えることはできないだろう。
 美穪子はそう願いながら、硬くなったドアノブを渾身の力でひねり続けた。かすかな手応えがあり、力を入れ続けると、カチャ、という乾いた音がして、ドアノブが開いた。
 ドアの外に広がっていたのはよく見知った風景だった。靴を履き、廊下を歩く。ここが夢だという感覚がなくなってくる。エレベーターホールまで歩いて行き、ボタンを押す。すぐにドアが開いた。
 エレベーターで一階まで降りた。見慣れたビルのエントランスがあり、外に続くガラスのドアが見える。外に出ることはできるのだろうか。美穪子がドアに向かって歩いて行くと、通りを行き交う人がちらりとこちらを見た。みな、美穪子の知らない人たちだ。
 自分の知らない人がいるんだ、と美穪子は驚いた。自分の意識の中なのだから、全員知っているものばかりだ思っていた。
 クリニックはどうなっているのだろう? 美穪子は踵を返し、足早にエレベーターへと戻った。今度は、ドアが開くまでの時間も焦れた。
 エレベーターに乗り込み、三階のボタンを押す。ドアが開くと、いつもの見慣れたクリニックのガラスのドアが見えた。中は温かい光で満ちている。クリニックは開いているのだ。
 美穪子はおそるおそる中を覗き込むように様子を伺った。受付の椅子に座っている女性がいる。美穪子の知らない人だった。パソコンのディスプレイに目を落としていた女性がふと顏を上げ、目が合った。全身から汗が吹き出た。
 女性はにこやかな微笑みをつくると、立ち上がった。ゆっくりとドアに向かってくる。自動ドアが開いた。
「どうしましたか?」
 抑揚を抑えた柔らかい声。きっとそういうふうに訓練しているのだろう。この人は、一体誰なのだろう?
 美穪子は視線を逸らした。瀧本と一緒に暮らすためにこの世界に戻ってきたはずなのに、自分の居場所のはずのクリニックには、自分の知らない女性がいて、どういうことなのか、思考が追いつかなかった。
 吐き気がこみあげてきて、美穪子はその場にうずくまった。女性は黙って、そっと背中を抱きかかえてくれた。
 温かい、と美穪子は思った。人の温もりが、こんなにも温かいだなんて。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。落ち着いてね。とりあえず中に入ってください」
 クライアントだと勘違いしたのか、女性は美穪子にゆっくり話しかけると、肩を抱いて立たせてくれた。自分はここで働いているのだと言い出すことができない。
 その人に手を引かれてクリニックの中へと入る。女性に薦められるがままに、ソファに腰掛けた。
 美穪子の知っているクリニックそのものだった。内装も、すべてが自分の知っている通りだ。だが、受付に座っている人だけが違う。そこにいるべきはずの自分は、そこにはいない。
 受付の女性はソファに座っている美穪子の隣に腰掛けて、じっと顔を伺っている。
 美穪子はその女性の顏をまじまじと見た。
 自分の顏に、
 とてもよく、
 似ていた。
 女性は小さな、
 赤い花の髪飾りをつけていた。
 派手ではないが、
 その髪飾りのアクセントが、
 とても、
 よく似合っている。
 とても柔和な雰囲気を醸し出している。
「あなた、ここははじめてなのね。大丈夫、いま、誰もいないから……。ちょっと、先生をお呼びしてきますね」
 先生、と美穪子は思った。強烈に、先生のことを思った。
「先生!」
 美穪子は叫ぶと、立ち上がり、足早に歩いた。クリニックの奥にいる、先生に会うために。
 引き戸を勢いよく開けると、瀧本が顏を上げた。先生だ、と瞬間的に思った。
「先生! 瀧本先生!」
 美穪子は叫ぶと、瀧本に抱きついた。
「ちょ、ちょっと」
 瀧本は慌てたが、美穪子はおかまいなしにそのまま抱きついていた。
「落ち着いてください」
 瀧本の優しい声が耳元で聞こえる。その声に、いつもの親しみが含まれていないことを美穪子は敏感に感じ取った。おそるおそる、瀧本から身体を離す。
 振り返ると、受付の女性が目を丸くしてこちらを見ている。瀧本を振り返ると、瀧本も同様の表情をしている。
「落ち着いてください。僕は瀧本と言います。君の名前は?」
 精神的な安定を欠いた人間の対応には慣れているという感じで、瀧本はそう言った。
 君の名前は?
 それを聞いた瞬間、美穪子は目の前がくらくらと歪むのを感じた。
 頭が痺れたようにジーンとしていたが、殴られたような感じとは少し違い、目の前の現実が紙に貼られた紙芝居のような、ぺらぺらの質感になった。
 安物のコンピュータ・グラフィックスみたいに、荒々しい造形を見させられている気分になった。
 ここにいるのは瀧本じゃない。
 そう、いま、目の前にいるのは瀧本じゃない。
「えーと……」
 瀧本に似た男は、言葉を探していたが、美穪子は立ち上がり、クリニックを飛び出した。エレベーターではなく、階段を駆け下り、ビルの外に飛び出した。ビルから飛び出て来た美穪子に驚いたように人々がこちらを見たが、そんなことは構わなかった。死ねばいい、と美穪子は思った。みんな、みんな、死んでしまえばいいんだ。死ぬにはどうすればいいのだろう。この世界に来てしまって、死ぬことはできるのだろうか。


   5


 気付くと美穪子は素足だった。すり傷だらけの足で、アスファルトを踏みしめている。
 来たことのない場所だった。辺りはすっかり暗くなっていて、道路の片側にある商店街の明かりだけが煌々と照らされている。駅の改札が見えたが、駅の中は白い光で満たされて、まるで天国のようだった。美穪子が立っている場所は公園の端に位置していた。公園の中心に広場のような空間があり、それを囲むように設置されているベンチに人が座っている。
 自分がいる場所がわからないから、帰ることもできない。電車に乗ろうにも、駅の名前もわからない。お金も持っていないし、おまけに靴もない。
 美穪子は力が抜け、その場に座り込んだ。
「どうしましたか?」
 気付くと、人に囲まれていた。顏を上げると、警察官だということがわかった。しかも、三人もいる。中年の警官二人と、若い警官で、話しかけてきたのは若い警官だということがわかった。
 美穪子は黙って俯いている。
「立てますか?」
 警官はさらに話しかけてくる。若い警官は、かがみ込んで、美穪子を覗き込むようにして話しかけてくる。裸足でこんな場所にいるから、声をかけられたのだろう。
 美穪子は耳を塞ぎ、目を瞑った。どうして、知らない人が話しかけてきたりするのだろう。何かの間違いではないか、ここは自分の意識の中ではないのではないか、と思った。しかし、それならなおさら、瀧本クリニックに自分の居場所がないことの説明がつかなかった。
「ちょっと、いいですか。離れてください。その人、自分の連れなんですよ」
 また別の男性が現れ、警察官に話しかけている。ちょうどライトを背にしているため、顏を見ることができない。警察官は、今度はその男性に向き直り、何か会話を交わしていた。
 しばらく何か会話を交わしていたが、警官たちはその場を離れていった。男性はポケットに手を突っ込んだままこちらを見ている。顏に見覚えがあった。
「ずいぶん遠くまで来たね」
 男性の声を聞いて、その人が函南と呼ばれている人だということがわかった。美穪子はかすかに首を動かすようにして頷く。
「その足でここまで来たんですか。痛かったんじゃない。こっちに来てください。靴ぐらい、なんとかしてあげる」
 函南は駅のほうに向かって歩き出した。歩く先に、ハザードランプがついた赤いスポーツカーが停まっている。函南がそのそばによると、鳥の羽根のように扉が開いた。
「さあ、そんなところに座り込んでてもまた警察が来るだけだよ。おいで。悪いようにはしないから」
 美穪子は少し迷ったが、ヨロヨロと立ち上がった。途端に、素足の傷がジリジリと痛む。函南が立っている場所は五メートルも離れていないはずだが、ものすごく遠い距離に感じられた。
 美穪子は恐る恐るといった感じでツーシーターの車に乗り込む。函南は、それが当然だと言わんばかりに、運転席側に回ると、ドアを閉めた。
 低いエンジン音が響き、車は走り出す。先ほどはあんなに明るく見えた商店街がどこか薄暗く、古びたもののように見える。函南はしばらく両手でハンドルを握ったまま、沈黙していた。
「どこに向かっているんですか?」
 勇気を出して、美穪子は尋ねた。函南は、それでも何も話さない。
「うちの会社。とりあえずそこに行けば、なんとかなるからね」
 車で男性と一緒の車に乗るのは初めてだ、と美穪子は思った。瀧本とだってそんな経験はない。
 函南はなぜか、ずっと沈黙している。



   6



 車はオフィス街のようなところにやってきた。函南は、ビルの一階の駐車スペースに車を停めた。
「着いたよ。降りて」
 美穪子は言われるがまま、車を降りる。函南が壁についているボタンを押すと、車は格納庫に収納されていった。函南についていく形で、無機質な白い廊下を歩いて行く。
 突き当たりにエレベーターがあった。函南はエレベーターに乗り込むと、ポケットからキーを出し、プレートの横にあるカギ穴に差し込む。ゆっくりとエレベーターは動き出す。
「これね、ボクの部屋に通じる特別なカギ」
 函南は自慢のような内容の言葉を無感情に発言した。美穪子はただ、自分がまだ素足なのが気になっていたが、静まり返ったビルには誰もいないので、気にすることをやめてしまった。
 やがてエレベーターのドアが開くと、白いタイルの薄暗い空間が広がっていた。壁には平べったい水槽のようなものがあり、下からエアーポンプか何かで空気が泡になって送られている。
 函南が歩く、コツ、コツ、という音について、自分の間抜けなペタペタという音が響いた。だが、静まり返った廊下にはやはり誰もいない。
 函南は突き当たりのドアを開けた。広い部屋だった。向かい合わせに設置されている大きなソファがあり、壁は一面のガラス張りで夜景が広がっている。そして、向かって左手の壁には、巨大な水槽が設置されていた。水族館で見るような大きさのものだ。
「どうぞ腰掛けて、楽にして。いま、何か飲み物を持ってくるから」
 函南はそう言うと、自分のデスクらしきところの横の小さな冷蔵庫から缶を取り出した。美穪子はじっと水槽を見つめていた。
 水槽には、魚が、いた。
 あの、『白い魚』だ。
 それも一匹じゃない。十匹ではきかないだろう。二十はいるだろうか。たくさんの『魚』が、群れを成して、水槽の中を静かに泳いでいた。
「こっちに来て、座ってください。飲みながら話をしよう」
 函南はデスクの後ろにある入れ物の中から、サンダルを出した。そして、それと缶コーラを持って、美穪子の近くまでやってくる。美穪子は促されるまま、ソファに座った。
「そんなサンダルでも、ないよりマシでしょ。残念、ここにはコーラしかないけど。乾杯」
 函南は美穪子のぶんの缶コーラも開けると、ソファの前のテーブルの上に置いた。美穪子が水槽に向かって視線を注ぎ続けるのに気が付いて、微笑んだ。
「たくさんいるでしょう? 集めるのにずいぶん苦労したんですよ。なんせ、あちらこちらに散らばってるもんだから」
「瀧本先生の魚も、いるの?」
 函南は座っていた足を組んで、ゆっくり首を振った。否定の意味だろうか。
「前に来た時とは、ここは随分変わってしまったみたいだけれど」美穪子は言った。
「ここは、キミの意識の中であると同時に、ボクの意識の中でもある。トバと相談して、世界をぜんぶ繋いでしまったんだ。この世界は繋がったんだよ。もう境目なんてない。全部が繋がって、混じりあってる。それと同時に、この世界はとても安定してきている。ボクたちだけじゃない、あらゆる人たちの意識が流れ込んできて、むしろ均衡を保ってる。はじめから、こうするべきだったんだ。もう仁科くんや安達さんがただ自分の殻の中で妄想していただけの世界ではなくなってしまった。ここには新しい社会が生まれたんだ」
「どうやってそれをやったの? あの『魚』は、私たちが持っていたはずだわ」
「『魚』……。ボクはオフィーリアって呼んでいたのだけれどね。あれは、君たちが持っていた一匹だけじゃない、他にもたくさんいたんだ。いろんな人に実験台になってもらった」
「実験台って……」
「厳密にいうと、ここはボクの意識の中だよ。いまここにいる空間はね。現実世界とあまり変わらないだろう? ボクは事業を起こして、会社を作った。いまいるこの空間は、ボクが現実世界で獲得したものを、意識の中に再現しただけだ。川嶋さん、キミが乗って来たあのスポーツカーもね、ちゃんと元の世界にあるものだ。乗り心地も悪くなかっただろう?」
「…………」
「あの魚、『オフィーリア』は、古代の魚だ。強烈な幻覚をもたらす神経毒を持っていて、知性ある生物がそれを摂取すると、脳の中に新しい世界の幻覚を生み出す。中東の科学者たちがそれを極秘に研究し、何世代にもわたって交配を繰り返し、改良を重ねてきたんだ。ボクはその話を聞きつけて、それを買い取った。五十匹ね。もちろん、はじめは半信半疑だったけれど、この作用は本物だと実感した。『オフィーリア』には、現代科学ではまだ解明し切れていない、未知の幻覚作用がある」
 函南は組んでいた足を組み替えた。高級そうな革靴が一瞬だけ、月明かりに反射して鈍く光った。
「『オフィーリア』がなぜ、そんな神経毒を持つに至ったのか。それは諸説ある。外敵に幻覚を見させ、自分たちの身を守るためなのか。色々な話を聞いたよ。でも誰も理由なんてわからないんだ。だいたい、進化というのは、ボクらは『自然の選択だ』とか、『適者生存だ』という風に解釈しているけれど、実際にはそんなに単純なものじゃない。たまたま、そういう性質をもつ生き物が生まれて、その能力が残った。それだけだ。
『オフィーリア』は、哲学的な問いをボクらにもたらした。『オフィーリア』の幻覚作用で、ボクらの意識は分断される。でも、ここが『本当の世界』ではないと、どうやって証明できるだろう?
 だいたい、脳だって頭蓋骨の中の暗闇の中にいて、水の中に浮いているただの神経ニューロンの塊にすぎない。自分の脳を直接見たことのある人間はいないし、いたとしてもその中で何が起きているのかなんてわかりゃしない。現実世界そのものが、幻覚みたいなものなんじゃないか。目や耳、神経細胞がなければ、ボクらは世界を認識することすらできない。そんな不確かな『現実』が、いったいどれほどの価値のあるものなのか?」
 函南は腕を身体の前に伸ばし、身体全体をストレッチした。
「これがあなたのやりたかったことなの?」
「どうだろう……。もう飽きちゃった、っていうのが正直なところかな。これからどんどん、あらゆる人がこの世界に入ってくるだろう。人が増えれば、ルールも増える。結果、世界は均衡し、安定してくる。もう既に、この有様だからね。もうゲームマスターを気取ることもできないよ。ボクができるのはせいぜい、意識を分断したり繋げたりすることぐらいだから」
「あのトバって人を使って?」
「そう、あの少年を使って。彼が何者なのかは、ボクもよくわかっていない。ボクが最初にこの世界に来た時から、ここにいたんだ。ボクは他のあらゆる人がここに来られるようにと彼と約束した。その代わり、意識を繋ぐタイミングはボクに任せるから、と。実際、あの魚を五十匹も手に入れて、それを実験に使える人間なんてそうはいない。そういう意味では、ボクは適任だったのかもしれない。
 現実世界では、ボクはそんな経験ばかりしている。どんなに革新的なものを作っても、やがてそれが当たり前になっていき、真新しさは失われていく。人がたくさんいればいるほど、確かな秩序が必要とされる。それが当たり前になったとたん、面白さはなくなっていくんだ」
 美穪子は窓の外に目をやった。現実世界と変わらない夜景がそこにある。自分の意識の中にいれば、自分の思い通りになると思っていた。でも、ここでは、そんなに自分の思い通りになるわけでもない。確かな秩序がここにあり、他者がいる以上、自分勝手に振る舞うのは限度があるだろう。
 確かに、ここはもうひとつの『現実』なのかもしれない。
 不意に瀧本の姿が蘇った。だとすれば、あの瀧本は一体何なのか。
「……クリニックに、瀧本先生によく似た人がいたのだけれど」
「あれは、瀧本だよ」
 こともなげに函南は言った。ごく自然に、何の違和感もなく。
「え?」
「あれは、瀧本だ。キミのほうがよく知ってるんじゃないか?」
「でも、知らない女の人がいて……」
「あれは、瀧本が昔、憧れていた女性。ボクも会ったことはないんだけどね。キミによく似てただろ?」
「そんなことない」
「いや、キミによく似ている。キミはね、あの女性の、代替だったんだよ」
「……」
「あの女性の代わりなんだ。瀧本は、キミを見た瞬間から、頭の中に、あの女性がいることにしていたんだ。キミという人格を見ることをせずにね」
「嘘よ……だって、先生は、私のために生きるって、おっしゃったもの」
「確かにね。でも、それは口先だけだったね。ボクの予想のほうが正しかったわけだ。自分にとって、本当に必要なものが何か、わかったんだろうね。キミと暮らした日々は、あいつにとっては、ただの代替物だったんだ。本当は、キミと暮らしたいわけじゃなかった。理想の女性に似た人なら、誰でもよかったんだ」
「嘘よ! そんなことって、あるわけが……」
「平気だよ。キミも、自分にとって、大事な人と暮らすことができるんだよ、この世界では。ただそういう風に念じればいい。瀧本と暮らすことをキミが望むなら、瀧本を作り出すことができる。ただし、本物の瀧本はそこにはいないけれどね」
「あなたは……おかしい。狂ってる」
「ボクはね、何もキミをいじめようとしているわけじゃないよ。そこはわかって欲しいな。むしろ、この世界に招待したわけだから、感謝してもらいたいぐらいなんだけれどね。あの『魚』は、とても貴重なものだから、ボク一人で独占してもよかったんだよ。でも、それじゃあまりにも面白くないから、色んな人に開放して、みんながそれぞれの妄想世界を広げたら面白いんじゃないかと考えた。そして、他人の妄想と妄想が繋がったら、どうなるんだろうなって。いま、それが現実になりつつあるじゃないか。ボクは、この先、この世界がどうなっていくか見たいんだよ」
「あたし、先生のところに行ってくるわ」
「行ってどうなる? もう、キミは一度彼に会ってるんだろ? また同じことになるだけじゃないのか? 早く、キミも自分の世界を作ったほうがいい。瀧本のところに、仮住まいしているんじゃなくて」
「あそこが、私の本当の家なのよ」
「瀧本は、そう言ったかい?」
 目の前がぐらついた。何も考えられなくなった。
「自分の居場所は、人から与えられるものじゃない。自分で作っていくものだ。それに気付く、いい機会じゃないか。その様子じゃ、瀧本は、キミの顏さえ覚えていなかったんだろ? 完全に上書きされてしまったんだね、キミという存在は。いまキミが行っても、瀧本にそのスペースは残されていないよ。キミは、もともと、瀧本にとっては伊崎かんなという女性の代替物で、瀧本はこの世界で、本物を手に入れてしまった。キミが入る余地はどこにもない」
 目の前が暗くなり、美穪子はそのまま気を失ってしまった。


   7


 気を失う直前、自分の意識の中でも気を失うことなんてあるのだろうか、とぼんやり考えた。ここでは、自分の望む全てが手に入る。誰もが、自分の好きなように暮らしているのだろう。そんな世界においてさえ、不自由な思いをしている私は、一体なんなのだろう?
 瀧本はこの世界で、望むものを手に入れた。だからこそ、元の世界には戻ろうとしなかった。安達凛子も同様だ。私は、自分で望んでこの世界にまた戻って来たはずなのに、こんなに苦しい思いを抱えている。自分の望むままに生きる、ということができない。
 私の望みは、瀧本が幸せに暮らすことだと、ずっと思っていた。だが、それは間違っていた。瀧本と、私が、そこにいなければ意味がない、ということに、はじめて気が付いたのだ。
 瀧本が幸せであっても、そこに私がいなければ、私は幸せじゃない。
 単なる、エゴなのかもしれない。
 瀧本と一緒にいた、あの伊崎かんなという女性に対して、嫉妬の感情は不思議と沸いてこなかった。それは、嫉妬ではなく、完全な絶望だった。瀧本は、私ではなく、私の背後にいる、伊崎かんなをずっと見ていたのだ。もしかすると、はじめてあの暗い部屋で、瀧本と会った時から。そのときから、瀧本が語りかけていた言葉は、すべて、私ではなく、伊崎かんなに向けられていたものだったのだ。
 あまりにも深い絶望に浸されると、逆に暗さではなく、光に包まれているような明るさを感じた。どこまでも広がる、真っ白な床。横には真っ白な壁。ここは、空白だ。何もない。瀧本との思い出も、自分の人生も何もない、文字通りの白さ。
 私のこれまでの人生は、私の人生ではなかった。
 私はいま、生まれ変わったのだ。
 ゆっくりと目を開けると、さっきまで座っていたソファに横になっていることに気が付いた。視線を横にやると、函南が窓際に立って、夜景を眺めている。どれぐらいの時間が経ったのだろうか。
「目が覚めたかい?」函南がこちらを振り返りながらそう言う。「言うまでもないことだけれど、ここでは睡眠は取る必要がない。ここには昼も夜もない。僕は自分の気分で、このビルの周囲を夜にしているけれどね」
 美穪子はソファに座り直し、自分の手首を見た。『魚』に噛まれて変色していたはずの手首は、すっかり元通りになっていた。あるいは、元の世界ではそのままか、もっと悪化しているのかもしれない。
 少し意識を失っていたせいか、少し頭の中がクリアになっていた。意識を失う直前に考えていたことの思考の断片が、かすかに残っている。
 瀧本は、私を捨てて、新しい世界を選択したのだ。
 ふと、仁科の笑っている顏が思い浮かんだ。
 安達凛子が「作り出した」、仁科のことも。
 現実世界で知っている仁科は、この函南という男が作り出した幻想に生きる仁科だった。そして、『この世界』で知っている仁科は、安達凛子の作り出した、これもまた幻想の仁科。
 仁科は、この世界に存在しているのだろうか。
 安達凛子が作り出した仁科は、ただの幻影にすぎなかった。まるでホラー映画の人形のように不完全なものでしかなかった。
 あらゆる意識が繋がったいまの状態なら、仁科は普通の人と同じように振る舞えているのだろうか。
 美穪子は椅子に座り直し、函南をじっと凝視した。函南は、眼前の夜景をただじっと見下ろしている。自分はあくまでも傍観者だ、と言っているように美穪子には見えた。
「誰かきたな」
 函南が呟いた。美穪子は耳をすませる。特に何かが迫っているような気配は感じない。
「二人か。このビルに入って来ている」
 函南はテーブルの上のリモコンを手に取り、スイッチを入れた。水槽の反対の壁に設置されたディスプレィにビルの中の様子が映し出された。監視カメラの映像のようだ。美穪子が先ほどまで通って来た通路が鮮明な映像で映し出されている。
「おや、誰かと思えば。安達さんと……仁科くんじゃないか」
 美穪子はディスプレィを凝視した。確かに、安達凛子と、仁科だった。安達凛子が先頭に立って、そのすぐ後ろを仁科がついてきている。
「どうして入って来れるの?」
 美穪子が尋ねると、「カードキーを持ってる」と函南は興味がなさそうに言った。安達凛子の手をよく見ると、ネックストラップが握られている。仁科がカンナミコーポレーションに勤めていたときのカードキーだろうか。
 やがて安達凛子は、いま自分たちがいる部屋の前までやってきた。
「入っていいですよ」
 函南は大きな声を出す。扉が開いた。
「こんばんは」
 函南はのんびりした声を出す。安達凛子は最初に会ったときのような黒いシックな服装をしていて、すぐ後ろに仁科が黙って立っている。仁科の表情はほとんど読み取れなかったが、前に見たときのような人形のような感じではなくなっていた。
 安達凛子は扉を開けるなり、鬼のような形相で函南を睨みつけた。
「あなたが、殺したのね」
 開口一番、安達凛子がくぐもった声で言った。
「誰を?」
「先輩を……。仁科さんを」
「いきなりすごいことを言いますね。仁科くんを殺した? ボクが? どうして?」
「先輩の中に、あなたの記憶も流れ込んできたの。あなたが、『魚』を使って、先輩を操作して、殺した。自殺に見せかけたんでしょう?」
「死んだのは、あくまでも仁科くんの意思ですよ。ボクは、あくまでその手助けをしてあげただけ」
「それを、殺したっていうのよ!」
「仁科くん、キミはどう思う?」
「俺は……」
「ボクのおかげで、キミはこの世界に来ることができた。キミは、一生、うだつのあがらないただの平社員のままでもよかったんだよ。キミは、自分の意思で、現実の世界に見切りをつけてこの世界に来た。違うかい?」
「先輩……」
「安達さん、この世界で話す限り、もうそんなことは瑣末なことなんだよ。どうでもいいじゃないか、別の世界の話なんて。どうせボクらの、このボクらの意識は、元の世界には戻りようがないんだ。この世界でどう生きていくかを考えたほうが、建設的なんじゃないの?」
「何が『こちらの世界』よ。こんなの、ただのまやかしじゃない。現実のほうの私たちの身体と脳があって、はじめて機能するものだわ。こちらの世界だけで成立するものじゃないわ」
「そうかな? ここの空間の中で、お互いに会話をすることができる。この世界を感じることができる。仮に、この世界のすべてがハリボテだって構わないじゃないか。それを、安達凛子さん、あなたと、仁科くんが見せてくれるんじゃないかと思ってさ。ゼロから人格を作り上げると一体何が起こるのか? それをボクに見せてくれよ。現実世界みたいにリアルな世界を、もともとボクたちは求めてない、ってことを、見せてくれよ」
「僕たちって?」
「みんなだよ。世界中に生きてる、人類。誰も、現実の複雑な世界なんて求めちゃいないんだ。ボクは、自分のサービスをみんなに提供してそれを知ったよ。どんなにテクノロジが進歩したって、最終的にみんなが求めているものはひとつしかない。何かわかるかい? 他者との会話だ。他人から認識され、他者から認められ、他者に自分の意思を伝えること。どんなに進歩したテクノロジも、結局は他人とのメッセージのやり取りに使われることになる。人間の欲求は、最終的にはそれだけしかない。それ以外の欲求は、結局のところ、そこに繋がるまでの手段、プロセスにすぎないんだ」
 安達凛子は黙って函南の言うことを聞いている。
 仁科は、安達凛子の影に隠れるようにして、じっと函南の言うことを聞いていた。表情は弛緩していて、聞いているかどうかもわからない。彼は本当に生きているのだろうか、と美穪子は考えた。
「聞きたいのは、そんなことじゃないの。あたしはただ、真実を確かめたいだけ。あなたは、何も知らない先輩に『魚』を噛ませた。『向こうの世界』で、先輩を洗脳した。あなたが殺したのよ」
「非論理的だね。もちろん証拠もない。現に、ボクは警察から事情聴取すら受けていないよ。すべてが仁科くんが勝手にやったことで、ボクはなんにも関与しちゃいない」
「シラを切るつもりなの? このまま警察に行って、ありのままを話すわよ」
「警察に行って、どういう話をするつもり? 噛まれたら幽体離脱する魚がいて、それを使ってカンナミコーポレーションの社長が社員を殺害したとでも言うつもりかな? いいよ、やってごらん。最終的に逮捕されるのがどっちか試してみよう。キミが精神病院に入れられるほうが先かもしれないな。そもそも、どうやって元の世界に帰るつもりなのか、わからないけれど」
「何が目的なの?」
「目的なんかないよ。ボクはただ、遊びたいだけ。ただ、遊ぶのはボクじゃない。世界の普通の人たち、この新しい世界のオモチャを手に入れたら何が起こるのか。それが知りたいだけ。
 案外、この世界は安定して、うまくやっていくと思わない? どんなゲームでも、そのゲームをより面白くするため、勝手にみんながルールを作っていくものだよね。この世界でも同じようなことが起こるのか、それがただ知りたいだけなんだ。
 仁科くん、どうだい?」
 仁科は黙ったまま、答えない。
「キミは優秀なエンジニアだったよ。ただ、とても生きづらそうに見えた。自分の感情に素直に、正直に生きられれば、もっと人生楽しくなるのにな、そう思ったよ。いや、本当に、心からそう思うね。だから、キミは現実世界よりもこっちの世界のほうが気に入るんじゃないかと思ったよ。本当に、ただそれだけの理由。それ以外にはない。
 キミが『魚』を使ってこっちの世界に来た時、よく話し相手をしてあげたよね。覚えているかい? キミが、エイジという少年に向かって、べらべらと話したこと。あれは、なかなか興味深い体験だったな。人間という生き物の本質を知ることができたよ。
 言っておくけど、ボクは全然、怒っちゃいない。キミという人間に、失望もしていない。ただ、興味深いなと思ったんだ。そして、こいつなら、きっとこの世界に馴染むんじゃないか、って思ったんだ。
 ところが、キミはこちらの意識を世界に繋ぐことを嫌がったよね。キミは、この世界で新しいキミになることもできたんだ。ところが、それをすることなく、自分から命を断ってしまった。
 キミに失望する点があるとすればやっぱりそこだろうね。全然、面白くない。キミの内側を、エイジという少年にぶちまけたのは面白かったよ。でも、そこで止まっちゃ、面白くないじゃないか。こちらの世界の意識が繋がったいま、あらゆるキミの情報がこの世界に集まっているけれど、ぜんぜんキミという人格を構築できてない。キミという情報の大部分は失われてしまった。残念なことにね。
 あとは安達さん、キミが好きにしたらいいよ。念願の先輩がキミの好きにできるんだから、こんなに嬉しいことはないだろ? キミの理想の先輩と、仲良く暮らしたらいい」
 函南はそう言うと、ドアのほうへ向かって歩いていった。
「どこに行くつもりなの?」
 安達凛子が叫ぶ。函南は、軽く手をあげると、ドアを開け、外に出ていった。


   8


 光の中へ放り出された。急に視界が切り替わって、美穪子はめまいがした。テレビのチャンネルが違う番組に切り替わったみたいに、急に場所が切り替わった。光と音の洪水に飲み込まれそうになる。
 恐怖で声も出ない。美穪子はよろめき、足元にしゃがみこんでしまった。
 人々の話し声。歩く音。車の走る音。ものとものがぶつかる音。美穪子はしゃがみこみながら、目を閉じ、耳を塞ぎながら、その光と音の洪水にじっと耐えていた。
 どれぐらい時間が経っただろうか。だんだん、耳が慣れてくる。美穪子は、そっと、目を開けた。アスファルトの地面が見え、さまざまな人の足が道路を行き交っている。さまざまな足は、美穪子を避けるようにして行き交っている。道路の真ん中にしゃがみこんでいるのだ、と美穪子は思った。
 恐る恐る立ち上がる。周りはすべて人で埋め尽くされていた。見渡す限りの人間。みんな、それぞれがそれぞれの方向を見て、歩いて行く。美穪子の周りだけ人だかりがなく、ぽっかりと円のような空間が空いている。
 美穪子は、人のいないところに行こう、と思った。美穪子が歩き出すと、美穪子にぶつかってくる人も増えたが、少しずつ、人の少ないほうへと進んでいく。前に進んでいるのかどうかもわからないが、とにかく必死で足を動かしていると、不意に人の波が途切れた。
 公園のようなところに来たようだった。真夏のような強い日差しだが、不思議と暑くはない。美穪子は自分の身体を確認した。ちゃんと靴を履いていて、水色のワンピースを着ていた。気付くと、手にはハンドバッグを持っている。中身を確認すると、日焼け止めのクリームとペットボトルのお茶、それにサンドイッチが入っていた。
 記憶が途切れているのだろうか、と美穪子は思った。ここは一体どこだろう。普通ならパニックになるような状況だが、不思議と心が落ち着いてきた。
 私は世界の中に生きているのだ、と思った。
 私は世界の中に生きて、世界に関与しているが、世界は私に無関心で、私は、それに対して心地よさを感じている。自然と笑みがこぼれて、美穪子は静かに笑った。笑顔をつくると、それだけで気分がよくなり、少し声をあげて笑った。
 世界は、こんなにも愉快なんだ。
「何か良いことでもありましたか?」
 ベンチに腰掛けて、自分が持っていたペットボトルのお茶を飲んでいるとき、声をかけられたことに気が付いた。ふと横を見ると、一人の少年がいつのまにか座り、静かな笑みをたたえてこちらを見ている。
「すごくリラックスしてますね」
「あなたは……」
 トバと名乗る少年だ、と気付いた。明るいところにいる彼を見ると、まるで別人のように見える。
「悪くないでしょう? こういう世界も」
「ここはどこなの?」
「美穪子さんの意識の中ともいえるし、他の人の意識の中とも言えます。もう世界は繋がったんです。どこまでが誰の意識かはわからないし、わかる必要もない。ただ、美穪子さんはここにいて、僕と会話している。それだけが事実です」
「あなたは、函南さんみたいに、攻撃的じゃないのね」
 美穪子は素直に感想を述べた。トバと名乗る少年は薄く笑う。
「僕が何者か、気にならないんですか?」
「ええ、もうなんだか、どうでも良いの」
「そうですか、それなら良いんですが」
 しばらく沈黙。その間も、ひっきりなしに公園の中を人が行き過ぎていく。
「僕は、あなたたちのよく知ってる、『魚』そのものです」
「え?」
「僕とあなたたち人類は、共生関係にあります。僕は、自分の神経毒であなたたちに幻覚を見せる。そのかわり、そのときに発生するエネルギィを、僕らは摂取して生きています。あなたたちが夢を見るときに、ほんのちょっとだけエネルギィを貰って、それで生きてるんです。シンプルでしょ?」
「ええ、シンプルだわ」
「もう、元の世界に戻ろうとしないんですね」
「ええ、そのつもり」
「どうするつもりです?」
「どうって?」
「これから、あなたはどうするんです? そのままの意味です」
「どうでも良いじゃない、そんなこと。この世界にこうやってシンプルにいることができるんでしょう? それで十分だわ」
「ええ、十分ですね」
 トバと名乗る少年も、隣に座ったまま、じっと公園の景色を眺めている。それは、とてつもなく平和な光景に思えた。
「それで、あなたはどうするの?」
「僕ですか?」
「あなたの目的がなんなのか、私にはさっぱりわからないけれど」
「そうですね、僕の目的は、概ね達成されましたよ。函南さんのおかげでね」
「函南さんが?」
「僕たちの目的は、できるだけ多くの人類に『夢』を見てもらうこと。そうすることで、僕たちはより多くのエネルギィを得られますからね。函南さんは、実にいろんな方法で、僕たちを世界にバラ撒いてくれました。彼ほどの財力がないとできないことだし、そうですね、確実に自分を破滅させる覚悟がないとできないでしょうね。でも、もうこれだけ『夢』が拡散しているのだから、かなり安定してきています。僕たちも、この『夢』の中で、安定して暮らしていこうと思っています」
「あなたは『魚』なの? どうして私たちと会話ができるの?」
「それは、あなたの記憶を借りているからですよ。あなたから得た記憶を使って、僕らは会話しているわけです。僕らが言語を話しているわけではありません。僕らは、幻影、灯籠のようなものなんです。外国にいる僕たちは、外国語で会話をしていますよ。言ったでしょう、僕らは共生関係にある、って」
「大変なのね、あなたも」
 美穪子は軽く伸びをした。
「どこへ行くんですか?」
 トバと名乗る少年が美穪子に問いかける。「どこでもいいじゃない。少し歩きたくなったの」
 公園を出て、歩き出す。ここははじめて来る場所だが、足取りはしっかりしている。今更だが、ここが夢の中だということが信じられなかった。


    9


 どれぐらい歩いただろうか。はじめて来る場所なのに、向かうべき場所がはっきりとイメージできている。公園を抜けると住宅街があり、落ち着いた町並みを美穪子は通り抜けた。遠くにビル群が見える。
 だんだん日が傾いていき、黄昏時がやってくる。空を見上げると、一番星が見えた。夢の中でも、一日は現実世界と同じように過ぎていくのだろうか。
 美穪子はただひたすらに足を動かす。ビル群を目指して歩いていると、次第に街中に接近していき、美穪子は繁華街に入った。
 だんだんと勝手のわかる道がわかってくる。ここに来るのははじめてのはずだが、不思議と自分の向かうべき場所はハッキリしている。
 美穪子はとあるビルの前で足を止めた。間違うはずがない。それは、瀧本のクリニックが入っている、自分たちのビルだった。
 美穪子は建物の中に入り、エレベーターを呼び出すボタンに手をかけた。手が震えているのがわかった。
 エレベーターの中に乗り込む。2のボタンを押す。扉は閉まり、ゆっくりとエレベーターは動き出した。
 目を塞いで、
 その場にしゃがみ込みたくなった。
 怖い。
 恐ろしい。
 できることなら、
 見たくない。
 見ることがつらい。
 でも、
 引き返すわけにはいかない。
 どうしてもここで向かわなければ、
 きっと、
 これから先、
 ずっと、
 後悔するだろう。
 エレベーターはあっという間に二階に着き、扉が開いた。美穪子の知っている、クリニックのガラス戸がそこにある。
 美穪子はドアに近づき、思い切ってドアを開け放った。
「あら」
 ソファに座っていた女性がこちらに気が付く。目が合った。さっきと同じ状況だ、と美穪子は思った。部屋にはその女性しかおらず、他には誰もいない。
「あなた、また、来たのね」
「だって、ここは……」
 美穪子は言葉を飲み込んだ。カラカラに口が乾いて、何も言葉が出てこない。
「なに?」
 女性は、珍しい花でも見るような目つきでこちらを見ている。この女はすべてをわかっているのだ、と美穪子は思った。この女は、すべてをわかったうえで、わからないふりをしている。
 自分が伊崎かんなという女性であること。
 私が川嶋美穪子という人間であるということ。
 自分が、川嶋美穪子という女性よりも、先に、瀧本達郎と一緒にいたのだということ。
 薄く口角を持ち上げるような冷たい笑みに、美穪子はそのような感情を読み取った。あるいは、自分の勘違いかもしれない。でも、それでもいい。
 自分は、この女性から、大切なものを奪い取るためにここまで来たのだ。
「だってここは……私の場所だもの」
「場所?」
「そう、私の場所。私が居るべき場所。あなたじゃなくてね、伊崎かんなさん」
 名前を呼ばれて、女性は驚きで、少し目を見開いた。「前に、どこかで……会ったことがあったかしら?」
「いいえ、はじめてだと思うわ。でもね、私たちは初めてじゃないの。だって、あなたの中には、『私』が混じっているから。『私の一部』が、あなたを構成しているから」
「ちょっと待って、ごめんね。言っている意味がわからないの。いま先生をお呼び……」
「やめて」
 冷静に美穪子は言った。本当は緊張で、今にも倒れそうだった。めまいがする。心臓が今にも口から飛び出そうだった。
「かんなさん」
「……どうして、私の名を?」
「言ったでしょう。あなたは私なのよ。そして、私はあなたなの。少なくとも、この世界においては、瀧本先生が作ったこの世界においては、私とあなたはひとつなのよ」
 女性はソファから立ち上がったが、どこに行くでもなく、腕を軽く組んで美穪子を睨みつけていた。それまで自分に似ていると感じた女性は、怒ったような顏になると、自分にまるで似ていない、と思った。
「私はあなたのことを知らないわ」と女性は言う。「あなたは、瀧本先生とは、どういう関係なの?」
「私は……」
 美穪子は言い淀んだ。自分と瀧本の関係。そんなことは、今まで考えたこともなかった。
 自分は瀧本のそばにいて、それは疑いのない事実だとずっと思っていたからだ。それが二人の関係性だと思っていた。
 だが、ひとたび他者が介在すると、互いの関係について、客観的に説明する必要があることに気が付いた。
「私は……。瀧本の先生の、家族」
「そう、家族なの。でもね、私も瀧本先生の家族なのよ。瀧本先生とはもう何年も前に結婚して、ずっと一緒に暮らしているもの」
「それはあなたじゃない! それは、私なのよ」美穪子は叫ぶ。
「でも、自分と瀧本先生の関係を、あなたは言葉で説明できないのよね」
「それは……。その必要が、今までなかったから」
「でも、言葉になっていないじゃない。言葉になっていないものは、存在していないのと同じだわ」
「じゃあ、はっきりと先生に訊くわ。あちらの部屋にいらっしゃるのでしょう?」
 美穪子は部屋の奥に目をやった。女性はじっと美穪子を見据えている。
 美穪子は女性に近づくと、髪かざりに手をやった。赤い花の髪かざりだった。「綺麗な花ですね」
 女性は黙っている。
「確かに、私はあなたの映し鏡のようなものかもしれない。でも、私はそれでも良いの。瀧本先生と居られるなら」
 女性の髪かざりを手に取ると、瀧本の小さな頃の映像が頭の中に浮かんだ。
 思い出したわけではない。
 美穪子は、少年時代の瀧本を知らないからだ。
 おそらく、このかんなという女性が持っていた記憶が自分の中に流れ込んできたのだろう、と美穪子は思った。
 これは記憶の形なのだ。この世界、この夢の中では、あらゆる人の記憶が混じり合い、それが人の形を成しているのだろう。
「私の記憶も、あなたにあげるから」
 美穪子はそう言い、女性の手を握った。瀧本と出会ってから自分が瀧本と過ごした時間、そういったものを次々に思い出した。女性は何も言わず、されるがままになっている。
「じゃあ、私、行くわ。瀧本先生のところに」
 美穪子は、女性がつけていた赤い花の髪かざりを自分の髪にさした。女性はみるみるうちに透けていき、やがて消えてなくなった。
 この奥に、この奥に行けば、瀧本先生に会うことができる。今度は、自分はどういう形で瀧本と会うことになるのだろう? 
 瀧本に会ったら、今まで自分が言うことのできなかった言葉を言おう。
 美穪子は廊下を歩いていくと、瀧本の診察室のドアの前に立った。呼吸を整えてから、右手の甲で軽くノックをする。
 少し待つと、「どうぞ」と部屋の奥から、くぐもったような声が聞こえる。
 美穪子は引き戸の扉に手をかけ、そっと開け放った。




                            <完>
やひろ
2017年10月18日(水) 21時39分20秒 公開
■この作品の著作権はやひろさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
一年ほどかけて書きました。

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No.1  ナカトノ マイ  評価:50点  ■2018-04-01 02:03  ID:kaD75A57b4s
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とても面白かったです。
初めはただ不思議な魚の話だとしか分からず全貌が全く掴めなかったのですが、それにもかかわらずとても惹きつけられる話の展開で、どんどん読み進められました。
特に、かんなのいた団体の話が、人を操る函南への宗教性に繋がったときはとても鳥肌が立ちました。話がとても作り込んであって素晴らしいと思いました。
また、人の存在を作り上げるものは人とのコミュニティだという考えにとても感心しました。とても核心を突いているなと思いました。
あと「オフィーリア」というネーミングも素敵だと思いました。私はハムレットをしっかりと読んだことがないので断片的にしか知りませんが、魚を求め壊れた男性たちによって心乱される女性たちはまさにオフィーリアですね。
とても素敵な作品でした。
総レス数 1  合計 50

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