ムクゲの花、老人の午後


 とある老舗の喫茶店にて、丸眼鏡を掛け白ひげを顎にたくわえた初老の克久は、じっと「植物図鑑」と書かれた本の、ある見開き2ページを見つめていた。
「初心者にもオススメ、ムクゲの花の育て方」
妻を亡くして七年、退職して五年が過ぎ、そろそろ年相応の趣味を嗜むのも悪くはないと考えてのものである。散歩ついでに喫茶店で読書をする。それは毎週二回、水曜日と日曜日の、老人の人肌恋しさゆえのちょっとした習慣であった。
 とはいえ喫茶店の照明は、床の木板の穏やかさに合わさせてやや控えめにしてあるため、屋内は少し暗い。ゆえに老眼持ちが読書するにはふさわしいとは言い難い。それでも彼の意地、頑固さ、あるいは卑屈といったものが、その老人を読書のために必ず店の一番奥の席に座らせた。陽の当たる窓際の席は、自分にはふさわしくない、と。
 それゆえ、逆に彼の目は自然と窓際の方へと関心を寄せてしまうのであった。からんからんと軽快な音を立てて若い男女が入って来る。二人は迷わずステンドグラス張りの窓の、すぐ横にあるテーブルの席に向かい合って座り、同じコーヒーを注文する。その一連の流れを克久は遠くから眺めていた。ここ二、三週間ほどよく目にする光景である。
 克久は少しばかり観察する。男の方の体格は、克久のそれよりも一回り大きく、がっしりとしているが、話し方がぎこちない。緊張のせいか、笑顔がやや引きつっている。対して女の方は、常に笑顔を絶やさず、親切な態度で落ち着いている。ちらちら見ているうちに、やがて読書に集中できなくなる。陽の光に照らされる若い男女の微笑み。もういいか。読書に疲れた克久は、談笑しているこの二人に、時折自分の思い出を重ねていた。窓の向こう側で桜の花が咲き散っているのがぼんやり見えた。




 そんな日々が一ヶ月ほど続き、梅雨が始まる少し前の、気だるい五月のある雨の日に、克久はその女の方と話す機会を得た。恋人が待ち合わせの時間に大きく遅れ、暇で仕方がなく話しかけたくなったそうだ。
「あの、もしかして、植物お好きなんですか?」
「ああ、いやまあ、最近興味が湧いてきましたもんで。」
「あたしが、初めてここに来た時からその本、ずっと読んでいらっしゃるんじゃないですか?」
「ええ、まあ。ムクゲ がどうしてか育たないもので。」
「私、植物詳しいですよ。」
こじんまりとした空間のすみっこで、初老の穏やかそうな紳士がじっと本を見つめているのが不思議に見えたのかもしれない 。克久の嗄れた声と、女の柔らかな声が混ざり合い、室内に響き渡った。
 緑のカーディガンに身を包んだ、ポニーテイルの若い娘と、克久はそうしてしばし時間を費やした。女の名は、カナコというらしい。これを機にと克久は、育てているムクゲの現状について相談し、カナコから育て方の貴重なアドバイスを学んだ。どうやら開花期直前の剪定に問題があったらしい。
「あたし、花屋でバイトしてるんです。植物が好きでして。」
「ああ、それで詳しいわけなんですね。おかげで助かりました。頑張らせていただきます。」
「いやいや、こちらこそ。花、きれいに咲くと思いますよ。」
 会話が弾み、克久は他にもいくつかの事を知った。恋人のタケルという男は、母の日にその花屋に来て「一番きれいな花をください」と注文した客でそれが出会いなのだとか、この喫茶店もタケル君に紹介してもらったのだとか、タケル君は体格がしっかりしていて性格も真面目だが、最近仕事が忙しいらしく、すれ違いが多いのだとか。
「まあ、あれですな。若いってのは、いいもんです。生き生きしてて。」
彼女の話に克久はそんな感想を述べた。カナコがそうですかね、と微笑んで、しばらくしてからタケルが店にやって来た。カナコは、克久に一礼をして、すぐにタケルのもとへ駆け寄っていった。タケルもまたカナコと同様、礼儀正しく克久に軽く、高い頭を下げて会釈した。タケルの髪は、少しばかり濡れていた。
「ああ、カナコが。なんか、ありがとうございます。にしても、最近暑くなって来ましたね。」
「本当にそうですな。私なんかもう歳だから、まいっちゃって。」
 カナコは実のところ、店に入って来てからまだ一度も注文をしていなかった。二人で窓際のいつものテーブルに座り、そこで初めていつも通り、二人同じものを注文する。
「遅かった。待ってたのに……。」
「ごめん。仕事が忙しくて急用が多いんだ。本当に、その、カナコごめんな。」
 雲と雲の隙間から、夕陽が窓に射し込んで来て、タケルとカナコをオレンジに染めた。窓の外の、ずっと向こう側には虹が架かっていたが、二人は気づきもせずに、互いを見つめ合っている。
 やはり自分は彼らとは違い、奥の陽の当たらない場所がふさわしいのだ。克久はそう確信しながら、心のどこかにある、冬の暖炉のような暖かい気持ちを、アイスコーヒーで冷まそうと試みた。


 克久もまた、初めてこの店に来たのは六月のある涼しげな日曜日、妻の美枝子を喜ばせようと思ってのことだった。
「まあ、素敵ね。あなたにしてはそこそこお洒落よ。ちょっと古臭いけど。」
そんなことを無愛想に言われ克久は、せっかく連れて来たのに、とふてぶてしい表情を美枝子に見せてカフェオレを注文したが、内心、いつもとは違う妻の嬉しそうな様子に、うまくいったと感じていた。
 窓際の席で、熟年夫婦は向かい合い、昔の思い出話に耽った。酒で顔を真っ赤にして帰って来た夜。医者に子どもを産むのは難しいと言われた時。仕事に追われ、歳の取り方など一つも分からずに、ここまで来てしまったこと。「別にいいわよ、気にしてないんだから」と克久は美枝子に笑われた。夕陽が窓から差し込み、室内はオレンジ色に包まれた。美枝子の頬のほうれい線も取り戻せない思い出と共に、暖かく照らされていた。
 その日の夜、克久はひっそりと布団から起き上がり、庭の、美枝子が育てているムクゲの花を座って眺めていた。会社の飲み会で、上司が無理矢理注ごうとしたビールに、
「もう無理です。いりません。」ときっぱり断った、勝気の若いショートヘアの女に惚れてしまってから、はや数十年が経ってしまった。美枝子は、専業主婦になってからも毎日のように自分を支え、事業に大失敗をしてしまった時も、背中から深く抱きしめてくれた。自分はどうしてこんな仕事ばかりの人間になってしまったのだろう、とため息をつきながら、克久は夜のムクゲの花を眺めていた。
「あら、こんなところで。風邪引くわよ。」
いつの間にか克久の背中の後ろに、美枝子が立っていた。
「この花、結構きれいなんだな。」
月に照らされたムクゲの花に向かって、そう呟いた。
「そうでしょ。やっと気づいた?」
美枝子も隣に座った。克久は、今までごめん、と再び美枝子に悔いた。もう本当にいいんだってば、と笑いながら美枝子は未だに変わらないショートヘアの頭を克久の肩にそっと乗せた。
「仕事辞めたら、二人でどこか旅行にでも行こう。箱根とかさ。実は結構金が貯まってるんだ。」
「ありがとう。」
克久の右手が、美枝子の左手に触れた。
「あなた、手に皺ができてる。」
「お前もだよ。」
「まあ、そういうこと言わなくていいのに。」
 二人の言葉は、こだますることなく、夜空の水色の雲にふわりと吸い込まれていった。
 美枝子が交通事故で帰らぬ人となったのはその三ヶ月後、退職まであと二年という時であった。
 妻の死後、家は売り飛ばし思い出の品はこれっぽっちも残さなかった。美枝子との思い出に、もう向き合いたくはないと思った。退職後の五年間、人生にふてくされたかのように克久は、することもなく一日一日を潰していった。そのまま自分の死を待ちわびたが、憎いくらいに克久の身体は健康であった。そんなある日のこと、ふと克久は以前来た喫茶店に入ってコーヒーを飲み、ムクゲの花をアパートのベランダで咲かせて見たくなったのであった。克久の習慣は、それ以来である。


 梅雨が明けて、ある日を境に成瀬とカナコは店に来なくなった。
「なんでも仕事の都合で海外に出張だとか。」
と店のオーナーはコップを拭きながら語った。
「カナコが来たら、これを渡してください。」と書かれたカードがついた紫陽花の花が店には届けられていたらしい。紫陽花の花は、カナコがタケルの母への贈り物として、初対面の時に渡したものだった。
「まあ、娘さんも健気なもんだったから、追いかけてさ、よその国で二人で暮らしてるのだとか。」
「そんなことがあるもんですかね。」
「きっとそうですよ。うん、そうだ。」
オーナーは、確認するように自分に言い聞かせた。まあ、本当にそうなら健気なもんですなぁ、と克久はにっこり笑い、会計を済ませて外に出た。
 真夏のひまわり色の太陽が、向かいのビルから顔を出し、克久の老体は、その光に、包まれた。あの時と同じ太陽だな、と克久は思った。そしてまたすぐに、太陽は隣のビルの背中に隠れてしまった。
 まいったな、と克久は胸の内で呟いた。後半に語った話がオーナーの創作であることは、明らかだった。痩せこけた体格の、丸眼鏡の、白ひげを蓄えた老人は、また一つ、思い出の手がかりを失ったのであった。
 しかし、克久は表情のどこかに、妻の死後、これまでにはなかった快活さを取り戻していた。その微かな胸の痛みは、どうしても美枝子との思い出から切り離せない自分を、克久に自覚させたのである。克久は、七月の生暖かい風を吸い込み、寂しくないさ、と自分に言い聞かせ、時折咳き込みながらアパートに向かった。
 そうだな、今度箱根にでも、一人旅するか。
 ムクゲの花が、アパートのベランダで優しいピンク色の花を咲かせたのは、それから3日後のことである。
藤崎秀水
2016年11月26日(土) 00時33分11秒 公開
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