カフカと慧眼
1

かつて天才数学者・岡潔は次のように語った。
〈人の中心は情緒である。情緒には民族の違いによっていろいろな色調のものがある。たとえば春の野にさまざまな色どりの草花があるようなものである。
私は、人には表現法が一つあればよいと思っている。それで、もし何事もなかったならば、私は私の日本的情緒を黙々とフランス語で論文に書き続ける以外、何もしなかったであろう。私は数学なんかをして人類にどのような利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た〉
受験期、この言葉に出会った俺はいたく感動し、スミレのように勉強した。俺にとって英語や数学は将来役に立つかどうかなどは関係なく、ただ英語や数学のように学べばよいのだった。   

2

望み通りの高校に入学し、俺は二年生になった。初めて袖を通したときの感動は、とっくに消え去ってしまった。家から学校へと向かう足取りも、去年よりいくぶん重くなった。自ら選びとった道のはずなのに、義務と責任で毎日通学路を歩かされている気がしてならない。
「田中佳深くん、あなたには夢ってものがないのかしら」
不満そうにそう言った女は、担任の望月だった。ベージュの口紅を塗った口元に、胡散臭い笑みを浮かべている。まだ若く、年齢は俺たちとそんなに変わらないようにも思えた。だが、内面にはどこか埋めがたいギャップがある気がしていた。
「夢なんかありません。そんなものがあったって、食っていけないでしょう、先生」
俺は言い放った。
開け放した窓から秋風が舞い込み、クリーム色のカーテンをひるがえした。放課後の教室には、俺と望月、そして整然と並んだ椅子と机。十月、空は一段と高く青くなり、空気が透明に変わる季節。 
俺は、進路希望調査のプリントを白紙で出し、担任に呼び出されていた。
「私はあなたの将来が心配だわ。なんでもいいから、将来なりたいものとか就きたい職業とか、そんなのも、ないの」
望月は必死にそう言った。
「強いて言うなら」と俺は言った。
「ある程度高収入で、福利厚生が充実していて社員旅行は年二回、週休二日でボーナスもたっぷり、その上終身雇用も保障された職業に就きたいです」
望月は深くため息をついた。
「わかったわ」
いいかげん諦めたようだ。話は終わったらしい。俺は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「じゃあ、これで失礼します」
「待ちなさい」
望月はどこから取り出したのか、謎の紙束を俺に手渡して言った。
「来週までに、進路希望の再提出と、そうね、将来の夢について作文を提出しなさい。原稿用紙五枚以内。大丈夫。あなたにも探せばあるわよ、情熱を燃やせることが」
望月はそう言ってきっちりと微笑んだ。俺は絶望した。

帰り道、俺は家の近くの神社に寄ってマイナスイオンを浴びようと思い立った。
その神社は人気がないわりに緑が多いところが気に入っている。受験生の頃、いろんなストレスでささくれ立った心を癒すためによくこの神社に通った。
鳥居をくぐると、奥へと進んだ。木漏れ日の中にある、こぢんまりとした石段に鞄を置き、直接腰を下ろす。そこが神社のなかで最も人がすくない、俺のお気に入りの場所だった。
鞄の中から、白紙のプリントと原稿用紙を取り出した。静かな環境で落ち着くことで、おのずと自分の進むべき道が見えてくるような気がした。
コンクリートジャングルの中で慌ただしい毎日を送っていては、周囲の雑音に夢や希望がかき消されてしまうのも無理はない。自分探しはたいてい、大きな時の流れる自然のなかで成功する。
目を閉じて、俺は濃い酸素を吸い込んだ。心がしんと澄み渡った。それでも、今まで何処かに隠れていた将来の夢が姿を現すということはなかった。
考えが甘かったのだろうか。インド辺りまで行かなければ自分なんてものは見つからないのかもしれない。あるいは、俺の中には現実しか存在しないのだろうか。
再び目を開ける。すると、そこには人影があった。
俺のすわっている石段の二、三段前にその少年は腰を下ろしていた。紺色のブレザーに身を包んだ、背の低いがっちりとした少年である。
彼の手元からサク、サクと正体不明の小気味いい音が聞こえてくる。木を削るような、乾いた音だ。
一体なにをしているのだろう。俺は好奇心を抑えきれなくなった。
近づいて覗き込むと、少年の手元にあったのは鉛筆だった。彼は右手にあるカッターナイフで、鉛筆の芯を三センチほど削り出している。よほどその作業に集中しているのか、俺が横から見ていることに気づいていない様子だ。立ち去ろうとした俺は、少年の足元に散らばる何枚かの絵に目をやり、息をのんだ。
それらは精緻な人物画で、シワの一本一本までもが見事に表現されている。まるでその人物の性格をも見てとれるかのような、迫力のある絵だった。
「すごい……」思わず呟いた。
俺の声に反応し、少年の肩が僅かに動いた。
「その絵、お前が描いたのか。ものすごく上手だ」
俺がそう言うと、少年は驚いたような顔をした。
「ありがとう」
そう言って少年は微笑んだ。心根が穏やかで優しそうな、柔らかい口調だった。少年は、黒木慧と名乗った。
芯を出しすぎではないかと聞くと、デッサン用の削り方なのだと教えてくれた。
「これ、誰の絵なんだ」
黒木慧の手元にある絵を指して、俺は尋ねた。
「通りすがりのおじさんだよ」
通りすがりのおじさんは、額に浮いた小さな汗の粒まで、逃さずに描かれていた。

家に帰ると母親が夕食の準備をしていた。台所から、いい匂いが漂っている。
「おかえり、お弁当箱出してね」
「はいはい」返事をし、鞄の中を探る。
「母さん、この近所に黒木って人住んでる?」
弁当箱を差し出しながら、俺は尋ねた。神社に来ていたということは近隣住民である可能性が高い。
「ああ、黒木さんねえ。たしか郵便局の隣に住んでらしたんじゃないかしら。たまに会ったら挨拶はするけど……」
郵便局といえば、俺の家から目と鼻の先の距離だ。今まで顔を合わせなかったのが不思議だった。
「あそこの旦那さんは漁師をされてるみたいね。お家にいないことが多いみたいよ」
母は弁当箱を水につけながらそう言った。   

3

翌朝。俺はいつものように坂を上った。
若人たちが目標を見失わないように、俺たちの学舎は高台にそびえ立っている。と、入学当初はなんとなく誇りに思っていた。しかし今ではただの不便な立地条件である。登校に過大なエネルギーを消費するなんて、合理性に欠ける。
しかし上るほかない。上ればよいのだ。
ほとんど山ではないかというほど長く急な坂を上っても、汗ばむことのない季節になってはいた。 
坂に続いて階段を上り、ようやく教室にたどり着く。名前のわからないクラスメイトと挨拶を交わす。ほぼ一日分の会話が完了した。人間関係を円滑に進める上で必要最低限の会話。俺が身につけた数少ない特技だ。
あとはひたすら授業を受ける。話を聞き、ノートにペンを走らせ、問題を解く。面白い授業というよりも、無駄のない授業が俺は好きだ。学習すべき範囲を一ミリも逸脱しない、ひたむきで平板な授業が。
休憩時間、することがないのでぼんやりと窓のそとを眺めた。ガラスに映った自分の顔。その向こうに海がかすんで見える。
もう少しはっきりと海が見えたなら、不便な立地条件という前言を撤回しても良いと思った。

放課後、週に一度は行くようにしているところがある。県立の総合病院。そこに、俺の父親は入院している。
「父さん、会いに来たよ」
ベッドの脇に立ち、声を掛ける。
「寒くなってきたね。調子はどう?」
だが返事はない。いつものことだ。
三年前、父は交通事故に遭い、植物状態になった。
生きているのか死んでいるのかわからないような父親。
医学では、人を救えないこともある。延命措置で莫大な金を消費するだけの父親を見て、俺は虚しさを痛いほど感じた。
そして俺は、医者になる夢を捨てたのだった。
あのとき俺は十四歳だった。

見舞いを終えると神社に寄り道をした。そこに黒木慧がいるという保証はなかったが、俺には彼がいることが当然のように思えた。
予想通り、紺色のブレザーを着た背中が見つかった。俺は彼の隣に腰を下ろした。慧は俺に気付くと、ふわっと人の好さそうな笑みを浮かべた。
「いつも、ここで絵を描いているのか」
「うん、ここは静かでとても気持ちがいいから」
「たしかに」俺は頷いた。
「佳深は、昨日ここで何をしてたの」
俺は、あの忌々しい進路希望調査と作文という宿題の存在を思い出した。そういえば、まだ一文字も書いていない。
「……お前さ夢ってある?」
自分の口から出たとは思えないような恥ずかしい質問に、俺は赤面した。まだ会って間もないような相手に、何を聞いているのだろう。
慧は鉛筆を走らせながら、 「世界中を、絵を描いて旅してみたい」と言った。「いろんな人間や、動物や、街や、海や、山を描いて回るんだ。世界のありとあらゆるものを、この目で見て絵にしたいな」
実に素晴らしい答えだ。夢がある。これを望月に聞かせて差し上げたい。
「画家になるのか」
慧は小さく首を振った。
「うちは、漁師なんだ」彼はそう言った。「僕は一人息子だから、家業を継ぐよ」
望月がこれを聞いたらなんと言うだろう。夢の儚さ、そして現実の強靭さ。現実は俺たちがどんなにもがいても、平気な顔でそこに立っている。いつも。
俺は慧の手元にあるスケッチブックに目をやった。慧の腕や肩には、たしかに画家にしては筋肉がつきすぎている。鉛筆よりも漁網を持つ方が似合うといえば、そうかもしれない。
華麗に鉛筆を操る右手を、魚を捕るために使う慧を想像しようとしたが、うまくいかなかった。
「佳深は、将来何になるの」慧が尋ねた。
「春の野に咲くスミレ」
仕方なく、俺はそう答えた。
「詩人だねえ」
慧は感心したように言った。
話しながらも、彼の右手は驚くべき速さで動いている。ふと僕の脳裏に、大自然や見知らぬ異国の街中を、スケッチブック片手に歩き回る慧の姿が浮かんだ。
「お前なら出来るよ、きっと」心の底からそう言った。でもそれは嘘に近かった。
俺たちは所詮、与えられた運命に従って生きるしかない。
その日描いた何枚かの絵を、慧はすべて俺にくれた。完成した絵には興味がないらしい。今まで描いた絵も、残らず捨ててしまったと慧は語った。

「ただいま」
「おかえりなさい。最近帰りが遅いのね」
なんだか嬉しそうな母の声がする。
寄り道していることを、母は喜んでいるようだ。
――あなたにも一緒に遊ぶ友達が出来たのね。
高校に入ってから今まで、俺には慧のような存在はなかった。
リビングのパソコンを立ち上げ、「高校生 絵画 コンペティション」と打ち込む。無数のページのなかから、賞金の最も高いものを選んでプリントアウトした。漠然と、金が必要だと思った。
自室に入り、鞄のなかの参考書を本棚へとしまう。
白い壁に囲まれた、窓のない殺風景な部屋。
慧からもらった何枚かの絵を、何かの表彰状が入っていた額縁に入れた。壁に掛けると、部屋の様子が一変した。
それまで閑散としていた部屋に、新たな息吹が吹き込まれた。
六畳のギャラリー。
それでも、いいじゃないか。
俺は思う。漁師になったって、絵を続けることはできる。現実に対抗しなくたっていい。画家という形にこだわる必要はない。こうやって、作品がしっかりとこの世にあるのだから。
かつての俺なら、こんな考え方はしなかったであろう。

すっかり秋の匂いがするその金曜日、俺は神社の石段に座り、慧が絵を描くのを見ていた。放課後、夕方の空は橙色に染まっている。
――作文は書けたの、田中くん。
望月の声が蘇る。帰ろうとしていた俺に彼女はそう聞いた。
――来週までだからね。
望月はそう言ったが、来週になろうと再来週になろうと俺のなかには現実しかないと思えた。
サラサラと、鉛筆の走る音だけが響く。
「できた。ちょっと見てくれない」
慧は俺に一枚の絵を差し出した。
いつものように俺たちは石段に座っていた。
俺は絵を受け取ると、じっくりと眺めた。神社の風景画だ。鉛筆で、黒一色の濃淡だけで描かれているにもかかわらず、実物よりも鮮やかな鳥居の赤や木々の緑がそこにはあった。 モノクローム特有の、何処か寂しいあの感じはまったく無かった。
「どうかな」
「なあ、この絵、何かのコンクールに出さないか」
絶対に賞がもらえると思った。しかし、慧は何度勧めても断るばかりだった。
「賞が欲しくて描いているわけじゃないよ。僕は絵を描くことだけを、目的にしていたいんだ」
「コンクールで賞金をとったら、もっといい鉛筆や絵の具が買えるんだぜ」
俺は説得を続けた。
しかし慧は首を縦には振らなかった。
「僕は、今持っている画材だけで十分だよ。画材にお金をかけようなんて思わない」
「どうして? 良い道具を使ったほうが、良い絵が描けるんじゃないのか」
「どんなに良い画材を手に入れたって、情熱がなきゃ良い絵は描けない。いくらお金を持っていても、幸せじゃない人がいるのと同じように。そう思わない?」
慧はそう言って、俺の目をまっすぐに見つめた。
俺はそのとき、叫びたくなる思いがした。

自分のしようとしていることが、正しいのかどうかはわからなかった。
欲のない絵描きのために、俺は一枚の書類に必要事項を記入した。全国規模の高校生対象絵画コンクール、その応募用紙だった。慧にもらった絵のなかから一枚を選び、応募用紙と共に茶封筒に入れる。
ポストに投函すると、俺はそのことを頭の中から追いやった。

4

その昔、父はかの有名なフランツ・カフカの名を俺に与えた。
田中佳深。発音しにくいが、この名前を俺はわりと気に入っている。
昼下がり、病院の個室。ベッドの上には父が穏やかな表情で眠っている。
電子辞書で「カフカ」と引くと、彼の代表作は『変身』であり、実存主義作家と呼ばれることがわかった。
実存主義だったというカフカの名前が、俺の現実主義を形づくったかどうかはわからない。父が植物人間ではなく毒虫になっていたら――そんなことを考えかけて、やめた。
なんとはなしに「慧」と引くと、慧眼という言葉がめを引いた。  慧眼――真理を見抜く人。
電子辞書を閉じた。
……真理か。
真理と現実という言葉の距離を思い、慧の描いた絵を思い浮かべた。
理想と現実との距離ほどには、遠くはないだろう。
「父さん、俺は慧眼と友達になれるかな」
父は黙っている。微動だにしない父の顎ひげが、少し伸びていた。 父は確かに生きていた。 俺は黙って泣いた。

「将来の夢は見つかった?」
望月が尋ねる。作文は書けたのか、ではなく、彼女はそう聞いた。放課後の教室には、窓のそとから暖かい陽射しが差しこんでいる。春のような陽気。
「夢ってなんでしょうか」
俺は、真剣に問いかけた。
「何だろうねえ」
望月は窓のそとに目をやった。つられて俺も視線を動かす。 遠くに海がはっきりと見えた。 この学校なかなかいい場所に建っている。
「それが知りたくて、私は教師になったのかもしれない。いろんな子の夢を叶えてあげたくて」
望月は、夕日に照らされた頬に微笑を浮かべた。
「わかります、なんとなく」
心の中の声が、口に出てしまった。
「あら、そう? でもあなた、教師には向いてないわよ。虚無主義に過ぎるわ」
「わかってます、とてもよく」
望月が声をあげて笑った。
望月は結局、作文のことは一度も口に出さなかった。俺は少しの罪悪感を憶えた。 

その報せは忘れたころにやってきた。
自宅のポストに入っていた封筒を、慌てて切り、中身を確認する。期待通りだ。
神社まで走り、慧にそれを渡す。
「全国絵画コンクール、一次審査合格通知」
慧はそれを見て、しばらく黙り込んだ。余計なことをしたのだろうかと、俺は不安になった。
「びっくりした」目を見開いて慧は言った。
「勝手に送ってすまない」
「いや、いいんだ」
そっと慧の顔を見た。慧の目は潤んでいた。
「ありがとう。見知らぬ誰かに評価されることが、こんなに嬉しいとは思わなかった」
俺にはずっと考えていることがあった。家でも学校でも、勉強中も食事中も、ずっと。 その言葉が、ふいに舌先をはなれた。
「画家に、なれよ」
秋風が優しく吹き、木の葉が舞った。
「ありがとう」慧が微笑んだ。
照れくさくて、目を逸らす。十月の陽射しに照らされて、なにもかもがきらきらと光っていた。

5

慧が事故に遭ったのはその翌日だった。

母からその報せを聞いた俺はすぐに病院に駆け付けた。
二階の個室に、黒木という名前が書かれていた。病室のドアを開けると、包帯で腕頭をぐるぐると巻かれた、痛々しい姿の慧が目に飛び込んで来た。彼の表情には、まったく生気がなかった。
そして彼の隣には、どこかで見たことのある顔をした男が座っていた。背の低い、がっちりとした体躯。
「君は?」と男が尋ねる。
彼はよく見ると、初めて会ったとき慧が描いていた人物画と同じ顔をしていた。「慧さんの、友人です」
走って来たため、俺の息は上がっていた。
男は慧の父親だと言った。近寄ると、たしかに海の香りがした。
「状態はどうなんですか」
男は曖昧に微笑んだ。もう永くはない、とでも言うかのように。 
しかし体を起こしているところからして、慧の命に別状はないようだ。右手にも包帯はなく、俺はすこし安堵した。
「怪我は大丈夫か」
俺は慧に声をかけた。彼は黙っている。
「……慧?」
俺は慧の顔を覗きこんだ。
そして、俺はようやく気付いた。慧と、まったく目が合わないということに。
慧は視力を失っていた。

どれくらいの時間が経っただろう。いつの間にか慧の父親は病室を後にし、俺と慧だけが残されていた  何と言えば良いのかわからない俺に、慧はぽつりぽつりと状況を、説明した。
交通事故は、信号を守って横断歩道を渡っていた慧の横からバイクが突っ込んでくるというものだった。犯人は、捕まっていない。  事故の衝撃で慧の両目は角膜が損傷し、いっさいの視力を失った。
いつも、そうだ。
現実は美しい夢をいとも簡単に轢き殺し、走り去ってゆくのだ。
いつも、そうなのだ。
「目を失って、ひとつだけ気付いたことがあるよ」
慧は静かにそう言った。病室には白いカーテンがかけられ、昼間なのに蛍光灯が白々しい光を投げている。
「僕は、絵を描くために生きていたんだ」
慧が顔を俺の方へ向けた。見えていないはずなのに、その両目に捉えられると身動きが取れなかった。
「これから、なんのために生きていけばいい?」
慧は失敗作の笑顔を浮かべて俺に問いかけた。
何も言えなかった。どんな言葉も、口にするにはあまりに重すぎた。
沈黙を破るかのように、慧の頬を一筋の涙が伝った。あとからあとから涙が流れる。
「なんのために生きていけばいいんだよ……」
その言葉は悲鳴のように俺の胸を貫いて過ぎた。
慧が視力を取り戻す方法はただひとつ、角膜を移植することだけだった。
ドナーが見つかる可能性はゼロではない。だが、いつできるのかわからない移植手術に希望を持ち続けることは簡単なことではない。
それまで慧が持ちこたえられるかどうか、問題はそこだ。
描くことを渇望した彼にとっての目は、命よりも大切なものだった。無くては一秒も耐えられないものだったのだ。

6

家に帰るとまっさきにパソコンを起動した。
「角膜 移植 ドナー」
無駄だとわかっていた。それでも、そうせずにはいられなかった。
一日でも早く、彼に視力を。
それだけが俺の願いだった。
ベッドに横たわり目を閉じる。俺の上にも暗闇が落ちてきた。
気づけば朝だった。
日は上り、小鳥はさえずる。秋の香りのする銀杏を踏みしだきながら、俺は坂を上る。
信じがたいが、慧が視力を失っても日常はなお日常のままであった。
坂を上り教室に着いても、普段と変わらぬ風景が続いた。
整然と並ぶ椅子と机。その間に散らばる生徒たち。黒板、時計、教卓。
そう、誰も悲しんではくれないのだ。
ぼんやりと黒板を眺めた。教師の声は、俺の脳には届かない。
――なんのために生きていけばいいんだよ ……
慧の叫びが再び頭の中でこだまする。慧の痛みが、俺にはむしろ羨ましかった。

俺には失うものすらない。目標のない、平坦な毎日。それを変えてくれたのが、慧の絵だった。
俺には、慧が失くした目を持つ資格なんてあるのだろうか。

その日、俺は二枚の書類に署名した。
一枚は、ドナーカード――臓器提供意思表示カード。死後の臓器・骨髄提供の意思を表示したカードだ。小さなカードにペンを走らせ、眼球のほか、心臓、腎臓などすべての臓器に丸をつけた。  そしてもう一枚の書類、短い手紙を茶封筒に入れる。封はしない。宛名には、家族とたった一人の友人の名を強く記した。
十七年間の人生に打つ終止符として、その手紙、遺書をそっと机上に置いた。

僕は慧の視力のために命を捧げることに決めた。悲しみも恐怖さえもない。ただ友の幸福を願う気持ちだけが、胸のなかに甘く広がっている。

静まり返る部屋の白い壁に目をやった。そこには慧が描いたスミレの絵が飾られている。それは美しい紫色をしていた。
机の上に横たわるナイフを手にとった。鋭く光る刃を、迷わず首筋に押し当てる。
目を閉じると、光が見えた。

かつて、天才数学者・岡潔は 「情緒とは何ですか」と聞かれてこう答えた。
「野に咲く一輪のスミレを美しいと思う心」
maugham37
2016年09月17日(土) 10時59分11秒 公開
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