くつひも
○前編

「なぁ、わかるだろ、無理なものは無理なんだよ」
 田中は、大げさな身振りで、そう答えた。
「いや、可能性はあるはずなんだ。現状はともかく、練っていけばきっと光ると思うんだ」
 僕は食い下がる。このアナログ課に配属されて、初めての大きなチャンスなのだ。しかし田中は、窓の奥のすっかり裸となったイチョウの枝をぼんやりと見つめながら言った。
「なぁ、俺だって、燃えるゴミなら、拾いあげて、燃料にしてキャンプファイアーにでも使ってやれるよ。だけど、残念だけど、これは燃えないゴミだよ。きっとお客さんにも受け入れられない」
 会話のラリーは続かなかった。

   * * *

 HOC、戦後の焼け野原の中で創設され、バブルと共に大手に成長した家電メーカにて、僕は働いている。と言えば、聞こえはいいが、会社は近年の円高、リストラ、海外進出の失敗と、正に下り坂をころころと加速しながら転がっている。更に悪いことに、僕の所属している部署は、第四開発課なのだ。電気コタツや扇風機、CDラジカセなど一昔前のものばかりを扱っている此処は、正に古びた閑職、捨てられた役たたずが集まって出来ている。通称アナログ課、ゴミ捨て場とも呼ばれた。まぁ、どちらにしろ、夢を持って入社した僕、いや僕らの理想とは正反対にあるのは確かだ。田中も別れ際にこう言っていた。
「お前、あんなところに埋もれちまって、感覚が狂っちゃったんじゃないのか? 今からでも遅くない。別のところに渡れよ。人生三十からとも言うじゃないか」
 だけど、今回はこの企画に賭けてみたいのだ。そして、その想いは皆同じだ。加藤も富永も、退屈で散漫で暇な時間に溺れていた奴らが、忙しなく動き、アイディアのブラッシュアップ、生産ラインと実現性の確認、根回し、認知活動、ご機嫌取りなどなど。日が昇り始める頃から、月が沈むまで、残業、残業、サービス残業、休日出勤。みんな走り回っている。
 ただ鳥山課長は今日も一日中机に顔を伏せ、眠っている。深夜にぺしゃんこになって、冷めた料理をレンジで温めて、ほんの少し寝るために家に帰る僕らには、羨ましい限りだが。

   * * *

 熱血漢の割には初対面の相手に対して口が回らない加藤、ウサギのようにおどおどしている今件のアイディアウーマンの富永、今にもあくびをしそうな鳥山課長、そしてプレゼンテーションのリーダー役となった僕。この頼りないメンバーで、会社のお偉さん方と対峙しなければならない。そして華の第一開発課からは、同期の田中がやって来る。根回しに失敗した彼が、それでも会議に課の代表として出てくることに、僕は淡い期待とそれ以上の不気味さを感じる。
 かくして運命の会議は始まった。

  * * *

「時代は複雑でリッチな方向に動いているように思われる方も、多いのではないでしょうか。しかし、高機能な3DTVやVITA、これはご存知の通りSONYが満を持して送り出したテレビとゲーム機です、これらの販売不振を見る限り、一概に高性能、多機能が良いとは言い切れません。むしろ求められているのは、シンプルさ、お手軽さ、単純化なのではないでしょうか。
 そこで、今回の新型扇風機です。皆さん、扇風機には弱、中、強と三段階の風力調整があるのが、当たり前と思われているはずです。そこに盲点があるのです。我々はよりシンプルで革新的な提案をします。スイッチを一つだけにするのです。入り、切りだけのボタンで、より気軽に低コストで、扇風機をご利用になれます」
 ここまで一気に僕がまくし立てた。横やりが無いのは良いことか悪いことか、僕の経験では、決して喜ばしい反応ではない。説得されたというより、興味を惹かれていない。皆、鳥山課長のような、ぼんやりと虚ろな目をして資料をめくっている。一人、お偉方が口を開いた。
「熱意はわかるんだけどねぇ」
 その後、沈黙。ゆっくりと
「古いものをより安くてより古臭く。年々進歩するクーラーに対してアピールポイントを見つけられないよ。何というか、流石アナログ課だねぇ。らしい提案だよ」
 もう一人が
「何だろう。他のメーカーがやっていないのは、アイディアが浮かばなかったというより、実用性が、もっと言うと採算性が」
 そこで、区切る。言い出しにくいことを、切り出そうとしている。不味い。何か発言をしなければ。だが、何を、どうやって。何をしても泥沼に沈む気がする。心は蜘蛛の巣にかかった蝶だ。もがけばもがくほど足はもげ、羽はちぎれる。
「ちょっと良いですか」
 それを遮ったのは田中だった。
「今回の企画の立案者である、富永さん。あなたにお聞きしたいことがあります」
「えっ? わたし?」
 カボチャのお化け屋敷で震えているような富永に話が向けられた。望ましいことではない。会議の中心に僕が為ったことも、僕が有能だったからではない。彼女がこの場に立つことが、余りにも不得手で、何も出来ないだろうからだ。ただそこに居るだけの、カカシだ。その富永カカシに田中は、発言を求めた。
「わっ、わたしですか。わたし、どうかしました?」
「あのですね。あなた達、真剣にやってます?」
 何を言うんだ、田中。僕たちは、必死に頑張って、胸を張れるように、そう、頑張ってきたのだ。声が出ない。思いっきり否定したい。彼女は、間違いなく真剣だった。何を当たり前のことを訊くのだ。
「真剣に考えてきました? 思いつきで開かれるほど、会議は軽いものじゃないんですよ。私たちは暇じゃないんですよ。お宅らと違って」
 駄目だ。田中、お前、富永が潰れてしまう。内気な如何にも箱入り娘といった世間知らずのお嬢さんだが、彼女は僕らにないものを持っている。鋭い発想力だ。これだけは経験では足すことが出来ない。ゆっくり育てれば、きっと、きっといい奴になる。なのに、僕の唇からは言葉が出ない。富永も目をにじませて言葉を出せない。他のお偉方は、無関心から、傍観を決め込んでいる。
「聞いてますか? あなたどれだけ頑張ったんですか? 何も出来てないんじゃないですか?」
「はっ、はい、言われてみれば、わたし、わたし」
 頑張った。小学校なら満点のシールを何個も貼ってやりたくなるくらい、彼女は頑張った。
「わたし、わたし」
「待ってください」
 加藤が声を振り絞る。頼む、加藤。救ってやってくれ。僕たちは努力してきた。この日の為に、この時の為に。だが、田中は
「あなたに聞いているんじゃないんですよ。えと、あなた、お名前は?」
「かっ、加藤です」
 この質問は加藤には辛い。彼には名前を覚えられる価値もない、と宣告されているようなものだ。
「それで富永さん。それと鳥山課長。あなた達、企画を出すにしては、努力が足りないんじゃあないですか? もっと煮詰めれるんじゃないですか?」
 言い方を変えながら、何度も同じ問いが出される。僕たちは、頑張っていないのか?
「そうですな、全く」
 鳥山課長。あんた、田中と纏めて殴り倒したいよ。あんたに、僕達の仕事を否定する権利なんてない。だが、富永の心はこれで折れていた。
「わっ、わたしアイディアだけ出して、他の方たちに任せっきりで。わたし」
 満足したかのように
「やはり時期尚早でしたね。今回のようでは、話になりません。出来たら一週間後にまた、今度は最善の努力を尽くしてやって来るというのは。どうです?」
 異論は出なかった。僕にも。それだけ、田中の発言には、堂々とした声には、凄みがあり、力強さがあった。日陰の根無し草らは、太陽を一杯に受けたヒマワリには勝てない。
「そうですな。もう一週間、待ってみますか」
 お偉方の中でも一番のお偉方の発言で、会議は終わった。

   * * *

「イイ同期の友を持ってますねぇ。先輩。田中って奴でしたっけ? あんな田舎臭い名前なのに、あんな卑劣なエリートだなんて」
 内弁慶の加藤が皮肉めいた調子で、そう言い捨てた。
「僕にも」
 テニスラケットの似合う田中は、加藤と何処か相通じていて、少なくとも、執拗に相手の弱みにつけ込むような男じゃなかった。失望が覆う僕は、富永と同じく、今にも泣き崩れそうな顔をしていたのだろう。鼻にツンとくる。
「わからないよ」
 鳥山課長が、年季の入った黒い湯呑からほうじ茶をズズっとすすり、珍しく僕の目を穏やかに見つめ
「本当に良い友達を持ったなぁ」
 一発、ラケットで叩きたい、鳥山だった。
「キミ、あのまま進んでいたら、会議はノーで終わりだったろう。あの田中君のおかげで、一週間の猶予を得ることが出来たようなもんだ。全てが却下されずに済んだ。しかし一週間って、短いよなぁ。まぁ、ギリギリの線なんだろうが。ウチらの力を買いかぶりしすぎだな。けれど、とにかく良い同輩じゃないか」
 にぎりこぶしが止まった。
「けっ、第一さんは、そこまで考えてくださったのかね。上から目線で。見てろ、あいつら、コテンパンにしてやる」
 と加藤。課長は茶を飲み終えると、
「まぁ、私は紛争はコリゴリなんでね。各自、もっともっと頑張りたまえ」
 そうして、灰色の机に顔を伏せ、眠り始めた。
 田中は負け戦になると察していたのだ。それでも、僕らに少しだけ望みを与えてくれた。自分がひたすらに情けなかった。僕は余りに、無力だった。
「あの、あの、すいません。会議どうでした?」
 僕は涙が溢れそうな目を俯きで隠し、振り返った。居たのは細身の小柄な男、小林だった。ふた周りも大柄な加藤は半笑いで
「まぁ、失敗だったな。俺らの様子見れば、わかるだろ?」
「まだだ、あと一週間、チャンスをくれた。まだ終わりじゃない。終わりたくない。こんなんで終わってたまるか!」
 殆ど自分に言い聞かせていた。
「へぇ、先輩、かっこいいこと言うじゃないですか。確かにその通り。ま、何にせよ、あと一週間だな」
 小林は大学の合格発表で、合格でも不合格でもなく、補欠に自分の受験番号を見つけたような、そんな面持ちで、
「あー。そうですか。あーあー。何だか拍子抜けしちゃいました。今日でこの激務ともオサラバだと思ってましたんで」
 小林は今回の新型扇風機の企画には、参加していない。その代わりそれまでの通常業務を、彼ら三人で受け持っている。幾ら閑職とはいえ、数人分の仕事を一手に引き受けるのは、根気のいるキツイ作業だろう。そして新企画に熱中する僕らとは違って、評価もされず、勝敗もつかない地味な役割だ。だが、こいつらのおかげで課は回っている。僕たちは無謀な新企画に全力突進できる。
「微妙な気分です。自分、此処、大好きだったんですよ。ひたすら暇で、楽ができて」
 加藤がちゃちゃを入れる。
「楽ができる、楽園だったってね」
 それを受けて
「そうそう。出世やリストラを考えなければ、此処って楽園だったんです。時間が有り余っていて、適当にいけて。
 でも、です。ここ最近思うことがあるんです。皆、一生懸命で、自分も一生懸命で、必死に書類を片付けて、末端の人たちと、やれやれ下っ端は大変だなぁ、とかやってるのが、凄く楽しいんですよ。今まで仕事って学校の宿題の延長みたいなもんだと思ってました。やらなきゃいけないことだって、仕方なく片付けるもんなんだって。読書感想文みたいな。それが今、きちんと手応えがあって、楽しいんですよ」
「楽じゃなくて、楽しい、の楽園だね」
 病人がようやく点滴を外してもらったかのように、何だか気分が晴れ晴れとする。楽園か。
「けけっ、少なくともあと一週間、楽しい楽園にいられるぜ。企業の奴隷に目覚めた、小林よ」
 加藤と小林は案外に仲がいい。よく一緒にラーメンを食べに行く。如何にも反発しそうな対照的な二人だが、何故か馬が合う。お互いが持っていないものに惹かれているのかもしれない。加藤に体育系らしい笑顔が戻り、小林は眼鏡をくいっと持ち上げて「自分、マゾかもしれないです」なんて、軽口をたたいた。まだ士気は下がってない。まだ、いける。

   * * *

 今日は早期解散。それでも居酒屋での反省会は長引き、ようやっと家についたのが午後11時だった。
 ドアを開けるとタクヤが待っていた。隣にいた妻が
「ごめんね、何度言っても聞かなくて。今日からパパと一緒。日曜日は遊園地だって。パパが来るまで待ってるって」
「ああ、ごめん。今日、決めれなかった。来週一杯までかかる」
「パパ、どうしたの?」
「お仕事が長引いちゃったみたいなの。タクヤ、あと一週間、我慢できる?」
「待てないっ! 待てない! 待てない!」
 イラっとした。仕事の疲れもあったのだろう。
「タクヤ、お前、悪い子だな。夜更しして、駄々をこねて、これじゃ今年はサンタクロース来てくれないぞ」
 タクヤは今年で小学三年生だ。この時間まで起きているには幼すぎるし、ただただ駄々をこねるのは卒業する年齢だ。
 タクヤは小さな声で鼻をすすりながら、
「ボクイイ子二シテタモン、悪イ子ハパパノ方ダモン。アイチャンニモカッチーニモ、遊園地デパパトママトジェットコースター二乗ルンダッテ」
 掠れるような声だった。疲れた僕の耳にはちゃんと届かないほど。
 「飯食べてきた」、とだけ告げて、スーツのままベッドに潜り込む。
 クリスマスで思い出す。三年前、息子のタクヤはサンタクロースに一目会おうと、ベッドの中で、ずっと目をぎんぎんに開けていたのだ。おかげで僕が枕元にプレゼントを置く瞬間を、ばっちり目撃されてしまった。僕はとにかく焦った。現実を知るにはまだ早すぎる。夢に生きる時期だ。温かくて優しい夢に。
「ああ、これはね、タクヤ。パパがサンタクロースから預かってきたんだよ。サンタが煙突からお家に入っていくのは知ってるかい? 近頃はその煙突がある家がめっきり減った。だから、効率が悪くなりサンタは忙しくなった。メールで、プレゼントは玄関前に置いておくから、寝室にはお父さんが運んでやりなさい、ってお願いされたんだよ」
「うん」
 我ながら無理やりな嘘だ。納得したのだろうか、それともその振りをしたのだろうか。そう妻に話してみたら、「強情なところはあなたに似たのよ」
 そんなものなのか。僕なんて、もっと純朴な少年だった気がするけど。

   * * *

 その夜、僕は浅い眠りの中、妙に懐かしい夢を見た。ヒロさんが出てくる夢だ。


○中編

   * * *

 次の日、富永が欠勤した。鳥山課長に尋ねると、
「相談を受けてね、こいつは駄目だと、心機一転、度胸だめしに行かせたよ。キミもどうだね。疲れているようだから、箱根の温泉にでも療養してみるのは」
 なるほど、この時期に休みを入れるなぞ、並大抵の度胸では出来ない。そんな判断も付かなくなったのか。富永も鳥山課長も。或いは、彼女はもう会社に来ない。来れない。そんな予感がした。
 ミーティングは困難を極めた。
 暑くなり始める初夏、セミ鳴き響く猛暑、しつこく続くことが多い残暑。どこに風量の標準を定めるか。大袈裟に強過ぎれば、使うのが負担になる。逆に弱過ぎて、熱中症にでもなられたら目も当てられない。
 平均でいいんじゃないの? 平均で。日本人は曖昧なのが好きなんだから。そうやって思考停止している。
 クーラーに関して。今では温度センサーと湿度センサーというものがあって、それが測るデータに応じて自動的に風量、温度を調節出来る。時代も進んだものだ。正にボタン一つで最適な心地良さ。ただシンプルにスイッチを一つにしただけの僕らの新型扇風機とは、発想の格が違う。お休み機能、風向き自動設定、どれも便利で、使えるものばかりだ。
 扇風機自体、古臭い? 僕らが再生させようとしたのは無駄なあがきなのか? 扇風機は次の世代で消えていくのか? パソコンのマウスは昔、ゴロゴロとしたボールによって動かされていた。偶にマウス内にめり込んでボールが回らなくなって、買い換えていた。今では電気のランプで動き回る新型マウスばかりだ。昔、と言ってもわずか五年余り前に、旧型マウスは絶滅した。右手には光学式マウスを持つのが一般的となった。扇風機もそうなるのか。
 海外があるじゃないか? 低コストならやっていける。需要がある。でも、海外の温度と湿度の平均は? 最高気温と最低気温の差は? 日本と全く同じという訳にはいかない。応用が効かない。スイッチ一つのシンプルさが、却って不便だ。
 僕たちは根拠もない自信に支配されていた。そう、つくづく実感する。ミーティングの中で肯定的な意見は目に見えて減っていき、マイナスへと大きく傾く。どっと疲れる。
「こりゃあ、駄目だ」

   * * *

 日曜日。明るい週末、楽しいサンデー、なんて言葉は、気休めにも為らない。今日も今日とて、休日出勤だ。時間がない。不味い栄養ドリンクで頭を叩き起こし、玄関に駆ける。靴を履こうとする。
「ヒロさん」
 左右それぞれの革靴のくつひもは、何十にも重ねられたコブ結びでがちがちに固められていた。久しぶりに受けるイタズラ。しかし、勿論、犯人は中学生だったヒロさんではない。
「タクヤ!」
 すごすごと起きたばかりの振りをして、やって来る。
「駄目だろう! 人の嫌がることしちゃ!」
「パパだって、約束破って、嘘ついたじゃん!」
「言い訳するな! パパだって好きでやってるんじゃないんだ! そんなに遊園地に行きたいのか!」
「行かなくていいよ」
 何時の間にか涙。
「ずっとウチにいて。もう行かないで」
 その一言で、やっと気がついた。
 ああ、そっか。ヒロさんもそうだった。ただ、ただ、少しの間だけでも近くに居て欲しい。
 声は一つトーンの高い泣き声。
「パパ、僕、良い子になるから。クリスマスプレゼントもお年玉も要らないよ。だから今日だけでも、一緒にご飯食べて。一緒にお風呂入って、一緒のお布団でお話して」
「バカヤロウ」
 タクヤにではない。自分自身に向けてつぶやいていた。小さなタクヤの体を抱き寄せる。背中をとんとん叩き、胸に顔をうずめさせる。
「泣き止むまで、行かないよ。そばに居るよ。だから安心して……」

   * * *

 ヒロさんは元々、ヒロちゃんだった。小学校五年の時に、ガキ臭いという理由で、自分で「ちゃん」から「さん」へと変えたのだ。この時期のあだ名は、コロコロと変わり、一つの形に定着しにくい。ミツヲからミッチーに変わり、ミチドリとなり、ドリーとなったりする。その中で、自分からあだ名を変え、それを普及させることは、並大抵の労苦では出来ないものだろう。あの時から彼は信念の人だったのかもしれない。
 ところで卓球用シューズというのがあった。今、考えれば単なる室内用スポーツシューズだったのかもしれないが、今となっては確認できない。とにかく卓球をするには、体育館の玄関口で、外履きから卓球用シューズへと履き替えねばならなかった。
 そして黄色いメッシュに黒い縁どりのそのシューズは、とてもカッコヨク、それを履いていると、自分は特別な存在になれた気がした。中学の卓球部の三年間、それは錯覚だったのかもしれないけれど。
 しかし、帰りが大変だった。下駄箱を開けると外履きのくつひもが、今みたいにがんじがらめに結ばれていたのだ。
 そんな時、ヒロさんが、「ついてないな、いや人徳ないのか、お前」と寄ってきて、僕は紐のコブを伸びた爪でほぐしながらヒロさんはそれを見守りながら、ゲームや漫画の話に花を咲かせた。それが三日も一週間も三ヶ月も続けば、このイタズラの主が、僕への個人的恨みに燃えた後輩ではないことは馬鹿でもわかった。部活が終わってから体育館を出るまでのヒロさんの用意した十五分の紐解きは、何時しか楽しげな会話の時間へと変わっていた。

「クロノトリガー、凄いな、これ百年後も残るよ。俺らが死んでも、生き残り続けるよ」
「凄いグラフィックだよね。でも、主人公が喋らないのには、納得いかないなー。ドラクエ型はもう時代遅れだよ」
「知らないのか? 喋るんだぜ。一言だけだけど」
「なーに?」
「教えない!」

「あいつ、どうやっても自殺するんだけど。本当にこの選択肢で合ってるの?」
「おっかしいなー。俺の時はあの答えで生き残ったぜ」
「もう、諦めて、先に進めちゃおうか?」
「止めとけ、あいつがいないエンディング見るとメッチャ、ヘコムから」

「隣のババアは素敵なババアー。オウ、ババア、フォーエバーラブ」
「なんだよ? それ」

「新技閃いたんだぜ。ワイパー」
「単なるバックスマッシュじゃん」
「スピンが、かかんだよ。球がカーブするんだぜ。自動車のワイパーみたいに、払って撃つんだ、ワイパー」

 やがて進学校に行った僕と、実業高校に行ったヒロさんは、会うことも無くなり、僕と同じく彼も故郷の白岡町を離れていったことを、噂好きの母のマル得情報から知った。

   * * *

 代わりの靴はある。でも、紐解きに時間を使ってやりたい。無駄な時間。心の余裕。もしかしなくても、ここ最近、一番不足していたものだった。
「なぁ、タクヤ。全部終わったら、温泉行こうか。露天風呂、気持ちいいぞー。特に冬は最高だぞ。冷たい空気を抜けて、あつあつのお風呂に入るんだ。頭は変に冴えて、足先がじんわりと温まってな」
「うん、うん」
「お布団敷いて貰って、ママとパパと三つの平行線になって。きっといい夢見れる」
「パパ、遊園地は?」
「勿論、連れてくさ。きっと、また凄く暇になるからな。何処へだって行くさ。北海道だろうが、沖縄だろうが」
 今回の企画が通らなければ、きっと第四開発課は、元の退屈なアナログ課に戻る。多分、そうなる。それよりも、無謀な企画の推進役として、追い出されるかもしれない。でも、島流しはやだな。
「朝ごはんも晩ごはんも一緒に食べれるようになる。でも、朝起きれるかな? 夕方までお腹グーグーなるの、我慢できるかな?」
 最後のコブがほどけた。蝶結びにしてやる。こんがらがって、絡まって。まるで我が家みたいだな。でも、まだ右半分。左足の靴が残っている。さしずめこちらは、アナログ課の現状といったところか。扇風機とクーラーの間でごちゃごちゃに絡まっている。そうだ。ほどいてあげよう。

 クーラー、第一開発課、高い、多機能、温度センサー、湿度センサー、オート機能、人工の風。
 扇風機、第四開発課、スイッチは一つだけ、シンプル、低コスト、羽が回って空気をつくる、自然な風。
 古い、新しい、先進国、後進国、移動が自由、取付工事。

 あっ、これとこれは結べそうだぞ。それに、富永のアイディアを無駄にしない、それどころかより活かせる、いける。
 くつひも。
 ほどけた。
 結んでみよう。
 蝶々が出来た。
「おい、お手柄だぞ、タクヤ!」
 つい言葉に力を込めてしまった。隣のタクヤはびくっと震える。
「ごっ、ごめんな。でも、くつひもをこぶ結びで固めてやろうなんて、どうして思いついたんだ?」
「だって」
 タクヤは笑って、暗唱してみせた。
「パパが中学の時、気の合う奴が一人いた。あれって、親友っていうのかな? とにかくヒネくれたやつでね。くつひもを」
 沈んでいた記憶が揺り動かされる。
「そんなこと、眠る前に絵本代わりに話してくれたよ、パパ、とっても懐かしそうで、嬉しそうだったから、覚えてる」

   * * *
 
 会社に大幅に遅刻した僕を出迎えたのは、意外な人物だった。丈の長いスカート。
「おっ、おはようございます、いっ、いえ、こんにちは、でしょうか?」
「富永、帰ってきてくれたのか!」
「な、何言ってるんですか。わたしの居場所は、今も昔も明日もここです!」
 おっ、と思った。言葉にリズムが戻っている。
「昨日、何やってたんだよ」
「バンジージャンプです」
「バンジージャンプゥ?」
「ええ、バンジージャンプ。鳥山課長に、わたし死にたい、あっ、死にたいはわたしの口癖なんですけどね、消えてしまいたいなんて相談したら、よし、一度死んだ気になってみろ、飛び降り自殺だって」
 バンジージャンプ。あれは確かアフリカに伝わるイニシエのイニシエーション、つまらないオヤジギャグだな、そんな年に為っちまったのか。とにかく、外国で古くから伝わる子供から大人へと変わるための通過儀礼が原型だという。僕はあれで大人になれるとは思っていない。年を重ねるということは、何百、何千の人たちと少しでも関わり、出会い、別れるということだ。たった一発のドラッグで変われるもんなんかじゃない。僕はそう思う。
「怖かった?」
「怖い、というよりも痛かったです。身体にベルトが食い込んで、キツク締められて。他所でもそうなんでしょうか。でも、落ちるのはあっという間でした。怖い、と思ったら、もうぶらりぶらりして、終わってしまったような」
 しかし、気持ちや気分というのは何てないことで大きく変わる。しおれた草に、花が咲いた。紫と黄のスミレの花。地味でちっぽけだけど、愛おしい。
「でっ、ですね」
「いい加減にしろ。もう同じ話を五回目だぞ」
 とニヤニヤ顔の加藤。
「キミが遅刻するなんて、ヒョウでも降るのかな?」
 と起きている鳥山課長。
「ええ、でも収穫もありましたよ、今から披露します」
「ほう」
「小林、ちょっと来い!」
 きっと彼の力が必要になる。というよりも若く、青臭く、しかし何処か達観したことを言う彼に、このアイディアを一番に聞いて欲しかったのかもしれない。

   * * *

「今更、第一と協力して、手柄も山分けするなんて、俺は納得しないぞ!」
 加藤が吠えた。僕は黙っている。そういう気持ち、僕の中にも無いわけじゃない。
「何でだよ! 先輩、何で俺達をもっと信用しないんだよ! 俺達だけでやれること、第一の奴らじゃ到底できないこと、絶対に、あるはずなんだよ! 富永もそう思うだろう? 折角のアイディア。こんなんに汚されたくないだろ?」
 富永はしどろもどろに
「わたし、億劫で、扇風機のボタンも足で踏んで、入り切りしてたんです。だけど、もっと楽にやりたいなあ、なんてポコポコと閃いたんです。でも、そんなわたしの不精な思いつきに、一生懸命になってくれて。わたし置いていかれて、でもその先で最前線で戦ってくれる先輩たちを見てると、それだけで嬉しかったんです。わたしは嬉しいです。こんな、真剣に考えてくれて」
 何か後押ししたくなった。
「うん、これはいい。これはいいよ。勝ち負けに執着していないのがいい。前を向いて、お日様に向かっている」
 鳥山課長が、してくれた。
「だけど、だけどよぉ、なんだって勝つか負けるかだろ? オリンピックだって金メダルは絶対一個しかない! そんなの自分に力が足りないってことを認めたくない、キレイゴトだよ!」
 スポーツマンの加藤らしい答えだ。反論したい。とどめを刺したかった。だが、それでは加藤が萎縮してしまう。その時だけはいい。だが、彼の将来を、可能性を、奪ってしまうような気がした。甘ちゃんかな、と自分でも思うが、それが性なんだから仕方ない。代わりに
「どうだ? 小林」
「えっ? 自分ですか? 何だか考えがまとまらなくて」
「いいんだよ。別に完璧じゃなくても。そんなの求めていないよ」
 侮辱された、と思われる発言かもしれない。だけど、小林なら……
「えっと、自分は、そうですね。勝つか負けるかっていうと、皆、最後には負けると思います。だってみんな死ぬでしょう。人生を終わらされるでしょう。地球だって、寿命じゃ、太陽に勝てません。だから、みんな負け組なんですよ」
 ぽりぽりと頭をかき
「でも、負ける、にも、色々あると思うんです。エレベーターに乗って、エスカレーターに乗って、リムジンに乗って、フェラーリに乗って。そうやって誰よりも高く、遠くまで行って誰も見れない景色を眺めてる人。それを自慢にして、誇りにしている人。そういう人って居ますよね。多分。でも、その人が死んじゃうとき、残るものはそんなに多くないんじゃないかなぁ。
 自分はですね。一歩一歩、歩いて、転んだり、倒れたりして、手を貸してもらって、一方で傷ついた人に手を差し伸べたり、支え合って、握手して、時にはその手を離して、一人で荒野をさ迷い続けて、何かを受け継ごうとして、逆に何かを残そうとして、そうやってガタガタになって、歩けなくなっても、足をひきずって、そのうち車椅子を押してもらって、この世にサヨウナラをして最後に見る景色、そういうのが尊いっていうのかなぁ」
 少し涙目だ。
「自分は、自分は、歩いていませんでした。温室に篭ってました。でも歩きたい。今からでも間に合うなら、遠くに見える景色を、その先を皆と、沢山の人と、歩きたい」
 ゆっくりと、時間が流れた気がした。しかし苛立ちは無い。むしろ心地よくさえあった。
「あー! 纏まんないなぁ。結局、鳥山課長とおんなじことなんですよ。それを長々と独白して、ダメだなぁ自分」
「さしずめ……」
 加藤が
「ぬるま湯の中でちっぽけな縄張意識を持って、鎖に繋がれながら、わんわん吠えてた負け組の中の負け組か? 俺って」
 口調から、トゲや嫌味が消えていた。何時もの加藤だった。爽やかだった。
「負け犬の遠吠え。ですね」
 富永がクスリとした。これは珍しい。彼女は変わろうとしている。もしかしたら、自分でも気づかないうちに。繋げてやりたくなった。僕は吠えた。
「わおーん」
「えっ? 先輩?」
 と小林。もう一度、僕
「わおーん、負け犬の遠吠え」
 加藤が吹き出した。笑った。それから
「わおーん」
 了解、とでも言いたげに小林が
「わおーん」
 少し恥ずかしそうに富永が
「わおーん」
 周りからは怪訝そうな、それ以上に好奇心の塊のような視線が集まった。
 鳥山部長が、低く良く通る声で
「負け犬の遠吠えだよ。キミ達も鳴きたまえ、負け犬クン、課長命令だ。わおーん」
 負け犬の合唱が部屋を満たし。
 次いで笑い声が。


○後編

   * * *

 鳥山課長が、湯呑を持ったまま 
「正気かね?」
「ええ、勤めて冷静です。明日から箱根の温泉に行ってきます」
 朗らかな調子でこう言ってやった。
「箱根の温泉へ、家族と一緒に一泊二日で」
 鳥山課長は目を見開いた。僕に初めて見せる顔だった。もっと観察したいとも思ったが、それ以上に可哀想に思えた。そう思えることは、これまでもこれからも無いだろう。
「箱根の温泉へ、家族と一緒に一泊二日で、あと田中と一緒に」
 なるほど、と眉毛が動き、安堵の色が頬を包んだ。
「相手は、田中クンは同意してくれたのかね?」
「ええ、簡単に概略を伝えると、お前、面白いぞ、これって。
 課での情報は、携帯のメールで仕入れます。ただ会議での細かなやり取り、心の向きを揃えること、これは普段一緒にいない奴とは、実際に会って意思疎通をしないと、非常に難しい」
 鳥山課長は眠たげな目に戻らずに
「よし、こっちは私が何とかする。行ってこい!」
 と激を飛ばした。

   * * *

 旅は人を開放的にし、心を弾ませる。箱根でのタクヤは、もう大はしゃぎだった。我が家と比べ、遥かに小鉢の多い夕食に、「美味しい、美味しい」と繰り返し
「パパ、これ食べないの? だったらチョウダイ!」
 と僕が最後までとっとこうとした甘エビの刺身を、奪い取った。
 遊技場。一昔前のゲームセンターのようなところでは、もっと凄かった。
 コインが吸い込まれるようにして消えていくスロットに熱中し、ワニが五つの穴からコンニチハとハンマーに叩かれにいく、ワニワニパニックを四度も遊んだ。イカサマ紛いのジャンけんゲームなんてのもやってた。かくして一ヶ月分の小遣いを、たった一時間で使い切ってしまった。
 テレビでは、大好きなアニメがやってない、と苛立ちを見せたが、代わりに僕と妻と三人で話しているうちに、えへへと笑った。
 ただ、折角の温泉は余り乗り気ではなかった。三十分もしないうちに
「パパ、もうカエロ」
 なんて言い出した。温泉のありがたさを知るのは、家風呂で足を伸ばしきれなくなるまで成長し、肩こりや腰痛に苦しめられるほどの年になってからということだろう。しかし、こちらとしても具合がいい。妻と一緒に一足早く部屋へ帰らせた。残された田中と打ち合わせをする為だった、のだが
「いやー、やっぱり温泉っていいなぁ。仕事のことなんてどっぷり忘れられるよ」
 と牽制された。仕事の話の予定が、巨人の中継ぎは意気地がないなどと、しょうもないことにずれ込んだ。そこで夜の九時から本題だと、先行予約させた。
「家族っていいもんだなぁ」
「いやいや、大変だよ。増して第一開発じゃ無理だ。もう少し独身貴族でも堪能しといたほうがいいよ」
「でもさ、子供を見守るお前のほほえみ、なんというか、凄く良かったよ。可愛い息子さんに、陰で支えてくれる奥さん、大切にしてやれよ、な!」

   * * *

 はしゃいだ性なのか寝付きは早い。タクヤは子猫がたてるようなイビキをかいて、毛布にくるまっていた。起こさぬようにそっと起きて、布団を正してやる。
「今から、お仕事?」
 妻だった。
「ああ」
「大変ね」
「お前にも苦労かけたな」
「いってらっしゃい、悔いを残さないように」
 旅は人を開放的にし、心を弾ませる。新婚の頃が思い出された。
「行ってきます、愛してるよ」
 そう言って、照れる間もなく、
「あら、わたしの方が何倍も深く、あなたのこと、愛してるわ」
 敵わないなぁ、と思う。

   * * *

 田中から「いいところがある」と案内されたのが、温泉と言えば、の卓球台だった。もう、夜は更けている。他に人は居ない。
「これやりながら、話し合おう、テニス歴十年の力を味あわせてやるよ」
「おいおい、こっちは元卓球部だよ」
 しかし、これは好都合だ。力の加減で、相手に接戦でも大勝でも演出できる。接待卓球といったところか。
 しかし、得点をつけるのがとても面倒だった。点が入る度に、こちら側と相手側それぞれ1から21までの数字を捲るのだが、そのたびにラリーは中断され、話も途切れがちになる。1−0、2−0、2−1、3−1、4−1、4−2、5−2。思い切って言った。
「何も勝負じゃないんだから、得点つけるの、やめよう。こういうのは感覚でいいんだよ」
 鳥山課長のあの一言に、感化されていたのかもしれない。

   * * *

 卓球のラケットと言えば大抵はラバーとラケット、一セットになって売っている。
 しかし、本格的に始めるとなると、木製のラケットと、それに表裏貼り付けるゴム製の赤と黒のラバーそれぞれを別個に買うことになる。そして専用の接着剤で、ラケットにラバーを貼り付ける。つまり一人一人、似たような、それでいて微妙に違うラケットを手にすることになる。そんな組み合わせを考え、財布と相談しながら自分だけの相棒を組み立てるのが、子供心を刺激し、楽しかった。
 そのラバーを買いに卓球部の五人で、隣の市の大きなスポーツ用品店に出かけた帰りのことだった。
 自転車の調子が可笑しい。それでも何とかなるだろうと無理やりこぎ続けたのがいけなかった。ガクンとし、そのまま自転車は動かなくなった。
「もう、遅くなるから、帰れよ」
 その痩せ我慢に、同級生も後輩も従った。ただ、一人だけその場に残った。ヒロさんだった。
 ゆっくりと自転車を転がし続ける僕に、ヒロさんは自転車から降りて、隣り合ってくれた。夏のやけに長い夕暮れどき、そして田舎の星の綺麗な夜。色々な話を、したと思う。沢山、沢山したと思う。内容はもう覚えていないが、嬉しかった、という輪郭だけは、モヤのように残っている。
 自転車屋は見つからなかったが、ラーメン屋には数え切れないほど出くわした。その何件目かでヒロさんが
「メシ、食おう、お腹ペコペコだ」
 二人とも塩ラーメンを頼んだ。うまかった。空腹のせいもあるのだろう。見知らぬ土地の外食で、少し大人になった気分も手伝ったのだろう。うまかった。十年以上前の話だ。
 あれよりも美味しいものには山ほど出会った。だけど、あの時の少しくすんだ赤い胡椒の入れ物。醤油と畳の匂い。ヒロさんの目を少し細めた笑顔。
「うまいな」
「ああ、うまい」
 スープを飲みながらのたわいない一言。そんなことが記憶の中に鮮明に刻み込まれるような食べ物には、これっきり一度も出会ったことがない。
 けれど、もう戻れないのが悔しいんじゃない。ただ、ほんの少し、眩しいだけだ。そして、僕らにはこれからがある。ああ、仲間たちと、白い泡が溢れそうな程、並々と注がれた黄金色のビールで乾杯しよう。

   * * *

 自転車の車輪は回る、扇風機の羽も回る、卓球の球も回る、そして時代も回る。
 完敗だった。点数票なぞ、必要なかった。およそ七セット連続、ストレート負けした。
「いやー、勝った、勝った」
「卓球部の三年間、何だったんだかな」
「まぁ、これは運動神経の差だね。お前、すっかり錆び付いてたぞ」
「あー! クソッ!」
 ほんと、何だったんだろう。
「けど、朗報もある」
「えっ?」
「燃えるゴミだったよ。いや、火薬だな。花火にもダイナマイトにもなる。今回の企画、行けるぞ。俺も燃えてきた。絶対、参加してやる」
「そっか……」
 ほっとする。
「しかしな」
「しかし?」
「中々、共感しにくいところも残ってる。前例のないことだしな。
 それにアナログ課の企画ってところで、マイナスからのスタートだ。まして前回の失敗もある。通るかは五分五分って所だな。楽天的に考えても」
「それをこれから十分にするんじゃないか! 今夜は寝かせないぞ」
 田中は両手を肩まで上げ
「出来れば可愛いお嬢さんに言って欲しかったな。今夜は寝かせない!」
 ハハハ、と笑い
「お嬢さんと言えば、お前、富永に酷いことしたろう」
「ああ、お前が余りにもテンパってたんでな。代わりにスケープゴートになってもらった」
 僕への責任転嫁か。
「あのなー、そのせいで富永は」
「富永は?」
「バンジージャンプする羽目になったんだぞ」
「バンジージャンプゥ?」

   * * *

 キミとキミ。鳥山課長は、加藤と富永を指さして
「キミらは、まだ若い。キャリアを積めてない。今回は、デクノボウに徹してもらう。ただ、うん、と、はい、だけ繰り返して、こちらに同意するだけでいい」
 厳しい言葉だ。だが、事実は事実だ。今度は僕に指を向け
「会議の中心はキミにやってもらう。サポート役は、第一開発課の田中クンに任せる」
 今度は、僕に厳しい言葉だ。
「僕、一人では無理です。前回も、実は一人で決めようと思ってました。でも、あの有様です。全く通じなかった。田中にも立場上、限界があります。課長、無理です」
「おいおい、先輩、まだ残ってる人がいますよ。実は凄腕のロートルが」
 加藤…… 加藤が一番辛いはずだった。自分よりも第一の田中が選ばれたことに一番、憤慨しているのは彼だろう。悔しさを堪えたその目線の先には。
 そうだ、余計なプライドは捨ててしまおう。僕は揉み手をしながら芝居がかった声色で
「助けてください。お願いします、課長ぉ」
「うむ、よろしい」
 ひょっとしたら箱根の件の仕返しだったのかもしれない。

  * * *

 会議は鳥山課長の発言から始まった。
「まず始めに、訂正しなければ為らないことがあります。私たち、第四開発課は、本気でした。真剣に努力してきました。ただ、慣れていないのか、その方向が悪かった。しかし、この一週間、非常に充実した仕事が出来たと確信しています。どうか、我々のこの一週間の真剣の努力を、少しでも真剣に聞いてくださればと…… お願いします」
 富永が顔を覆った。六月の風。湿った追い風が吹いた。それに乗るようにして、僕はサーブを打った。
「では、本題に入ります。まず、我々がこの新型扇風機へと新たに導入するのは次の三つです。『温度センサー』と『湿度センサー』、これはクーラーでも使われている温度と湿度をそれぞれ測る装置、言ってみればデジタル化された温度計と湿度計です。それと『風量切り替え』の機能。これは扇風機の羽の回転速度の強弱の変化を調整します。以上、三点です」
「シンプルさがウリじゃなかったのかね」
 と反論。
「シンプルなのは変わりません。お客様が使うボタンは一つだけ、スイッチの入り切りだけです。今回は、シンプルなだけではなく、便利さということを意識しました」
「ほほう」
 まずはミクロから
「まず風量切り替え。これは20段階まで可能だそうです。技術開発が進めば、より低コストで、25、30段階も可能とのことです」

 相澤と山内が走ってくれた。相沢が
「インパクトがあってキリがいい数字ってことで、10段階を目指したんですけどね。先に12段階までいけるのに出会っちゃったんですよ。こりゃ、15段階まで進めないといけない、と加藤先輩がノッちゃって、粘ってみたら何時の間にか20段階に」

「しかし、そんなに多い段階数は、却って煩わしいんじゃないのかね」
 待ってましたと胸を張り、
「実際にお客様が使うのは一つのボタンだけです。ボタンは一つ。それを押すだけで後は温度センサーと湿度センサーが温度と湿度のデータを測り、それに応じてもっとも快適な回転数を1から20までの中から選び出し、自動的に最適の風量を送り届けます。本製品のコンセプトは、何時でも何処でも、スイッチを一つ押すだけで、オートで最適な風を、です。北海道なら6、静岡なら9、沖縄なら14、東京なら11といったことが可能になるわけです」
 どんどんマクロに広げていく。
「バンコクは12、デリーは15、サンパウロは17と、こうして、最小限のモデルチェンジで、海外にも持っていける商品でもあります。例えば、雨季と乾季の差が激しい東南アジアなぞ、格好のマーケットだと思うのですが」
「海外に出すねぇ。まずは国内で売れなければ。気が早いよ」
 売れる、という言葉が出た。悪い流れではない。田中がスマッシュを放った。
「遅かれ早かれ、よりコンパクトで高機能の温度センサーと湿度センサーは、冷蔵庫やドライヤー、もしかすると安全面でテレビ、パソコンにも応用させなければいけなくなるかもしれません。同じ冷房器具である扇風機は格好の足がかりだと思うのですが」
 田中は相変わらず派手なジェスチャーだ。興奮しているのだろう。
「それに、ウチの課長に本企画を話したら、いいぞ! これは! と随分と乗り気でしたよ」
「ふむふむ」
「しかし、何故その第一開発課の課長がここに来ていないのかな?」
 強烈なカウンター。
「そっ、それは課長も多忙なわけでして」
 態勢が崩れた。拾えるか。
「課長ならここにもいますよ」
 鳥山課長が支えてくれた。
「第一開発課と比べれば、私たちはまだまだ力不足です。でも私たちの本気、成長の可能性は、前会議と今会議でご理解いただけたと思います」
「確かにあのアナロ、おっと失礼、第四開発課がこんな企画を持ってくるとはね」
 浮いたボールが返ってくる。鳥山課長と田中に目を向けると、やって来いという顔をしている。
 肩幅まで足を広げて、腰を捻ってラケットは水平に被せるように、スマッシュ!
「確かに扇風機は古い、昔から親しまれてきた冷房器具です。そこに革新的な改良を重ねる意義があると思います。この変化に、お客様はどう答えるか。それを確かめる為だけでも価値があると思います。そして十年後、二十年後を見据えた先の、我々の開発プロジェクトの方向性を照らす意義ある実験になると思うのです。
 もちろん商品としても価値があります。取り付ける温度センサー、湿度センサー、風量調整、これらのコストを、ボタンを一つにするという削り方で、賄うことが出来ます。格段に安いというわけにはいきませんが、他の扇風機と同価格帯で、或いはそれ以下で提供出来る見込みです」
「古いものを、新しく、お手頃にか…… 面白いかもしれませんな」
 決まったか!
「しかし、実感が沸かない。現物を見なければどう革新的なのか、今一つわかりにくい」
 外れた?
 少しの間、だけど気が遠くなる程の間、ボソボソとお偉方の相談。色々な声が混じる。それからゆっくりとこちらを向いた。
「よしっ、三月までに試作品を作り上げること、その為の次の会議は」
 僕は心臓の中で握りこぶしを作り、小さくガッツポーズをした。


○ボーナストラック

 その夜、僕は浅い眠りの中、妙に懐かしい夢を見た。ヒロさんが出てくる夢だ。


夜の高速道路。
街灯がオレンジ色に光っていた。
車がビュンビュン走ってるのだけど、それも気にせず走り続ける。交差点を通り抜ける。自転車で。

僕の隣に旧友が一人。
中学生の頃の旧友だ。
彼は確かいじめらっれ子で、偶にいじめっ子だった。
ちょっと粗野で、攻撃的で、でも、とても優しい人。
素直じゃない振りをしても、すぐにそれがわかっちゃう純な人。
スマートじゃないけど、時にキザだったけれど、良い部分も悪い部分も、心を届けてくれる人。

ずっと、忘れてた。
だけど、彼は小学生の時、傍らに居て、自分を出すのがとても苦手な僕の横で、怒ったり、泣いたり、悩んだり。
でも最後にはとても笑顔で。
僕も連られて、笑顔になって。
とても、大切な思い出。

僕の隣に旧友が一人。
僕と一緒に楽しそうに自転車を漕いで、滑る様に。ペダルは魔法の様に軽くて。それはとても眩しくて。
行き先はわからなくても、それは、とても楽しくて。

  * * *

「かんぱーい!」
「うぃー」
「かっ、かんぱい」
 ジョッキとジョッキが勢いよく、ぶつけられた。
 田中が鳥山課長と、楽しげに話している。どうも、この二人、気が合うようだ。聞き耳を立てると、これからの時代、中国だ、いや中東だなどと、論を交わしていた。
 加藤は小林に一気飲みするようはやしたて、小林も満更ではない表情を浮かべる。流石に
「やめとけ、やめとけ」
 と言ってやったが……
 富永はすっかりノックダウンして、座布団を枕にして横になり、ぶつぶつ呟いている。
「ああ、何だろ、こんなに楽しい、お酒はじめて」
 なんて言葉が、耳に入った。
「まだまだ、これからだぞ!」
 とハッパを掛けようとしたが、ほっぺた全体からほっとしたものが、ほどけない。ああ、今日くらいいいよな。ああ。
えんがわ
2013年02月12日(火) 02時50分28秒 公開
■この作品の著作権はえんがわさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
うーんビミョー……

この作品の感想をお寄せください。
No.4  えんがわ  評価:0点  ■2013-03-24 23:39  ID:9lyCR84PUu6
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あああああ!
ヨシさん? ヒロさんとの誤記です。それもけっこう大事な場面で。

その他もろもろ、あんまり周りが見えてなく、全体のバランスに欠けているのだと改めて思います。
こういう時は「失敗作」って斬ってくれていいんじゃないかな。それも困ってしまうんでしょうが…… 優しすぎです。
戸惑いながら、それでもよいなと思う部分を拾ってくれて、ありがたい。もっと自分も悩んでみます。
No.3  藤村  評価:30点  ■2013-03-24 11:04  ID:sg12n8JFuiY
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読みました。
遠吠えのところ、それからヒロさんのことは情感があってよいなあと思うのですが、小説全体としてはどう楽しんだものだか途惑いました。
ヨシさんって誰かなあ、とか。うーん。などなどという感じです。すみません。
No.2  えんがわ  評価:--点  ■2013-02-14 18:53  ID:43Qbmf87t4Y
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こんにちは。ここ最近、すっかり、おさんのお世話になっている気がします。
前の文章も読んでいただいてたなんて、嬉しいです。
感想は多分受け取ってないんじゃないかな。お2人から感想を頂いて、そのまま沈んでしまったので。

楽しく書けました。楽しく読んでいただき、嬉しいです。
漫画っぽいというのは、現実味が薄いってことなのかな?でも、楽観的に、好意的に受け止めようと思います。
ありがとうございました。
No.1  お  評価:30点  ■2013-02-13 21:14  ID:.kbB.DhU4/c
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こんちわ。
これ、前に読ませて貰ったことがありますよ。
うーん、細かくは憶えてないんで、どこが変わってるのか変わってないかとかは分かりませんけどねぇ。
漫画っぽい感じで楽しかったです。
あんまり色々書くと前に書いた感想と齟齬が出てくると恥ずかしいので簡単に。
でわでわ。
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