午前三時の魔
 ニルギリから抽出された飴色の液体を紅茶と名付ける。
 夜との距離は隣人よりも近く、恋人よりかは遠い。昼間のように馴れ馴れしくないのは、彼の気質にありがたかった。
 合成皮革に身をうずめて、首から上を重力に任せる。両の手のひらから熱が染み込む。腕はスポイトのように液体の熱を吸い上げ、ゆっくりゆっくり、皮膚、肉の筋のひとつひとつを浸していく。内蔵は沈み、骨は漬け込まれる。陶の器を持ち上げた分の肉体の運動は、すぐに溶けて身体の内とも外ともとれない宙に霧散していく。
 夜の冷気が友人の図々しさで彼の肩を叩いた。夜は昼ほどこちらに干渉してはこないが、この季節だけは面倒な子分を引き連れている。奴にとっての玄関はモニター付きワンドアツーロック式のアルミ扉ではなく、二層構造になっているガラスの戸だ。殺風景なベランダからお邪魔した奴は、彼にとってはおしゃべりな男と同等に厄介者である。しかし、むしろ今は歓迎してもいい心持ちだった。冬の夜気は彼にとって煩わしい相手だが、熱い紅茶にしてみれば相棒であり、女房役だ。舌を起こし、鍛え直す鍛冶屋の鎚だ。
 彼はカップに口をつけ、少しすすった。味わって、またすすった。舌の細やかな凹凸を埋めて、とろりと口内に満ちていく。隙間と溝を覆い尽くす。彼の舌が数回うねった。小さな紅い海を、クジラの尾びれが攪拌する。蒸気は出口を求めて暴れる。一息に嚥下すると、食道の壁を流れ落ちる熱い奔流と、上昇する馥郁たる香とに別れた。彼は上半身の安堵感に満足した。更に何口か含み、舌で転がす。
 冷気と紅茶が握手をする光景が見える。瞼が重くなり、カップの重みに耐え切れなくなる。半開きの瞳に、おやすみ、と囁く冷気と紅茶の姿が映った。頭を撫でられ、安心しきった彼は、まだ湯気立ち上る液体を残す器をテーブルに置いた。熱を帯びた胃が先導するようにソファに横になる。床に落ちていた毛布を拾い上げて乱雑に体に載せる。
 彼の眠るソファの後ろにはパソコンラックがあり、ディスプレイに映る書きかけのレポートの一部で、スクロールバーが点滅していた。チェアの背もたれにかけられているのは洗濯済みのものか脱ぎ散らかしたものか。床に散乱した書類に薄く埃が付着している。提出期限という文字が黒く丸で囲まれている。ドア一枚隔てた空間では、汚れた食器がうず高い山をシンクに形成している。時折、蛇口から雫が頂きに弾けていた。
 彼は明日、午前十一時に目を覚ます。携帯端末のアラームも虚しく、睡魔とのランデブーに溺れるのだ。そして寝ぼけ眼で時計を確認したとき、頭痛ではない理由で彼は頭をがっくりと垂らすだろう。パソコンは彼が起きたあともスリープしている。真っ黒なモニターが寝顔のようで、寝息のように規則正しいファンの音がする。彼は静かなパソコンの前で、昨夜紅茶を淹れ、優雅に堪能した自分を殴りたい衝動に駆られるだろう。
 しかし、訪れる危機と後悔を彼が泣きたくなるほど痛感するのは、まだ早い。今は午前三時。紅茶は彼にまごうことない幸福な時間を与えた。彼は快い微睡みを毛布のようにかけられ、なすすべはなかった。身体の内側を入浴したような心地の良さには抗えなかった。薄い繭が彼を包み、夢の中へ誘っている。温かな現実逃避。
 紅茶は、人差し指を唇の前で立てた。
東野春雨
2013年04月04日(木) 08時10分53秒 公開
■この作品の著作権は東野春雨さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
深夜に書きました。忌憚なくけなしてください。

この作品の感想をお寄せください。
No.5  山田花子アンダーグラウンド  評価:50点  ■2013-04-21 20:21  ID:BrBj.1iOdwk
PASS 編集 削除
読まさせていただきました。

独特の文体で舌の描写などは絵や写真では表現できない世界ですね。

しかし、訪れる危機と後悔を彼が泣きたくなるほど痛感するのは、まだ早い。今は午前三時。紅茶は彼にまごうことない幸福な時間を与えた。彼は快い微睡みを毛布のようにかけられ、なすすべはなかった。身体の内側を入浴したような心地の良さには抗えなかった。薄い繭が彼を包み、夢の中へ誘っている。温かな現実逃避。

殊に以上の部分が、僕なんかが共感してはいけないんだろうけど、共感してしまって、比較してしまって、僕という自分はなんてちっぽけな小説を書いてるんだろうと思ってしまいました。

次回作が楽しみです。
No.4  品田  評価:30点  ■2013-04-20 15:29  ID:zO/01Ct/wrY
PASS 編集 削除
 初めまして、東野さん。品田と申します。


> ニルギリから抽出された飴色の液体を紅茶と名付ける。

 この冒頭の、引きこませ方が秀逸だと思いました。また、細かい表現が素敵です。個人的には「クジラの尾びれが攪拌する」このレトリックがとても好きです。
 ただ、字数の問題でしょうか。内容が薄い気がします。薄いというよりは、厚みはあるもののあっさりとした味とでも言うのでしょうか……上手に伝えることが出来なくてすみません。
 とにかくその厚さでもって充実した奥深さを出すことが出来たら、より素敵な作品になるのではないかと思いました。

 次回作が楽しみです。ひそやかに応援しております。
No.3  gokui  評価:40点  ■2013-04-20 14:51  ID:SczqTa1aH02
PASS 編集 削除
読ませて頂きました。
これはかなり書き慣れた人の作品だなという印象でした。一文一文がかっこよく、小説はこうでなくては、という感じですね。
しかし、全体的に見るとどうでしょうか。かっこいい文章があまりにも連続していて、重点を置いている場所がはっきりしません。駄文の中にひとついい文章が紛れていると目立つように、普通の文章の中にかっこいい文章を混ぜるとメリハリが出来ていいんじゃないでしょうか。読みやすくもなりそうですし。
次回作も楽しみにしています。頑張って下さい。
No.2  東野春雨  評価:--点  ■2013-04-07 17:32  ID:p0sEWYg1gDY
PASS 編集 削除
to 卯月 燐太郎 様

ご意見ご感想ありがとうございます。
味がある、と仰ってくださってとても嬉しいです。

確かに、この文体はわかりづらいです。
そしてその理由は、僕自身が、小説は書き手だけでは完成しないと考えているからです。読み手はただ文章を受容するだけではなく、「この表現はどういう意味だろう」「この比喩や擬人化はなんだろう」と能動的に作品に関わっていき、脳内でのイメージをあれこれ巡らせていくことで、より作品の理解を深め、また自分の中に筆者の世界を再構築することができると思うのです。書き手と読み手によってひとつの文章世界が共有される、それが肝心だと思うのです。

しかしご指摘のとおり、導入部分での凝った文章はキャッチーに映るかもしれませんが、その後も似たようにあれこれ思案しながら読まないといけないとなると、確かに読み手は疲れてしまいますね。不親切だったかもしれません。多くの人の目に触れて欲しいという願望は僕にもありますので、これでは本末転倒になりかねないですね。

内容は、実のところ二の次でした。今回、『午前三時の魔』は表現技法を考えて駆使することを念頭に置いていたので、オチに関しては後付けも程がありました。次からは、文字通り締まる締めを用意します。

貴重なご意見ありがとうございました。
卯月様の文章も是非読ませていただきます。
No.1  卯月 燐太郎  評価:40点  ■2013-04-04 22:02  ID:dEezOAm9gyQ
PASS 編集 削除
「午前三時の魔」読みました。

独特の文体で味がありました。
逆に言うと、その味のある文体は考えなければ、意味が分からなかったりします。

A>>夜との距離は隣人よりも近く、恋人よりかは遠い。昼間のように馴れ馴れしくないのは、彼の気質にありがたかった。<<

だから、導入部のAなどはよいのですが、こういった少し考えなければ、内容がわからない文体で小説全文を書いてしまうと、小説よりも「謎解き」に近くなってしまいます。

ウイリアム・アイリッシュは「幻の女」という作品の導入部で下記Bのように書いています。

B>>夜は若く、彼も若かったが、夜の空気甘いのに、彼の気分は苦かった。<<
これは、あなたの文体と似ています。
しかし、そのあとが違います。アイリッシュのその後は、わかりやすく書いています。もちろん翻訳の小説ですけれど。

ということで、あなたの作品の導入部はよいのですけれど、その少し考えながら読まなければ理解しにくい作品はもう少し、読み手のことを考えた方がよいでしょう。
読み手にわかりやすくなおかつ惹きこむ作品を書くということです。
だから導入部は「Bでよいのですが、そのあとは、すらすら頭に入る文章で書く必要があると思います。まあ、あなたの文体を見ると、書ける人だということはわかるのですけれどね。
内容についてですが、仕事に追われているにも関わらず、睡眠をとってしまった、というようなことで、危機感があるように描かれていますが、もう少しドラマを感じさせた方が作品は締まると思います。
たとえば「大分むぎ焼酎二階堂CM(YouTubeで、見られるので、検索すればよい)」は数多く創られていますが、わずか30秒ばかりの時間の中に人間ドラマがきっちりとあります。
そして詩的な作品にもかかわらず、わかりやすい。
この辺りを意識すれば、掌編は比較的楽にできるのではないかと思います。
点数は35点をここでは付けておきますが、サイトの方では40点にしておきます。
総レス数 5  合計 160

お名前(必須)
E-Mail(任意)
メッセージ
評価(必須)       削除用パス    Cookie 



<<戻る
感想管理PASSWORD
作品編集PASSWORD   編集 削除