迷走中
 雨はおとといからシトシトと降り続いている。まだまだ止みそうになかった。雨が降り続ければ地面がぬかるんで、趣味の散歩をしようという気もぼくには起きない。散歩をしないなら外に出る理由も無くなるから、おとといからぼくは部屋の中にカタツムリみたいに閉じこもっていた。けれども、いつも暇さえあれば何の気無しに散歩に出る癖がぼくにはあるから、ついつい手足がうずうずとして落ち着きを無くし、部屋の中を歩き回ってしまう。そうやって歩き回りながら、散歩に出ようか、出まいか、と考える。部屋の窓から庭先の塀が見える。塀にはびちょびちょに濡れたカタツムリがゆっくりと這っていて、それを眺めるだけで雨に濡れた気分になるぼくは、不思議と蒸した土のいやな匂いも感じて、やはり散歩しようとは思わなくなる。
 考えてみると部屋にいても暇を潰すことが出来る。ぼくは机の上に転がっているビー玉のひとつを指先でつまんだ。深い青色をしているビー玉。机には様々な色のビー玉が転がっているが、そのビー玉を選んだのは気まぐれだった。
 ぼくは椅子に腰掛けて、ひょいとビー玉を目線の高さまで上げた。ビー玉越しに世界が青色に染まり、本棚に並べられた本も涼しげに青い。徐々にビー玉を目に近づける。近づけて、近づけて、やがて視界いっぱいが青に満たされると、懐かしい気がするのだが、それはきっと、夏の涼しげな海がぼくの目の前にあるからだ。その海にぼくはもぐる。子供がそうするように、ざぶんと。全身をひんやりした柔らかい海水が包むような、そんな感覚がする。ぼくはもぐる。ビー玉の中の白い気泡はぼくの吐き出す息だった。なぜだか、魚もいるように思われる。シトシト雨の音、家の前を通る車の音が波の音に変わる。ぼくはその青い海に身を任せて、やがて息が続かなくなると海から顔を出す。頭上には青空があって、潮風も吹いていた。
 ぼくはビー玉を目から離す。それはぼくが夏の海から出るのと同じことだった。指先につままれたビー玉をもう一度遠目で見た。そうすると、夏の海が丸く小さな、しっとりした青い玉に詰め込まれているように思われ、つい愉快になった。
 ……こういった趣味がぼくにはある。ぼくは夢想だとか、そういう事が好きで、部屋にはビー玉、人形、万華鏡、沢山の夢想を手助けする玩具がある。夢見がちだとか、しょうもないとか、世間に思われているだろうが、ぼくにはそう思えなかった。

 不意に玄関の呼び鈴がなった。頼んでいた荷物を宅配業者が届けに来たのだろうと思って、玄関を開けるとそこには傘を差した女があった。女は薄あかい外套を着ていて、髪はみじかく顔は味気ない。しろい雨を背後にした、味気ないその女の顔は見覚えがあったが、はてどこで見たのだろうか、と考えたがぼくには分からない。ぼくは記憶力がわるかった。
「ちょっと話をしに来たの」
 女は雨の雫のしたたる傘を畳みながら言った。ぼくは彼女が誰なのか思い出せないが、誰ですか、などとは失礼な気がして到底聞けず、はて誰だろうか、という思いをずるずる引き摺ったままに女を部屋に招き入れた。 
 女は部屋に入ってぐるりとあたりを見まわした。口には出さないものの、女は相当、この部屋におどろいているようだった。机の上に転がるビー玉、床に置いた万華鏡、棚にならんだ人形、布団の上の絵本。家具は色とりどりで、おもちゃ屋さんのような、そんな部屋を見られると、なんだかぼくの脳味噌をのぞかれているようで、恥かしく思った。
 実際ぼくの部屋に人が来ることは少ない。最後に来たのはぼくが小学生の時なのだから、部屋をのぞかれるのには慣れていない。それに、後から思い出したがぼくは部屋に人を呼ぶことが嫌だった。
「適当にすわって」
 ぼくが言うと女は外套を脱いで、置かれた座布団の上に静かに座った。いまだに彼女が誰なのか思い出せずにいたが、ぼくはもう諦めていた。彼女に適当に座れと言ったように、話も適当に合わせて、適当な時間に帰ってもらい、今日は全て適当に終わらせよう。ぼくから話す理由も別段ないから、ぼくは椅子に座ってぱらぱらと絵本を読んでいたが、その内女が口をひらいた。
「あなた、いつまでこんな生活を続ける気なの?」
「なにが?」
 女の方を見遣ると、呆れたような顔をしていてぼくは困ってしまった。
「だから、こんな生活よ。まさかあなたが、いまだに堕落しているなんて思わなかったわ」
「堕落してるわけじゃないけどね、優雅かもしれないよ」
 ぼくは誰だか分からない女にふざけながら言った。ぼくの目線はと言うと球体間接人形ばかりを見ていて、その赤いガラス玉の目に吸い寄せられていた。もしくはガラス玉の目がぼくに吸い寄せられているのかもしれない。そんなどうでもよい事も考えているのだった。
「そう? こうやって面と向かって人と話すのは何ヶ月ぶり?」
「八ヶ月ぶりぐらいかな」
 昨日あまり眠れなかったせいか、ぼくはあくびばかりしている。煙草をポケットから出して吸い始める。バニラのあまい香りのする煙が、ふわふわした雲みたいに天井にのぼってゆく。
「仕事はまだする気が起きないの?」
「仕事ね」
「そう、仕事よ」
 味気ない女の目を見る。女はなんだかぼくを哀れむような、ぼくを哀れむ母性を持ったような、そんな目をしていた。理由も、そうする意味もぼくには見当付かないが、きっとこの女はぼくをどうにかしたいのだろう、と思われて、ぼくはやっと彼女に適当ではない接し方をしようという気になった。
「ぼくはね、そろそろ次の旅にでも行こうと思っているんだ。この前は四国を放浪したよ。種田山頭火って知ってる?旅する詩人だよ、ぼくもあぁ言う感じに旅がしたいね、詩は書けないけど。代わりに三味線でも弾こうかな」
「お金は?」
「子供の時から、コツコツ溜めた貯金があるんだ。たぶん残り百万くらいかな」 
 そう聞いた女は呆れた顔をして、はぁ、と溜息までついたあとでぼくに問うた。
「あなた夢見がちね。どうして旅ばかりしているの? お金がなくなったらどうする気?」
「君はなんだか堅い人だな」とぼくはふと口からこぼした。もはや女が誰か分からない、というのは忘れていて、むかし母を説得した時のような気分にさえなっていた。
「このビー玉、絵本、人形をなんでぼくが集めているか分かるかい。子供の時にこれらで十分遊べなかったからだよ。塾、とかそんな習い事ばかりさせられていたからね僕は。何も出来なかったから、いま子供時代を体験しようと思っているんだ。旅もそうだよ、ぼくは子供の時にめったに遊べなかった自然と遊ばなくちゃならないんだ。お金が無くなったら、それはその時考えるよ」
「あなたおかしいわ、世間のみんなは時間をきちんと進めているのに、あなたは時間を逆に進んでるわよ。あなたやっぱりおかしいわ」
 女は世間の代表者さながらのことを、感情的に言った。無意識の内に外套の袖を握ったり離したりしていて、いらだっているのが分かる。女の母性が適当な性格のぼくにいらだったにちがいなかった。女は続けていった。
「だから、あなたは一人ぽっちで、ずっと内界に閉じこもって、お腹の中のあかちゃんみたいにまどろんでいるのね。寂しくはないの?」
 女があまりにも、上から目線で、侮蔑するように言うからぼくも自然といらだった。こういう風にぼくはいつも人とこんがらがる。ぼくがわるいのか、人がわるいのか、はっきりとは知れないが、ぼくは決して人を憎んでいないし、好んでもいなかった。雨はシトシト降っている。ぼくは意地になって言う。
「寂しさなんてあるもんか。一人だから、ぼくはこうして自由でいられるんだ」
「そう、残念ね、残念ね。あなたもう救いようがないわ。おかしいわよ」
 そうは言ったものの、その後もしつこく女はぼくを諭した。「あなたは子供だ」とか「夢ばかり見てて楽しいでしょうね」だとか言ってぼくを発奮させようとも試みていた。
「君には関係がないよ、ぼくは誰にも邪魔されない、一人の自由が好きなんだ」
 とすこしだけ感情的にぼくが言ったきり、女は無言になった。仕方無しにぼくも無言になって、二人のあいだは雨に濡れた後のような湿っぽい雰囲気になった。ぼくはどうしていいのか分からなかったから、また絵本に目をやった。

『かいじゅうたちのいるところ  作・モーリス・センダック』
 表紙には怪獣の絵が描いてある。ずんぐりむっくりした怪獣。左端には小船が浮かんであった。赤い小船がぷかぷか揺れている。これはぼくの好きな絵本、少年が怪獣達の王さまになるとか言う話の絵本である。ぼくは黄ばんだページをゆっくり捲り始めた。
「あるばん、マックスは、おおかみの、ぬいぐるみを、きると、いたずらを、はじめて」
 ……ぼくは女がいることも無視して、小声で呟きはじめた。ぼくはそれとともに、無意識のうちに近くのガムボールマシンのレバーをひねって、カランと転がったガムを噛んでいた。
「マックスは、ゆうごはんぬきで」
「もうあたし帰るわ」
 女の声が聞こえて衣服の擦れ合う音がしたと思ったら、足音もすぐに耳に届いた。そして足音は遠ざかって、玄関の開く音、閉まる音がした。女は怒って帰ったのだろう、と思ったが、さしてどうでもいい事に思われた。
「マックスは、さっさと、ふねに、乗り込んで……」
 ぼくは絵本を読み終わって、ふと女の座っていた位置に目をやる。そこにはやはり誰もいなかった。座布団がすこしだけへっこんでいるが、そのへこみも戻りかけている。シトシト雨が降っていて、聞こえるのはその雨の音だけだった。はて、あの女は誰だったろうか、という疑問がぼくにまたわいてきて、あの女はほんとに見覚えがあったのかも、よく分からなくなった。そう悩んでいるあいだに、座布団のへこみがなくなって、本当にあの女はここにいたのだろうか、という疑問さえわいたが、うんざりしたぼくは考えることをやめた。
 すると、急に自分が一人ぽっちという実感が押しせまってきた。シトシト、雨の音のなかで、はてぼくは一人ぽっちで寂しいのだろうか、そうではないのだろうか、とまたまた考え始める。その考えだけは、やめることが出来そうになかった。
 ふと庭先で、にゃあ、と鳴く野良猫の声があって、なんとなくそいつを家に入れる。濡れた体をふいてあげ、明日から旅に出てしまおう、とぼくは思いながら野良猫を抱いて寝た。聞こえるのは雨の音だけだった。
com
2013年03月29日(金) 12時37分44秒 公開
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No.8  山田花子アンダーグラウンド  評価:50点  ■2013-04-21 20:22  ID:BrBj.1iOdwk
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このサイトに来て一番面白い作品です、com様の作品。

お大事に。
No.7  卯月 燐太郎  評価:0点  ■2013-04-17 01:45  ID:dEezOAm9gyQ
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入院中ですか。
これは、ご無礼しました。
健康が一番なので、お大事にしてください。


なかなか返信がないので、おかしいとは思っていましたが。

ゆっくりと静養して、身体を治癒してください。

また、体調が戻りましたら、com様の個性のある作品を読まして下さい。


それでは、失礼します。
No.6  com  評価:0点  ■2013-04-16 23:27  ID:L6TukelU0BA
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皆さん、すみません
卯月さんの仰る通り入院中です
サイトの利用規約を見る限り、感想返しは義務ではなさそうなので、落ち着いたらゆっくりと取り掛かろうと思います
No.5  卯月 燐太郎  評価:0点  ■2013-04-16 21:55  ID:dEezOAm9gyQ
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いつになったら、返信入れるのだ?
あんた、このサイトの常連だろうが。

私は、こういう事は、一切遠慮しないからな。

それとも病気で入院でもしているのか?

作品を投稿して、感想、批評が入ったら、返信するものだ。

それも、わからんのか?

だったら、その時点で、投稿をする資格などはない。
No.4  卯月燐太郎  評価:40点  ■2013-04-03 01:41  ID:dEezOAm9gyQ
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「迷走中」読みました。

独特の世界観を持っている作者様ですね。
読んでいて雨の匂いを感じました。
導入部のカタツムリにビー玉、振り続ける雨、人形に万華鏡。
そして尋ねてくる謎の女。
女と主人公との会話。
わかりそうでわからない女の存在。
ビー玉は描写されていましたが、万華鏡と人形が描かれていませんね。
この辺りは克明に描写したほうがよいと思います。
作品の世界観が広がりますよ。
作者様は自分の宇宙を描きたいわけでしょう。
それには作品の中に出てきたアイテム(小道具)で自分の世界を描けるものは描かなければ損です。
面白味が少なくなります。
女の描き方はなかなかよかったです。
距離感がよいのかな……。
この作品に煙草は必要ないかなぁと思いましたが「バニラのあまい香りのする煙が、」と描かれていましたので、うまくバランスが取れました。
あと「座布団がすこしだけへっこんでいるが、そのへこみも戻りかけている。」こういうのはいいですね。そこに存在があったということになりますし、時間の動きも感じます。

タイトルは適当に付けたでしょう。
もっと真剣につけてください。
No.3  弥田  評価:40点  ■2013-04-03 00:05  ID:ic3DEXrcaRw
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結局女が誰だったのかよくわからなかった点と終わり方がとてもよかったです。
No.2  昼野陽平  評価:30点  ■2013-03-31 21:57  ID:NnWlvWxY886
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読ませていただきました。

迷走中とのことでいろいろな要素がとっちらかっているなと。
女は、もっと主人公をがんがん攻めるとか何らかの方法でインパクトが欲しかった感じです。
ところどころ光るところはやはりあったと思います。

今後も期待してます。では
No.1  zooey  評価:40点  ■2013-03-31 00:06  ID:LJu/I3Q.nMc
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読ませていただきました。

浮き世から離れて自分の殻に閉じこもる、
その殻の中の描き方がとても繊細でいいな、と思いました。
丁寧に描かれることで、しっかりとビー玉だとか夏の海だとか、そういうものへの愛情が感じられました。
だからこそ、主人公にとって、そういったものが大切なんだというのも伝わってきます。

彼が大事にしたいものをただの夢想だと軽視する世間への反発にも、
ある種の共感を呼び起こされた気がします。

それであっても、浮き世から離れきることができない、
そんなジレンマに、一筋縄ではいかないような、深みを感じました。

世間から離れたくない感情を否定したくて旅に出ようと思うのも、切ないなと思って好きです。
なんか分からないですが、そういうものだなと思います。

かいじゅうたちのいるところ、私も好きです。

良かったです。ありがとうございました。
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