夢見るふたり
 震える手でタバコに火をつけ、一息大きく吸い込むと、体中から緊張の波が引いていくのがわかった。追われるがままに、この細い路地に逃げ込んだが、懸命に走っているうちに首尾よく追っ手を引き離したらしく、いつの間にか背後に迫る怒声や足音は消えていた。壁を背にしてその場にへたり込む。吐き気を覚えて、二、三度えづく。胸ポケットの中の鉄の塊の重みがそのまま、体内でつかえているかのようだった。果たして、これさえ持っていなければ、何も起こらずに済んだのだろうか。いっそ投げ捨ててしまいたかったが、それでいまさら自分の犯したことの重大さから、解放されるわけではない。
 馬鹿なことをした。鉛の玉を額に撃ち込んだときの、焦点の定まらない戸塚の目つきを思い出し、達哉は身震いした。渇いた銃声が響いたあと、奴はひざを折って崩れるように、数秒かけて倒れた。誰もがその様を、固唾を呑んで見守っていた。そして、戸塚が額から血を溢れさせながら痙攣するのを止めたところで、時間は動き出した。達哉はきびすを返して一目散にバーから飛び出した。背後で女が叫ぶのが聞こえた。美香の声だった。いまは戸塚の情婦だが、以前は達哉の恋人だった女だ。達哉が塀の中に入っている間、戸塚に鞍替えしていたのだった。確かに達哉はY会の一介の構成員、所詮チンピラに過ぎないが、戸塚は次期会長と目される実力派の若衆頭だった。権力には雲泥の差がある。アプローチを受ければ、きっとどんな女でも、乗り換えるに違いない。だが、美香だけは他の女とは違う、出所まできっと待っていてくれるだろう……そんな淡い望みを抱いていた。甘かった。やくざの世界に足を踏み入れる前から、人間はかならず裏切るものだと、よく自分に言い聞かせながら生きてきたつもりだったが、心のどこかで、本気で愛した女だけは信じたいという思いがあったのだ。出所祝いと銘打った酒席だったが、達哉の目の前で、自らの権力を誇示するかのごとく美香をはべらせる戸塚の薄笑いが我慢ならなかった。美香の打算的な身の振り方も、甘ったれた自分自身の性根も、許すことができなかった。はじめから本気で戸塚を殺すつもりで、拳銃を隠し持っていたのか、達哉自身もよくわからない。ただ、怒りが頂点に達したとき、ほとんど自動的にポケットの中で拳銃を握り、戸塚の額に狙いを定め、引き金を引いていた。結果、奴は死に、達哉は追われる身になった。いまとなっては、それが取り返しようのない事実なのだ。
 燃え尽きたタバコの吸殻を捨て、これからどうするか思い巡らす。逃げ切れるとは思えなかったし、逃げ回ってまで生き続けようとも思わなかった。Y会の息のかかった組織は、全国各地に存在していた。他所から流れてきた人間は、どこへ行ってもあっという間に目をつけられる。そして数日もしないうちに殺し屋が差し向けられて、身元が分らぬよう、証拠も残らない形で文字通り消されるだろう。細かく切り刻んだ死体の肉は、Y会が運営する牧場の犬や豚が食う、バスタブに薬品を注いで跡形もなく溶かす、炭になるまで焼いて粉々に砕いて海に撒く……。組織にはそんな狂った仕事を請け負う連中が数え切れないほど囲われているらしい。
 死んだあと、その体がいかにゴミ同然に処理されようと、そんなのはどうでもいいことだ。達哉には葬式を挙げてくれる友人や親族もいない。入る墓もない。自分の死を悲しんでくれるはずだった最後の一人、美香は戸塚の情婦になってしまった。絶望を通り越して、空虚だった。ささやかな野心やプライド、未来への希望もなにもかも、すべて粉々に打ち砕かれてしまった。殺害現場から咄嗟に逃げ出してきたのは、死に場所くらい、自分自身で選びたかったからだ。生まれてくる家も生き方も選べず、苦しむばかりだった人生に、この期に及んで未練があるなどと思いたくなかった。どんなに頑張っても、この先、幸せなんて巡ってこないのだ。
 しばらく休息したのち、達哉はゆったりと歩き出した。自然と、少年の頃暮らしていた町のほうへ足が向いていた。そこには、ささやかながら思い出があった。とはいっても、家や学校での思い出は、唾と一緒にはき捨ててしまいたいようなものばかりだ。
 達哉の父親はほとんど家にいなかった。帰ってくるのは母親に金の無心をするときだけだった。外に女がいたらしいのだった。両親は顔を合わせるたびに殺し合いに発展してもおかしくないほどの激しい憎悪で応酬しあったが、結局、父親は母親が言うことをきくまで黙々と殴打を繰り返し、金をどこからか見つけ出して去っていくのだった。屈強な体格の持ち主だった父親の手にかかり、母親の顔と体はそのたびにあざだらけになった。殴られても、殴られても、泣きわめきながら無慈悲な夫に繰り返し飛び掛っていく母親の姿はあまりにも痛ましかったが、そういうことがあるのも月に一度くらいで、他の日には、父親はまったくといっていいほど家に寄り付かなかった。思い出すことができるのは石ころのような丸い拳と、威圧的な体つきだけで、どんな顔をしていたか、どんな声をしていたか、他に特徴らしい特徴も思い出せない。達哉にとって父親は、あまりにも馴染みが薄く、激しく憎悪する以前の存在だった。ただの不愉快な、生活の侵略者。そのせいか、本当に血が繋がっているとは、どうしても想像できなかったのは、かえって幸せだったかもしれない。憎むべき相手と親子であるという、つまらないヒロイックな葛藤を背負いこまずにすんだ。
 あいつ、いつか殺してやるから……。それが口癖だった母親は母親で、不特定の男をいつも家に連れ込んでいた。生活のためと言って金で体を売っているときもあれば、ただ単に若い男に慰めを求めているときもあった。少しは母親の境遇に同情する余地もないではない。しかし、母親が父親でない男に抱かれている声を、押入れに閉じこもって聴いているうちに、達哉の抱いていた憐れみは軽蔑へと姿を変えていったのだった。だんだんに姿を見るのも、触れられるのも嫌になった。中学を卒業して二度と家に帰るまいと決心したとき、母親は、もはや産みの親ではなく、セックスにとりつかれたただの惨めな中年女に過ぎなかった。やりたいようにやればいい。達哉はそう思いながら、心の中で密かに親子の縁を切った。
 孤独と極度の人間不信から、達哉は無気力かつ攻撃的な雰囲気を醸し出すようになり、進学した高校で不良扱いされたが、ヤンキーと呼ばれる連中とは距離を置いた。強いやつの後ろをついて回るだけの狐どもが、信用できるはずもなく、彼らが徒党を組んで行う日常的な小競り合いには徹底して無関心を決め込んだ。一匹狼を気取っていると、それはそれで因縁をつけられることが多かった。幸い、喧嘩では負けた覚えがない。達哉は父親に似て筋肉質ではあるものの上背がなく、決して体格に恵まれたほうではなかったが、並外れた気迫があった。死ぬ気でかかってくる奴などそうはいないから、死ぬ気で戦えば、たいていの不良は逃げ出すか、負けを認めさせるのをあきらめるのだった。生傷の絶えない時期があった。一人で、五人も六人も相手にせねばならないことは、ざらであった。十人以上数がいるときは、潔く遁走したが、それで勝ったと思われぬよう、相手の数が少ないときに戦いを挑んでけりをつけた。場数を踏むたびに喧嘩の仕方を覚え、名前も少しずつ知られていき、いつしか「不敗のキラーウルフ」という壊滅的センスの通り名で恐れられるようになった。その後は無闇に挑戦してくる輩も減った。美香と出会ったのも、ちょうどその頃だった。
 美香は、達哉とは別の高校に通う不良の妹だった。兄は「無敵のアイアンホーク」というプロレスラーのような通り名で、一時期達哉とライバル関係にあったが、高校を卒業する前に交通事故で死んだ。ピザの宅配のアルバイト中に、彼の乗ったスクーターが十tトラックに追突されて即死したのである。両親がおらず、兄と二人暮らしだった美香は、哀しみと不安とで、しばらく泣きくれたという。運転手の所属していた運送会社から受取った慰謝料で葬式を出したが、その後、美香は親戚の誰の世話になることもなく一人暮らしをはじめたらしかった。気にかけて、達哉がその住所を訪ねると、美香はとても喜んでくれた。
「中で線香上げてって。一也もきっと喜ぶから。いつも達哉さんのこと、すごい男だってほめてたの。どんな奴が相手でも必ず一人で戦って、ぜったい降参しないんだって」
 そう言って、何のためらいもなく達哉を招きいれたのだった。一也というのがアイアンホークの本名だった。
美香が一人で暮らす狭い部屋の中に仏壇はなく、隅っこに位牌と写真だけが簡素に飾られていた。ライバルだった一也の笑顔を、達哉はその写真で初めて見たのだった。顔のパーツは知っている通りに厳つかったが、表情は見ている側も釣り込まれて思わず微笑んでしまいそうなほど、穏やかだった。美香は、この兄のことをとても好きだっただろうな、と思った。家族という関係を嫌悪して育ってきた達哉だったが、切なさと羨望とで、胸のうちに熱いものがこみ上げるのを感じた。
 一也は強い男だった。達哉に比べて長身で、長い手足を生かした空中戦を得意としており、それが「アイアンホーク」と呼ばれる所以だった。必殺の飛びまわし蹴りをまともに受けて、病院送りになった不良は数知れない。達哉自身もその驚異的なスピードと威力を、身をもって味わった一人だった。振り回した奴の長い足が、鈍く風を切る音はいつまでも耳に残り、思い出すだけでも震えが来た。幸い生まれつき首の筋肉が強く、打ちどころも微妙に急所を外れたため、命拾いしたようなものだった。それでも脳が強烈に揺れ、一瞬意識を失いかけた。鷹のように宙を舞い、繰り出される一撃一撃は、鉄球のように重い、まさしくアイアンホーク。だが、その天才的な喧嘩のテクニック以上に、根性も並外れているところが、自分とよく似ていると達哉は思っていた。側頭部に蹴りを受けたあと、がら空きになった相手のわき腹に間髪いれず放った、渾身の右フック。一見地味だが、ウルフファングと呼ばれた達也の得意技で、強靭な足腰の回転がその威力を絶大なものにしていた。これを受けて倒れなかった相手はいなかったし、そのときもアバラを数本へし折る、みしっという手ごたえが確かに伝わってきた。にもかかわらず、アイアンホークは微動だにせず、達也の拳をしっかり体で受け止めていたのだった。もっとも、その目にもまた、自分の技を耐え抜いた男に対する驚愕の表情が浮かんでいたが。
 この最初で最後の対戦は、二時間にわたる力と技の応酬の末、どちらも動けなくなり、ついに決着がつかなかった。前代未聞の激しい一戦は、多くの不良たちの記憶に焼きつき、後の世代まで語り継がれることとなった。二人は互いをライバルとして認め、再戦を誓い合って別れた。拳をあわせ、次は必ず俺が勝つ、と同じ科白を口にして。しかしそれから半年とたたぬうち、一也は約束を果たさずに死んでしまった。線香を上げ、手を合わせながら、
「勝負はあの世までおあずけだな」
 とつぶやく。それから帰るつもりで立ち上がると、
「夕食作るから、食べてってよ」
 と言って美香が引き止めた。
「一也の分も、いつも作ってたんだ。ハンバーグ得意なの。一人で食べるの、寂しいから」
 そう言われると無碍に断ることもできなかったし、心細そうに浮かべる美香の笑顔がいじらしかった。
 鼻歌を歌いながら台所に向かう美香の華奢な背中と、たまねぎやにんじんを細かく刻む包丁の音を、達哉は今でもありありと思い出せる。もちろんハンバーグの味も。得意と言うだけあって確かに旨かった。表面はしっかり焼け目がついていながら中身は絶妙な柔らかさで、箸でつつくと湯気と肉汁のにおいが一度にはじけて立ち昇った。ほおばって、達哉は一言、
「うまい」
 とお世辞抜きで正直な感想をもらした。美香は嬉しそうにはにかんだが、達哉も同じくらいの喜びを感じていたかもしれない。達哉の母親はほとんど料理をしなかったので、ファミレスや出来合いの弁当とは違う手料理の味のやさしさに感激していた。
「いいな、手料理。アイアンホーク、毎日こんなん食ってたのか」
「そうだね。あんまり口では誉めてくれなかったけど、残したこと、無かったな」
「あいつの体がでかい訳がよくわかったよ」
 こうして何気なく会話していると、まるで生きている人間についてしゃべっているようだったが、実際のところ、話題の中心になっている男、美香の兄はもうこの世にはいないのだ、と達哉はふっと我に返る。そして美香の表情を見やると、達哉の胸によぎった思いを察したかのように、頬が少し強ばっていた。
「一人暮らし、寂しいのか」
 不意にそんな問いが口をついて出た。彼女は一人ぼっちで、これから先どうなっていくのだろう、と心配になった。美香は一瞬だけ考えて、ゆっくりと首を横に振った。
「少しだけ、ね。でも、家事は全部できるから、ちっとも不便じゃないの。あとは慣れるだけ」
「まあ、料理もこれだけ旨くできりゃ、別に誰の世話にもならなくて良いかもな」
 ソースのついた箸をしゃぶりながら達哉はのんびりとした口調で答えた。
「うちに来ないか、って言ってくれた親戚もいたけど、あたしそのおじさん、きらいだったから。下心丸出しなんだ。一也のことは散々、ろくでもないやつだってけなしてたくせに」
 その科白を聞いてから、達哉は正面に座る美香の姿を改めて眺めやった。美香は達哉よりひとつ年下で、当然ながら年齢的には少女の域を出ないものの、男をひきつけるような色気をすでに醸し出していた。細いが決して骨ばってはいない肩や腕のライン、柔和だが力のある目元、そこにはかなげな表情が加わって、街ですれ違う赤の他人も、きっと目を奪われてしまうような、絶妙な可憐さを湛えていた。美香という名前が表わすとおり、他では嗅ぐことができないような、ふわりとした良いにおいも、艶やかな肌の周りにほのかに漂っている。親戚のおじさん、きっとたまらなかっただろうな、などとおぼえず不謹慎な同情を寄せてしまう。
「達哉さん、どうしたの」
「ん」
「もう、そんなに見ないでよ、なんかやらしいから」
 いつの間にか、長いこと美香の姿を凝視し続けていたらしい。達哉はそう言われて慌てて目を逸らした。言葉とは裏腹に、美香の口調はどことなく弾んでいた。食べ終わった皿を片付けながら美香は、
「さすがに『キラーウルフ』って呼ばれただけのことはあるよね。女の子も、手当たり次第に食っちゃう、みたいな」
 と冗談めかした文句を言った。それまであまり女性に関心を持ったことのなかった達哉は、どう切り返していいかわからずに、
「ばか、ただぼーっとしてたんだ、いまのは。何も考えてねえ」
「嘘ばっか。胸とかじっと見てたもん」
「たまたま視線がそこにあっただけだ。断じてやらしくなんかねえ」
 と、へどもどしながら答えた。美香が我慢しきれないという風に声を立てて笑った。
「意外にかわいいんだね、達哉さん。なんか嬉しくなっちゃった」
「かわいい?」
「だって一也の話聞いてたら、男の中の男、みたいな感じなんだもん。もっと怖い人かな、って思ってた」
 食器を洗いながら、美香はそれからずっと肩を震わせて笑っているらしかった。キラーウルフも形無しだった。もともと他人が勝手に呼び始めたことではあったが、後にも先にも、このときほど、達哉は自分の通り名を恥じたことはない。
「まったく、アイアンホークより手ごわいよ」
 そう独りごちて、達哉は黙りこんだ。兄妹二人で暮らしていた頃は、それはそれで幸せだったのだろう。美香が魅力的なのは、きっと兄貴に大事にされたからだ。愛すべき肉親を持たない達哉は、うらやましく思った。そして一也を恨めしく思った。キラーウルフのライバルで無敵のアイアンホーク、そしてこんな可愛い妹を一人残して死んだ馬鹿野郎。もはや写真の中でしか見ることのできないやさしい笑顔の前で、美香は毎日どんな思いをしていることだろう。
 食器を洗い終えた美香が、達哉のそばに戻ってきて、ぺたりと座る。そして机にひじを突き、愚痴っぽく語り始める。
「しょうがないんだ、あたし。男の人に好かれちゃうたちでさ。それもおじさんが多いの。学校の先生とか、バイト先の店長とか。体目当ての情けない奴ばっかり。あんまりしつこいと、一也に助けてもらうの」
 ひょっとすると俺の感性は美香の言うおじさんたちと同レベルなのか、と内心軽いショックを受けながら、
「たちの悪い兄妹だな」
 と達哉が苦笑すると、美香は首を振った。
「警告だけよ。うちのお兄ちゃん、妹思いでとっても強いから、これ以上言い寄らないでくださいって。でも、あんまり効果ないの。お兄ちゃんが恋人ってわけじゃないだろ、ってますますしつこくなるの。だからって自分が好いてもらえると思ったら大間違いだよね。それでいままで十個もバイト変えちゃった」
「モテモテじゃねえか」
「うれしくないけどね。一回だけ、一也に本当に助けてもらったかな。中学のときの担任がストーカーみたいにあたしに付きまとってたの。だんだんエスカレートして、家の周りをうろつくようになってさ。ある日、よせばいいのに、そいつ、うちのチャイム押しちゃったのね。そんときは面白かったな。一也が玄関に出てってさ。あいつ体でかいし、顔もけっこう迫力あるじゃない。あたしにぜんぜん似てないの。しばらくしたら、一也、妙な顔して戻ってきてさ。スーツ着た変なおじさんに、ここ美香さんちですよねって訊かれたから、そうだけど、何? って訊き返したって。そしたら、うん、でも、たぶん違う美香さんでした、とかなんとか言って帰ったって。違う美香さんって、誰のこと? みたいな。次の日、学校行ったら、担任の奴が近づいてきて、小声で、中学生のくせに同棲なんかけしからんぞ、って言ってきたの。彼氏だと思ったみたい。馬鹿だよね。でも、都合がいいから、そういうことにしといた。特に問題にならなかったし」
 美香はそこまで矢継ぎ早にしゃべり終えて、にわかに物憂げなため息をついた。その目線の先に、一也の遺影があるのが見て取れた。
「いい奴だったんだな、アイアンホーク」
「うん。優しい兄貴。他の人からしたら、ただの不良だったかもしれないけど」
「ただの不良じゃなかった。すごく強くて、すごく根性があった。一回だけ喧嘩したときも、あんまりしぶといから、嫌になって、こいつには負けてもいいかもって思った」
「男の人って野蛮だよね」
「そうやって認め合うこともあるんだよ」
「……でも、いくら喧嘩が強くても、根性があっても、トラックにはねられたら死んじゃうんだもんな」
 そう言った美香の声が少し震えていた。必死に涙を噛み締めているのが伝わってくる。泣けばいいのに、意志の力で頑なにそれを抑え込んでいた。達哉の前だから、というわけではなく、もう泣くのはやめたという、決意がうかがえた。押し寄せる感情の波を堪え切ったのか、美香はぷいと上を向いて、もう一度ため息をついた。
「これからは一人で強く生きるんだ。誰も守ってくれなくなっちゃったから」
 そして二、三回鼻をすすり、寂しそうに笑った。気丈というには、見るものをやるせない気持ちにさせる、あまりにも沈痛な表情だった。
「俺が守ってやるさ。兄貴の代わりに」
 達哉の口が、ひとりでに動いていた。どうしてもそう言わずにはいられなかった。まだ若いのに、こんな表情で笑うことを覚えてしまった少女を、どうして放っておけるだろう。美香が語ったおじさんたちのように下心があると思われても、別に構わなかった。美香はしばし目を丸くして達哉の顔を眺めたが、次の瞬間、口元をへの字にゆがめ、そのまなざしからとめどない涙を流した。泣き疲れて美香が静かに寝息を立て始めるまで、達哉はそばを離れなかった。
後日、達哉が下校していると、校門で美香が待ち伏せしていた。
「こないだ、感動しちゃった。遅くまで一緒にいてくれて、ありがと」
 達哉の姿を見つけると、美香は近づいてきておずおずとそう言った。
「男はみんな狼だけど、達哉さんにだったら、食べられちゃってもいいかな」
続け様にそう言った美香の可愛さは格別で、めまいを覚えるほどであった。同時に少々ばつの悪い思いをした。不良のくせにあまりにも女っ気がなく、一時は同性愛者だという噂もまことしやかに囁かれたことがあっただけに、校門での白昼堂々たるこの逢瀬は、達哉の通う学校中に大きなショックを与えたのだった。その後、キラーウルフは過去の人となった。達哉はあれほど明け暮れていた喧嘩を封印し、最低限、留年だけはしないよう真面目に学校へ通い始めたのだった。
 晴れて高校を卒業したのち、達哉は町の料理屋で板前修業を始めた。七十を過ぎた爺さんが一人で切り盛りする店で、本当は三十半ばの男盛りの息子が一人いるが、彼は跡を継がずに堅気ではない仕事をしている、とだけ聞いた。弟子入りするとき、もし仕事を完璧に全部覚えたら、自分は隠居して店を譲ってやると爺さんは言った。達哉は懸命に働いた。もし店を譲ってもらえたら、すぐに美香と結婚しようと考えていた。校門での逢瀬以来、二人は一組の男女として真剣に交際をしていたのだった。達哉が店の献立の作り方を一通り身につけた頃、美香も高校を卒業し、料理屋の看板娘として仕事を手伝うようになった。爺さんは、
「おれの仕事、ぜんぶとられちゃったよ」
 と、冗談とも本気ともつかない調子で、カウンターで常連客と笑いあうことが、だんだん多くなっていった。達哉は、幼い頃どれほど願っても無縁だった暖かい家庭を、美香と一緒に築くのを夢見た。そのたびに、こんな自分でも、頑張れば幸せになることができるんだ、と、希望に胸を躍らせた。思えば、そのときが達哉の生涯で最も幸せな時期だったかもしれない。
 ある日、状況は一変した。爺さんの息子が帰ってきたのだった。堅気ではないと聞いてはいたが、息子はれっきとしたやくざだった。一見して長身の優男で、ブランドのスーツに身を包み、香水の臭いを振りまき、言葉遣いは穏やかだが、そうした印象のすべてが、かえって冷酷な本性を際立たせるかのようだった。見た目どおり、羽振りは相当良いらしく、暴力団の中でも幹部クラスの力をもっているだろうと思われた。男は達哉に向かって言った。
「ごめんな、少年。息子の俺が帰ってきた以上、この店はおまえにやれなくなっちまった。よく働いてくれたらしいな。親父がずいぶんほめてたぜ」
 そう言われても、達哉には返す言葉がなかった。男は、黙り込んでいる達哉を値踏みするように眺めながら、言葉を続けた。
「親父は俺んちで引き取ることにした。残念だがこの店は売りに出す。今は少しでも金が要るんでな。買ってくれる業者ももう見つけてある。少々ごたごたしたが、親父は俺が説得した。少年、おまえは仕事がなくなっちまう。これは本当に悪いと思ってる」
 演技がかった口調で語りながら、男は達哉にゆっくりと近づき、顔をのぞきこんでくる。蛇のような、表情のない目だった。ほんのしばらく見つめられただけで、背筋が凍る。どんなに分が悪い喧嘩でも気迫で立ち向かってきた達哉だったが、この恐怖はそれとは次元が違う。なにが逆鱗に触れて、相手の機嫌を損ね、結果どんな目に合わされるか分らない。なにしろ今の達也には守るものがあった。美香。幸い、その日は店に出ていなかったが、もしこんな男に目をつけられたら、容姿端麗な美香は、きっとただでは済まないだろう。どんなものでも、欲しいと思ったら手に入れなければ気がすまないという、底なしの欲望と野心とが、男の瞳の中で蠢いていた。おそらく爺さんも、男の言うことをきいたのではない、言うことをきかされたのだ、と思った。よっぽどのことがない限り、爺さんは一度言ったことは翻さない、頑固な性格だということを、達哉は日ごろから承知していたからだ。
「おまえ、ちょっと前までは、この辺で知られてたみてえじゃねえか。学校も俺と同じだ。見どころのある後輩がいて、鼻が高いってもんだ。どうだ、俺が代わりの仕事をやる。簡単だ。一ヵ月後に、ロシア人とでかいヤクの取引がある。その現場に邪魔が入らないように見張るだけでいいんだ。用心棒みたいなもんだよ。おまえの腕っ節を見込んで頼むぜ、キラーウルフ」
 何年も前に捨てたはずの二つ名を、この男が知っているというのが、薄気味悪さを増幅させた。彼の情報のネットワークが、不良の高校生のあいだにまで根を下ろしているということだ。静かな口調の中に、承諾しないわけにはいかない、有無を言わせぬ迫力があった。それに、達哉は取引の内容を聞かされてしまった。断れば消されるのは目に見えている。答えはひとつしかなかった。
「分りました。その仕事、お手伝いさせていただきます」
 達哉はそう言って、頭を下げた。美香、すまない。ここで死んだら、俺はおまえを守れなくなってしまう。生きて、二人で必ず幸せになるんだ。達哉は胸のうちでそうつぶやいた。男はわざとらしく達哉の肩をたたきながら、言った。
「さすが、俺の親父が見込んだだけのことはある」
 そして店の奥から一升瓶と盃を持ち出して、酒を注いだ。まず自ら口をつけ、達哉に残りを差し出した。
「飲みな。今日からおまえは俺の弟分だ。仕事が終わったら幹部にしてやる。俺が親分に頼んで必ずそうしてもらう。安心しな。嫁さんの一人や二人、簡単に養えるようになる」
 達哉は自分の胸のうちを見透かされたような気がした。そして後悔した。この男には、決して逆らうことはできないだろう。やくざの片棒を担げば、心の休まる日はなくなるだろう。達哉は自分の人生の転落を予感しながら、その運命を飲み下すように、差し出された盃の酒をあおった。
 これが戸塚との出会いだった。
 達哉はその後、警察に検挙された。取引後、達哉は物の一部を戸塚から託されたのだった。
「こういうのはな、信頼できる奴に分散して保管させるのが一番いいんだ。足がつきにくくなる。おまえがその気なら、売りさばいたってかまわねえ。売り上げの八割はおまえにやる。少ないが、純度が高いから五千万にはなる。間違っても、捨てたりするんじゃねえぞ」
 当然、断るという選択肢はなかった。ところが達哉が物を持ち帰った翌日の朝、申し合わせたように、刑事たちが家宅捜索令状をもって、達哉の住むアパートに踏み込んだ。瞬く間に薬の現物が押収され、達哉は身柄を拘束された。はめられた、と思った。取調べのあいだ、達哉は戸塚の所属する暴力団、Y会との関係を追及されたが、一貫して黙秘し続けた。裁判の直前、拘置所に戸塚が面会に来た。これは奇異な事態だった。暴力団の幹部が、一般人の顔をして、法的組織である拘置所まで被告人である部下の面会に来たのである。面会室で差し向かいに座りながら、なぜこの男は捕まらないのだろう、と達哉は心底不思議に思った。
「運が悪かったな」
 戸塚は哀れむような笑みを浮べていた。心にもないことを言いやがって、と達哉は心の中で毒づいた。この男のどんな言葉も、行動も、すべてが計算ずくなのは、目に見えている。人間らしい感情など、微塵も持ち合わせていないのだ。戸塚の次の言葉で、それは確信に変わるのだった。
「おまえが捕まってくれたおかげで、俺たちはパクられずにすんだ。警察は、売人を検挙したという事実が欲しいだけなんだ。トカゲの尻尾みたいなもんさ。まあ、おまえも初犯だし、何年かお勤めして、すぐ娑婆に戻って来い。あとは幹部コース一直線だ。がんばれよ」
 戸塚はほとんど事務的にそう言うと、いったん立ち上がって面会室から出て行こうとした。しかし、何かを思い出したように立ち止まり、達哉のそばに戻ってきた。
「そういや、おまえの女、美香ちゃんって言ったっけ。ありゃ上玉だな。一人で寂しそうだから、俺が面倒見てやろうか。……そう睨むなよ。可愛い弟分の女に、俺が手を出すわけねえだろう。ただ、若い女が一人で暮らすのは、いまの世の中厳しいもんだ。何がしか手をかしてやるって言ってるのさ。悪くないだろ」
 低い声でしゃべり続ける戸塚の口元に、達哉は不意に人間らしい感情を見た気がした。それは優越感と限りない欲望だった。初めて会ったとき、その冷たいまなざしの中に見たものとほとんど同じもの。欲望と、野心とが、人の皮をかぶって歩いている。それが戸塚という男の本質だ。何ひとつ信用できない。去ってゆく戸塚の後姿を見送りながら、達哉は力なく肩を落とし、美香の無事を祈るばかりだった。
 ほとんど形だけの裁判が行われ、達哉は戸塚の言ったとおり、懲役二年の実刑判決を受けた。初犯だったが、執行猶予にならなかったのは、もっていた薬物の質が高く、凶悪な犯罪組織との関連が指摘されたからだった。しかし、それ以上のことはなかった。達哉は定められた期間刑務所に入り、労働に従事し、見せ掛けの更生をし、社会復帰すればよかった。美香のことを想いながら過ごす二年はあっという間だった。出所した日、刑務所の前まで戸塚の部下が出迎えに来ていた。長い髪を金色に染め、がりがりに痩せた二十歳前後の、ホスト崩れと見受けられる、軽薄そうなチンピラだった。
「お勤めご苦労さんです!」
チンピラは最敬礼しながら、甲高い声で威勢よく挨拶したあと、達哉の頭を眺め、不愉快な含み笑いを浮べながら、
「坊主頭、きまってますね」
 と言った。達哉は何も言わず、彼の運転する車に乗り込んだ。
 運転中、チンピラは良くしゃべった。達哉は相槌さえ打たなかったが、質問を投げかけては、勝手に答えを予想して、勝手に納得して自己完結する、というのをチンピラは一人で延々と繰り返していた。
「ブタ箱の中って、やっぱ怖い人多いんですか? そうですよね、みんな犯罪者だし。食事って、不味いんですよね? まあ、旨くはないっすよね、犯罪者の食う飯だし。労働って、キビしいっすか? キビしいっすよね、俺働くの大きらいだもん。だからやくざになったっつーか。働かなくても、金がもうかんのはやくざだけっつーか。金があれば女にもてるじゃないっすか。世の中やっぱ金ですよね。戸塚の兄貴なんか、それを地でいってるっつーか。ここんとこ兄貴が可愛がってる女、えっれーまぶいんすよ。名前なんつったかな。ミキだっけ。ミホだっけ。とにかくミ、なんとかっつー女ですよ。やばいっすよ。あんな女つかまえたら、俺、真面目に働いちゃうかもしんないっすね。なんちゃって。まあ、薬打って、幹部相手に売りやってるっつー噂ですけどね。俺もいっぺんお願いしようかな。そういや、達哉さんって、戸塚の兄貴と兄弟分の盃交わしたってホントですか? しぶいっすよね。男の世界って感じで。今度俺とも盃交わしてくださいよ。あ、もちろん達哉さんがお兄さんでいいっすよ。俺がお兄さんだったら、なんか変な感じするじゃないっすか。彼女の弟さん、俺より年上なのに、結婚したせいで俺の弟になっちゃった、みたいな。ちがうか」
「おい」
 達哉が初めて口を開いた。凄みのある声音にチンピラの言葉が途切れる。
「しゃべりすぎなんだよ、おまえ」
 怒りのこめて短く言い放つと、達哉はチンピラを半殺しにして車を奪った。そのままY会の事務所へは顔を出さず、アパートへ帰る。戸塚も達哉の敵意に満ちた行動をある程度予測していたのか、出所祝いの報せ以外には何の音沙汰もなかった。それが半月前の話だ。
 達哉は服役中に、拳銃の闇取引に関わっていた男と知り合い、彼から得た情報を頼りに、デリンジャーと呼ばれる護身用の小型拳銃を手に入れていた。リンカーンの暗殺に使われた銃で、弾丸は二つしか込められないが、戸塚を殺すには額に狙いを定めて一発。それで充分だった。そしてついさっき、夢も希望も憎しみも、弾丸と共に銃口を飛び出し、戸塚の眉間に吸い込まれていったのだ。
 いつの間にか達哉は、高校時代、美香が住んでいたアパートの前にたどり着いていた。建物はまだそのまま残っていたが、もともと美香の住んでいた部屋は、別の住人が借りているらしく、電気がついていた。外壁の色が、以前とくらべて少しくすんでいるようだった。ここで初めて、彼女と出会ったのだ。気丈に涙を堪え、笑いかけた美香の表情が、懐かしく思い出される。あのとき自分が、アイアンホークの兄貴の代わりに美香のことを守ってやる、と約束したことも。やりきれない後悔の念が、胸のうちにこみ上げてくる。アイアンホーク、すまない、俺、おまえの妹を守るどころか、不幸にしちまった。手を合わせたときの遺影の穏やかな笑顔を思い出し、熱い涙が一筋、頬を伝った。
 手のひらで涙をぬぐった瞬間、視界の端の暗闇の中で、人影が蠢いた。追っ手が先回りしていたか、と達哉は身構えた。気配で察する限りでは、どうやら相手は一人らしい。それならどんな奴でも素手で打ち倒す自信が十二分にあった。塀の中で戸塚への復讐を誓いながら毎日体を鍛え続けたおかげで、喧嘩の腕は鈍っていないはずだ。人影はゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。達哉は体勢を低くし、拳を強く握りこんだ。まずは相手の出方を見て、隙をついて得意のフック一発でしとめる。体中の筋肉に、神経が行き渡り、臨戦態勢が整った。人影はやがて白い街路灯の光の下にはっきりと姿を現した。
「やっぱりここに、来てくれたんだ」
 懐かしい女の声。美香だった。かかとの折れたヒールを両手に持ち、ストッキングの先を血と泥でボロボロにして、まるでスポットライトを浴びるように光の中に佇んでいた。ずいぶん走ったに違いない。髪は乱れ、サマードレスの肩紐がずれて、胸元からピンクのブラジャーがのぞいていた。達哉は、このアパートで出会った頃の可憐な少女の姿と重ね合わせて、刑務所に入っていた二年という時の流れの無惨さを噛み締めた。戸塚に持ちかけられた仕事を断って一人で死んでいれば、美香はこんなひどい目にはあわなかったかもしれない。あるいは自分と出会わなければ、あるいは幼いうちに父親か母親のどちらかに自分が殺されていれば、あるいはこの世に産まれてこなければ……。しかし、それらはすべてが無意味な仮定だった。亡霊のように生気を失い、やつれはてた姿で、目の前に美香が立っている。これが現実なのだ。決して目を逸らすことはできない。それでも、かつて愛した女に再び出会うことができたのもまた現実だった。喜ぶべきなのか、嘆くべきなのか、感情が複雑に入り混じる。達哉は握りこんでいた拳を開き、力なく、歩を進めた。そして、骨と皮の目立つようになった美香の体を静かに抱いた。美香だけが身にまとう、とても良いにおいが、達哉の鼻をくすぐる。そこには、しおれかかった花がひときわ強い香りを放つような、はかない哀しさがあった。
「あたし、汚れちゃった」
 美香が耳元で囁いた。鼓膜をくすぐるその声音には、無念と諦めとが混在していた。突き上げるように、涙が溢れた。
「おまえはきれいだ」
 激情に阻まれながらも、懸命にかぶりを振り、達哉はようやくそれだけ口にすることができた。
「ありがとう、たっちゃん」
 美香の手が、短く刈り込まれた達哉の頭を撫でた。美香が微笑むのが、触れ合った柔らかい乳房の向こうから伝わってくる。
「気持ちいい。芝生みたい」
 しばらく美香はその手の動きを繰り返していた。達哉はとっくの昔に忘れてしまった母親に、抱かれているかのような心地よさを味わった。体中の力が抜けて、眠ってしまいたいとさえ思った。彼はとても幸せだった。時が止まればいいと、強く念じた。このまま何人たりとも、二人のあいだを引き裂くことがないように。しかし止まったのは、時間ではなく美香の手の動きだった。
「戸塚はあなたを殺すつもりだった」
 美香は低い声でそう言った。
「刑務所から出たら、達哉は警察にマークされるだろうって。何かやらせたらすぐに尻尾を掴まれて、俺たちはみんなムショ行きだ。だから殺す、って」
「そうか」
「あたしは、お願いだから助けてあげて、何でもするから、って頼んだの。そしたら、達哉が娑婆に出てくるまで、おまえが俺の言うとおりにしたら、あいつと縁を切って堅気にもどしてやるよ、退職金もたんまりつけてやるから、田舎にでも行ってふたりきりで静かに暮らしたらいい、って言ったの。あたし、それ信じたわ」
 達哉の頭に置かれた美香の手に、憎しみが宿るのを感じた。
「お互い馬鹿だったな」
「そのあとクスリ、たくさん打たれて、逃げられなくなって、あたし……」
「もういい。それ以上言うな」
 その先の言葉を制するように、達哉は美香を抱く腕の力を強めた。美香は達哉の腕にもたれかかってさめざめと泣いた。むき出しになったか細い肩は、今にも破裂しそうな悲嘆を内に秘めて震えていた。達哉の胸のうちにもまったく同じ感情が宿っていたといえる。達哉はやくざに追われる身になり、美香はヤク中になった。二人して、このまま生き延びるという選択肢を見出すには、もはやあまりにも絶望的な境涯に立たされていたのだ。そう思った瞬間、達哉の体の中で何かの糸が、ぷつりと切れた。
「逃げようか」
 達哉は急に朗らかな声でそう言った。美香が体を離して、気が触れたのではないかといぶかるような表情で達哉の顔を見る。マスカラが流れて、頬が真っ黒に染まっていたが、柔和でありながら力のある目元は、相変わらず美しかった。
「どこへ?」
 美香が小さな女の子のような声で聞く。達哉は昔話を話して聞かせる父親のような口調で、楽しげに言葉をつむぐ。
「誰もいないとこ。無人島とか。そこでサバイバルしてさ、子供一杯作って、原住民になるの。俺は王様で、美香は女王様」
「あは、すてき」
 閉じていた花びらが開くように、美香の顔に満面の笑みが広がった。まさか、そんなことができるはずはない。口からでまかせを並べているだけだ。だが、たとえ未来が無いと分っていても、幸福を夢見るのは、いかなるときも、すべての人間に与えられた権利のはずだ。この救いようのない情況で、二人に与えられた最後の自由。それは夢見ることだった。
「子供の名前は、男の子だったら……」
「一也がいいな」
 間髪いれずに美香が言う。達哉は苦笑した。
「アイアンホークの兄貴かよ」
 赤ん坊の体に一也の顔を挿げ替えた、おそろしくアンバランスな生き物の姿を想像した。その強烈な印象をテレパシーで受信したかのごとく、美香が吹きだす。
「いいじゃない。あたしはまた一緒に暮らせるんだもん。その子を一也の生まれ変わりだと思えば」
「俺が緊張しちまうよ」
「あなたはただ父親らしくしてれば良いの」
「きっと激しい反抗期が来るな」
「男は喧嘩して認め合うんじゃないの」
 二人は声を立てて笑った。とても幸せだった。もう一度、美香と二人きりで、こうして笑いあえる日が来るのを、達哉は塀の中でずっと祈っていたのだ。もし神様がいるとしたら、あまりにも残酷というか、きっとサディストに違いないが、このたったひとつの祈りだけは叶えてくれた。それを精一杯喜ぶことが、悲惨な運命に対する、二人のささやかな反抗だった。三日月のように魅惑的な曲線を描く美香の薄い唇を、いとおしげに達哉が指で触れると、そこは愛する男のくちづけを待ち受けるように柔らかく湿っていた。美香が顔を上げて目を閉じた。達哉はスローモーションのように、じっくりと時間をかけて、彼女の期待に応えた。
 次の瞬間、荒々しい怒声が遠くで響き、男たちの迫る気配がした。追っ手が来たのだ。達哉は美香の体を力いっぱい抱きしめた。誰かが二人を引き離そうとして、この両腕をもぎ取ったとしても、最愛の女を死に至る瞬間まで、決して離しはすまい。達哉の想いに応えるように、美香の腕の力も強まっていく。
「愛してる」
「あたしも」
 そう短く言葉を交わしたあと、達哉は思った。あの世へ行ったらアイアンホークに土下座して謝ろう。そして気が済むまでぶん殴ってもらおう、と。
枯木
2013年02月24日(日) 22時43分33秒 公開
■この作品の著作権は枯木さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 二度目の投稿です。前回の投稿を終えてから書き始め、ひとまず仕上がったので投稿させていただきました。 
 内容は、昭和の不良マンガ風にイメージしていただけたら、情景が浮かびやすいかと思います。それらしく、主人公やライバルのニックネームも意図的にださくしてあります(笑)。
 もうちょっと取材とか、キャラクターの人物像を掘り下げれば長編になるのでしょうか……。
 前回より少し長めですが、よろしくお願いします。

この作品の感想をお寄せください。
感想記事の投稿は現在ありません。

お名前(必須)
E-Mail(任意)
メッセージ
評価(必須)       削除用パス    Cookie 



<<戻る
感想管理PASSWORD
作品編集PASSWORD   編集 削除