月の盗み方
 長雨の季節に、空は気まぐれに晴れ渡り、月が顔をのぞかせている。
 時刻はすでに深夜。
 最終電車の時間はとうに過ぎ、加えて凶悪な事件が続発していることもあって、駅の構内はひっそりと静まり返っている。空調から発せられる、蟲の羽音にも似た低周波特有の音がいやに大きく聞こえる。それほどに、構内には人の気配が感じられない。独り、構内の奥へと足を進める少年を除けば。
 整った顔立ちの少年だった。やや小柄で、体つきも細身でありながら、女性的な雰囲気は一切ない。それは少年のまとう雰囲気がひどく厳しいものだから。意思的かつ男性的で、その険しい表情は侮られることを許さない激しさがある。銀縁の眼鏡をかけていることが、そんな鋭利な印象をよりいっそう強めている。少年は深夜だというのに制服姿のままだ。放課後からずっと、彼は家に帰らずに犯人の手がかりを追い続けていた。
 今や事件のことを知らない者は街にいない。
 殺人鬼とも食人鬼とも呼ばれ、犯行の異常性や猟奇性については人々が広く知るところとなっている。
 その手口は全て同じ。被害者はずたずたに引き裂かれ、内臓の一部分もしくは大部分を持ち去られている。当初、大型の肉食獣の仕業ではないかという声もあった。そうであったならばどんなに良かったことか。だが、事件現場から被害者のものとは違う唾液が検出された以上、何らかの形で人間が関与しているのは確実であり、人々はさらに暗い気持ちにさせられることになった。そして、持ち去られた内臓がどうなったのかについて、人々の多くは忌まわしい想像を口にできないでいる。食事の最中は特にそうだ。
 けれど少年は、そんなことなど意に介していない様子で構内を進んでゆく。その歩みに恐怖は見られない。と言って危険を楽しんでいる風でもなく、眼鏡の奥にある目はどこか曇っているように映る。少年はプラットホームへと続く地下道へ降りる。照明は、照度を最低に抑えられており、淡い光が闇ににじむ。まるでこの道の先がどこか別の世界に続いているかのように、地下道はぼんやりと浮かび上がっている。
 生温い風が吹きつけてきた。湿り気を含んだ空気は、じっとりと重く、まとわりつくような感がある。その風に混じる血の匂いに、少年は確信を深めたように足を速める。地下道のさらに奥へ。T字路に差しかかると、匂いはさらに強まった。おそらく、ここが分岐点。ここから進めばもう引き返せない。気持ちを落ち着けるように少年は胸に手を当てて深呼吸する。
 そしてT字路を曲がった。
 少年の視線の先に、背を向けてしゃがみこむ男がいた。くちゃくちゃ、という咀嚼音が少年の耳に届く。何を食べているのか尋ねるまでもなく分かる。男に馬乗りにされたホームレスと思しき人物は、大の字になって、両手両足を力なく投げ出している。時おり、痙攣するように手足が跳ねる以外に動きはなく、抵抗する様子はまったく見られない。つまりは事切れたということ。間に合わなかったか、と少年はぎしりと歯を強くかみ締める。
 少年は、背を向けたままの男に呼びかける。
「やはり貴方か」
 背を向けていても、背を向けているからこそ、少年には誰なのか見当がついた。
 その背中を、少年はずっと見てきたから。
 だから顔を背けることはしない。背けてはいけないと少年は思う。
 少年は男に問いかける。
「何故なんだ。何故こんなことを」
「公昭(きみあき)か。家から出るなと言っておいたはずだが」
 男はゆっくりと振り返った。
 べっ、と男は口の中にある物を吐き出す。赤黒い血にまみれたそれは、やはり内臓の断片だった。
 少年――松江公昭(まつえ・きみあき)は、顔を歪ませる。男は公昭のよく知る人物だった。その顔は血まみれで、それもあって凶悪な表情に見える。血まみれだからそう見えるのだと公昭は思いたい。それは、心の迷いなのかもしれない。犯人の正体について、公昭はずっと見当がついていた。だが認めたくはなかった。自分の父親が犯人だとは。
 公昭はなおも問う。
「答えてくれ、父さん。何故こんなことをしたんだ」
「何故?」と、その父は笑う。「決まっているだろう。生きるためだ。この身体はすでに限界が近い。術具(じゅつぐ)に蝕まれ、もはや余命いくばくもない。こうやって他人から命を分けてもらわなければ、私はもう生きられん。私はずっと身を削って、この街のため、この国のために働いてきた。その私が生きるために他人の命を糧(かて)とするとしても、誰も文句は言えないはずだ。私が命を削って戦ってきたのだから、私に守られてきた人間もまた命を削るべきだ。それとも公昭、お前は自分の親に死ねと言うのか?」
「止めてくれ」
 と、公昭は父の言葉を遮る。
 そんな言葉は聞きたくなかった。公昭にとって父は目標だった。それだけに辛い。全て承知の上のことではなかったのか。身体を侵食する術具を受け入れたのも、長年にわたって戦い続けたのも、すでに結末を知った上でのことだったはず。それなのに、この期に及んで言い訳をするのは見苦しい。誰でも死ぬのは怖い。けれど公昭はそれでも、父には最後まで最期まで強くあって欲しかった。
 公昭は父を責める。
「父さん。警手(けいしゅ)としてこの街を守ってきたのは何のためなんだ。俺に一族の誇りを忘れるなと教えてくれたのは貴方だろう」
「誇りだけでは生きられん。生き延びるためには、泥でも何でも食わねばならないこともある」
 公昭の父は、ゆらりと立ち上がる。
 年齢の上では初老であるにもかかわらず、その動作にはまったく無駄がない。
 警手は、国内各地の要所に密かに配置され、それぞれ任地の防衛を担う。松江公則(まつえ・きみのり)は、この街の守りを公昭が生まれる前から任されてきた男であり、公昭には及びもつかない経験を持っている。果たして自分に勝てるのか、公昭は緊張を強める。手に汗をかいていることに今さら気付く。心より先に体が危険を察知したのかもしれない。無理もない。公昭にとって、これが初めての実戦なのだから。
 敵となった父が淡々と尋ねる。
「どうした公昭、震えているぞ?」
「……ああ。それでも俺は貴方を倒す」
 と、公昭はやや間を置いて告げる。
 語尾が震えていたかもしれない。精一杯の虚勢だったかもしれない。
 けれど、公昭の気持ちはそれで少し落ち着いてくれた。
 公昭は恐れも迷いも振り払って、
「相手が誰であっても俺は俺の使命を果たすだけだ」
 そう宣言して右手を突き出す。
 目標は約十メートル前方の敵。
 父の松江公則もまた、無造作に手をかざす。
 双方同時に声を上げる。
「発!」
「発!」
 術式(じゅつしき)が展開される。世界の法則が恣意的にねじ曲げられる。
 二人の手から衝撃が走る。
 球形の塊――彼らの一族が凶弾(まがたま)と呼ぶそれは、それぞれに色が違う。
 公昭が放った凶弾は透き通った緑色。
 対する公則の放った凶弾は淀んだ黒色。
 二つの凶弾が火花を散らせてせめぎ合う。
「く!」
 公昭は思わず声を上げる。
 初めて本気で放った術式の反動はすさまじいものだった。
 視野が霞む。
 意識が薄れる。
 胸に植えつけられた術具が命を吸い上げてゆくのが分かる。こんな苦しみに父は人知れず耐えてきたのか。
 父の放った凶弾の威力は圧倒的で、少しでも気を抜けば押し切られそうだ。公昭は歯を食いしばって前を見据え、全神経を右手に集中させる。勝たなければいけない。自分のために。そして父のために。
 不意に向こうの勢いが弱まる。均衡が崩れる。
 何故、と思う余裕は公昭にはない。力を振り絞る。
 緑の凶弾が黒の凶弾を押し切った。通路の奥で緑色の燐光が弾ける。
 天井の照明が次々と破裂して、公昭の地点を境に闇が降りる。
「はっ、あ、はぁっ」
 息を弾ませながら公昭は闇に目を凝らす。まだ視力が完全には回復していない。
「やった、のか?」
「馬鹿者が」
 公昭に後ろから声がかかった。
 父の声だ。
「っ!」
 公昭が振り返る。
 だが、ほんの少し遅い。
 回し蹴りが公昭の細い首を刈り取ろうとする。
 かろうじて公昭のガードが間に合った。それでも勢いは殺しきれず、公昭は通路の壁に叩きつけられる。
「あ、ぐ!」
 背中を強打して公昭は息が詰まる。
 眼鏡が吹き飛び、乾いた音を立ててむき出しのコンクリートの床に跳ね落ちる。
 凶弾に全神経を集中したのが仇となった。父は、公昭の視覚が白く染まった一瞬を突き、拮抗する凶弾をすり抜けて公昭の背後に回り込んだのだ。まるで、初めて実戦に臨む自分に生まれる隙を完全に理解していたような動き。いや、分かっていて当然か。公則は公昭の末路に立っているのだから。
 公昭は、
「く……」
 と苦しげにうめく。
 ガードに使った腕は痺れてしばらく使い物になりそうもない。
 さらに追い打ちが加えられる。公則の攻撃に一切の容赦はない。めった打ちだ。しかも、凶暴なようでいて打点を巧妙に上下に散らす狡猾さも兼ね備えている。壁を背にしているせいで打撃の衝撃がもろに公昭の身体に伝わる。先ほど背中を打ったせいで息ができないままだ。息ができなければ術式を発動できない。死の恐怖はない。恐怖を認識する余裕がない。
 意識が朦朧としてくる。
 公昭は本能的な動きで、身体を折るように屈ませ、少しでも衝撃を和らげようとする。
 病弱に生れついた公昭の細い身体には、格闘戦は不向きだ。
 もはや何もできることはなかった。ずるずると公昭は倒れ、冷たいコンクリートの上に身体を丸める。
 急にその攻撃が止んだ。
 公昭が顔を上げると、そこには無表情に自分を見下ろす父の顔があった。
「公昭。お前も私の糧になるか?」
 ひどくつまらなそうな口調だった。
 その目に浮かぶ失望がありありと見て取れる。
 公昭の朦朧とする意識に疑惑が浮かぶ。何故? 父は術具に飲み込まれて狂ったのではなかったのか?
「父さん?」
「終わりだ、公昭」
 そう言うなり公則は息子の手を踏みつける。
「う!」
 ぎりぎりと右手に体重がかけられる。
 骨がきしむ。
 そのまま公則は片手を向ける。凶弾が発動されようとしている。
 父の大きな手。いつも自分を包み導いてきた、温かで大きな手。その手によって殺されようとしている。しかし公昭は目を背けようとはしない。諦めたくない。認めたくない。その思いが公昭の体を動かす。何とか手を自由にして反撃しようと。だが、ボロボロの体は公昭の言うことを聞いてくれない。
 父の手に、禍々しい闇が集まる。
 間に合わない――。
 今まさに凶弾が放たれようとした瞬間、鋭く風を切る異音が公昭の耳に届いた。
「な、に?」
 驚きの声は父のもの。
 見れば、その手に小柄(こづか)が突き刺さっている。
 誰が投じたのか。
 公則と公昭の視線が期せずして同じ方向へ。
 一人の少女が分岐点に立っていた。
 公昭は自分と同じくらいの年頃の少女を見る。装いは季節を先んじるように軽やで、髪は黒漆のように艶やかに光り、瞳は夜の湖面のように暗く、その手にある抜き身の刀は際立つように地金が青い。
 長さは刀身と柄を合わせて約一メートル弱。打刀(うちがたな)だ。日本刀と言われて一般的に思い浮かべるものであり、カミソリのように粘る刃が肉に吸い付くと人斬りに評価されてきた。人を斬ることに最適化された武器であり、殺人を目的とする道具が芸術となった最たる例でもある。
 一瞬、公昭の背に怖気が走る。
 その刀はあまりにも異様で異質で、一度見たら黒い沁みのような印象が心に残るかのようだ。ただそこにあるだけで空気を凍りつかせるような、忌まわしい気配。
 彼女の投げた小柄によって父の術式が妨害されたことは確かだが、それでも公昭は感謝より恐怖が先に立つ。
 公昭は側壁に寄りかかりながら何とか立ち上がる。
 それができたのは父が少女を凝視しているからだ。正確には、少女が持つ刀に。
「降魔刀(ごうまとう)……零式か」父の声に畏怖が混じっていた。「お前がゼロ使いか。子供とは聞いていたが」 
 以前、公昭はその名前を父に聞いたことがある。決して関わるな、と警告混じりに。
 公昭の目には少女の年齢は自分とそう変わりないように見える。だが、公昭は思い直す。外見に惑わされては駄目だ。先ほど一瞬だけ感じた、あの感覚。術具――公昭の胸に埋め込まれた勾玉は、はっきりと少女と刀に対して反応した。あれは善くない者だと知らせるように。今すぐ殺せとささやくように。
 月明かりにも似た淡い光が少女を照らし、瞳と刃が冷たく光る。
 少女は、分岐点をためらうことなく越え、抜き身の刀を携えて無言のまま歩み寄ってくる。
 彼女の白く細い首に巻かれた黒のチョーカーには、十字架が逆さまに吊ってある。
 逆十字。神に背く者たちの象徴。それが、彼女の歩みに合わせて揺れ動く。
 父の公則は用心のためか背後の闇へ音もなく後退りする。境目に立つ公昭を挟んで、光と影それぞれの側から少女と公則が向かい合う。
 公則は少女を探るように話しかける。
「これほど早くお前が投入されるとはな。相変わらず『クダン』は人員不足なのか?」
「いいえ。それだけ貴方が高く評価されていたということであり、そして警戒もしていたということです。いつ貴方が闇に染まるかと」
「なるほど。それで結論は?」
「松江公則。貴方を害人(がいにん)と認めます」
「だろうな」
 公則の言葉に動揺は含まれていない。
 動揺したのはむしろ公昭の方だ。
 少女の言葉は死刑宣告だった。もちろん公昭自身も父を倒すつもりでいた。それでも他人の口から死刑宣告を聞くのは思ったよりこたえた。害人――人々に害を為す者。『クダン』は事の善悪など考慮しない。善人であれ悪人であれ、害のある者は除く。それだけのために『クダン』は存在している。
 公則は、
「抜けんな」
 と淡々と呟き、刺さった小柄から手を離す。
 血が止まらない。
 少女は冷たい微笑を浮かべる。
「抜けませんよ。貴方が死ぬまでは」
「そうかな。だが、方策を考えるのはお前を倒してからにしよう」
 公則の声はあくまで落ち着いている。
 少女は無言で鋭く踏み込む。
 あっけないほど簡単に殺し合いが始まった。

 黒の凶弾が走る。
 公則が放った黒い塊を、少女は一刀のもとに両断する。凶弾には実体がない。にもかかわらず少女が持つ刀は確かにこれを斬った。
 降魔刀は魔を降(くだ)すためにある。霊も肉も、もろとも斬り裂く。
 凶弾と降魔刀の接触は衝撃を生み出した。びりびりと空気が震える。まるで悲鳴だ。凶弾を構成していたものが悲鳴を上げている。
「これほどのものか」
 公則は感嘆する。
 それはどちらへの言葉だろう。降魔刀か、降魔刀を振るう少女か、それとも双方か。
 形を失った凶弾は、雲のように散り、霧となって消えてゆく。力が色を失って世界に拡散する。その乳白色の霧を突っ切って少女が公則に走り寄る。
 だが、公則は次の一撃を自分の真上に放つと、素早く後方へ下がった。
 直後、天井が崩落する。
 瓦礫(がれき)に阻まれ、少女の突進が止まった。と思うと、傷ついた公昭の腕をつかむと強引に引きずってT字路まで後退する。細い腕とは思えないほど強い力だった。
 崩落は一時的に収まる。だが、通路は塞がれてしまった。
 公則の姿は見えなくなった。
「退いた?」
 と、少女は怪訝そうに呟く。
 公昭は少女に告げる。
「おそらく森へ行ったんだ。そこで戦うつもりなんだろう」
「ああ、なるほど……聞いたことがあります。交配によって松江の人間は鎮守の森で最大限の能力を発揮できるようになったとか……品種改良とでも言ったところでしょうか」
「何が言いたい?」
「いえ、別に」
 少女の目には何の表情も浮かんでおらず、公昭には彼女が何を考えているか推し量ることができない。
 彼女の手にする刀は照明が当たる角度によってゆらゆらと光の度合いを変えている。こちらの方がよほど表情豊かと言える。
 少女は、
「幽(かく)れて」
 と自らの刀に短く命じる。
 すると刀は少女の手の中から霞のように消えた。
 公昭の知らない術式だ。
「何をしたんだ?」
「一時的に幽世(かくりよ)に仕舞いました。さすがに刀を持ったままでは追えませんから」
 何事もなかったかのような口調だった。
 人が住む世界を現世(うつしよ)と言うのに対して、霊の住む世界を幽世(かくりよ)と言う。二つの世界の境界は決して明確なものではなく、ふとしたきっかけで現世と幽世が交わることがある。例えば、少女が今やってみせたように。
 少女は公昭を置いて歩き出す。
 公昭は慌てて、ボロボロの身体を引きずるように少女を追う。
「待て。俺も行く」
「……」
 少女は足を止め、じっと公昭を見詰める。
 闇色の瞳が公昭を捕らえて放さない。
 暗い目だ。とても同年代の少女のものとは思えない。どんな経験をすればこんな目ができるのだろう。ゼロ使いと呼ばれる少女のことは父から何度か聞いている。どれも悪い話だった。ゼロ使いという二つ名の由来は、降魔刀・零式を使うのが彼女だけという理由の他に、敵味方もろとも殲滅(せんめつ)する戦い方にもあるのだとか。そのような理由で、少女は敵味方の双方から恐れられ、『クダン』の殺し屋とも呼ばれている。公昭は、巻き込まれるのはもちろんだが、近付きたくもない相手だと思っていた。
 その思いは公昭の中で、改まるどころか強くなっている。こいつは本当に味方なのか。
 少女は感情を感じさせない声で問いかける。
「貴方に自分の父親を殺せますか?」
「もちろんだ」
「では、先ほどの戦いも本気だったと?」
「どういう意味だ?」
 公昭にはやはり少女の意図が分からない。
 彼女の口調には極端に抑揚が欠けている。それだけに意図を理解するのが公昭には難しい。
 少女が淡々と紡ぐ言葉はていねいではあるものの、同時に冷ややかに突き放すようでもある。
 端正でありながら表情に乏しい顔と、まっすぐに伸ばされた長い髪、そして静脈が透けるほどに白い肌。それらと相まって、少女はひどく人形的な存在として映る。温度を感じさせない白い肌の下には何色の血が流れているのだろう。公昭は一瞬、そんなことを思ってしまった。
 少女の声が公昭を現実に引き戻す。
「分かりませんか? 本気で戦えなかったのであれば決意が足りず、本気で戦ってあの体たらくでは実力が足りないということ……どちらにせよ、貴方には戦いは向いていません。おとなしく家に帰ることをお勧めします」
 少女の言いようには遠慮というものがない。
 鋭く事実を突きつけてくる。
 助けてもらっておいてなんだが、と公昭は思う。この女は好きになれそうにない。
「ふざけるな。これは俺の役目だ。父も、その前の代も、ずっと前から俺たちが警手として戦ってきたんだ。お前に任せる気はない」
「物分りが悪いですね……その警手が害人になってしまっては世話はないでしょう。もう一度だけ言います。父親のことも、役目のことも、全て忘れて日常に帰ってください。このまま戦い続ければ、父親のように闇に染まるか、その前に殺されるかの二つに一つです。今ならまだ引き返せます。貴方の使った術式はとてもきれいな色をしていました。その色のままでいた方が貴方のためです」
「く……」
 少女の言葉が真実であるだけに、公昭は言葉に詰まる。
 世界には生命力が満ちている。生命力は、地水火風のいずれにも属さない第五の元素であり、通常は不可視にして無色の状態であることから、この第五元素を『クダン』は無色の力と名付けた。
 無色の力を消費することで術式は展開され、世界の法則を術者の望む形に書き換えることによって本来そこに起こるはずのない現象を任意に発生させる。この時、術者が触れることで無色の力に変化が生じる。清らかな者が触れれば澄んだ色に、穢れた者が触れれば淀んだ色に、術者それぞれの色に染まることで初めて目に見える状態になる。人間は無私にも無欲にもなれず、その在り方はどこか偏っているのかもしれない。だが時として、美しく偏ることもある。公昭が放った凶弾が澄んだ緑色であるように。
 それに対して、その父である公則の凶弾は淀みきった闇色だった。
 いつから父はあんな色になってしまったのだろう、と公昭は悔やむ。父の反対を押し切ってもっと早く戦いに出るべきだった。
「それはできない」
「国のためですか? それとも『クダン』のため?」
「父のためだ」
「強情な人ですね……分かりました。では共闘といきませんか」
「共闘?」
「貴方としては不服でしょうが、それが最も確実な方法です」
「それは……」
 冷静になって考えれば、自分一人で父に勝てるとは公昭にも思えない。
 自分の手で決着をつけたいと思う気持ちには変わりがない。だが、勝たなければ何の意味もないのだ。
 今、まず自分が考えなければならないのは父を止めること。例え、あまりにも危険なこの少女の手を借りたとしても。
「分かった。手を貸してくれ」
「ええ」
 二人は歩き出す。
 だが公昭は引き返し、父に殺された被害者の遺体を抱えて歩き出す。
 シャツが血まみれになるが公昭はかまわない。
 その様子を少女は不審そうに見やる。
「いったい何を?」
「あのまま放置していたら崩落で埋まってしまうかもしれない」
「それが何か?」
「冷たい瓦礫の下にするわけにはいかないだろう」
「……そうですか」
 少女はまったく納得していないようだが、それ以上、公昭を追及することはなかった。
 それすら時間の無駄と思ったのかもしれない。
 公昭は地下通路から出ると、遺体をベンチに寝かせ、まぶたを閉じさせる。何か毛布のようなものを上にかけたかったが、少女は今にも勝手に行ってしまいそうだ。
 被害者の男性の顔は苦痛と恐怖で歪んでいた。
 公昭は人間の顔がここまで歪んでしまうとは知らなかった。
 父が犯した罪の形を目の前にして、公昭は罪悪感に潰れそうになる。けれど、ここで立ち止まってしまったら何もかも無駄になってしまう。
 公昭は前を向いて少女とともに駅の外に出た。
 眼鏡は先ほど飛ばされてしまったが、それほど不自由はない。
 公昭は月を見る。
 月がにじんで見えるのは裸眼のせいばかりではない。



 松江家が代々守ってきた鎮守の森は、街の郊外にある。森は、小高い丘を中心にうっそうと木々が生え茂り、黒い塊がこんもりと盛り上がっているように夜目に映る。上空からでもないと全体を把握することはできないほど巨大であり、圧迫感すら感じさせる荘厳な空気があたりに漂っている。
 足を踏み入れれば、この森がいまだ原始の姿を色濃く残していることを肌で感じることができる。初めて訪れる者は例外なく恐怖を覚えるらしい。この森に潜む何か底知れないものを感じ取ったかのように、体が畏れるのかもしれない。かつて、杜(もり)とは森を意味していたと言われる。
 鎮守の森と、その中心に建つ社(もり)。
 実のところ、先に生まれたのは神社ではない。
 森に宿る何かに神秘を感じたからこそ、人々は森の深奥に杜を設けたのだ。
「……」
 少女もまた、鎮守の森を目にして何やら思うところがあるらしい。
「分かるのか?」
「ええ……さすがに国内有数の規模と言われるだけありますね。さて役割分担ですが……私が前衛、貴方が後衛。いいですね?」
「俺が後ろか」
「何か問題でも?」
「一つ言っておくが、この森に一歩でも足を踏み入れれば父は必ず気付く。どこにいるかまでな」
「それは貴方も?」
「そうだ。松江の家に連なる者なら誰でもだ。だから俺が前に出る」
「なるほど……ですが、彼の位置が分かるのは貴方だけではありません。あの小柄が刺さっている以上、私から逃げることなどできない。もちろん彼も。ですから私が前衛を務めます」
 そう言うと少女は、唐突に森を前にして拍手(かしわで)を打った。
 軽やかな音に少女の声が重なる。
 この世とは違う場所へ向けて少女は呼びかける。
「我が喚起(かんき)に応えよ」
 拍手がもう一度打たれる。
「来たれ、ゼロ」
 幽(かく)れていたものが現れる。
 二拍手(にはくしゅ)の後に少女の手の間から出現したのは、あの刀だった。
 降魔刀・零式。武具にして術具であり、魔を降すために『クダン』によって生み出された武装だと、公昭は聞かされていた。
 では、降魔刀が善い物かと言えば、それは絶対に違うと公昭は思う。この刀は異物だ。魔を降すものが魔ではないという保証はどこにもない。零式が現れた途端に周囲の温度が下がったかのようだった。公昭の心を、何かがざわめいている。ひどく落ち着かない気分だ。こんな刀はこの世にあってはならない物だと公昭は身震いする。これほどに禍々しい刀を手にして、この少女は何も感じないのだろうか。それとも彼女もまた、この世にいてはならない者なのか。そんな突拍子もない考えが公昭の脳裏に浮かんだ。
 少女は重みを確かめるように片手で降魔刀を振るう。
 すると、ざわりと木々が一斉に揺れた。
 風は吹いていないはず。
 まるで、森全体が恐怖に震えたかのようだった。

 森の中はひどく暗い。
 無数に広がる枝によって作られた厚いひさしが月の光を遮っている。
 だが公昭の足取りは確かだ。
 地面にせり出した木々の幹や根に足をとられることもない。
 公昭はこの森のことであれば隅から隅まで把握できる自信がある。体に流れる血が教えてくれるのだと、父が言った言葉を公昭は覚えている。松江家に本来課せられた使命は、この森を守ること。そのために長い時間をかけて自らの体を変えていった。少女はそれを品種改良と表現したが、その言いようは実に的確だと公昭も思う。誰と誰をかけ合わせれば、より良い子供が得られるのか。その観点だけで続けられてきた結婚は、およそ人間にすることではなく、家畜の交配と言っていい。あるいは、武具を鍛えるという表現でもいいかもしれない。
 幼い頃の公昭は、父が正義の味方だと信じて疑わなかった。昔のことだ。松江家が忌まわしい家系だとは知らなかった頃のこと。今はとても正義の味方とは思えない。父は何を思って使命を果たしてきたのだろう。
 その父の気配まで、あと少し。
 この斜面を登りきれば戦端は否応なく開かれる。
 公昭がそう思った時、後ろから少女の声が公昭に投げかけられる。
「近いですね」
「ああ」
「……ところで傷が治っているようですが、それも森からの恩恵ですか」
「ああ」
 公昭には少女の問いに答える余裕はない。
 じっとりと手が汗ばんでいる。
 それに比べて少女はひどく落ち着いている。公昭には信じられないことだが、無関心であるかのようにも見える。
 公昭は、最後の一歩を踏み出した。



「遅かったな」
 松江公則は森の奥深くで、たたずむように二人を待っていた。
 油断するわけでもなく、力んでいるわけでもなく、まったくの自然体で。
 彼の背後には、祭る者の絶えた杜がひっそりと建っている。
 父の静かな様子は公昭が知る姿と何ら変わりなく、凶悪な事件を起こした殺人鬼とはとても思えない。思いたくない。全て夢であってくれたなら、と公昭は一瞬思ってしまった。
 唐突に公則が鋭く言葉を放つ。
「迷うな」
「え?」
「敵に情けをかける必要はない。涙を流すにしても、悔やむにしても、しょせん自己満足だ。そんなことは敵を殺してからやればいい」
 その言葉がどんな意図のもとに発言されたのか、公昭には分からない。
 父が正気なのか狂気なのか、それさえも分からなくなりそうだ。だが、人々を殺めてきた、その一点は変わらない。
 少女は感心したようだった。
「さすがに長く警手を務めてきただけありますね。言うことが一々もっともです。貴方が闇に染まったのが残念でなりません」
「お前こそ、淫らな闇の匂いがするぞ」
「否定はしません。だからこそ『クダン』は私を選んだ」
「毒をもって毒を制し、悪をもって悪を討つ。それが『クダン』のやり方だったな。お前はまさにその典型か」
「らしいですね」と少女はうなずく。
「さて、じきに夜も明ける。朝が来ればお互い不自由するだろう。そろそろ決着をつけようか」
 と同時に、震えるように木々がざわめく。
 公則は小柄の突き刺さったままの手を突き出す。その手に闇が凝縮する。それは、夜の闇よりも暗い。
 公昭も呼応するように動くが、わずかに遅い。
「発!」
 公則は息子の公昭より速く凶弾を放つ。
 迫り来る凶弾を、少女は先ほどと同様に刀で受ける。
 凶弾と降魔刀が激しくせめぎ合う。やはり凶弾の威力は増している。一刀両断とはいかない。
 火花が少女の人形のように端正な顔を照らし、衝撃が彼女の長い髪を弄ぶ。
 均衡が崩れかけ、降魔刀が凶弾を押し返そうとした瞬間、
「散!」
 公則の声とともに凶弾が爆ぜ、黒いつぶてとなって周囲に四散した。
 少女は吹き飛ばされて、木立に背中から叩きつけられる。膝を崩して地面にずるずると落ちる。
 彼女は淡い桜色の唇から苦しげに息を吐く。
「くぁ……」
 少女はそのまま動かない。
 それでも刀を放していないのは、さすがと言うべきか。
 つぶてはやや離れた公昭にも容赦なく降り注ぐ。
「っ!」
 公昭の皮膚を侵す粘液。
 公昭は生理的な嫌悪感を覚える。ぬめるような感触はタールに近い。火のような熱さが肌を焼き、氷のような冷たさが骨にしみる。これが父の本性なのか。こんな穢れたものが。
 見れば、意識の朦朧とした少女に止めを刺そうと公則は手をかざしていた。
 公昭も術式に意識を集中させる。
 体中の活力が根こそぎ奪われるような感覚に耐えて公昭は手を突き出す。
「発!」
「発!」
 父子二人のタイミングはほぼ同時。
 まだ意識がはっきりしないらしい少女に黒の凶弾が迫る。
 その軌道に横合いから緑の凶弾が割り込んだ。
 中空で二つの凶弾が衝突する。双方の威力は互角。だが、先ほどのような拮抗状態にはならなかった。
 激しく干渉し混合する緑と黒。
 混沌が煮え立つ。
 原初の海が波打つ。
 高まるうねりは、ついには爆発となって、熱と力を周囲にまき散らした。

 凶弾を構成していた無色の力は乳白色の霧になった。力の残滓が現世を浮遊する。
 森の一角にベールが降りる。
 濃い霧のせいで視界が効かない。
 父も少女もどこにいるのか公昭には分からなくなった。
 再び至近距離で爆発に巻き込まれた少女の身を案じる余裕は公昭にはない。
 彼は耳を済ませて父の動きを探る。

 少女は爆発によって斜面を転がり落ちていた。
「……っ……ぁ……」
 半ば開かれた唇から苦悶の声が漏れる。
 少女は霧の中、倒れたまま手探りで刀を求める。
 見つけた。
 だが、その手を誰かの足が踏みつけた。
 松江公則だ。
 細い手に容赦なく体重がかけられる。
 少女は、
「うあ、っあ、ぐ、ああ!」
 悲鳴を上げながらも刀から手を離そうとしない。
 公則は少女の腹を蹴り上げる。
 少女の体が浮き上がるほどの衝撃。
 宙に浮いた少女の体を片手でつかんで持ち上げる。
 その細い首が絞められる。
「は、ぐ……んぅ……っ……」
 宙吊りになった少女は空気を求めて喘ぐ。
 公則のもう一方の手にはいつの間にか降魔刀がある。
「どうだ? 他人の命を上乗せすれば、これほどに体が動く。これが、私が勝ち続けてきた理由だ」
 そう言って、公則は少女の腹にねじ込むように刀を突き刺す。
「……!」
 少女は悲鳴すら出せない。ため息のような声が漏れるだけ。
 公則はさらに刀を押し込んでゆく。
 赤く濡れた刀身が少女の背中から突き出る。
 公則は興味を失ったように少女を投げ捨てた。

 少女の声を聞いた公昭は急いで斜面を駆け下りる。
 風で霧のカーテンが揺らぐ。
 父の公則がゆっくり歩いてくる姿が、公昭の目に入った。
「後はお前だけだ」
「!」公昭は立ち止まる。
「もう邪魔は入らない。さあ、お前の全てを私に見せてみろ」
 父が手を突き出す。
 公昭も同じく手を突き出す。
 無色の力がそれぞれの色に染められる。
 またも霧が揺らぐ。
 公昭の目に少女の姿がおぼろげに映った。力なく倒れている。三人の位置はちょうど直線上にある。このまま父を撃てば少女を巻き込みかねない。
 公昭は一瞬、ためらった。それが決定的な遅れとなる。
 公則が凶弾を放つ。
「発!」
 目の前まで凶弾が迫ったところで公昭の反応はかろうじて間に合った。
 公昭の至近で二つの凶弾が衝突する。
 その衝撃で公昭は吹っ飛ばされた。
 受身を取ることもできず、公昭は地面に叩きつけられる。
「ぐ!」
 背中からまともに打ちつけられた。
 息が詰まる。
 目が眩む。
 どれほどの傷を受けたのかすら分からない。
 それでも公昭は必死で呼吸を回復させようと努める。だが、視界が回復したと思った時には、すでに目の前に父の姿があった。
 公則は、冷ややかな眼差しで、必死で立ち上がろうともがく息子の様子を眺める。
「馬鹿者が」と公則は吐き捨てる。「何故だ? 何故、私を撃たなかった?」
 公昭には一瞬、何のことか分からなかった。
 父の言葉が淡々と続く。
「あの時、ゼロ使いを助けずに私を狙っていればお前の勝ちだったろう。勝機をみすみす逃がすとは本当に勝つ気があるのか?」
 先ほどのことかと公昭は思い至る。
 公昭がゼロ使いの少女を助けたのはとっさのことで、意識してやったわけではない。とっさに体が動いていた。
 だが、それを父は甘いと言う。
 蔑むように。
 諭すように。
「味方を無意識のうちに見殺しにできるようにならなければ警手として生き抜くことなどできない。だが、お前ではやはり無理か」
「父さん、何を言って……?」
「後のことは何も心配するな。お前たちを殺して、私は何食わぬ顔で警手を続ける」
 父の手がかざされる。その手に凝縮する闇は、父の穢れた心の表れ。
 今まさに臨界まで高まったその時、父の表情が変化した。術式を中断して視線を息子の公昭から転じる。
 まさか、と公昭は父の視線を追う。
 父の視線の先にいたのは、やはりあの少女だった。
 少女は自力で立ち上がっていた。刀を体に突き刺したまま。
 前のめりに、両腕をだらりと下げて立つ少女の姿は、この世に居場所を失ってさまよう幽鬼を思わせる。
「そうか」と公則は一人納得する。「お前には元から何も無かったのか」
「何も無い?」
 意味が分からず公昭は呟く。
 だが、闘争の最中に答えが返って来るはずもない。
 少女は、
「果て無き強欲……」
 告げて、自らの手で刀を抜き取る。
 不自然な姿勢から強引に引き抜いたせいで弾けるように血が飛ぶ。
 そして彼女は咆哮する。
「あ、が、あっああぁあ……!」
 獣のような声だった。
 細身の少女から発せられた声とはとても思えない。痛みではなく別の何かが少女を叫ばせている。
 瞬間、公昭は世界が切り替わったような感覚に襲われる。
 現世と幽世が重なり合って濁る。
 少女の周囲を何かが渦巻く。音もなく、匂いもなく、色もなく、形もないというのに、離れた場所にいる公昭を圧迫する存在感が確かに感じられる。公昭はその正体に思い至る。無色の力だ。無色の力が奔流となって周囲から彼女に流れ込んでいる。木々の間を吹き抜ける風が枝を鳴らし、にじむような月の下で葉が踊る光景は、夢のようであり幻のようでもある。
 変化が加速する。無色透明のはずの風が色付く。無色が有色に、無形が有形に、彼女の周囲が黒く染められる。敵である公則よりもさらに暗い色へと。
 不意に風が止む。
 無色の力はすでに降魔刀に収束している。刀身にまとわりつく闇は数多の蛇となって、腹をうねらせながら地面に落ちる。
 ぞ、ぞぞ、ぞぞぞぞぞぞぞぞ。
 蛇たちは、不気味な音を立てて地を這い、周囲の木々に絡み付いてゆく。蛇たちのあまりの数に、木々の表皮はすぐに見えなくなった。
 突然、公昭の胸に刺すような痛みが走る。
「ぐっ!」
 見れば、父もまた胸を押さえている。
 樹上から舞い落ちる無数の葉。
 黒い蛇が絡みついた木々にも異変が起きていた。
 枯れる。
 朽ちる。
 崩れる。
 形の有るものが無に帰ってゆく。
 全てがゼロになる。
 降魔刀・零式は、武具と術具の機能を併せ持つ。術具は、術式の起点であるだけでなく、術者の属性を増幅させもする。善を大善に、悪を大悪に、それぞれ増さしめる。術式が術者の望んだように現象を書き換える公式である以上、書き換えられた現象は術者の心象でもある。心象が現象を塗りつぶすのだ。今、少女の心象世界から漏れ出した蛇が現実世界を侵している。命を宿すもの全てを捕食対象として無限の増殖力を見せる蛇の群れを見て、公昭は戦慄する。これがゼロ使いと呼ばれる本当の理由なのか。
 穴が開いたように空が見える。
 むき出しの地面を月が照らす。
 災いの中心に、少女は一人立つ。
 長い髪がうつむいた少女の顔を隠している。わずかにのぞく唇が下弦の月のように吊り上がる。少女の首に飾られた逆十字もまた、嘲笑うかのように禍々しく光る。
 周囲をあらかた食い尽くすと、黒い蛇の群れが一斉に公則と公昭を見る。
 蛇たちに目はない。だが、錯覚などでは決してない。
 蛇たちが頭をもたげる。――来る!
 確かな予感と、明らかな殺意。
 公昭は横に跳ぶ。公則はその逆へ。父子は左右に分かれる。
 蛇の群れが次々に公則と公昭に襲いかかる。わずかな差で、二人はかろうじて避け続ける。
 地面を焦がすような音が二人を追う。
「見境なしか」
 父の声が遠くから聞こえ、公昭はそちらを向く。
 いつの間にか公昭と公則の距離はだいぶ開いていた。
 公昭の目の前で、父と少女が対する。
 蛇たちの動きが止まる。あくまで一時的に。今か今かと焦れながら少女からの命令を待つように。
 少女が無造作に刀を振るう。蛇の群れが収束する。闇が弾け、一つの奔流となって公則へ雪崩れ込んだ。
 息を整えていた公則が呼応するように叫ぶ。
「発!」
 闇と闇が衝突した。

 公則は押し寄せる黒い津波を正面から迎え撃つ。
 少女が展開する術式は面。対して、公則のそれは点。
 量においては圧倒的に公則が不利だ。突然の暴力を受けて、鎮守の森は混乱したまま。木々の上げる声なき悲鳴が森中に木霊している。得られずはずの力が集まらない。
 質では同程度か。
 しかし、形には付け入る隙がある。寡をもって衆を破るとすれば、勝機は中央突破しかない。
 活路を求めて凶弾が激流をさかのぼる。
 少女が放った術式が公則の術式を蝕む。凶弾は次第に細く、槍のように尖ってゆく。その槍先が路(みち)を開けた。開いたのは、人一人がかろうじて通れるだけの小さな穴。これで活きる。公則はそこへ向けて走り出す。
 だが、彼より速くこちら側に小柄な人影が飛び込んできた。
 長い黒髪が踊る。
「ゼロ使い!」
 公則より先に走り出していたのか。
 自らが放った術式に体を侵されることを厭(いと)いもせずに、少女が駆ける。
 この少女は、と公則は悟る。最初から身を捨てている。
 公則に少女の瞳が迫る。
 二人の体が交差する刹那、公則と少女の目が合った。迷いのない目だ。少女はまっすぐに公則だけを見ている。悪意も敵意もない、純粋な殺意に彩られた少女の瞳を、公則は美しいと感じた。
 すれ違いざまの一刀が公則の体を薙いだ。

 闇が晴れた。
 父と少女の姿が明らかになる。
 公則の体から血が噴き出した時には、少女はすでに駆け抜けていた。あまりに速さに、少女は返り血すら浴びていない。少女は人を斬ることに慣れている。そう思わせる鮮やかな手並みだった。
 公則は無言のまま地に伏す。
 少女もまた、膝を折った。
 公昭は体を引きずりながら少女に駆け寄ろうとする。
「大丈夫か!」
 その眼前に、刀の鋭い切っ先が突きつけられた。
 慌てて公昭は足を止める。
「っ!」
「来ない、で……ください……私は……っん……大丈夫、ですから」
 切れ切れに助けを拒む少女の声は今にも消え入りそうなほど小さい。
 力なく立ち上がると、そのままふらふらと森の奥へ消えた。
 少女の後姿を公昭は黙然と見送る。追うべきか。だが追ってどうする。
 結局、公昭は父のところに戻った。
「公昭」
 父の声は落ち着いていた。
 それは公昭がよく知る父の声だった。
「父さん……」
「長い夢から覚めた気分だ」
「今、手当てを」
「致命傷だ。良い腕をしている。だが、気分は悪くない」
「どうして……?」
「穢れた血が流れ出たせいだろう。最期になってこんなにも安らいだ気分になれたのだから、彼女には感謝しなければならないな」
 公則は左手に刺さったままの小柄を引き抜いた。
 死ぬまで抜けない、と少女が言っていた小柄が簡単に抜けた。
 やはり致命傷なのか。
 生きていて欲しいだなんて、虫のいい話だと公昭は思う。正気に戻ったとは言え、父が食人鬼として人々を殺してきた事実は変わらない。その罪は消えていない。あの苦悶に満ちた顔は、今も公昭のまぶたに残っている。
 父の公則の声が否応もなく公昭を現実に直面させる。
「お前の手でけりを着けろ」
 そう言って、父は公昭に小柄を手渡す。
 公昭は息をのむ。
「公昭。お前は好きに生きろ。使命に囚われて私のようになるな。松江家は私の代で終わりだ。それもいいだろう。松江家はとうの昔にその役目を終えていたのだから」
 公則は昔を語る。
「私が最初に人を殺したのは、自分の父だった。つまり、お前の祖父だ。術具に飲み込まれてしまった姿を見て、ああはなるまいと心に決めていたはずなのに、いつのまにか私も同じようになってしまっていた。公昭、お前が警手として生きる場合、結果は二つに一つだ。正気を保っているうちに敵に殺されるか、敵を殺し続けていずれ正気を失うか。それだけは理解しておけ」
「そんな勝手なこと……!」
「そうだな。勝手なことだ。すまない、そろそろ辛くなってきた。悪いが、もう休ませてくれないか」
 ためらう公昭の手に、父の手が重なる。
 父が目を閉じる。
 そして公昭は初めて人を殺した。



 阿木直哉(あぎ・なおや)がマンションの部屋に帰った時、空は白み始めていた。
 エレベータに乗ると、彼は飴色のテンプルが特徴的な眼鏡を外し、目のあたりを指でもむ。少し疲れている。
 部屋の前に着き、ドアに鍵を差し込む。
 すでに開いていた。
 同居人が帰ってきていたようだ。部屋に灯りが点いていないところから見て、休んでいるのかもしれない。
 直哉は深く安堵の息をつく。今日も彼女は生きて戻ってきてくれた。それだけで疲れが吹き飛んだ気がした。
 けれど、部屋に入った直哉はすぐに異状に気付く。灯りを点けると、床のそこかしこに輸血パックが散乱しているのが分かった。全てのパックが空だ。おそらく部屋に保管してあった輸血パックを全て飲み干したのだろう。床のあちこちが赤黒い血で汚され、足跡が点々と残っている。しかし、その足跡の主の姿が見えない。
 直哉は呼びかける。
「雫那(しずな)?」
 返事は返ってこない。
 直哉は彼女の部屋の前に立つ。
 彼の耳に入る呼吸音。
「……は、あ……んぅ……」
 その喘ぐような声は、間違いなく彼女のものだ。
 直哉はノックする。
 部屋の中から、息が大きく乱れる気配が伝わってくる。
「雫那、入っていいか?」
 やはり返事はない。
「入るぞ」
 暗い部屋に廊下の光が差し込む。
 殺風景な部屋だった。大きな本棚、勉強机、衣装ダンス、ベッド。それくらいしか物がない。年頃の女の子の部屋とはとても思えないが、直哉が何か物を置こうとしても、この部屋の主は「邪魔」とか「使わない」など一言をもって却下してしまうのだ。
 ベッドに彼女の姿はない。
 部屋の隅で、毛布に包(くる)まって、膝を抱えるようにうずくまる少女の姿を、直哉は見つけた。
 少女が顔を上げる。
 拒むような、すがるような、どちらとも言えない表情で。
「あ、直哉……」
「足りないのか?」
 直哉は彼女の状態を察し、机にあったカッターナイフを手に取る。
「待ってろ、今――」
「止めて!」
 直哉がしようとしていたことを、雫那は引き裂かれるような叫び声で制止する。
「どうして? 辛いだろう?」
「でも……!」
「でも?」
「直哉にそんなことさせたくない……」
 雫那は頑なに拒む。
 こうなると何を言っても無駄なのは、直哉には長い付き合いで分かっている。
 仕方がないな、と直哉は息をつく。
 言い出したら聞かないのは昔から変わらない。ゼロ使いと呼ばれていても、自分にとって彼女はいつまでも子供のままだ。
「強情な奴」
 直哉はそう言うと、雫那の隣に座る。
 雫那は不審げに直哉を見やる。
「……なに?」
「んー?」
「何してるの?」
「特に何かしてるわけでもないよ。事後承諾になるけど、座ってもいいか?」
「別に……いい、けど」
 二人は何をするでもなく並ぶ。
 触れ合う体から、少女の体が細かく震えているのが伝わってくる。
 直哉は彼女の肩に腕を回して抱き寄せる。
「あ……」
 雫那は小さな声を漏らす。
 直哉は雫那の髪を指ですきながら尋ねる。
「こうすれば寒くないだろ?」
「うん……少し、楽になったかも」
 雫那はそう言いながら、目を閉じて、彼に体重を預ける。
 そうやって無言のまま二人は寄り添う。
 心地良い沈黙が訪れ、重なり合う心音が時を刻む。
 雫那の呼吸はだいぶ落ち着いてきたようだ。
 直哉はいつものあいさつをする。
「おかえり、雫那」
「……ただいま」
 そして雫那の方からも。
「直哉」
「うん?」
「お帰りなさい」
「ああ。ただいま」
 たったそれだけのやり取り。
 けれど、それができることが直哉はうれしい。彼女が人を殺してきたことを理解していても。
 直哉は少女を促す。
「ベッドで眠った方がいいぞ」
「うん」
「立てるか?」
「大丈夫……」
 そう言って立ち上がろうとした雫那だったが、途端、よろけてしまう。
 かたわらの直哉はそれを予期していたのか、素早く彼女を受け止める。
「無理するな」
 直哉はやや強引に彼女を抱き上げた。
 膝と脇のところでしっかり彼女の体を支える。
 雫那は弱々しく抗議する。
「ちょっ、直哉!」
「なに?」
「自分で歩けるのに……」
「今よろけた人間がなに言ってるんだ。こういう時は素直に医者のいうことを聞いとけ」
「……はい」
 雫那は抗議したわりに、大人しく、力を抜いて彼の腕に自分を任せる。
 ベッドまで十歩にも満たない距離。
 直哉は雫那を寝かせると、呼吸が楽になるようにシャツのボタンを二つ外してやる。
 布団をかけて「おやすみ」と言って部屋を出ようとする直哉を、雫那が呼び止める。
「直哉」
「なに?」
「その……眠るまででいいから、手を握ってて欲しい……」
「ああ、いいよ」
 直哉は両手で彼女の手を包むように握る。
「いつもこのくらい素直だったらいいんだけどな」
「直哉がいつも小言ばっかり言うから……」
「保護者としてはいろいろ心配なんだよ」
「さっきは自分のこと医者だって言ったくせに……ずるい」
「大人はずるいの。お前も早いとこ、ずるくなれ」
 ずるくなってでもいいから生きてくれ。
 そんな祈りにも似た思いを込めて、直哉は極力軽い口調で語りかける。
 窓からカーテン越しに朝日が差し込み始める。
 ようやく夜が終わろうとしている。
 この少女が夜をまた一つ無事に越えたことを、直哉は感謝した。



 葬儀は実にあっさりしたものだった。
 それでも公昭は喪主として数日忙殺された。だが、そのおかげで余計なことを考えずに済んだのかもしれない。むしろ一段落した後に襲ってきた虚脱感が、公昭には息苦しい。うっとうしいのはそれだけではない。あの夜からずっと微熱が続いている。原因は間違いなく術具のせいだ。やはり父も同じ苦しみに耐えていたのだろうか。
 公昭は写真立てに目をやる。
 父と母と幼い頃の自分が写っている。その写真を、公昭は指でそっとなぞる。
 あの頃は、家族三人がそろっていた。
 あの頃は、父親が正義の味方だと信じていた。
 人々を守るヒーロー。彼の正体を知っているのは自分だけ。そのことが誇らしくもあり、ちょっとした優越感もあった。
 いつだったか、
「お父さんは大切なお仕事をしてるんだよね」
 そう母に言ったことがある。
 母は病弱な人だった。
 確かその日も伏せっていたように思う。
 公昭は少しでも母を元気付けたくて、
「僕も大きくなったらお父さんのお手伝いをするんだ」
 と幼い夢を語った。
 母は何かを言おうとして声を詰まらせ、不意に公昭を抱き寄せた。
 公昭の肌に温かい雫(しずく)が落ちる。
 母は泣いていた。声を出すことなく体を震わせながら。
「お母さん、泣いてるの?」
「うれしいの。うれしくて泣いてるの」
 その時は、母の言葉を疑うことはなかった。
 けれど本当にそうだったのだろうか、と公昭は今にして思う。母に尋ねることはもうできないが、母の涙にはうれしさ以外に様々な感情が混じっていたような気がする。けれど、その涙はとても美しくて、おそらく自分の在り方はあの時に決定付けられたのだ。戦えなどと言われたことはない。誰に命じられたわけでもない。公昭にとって、父の跡を継ぐことは極めて自然なことだった。母の涙はすぐに冷めてしまったけれど、その熱は今も公昭の心の中に残っている。
 来客を知らせる声に、公昭の心は夢から現(うつつ)に返る。
 気がつけば、側に使用人が立っていた。
「三島監査官がお見えです」
「監査官が?」
「すでに応接間にお通ししています」
「分かった」

 応接間には、窓辺に立つ黒いスーツ姿の人物があった。
 三島監査官だ。身分は、文化庁文化財部文化財監査官。
 年齢は父の公則に近い。
 尖るように長身で、役人と言うより軍人と言われた方が納得できる。そんな雰囲気をまとう人物だ。何度か面識はあるのだが、ヒゲに囲まれた彼の口元がほころんだところを、公昭は一度も見たことはない。
 振り返った三島の表情が軽く驚いたように動く。公則の顔に何かを見つけたように。
 公昭は不審に思って尋ねる。
「どうかされましたか?」
「いや……」と三島は言いよどむ。「以前会ったのは何年前だったか。大きくなったな」
「ええ。おかげさまで」
 会話が途切れる。
 公昭は三島の言葉を待つ。
 果たして三島から沈黙を破った。
「やはり似ているな。母親にそっくりだ」
「そうでしょうか」
 公昭はあいまいに受ける。
 公昭自身もそのことを自覚していたが、それを素直に喜んでいいものか決めかねている。彼にとって女性的な顔立ちなのは日頃から気にしている点の一つだった。しかし、母を知る人が自分を見て懐かしく思ってくれるのはうれしい。短い人生であっても母が確かに人々の心に足跡を残したことの証明なのだから。
 だが、公昭には聞かなければならないことがある。
「お聞きしたいことがあります」
「ああ」
「ゼロ使いのことです」と公昭は単刀直入に尋ねる。「あれはいったい何なんですか? 俺にはとても危険な存在のように感じられました。松江は自分の命を使います。しかし、あれは他者の命を奪うことで術式を展開します。あんな危険な人間を野放しにしていたんですか? いや、そもそも人間なんですか? いくら必要悪だと言っても限度というものがあるはず」
 自分がいつになく激していることを公昭は自覚している。
 母のことを思い出したからだろうか。
 人を活かす力が善であり、人を殺す力が悪であるとするならば、自分たちは間違いなく悪に分類されると公昭は思う。例え必要悪であったとしても、悪は悪に他ならない。それらの悪たちを統括するのが『クダン』の職務だとは言うものの、いつか彼らの手に負えない悪が生まれるかもしれない。
 どこにでも邪魔な人間はいる。
 どこにでも不要な人間はいる。
 自分の手を汚したくなければ、不要な人間に邪魔な人間を始末させればいい。
 国中から要らない人間を集め、使える者を選び、国にとって害のあるモノを始末させる。『クダン』の職務を端的に言えば、そういうことになる。そこに法的な根拠はない。諸々(もろもろ)の活動を黙認されることで『クダン』の権力は支えられている。彼ら『クダン』は政府の中に根を張る組織内組織であり、一種の秘密結社と言えなくもないが、思想性は皆無だった。
 信条らしきものはただ一つ。
「毒をもって毒を制し、悪をもって悪を討つ」
 例えば、ゼロ使いと呼ばれる少女などはまさに典型と言える。
 公昭は暗然と思う。あれは猛毒かつ猛悪(もうあく)な存在だ。『クダン』と言えど、果たして扱いきれるものか。
 そんな懸念を伝える公昭に、三島は平然と答える。
「この国は悪すらも消費する」
「ですが」
「お前の心配はもっともだ。犬は鎖で、人は法で、縛っておかなければならない」
「俺にはあの女が法の精神を重んじるような人間とはとても思えません」
「同感だ。彼女には法より鎖が相応しい。だが心配する必要はない。すでに彼女は我々の鎖につながれている」
「どういう意味ですか?」
「愛情だ」と三島はあくまで淡々と語る。「愛情は絆にも鎖にもなる。愛情をもって接する人間を用意することで、彼女をこちら側につなぎ止めておくことができる。そうでなければ単独運用などとても無理な話だ。彼を見つけるのには苦労したが、それに見合う価値はあった」
「愛情が、鎖……」
 こちら側とはどういう意味なのだろう。
 彼女が属する『クダン』のことか、彼女が類される人間全体のことか。
 だが聞いていいものかと公昭は迷う。あの少女のことは好きになれないが、だからと言って公昭は、彼女の秘密にこれ以上立ち入る気にもなれない。その秘密は、きっと彼女だけのものだろうから。
 そして同時に公昭は思う。
 その思いを公昭は迷いながらも口にする。
「それは許されることなのでしょうか」
「許されないだろうな」と三島はあっさり認める。「だが我々は……私は、許しを求めるつもりはない。私の役目は、不要と見なされた人々に活きる場所を与えることにある。牢獄のような病院で一生を終えるか、人を殺すためであれ外に出るか。どちらを選んでも地獄であることには変わりないが、どんな地獄で生きるのかを選ぶくらいの自由はあっていい」
 それに、と三島は付け加える。
「彼女の在り方はまさに必要悪だ。彼女が生きるためには他人の命を奪わなければならない。人を殺めることは社会が認めない。では、例えば殺人鬼ならどうだ? 積極的に認めることはなくても、とりあえず黙っていてはくれるだろう。自分たちにとって都合の悪い人間を人知れず始末してくれるなら、この国はどんな悪でも容認できる」
 それにしても、と三島は話題を変えた。
「ゼロ使いに悪感情を抱いているかと思っていたが、そうでもないようだな。私としても都合がいい。彼女もしばらくこの街に留まる方がいいだろう」
「都合がいい、とは?」
「ゼロ使いはこの街に残す。お前はまだ未熟だ。彼女の助けが必要だろう」
「俺は処罰されるのではないのですか?」
「処罰?」と三島は聞き返す。「お前が何をした?」
「いえ、それは……」
「お前たち松江家は元々『クダン』とは何の関係もない。あくまで協力関係にあるだけだ。警手という役目も追認しているに過ぎないのだからな。それに、親の罪を子が背負う必要はどこにもない」
 さて、と三島は本題に入った。
「昨日、首の無い死体が発見された」
「首なし死体ですか。しかしニュースでは何も」
「当然だ」と三島はうなずく。「まだ報道管制が敷かれている。報告によると首以外に持ち去られた物はないらしい。単なる異常者の犯行であれば、それは警察が担当すべきことだ。だが、犯人の目的が初めから人間の頭部だったとしたら?」
「月盤(げつばん)を作ろうとしている、ということですか?」
「現時点では推測の域を出ない。だが、我々はこれを神的事件(しんてきじけん)の前兆と見なし、介入することを決定した」
 三島はそう言って言葉を切った。
 神的事件。
 それを防ぐことが、それを引き起こす祭司者を始末することが、『クダン』の役目だ。『クダン』は神的事件の前兆を見つけると、違法行為も越権行為も省みることなく、関係省庁に協力を求める。その際、『クダン』が事情を説明することはほとんどない。それでも協力しなければならない人々からすれば、『クダン』が不吉の象徴と見えても仕方のないことなのかもしれない。伝承では、『件(くだん)』という妖怪は災厄を予言するために現れると言う。『クダン』という呼称はそこに由来する。
 そして、この街に災厄が起こることを、『クダン』は予言した。
 三島は、公昭の気持ちを確かめるように、
「文化財として扱われる歴史的価値のある祭具は、オリジナルの月盤を始め大半が我々の管理下もしくは監視下にある。だからこそ、自作の祭具で祭礼を行う者が最も厄介と言える。この種の祭司者(さいししゃ)に対しては対処のしようがない。いつどこで現れるか分からない祭司者たちを一人一人倒してゆく以外には」
 と語り、簡潔に命じる。
「公昭」
「はい」
「祭礼が完成する前に祭司者を見つけ出せ」
「分かりました」
 公昭は即座に受ける。
 必要なことを伝えると、長居は無用とばかりに三島は去った。
 見送りから戻った公昭はテーブルの上に勾玉が置かれていることに気付く。
 その勾玉は父の公則のものだった。



 月曜の朝が来た。
 公昭はベッドから重い体を起こす。
 目覚めはあまり良いものではなかった。
 まだ微熱がある。
 公昭はのろのろと着替え始める。だが、姿見に映る自分の体を見つけて、手を止める。
 胸に埋め込まれた勾玉。それを中心にして放射状に伸びるミミズバレ。白い肌を這う赤い痕は、まるで華のようだ。事実、この華は、公昭の命を吸い上げて咲いているのだ。
 ペンダントを首にかける。それは、形見とも言える父の勾玉に糸を通したもの。
 公昭には、ここに父の心が残っているように思えてならない。だからこそ胸の近くにいつも置いておきたい。

 学校はいつもと変わらない。
 それが公昭にとって何よりもうれしい。学校に行けば、騒がしい友人たちがいて、穏やかな日常がある。
 途中、男子生徒たちとすれ違う際、彼らの会話が耳に入った。
「クオリティ、高いよな」
「うちの制服、あんな良かったっけ」
「中身の違いだろ」
「だよなー」
 そんな勝手な論評を聞き流して公昭は自分の教室へ向かう。
 葬儀で公昭が学校を休んでいた間に、転校生でも来たのかもしれない。
 だが、教室に入った時、公昭は入り口のところで固まった。
 ゼロ使いの二つ名を持つあの少女が、学校指定のセーラー服を着て、席に着いていた。

 休み時間になり、少女は教室を出た。
 彼女が学校に入り込んだ目的を聞き出そうと、公昭も教室を出る。
 行き先は図書室だった。公昭も追って入る。彼女は一人、図書室の隅の椅子に腰かけて、本を開いていた。視力が悪いのか眼鏡をかけている。フレーム無しの、飴色(あめいろ)のテンプルが鮮やかな印象だ。
 公昭は、
「邪魔するぞ」
 それだけ言って、返事も待たずに少女の横に座る。
 少女は無言で面を上げる。黒絹のような長い髪がさらりと揺れる。
 公昭は語をつなぐ。
「何をしにきた」
「何を、とは?」
「学校に来た目的を言え」
 公昭は厳しい声で問い詰める。
 少女は戸惑った様子で首を少しかしげる。
「質問の趣旨が分かりませんね。私がこの街に留まることは連絡済と思っていましたが……」
「連絡は受けている。俺が聞きたいのは何故お前が学校にいるのかということだ」
「ここにいるのはあくまで生徒として。任務とは無関係です」
「生徒として? お前がか?」
 と、公昭は思わず率直な感想を述べてしまった。
 少女が思わぬ反応を示したのは直後のことだった。
「私が……私が学校に通うのはそんなにおかしいことですか?」
 少女の声は小さかったが、無視できない響きがあった。
「おかしくは、ないが」
「相応しくないと」と少女は即座に反応を返す。
「いや……」と公昭は言葉に詰まる。
「自分でも分かっています。私には学校なんて似合わない……しかし、私の安全性に問題はないと『クダン』が判断したからこそ、私はここにいることを許されています……貴方が懸念する必要は何もない」
「……」
 公昭は何も言えなくなった。
 どうして彼女が学校に拘るのか公昭には分からない。しかし公昭は、少女の態度から、触れてはならないことのように思える。心の中にある絶対防衛線とでも言おうか。その線を越えることはもちろん近付くことさえ許さないような、そんな感触がある。
 黙り込む公昭に、少女は尋ねる。
「まだ何か?」
「お前は何故あんな力が使えるんだ? お前はいったい何なんだ?」
「そんなことですか」と、少女は軽く息を付く。
「そんなこと?」
「ええ、そんなことです。その答えを私が知っているはずもないでしょう。私のような者が何故生まれてしまったのか……聞きたいのはこちらの方です」
 少女は他人事のように自分を語る。
 公昭は、彼女がどのように扱われてきたのか分かったような気がした。
 沈黙する公昭に、少女が逆に質問してきた。
「私からも質問してもいいですか?」
「なんだ?」
 公昭は少女の意外な発言に戸惑う。
 他人に無関心とばかり思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
 少女は公昭の家系について尋ねてきた。
「お聞きしたいのは、貴方たち松江家の人間が代々戦い続けた理由です。貴方たちの巫女はすでに絶えて久しい……仕えるべき主を失い、本来の目的を見失って、それでも鎮守の森を守ってきたのは何故ですか?」
「それを聞いてどうする」
「別に何も……ただの興味です」
「ただの興味か」
「いけませんか?」と少女は返す。「私は、松江家の努力を否定しているわけではありません。むしろ高く評価しています。貴方たちの有形無形の努力によって鎮守の森が維持されてきたからこそ、この街は栄えてこれたのですから……だからこそ知りたいとずっと思っていました。貴方たちを支えたものは何なのか、と」
 何が支えてきたのか。
 公昭はふと気付いた。今までそのことを自らに問うことなどなかったと。
 公昭は答えを探しながら言葉を繰る。
「何だろうな。別に大した理由はないと思うが。わざわざ考えるようなことか?」
「私は真面目に聞いているんです。ちゃんと考えてください」
 少女は再び、素早く反応を返してきた。
 公昭には、その様子が何だか怒っているように見える。
 だが、何に対して怒っているのかが分からない。
「何故お前が怒る」
「怒ってなどいません」
 また素早い反応を示す少女。
 確実に怒っている。
 ただその怒り方は、先ほどの学校にこだわりを見せた時とは違うような気がする。拗ねているのだろうか。まさか、と公昭はすぐに自分の考えを心の中で否定する。
 仕方なく公昭は話し出す。
「まあ、強いて理由を挙げるなら……」
「はい」
「親の仕事がたまたまそうだったからかもしれないな」
「子は親の仕事を継ぐものだ、と?」と、少女は明らかに不満気だ。
「結果的にはそうなる」
 他にもっとマシな言い方はないものかと公昭自身も思う。
 少女の反応ももっともだとも思う。
 しかし公昭には、自分たちのやってきたことを、言葉で飾る気にはなれない。
 やはりと言うべきか少女は呆れている。
「何て前近代的な。貴方はいつの時代の人間ですか。あまりにも考え方が旧いです」
「だから考えてそうなったわけではないと言っているだろう。こんなことを頭で考えても仕方がないしな。それにしても……」
「何です?」
「旧いのはお互い様だろう。今時、前近代的なんて言葉を誰が使う? いや、俺はたまに使うが」
 公昭は率直にそう思う。
 自分が一般的な思考からズレていることは自覚していたが、この少女はそれ以上だった。公昭は何だか心配になってきた。彼女はこれから学校生活をちゃんと送れるのだろうか。いや、そもそも今までの学校ではどうだったのだろう。彼女が学校でどうやって過ごしてきたのか公昭にはまったく想像できない。面倒見の良いクラスメイトがいたならいいのだが。
 少女は断固とした口調で公昭の言葉を否定する。
「私は旧くなんてありません。妙な言いがかりは止してください」
「言いがかりか?」
「言いがかりです」
「いや、まあ、本人がそう言うなら深く追求しようとは思わないが」
「……賢明です」
 少しだけ、ほんの少しだけ、公昭はこの少女に親近感を持った。
 そう思ったら唐突に笑いが込み上げてきた。
 何とか耐えようとするものの、こらえようとすればするほど可笑しくなってしまう。
 そんな公昭を、彼女は非難するような目で見る。
 公昭は笑いをかみ殺しながら謝る。
「ああ、悪い」
「本当にそう思っているんですか」
「実はあまり思っていない」
「……」
 少女は恨みがましいような視線を送ってくる。
 ついに、ダムが決壊するように公昭の口から笑いが溢れ出した。
「ふ、くっ、ははははははははは!」
 笑いはしばらく収まってくれなかった。
 ようやく止まった時、気が付けば、隣の少女はむっとした表情で公昭をにらんでいた。
「……何が可笑しいんですか」
「別に何が可笑しいわけでもないんだがな。久しぶりだ、こんなに笑ったのは」
「それ以上笑ったら斬ります」
「いいのか? 安全性に問題がなかったはずだろう?」
「くっ……不愉快な人ですね。いいでしょう。今後、貴方には一切遠慮せずに対応することにします」
「望むところだ、ゼロ使い」
 願ってもないことだ、と公昭はむしろ歓迎する。
 その方が公昭にとってはむしろ気が楽だ。
 この前のように足手まといとして扱われるのはご免だった。いっしょに戦うからには対等がいい。
 そろそろ行くかと公昭が席を立とうとした時、少女は唐突に告げた。
「一ノ瀬です」
「え?」
「一ノ瀬雫那(いちのせ・しずな)。私の名前です」
 彼女は何故急に自分の名前を名乗ったのだろう。
 だが公昭は、悪い気はしない。
 公昭が口を開きかけた時、クラスメイトが入ってきた。
 友人の小野寺真幸(おのでら・まさゆき)だ。公昭とは中学の頃からの付き合いになる。
 彼は入るなり公昭に声をかける。
「お。こんなとこにいたのか、公昭」
「どうした?」
「八重樫先生が呼んでる」
「分かった」と公昭は席を立つ。「邪魔したな、一ノ瀬」
「いえ」
 一ノ瀬雫那はそう応じて、再び本に視線を落とす。
 無機質なまでの無表情さ。
 彼女は、人形のように見えるかもしれない。公昭もそう見ていた。けれど今はまったく違って見える。彼女はやはり人間だ。どんなに恐ろしい力を持っていても、それだけは間違いない。
 廊下を歩きながら真幸が不思議そうに尋ねてくる。
「なあ。さっき一ノ瀬さんと何を話してたんだ? ずいぶん楽しそうだったけど」
「楽しい? まさか」
「でも、廊下でお前の笑い声が聞こえたぞ。お前、そんな積極的な性格だっけ? どうやって親しくなったんだ?」
 真幸の口調は、からかっていると言うより、純粋に不思議で仕方がないとでもいった様子だ。
 確かに、と公昭も心の中で同意する。問い詰めるつもりだったのに何故か最後は奇妙な雰囲気になってしまっていた。
 小野寺真幸はぼやっとしているようでいて、意外に鋭い面もあって油断できない。
 だが、誤解している部分もあるので、公昭は訂正する。
「別に親しくはない」
「そうかなあ」
 真幸は盛んに首をかしげていた。



 昼休みになった。
 公昭と、小野寺真幸と、妹の小野寺真琴(おのでら・まこと)の三人は、いつもの場所で弁当を広げる。
 三人がお気に入りの公園は、道路を挟んで学校の真向かいにある。堀にかけられた橋を渡ればすぐの距離だ。
 校則違反なのだが、あまり気にしている生徒はいなかったりする。教師も気にしていなかったりする。
 さっきも重箱を提げた担任の八重樫先生とすれ違った。
 彼女は視線を投げかけて一言。
「今日はいい日和ね」
 そのまま一人ですたすたと自分の場所に行ってしまった。
 それでいいのだろうか、と公昭は思わなくもない。
 だが確かに良い天気だ。
 景色もいい。
 城跡の情感を活かした公園は春には桜並木を楽しみながら毎日のように花見ができる。今は、春に比べれば少し寂しい気もするが、温かい日差しがある。ぽかぽか心地良くて、ここ最近あまり眠れなかった公昭は、うとうとしてくる。
 その半ば開きかけた口に異物が突っ込まれた。
「むぐっ?」
 異物の正体は玉子焼きだった。
 母子家庭である小野寺家では兄妹二人が食事を作っている。
 玉子焼きは兄の真幸の得意料理でもある。
「隙だらけだぞ、公昭」
 犯人である真幸はのん気に笑っている。
 反省している様子が見られない。
 どうやり返してやろうか、と公昭は攻撃の糸口を探る。
「人の口に物を無理やり入れるとは何事だ」
「ごめん、つい」
「つい? つい、やって良いことと悪いことがあるだろうが」
「でも好物だろ?」
 と、真幸は自信あり気に聞いてくる。
 もっくもっく、と公昭は咀嚼する。
 だし汁の加わった卵の甘みが口の中に広がってゆく。
 悔しいが、と公昭は思う。やはり好みの味付けだ。
「物事には順序というものがある。だが、まあ、美味いことは美味い」
「そりゃ良かった」
 真幸は無邪気に笑う。
 見れば、兄と公昭の様子を見ていた真琴は笑いをかみ殺していた。
 不審そうな公昭の視線に気付いた真琴が感想を口にする。
「二人を見てると退屈しないね。いろいろな意味で」
 そう言って彼女は立ち上がると、スカートに付いた草を払う。
「兄さん、公昭くん。先に行くね」
「ん、用でもあるの?」と真幸。
「うん、ちょっとね。部室に顔出さなきゃ。それにいいお土産ができちゃった」
「お土産?」
 と、異口同音に公昭と真幸は尋ねる。
 真琴は笑って、
「ううん、何でもない」
 じゃねー、と軽く手を振って学校へ戻る。
 食人鬼と呼ばれた犯人が射殺されて、事件は決着を見た。もちろん嘘の報道だが、人々はそのことを知らない。だが、一つの事件が終わったのは確かなことだった。遠くから通う生徒のこともあって、あちこちの部活は半休止状態にあったが、それも解除されることになったらしい。
 ほころんだ日常が編み直されつつある。
 その一方で、新たな不安要素も浮かんできている。
 不意に、真幸が尋ねる。
「あの犯人、どうなるんだろうな」
「どういう意味だ? 犯人はもう死んだ。事件は終わった。終わったんだ」
 公昭は友人の言葉を計りかねた。
 真幸との付き合いは長いが、時々わけの分からないことを言うことがある。
 予想外の方向から言葉を繰り出すので対応に困る。
 真幸は困ったように答える。
「ん、それはそうなんだけどさ。身元が分かんないんだろ。だったら、どこに埋葬するんだろうって思って」
「妙なことを気にする奴だな」
「う」と真幸は言葉に詰まる。
「まあ、そうだな。身元が分からない以上は無縁墓地が妥当か」
「そっか……」
「まだ何か疑問があるのか?」
「疑問はないんだけど」
「何だ?」
 と公昭は尋ねる。
 つい語気が強くなってしまう。
 正直なところ、あまり好んでしたい話題ではなかった。
 真幸はやはり困ったように苦笑する。
 そして、
「誰も墓参りに来ないんだろ。なんか寂しいな」
 と、遠くを思うように呟いた。
 それは、公昭にとって予想外の言葉だった。
 本当に対応に困る。
「……」
「ごめん、不謹慎だった。たくさん人が殺されたってのに」
「いや、報われたよ」
「え? 今なんて?」
 と真幸は聞き返す。
 公昭の声はあまりにも小さくて聞き取れなかったらしい。
 幸いだ。
 とても人に言えるようなことではない。
 公昭は微苦笑を漏らす。
「何でもない。お前が友人で良かったと思っただけだ」
「ごめん、今のも聞こえなかった」
「うるさい馬鹿者。こんなことを二度も言えるか。後は察しろ」
「むちゃ言うな」
 真幸はそう言いながらも決して怒った風ではない。
 そうこうするうちに話題は別のことに移る。
 友人の言葉に不器用に相槌を打ちながら公昭は思う。
 自分がやらなくても誰かがやることなのかもしれない。きっと、逃げようと思えばいつでも逃げられる。けれど、だからこそ言えることがある。これは自分の意思で選んだ道なのだと。そして、自分には守りたい人たちがいて、彼らのために戦う力がある。理由はそれだけで十分だ。
 公昭は側らの友人を見ながら改めて感謝する。
 大丈夫。
 こんな奴が側にいてくれるなら、きっとやっていける。

■七月一日/土曜日

 じりりりり。
 けたたましい音を立てて目覚まし時計が朝を知らせる。
「んっ……」
 一ノ瀬雫那はベッドの上で寝返りを打つ。
 体を丸めて横向きに眠る姿はまるで子供のようで、腰まである彼女の長い黒髪が白いシーツの上に散らばって、鮮やかなコントラストを作り出している。
 鐘を乱打しているような騒がしさの中で、雫那は何度も体の向きを変える。
 なかなか起きようとしない。
 じりりりり。
 目覚めを催促するように目覚まし時計はさらに音量を上げる。
「……う、るさい」
 雫那の腕が伸びて目覚まし時計を激しく叩く。
 音が止む。
 雫那は上半身だけ起こす。その姿勢で彼女の意識は夢と現の境をさまよう。
 夢に沈んでいた意識がゆっくり浮かんでくる。
 まったく、と雫那は目覚まし時計を見てぼんやり考える。ずいぶん頑丈な時計だ。毎朝のように叩いているのに故障する気配をいっこうに見せない。もしかすると思い切り叩いても壊れないのではないか、とさえ思えてくる。今度、試してみるのもいいかもしれない。そんな物騒なことを考えながら、雫那はのろのろとベッドから降り、寝巻き代わりに直哉から拝借した白いワイシャツ姿で机に向かう。
 フローリングの床を雫那の素足がぺたぺたと音を立てる。
 机から取り出したのは、一冊の使い古されたノートだった。
 ぱらぱらとめくる。
 どのページにも正の字ばかりだ。ノートは正の字が溢れている。雫那はそこに一画書き加える。『クダン』に取り込まれた日から、降魔刀を手にした時から、彼女は朝の日課として続けている。何故こんなことをしているのか、彼女自身にもよく分からないまま、月日が記録されてゆく。
 ノートを仕舞うと雫那は廊下に出る。
 そこで、朝刊を手にした直哉とばったり会った。
「おはよう、雫那」
「ん。おはよう」
 と、まだぼんやりする頭で雫那はあいさつを返す。
 直哉の脇を抜けてバスルームに向かおうとする。
 が、それを直哉が呼び止める。
「あのな、雫那」
「……なに?」
「そんな格好でうろつくなって言ってるだろ」
「……?」
 雫那は、素肌の上に白いワイシャツを一枚着ただけの自分の姿を見る。
 身長差のある直哉のワイシャツはゆったりした着心地で、雫那は気に入っている。下着もはいているし何が問題なんだろう、と雫那は首をかしげる。本当に仕方のない人だ、と思うとため息が出てくる。だいたい自分と直哉しかいないのだから気にする必要はないのに。思うところは他にも色々あるが、例を一つ挙げると、髪を撫でればこちらが喜ぶと思っているのが気に入らない。でも、まあ、直哉がそうしたいのであれば好きにすればいいのだけど。
 起き抜けの気だるさを感じながら雫那は反論する。
「別にこの格好でも見えてないじゃない」
「そういうことじゃなくてだな」
 さらに小言を言いそうな直哉にかまわずに雫那はバスルームに入る。
 熱いシャワーを浴びて頭をすっきりさせる。
 その後、雫那は部屋に戻り、バスタオルを捨てて着替える。
 制服を着て、逆十字を吊るした黒のチョーカーを首に巻いて、雫那がリビングに行くと、すでに朝食の準備ができていた。テーブルに並ぶ料理は、とろろ、味噌汁、焼き魚、目玉焼き、サラダ、漬物など、和食が目立つ。もちろん作ったのは直哉だ。雫那が和食が好きということもあって、直哉は和食をよく作るようになった。直哉はいつも雫那を中心にして行動する。それがうれしくて、けれど申し訳なくて、雫那はどうしても気持ちを上手く伝えることができないでいる。
 いつか素直に感謝できる日が来るだろうか。
 その直哉は新聞をソファーに置いて雫那を促す。
「ご飯にしよう」
「ん」
 吐息で返事をして雫那も席に着く。
「いただきます」
「いただきます」
 二人は朝食をとる。
 味噌汁には短冊切りされた長芋が入っていて食感が面白い。
 直哉が感想を求めてくる。自信がありそうな表情だ。
「どうだ?」
「腕、上がったかも」
「こういう時は素直に美味しいって言うの」
「……美味しい、です」
「よしよし」
 直哉は満足げにうなずく。
 静かに食事が進む。食事中にはテレビをつけないのがこの家の習慣だ。食器や箸が触れる音、咀嚼する音、そして二人の会話。生きた音だけがリビングに立つ。
 ふと、直哉が雫那の制服のことに言及する。
「新しい制服にも馴染んできたな。よく似合ってるよ」
「そう?」
 雫那は夏服のセーラー服をつまんでみせる。
 半袖の白い上着、白い線で縁取りした黒いえり、灰色がかった水色のスカーフ、黒いプリーツスカート。落ち着いた色合いは、雫那としても嫌いではない。
 食事が終わり、二人はいっしょに後片付けをする。
 そんなことをしているうちに時間が来た。
 出かけようとする雫那を直哉が呼び止める。
「松江公昭君だったか、おまえがいっしょに仕事をしてる子って」
「そうだけど……?」
「今夜あたり呼んでくれないか」
「どうして?」
「直接、会って話をしてみたいんだ」
「話をしてどうするの?」
「特に何がしたいってわけでもないんだけどな。ただ、おまえのことを頼んでおきたい」
「ふぅん……まあ好きにすれば。面白みのない人だけど」
「その点は大丈夫。面白みのない子の相手は好きだから」
 と、直哉はひっかかる言い方をする。
 自分にだけ向けられた優しい目を見れば、直哉に悪意がないことは雫那には分かる。ちょっと意地悪ではあるが、愛情表現であることは間違いない。
 しかし雫那はそんな直哉が面白くない。どうしても反発してしまう自分がいる。
 ついつい雫那は険のある声になる。
「……どういう意味?」
「さあ?」と、直哉はしらばっくれる。
「……」
「何か心当たりでもあるのか、雫那は?」
「……」
 当分、感謝できる日は来そうにない。
 雫那はそう思いながら学校へ出かけた。



 松江公昭が登校すると、教室にはすでに一ノ瀬雫那の姿があった。
 彼女は一人、眼鏡をかけて何やらハードカバーの本を読んでいる。眼鏡をかけた一ノ瀬雫那はいっそう近寄りがたい雰囲気になる。まるで自分の周りに透明な壁を立てるようさえ公昭には感じられる。クラスメイトたちも同様の感想をいだいているらしく、誰も彼女に声をかけない。
 公昭が自分の席に着くと小野寺真幸が話しかける、
「昨日も事件が起きたってさ」
「事件と言うと?」と公昭。
「ほら、最近の意識不明になるやつ」
「それか」
 と公昭は了解する。
 最近、夜になると意識不明におちいる市民が多数出ているが、原因はまったく分かっていない。うわさによれば、意識を取り戻した者は黒い影を見た直後に意識を失ったと証言しているらしい。だが、うわさがうわさを呼び、真相は定かではない。市民たちは新たな怪奇事件の発生に不安な夜を送っている。
 がらり、と扉が開いて担任の八重樫明先生がやってきた。
「おーし、みんな席に着けー」
 ばんばん、と出席簿を叩きながら八重樫先生が着席をうながす。
 八重樫明。二十七歳。独身。担当教科は数学。長い黒髪を後で束ねている。これらのプロフィールだけを聞けば、理知的な女性あたりを想像するだろう。確かに、八重樫先生は一見する限りでは楚々とした雰囲気の大人の女性と言っていい。だが、一言口を開けば、そんな幻想は粉砕される。
 良く言えば竹を割ったような性格。
 悪く言えばがさつそのもの。
 八重樫先生の前でおしゃべりでもしようものなら――。
「うら、小野寺! 私語禁止!」
 まだ事件のことを話していた小野寺真幸に八重樫先生のヘッドロックが決まった。
 スーツの上からでも分かるほど大きな胸が真幸の背中で押しつぶされる。
 真幸がにやけているように見えるのは公昭の気のせいだろうか。
 思わず公昭は率直な感想を口にする。
「もはや体罰ではないな」
「何か言ったか、松江?」
 と八重樫先生はヘッドロックしたまま尋ねてくる。
 公昭は白を切る。
「いいえ」
「ならいい」
 八重樫先生はようやく真幸を解放すると、教壇に戻ってホームルームを再開する。
 注意事項は昨日と同じ。
「昨日も言ったがな、みんな夜は出歩くんじゃないぞ。今のところ、うちの学校に被害者は出ていない。このまま出ないことを願うばかりだ」
「……」
 公昭は心の中でうなずく。
 本当にそうあって欲しい。

 昼休みを告げるチャイムが鳴った。
 公昭はいつものように小野寺兄妹と三人で食事をしようと思っていたが、妹の真琴が一ノ瀬雫那のところに歩み寄った。その様子を真幸が心配そうに見つめている。
「ね、一ノ瀬さん」
「……?」と無言のまま雫那が顔を上げる。
「いっしょにお弁当食べない?」
「……」
「おかず、たくさん作ってきたんだけど」
「……」
 雫那が沈黙を守ったままだ。
 妹に真幸が加勢する。
「今日の玉子焼きは自信作なんだ」
「そう、ですか……」雫那がやっと口を開く。「プロレス技をかけられてにやけている人とは……同席したく、ありません……」
「なっ」と真幸があわてる。「あ、あれは不可抗力だって!」
「ごめんね、うちの兄さんってむっつりだから」
「余計なこと言うな!」
 と真幸が声を上げる。
 公昭も同意する。
「それについては同感だ」
「おまえまで!」
 と、真幸は孤立無援の状況を嘆く。
 公昭は淡々と、
「しかし小野寺」と真幸に向かって言葉を投げかける。「そんなやつにおまえの玉子焼きを食わせてやる必要はない。俺が食う」
「……ふ」
 かすかな息づかいで雫那が笑う。
 それを聞いた公昭がとがめる。
「一ノ瀬。今、笑ったか?」
「玉子焼きが好物とは……ずいぶん子供っぽい嗜好だと……思っただけ、です」
「ふん」と公昭は一笑に付す。「それは小野寺の料理を食べたことがないから言える。こいつの料理の腕は確かだぞ。中でも玉子焼きは絶品と言っていい」
 そう言いながら公昭は真幸の弁当箱にハシを伸ばす。
 玉子焼きを口に運ぶ。
 ふんわりとした食感とともに、ほど良い甘みが口の中に広がる。全体的にしつこくない味わいに仕上がっているのは和風のだし汁が加わっているためだろう。しつこ過ぎず、薄過ぎず、今日もまた絶妙な配分だった。
 公昭はハシを置いて絶賛する。
「うむ。今日も素晴らしい」
「それほど言うなら……私も、一つだけ……」
 と雫那が興味を示す。
 公昭たちの席に移動すると玉子焼きを一つ口にする。
「確かに……おいしい、です」
「だろ? だろ?」
 と真幸は小躍りしそうな勢いで顔をほころばせる。
 真琴が弁当箱を持って雫那へ乗り出す。
「じゃあ、こっちのひじき炒めはどうかな? これはあたしが作ったんだけど」
 結果的に雫那も交えて四人で弁当を食べることになってしまった。
 不本意だが、と公昭は思う。
 たまにはそんな日があっていい。



 夕刻、屋敷を出た公昭は途中にある高台で足を止めた。
 中心街まであと少し。
 しかし待ち合わせまではまだ時間がある。公昭はここから日が沈むところを見ておくことにした。この高台からは街の景色が一望できる。公昭にとってお気に入りの場所だ。
 公昭は心地良い夕風を受けながら日が傾く様子を眺める。空の高みでは風が強いらしく、激流にもまれるように雲は、離れては合わさり、集まっては散ってゆく。日が沈むと空はまた青みががってくる。夕空から夜空へと移り変わる空の模様は見ていて飽きない。それはきっと、この一瞬一瞬が二度と見られないからなのかもしれない。
 街に夜のとばりが降りる。
 一つ、また一つと、家々に明かりが灯ってゆく。
 ふと公昭はいつの間にか隣に少女が立っていることに気づいた。景色に目を奪われている間に来ていたのだろうか。見たところ十二歳くらいの少女は手すりから半ば身を乗り出すようにして景色を見つめている。風が強くなってきた。丈の短いキャミソールワンピースのすそがあおられ、肩のあたりまで真っ直ぐに伸ばされた黒髪から横顔がのぞく。周囲で起こる出来事をいつも新鮮に受け止められるような、そんな印象を抱かせる眼差しだった。
 思わず公昭は声をかけてしまう。
「危ないぞ」
「え?」
「落ちたら大変だ。そんなに近くで見なくても景色は逃げない」
「そっか、それもそうだね」
 と、少女は前のめりの姿勢を正す。
 しかし彼女の目は風景に注がれたまま。
 よほど感じ入るものがあったのだろうか。
 公昭は感想を述べる。
「きれいだったな」
「うん」
「ここの景色はいい。俺はよく見に来るんだが、飽きることがない」
「夜なのに見ているとあったかい気持ちになるのはどうしてなんだろう?」
「それはきっと」と公昭は街の明かりに目をやる。「あの明かりの一つ一つに家庭があるからだと思う」
「一つ一つに……?」
 と、少女も公昭と同じように再び街の景色に視線を戻す。
 明かりは数を増してゆく。
 公昭の脳裏に、あの明かりのもとで人々が団らんする姿が思い浮かぶ。それは公昭にとって無縁なもの。うらやましくもあり、愛しくもある。だが最初から手に入らなかったからこそ、その貴重さが分かるのだとしたら、欠落も悪くない。強がりではなく、本心から公昭には思える。
 少女は納得したように微笑む。
「面白い考え方だね」
 そして少女は白いワンピースのすそをひるがして手すりから離れる。
 高台を後にする少女の背中に公昭が声をかける。
「最近は物騒だから気をつけるんだぞ」
「私は大丈夫だよ。お兄さんの方こそ気をつけてね」
 少女は振り返ると小さく手を振った。

 待ち合わせの場所は交番に前だった。
 この場所を指定した一ノ瀬雫那の姿は見えない。
 雫那によれば、ここなら声をかけてくる若い男がいないので良いのだとか。一ノ瀬雫那以外が口にすれば自意識過剰と公昭の目に映っただろう。
 すでに約束の時間を過ぎている。
 壁に背にして公昭は雑踏を行き交う人々を何とはなしに眺める。この時間はまだ人通りが多い。事件がこうも続いていると、いつの間にか慣れてしまうものかもしれない。異常な出来事も慣れてしまえば日常の一つになる。しかし決して日常に混じることのない異常もある。日が沈んだ今、その異常が街のどこかで顔を出す。
 それにしても雫那は遅い。
 ところが待ち人たる一ノ瀬雫那は交番の中から出てきた。
「なんだと……」
 さすがに公昭はおどいた。
 対する雫那は平然としている。
 つい公昭は問いただすような口調になる。
「一ノ瀬。おまえ何をした」
「……」と雫那は公昭をちらりと見る。「別に、何も……」
「何も?」
 と公昭は交番の中に視線を転じた。
 中にいた警察官が湯飲みを持ったまま会釈する。人の良さそうな中年男性だった。
 つられて公昭も会釈を返す。
 雫那は淡々と状況を説明する。
「いつもの、ように……ここで待っていたら中の警察官が声をかけて、きました。それで……」
「中で仲良くお茶を飲んでいたわけか」
「……そう、です」
「状況はだいたい分かった」
「貴方に伝言があるそう、です……」
「伝言だって?」
「はい……こんな可愛い恋人を待たせるなんてひどい男だ、と……」
「ふざけるな」
「私は……そのまま伝えただけ、です」
「もういい、行くぞ」
 公昭は心外ながら誤解を解く気にはなれなかった。
 二人は歩き出す。
 ここ数日の間、二人はこうして巡回している。今夜は住宅街まで足を伸ばしてみることにした。もちろん夜になると危険であることは承知の上。むしろ二人は積極的に危険を求めているのだった。すれ違う人の数は次第に少なくなる。道に沿って立てられた街灯がぼんやりとアスファルトを照らし出す。街は昼と夜とでは違う顔を見せる。この世界なら、どのような怪異と出くわしても不思議ではない。公昭はそんな印象さえ抱く。それが事実であることを公昭は知っている。
 しかし今夜は求める敵の姿がなかなか見つからなかった。
 公昭の息が上がってくる。
 連夜にわたる巡回の疲れが出始めている。
「すまない」と公昭が足を止める。「少し休ませてくれ」
「分かりました……」
 と雫那はあっさり同意する。
 二人は近くにあったコンビニエンスストアで飲み物を買うことにする。
 レジで並んでいる公昭の耳に他の客たちのささやきが流れこむ。
「ねえ、あの子」
「あの髪の長い子でしょ。モデルかな」
「きれいだよね」
 そんな声を聞いて公昭は改めて私服姿の雫那を見る。
 全体的には膝丈のワンピースにデニムのパンツを組み合わせで、シルバーグレイのワンピースはうっすらと透ける素材を使っている。ふんわりとした七分丈や、ピンタック、後で結ぶリボンなど、可愛らしいデザインだ。このワンピースとは対照的に、デニムのパンツはすらりと伸びた足にぴったりしたもので、ブーツに合わせて黒い。パンツとブーツの間からのぞく白い肌がまぶしい。そして、首にはいつものように逆十時を吊るしたチョーカーが巻いてある。
 姿勢の良い雫那が着ることで可愛らしさと凛とした雰囲気が同居している。
 確かに彼女に声をかけようとする男がいてもおかしくはない、と公昭は認識を改めた。
 しかし疑問もある。
 一ノ瀬雫那という少女は背中まで伸ばした黒髪をのぞけば、身なりに気を使うような性格ではない。むしろ無頓着であるように公昭の目には映る。そんな彼女だが、その私服を見ると趣味が良いように見受けられるのだ。あまり服に詳しくない公昭ですらそう思う。この矛盾はどういうことだろう。
 公昭は珍しく好奇心に駆られた。
 コンビニエンスストアから出て飲料水を飲みながら公昭は尋ねてみる。
「その服は自分で選んでいるのか?」
「これ、ですか……いえ、直哉の買ってきた服を着ている、だけです……」
「直哉?」
「……私の、保護者です……」
「そうか」
 と、公昭は立ち入ったことを聞いてしまったと後悔した。
 長い付き合いではないが、一ノ瀬雫那が私生活を語りたがらない性格であることは分かっている。
 こういう時、小野寺真幸は絶妙な間合いをとる。離れているわけでもなく、近いわけでもない。剣道で言うところの一足一刀の距離感を友人と保つことができるのが真幸の素晴らしい美点の一つだ、と公昭は常々感心している。真幸は対戦相手の心理を読むことに長けているという声を聞いたことがある。剣道を学んだ結果なのか、それとも真幸自身に備わっていたものなのか、公昭には判断がつかないでいるが、どうも後者であるような気がしてならない。
 雫那は意外な言葉を発した。
「……私たちの、家に来てもらえませんか?」
「いきなりどうした?」
「直哉が……貴方に会いたい、と言っているので……」
「もしかして一ノ瀬。おまえは気が進まないんじゃないか?」
「……」と雫那はこくんと首を立てに振る。「ええ……非常に迷惑、です」
「だったら誤魔化せばいいだろう。話してみたが断られた、とでも言えばいい」
「嘘はつきたくない、ですから……」
「何だって?」
 公昭は意図がつかめず聞き返す。
 いつも雫那の声はつぶやくように小さいが、今は聞き取りにくいほどだった。
 雫那は間を開けて答える。
「直哉に……嘘はつきたく、ないですから……」
「そうか、なら仕方ないな」
 どうやら雫那にとって直哉という存在は特別であるらしい。
 しかしながら公昭にはそれを追求するつもりはない。
 そんな公昭の態度に感謝しているかどうかは不明だが、雫那は公昭の言葉に乗ってくる。
「ええ……そうです。仕方のないことです」
 何だか公昭は可笑しくなってきた。
 その時、不意に公昭の胸が刺すように痛んだ。
 胸に埋め込まれた術具が反応している。
 公昭は胸を押さえてうずくまる。
「う……」
「……どうしました?」
「何かいる」
 公昭は痛みに耐えながら顔を上げて気配のする方を向く。
 住宅の屋根と屋根の間から朽ちかけた建物が見える。
 そこは数年前に出火した福祉施設だった。再建されることはなく荒れるに任せてある。公昭が小耳に挟んだうわさによれば、怪奇現象が起きると言うことで一部で有名になっているらしい。



 春野(はるの)と有理(ゆうり)は小旅行の目的地に着いた。
 彼女たちの前に、火事があったという福祉施設が無残な姿をさらされている。中途半端に焼け残っているせいで、かえって痛々しさが増す。開け放たれたままの玄関の奥に見えるのは、ただ深い闇だけ。来る者を拒むようでありながら、来る者を邪悪な意図をもって迎えるようでもある。
 有理はわくわくする気持ちを隠せないように声を震わせる。
「何だか雰囲気があるよな。ここなら何かと出会えるかも」
「出会ったら困るよ……」
 春野は半ば独白するようにつぶやく。
 廃墟に目を奪われている有理には聞こえなかったようだ。素直で優しい子なのだが、熱中すると他のものが目に入らなくなるらしく、心霊現象といった類いには特にその傾向が見られる。有理という理知的な名前とは裏腹な性質を知って内心驚いたことを春野は覚えている。そんな有理が心配で付いてきたものの、不気味なまでに静まり返った建物を前にして、春野は付いてこなければ良かったと思ってしまう。家でレポートを書いているべきだったかもしれない。
 そんな春野の心中など気づかない様子で、有理は背負っていたリュックサックをごそごそと漁り、大きな懐中電灯を二つ取り出す。かなり長い。持つ部分だけで五十センチはあるだろう。もはや懐中に収めるには無理がある。移動中がちゃがちゃとリュックサックの中から音がしたのはこれだったのか、と春野は納得する。
 その一つが春野に手渡される。
「春野。はい、これ」
「えっと、これ何?」
「懐中電灯だけど」
「懐中って……ふところに入らない大きさだよね?」
「そりゃあね」と有理は当然とばかりにうなずく。「持つ部分で殴るからなー」
「え、えー」
 と春野は驚きのあまり声を上げる。
 凶器を知らないうちに手にしていたことに動揺を隠せない。
 言われてみれば確かにずっしりとした重みがある。
 一方、有理は懐中電灯と言う名の凶器を持ったままにやりと笑う。
「春野は運動神経がいいから変な人と出会っても大丈夫だろ」
「大丈夫と言うわけでは……」
 と春野は控え目に訂正を求める。
 だが、有理には伝わらなかったらしい。
 有理は元気良く宣言する。
「探検開始!」
「お、お邪魔します……」
 二人は懐中電灯を点灯して廃墟へ足を踏み入れる。
 光が届くのはせいぜい十メートル程度。
 かつて営まれていた人々の生活がゆっくりと暴かれてゆく。
「あ……」
 春野は息をのむ。
 壁にはられた俳句や絵画は春を題材としたものが目立つ。その日の予定を書き込まれたホワイトボードは書き直されることはなく、部屋に飾られた花は枯れたまま。ここは火事のあった日から時間が止まっているかのようだった。春野は人の私生活をのぞき見ているようで、申し訳ない気持ちになってくる。
 春野はかたわらの有理に話しかける。
「ねえ有理」
「んん?」と有理。
「ここって火事があったって言ってたけど、どうして火事になったのかな?」
「いろいろな説があってよく分からないらしいよ。インターネットでは放火説が有力だけど」
「放火……」
 春野は考えこむ。
 二人は中廊下をわたって火事があったという場所に入った。
 白かったはずの壁はすすで黒く汚れている。ライトを向けると、焦げた跡がそこかしこに見られ、白かったはずの壁は無残な姿をさらしている。炎が蛇の舌のように這い回ったことは想像にかたくない。特に炎の勢いが激しかったと思われる部屋は建材がむき出しにされて吹きさらしのまま放置されていた。火によって侵食された印象を春野は持つ。
 火事は人の生活空間を侵し、踏みにじり、灰にする。
 放火されたという話が真実だとすれば、そこには何らかの意思がある。つまり火を放つという行為も暴力の一つとして数えられるだろう。悪意がむき出しになって現実化したような恐ろしさを前にして、二人はいつの間にか無言になっていた。
 ここは、人々に忘れ去られ、止まったままの時間の中で静かにまどろんでいる。
 建物が夢を見ることがあるとしたら、その夢に迷いこむこともまたありえるのではないか。
 そんな思いが春野の脳裏をかすめた時、有理が声を上げた。
「誰だ?」
 と有理は廊下にライトを向ける。
 春野も視線を転じる。
 不意にライトが明滅をくり返し、途絶えた。
 それも二つ同時に。
「およ? よ?」
 有理が懐中電灯を何度も振るが、明かりは消えたままだ。
 春野は闇に目をこらす。闇の奥の闇を見極めようと。
 何かがいた。
 人の形をしている。黒い。つま先から頭まで全身が真っ黒だ。暗闇の中ですら、その形ははっきりと認識できる。しかし目鼻のようなものは一切ない。闇よりも黒い影は音もなく春野たちに歩み寄ってくる。いったい何と形容すべきだろう。姿形を言うなら影法師に近い。だが影は人に付き従うもの。それが一人歩きするようなことが起こりえるのか。
 春野は核兵器によって壁や床に人影が残ったという話を聞いたことがある。
 今もどこかで、この福祉施設で犠牲になった誰かの影が残っていたのかもしれない。自分たちが軽い気持ちで彼らの領域を侵したせいで、この影法師を起こしてしまったのだとしたら――。
「ご、ごめんなさい」と春野の唇は独りでに動いていた。「ごめんなさい。私たちのせいで起こしてしまって。静かに眠っていたのに、また辛い気持ちにして、私たちが悪いのは分かっているけど、でも今は本当に貴方に眠って欲しいって思ってる。だから、また夢を見続けて。穏やかな温かい夢を」
 影法師は二人の目前まで迫っていた。その足取りは、すべるようであり、ぬめるようでもある。固体なのか液体なのか春野は判断に迷う。いや、そもそもこれは生物なのか。その表情をうかがうことはできない。それでいて見ているうちに息苦しい印象を抱かせるのは何故だろう。本当の暗黒とはこのような色を指すのかもしれない。
 影法師が春野に手を伸ばす。
 肩をつかまれた。
 思わず春野がうめく。
「っ!」
 冷たい手だった。
 つかまれた部分から冷たさが凍みこむように伝わってくる。
 それなのに皮膚は火傷したように熱い。
「離せ!」
 と横合いから有理が懐中電灯で殴りつける。
 ところが懐中電灯は影法師をすり抜けてしまった。
 実体がないのだろうか。それは正しいようで誤っているように春野は思う。この影法師は確かに存在している。有でもなく、無でもないとしたら、有と無の狭間のどこかで存在していると言うよりほかにない。
 打撃は効果がなかったが、影法師は後退って春野から手を離す。
「春野! 大丈夫か?」
「う、うん……」
 二人は逃げ出した。
 春野の肩にはまだ異常が残っている。熱を奪われたような感覚だ。骨まで凍みる冷たさに耐えて春野は走る。
 階段を駆け下りれば出口は近い。
 しかし、踊り場まで来たところで二人の足が止まる。
 階下には多数の影法師が待ち受けていた。
 来た道に視線を移す。
 そこにも影法師たちが道をふさぐように集まっている。
 挟み込まれた。逃げ道はない。
 影法師たちはうわ言のようにつぶやく。辛い。痛い。熱い。寒い。苦しい。寂しい。泣きたい。叫びたい。生きたい。生きていたい。どうして私たちが死んでいるの。どうして貴方たちが生きているの。どうして私たちを忘れていられるの。私たちはここにいるのに。ずっとここにいるのに。
 春野は思わず耳をふさぐ。
 それなのに彼らのつぶやきは勝手に耳に入ってくる。
 ゆっくりと距離が縮まってゆく。影法師たちは温もりを求めるように冷たい手を伸ばす。
 有理が春野の手を強く握る。
「ごめんな、こんなところに連れてきて。でも私が春野を守るから」
「え?」
 有理が階段を勢い良く下りて影法師たちに突っこむ。
 列が乱れる。
 影法師たちに取り囲まれた有理の姿はやがて埋没して見えなくなってしまう。
「有理!」
 叫んでも返事はない。
 有理のおかげで道が開いた。
 彼女を助けるべきか、彼女が作ってくれた道から脱出するべきか。
 迷うほど時間が失われてゆく。
「ごめん、有理」
 春野は影法師たちをすり抜けて走る。
 外に出た。
 厚い雲の隙間から月の光が差し込んで、荒れ放題の中庭を照らし出す。
 しかし、そこにも影法師たちは待ちかまえていた。
 もう駄目だ、と死を覚悟して春野の体から力が抜けてゆく。
 その瞬間、春野の耳に鋭い声が飛び込んだ。
「発!」
 影法師たちは一条の光につらぬかれ、青い炎となって燃え上がる。
 火は青くなるほど温度が高いと言う。しかし、春野の目の前で燃え立つ炎はまぎれもなく青いというのに、肌を刺すように冷たい。その青さにはどこか不吉な気配が漂う。
 春野は尻持ちを着き、その姿勢のまま後ずさりする。
 一人の人間の姿を月が照らす。
 少年だった。
 夢とも現とも判別できない世界にあって、ただ一人凛と立つ彼の姿に、春野は目を奪われた。
 影法師たちは少年に向かって音もなく地面をすべる。
 少年に慌てた様子は見えない。
「斬!」
 叫んで彼は腕を振る。
 緑色の刃が一閃して影法師たちをなぎ払う。
 青い炎が燃え盛る。
 その火が消えると中庭は何事もなかったように日常へ戻った。
 少年が春野に歩み寄り、
「立てますか?」
 と手を差し伸べる。
 彼はおどろくほど平静だった。
 春野は我に返る。
「助けて! 有理を助けて!」
「友人のことですか。それなら大丈夫です。俺の仲間が救出に向かいました」
 と少年は答えて建物に目をやる。
 春野が振り返ると、建物のあちこちから青い光が漏れ出している。
 あの青い炎が燃えている、と春野は悟った。

 しばらくして髪の長い少女が有理を抱いて外に出てきた。
 春野は駆け寄る。
 有理の意識はない。
 しかし見たところ命に別状はないようで春野を安心させた。
 ほっとした春野は、ベンチに寝かせた有利の様子を見ながらも、少年と少女のことが気になってきた。この二人はいったい何者なのだろう。
 少年は携帯電話で誰かと連絡を取っていたが、やがて春野のところにやってきてくる。
「念のため病院に彼女を送ることにします」
「あ、はい」
 春野は隣に立つ少年にちらちらと視線を送る。
 どうやら春野より年少らしい。
 まだ高校生だろうか。第一印象では勇猛な人と映ったが、よくよく見れば意外にも体はか細い作りになっている。特に首のあたりは肉が薄そうだ。整った顔立ちと、透き通るように肌が白いこともあり、少女に見えなくもない。
 ところが口を開くとやはり男性なのだと分かる。
「この世界には人が安易に踏み込んではいけない領域があります。うかつに入れば死者たちを起こすことになりかねません」
 責めるような口調ではない。
 ただ事実を述べている印象を受けた。
 優しくもなければ、厳しくもなく、事実をありのままに見つめる冷たさがある。
 春野は自分たちのうかつな行為を恥じた。
 少年は言葉を続ける。
「こういった場所には鬼が出やすいです。これからは近づかないようにしてください」
「鬼?」
 と春野は聞き返す。
 あの影法師たちのことだろうか。
 しかし鬼というと体が大きくて金棒を持っているような存在がまっさきに思い浮かぶ。
 春野は思ったままを述べる。
「鬼って、体の大きな怪物のことですよね?」
「いいえ」と少年は訂正する。「鬼のもともとの姿は貴方が目にしたような影です。鬼という字は隠(おぬ)が転じて生まれたとされます。簡単に言うと人間の残した未練などが形をなして動き出した存在です。鬼たちは現世と幽世の間をさまよいながら人間の生命力を奪い、最悪の場合は殺してしまいます。鬼は時として人間に依り付いて――」
「うつしよ? かくりよ?」
 と、知らない単語ばかり出てくるため春野は理解に苦しんだ。
 春野は、少年はていねいに説明してくれるのは伝わってくるものの、なじみのない言葉に出くわす度に話の腰を折ってしまう。
 一方、有理を救い出してくれた少女はと言えば一貫して黙り込んでいる。瞳がきらきらと光っているのは油断なく周囲に目を配っているためか。春野は先ほど気が動転していて気づかなかったが、その少女はこれまで見たこともないほど端麗な姿形をしている。細い柳のように立つ姿は一枚の絵のよう。ほっそりと伸びる手足も、闇夜にあっても鮮やかな黒髪も、姿勢良く立つ姿も、いずれも完璧であるのに見ていて何故か違和感を覚える。まるで、理想的な部品ばかりを集めたために人間から遠くなった人形。
 そんな印象を、春野は抱く。
 春野が少女に気を取られている様子に気づいたのか、少年は説明を止めていた。
 慌てて春野は少年に視線を戻す。
「それで、その、うつしよとかくりよって言うのは?」
「現世とは俺たちが認識している世界のこと。幽世というのは幽霊や霊魂のような存在の住む世界のことです。ふだん俺たちは幽世を見ることができませんが、場所によって見えてしまうことがあります。例えばここがそうです。ここには悲痛な想いが多く、現世と幽世が重なっているんです。ここまでは理解できましたか?」
「え、ええ、なんとなく」と春野。
「昼間のうちは鬼が出ることはまずないのですが、夕方からは出会いやすくなります。最近、意識不明になる人が多いのは鬼の仕業です」
 確かに意識不明におちいった人がいる、というニュースには春野も覚えがある。
 そのニュースでは原因は分からないと言っていたはずだった。鬼という奇怪な存在によるものだとは聞いていない。
 春野はどうして、と理由を尋ねる。
「どうしてニュースで何も言わないんですか?」
「説明のしようがないというのが理由の一つです。誰も自分の目で見ないと信じないでしょう。あるいは自分の目を疑うかもしれません」
「そう、かもしれませんね」
 と春野はうなずく。
 もし自分がそんな話を聞いたとしたら信じられないだろう。そして自分の目で見た今も半ば信じられない気持ちがある。夢であって欲しいと思う。
 もう一つの理由は、と少年は打ち明ける。
「こういった事件を表に出さないと決まっているんです」
「決められている……?」
「国の決定です」
 と少年は答えた。
 それを聞いて春野は一瞬、戸惑う。
 今まで国という言葉や存在を近くに感じることはなかった。それなのに少年の口から語られると、まるで生物であるかのような生々しさがある。それはきっと彼と自分との間にある認識の違い。
 春野は、気づかないうちにクモの糸にからめとられていた虫を想像して寒気を覚える。
 しかし国が決定したと言われても春野は疑問に思う。
「でも……みんなに教えた方が被害にあう人は少なくなるんじゃないですか?」
「そうかもしれません」と少年は率直に認める。「ですが、俺には決定をくつがえすことができません」
 少年の表情に影が差す。
 春野は彼を責めてしまったような気がして申し訳ない気持ちになる。
 少年はみずからの素性の一端を明かす。
「俺の仕事は少しでも被害にあう人を減らすことです」
「仕事?」
「ええ。俺の仕事です」
「うまくゆきそうですか?」
「分かりません」
 少年の返事は短い。
 しばしの沈黙。
 春野も、少年も、そして先ほどから無言のままの髪の長い少女も、意識を失ったままの有理も、この場の誰も声を発しない。
 遠くから車のエンジン音が響いてきた。病院へ運ぶための迎えだろうか。
 少年との会話はこれで終わる気配がする。
 けれど最後に、春野は彼の名前を知っておきたかった。
「私は上村春野です。その、貴方の名前を聞いてもいいですか?」
「あ」
 と少年は思い出したように声を漏らす。
 そして、どこか気恥ずかしそうに笑う。
 ずっと一本の糸がぴんと張っているような緊張感を漂わせていた彼が初めて見せた笑みは、とても透明で、それだけに見ている春野を不安にさせる。
 いつか彼が消えてしまうような気がして。
 少年がみずからの名前を告げる。
「名乗るのを忘れていました。俺は松江公昭です。もし困ったことが起きたら俺を訪ねてください。松江、だけで分かります」
 松江公昭。
 と春野は心の中でつぶやく。
 おそらく自分はこの名前を忘れないだろう。
 そんな確信がある。

 春野たちを乗せた車は街にある病院へ二人を運んだ。
 運転手は必要なことしか会話に応じなかった。
 このまま別の場所へ連れてゆかれるのでないか、と春野が不安にならなかったと言えば嘘になる。しかし松江公昭という少年は信じられる。そう思いながら車に揺られていた。
 気を失ったままの有理はすぐに診察を受けることになり、春野は人の気配の絶えた廊下で待つことにし、長椅子に腰かける。時計の針がゆっくりと進む。有理の身を案じられる。鬼の冷たい手を春野は思い出す。鬼は生命力を奪うと言う。あの手が人間から生きる力を奪うのだ。鬼につかまれた肩はまだ痛む。有理はどうなってしまうのだろう。このまま有理を失ってしまうのが怖い。彼女には言わなければいけないことがある。
 やがて出てきた医師は春野に微笑みかける。
「命に別状ありません。少し衰弱が見られますが、すぐに回復するでしょう」
「本当ですか」
「ええ、本当ですよ。眠っているだけです」
 と医師はうなずいた。
 春野は医師に尋ねる。
「会えますか?」
「ええ、どうぞ」
 と医師は中へ通す。
 春野は有理の眠る病室で待つことにする。今度は先ほどとは違う不安が春野をさいなむ。春野は彼女への裏切りについて思わずにいられない。第三者からすれば裏切ったとは言い切れないかもしれない。春野が選べた未来は二つだけ。有理が開いてくれた脱出口から逃げるか、何もできずに鬼たちに殺されるのを待つか。あの状況では逃げるよりほかに取るべき道はなかっただろう。
 しかし違うのだ。
 自分は有理を見捨ててしまった。
 有理が目覚めた時、いったい何を言えばいいのだろう。
 ふと春野は窓から明かりが差し込んできたことに気づく。窓辺に寄ると、空が白み始めていた。
 朝を迎えようとしている。
「……ん」
 背後から、むにゃむにゃと言いながら起きる有理の気配が伝わってきた。
 春野は有理の手を取る。
 温かい。
 人の手はやはり温かい。
 その温かさが春野に勇気をくれる。
 あれほど迷っていたのに自然に春野の口が開く。
「有理、おはよう」
「ん、おはよ」
 有理の返事はいつもと同じ。
 長い夜が明けた気がした。

■七月四日/火曜日

 今朝は初めに全校集会が開かれることになった。
 体育館に生徒たちが集まる。
 生徒たちのざわめきの中で公昭は静かに待つ。
 やがて校長先生が壇上に上る。
「連夜にわたって事件が起きているのはみなさんも知っているかと思います」
 どうやら校長先生が話したいというのは最近になって起きている衰弱死事件のことであるらしい。
 事件は決まって夜に起こる。
 夜になると路上で倒れている人が発見されることが珍しくない。被害者たちはひどく衰弱しており、そのまま目を覚まさないこともある。
 この学校では被害者は出ていない。
 今のところは。
「毒ガスっていう話もあるけど、どうなんだろうなー」
 と真幸が公昭に振り向いてきた。
 そういう推測もあると公昭も聞いている。
 かつて人口密集地で毒ガスをばらまくという恐ろしい事件があった。
 そこから、そのような連想を生んだのだろうか。
「そこ! 私語を止めなさい!」
 と叫ぶや否や、校長先生はカツラを手にとって投てきする。
 見事にカツラは真幸の後頭部に命中。
 そのままカツラは孤を描くように飛び続け、校長先生の手元に戻る。
「絶技だな」と公昭は評する。
「俺の心配は?」と真幸は倒れたまま一言。
 絶技とは、極めて優れた技術のことであり、離れ技とも言う。
 確かに絶技と言えるだろう。
 投射武器の欠点は発射すると武器が失われることにある。これは投げ槍からミサイルに至るまで同じ。例えばブーメランが手元に戻ってくるのは命中しなかった場合のみで、命中すれば地面に落ちる。しかし校長先生のブーメランのようなものは違う。命中し、その後に手元へ戻る。
 そのような技を公昭はほかに知らない。
 しかし投げた本人の方にダメージが大きいのは気のせいだろうか。
 公昭は考えることを放棄する。ここから先の判断は他の者にゆだねたい。
 何事もなかったように校長先生はカツラをかぶり直して話を続ける。
「これらの事件の真相はいまだ明らかになっていません。事件について様々なうわさがみなさんの耳にも入っているでしょう。それらの真偽を判断するのはとても難しいことです。しかし真偽とは0と1のようなデジタルなものではないことに注意してください。人の心は真と偽の狭間で揺れ動いているのです。真でもなく偽でもないという心情もあります。このような心の機微を理解することはうわさに躍らされないために大切です」
 最後に校長先生はお願いする。
「人は時としてみずからを偽らなければならないことがあります。みなさんには、それに気づいても触れずにそっとしておいてあげる優しさを持って欲しいと思います」
 体育館は沈黙のとばりが降りる。
 おそらく、と公昭は思う。全員がこう考えているに違いない。
 結局それが言いたかったのか、と。

 解散となり、生徒たちはそれぞれの教室に向かう。
 教室に戻ると、一ノ瀬雫那が公昭の席にやってくる。
「いったい何なんですか、あれは」
「なんのことだ?」と公昭は聞き返す。
「校長の話です」
「ああ、あれか」
 公昭としてもどう発言していいものか判断に迷う。
 あのような行いが許容される学校はきっとここくらいだろう。八重樫明先生と言い、校長先生と言い、この学校の教職員たちはどこか妙な人物ばかりであるように公昭には思われる。
 考え込む公昭のとなりにいる真幸が代わって答える。
「校長先生も来た頃は普通の人だったんだけど、うちの校風に染まっちゃったみたいなんだよな」
「校風、ですか?」と雫那は首を少し傾げる。
「うん」と真幸はうなずく。「良くも悪くも適当に、っていうのがうちの校風でさ。進学校の北校(きたこう)は堅苦しいし、東校は昔っから荒れてるし、西校(にしこう)はお嬢さま学校なんでちょっと特殊だし。まったりした高校生活を送りたい子がうちに毎年集まってくるんだなー。それで、こういう風になっちゃったわけ。びっくりした?」
「開いた口が塞がりません……」
 雫那は呆れ返っている様子だ。
 その気持ちは公昭にも分からなくもない。公昭も入学当初から驚かされることばかりだった。
 真幸は気楽な調子で笑う。
「ま、そのうち慣れるって」
「そうでしょうか。あまり馴染みたくない気がしますが。ただ……」
「ただ、なに?」と真幸が尋ねる。
「退屈は……しないよう、ですね」



 後はいつもと同じ時間だった。
 昼下がりになり、公昭たちは机を囲む。
 小野寺真琴が一ノ瀬雫那のお弁当に目をやる。
「あれ? 一ノ瀬さん、今日はおにぎりだけ?」
「ええ……今日は時間がなかったようでおにぎりを渡されました」
「あ、一ノ瀬さんは家の人に作ってもらうんだ。なんとなくそんな気がしてたけど」
 と真琴はこれまでの雫那のお弁当について思い出しているようだった。
 真幸も同様の思いを抱いていたらしく、うなずいている。
 自分では料理を作らない公昭には何のことか分からない。
「どうしてそう思う?」
「おかずの色が少ないかなって。栄養バランスは良さそうなんだけど」
 と真琴は公昭の疑問に答える。
 そういうものか、と公昭はパンをかじりながら思う。
 公昭自身は料理をしない。
 昼はパンを買って済ませることが多い。
 真琴は続ける。
「男の人って、あんまり色を考えないことが多いんだ」
「そういうものか」と公昭。
「そうそう」と真琴は相槌を打つ。「お弁当箱を開けた時においしそうに見せることも大事なんだよ。そういう意味ではうちの兄さんって珍しいかな」
「なるほどな」
 公昭は今までの小野寺兄妹の作品群を思い浮かべる。
 確かにどれも色彩豊かだった。見ているだけで食欲をそそられたのを覚えている。小食の自分ですらそうなのだから他の人間にどう映るかは言うまでもないだろう。一ノ瀬雫那が自分たちと同席するようになった理由のかなりの部分は、小野寺兄妹作の弁当の魅力で占めているに違いない。
 まるで餌付けのようだ、と公昭はつい失笑した。
 それを雫那は見とがめる。
「今……私のことを笑いませんでしたか?」
「いや」と公昭はうそぶく。
「……パンばかりの人に笑われたくありません……私は、自分で作ろうと思えばできます、から……」
 と、雫那の言いようは挑発するかのよう。
 このような言動は珍しい。
 雫那は、クラスメイトたちが会話に華を咲かせるのを遠くから眺めるのが常。
 公昭も応じる。
「言ったな」
「……言いました」
 公昭と雫那がにらみ合う。
 そこへ真幸が間に入る。
「待った待った」真幸は提案する。「ちょうど明日、調理実習があるだろ。それで勝負するってどう?」
「いいだろう」と公昭。
「……了解、です」と雫那も同意する。
 しかし、と公昭は付け加える。
「ただ単に勝負するのも面白くない。勝った方は負けた方に何かを要求する、というのはどうだ?」
「分かりました」と雫那はあっさりのむ。「貴方に何をさせるか考えることに、します……」
 勝負は明日。
 なりゆきを見守っていたクラスメイトたちはどちらが勝つのか自分の予想を語り始めた。

■七月五日/水曜日

 決戦の時が来た。
 小さな戦いではある。だが小さくとも負けられない戦いもある。公昭の闘志は燃えていた。
 調理室に集まった公昭たちに課題が明かされる。
 テーマは、冷蔵庫の残り物をうまく使ってチャーハンを作ること。
 それはいいとして八重樫明先生が何故かいる。彼女の担当教科は数学であって家庭科ではない。
 開口一番、八重樫先生は言い放つ。
「みんなうまいものを作れよ。私は今日、弁当を持ってきていないんだ」
「なんで先生がいるんですか」と真幸。
「ただ飯が食えるんだ。逃がす手はない」
 と八重樫先生はにやりと笑う。
 あの、と小野寺真幸が意見する。
「それは教師として人間として女性として、どうかと思うんですが」
「みんな、私のような大人になるなよ」
 と八重樫先生はもっともらしく説教する。
 実に説得力があった。

 勝敗は次のように決定される。与えられた時間は三十分。その間に完成できなかった品目は審査の対象にならない。審査員には八重樫先生のほか四名。それぞれ五点満点で評価し、合計点数の高い方が勝者となる。
 公昭は了承する。
「俺に異存はない」
「私も、ありません……」
 と雫那も同じく聞き入れる。
 エプロンを着けた雫那は長い髪をたばねてポニーテールにする。
 黒絹のような髪が揺れる様を見て、
「おお!」と真幸は絶叫する。「ポニーテール! これは本気だ!」
「興奮するな」
 と八重樫先生が真幸の頭を叩く。
 二人のやり取りを放置し、公昭は冷蔵庫から野菜の切れ端を取り出す。
 キャベツ。ニンジン。ピーマン。タマネギ。卵。豚肉。そして冷めたご飯。
「ふむ」
 と公昭はそれらを眺める。
 チャーハンを作る材料はそろっているようだ。
 知識を総動員して公昭は手順を考える。
 まず公昭はそれらをみじん切りにして炒めることにする。家庭用のガスコンロでは火力が弱い。中華料理店のように強火で一気に炒めることはできない。
 ここは弱火でゆっくり調理しよう。
 確か真幸はそんなことを言っていたはず。
 野菜を炒めてから肉を加え、さらにご飯も混ぜる。
 公昭は火を止めて余熱で炒めることにする。
「八重樫先生」と小野寺真幸はとなりの席にいる八重樫先生に話しかける。「公昭は実に堅実な手法ですね」
「これは期待できそうだ」
「一方、一ノ瀬さんは……もうできあがったようですね。包丁さばきがとても速かったです」
「ところで、おまえはいいのか?」
「俺はこの後デザートを作ります」
「うむ、期待しよう」
 と、八重樫先生は椅子にふんぞり返る。
 公昭はつい雫那の方を見てしまう。
 確かに真幸の言うとおりだった。一ノ瀬雫那はすでにチャーハンを作り終わり、何か別の作業を始めている。
「く……!」
 公昭は焦る。
 しかし、すでにどうにもならない。今できることは、自分のチャーハンを少しでもおいしく作ることだけだった。
 三十分の持ち時間はあっという間に過ぎた。
 公昭のチャーハンが完成する。塩加減もちょうど良い。我ながら良くできたと思う。
「うまいぞ」と八重樫先生。
「うん、これはうまい」
 と真幸にも好評のようだ。
 次に試食されるのは一ノ瀬雫那の番。
 審査員たちは一ノ瀬雫那の作った料理が試食してゆく。雫那はチャーハンのほかに汁物も作っていた。お吸い物にキャベツのしんをみじん切りにして加えてある。
 無言。
 チャーハンをかきこみ、お吸い物をすする。
 半分ほど食べたところで真幸がつぶやく。
「濃い味付けですね」
「ああ」と八重樫先生も同意見らしい。「チャーハンのほかに白いご飯も欲しくなる」
 
「では結果発表です!」
 真幸の声にクラスメイトたちが沸き立つ。
 結果が発表された。
 公昭の評価は四人とも四点で合計十六点。
 雫那の評価は、五点、五点、五点、二点で合計十七点。濃い味付けは家庭料理に適さない、というのが二点の理由だった。だが、ほかの三人の審査員はいずれも五点満点。やはり汁物を加えたのが大きい。
 一点差で公昭が負けた。
 一点。
 あと一点。
「ぬぅ」
 公昭はうなる。
 対決に勝った雫那は罰ゲームについて思いを巡らせているらしい。「さて、何をしてもらいましょうか……」
 そこへ小野寺真琴が耳元でささやく。
「なるほど……」と雫那は冷たく笑う。「それにしましょう」
 公昭は嫌な予感がした。



 放課後、公昭は小野寺家に招かれた。
 小野寺兄妹の二人のほかに一ノ瀬雫那も同行している。
 公昭たち三人がリビングルームで待っていると、喜色をあらわにして小野寺真琴が服を持ってきた。
「じゃーん」と真琴が公昭の前で制服を広げる。「まずは制服かなっ」
「それは西校の制服だな」
 と公昭は指摘する。
 西校は、戦後間もなく開校されてからずっと女子校であり、キリスト教の精神にもとづく女子教育を目指している。制服は白と黒の二色だけ。他の学校の女子学生と比べスカートの丈はかなり長い。そういった世の流れとは無関係な点がかえって西校の生徒たちの印象を強めているようにも公昭は思う。修道女のような彼女たちは、ただ街を歩くだけで目立ち、周囲に鮮やかな印象を残す。
 それはそれとして公昭には意図がつかめない。
「これと罰ゲームにどんな関係が?」
「着るんだよ」と真琴。
「誰が?」と公昭は問いを重ねる。
「もちろん公昭君が」と真琴はにっこりと笑う。
「なにい!」「なにい!」
 と公昭も真幸も驚きのあまり声を上げる。
 女の格好などできるわけがない、と公昭は拒む。
 そんな公昭に対して雫那が薄く笑う。
「敵前逃亡……ふ、そんな人でしたか」
「ぬぬぬ」と公昭は苦虫をかみつぶす。「いいだろう。やってやる」
「じゃあ決まり。兄さんはここで待っててねー」

 しばらくして制服を着た公昭がリビングルームに戻ってきた。
 ウエストは問題なく入ってしまった。
 公昭は、真琴が用意していたウィッグを着けさせられて、ゆるやかに波打つ長い髪になっている。
 黒いスカートからのぞく足には同じく黒い靴下をはいてある。
 メガネは外すように真琴から言われた。違う子に見えるように、という理由らしい。その理由が公昭にはそもそも分からない。分かりたくもない。
「うふふふふ」と真琴は不穏な笑みを浮かべる。「兄さん、どうかな? この子は?」
「いや、その、えっと」と真幸は戸惑いながら答える。「女の子みたいだ……」
「……」
 と公昭は言葉が出ない。
 嘆くべきなのか、喜ぶべきなのか、判断できない。
 ただ早く終わって欲しかった。
 兄の感想に満足したのか真琴は公昭に対し、
「じゃあ兄さんのとなりの座って」
 と兄の座るソファを指差す。
 公昭は、もはや抵抗する気力もなく、言われるがまま真幸のとなりに腰かける。
「足を広げちゃ駄目!」
 と真琴の指導が入る。
 公昭は足を内股に直す。
 となりにいる真幸が公昭をちらちら視線を送る。
 公昭は落ち着かない。
 かしゃり。
 そんな二人を真琴が携帯電話で撮った。
 公昭は思わず立ち上がる。
「写真を撮るとはどういうことだ!」
「男言葉は禁止!」と真琴は言い渡す。「恥ずかしいから駄目です……って言い直して!」
「は、は、恥ずかしいから駄、目です」
「そう、それ! それだよ!」
 かしゃかしゃかしゃかしゃ。
 真琴はもう止まらない。
 真琴がこんな子だったとは公昭は知らなかった。
 知らないままでいたかったと思う。
「次は兄さんの方にもっと近づいてみよっか」
 もう公昭には抵抗する気力は残っていなかった。
 公昭は体を寄せる。
 肩が触れ合う。
 互いの体温が伝わってくる。
 熱い。
 その熱はどちらの熱なのだろう。
 真幸が息を吐く。
「なんか変な感じだよな……」
「……ぁぁ」
 公昭はうつむきながら消え入りそうな声で答える。
 それきり二人は黙り込む。
 時間がゆっくりと進んでいる。
 たえがたい。
 公昭はスカートのすそをつかむ。
 いつまでこうしていなければいけないのだろう。
 公昭がふと顔を上げると真幸もこちらを向いていた。
 二つの視線が絡み合う。
「!」
「!」
 二人はたまらず視線をそらす。
 その瞬間を逃さず真琴は写真に収める。
 満面の笑みを浮かべて真琴は賛辞を贈る。
「良かったよー二人とも! ぐっじょぶ!」
「その写真はどうするんだ?」と公昭は尋ねずにはいられない。
「まさかネットで公開しないよな?」と真幸も確認する。「できれば消して欲しいんだけど」
 大丈夫、と真琴は保証する。
「個人的に楽しむだけだから」
「そ、そうか……」
 と真幸はほっとした様子を見せる。
 公昭は個人的にどう楽しむつもりなのか聞けなかった。
 それより早くこんな服を脱ぎたい気持ちの方がはるかに勝る。
 そして全て忘れたい。
「そろそろ脱ぎたいんだが」
「そうだね」
 と真琴も同意したかに見えたが、
「じゃあ次はナース服に行ってみようか」
 と真琴は女性看護師が着る作業服を出してきた。
 一部ではナース服と呼ぶ。
 頭につけるキャップまであった。
 公昭は絶望的な気分で聞く。
「スカートの丈が短いように思うんだが」
「公昭君なら大丈夫!」
 と真琴は意味不明の太鼓判を押す。
 罰ゲームはまだ終わらない。
 途方に暮れる公昭の耳に雫那の声が入った。
 くつくつ、と雫那はのどを震わせるような忍び笑いを漏らす。
 ずっと無言だった雫那だが、どうやら彼女なりに楽しんでいたと見える。
 公昭はにらみつける。
「楽しいか、一ノ瀬」
「まあ、それなりに……しかし、その姿ではまったく迫力がありませんね……」
「もう黙れ」

 ふらふらと公昭は力ない足取りで小野寺宅を出た。
 精神的な力を全て使い切ったような気がする。
 今日の出来事をなかったことにできれば、と思わずにいられない。
 すでに日が暮れようとしている。
 いったん屋敷に戻る時間はない。
「このまま巡回を始めるぞ」
「……分かりました」
 と雫那もうなずく。
 だが、
「さっきの格好で巡回した方がエサが釣れるかもしれないのに……」
 と小声で付け加えた。
 もちろん今、公昭は男の服に戻っている。
 なんて嫌味なやつだ、と公昭は無視して歩き出す。
 気持ちを切り替える。
 敵がどこから現れるのか予想できない。
 公昭は意識を研ぎ澄ませて日常に潜む非常を探る。



 地下にある小さな部屋で少年は体を横たえていた。
 ハエの舞う音だけが聞こえる。
 厚いコンクリートのせいで外の音はまったく聞こえない。
 外との通路は鉄の扉で仕切られている。力いっぱい押したことはあった。しかし扉はびくともせず、いつしか少年は外へ出る試みをやめてしまう。
 ここで沈黙し、ここで排便し、ここで時おり食事をする。
 そんな暮らしが長い。
 食事の回数から日数を数えようとしたこともあった。しかし、食事が毎日与えられているとは限らず、これも少年は諦める。何より考えるという行為がおっくうなっていた。
 ここは空気が腐っている。
 空気を吸う肺まで腐ってしまったかのよう。
 今となっては自分が何故ここに閉じ込められているのかさえ思い出せない。
 そんなぼんやりとした意識の中で、少年は誰かが地下室に入ってきたことを感じた。
 少年は重いまぶたを開く。
 訪問者は真っ黒い影だった。男か女かも分からない。人間ではないことは何故か分かった。それより少年にとっては、このような汚物と暗黒に満ちた地下室にいったい何の用だろう、ということの方が気になってしまう。
 外に出たくないか、と影はささやく。
 自分のことでありながら少年はにわかに答えることができない。
「外には何があるの?」
「外には自由がある」
 そう影は答える。
 自由。
 と少年はつぶやく。
 けれど何も実感がわかない。
 自由とはなんだろう。
 自由になって何をすれば良いのだろう。
 なおも影はささやく。
「自由になれば、どこへでも好きな場所へ行ける」
「どこへでも……」
 少年の麻痺したような心の中に一つだけ浮かんできたものがあった。
 もう長いこと学校に行っていない。
 友達は、先生は、今どうしているのだろう。
 知りたい。
 会いたい。
 話したい。
「学校にも行けるのかな」
「もちろん」
 影は少年の体に入り込んできた。
 唐突に力がわいてくる。
 少年は立ち上がり、さびついた鉄の扉を押す。
 ぎ、ぎぎ。
 金属と金属がこすれ合う。あれほど重かった扉が簡単に開いた。
 地下室を出ると大人の男が襲いかかってきた。少年が腕を振るうと大人は壁に激しく叩きつけられる。力を入れたつもりはなかった。そんなに中身が軽かったのだろうか。
 少年はそのまま外に出る。
 空気が動いている。
 ああ、これは風。忘れていた風の存在が心地良い。少年は小さな喜びを見つけた。そうか、と少年は知る。自由であれば小さな喜びを見つけてゆける。
 心が軽い。
「学校へ行こう」
 と少年は小さな声で宣言する。
 あいまいだった願いは言葉として発することで確かな形になったよう。
 道は暗い。
 月は黒い雲の間からかすかに月の光が漏れる程度。おどろいたことに足が学校への行き方を覚えていた。少年は夜の散歩を楽しみながら学校へ向い始める。



 夜の巡回をしていた松江公昭と一ノ瀬雫那に緊急の呼び出しがかかった。
 公昭が携帯電話を取り出す。
 三島監査官。
 画面にはそう表示される。
「もしもし?」
「公昭か」
「はい」
「事件が起こった。今どこにいる? すぐ迎えをやる」
 二人は三島がよこした車に乗って郊外へ向かう。
 中心部にある市街を抜けると地形はすぐ田園地帯に変わる。
 家々の明かりはまばらで、景色はどこかさびしい。
 公昭は運転する男に尋ねる。
「何が起きたんでしょうか?」
「それについては知らされていません。着けば説明があると思います」
 男はそう答えたきり無言で運転を続ける。
 何が起きたのだろうか。
 公昭はちらりととなりに座る雫那に目をやる。彼女は窓の向こうを眺めたまま何も言葉を発しない。公昭はあきらめて気持ちを静めようと努める。
 車は民家の前で止まった。
 公昭の目にはどこにでもある一軒家にしか見えない。ただ少し気になるのは、屋根のペンキはところどろこはがれ落ち、庭には雑草が目立ち、あまり手入れが行き届いていない様子があること。
 玄関先から三島監査官が出てきて、
「ついて来い。靴ははいたままでいい」
 という謎めいた言葉を残して奥へと戻っていった。
 三島自身、靴をはいていた。
 雫那は土足のまま平然と家に上がる。
 公昭としては他人の家に土足で上がるのには抵抗があるのだが、三島監査官が意味もなく言うはずはないと、やや遅れて三島と雫那を追う。家の中では何人かの男たちが部屋を調べていた。やはり彼らも靴をはいている。彼らの靴が泥のようなもので汚れているのが目に付いた。
 今日、雨は降っていない。
 どこで汚れたのだろうか。
 三島の足は家の奥まった場所で止まった。
「ここだ」
 と三島は地下へ続く階段を指し示す。
 厚い鉄の扉で仕切られていた入り口は力任せに壊されている。
 三島は、
「この扉は内側からこじ開けられてある」
 と説明する。
 見たところ確かに三島の指摘したとおり内側から開けられたようだ。
 疑問が公昭の口から出る。
「中にはいったい何がいたんでしょうか?」
「家人の話では子供がいたそうだ」と三島は淡々と語る。「名前は今川高志(いまがわ・たかし)。年齢は今年で十二歳だ。つまり十二歳の少年が内側から鉄製の扉を開けたことになる。この意味が分かるか?」
「まさか……」
 と公昭は言いよどむ。
 ある可能性が公昭の脳裏に浮かぶ。そうであって欲しくはない。一方で、それ以外の可能性を見出せず、公昭は沈黙する。
 独白するかのような小さな声が雫那の口から漏れ出す。
「……鬼人体(きじんたい)」
「そうだ」と三島監査官が受ける。「鬼が少年に依り付いたのだろう。そうでなければ内部から開けることは不可能だ」
 通常、鬼は虚体(きょたい)であり、実体を持たない。
 実体のない鬼には物理的な攻撃が通用しない。鬼もまた、現世の者に干渉する手段には限りがある。ところが生物に依り付いて実体を手に入れると、制限は消え、より危険性が増す。特に、人間に依り付いた状態を『クダン』では鬼人体と呼び、その出現に神経を尖らせていた。
 祭司者は確実に祭具の扱いに慣れてきている。
 時が経てば経つほど敵の勢力は増す。
 対する公昭は戦うごとに命を減らしてゆく。
 余計なことは考えまい、と公昭は改めて扉を見つめる。三島監査官の指摘どおり。この厚い扉を開けるのは、子供はもちろんのこと、大人でも不可能だろう。その点は了解した。公昭が気にかかるのは別の点にある。
 そもそも少年は何故この中にいたのか。
「どうしてこの中に子供が?」
「中に入ってみろ」
 と三島は小さな懐中電灯を公昭に渡す。
 内部には明かりがまったくない。
 風もなく、空気は重く淀んでいる。
 点灯して公昭は地下へ続く階段を降りてゆく。雫那も後からついてくる。木と石で支えられた穴が深く続いている。
 やや身をかがめないと進めない。
「これは防空壕か?」
 半世紀前の総力戦において、日本全土はいくどとなく空襲にさらされ、その度に人々は穴に身を潜めた。その穴がこの家にも残されていたのだろうか。だとすれば、あの扉は防火扉だったのかもしれない。鉄製なのも納得がゆく。歩き始めてすぐに公昭の鼻を悪臭がつき始める。
 穴の底に着いた。
「これは……」
 手に持った懐中電灯の光が闇の中にあるものを暴く。
 小さな地下室には汚濁が満ちていた。糞尿が垂れ流され、食べ残された食事はそのまま腐り、壁のあちこちには爪痕と思われるひっかき傷が残されている。三島監査官が靴をはくようにすすめた理由が分かった。
 汚物の中で何か動いていることに公昭は気づいた。
 そこへライトを当てる。
 動いているものの正体が蛆虫だと分かり、公昭はこみ上げてくる吐き気に耐えなければならなかった。
 人間の住む場所とは思えない。
 例えるならば地下牢だ。
 この家を外から見た時、公昭には普通の家にしか見えず、まさかそんな家に地下牢があるとは思いもよらなかった。
 だが何のために?
 その疑問が先ほどから公昭を捕らえて離さない。
「もう出よう。吐き気がしてきた」
「ええ……」
 公昭は階段を上がって大きく息を吸う。
 できれば外へ出て空気を吸いたいと思う。
 地下牢の存在を知ると、公昭の目にはこの家自体が忌まわしいものに思えてくる。
 まず公昭は、
「家の人間はどうなったのでしょうか?」と聞く。
「家人は少年の伯父と祖母の二人」と三島監査官は何も見ずに語る。「20時頃、地下室から出た少年は伯父にケガを負わせて姿を消した。その後、伯父は自分で救急車を呼んで、今は病院にいる。祖母も同行している。到着した救急隊員によって監禁が発覚し、警察に連絡があり、警察内部の協力者から我々に知らせがあった」
 公昭は腕時計を見る。
 21時半になろうとしていた。
 事件発生から90分ほど経過したことになる。少年はどこへ向かったのだろうか。
「俺はどうすれば良いですか?」
「待機しろ」と三島監査官は短く応じる。「少年は兵部員(ひょうぶいん)が捜索する」
「兵部員が……」
 と公昭は考え込む。
 おおまかに言って『クダン』は、吏部、戸部、礼部、兵部、刑部、工部といった六つの部門に分かれている。兵部は神的事件へ対応する実戦部隊であり、そこに属する者たちを兵部員と呼ぶ。ほとんどの兵部員は術式を使うことのできないため、祭司者の捜索を担うことが多いが、人間を見つけ出して隠密裏に殺害することにかけては公昭より格段に優れているに違いない。たった一人の少年が誰にも知られないまま追い回されて殺される光景を、公昭は想像する。
 そんな事態は避けたい。
 公昭は発言を求める。
「一つお願いがあるのですが、よろしいですか?」
「言ってみろ」と三島。
「少年を説得するために彼をよく知りたいと思います。病院へ行って伯父と祖母に話を聞いても良いでしょうか?」
 今川高志という少年について公昭は何も知らない。心に鬼を住まわせる少年が危険な存在であることは間違いないだろう。しかし彼はまだ何もしていないに等しい。伯父に多少ケガを負わせたと言っても自衛の範囲内ではないかと公昭は思う。
 鬼は人の心の弱い部分につけいると言う。金が欲しい者には大金をつかむ能力を、女が欲しい者には美女をとりこにする能力を、力が欲しい者には暴力そのものを与える。そうやって鬼は、甘い言葉をささやいて人の心に入り込み、やがては完全に乗っ取ってしまう。何かに執着する気持ちが鬼にとりつかれる隙になる。では少年の場合はどうなのだろう。少年は何を求めて鬼を受け入れたのか。それが分かれば少年の心に届く言葉を見い出せるかもしれない。
 だが三島監査官の率いる兵部員たちは容赦なく少年を殺す。
 鬼が少年を殺すか、三島監査官たちが少年を殺すか、その前に少年を説得する手がかりをつかまなければならない。
 思ったとおり三島監査官は冷たい反応を公昭に返す。
「説得できると思うか?」
「今はまだ分かりません。しかし説得できれば交戦は避けられます」
 三島監査官が公昭を見る。三島の目が公昭の瞳をのぞく。まるで、その奥にある公昭の決意を確かめるように。
 圧迫感に耐えながら公昭は視線をそらさない。
 ここで顔をうつむくようでは、きっと少年の抱える苦しみを受け止められない。そんな予感がある。
 ややあって三島監査官が口を開く。
「許可する。やってみろ」
「ありがとうございます」
「ただし」と三島監査官は加える。「我々はおまえを待たない。少年を発見次第、捕縛もしくは殺害する。急げ」
「分かりました」
 外に出た公昭が車に乗ると雫那が反対側から乗り込んでくる。
 彼女は平然として何も言わない。
「おまえも来る気か?」
「ええ。やることもありませんから……」
「分かった」と公昭は運転手にお願いする。「出してください。行き先は県立病院です」



 公昭は雫那とともに市街地に舞い戻った。
 レンガのように塗装された建物は、街で最も規模の大きい医療施設であり、一般的に県立病院という略称で親しまれている。周辺の市町村から訪ねてくる人も多い。公昭も世話になったことが多々ある。一階と二階は外来用だが、さすがに夜遅くまで開いているのは急患に限られる。
 一階のエントランスホールで待っている二人の前に白衣を着た男性がやってきた。
 雫那が小さな声を漏らす。
「……直哉……今日は夜勤じゃないって言ってた……」
「急に呼び出されたんだ」
 と直哉と呼ばれた男性は苦笑いを浮かべる。
 どうやら彼が雫那の保護者であると公昭は察した。
 彼らの家に招かれていたことを公昭は思い出す。あの夜は戦いが長引いて訪問する時間がなかった。
 フレームのないメガネをかけた青年医師は、背が高く、雫那を見つめる面差しは柔らかい。外見だけを言えば二十代後半ほどに見えるが、落ち着いた雰囲気から考えると、もっと年上のようにも思える。
 公昭は確認する。
「貴方が直哉さんですか?」
「ああ」と彼は公昭に向き直る。「俺は阿木直哉。君が松江公昭君だね、いつかお礼を言おうと思っていたんだ」
「お礼ですか?」と公昭。
「いつも雫那が迷惑をかけているんじゃないかと思ってね」
「そんなことはありません。俺の方こそ迷惑をかけているんじゃないかと思います」
 公昭と阿木直哉がそんなやり取りをしていると、阿木直哉の着ている丈の長い白衣を、雫那が後からくいくいと引っ張る。
「ん?」と直哉が振り返る。
「……早く……」
「そうだった」と直哉には意味が分かったらしい。「ケガ人はこっちだ」
 と来た道を引き返す。
 公昭と雫那を連れながら直哉は語る。
「話を聞きたいと連絡があったけど、難しいかもしれないね」
「確か自分で救急車を呼んだとうかがいましたが?」
 と公昭は三島監査官から受けた説明を思い起こす。
 自分で救急車を呼ぶということは負傷の具合は浅いように思える。
 その点は阿木直哉も認める。
「そうなんだが……」と阿木直哉の声に苦いものが混じる。「確かにケガの具合は浅い。だが、ひどく酔っている。意思疎通は難しいかもしれない」
 やがて阿木直哉の足が病室の前で止まる。
 一人用の病室らしい。
 病室の中から聞こえてくるのは意味不明な男の声。
 阿木直哉が無言のまま公昭たちを見つめる。本当に話を聞くのか、と問うように。
 公昭は扉を開けた。
 入った途端、強いアルコール臭を感じた。
 ベッドには、中年を過ぎた男が上半身を起こして、かたわらの老婦人に怒鳴りつけていた。発する言葉のほとんどは聞き取れず、かろうじて酒という単語だけが分かる程度。泥酔していると言っていい。男の罵声を受ける老婦人は小さい体をさらに小さくして応対している。その様子だけで彼らのふだんの生活が見えてくる。
 常習的にアルコールに耽溺している印象を公昭は抱く。意思疎通は難しそうだ。話しかけても通じるかどうか。しかし、このまま帰っては無駄足になる。
 ほとんど期待を持たず公昭は伯父と思しき男に話しかける。
「今川高志についてお話を聞きにきました」
「なんだ、おまえら」
 と伯父は公昭たちをにらみつける。
 酒のせいか語尾ははっきりしない。
 公昭は自分の声が厳しくなっているのを自覚する。
「貴方はどうして高志君を地下室に閉じ込めていたんですか?」
「しつけに決まってんだろ。あのガキ、あいさつもろくにできねえ。だから少しこらしめてあげてんだよ」
「しつけですか」と公昭。
「そうだ、しつけをしてやってんだ」と伯父は主張する。「家に置いてやるだけでも感謝されて当然だってのに! あのガキ、俺に暴力を振るいやがった! さっさと捕まえて連れて来い!」
 見れば、男の頭には包帯が巻かれてある。
 その具合は浅いようだ。
 むしろ、その程度で済んだことが幸運と言える。
 鬼人体となった少年は鉄の扉を開けてしまうほどの強力(ごうりき)を見せた。その筋力ならば男の頭を片手で握りつぶすこともできただろう。しかし少年はそうしなかった。少年が伯父を殺していても不思議ではない。
 その幸運に、伯父である男は気づいていないのが悲しいと言えば悲しい。
 あの家の様子を見て、事件の概要を聞いて、公昭は会う前からこの男にいきどおりを覚えていた。だが今はいきどおりを通り越して憐れにすら思う。人間とは思えない行為を恥じず、かと言って男性として持つべき矜持もないとしたら、この生き物はいったい何に分類されるのだろう。
 公昭は男を諭す。
「躾(しつけ)とは身を美しくすると書く。酒に酔って醜態をさらす貴方からいったい何を学ぶと言うんだ?」
「あぁ?」
 と男は公昭を威嚇するばかり。
 もしかすると躾という漢字を知らなかったのかもしれない。
 だが自分が責められていることだけは伝わったと見える。
 男はわめきながら唾を飛ばす。
「俺が家長だ! 家長の決めたことに他人がいちいち口を出すんじゃねえ!」
「……」もはや公昭に語る言葉はない。「失礼した。貴方から聞くことは何もない」
 と公昭はきびすを返す。
 雫那も公昭に続いて退室する。
 結局、雫那は公昭に任せてばかりで自分からは何一つ発言しなかった。
 公昭は次の行動を考える。
「さて、これからどうするか」
「……あまり……参考に、なりませんでした」
 と意外にも雫那が応じる。
 彼女の言うとおり。
 分かったことと言えば今川高志という少年がどのような家庭環境で生きていたことぐらいか。
 いや、そこは家庭とすら言えない。
 ややあって廊下に老婦人が出てきた。
 少年の祖母である老婦人が公昭たちを呼び止める。
「孫はどうなるのでしょう?」
 伯父も祖母も、この事件がどれほど異常な出来事か理解がおよばないように見受けられる。
 知らないままでいた方がいいかもしれない。
 そう判断した公昭はできるだけ簡略に説明する。
「自分たちはお孫さんを保護するために彼がどこへ向かったのか調べに来ました。そこで何かご存知ではないかと思い、こちらにうかがった次第です」
「そうでしたか……」
 と老婦人はぽつりぽつりと語り出す。
 今川高志の母親は、老婦人にとって娘にあたり、結婚して今川の姓になった。娘夫婦が事故で二人とも亡くなったのはつい最近のこと。その後、今川高志は母方の実家に身を寄せる。だが定職に就かずに酒びたりの生活を続ける伯父に対し彼はまったく懐かず、伯父に反抗的な態度を取るようになり、伯父はちょっとしたことで殴るようになり、しまいには監禁するに至ったのだと老婦人は打ち明けた。老婦人は何度も止めるように息子を諭したのだが、その度にみずからも暴力を受け、やがて何も言えなくなったのだと、そう語る老婦人の姿は涙すら枯れ果てたように公昭の目に映る。
 手遅れであることを自覚しながら公昭は老婦人に聞く。
「誰かに相談できなかったのでしょうか?」
「学校の先生が何度も来てくださったのですが」と老婦人は公昭の問いに答える。「息子は追い返してしまって……」
「その先生の名前を教えてもらえませんか?」
「斉木先生という女性の先生です。孫の担任だとうかがいました」
 疲れ切った老婦人の様子に、公昭は、
「別室で休まれたらどうですか?」
 とすすめる。
 だが老婦人はていねいに断って病室に戻っていった。
 公昭はかたわらに立つ雫那に聞かずにはいられなかった。
「あの男はこれからどうなるんだ?」
「……神的事件が全て隠蔽される以上……あの男の行為も……」
「隠蔽されるわけか」
「……ええ」
「あの男は裁かれず、被害者である子供は殺されるのか!」
 がん。
 たまりかねて公昭は廊下の壁にこぶしを叩きつける。
 その音が薄暗い廊下に響く。
 こぶしより痛む部分がある。その痛みだけはどうすることもできない。
 雫那はそんな公昭を無表情のまま見つめ、
「貴方は……人を、裁きたいんですか……?」
 と尋ねてきた。
 雫那のそんな冷たさが公昭の熱を冷ます。
 公昭は非を認める。
「すまない。つい感情的になってしまった」
「いえ……よく耐えた方だと思い、ます……」
「どういう意味だ?」
「貴方は感情的な人間、ですから……」
「そうかもしれないな」
 と公昭自身も思う。
 自分は本来、激しやすい性格なのだろう。
 ふだんはそれを抑えているが、その分だけ表に出た時はいっそう激しくなる。
 雫那は今後の行動について聞く。
「……これから……どうしますか?」
「家に来たという先生に話を聞いてみよう。その先生の方があの少年のことをよく知っているような気がする」
「……私も、そう思います……あの地下室を、見た時……私は、自分の子供の頃を思い出しました。私の牢獄は……清潔でしたが、牢獄であることは同じ、です……」
 雫那にしては長い言葉を聞いて、公昭は三島監査官から聞かされた彼女の生い立ちを思った。
 一ノ瀬雫那は危険な能力を持つ。
 彼女は、他者の命を奪い、みずからの命を増す。この国は、それを障害と見なし、一ノ瀬雫那をどこかの病院に隔離していた。彼女の言うとおり、そこは清潔だったことだろう。少年が閉じ込められていた地下室とは違う。しかし違うのは、その一点だけかもしれない。
 病人を外と隔てる病院があり、囚人を内に収める牢獄がある。
 どこまでを病院と呼び、どこからを牢獄と指すのか。
 それを思うと、公昭は暗然とした気持ちになる。
 人が人としてあつかわれる場所は公昭が思っていたより少ないのかもしれない。
 雫那がうながす。
「行きましょう……」
「ああ」
 公昭は気持ちを切り替える。
 これからのことを考えよう。
 せめて、これ以上の悲劇が起きないように。



 車内に戻った公昭たちは置かれていたノートパソコンを開く。
 すぐに要求した資料が送られてくる。
 公昭は『クダン』の情報網の広さにおどろきを禁じえない。同時に思う。この力を最初から少年のために使っていたら今回の事件は未然に防ぐことができたのではないか、と。一方で『クダン』の強権は神的事件にのみ振るわれるからこそ黙認されているのも事実。
 公昭は頭を振って迷いを振り払う。
 余計なことを考えている時間的余裕はない。
 公昭はノートパソコンに表示される資料に目を走らせる。
「斉木由恵(さいき・ゆえ)……これか」
 目的の人物が見つかった。
 まだ若い女性だ。斉木由恵という教師は、今川高志の通う小学校に赴任してすぐ担任となり、現在もこの街に一人で住んでいる。年齢はまだ二十代の後半。教師としての経験はまだ浅いかもしれない。しかしながら少年の伯父に怒鳴られながらも何度となく家庭訪問をくり返したという彼女の行動には真剣なものを感じられる。彼女なら今川高志について重要な何かを知っているのではないか。
 公昭は彼女の住まいへ車を出すように頼む。
 運転手は無言のままエンジンをかける。

 公昭は、斉木由恵の住むマンションの一室の前に雫那と並ぶと、深呼吸してからチャイムを押す。
 しばらくしてドアが開いた。
 ドアチェーンはかかったまま。
 ドアの隙間から若い女性が見える。写真で見た女性――斉木由恵だ。彼女は部屋着のようで、無造作にジーンズをはき、上には薄いカットソーを着ている。公昭は写真で見たよりほっそりとした印象を受けた。
 斉木由恵の表情はいかにもいぶかしげに見える。
「どなたでしょうか?」
「突然、訪問してすみません」と公昭は切り出す。「今川高志君のことでお話をうかがいたいのですが、よろしいでしょうか?」
「高志君……」と斉木由恵の表情が変化した。「どういうことでしょう?」
 あいかわらず雫那は沈黙を守っている。
 本当にやることがないからついて来たのかもしれない。
 まず公昭は自己紹介から入ることにした。
「自分は松江公昭。こちらは一ノ瀬雫那です。今川高志君が行方不明になったので探しています。どこへ向かったのか心当たりはありませんか?」
「行方不明って!」と斉木由恵の声が大きくなる「何があったんですか?」
「突然、家から失踪してしまったんです」
 と公昭は簡潔に事実を述べる。
 斉木由恵の瞳が揺れ動く。
 かなりの衝撃を受けているのが見て取れる。
 公昭は重ねて問う。
「今川高志君についてお話をうかがえませんか?」
「分かりました。どうぞ」
 と斉木由恵はドアチェーンを外して中へ招く。
 公昭と雫那は靴を脱いで部屋へ上がった。
 資料にあったとおり、斉木由恵は一人住まいのようだ。部屋はきれいに片付いており、ワンルームマンションではあったが、手狭な印象を受けない。家具や内装は柔らかい色合いで統一され、壁には子供たちの写真が飾ってある。公昭はその中に今川高志を見つけた。斉木由恵と今川高志の二人が写真に納まっている。肩を寄せ合って微笑む二人の姿はまるで歳の離れた姉と弟のよう。その写真の中にこそ少年の求める幸せがある。そう公昭は直感した。
 公昭と雫那はテーブルを挟んで斉木由恵と向かい合う。
 まず斉木由恵から問いかける。
「高志君を探していると言われましたが、貴方たちはどういう関係なんでしょうか? その制服は南校のものですよね?」
 当然と言えば当然の質問。
 公昭たちは学校の制服を着たままでいる。何者なのかと斉木由恵が怪しむのも納得がゆく。むしろ中に入ることを許してくれたことに感謝しなければならないだろう。あるいは、それほど彼女にとって今川高志という少年が大きな存在なのかもしれない。
 公昭は答えに詰まる。
 これまで公昭はずっと、少年を案じるあまり、自分の身分をどう偽るべきかについて思いが至らなかった。
 そこで初めて一ノ瀬雫那が口を開く。
「私たちは……探偵、です」
 それを聞いた斉木由恵があ然とする。
 公昭の受けた衝撃はおそらく斉木由恵よりも大きい。
 よりにもよって探偵とは。
 無理があるにもほどがあるだろうと公昭は天を仰ぎそうになる。しかし言ってしまったからには後戻りはできない。
 公昭も雫那の嘘に付き合う。
「確かに自分たちは高校生ですが、探偵として様々な事件にたずさわってきました。今回、今川高志君が家から出て行ってしまったとご家族から相談を受け、彼のことを良く知ろうと話を聞いて回っているところです」
 そう話しながら公昭は、雫那の掘った墓穴をさらに広げているような気がしてきた。
 我ながら真実味が薄いと公昭は認めざるをえない。
 さらに説明しようとした時、公昭の携帯電話が鳴った。
 公昭が発信者を見ると画面は三島監査官と示す。
「失礼」
 と公昭は不吉な予感を覚えながら電話に出る。
 その予感は当たった。
 三島監査官の声は判決を下すかのように響く。
「公昭か。少年を発見した。今すぐ戻れ。もうじき包囲が完成する」
「どこですか?」
「少年が通っていた小学校だ」
「小学校?」
 意外な場所で少年は見つかった。
 公昭は腕時計を見る。
 時刻は22時を過ぎたところ。
 公昭は頭の中で地図を思い浮かべる。祖母の家から小学校まで、徒歩で向かったのだとすれば、一時間もかからない。今川高志が地下室から出たのが20時頃のこと。奇妙な時間差がある。ふらふらと歩いた末にたどり着いたのか。だとしたら何故、小学校なのだろう。そこが分からない。
 あと少し。
 少年のことを理解できるまであと少しのところまで来ている。
 公昭にはそんな感触がある。
 それなのに、ここで時間は切れてしまった。判決が下ろうとしている。もう戻らなければならない。
「分かりました。すぐに向かいます」
 公昭はそう答えて電話を切る。
 改めて公昭は斉木由恵に向かう。
「申しわけありませんが、急用ができました。もう行かないといけません。お邪魔しました」
 公昭は雫那を連れて外へ出ようとする。
 その足を斉木由恵の声がとどめる。
「高志君は学校にいるんですか?」
 公昭は振り返る。
 かんの良い人だと思わざるを得ない。
 短い電話のやり取りで今川高志が小学校で見つかったことに気づいたらしい。
 斉木由恵は懇願する。
「高志君に会わせてください」
「今、彼はとても危険です」と公昭は再考をうながす。「彼はあの家にある地下室で伯父に監禁されていました。その扉は鉄でできていたにもかかわらず、彼はそれを素手で壊して逃げ出したんです。危険とはそういう意味です」
「監禁……」
 と斉木由恵は絶句する。
 公昭の言葉が衝撃的だったと見える。
 ただし公昭の意図とは違う部分で。
 斉木由恵は食い下がる。
「何が起きているのか私には分かっていないと思います。それでも会いたいんです。今度こそ、あの子を守ってあげたい」
 公昭は考え込む。
 斉木由恵であれば少年の心を動かせるかもしれない。では三島監査官の許可をこれから求めるべきか。三島監査官は不確かな希望的観測を認める人ではない。だが公昭は賭けてみたいとも思う。
 公昭は決断する。
「分かりました。お連れします」
 その言葉を聞いて一ノ瀬雫那は公昭たちを冷ややかに見やる。
 公昭の甘さを指弾するように。
 彼女は甘い言葉などかける人間ではない。
「三島が……許すでしょうか……?」
「認めないかもしれない」と公昭は三島監査官の人となりを思う。「その時は俺がこの人を守る」
 と公昭はそう言い切る。
 雫那は追及しなかった。
 公昭と雫那は、着の身着のままの斉木由恵を連れて小学校へ急いだ。
 車中、公昭は斉木由恵に聞く。
「どうしてそこまで今川高志君のために行動できるんでしょうか? 教師だからですか?」
「私はそんな立派な人間じゃありません」と斉木由恵は首を横に振る。「似てるんです」
「似てる、とは?」と公昭。
「死んだ弟によく似ていました。笑った時の感じが。だから笑っていて欲しかった」
 自分のために他人に幸せであって欲しい。
 それは利己的なのか利他的なのか。公昭にはどちらとも判断がつかない。一方で、知る必要のないことなのかもしれないとも思う。物事の道理を全て知らなくても幸せになれるのではないか。
 あの伯父がいなければ。
 今はただ、間に合うことを祈るしかない。
 公昭は祈るという行為が好きではなかった。人事を尽くして天命を待つ、という心境にはなれない。どこか人間以上の存在に責任を押し付けるような気がしてしまう。だが、もし人事を尽くしても、なお足りないのだとしたら、人にできるのは祈ることだけかもしれない。
 もう少し時間があれば誰も傷つけずに事を収めることができたはず。
 そこで唐突に雫那が小さな声で催促する。
「急いだ方がいいかと……思います」
「どういう意味だ?」と公昭。
「兵部員たちは神的事件の被害者などから選抜された者たち、です……選抜基準は強い復讐心を持っていること……兵部員たちは少年であろうと少女だろうと、その存在を認めません……」
 やがて行く手に小高い山が見えてくる。
 斜面を黒い森がおおう。
 小学校は山の上にある。そこへ通じる道路は一本だけで、その両端をふさいでしまえば封鎖はたやすい。山の周りには小学校以外に建物はなく、最も近い民家へ行くには山を下りる必要がある。逃げるにせよ、戦うにせよ、あまり向いている地形とは言えない。もはや有利不利を考えるだけの判断力がないとしたら交渉を試みることは不可能だ。だが今川高志に逃げているつもりがないとしたら――。



 夜がいつまでも続くかのように今川高志には思われた。
 朝はまだ来ない。
 黒々とした雲にさえぎられて月は顔を隠したまま。
 明かりと言えば外灯のぼんやりとした明かりだけだ。
 高志は校舎の裏手にあるベンチに座って朝が来るのを待つ。学校が開くのは朝になる。それまで他のところに行こうかとも思ったが、どこへ行けばいいのか高志には一案も浮かばない。自由になればどこへでも行けるわけではなかった。どこへ行きたいのか明確でなければならない。そうなると高志には学校という選択肢しかないのだった。高志は、たった一つの選択肢にしがみつくように、ここで時間が経つのを待っている。
 かすみがかかったように頭の働きがにぶい。
 だからだろうか、一人の少女が歩み寄ってきたのに、声をかけられるまで気づかなかった。
 彼女が着るのは夜目にも鮮やかに映る白いキャミソールワンピースだというのに。
「こんばんは」
 弾むような明るい声で少女は声をかけてきた。
 そのほがらかな声音につられて高志もあいさつを返す。
「こんばんは」
 高志は親しげに微笑む少女をぼんやりと眺める。
 自分と同じくらいの年齢のようだ。この学校にはいなかったと思う。まったく会った覚えはない。
 ここまで考えるのにひどく時間を費やしてしまった。
 高志の口からは陳腐な言葉しか出てこない。
「君は誰?」
「私は夏目るいっていうの。貴方は?」
「僕は……今川高志、だ」
 奇妙なことに自分の名前を思い出すのに時間がかかった。
 記憶というのは不思議なもので、必要のない情報は忘れてゆくのだと聞いたことがある。だとすれば、今の自分にとって名前はたいして重いものではないのだろうか。まさか、と高志はかぶりを横に振る。そんなことがあるはずがない。しかし今は何故か他人の名前のように聞こえる。
 気がつくと、少女がとなりに座っていた。
 こちらを興味深そうに眺めている。
 目が合った。
 少女の瞳は、夜の海面に似て、暗く底が見えない。唐突に高志はあの地下室に充満していた暗黒を思い出す。あの暗黒に囚われているうちに人は人でなくなる。闇の奥にはさらに暗い闇があることを、高志は知っていた。
 では、その暗黒を瞳に宿す少女はいったい何なのか。
 この子と会話すべきではないかもしれない。
 そう思いながらも少女に見つめられると頭がさらに鈍くなって考えがまとまらなくなる。
 目をそらすことができない。
 夏目るいと名乗った少女が尋ねてくる。
「ここで何をしているの?」
「僕は……待っているんだ、学校が開くのを」
「そうなんだ。でも、このままだと朝が来る前に殺されちゃうよ?」
「どういうこと?」
 と高志は聞きとがめる。
 どうして自分が殺されるのだろうか。伯父が追ってくることを高志は想像する。
 今はそれほど怖くないと思わない。
 もう自分はあんな大人に脅かされる存在ではない、と心のどこかで感じている。
 ところが少女の言い分は違った。
「貴方が危険な人だから」
「僕は危険なんかじゃない」
「そうかもね。だけど、貴方が自分をどう思っているかは重要じゃない。重要なのは大人たちがどう思っているかでしょう?」
「大人たちが……?」
「貴方みたいな人を害人って言うの。害虫と似たようなものだね。人に害を与えるの虫は害虫。人に害を与える人は害人。どちらも見つかったら殺される」
「僕は虫じゃない」
 そう主張してみたものの、高志自身すら根拠を疑う。
 本当に自分は人なのだろうか。自分が人として生まれたことは間違いない。しかし、だからと言って人として扱われるとは限らないではないか。あの酒くさい伯父が自分に対してそうであったように。
 人として生まれること。
 人として扱われること。
 この二つは必ずしも同一ではない。
 だが納得のいかないことがある。
「僕は何も悪いことはしてない」
「今はね。でもね、この世界は大人たちの決めたルールで動いているの。私たちが何か言っても相手にされない。きっと、この世界には人を不幸にする仕組みがあるんだと思う。それは大人たちにも変えられない。だって今の大人たちが子供だった頃から存在している仕組みだから」
 少女が立ち上がる。
 高志の前に差し出されるのは彼女の白い手。
 少女が誘う。
「私といっしょに行こう。貴方を人として扱ってくれる世界に」
「僕はただ……」
 高志が言葉を続けようとした時、何かが飛来し、少女の胴体をつらぬいた。
 目の前で血と肉が弾け飛ぶ。
 衝撃とともに少女は土手を転がって野球場へ落ちていった。そのまま動かない。
 一瞬遅れて高志は理解する。
 誰かが夏目るいを撃った。銃声はしなかったが、銃撃があったのは間違いない。
 高志は周囲に首をめぐらす。
 左には野球場、右には校舎。
 小学校の周りには木々が並んでいる。
 ややあって、校舎の陰から短機関銃を持った兵隊のような男たちが出てきた。数は四人。以前テレビで外国の兵隊を見たことを高志は思い出した。高志の前に現れた兵隊たちも、それを思い起こさせるような服装をしている。
 顔立ちを見る限りでは日本人らしい。
 短機関銃の銃口は高志に向いたまま。
 いつでも撃てる姿勢を保っている。
 兵隊たちは分かりきったことを確認するような無機質な声で高志に問う。
「今川高志だな」
「……」
 警戒心が先に立ち、高志は答えない。
 やや下向きにされた短機関銃から空気の漏れるような小さな音がして銃弾が発射される。
 足を撃たれた。
 痛みはない。その衝撃はもはや痛みとして感じる領域を超えてしまったのかもしれない。高熱が襲ってくる。頭が煮えたぎったように熱い。熱に耐えて足を見れば、無残に砕けた膝の骨がはっきりと露出しており、膝上と膝下はつながっていると言えるかどうか怪しい。膝から下の感覚はまったくない。
 ここまで観察して膝を撃たれたのだと高志はようやく理解できた。
 もう走ることもできないだろう。
 もう歩くこともできないだろう。
 せっかく地下室を出て自由になったというのに、どこへでも好きなところへいけるはずだったのに、もう自分ではどこへ行くこともできない。
 兵隊たちは再び問う。
「今川高志だな」
 答えなければ体のどこかをまた撃たれるのではないか、と高志は恐怖する。
 膝を撃たれた衝撃はまだ体の残っており、歯と歯が合わず、言葉にならない。
 うなずくことしかできなかった。
 兵隊たちが機械的な声で言い渡す。
「おまえを連行する」
 自分は害人というものに指定されたと少女は教えてくれた。
 その言葉どおり。
 今、自分は虫のように扱われている。
 やはり自分はもう人としては扱ってもらえないのかもしれない。何も悪いことをしていないのに。
 高志の疑問に心の中に潜む誰かが断言する。
「それはおまえが弱いから。弱い者が悪い」
 その声は地下室で出会った影のもの。
 応じる高志の声は弱々しい。
「じゃあ僕はずっと悪者なの?」
「これを見て欲しい」
 という声とともに高志の視野に映る風景が一変する。

 鉛色の空の下、カラスの舞う荒れ野には人や馬の死体がどこまでも続く。
 あちらこちらに破れた旗がはためいている。
 そこは、この国がまだ刀槍によって戦っていた頃の合戦場。
 戦いは終わったばかり。
 まだ温かい内臓の臭いがあたりに漂う。
 そんな中、戦いを避けて山に隠れていた農民たちが下りてきて、金目の物を目当てに死体を漁り出す。途中まだ息のあった兵士を殺しながら農民たちは戦利品に一喜一憂する。
 もめごとが起こった。
 よほど価値のある物が見つかったのか。
 農民同士でそれを巡って争う。
 奪った物を奪い、勝ち誇る声はどこか獣に似て、まるで自分が人であることを忘れてしまったかのよう。

「これは私が見た一つの地獄」と影は感情を感じさせない声で述べる。「弱い者は強い者に従わなければならない。そのように世界は成り立つ。ならば誰よりも強くあればいい。強ければ誰にも邪魔されずに生きてゆける。それとも、あの地下室に戻りたいのか」
 景色は再び今川高志の現実へ。
 兵隊たちが近づいてくる。
 あの地下室のようなところへ連れてゆくつもりなのだろうか。
 高志の心に浮かぶ思いは一つ。
「そんなの嫌だ。僕は人間なんだ。人間として生きてゆきたい」
「私もそう思う」
 力がわき上がる。
 地下室の扉を開けた時のように。
 足の感覚が戻る。
 動く。
 足が動いている。
「こいつ! 変化(へんげ)しているぞ!」
 兵隊たちが感づいた。
 彼らはまだ倒れている高志を撃ち始める。
 その傷を、体に宿る不思議な活力が急速にふさいでゆく。
 負傷より治癒の速さが勝っている。
 立ち上がると高志は気づいた。いつもより視界が高い位置にある。まるで、いきなり大人になったようだ。
 反撃しようと高志が歩み出す。
 だが兵隊たちの対応の方が速い。
 兵隊たちは缶のような物を高志の足元に投げる。すると、その缶から煙が吹き出し、高志の視界を煙でさえぎった。煙が薄れて視界が晴れた時には兵隊たちの姿はすでにない。
 外灯から明かりが一斉に絶える。
 高志は暗がりに目をこらす。
 前方にある木立の中から炎のようなものが光った。次の瞬間、高志の体を銃弾がえぐる。その銃弾は兵隊たちが持っていた短機関銃よりはるかに威力が強い。加えて、命中すると小さく断片化して内蔵に食い込む。高志は銃弾というのは貫通するものとばかり思っていた。どうやらこれは違う。もちろん高志は戦争などしたことはない。その時、これを食らってはいけない、と心の中に潜む影が教えてくれた。今はその言葉を信じるほかにない。
 高志は校舎の陰へ跳ぶ。
 自分でも信じられないほど高く跳べた。
 風が心地良い。
 心が高揚する。
 自分はもう弱くないと高志は確信した。



 坂を上る車内で、斉木由恵の頭を占めるのは教え子の無事だけだった。
 状況はまったくつかめない。
 かろうじて分かるのは、何か大変なことに今川高志が巻き込まれたという一事だけ。
 となりに座る松江公昭と名乗った少年が急にこちらを向く。
「どうやら間に合わなかったようです」
「え?」と斉木由恵が公昭の様子をうかがう。「どういうことですか?」
「戦闘が始まったと思います」
「戦闘って」
「今川高志君を殺そうとしている、ということです」
「そんな!」と由恵が声を上げる。「あの子が何をしたって言うんですか!」
「すみません」と公昭は謝る。「間に合いませんでした」
 車が小学校の前に到着する。
 由恵たちは校舎から離れた位置にある駐車場に案内された。
 外灯はあるが、明かりは絶えており、駐車場は暗い。
 不意に由恵の前に銃をたずさえた兵士が現れる。
「っ!」
 由恵は悲鳴を飲み込む。
 よくよく見れば、駐車場のあちこちに短機関銃を持った兵士たちが何人も立っていた。
 まだら模様の服を着ている。
 由恵は、迷彩服という軍服のことを聞いたことがあったが、その効果を目で確認したことはなかった。兵士たちの輪郭が暗闇の中に溶けてゆくようだ。そこにいると分かっても注意していないとまた見失ってしまいそうになる。
 兵士たちに守られるような位置に止まっていた大型のバンから黒いスーツを着た人物が出てきた。
 公昭がその人物に頭を下げる。
「三島監査官、遅くなりました」
「その女性は?」
 と三島監査官という男の目が由恵を捉える。
 それだけで由恵は身のすくむような思いがした。
 ヒゲをたくわえているせいで表情を読み取ることが難しい。あるいは、ヒゲがなかったとしても読み取れないかもしれないとも思う。監査官ということは官僚なのだろうか。しかし由恵には彼がどこかの役所でデスクワークをしている姿が想像できなかった。まっとうな人間かどうかさえ怪しい。
 その根拠となるのは彼の眼差しだ。
 人間の命を並べて価値を判定する絶対者がいるとしたら彼のような目をしているのではないか。
 そう思えてならない。
 だとすれば、自分やあの子はどうなるのだろう。
 圧迫されるような感覚に耐えられそうにないと由恵が思った時、公昭という少年が間に立って、視線をさえぎる。
 かばうように公昭が三島監査官なる人物に対する。
「今川高志を説得するために自分が連れてきました。今川高志の先生です」
「そのような報告は受けていない」
「自分で判断しました。この人がいれば今川高志をきっと説得できると。報告しなかったのは、おそらく監査官は認めないだろうと思ったからです」
「すでに戦闘が始まっている」
 と三島監査官は校舎に目をやる。
 由恵も校舎を見る。
 いつもと何も変わらないように思えた。
 いや違う。
 影の濃い場所を選ぶようにたくさんの兵士たちが校舎の周りに散らばっていた。時おり兵士たちは校舎に向けて発砲する。銃声はしない。ガラスの割れる音だけが聞こえてくる。また彼らは言葉ではなく手話のようなもので意思を交わす。どうやら何かと戦っているようだ。静寂のまま進む戦いは不気味な威圧感がある。
 これは戦争なのだと由恵は肌で感じる。
 地球のどこかで戦争がいつも起きているのは由恵も知っていた。
 知ってはいたが、分かってはいなかったのかもしれない。自分自身にとって身近な問題とは考えていなかった。それが今、子供たちの学び舎である小学校が戦場になっている。本来ならば子供たちにとって一生の思い出になるはずの場所だ。そこが戦場になるなど、ふだんの由恵は考えたこともない。
 由恵は身を引き裂かれるような思いがした。
 戦争で心を痛める人々の気持ちがようやく分かった気がする。
 暗いためか、肝心の今川高志の姿は見えない。あの子は今どこにいるのだろう。
 不意に校舎の中から咆哮が響いた。
 その叫びはもはや声とは呼べず、人が発したものとも思えず、まるで傷ついた獣がうなったかのようだった。まさか、と由恵は信じがたい思いに囚われる。今の声はあの子のものなのだろうか。そんなはずはないと思いたい。だが最初に公昭は説明した。今川高志が殺されようとしていると。だとすれば、兵士たちが戦っている相手こそ高志ということになるではないか。
 その公昭が三島という男に意見する。
「どうして戦闘になってしまったのでしょうか。今川高志が攻撃しようとしたのですか」
「一人の少女がこつ然と現れた。包囲していた兵部員たちに気づかれることなく。私はこの少女を危険と判断し、撃つように命じた」
「少女、ですか?」
「だが公昭。おまえたちの方が問題だ。独断で動いた以上、処罰は覚悟しているな?」
「自分が処罰されるのは覚悟しています。しかし、この人は関係ありません。自分が勝手に連れてきただけです」
 と公昭はやはり由恵をかばう。
 自分が守ると言った言葉に嘘はなかった。
 一方、三島監査官の目下の関心は由恵などに向いていないと見える。
「処罰については戦闘が終わってからのこととする。今は眼前の敵を倒すことが先決だ」
 敵。
 その言葉が由恵には恐ろしい。
 子供たちが悪ふざけで使う場合とは違う。明確な意思のもとに発せられている。すなわち敵と見なした者は殺すと。
 それが由恵には許せない。
「敵ってなんですか! どうして高志君が殺されないといけないんです!」
 気がつけば由恵は叫んでいた。
 松江公昭が、一ノ瀬雫那が、兵士たちが由恵を見る。
 しかし三島だけが見ない。
 三島は左手に持っていた無線機に呼びかける。
「こちらホテル。突入した分隊は状況を報告せよ」
 次々と答えが返ってくる。
「ブラヴォー01からホテルへ、一階で待機中です」
「こちらチャーリー01、三階へ登っています」
「アルファ02です! 現在、二階にて交戦中! 分隊長は負傷!」
 三島が新たな命令を伝える。
「アルファ分隊は後退。ブラヴォー分隊はアルファを援護せよ。チャーリー分隊、階段の上下からブラヴォーと挟み込め」
「こちらシエラ08。目標を射線に捉えています」と別の声が割り込んできた。「射撃許可を!」
「駄目だ。味方に当たる。シエラ各員は目標が屋外に出た場合のみ射撃せよ」
 そこで三島がようやく由恵に向く。
「敵とは何か」と三島は定義する。「この社会を維持してゆくために邪魔になる者。それが我々の敵だ。その者の善悪など問うてはいない」
「あの子が何をしたって言うの? あの子は何もしていないでしょう!」
「今はまだ」と三島は表情を変えずに応じる。「例えば猛獣が檻から逃げれば射殺されるのと同じ。その猛獣が悪だから殺すのではない。害だから殺すのだ。我々の職務とはそのようなものと理解していい」
 ほどなくして校舎の二階から煙が漏れ出る。
 火事ではなさそうだ。
 もしかすると煙幕なのだろうか。
 あそこに今川高志がいる。
 そう確信した由恵は、衝動的に走り出そうとし、誰かに腕をつかまれた。振り返ると、腕をつかんだのは髪の長い少女だった。確か、一ノ瀬雫那と言ったか。
 これまでほとんど口を利かなかった彼女が初めて自分の意思を示す。
「行っては……駄目、です……」
「放して!」
 由恵は彼女の腕を振り払う。
 校舎の入り口に向かって由恵は駆ける。
 この秘密警察のような連中は人々の知らないところで処刑をくり返していたのかもしれない。病床で日に日に弱ってゆく弟の姿がよみがえる。由恵は叫びたい。あの子は殺させない。今度こそ守ってみせる。



 倒しても倒しても兵隊たちは次々と現れる。
 終わりがない。
 今川高志はいら立ちのあまり壁を叩く。コンクリートの壁に亀裂が走る。この怪力であれば勝てると思っていた。だが実際に戦ってみると勝手が違う。兵隊たちの狡猾なことと言ったらない。短機関銃に取り付けた懐中電灯で目潰しを仕かけたり、煙幕を張っている間に逃げたりと、巧みに距離をとる。その上、銃声がほとんどしないので、どこから撃ってきたのか一瞬判断に迷う。馴染み深いはずの小学校の中で鬼ごっこをしているのに自分の方が不利に立たされている。
 外に逃げようかとも思った。
 しかし外に出た途端、あの強力な銃であちこちから撃ってくる。
 逃げ場はない。
 階段の踊り場に追い込まれ、上と下から挟み撃ちにされている。銃弾が当たるたびに体の中で断片化して内臓を引き裂いてゆく。みなぎっていた活力が徐々に衰えていった。体中の血を流してしまった気がする。体にうまく力が入らない。もう限界に近づいているのが高志自身にも分かる。限界に達した時、自分は死ぬ。これでは殺されるために外に出たようなもの。
 高志は心の中で影に呼びかける。
「君は僕に力をくれたんじゃなかったの?」
「そのとおり」
「でも僕はいつまで戦わなくちゃいけないんだろう」
「敵を全て排除するまで」
「敵って誰?」
「生きてゆくことを邪魔する者は全て敵だ」
 影はいつも静かに語りかけてくる。
 その声の調子は変わらない。
 けれど、そこに憎悪が透けて見えるような気がした。
 だから高志は聞いてしまう。
「君は誰を憎んでいるの?」
「おまえは憎くはないのか」
「分からない」
 高志は正直に思ったままを打ち明ける。
 本当に分からなかった。
 いったい誰を憎んでいたのか思い出せない。もしかすると自分にとってもう重要なことではないのかもしれない。
 一つの心の中で二人が向き合う。
 影は問いを連ねる。
「おまえを地下室に閉じ込めていた人間が憎くはないのか。放っていた人間が憎くはないのか。そういった問題に関心を持たなかった人間が憎くはないのか。そのような人間ばかりで成り立つ世界の在り様が憎くはないのか」
「憎くないって言ったら嘘になるよ。でも、そんなに大事なことなのかな」
「大事ではないと?」
「僕は違うものが欲しくて外に出た気がする」
「私は許さない。私を傷つけたように、この世界に私という爪痕を残す。それだけを願い続けてきたのだから」
 高志の意思を無視して体が動く。
 影が肉体の主導権を奪う。
 一人でも多く殺めようと最後の力を振り絞る。
 階下へ突き進む。逃げることが上手な兵隊たちは代わる代わるに後退と射撃をくり返す。放たれる弾丸には切れ目がない。
 ロビーまでは降りることができた。
 ライトの光が高志の視界を焼く。
 何本もある柱の陰から兵隊たちが撃ってくる。
 影は力任せに腕を振るう。
 当たらなかった。
 吹き飛んだのはコンクリートの柱だけ。ライトのせいで相手との距離感が狂わされていた。影がそう気づいた時には兵隊たちは手の届かない距離にいる。
 白く染まった視界の中に新たな人物が現れた。
 兵隊ではないようだ。
 ほっそりとした体の線が見て取れる。
 その人は息を切らしながら叫ぶ。
「高志君? 高志君なの?」
 なおも影は主導権を放さない。
 無防備なその人に襲いかかる。
 右腕が振り下ろされた。
 どす黒い血がその人の顔を染める。
「僕は先生の声が聞きたかっただけなのかもしれない」
 左腕が右腕を切り落とす。
 高志と影の力関係が逆転する。先生が呼んでくれた瞬間、自分の名前は特別な響きを取り戻し、高志はみずからの体の自由を回復していた。
 影が初めて感情をあらわにする。
「何をしている、その女を食らえ。新しい命を取り込めばまだ戦える」
「ごめんね、僕の欲しいものは戦いじゃ手に入らないんだ」
「違う」と影は頭を激しく振る。「生きることは戦いだ。そうやって強い者が生き残ってゆく。私は負けたくない。もう傷つくのは嫌だ」
 影は一人、あの荒れ野に立ち、戦い続けるよう訴える。
 ふと高志は気づく。
 影の背は自分と同じくらい。
 高志が手を伸ばすと、影は身をすくめる。
 できるだけ、そっと高志はささやく。
「逃げないで」
 影に触れる。
 そこはちょうどほおに当たる部分。
 温かい。
 人の温もりが手から伝わってくる。
 高志は呼びかける。
「誰でもいつか負ける時が来るんだよ。誰よりも強くなりたい君はその時が来るのが怖いんだろうね。でも君が本当に欲しいものは強くなることじゃない。ただ誰かにそばにいて欲しいだけ。その確信が持てないから強さという安心が欲しいんだ」
 高志の手が濡れた。
 影は声を出さず泣いている。
 涙が黒い粘液を洗い流す。
 着物を着た少女は涙に濡れた顔で答えを求める。
「私は……私は、どうすれば良かった?」
「これからのことは二人で考えようよ」と高志は久しぶりに笑った気がした。「由恵先生が言ってた。一人ぼっちになった時は、新しい友達を作る時。失敗した時は、明日は違うことを試してみる時。僕もそう思う」
「もし明日が来ないとしたら?」と少女は不安げに見つめる。
「その時は、きっと誰かが代わりに昨日と違う明日を作ってくれる」
「私は怖い」
「僕も少し怖い。でも僕がいなくなっても僕のことを覚えてくれる人がいる。だから君よりは怖くないかな」
 高志は自分のいなくなった世界での希望を語る。
 自信もなければ確信もない。
 そんなものがなくても信じられるのは何故だろう。
 鉛色の空に走る亀裂。
 少女の作り出した心象世界が崩壊する。
 ガラスのように細やかな破片が輝きながら二人に降り注ぐ。
 二人は手をつないで壊れてゆく世界を眺めた。



 追いかけた公昭がロビーに通された時には戦闘は終わっていた。
 兵部員たちの中心に鬼人体が倒れている。
 その横で、ぺたりと座り込んだまま泣いている斉木由恵を見つけた。
 公昭は兵部員たちの間を抜け、
「怪我はありませんか」と斉木由恵に声をかける。
「私は、また救えなかった」
「貴方はできる限りのことをしたと思います」
「違う!」と斉木由恵は否定する。「私はこの子が倒れた時、ほっとしてしまった! この子は私を守ってくれたのに私は自分のことしか考えなかった!」斉木由恵はさらに自分を責める。「私には涙を流す資格なんてない。なのに、どうして涙が止まらないの……?」
「俺は、貴方のような先生に恵まれて彼は幸せだったと思います」
「幸せ?」と斉木由恵は顔を上げる。
「おそらく多くの人は彼は不幸だと言うでしょう。しかし俺にはそうではない気がします。こんなにも心を痛めてくれる人がいるのなら、その人の一生は不幸ではないと思いたいんです」
 その人を喪失した痛みが風化することなく残るとしたら、その人はまだ存在していると言えるのではないか。
 少なくとも心の中で。
 公昭にはそのように思えてならない。
 あるいは、そう思いたいのかもしれないと公昭はみずからを振り返る。遠くない将来、自分は死ぬ。その時、誰にも悲しんで欲しくないと思う一方、誰かの心にいつまでも留まっていたいとも思う。本当に自分は欲深い人間だと公昭は改めて自覚する。いくつもの矛盾した思いが交錯している。今川高志はどうだったのだろう。言葉を交わす機会はついになかったが、今川高志なら斉木由恵の抱える矛盾をそのままに受け入れてくれるような気がする。
 まだ夜は寒い。
 公昭は自分の上着を、着の身着のままの斉木由恵の肩にかけ、彼女が立ち上がるのを待った。

■七月六日/木曜日

 日が替わり、ようやく阿木直哉が帰宅するとリビングに明かりが点いていた。
 まだ雫那は起きていたらしい。
 靴を脱いでいる直哉の前に、ティーシャツとスパッツという格好で雫那が迎える。
「ただいま」
「……おかえり」
 と答え、雫那はまたリビングに戻る。
 直哉もリビングに向かう。
 リビングの机には文庫本が置いてあった。
 その文庫本を雫那はソファに座って読む。
 直哉もその横に座ってネクタイをゆるめる。
「何を読んでいるんだ?」
「芥川龍之介」
 ぶっきらぼうに答えたきり雫那は黙々とページをめくる。
 直哉はそれ以上は尋ねず、邪魔しないことにした。この時間まで起きていたのには何か理由があるような気がする。神的事件があったことと関係があるのかもしれない。見たところ、雫那の体におかしな点はない。では何だろう、と直哉は思いを巡らす。読書家の雫那は、部屋にある本棚には五十音順に本が整然と並んでおり、いつでも読みたい本が見つかるようになっている。
 そうして同じ本を何度も読み返す。
 直哉もよく本を借りる。
 一ノ瀬雫那という少女は幼い頃から感情を見せたがらない子だった。
 だから直哉は同じ本を読むことで少しでも彼女を知ろうと努力した。
 努力を努力と感じなくなったのはいつの頃だったろうか。
 同じ本を読むことで、同じ世界を旅し、同じ仲間と出会い、同じ時間を過ごす。もともと読書は嫌いではなかったが、忙しない生活の中でも新鮮な気持ちで楽しめるのは彼女のおかげだろう。
 いつしか直哉は雫那の一つの習性を見つけた。
 彼女は、悲しい気持ちの時は悲しい本を読み、楽しい気持ちの時は楽しい本を読む。
 すると芥川龍之介の場合はどうなるか。
 芥川龍之介は直哉も子供の頃に読んだことがあった。しかし月日が経ってから読み返すと、また違った印象に映る。
 やがて雫那が感想を漏らす。
「お釈迦さまって勝手……」
「それは何の話?」
「蜘蛛の糸」
 と雫那が本に目を落としたまま答える。
 それは芥川龍之介の残した短編小説の一つ。
 地獄で苦しむ罪人の一人にカンダタという盗賊がいた。彼は生前、多くの悪事をなしたが、たった一度だけ蜘蛛を踏み殺すことを思いとどまり、その命を救う。地獄を眺めていたお釈迦さまはその一事をもってカンダタを極楽に迎えることにし、蜘蛛の糸を垂らす。カンダタはすがるような思いで糸を登る。その途中、ふとカンダタが下を見れば、他の罪人たちも登っているではないか。このままでは重さに耐えられずに糸は切れてしまうかもしれない。それを恐れたカンダタは自分だけが助かろうと思い「降りろ」とわめく。次の瞬間、糸が切れ、他の罪人もろともカンダタは再び地獄へ落ちていった。
 直哉は話の筋を思い出しながら聞く。
「お釈迦さまのどのあたりが?」
「助けるなら……カンダタだけじゃなく全員にすればいいのに。一人だけ助けようとするから争いが起こる」
「そうだな」
 と直哉はうなずく。
 つい雫那らしい指摘だと苦笑してしまう。
 鋭いところを見ていると思う。
「ねえ」と雫那が顔を向ける。「もしカンダタが下にいる全員を助けようとしたら糸は切れなかったの?」
「どうなんだろう」と直哉は考える。「もしカンダタがそういう優しさを持っていたら、そこはもう地獄とは言えないのかもな」
「どういう、こと……?」
「地獄は欲深い罪人がいるから地獄なんだろ。でも人を思う優しさがあれば地獄も違う世界になるんじゃないか。お釈迦さまには悪いけど、人間に寄り添うのは人間の仕事だよ」
「……」
「つまりさ」と直哉は雫那の耳元でささやく。「俺はどこにも行かないってことだよ。ずっとおまえのそばにいる。それとも俺が一人で極楽に行っちゃうと思った?」
「……」
 雫那は無言で本を置くとクッションで直哉を叩く。
 ぼすんぼすん。
 ひときしり叩いた後、雫那はクッションを放り出して、自室へ行ってしまう。
 やれやれ、と直哉はクッションを拾い、久しぶりに蜘蛛の糸を読み返すことにした。

■七月七日/金曜日

 いつもの通学路の景色が続いている。
 と思いきや、橋のあたりが騒ぎになっていた。
 生徒たちが口々に何かを叫んでいる。
 皆、川面に指差す。 
 公昭が目をやると波間に揺れるダンボール箱があった。そこから不安そうな目をした子犬が顔を出す。激しい水流にもまれて段ボール箱は今にも沈みそう。公昭は手すりから身を乗り出して高さを確認する。飛び込むべきかどうか。あるいは下流に回り込むべきだろうか。
 迷う公昭の背後で叫ぶ声がとどろく。
「遅いっ!」
 振り返れば校長先生が仁王立ちしているではないか。
 すでに身に着けているものをほぼ全て脱ぎ捨ててあった。
 意外にも筋肉質な体つきをしている。
「一瞬の迷いが! 助けられる命を奪ってしまうのです!」
 とうっ、という叫びとともに校長先生は川に飛び込む。
 急流もなんのその。無事に犬を助けて校長先生が対岸へたどり着いた。登校中の生徒たちから歓声が沸く。一人公昭は冷静に校長先生の一部分に目を注ぐ。あるべきものがない。ふと川面に目をやると黒い藻のようなものが浮沈をくり返しながら流されていた。
 生徒の一人が指摘する。
「校長先生! 校長先生の、その、一部が流されています!」
「なんですと!」
 校長先生は再び川へ身を躍らせる。
 それは激しい水流にもまれながら速度を増す。
 校長先生も負けてはいない。猛烈な勢いで追う。追いつ追われつ二つの物体は遠くへと行ってしまった。やがて見えなくなる。この場合どこへ連絡すべきなのだろう、と公昭は悩む。
 公昭の腕の中で子犬がくぅんと鳴いた。

「……ということがあってな」
 教室に着いた公昭はこのように今朝の出来事を語った。
 聞いていた真幸におどろいた様子はない。
 周知のことだったと見える。
 それも当然のこと。この学校では、ほとんどの生徒がそうした事件や出来事に敏で、にぎやかな会話が絶えない。
 真幸が聞いてくる。
「それで子犬はどうすんの? あと校長先生はどうなったんだろ?」
「待て」と公昭がただす。「校長の先に犬の心配か?」
「だってさー」と真幸はけらけらと笑う。「校長先生なら大丈夫そうだもんなー」
「そうかもしれないが」
 と公昭はつい認めてしまう。
 確かに公昭もそのような印象を持っていた。実際、校長先生は少し遅れて学校に着いている。聞いたところでは、今は子犬の飼い主を探すビラを作っているとか何とか。いかにもありそうな話だった。今も校長先生は手書きでビラを書いているのだろうか。その様子を想像して公昭の心が少しやわらぐ。文字通り全身全霊で生徒たちにぶつかってくる校長先生のことは嫌いではなかった。
 つい公昭は心のうちを漏らす。
「救った以上は責任を持つということなのか……」
「ん? なに?」
 と真幸は耳ざとく公昭の独白に反応する。
 公昭は懸念を明かす。
 つまりだ、と公昭は思うところを述べる。
「命を救っておきながら放っておくのは無責任だろう。まだ小さい犬には保護が必要だ。校長は俺たちにそのことを教えようとしているのかもしれない」
「それ、好意的に考え過ぎ」
 と真幸はまたも笑い出す。
 つられて公昭も苦笑いを浮かべる。少し思考が先走り過ぎたのかも知れない。
 そのように内省していると、不意に校内放送が始まった。
「八重樫明だ」と声は告げる。「小野寺真幸、松江公昭の両名は今すぐ職員室へ出頭するように」
 公昭と真幸が顔を見合わせる。
 真幸が首をひねって、
「俺、何かしたっけ?」と聞いてきた。
「それを俺に聞かれても知らんぞ。ちなみに俺は潔白だ。となると……」
 と公昭が真幸を見やる。
 クラスメイトたちが一斉に真幸を指差した。
 一瞬にしてクラス内における判決が下る。
「黒!」
「なんでだよぉっ」
 と真幸の嘆きが響く。

 八重樫先生は禁煙パイポを口にしながら決定事項であるかのように言い渡す。
「小野寺、松江、おまえたちに課題を与える」
「何ですか、突然?」と真幸。
「ここ数日」と八重樫先生はパイポをくゆらす。「一ノ瀬の立ち振る舞いを観察していた結果、何かしら武道に心得があると確信した。つーか、心得なんてものじゃない、スケバン並だな」
「歳ばれますよ」
「殴るぞ」
 ごちん。
 小野寺の頭に鉄拳が振り下ろされた。
 そのやり取りは事前に打ち合わせをしていたかのよう。
 殴る方も殴られる方も息がぴったり合っている。
「先生」と公昭は冷ややかに指摘する。「言葉は正確に使ってください。殴るぞ、ではなく殴ったぞと」
「いってー」
 と真幸は頭を抑える。
 毎度のことなので誰も気にしていない。
 改めて公昭は用件をうかがった。
「それで俺たちを呼び出した理由というのは何でしょう?」
「おまえたちは一ノ瀬が剣道部に入るよう働きかけろ。他の部が注目する前にな。早めに唾つける」
 公昭も真幸も押し黙る。
「……」
「……」
「なんだ、何か問題があるのか?」
「いえ、俺らはそこまで一ノ瀬さんと分かり合えてるわけじゃないんですけど、一ノ瀬さんってみんなと汗を流すとか言う性格じゃないってのが第一印象で」
 と真幸は転入したばかりのクラスメイトについて語る。
 的を得ていると公昭は思う。
 小野寺真幸という人間は意外なところで聡明さを感じさせる。
 公昭も、
「俺も同感です。それどころか小野寺たちの弁当がなければ俺たちと食事をいっしょにすることもなかったと思います」
 と八重樫先生の腹案には否定的な向きを見せる。
 だが八重樫先生の考えは変わらない。
「物で釣れるってことは隙があるってことだ。いざとなったらおまえたちの体で釣れ」
「それが教師の言葉ですか」
 と公昭はため息をつく。
 この人がどうして教師になったのか分からなくなる時がある。
 例えば今日もそう。
 真幸があわてる。
「しかも普通、立場が逆でしょ! それに俺と一ノ瀬さんが……色、仕かけ……」
「おーおー思春期は見ていて楽しいな。じゃあ、よろしくな」
 語るべきを語った、とばかりに八重樫先生は職員室を出てゆく。
 あとに残された二人は顔を見合わせる。
 公昭としては、
「言いたい放題で行ってしまったか。だいたい俺が含まれているのはどういうわけだ?」
 いい迷惑だった。
 そもそも自分は剣道部ではない。
 ぽん、と真幸は公昭の肩を叩く。
「ふぅ、もう諦めろ。俺とおまえは一蓮托生だ。それに一ノ瀬さんと比較的つるんでるっていう意味での人選だろーな。八重樫先生が俺らに任せるってことは俺らが思っている以上に望みがあるはず、だといいな」
「おまえのそういう希望的観測は嫌いじゃない。分かった、俺も手伝おう」
 八重樫先生に小野寺真幸が信頼を寄せるには理由がある。
 もともと真幸は数学が最も苦手な教科だったが、八重樫先生から数学を教わってゆくうちに数学に対する気持ちが変化したのだとか。今では上位陣に食い込むまでに至っている。

 きっかけは平凡な問い。
「数学って何の役に立つんですか?」
 それは、子供の多くが疑問に思い、大人の多くが答えを出さないままでいる命題。
 八重樫先生は逃げることなく真っ向から受け止める。
「長い話になるが、良いか?」
「ええ、まぁ」
「その疑問の答えは、数学者とはどんな人間か、ということを考えてみるのがいい」
「どんな人間って言われても想像できないんですけど」
「数学者は時として、自分が生きているうちにたどり着けない答えを求める。もちろん、たどり着けないことを承知で、だ」
「はぁ、そういうもんなんですか」
 理解できない生き方であることは間違いない。
 真幸自身、そんな生き方を強要されたら反発しているだろう。
 ところが数学者とやらは自分から進んでそうした生き方を選んだらしい。
 ますます分からなくなる。
 八重樫先生の説明が続く。
「しかし彼らの一歩が後の世代に受け継がれ、いずれ完成する。例えばコンピュータがそうだ。理論的にはずっと前から発明されていた。ただ、それを実現するための部品が作れるようになるまで待たなければならなかった、というだけでな」
「……」
「私はそんな生き方を知って馬鹿馬鹿しいと思った。ただし馬鹿にも二種類いる。単なる馬鹿と、見ていて気持ちのいい馬鹿だ。たいていの子供は賢い大人になる。自分の得にならないことはしない大人に、な。見ていて気持ちいい馬鹿は昨今そうはいない。おまえがどんな大人になるか。それはおまえが決めることだが。これで質問に答えたことになるか?」
「……はい」
「そう難しく考えるな。というか、おまえくらいの年齢で私がそれなりに悩んでたどり着いた答えに納得されるのも可愛げがない」
「可愛げって……」
 こちらは真剣に聞いているのに。
 と言ったところで八重樫先生には通じないだろう。
 八重樫先生は含みのある笑みを浮かべる。
「いいからおまえらみたいな子供は適当に遊んで、ふと将来に不安になったら私らに相談しにこい。残業にならない範囲で相手してやるよ」
「……不良教師」
 真幸はそう悪態をつくしかなかった。



 体育の授業はどうにもやる気にならない。
 全般的に運動が苦手な小野寺真琴にとって体育はもっとも憂うつな時間と言える。
 憂うつなのには他にも理由があった。
 更衣室で着替えをしながら真琴はつい雫那に目が行ってしまう。雫那のスタイルの良さに、真琴の口からため息が漏れる。
 特に、胸の大きさに。
「雫那さん、やっぱりすごいね……」
「ただの脂肪の塊ですよ、こんなもの」
「……」
 真琴はとっさに言葉が出なかった。
 空気が凍りついたかのように更衣室の中のざわめきが止む。
 浮き世離れした口調で雫那が問う。
「どうしました?」
「ううん、ちょっと格差について考えただけ。あはは」
 着替えが終わった。
 雫那はスパッツに丈の長いティーシャツ。
 つい真琴は言わずにはおれない。
「雫那さん、恥ずかしくないの?」
「なんのことです?」
「だから、その、スパッツだとお尻のラインとかいろいろ見えちゃうよ?」
「服を着ていますし、別に下着を見られているわけでもないですから。それに涼しくて動きやすいですよ」
「そ、そうなんだ……」
「水着に比べれば問題にならないでしょう。布地面積は圧倒的にこちらが上ですよ」
「それはちょっと違うって言うか……うー」
 くもり空の今日は体育館で球技をすることになった。
 男子はとなりのコートに集まっている。
 その体育館に小野寺真琴の抗議する叫びが続く。
「っい! 痛! 無理! 無理だってば!」
「これくらい……当然、です……」かまわず雫那はぐいぐいと押し込む。
「裂ける! 裂けちゃうよ!」
 地獄のような柔軟体操から解放された頃には真琴はすでに体力を使い切っていた。
 まだ体育の授業は始まったばかりだと言うのに。
 次は真琴の番。
 ふっふっふ、と真琴は笑みを浮かべながら雫那の背後に回る。ところが雫那は真琴が押すのを待たず、ほとんど水平に足を広げて前屈の姿勢になるやいなや、ぺたりと胸を床に着けてしまった。周りの女子たちがどよめく。
 となりのコートで柔軟体操をしていた男子たちからも、
「うわ」
「すげー」
 などという声が聞こえてくる。
 ただし、その感想がどこから来るのかは女子たちとは大いに異なるだろう。
 女子たちがささやき合う。
「男子、やらしー」
「小野寺ってさ、目つきがもう駄目だよね」
 またしても兄の株価が下がったことに真琴は内心ため息をつく。
 バスケットボールはゴール下が乱戦になりやすい。敵味方が入り乱れる。せっかくボールを渡されたものの、真琴は複数の敵に囲まれ、動くに動けない。
 わずかに開いた隙間から一ノ瀬雫那の姿が見えた。
「パス!」
 ボールを受け取った雫那に素早く敵がマーク。
 雫那はそれまで積極的な動きを見せていなかった。
 パスか、シュートか、そのどちらかだろう。真琴はそう思った。おそらく雫那をマークした敵もそう考えていただろう。雫那がボールをかまえる。シュートする、と思いきや雫那はドリブルで敵の横を走り抜けた。
 隙を突かれた。
「フェイント?」
 そのまま雫那がシュート。
 きれいに決まった。
 敵も味方も意表を突かれた形。
 雫那のシュートは、動きも鋭かったが、どこで積極的な攻めに転じるかという見極めも確か。
 やる気がなさそうなのはいかにも彼女らしかったのだけど。



 昼休みはいつもどおり。
 小野寺兄妹、松江公昭、一ノ瀬雫那の四人で机を囲んで昼ごはんを食べる。
 目下の話題は今朝の小野寺家での出来事。

 母の琴子は家事のほとんどを子供たちに任せきり。
 ところが今朝は珍しく早く起きてきた。
 開口一番、夢で見た最高のギャグを忘れてしまった、と叫ぶ。
「……」
「……」
 兄妹は何事もなかったように弁当作りを続けた。
「ほんとに最高だったんだから!」
「そーですか」
 と、真幸はいかにも興味がなさそうに応対する。
 その応対も慣れたもの。
 母の言動にいちいち反応していては疲れるだけだ。
「何そのリアクション! あんただって爆笑してたじゃない!」
「夢の中で、だろ」

 話を聞き終わって公昭が評する。
「相変わらずにぎやかだな」
 公昭からすればうらやましい限りだった。
 公昭は家では基本的に一人で食事をしている。
 今では慣れた行為。
 そう、公昭にとって家での食事とは行為でしかない。何気ない雑談が相手を知ることにつながったり、嫌いなものは徹底的に避ける人物だと分かったり、と食事は食べる以外の意味が多い。しかし一人の食事では何も得られない。単に栄養を摂取するだけの行為。だから、こうしていっしょに弁当を食べる時間が貴重に思えるのだ。この時間を提供してくれる小野寺たちには感謝しているくらいだ。
 雫那が感想を述べる。
「小野寺さんの家ではお二人が料理を作っているんですね……道理で、美味しいわけです」
「一ノ瀬さんのところはどうなの?」
「……」
 一ノ瀬雫那は沈黙を守る。
 私生活に関して彼女は徹底して秘匿性を保つ。
 真琴はすぐに察する。
「あ、ごめんね」
「いえ、別に……」
 雫那は黙々とはしを運ぶ。
 場の雰囲気が悪くなったと見たのか真幸は話題を変えてくる。
 矛先となったのは公昭の家庭事情だ。
「公昭、おまえんとこはお手伝いさんが作ってるんだよな」
「ん、ああ、そうだが」
「弁当も作ってもらったらどうだ?」
「そこまでやってもらうのも悪いような気がしてな。それに購買もある」
 南高では学校内に購買部がある。
 もちろん人気のパンの争奪戦は熾烈。
 公昭は通好みのパンを買う。
 争奪戦の終わった後なので余裕をもって買うことができる。ちなみに今日のパンは味噌パン。
 珍しく雫那が興味を示す。
「お手伝い……?」
「そうそう。公昭君の家ってすごく広くて、お手伝いさんがいるの。メイドさんだよ、メイドさん」
「メイド……?」
 と雫那は小首をかしげる。
 得意げに真琴はろくでもない知識を伝道する。
「知らない? 家事とか手伝ってくれる女の子のこと」
「俺は知らなかった」と公昭。
「このぜいたく者っ」
 と真幸は合いの手をすかさず入れるのだった。



 屋敷に戻ると、その日の疲れが一気に襲ってきた。
「登校するのは控えた方がよろしいのでは?」
 と、自重を促したのは先々代から松江家に仕える杉浦だった。
 深いしわが刻まれているのは年齢からだけではない。自分のことを案じているせいも多分にあるのかもしれない、と思うと公昭はすまない気持ちになる。
 公昭が生まれる前に、先々代にあたる祖父は亡くなってしまっている。
 そのせいか公昭にとって杉浦は祖父のように近しい存在に感じられる。
 また、杉浦の方も公昭のことを孫のように思ってくれているようだ。
 ありがたい、と公昭はいつも感謝している。
 しかし公昭は、この忠言には納得しかねるのだった。
「確かにそうですが……」
 言葉を続けようとして公昭はふと思った。
 何故、自分は学校に登校することにこだわるのだろう。
 冷静に考えれば、自宅で休養を取った方が体への負担は少ない。公昭の体は、日に日に衰えており、今も軽い目眩がある。それでも公昭は無理を通して学校へ通い続けている。
 学校に何があるのか。
 考えるまでもない。
 どこにでもある取り立てて珍しくもない日常だ。
 杉浦は諦めたように引き下がる。
「強情なのは先代さま譲りですね」
「え?」
「公昭さまの気質は先代さまの若い頃によく似ておられます」
「父に……」
 そこで公昭は黙考する。
 外見が母の佐和(さわ)に似ている、とはよく言われる。
 だが、父に似ていると言われたのは初めてのことで、公昭は少し戸惑いを覚える。父も若い頃には無理を重ねることもあったのだろうか、と公昭は想い起こす。警手として父がどのような戦いを行ってきたのか公昭は知らされていない。できれば知りたい。知ったところで過去は変わらない。公昭の関心はこれからの出来事に集中している。未熟だった頃の父の様子を知れば何か役に立つことがあるかもしれない。そう思うだけだ。
 父や母に問うたことは何度もある。
 しかし、いつもはぐらかされるばかりで、二人はそのまま亡くなってしまった。
 では杉浦の場合はどうか。
 杉浦も似たような言い様で明言するのを避けるのだった。
「先代さまは先代さま、公昭さまは公昭さま。ご自身の戦いを存分になさいませ」
 筋は通っている。
 父は父。
 己は己。
 反論の余地がないほど明白な事実だ。
 しかし、公昭の問いは単なる感慨だけから発せられたものではない。
 かつて父がどのように戦ってきたのか。そこから今の戦いに活かそうと思ってのこと。
 もう一押ししてみるかと公昭が口を開きかけた時、
「?」
 胸に違和感を覚える。
 心臓に棘(とげ)が刺さっているような、奇妙な感覚。
 痛みはすぐに治まる。
 これまでにも胸に痛みが走ることはあった。しかし、今回の痛みはそれとは異なる気がする。ひどくはないが、棘が刺さっている感覚は残ったまま。
 痛痒とでも言ったらいいだろうか。耐えられないほどではない。
 疎ましい気持ちのまま公昭は夜の巡回に出かけた。
 けれども、この日は空振り。
 早々に切り上げて明日に備えることにする。

■七月八日/土曜日

 今日は土曜日。
 半日で授業が終わるとあってどこか開放感がある。
 授業が終わると小野寺真幸が声をかけてきた。
「部活、見学してく?」
「いや……」と公昭は言葉をにごす。「今日は止めておこう」
 今日は誰かと出会う気がする。
 そんな予感があったのかもしれない。
 家路をまっすぐ進む。
 途中、高台を登ることにした。
 少し息が上がってきた。どうも最近、体調が良くない。特に早足だったわけではない。いつもと同じ速さで歩いていたはずなのに疲れている。この不調はどういうことなのだろう。
 にもかかわらず、そんな気持ちは風とともに吹き飛んでしまった。
 街が一望できる高台にあの少女がいた。
 少女は二度目とは思えないやわらいだ表情を浮かべる。
「こんにちは。今日は早いんだね」
「ああ、今日は土曜日だから」
 まるで予定通りの出来事だったように二人は語る。
 この出会いはまったくの偶然。
 だと言うのに、
「不思議だな、意外な気がしない」
「そうだね」と少女も公昭に同調する。「私もそんな感じ」
 公昭は運命論を好まない。
 運命とは人が変転するもの。
 勝利とは人が招来するもの。
 そう固く信じてきた。
 それなのに違和感がない。人と人との出会いだけは偶然ではないのだろうか。出会った瞬間に偶然は必然へ意味を変えるとでも言うかのように。
 少女はごく自然に言葉をつむぐ。
「ここに来ればまた会えるような気がしてたんだ。まだ自己紹介もしていなかったね。私は夏目るい。お兄さんは?」
「俺は松江公昭」
「私のことはるいでいいよ」
「公昭でいい」
「お互い呼び捨てだね」とるいと名乗った少女が小さな喜びを見つけたように笑う。「話をしてみたかったの。時間はある?」
 そう誘われて公昭は腕時計を確認する。
 まだ日没まで間がある。
 公昭には、どうして自分に興味があるのか思いあたる節はないが、何故か断ろうという気にはならない。
 土曜日ということもあって、まだ日没まで十分に時間がある。
「ああ、日が落ちるまでなら大丈夫だ」
「良かった。じゃあ、行こっか」
「どこに?」
「まずは服かな。お気に入りの洋服が駄目になっちゃったから」
「洋服か……」
 どこへ向かったものかと公昭は思案する。
 そういった店には縁がない。となると、様々な店が集まるショッピングモールではどうだろうか。と公昭は言うだけ言ってみる。あまり名案とは思えないが、そこ以外に良い場所が浮かばなかった。それがいいね、と少女も同意する。そんなにあっさり決めていいのかという言葉が公昭ののど下から出かかる。しかしながら本人がそれでいいと言うのだから、まずはそこへ行ってみるのも良いかもしれない。
 二人は並んで歩き出す。
 少女の歩幅に合わせて公昭はゆっくり歩く。
 いつもより景色がはっきり見えているような気がして新鮮だ。
 自分は気づかないうちに早足になっていたのかもしれない。そのせいで見落としていたものもあっただろう。
 大きな道に出ると急に交通量が増してくる。国道は、街を南北につらぬき、その両側には多くの大型店舗が並ぶ。最近、そこに新たな大型店舗が加わった。ビジネスパークという通称で親しまれつつある。聞いたところによると、ここなら一日中いても退屈しないとか。確かに大きい。利用者は最大二千人を収容できる聞く。これだけ大きければ、さぞかし多くの店があるだろう。それらを見て回るだけで一日が終わってしまうかもしれない。
 るいは、
「けっこう大きいんだね」
 と感心した様子だった。
 確かに、と公昭は再確認する。
 退屈することはなさそうだ。
 お姫様を護衛する騎士などは自分には似合いそうにないが、たまにはそういう役回りも悪くない。



 三島東吾は借り切ったオフィスの会議室に主だった兵部員たちを集める。
 一ノ瀬雫那も呼び出された。
 警手である松江公昭の姿は見えない。
 三島東吾が現れる。今日もまた黒のスーツの上下。彼は誰かの喪に服するようにいつも黒い衣装を身に着ける。
 冷たい目が席に着いた全員を見渡す。
 一斉に、雫那を除いた全員が起立し、目礼する。
 軍隊でもなく警察でもない『クダン』では敬礼のようなものは用意されていない。そもそも兵部員になる者たちは男女いずれにせよ、以前は一般人であった場合がほとんどで、そんな彼らには敬礼というのは馴染みにくい。
 座れ、と三島が短く命じると兵部員たちは静かに席に着く。
 壁に備え付けられた大型モニターを背後に三島が立つ。
 モニターに一人の少女の姿が映し出された。
「この少女が包囲の中こつ然と現れたのは周知のとおり」
 と三島は淡々とした声で説明を始めた。
 暗い上に粗さが目につく。遠くから撮影したものを拡大したようだ。
 三島の説明が続く。
「戦闘後、この少女を死体を回収しようとしたが、どこにも見当たらなかった。小学校周辺はまだ包囲していた。誰かが少女の死体を運び出したのか、自分で歩いて出て行ったのか、いずれにせよ誰にも気づかれずに脱出できるとは常識的には考えにくい。おそらく常識外の何かが起きたのだろう。そこで画像を照会したところ答えが返ってきた」
 モニターの画像が変わる。
 そこに映し出されたのは先ほどの少女。
 今度の画は鮮明だった。
「姓名は夏目るい。彼女の霊障はゼロ使いと同じ奪命者だ」
 ざわめきが起こった。
 兵部員たちの顔が一ノ瀬雫那に向く。敵意のある眼差しも混ざっている。その心情はすでに了解済み。いつ敵に回るか分からない自分を仲間とはみなさないのだ、と雫那はあきらめてしまった。そのはずなのに棘が残ったように心が痛むのは何故だろう。痛みには慣れている。しかし、いまだ痛みが完全に鈍化する日は来ない。恐竜のように鈍感になれればいいのに、と雫那は思わずにはいられない。
 雫那は心に凍みこんで来る痛みに耐えて沈黙を守る。
「夏目るいは、父親の夏目貴一とともに国立療養所を脱走し、その際には警備に当たっていた刑部員(ぎょうぶいん)はおろか、他の利用者まで殺害した。
 全国に点在する国立療養所は霊障者を収容する監獄のような場所。
 自分も幼い頃、そこに閉じ込められていたから、どんな場所かよく理解できる。
 身障者とは、身体的障害のため社会的に自立できない人間を指す。
 霊障者とは、霊的障害のため社会的に適応できない人間を呼ぶ。
 霊的障害は霊能力と一般に思われている類い。強過ぎる霊能力は生きてゆくには苦痛でしかない。あるいは誰かを傷つけてしまうかも。だからこそ、この国はひそかに彼らを収容することにしている。霊障者たちは公式には存在しない。公に存在しない人間に人権がないとしても不思議ではないのだろう。少なくとも人々の心の死角にある場所ではどのような行為も黙認される。この不条理を憎んだ時期が雫那にもあった。だから剣を取った。自分の未来を自分自身の手で切り開くために。
 三島の説明がどこか遠くから聞こえてくる。
「この親子が、これまで逃走を続けてきたことを考えると、何かしら姿を隠す術式を用いているのかもしれない。そう仮定すれば神出鬼没な行動も説明できる。最も可能性の高い術式は隠身(かくれみ)だろう。これは、光学的に姿を消すのではなく、脳の認識を狂わせることで、見えているのに気づかない状態にする。ただし、暗視装置や監視カメラを誤魔化すことはできない。もう一つ。術者が攻撃する直前に見えるようになる点を忘れるな」
 どれほど優れた術者であっても、攻撃的な行動に移ると、狂っていた脳の認識は正常化してしまう。あらゆることに無関心な人間がいたとしても、自分を殺そうとする人間には無関心でいられないのかもしれないのだろうか。だとしたら不思議と言うほかにない。あるいは単に、羊の群れの中に狼が紛れ込むには無理があるのかもしれない。いつか化けの皮がはがれる。自分がそうだ、と雫那の思いは沈む。その日まで自分はおびえて暮らす者の心の在り様は同類にしか分からない。
 またも物思いに沈んだ雫那を現実に戻したのは三島の声だった。
「夏目親子が隠身を使っていると事前に分かっていれば対処のしようもある」
 監視カメラの画像は警察に集められ、そこで登録してある人物と照らし合わせ、特徴に近い人物を割り出す。
 ほぼ全ての国民の顔が登録済み。
 ところが、いまだ監視カメラの数は十分とは言えず、死角が多いのも事実。
 せっかくの照会システムも生かされているとは言い難い。
「では」と三島は兵部員の一人を指名する。「奪命者を攻撃するにあたっての概略を説明してみろ」
 直立する兵部員の答えにはよどみがない。
「奪命者は血を媒介として生命力を増してゆきます。その結果、殺しても死なないという事態が起こりうるのです。しかし致命傷を与え続ければ、いずれ生命力は尽き、人の形を維持できなくなります。肉塊となり、周りにある有機物も無機物も際限なく吸収して肥大化してゆく……この形態を『クダン』では水蛭子と名付けました」
「これを倒すには?」と三島。
「肉のどこかに中枢部分である極(きょく)があります。極は常にもう一つの極を求めており、つまり人間の誰かを欲しているのです。これを食わせれば水蛭子は増殖を止め二人の子供を生み出して活動停止に至ります。しかし水蛭子となった奪命者と意思疎通に成功した例はなく、水蛭子の求めているのがいったい誰なのか特定するのは困難です。攻撃するにあたって、この極にはやはり物理的攻撃が有効です。極をつらぬけば水蛭子を倒すことができます。しかし、厚い肉のどこに極があるのか発見するのは困難です。そこで広範囲に影響をおよぼす重火器の使用が最も適切であると思われます。また、重火器ではなく術式を用いて倒すことも可能であることはすでに実証されています――以上です」
「そのとおりだ。座れ」と三島は命じる。「今回の祭司者は夏目貴一もしくは娘のるいである可能性が極めて高い。今後はこの二人の捜索に全力を注ぐ」
 最後に三島は付け足す。
「なお松江公昭は自宅軟禁とする。私からは以上だ、何か質問のある者は?」
「一つ質問があります」と兵部員の一人が手を挙げる。「松江公昭についてですが、独断行為への処罰としては軽いのではないでしょうか?」
「すでに死を受け入れた人間に死を与えても罰にはならない。奴にとって最も辛いのは戦いの行方を何もできずに見ることだろう。加えて言うならば松江公昭はいずれ使い捨てる駒だ、どの局面で捨てるかは私が判断する」
 最後に、
「この神的事件を放っておけば三度目の大震災を引き起こすかもしれない。各員、心してかかれ。解散してよし」



 松江公昭と夏目るいが最初に入った建物は、上から見下ろせば十字型になっており、交点は吹き抜けにすることで、自然光をできる限り入るよう配慮されている。高さはなんと十二階。天窓から差し込む日差しが色鮮やかなタイルを照らす。一階のエントランスに並べられたベンチがちょっとした広場といった雰囲気をかもし出している。そのためか、おしこめられているという印象がまったくない。
 となりに立つ二つの建物は、多目的ホールとホテルだ。ホテルにはプールなどのレクリエーション施設も完備している聞く。加えてレストランもあれば映画館もある。互いに渡り廊下によってつないであるので雨に濡れずに行き来できるのも特徴の一つ。
 サービスは万全と言っていい。
 三つの建物を合わせてビジネスパークと呼ぶ。建物の中だけで一日を楽しめるという話に誇張はないようだ。
 公昭は屋内にいながら風を感じていることに気づいた。あたりを見回す。どこから吹いてくるのだろう。
 すると袖を引っ張って、
「ほら」
 と夏目るいが公昭に教えてくれた。
 類の指差す方向には一枚のプレートが壁にかけられてある。
 この施設についての概要が図入りで説明されていた。風は、地下駐車場や地上部分から空気を取り込み、それらを吹き抜けを通して上に流す。このように建物自体が呼吸するかのような仕組みになっているのだそうだ。森を感じてもらえるように、という設計者のコメントが加えてあった。なるほど、と公昭は了解する。居心地のよさはそのあたりに起因していたのかもしれない。
 ああ確かに、と公昭は納得する。ここは鎮守の森と多少の共通点があるようだ。

 女性店員が一人いるだけの小さな店に入った。
 るいは、次から次に服を替え、そのたびに公昭に感想を求めるのだった。
 まず灰色のワンピースを着たるいが出てくる。ニーソックスはふとももまで、長手袋は二の腕までの長さがある。どちらも黒で統一。
 思わず公昭はたしなめる。
「スカートが短すぎないか」
 スカートとニーソックスの間から白い肌がのぞく。
 もう少しで見えてしまいそうだ。
 るいも同意する。
「これはちょっと狙いすぎたかな」
「狙いすぎとは?」と公昭。
「違うのにしよ」
 と、るいが考え込む。
 かたわらに立つ女性店員が惜しむ。
「でも絶対領域は素敵ね」
「絶対領域?」
 と公昭は再び疑問を呈する。
 夏目るいと女性店員のやり取りがまったく分からない。
 確かなのは日本語という点だけ。
 そんな公昭をよそに女性店員が提案する。
「ゴスには興味ある?」
「んー着てみよっかな」
 と店員の申し出に応じてるいが個室へ戻る。
 しばらくしてるいが出てきた。
 黒い薄絹のレースを基本とし、その上に青紫のエプロンドレスという組み合わせだ。高いヒールのロングブーツも黒で合わせることで足がより長く見える。ふんだんにあつらえたレースも上品な雰囲気をかもし出す。
 女性店員が歓喜する。
「ロッカーね」
 次はアイボリーグレイのパーカーチェニックドレス。織り上げた綿麻の風合いをよく表現してある。着心地はふんわりと包むようでいて、すそをヒモでしぼってあるため、丸みのあるシルエットを楽しめる。ヒモでしばらずにストレートなワンピースにも演出できるのが面白い。下のショートパンツはスモーキーブラウン。カーキより少し淡い色合いが上と下の色のバランスを整えている。すらりと伸びた足がさらにきれいに見えるのは気のせいだろうか。
 女性店員は、
「もう最高! 素材がいいから何でも似合っちゃう!」
 と全身で喜びを表現する。
 公昭としては、これ以上の刺激はしたくなかったが、そんな思いとは裏腹に衣装選びはさらに進む。
 今度はニッカボッカーズだった。
 黒に近い灰色のニッカボッカーズはしもふり。すそを結ぶヒモが女の子らしい。さらに黒のブーツと合わせると面白い。ゆるやかなニッカボッカーズがすっきりと見えてくる。同じく黒で統一してあるタートルネックは体の細さがはっきりと見て取れるように薄手に。ニッカボッカーズで上品な可愛らしさを演出できるとは公昭には思いもよらなかった。
 このように次々と雰囲気の異なるるいを見ているのは飽きない。
 とは言え、衣装を変えるたびに意見を求められるのは公昭にはたまらない。
 苦痛というのではない。何かくすぐったい気分になって落ち着かないのだ。
 さらにるいはチョコレート色のフード付きコートを羽織ってみる。大人っぽさと可愛らしさはシンプルなデザインだからこそ両立するのかもしれない。雨の日のために用意してみるのも良いかもしれない。
 またも衣装が変わる。
 シルエットが個性的な灰色のパーカーを試してみる。全体の印象は、ふわっと風をはらんだかのよう。インナーのタンクトップはパーカーと一体化してある。斜めにしてある袖口によってふわりとした印象がさらに際立つ。
 るいは、
「これにしようかな」
 とようやく買うものを決めた。
 支払いを済ませてから店員が尋ねてくる。
「ここで着替えちゃう?」
「うん」
 とるいはまた更衣室へ向かう。
 公昭と女性店員が残された。
 女性店員は興味深そうに公昭に目をやる。
「どういう関係か聞いていい?」
 それは許可を求めるという形式の質問。
 しばし公昭は黙考する。
 どういう関係かと聞かれても困る。
 事実をありのままに告げることにした。
「知り合ったばかりです。会ったのは二回目になります」
「そうなの?」
「ええ」と公昭は強調する。
「てっきり付き合ってるのかと思ったわ」
「馬鹿なことを――」と公昭は大きくなりかけた声を抑える。「――言わないでください。年齢を考えれば分かるでしょう」
「あと何年かすればたいした違いもないでしょ?」
 今、自分は十七歳。
 彼女は十二歳前後。
 数年経てば、二十二歳と十七歳となる。
 確かにおかしくないかもしれない。
「しかし今は違います」
「あの子はそう思ってなさそうだけどね」
「……」
 公昭は黙り込む。
 このおせっかいな女性との会話を早く切り上げたかった。
 そこへ着替え終わったるいが出てくる。
 ほぅ、公昭の口から感嘆の声が漏れ出す。
 一度見たはずなのに新鮮さが失われないのは何故だろう。
 タンクトップにゆるく巻かれたストールが印象的な雰囲気をかもし出す。ストッキングは黒だが、上は暖色で統一してあるので、冷たい印象は受けない。むしろ、ふんわりとした感じがする。赤のパンプスがほどほどの個性を出す。これは確かに良い服かもしれない、と服装にうとい公昭もうなった。女性店員か、るい自身かは分からないが、色や服に対して鋭敏な感覚の持ち主らしい。

 店を出ると公昭は、るいにありがとうと礼を言われる。
 意外に公昭は戸惑いを隠せない。
「礼を言われるようなことはしていない」
「なんとなく」とるいは満足そう。「公昭は何か行きたいところはある?」
「そうだな」
 公昭は少し考えてみる。
 一つ思い当たる出来事があった。
 最近、夜に行動することが多い。時計を見るために携帯電話を取り出す動作がわずらわしいと思うことがしばしばあった。暗いところでも視認しやすい腕時計があれば便利だろう。アウトドア用品にそんなものがあると聞く。買うかどうかはともかくとして見て回るのも良い気がする。たまには買い物を楽しんでみるのも良い。加えて、るいのすすめもある。るいだけが買い物をするのは何となく彼女に悪い。
 公昭は珍しく希望を出す。
「どんな腕時計があるか見てみたい」
「よーし、じゃあ出発」
 と、るいは脱いだ服などを入れた紙袋に抱えて公昭をうながす。

 ベランダに置かれた長椅子に並んで昼食を食べることにした。
 日差しが暖かい。
 腕時計もあつかうアウトドアショップで目を引いたのは時計ではなくレーションだった。ベルギー製とある。店主によればベルギー製レーションは数ある軍用食品の中でも屈指の美味しさらしい。その大きさはちょっとしたカバン。重さは二キロもない。箱を開けるとメニュー表が二枚入っていた。
 どちらも英語ではないので公昭は困ってしまう。
「読める?」とるい。
「すまない」と公昭は率直に不勉強を認める。「まったく読めない。ベルギーは、オランダ語とフランス語とドイツ語を公用語にしている。国民のほとんどはオランダ語かフランス語を話すらしい。だから、この二枚はレーションの中身についてオランダ語とフランス語の両方で書いたものだと思う」
 地理の授業が少しは役に立った。
 ベルギーは、オランダ語、フランス語、ドイツ語を公用語とする。国民の大半がオランダ語かフランス語のどちらかを、あるいは両方を話す。ドイツ語は、公用語に含まれているが、使用人口は1%未満に過ぎない。となると、この二枚の紙はオランダ語とフランス語で中身について記してあるのだろう。という推測はできたが、まったく読めなかった。せめて英語であれば少しは読めたのだが、仕方なく、公昭は一つずつ箱から出してゆくことにする。
 一箱で一日分のようだ。つまり三食分。
 二人で分け合うなら1.5食となる。
 オードブルの缶は一つ。
 メインディッシュの入った缶は二つ。
 可笑しいのは菓子類が多いことだった。チョコレートは高カロリーなので登山家が持ってゆくと聞いたことがある。それだけでなく、糖分はストレスを和らげてくれるとか何とか。
 缶を開けてゆく。
 オードブルは魚介類をトマトソースで煮たもの。
 メインディッシュは、ワインで煮込んだ鳥肉と、プラムと肉のシチュー。
「私はこっち」
 と、るいは先んじてワイン煮の缶を取る。
 それでは、と公昭はプラムの缶にした。
 正直に言って食べたことがない料理だった。
 プラムだけなら見かけることが多い。不思議なことに、プラムと肉をいっしょに煮込んだ料理があるとは思いもよらなかった。プラムは甘くて汁が多い。そのままで、ジャムにして、どちらの方法でも食べられる。プラムの絞り汁からは果実酒ができるらしい。しかし、公昭はこれも飲んだことはない。
 プラムの果汁をたっぷり吸い込んだウサギの肉は濃厚な味わいだった。
 ビスケットやクラッカーに乗せて口に運んでみるのも良い。
 るいが興味深そうに尋ねてくる。
「そっちはどう? おいしい?」
「今まで食べたことのない味だ。食べてみるか?」
「うん」とるいはクラッカーに乗せて一口。「おいしい! 甘い!」
 さらに一言。
「ベルギーに行きたくなったかも」
「おおげさだな」
「でも、公昭だって少しはそう思うでしょう?」
「ああ少しは」
「次はどこへ行こっか」とるい。
「さて……」
「映画は……」
 とるいは壁に貼ってある予定表を見に行く。
 ×
 と腕で合図を送ってきた。
 公昭も腕で、
 ○
 と合図を返す。
 るいが戻ってくきて報告する。
「時間帯が合わないみたい。もう始まっているのがたくさん。それでも見る?」
「途中から見るのは気が進まないな」
「だよねー」とるいは提案する。「ネットカフェはどう? 映画も見れるよ?」
「そうなのか」
「たいていね」
 ネットカフェに入った公昭とるいは二人用を選ぶ。
「これこれ」とるいは映画のパッケージを手に取る。「これが見たかったの」
「じゃあ、これを借りよう」
「ね、こっちの方が時間的に余裕があるでしょ?」
「そうだな」
 早速パソコンで映画を再生する。
 目が悪いのかるいが身を寄せてくる。
 公昭がさらに奥へ。
 るいもさらに億へ。
 つい公昭はたしなめる。
「近すぎないか」
「そんなことないよ。ほら、始まるよ」

 そこは中世を思わせる暗黒世界。
 人間の領域はごくわずか。
 ほとんどの領域は未知かつ未踏。まだ開拓されていない秘境は数多い。忘れ去られた古代文明の遺跡もある。そして強大な力を持つ怪物たちが人間を脅かす。主人公たちはそんな世界を冒険するのだ。彼らはいわくありげな宝玉を手に入れた。宝玉を集めるよう依頼した人物は全ての宝玉がそろったところで目的の一端を打ち明ける。依頼者の目的はほんの小さなものだった。
 ある森の奥に古い砦がひっそりと立っている。
 砦の名前はデルヴァ。
 かつては魔法の力によって守られ、いかなる敵をも退けた難攻不落の砦だったと伝えられている。
 その魔法の力はすでに失われて久しく、砦は徹底的に盗掘され、今は誰も寄り付かない。
 依頼人はすでに、力の源になっていたのが宝玉であることを解明していた。あとは宝玉をデルヴァの砦に届けるのみ。だが若干、懸念がある。冒険者たちは最後の宝玉を手に入れる時に犯罪者たちと一悶着を起こしていた。報復のために殺し屋を送り込んでくることも考えられる。このまま街にいれば親しい友人たちを巻き込んでしまうかもしれない。そう考えた冒険者たちは宝玉を届けることにする。
 ところが少し目を離した隙を突くように何者かが依頼人を刺す。依頼人は幸い一命を取り留めたが意識が戻らない。冒険者たちは依頼人を安全なところへ入院させて自分たちだけで砦へ向かう。
 砦では怪物たちが冒険者たちを待ち受けていた。思わず身がまえてしまう冒険者たちだったが、怪物たちが皆おとなしいことに気づいて脱力する。あ然としている冒険者たちの前に美しい人間の女性が砦の奥から姿を見せる。彼女は、怪物たちの中で虐められていた個体や、親を失った幼い個体をひそかに引き取って育てていた。
 一つの信念が彼女にはある。
 怪物として生まれても人間として育てれば善良な心を宿すはずだ、と。
 しかし怪物というだけで殺そうとする人間は多い。そこで彼女と依頼人はデルヴァの砦を使うことにした。全ての宝玉を配置すれば、砦の周りにある森は迷路と化して誰も入ることができなくなる。
 ようやく迷宮化が可能となりかけた頃、砦に彼女の試みを知った軍人たちが攻め込んでくる。
 軍人たちはそのような試みを放置しておけば禍根になりかねないと断定。おとなしい怪物たちを皆殺しにしようとする。

 るいが意見を求めてくる。
「どっちが正しいのかな」
「どちらの意見も一理ある。だが相手の言い分もよく聞かずに武力で解決するのは俺は好きではない」
「でも楽だよ?」
「そうだな。楽なんだが、楽をしてはいけないこともあるように思う」
「ふぅん」とるいは試すように問う。「じゃあ公昭だったらどうする?」
「俺か」
「そう、公昭だったらどうするのかなって。殺しちゃう? 育てる? 無関心?」
「無関心は一番嫌だ。殺したくもない。できれば育てる手助けをしたい」
「そう」
 それきりるいは黙り込んだ。
 映画が終わり、外に出ることにする。外と言っても、ビジネスパーク内であることには変わりないが、空気は新鮮な気がする。
 不意にるいが振り返った。
「じゃあ最後の質問。外見は人間で中身は怪物っていう生き物がいたら、公昭は味方になってくれる?」
 どうして自分は今まで気づかなかったのかと公昭は思わずにいられなかった。
 この少女が人の形をした異物であることに。
 おそらく気配を消していたのだろう。
 公昭は以前にも同じ印象を持った人物がいる。ゼロ使い、一ノ瀬雫那だ。となれば夏目るいもまた一ノ瀬雫那と同じ霊障を持つと判断した方が妥当。今すぐ殺すべきだ。そんな不穏な考えが脳裏に浮かぶ。公昭の胸に埋め込まれた勾玉は決して魔を認めない。松江家における例では、魔と遭遇するたびに発作的に殺意を抱くこともあったと聞く。公昭は何とか自制できるので一般生活にも問題ない。それでも殺意自体は勾玉から湧き上がってくる。
 今はまだ耐えられる。
 その間に考えなければならないことがある。
 ここで戦うべきか。人々の込み合う雑踏での戦闘ともなれば、どれほどの人間を巻き込むか、予想もつかない。おそらく父の公則であれば間違いなく即座に戦うことを選ぶ。勾玉を本能とするような人だった。
 自分はああいう人間にはなれない。
 なってはいけないと言われた。
 ではどうすれば良いのだろう。逃げれば追ってくる、とは限らない。それに公昭は思うのだ。誰に甘いと言われようと説得の可能性に賭けてみたいと。つい先日、救えなかった少年がいる。だから思う。避けられる戦いなら避けたい。相手を降参させられるならなお良い。ただし、そのためにはやはり相手に事をよく知っておく必要がある。今日一日で果たして彼女の全てを理解できたかどうか。
 思考を中断するかのように携帯電話が鳴る。
 公昭の携帯電話だ。
「出たら?」とるい。
「なに?」
「携帯電話のこと。出たら?」
「……」公昭はるいから目を離さず携帯電話を取り出す「もしもし」
「公昭か」声の主は三島監査官だった。「おまえへの処分を言い渡す。屋敷にて次の命令を待て。それまでの一切の戦闘行為を禁ずる。何か質問は?」
「ありません」
 携帯電話が切れる。
 そこで公昭は気づいた。
 夏目るいの姿がない。
 周囲に目を走らす。
 群集の中にも彼女を見つけることができなかった。
 気がそれていたとしても一瞬のこと。その間に少女の姿はかき消えていた。異常事態を前に公昭の心はかえって静まる。目ではなく、全身という感覚器によって探す。
 まだ近くにいる。
 そんな確信があった。
 人込みの中へ分け入ろうとした公昭は後ろから呼び止められる。
 男と、
「松江公昭だな」
「いちいち答えなくていい。ただの確認だから」
 女はそんなやり取りを交わす。
 髪の短い女だった。肩のあたりでさっぱりと髪を切っているのが印象的だった。冷ややかな眼差しが鋭利な印象をさらに強める。男物の軍用コートを着ているのも一因かもしれない。期せずして、デザインは公昭のコートに近い。実際のところ公昭は、たいして軍事に興味はないのだが、機能性や保温性を追及すると軍用品に行き着いてしまうのだった。それで誤解されることもある。彼女の場合はどうだろう。兵部員の中に見た覚えのある顔だった。となると知識だけでなく経験から衣服を選んでいるのかもしれない。
 鋭利と言えば男も同じ。こちらは背が高いためか威圧的ですらある。レインコートの下に鍛え上げられた肉体が想像するのはたやすい。まるで苦行をみずからに強いる僧侶のよう。
 僧兵。
 公昭の脳裏にそんな単語が思い浮かぶ。
 このように共通点が多いにもかかわらず公昭の目には二人が恋人同士とは映らない。まったくの他人でもないのは確か。やはり記憶どおり兵部員なのだろう。そもそも公昭を呼び止める時点で何者かは限られてくる。
 女の方は大きめのバッグを肩にかけている。
 そこから何か硬い物がぶつかる音が時おり聞こえてくる。
 そんな男女が公昭を挟み込むように立つ。
「三島監査官からの命令を伝えます」女性は淡々と述べる。「貴方には自宅謹慎が命じられた。できればおとなしく従って欲しい。こちらとしても貴重な術者を殺したくない」
 そうか、と公昭は納得する。
 この奇妙な組み合わせの男女が兵部員であれば違和感にも説明がつく。
 ただ一点、意外な点はほかにもあった。
「命令に反した以上、処罰は覚悟していました。しかし、もっと重いものとばかり……」
「まったくね」
 と女性は率直なところを明かす。
 対して男性は黙り込んだまま。
 必要がなければいつまでも黙っているつもりかもしれない。公昭との会話を避けているのではなく、もともと無口なのだろう。会話を交わすにも必然的理由が欲しいのかもしれない。公昭もかつてそうだった。ただ、自分は友人に恵まれたおかげで、人並みに話すようになっている。これこそ天恵と呼ぶにふさわしい。だとすれば、この世には輝かしい奇跡の断片が散りばめられているとも言えるのではないだろうか。あえて天恵を乞う理由は公昭にはない。
 それら日常を脅かそうとする人間がいる。
 戦うな、という命令は公昭にとって最も苦しい罰だった。何かしたい。その気持ちを三島監査官は見抜いていたのかもしれない。なんとも彼らしい処罰だった。公昭は兵部員たちに連れられてエレベータを待つ。何とはなしに公昭はエレベータの階数表示を眺める。
 違和感。
 何か忌まわしい気配が近づいてくる。
 低くうなりながらエレベータボックスが登ってくるともに圧迫感が増す。鼓動が高鳴る。戦う準備をしている自分の体の変化に公昭は気づく。
 階数表示が止まる。
 エレベータのドアが開いた。
 巨体をかがめながらエレベータボックスから歩み出したのは鬼人体そのものだった。人間の姿ではない。すでに鬼人体としての形をなす。灰色の肌をおおうのは体毛も、伸び放題の髪も、針金を思わせる。腕の太さや長さは地面をこするほど。最も目を引く点は、首筋から二つの頭が出ている点だろう。そのような生き物について公昭は聞いたことがない。二つの頭はいったいどうやって首から下を統御しているのだろうか。
 四つの眼が公昭をにらむ。
 鬼人体は、およそ人語とは思えない奇怪な言葉を発し、みずからの武装を喚起する。
 独特な刃で飾られた槍を左右に一本ずつ持つ。刃の形状はどちらも同じ。十文字槍の一種で片鎌槍と呼ばれ、片側に枝のような鎌が突き出し、これを避けることは至難と話には聞く。突き刺すような直線的な攻撃ばかりが槍の機能ではない。斬る、刺す、叩く。およそ戦いに必要となる機能を全て備えているのが槍の恐ろしさ。かつて戦場において槍が好まれたのにはそういった理由がある。
 片鎌槍もまたその一つ。
 仮にこれを持った槍兵の突きをかわしたとする。しかし鎌槍の恐ろしさは手元に槍を戻す瞬間にある。防御者からすれば、避けたと思った瞬間、背後から鎌が襲いかかるのだ。首などを切り裂かれれば致命傷となるだろう。
 それぞれの長さは1メートル弱といったところか。
 片手でも扱いやすい部類に入る。
 加えて腕が長い。
 その分だけ間合いは十分あると見た方が良い。
 異様な点は他にも。
 二刀流で名をはせた武士は、当時最強といわれながらも、彼が没してすぐ彼の流派はすたれてしまった。そのような故事を聞いた覚えがある。理由はおそらく単純明快だろう。両手で刀をかまえるのが最も自然であることは今も昔も変わらない。二刀流を究めるための条件の一つとして、片手で刀を扱えるだけの並外れた筋力が要る。開祖と同じく体格に恵まれた剣士であれば開祖の至った境地にたどり着くこともあるかもしれない。
 刀を片手で使うという技法そのものが後に続く者を拒んでいるのだ。
 今もまれに二刀をあつかう剣士が見られるが、主流はやはり一刀流と言っていい。
 槍に至っては二槍流などという流派があるとは聞いたことがない。
 だから公昭には皆目見当がつかない。
 この鬼人体は二本の槍を使ってどう戦うつもりなのか。
「撃て!」
 機先を制するように兵部員たちが動く。
 すぐさま腰の後ろに手を回す。
 兵部員たちが隠していたのは小型拳銃。いずれも手動セイフティの類いはついていない。安全性は内部に組み込まれた機構によって自動的に保たれている。
 発砲。
 狙いは過たず鬼人体の体を引き裂く。
 命中するたびに血肉が飛ぶ。
 合わせて十発ほど弾を食らっても鬼人体は倒れない。兵部員の手にある拳銃は、いずれも9mmパラベラム弾を用いるが、最初に設計されたのは百年前であるものの最も世界的に普及している。威力はそれほどではない。鬼人体を倒すには無理がある。まして小型拳銃となれば威力はさらに低下するのはまぬがれないだろう。できればフルサイズの拳銃があれば良いのだが、秘匿性を考えれば小型拳銃が適していることは間違いない。
 鬼人体の体に銃創がいくつもできる。
 傷は確実に増えている。
 だが決定打にならない。
 鬼人体はむしろ猛った。
「ひ、っぎ、ぃいい」
 鬼人体は金属をこすり合わせたような耳ざわりな声を発する。
 聞いているだけで耳が痛い。
 両耳を押さえながら公昭はうめく。
「歌っているのか?」
 敵方であろうと、味方であろうと、自身であろうと、彼にとっては意味のないことなのかもしれない。
 流される血に等しく酔う。
 鬼人体の叫びはさらに大きくなってゆく。
 奇声と奇声が唱和する。
 二重詠唱。
 人間には難しい技をたやすくやってみせるのは頭が二つあるためか。
 歌という振動が塊となって周囲の壁や床をえぐってゆく。直撃を受けた無関係の利用客が向かいの店のウィンドウに突っ込む。女性の悲鳴が聞こえてくる。
 兵部員たちは発砲しつつ間合いを取る。
 左右に分かれ、なおも撃つ。
 スライドオープン。
 弾が尽きた。
 鬼人体の腕が持ち上がる。
「発!」
 そこへ公昭の援護射撃が割り込む。
 凶弾が鬼人体へ迫る。
 当たるという確信が公昭にはあった。
 その瞬間、空間がひずむ。
 まるで水面のように闇を映す。
 まるで鏡面のように光を返す。
 事実、凶弾は公昭本人へ弾き返されてしまった。
「なに?」
 とっさに公昭は身をかがめて避ける。
 そこに隙が生まれた。
 鬼人体はわずらわしげに槍で払う。
 公昭は、木とは思えない硬い材質の柄で殴られて、転がっていった。ガードした腕はおろか、肋骨まで折れたかもしれない。自分の骨が折れる音にはいまだなじめずにいる。
 鬼人体がさらに動く。
 次に鬼人体が狙ったのは兵部員の男性。鎌の部分で足を払う。兵部員はとっさに飛んで避けた。これは仕方がないと言える。一方で、体が宙にあっては進むも退くもままならないのもまた事実。その瞬間を鬼人体は見逃さない。もう一方の槍で突く。兵部員は、体の中央をつらぬかれたままの状態で、宙で手足をぶらぶらと振る。何をかを伝えようとしているのかもしれない。しかし何を?
 公昭は理解が遅れた。
 彼の顔がこちらに向く。
 それだけで女性の兵部員は察したらしい。
「伏せて!」
 と女性の兵部員が公昭に飛びかかってきた。
 二人が地を這う。
 ほとんど同時に光が爆ぜる。
 彼の最後の瞬間が残像となって公昭の目に焼きついていた。上着がふくれ上がるような爆発。もしや体に爆薬を巻きつけていたのか。
「自爆……」
 公昭はこの目で見ながら信じられない思いがした。
 まさか自爆までするとは。
 そこまで彼らを追い込むものは何なのか。
 しかしながら自爆をもってしても倒すには至らなかった。鬼人体の傷は重いように見えるが、器用にも片鎌槍をピッケルのように使って壁を登ってゆく。逃げるつもりか。
 残った一人の兵部員が拳銃を再装填。撃ちまくる。距離があるせいか全て外れた。あるいは高低差かも。拳銃では限定的な効果しか期待できない。それ以上の火力のある武器が必要だ。例えば突撃銃のような。
 鬼人体の姿が見えなくなった。
 女性は立ち上がって無線機のスイッチを入れ、
「アルファ02よりホテル」と告げる。「クィーンは見失いました。交戦中だったルークも後退。いかがしましょうか?」
「損害は?」
 公昭は無線機から響いてきた声には聞き覚えがある。
 三島監査官だろう。
 アルファ02と名乗った女性が報告を続ける。
「生存者は私と松江公昭。アルファ06は自爆しました」
「おまえたちはルークを追え」
「松江公昭も含めてですか?」とアルファ02。
「この状況では致し方ない。処分は一時保留する。松江公昭とともにルークを追え」
 通信終了。
 アルファ02が聞いてくる。
「立てる?」
「あ、ああ」
 左腕は粉砕骨折。
 肋骨にもひびが入っているようだ。
 脇腹も浅く斬られている。
 片腕しか使えない公昭の代わりに兵部員が簡単な手当てをしてくれた。さりながら兵部員の態度はそっけない。「さっさと立って」
 彼女はもう、公昭に手を貸そうともせず、自分の装備を整えるのに忙しそうだった。バッグの中は、突撃銃と予備マガジンがいっぱい。突撃銃ではあるが、限界まで短くしており、知識のない者が見れば、短機関銃と間違ってしまいかねない。かく言う公昭も少し前までそうだった。現在進行している神的事件のせいで武装した兵部員を見かける機会も多い。望まずとも知識は増えていった。
 兵部員はマガジンを装填して試し撃ちを始める。
 壁際に並んでいた像が次々と砕けてゆく。
 すでに利用客たちは、逃げ出すか、どこかへ隠れているものの、公昭には彼女の行為は非常識に思えた。
 一人、兵部員は納得する。
「よし、狂ってない」
「何をしている」
「サイトが狂っていないか確かめたの。爆発の衝撃で狂っていたかもしれなかったから」
 サイトとは照準器のことを言うらしいことは公昭もすでに知っている。
 この調節がうまくいかないとまったく当たらなくなる、ということも。
 従来のサイトは金属製であったためアイアンサイトと呼ぶ。サイトの中で最も堅牢であることが好まれる。これに対して、レーザーを用いるならレーザーサイト、スコープの中心に浮かぶドットという光点を利用するならドットサイトなどに分けられる。この小銃には大型ドットサイトが装着されてあった。衝撃に強いとは言いがたい。その代わり、接近戦では抜きん出た性能を発揮する。アイアンサイトより素早く照準できる上に、両目を開いたまま狙えるので、周辺に目を配りやすい。ただし、これら利点は近距離に限ってのこと。およそ100メートルを越えたところで、標的が光点より小さくなってしまい、捉えることができなくなる。
 さらに瑞穂はバッグから予備マガジンを取り出してはポケットにねじ込む。
 よくよく見れば、彼女が着ているコートは先ほどのアウトドアショップでも見かけた覚えがある。
 目立たない色合いのコートが印象に残っている。
 どこの国だったのかまでは思い出せない。
 思い出すと言えば、公昭はまだ彼女の名前すら知らなかった。
「ところで貴方の名前は?」
「高田瑞穂(たかだ・みずほ)。通信の時はアルファ02」
「戦うつもりか?」
「ええ」
「その武器はどのくらいの威力があるんだ?」
 そもそも公昭には高田瑞穂の銃が何なのかまったく分からない。
 瑞穂は説明書を読むように答える。
「薄い防具であれば貫通させることができる。有効射程は100メートルくらいかな。それ以上、離れると威力が足りない」
「そういう武器もあったのか。てっきりM4カービンで武装していると思っていた」
「ああ、これ」と瑞穂は公昭の間違いを訂正する。「これはM4カービン」
「本で見たのとはまったく違うな」
「M4カービンにはカスタムパーツが豊富だから」
「そういうものか」
 と公昭は自分の無知を思い知らされる。
 標準であるM4カービンも一般的な小銃より短いのだが、高田瑞穂が取り出したM4カービン改は標準のさらに半分しかない。
 その大きさは例えればAKS74Uと同じ。
 ユーザーは限られるだろう。
 一つは、ボディガードのような車両に乗り降りする機会の多い職種。もう一つは、接近戦になりやすい特殊部隊。この二つの例は重複することもありえる。逆に、襲撃する側である勢力にも魅力的に映るに違いない。もちろん『クダン』の兵部員たちは襲撃する側であることが多い。M4カービンが世界各国で用いられるのは様々な長さのバレル(銃身)があるのも一つの理由だろう。体格を選ばず、性別を問わず、平均的能力さえあればあつかえる装備を『クダン』は提供する。問われるのは戦う意思があるかどうかだけ。
 それにしても自爆するとは。
 公昭には想像もできなかった。
「自爆か」
「みんなが自爆するわけじゃない。一部だけよ」
 彼らを戦いに駆り立てるものの正体がつかめない。
 瑞穂の説明を聞きながら公昭はそういったことに思いを巡らせていた。
 人生には支えとなるものが必要だと思う。
 抽象的な概念ではなく、具体的な理由が要る。
 ふと、瑞穂がこちらをにらみつけていることに気がついた。
「聞いてる?」
 どうやらM4カービン改についての概略を解説してくれていたらしい。
 ほとんど耳に入ってこなかった。
 冷淡な性格かと思ったが、あながちそうとも言い切れない。ただし、態度はあくまで冷血動物に似て、理論を振りかざすという印象が強い。実際にはどうだろう。意外にも親身になってくれるので公昭はおどろく。
 まず、と瑞穂は提案する。
「お互いにできることを確認しましょう」
「ああ」と公昭も知っておきたいことがある。「君も爆薬を持っているのか」
「私は持ってない。爆薬を持つなら、その分だけ弾を持ちたいから」
「合理的だな」
「で、私のM4だけど、近距離でしか使えないから注意して。何せ7.5インチまでバレルを短縮しているからね」
 ヤードポンド法では1インチ=0.0254メートルとなる。
 標準的なM4カービンのバレルは14.5インチ。
 高田瑞穂のそれは7.5インチ。確かに短くなっている。ほぼ半分近い。
 公昭はその意図を尋ねる。
「どうしてそこまで短く?」
「接近戦で戦うのが私の役割だから」
「そこまで短くするなら短機関銃にしたらどうだ?」
「それだと仲間とマガジンが合わなくなるでしょ?」と瑞穂は公昭の反論を一蹴する。「それに最近は防具が一般化してきて拳銃や短機関銃では貫通できなくてね。祭司者のくせに防具を着ているなんてずるいと思わない?」
「それは……」
 公昭はつい苦笑を漏らす。
 気持ちは分からないこともないが、どうにもならない問題だろう。
 瑞穂は眉根を寄せる。
「何が可笑しいの?」
「いや、たいしたことではない」
 公昭は、壁に寄りかかりながら立ち上がったところで、また眼鏡をなくしたことに気づいた。



 三島は、警備員の詰め所を接収し、モニター群の前に立って指示を出していた。
 目下の問題は、ビジネスパークにはどれくらいの人数がいるのかということ。
 土曜日であることを考慮すると最大収容数に近い人数が集まっていても不思議ではない。
 となると二千人を超えるかもしれない。
 それでも三島の態度はいつもと変わらず。
「公昭には増援は送らない。クィーンの捜索に全力を注ぐ。キングは必ずクィーンの近くに現れる」
 無線通信の際、祭司者をキングと呼ぶのが慣例となっている。またクィーンが夏目るいを指すのは、おそらく敵にとって最強の駒であり、攻防の中心いることが予想されるためだった。
 これらはチェスに由来する。
 古くから『クダン』では無線通信での略称についてチェスの用語を使う。ではキングとは何だろう。倒せばゲームに勝利するとでも言うのか。それは疑わしい、という思いに囚われる時が三島にはある。何も手に入らない勝利を勝利と言っていいものかどうか。これ以上の被害を防ぐ。それは大義名分として成り立つのかもしれない。まだ二十歳そこそこの若い兵部員たちはそこにしがみつく以外にない。三島も若い頃はそうだった。今はそれでいい。しかし、いずれ彼らも気づく。救った者と救えなかった者とを数量にしてはかりにかけることなど誰にもできないのだと。
 それに対して一ノ瀬雫那は違う。もともと彼女には何も大切なものはなかった。だから阿木直哉を与えたのだ。必然と気づかないまま二人は出会い、強いきずなで結ばれ、今に至る。一ノ瀬雫那は彼とのささやかな日常を守るために戦う。何も大切なものがない人間を脅しても効果的ではない。ならば、大切なものを与えてみれば良い。それが三島の提出した案だった。
 結果として三島の目論みは当たった。
 ただ一ノ瀬雫那は、阿木直哉を巻き込んだ三島に気を許さず、常に最低限の対応を返すばかり。
「ズール」と三島は一ノ瀬雫那に無線で呼びかける。「クィーンは確認できるか」
「目視はできません。気配は……感じます。多目的ホールへ向かっているようです」
「追跡しろ」と三島。
「了解、しました……」
 雫那が動き出す。
 三島は警備用のモニター群を無言で見詰める。
 そこへ兵部員の一人が報告を持ってきた。
「ビジネスパーク全体の利用者はおよそ二千人とのことです。彼らを避難させつつ夏目親子を捉えることは極めて難しいと思われます。いかがしましょうか?」
「無力化ガスを使う」三島は即断する。「過去、過激な宗教団体が毒ガスをばらまいた事件がある。今回もそれで言いつくろえばいい」
「ですが……」とその兵部員は危険性を訴える。「無力化ガスと言っても、過敏な体質であった場合には死亡する例もあります。完全に非致死傷とは言えません」
「全ては私が背負う。おまえたちは私の手足のようなものだ。手足に罪は問えない」
 準備を始めるよう三島は命じる。
 催涙ガスは涙だけでなく、嘔吐(おうと)やくしゃみなども引き起こし、対象を無力化する。症例は、重篤な花粉症とでも言えば良いだろうか。化学兵器でありながら後遺症がおおむね残らない。また、外傷を与えるわけでもない。そこで暴徒を鎮めるために使われることが多い。ただし、まだ暴徒ではない一般人が障害になるという理由から用いる例はないに違いない。少なくとも、まともな組織では。



 雫那は多目的ホール一階までたどり着いた。
 エントランスを抜ける。
 まだ催し物は始まっていないのに客席はすでにいっぱい。ほとんどの観客が男性なのは趣向のせいだろう。あちこちに張られていたポスターから推測するに女性アイドルたちのステージが予定されているらしい。ホールを満たすのは期待のこもったようなざわめき。熱気がすでにこもっている。環境は体感温度の高い雫那にとって不快そのもの。とは言え、気配を見失うほどではない。通常の知覚系とは違う感覚が雫那に同類がそばにいることを捉えている。
 ホール全体はすりばちのよう。底にステージが見える。やや遠い。
 別の入り口から出てきた少女がこちらを向いた。
 写真だけは知っている顔だった。
 夏目るい。
 自分と同じ霊障を持ちながら違う道を選んだ少女。
 感慨がないと言えば嘘になる。
「ようやく姿を現しましたね……」
「初めまして、ゼロ使い」
 とあいさつをする夏目るいは友好的な姿勢で臨む。
 ゆるやかなパーカーは、わずかな動作だけで風にあおられたかのように揺れ、るいの優雅さを強調する。
 周囲のざわめきの種類が変わる。
 徐々に。
 しかし確実に戸惑いが広がってゆく。
 夏目るいという少女はただそこに立っているだけで男たちの注目を集めてしまうかのよう。
 おそらく、と雫那は胸が悪くなるような思いを抑える。この少女の危険性に気づいているのは自分だけだろう。
「こんな目立つ場所に何のようですか」
「お父さんには反対されたんだけどね」とるいの態度はあくまで朗らか。「いろいろやりたいことがあって。それに貴方にも会っておきたかったし」
「私……ですか?」
「そう、貴方に」とるいは手を差し伸べる。「仲間にならない? 私たちが組めば無敵だよ。貴方の大切な人も助け出してあげる。どう?」
「お断りします……」
「ふふ」夏目るいが歌う。「足引の、山鳥の尾の、しだりをの、ながながし夜を、ひとりかもねん」
 長い長い夜を、恋しい人とも離れて、たった一人でさびしく寝ることであろうか。
 まるで雫那の心のうちを読み取ったかのような歌。
 しかし、ただ和歌を詠んだのではない。
 音には霊が宿る。
 その音が、その韻が、その律が、現実世界を浸食する。現(うつつ)を侵す夢は少女の笑顔。すでに周囲はるいの一挙手一投足に注目している。観客たちにはどのように少女は映っているのだろう。含みのある微笑はまるで、男の全てを聖母のように包容し、全ての男を娼婦のように抱擁するかのよう。そのような者は現実にはいない。さりながら、ここに集まった観客である男たちは現実にないものを求めてやってきたのかもしれない。求めても与えられないものが一人の少女という形となって現れたと言える。
 観客たちの困惑は初めだけ。
 爆発するように歓呼の声がわいた。
 軽やかな足取りで夏目るいが階段を下ってゆく。
 あとを追おうとする雫那の前を奇怪な物体がふさいだ。大きさは野球のボール程度。どこからともなく現れた三つの黒い球体が宙を浮いている。行く手をさえぎられた雫那は事の成り行きを見守るほかにない。
 るいは当然のようにステージに上がる。
 立つべき者が立った。
 そのような印象がある。
 雫那は、ホールを揺らすほどの歓声の中、一人また一人と観客が倒れてゆくのを見た。
 同じ異常が雫那の周りでも起こり始める。まるで遅効性の毒がばらまかれたかのよう。気づいた時にはすでに毒は致死量に達している。そんな印象に近い。雫那は、将棋の駒のように次々と観客が倒れる姿を見て、みずからもステージに上がる決意をした。まだ混乱は起こっていない。それどころか熱気はさらに高まっている。雫那は反対側の階段からステージに走った。
 球体が追う。
 だが雫那の方が速い。
 たどり着いた時、雫那が振り返ると、半分以下の客しか立っていなかった。
 それでも歓呼は止まない。
 止めるためには――。
 二拍手の後、雫那の手に降魔刀・零式が現れる。
 ステージに上がった一ノ瀬雫那を、夏目るいは歓迎の意を表すように両腕を開く。
「止めなさい」と雫那。
「何を?」と夏目るいの声音はあくまで明るい。
「このままでは死んでしまいます」
「そうかもね。でも、そんなことはどうでもいいことでしょ?」
「どういうことですか……?」
「私たちは他人の命を奪うことでしか生きられない。だったら奪えばいい。貴方にも分けてあげる。それとも私の残し物なんて嫌?」
 と、るいは雫那にも観客たちの命を吸収するように誘う。
 確かにそうしようと思えば雫那にもできる。
 だが、やらない。すでに雫那はそうしないことを選んだ。悲しむ人の顔を思い浮かべてしまうから。
 るいは歌うように語る。
「命の価値はみんな同じでしょ? 貴方は害人の命しか奪わないようだけど、私には無意味。二千人は二千個の命を持ってる。それ以外の意味なんてない」
「分かりました……」降魔刀の切っ先を少女へ向けて雫那は宣告する。「夏目るい。貴方を害人と認めます」
「教えてあげる。私たちは結局、同じものなんだって」
 るいは刀を突きつけられても動じない。
 交わる視線。
 雫那がるいを見定める。その瞳は夜の空色。
 るいが雫那を見積もる。その瞳は夜の海色。
 三つの球体が動き出す。一つ目はるいの前に浮かぶ。二つ目は雫那の背後へ。そして三つ目が雫那に襲いかかる。意外にも挙動は鈍い。
 難なく雫那が避ける。
 避けたと思った。
 その瞬間、球体はありえない軌道を描き、雫那の胴にめり込む。
 ばち。
 電流が走る。
 雫那の口から苦悶の声が遅れて発せられた。
「くぅ……」
 体の自由がきかない。
 そこへ二球目、三球目が追撃。
 まるで魔球のよう。
 物理法則を無視して自由自在に機動する。
 二度、三度と電撃に撃たれて雫那の体がけいれんをくり返す。
 るいがあざ笑う。
「陸に上がった魚みたいだね」
 意識がうすれる。
 かすむ視界の中で雫那は活路を見出した。
 一刀。
 一刀さえあれば良い。そこに全てを賭ける。
 雫那は刀を脇にかまえ直す。脇がまえとは下段から変化したものと言われる。相手には刀が見えない。雫那はみずからの意図を隠して相手の出方を待つ。ただ、ここにはいない大切な人のために歌う。
「君がため、おしからざりし、命さえ、ながくもがなと、おもひぬるかな」
 貴方のためなら死んでも惜しくない。
 そう思っていた。
 だというのに今では急に我が身が惜しくなって末永く逢いたいと思うようになっている。
 再度、球体が襲いかかってくる。
 一球目が来る。
 降魔刀が閃く。
 煙とともに石版の床がひっくり返る。それらが盾となって魔球を受け止めた。煙幕の中へ雫那は突進。
 三つの魔球をかいくぐって雫那がるいに近接する。
 胴をなぐ。



 血を流し過ぎた、というのが鬼人体の思考を占めていた。
 ひどく腹が減っている。
 残念ながら胃袋は一つしかない。
 二つあるのは頭のみ。だからと言って相手にゆずるような自制心が働くことはない。互いに、ゆっくり味わって食べようという配慮などしないことは分かりきっており、ひたすら食べ散らかす。満腹したところであたりを見渡せば純白だった披露宴会場は赤黒く塗り直されていた。その汚れは、どんな方法でも落せそうになく、これこそが鬼人体となった彼が現世に残した痕跡でもある。
 頭と頭が言葉を交わす。
 自分たちにしか理解できない言葉で。
「まさか結婚式だったとはなあ」
「運が悪いと言うほかにないね」
 男の肉は固い。
 どちらかと言えば女の方が口に合う。美味いのは女に限る、という意見で彼らは完全に一致した。
 花嫁はだいだい腹の中だ。
 一部分どこかに転がっているかもしれない。
 満腹感で少しおっくうになっている。
 いちいち探して食おうとは思わない。
「さて、と」
「これで力は十分」
 二つの頭は討論などしない。
 彼らはただ、互いを肯定し合うのみ。
 自分を拒む者は全て敵。
 彼らはずっとそんな世界で生きてきた。
 これからは違う。ようやく欲しいものが手に入った。そんな気分に彼らは酔う。
 完璧な理解者。
 完全な賛同者。
 他に何が必要だろうか。今や彼らに不安材料はない。何もかもが満たされている。
「この世はやはり素晴らしい」
「犯すに値する」

 からからから、と無人となった会場に金属音が鳴る。
 鬼人体の足元に転がった手榴弾から煙幕が吹き出す。
 瑞穂たちは二手に分かれる。
 瑞穂がカービンを連射する。大型化された銃口が発射音を抑えてくれる。おかげで聴覚に頼る相手には発射位置がつかみづらくなっている。
 柱から柱へ。
 移動しつつ断続的に射撃。
 まだ間合いから遠いにもかかわらず鬼人体は頭をかばいながら槍を振るう。
 風が巻く。
 そう感じた時には風は刃となって壁に爪痕を残す。
 おそらく瑞穂の位置をつかんではいない。どこにいるか分かっていれば突きをくり出すはず。だが鬼人体の狙いは別にあったようだ。鋭い風が煙幕を散らしてしまった。鬼人体はもう一方の槍で瑞穂に狙いをつける。
 反射的に瑞穂は柱の陰にひっこむ。
 直後、鬼人体の槍先から衝撃波が飛ぶ。
 猛射と言っていい。
 機関砲のような衝撃が柱を削る。瑞穂は四肢を丸めてできるだけ体が露出しないように。それだけに気をつかう。柱が猛烈な勢いで削られてゆく。このままでは柱が耐えられない。
 そこで公昭の声が響いた。

「発!」

 公昭は反対方向から凶弾を放つ。
 不意打ちにはならなかった。
 鬼人体のもう一方の頭が余裕を持って対応する。
 先ほどの展開と同じ。
 正面の空間が鏡のようなひずむ。
 鏡が凶弾を弾く。
 そこで公昭は凶弾を二段式にしていた。
 一段目は弾かれる。二段目が鏡面を貫いて鬼人体の腹に命中。内臓をえぐる。これは致命傷だろう。倒したと思った。ところが、なおも鬼人体は立っているではないか。その生命力はおどろくばかり。妄執と言っていい。この世に残した未練が鬼に力を与える。そして宿主である依り代の悪性は強いほど都合が良い。できれば善人は避けるべきだ。善良な心が鬼人体の行動をいちいち邪魔する。その点で、この人物は依り代としてふさわしい悪性を持っていたのかもしれない。すでに傷が治癒しつつある。
 だが再生する前に倒す。
 決意をもって公昭はあえて鬼人体の前に立つ。本来、松江公昭は遠距離から敵を狙うべきであり、一ノ瀬雫那のように敵の矢面に立つには不向きな術者だ。だからと言って、いつも味方に守られてばかりではいられない。前に出ないといけない時がある。
 例えば今がその時。
 半死半生にまで追い詰められた鬼人体が公昭に襲いかかる。
 イメージはすでにある。
「禁!」
 鬼人体の周囲に剣が林立する。
 事象はほんの一瞬のこと。
 それでも十分。
 必殺を狙った一撃は止まった。
 公昭は鬼人体へ走り出す。左にも右にも寄らない。滑走路に降りる航空機のようにまっすぐに駆ける。
 二つの頭を持つ鬼人体は左右どちらにも対応できる。その点で死角はない。ところが重複している部分がある。真正面から肉迫する敵には左右どちらが応じるべきだろうか。左右どちらも平等だとすれば迷いが生じるはず。
 やや遅れて鬼人体の両腕が伸びる。
 公昭は鬼人体の股を転がって背後へ出た。
 これほどの近距離では鏡は使えまい。
「発!」
 斜め下から凶弾が鬼人体をつらぬいた。
 硬い殻の中身が溶けるように血肉が噴出する。
 勝負は決した。
 疲労感を急に自覚して公昭はよろける。
 そんな公昭を瑞穂が支えるが、どことなく目つきが良くない。
「どういうこと?」
「何が?」と公昭は尋ね返す。
「遠距離タイプの貴方が接近戦を挑むなんてどういうつもりか、って聞いてるの」
 二人は支えあいながら会場を後にする。
 廊下を越えて吹き抜けに出た。
 風はやはり心地よい。
「さっきはあれが正しいと直感的に思った。だが、もう一度やれと言われてもやりたくないのが本音だ」
「そう。分かってればいいけど」
 吹き抜けに出た。
 風が止まっている。
 異常はそれだけではないような気が公昭にはする。後方からの気配に公昭は振り返った。鬼人体は死んではいなかった。それどころか血を流しながらも公昭へと突進する。巨体が公昭たちに迫る。
 狙いは自分。
 とっさに公昭は瑞穂を突き飛ばした。
 鬼人体の巨体が公昭にまともにぶつかる。二人の体が宙を浮く。と思ったのも一瞬のこと。公昭は鬼人体とともに吹き抜けから階下へ落ちていった。鬼人体の巨体には落下防止用ネットなど役に立たない。
 上から下に。
 下から上に。
 両者はもみ合いながら落下速度を増してゆく。
 天窓を突き抜ける。
 ガラス片とともに二人はさらに落下。
 レンガ色の床が迫る。
「発!」
 公昭が下に向けて凶弾を放つ。
 フルブレーキ。
 激突寸前で制動がかかる。
 爆風を受けて公昭の体が横に飛ぶ。頭をかばいながら床を転がる公昭は、壁際で体を強打し、そこでようやく止まった。しばし視界が白くかすむ。痛みのあまり呼吸ができない。空白の後、公昭はまだ自分が生きていることに気づく。
 では敵は?
 天窓を支えていた鉄枠が二つの頭をつらぬいている。
 今度こそ絶命しただろう。
 鬼人体はぴくりとも動かない。
 ふー、と公昭は大きく息を吐く。
 それだけで痛む。
 だきるだけゆっくりと。
 そこへ声がかかる。
「君が松江公昭君かな」
 いつの間にか中年男性が近くに立っていた。
 薄汚れたコートはよれよれで身だしなみに気を配っている様子はない。
 どこか疲れた印象がある。
 周囲にほかの利用者はいない。皆、逃げ去っている。遠くから出入り口のあたりで押し合っている騒乱が伝わってくる。
 それなのに彼だけが平静さを保つ。
 となれば答えはおのずと導き出される。
「貴方は祭司者か?」
「そう。僕が君たちが追う祭司者ということになる」
 納得の答え。
 やっと敵の姿が現れた。
 長かった。
 あまりおどろいていない自分に公昭は違和感を覚える。
 今、会ったばかりの人物を殺すことに抵抗感があるのだろうか。
「ずいぶんと消耗が激しいようだ。松江家はみずからの寿命を費やすと聞いていたが、その状態ではいつ倒れてもおかしくないよ」
「貴方が祭具を壊せばいい」と開口一番に公昭。「それで戦いは終わる」
「それはできない。ようやくここまで来た。あと少しで祭礼は完成するんだ」
「目的はいったい何だ? 何のために祭礼を?」
「娘のためだよ。このままではあの子は怪物になってしまう。その前に変若水(おちみず)が欲しいんだ」
 満ちては欠ける月の姿に、人は永遠を見出し、願いを託す。
 長い長い月日の果てに願いは成就された。
 人々の願いは収束して雫となる。
 変わらない若さをもたらす水。
 変若水――それは天からの恵み。
 これを人為的に起こしたいと思うのは仕方のないことかもしれない。誰かに犠牲を強いることがない場合に限っては。
 天恵と天災のつりあいは常に保たれていなければならない。
 人為的に天恵を得れば誰かが天災に遭う。
 何故かは知らない。
 きっと判明したところで誰も納得できないだろう。
 公昭にはそんな気がする。
「目的は分かった。だが俺は認めない。大災害が起きる可能性が高いと知って見逃せるか」
「僕は必ず月を盗んでみせる。誰の承認も求めない」
「貴方は自分のせいでどれだけの人間が犠牲になったか分かるか」
「初めは数えていた。でも、もう僕は数えるのを止めた。誰よりもあの子が大切だから」
 この人物はそのようにして静かに腐敗していったのだろう。
 今の言葉で二人の関係は決定的となった。
 警手と祭司者。
 あるいは初めから歩む道が違っていたのかもしれないとも公昭は思う。
 公昭は彼を弾劾する。
「だから他には目を向けないのか」
「君にはできれば仲間になって欲しかったんだけどね。変若水があれば君も救われるだろう」
「俺には無用のものだ」
「だろうね」と祭司者は驚きもしない。
 祭司者の目が公昭から転じる。「もう来たのか」
 M4カービンをかまえた兵部員たちが一斉に発砲する。
 銃弾から祭司者を守る者がいた。
 死んだはずの鬼人体は抱きかかえるようにして祭司者を守る。
 厚い筋骨が5.56mmNATO弾を阻む。
「君にはもう少しだけ働いてもらう。君たちと言うべきかな」と祭司者の目が公昭へ向く。「人魂の、せをなる君が、ただひとり、あへりし雨夜の、ひさしくおもほゆ」
 公昭の足元が変じる。
 影から現れた数多の手が公昭をつかむ。
 逃れられない。
「半死半生とは言え松江家はやっかいだからね。油断はしない」
 公昭の体が影に沈む。
 黒いタールのような海に公昭は取り込まれてゆく。
 凶弾を放つ間もない。
 公昭はこの世から隔絶された。



 雫那の胴が決まる。
 決まったと思った。
 真っ二つにしたという確信が裏切られる。
 刀が途中で止まってしまう。
 骨ではない。
 骨より固い何かが当たった。
 るいは微笑みながら傷口に手を突っ込み、中をかき回して、その何かを引きずり出す。片腕で体の奥をかき回しながらも夏目るいの言葉は止まらない。
「私たちのような霊障を持った人間のことをブラッドサッカーって言うらしいね。つまり血を吸う虫ってこと。人ですらないんだよ。でも何も叫ばなければ本当に虫になってしまう。だから私たちは叫び続けないといけないの。私たちは人間だって」
 ずぶりと赤黒い液体で濡れた棒状の物が出てきた。
 もしや、これが夏目るいの極(きょく)なのか。
 血を払うように棒を振るうと形がはっきりと見て取れるようになる。
 現れた杖は少女の腕の長さほど。
 先端にはTのような形が見て取れる。
「それは……」
 雫那は形の意味に気づいた。
 その十字架はタウ十字ともアントニウス十字とも呼ばれ、世界の中心を意味し、聖なる徴(しるし)として崇められる。術具にせよ武具にせよ、幽世から現れるものには本人の志向するところが大きく影響する。では夏目るいについてはどうなのか。本当に世界の中心にいるのか、そう思いたいだけのか。そこで判断が分かれる。一つ確かなことは、杖を体内から取り出した以上、この世以外の場所とつながっているということ。そうでなければ、一メートル近い杖を体内に隠したまま、身軽に動けるはずがない。おそらく彼女の体内はこの世とは違う場所につなっているのだろう。
 対する雫那はチョーカーに逆十字を下げる。逆十字は悪魔崇拝と結び付けられることが多い。正統な信仰者からすれば心外なことだろう。本来の意味では信仰者としての謙虚な態度を示す。自分はキリストに比べれば無価値な者に過ぎない。そのような意味が込められてある。期せずして雫那の思いは彼らに近い。行方不明となった母親が残した唯一のものを、雫那は大切に身に着けながらも、普通の十字架として飾るつもりにはなれなかった。自分は人間にとって無害であるということさえ怪しい。そのような負い目がいつも雫那にのしかかっている。だからだろうか、時として十字架が重い。
 るいが血に塗れた杖を振るう。
 周囲が青い炎に包まれる。
 巻き込まれた観客は、炎上したまま、あちこちをふらふら歩く。どうも通常の炎とは違うらしい。人肉の焼けるにおいがしないのはおかしい。周囲に燃え広がる気配もない。その上、スプリンクラーも作動しない。燃え尽きると被害者はミイラのように乾燥していた。奪われたのは水分か生命そのものか。
 もはや刀と杖の戦いでは決着はつかない。
 雫那はそう判断した。
 今は術具として降魔刀の霊威(れいい)を示す時。
「……果て無き強欲……」
 黒い蛇がとぐろを巻くように雫那の周りに現れる。
 その数は無限に近い極限。毒々しさを放つのは、術者である一ノ瀬雫那自身の具現化であり、雫那は自己嫌悪を隠せない。あらゆる生命を奪う蛇たちは今のところ雫那の制御下にある。じれたように蛇たちが命令をうながす。問われるまでもなく、乞われるまでもなく、雫那の狙いはすでに決まっている。それどころか蛇たちの求めるものは雫那の欲するものでもある。雫那からすれば自分自身のみにくさを突きつけられているようなもの。周囲には生き残った観客がまだ立っている。命が惜しいならさっさと出てゆけばいいのに。雫那はもう待っていられなかった。早く欲しい。
 雫那は指揮者のごとく降魔刀を振るう。
 雫那の命のもと蛇たちが濁流となって夏目るいを飲み込む。
 観客たちの死体が押し流されてゆく。
 まだ生きていた観客の一部も巻き込まれる。
「はっ……ん、ぅ……」
 息が乱れる。
 あらかた洗い流されたはずのホールでただ一人立つ夏目るいを認めてもおどろきは少なかった。
 人の多い場所となれば制御は必要。それによって本来より一ノ瀬雫那の負担が増す。それだけでなく霊威も下がっていたのかもしれない。いつもは周囲に第三者のいない場所でしか使わない技だった。だからこそ最強でいられたのかもしれない。
 夏目るいの前面には、三つの球体が浮かび、盾となるように三角形を形成している。
 そして矛となるのは手に持った杖。
 夏目るいが杖をかかげると、雫那の見ている世界は一変し、気持ちの悪いざわめきが立ち始める。浮き足立った奇妙な感覚が落ち着かない。わずかに地面から浮いている。そのずれは、そのまま世界との接続がうまくいっていないような感覚に結びつく。どこまでも伸びている緩んだヒモを引っ張っているような。そんな気持ち悪さがある。これは幻覚の一種かもしれない。夢幻に囚われた雫那を誰かが責め立てる。
 世界との接続とは、自己と他者との関わりにほかならない。
 自分が生きてゆく根拠を見出せない。
 あらゆるものには存在価値があるはず。
 それなのに自分自身のことは分からない。
 雲一つない青空に落下してゆくような不安定さが雫那の心を揺さぶる。
「っ……!」
 これが夏目るいの心象世界なのか。
 頭が過熱する。
 とても耐えられない。
 一方で自分という存在が透明度を増す。増せば増すほど執着が消えてゆく。
 意欲がない。
 私欲がない。
 我欲がない。
 それらはこの世界に関わってゆこうという意志力の源にもなっている。
 それらが消えてしまえば自分もまた消えてしまう。
「私たちは部品の一つに過ぎないの」
 どこからか夏目るいの声が聞こえてくる。
 すでに雫那の周りには誰もいない。
 誰も一ノ瀬雫那という人間を支えてくれない。
 異物。
 この世界において自分はどうしようもなく異物なのだ。
 言われなくても分かっている。
「私がいなくなっても世界の痛手にはならない。消耗品には予備があるから」
 人は死に向かって生きている。
 生きてゆくのではなく、死んでゆくのだ。あらゆるものは失われるたびに別の何かへ置き換わる。ただ、それだけのこと。それが分かっているのに悲しいのは何故だろう。この嘆きを誰かに聞いて欲しい。けれど、人の理解の度合いとは全知と無知の間で揺らぐものであり、全知に至ることはない。絶対的な存在として、神のような大きな何かが人を許してくれるなどとは雫那には思えない。では人は? 人は、人は――。
 強烈な痛みによって雫那の意識が覚醒した。
 心はすでにずたずたに引き裂かれている。
 そこへ、さらに痛撃。
 夏目るいの杖によって腹をつらぬかれていた。
 ぐりぐりと十字架で傷口を広げてゆく。
「あ、ぐ……っんん……!」
「あは、は!」るいの笑いが止まらない。「痛い? ねえ痛い? 痛いって言えば止めてあげるよ? 負けたって言えば仲間にしてあげるよ?」
 雫那は声を出すのを耐える。
 認めない。
 確かに人は全知ではないかもしれない。全知ではないとしても理解者はいる。自分にはいる、という実感が雫那には確かにあった。だから決して負けを認めない。負けを認めれば彼の思いを無にすることになる。
 銃声が状況を変えた。
 ガスマスクをした兵部員たちが夏目るいを撃ちまくる。
 いくども銃撃されながら夏目るいは倒れない。
 雫那から杖を抜いて、兵部員へ向けて振るって反撃する。
 鬼火。
 人体発火が次々と起こる。装備は燃えない。中の人間だけが燃えてゆく。
 さらには観客たちにも異変が起こった。生き残った彼らは、獣のように凶暴化して、何も手に持たないまま兵部員たちに襲いかかっていった。突然のことに兵部員たちは催涙ガスをまく間もなく接近を許してしまう。兵部員たちは暴徒との乱戦に巻き込まれて他に手が回らない。もちろん、夏目るいに対しても。
 夏目るいは、
「またね」
 という言葉を残して雫那から離れる。
 雫那には追いかける力は残っていなかった。



「発!」
 持てる力の全てをつぎ込んだ一撃が結界を破る。
 現世に戻った公昭はそこが現実世界とは一瞬思えなかった。
 煙があちこちに漂い、利用者たちはせき込んだり、吐いたりしてもだえ苦しむ光景は、まるで地獄のよう。
 公昭も目の痛みを覚える。
 涙が止まらない。
 これは催涙ガスか。あるいは、もっと危険な化学兵器かもしれない。いや、祭司者の仕業かも。
 そうだ、と公昭は思い出す。祭司者を追わなくてはならない。
 だが体が言うことを聞かない。
 催涙ガスによる激しい反応が公昭の意識を奪った。



「ねえ、お父さん」
「ん?」
 と、夏目貴一は前方を向いたまま娘に応じる。
 助手席のるいが確認する。
「公昭に会ったんだよね」
「ああ、会ったよ」
 と夏目は多少の戸惑いを覚える。
 公昭、という呼び方。
 そこが少し引っかかる。
 だが表には出さない。
 逆に夏目は車を運転しながら娘に尋ねる。
「るいも会ったんだろう?」
「うん」
「どうだった?」
「やさしそうな人、かな。きっと仲間になってくれると思う」
「でもね」と夏目はやんわりと再考をうながす。「優しい人が協力してくれるとは限らないよ」
「その時は殺すだけ」
 あっさりとるいは自分の考えを一転させる。そもそも一ノ瀬雫那と松江公昭を仲間へ引き込もうと強く提案したのはるいだった。夏目には時おり娘の真意が読めない時がある。そんな時が夏目には最も悲しい。いつから娘はこんな風になってしまったのだろう。全ては霊障のせいだと思いたい。
 そう、変若水があれば娘は元に戻る。
 きっとそうに違いない。
 自分のやり方は正しい。
 正しいと言うよりは他に残っていないと言うべきか。
 夏目は、言いようのない不安を抱えながら娘にも言えず、無言で車を走らせた。



 病室の外はずっと騒がしい。
 ビジネスパークでのテロ事件は千人近い被害者を出した。どこかのテロリストが催涙ガスをばらまいた、とニュースは伝える。もちろん、それが嘘であることを雫那は知っている。『クダン』による情報操作だ。この国には報道の自由がある。しかし同時に報道しない自由もある。ジャーナリズムは権力であり企業でもある。利にさとい。自分たちの得にならないことをあえて追求する真のジャーナリストは少ないのかもしれない。
 雫那の傷はすでに治癒していた。
 今は輸血という形で生命力を補っているところ。
 その輸血もじきに終わる。
 頃合を見計らったように直哉がやってきた。
「具合はどうだ?」
「……別に……いつもどおり」
 直哉はベッドの端に座って雫那の髪に手を伸ばす。
 撫でられるまま、雫那はじっとしている。
 ごめんな、と直哉が謝るのはどういうわけだろう。
 彼は何も悪くないというのに。
「本当は家で二人でいたい。でも事件の被害者が多くて、俺も病院にいないといけないんだ」
「じゃあ……」と雫那は上半身を起こす。「私、は……帰るから……」
「ここにいてくれ。できるだけそばにいて欲しいんだ、ずっと」
「ずっと?」と雫那。
「ああ、ずっとだ」
 雫那は再び身を横たえる。
 輸血を終えたところで、看護士に呼ばれ、直哉はまた忙しなく病室を出て行った。
 目を閉じ、深く息を吐いて、雫那はゆっくりと眠りに落ちてゆくのを自覚する。
 先ほどまで眠れそうになかったのに。
 直哉はいつも自分のそばにいてくれる。
 これまでも。
 これからも。
 いつまでも。
 彼が触れてくれた髪に温もりが残っている。
 この温もりを感じながらいつまでも眠っていたい。

■七月九日/日曜日

 視界がオレンジ色に染まる。
 目標車両より先んじて瑞穂を乗せた車がトンネルに入った。追いかけているのは白い普通乗用車。どこでも見かける車種ではある。
 特筆すべきは祭司者とその娘が乗っている点のみ。
「ゆるやかに減速」と瑞穂が指示を出す。「このまま前後から挟み込む」
 瑞穂の搭乗車両はステーションワゴンにしてある。後部座席の後ろに広い貨物スペースを持つのが特徴的だ。そこは銃座となっており、分隊支援火器が載せられてある。分隊支援火器は、機関銃の中で最も小型であると言えども、装甲のない普通自動車には十分な破壊力を持つ。
 目標車両もトンネル内へ。
 相対速度がゼロに近づいてゆく。
 トンネルの中間地点に差しかかる。
 そこで距離が詰まった。
 分隊支援火器が後部ドアに開けられた銃眼から祭司者の乗っている車へ連射を浴びせる。狙ったのはエンジンだ。まずは足を止める必要がある。コントロールを失った目標車両はトンネルの側壁に激突。
 大破して止まる。
 瑞穂たちの車も停車。
 ここからが本番となる。
 瑞穂は「降車!」と命じつつ、みずからも車外へ展開する仲間たちに加わる。極端に短いM4カービンはこのように素早く車から降りる状況でも邪魔にならないのが良い。短いM4カービンを持つのは他の兵部員たちも同様。前後を挟み込んではいても直線的ではない。互いの射線に入らないようにするのは基本中の基本と言える。状況は圧倒的に我が方に有利だ。では敵方はどう出るか。
 大破した車から人が降りてきた。
 写真でも見た顔。夏目貴一だ。体のどこかが挟まっていて脱出できないと見える。それでも降りようとする。
 強引に。
 強力に。
 ぶちぶちと音を立てて体が裂けてゆく。車に半身を残して半分だけの夏目貴一が立つ。
 どうやって平衡を保っているのだろう。
 どうやって生命を保っているのだろう。
 瑞穂には本当に夏目貴一かどうか疑わしくなってきた。鬼人体となった人間は最後には心まで鬼と同化して自分を見失う。先日の今川高志の例はけう。非人間的なまでに耳障りな笑い声がトンネル内に響く。まるで、こちらの不手際をあざ笑っているかのよう。
 笑っている間に顔が変わってきた。
 見たことのない男の顔へ。
 となると影武者だったことになる。
 さらに血まみれの少女が四つんばいで車から出てきた。こちらも顔が違う。
 瑞穂にはためらう理由がなかった。
「撃ち方、始め!」
 口火を切るように瑞穂は射撃開始。兵部員たちもならう。
 銃火が並ぶ。
 分隊支援火器も銃座から撃ちまくる。
 瑞穂の指揮の下、兵部員たちは代わる代わるマガジン(弾倉)を交換することで間隙を作らないよう努めた。鬼人体はそれぞれに能力が異なる。この鬼人体がどのような能力を持っているか未知。隙を見せれば何か仕かけてくるかもしれないという恐れがある。だから弾幕に切れ目があってはいけない。過熱したバレルが焼けたにおいを漂わせる。なかなか鬼人体たちは倒れない。よろめきながらも、ゆっくりと瑞穂たちに向かって歩みを進める。
 火力が足りない。
 そこで瑞穂が目をつけたのは大破した車だった。
 まだ鬼人体は車のそばにいる。
 手榴弾を取り出す。煙幕で敵の視線をさえぎる発煙弾。およそ攻撃的な兵器ではない。
 瑞穂は滑らせるように車の下に投げ入れる。
「伏せろ!」と瑞穂は命じる。「早く!」
 煙を出しながら燃焼する発煙弾が引火を誘う。
 大破した車が爆発する。
 おびただしい量の破片がばらまかれる。風を切る音がした。瑞穂のすぐ上をドアの一部が通り過ぎる。目を閉じて頭を両腕でかばう。
 しばし後、舞い落ちる金属片の下、高田瑞穂は立ち上がって戦果を確認する。
 鬼人体たちはどちらも引き裂かれて転がっていた。
 かろうじて形が分かる。
 しかし息はない。
 念のため頭とおぼしき部位にそれぞれ銃弾を打ち込むが反応はなし。
 確実に死んでいる。
 勝った。いや負けなかったと言うべきか。瑞穂の心には勝利の喜びなど浮かんでこなかった。一つの作業を終えたことで一息ついた、という程度。仲間である他の兵部員たちも同様であるらしい。こんなことをくり返して自分たちはどこにたどり着くのだろう。兵部員として戦うことを選んだことに後悔はない。にも関わらず、戦いはいつも瑞穂の心を満たしてはくれなかった。心にはいつも穴が開いている。
 歩いてトンネルを出たところで瑞穂はふと腕時計に目をやる。トリチウムによる発光のおかげで暗がりでも視認はたやすい。
 時刻はまだ一時と少し。
 一日は始まったばかりだ。
 果たして自分は明日を迎えることができるだろうか。
 そんな思いが他人事のように瑞穂の脳裏をよぎった。



 公昭の目が覚めた。
 生きている。
 そんな思いが沈んでいた心の底から最初に浮かんだ。
 ベッドの脇には点滴がつるされている。見れば、右腕にチューブが刺さっていた。何のための点滴だろう。そこで左腕をがっちりとギプスで固定されていることに気づく。意識が途切れる直前の記憶がよみがえる。そうだ、と公昭は思い出した。自分は毒ガスを吸い込んだのだ。ビジネスパークに漂っていた灰色の煙は、目や鼻を刺激し、しまいには公昭は体を折るようにして吐いた。毒ガスつまり化学兵器が禁じられる理由も分かる。あれは人間に対して使って良いものではない。
 戦闘はその後どうなったのか。上半身を起こそうと体に力を込める。それだけの行為にひどく時間がかかる。点滴のパックがゆらゆらと揺れて、静止した状態に戻ったところで、やっと身を起こすことができた。公昭は病室のすみに置かれたテレビをつけてみるが、ビジネスパークで催涙ガスがばらまかれたというニュースはあっても、知りたい真実はどこにもない。公昭はあきらめてテレビを消す。やはり知りたい情報は自分で動かないと見つけられないのかもしれない。隠密裏に処理される神的事件となればなおのこと。けれども公昭の気持ちの反して体が言うことを聞いてくれないのがいら立たしい。
 パックの薬液がなくなる頃に看護師が病室に入ってきた。
 二十代とおぼしき若い女性だ。
 と思いきや小野寺兄妹の母である琴子ではないか。彼女は、高校生の子供がいるとは思えないほど若々しい外見の持ち主であり、よく真幸たちの姉と間違われる。小野寺琴子の実年齢は今もって教えてもらっていない。
 こらぁ、と琴子が公昭をたしなめる。
「ちゃんと寝てなきゃだめでしょぉ」
「すみません」
 と公昭はうながされるままベッドに横たわる。
 泥のように体がベッドに沈み込んでゆく。
 なんとはなしに琴子の作業を見守る。
 琴子は、口調こそ舌足らずな独特なものではあるが、作業の手さばきは確かだ。
 ふと漏れた琴子のつぶやきが公昭の不意を突く。
「命は大事にねぃ」
「え?」
 そこで気づく。
 琴子はおそらく公昭の体を見ているはず。
 術具に侵された体を。
 消毒液に浸した綿で公昭の腕を押さえながらも琴子の目は公昭の顔を見ていた。
「公昭君のしていることは大事なことかもしれないけど、さ。自分の命だって他のみんなと同じように大事じゃない?」
「俺には座視できません」
「こういう仕事だとね、助けられない患者さんもいるのよねぃ。そういう時に無力感に襲われるんだ。それでも仕事を続けられるのは一人でも助けたいから。自己犠牲が悪いとは言わないよー。それは公昭君の決めることだから。でもイエスとも言いたくないんだ。もしかすると公昭君は無力感に負けて自己犠牲を自分に強いているだけ、なーんてね。ありゃ言い過ぎちゃったか」
 にへへ、と琴子は苦笑い。
 実に屈託がない。
 彼女と話していると日常に帰ってきたような感覚を覚えてしまう。
 すでに戦いは佳境に入っているというのに。
「いえ、そんなことはありません。正直に言えば今まで考えたこともありませんでした」
 と答える公昭の言葉に嘘はない。
 本当に考えたことがなかった。頭の片すみに上ったことすらない。生まれ育った環境のせいだろうか。自己犠牲を良しとする精神的な風土が松江家にはあるのかもしれない。公昭は父のようにありたいと子供心に決めて生きてきた。いつ決めたのかは覚えていない。いずれ自分も警手となって戦う。いつの間にか心は定まっていた。父の生き方を否定しつつも、戦いを放棄することはできないでいる。奇妙と言えば奇妙。奇怪と思えば奇怪。どうして自分自身では気づけなかったのだろう。真幸を初めとする友人たちのおかげだ。彼らがいなければ一生気づかずにいたとしてもおかしくない。
 その前に聞いておきたいことがあった。
「琴子さんはどこまでご存知なんですか?」
「街を守る大事な仕事をしている、ってだけかな。黒い服の人たちには他言無用って念を押されちゃった。あ、やや、もちろん誰にも言うつもりはないよー」
「大丈夫です。信用していますから」
「そっかーそう言ってもらえるとうれしいなー」と照れる琴子は表情を改める。「公昭君はずっとそういう仕事をしていたんだよね。見返りを求めずに。正直すごいと思うよぅ。でもね、見返りを求めないのは人としておかしいと思うんだ。正義の味方だって幸せになる権利はある、なんてのは私の個人的感想なんだけども。だって、がんばった人が報われないなんて悲しいじゃない?」
 公昭の認識では、努力が必ずしも報われると限らない。
 それは、きっと琴子も知っているだろう。
 知っていて、なお否という意思を示す。そこに琴子の強い思いを感じた。
 公昭は松江家の初代について語る。
「俺の家はずっと警手として街を守ってきました。その初代はごく普通の青年だったと記録にはあります。特別な力を何も持たない人物でしたが、ある巫女に恋をし、彼女のために戦う決心をしたそうです」
 と、公昭は上着のボタンを外す。
 胸に癒着した術具がさらけ出される。赤い華が咲いているかのよう。これが初代から始まった松江家の紋章そのもの。
 自分から人に見せるのは初めてのことだった。
 すでに見ていたのか琴子はおどろかない。
 公昭は説明する。
「この勾玉が生命力を吸う代わりに力を与えてくれます。そのせいで自分は体に変調をきたすことが多かったんです」
「痛くないのかな」
「近くに禍々しい存在がいると痛みが走ります。ですが、もう慣れました」
「それでさ、その最初の人ってどうなったのかな。恋は叶ったの?」
「分かりません。記録には何も記されていませんでした」
 書く必要がなかったのか、あえて書かなかったのか。
 歴史の余白は人の思いをかき立てる。おそらく短命に終わった初代が最期に思ったことは何だったのだろう。
 そして末代。
 松江公昭はどう生きるべきなのか。
「せめてお母さんより長生きしてあげてねぃ。それが一番うれしいことのはず」
 その一言はこたえた。
 三十歳にもならず亡くなった母を思えば、息子である自分はせめて三十歳までは生きなければならないだろう。義務感にも似た感情が時として公昭を支配する。だからと言って自分が警手であることを自覚しない時もない。父を殺してまで警手になったのだ。今さら後戻りはできないと思う。
 父と母。
 それぞれへの思いが公昭を挟み込む。
「おおっと、と、忘れるとこだった」と琴子はポケットから折りたたんだレポート用紙を出した。「うちの真幸から。なーんか二人で面白いこと考えてるみたいねぃ」

 一人になった公昭はレポート用紙を広げてみた。
 そこには真幸の字で、好感度アップ作戦とある。

@同じ本を読もう

 一ノ瀬さんは読書家だから同じ本を読んでおけば話が合うと思う。
 でも、一ノ瀬さんはたいてい本にカバーをかけていて何を読んでいるか分からない。
 それで考えた。
 図書室で借りた本の履歴を調べてみるのはどうだろ。

A水族館に誘おう

 海の生き物の図鑑を読んでいるのを見かけたことがあるんだ。
 もしかすると水族館に誘ってみたら意外と乗ってくるかもしれない。
 そしたら、いっしょに弁当をいっしょに食べよう。
 今、新しい料理に挑戦しているとこ。
 新作で一ノ瀬さんの好感度もアップだぜ。
 もちろん、おまえの好きな玉子焼きも作っておく。

B続きはまた今度!

C追伸:子犬の引き取り手が見つかったぜ!

 公昭は顔がほころぶのを自覚した。
 日々、微笑ましい日常は営まれてゆく。できれば何もかも忘れて日常へ帰りたい。
 痛切にそう思う。
 一方で分かってもいるのだ。もし、この日常がわずかでも欠けてしまったとしたら、自分を許すことができないだろうと。
 守りたいものがある。
 守るための力がある。
 二つが同時に並び立っているからこそ公昭は戦いに身を投じてきた。しかし琴子の指摘もあながち的外れではない。何か自分にもできるはず。焦りにも似た感情に突き動かされていたのは確か。
 ここで舞台から降りるべきか。
 そんな思いが初めて公昭の心に浮かんだ。
 三島監査官が尋ねてきたのは直後のことだった。

 面会謝絶を無視して彼は、
「話はできるか?」
 と問う。
 公昭はうなずく。聞きたいことが山のようにある。
 だが三島は先んじて口を開いた。
「報告は受けた。拒絶反応が出たそうだな」
「拒絶反応?」
「我々の予想より早く術具がおまえの体を蝕んでいる」
「予想より……?」
「そうだ」と三島。
「どういう意味ですか」と公昭は反論する。「松江家は何代にもわたって自分たちの体が術具に馴染むように変えてゆきました。俺は、体は弱いかもしれませんが、拒絶反応とは無関係のはずです」
「いや」と三島は否定する。「おまえに拒絶反応が出てもおかしくはない。松江家は理想的な配偶者を選んで後継者を生んでいった。公則にもすでに決められた相手がいた。だが公則は彼女ではなく、佐和を選んだ。そして二人の間におまえが生まれた。拒絶反応が出るのを知った上で。奴は本当に松江家が自分の代で終わってもかまわないと思っていたのだろうな」
 三島の声は昔を思うようにどこか浮いていた。
「まず佐和について話そう。彼女が何者であるか。彼女は『クダン』の兵部員として働いていた。優秀な兵士だった」
「兵士? 母が?」
 公昭の記憶にある母は優しく儚げな女性だった。
 加えて、兵士のような激しい面を見せたこともない。
 三島は冷淡にその思い出を壊す。
「驚くのも仕方がないことかもしれない。だが事実だ。佐和は幼い頃、神的事件に巻き込まれて家族を全て失った。『クダン』に保護された彼女は真実を知らされ、やがて『クダン』に入る。祭司者と直接交戦する兵部員になったのも佐和が自ら希望したことだ。彼女はごく普通の人間で、術具を使いこなすことはできなかったが、その働きには目覚しいものがあった。祭司者もまた人間に過ぎない。鬼と違って銃でも殺せる」
 つまり母は人殺しだったと。
 言外に三島はその息子に告げた。
 追い撃ちをかけるように、三島は懐から古びた写真を取り出す。三人の若者が並んで写っていた。年齢は三人とも二十歳前後。言われなくても彼らが誰なのか公昭には察しがついた。
 真ん中にいるのが父の松江公則。
 左には三島東吾。
 そして母の佐和が右側にいる。母の姿は、昨日会った女性の兵部員に似て、髪は短く、服も機能性に重きを置いた装い。カメラに向ける視線はどこか鋭さを感じさせる。確かに母ではあった。さりながら写真からでも伝わるほどの険しさなど、公昭が目にしたことは一度もない。
 公昭は別の点にも目を留めた。
「三島監査官はタバコを吸われていたんですか?」
 若き日の三島東吾の胸ポケットからタバコのパケットが顔をのぞかせている。
 それも意外なことだった。
 公昭が知る限り、三島東吾がタバコを吸っている場面はない。
 三島監査官は首を横に振った。
「タバコはやめた」
「健康のためですか?」
「少し違うな」と三島は訂正する。「私は多くの若者を死地に追いやってきた。いずれ私は味方の誰かに殺されるだろう。その時までガンで死ぬなど許されない。それより佐和のことだ」
 と三島は話を戻す。
「この街で神的事件が発生し、兵部員の一人として佐和も派遣され、警手と協力して事件の解決に当たった。その警手というのが公則だ。公則――おまえの父は、まだ経験が浅く、護衛を必要としていた。そこで『クダン』は私と佐和にそのまま公昭を補助するように命令した。いつから二人の関係が変化したのかは私も知らない。ただ、二人が対等な戦友として互いを見ていたのは確かだ」
「しかし……」公昭はまだ信じられなかった。「しかし、俺の知っている母は病弱な人でした。とても戦える体とは思えません」
 無意味な反論だとは分かっている。
 写真を見た。
 それでも信じられなかった。
 母の白く冷たい指の感触は兵士のものでは決してないはず。
 しかし三島はただ事実のみを述べる人間だった。
「佐和の体が病弱になったのは戦闘で受けた負傷のためだ。敵の術式によって彼女は不治の病を抱えることになった。妊娠していると分かったのは、その後だ。選択の余地はあった。出産すれば佐和の状態がさらに悪化することも分かっていた。それでも二人はおまえを産むと決めた」
「三島監査官」公昭は自分の声がかすれていることに気付く。「父も、母も、誰も、どうして今まで何も話してくれなかったのでしょうか?」
「佐和の希望だ。せめて、おまえの思い出の中だけでも普通の母親でありたいと」
「母がそんなことを」
 仮に、全てを打ち明けられていてもどうにもならないことだったとは分かる。
 全ては過ぎたこと。
 真実の全てを知ったところで何かが変わっただろうか。
 三島は謝罪すらしない。
「そして公則は迷っていた。おまえに警手を継がせるべきかどうか」
「父が、迷っていた?」
「奴も人間だ。時には迷う」三島は沈黙しつつ公昭の様子を見る。「何か質問はあるか?」
 そう問われても公昭は衝撃から立ち直っていなかった。
 今さら何を聞けと言うのだろう。
 ただ、一つだけ確認しておきたいことが公昭にはあった。
「父は独りではなかったんですね?」
「独り、とは?」
「父は独りで戦ってきたわけではなかったんですね?」
「話した通りだ。おまえが生まれる前までは公則と佐和、そして私の三人がこの街を守っていた」
「そうですか」
「質問はそれだけか」と三島は意外な様子だった。
「ええ」
「そうか。いずれ連絡する。それまで休め」
 用は済んだとばかりに三島は去る。
 佐和の写真だけを残して。
 公昭は写真を手に取る。
 ふと思った。
 母は、兵士である時と、母親である時の、どちらが幸せだったのだろうかと。



 街が見たい。
 公昭は父と母が守ろうとした景色を改めて眺めてみたかった。
 西日が目に刺さる。
 どこにでもあるような平凡な地方都市なのかもしれない。そんな街で二人は誰に賞賛されることもない戦いを続けていた。父は最後には間違った道を選んでしまったけれども。
 そこで阿木直哉と会う。
 彼が問いかけてきた。
「君はまだ戦うつもりなのかい?」
「分かりません」と公昭は迷いを吐露する。「三島監査官から戦闘行為を禁じられています。そもそも戦う力が俺に残っているかどうか……」
「自分勝手なのは承知で言うよ。できればあの子の手助けを続けて欲しい」
「一ノ瀬の、ですか」
 続く阿木直哉の言葉は意外だった。
「あの子では勝てない」
「一ノ瀬では勝てない?」と公昭は聞き返す。「どういうことですか。ゼロ使いは最強の代名詞として知られています。『クダン』の作り出した零式を使えるのは残念ながら一ノ瀬だけだからです。それでも勝てないと?」
 この国では、かつて優れた刀工たちの手によって霊威を持つ武具が作られてきた。それらをもって鬼と戦った逸話は多い。しかしながら武具とは消耗品。いずれは尽きる。この国はいったん失われた技術を取り戻す必要に迫られた。その最初の成功例を『クダン』は零式と呼んだ。威力については申し分なし。ところが使い手を激しく消耗させてしまうため実戦投入できずにいた。奪命者である一ノ瀬雫那だからこそ使いこなせる、というのが『クダン』の見解だった。
 阿木直哉の表情は沈痛なもの。
「昨日、雫那はるいちゃんに負けた。同じ奪命者であっても二人の力には開きがあるんだ。るいちゃんはおそらく本能のまま人を殺してきたんだろう。だから奪命者としての力を存分に発揮できる。でも雫那は違う。あの子は輸血用の血から間接的に命を吸収する。人にかみつくような真似は絶対にしない。俺の血だったらいくらでも分けてあげると言っても、雫那はそれだけは嫌みたいなんだ。あの子らしいと言えばあの子らしいけど……うまくいかないね」
「るいちゃん、というのは? 彼女と面識が?」
「あるよ。まだ小さい頃だったけど。俺が研修医だった時にお世話になった人の娘だからね。霊障というのはほとんど治らないものなんだ。医者であっても、彼らの苦しみを減らすくらいしかしてあげられない。専門医の数がものすごく少ない中で、あの人と出会えたことは俺にとって幸運だった。霊障者とどう接するべきか、何もできない自分とどう向き合ってゆくべきか、たくさんのことを教えてもらったよ。そんな人が祭礼を企てているなんて今でも信じたくない」
 阿木直哉と一ノ瀬雫那。
 夏目貴一と夏目るい。
 二組は同じようでいて違う道を選んだ。
 一度はたがえた道がもう一度交わることは不可能なのだろうか。
 それにしても公昭には疑問が残った。
「どうして彼女たちのような存在が生まれたんでしょうか?」
「人と鬼は子供を作ることができる。そうやって鬼の血が日本人に混じってしまったんだろうね」
「吸血鬼の伝承は世界各地で語られてきました。しかし日本ではそういう話はほとんどありません」
「間引きというのを知ってるかい?」
 と直哉は目を伏せながら尋ねてきた。
 間引き。
 転じて子殺しとも言う。公昭も多少、聞いたことがある。障害を持った子供は生まれてすぐ産婆や母親に殺されていった時期があると。
 直哉が続ける。
「この国では昔から吸血鬼であることは障害だと考えられていたんだ。だから吸血鬼の伝承は残らなかった。生きた形跡を歴史に残すほどの人数がいなかった」
「ですが」と公昭は疑問を呈する。「一ノ瀬は、その吸血鬼なんでしょう? 間引きが行われていたなら、どうして一ノ瀬が存在するんですか?」
「俺が思うには、全ての母親が我が子を殺したわけではなかったんだよ。わずかではあっても生き延びた子供たちがいたんだ。だから、その血筋が現代まで残った。どちらの行為が正しかったのか、俺には分からなくなることがある。『クダン』は彼らを奪命者(だつめいしゃ)と名付けた。他人の命を奪って生きる……確かにその通りかもしれない。だけど……命をつないでゆく行為は善でも悪でもないと俺は信じてる。その結果として、苦しみが次代へ持ち越されようとも」
 一度は伏せられた目が再び公昭に転じた時、そこには確かな信念があった。
 そうか、と公昭は納得する。
 この人だから一ノ瀬は心を許していったのだろう。
「直哉……検査はまだ?」
 その一ノ瀬雫那が屋上に上がってきた。
 検査というのは霊障に関することだろうか。
 雫那が評する。
「……もう動いて大丈夫なんですか。病弱なのか丈夫なのか分かりませんね」
 相変わらずの辛らつな言動にも公昭は慣れてしまった。
 しかしながら好ましいと思う日は来ないだろう。
 こんな少女を実の妹のように接する阿木直哉はまれに見る聖人君子だ。
 少なくとも自分には無理だと公昭は思う。
 こんな人がそばにいてくれるからこそ一ノ瀬雫那は戦えるのかもしれない。自分にも大事な人たちがいる。では夏目るいはどうなのだろう。ふと公昭はそう思った。いっしょに弁当を食べるだけではしゃいでいた姿を公昭ははっきりと覚えている。どこにでもある日常にこそ幸せの欠片はあるのではないか。平凡であっていい。その欠片を自分なりにつなぎ合わせたものが幸福なのだと今では思える。もし夏目るいのそばに父親以外の誰かがいてあげていれば何かが変わったような気がしてならない。何か。そう何かが。



 深夜、眠っていた公昭はうなされるように起こされる。
 目が合う。
 ベッドに横たわる公昭に馬乗りになった夏目るいが目を細めて笑う。
 心なしか目の青みが以前より増した気がする。冷たい色だ。青のモノトーンで共同墓地を描くとしたら配色として選ばれるに違いない。生者を誘うように妖しく燃える鬼火を思わせる。
「あ、起きた」
 この夜の装いは、黒と灰色で構成されたドレス。
 どこかゴシック調のおもむきがある。
「いったい何の用だ?」
 意外なことにおどろきは少なかった。
 また会うことになるかもしれないと心のどこかで予感していたのかもしれない。
「話の続きをしようよ」
「あの質問の答えか?」
 と公昭ははっきりと覚えていた。
 外見は人間で中身は怪物っていう生き物がいたら味方になってくれるかどうか。
 公昭の答えは決まっていた。
「俺は警手だ。この街を守る使命がある。君がこのまま祭礼を続けるなら戦わないといけない」
「でもね」とるいは質問を変える。「生きることは殺すことでしょう? 木が高く伸びてゆくのがどうしてか分かる? 太陽の光を独占するためなんだよ? それが間違ってるの?」
「生き物にはそういう面は確かにあると思う。だが俺はそれ以上にそんなことを言う君が悲しい。生き物は互いに競い合う。友人にはなれない。それでも仲間なんだ。誰が欠けても調和が狂う。欠けていい存在なんてない」
「本当にそうだと思う?」
 と、るいは病室に置かれていたテレビを指差す。

 るいは幼い頃、テレビという箱を一日中眺めていたことがある。
 母が亡くなった後のこと。
 何故か母が死んだニュースが流れない。
 その時、初めて知った。
 自分にとって大切な出来事が他人にとってはそうでもないということを。
「私ね、人が死んだら全部ニュースになるんだと思ってた。でも違った。私の大好きなお母さんが死んだのに誰も知ろうともしない」
「そのいきどおりは分からなくもない。俺も母を亡くしているから」
 と公昭は同意してくれた。
 るいは人々の無関心と無責任が許せない。
 気持ちは公昭も同じようだ。意外だった。てっきり反論されるとばかり思っていたのに。
 むしろ彼は聞いてくれる。
「君には夢はないのか?」
「夢?」
「そう夢だ。夢をふくらませるには体験が必要だ。君にはそれが足りない」
「ゼロに何をかけてもゼロにまま、ということ?」
 公昭の口から出た言葉は何故かすとんと納得できる。
 そんな分かりきった算数に今まで気づかずにいたことを疑問にさえ思う。公昭と話していると、公昭といっしょにいると、るいは新しい何かを発見してゆく。それが不思議でならない。自分を守ってくれるのは父である貴一だけ。そう信じて疑ったことはなかった。
 しかし本当にそうなのだろうか。
 二人だけの逃亡生活の中で見落としてきたものがあったのかもしれない。
 そんな風に思ったのも初めてのこと。
 るいの心が揺れる。
 馬乗りにされているという圧倒的に不利な状態で公昭は決意を告げた。
「俺は君と戦う。君を救いたい」
 ぞくり、とるいの体の深奥がうずく。
 るいは何故、自分が公昭にひかれていったのか理解した。あまりにも自分と違いすぎて、あまりにも自分と離れすぎて、逆にひかれてしまう。命を奪う者と命を費やす者。生まれた時点で二人の在り方は違う。もしかすると公昭とはるいにとって月のようなものかもしれない。月は誰のために輝くわけではないというのに人々の心を魅了してやまない。松江公昭という男は敵である自分さえも救おうとする。救うために戦うのだと彼は宣言した。なんという矛盾だろう。けれど愚かしいとはるいは思わない。むしろ、みずからの矛盾に向き合って生きてゆこうとする彼の意思が尊く愛しい。
 みずからの心境についてるいは明かす。
「興味を持ったのはね、警手という生き方を選んだ公昭が理解できなかったからだと思う。だからこそ知りたかったの」
 いったいどんな血の味だろうかと。
 言外に含まれた意味に松江公昭が気づいたかどうか。彼は身じろぎもせず次の言葉を待っている。るいから見れば公昭は小さく弱々しい命に過ぎない。殺そうと思えば簡単に殺せるだろう。
 それなのに殺せない。
 それなのに侵せない。
 敵であっても彼の選んだ道を尊重したい。ただ、どうしようもなく血が欲しいことをのぞけば。
 るいは衝動に突き動かされるまま公昭を組み伏せる。さすがに抗う公昭を押さえつけてるいは上着をはがす。術具である勾玉があらわになる。胸の中央に埋め込まれた勾玉から根を張るように赤いミミズバレが放射状に伸びてゆく姿は、さながら華のよう。
 るいはつぶやく。
「へえ、これが公昭の術具なんだ」
 るいの細く白い指が蛇のようにはう。
 確認する。
 こり。
 こり。
 こり。
 公昭がうめく。「うぐ!」
 そこは公昭にとって最も鋭敏な部分。
「本当にくっついてるんだね、取れないや」
 るいはあらゆる命を、等しく愛し、同じように犯してきた。
 奪命者とはそういうもの。
 だから公昭も犯す。
 やおら、るいは公昭の首筋にかみついた。るいは流れ出る血をすする。確信は裏切られなかった。いや、それ以上の味と言っていい。例えるならば、この世のものとも思えない甘い露(つゆ)。血の味わいには人の全てが凝縮されている、というのが夏目るいの考えだった。その考えはやはり正しい。るいは改めて、みずからの経験則の確かさを知る。背筋を駆け抜ける感覚にるいは酔う。
 まさに至福の瞬間だった。

 この瞬間を一ノ瀬雫那は待っていた。奪命者である夏目るいの注意がそがれるこの時を。
 狙撃地点として選んだのは病院のとなりに立つスーパーの屋上駐車場。
 そこは公昭の病室とほぼ同じ高さにある。
 雫那の指がトリガーをしぼってゆく。
 ばすっ。
 空気の漏れるような音とともに弾丸が飛ぶ。
 弾丸は、夏目るいの胴体にとどまり、内部を引き裂いた。
「命中」と、となりに座った観測手は、賞賛するでもなく歓喜するでもなく、事実をありのままに述べる。「次は頭だ」
 雫那はよどみなく次の弾丸を放つ。
 速射と言っていい。
 セミオート式の狙撃銃だからこその芸当だ。狙撃銃は主として、従来のボルトアクション式と、比較的新しいセミオート式に分けられる。ボルトアクション式は発射のたびにボルト(遊底)を手で引くなどのアクションを必要とするため速射には向かない。そこで『クダン』は狙撃手に高価なセミオート式を与えてある。その命中精度はボルトアクション式に並び立つほど。狙い通り、発射とほぼ同時にるいの側頭部が吹き飛んだ。
 白いベッドの上で鮮血が咲く。
 普通ならここで死んでいる。だが相手も奪命者。この程度で死ぬ相手ではない。
 それも承知の上。
 三つの球体が夏目るいの影の中から現れた。球体がほどける。中心核を包帯のように巻いていた板金がいくえにも重なってゆく。
 防壁を構成する。
 雫那が三度目の銃撃を行う。その銃弾をはね返す。球体が元に戻った時には夏目るいの姿は病室になかった。残されたのは意識不明となった松江公昭のみ。その場に残った三つの球体は雫那へ向かう。ここまでは作戦のうちにとどまっている。
 夏目るいと球体。
 これらを同時に相手にするのは危険だと判断された。
 各個撃破が望ましい。
「さて……」と雫那は狙撃銃を持って立ち上がる。「ご苦労さまでした。あとは私がやりますので……」
「了解した」
 と観測手は退避した。
 ほぼ同時に球体が屋上駐車場にたどり着く。再び球体がほどける。カミソリのように薄い板金が雫那に襲いかかった。外灯が、自動車が、バイクが、消火設備が手当たり次第に斬られてゆく様は鋼鉄の嵐が吹き荒れているかのよう。これらの猛攻の前には中途半端な装甲は役に立たないだろう。
 雫那が跳ぶ。
 板金の上を疾駆する。
 速く。流れる黒髪すら捉えられないほどの速く。それだけが身を守るすべ。
 空中で、しかも上下逆の体勢から、雫那は青い中心核を撃ち抜く。
 一体目を撃破。
 自動車の上に雫那は着地する。
 そこを狙われた。
「……っ!」
 両断された車が滑らかな断面をさらす。
 転がるように攻撃を避けた雫那は、狙撃銃が半ばから斬られていることに気づき、惜しげもなく投げ捨てる。
 これで徒手空拳となった。
 降魔刀・零式を呼び出すには一拍の間を必要とする。次々と迫り来る板金を回避するだけで精一杯。
 まるで雫那の思惑を読み取っているかのようにわずかな時間も与えてくれない。

 濁った夢の中で我を失っていた公昭は現をたぐりよせるように意識を回復させる。誰かが戦っているのは感じていた。自分だけ眠っているわけにはいかない。
 混濁した心と疲弊した体。
 あと何発、凶弾を撃つことが可能だろうか。
 だが今は考えまい。
 迷いを捨てて公昭は屋上駐車場へ向けて右手を突き出す。
 狙うは青い輝きを放つ中心核。
「発!」
 衰弱しつつも公昭はこれまでにない強烈な反動に耐える。
 だが物理法則を無視して中心核が回避行動をとった。
 このままでは外れてしまう。
「おお!」
 という公昭の叫びが世界へ向けて発せられる。
 凶弾が中心核の横を通り過ぎてゆく。
 術者の心を具現化したものこそが術式であるならば不可能はないはず。
「曲がれぇえ!」
 事象が歪む。凶弾が急旋回。
 それは矢玉でもある。
 それは猟犬でもある。
 ならば、この世に捉えられないものはない。
 凶弾が中心核に食らいつく。

 雫那を今まさに捉えようとしていた瞬間、二体目の球体がつぶれ、中心核は粘液となってアスファルトを焦がす。松江公昭による援護射撃だった。
 残る球体は一つ。
 喚起の声が屋上駐車場に響き渡る。降魔刀・零式が幽世から現世へと姿を現す。
 刀を大上段にかまえて雫那が中心核へ迫った。わずかながら球体の反応の方が速い。あと一歩のところで板金が巻き直されて元の状態に戻った。斬撃を弾く。刃が立たない。
 ここで球体は新たな変化を見せる。
 全方位にトゲが立つ。
 まるで槍衾(やりぶすま)。
 伏せられていた数多の槍兵が一斉に立ち上がったかのよう。
 避ける間もない。
 雫那は何本ものトゲに刺されて宙吊りになる。
「……ぁく……ぅ!」
 ばち。
 止めとばかりに電流が走る。
 一度。雫那は声すら出せない。
 二度。手足がけいれんする。
 三度。降魔刀を取り落とす。
 四度目――その前に公昭の援護射撃が来る。
 爆発とともにアスファルトの上に投げ出された雫那は頭から落下。ばらばらとトゲが四散する。ところが球体はいまだ健在だった。主である夏目るいの吸血によって球体も強さを増しているのかもしれない。それだけ彼女にとって松江公昭の血は魅力的ということか。確かにうなずけなくもないと雫那はおぼろげな意識の中で思う。
 松江という血脈と、公昭という個人。
 二つが加味されて独特の味わいになっているのだろう。
 奪命者である自分には分かる。
 思えば思うほど、その人の血が欲しくなるのだ。例え、その人を破壊してしまうとしても。
 それは自分も同じ。
 いや、耐えてきた自分の方が破壊衝動は強いかもしれない。
 欲しい。
 直哉の血が欲しい。
「……違……ぅ」
 かすかな息づかいとともに独白が雫那の唇から漏れる。
 どこが違うの?
 本当の自分がそう問いかけてくる。
 否定しつつも雫那はみずからの業を理解していた。
 それでも肯定できない。
「違う……!」
 心の底から浮き上がってきた破壊衝動をぶつけるように雫那は球体へと走った。
 手にしているのは地面に突き刺さっていたトゲ。
 無防備に直進してきた雫那に対し、しゅるりと球体はほどけ、板金で返り討ちにせんとする。
 単純な間合いで言えば板金の方がはるかに長い。
 血が弾けた。
 板金が雫那の胴を突き通す。
 雫那の突進が止まる。
「ああぁあ!」
 雫那の咆哮が荒れ果てた屋外駐車場に響く。
 手にしていたトゲを投じる。
 中心核を貫通。
 ばしゃ。青い泥になって中心核が崩壊する。これで全ての球体を倒した。
 雫那は仰向けに転がって空を見上げる。雲の隙間から冷たい月明かりが差し込む。屋上駐車場はひどい有様だった。極小(きょくしょう)の暴風雨でも吹き荒れたと思われても不思議ではない。
 どうしてだろう。
 それほど激しい戦いだったのに何の達成感もない。
 せっかく直哉が選んでくれた服も台無し。
「無様……」
 思わず自嘲する。
 しばらくして公昭がやってきた。
 いったい何の用だろう。
 体を起こすのもおっくうで雫那は顔だけ少し動かす。見れば、公昭は今にも倒れそうなほど衰弱していた。まさか自分の無事を確かめに来たわけではあるまい。
 そんな公昭が第一声を発する。
「なんとか無事のようだな」
「……」と雫那は失笑をこらえなければならなかった。
「可笑しいか。まあ、いい」と公昭はとなりに寝転がる。「疲れた」
 二人であおぐ月は今にも満ちようとしていた。
 祭礼の時は近い。
 それまでに夏目親子をおさえる必要がある。
「……夏目るいは……どう、しました?」
「逃げた。兵部員たちが追っている。今度こそ見失わないといいが」
「そう、ですか……」
 互いにしばし無言。
 沈黙が心地良い。
 間を置いて公昭が聞いてきた。
 言葉を飾らない率直な問い。
「どうして血を吸わないんだ?」
「私は……人間です。人間として生き、人間として死ぬ……それだけのことです」
「そうか、そうだな。すなまない、余計なことを聞いた」
 互いの原点を確認し合う。
 思い返せば、こうしてゆっくり話し合ったのは初めてのことかもしれない。
 公昭が珍しくお願いする。
「小野寺たちと友人になってくれないか」
「なんですか、やぶから棒に……」
「頼む」
「重荷が増えるのは好きではありません……」
「重荷か。そういう見方もあるだろうな。だが俺の見方は違う。大切なものが増えれば、その分だけ強くなれる」
「……逆でしょう。大切なものが増えれば身動きが取れなくなります……」
「戦いがむなしいと思う時はないか?」
「……ありますが?」
「顔の見えない大勢の誰かのためではなく、身近にいる友人たちのために戦う。それが次の戦いの原動力になる。俺はそれでいいと思う。俺たちは正義の味方ではない」
 正義の味方。
 その美しい響きに惹かれる者は多い。
 しかしながら正義の味方の仕事とは選別することにあると言っていい。
 人は皆、全能ではない。
 助けられない者は当然ながら存在する。
 では、誰を助け、誰を助けないのか。
 誰しもが納得する形で解決する策があろうはずがない。
「今夜はいつになく多弁ですね……」
「遺言かもしれないな」と公昭は苦笑する。「どうやら俺の寿命は尽きようとしているらしい。それはいい。だが、俺がいなくなった後が心配だ」
「考えて、みます……」
「ん?」
「小野寺さんたちと友人になる件のこと、です……」
「そうか、ありがとう」
 雫那と公昭は小さく笑う。
 誰かと眺める月は少しだけ温かかった。

■七月十日/月曜日

 電話を終えた僧侶はすぐそばに少女が立っていることに気づく。まったく気配がしなかった。礼拝堂にこもった熱気がいつの間にか冷めているのは気のせいか。それなのに背中に汗をかく。僧侶はこの少女に圧倒されていることを自覚する。光の加減で青くも見える瞳がこちらの動揺を見透かしているかのよう。少女の目が次第に大きくなる。錯覚だ。そうに違いない。そう思おうとしても僧侶は彼女の視線から逃れられない。夏目るい。旧友の娘だ。にもかかわらず何ら親しみを覚えないのは何故なのか。
 夏目るいは確認するかのように問う。
「どこへ電話していたの?」
「う……」
「通報したんでしょう? かくまってくれるって約束したのに」
「う……うるさい! 聖職にある者として見過ごせるか! 約束を破ったのはおまえたちだ!」
 しゅらりと刃が鞘内をすべる音がした。
 僧侶の背後から何か熱いものが突き刺さる。見れば、剣鉈(つるぎなた)が腹から突き出していた。かつて友であった夏目貴一の手による一撃だった。彼の気配もまったく感じなかった。
 貴一がなぐさめるように言葉をかける。
「残念だよ。万人を救おうとする君と、一人を救おうとする僕は、相容れない者同士だったのかもしれないね。となると、この結果も必然か」
 血の池が広がってゆく。
 池はやがて海となり僧侶の体が沈んでゆく。
 死にたくない。
 助けを求めて僧侶は外へはってゆく。
 共同墓地へ出た。
 民家まであと少し。
 そこへ夏目るいが僧侶のそばにしゃがみこんだ。
 血の一滴(ひとしずく)を白い指が口へ運ぶ。
「やっぱり嘘の味がする。本当は怖かっただけ。自分に災難が降りかかると本性が出るんだね」と、るいは血を吐き捨てる。「こんなの飲む価値もない」
 小さな靴が僧侶の頭を踏みつける。
 その力は少女とは思えないほど。
 頭蓋骨がきしむ。
 さらに負荷が増す。

 スイカのように中身が割れた。
 夏目貴一とるいは二人で円い月を見ながら言霊をつむぐ。
「熟田津に、舟乗りせむと、月待てば、潮もかなひぬ、いまはこぎ出でな」
 熱田津(にぎたつ)で、船に乗り込もうと月を待っていれば、潮の具合も良くなってきた。さあ今こそ漕ぎ出す時だ。
 祭礼が始まった。
 月が幽れる。



 蝕まれてゆく月を公昭も見ていた。いよいよ決戦か。命が惜しくないと言えば嘘になる。それでも戦いたい。ここで投げ出しては全てが無駄になる。ただ、その前に友人の声を聞いておきたかった。
 公昭は小野寺真幸に電話をかける。
 夜明けも近い。
 電話に出ないかもしれないと思った。
 呼び出し音が続く。
「もしもし?」
 と真幸の眠そうな声が聞こえてきた。
 公昭は不意に言葉を失う。何かを言おうとしていたはずだった。それなのに友人の声を聞いた途端、どのような言葉もふさわしくないように思えてしまう。
 しかし真幸はそれを尋ねようとはしない。
「なあ、公昭」
「ああ」
「退院したら、みんなでどこかに遊びに行こっか」
 それはあまりにも不自然な言葉。
 口にしてしまえば簡単に皮がはげるような嘘だった。
 だから公昭は少しでもこの嘘が続くように会話を続ける。
「そうだな、一ノ瀬も連れてどこかへ行こう」
「来てくれるかな」
「説得してみる。場所はおまえに任せた。俺はそういうところは知らない」
「うん。任せとけ」
「では、また」
 そう笑って公昭は電話を切る。
 真幸は勘が良い。踏み込んで欲しくないところには決して入ってこない。心の間合いをつかんでいるとでも言おうか。自分は良い友人を持てた、と公昭は改めて実感する。
 叶わない約束に背中を押された気がした。
 松江公昭は電話で三島を呼び、自分の決意を告げる。
「最後まで戦います」
「それでいいのか」と三島。
「はい。覚悟は決まりました」
「分かった。迎えをやる」と三島は答える。「……」
 電話が切れるまでの時間が少し長かった気がする。
 ためらいだろうか。
 だとしたら公昭はうれしい。三島監査官は常に冷静で内面をうかがわせることはなかった。だが公昭は、一瞬だけ彼の心のうちを垣間見たように思う。その気持ちに応えたい。公昭は公衆電話を置き、自分の病室に戻って準備をしようと足を向けると、背後に小野寺琴子が立っていた。どこか悲しげな様子だ。にもかかわらず明るさを失っていない。強い女性だと公昭は感嘆する。こんな人が母親で真幸たちは幸せだろう。
 公昭は別れを告げる。
「ご迷惑をかけました」
「迷惑?」と琴子はいたずらっぽく口元に手を当てる。「はてさて、それはどうかな? 人と人とのつながりに迷惑なんてものがあるかしら?」
「そうかもしれませんね」
「少なくともー私は公昭君に迷惑をかけられたことはないよ。逆はあるかもしれないけどさっ」
「いいえ、そんなことは」
「ところでねぃ、今月は私の誕生日なのだーということでプレゼント期待大!」
「は?」
 と公昭は面食らう。
 さすがに今の言葉は予想外だった。それでは生きて戻ることが前提ではないか。
 琴子が念を押す。
「期待してるからねぃ」
「分かりました。考えておきます」
 これで約束がまた一つ増えたことになる。
 それなのに体が軽くなったような気がした。



 二機の戦闘爆撃機が空爆するために高度を落とす。
 自国内にある民家を空爆するなど前代未聞。しかし命令とあれば従わざるを得ない。
 それより実務的な問題があった。
 目標があると思しき一帯だけがぽっかりと穴が空いたように黒々としているではないか。夜間に備えて暗視装置を装備しているにもかかわらず目標が見えなかった。よりはっきりとした目視のために背面飛行する。上下逆となったパイロットは首をめぐらして様子をうかがう。やはり何も見えない。姿勢を戻す。祈るような気持ちで計器類に目をやる。異常は見当たらなかった。では異常なのは自分か現実か。まさか。どちらもありえない。あるはずがない。
 となりを飛ぶ僚機も同様らしい。
 少なくとも自分だけが狂ったわけではない。
 任務中でありながらパイロットはほっとする気持ちを抑えられなかった。
 管制官を呼ぶ。
「目標を目視できない」とパイロットは救いを求めるように尋ねる。「どういうことか」
「問題ない」と管制官が答える。「すでに座標は入力済みだ。上空に達したところで投下すればいい。あとは爆弾が自動的に修正する」
「了解した」
 パイロットはそう答えるしかなかった。
 目標上空へ到達すると同時に抱えていた精密誘導爆弾を落とす。尾翼によって軌道を修正しつつ爆弾は吸い込まれるように落下してゆく。
 爆発した。
 機体は戦果を確認するためにゆるやかに弧を描いて飛ぶ。
 効果があったようには認められなかった。
「いったいどういうことだ」
 とパイロットは困惑を深める。
 確かに爆弾は目標に命中したかのように見えた。にもかかわらず状況は何一つ変わっていない。闇は闇のまま淀んでいる。
 まるで予定通りの出来事であるかのように管制官が指示を出す。
「帰還せよ」
「説明してくれ。この作戦はいったい何なんだ」
「帰還せよ」
 と管制官は命令をくり返す。
 不満を押し殺してパイロットは機首をひるがえして進路を変えた。僚機が続く。

「やはり通常兵器では結界は破れないか」
 報告を受けた三島がつぶやく。
 結界とは世界と世界の境界線を言う。通常兵器では境を越えられない。
 三島は主だった面々を前に作戦内容の説明を始める。
 まずは状況説明から。
 スクリーンが写真を映し出す。
「これは上空から撮影した写真だ」
 郊外にあったはずの小集落は真っ暗になって何も映っていなかった。
 停電などではない。
 ここは日本だ。だが同時に、その集落だけは異界でもあった。
 三島が説明を続ける。
「次は赤外線」
 これも同様だった。
 肉眼はおろか赤外線でも透過できない壁がある。
「これは祭礼のきざしだ。まさに神域と呼ぶにふさわしい。神を知覚することはできない。その神が降りようとしている場もまた同じ。おそらく結界による効果と思われる。結界内部の状況は不明。住人との連絡も取れない。結界がある以上、外側からの攻撃はほとんど意味がない。よって突入して内部から結界を壊す。ゼロ使いが突入路を切り開いたところから少数部隊を送り込む。突入後の指揮は高田瑞穂、おまえがとれ。以上だ、何か質問は?」
 誰も発言を求めない。
 三島は解散を命じた。

 公昭の用意はすぐに終わった。
 左腕が使えないので高田瑞穂に手伝ってもらう。
 そこで公昭はかねてからの疑問をぶつけることにした。
 落ち着いて話せる機会はもうないだろう。
「高田さん、貴方はどうして兵部員になったんですか?」
「はぁ」と高田瑞穂はため息をつく。「それを聞いてどうするの?」
「俺の母も兵部員でした。だから、どうして貴方が兵部員になったのか気になるんです」
「理由なんて簡単よ」
 殺したいやつがいるから、と瑞穂は本当にあっさりと告げた。
 中学の修学旅行、バスで移動中のこと。瑞穂たちは乗っているバスごと拉致された。祭司者である男は、祭礼をたくらみ、瑞穂たちをいけにえにしようとしたのだ。全ては母親をよみがえらせるため。救出された時、同級生のほとんどが犠牲になっていた。事件後、瑞穂の心は生き残ってしまった後ろめたさに囚われた。事件を忘れることなどできない。生き残ってしまった自分は死んだ同級生たちの無念を晴らす義務がある。その思いだけが瑞穂を支えた。
 公昭が尋ねる。
「それで祭司者は?」
「逃げたわ。そいつはきっと今もどこかで同じことをくわだててる」
 だから追い詰めて殺す。
 瑞穂はそう話を締めくくった。
「生き残ってしまった、なんて言わないでください」と公昭はうったえる。「それを聞いたら死んだ人たちが悲しみます」
 驚いたように瑞穂が顔を上げる。
 しばしの沈黙。
 瑞穂は何も言おうとしない。
 公昭が言葉を続ける。
「生き残った者の役目は、恨みを晴らすことではなく、生を楽しむことではないでしょうか」
「そんなこと三島監査官は言ってくれなかった」と瑞穂は再び目を伏せる。「不思議ね、貴方に固執する夏目るいの気持ちが少しは分かった気がする」
「どういうことですか?」
「いえ、なんでもない」と瑞穂は立ち上がる。「行きましょう」

 すでに他の兵部員たちが集まっていた。
 意外にも軽装だ。防具と言えばゴーグルやヘルメットなど必要最低限のみ。それもうなずける。鬼人体の怪力の前には甲冑すら無意味だろう。動きを制約する重い防具を身に着けるよりは身軽さを身上とした方が得策と言える。
 一人だけ私服の一ノ瀬雫那が兵部員たちの中で異彩を放っていた。
 上はカットソー。
 下はキュロットスカートにニーソックス。
 動きやすい衣装ではあるが、戦闘に臨むのであれば、もっと別の選択肢もあろうというもの。
 思わず公昭は声をかけた。
「一ノ瀬」
「……」
「おまえはその格好でいいのか?」
「ええ……」
「もっと戦闘に向いた服装もあるだろう」
 例えば公昭がはいているカーゴパンツのような。
 雫那はいつものようにぽつりと言葉を返す。
「直哉の選んでくれた服が一番落ち着きます……」
 公昭は話題を変えた。
「一つ頼みがある」
「遺言なら……自分で書いてください」
「違う」と公昭。「夏目るいと話す機会が欲しい。そのつもりでいてくれないか」
「この期におよんで……ですか……」
「今川高志の件がある。話し合う意思は最後まで捨てたくない」
「いいでしょう……その体で夏目るいのもとまでたどり着ければ、ですが」
 集合という瑞穂の声がかかる。
 先頭に雫那が立つ。その先には陰鬱とした道が続いている。距離感がない。すぐ行き止まりなのか、どこまでも続いているのか、それさえも分からないのだ。見ているうちに自分の正気を疑ってしまう。
 深呼吸して雫那が降魔刀を降り下ろす。
 降魔刀が結界に干渉する。平和を脅かす正と、平穏を望む邪。相容れない力が激しくせめぎ合う。皮肉なものだ、と公昭は思えてならない。本来なら人に平安を与える神が害をなし、従来なら人に害をなすと見なされてきた奪命者である少女が誰よりも平穏を願うのだから。やがて、にじみを落とすように闇が晴れていった。世界は嘘のような晴天。ただし空の中心にあるはずの月だけがない。
 盗まれた。
 月は盗まれてしまったと直感的に公昭は悟る。
 突入路が開く。道が開いているのは短時間のみ。手のひらが包み込むように、小さな虫が群がるように、闇は現実を再び侵食する。みるみる道は細くなる。その細道へ迷いも見せず兵部員たちが次々と入ってゆく。飛び込んでゆくと形容するにふさわしい鮮やかな動きだ。
 公昭も遅れまいと走った。
 あちこちにある傷が痛む。術式を使うには何より集中力が要る。だから公昭は鎮痛剤を断っていた。気をゆるめれば気絶しかねない激痛に耐えて公昭は駆け抜ける。
 背後で闇が道をふさぐ気配がした。



 内部に異常な点はなかった。
 高い建物のない小集落は、路地が入り組み、街灯はついたままだが人の姿は認められない。まるで集落全体が死んだような静けさが漂っている。
 しばらく障害なく進む。
 ところが途中、寝静まったはずの家からパジャマ姿の住人が出てきた。
 一人ではない。
 他の家からも次々と現れる。数は十数人にもなった。包丁、傘、ゴルフクラブ、バット、杖、消火器、椅子など身の回りにある物を手にして歩み寄ってくる。皆そろって目がうつろだ。おそらく鬼に操られているのだろう。
 公昭は、
「結界は働いていないのか?」と思わずつぶやく。
 屋内と屋外の境には結界がある。
 結界は世界と世界の境界線として機能する。その境界線が鬼を退けるのだ。しかし、この様子では多くの家が結界の機能を失っていたと見える。家族が家族でなくなった時、結界は消えてしまい、鬼を招き寄せることになる。
 包囲の輪が狭まってゆく。
 その時、雫那が風のように駆け出した。白刃をきらめかせて真っ向から突撃する。まずは正面の一人を斬る。
 近くにいた中年男性がゴルフクラブを大きく振りかぶった。
 その隙を見逃す雫那ではない。
 斬り伏せる。
 瞬く間に雫那は二人を斬って捨てた。
 最も近くにいた四人が雫那を囲む。まず体当たりするように主婦が包丁を持って突っ込んでくる。雫那は体をさばいて避けた。そのまま主婦は直線上にいた住人にぶつかって同士討ちとなる。雫那は、続いて踏み込んできた住人の膝を踏み砕いて跳び、軽業師のような身のこなしで包囲の輪から抜け出した。
 そこで瑞穂の指示が飛ぶ。
「榴弾、発射!」
 密集した敵の中心部で榴弾が炸裂する。爆発とともに約八百個にもおよぶ鋼球が四方八方へまき散らされる。いく人もの住人が倒れた。もちろん雫那は無事。言葉を交わしていないと言うのに絶妙な連携だった。
 血路が開く。
 瑞穂たちが追いすがる残りの住人たちを足止めする。
 公昭たちに瑞穂が指示を出す。
「行って!」
「しかし」と公昭。
「行きなさい!」
 と瑞穂は重ねて命じる。
 雫那が走り出す。銃声を背に公昭も追いかけるように走った。
 目的地は分かっている。
 高まる霊威。もはや神威と呼ぶべきか。その力が波となって公昭に伝わってくる。
 強い。
 目をつむってもいてもたどり着けると思えるほど。
「あそこか」
「……そのよう、です」
 と雫那も同意する。
 狭い路地の先に教会の尖塔が見えてきた。だが嫌な道だった。あまりにも狭い。かろうじて一人だけ通ることができる。
 できれば迂回したい。
 だからと言って避けるような時間的余裕はなさそうだった。
「……行きます」
 先行する雫那について公昭も進む。
 がしゃん、と前方でガラス窓が割れる音がした。住人が頭からガラス窓を叩き割ってはい出してくる。ゆっくりと立ち上がる。公昭が凶弾を撃とうとした瞬間、がしゃんと先ほどと同じ音が後方で響く。やはり住人が窓を突き破って出てきていた。
 前後を挟みこまれた状況。
 雫那が前に出て斬りかかる。
 住人が爆発した。自爆だ。吹き飛ばされた家屋が粉塵(ふんじん)をまき散らす。雫那の姿は見えなくなった。
「一ノ瀬!」
 叫ぶ公昭の肩を背後から住人がつかむ。
 霊威がうねる。
 自爆するつもりか。
「発!」
 振り向きざまに公昭が凶弾を放つ。
 あえて体の力を抜いて反動で後ろへ跳ぶ。
 右手だけで受身を取りつつ地に伏せた。
 やや遅れて爆風が巻き起こり、さらに惨禍を広げる。
「一ノ瀬! 無事か!」
 返事はない。
 公昭は立ち上がって教会へ走った。
 共同墓地に出る。
 そこで新たな人影を認めて公昭は立ち止まった。
 薄汚れたコート。手入れの行き届いていない無精ひげ。それでいて眼光は鋭い。
「夏目貴一!」
 公昭が右手をかざしても彼は動じない。
 まだ公昭は撃たない。
 確認しておくべきことがあった。祭礼は彼の背後に建つ教会で今も進行している。では祭司者である夏目貴一はここで何をしているのか。
 無言の問いに答えるように貴一は秘密を明かす。
「もう僕がいてもいなくても、月が満ちれば杯も満ちる。あれはそういうものだから」
 月盤(げつばん)――人間の頭蓋骨の頭頂部をくり抜いて作り出された皿は、変若水を生み出すことから祭具として最上位に属する。あまりにも忌まわしい技と言えるだろう。そのオリジナルは文化財という名目で『クダン』の厳重な管理下にあると聞く。
 破壊すべきだと公昭は思う。
 危険視しながら保管するなど矛盾ではないか。
 とは言え、一度食べてしまった果実を吐き出せないように、一度知ってしまった知識は捨てることができないのかもしれない。夏目貴一も祭礼について何も知らなければ道を踏み外すことはなかっただろう。
 そうであるとしても犯した罪は重い。
 公昭が弾劾する。
「貴方は自分たちがどれほどの犠牲者を出したのか分かっているのか!」
 二度目の問いとなる。
 それは分かっていた。
 それでも公昭は問わなければならなかった。それが生きている者の義務であるような気がして。
 祭司者である貴一がしばし考え込む。
「そうだな、ざっと千人くらいだと思う」
「貴方は何も分かっていない」と公昭はさらに責める。「犠牲になった人々を単に数量として捉えていても罪を自覚したことにはならない。一人一人に人生がある。貴方はその未来を奪った」
「何と言われようと僕はかまわない。あらゆる非難を受け入れると決めたんだ」
 さて、と貴一は語調を改める。
「改めて聞くよ。僕たちにはそれぞれ変若水を求める理由がある。生きるために君にも必要だろう。見たところ長くはないようだよ」
「もっと生きたい。それは本当の気持ちだ」と公昭は率直に認める。「それでも信念は曲げられない。曲げてしまっては松江公昭という人間は死ぬ。人道を外れるとはそういうことなのだと思う」
「やはり戦うしかないようだね」
 しゅらり、と腰の鞘から夏目貴一は剣鉈を抜く。
 公昭の目が留まる。
 術具と見て間違いない。鉈とは武具と言うより道具と呼ぶべき物。獲物を解体する時にも重宝する。おそらくは、人と獣の区別もなく多くを殺めていった末、術具として働くようになったのだろう。
 いかにも重たげだ。
 それは、単なる重量のためか、これまで奪ってきた生命の重みか。
「風神(かざかみ)。これが僕の術具だ。君の凶弾に勝るとも劣らない」
 公昭は宣戦布告と見なす。
 もはや待つ必要はない。
「発!」
 真っ向から貴一が突っ込む。
 剣鉈が一閃する。風が巻く。その風に凶弾が切り裂かれて四散した。
 ゆらり、と貴一が上半身を起こす。
 その挙動は老いにさしかかった獣を思わせる。
 危険だ、と公昭は本能的に悟った。若い獣の俊敏さと、老いた獣の狡猾さが合わさった時期、それは最も恐るべき存在として狩人を迎え撃つ。
 どう対処すべきか迷う公昭の間隙を突いて貴一が迫る。
「発!」
 薄汚れたコートが公昭の視界いっぱいに広がる。
 凶弾を飲み込む。
 信じられない光景に公昭の動きが止まる。コートのすそが戻った瞬間、斬撃が公昭を見舞う。
 とっさにギプスで固められた左腕で受けた。
 左腕が空に踊る。
 剣鉈の鋭さの前にギプスなど無意味だった。
「爆!」
 公昭が煙幕を張る。素早く離れる。墓石にもたれかかって傷口をしばる。断面に灼熱の棒を当てられたように熱い。
 霧の向こうから貴一の声が悠然と聞こえてくる。
「言っていなかったね、このコートにはるいの髪の毛が編みこんである。あの子の力の一端が僕にも使えるんだよ」
 戦いのおいて手のうちを隠しておくのは常道。
 むしろ術具が一つだけだと思い込んでいた自分が浅はかだったのだ、と公昭はようやく感じ始めた痛みに耐える。状況は悪くないと公昭は思うことにする。複雑骨折していた左腕はすでに死んでいたも同然だった。問題なのは出血の方で、応急処置のよって抑えられてはいるが、完全には止まっていない。
 貴一の呼びかけが続く。
「これが最後だ。るいは君を気に入っているんだ。できれば僕らの仲間になって欲しい。もう勝敗は見えただろう」
 武具と防具。
 どちらもそろえた貴一は攻防において隙がないように思える。
 対する自分はどうか。
 もともと遠距離から撃つ以外に能がない。イメージが足りないのだと公昭は思い知らされる。術者の強さはどれだけ明確に心象を思い浮かべるかにあると言えよう。自分にはそれが足りなかった。
 やがて霧が晴れる。
 黒い人影がぼんやりと浮かび上がってゆく。
 完全に霧が晴れた時、公昭が見たのは黒い甲冑(かっちゅう)で装った貴一の姿だった。外骨格のように全身をおおう装甲。その色は夜の闇よりも濃い。
 降伏を勧めながらも次の一手は着実に打っておく。
 実にろうかいな戦いぶりだ。
 この男なら、と公昭は再認識する。この男なら『クダン』の追跡から今まで逃げおおせていても不思議ではない。
 甲冑を着ているとは思えない敏捷さで貴一が迫り来る。
 公昭は世界に向けて宣言する。
「甲!」
 残った右腕で剣鉈を受け止める。
 装甲が耐えた。
 今度はこちらの番だ。肘で打つ。肘打ちの打点に力を込める。これまで凶弾を撃つのは右手からと決まっていた。そう思い込んでいたのは自分自身だ。自分で自分をしばっていた。それは、本当は羽ばたけるのを知らなかっただけ。だから全てを解放する。
 公昭の口から叫びがほとばしる。
「発!」
 凶弾が肘の当たった腹に炸裂する。
 貴一が大きく後ろに弾かれた。
 黒い甲冑にひびが入っているのを外灯が暴き出す。効いている。猛然と公昭はさらに踏み込む。公昭と貴一が激しく打ち合う。二人は語るべきを語り、もはや話し合う余地はなく、ただ敵を撃破することに集中する。
 貴一が剣鉈を振るうとともに風が舞う。
 からみつく風。
 公昭の動きが封じられた。万事休す。必殺を期した一撃が公昭を襲う。
 そこへ何かが投じられた。
 反射的に貴一はその何かを剣鉈で弾き飛ばす。
 公昭の足元に突き刺さる。
 それは小柄だった。公昭はいつか見たことがある。
 期せずして同じ方向を向いた公昭と貴一は新たな人影を認める。
 そこに立つのは――。

「一ノ瀬!」と松江公昭という若い警手が喜色を示す。「無事だったか!」
「ゼロ使い!」
 と叫んで貴一は後ろへ跳ぶ。
 小柄を投じて公昭を窮地から救った雫那はゆっくりと公昭へ歩み寄る。
 貴一にとっても予想外だった。
 先ほどの爆発はこちらからも見えていた。あの爆発に巻き込まれて、これほど早く回復できるとは。
 二人はこちらを油断なく見つめながら言葉だけを交わす。
「……約束を覚えていますか?」
「なに?」と公昭。
「夏目るいと話し合う機会が欲しい、という件です……この場は私が引き受けます。行ってください」
「すまない」
「いえ……単に一人の方が戦いやすいだけ、ですから……」
 公昭が左腕を押さえながら駆け出す。
 逃がすものか。貴一の持つ風神がうなりを上げる。突風が刃となって公昭を背後から狙う。
 そこへ雫那が割って入る。
 降魔刀を振るう。斬撃が斬撃を打ち消した。雫那のかまえる降魔刀が薄明かりの中でほのかに白い光を放つ。
「解せませんね……祭司者の貴方が足止めとは」
「もう僕がいなくても祭礼は完成するからね」
「貴方は……初めから死ぬ気だったのですか?」
「そうだよ。初めから僕の命は娘のために使うと決めている」
 そう、彼女が生を受けたあの瞬間から。
 亡き妻との間に生まれたかけがえのない宝物。それを守るために半生をささげた。後悔などない。
 それなのにゼロ使いと呼ばれる少女の反応は思いもかけないものだった。
「やはり違う、ようです……」
「なに?」
「貴方は直哉とは違う……直哉は優しくて、でも厳しい。私が間違っていたら叱ってくれる……」
「親なら子供のために全てを投げ打つべきだよ」
「人として死ぬべきか、人から外れても生きるべきか……私なら前者を、選びます」
 降魔刀の切っ先がこちらに向けられる。
「夏目貴一。貴方を害人と認めます」
「ではどうする?」
「……」
 一ノ瀬雫那が無言で斬りかかる。
 雫那と貴一が切り結ぶ。
 両者に交わす言葉はなく、悲鳴を上げるは第五元素のみ。地は乾き、水は枯れ、火は鎮まり、風は凪ぎ、万物は無色へ帰る。すなわち人が着色する以前へと。あらゆるものが意味を失う中、なおも降魔刀・零式の存在感は増してゆく。
 これは本当に刀なのか。
 相対する貴一の胸に疑惑が浮かぶ。
 刀の形をした何かとしか言いようがない。
 そもそも、
「毒をもって毒を制し、悪をもって悪を討つ」
 というのが『クダン』のモットーであったはず。
 であるならば、その正体にもおおよその察しがつく。零式――それは、成功作であり失敗作でもある。高性能であっても人の手に余るものは兵器と呼べないだろう。むしろ凶器と言うにふさわしい。そこに宿るのは人工的に生み出された魔だと聞く。人間は、ただ闇を恐れ、夜を昼に変え、それでも足りず人工的に魔を生み出すに至った。魔を駆逐するためにだけ存在する魔。果たして正義はどこへ行ったのか。あるいは、いたずらに強欲があるばかりで、正義など初めから存在しなかったのかもしれない。
 少女は、
「……果て無き強欲……」
 と零式にささやきかける。
 祝うように。
 呪うように。
 質量さえ感じさせるほどの圧倒的な闇が貴一を飲み込もうとうねる。
 刹那、貴一を矛盾する感情が挟み込む。自分の身を守ろうと後退しようとする本能と、るいには決して近づけさせまいと前進しようとする意思と。
 医師を辞めた。
 人道を外れた。
 それでもゆずれないものがある。
 だから前へ進む。
 この少女だけは決して娘には近づけさせない。

 肩で押すように公昭が重々しい扉を開けると、そこは礼拝堂だった。人々が祈りをささげる場所こそ祭礼を執り行うにふさわしい。そこが異教の神の聖堂であろうとも祈りの場であることには変わりがない。
 祭壇の手前には見知った少女が立つ。
 待ち人来る。
 そんな様子で夏目るいは微笑む。「やっぱり来てくれたね、公昭」
 るいは左腕を失った公昭の状態について尋ねる。
「その左腕はお父さんにやられたの?」
「ああ」
「大丈夫? ふらふらだよ?」
 公昭はともすれば薄れそうな意識の中で思う。
 確かに血を流し過ぎたかもしれない。
 自分も。
 他人も。
「まだ祭礼は完成していない。今なら間に合う。もうこんなことは止めるんだ」
「どうして?」
 と、るいは小首をかしげる。
 心底、不思議そうに。
 公昭は説得を続ける。
「今、外では君の父親が一ノ瀬と戦っている。止めさせるには祭礼を諦めるほかにない」
「お父さんは勝つよ」
 と、るいは断言する。
 見ずとも結末を知っているかのように。
 公昭が問う。
「どうしてそう言い切れる?」
「信じてるから」
「俺は一ノ瀬を信じる。あいつには帰る場所がある。だから必ず勝つ」
「意見の相違だね」
「ああ」
「公昭には帰る場所はあるの?」
「ある」
 と公昭は即答する。
 あの眩しい日常。
 あそこに帰るためならどのような難敵に当たっても望みは捨てない。
 誘うようにるいは重ねて問う。
「だから私にも勝てる?」
「君に帰る場所がなかったなら俺が勝つだろう」
「そんなに重要なことかな、帰る場所って」
 るいには理解できない様子だ。
 それもそのはず。
 彼女はずっと放浪を続けていた。
 愛着を覚えるいとまがなかったのだと今なら公昭は分かる。
 それでも公昭は説得を諦めない。
「重要だ。戦いにおもむけるのは帰る場所があればこそなんだ。生きて帰りたいという思いが戦う力になる」
「力は力。暴力は暴力。それだけでしょう?」
「違う。大切なのは心だ。心をなくしてしまえば人は鬼になる。それだけはやってはいけない」
「じゃあ見せてよ、公昭の言う力を」
 どこからともなく杖が現れる。
 るいがアントニウス十字で飾られた杖を振るう。
 公昭は青い火炎にのまれる。
「発!」
 術式が術式を相殺する。
 火の粉が舞う。
 公昭は右手を突き出して狙いを定める。
 狙うは、るいの背後にある月盤。
 これを壊せば戦いは終わる。
 とは言え、るいが黙ってみているはずもなく、彼女は新たな怪異を引き起こす。何もない空間から数多の口が現れる。それらは互いを食らいながら体積を増してゆく。あっという間に人の背を超える肉塊になった。口という口から世も人も恨む怨嗟(えんさ)の声が漏れる。一つ一つの声に意味はない。それなのに公昭はつい耳を傾けてしまう。
 意識がかすむ。

 降魔刀と剣鉈がそれぞれの敵をつらぬく。
 相討ち。
 どちらも重い傷を負った。一ノ瀬雫那に限っては違うとも言える。彼女は奪命者。常人なら致命的な傷を負っても回復してしまう。貴一はそれが分かっているのか、雫那の腹に突き刺した剣鉈を下に切り下ろし、さらに傷を広げてゆく。びくんびくんと手足を震わせながら雫那はけいれんする。雫那は声すら出せない。剣鉈はそのまま下腹部まで切り開いた。全身の力が弛緩し、両足の付け根から液体がびしゃびしゃと漏れる。
 最後の力を振りしぼるように貴一が歌を詠む。
「人魂の、せをなる君が、ただひとり、あへりし雨夜の、ひさしくおもほゆ」
 ただ一人で歩いていた雨の夜、人魂と出会ったのを思い出す。
 不気味な歌だ。
 それを貴一は恋の歌であるかのように詠う。事実そうなのかもしれないと雫那は消えかけた意識の中で思う。夏目るいの母親の記録はどこにもなかった。あるいは、その母親のことを想って詠ったのではないか。けれど人魂とはどういうことだろう。もし人魂というのが夏目るいの母親を指すのであれば彼女はどこか人間離れしたところがあったのかもしれない。だとすれば何とも悲しい。貴一のこのような結末はきっと彼女も望んでいない。
 地面が変化した。貴一の影が伸びてゆく。影は、油田のようにぬめり、あっという間に池となる。
 黒い池に雫那と貴一が沈む。
 致命傷を負いつつも貴一はまだ剣鉈を放さない。
 逃れられない。
「貴方は……」と雫那がせき込むようにあえぐ。「最初、からっ……これを狙って……?」
 抗う甲斐もなく雫那は幽世に飲み込まれていった。



 異変は教会内にも伝わってきた。
 目の前に迫っていた肉塊に公昭は気づく。
 一瞬、遅い。
 公昭は肉塊にのまれる。
 体内で叫ぶ。
「発!」
 肉塊が爆裂する。
 血と肉にまみれて公昭がはい出た。
 るいの姿を認める。もっとも、すぐに見えなくなる。脳の認識が歪ませられたのだ。くすくす、という笑い声だけが礼拝堂に響く。声は反響し居場所をつかむ手がかりとはならない。
 公昭は目を閉じて気配を探る。
 意外にも近くにいた。間合いの中だ。
 公昭は確信した。今、踏み込めば殺せる。
 腕を伸ばす。
 公昭はるいを引き寄せた。
 だが、つぶやくのは術式ではなく告白。
 まるで今まで胸中にあったかのように言葉がつむがれる。

「君の孤独を知り、君の我欲を愛し、君の欠落を埋める。それはきっと俺にしかできないことだと思う」

 どうして自分は隠身を好んでいたのか。
 公昭に抱きしめられた瞬間、るいは分かってしまった。姿を隠していたのは見つけて欲しかったから。
 欲しかったのはこの温もり。
 るいは公昭の背に腕を回して服をつかむ。
 吐息が漏れる。ずっとこの温もりに包まれていたい。
 ずるり。
 公昭が崩れ落ちるように倒れた。
「公昭?」
 公昭は倒れたまま沈黙している。
 見れば、切断された左腕から激しく出血していた。
 このままでは彼は死ぬ。どうしよう、と命を奪うことしかできない夏目るいは初めて自分の出生を呪う。
 その時、祭礼は完成した。
 一瞬にして景色が切り替わる。月明かりの照らす平原にはあるはずのない地平線が無限に続く。
 るいのそばに何者かが天から降り立った。
「誰?」
 姿は見えない。
 真実そこには誰もいなかった。降り立ったのは純粋な力そのもの。善にも悪にもなる無色透明な力の一端を前にして、るいは言葉を失い、震えた。そこにあって、そこにない物。ある時は天災を起こし、ある時は天恵を授ける者。かつて人々がこれを神と呼んだ理由も分かる。
 草地に置かれた月盤が澄んだ液体で満たされる。
 これが変若水か。
 これがあれば自分も公昭も救われるのか。
 神はただ、るいの様子を見つめている。
 飲めとは言わない。
 飲むなとも言わない。
 神とは天という巨大な何かの端末なのかもしれない。だとすれば、意思があるはずもなく、全ては人事にかかっている。
 人事。
 すなわち人がなすべき事。
 るいには今、それは一つしかなかった。
 神は再び幽れ、世界は元に戻る。
 公昭を助けたい。るいは杯を傾ける。変若水を口に含んで公昭のもとにしゃがみこむ。公昭は意識を失ったまま。
 唇と唇が重なる。
 無抵抗の公昭は変若水を飲んでくれた。るいも口に残った変若水を飲み込む。これで公昭の傷は回復するだろう。そして自分も霊障から解放される。幼い頃、るいはただ苦しかった記憶しかない。渇きを満たすために血をすすって生きてきた。快楽と苦痛のくり返し。そんな惨めな生き方もこれで終わる。自分は人として完全な者となるのだ。公昭とともに普通の人生を生きてみたい。
 唐突に公昭の体が波打つ。
 激しいけいれん。
 押さえようとするるいの前で公昭の体が膨張する。
 異変はるいの身にも。
 二人の体が弾けた。



 教会へたどり着いた瑞穂たちは怪異を目の当たりにすることになる。それは、有機物も無機物もかまわず吸収し、巨大化する肉塊だった。すでに教会は取り込まれ、肉塊は次なる獲物を求めて移動を始める。民家を虫食み、住人たちをむさぼり、体積を増しながら肉塊は市街地を目指す。本能的にエサが多い場所が分かるのだろうか。あるいは、そうなのかもしれない。生命は生命を求める。それが例え肉食獣と草食獣の関係であろうとも。
 瑞穂が命じる。
「カールグスタフ! 榴弾、放て!」
「しかし……」と射手は言いよどむ。「どこを狙ったら良いのか」
「どこでもいいわ。あれだけ大きい的よ。外しようがない」
「了解。下がってください」
 榴弾が発射された。
 カールグスタフ無反動砲が反動軽減のため後方へ強烈な爆風を噴き出す。榴弾が炸裂し、およそ八百個の鋼球をばらまいて、肉塊を引き裂く。肉塊全体が波打つようにうねる。しかし致命傷には至らない。それどころか息をのむ間もなく肉に埋もれるようにして傷がふさがれてしまう。気のせいか、先ほどより凶暴さを増したように思われる。地面をなめるように肉塊が移動した後には何も残らない。無残に土をさらすのみ。これが市街地へ雪崩れ込めば同様の結果が待っているだろう。
 瑞穂が独白する。
「やはり小火器では太刀打ちできないの?」
 この化け物について話には聞いていた。
 まさか、これほどの生命力を見せるとは予想もしなかった。自分はどこか常識の範囲内で捉えていたのかもしれないと瑞穂は思い知らされる。小火器では無効だと分かった以上、他の手段にうったえるほかにない。携行可能な武器を小火器と称すならば携行できない大型武器を重火器と呼ぶ。重火器による砲撃ならば倒せるかもしれない。今はそこに望みを託すほかになかった。
 瑞穂は三島に連絡を取る。
「水蛭子です! 市街地へ向けて南下中!」
 水蛭子。
 生命の原型がああもみにくいものだと知れば人々はどう思うか。
 瑞穂が問う。
「祭礼は完成しなかったのでしょうか?」
「推測はできる。現代人では月盤の材料として徳が足りなかったのだろう」
 それが最初から分かっていれば争う必要などなかった。
 最後まで話し合いでの解決を望んでいた公昭の言葉にもっと耳を傾けていれば、と瑞穂は思わずにはいられない。
 三島はあくまで淡々と応じる。
「状況は理解した。おまえたちは避難しろ」
「では……?」
「重火器でなければ止められない。ガンシップを使う」
「ガンシップ!」と瑞穂はおどろきを隠せない。「監査官はこのような事態を予測されていたのですか?」
「奪命者が最終的に水蛭子になるのは分かっていたことだ。時間が惜しい。これで通信を終える」
 ガンシップとは主に、輸送機に大砲や機関砲といった重火器を搭載し、攻撃機として改造された航空機を指す。もとになった機体が輸送機であるため、多くの武装と弾薬を積むことができる。武装は全て機体の左を向く。これにより、攻撃目標の周りを旋回しながら切れ目なく砲撃できる。その攻撃はまさに弾雨と言うにふさわしい。開発目的からはまったくの想定外ながら水蛭子に対してこれほど有効な兵器もないだろう。
 弱点もある。
 対空砲火にもろく、さらには他の航空機との戦闘をまったく考えていないため、使いどころが難しい。
 長所が短所になったと言える。
 使いこなせる軍事組織は圧倒的な空軍力を誇る米軍のみ。だが、そもそも軍を相手にしない組織もある。それが『クダン』だ。ガンシップを所有できるのも思いやり予算の一部を流用する『クダン』ならばこそ。
 砲撃が始まった。
 すでに水蛭子は川岸まで移動していた。この川を越えれば市街地になる。もはや水蛭子の大きさは瑞穂の位置からは正確には分からなくなっていた。あまりにも大き過ぎる。
 遠雷のような砲声が瑞穂のところまで届く。
 夜空に火花が鮮やかに咲いた。もう結界はない。機関砲を初めとする重火器の砲火を浴びて水蛭子がのた打ち回る。
「効いてる」
 と瑞穂は双眼鏡で状況を見つめながらつぶやく。
 ガンシップは水蛭子の足止めに成功していた。
 榴弾が水蛭子の頭上で炸裂して数千本の矢を降らせる。機関砲弾が水蛭子をつらぬいて大穴を開ける。ガンシップは旋回を続けながら攻撃の手を休まない。砲撃によって細切れにされた肉片が腐ってゆく。それでも水蛭子の活動は終わりを見せなかった。極だ。水蛭子の弱点である極さえ破壊できれば終わる。とは言え、極の場所を見抜く能力を持つ術者がすでにいない。一ノ瀬雫那も松江公昭も脱落した以上ひたすらに弾雨を降らせるよりほかに手段がないだろう。
 熱風が瑞穂のもとへ腐臭を運んでくる。
 肉の焼けるひどいにおいだ。
 においに耐えて瑞穂は見守り続ける。
 ガンシップが水蛭子に打撃を与えているのは間違いない。このまま攻撃を続けていれば水蛭子の生命力もいずれ尽きるはず。
 不意に水蛭子の口の一つが大きく開く。
 そこから一条の光がほとばしった。光がガンシップをつらぬく。
「まさか凶弾?」と瑞穂。
 被弾したガンシップが墜落してゆく姿が小さく見える。
 これで止めるものはいなくなった。水蛭子が再び動き出す。



 囚われた一ノ瀬雫那はぼんやりとした意識のまま幽世を漂う。
 そこは常に夜。
 それなのに不安はない。
 優しい夜に包まれているような感覚がある。手を伸ばせば全てが手に入るようでいて、あえて手を伸ばす必要を感じない。何もかもが満たされた理想郷であるかのよう。その一方で、あらゆるものが等価だから誰か一人が欠けてしまったとしても誰も気づかない。その本質に雫那は違和感を覚えてしまう。自分はどうしようもなく異物だ。けれど、異物であればこそ全てを許されたまどろみの中でも自分を見失うことがない。
 欲しい物はただ一つ。
 欲しい者はただ一人。
 例え理想郷であったとしても、その中で夢見ることができない。
 そのことに雫那は気づいてしまった。
「貴方はどうして満足できないの」と、みんなが優しい声音で雫那を責める。
「私には……帰るところが、あります」
 このような世界の在り方を雫那は拒絶する。
 決意した瞬間、その手には降魔刀が握られていた。その手に剣があるならおまえはどうするのか、と問われたことがある。今は昔。しかし、その時の答えを忘れたことはない。
 雫那は世界に向けて答える。
「……この手に剣があるなら……私は未来を切り開く」
 雫那は世界を切り裂く。
 降魔刀とともに雫那は現世へと戻る。

 気がつけば雫那は橋の上にいた。
 対岸はすでに水蛭子で埋め尽くされていた。
 後ろには市街地。
 この橋を突破されれば市街地は一瞬にして地獄と化すだろう。
 猛烈な勢いで水蛭子が迫る。前進しているのではない。ただひたすらに橋を侵食しているのだ。水蛭子の重みで橋のあちこちがきしむ。腐臭が漂ってくる。肉塊となった公昭とるいは絶え間なく新生と腐敗をくり返す。おぞましい怪異を前にしても雫那の心は凪いでいる。彼女は今、ただ己の心を見つめていた。
 自然と歌がつむがれる。
「天地(あまつち)の、初めの時ゆ、うつそみの……」
 大上段に振りかざした降魔刀を振り下ろす。
 光が弾けた。
 欠片となって世界に散らばる無色の力に色が付く。無色から万色が生まれる。視界全体にまばゆい光がきらめく。一瞬ごとに色が変わる様はまるで万華鏡。まさか自分の術式でこんなにもきらびやかな色が出るとは、雫那は思ってもみなかった。術式は術者の心を映す。術者の色が世界を染める。自分の心にもこのような面が残っていたのだろうか。それは、きっと今とても素直な気持ちであの人のことを想っているから。
 暴力的でもなく、かと言って虚無的でもなく、ただ圧倒的な光の中で水蛭子がゼロに還ってゆく。
 そして雫那は戦友に向かって呼びかけるのだった。
「松江さん、いつまで寝ているつもりです。起きなさい。貴方の決意はその程度だったのですか」

 肉塊に飲み込まれた松江公昭はいつの間にか別世界へいることに気づく。
 小さな病室で夏目るいと二人きり。そこは、おそらく彼女が幼い頃にいた場所。何故か、それが分かる。となりに寝ていたるいが自分を見つめていた。
 るいは目を細めて笑う。
 愛しくて公昭が手を伸ばすとるいの手が重なる。
 るいが身を起こす。
「そろそろ行くね」
「どこへ?」
 るいは答えない。
「公昭は生きた方がいいよ」
「俺もいっしょに行く」
「駄目。だって私が死ぬより公昭が死ぬ方が嫌だから」
「だが君はどうなる?」
「私はもう大丈夫。公昭から勇気をもらったから。じゃあ、ばいばい」
 彼女は小さく手を振った。
 世界が切り替わる。
 公昭の意識が再び薄れてゆく。

 肉塊の中から裸のまま公昭がはい出てきた。
 あるいは押し出されて。
 それが何者によるものか雫那にはすぐに見当がついた。
「松江さん……っ」
 と一ノ瀬雫那が救助する。
 公昭の意識はない。
 何故か左腕が再生されていた。極という単語を雫那は思い出す。極を持つ奪命者は、対となる極を求めており、子供とも呼べる一人を産んで消滅する。夏目るいは松江公昭の新しい体を生み出して消えていったのだろうか。あれほど生に執着した彼女が。けれど違和感はない。彼女はそれ以上のものを手に入れたのだろう。それが何なのか雫那には分かる。言葉にするまでもない。それより今はこの生を喜ぼう。
 明かりのもとに人は集う。
 人のもとに明かりは灯る。
 雫那は公昭の肩をかついで明かりのある方へ歩いていった。
 二人が帰るべき場所へと。



 公昭は白い砂が舞う砂漠を歩いていた。
 砂丘の連なる単純な地形がいつ果てることなく続いている。
 まるで月面のように一面が白い。だが空を仰いでみても青く水をたたえた星は見えなかった。雲の少ない空は澄み切って、見上げているはずの公昭は落ちてゆくような錯覚を覚えるほど。ここはどこなのか、いつからここにいるのか、全てがあいまいなまま公昭は当てもなく歩を進める。
 ぱきり。
 足元で奇妙な音がした。
 一瞬、公昭は貝殻を踏み砕いたのかと思った。だが、よく見るとそれは骨だった。大きさと形から推測するに、おそらくは人骨。公昭は周囲を見渡す。まさかこの砂漠の全ては砂のように細かく砕かれた人骨で埋め尽くされているのか。
 砂丘に立つ人影が見えた。
 公昭は走り出す。
 砂のせいで思ったように進まない。
 足をもつれさせながらも公昭は人影から目を離せなかった。
 ある予感が公昭を急かす。
 刃を交わすには遠く、言葉を交わすには十分な距離で公昭は止まった。
 向こうから声をかけてくる。
「公昭か。久しぶりだな」
 父の松江公則が驚く様子もなく立っている。
 対する公則は動揺を隠せない。
「どうして? 死んだはずだ」
「それを言うならおまえも死んでいるはずだ。私が調べたところ、ここは松江家に生まれた者たちが最期にたどり着く場所らしい。おそらく幽世の一部だろう」
 見ろ、と公則は砂をつかむ。
 風に乗って人骨が舞う。
「ここに散らばる骨は全て、松江家に生まれた者たちと、松江家が殺めてきた者たちの成れの果てだと思わないか? まさに私たちが最期に見るにふさわしい景色だ」
「そんはずは……」と公昭は言いよどむ。
「私も、おまえも、これまでの者たちも、正義の名の下に多くの命を奪ってきた。これはその結果に過ぎん」
「父さん、貴方はこれを見て何も思わないのか。こんなものが俺たちのやってきたことだと?」
 と公昭は思わず声を張り上げる。
 全身で否定したかった。
 みずからの命を削ったのは人々を守るため。
 自己満足に過ぎないとは分かっている。それでも戦いの先に人々の笑顔があると信じて戦った。けれど、この砂漠が全て犠牲者だと言うのなら、結果的には殺戮をくり返しただけになってしまう。これほど多くの命を殺めてきた歴史を前に、なお平然として動じることのない父の姿が信じられなかった。
「その通り」と公則は断言する。「だが嘆くことはない。多数を生かすために少数を殺す。それは、いつの時代でも揺らぐことのない正義だ」
「違う! そんなものは正義ではない!」
「生命の本質は純真無垢な悪だ」と公則は説く。「自分が生きるために他人を無自覚に殺してゆく。これを悪と言わずに何と言う? この事実を受け入れろ、公昭。そうすれば迷いなど消える。祭礼を起こす者も、祭礼を認めない者も、結局は己のために生きる。どちらが多いか少ないかの違いだけのこと。警手とは、多数の願いのために少数の願いを踏みつぶす役目なのだ。その終着点がここだとしても後悔などはない」
「違う……」
 違う違う、と公昭はうわごとのようにくり返す。
 公昭の膝が震えている。今にも折れそうだ。しかし、ここで膝を折ってしまったら、心まで折れてしまいそうな気がして怖い。しかし父の言う通りなのかもしれない。わずかでもそう思ってしまう自分がいることは否定できない。公昭を待っていたのは勝敗すら定かでない結末。高揚感に酔うこともできず、悲壮感に浸ることもできず、身を切られるような痛みだけが残った。つまるところ、自分は戦いという行為を理解していなかったのだと痛感させられる。
 父が不意に黙り込んで一点を見つめている。
 その視線を公昭は追う。
 地平線のはるか向こうが淡く光っている。まるで光がこちらを招いているようだった。
 あれは――。
「出口か」
 と公則は笑う。
 心の底から可笑しそうだった。
「おまえは運がいいと見える。新しい体が用意されたらしい。だが公昭、おまえではやはり手に余る役目だ。だから、おまえに代わって私が生きる。おまえはここで嘆きながら死ね」
 そう言って公則は公昭を置いて光を目指す。
 公昭は父を追った。
 その父が振り返って問う。
「どうした公昭。まだ何か言うことでもあったか?」
「俺が生きる」と公昭はみずからの決意を告げる。「父さん、貴方では駄目だ。貴方は結局、大義名分に隠れて人を殺し続けるだけだ」
「もちろん、そのつもりだ」と父の答えは予想通りのもの。「人の歴史は始まりから終わりまで殺戮をくり返してゆく。誰が負けることを良しとする? 誰が自分だけ犠牲になることを看過する? だから人と人は争わずにはいられない。勝つことだ。最後まで勝ち続けることだ。それに耐えられない者が脱落する」
「それでは、あまりにも死んでいった者が憐れだ」
「鬼にもなれぬ男に何ができる」
「俺は間違っているのかもしれない。それでも俺は、人を生かす道を最期まで探りたい」
「そうか。では始めよう」
 と、父は手をかざす。
 公則が歌を詠む。「うつせみの、現しごころも、吾は無し、妹を相見ずて、年の経ぬれば」
 公昭が歌を詠む。「足柄の、み坂たまはり、顧みず、吾は越え行く、荒男(あらしを)も」
 もはや二人は語るべきを語り、ただ歌にみずからの思いを託し、精神を研ぎ澄ませてゆく。
 二人の動きは期せずしてあの夜と同じ。
「発!」
「発!」
 二つの凶弾がすれ違う。
 公昭は横に跳んで避ける。爆発とともに人骨がぱらぱらと宙を舞う。回避行動を取りながらも公昭は父から目を離さない。
 その父は避けようとさえしなかった。
 公昭の凶弾を片手で受け止める。
 そして握りつぶした。
 凶弾はかすみのように消え去ってしまう。
「そんな……」
 公昭は驚きのあまり言葉が続かなかった。
 このような技を見たことがない。しかし父が全力を出していなかったとも思えない。
 父はさも当然のように語る。
「ここに来てしばらく経つ。おかげでより深く術式を学ぶことができた。おまえが知る私と思うな」
「何のために?」
「私が存在するうちにおまえが来るかもしれないと思っていた。その時、あの夜と同じではあまりに芸がない」
 つまり父は息子である自分が来ることを想定していたということか。その上、互いの信じる正義の違いから戦いに至るだろうとまで予見していたのだ。父は、もしや会うかもしれないという低い可能性を信じて、たった一人この荒れ果てた世界で技を磨き続けた。常人なら、無意味な行為と投げ出してもおかしくはない。
 公昭は身の震える思いだった。
 恐怖とも歓喜とも違う。
 ただ勝ちたいと思った。
 この父の思いに応えるためには勝たなければいけない。
「行くぞ」と公則は腕を振るう。「爆!」
 公昭の目の前で地面がふくれ上がる。
 一瞬にしてあたり一帯が吹き飛ばされた。
 砂のように細かい骨が大量に舞い上がり、公昭の視界をふさぐ。しかし、それは時間かせぎに過ぎなかった。視界が晴れた時、公昭はまたも驚くべきものを見る。
 父は両腕を広げて術式を展開していた。
 中空には黒々とした大きな球体が浮かぶ。
 公昭の放つ凶弾が銃とすれば、公則が放とうとしている凶弾は砲であり、その威力は比べようもないだろう。ある者は言う。黒は信念の色。何物にも染まることはないと。自分は誤った認識を持っていたと公昭は思い知らされる。父の用いる術式が黒いのは闇に染まったからではない。その意思の強さを示していたのだ。心ではなく、びりびりと痺れる体で公昭はそう感じる。
「発!」
 圧倒的な質量を持つ凶弾が公昭に迫る。
 公昭に残された時間は刹那。その中で公昭は対抗策を模索する。回避することはできない。爆発に巻き込まれて終わるだろう。ならば答えは一つ。
 閃光のように確信が脳裏に浮かぶ。
「斬!」
 海原を分かつように公昭は父の放った凶弾を両断した。
 二つに分かれた凶弾が後方で爆発する。大気を震わせるような爆発音が耳を打つ。公昭のところまで届いた熱風が爆発のすさまじさを物語る。
 父が次々と強力な術式を用いることが不審だったが、公昭はすでに答えを得ていた。これまで公昭は自分の生命力を費やして術式を用いてきた。この方法ではいずれ尽きるのは必然だ。しかし世界には欠片となって生命力が満ち溢れている。自分の生命力は有限だが、世界の生命力は無限。この力を使えばいいのだ。そのためには世界の成り立ちを深く理解する必要がある。つまり術者同士の戦いは世界への認識の深さで決まる。きっと、この世界の在り様を嘆きながら愛する者こそが勝つ。
 公昭はまっすぐ父に向かって駆け出した。
 父が迎え撃つ。
「発!」
 無色の力が奔流となって押し寄せる。
 公昭はかろうじて両手で受け止めた。
 視界が黒一色に染まる。
 公昭は距離感を失う。それでも激流に逆らって前へ進んでゆく。一歩また一歩と足を運ぶ。この一歩が果てしなく重い。さかのぼるほど激流の勢いは増す。今どれくらい進んでいるのか、まったく分からない。あとどれほど進めば父に届くのだろう、そんな弱気が心の一角を占める。
 足がくじけそうになる。
 その瞬間、夏目るいが最期に残した微笑を思い出す。全てを受け入れたような寂しそうな笑い。もっと彼女と言葉を交わしたかったと公昭は思う。彼女が敵であることには違いない。しかし、あんな表情をさせたくはなかった。そんなことを言えば父はおそらく笑うだろう。例えそれでも考えを変えようとは思わない。きっとこの気持ちは自分の心の底にあるもの。この気持ちを捨ててしまったら自分は自分ではなくなる。あの子を助けたかった、と公昭は己の気持ちに気づいた。
 生きていれば幸せになっていたかもしれない。
 生きていれば――。
「俺が幸せにしてみせた!」
 と公昭はさらに踏みこむ。
 急に視界が晴れた。
 眼前には父の姿がある。
「斬!」
 公昭の術式が父を切り裂いた。
 力を失ったように公則の体が公昭にもたれかかる。
 その体がゆっくりと欠けてゆく。
「父さん……?」
「見事だ、公昭。その心を忘れるな」
 散り際に父はそう言い残す。
 公昭が何か言おうとした時には、公則は欠片となって世界へ拡散した。
 一人になった公昭は光が差す方向を見る。心なしか小さくなった気がする。
 公昭は走り出す。
 生きることは闘争だと言う者もいる。確かにこの世界は残酷だ。しかし公昭は叫ぶように思う。失われてゆく命があるから自分は強くなれた。彼らの死は決して無駄ではない。無駄にはさせない。今度こそ誰も悲しませないために自分はもっと強くなる。
 光はもうすぐそこまで迫っている。
 公昭は光の先に飛び込んだ。

■七月下旬

 教師というのは思いのほかデスクワークに時間をとられる。
 八重樫明は背伸びして時計を見る。
 そろそろ時間だ。
 保護者を交えての面談はすでにほとんど済んでいるが、先方の都合で二組が残っている。最初の一組は一ノ瀬雫那という少女。新入してからしばらく経つが、どうあつかっていいものか八重樫はまだ判断がつかないでいる。いったいどのような生活を送っているのか彼女には想像もできないのも理由の一つだ。
 八重樫明が教室の前まで来ると中から人の気配がする。
 どうやら彼女より先に着いているらしい。
「すみません、遅れました」
 と入った途端、八重樫の動きが止まる。
 一ノ瀬雫那の隣に座っているのは若い青年だった。
 彼は立ち上がり、
「初めまして。阿木直哉と言います」
 と柔和な声で八重樫を迎える。
 八重樫はまじまじと彼を見詰める。外見からすると二十代で通りそうだが、余裕のある雰囲気からすればもっと上のようにも思える。ありていに言えば八重樫が好む異性として、これ以上もない人物だった。
 不意討ちを受けたように彼女の声が上ずる。
「は、はい」
 まずは八重樫は席に着く。
 沈黙に耐えられず彼女は矢継ぎ早に質問を重ねる。
「苗字が違うようですが?」
「この子には身寄りがないものですから私が保護者になっています」
「他にご家族は?」
「いえ、二人きりです」
「家事などはどうされているんですか?」
「ほとんど私がやっています」
 と、阿木直哉はよどみなく答える。
 さらに質問しようとした時、八重樫は雫那の視線に気付く。そうだ、これは三者面談だ。第一に一ノ瀬雫那のことを聞かなければ。
 八重樫は資料に目をやりながら尋ねる。
「一ノ瀬さんは大学への進学を希望されているそうですが、お二人で何か話し合われていますか?」
「ええ」と直哉はうなずく。「ほら雫那。答えてごらん」
 直哉にうながされて一ノ瀬雫那は重い口を開く。
「生きて、ゆくには……知識が必要だからです……」
「ああ、つまり」と直哉が補足する。「この子は、知識というのは保険のようなものだと考えているわけです」
「なるほど」
 と八重樫はうなずく。
 教室で一ノ瀬雫那が本を読んでいる光景をたびたび見かけたことがある。あれはそういう意味だったのか。それにしても、と八重樫は思う。あまりにも余裕のない生き方ではないだろうか。無駄の多いように思えた学生生活も振り返ってみれば良い思い出だ。教師としては彼女にはもっと回り道をして欲しい。
 阿木直哉も同じ気持ちであるらしい。
「私は学生生活をもうしばらく楽しんで欲しいのですけどね」
「そうですね」
 と八重樫は同意する。
 それから三人は志望大学などについて話し合った。
 予定していた時間はたちまち過ぎてしまう。
 二人が教室を出てゆく。一ノ瀬雫那という生徒はやはりあつかいにくい、と八重樫は改めて思った。もっと彼女と接する機会を増やしてゆく必要がある。
 さて、と八重樫明は資料を整理して最後の組を呼ぶ。
「松江公昭君」

クジラ
2013年01月22日(火) 19時54分06秒 公開
■この作品の著作権はクジラさんにあります。無断転載は禁止です。
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暗いという評価でしたが、みなさんはどう思われたでしょうか?

この作品の感想をお寄せください。
No.5  クジラ  評価:--点  ■2013-02-05 17:24  ID:52PnvSC7.hs
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感想ありがとうございます。

アクションシーンが駄目でしたか。アクションシーンを書くのが好きなので、つい好きなように書いてしまいます。もっと読みやすいアクションになるように頑張ります。
No.4  帯刀穿  評価:40点  ■2013-02-05 09:51  ID:DJYECbbelKA
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  まず読んでいて、基礎が固まっていたことを感じている。出だしの読みやすさ、展開の速さ。テンポの良さ。そして、絶対的正義などというものもなく、誰が正義などと形容もできない世界。生命の価値観。乗り越えるべき父との戦い。友人との距離感。色々なところと良いところがあったのは素直に賞賛に値する。
 投稿小説 TOTAL CREATORS !の概念とは、以下のものである。
「当サイトは、自作の小説作品や詩を投稿して、初心者から中・上級者の区別なく互いに感想を交換しあい、切磋琢磨しあうことによって、お互いの創作技術の向上を図ることを主な目的としたコミュニティサイトです」
 切磋琢磨することにより改善・改良をしていくためのサイトであり、掲載目的、喝采願望成就目的のサイトなどではないことは明白である。それはつまり、褒めて終わることの拒絶とも認識して誤りとは言い難く、また、改善点を意見されることについて、望むことはあっても、嫌悪感を抱いて聞きたくないと抗議するなど意図を取り違えているようにしか思えないサイトであることの明示でもある。
 よって、幾つかの点について、個人的な意見を記載したい。
意見という情報の取捨選択は個人に帰するものである。まずこれを明記してから話をはじめたい。受け入れるか受け流すかの判断は個人ですること。
まず、先日チャットで話したこともあったが、非常に戦闘シーンが苦手であった。戦闘シーンそのものを嫌っている訳でもなく、どちらかいえば好むところである。その俺が、この戦闘シーンの描き方はとても苦手だ、そう強く感じるところがあった。カメラ目線の位置がよくわからなくなったり、各キャラクターの立ち位置がわからなくなり、距離感がまったく掴めなくなったり、どういう太刀筋なのかがわからなかったり、何が起きているのかが、とにかく読み取りにくかった。真っ先に読み始めた俺が、かなり後になってこうして批評を記載している理由はまさしくこの点にある。
いっそのこと、戦闘シーンがなかったほうが良い気がした。というのが、ざっくばらんな意見だ。しかしこの作品に戦闘シーンを省いたらいきなりほとんどのものがなくなってしまうのも事実だ。
他の改良点のほとんどは、チャットで話したので割愛する。
以上。
No.3  クジラ  評価:--点  ■2013-01-31 17:24  ID:52PnvSC7.hs
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これほど長い小説に感想を書いていただき、ありがとうございました。

>おさん

確かに地味ですね。オリジナルティがありません。既存の作品の影響を受けすぎています。ご意見、いちいちもっともで返す言葉もありません。

>朝陽遥さん

平坦に描写するのではなく、スピード感が必要な時は勢いを重視し、ためが必要が時はじっくりと。という基本的な技術が習得できていないのです。そのため、素っ気ない描写しかされていない場面が散見されます。校長先生の件ですが、良いキャラではあっても出る作品を間違えているということかもしれません。誤字について事前に何度もチェックしたのですが、まだ残っていたんですね。ご指摘ありがとうございます。
No.2  朝陽遥  評価:40点  ■2013-01-30 22:19  ID:2Hxx7b7NzBY
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 拝読しました。

 先日チャットでも申し上げましたが、物語の大きく動く緊張感のある冒頭が、とても魅力的です。
 冒頭だけでなく、バトルシーンと日常シーンのメリハリもあり、全体によく話が動いていました。緊張感のある展開に、読みやすいシンプルな文体もあいまって、サクサクと続きを読める、読みたくなるお話でした。

 また冒頭だけでなく物語全体を通じて、対決の構図が実にドラマチックでよいなと思います。たしかに暗いといえば暗いかもしれませんが、その重さが魅力であると思います。価値観の対立、葛藤、そして対決。公昭VSるい、公昭VS公則。わけても、自らの命を削って戦う主人公と、人の命を奪っていきるるいとの対決は、非常に胸の熱くなる場面でした。

 つい先日、ファンタジー板のほうでも同じような感想を書きましたが、簡素ともいえるシンプルな文体が、物語の空気感と絶妙にマッチしていて、とても魅力的でした。また簡潔ながら、おおむね必要な情報はポイントを押さえて盛り込まれていると感じました。私などはしばしば描写がくどくなりすぎるので、このあたりも見習いたく思います。

 反面、ややそっけなさすぎるかな……と感じた箇所がいくつかありました。高志少年が自分の腕を自分で切り落とす場面や、公昭が水蛭子から吐き出される場面、それからラストシーンもかな。それぞれにすごくいい場面だっただけに、もう少しじっくり味わって読みたかったような気がしました。好みの問題かもしれませんが、こうした見せ場やクライマックスの部分では、もう少し間をとるといいますか、溜めがあってもいいかもしれないと思います。

 そのほかでもう少し描写が欲しかったかなと感じたのが、感覚の部分です。登場人物(視点キャラ)の皮膚感覚といいますか、てざわりやにおい、温度や湿度、そういう五感にふれるような描写がもう少し多かったら、さらに臨場感が増して、なおのめりこんで読めたかもしれないと思いました。
 ……などといいつつも、あまり過剰な装飾のついたゴテゴテした文体ではこの物語に似合わないような気がしますし、按配の難しいところかもしれません。よけいな口出しだったら申し訳ないです(汗)

 あとひとつ、些事ながら気になったのが、クールな文体と世界観が魅力的だったがために、校長先生のカツラのくだりに差し掛かったときに、読んでいて若干つまづいてしまった感じがありました。エピソードそのものは大変面白かったのですが、それまでのトーンとのギャップにちょっとびっくりしたんです。
 といってずっと深刻なシーンの連続でも息が詰まってしまう部分がありますし、コメディシーンがないほうがよかったとは思わないんです。というか、この校長先生大好きです。いいキャラだなあと思います。子犬を助けるくだりでうっかり惚れそうになりました。
 シリアスな話にコメディを入れるとき、それまでの場面とのギャップを均す(あるいは空気を切り替える)ような呼吸って、わたし自身が書きながらすごく悩ましいなと感じているところだったりして、具体的にどうしたらいいと思うというような的確な意見が出せるわけではないのですが……(汗)無責任ですみません!

 あとは……もしかして誤字かなと思ったところ、一応メモしておきますね。わたし自身が誤字の多い人間なので、人様のことを言えた立場ではないのですが(汗)、校正の一助になれば幸いです。
> 装いは季節を先んじるように軽やで、
> 公昭の心を、何かがざわめいている。(心の中で? ざわめかせている?)
> あまりに速さに、
> この街は栄えてこれたのですから(ら抜き言葉、わざとだったらすみません!)
> 待ち合わせの場所は交番に前だった。
> ほとんどの兵部員は術式を使うことのできないため
> 花嫁はだいだい腹の中だ。(だいたい?)
> だきるだけゆっくりと。
> 違う場所につなっているのだろう。
> 戦いのおいて手のうちを隠しておくのは

 あと誤字ではないのですが、
> 一度見たら黒い沁みのような印象が心に残るかのようだ。
「ような」「ようだ」が重なって、少々回りくどいような気がしました。


 ……と、自らの無い腕を豪快に棚上げして、えらいこと好き勝手なことを申してしまいました。腕のある方にこそ、ついよけいな口出しをしたくなってしまいます……申し訳ないです(汗)
 総じて楽しませていただきました。無礼については平にご容赦を。また読ませてください。
No.1  お  評価:40点  ■2013-01-27 18:41  ID:.kbB.DhU4/c
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さて。
ウェブ上で読める素人の書く文章作品としては、これまで読んだ中でも高レベルだと思いました。ともかく、長編小説として完成している。思い入れや思い込み、ナルシスト的な読みにくさもなく、ライトノベル作品として最初から最後まで読み通せました。それだけでもネット小説としては充分、賞賛に値すると思います。まぁ、僕がネット小説なるものをこのサイトでしか読まないからかも知れませんが。
その上で。
作者氏はプロの作家を志向して作品を公募に出されているということなので、とにかく思ったこと感じたことをそのままぶちまけようと思います。それをどのように受け取る、受け取らないは、作者氏自身にお任せするとして。

まずは、
暗いか否か? と問われれば、チャットでも言いましたが、暗いでしょうね。まず、登場人物が暗い。誰よりも主人公が暗い。そして、ヒロインも暗い。脇を固める人達も小野寺一家とるいちゃん以外はみんな暗い。揃いも揃って辛気くさい。そして、テーマがやや重い。のっけから親子対決とか、ある意味、負のイメージで攻めまくっとんな! と感じ入ったりもしますが、全体的に重い物を背負ってかかって大変大変という感じが前面に出て、息苦しい感もありました。敵の思惑も重たいし、おっさん地味な上に辛気くさい。それと、語りがやや低調かな。もちろん、作風や物語の展開の運びにあわせてのことでしょうが、低調な感じで安定しているので、一方で落ち着いて読みやすく、一方で疾走感や感情的な思い入れがしにくいのかなと。この辺が全体の雰囲気としての暗さを助長している感じもします。
以上は、作品としての印象の善し悪しに関わらず、暗いか否かと言うことに限って書きだしてみました。もちろん、暗いから悪い、明るいから良いというものでもありませんしね。

で、さらにその上で。
今度は作品の印象として僕のマイナスに感じた辺りをいくつか。
まず、暗いw 決定的と言うことではもちろんないんですが、ラノベを読もうと思って読み出したにしてはちょっと重たかった。かといって、がちがちに文学的に暗いかというと、そこまででもない。まぁ、微妙な位置づけですね。重い作風は必ずしも嫌いじゃないですが、ことラノベということで言うと、もう少し減り張りが利くと良いのにとは思いました。語りで言えば、暗いなかでも、耽美さとか、醜悪なまでのグロさ陰惨さを極めるとか、あるいはもっと深い哲学的探求とか、暗さ+αという部分で弱かったかもしれません。同じくらいにしても、暗いなりの特徴を主張しきれなかったというか。あと、小野寺兄妹の働きが今ひとつ微妙だったかな。限られた分量の中、なかなか困難なことは承知で、彼らとの関わりを巧く物語りの展開とコミットさせていくことができれば素晴らしかったかなと思わないでもないです。あるいは、いっそ、もっと救いのないように展開させるか。
次。
暗さとも関連するところかもしれませんが、設定がやや地味かなと。人物達の能力などもまぁ、あまりオリジナリティは感じませんしねぇ。敵の構成要素である「鬼」なるものもそう。イマイチ、こう、派手さがないというのか、ありふれているというのか、インパクトに欠ける。あと、クダンという組織ですが、うーん、何というか、一方で戦闘に和歌を用いたり和風の演出がなされるのに対して、こちらはまったくの軍隊ですね。律令的な構成組織名を使いながら、チェスの用語を使うとか。どうもイマイチしっくりこないんですよねぇ。主人公との位置関係的にも、対立もあまりなく、持ちつ持たれつ的な感じで、サスペンスな感じが生じない。ちょーびみょー。
もひとつ。
各エピソードがばらばらで、ほとんど繋がりがないように思われたこと。るいちゃんの登場が遅い(気付かず読み飛ばしてるだけならすみません)かな。事象としての繋がりもなく、しかも極簡単に終わってしまうエピソードもあり肩すかし。先生のところとか、主人公の精神面の成長変化には貢献しているとしても、そのために挿入した感がみえみえで、あまりエンターテイメント的ではないかな。解決困難さと謎のインフレーション的な意味で、あまりスリルを味わわせる構成ではなかったように思いました。あと、ラスト前の親子対決。うーん、これは、敵との戦い前にするかと二択で迷うところですよね。僕個人の好みは、前かな。多分、僕が書くならそうするような気がします。終幕シーン、小野寺兄妹を差し置いて教師をチョイスしたのには何か意図があるんですかねぇ。うーん、日常の象徴としてあの二人を使ってきたのだから(先生もそのひとつの要素ではあったけども)、彼らをラストに持ってくるのが自然かなぁとも思いましたが。なんかこう、もやっとしてしまいました。あと、主人公とるいちゃんとの心の交わり方ですが、どうも予定調和的で、あっさりと葛藤も少なく受け入れちゃった感じがして、総分量としては短くないのに、肝心なところに分量裂けていないかなという感じを受けました。……と言ったところで、構成にもう少し精査する余地があるのではないかと感じました。
もひとつ。
ヒロインの性格設定がイマイチよく飲み込めませんでした。僕の読み方が悪いのかも知れませんが。冷淡なのか、そうでもないのか。ノリが良いのか、そうでもないのか。従順なのか、そうでもないのか。何というかこう、ぴしっと一本線が入ってない感じを受けました。
最後。
全体のこととして、設定とか展開とか、全部ひっくるめて、巧いけど、それだけという印象をもちました。確かに巧く書けている。全体に大きな破綻はない。読みやすいし、面白い。しかし、まぁ、それだけ。この作者氏が書いた、この作品である! という決め手というか、特徴というか、そういったものを見いだせませんでした。ちょっと覚悟のいる書き方をしますが、「ちょっと勘のいい人で根気さえあれば、誰にでも書けそうな感じ」ということです。まぁ、もちろん、そんな印象を受けたところで実際誰にでも書けるわけじゃないんですが(僕だって無理だw)、そういう印象を与えてしまうという意味で。

最後のはかなり厳しい意見になりましたが、仮に僕が幾ばくかのお金を使って、掲載なり製本、告知広告など投資をする立場であれば、そういう風に評価するだろうなぁという、ある種妄想的な話しです。

チャットでも言いましたが、ラノベ作品として普通に楽しめました。面白かったです。今回の感想はただ面白かったかどうか以上の、経済が絡む事案と想定して考えてみました。まぁ、実際の選考基準とかなんとかはぜんぜん知らないんですけどねぇ。この続きを600円出して読みたいかどうかくらいの気持ちで。

これら意見が参考になるかどうか、僕には分かりません。あくまで僕が直感的に感じた感想に過ぎません。基準も何もない、読んだその瞬間感じたまさに直感です。僕自身、タイミングが変われば言うことも変わるかも知れません。そんな好い加減なものです。そのことを承知頂いた上で、何か一助になれば幸いではあります。
でわでわ。
総レス数 5  合計 120

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