時刻表に無い列車
・・・さて、そろそろ上がりにするか・・・山吹は心の中で呟くと車の方向指示器を右に出し、サイドミラーに目をやりながらハンドルを右に切り5メートル程進んだ処でバックミラーに目をやった。・・・あれ?おかしいなぁ・・・最終列車が発ったプラットホームに誰か佇んでいる姿が電灯の光でぼんやり見えた。山吹はギヤをバックに入れ乗車場所まで戻り暫く待ってみるが人影は同じ場所で動く様子も無い。・・・帰社するか・・・梅雨空で蒸し暑い深夜の出来事だった。
 山吹がタクシー乗務員に成ったのは六年前、元は衣料品会社でのデザイナーであったが円高の影響で生産地が海外に移り、それに伴い商品企画も都心のデザイン事務所に依頼するとの会社側の経営方針でリストラにあったからだった。決して仕事が出来ない男では無かったが恋愛の末結婚、一年後妻の浮気で離婚、相手は付合う前に破局していた元恋人で子供が無い事も幸いしサバサバした気持ちで離婚届けに印鑑を押した。離婚する迄は仕事が趣味の絵に描いた様な生真面目な男だったが、離婚後仕事に腰を据える事をしなく成った山吹を上司が良く思う筈も無く肩叩きにあったのだった。そんな山吹でも社会に出でからアルコーをコップ半分も呑んだ事も無かったし、離婚後自棄酒を呑もうなどと思う事は一度も無かった。家系とゆう事も有るが呑めない体質なのだ。下戸だからタクシー乗務員を選んだのでは無く、同僚に気兼ねする事も上司に命令される事も無い職業を〆切りに追われアイデアを捻り出す日々から羨ましく観ていたからで、何より山吹は運転が好きだった。本来山吹は独りを好む性分で、大勢の中で寂しいより独りで楽しい方が良いと思っているし、人中で競い合う事が苦痛に感じるのだ。その当時異性を理解し洞察出来る心のゆとりが有れば現在の山吹は違っていただろう。
 
 十日前に梅雨入りしたがどうやら今年は空梅雨らしく、始業点検を済ませ日報を書き始めた山吹は客足への影響を考えていた。
「山吹さん!おはようございます。昨日どうでした?」この男は中山といって半年前に入社したタクシー乗務員にしてはまだ若い三十歳だが、他の乗務員と異なる雰囲気を持つ山吹に屈託無く接して来る唯一の同僚だ。
「あぁ、昨日は最終迄ねばってみたけど月曜じゃどうにもならんさ・・中山はどうだった?」
「それが山吹さん、昨日は客当りが良くてびっくりしましたよ。夜には汽車に乗遅れたお客さんが新居浜まで行ってくれって言われて帰りは夜中の二時でしたよ」先輩運転手を出し抜いたのが余程嬉しかったのか今にも涙が零れそうな顔で笑っている。
「そうか、よかったな!そんな日も無いとやってられんよな」
「えぇ、またやる気が湧いて来ましたよ」
「じゃぁ今日も一日頑張るか」
「はい」中山は少し右下がりに傾きながら担当車まで歩き乗り込んだ。腰に持病が有る中山は大学を卒業後市内の保険会社に就職は内定していたが、入社の三日前本屋からバイクで帰宅途中近所の交差点で事故に遭い社会復帰する迄二年を要し就職をも棒に振った。事故当時は悲惨な状態だった様だが幸い腰に少し後遺症が残るまでに回復している。山吹はあの深夜の出来事は誰にも話していない、独りだけの楽しみにしておきたかったからだ。山吹の会社は田舎町の小さな商店街に事務所兼車庫が有り、近くのJR駅に待機する事に成っている。勤務形態は二勤一休、二人一組を三班でローテンションを組み、日勤勤務者は一人いる。要するに乗務員は七人いて山吹と中山は同じ班だ。月曜と違い今日の客足は伸びる事に成っている。月曜日は商店街が休みだし日曜日に客は出掛けたりしているから雨であったり冠婚葬祭や町内にイベントが無い限り暇な日が多い。今日は雨の火曜日、山吹は始業点検もそこそこに出庫した。
「山吹さん、今日はよく動きましたね?」
「そうだな」20:00過ぎに客足は一段落し、駅の構内で乗務員達は話を交わしている。
「真子さんはどうでした?」
「私はまぁまぁ、いつもの五割り増しってとこかな」
「さすがですねぇ」この真子とゆうのは日勤勤務者で9:00から20:00を勤めていて三勤一休勤務。皆サナコと呼んでいるが名前は真田恭子、端折って真子年齢は三十五歳、家庭が複雑らしく未だ独身だ。会社に勤めて二年に成り、以前保険会社で営業をしていた為か中山とは仲良く成っているがお互い恋愛感情が有る様には見受けられない。セールスレディーを経験しているせいか客への対応が行き届いており、客受けが良いのは整った顔立ちと舌っ足らずな喋り方にも好感が持てるからだろう。
「山吹さん今度いつが休み?」
「明日だ」山吹は以前から中山と3人でカラオケに誘われているが、月二回しか休みは重ならないし、それぞれの都合が合わないので未だ実現していない。何より別れた妻に似ているから山吹は戸惑っている。
「また合わないのね・・私おばあちゃんになっちゃうわ」真子は悪戯な目で笑っているが、仕事と家庭内のストレスからか楽しみにしているのだろう。
「それじゃぁ私そろそろ帰ります」
「お疲れ」真子が帰社した後列車からの乗客三件と居酒屋からの二件の仕事を済ませた山吹は静まり返った駅構内で最終列車が到着するのを中山と待っていた。・・・そろそろ着く頃だな・・・遠くから遮断機の警告音が聞こえ始め苦しそうなブレーキ音と共に列車がホームに滑り込んで来た。降客は大学生のカップルとOLらしき女性、それに遅れて学生服の少女が早足で降りて来た。カップルとOLは近所らしく、商店街の方向へ腰に手を回しながらカップルが歩いて行き、OLは駐輪場に止めてあった自転車に乗り大町の方へとペダルを漕ぎ始めた。少女は構内西の駐車スペースに止まっていた親らしき車に乗り込み南に続く道を帰って行った。・・・終わりだな・・・0:27の最終列車が発ち構内に静けさが戻った。
「山吹さん、そろそろ上がりにしますか?」
「そうだな。俺は少し休んで帰るから先に帰ってくれ」
「そうですか、分かりました。明日は充分休養して下さいよ!」
「あぁ、ありがとう。気を付けてな」中山の車はゆっくりとしたスピードで駅から遠ざかって行った。・・・頼もしく成ったもんだ・・・入社した当初は弱音を吐いてばかりいた中山も、今では年輩運転手を思いやる心のゆとりが出て来ている。・・・0:40・・・山吹は車を駅から見えない処に移動させ、ホームを見渡せる場所に静かに身を隠した。ホームの長さは二百メートル程で両側四カ所に電灯が設置して有り、あの時人影が見えた場所は対面ホームの西から二つ目の電灯下に成るが誰も見当たらない。足音を殺し金網越しに身を乗り出して改札口側のホームも見渡してみるが、やはり誰も居ない。・・・俺の見間違いだったかな・・・山吹は腰を下ろし煙草を一服大きく吸い込んだ。・・・まてよ、月曜の深夜だったかもしれない・・・煙草を二口吸った処で火を揉み消し急いでタクシーに乗り込み勤務表を見た。・・・次の勤務で月曜日は・・・九日初日、十日の深夜だ。山吹は十日にもう一度確かめてみる事にして車のエンジンをかけた。・・・明日は良い天気に成るだろうな・・・空には真夏を感じさせる満点の星空が広がっていた。
 
 翌日昼前に目を覚ました山吹は疲れていた。昨日一日で二日分の売上をしたからで、暫く寝床の中で休日の朝の時間を楽しんだ後下着のまま洗面をし、朝昼兼用の食事を済ませた。・・・今夜は奈美と食事する事に成っていたなぁ・・・奈美と出会ったのは七年前、離婚当時よく利用していた居酒屋に女友達と一緒に来ていた奈美と相席したのが切っ掛けで、たまに食事したりドライブに行ったりいている。奈美は今年二十八歳に成り、一回りも歳の違う山吹と七年もの間付合っているのを不思議に思っているが、幼い頃亡くした父の面影を探しているからだろうと山吹は思っている。奈美は短大を卒業し隣町の銀行に勤めていて自宅は山吹の家から車で数分の処に有り、現在母と兄の三人暮らしをしているが兄の仕事は出長が多く月の大半は家に居ない。奈美が父を亡くしたのは小学校に上がる年の事で、仕事を済ませた帰宅途中居眠り運転のダンプカーとの正面衝突事故に巻込まれ即死だったらしい。当時の事は父を亡くした悲しみからかベッドに横たわる父の姿しか思い出せないでいる。・・・また遅れたか・・・夕方六時、いつもの場所に淡い花柄のワンピース姿で奈美は立っていた。山吹はいつも待合せの五分前には必ず愛車で乗付けるのだが一度も奈美より先に成った事は無い。
「やぁ!久しぶりだな。変わり無かったかい?」
「変わり無いわ。俊樹さんは?」
「そぅだなぁ・・この間又一つ歳を取った事くらいかな」
「じゃぁ又おじいちゃんに近づいたって訳ね」奈美は整った歯を恥じらいも無く見せ悪戯な目で笑った。この待合せ場所は隣町の海を一望出来るレストラン兼ドライバーの休憩場所で、レストラン三四個分位の広さが悠に有り、目の前には瀬戸内海が広がり日中なら北西には小豆島、東沖には薄ら淡路島が望める。山吹はこのレストランで奈美と食事をした事が一度だけ有るが、その時同僚家族を見かけたのでそれっ切り入っていない。人の噂は怖い物で嫁入り前の娘さんに辛い思いをさせてはいけないから、それ以降場所と時間には気を使っている。
「俊樹さん、今日は映画にしない?」
「構わないけど、夕食まだだろ?」奈美は笑っている。
「簡単よぅ、ファーストフードを買って観ながら食べるの」
「なるほど・・」時々こうして常識や秩序に凝り固まっている山吹の思考回路を若者の思考に繋ぎ合わせてくれる。それが奈美と七年もの間続いている一つの理由だろう。
「よしッ、行こう!」山吹はハンドルを握りながら心の奥底から沸き上がる少年の様な笑顔でアクセルを踏み、助手席から覗き込む様に奈美も笑っている。車を西へ四十分程走らせ国道沿いのファーストフード店でチキンカツバーガーとチーズバーガー、フライドポテトにミックスジュースを二人分買い市内の映画館に入ったのは七時過ぎ、既に映画は上映されていて腕利きの始末屋と少女が街のマフィアを始末いていくとゆうストーリーで、終盤には始末屋が少女を守り自爆する場面では耐え切れずに山吹は涙を零し奈美は肩を震わせ少女の様に泣いた。映画館を出て映画の話をしながら近くの公園のベンチに座った時、時計は九時半を回っていた。映画に夢中に成り買ったハンバーガーが半分以上残っている山吹に比べ奈美は前部食べ終わっていて、ベンチから直ぐ横のブランコに移り座った奈美はゆっくりブランコを漕ぎ始めた。
「ねぇ俊樹さん、今夜家に泊めてくれない?」残ったハンバーガーを食べていた山吹は思わず咳き込んで奈美の方を見たが、いつもの様な悪戯な目で笑ってはいない。知り合ってからこの言葉は何度か聞いているが苦労の末納得させ自宅に帰している。
「何か有ったのか?」山吹が問い詰めると最近母親の具合が悪く入院するかもしれない事を小さな声で話し始めた。母親は夫を亡くしてから二人の子供を育てるのに寝る間を惜しんで働き、奈美が短大を卒業した年に腎臓を患い現在通院している事を山吹は聞いていたが、最近身の回りの事もこなせない程に弱ってしまっていて主治医に入院を勧められているとゆう事だった。
「それで、どうするの?」
「今度兄が出張から帰って来たら相談して、入院する事に成ると思うわ」
「そうか・・」
「私、会社を辞めて母の世話をしようと考えているの」
「勿体無いなぁ、折角良い会社に入って落ち着いたのに」
「・・・仕方ないわ」山吹は母親の事が落ち着いたら連絡する様に念を押してその夜は奈美と別れた。
 
 この一週間は暑さのせいか客足は伸びていた。・・・今日も金曜だから期待できるな・・・
「PPPP」日報を書き終えた頃無線が入り山吹は慌てて応答ボタンを押した。
「103、西町の武田さん」了解ボタンを押す。・・・今日は付いているな・・・この武田とゆうお婆ちゃんは昔教職に就いていたが、今は悠々自適に年金生活を送っていて、月に一度市内の病院に通院して必ず往復するから昼過ぎには普段の夕方位の売上を確保出来る。山吹は手袋を履きギヤをドライブに入れ急いで出庫した。すると途中二箇所交差点に信号機が有るのだが今回は運良く青で通り過ぎる事が出来、武田邸に到着したのは7:55いつも道路沿いに面した勝手口に出ているが、たまに南側の玄関に立っている事が有るから気を付けている。「おはようございます。お待たせしました」
「おはようさん」杖を足下に置き先に座席に腰掛け助手席後部に有る把手に掴まってから足を車内に入れる。
「ドアを締めますよ」
「はい」
「103実車、市民病院」
「103了解」乗車後ギヤが二速に入った辺りで無線報告を入れ国道へ向かう。
「今日も暑く成りそうですね?」山吹は愛想良く言ったが返答が無い。
「武田さん、最近足の具合はどうですか?」
「・・それが数日前から調子が悪くて膝が痛むのよ」
「そうでしたか、気温の差が大きいですからね」
「また入院かと思うと気が重いわ」
「先案じは良く無いですよ、取越し苦労とゆう事もありますから」
「そうだと良いけど」武田さんの御主人は八年前に亡くなり一人暮らしで、娘さんは二人居るが県外に嫁いでいるから気弱に成るのも仕方がない。市内の病院に着いたのは九時前、この時間帯にしてはスムーズに走る事が出来た。診察は予約制で十一時迄には終わるはずだから、武田さんには院内のロビーで待つ事を告げ受付を離れた。病院での身体を持て余す退屈な時間をやり過ごし、待機場所の駅前に武田さんを送り届けて戻って来たのは十二時過ぎ、幸い武田さんは痛み止めの薬と湿布薬を二週間分処方してもらい様子を診る事に成ったらしいが、何より再入院に成らなかった事が嬉しかったらしく帰りの車内では殆ど一人で喋っていた。・・・余程忙しいんだな・・・駅構内に待機している車は一台も無く、山吹は直ぐ様乗車場所に車を停車し待機ボタンを押した。五分程して真子が蒸気した顔で構内に帰って来たのと同時に山吹は配車を受け南の方角へ出て行き、それから乗務員五台の車は休む間もなく仕事をこなし、山吹が遅い昼食を終えたのは陽が傾き始めた頃だった。金曜日の夕方五時過ぎからは仕事を終えた会社員達が商店街の一角に在る飲み屋街に繰り出す事が多いから、その分帰りのお迎えも深夜一時頃迄途絶える事は少なく無い。・・・さて、そろそろ駅に戻るか・・・GPSのボタンを休憩から空車に切替え裏町の食堂駐車場を出た。このGPSとゆうのは配車員には重宝な物で、どの車が何処に居てどんな状況かがパソコンのディスプレイに表示され一目でタクシー状況が把握出来る仕組みと成っている。
「103、ロイヤルホテル」了解ボタンを押した山吹は車を東にUターンさせ灯りが点り始めた商店街から見えなくなった。

 今日の山吹は日曜勤務にも関わらず気持ちが軽い。日曜日は病院も休みだし何より世間一般的に休日だから家に一人は運転出来る者が居るし、タクシーを利用する者は一人暮らしの老人か突発的急用者、それと昼前から酒を呑む近所の輩位で開店休業と相場は決まっている。普段日曜勤務は一時間の客待ちは当たり前で運が悪いと二時間位待つ事も有るのだが、今日深夜駅のホームに佇んでいた人影を再度確かめる事にしているから暇な日曜日も楽しくて仕方ない。本社を出庫し駅の待機場所に向かう国道にも対向車は疎らで自転車を漕ぎ学校に向かう学生達の姿も見えない。駅構内が見えて来ても中山の車が退屈そうに待機しているから、いつもの暇な日曜日に成る事を予感しながら山吹は中山の横に車を停車させ声をかけた。
「やっぱり暇そうだな?」中山は見ての通りとゆう仕草で窓越しから眠たそうな顔を上下に振る始末だ。午前中は空港迄の遠距離を年輩乗務員が送り届けただけで、他の乗務員は近場のスーパーと初乗り料金の近距離を一二回乗車しただけの悲惨な状態だった。午後からは町境の民家に葬儀が有り普段日曜日並の売上に近づいたが、蒸せ返る日中にはクーラーを利かせていても流石に身体に堪える。陽が傾き始めてからは火照った車内をクーラーが凌ぎ易くしてくれたが客足はパタリと止まり、それから真子が帰社する迄の三時間余りにも乗客は一人も無く乗務員同士話のネタもすっかり尽き果ててしまっていた。真子が帰社した後は中山と互いの車内で身を捩る様な退屈な時間が過ぎるのを辛抱強く心待ちにしていたが0:00を過ぎた時、中山は帰社する事を申し訳なさそうに山吹に告げ疲れ果てた様子で帰って行き、最終列車が到着しても誰一人改札口から出て来る者は居なかった。列車が駅から遠ざかり見えなく成ると、構内の片隅に車を移動させた山吹は駅の待合所で椅子に腰掛け煙草の煙を天井に向け吐き出していた、その時、ホーム内から小さな物音が響き慌てて吸いかけた煙草を揉み消し振り向き様に窓越しからホーム内を覗き込んだが最終列車の去ったプラットホームは灯りも消し去られて薄暗く、最近視力が衰えだした山吹は眼鏡を車内から持ってくれば良かったと後悔したがぼんやり見えるプラットホームを右からゆっくり見回し始めると対面左端から二つ目のベンチに誰か座っているシルエットを隣家の灯りが薄ら映し出していた。山吹は暫く様子を観察していたが動く気配も無いので思い切って声を掛ける事にして、無人の改札口を静かに通り抜け人影が座っている反対側ホーム迄来た処で声を掛けた。
「おいッ!誰か待っているのか?」その人影はびっくりした様子でベンチから立ち上がり頷いたが、逃げる様子も無い事から山吹は対面ホームに続く歩道を通りゆっくりと人影に近づき足を止めた。驚いた事にその人影は山吹より二十センチ位低い一目で美形と分かるセーラー服を着た少女で、緊張した気持ちが解れた山吹は少女が座っていたベンチに崩れ落ちる様に腰を下ろした。
「誰を待っているの?」
「・・・」
「いつ頃来るの?」
「・・・」山吹は精一杯優しい声で問い掛けてみるが少女からの返事は返って来ない。
「残念だけど列車は朝の六時まで来ないよ?」その時小さな声で少女が言った。「列車は必ず来るわ」それから少女は小さな声でゆっくりと語り始めた。名前は野村加奈子といって隣の県に住む十七歳である事、高校三年に進学した時両親から本当の親では無いと聞かされた事、実の父は加奈子が幼い頃母と死別し子供が居ない野村夫妻に養子として預けられた事を時々涙を拭いながら話してくれたが、何故県外の少女が月曜深夜最終列車か発った駅のホームで列車を待っているのかが山吹には未だ理解出来ないでいた。
「でも何故最終の後で列車を待っているの?」話によると山吹が住む県のJRに父は勤めていて、路線の保守点検を担当しているSE(サービスエンジニア)だとゆう事迄突止めたが、平日は学校で会う事が出来ないから日曜夜中に地元を列車で発ち、月曜深夜に行われる路線点検に父との再会を期待して最終列車が発ったホームで点検列車を待っているとゆう事だった。山吹は六月深夜ホームに佇んでいた加奈子の姿を見て興味本位に確かめようと思った事を詫び、これから父捜索の力に成る事を伝えJR本社に父の連絡先を問い合わせてみる事を提案したが既に問合せ、部外者には教えられないとの返答だったらしい。
「それで点検列車のお父さんには会えたの?」加奈子は首を横に力無く振り、
「今迄は乗ってなかった」と言った。
「そうか・・・」山吹は加奈子に掛ける言葉が見つからず黙り込んでしまった。暫く沈黙が続き1:30を過ぎた頃遠くから遮断機の警告音が聞こえ始め二つの眩しい光が駅に近づいて来た。
「あれか?」
「そうよ」その列車は一両だけで見るからに日中乗客を乗せている車両とは違っていて、ホームに着く成り数人の男達がヘルメット一体型電灯の光と共に慌ただしく列車から降りて来て作業を始め出した。加奈子は鞄から取り出した父の写真とSE達を見比べていたが、暫くして山吹が座っているベンチの横に力無く腰掛けた。
「居なかったのか?」
「うん」
「これからどうするんだ?」
「始発が来る迄これで仮眠するの」加奈子は鞄と一緒に置いて有った卵形の袋に手を置いた。
「この深夜にか?」山吹は驚き素っ頓狂な声で言った。
「そうよ、いつもそうしてるわ」加奈子は始発が来る迄の数時間、ベンチに寝袋で仮眠を取り地元の学校へ通学していたらしい。山吹は父に会いたいとゆう一心な加奈子の気持ちを思い知り、これからの月曜深夜にはタクシー料金自腹で家迄送り届ける事を納得させた。その時十五分程の作業を終えたSE達を乗せ、列車はゆっくりと闇の中へと消えて行った。
 明け方から降り出した雨は山吹が日報を書き始めた頃一段と強く降り始めていた。加奈子を一時間半余りかけて自宅に送り届けた山吹が寝床に潜り込んだのは三時半を回っていていたが四時間程の仮眠を取る事が出来、八時の始業時間には限り限り会社に滑り込みタイムカードを押していた。加奈子の自宅迄の道中で山吹は今迄の経歴を話し、父親を探しに来る時には必ず連絡をする事を約束させ互いの携帯番号を交換していた。車庫内では一足早く出勤し始業点検を済ませた中山が近寄って来た。
「山吹さん、今日は遅かったですね?」
「あぁ、寝過ごしちまった」中山は笑いながら車に乗り込み車庫を出発し、それを追う様に山吹のタクシーも出庫した。駅前に中山の車と同時に到着したが、いつもの月曜らしく早出三班の車は行儀良く構内に並んで待機していた。その後真子の白タクシーが構内に到着した頃には一回り仕事を済ませて又同じ順番で待機していた。
「やっぱり暇そうね?」真子は中山の車に近づいて行き休日の事を何やら楽しそうに話していたが、無線配車を受けた三班二台が急いで構内を出て行き、それと同時に九時二十五分発の急行が到着し、降りて来た客を乗せた中山の車も構内を後にした。端番に座った山吹は退屈そうに新聞を広げていたが数分遅れで駅から出て来た客を乗せ、真子一台を残し構内から南に出て行った。後で分かった事だが、今日の月曜日は大安吉日で所用を済ませる客が一気に街へと繰り出したらしい。駅に取り残された真子も夕方迄には充分な売上をしていて、その中でも山吹の朝駅から乗り込んだ客は、甥の婚礼祝いに東京から来た社長さんで片道一時間はかかる隣県を往復し、帰りは時間が無いからと言って空港迄高速を飛ばし帰って行った。そんな猫の手も借りたい様な日中も夕方からは普段の月曜日に戻り、最終列車が発つ迄には山吹も深夜の疲れを取る事が出来ていた。
 数日が過ぎた休日、携帯電話の呼び出し音で目を覚ませた山吹は枕元の携帯を取り通話ボタンを押した。
「もしもし、起きてる?」
「・・・」
「もう十二時過ぎよ!」奈美の弾んだ声だった。
「あぁ昨夜忙しくてな、どうした?」話しをまとめると出張から帰った兄と相談した結果、母親を入院させ兄の扶養家族に入り母親の世話をする事にして会社に退職の申出をしたが、上司が事情を考慮してくれ母親の介護に差し障りが無い業務に移動する様取り計らってくれ勤務もフレックスタイムに成ったと言う。
「それは良かったな!兄貴にも負担が掛からないし」
「そうなのよ、私のせいで兄が寝込みでもしたらどうしようかと思ってたの」奈美は晴々とした様子で話しを続けた。
「今夜予定有る?」
「いや、無いけど」
「じゃぁ食事しない?」
「それは構わないけど、お母さんはいいの?」
「食事を済ませてからよ、七時にどう?」
「分かった」
「じゃぁ、いつもの場所で」二度寝をした山吹が寝床から起き出した頃、台所には眩しい西日が差し込んでいた。冷蔵庫から牛乳と野菜ジュースを取り出し半々の割合でコップに注ぎ、飲みながらテレビを見て待ち合わせの時間を待つ事にしたが、平日夕方からのTV番組はどれも退屈で、少し早めに家を出た山吹はいつもの待合せ場所のレストラン駐車場から日没前の海を眺めていた。
「ごめん、待った?今日はどうしたの?」知り合ってから初めて自分より早く来ている山吹にびっくりした様子で肩越しから奈美が声を掛けて来た。
「たまには君を待つのもいいだろ?」TV番組が退屈で早く来たとは言えず山吹はそう答えた。
「時間持て余してたんでしょう?」お見通しよ!と言いたげないつもの悪戯な目で奈美は笑っている。
「今日はステーキにする?」
「うん、ステーキがいい」待合せ場所から西へ十分程車を走らせると国道沿いに顔馴染みのステーキハウスが在るのだが、小学校時代の五つ上級生の店でマスター本人は小学時代の山吹を覚えていないから奈美とはよくこの店に食べに来ている。ステーキハウスは百坪程の敷地内に駐車場と緑の樹々が白いハウスに良く映えてモダンな雰囲気を見る者に感じさせている。何より値段も味も良心的なので昼夜問わず客入りが良く、時間帯を間違えると暫くテーブルが空くのを待たなければいけない事がある。
「いらっしゃいませ」自動ドアが開くと清潔感の有る白いYシャツと黒のエプロン姿でウエイトレス二人が出迎えてくれ、右側カウンター越しの厨房から肉を鉄板上で手際良く切り分けながらマスターが軽く会釈をする。店内は気持ちが落ち着く明るさに保たれていて肉の味をより引き立てる様演出されているが、生憎今日は満席らしく奈美とアイコンタクトで相談を始めた頃一番奥のテーブルが空き二人は席に着く事が出来た。
「ご注文はお決まりに成りましたでしょうか?」
「Aセット二つ」
「Aセットお二つですね。かしこまりました」客の回転を良くする為時間帯でタイムサービスを設けてある。上質な肉を好めば切りが無いしタイムサービスだからといって味が落ちている事も無い、何よりボリュームが有り値段も手頃なのが奈美も山吹も気に入っている。暫くしてキャスター付き台に二人分の料理を乗せたウエイトレスがテーブルの上にステーキを並べ始めた。
「美味しそうねぇ」
「さぁ食べようか?」卵形の鉄板皿には食べ易い様サイコロ状に切り分けられた肉と特性ソースと肉汁で炒められた野菜類が多めに添えられていて立ち上る匂いと音とが食欲をそそり、その横には白い皿に艶やかな白米と大きめのカップにパンプキンスープが並べられている。一時間余り近況報告とたわい無世間話をしながら食事をしたが、奈美は肩の荷が降りたせいかよく食べよく笑いよく喋った。最後にセット混みの紅茶を奈美が、珈琲を山吹がウエイトレスに声を掛け、店の雰囲気を楽しみながら飲んだ後清算を済ませて店を出た。それから二人は近くの浜辺を夜風に吹かれながら散歩をして待合せの駐車場に戻って来た時には十時半を回っていたが普段の明るい奈美に戻っていた事が何より山吹には嬉しくて仕方なかった。
 
 今日の山吹は以前から指名を受けていた小牧夫妻の観光に九時の予約で町の中心部に在る介護施設を出発する事に成っている。小牧夫妻は共に八十歳を過ぎているが、若い頃には周囲が羨む程の美男美女だった様に見受けられ、苦渋の時代に苦楽を共にした者が持つ何か凛とした品の有るおしどり夫婦だ。しかしこの頃めっきり老け込んだ小牧氏は同じ事を何度も繰返し口にする様に成ってしまっているが、賢い婦人は否める事無くそれに付合っている。今回の観光も夫を気遣う婦人の配慮によるものだが、余命を慈しむ小旅行の様で山吹は少し気が沈んでいた。
「今日はご指名頂きありがとうございます。今日の予定は午前中に西讃地区の琴弾公園、次に弘法大師誕生の地で善通寺を参拝した後ご要望も有りました名店宮竹でさぬきうどんの昼食に入ります。午後からのスケジュールは後程」挨拶を済ませた山吹は車を西へ走らせ隣町のICから高速道に進むと小牧夫妻は瀬戸内海が望める海沿いの景色を眺めながら新婚夫婦の様に語り合い道中を過ごしている。西讃地区のICを降りると琴弾公園が一望出来る高台に着いた時には余りの壮観な眺めに言葉を無くした小牧夫妻の目は子供の様に輝いていた。それから暫く景色を眺めていた小牧氏が眼下に見える砂で造った銭形迄行ってみたいと言い出したが、夫人の制する言葉で次の目的地善通寺へと向け公園を後にした。有明浜から善通寺へ向かう途中、峠付近の幟旗に鳥坂饅頭と書かれて有る饅頭屋に立ち寄りお土産を買った後、東へ二十分位行くと街の中心に聳え建つ五重の塔が見え始め、中央通りから商店街の赤門筋を西へ曲った。善通寺の大きな正門前に車を停め門を潜ると老木と数本の新緑葉を茂らせた楠が厳粛なお寺の雰囲気を和らげ、本尊に続く石畳脇には慣れた鳩の群れが参拝者に付いて歩き餌をねだっていて穏やかな朝の公園を思わせる。
「山吹さん、良いお寺ですねぇ」
「えぇ、私も好きなお寺の一つですよ。じゃぁ小牧さん、お参り致しましょうか?」
「はい」三百メートルは有るご本尊に続く石畳を歩き始めると、お寺の鐘が境内に鳴り響き五重の塔から色とりどりの鳩が一斉に飛び立ち境内を舞った。それから三人は海の神と崇められている金比羅山麓の商店街で一時間の休憩を取った後お土産を買った夫妻を乗せ、午後からの観光地瀬戸大橋記念公園を目指し山吹は車を北へUターンさせた。様々な店舗が建ち並ぶ国道を三十分程北へ走ると右手に丸亀城が見え始め、更に進むと拓けた海岸線に一際高く聳え建つ展望タワーが太陽の光を浴びエメラルドグリーンに輝いていて、それを見た小牧夫妻はタワーに上ってみたいとスケジュールの変更を申し、快諾した山吹はハンドルを左に切った。そこは瀬戸大橋の開通に合わせ造成した土地で、今では展望タワーを中心に、大学、ホテル。大型百貨店、映画館等この辺りの中心都市へと成長を遂げている。エレベーターに乗り展望階に着くと瀬戸内海と大橋で繋がった島々が望める大パノラマが目の前に広がり、穏やかな顔の夫妻は何を話す訳でも無く初夏の気配が漂う瀬戸内の風景をいつ迄も眺めていた。一時間程展望タワーで瀬戸の風景とウインドウショッピング楽しんだ後、県の中心地に在る栗林公園を散策し源平合戦でも有名な屋島の山頂に在る水族館でスケジュール一杯迄の時間を優雅に泳ぐ魚達を観覧し、西の空に太陽が傾き瀬戸内の海も金色に染まり始めた頃、夫妻を乗せた山吹のタクシーは山頂を出発し海岸線の国道を帰路へと就いた。介護施設に着く間際、眠り込んでしまった夫を気遣いながら小牧夫人は、この先何か有った時には宜しくお願いしますねと小さな声で山吹に言った。
 
 六月中場に入った梅雨も結局数日間続いただけで梅雨明けを迎え、新聞、ニュースでは気象観測史上初めてと成る小雨量が連日報道され節水を呼び掛けていた。山吹はいつもの休日とは違い朝早くに起床し、いつもの野菜牛乳と食パンを食べながら無表情なニュースキャスターの声に耳を傾け、八月の厳しい暑さでの生活と客足への影響をぼんやり考えていた。今日は前々から真子に誘われていたカラオケに中山と三人で隣町に行く約束に成っているからそこそこに寝起きの時間を切り上げ溜まったままに成っている洗濯物を汚れの強い物から洗濯機に洗剤と一緒に入れスタートボタンを押し、その間に台所の流しに浸けてある二日分の食器を洗い終えると、四部屋と台所、階段等のホコリを箒と塵取りで掃除して回り、生ゴミと燃えるゴミを市指定のゴミ袋に一緒に捨て結び、明日出すのを忘れぬ様玄関先に置いた。それから脱水が済んだ洗濯槽に下着類と洗剤を入れ足した後ダイヤルをまわし、表の車庫に停めてある愛車の洗車を三十分で済ませた。脱水が終わった洗濯物を南のベランダに干し終えた頃には身体中から汗が吹き出ていて、汗だくに成った下着とパジャマを洗濯槽に投げ入れ隣の風呂場で汗を流し身支度を整えた時、表の道でクラクションが鳴った。・・・真子達かな・・・表に出てみると真子の白い愛車に中山がハンドルを握り助手席から真子が手を振っている。山吹の自宅からだと真子の家が一番遠く成るから真子の車に乗り合わせ隣町のカラオケボックス迄行く事に成っているが、約束時間より早く来たから山吹は驚いている。
「どうしたんだ、早いじゃないか?」
「家に居てもつまらないから山吹さんのお宅訪問を兼ねて早く来たのよ」
「何だ、小学生の遠足気分じゃないか?」
「何よ、入れてくれないの?」
「いや構わんよ、お茶でも飲むか?」
「ハ〜イ、頂きま〜す」笑いながら二人のやり取りを聞いていた中山が戯けた調子で返事をした。車から降りて来た二人は会社の肩苦しい制服とは違い共に若々しい出で立ちで山吹には少し眩しく見えていた。特に真子は会社では素っぴんに近い化粧でポニーテールをいつもしているから、髪を下ろし華やかなメイクをしているとまるで別人で、濃紺のタイトスカートに白のオープンカラー、首元にプラチナのネックレスがセールスレディー時代を彷彿させる。しかし山吹は素っぴんの真子に別れた女房の面影が重なっていたから何だか急に心が軽く成り、蟠り無く会話する事が出来ていた。
「お邪魔しま〜す」
「どうぞ、殺風景なとこだけど」ブロンズ色の扉を開けると右に胸の高さ程有る下駄箱が壁と一体に配置され圧迫感を取り除いていて足下にはグレーの艶無しタイルが一畳分敷き詰めて有り、一段高く成ったフローリングフロアは台所に続き渋い光沢が家の年月を感じさせている。だが一番目を引くのは二階迄吹き抜けに成ったロビーに、天窓の磨りガラスから淡い光が差し込んでいて来客を開放的で優しい気持ちにさせてくれている。
「素敵ねぇ」
「ほんと、モデルハウスに来たみたいだ」
「まぁお世辞はその位でいいから、上がってくれ」左側の白い引き戸を開けると六畳の未だ藺草の香りが残る和室で、左のコーナーにはTVが置いて有り殺風景な部屋に生活感を感じさせている。視界を下げると丸まったライトブルーのタオルケットと野菜牛乳が少し残ったコップとが今朝のままに成っているから、真子が女性らしく気を利かせて片付けてくれている間に山吹が二階からテーブルを降ろして来て部屋の中央に置いた。
「山吹さんお茶はどこにあるの?」
「悪いなぁ本当なら俺がしなきゃいけないのに」
「何言っているのよ、同僚でしょ、どこ?」
「冷蔵庫の中に冷えた麦茶が有るよ」手際良くこなしている真子を見ていた中山が声を掛けた。
「真子さんは良い奥さんに成りますね?」
「分かる?はい、これテーブルに置いて?」
「これだぁ〜」中山は渋々立ち上がり、おふくろと同類だぁ等とブツブツ言いながら麦茶の入ったコップをテーブルに並べ始めたから山吹は可笑しくて腹を抱えて畳の上に引っ繰り返っている。事情はどうあれ家族と同居している二人からすれば日常茶飯事的な家庭内での一風景でしかないのだろうが、一人暮らしが長い山吹にとって新鮮で忘れかけていた遠い昔の風景だった。山吹は普段会社でも余り感情を表に出さない事が自然と身に付いてしまっているから、初めて見る山吹の明け透けな姿を理解出来ない中山も真子も山吹に釣られて顔を見合わせ大声で笑い出した。しこたま笑った後、麦茶を飲みながら乗客の悪口やら家庭内の悩みやらが堰を切った様に続き、恋愛の話しに移った時には暫く個人の恋愛論に耳を傾け山吹の恋愛観を聞き終えた時真子が思いついた様に言った。
「山吹さん、私が以前勤めていた保険会社の先輩女性に会ってみる気は無い?」話しによるとその女性は、真子が退職する一年前に離婚を経験しタクシー乗務員に成った今でも連絡を取り合っている仲らしい。
「俺は構わないけど、相手がしがないタクシー運転手じゃ可哀想なんじゃないか?」
「決まりね。じゃぁ今夜にでも連絡を入れておくから」山吹は気心の知れた同僚と休日を自宅で過ごしていて何の気無しに返答した事を後悔していたが、隣町のカラオケボックスに着いた頃にはすっかり忘れてしまっていた。カラオケボックスでは少し遅い昼食とアルコールがいける二人はビールを注文し、飲食しながら初めて聞く同僚の歌声を代わる代わる聞き入っていた。その中でも真子が歌った天城越えには山吹も中山も飲食するのを忘れ歌い終わった時には思わず拍手の大喝采を贈っていた。注文した飲食物も食べ終わりTUNAMIを中山が歌い終わる頃フロントから時間の終了を告げる電話が鳴り、三人は物足りなさそうに部屋を後にしてフロントで支払いを割勘で済ませ駐車場が在る屋外へと出た。三人は暫く外の風に吹かれ陽が傾き始めた空を駐車場の傍らから眺めていた。
「さて、そろそろ帰るか?」山吹はスッキリした気分で言ったが、二人がビールを呑んでいる事に気付き黙って真子に手の平を差し出した。
「運転手さん、安全運転でお願いね?」手の平に真子の愛車のキーが落とされた。酒臭い中山を後部座席に押しやり山吹の自宅に着く頃には西の空は赤く染まっていたが眠り込んでしまっている中山は気付いていなかった。
「じゃぁ山吹さん、今日は本当に楽しかったわ」
「あぁ、俺もだ」運転席に乗り込み愛用のサングラスを掛けた真子が窓越しから手を振りターボ車独特の擦れた金属音と共に夕焼けが映える街並みから見えなく成った。
 
 昨夜忙しさの余り加奈子から携帯に着信が有った事を休日昼前に成って気付いた山吹は慌てて加奈子に連絡を入れたが未だ授業中らしく電話に出ない。・・
・誤解されたかな・・・居たたまれない気持ちに成っていた時加奈子からの着信音が鳴った。
「加奈ちゃん昨夜はごめん、仕事が忙しくて着信に気付かなかったんだよ」
「そうだと思ってた」
「それで?」
「昨日の夜そっちへ行く予定だったんだけどテスト期間中で、変わりに父を捜して貰えたらと思って連絡したの」
「そうだったのか・・・分かった、今日休みだから情報集めてみるよ」
「えッ!どうやって?」
「秘密。蛇の道は蛇」
「ずる〜い、何かスパイみたい。じゃぁ、命に支障無い様にお願いします」
「了解、ボス」山吹は加奈子に会ってから考えていた事が二つ有る。一つは幼馴染みがJRに勤めているからお父さんの確かな消息が掴める事、もう一つは野村夫妻が必ず父の居場所を知っている筈なのに何故それを加奈子に話さないでいるかとゆう事だが、育ての野村夫妻に加奈子の口から父の居場所を問う事も、又夫妻から切り出す事も互いに辛い事なのは容易に理解出来ていた。山吹は早速幼馴染みに連絡を取り軽い朝食を済ませた後身支度を整え愛車のエンジンをかけた。級友が勤めているJRは山吹の住む町から西へ六つ目の駅で、学生と大企業が犇めく発展途上な町の中心部に在り、車で三十程かかる場所だが待合せの三時休憩には未だ時間が有るので、山吹は図書館に寄る事にしてエンジン回転数を一気にターボ領域迄上げ国道を西へ向かった。図書館に着くと早々詳細地図が並べてある棚に行き、隣県地図を取出し中央に設けて有る机の上に広げ椅子に座った。地図上で野村夫婦の家は十一番札所が在る町の比較的拓けた農業地帯に在り国道からそう遠く無い事が分かり級友と会った後高速道を利用すると四時半には野村夫妻の家に着く事を下調べして級友の勤めるJR駅に山吹は向かった。
「やあ、久しぶり!」
「あぁ三年ぶりだな、変わり無かったか?」級友の田中は駅前のベンチに座り山吹が到着するのを待ってくれていて、三年前の同窓会に会った時年相応に薄く成っていた額もより広く成り優しい中年の顔に近づいていた。
「今日はどうしたんだ?」山吹は田中の休憩時間の事も有り挨拶もそこそこに済ませ急ぎ早に要件を説明すると二つ返事で快く引き受けてくれ消息が分かり次第連絡をする事を約束してくれた。田中と別れた後IC近くに在るコンビニで缶ジュースを買いトイレを済ませてから野村夫妻の住む町に向かって高速道に乗った。一番札所が在る五つ目のICを降り野村夫妻が住む町に到着した頃には山吹の腕時計は丁度四時半を指していた。
「すみません教えて頂きたいのですが、この近くに野村加奈子さんのお宅が在ると聞いて来たのですが・・」
「加奈ちゃんの家ね?」内心怪しまれはしないかとハラハラしていた山吹に子犬を連れた女性は南の方角に在る青い屋根の家を指差してくれた。野村家の門前に車を止め呼出しベルを押し暫く待ってみるが応答は無く、失礼だと思いながら目隠しの山茶花が植えて有る石垣沿いの砂利道を西に歩き左へ曲った処で山裾の段々畑で作業をしている男性を見つけた。
「野村さんですか?」男性は振り向き気が付いた様子だが返答は無く、もう一度問い掛けると軽く頷いたので作業している畑に山吹は近づいて行った。
「こんにちは、お仕事中申し訳ございません。私、向井義則君の同級生で山吹といいます。野村さんのお宅にお伺いしましたのは、この夏学校創立五十周年を迎え記念式典が行なわれる運びと成り、野村さんが向井君の所在をご存知では無いかと人伝に聞いたものですから・・」山吹は同級生を装い加奈子の父の居場所を聞き出そうとしたが、現在の住所は分からないとゆう事で野村氏は何かの手掛かりに成ればと一旦自宅に戻り以前住んでいた住所を紙に書き手渡してくれた。山吹は野村氏の人柄から嘘偽りが無い事を確信した。野村家を後にして暫く走った県道で自転車を漕ぎ友達と楽しそうに家路を急ぐ加奈子と擦れ違った時、山吹は野村夫妻の子供のまま父を知らない方が今の加奈子にとって幸せの様な気がしてならなかった。
 野村家からの帰宅途中夕食を済ませいつもより早目の就寝準備が出来た時、田中から自宅電話に連絡が入った。
「おぉ帰ってたか!山吹、昼間の件だがこれ以上関わらない方がいいぞ」
「どうゆう事だ?」加奈子の父向井義則は野村夫妻が済む県の出身者で、大学を卒業後JRに就職したが学生時代から交際していた女性との間に子供が出来結婚、半年後自家用車での事故で妻を亡くし奇跡的に助かった子供を人手に預け十五年前市内の駅に赴任して来たと田中は言う、しかし肝心なのはその事故で向井本人も記憶を失い事故も計画的意図が有ったと噂されている事だった。山吹は途中迄よくある話しじゃないかと同情しながら聞いていたが、隠されていた真相を聞き血の気が引く感覚と同時に目眩がして受話器を握ったまま台所の床に座り込んでしまった。
「おい、山吹?」
「田中、俺はどうしたら良いと思う?」
「最初に言っただろう、この件からは今後一切手を引けッ」田中は普段温厚な性格なのだが、この時ばかりは強い口調で山吹を一喝した。

 梅雨が明けてからも纏まった雨は降らず、取水制限を呼びかけるニュースを聞きながら山吹には早い休日の朝食を摂っていた。その後向井の情報は掴んだものの田中の助言も有り、加奈子に話すべきかどうか憂鬱な日が続いていた。・
・・さて、選択するか・・・いつもの様に汚れのひどい物から洗濯槽に入れスタートボタンを押し、塵取りを片手に箒で部屋を掃いて回った後流しに溜まった食器を洗い出した時、玄関のチャイムが鳴った。自治会からの回覧板ではないかと思いながら来客に少し待つ様に伝え玄関の鍵を外した。
「どぅぞ」玄関を開けるとショートヘアーのこざっぱりした女性が微笑んでいた。
「おはようございます。私、真田恭子さんの紹介で伺いました向山紀子です」山吹は何の事やら分からずに理解する迄暫くかかったが、要は真子とカラオケに行く日に聞いた保険会社の先輩で、今日は真子がセッティングしたシチュエーションらしく二人は玄関で大笑いした。玄関で暫く立ち話をすると紀子は嫌なタイプの女性では全く無く、掃除が済む迄待って貰えないかと山吹は伝えたが、手伝うつもりで来たから遠慮無く何でも指示する様紀子は言い、居間に入ると荷物を片隅に置き流し台に有る荒い物の続きを楽しそうに始めだした。山吹もそんな姿が何だか嬉しく思え、脱水が終わった洗濯物を鼻歌混じりに表の物干し竿に干し始めた。それから愛車の洗車を済ませ家に入ると紀子は自宅から持って来たらしいエプロンを付け料理を始めていて、コンロの鍋から部屋全体に煮物の良い匂いが広がっていた。
「良い匂いだね」
「肉じゃが作ったけど嫌いな物は無い?」
「肉じゃがは大好物」紀子は手慣れた手付きで皿に移した肉じゃがと焼魚に味噌汁を並べ、炊飯器から茶碗にご飯を装い始めた。
「どう、美味しい?」数年降りに食べた家庭料理に山吹は何度も美味しいを繰り返し、それを嬉しそうに見ながら紀子も料理を食べ始め、幼い頃からの話を二人は交わした。紀子の両親は山吹と同じ町に兄夫婦と健在だが、離婚をしてからの同居も肩身が狭く隣町のアパートで一人暮らしを始めて五年経ち、離婚の原因は山吹と同様相手の浮気だった。食事が終わる頃には途切れた結婚生活を続けている様な気持ちに成り封印された辛い記憶を消し去り二人を現実の歓びへと変えてくれていた。
「紀ちゃんはこれから将来をどう感がえているの?」
「そうねぇ・・今の仕事を続けられて、取り敢えず健康ならそれでいいかな」
「欲が無いなぁ」
「そうでも無いわ。美味しい物も食べたいし、奇麗な洋服だって着てみたい。旅行にだって行きたいわよ・・・でもね、健康なら取り敢えず一人で生きて行けるって事」紀子は山吹より三つ年下だが一人で生きて行く事の本質を知っていて、これは誰にも頼らず一人で生き抜いて来た者しか語れない。山吹は紀子のシンプルな第一印象はこの精神力から来ている事を悟り、これから紀子に絶対的信頼を寄せる言葉と成った。
「向山さん、折り入って聞いて欲しい事が有るんだけど?」
「何?改まって」山吹は六月深夜、加奈子と出会った時から父向井を探して隣県迄行き真相を突止めた事迄を順を追って話した。
「そう、そんな事が有ったの・・・一人で大変だったわねぇ」紀子は山吹に労いの言葉を掛け意見を静かに語り始めた。まず向井の疑惑がはっきりする迄加奈子に連絡をしない、有ってもその件は話さない事を最初に切り出し、次に向井の起こした事故を改めて調査し、保険金詐欺の有無を知らせるが、十五年前もの事なので事実が分かったとしても公的事実は覆らないだろうと保険会社の顔を覗かせ話を締め括った。
「ありがとう。余分な手間をかけるけど」
「いいのよ。その代わり又家に遊びに来てもいい?」
「もちろん。こちらからもお願いするよ」夕方家事を済ませると紀子は近い内に遊びに来る事を約束し隣町へと帰って行った。
 翌日いつもより早く会社に出勤した紀子は昨日やり残していた事務手続きを片付けた後、先ず向井がどこの保険会社に加入しているか調べる事にしてパソコンの電源を入れ、顧客リストから向井義則と名前を入力し検索実行を押した。紀子の会社は五年前、三社の保険会社が合併し顧客の数も膨大しているから向井のファイルが見つかる可能性はかなり高い。・・・有った・・・向井義則40歳、藍住町136-120、昭和62年4月加入。向井佳恵昭和63年5月加入とディスプレイ上に現れ保険金受取欄には法定相続人と成っていた。これだけなら極一般的な家庭にも有り得る加入内容だが次のページには保険加入三ヶ月後の事故証明書がファイルされていて、事故状況は交差点での正面衝突で加害者向井が一旦停止をせず飛び出し一方的に悪い歩合と成っていた。保険会社も向井の病状回復を年度末迄待っていた様だが医師の診断書にも記憶回復の兆し無しと書かれて有り、翌年三月に向井義則名義の口座に妻の保険金は振り込まれていた。・・・最悪ね・・・紀子はファイルを見終わると溜息を一つ吐きディスクにコピーを録りパソコンの電源を切った。念の為休憩時間に診断書を書いた担当医師の病院へ電話を入れたが五年前に退職をして開業した事を受付の女性から聞き、午後三時に顧客訪問を兼ね県境の病院へ向かった。担当医師は当時の事をよく覚えていて、妻佳恵は二歳に成る子供を守る様にして亡くなった事で子供に外傷は無く、暫くして養子に出された事を気の毒そうに話し、頭に重傷を負った向井は記憶を失った事により心身の平常を保つ事が出来たとも言った。余談に退院間近看護婦からの問掛けに数度返答する報告が有った事を話し担当医師は苦笑した。見逃しそうに成る話しの中で手掛かりと成る確かな証言を持ち紀子は県境の病院を後にした。
 紀子から連絡が入ったのは山吹が次の休日昼過ぎで、仕事が終わり六時には家に駈け着け持って来た私物のノートパソコンを立上げ当時のファイルを表示した後経過を話し限りなく黒に近い事を告げた。山吹はこの短期間で集めた情報力と事実に驚嘆し言葉を失い、紀子は悲しい声で加奈子が心配だと言った。それから二人は遅く迄見識を語り合い二つの結論を出した。一つは向井の単独による保険金目的の事故。二つ目は向井夫婦による保険金目的の事故に見せかけた心中。一つ目はこの事故で二歳の加奈子を佳恵が庇った形跡が有る事から向井単独での犯行と推測し、二つ目は保険金の受取が法定相続人に成っている事から浮上したが、その場合野村夫妻の関与も否定出来ない。どちらにしても背景には多額の借金が有った事で二人の意見は一致した。
「紀ちゃん、今夜家に泊まらないか?」
「ええ。俊樹さんが構わないなら」先に山吹がシャワーを浴びた後並べた布団の中でもう直ぐ夏休みに入る加奈子の父向井への行動を心配していた。
「俊樹さん、夏休み期間中こっちで預かる事は出来ない?」
「・・出来ない事も無いが、野村夫妻に加奈子の口から事情を話させる必要が有るし、危険も伴う事に成るかもしれない」
「一度加奈ちゃんに私も会わせて貰えない?」
「そうだな、経過報告も有るし・・」会うのは三人の休みが合う週末土曜日に決め二人の遅い一日が終わった。
 連日35℃前後の猛暑が続き朝から熱風が吹く駅構内で乗務員達は疲れ切った様子で待機していた。乗客も毎年売上が期待出来る月にも関わらず激減しているが、朝夕気温が弛んだ時間帯に病院や買物、飲屋街に出掛ける人達で売上を確保していた。
「山吹さん、その後向山さんとは巧くいってる?」真子は興味津々な面持ちで尋ねて来た。
「真子の横槍が無かったらな」
「もうッ」真子は二人を引き合わせた手前院展をよく聞くが、最近明るく成った山吹の表情から内心嬉しく感じ取っていた。午前中病院へ通う乗客を数件済ませた山吹は少し早い昼食を摂った後、加奈子の昼休みを見計らい携帯に連絡を入れた。「久しぶり、変わり無かったかい?連絡遅く成ってすまなかった」山吹は父向井の現住所が分かった事だけを話し、紀子と計画した事を提案した。「加奈ちゃん、夏休みを利用してお父さんを探しにこっちに来ないか?」
「えッ!山吹さん家に?」
「そうだよ。その期間中彼女が一緒だし心配無いから」加奈子は嬉しそうに承諾したが、野村夫妻の許しを得るには自信が無いと黙ってしまった。
「加奈ちゃん、明日彼女と二人でそっちに行くから会える時間帯は有る?」
「本当?」
「本当さぁ」加奈子は驚いた様子だったが嬉しそうに待合せの場所を説明し、午後一時に時間を決めた。
「じゃぁ明日一時に」
「うん、待ってる」山吹は携帯を切りいつもの食堂駐車場から駅に向かった。午後からの気温は観測史上初めてと成る猛暑を記録し、乗客も四時過ぎに成る迄タクシーを利用する者はいなかった。紀子の仕事が終わった頃を見計らって連絡を取り、山吹は加奈子の件を話した。
「帰りは何時頃に成るの?」
「仕事によるけど、一時過ぎかな」
「家に行っていていい?」
「頼むよ」山吹は最終列車の乗客を送り届け帰宅したが一時半にも関わらず居間の灯りが薄ら庭先を浮かび上がらせていた。
「ただいまぁ」
「お帰りぃ。疲れたでしょう?」紀子の優しい微笑みを見て何も言わず強く抱き締め、紀子の手は優しく山吹の背中を撫でていた。それから二人は食事を済ませシャワーの後悦びを分かち合い眠りに落ちた。
 翌朝十時過ぎに起きた二人は深夜の残り物で食事を済ませ、少し早いが加奈子が待つ待合せ場所へと二人は出掛けた。車内で紀子は好きな男性の車に乗りドライブするのは何年振りだろうと呟いたがそれは山吹も同じだった。途中県境の峠付近で名水に指定されている湧き水を給水する人達に混じり喉を潤した後、お遍路で有名な一番札所で参拝を済ませ、参道脇に在る社務所に立ち寄り加奈子の贈り物にと紀子がお守りを買い、一時の待合せ場所へと二人は向かった。川の畔に在る待合せの公園に着くと加奈子は青いデニムスカートに白いTシャツ姿で木陰のベンチに腰掛けていたが、山吹を見つけるとポニーテールの髪を靡かせ二人の元へと駆け寄って来た。
「こんにちはぁ」
「こんにちは。元気そうだね?こちらが話してた向山紀子さん」
「こんにちはぁ、野村加奈子です」
「こんにちは。貴方が加奈子ちゃんね、これから仲良くしてね?」紀子は一番札所で買ったお守りを手渡し肩を抱き寄せ親子の様に二人は話し続けた。一段落した処で山吹が夏休みの件を切り出し、紀子さんが一緒ならと加奈子は嬉しそうに返事をした。それから野村夫妻の承諾を得る為、一二時間後に帰宅する様加奈子に伝え公園で別れた。
 野村家に着くと夫妻共々出迎えてくれて藺草の香りが残る座敷に案内されると、後から夫人が冷えた麦茶と西瓜を持ちテーブルの前に座った。
「道中お疲れに成ったでしょう?冷えている内に召し上がって下さい」
「有難うございます。遠慮無く頂きます」その後紀子は奇麗に包装された水羊羹の箱を差し出し妻の紀子と挨拶をした。山吹は私達夫婦も子供に恵まれず旧友の子供さんを夏休みの数日間預からせて貰えないか?と夫妻に話し、向井の旧友だし加奈子が納得すれば連絡する、と野村氏は約束してくれ二人は加奈子の住む町を後にした。その夜野村氏から手数を掛けるが宜しく頼むとの連絡が自宅に入り、紀子の携帯には弾んだ声の加奈子から期間を知らせる連絡が有り、預かる期間は三十日からの十日間で、当日加奈子は矢吹が住む町迄列車で来る事に決まった。
 
 夏休みに入った加奈子が山吹の住む町の無人駅に到着したのは陽も傾き始めた金曜四時過ぎ、その日から有給休暇を取った山吹と紀子は一緒に出迎えていた。
「こんにちはぁ」
「いらっしゃい、久しぶりねぇ。変わり無かった?」紀子はノースリーブのワンピースから伸びた加奈子の肩を抱き優しく語りかけ、加奈子は世話に成る数日間の挨拶をした。山吹の自宅に着くとボストンバッグから野村家の畑で採れた数種類の野菜と滞在期間中の食費を差し出したが、夏休みの小遣いにと山吹は笑い、微笑みながら加奈子のボストンバッグ内ポケットへと紀子が入れ直した。暫く三人は今日迄の事を雑談しながら西瓜を頬張り、加奈子が落ち着いた頃を見計らい小さな町の案内に山吹の愛車に乗り込んだ。加奈子は深夜駅のホームから眺めていた印象からか開放的な海沿いの風景に驚き、県指定公園の松林が続く長い白浜が見渡せる高台に着いた時には、一緒に泳ぎたいと紀子に強請っていたが、居れば自分の娘とそう変わらないであろう無邪気な加奈子の笑顔に、到頭紀子も行く事を約束してしまった。その後近くのスーパーで買物を済ませ帰宅するのだが、今迄の行動を尾行する人影が居る事に未だ誰も気付いていなかった。
 翌日町は夏祭りで数キロ離れた神社境内から祝砲の花火が打ち上げられ小さな町に鳴り響いていた。紀子は若い頃の浴衣を加奈子に着せてやり薄く紅を引き、自分も浴衣の帯を起用に結び二階から山吹の居る居間に入って来た。
「いやぁ奇麗な浴衣だなぁ、家の中が華やぐよ」
「浴衣だけ?」
「いや、二人とも」慌てて言い直した山吹を紀子と加奈子は顔を見合わせ大爆笑した。祭りが開かれる神社は山吹の家から東へ十五キロ程の国道沿いから見える松林の中に在り、神社へ続く参道両側には色鮮やかに飾られた屋台が軒を連ね、夜七時を過ぎる頃から花火見物の人達で幅五メートルは有る石畳の参道も小さな子供が入る隙間も無い程に人で埋め尽くされる。去年の花火大会は夕方から降り出した雨の影響で中止と成り、今年の祭りには一層大勢の老若男女が詰掛けると予想される。
「さぁ俊樹さん、行きましょう?」
「よしッ行くか」夕食を食べ終わり西の空が朱に染まった頃三人は家を出発した。国道を走り会社近くの商店街を通り過ぎた辺りから車は混み始め、神社裏の公園に車を駐車した時には所用時間が十五分も長くかかっていた。そこから砂地の松林を加奈子を挟む様に歩き、人並みで埋め尽くされた参道から流れに任せて進むと神殿に向かい賽銭を投げ神妙な面持ちで三人は願をかけた。それから神殿前の社務所でお御籤を引いたが山吹一人だけが凶に成り不機嫌だったが、加奈子が二人にと買ってくれた招き猫のキーホルダーに機嫌が一変に直り三人は童心に返り参道両側の出店をリンゴ飴片手に見て回った。国道沿いの綿菓子の出店前に着いた時、一際大きな音が境内に鳴り響き夜空に色鮮やかな大輪の花が咲き乱れた。花火を見終わり裏道を帰る途中神社裏の公園から後を付いて来る一台の車がいる事に山吹は気が付いていた。
「少し寄り道しようかな」
「どうしたの?」
「休みが長いと運転が楽しくてね」山吹は加奈子に心配させぬ様紀子にはそう言い細い路地へとハンドルを切った。尾行の車は暫く付いて来たが気付かれ事を察したのか高速道架橋付近に差し掛かる頃には見えなく成っていた。自宅に帰り加奈子が寝静まると珈琲を入れ終えた紀子に帰り道の事を山吹は話した。
「考えられるのは私達の行動を知っていて、それを良く思わない面識が有る人」紀子の推測に山吹も納得し、今迄三人の行動を振り返り該当者を四人に絞り込んだ。その四人は向井義則、旧友の田中、向井の担当医、それに疑いたくないが野村氏、以上が二人の行動を予測出来る知人と成り可能性を検証した。山吹の住所を知っているのは田中と野村氏の二人だが、田中は他の三人とは関わりは無く疑う余地が無い。そうすると加奈子が居る事を含むと野村氏、そこから情報が漏れた向井と予測出来る事を紀子と話し、どちらにしても物騒なので明日紀子のアパートに移る事にして二人は眠りに就いた。
 翌朝加奈子から今日は月曜日で深夜父が仕事をしたなら必ず家に居る筈だから会いに行きたいと二人に言った。それを聞いた山吹と紀子は深夜の尾行は野村氏と悟り、一番の目的を蔑ろにしていた事を山吹は加奈子に詫び、紀子は現実を寂しく思った。朝食のハムエッグとトーストされた食パンを食べてから山吹は荷物を纏め持って来る様に伝え加奈子は怪訝そうに従った。その後直ぐ市内に在る向井のアパートに向け愛車を走らせ、車内で尾行された昨夜迄の事を紀子が分かり易く加奈子に話し滞在場所を自分のアパートに移す事を告げた。加奈子は黙って頷いていたが危険を顧みず父の捜索をしていてくれた事に今朝の軽卒な言動を許して貰える様二人に言った。
「いいのよ。それよりこれから身の回りに気を配って、少しでも変わった事が有ったら俊樹さんか私に話してね?」
「はい」それから国道を五十分程かけ向井が住む市街地に近づいた頃には一段と交通量は増えていて、三車線のバイパスも信号待ちする回数が多く成っていった。向井のアパートは県の表玄関に当たる駅から市街の中央通りを南に五キロ程進んだ道路沿い西側に在り、南側には五階建てのマンションが七棟並んでいた。山吹は車を中央通りの対面に在るスーパー駐車場に停め歩いて向井のアパート迄行く事にして店内で手土産を買いアパートに続く歩道橋を渡った。アパートは白い壁の二階建てで計十世帯の部屋から成り、アスファルトの駐車場には三台の車が停められており、中央通りにも裏道からも出られる様に設計されてあった。向井の部屋は階段を上った西端に在り、山吹は二人と目を合わせ一呼吸置いてから呼出しベルのボタンを二回押したが誰も出て来る気配は無く、痺れを切らしドアをノックしようとした時少し待つ様中の住人は言い、ドアの鍵を外す音がして山吹と同年代位の色白い男が現れ加奈子は一目で父だと分かった。
「おはようございます。私山吹と言いますが、向井義則さんでしょうか?」
「そうですが」
「今日伺いましたのは貴方と実の娘さんを引き合わせる為、お節介とは思いましたがお手伝いをさせて頂きました。お時間有る様でしたらお話伺わせて頂きたいのですが?」山吹はそこ迄言うと加奈子の肩に手を添え半歩退いた。すると向井は一瞬目を見開き驚いた表情に成ったが、数分待った後奥の部屋に三人を通してくれた。几帳面な性格なのか部屋は奇麗に整頓され南側の窓ぎわに亡くなった妻と加奈子らしき幼児の写真が飾られていて、その事を尋ねると向井は頷き、紀子と山吹は検証した二例目だと直感し少しホッとした。それから加奈子と紀子を紹介した後手土産を渡し、丸いテーブルを囲み加奈子と出会ってからの事を向井に話した。
「そうでしたか、色々とお手数をお掛けしました。ですが私は事故後意識を回復してからの事しか記憶に無く、今も二人の事は思い出せないでいます。この写真もいつか記憶が戻る切っ掛けに成ればと飾っているのですが・・」向井の言葉を聞いて山吹達の直感も覆り考え込んでしまった時、紀子が担当医師の余談の話を切り出した。
「でも向井さん、貴方は退院間近の病院で看護婦さんの問い掛けに過去の事を話したとも伺いましたが?」
「内容にもよりますが、意識を取り戻し自分が向井義則とゆう名前を意識した時から過去の断片が蘇る事が有り、それを話したのだと思います。記憶に有るのは幼い頃の事ばかりです・・担当医師は何の話しだと言っていましたか?」そう聞き返され紀子も話しに詰まってしまい結局父との再会も物別れの様相が漂い始めた時、加奈子が一枚の写真をポケットから取り出し向井のテーブルの前に差し出した。
「結婚当時のお父さんよ」それから加奈子が深夜プラットホームで父を探していた時の写真で、野村夫妻から両親の話しと一緒に手渡された物だと潤んだ目で声を詰まらせながら訴えた。向井は手に取り力無く眺めていたが暫くすると無表情な顔は次第に険しい顔に変わって行き、額に当てた手の親指を顳顬に強く突立て始めた。
「向井さん大丈夫ですか?」
「これは妻が妊娠した時に当時の私を取るんだと言って、昼休みに妻が写した物です」その写真に写る向井は制帽を被り当時勤めていたと思われる駅を背景に撮られていて、浅黒く日焼けした顔から白い歯が覗く快活な若者で、今とは正反対の印象を受けた。
「他に何か思い出す事は有りませんか?」向井が言うにはその記憶は断片的に蘇るらしく、決してテレビ番組の流れる様な映像では無い事を話し、嗅覚、視覚、聴覚、味覚全ての感覚から影響を受け当時の出来事と重なった時だけ抑圧された記憶が断片的な画像と成りフラッシュバックされる事を今迄の経験から分かっているが、故郷を離れ仕事だけの刺激が無い生活を続けているせいか今ではフラッシュバックも十年近く起きていなかったと話した。
「じゃぁ今からでも当時の記憶を取り戻せる可能性は有るとゆう事ですね?」「・・・そうゆう事に成りますか」そこまで話し終わると加奈子が何故保守点検の列車に乗っていなかったのかを向井に聞いた。
「この四月から西部線の担当に移動したからだよ」向井はすまなそうに言ったが、疑問が解けた事で加奈子の目は輝きを取り戻していた。それから山吹は記憶が蘇る事が有ったら小さな事でも連絡して貰える様にと携帯番号を交換して陽が傾いた頃紀子のアパートへと出発した。結局向井から当時の真相を聞く事は出来なかったが、この世でたった一人の肉親に出会えた加奈子にとってこれ以上嬉しい一日は無かったと紀子も山吹も思っていた。
 向井のアパートからの帰り道にいつものステーキハウスで夕食を済ませ紀子のアパートに着いた時には夜の八時に成っていた。アパートはステーキハウスから数分の処で三人で眺めた指定公園の直ぐ傍らに在り、波音を聞いた加奈子が約束の海水浴を明日したいと紀子に言い、山吹もそれに付合わされる羽目と成った。三人がシャワーを浴びた後加奈子は今日のお礼を二人に言うと張り詰めていた気持ちが解れたのか就寝の挨拶をしてそのまま紀子のベッドで眠ってしまった。紀子のアパートは二部屋と台所で女性らしい淡い色調で統一され隅々迄掃除が行き届いていて、加奈子が眠っている枕元には迫力有るスピーカーが目を引くステレオが置かれ、右側の壁にはショーンコネリーの渋いポスターが貼られて有り、山吹は紀子の知らない一面を垣間見る事が出来た。
「今日は大変だったなぁ、俺からもお礼を言うよ。ありがとう」
「いいのよ、これも神様の思し召しよ。それより明日の方が大変よぅ」そう言うと紀子はテーブルから立ち上がり隣の部屋から二つの水着を持って来て二十代に買った物だと言うが、デザインは回帰して又流行の先端を走っている。
「加奈ちゃんにはちょっと早いかな?」
「セパレーツの方なら柄も良いんじゃないの?」
「じゃぁ私がビキニ?」山吹の思惑を他所に紀子は考え込んでしまったが、何か閃き納得したのか水着を椅子に掛けると向井の事を話し始めだした。
「一応話しの筋は通っていたけど、当時の記憶が無いんじゃ仕方ないわね?」「あぁ。でも加奈ちゃんとの再会で記憶が繋がる可能性は出て来たさ」
「そうね、屹度そう成るわね」それから二人は尾行の事を話し始め次に不審者が現れた時野村家に確認の連絡を入れる事で合意し、加奈子が眠るベッドの横で二人は眠りに就いた。
 翌日連日続く暑さは衰える事が無く朝から蒸せ返る北風が細波の音と共に潮の香りをアパートに運んでいた。三人は朝食を済ませた後浮き輪と敷物を片手に浜に繰り出したが、気の早い海人はウインドサーフィンや水上バイクで思い思いに夏の海を楽しんでいた。
「加奈ちゃんもすっかり大人の女性ねぇ」セパレーツの水着を付け波際で戯れる加奈子の姿を白浜の松―松陰から二人は見つめているが、当の紀子はとゆうと昨夜のビキニに薄いスカーフをパレオ代わりで腰に巻き現代風の水着へとアレンジしていた。
「紀子さぁ〜ん、一緒に泳ごう!」加奈子の弾ける様な声で紀子も浮き輪片手に青い海へと駆け出して行き、山吹はいつ迄も二人の姿を白い砂浜から見守っていた。
「加奈ちゃん楽しかったわねぇ?」
「私海で泳いだ事一度も無かったから」海の家で軽い朝食を済ませアパートに着く頃に真夏の太陽は三人の影を小さく映し出していた。シャワーで火照った体と砂を洗い流しクーラーの効いた部屋で加奈子と紀子は昼寝を始めだしたが、然程疲れていない山吹は暫く横に成った後海辺の岩陰で採って来た常節、鷹の爪等の貝類でカレーを作り始め、仕上げのルーを鍋にいれ味を整え始めた時隣の部屋から匂いに釣られて紀子が起き出して来た。
「いぃ匂い。カレーね?」
「シーフードカレー。味見するかい?」
「ん、いける!」
「だろう」紀子は山吹の臨機応変な発想と行動力に驚いた様子で後から起きて来た加奈子と共に四日目の夕食を食べ始めた。
「山吹さんって料理上手いね?」
「一人暮らしが長いからね。でも加奈ちゃんだって直ぐに上達するよ」
「そぅかなぁ・・私は作るより食べる方が好き」
「加奈ちゃんもこれから好きな男性が現れたら自然と作る様に成るわよ」
「紀子さんもそぅだったの?」
「そうよ。女の人は普通そう成っているものよ」加奈子は二人の顔を交互に見ながら又カレーを食べ始めた。食事の後片付けを紀子と加奈子が終えた時、山吹は着替えの服を自宅に取りに戻る事を告げた。
「気を付けてね?誰か張り込んでいるかもしれないから」
「あぁ、分かっている。じゃぁ行って来るよ」山吹はアパート裏に停めてある愛車に乗り込み国道に出ると一気にターボ回転へとアクセルを踏み込んだ。十分程国道を東へ走り不審者に気付かれぬ様自宅付近の公民館に車を停め、団地に続く緩やかな坂道を歩き出し、坂を上り切ると団地の裏口角に在る外灯を避け雑草が茂る木陰から自宅周辺の様子を覗き見た。・・・やはりな・・・一台の見慣れない車が団地内の外灯を避ける様に自宅迄の道端に停まっていて、車内に人影が確認出来た。山吹は気付かれぬ様不審車の背後に近付きナンバーを携帯に入力し元の木陰に身を隠した。・・・やはり野村氏か・・・ナンバーは隣県の登録で有り車種は白のワンボックスだった。山吹は町の警察署に連絡を入れ団地内に不審な車が停車していて通行の妨げに成るから移動させる様登録ナンバーと車種を警察官に伝え携帯を切り、在宅確認の為野村氏にも連絡を入れた。「はい、野村でございますが」電話口には野村夫人が寛いでいた様子で受話器を取り、加奈子が世話に成っている事の挨拶を交わし、主人は入浴中で有ると話した。
「そうですか。それではお父さんにもその旨宜しくお伝え下さい」山吹は一抹の不安を感じたが夫人の言葉を信じる事にして通話終了ボタンを押した。それから数分後不審者の携帯に移動通告の連絡が入ったのか慌てた様子で不審車は団地内から立ち去って行った。
 山吹が着替えの衣類をボストンバッグに詰め紀子のアパートに帰って来ると玄関先で涼んでいた二人が待ち侘びた様子で出迎えてくれ、三人は部屋に入り台所のテーブルを囲んだ。
「それで不審な事は無かったの?」
「やっぱり怪しい車が停車していたよ」山吹が一部始終話し終わると、その時間帯はいつもお風呂に入っているから不審車は父では無い、と加奈子が断言したその時、山吹の携帯に先程の警察官から経過を確認する連絡が入り、手数を掛けた事のお礼と不審車が誰だったのか丁重に聞いた。
「えッ!?」山吹は神妙な面持ちで警察官の話しを聞き、紀子と加奈子は携帯から漏れる微かな声に耳を傾けていた。
「分かりました。ご丁寧に有り難う御座いました」携帯を切ると山吹は黙ったまま考え込んでしまい、居たたまれず紀子が問い掛けた。
「で、何て?」その車は隣県養護施設の物で使用者は仕事の為山吹の町に来ていたらしい事を二人に話した。すると紀子も同じ考えをしたのか黙り込んでしまった。要するに事故当時加奈子が入所いていた施設ではないかと考えたからだった。一人話しが読めないでいる加奈子は眉間に皺を寄せ二人に問い掛けるが返事は返って来ない。
「ねぇ、山吹さん!紀子さんったらぁ」加奈子が再び悲痛な言葉を発した時、山吹が重い口を開いた。
「加奈ちゃんこれは推測なんだけど、その車は君が十五年前入所していた施設の物ではないかと思えるんだよ。施設の事を両親から何か聞いてないかな?」加奈子は両親から春先に聞いた事を順に思い出し施設の記憶に辿り着いた。
「あッ!確かにその施設の名前をお母さんが言ってた」
「やっぱりそうか」
「でも何故施設の人が私達の居場所を知っていて尾行されなきゃいけないの?」咄嗟に言った疑問の一つは加奈子自身が今でも施設から安否を気遣う連絡が有る事を夫人から聞いていた事を思い出し直ぐに解決出来たが、尾行に関しては山吹も紀子も皆目見当が付かないでいた。
「十五年も前の事なのに・・・」遠くを見つめていた加奈子が独り言を呟き、その言葉に紀子が直感した。
「不審者は私達の尾行から実は向井さんの居場所を探っていたんじゃないかしら?」
「でも何でお父さんの居場所を知る必要が有るの?」山吹は粗方推測が付いていたが敢えて加奈子の前では話さず、明日その施設に行き直接その介護職員に会ってみる事を提案した。
「そうね、相手の素性も知る必要が有るわね」紀子は直ぐに同意したが、自分の過去に遡る事を不安に感じるのか加奈子は怯えた目で二人を見ていた。
「大丈夫だよ、俺達が付いているから。今日は疲れただろうから、もうお休み?」加奈子は紀子と一緒に眠りたいと愚図っていたが、海水浴の疲れか睡魔には勝てず渋々ベッドが在る部屋に入って行き、直ぐに小さな寝息が聞こえ始めた。「ねぇ俊樹さん、大体の推測は付いているんでしょ?」
「あぁ。それが正しいなら向井が危ない」
「そうよね・・・」話しは深夜迄続き結論が出た時、向井に連絡を取り暫く安全な場所に身を移す事を納得させ二人は眠りに就いた。向井家族の事故で二人が検証し導き出した答えは二つ有ったが、そのどちらに成っていたとしても共通する変わらない事実一つだけ有る。それは向井の口座に多額の保険金が振り込まれ、相続人は向井の娘加奈子しかこの世に居ないとゆう事だ。もし事故が向井夫妻の計画したもので共に命を落としていたと仮定すれば、保険金は加奈子に支払われる事に成り、夫妻の借金を払ったとしても加奈子が何不自由無く生活出来る事を向井夫妻は願っていたに違いない。しかし現実は妻佳恵一人が亡くなり、夫向井は長期入院と過去の記憶を代償に一人娘の加奈子迄手放す羽目と成ってしまっている。二人が仮定した事が事実で有ったなら、向井を保険金詐欺へと導いた黒幕が居る筈で必ず向井家族の元へ現れる事に成り、今その扉を山吹が開けた事に成る。
「おはようございます。・・・わあぁ美味しそぅ」翌朝最後に起きて来た加奈子は、和食が並べられているテーブルの椅子に嬉しそうに座った。
「よく眠れたかい?」
「うん。私シシャモ大好き」昨夜の事等すっかり忘れてしまっている加奈子を二人は微笑ましく見つめていた。
「さぁ、召し上がれぇ」紀子が最後の味噌汁を加奈子の前に置くと三人はニュースを見ながら食事を始め出し、相変わらず無表情なニュースキャスターは県下の節水と円安によるガソリンの値上げ、渡米した野球選手の活躍を順に読み上げビデオテープから女性キャスターの画面に切り替わった時、速報を知らせる一枚の用紙をアシスタントディレクターが手渡した。女性キャスターは早朝隣県の河川敷で男性の水死体がジョギング中の町民に発見されたと報じ、身元は同町養護施設の職員で、背後から鉄パイプの様な物で頭部を殴られ川へ投げ捨てられたものと見て犯人の行方を追っていると伝えた。・・・先手を打たれたか・・・その時山吹の携帯に野村氏から連絡が入った。勿論それは亡くなった施設職員の事で、加奈子が出発した翌日家に立ち寄ってくれたばかりだったと残念そうに話し、加奈子を宜しく頼むと言い電話を切った。山吹は野村氏の行動に胸騒ぎを覚え、食べかけた朝食もそこそこに加奈子と紀子を連れアパートから野村家に向かった。高速道を降り野村家が在る町に差し掛かる途中、大きな川の架橋上から河川敷に群がる大勢の人達と少し離れた場所で作業している警察官数人の姿が小さく見えた。
「あそこで発見されたのね・・・」山吹は返す言葉が見つからず旧友の言葉を素直に聞き入れていればと後悔仕始めていた。野村家に着くと丁度夫人が玄関の鍵を掛けた処で、今から夫を追い吉原家に通夜の準備に出掛ける処だと言った。野村夫妻の安否を確認した後二十キロ程東に在る養護施設へと三人は急いだ。施設は大学付属病院の直ぐ近くに在り、白いモルタル塗装が協会をイメージさせる心和らぐ佇まいで、手入れが行き届いた芝生の庭には数人の幼児と施設職員が楽しそうに走り回っていた。
「私、ここに居たんだ・・・」覚えていない養護施設と走り回る純粋無垢な幼児の笑顔を過去の自分と重ね合わせたのか、加奈子は小刻みに肩を震わせ紀子は肩を優しく抱き寄せた。
「何か御用ですか?」幼児と一緒に遊んでいた年輩女性職員が三人に気付き声を掛けて来た。
「おはようございます。昔お世話に成ったものですが、近く迄来たものですからお邪魔とは思いましたが立ち寄らせて頂きました」それを聞いた女性職員は厳しい表情を緩ませ施設の休憩所に三人を案内した。
「私、施設の副院長をしております小林と申します。それでいつ頃のお話で、お名前は何とおっしゃいますか?」
「はい、今から十五年前に成りますか・・・向井と申します」山吹が突然向井と名乗ったものだから加奈子と紀子は一瞬目を丸くさせたが、それより当の副院長は化け物でも見たかの様な顔で驚き、合成素材のソファーから背凭れに仰け反り、醜態を取り繕う様に背筋を伸ばし座り直した。「
あの向井さんでしたか・・・それで記憶はお戻りに成ったのですか?」
「そうでしたか・・・」副院長は加奈子の成長した姿を我が子の様に喜び、入所する迄の記憶を辿りながら話してくれた。話しによると向井が事故当時入院していた病院の院長と養護施設の会長(現院長の父)が親戚筋に当り、入院中病気や事故で両親を亡くした身寄りの無い子供に限り、昔からこの施設に連携して入所手続きを取る手筈と成っている事を述べ、現院長は夫だと話した。話しは当時の噂と変わらなく伝わっていて特に不審な点を感じる事は無く、次に山吹は今朝の事をそれとなく聞いてみた。
「えぇ本当に突然な事で・・今も主人が調書を受けに警察に出掛けた処です」被害者は勤続二十年に成る独身事務員で名前を吉原一樹と言い、当時から加奈子の事を何かと気に掛けていたらしい。
「それでその男性は何処の方なんですか?私達も随分お世話に成った様ですから御霊前へ御挨拶にと思うのですが・・」吉原は母と二人の母子家庭に育ち親子共々随分苦労したらしいが、数年前
施設から数幅の処に家を新築し、遺体が発見された川沿いに在ると副院長は話し、迷わない様にと地図をメモ用紙に書いてくれた。
「今日は突然お伺いしまして大変申し訳有りませんでした。今朝の件も有りますし、お仕事もお忙しいでしょうから又日を改めて伺わせて頂きます。ありがとうございました」三人は施設を足早に立ち去り吉原の自宅を目指し北へ向かった。施設から小さな商店と民家が建ち並ぶ細い道を十分程走ると川土手に続く緩やかな坂が見え始め、紀子が地図を頼りに次の交差点を左折する様山吹に指示を出し小さな本屋の角を曲った時に葬儀の花輪が並ぶ一軒の新家屋が三人の目に飛び込んで来た。吉原の自宅には既に悲報を聞き付けた人達が大勢詰掛け、今夜行なわれる通夜の準備を厳かに始めていた。
「どうするの?」山吹は二人に残る様言い、吉原家に向かい歩き始めた。それから二人の待つ臨時駐車場に戻って来た山吹は矢継ぎ早に話し始めた。吉原は昨夜夕食後散歩に出掛けて来ると母親に告げ、七時過ぎに家を出て行ったが普段と何等変わり無かったと言い、野村夫人も駆け付けていたと付け加えた。その後三人は遅く成った昼食の為近くの食堂に入り定食を三人分頼んだ。
「じゃぁ母親にもその後の行動は分からない訳ね・・・」
「そうゆう事だな・・・」
「でも山吹さん達が推測する様に保険金目当ての犯行だとすると、犯人はお父さんを探すんじゃないの?」山吹と紀子は加奈子の心情を察し意識的に除外していた向井の事を、何気なく言った加奈子の疑問で一気に憶測が膨らみ食事途中で箸を置いた。
「よしッ、行こう!」
「そうね」
「何?又途中でご飯終わっちゃうの?」加奈子は二人の行動が理解出来ずに食べ掛けた茶碗に箸を置き悔しそうに二人を追い掛け店から出て行った。
「ねぇ、今度は何処に行く気なの?」
「実のお父さんの処だよ」それを聞いた加奈子は二人の憶測を理解し車の後部座席に一番に乗り込んだ。近くのコンビニでハンバーガーと缶ジュースを加奈子に買い与え、高速道路に進むと山吹の携帯から向井の携帯に紀子が連絡を入れた。
「山吹です。今からそちらへ伺いますが移転先はお決まりに成りましたか?」向井は三人が突然来る事に驚いたが又三人に会える事を喜び、会社の寮で世話に成る事にしたと住所を話し携帯を切った。市内の中央インターチェンジを降りた三人が向井の寮に着いた時、時計は午後四時二十分に成り八十分を要していた。今日向井は日勤で寮に帰る迄近くの有料駐車場に車を預け帰宅する迄の二時間を市内の商店街で時間を潰す事にして通りの最初に門を構える老舗百貨店に三人は入った。店内は夏休みのせいも有り大勢の人達が店内で買物を楽しんでいて、普段休日には家でゴロゴロしている山吹は直ぐに人並みに酔ってしまい二人に屋上で待っていると伝え七階の遊技場からぼんやり地上を見下ろし煙草を吹かしていた。・・・あれは野村さんじゃないか?・・・その野村氏に似た男性はスーパーの袋を右手に持ち一目を気にしながら急いだ足取りで東の路地へと消えて行った。そこえ老舗の袋を持った紀子と加奈子が満足げな顔で山吹に近寄って来た。
「どうしたの?お化けでも見た様な顔をして・・」
「・・・見たんだよ」
「だから何を見たの?」山吹が地上を眺めていた事を一部始終話し終わると同時に加奈子が言った。
「行ってみよう?」その言葉を合図に三人は七階からの階段を一気に駆降り一階の西玄関から表通りに出て野村氏に似た男性が消えた東の路地目がけて駆け出していた。三人は暫く辺りを探し回り諦め掛けた時、海水と川水が混じり合う河口沿いに聳え建つ県下でも有名なホテルの前に辿り着いた。
「・・・ここかな?」
「この付近にホテルはもう無いよ」山吹は仕事柄旅館等の所在地には詳しく間違いない。
「じゃぁ私フロントで確認して来るから」
「あぁ、頼むよ」暫くして二人が休憩しているホテルの駐車場片隅に紀子が戻って来た。
「野村と言う名前の人は宿泊してないそうよ」
「そうか・・偽名を名乗っているかもしれんが、俺の見間違いだったのかもな」丁度そこで向井が帰宅する時間と成り、三人は追跡を打切り寮へと方向転換して歩き出した。寮に着くと向井は数年降りに会った親友の様な笑顔で出迎えてくれ、部屋には四人分の焼肉が用意されてあった。
「さぁどうぞ、遠慮無く召し上がって下さい」三人は今日一日食事らしい食事を摂っていなかった事も有り、話しもそこそこに焼肉を食べ始め、加奈子は父と一緒に食べる夕食が余程嬉しいのか箸が進まず、幼い頃からの事を身振り手振りで父に話し、向井は終始笑顔でそれに頷いている。そんな二人を紀子も山吹も何より嬉しく思い、この親子の小さな幸せがいつまでも続く様に願わずにはいられなかった。
 加奈子一人を残し三人が焼肉を食べ終わる頃、山吹が今朝からの事を向井に話し始めた。今朝事件のニュースを聞き野村家に行った事、加奈子が入所していた養護施設の事、殺害された吉原の家に行き向井が危険だと察し寮に来た事迄を順に話したが、当の向井は飽く迄推測でしかないと依然危機感を持たず加奈子の世話を焼くばかりだった。そんな向井を見て話すのを躊躇っていた百貨店からの事を話し終わると、急に向井の表情が強張り何かを思案する真剣な目に成った。
「それでその人物は確認出来たのですか?」
「いえ。本人とは確認出来ませんでした」向井は暫く黙っていたが、何かを決意した様子で語り始めた。
それは山吹達が帰った後に起きたフラッシュバックの事で、当時入院していた病室でベッドに横たわる向井に初老の男性が何か話している場面だったらしい。「向井さん、その男性の顔に見覚えは無いのですか?」
「えぇ、今のところ・・・」
「仮にその男性にどこかで会ったとしたら分かりますか?」
「分かると思います」向井はきっぱり言い切ったが、それで蘇る過去が怖いとも話した。
「お二人は今回の事件から何を推測しましたか?」要点を突く突然の言葉に山吹は紀子に目をやり、心情を察した向井は言葉を続けた。
「要するに今回の事件は私が十五年前に起こした事故に起因するもので、もし噂されている保険金詐欺が事実ならそれを目当てに私達親子を抹殺しようと企んでいる奴等が居ると推測された訳で、仮にその推理が正しく私が殺されたとすると家督は一人娘の加奈子に相続それ、養子縁組をしている野村夫妻が容疑者ではないかと疑問を持ちます。しかし殺されたのは施設職員の吉原で野村夫妻とも面識が有り三人の共犯を否定出来ません。よって今回の事件は吉原が冒した捜索ミスで仲間割れを起こした結果ではないかと推測が付き、夕方百貨店付近で野村氏に似た人物を見掛けた事にも納得がいきます。ですから犯人は私を殺害し加奈子に家督を相続させる事が一番の狙いで又その逆も考えられる筈です。しかしそれはこれからの記憶回復が犯人達の行動を大きく左右する事に成り、私の記憶が戻る前に犯人は所在を突止め行動を起こしたいと考える訳で、それを察した山吹さん達は急遽私の処へと来られたのでしょう」そこ迄話し終わるとコップの麦茶を一気に向井は飲み干した。山吹はこの短時間で導き出した思考力に驚き向井の知らない一面を垣間見る事に成った。
「その通りです。多分向山も同じ考えだと思います」
「えぇ、そうです」加奈子は予測もしなかった展開に三人を青褪めた表情で見回した。
「私も狙われているの・・・」
「その可能性は十分考えられる。だから加奈ちゃんを俺達の処へ呼び寄せたんだよ」
「・・・・」
「加奈子、山吹さん達は私達の事を心配して配慮して下さったんだよ」
「・・・でも、野村のお母さんもお父さんも十五年間私を育ててくれたのよ?そんな簡単に納得出来ないッ」
「・・・・」
「確かにそれは推測でしかないかもしれない、でも否定も出来ない。今は事件の解決と私の記憶が繋がる迄、もう少し様子を見る事にしませんか?」
「そうですね。それが良いでしょう」加奈子は自分の意志とは裏腹に進んで行く内容に困惑していたが、かといって自分を守る術も解決する手立ても無い事を悟ったのか意を決した表情へと変わって行った。それから四人はこれからの行動を確認し合った後向井の提案で三人は寮に宿泊する事に成り、シャワーを浴びた後加奈子と紀子を両端に四人は肩を並べ床に就いた。
「しかし不思議なものですねぇ・・数ヶ月前には名前も知らなかった者同士がこうやって枕を並べているんですから・・・」
「えぇ本当に・・これも神様の思し召しですね・・・」
 翌朝紀子と加奈子が朝食の支度をする物音で目を覚ました二人は、洗面を済ませた後食事の準備が整う迄近くの港へ散歩に出掛ける事にして、寮から北へ出る民家とビルが建ち並ぶ細い路地を通り、国道の高架下を潜り抜けて線路を渡ると潮の香りと共に堤防に寄せる微かな波の音が聞こえて来る。「
今日仕事は?」
「一時出勤の最終迄です」
「そうですか、不規則だから大変ですね?」
「えぇ、お互いに」踏切を越え仕事の話しをしながら暫く歩くと、民家に挟まれた細い路地の先に朝日に照らされた堤防が見え始め視界に海が広がりだした頃、山吹が一本突き出た煙草の箱を向井に差し向けたその時、向井は急に立ち止まり額を手で鷲掴みにしながら路地にしゃがみ込んだ。
「大丈夫ですかッ!?」向井は右手で山吹を制止大きく背中を波打たせていたが、我に返ったのか山吹の手を借りヨロヨロと路地のブロック塀に体を預けた。「見えたんですね?」
「えぇ・・・」向井は未だ現実に戻り切っていない様子だが途切れ途切れに話を始め出した。それは向井と男が話をしていて何か手渡されたらしく、前回蘇った病室での男とは異なり眼鏡を掛けていて、今山吹との状況がその場面と重なったからだと話した。山吹は考え込んでいたが、向井が落ち着きを取り戻した頃を見計らい推測した内容を話し始めた。
「多分その場面は事故から完全に意識を回復する迄の記憶ですね。貴方は加奈ちゃんが持っていた写真で結婚当時迄の記憶は略繋がっていますから、その場面はそれ以上の出来事と成り、現在その男性が向井さんの空白期間を埋める唯一の人物だとゆう事に成ります」
「・・・・」
「今は寮に戻りましょう」山吹はそう言うと向井に肩を貸し、元来た道を帰り始めた。寮に着くと加奈子は待ち草臥れた様子で二人を出迎え、台所には朝食にしては豪華な食卓が整えられていた。
「ほぅ・・力作だな」
「そぅでしょう。私も手伝ったんだから」加奈子の弾む様な声で料理の説明が始まると和やかな雰囲気で朝食が始まり、食事を半分位食べた頃紀子が散歩の事を山吹に聞いた。
「それで、港はどうだったの?」
「ん?・・あぁ・・・」
「何よ、二人とも・・・」異変を感じた紀子は箸を置き改めて聞き直した。
「何が有ったの?」その言葉に後押しされた山吹が重い口を開き港での事を話し始め、聞き終わると何やら思考を巡らせていたが暫くして一人の人物を紀子は挙げた。それは向井が当時入院していた病院院長の名前で養護施設の副院長の話しからも推測出来ると話した。
「なる程。それなら話しは繋がる・・・しかし当時の院長は既に亡くなっているから今回の事件とは関係が無い・・」
「でも当時の件を知っているのは院長だけでは無い筈よ?現に担当医師はその事を知っていたわ」
「そうだな・・・当時は院長しか知らなかったとしても一部の病院関係者は知っている筈だし、それを聞いていた関係者が邪な計画を企てたとも考えられる。一つ言えるのは事故によって噂されている保険金詐欺は向井さん夫婦が計画した事では無く、誰かによって作られた話しだった「待って、じゃぁ私が面会した担当医師よ。その話しを信じたからこそ俊樹さんに報告したのよ」
「その可能性は高いな・・・」そこ迄真相の謎を解く鍵を見つけると四人は黙々と又食事を始め出した。長い朝食が終わり紀子と加奈子が後片付けを始め出した頃時計の針は十時を指し、窓辺に差し込む日差しは一段と強く成っていた。「向井さん、今日は休まれた方が良いんじゃないですか?」
「いえ。そうゆう訳には・・・」
「そうですか・・呉々も注意して下さいよ?」
「えぇ、有り難う御座います」その後山吹達三人は一旦紀子のアパートに戻り向井の担当医師を当たる事にして向井の出勤より一足早く寮を出た。車内で加奈子はお父さんを信じていたとペロリと舌を出し、気まずかった雰囲気を取り払ってくれ三人は仲良く帰路に就いた。
 アパートに着くと紀子は和室の部屋へ服を着替えると言って入って行き加奈子も後を追った。山吹はベッドの在る部屋で大の字に寝転び暫く考え事をしていたが、二人が和室から出て来た時には静かな寝息を発てていた。
「疲れたんだね・・」
「そうね、沢山の事が一度に重なったからね・・」
「私野村へ帰ろうか?」
「馬鹿ねぇ、加奈ちゃんが帰ったとしても何も変わりはしないわよ。それに今は此処に居る方が安全でしょ?」
「そぅだよね・・」紀子は三人分の飲料水をコップに入れテーブルに置くと、そのままに成っていた昨日の食器を静かに洗い始めた。
「ねぇ紀子さん」
「何?」
「その病院の先生は何故嘘を付いたんだろぅ?」
「未だ嘘だと決まった訳じゃ無いけど、そうねぇ・・・余っ程お金が欲しかったのかも知れないわね」
「何の為に?」
「・・・・あッ!」紀子が落とした食器の音に山吹は隣の部屋から飛び起きて来た。
「どうしたんだッ」
「ごめんなさい。手元が滑ってお皿を割ってしまったの」
「何だ・・そうだったのか・・」山吹はホッとした様子で加奈子の隣に腰掛け飲料水を一気に飲み干した。
「ねえ俊樹さん」
「ん?」
「今加奈ちゃんとの話しでもしやと思ったんだけど、向井さんの担当医師は五年前に開業しているのよ」
「・・・紀ちゃんからそう聞いてたよ」山吹は未だ寝惚けていて話しの意味がよく理解出来ない。
「何も感じないの?」
「・・・・そうかッ!」紀子が言わんとしている事を漸く理解した山吹は、慌ただしく向井の携帯へ連絡を入れたが手が離せないのか呼出し音は続いている。「しまった!寮に居る時に気付くべきだった」
「私もうっかりしてたわ」
「まぁ仕方無いか、プロじゃ無いんだから」山吹は向井からの連絡を待つ事にして携帯の終了ボタンを押した。
「ねぇ紀子さんどぅゆう事?」紀子は分かり易く説明をして聞かせ加奈子が理解した処で山吹が言った。
「紀ちゃん、当時の事は別にして保険金は君の会社から支払われたんだよね?」「そうね、合併した今は同じだわ。・・・分かった!振込をした銀行から保険金の引き落としが有ったかどうか調べたらいいのね?」
「頼むよ」紀子は直ぐにパソコンを立上げ銀行名と通帳番号を確認すると面識が有る銀行担当者にトラブルが有ったかもしれないと話しを繋ぎ、折り返し連絡して貰える様取り纏め受話器を置いた。数分後担当者から確かに支払われた保険金は七年前に引出されているとの連絡が入り益々担当医師の疑念は深まる事と成った。
「俊樹さん、どうするの?担当医師に会いに行く?」
「いや。此処迄物証が揃えば向井さんと一緒に会いに行った方が良いだろう」それから二人は担当医師に会う段取りを相談しながら向井からの連絡を待ち遅い昼食を済ませた時、市内局番から山吹の携帯に着信が入った。山吹はてっきり向井からの連絡だと思い通話ボタンを押したが、それは市内の県立病院から向井が何者かに教われ入院したと着信履歴を頼りに事務員が知らせてくれたものだった。山吹は今朝方向井を休ませ一緒に過ごしていればと後悔したが紀子の現状を諭す言葉に我に返り急遽向井が入院する病院へと三人は向かった。
 病院に着くと頭部を包帯で覆われ輸血する痛々しい向井が個室ベッドに呼吸器を付け横たわっていた。
「どぅしてこぅ成るのよッ」泣き叫ぶ加奈子を背後から紀子が抱き締め、山吹は病室に居た担当医師に呼び出され部屋から一緒に出て行った。
「加奈ちゃん・・・・加奈ちゃん・・」紀子はいつ迄も加奈子を抱き締め犯人への新たな追求を強く決意していた。それから紀子と加奈子が付き添う向井の病室へと山吹が返って来た頃には窓から見える街並みには華やかな灯りが点り始めていた。
「ご苦労様。それで向井さんの病状はどうだったの?」
「あぁ・・今夜が峠だろうって・・・それと警察の事情聴取も受けて来たよ」
「それで?」
「後は警察に任せて、関わるなってさ・・・」
「そう・・」泣き疲れて眠っていた加奈子が目を覚ますと三人は病院地下の食堂で夕食を済ませた後山吹は病室に残る事を決め、二人はアパートへとすっかり暗く成った国道を東へと帰って行った。山吹は向井が眠る病室で誰が襲ったのか自問自答を繰返していたが、現代医療に生かされた向井の姿を見つめた時に過ちを繰返してはいけない事に気付かされ、帰宅間近の紀子にアパートから離れた場所に車を駐車する様連絡を入れ、これからの行動は自分の車でする様指示を出した。
 明け方病状は快方に向い担当医師も向井の生命力に驚き、この分なら直に退院出来るだろうと太鼓判を押してくれた。それから山吹は待合室に在る自動販売機で缶珈琲を買い病室へ戻ると向井は意識を取り戻していた。
「気が付いたんですね」
「・・・山吹さん」
「気分はどうですか?」
「えぇ・・頭が少し・・・」それから向井は天井をぼんやり見つめていたが、暫くして驚くべき事を話し始めた。それは昨日出勤途中に背後から頭部を強打された事によって記憶が蘇っている事を告げ、最初に起きたフラッシュバックの初老男性はやはり当時入院していた時の院長で、加奈子を養護施設に入所させる為に意識朦朧とする向井に、親権を依託する内容の委任状に院長から捺印を迫られる場面だった事を話し、眼鏡を掛けた男の件もやはり向井の担当医師に間違いなかった。
「それで貴方名義の通帳は院長が所持いていた事に成るのですね?」
「・・・依託したのですからそう成っているでしょう」これで数ヶ月に及ぶ山吹達の推測は多少修正が有ったとしても大筋狂いが無い事を悟り、後は警察の捜査に委ねる事を山吹は決心した。
「おはようございます」九時半を過ぎた頃花束抱えた加奈子と紀子が病室に到着し、意識が戻っている向井に歓びを伝えながらお握りの入った包みと水筒を山吹に紀子が手渡した。
「加奈ちゃん良かったわねぇ」
「うん」
「大きく成ったなぁ加奈子・・・」記憶が戻り改めて加奈子の成長に目を細めている可笑しな向井の言動に紀子が不審に思い小声で山吹に聞こうとした時、向井自身の口から記憶が蘇った事を二人に伝えた。それから今迄の推測は大筋合っていた事を山吹が話し、今後は警察に捜査を任せる事を公言した。
 
 加奈子が帰郷した三週間後、向井は病院を退院し職場復帰を果たしていた。その後事件は向井の証言を元に当時の担当医師が逮捕され開業資金目的の犯行と動機を自供し、吉原の件も一連の仲間割れによるものと判明され終結していた。
「山吹さん!仕事の勘は大分戻りましたか?」
「何言ってやがる!俺にスランプは似合わんだろう!?」山吹も漸く通常の生活を取り戻し、新たな季節への移り変わりを念頭に日々業務に身を打ち込んでいた。驚いた事にその中山も、この秋には真子との結婚を控え以前に増して仕事に腰を据えている。
「山吹さん、それじゃ先に帰りますよ?」
「あぁ俺も直帰るよ」山吹の取った行動で一人の犠牲者が出る結果には成ったが、身寄りの無かった二人の親子が再び強い絆を取り戻し新たな旅立ちを迎えた事が何よりの救いだった。
「俊樹さ〜ん」
「おぉ!来たか」
「加奈ちゃんは?」
「もう直着く頃だ」暫くして野村氏の車が到着し、ボストンバッグを持った加奈子が降りて来た。夫妻は加奈子を慈しむ様に抱き締めた後別れが辛く成るからと山吹達に深々と頭を下げ、静かなエンジン音と共に駅から隣県の自宅へと帰って行った。
「さぁ涙を拭いて・・」紀子は加奈子の肩を強く抱き寄せ山吹と共にプラットホームに向い歩き始めた。
「加奈ちゃん、これ、私達からの贈り物よ」
「・・・・」
「さぁ元気出して」
「はい」遠くから遮断機の警告音が聞こえ始め、乾いたブレーキ音と共に保守点検を済ませた列車がホームに近付き三人の前で停車した。
「加奈子」
「お父さん」二人と別れを交わし加奈子が乗り込むと一際大きな警笛を街に響かせ秋の気配が漂う風の中へと列車は遠離り、車窓からいつ迄も手を振る加奈子の手には新たなお守りが優しく包まれていた。
入谷緋色
2014年01月04日(土) 22時56分56秒 公開
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