ひまわりの駅
 列車の窓を開けると、座席に夏の光が飛び込んできた。扇風機が首をまわし続ける車内に、違う匂いの風が入り込んできた。
 窓枠に肘をついて外を眺めると、遠くに海が見えた。夏の抜けるような青空の下に、茫洋とした海は静かに凪いでいた。重そうな入道雲が水平線の向こうに座っている。線路脇には、青々とした草が広く茂りわたり、むんむんとした草いきれが列車の中から感じられた。
 僕は、一眠りしようと思い、目を閉じた。

 僕のような帰宅部の人間にとって、夏休みというのは非常に手持ち無沙汰な期間だ。運動部の奴らみたいにスポーツに夏を懸ける事もしなければ、文化部の奴らみたいに一つの事に打ち込む訳でもない。勉強をする訳でもない。与えられた時間を、毎日無為に消費していくのが、僕の夏休みだった。
 しかし、そう言うときに、人は旅をしたくなるのだ。
 終業式の日の帰り道、一人で蝉時雨の中を歩いていたとき、ふと旅に出ようと思った僕は、すぐさま踵を返して駅へ向かった。「新藤」なんて僕の名前が入った通知表はとうに捨てていた。夏休みだ。
 駅は、忙しく歩く人の波で溢れていて、これから自由な時間を手にする学生は、完全に場違いだった。
 窓口で、僕はで不慣れな雰囲気をいっぱいに湛えてやっとの事で切符を買った。直前まで何処に行こうか迷ったが、結局祖父母が住んでいた家のある海辺の町に行き先を決めた。
 八年前、祖父が亡くなり、介護が必要になった祖母は僕の住む東京へ引っ越してきた。それ以来その家は空き家になっており、毎年のように訪れていたその町へも全く足を運ばなくなった。近所の人が鍵を預かってくれているらしいが、僕の家族の中では、もうあの町の事を思い出すのは祖母だけになっていた。時折、皺でいっぱいの顔に埋もれた目で遠くを見つめ、 
「あの町はじいさんと駆け落ちしてたどり着いた町なんじゃ。あの頃はまだ港も栄え取って、若いもんがたくさん働いとったもんじゃ。生きとるうちにもう一度かえりたいのう」
などと呟くのだった。僕の八歳の時のいちばん新しい記憶でも、あの町には若者なんてほぼ居ないような物だった。照り返しの強い岸壁に、色の黒い老人が座って釣りをしているような、埃っぽい町だった。未来なんて無いような町だった。
 とにかく、祖父が亡くなってから、あの暖かな海辺の町は記憶の片隅で色褪せていた。
 そんなモノクロの町に、僕は突然行ってみたくなったのだ。酔狂な事である。祖母の見たい景色をかわりに見てくるだとか、そんな見上げた理由は無かった。無為な時間をつぶすのにちょうど良い町だと感じたのだろう。気づいたら窓口でその町の駅の名を口にしていた。他にも景色のいい町や、見所のある町はたくさん有っただろう。なぜだろう、そう言う町にはみじんも行きたいと思わなかった。
 何しろそこは遠い町だったので、お年玉は切符の分だけで半分に減ってしまった。帰りの分も考えると、行って帰ってくるのでとんとんだ。向こうでの生活費などを考えたら貯金も崩さなくてはいけない。無為に過ごすだけの夏休みにしては高くついた。
 出発の日は別にいつでも良かったのだけれど、旅に出る事をさして楽しみにもしてなかった僕は、切符の存在を忘れてしまう事を恐れて、終業式の二日後に出発する事にした。これでまるでゼリーのような息苦しい都会の空気とはおさらばだ。運動部の奴らも、文化部の奴らも、この狭い都会の中で自分の夏を懸けている。僕は、その夏から逃げ出したかった。
 
 二日というのは意外と早くすぎるもので、朝起きたら出発の日になっていた。
 前日、両親に
「旅に出てくるから、よろしく」
と宣言したところ、共働きで忙しい両親は、揃いも揃って
「ああ、そっちの方が楽だヮ。ありがたい」
なんて言うのだった。なんて親だ。
 考えてみたら、僕の家は他の家に比べたら相当の放任主義だったので、行き先も聞かれなかった。二人とも、仕事が好きなのだ。幼い頃はそれが寂しくてたまらなかったけど、今はそっちの方が楽だ。
 しかし、ばあちゃんには行き先を教えた方が良い気もしたので、こっそり教えてあげた。すると、ばあちゃんはいつものように遠くを見つめる目をして、
「あそこは良い町じゃ」
とだけ言った。
 午後になって、しばしの別れをあまり惜しまずに、僕は家を出た。突然に体の周りを熱い空気が覆う。東京の夏だ。コンクリートに包まれた暑さというのは、いくら慣れ親しんでも好きにはなれない。早く抜け出したい。そう思いながら乗った電車は寒いくらいに冷えきっていた。
 どうも不便な事に、切符というのは日付が変わると使えなくなってしまう。だから、その日の深夜までに今日買った切符で小田原まで行き、そこで日付が変わってから到着する深夜の快速列車に乗る、というけちくさい予定になっていた。快速の終点で降りて、そこからまた長い事列車に乗るので、結局着くのは明日の夜になってしまう。しかし、それでこそ夏休みだ。時間を湯水のごとく使って遠くへ行くなんて良いじゃないか、と思ってみたが、着くまでも、そして多分着いてからも、退屈の連続だ。未来さえも無い町へ行くんだから当たり前だ。
 じゃあ、何のために行くんだ。
 そんな事は考えたら負けだ。どうせ何処に居たって退屈なんだ。
 そうやって無駄な事をうだうだ考えているうちに、電車は小田原へと着いた。そこでいったん下車して、明日の朝飯と、飲み物を買い込み、駅のベンチで列車を待った。
 たくさんの人が行き交うのをぼーっと眺めていると、やがて日付が変わった。かなり長い時間が経ったのだろう。僕は自由席の車両に乗り込むと、窓側の座席を確保して、眠った。
 眠りから覚めると、そこはもう快速電車の終点で、朝だった。それからは退屈な列車と乗り換えの繰り返しだった。こんなに疲れるならけちけちせずに特急券を買って新幹線でも何でも使ってさっさと行くんだった。家を出たのが遠い昔のようだ。
 そして、久しぶりに大きな駅に着いた時、そこから乗るはずだった列車が人身事故で止まった。僕は喜んだ。夜も遅くなっていたし、僕は駅で一夜を明かす事にした。動く箱に閉じ込められていた身が、解放された。大きい駅で、夜行列車も有るから追い出される事は無いだろう。そう思って、ベンチで眠った。
 首の痛みで目を覚ますと、駅はまだ静まり返っていた。人はぱらぱら居るのだが、その人達は皆初電を待っていた。夏の早い日の出はもうすぐそこまで来ているようだった。
 朝食を買って食べ、僕はまた列車へ閉じ込められに行った。だんだん列車が小さくなっていく。この分だと着く頃には自動車くらいになっているんじゃないか、と思ったが、次の次の乗り換えでやっと、あの町の名前を聞いた。小さいディーゼルカーの終点は、あの町だった。
 列車の天井には扇風機が着いていて、そいつが頭を振り回していた。大きな音を立てて扉を閉めると、大きな音をぶるぶると立てながら駅を離れた。
 向かい合わせの座席が並んだ車内には多くの客は乗っていなかった。その少ない客も、途中の駅でどんどん降りていってしまい、とうとう僕は一人になってしまった。
 日が高く昇り、列車もスピードを上げた。窓際は暑かった。金属の窓枠は目玉焼きが作れそうなくらい温まり、変わり映えのしない景色は現れては消えていった。
 列車がいくつ目かのトンネルを抜けたとき、窓の外は輝いた。
 遠くに夏の海が横たわり、その上には抜けるような夏の青空が広がっていた。
 さわやかな風の中、僕は目を閉じた。久しぶりに、心地よいまどろみだった。
 
 列車がガクンと言って止まったので、目を覚ました。窓の外の駅名板に、となりの駅は片側しか記されておらず、ここは間違いなく終着駅だった。
 荷物を持ってホームに降り立つと、昼下がりの暑さが満ちていた。降りた客は僕一人だけだった。日の照り返すホームは砂っぽく乾いていて、陰一つなかった。
 駅には大きなひまわりが立っていた。そいつは高いところから僕を見下ろしていた。花の向こうに大きな空が見える。
 風一つなかったホームに、一陣の風が吹いた。同時に、鈴のような声が聞こえた。
「失くし物を、一緒に探してくれませんか」
風に消えてしまいそうな声だった。なきそうなその声に、ふと不安になってうしろを振り返った。
 麦わら帽子が、僕の胸くらいの高さに見えた。視線を下にずらすと、白いワンピースを着て、薄いカーディガンを羽織り、小さなポシェットを斜めがけにした女の子が目に入った。細い足や腕は、夏に日差しの下に溶けてしまいそうだ。見た感じは小学生だが、小学生にしては大人びた目をしていた。涼しげな目元に、何かをしっかり捉えてていた。僕だった。鼓動が早くなる。
「失くし物ってなんだい」自然と優しいけれど苦しい口調になってしまう。
「鍵を失くしてしまったんです」そう言うと彼女は四つん這いになって、ホームの隅を探し始めた。白い手が、火傷しそうだ。
「僕も探すよ」さっき見た目が思い出されて、拒む事は出来なかった。どうせ時間は余るほどあるのだ。
「その鍵は駅の外で落としたって事は無いの?」
「電車が来るの駅舎で待ってたんです。そのときには有りました。それから列車が来たのを見てホームに走り出たら落としてて……」
じゃあ、待合室を探した方がいいんじゃないだろうか。ホームには陰一つない。見たところ何処かに紛れ込んだという事はなさそうだ。
「待合室を探そう」と言うと彼女は着いてきた。本当に幾つなんだろう。
 そう思っていると彼女の「あ、あった」という声が聞こえてきた。本当に安心しきった声だった。
「よかったじゃん」
「はい。ありがとうございます」そう言って深々とお辞儀をした。一つ一つの動きが、周りの景色から浮いて見えた。海と、年老いた人しか居ない町で、彼女は明らかに異質だった。
「ところで駅に居るってことはこれから何処か行くの?」何の気はなしににそう聞いた。この町の女の子は果たして何処に出かけるのだろう。
「いいえ、ここで人を待っているのです」
「へえ、誰を」
「新藤翔太さんです」いきなり僕の名前が呼ばれたのでびっくりした。
「新藤は僕だけど」そう言うと、今度は彼女が目を見開いた。驚きの表情を顔いっぱいに湛えた後、今度は眩しいくらいの笑顔でこういった。
「ようこそ、翔太さん。私は日向葵です。お待ちしていました」

 祖母の家を世話してくれていたのは日向さんという人だった。彼女によると、僕の祖母が「孫が来るはずだからよろしく」と電話をかけたらしく、昨日から祖母の家をちょくちょく見ていて、それでもなかなか来ないので、今日になって一日五本の列車が来るたびに駅に来ていたらしい。恐縮だ。こんな何をするでもない僕のために。
「でも、遅かったですね。出発されたのは一昨日の午後のはずですが」彼女は祖母の家へ歩く道すがら、そう聞いてきた。
「うん。特急券代がもったいなくて普通列車と快速列車を乗り継いできたんだ」
「東京からずっとですか」彼女はまた目を大きくした。本当に表情がくるくる変わる子だ。
「それで遅れたんだから謝らないとね」
「いいえ、私が勝手にしていた事ですから。それに、私も久しぶりに翔太さんにお会いしたかったので」ん、なんで僕の事を知っているんだ。
「なんで僕の事知ってるんだ?いつか有った事有ったっけ。その……、日向さん」
「葵で結構ですよ。もうお忘れでしょうね。八年前、おじいさまのお葬式のときにお会いしたんです。私もおじいさまに良く遊んで頂きましたから、悲しくてどうしようもなかったのですけど、翔太さんは慰めてくださって」全然覚えてない。葬式は黒い服を着た大人ばかりで、でもそんな中祖父は棺に入って一人だけ笑っていた。
「ごめん、全然覚えてなかった。がんばって思い出すよ」
「いえいえ、結構ですよ。片方の方が覚えていないなんてよく有る事です」そう言って彼女、葵は前を向いた。麦わら帽子の下に葵の顔が隠れる。
「着きました。新藤さんのおじいさまの家はあちらですね」葵はそう言うと一軒の家を指差した。
 もっと汚くなっているかと思ったが、意外と綺麗なままで、僕の記憶の片隅にある家と同じだった。あの頃はうきうきしながらこの道を通ったのだ。今はそんな事は無い。懐かしさぐらいしか僕は覚えていなかった。
「こちらが鍵です。先ほどは本当にありがとうございました」葵はまた頭を下げた。
「いや、こっちこそここまでしてくれてありがとう。遅れてごめん」僕も頭を下げた。
 二人とも頭を下げている。蝉が五月蝿いほど鳴いている。東京はアブラゼミが元気だったけど、こちらはクマゼミだろうか。尖った声でないている。頭を上げるタイミングがはかりにくい。
 思い切って頭を上げると、同時に葵も顔を上げていて、目が合った。さっきも見たけれど涼しげな目だ。それから葵は口を開くと
「あと、言い忘れてましたけどご飯はうちに来て召し上がってください。毎日自炊は大変でしょう」と言った。ありがたい事だ。
「今からいらっしゃいますか?丁度昼ご飯ですけど」
「じゃあお言葉に甘えさせてもらおうかな」東京じゃ絶対こんな事ないよな。お世話になります。
 彼女についていくと、日向家は祖父母の家から目と鼻の先だった。その気になれば出入りを完璧に監視する事も出来る立地だった。
 大きめな木造の家の玄関を入ると中から良い匂いがした。ここのところ駅のコンビニで食事を済ませていたので、この暖かなみそ汁の匂いは危険だった。腹の虫は辛抱堪らず鳴いてしまった。かなり大きい音だった。葵は笑いながら、
「食卓はそこの部屋です。先にいらっしゃってください」と言った。
 玄関を入って左手に台所が有った。七十代くらいの女性と四十代の男女が居た。食卓には七十代くらいの男性が居た。葵の祖父母と両親だろうか。
「こんにちは」とりあえず挨拶をしてみた。七十代の男がこちらを一瞥する。そこの見えない迫力だ。怖い。僕が内心びくびくしていると、突然彼は
「あんた、新藤さんとこのお孫さんか」と野太い声を上げた。
「はい。そうです。よろしくお願いします」
「おお。大きくなったものだ」彼はそう言いながら目を細めた。僕は彼の事を覚えていない。八歳の頃は、まだ周りに面白い物がたくさん有って、知らない近所のお爺さんなんて覚えてるはずも無かった。
 そこへ葵が来た。
「翔太さん、楽にしてくださって結構ですからね」葵はそう言うと食卓の準備に加わった。
 全く知らない人の家の食卓に居るというのは考えてみればかなり不思議な事だった。僕は自分の家の食卓しか知らない。こうやって知らない人の家で知らない人に囲まれながら食事をするというのは、葵にああいってもらった手前、悪いと思ったけれど、やはり緊張するし、楽には出来なかった。
 手持ち無沙汰で、邪魔にならないように立ち回って、食事の準備ができると、当たり前だが、食事を始めた。僕は、葵の家族に質問攻めにされた。
「新藤さんの奥さんは引っ越してから元気か」とか
「東京は今何が流行なのか」とか、とにかくここじゃ解らない様な所をひたすら質問された。ただで食事をさせてもらってる身としては、出来るだけ答えた方が良かったのかも知れないが、僕自身流行等には疎いので、ためになるかは微妙だ。
 質問が一段落すると、今度は僕に質問のチャンスが回ってきた。
「葵さんと僕がお会いした事が有るらしいのですけど、本当ですか」
「ああ、忙しかったから君は覚えてないかもな」葵の父親がそう答えた。
「葵がこちらへこしてきたのは葵が七歳の秋だからな。君は毎年夏に帰ってきていたのだろう」
「葵さんが七歳というと何年前ですか」
「うぅん、九年前かな」と、言う事は彼女は今高校一年か二年だ。さっき小学生のようだと思ってしまった事は黙っておこう。何しろ僕と同い年かも知れないのだ。
「とにかく新藤さん夫妻に葵はお世話になったよ。ありがとう」彼はそう言うと頭を下げた。葵と同じように深いお辞儀だったが、葵の様な空気は感じられなかった。
 と、言うことは、僕は葵に多くても一回しか会った事が無いのか。それから八年経ったのだから忘れてしまう事も十分考えられる。僕は安心した。我ながら情けない安心の仕方だ。
「翔太さんはこちらにどれくらいいらっしゃるんですか?」葵が訊いてきた。
「決めてないよ。夏休みだし、学校が始まるまでに帰れば良いや位の気持ちでいるよ」僕は正直に答えた。目安さえも立てていない。飽きたら帰れば良い。
「そうですか。なるべく長くいらっしゃってくださいね」葵はそう言った。彼女は早くも昼食を食べ終わっていた。
「お父さん、お母さん、今お茶を煎れますね」葵はそう言うと席を立った。両親はそれをちらっと見やると、又僕の方に質問の矛先を向けて来た。
「君は東京のどの辺りに住んでいるのかい」
僕はさっきまでとは違う居心地の悪さを感じた。

 食事の礼を言い、僕と葵は外へ出た。
「送らなくても良いのに」と、僕が言うと、葵はさらっと
「本当は送るだけじゃなくて泊めて欲しいくらいなんですよ」と言った。冗談にしてはきついぞ。小学生みたいな容姿から言われたって、可愛い女の子からそんな事言われたら誰だって一瞬はドキッとするはずだ。
「それはまずいだろ」
「何処がですか?」妙に真面目な顔をして葵はこちらを見つめてきた。
「いろいろだ」答えて僕は内心驚いた。出会って数時間の子とこれほど会話をする事なんて、今後の人生であるのだろうか。僕はあまり社交的な方ではないから、葵の作る雰囲気に助けられているのだろう。
「とにかく、今日はありがとう。今晩またお邪魔すると思うけど」
「はい、では又後ほど」葵はそう言ったが、なかなか扉を閉めようとしない。
「ん?どうした?」僕は尋ねてみる。僕の居る家の玄関の時計は午後三時を示している。葵は息を吸い込むと、ゆっくりこういった。
「翔太さん」
「なんだ?」
「海を見に行きませんか」

 海辺の町と言えど、現在は港と町の中心は離れている。町の中心は、役場があり、小さなスーパーや薬局、病院がある。僕は今そこに居住し、葵に誘われて、海辺まで行こうとしている。海が近づくのが、風で解った。
「これからとっておきの場所に案内しますね」葵はそう言うと無邪気に笑った。
 僕がまだ幼い頃、ここの海で釣りをするのは一種の恒例行事だった。少し仕掛けを投げるだけでもきれいなキスが釣れたし、群れが回ってくればアジが入れ食いだった。全部母親が料理して天ぷらや塩焼きになった。自分で釣った魚というのは他のどの魚とも違ううまさだった。
 そんな事を、さも遠い昔の事みたいに思い出していると、葵は漁港の方ではなく、となりの森へ入っていった。
「おい、海ってそっちなのか」
「そうですよ。私、嫌な事があったりするとここへ来て海をずっと眺めてるんです」そう言いながら葵は森をずんずん進んでいく。心なしか、海へ向けて上り坂になっているようだ。
「一人でか」訊いてしまってから、なんて馬鹿な質問をしたんだろうと少し後悔した。当たり前だろう。嫌な事が会った日には、人といたりなんか。それでも葵は笑って答えてくれた。
「はい。一人で、です」
突然、景色が開けた。傾きかけた午後の光を返したのは、一面のヒマワリだった。葵のはその中で、笑いながら、
「翔太さん、ここが私のとっておきです。きれいでしょう」と言った。ああ、確かにきれいだ。岬一面にヒマワリが咲いて、その中にある小径は、岬の先端の白亜の灯台へ繋がっている。灯台の向こうには、海だけが広がっていた。
「こりゃ、すげえや」僕は息をするのも忘れてその景色を眺めた。確かに、その景色は、嫌な事くらい忘れさせてくれそうだ。
「いいとこ知ってるんだな」
「いいえ、新藤さんのおじいさまが教えてくださったんです。良い所を教えてやるぞっておっしゃって連れてきてくださったんです」祖父がこんな所を知っていたとは。僕は彼からこんな所を教えてもらった覚えは無い。正直葵が羨ましかった。僕は祖父が大好きだったから、僕より良い事を教えてもらった葵が羨ましかった。
 じいちゃんが死んでもう八年か。みんな同じ方向を向いたヒマワリは、暮れてゆく日の中で、何処か悲しげに見えた。
「あのさ」僕は葵に声をかけた。
「お前と初めて会った時の事、なるべくがんばって思い出すから」なぜかそれを言っておかなければならない様な気がした。
「はい。待ってます」葵はそう言った。
 強い風が吹いた。もうそろそろ風の方向は変わるのだろう。
 葵は飛ばされそうになった麦わら帽子を押さえた。白い手の一層白い内側の柔肌が見える。
 そこには、青痣があった。
「おい、大丈夫かそれ」僕は思わず訊いてしまった。
「大丈夫です。私不器用でよく何処かにぶつけるんです」葵はそう言って笑った。なら心配の必要は無いのだが。
「さあ、帰ろうか」僕は灯台に背を向けて岬を降り始めた。うしろでどすんという音がした。振り向くと、葵が見事に転んでいた。
「ほら、私不器用なんですよ」彼女は涙目になりながらそう言った。本当に痛そうだ。気をつけろよ。

 その日、僕は床に就くと、じいちゃんの事を思い出していた。
 とにかく優しい人だった。東京に旅行で出てきた時も、一緒になって色々な所を回ったが、泣いている子には優しく声をかけていた。
 一つ覚えているのは、僕が六歳の頃の夏の事だ。その時もこの家に来ていた。僕は両親に嘘をついた。ほんの些細な事で嘘をついたのだ。
 当時、僕は間食として食べて良いお菓子の量が制限されていた。そう言うとき、子供が思うのが「親の目を盗む」と言う事だ。
 ご多分に漏れず、僕は祖父母と両親が買い物に出かけたのを見計らって、制限された量以上にお菓子を食べた。止められている事ほどやりたくなる。背徳感を感じながら食べたお菓子は、いつもより甘かった。
 ゴミをごみ箱の奥底に捨て、証拠隠滅は終わったと思った。だから、親が帰ってきて、一番に
「お菓子食べたね」
と言われた時は、正直驚いた。
 しかし、そこは何かの間違いかも知れないので、
「食べてない」
の一点張りで通した。が、大人は僕の一枚も二枚も上手だった。お菓子の量が減っていると言うのだ。
 僕は愕然とし、自分の浅はかさを悔しく思い、そして黙り込んだ。そこで軽く謝ったりしたらまた違ったんだろうが、誤りもせずに黙り込んだので、僕は叱られた。
 お菓子の甘い記憶は苦いものとなった。僕は縁側に座って何を考えるでも無く足をぶらぶらさせた。
 そこへじいちゃんが来た。いつもニコニコ笑っていたじいちゃんはその時もニコニコ笑って、
「翔坊、叱られたんか」と尋ねた。僕はうなずいた。
「嘘ついたら、そら叱られるぞ」またのんびりとそう言った。それくらい解っている。解っているけど、気持ちの収まりは着かない。まだ僕は何も言えずに居る。
「翔坊、お菓子を食べるのは悪い事なのか」
「うん」
「それは間違いじゃ」僕は驚いた。母さんも、父さんも、僕がお菓子を食べ過ぎると怒る。
「大きくなれば、お菓子をいくら食べようが、翔坊、お前の自由だ。だがな、翔坊、嘘をつくのは良く無い。お前にとっても、母さんにとってもだ」僕にとって、というのがよく解らなかった。
「嘘をつくんじゃないぞ。翔坊」じいちゃんはそう言うと、又ふらりふらりと何処かへ歩いていってしまった。
 嘘も方便という言葉を知るまで、僕は馬鹿正直なままだった。正直で居るだけで、人を傷つけない訳じゃない、と知るにはまだまだ幼かった。
 
 翌朝、葵がインターホンを押した。僕は眠い目をこすって応答する。
「はい」
「朝ご飯が出来ました。どうぞいらしてください」
なんて早起きなんだ。田舎の朝は早いらしいが、夏休みなのに学校のある時より早く起こされるとは思わなかった。急いで支度をする。
 寝癖が茫々の頭で玄関のドアを開けると、まだ葵は外に居た。
「さあ、行きましょう。やっと朝が来ました」葵はそう言うとさも嬉しそうに僕の前をひらひらと踊るように歩いた。
「なんで朝早くからそんな元気なんだ」僕はかすれた声でそう訊いた。起き抜けは誰だってこんな声だろう。
「だって夏休みですよ。すべての物が輝いて見えるじゃないですか」ひらひらと歩きながら葵は答える。小柄な体はまるで小学生のようだ。このまま蝉でも捕りにいきそうだ。
「よくそんな恥ずかしい台詞を言えるな」僕は半分呆れてそう言った。昨日出会ったばかりの様な人に「呆れる」と言うのも変な話だが。
 葵は相変わらず楽しくて楽しくて仕方ない、という風にずんずん進んでいく。
「翔太さん、今日は何処か行きたい所とかありますか」
「いや、のんびり家で過ごそうと思っていたんだけど」
「じゃあ、お邪魔させて頂いても宜しいですか?」
「どうぞご自由に」
「やった」
さらに上機嫌になった葵はスキップし始めた。どれだけ嬉しいのだ、夏休みが。夏休みと言っているから、彼女は高校に通っているんだろう。この町には高校が無いから、隣町まで長い道を通っているんだろう。しかし、こんな老人ばかりの町じゃ同年代の高校生と遊ぶ事も少ないんだろう。しかし、家に居るだけでこれだけ喜んでもらえるとは。
 ふと、僕の数歩前を歩く足を見た。少し黒い部分があった。陰かも知れない。白い足に、それはひどく目立った。
 葵はくるりとターンした。ゆるいスカートの裾がふわりと舞う。葵はこちらを向いて
「今日もいい日だと良いですね」
と言った。
 朝食も昨日と同じように過ぎた。一つ違うのは葵の両親が忙しそうにしていて質問を一つもしてこなかった事だ。幸運な事だった。葵の両親は僕の両親と同じように共働きであるようだった。二人が玄関から出ようとすると、葵はいちいち玄関へ言って
「お父さん、いってらっしゃい」と言っていた。忙しいのか、返事の声すらも聞こえなかった。
 その日、僕と葵は、僕の祖父母の家の中でとりとめの無い話をして過ごした。葵はずっと笑っていた。
 眩しい夏の日の中で、確かに僕は夏休みを謳歌していた。
 
 それから毎日、葵は僕のもとへ来た。朝食を食べてから、夕食を食べて、丁度良い時間になって
「そろそろ、帰りますね。お邪魔しました」と葵が言うまで、一日中葵は僕の許に居た。別に、僕はそれでも一向に構わなかった。取り立てて何をしたい、という目的があってここへ来た訳ではないので、手持ち無沙汰な時間がないだけ良かった。しかし、心配だったのは葵の方で、彼女は女友達とか居ないのだろうか。一度も携帯電話で人とやり取りしている所を見た事が無いし、話す相手は、日中はずっと僕である。葵との話は楽しかった。表情が豊かでくるくる変わる葵は、意外と頭がよく回り、考えもしなかった議論をしてしまった事もあった。
 そして、あの目元だ。あの目だけは何かを常に見ていた。柔らかな物腰の中でさえ、何か僕にも解らない大切な物をロックしていた。たまに脈絡無く目が合うと、そのまま合わせているのはひどく疲れた。エネルギーに満ちた瞳と相対するのは、とても消耗が激しかった。
 しかし。
 非常に言いにくいのだが。

 僕はその目が好きだった。

 葵は夕食の後に、
「翔太さん、隣町で夏祭りがあるんです。行きませんか?」と、僕を誘ってきた。断る積極的理由も無かったので、僕の家に鞄を取りにいってから、もう一度日向家の前まで来た。
 夕方の風には、もう乱暴な暑さは無かった。気づけばもう八月も中旬を過ぎた。
 インターホンを押したと同時に、何処からか男が大声を上げる声が聞こえた。老人の声では無かった。この町も、若者同士の喧嘩があるのだろうか。若者が居ると解っただけでも、この町へのイメージは大きく変わった。決してプラスの方向へではないが。暗い気持ちになったが、それでもある種の閉塞感は消えた気がした。
 ややあって、応答があった。
「翔太さんですか?今行きますね」弾んだ声だ。そんなに楽しみなのか。
「おう、待ってる」やがて、ぱたぱたと足音が聞こえたと思うと、扉が開き、葵が姿を見せた。
 息を飲む程きれいだった。小柄な体にまとった浴衣には、幾重にも重なった模様が流れていて、でも、目だけはいつものように何かを捉えていた。
「どうですか。お母さんのお下がりなんです」
何も言えなかった。鼓動が早くなる。
「うん」情けない事に、顔が赤くなっていくのが解る。力を込めて口を開く。
「似合ってるんじゃないか」
「ありがとうございます。さあ、行きましょう」葵はいつも通りだった。僕は急に力が抜けて
「ああ、行くぞ」と言ってずんずん葵の先を歩いた。後ろから
「待ってください」と言う声が聞こえた。顔を見られたく無かった。少しも待ってやるもんか。
 隣町、というのはバスで三十分ほどの所だった。葵はその間中ずっと上気した顔で、祭りへの期待を隠そうともしなかった。そんな葵はやっぱり可愛かった。
「翔太さん、何か向こうで召し上がりますか」
「よく食うなお前。さっき夕食食ったばかりだろ」
「屋台は別腹ですよ」楽しみな気持ちだけで腹は減るのだろうか。
「まあ、腹を壊すなよ」
「大丈夫です。何かあった時は翔太さんがどうにかしてくれます」ちょっと訊きたいのだが、僕はいつの間に葵の信頼を得たのだろうか。それとも、これが葵の性格なのだろうか。だとしたら恐ろしい性格だ。相手に信頼されていると思い込むのは、世の男子にとってかなりのエネルギー源だろう。こわいこわい。
「それにしてもこの道路は凄い所通るな」さっきからどんどん山道に入っていく。
「いつもここをバスで通ってるんですよ」葵はなぜか得意げに言った。
「誰か友達と帰るのか?」
「いいえ、友達はみんな隣町に住んでいるので、こっちまで帰るのはあの高校で私だけです」それでは簡単に遊んだりは出来ないだろうなあ。人間関係が希薄になっていると聞くが、東京はそれでもまだ友達と遊んだりはする。葵は大変な思いをしてるんだろう。
 やがて、バスの外は明るくなり、家並みが現れ、それはやがて商店街に変わった。数十分ぶりの町灯りは、とても安心させる物だった。
 バスから降りると、もう既に風は涼しくなり、遠くから風に乗って太鼓の音が聞こえた。横を見ると、一段低い所にある肩は楽しげに揺れていた。
 神社の境内に近づくと、橙色の屋台の光達が森から漏れているのが見えた。
「いよいよですよ翔太さん」ここに来ていよいよ興奮がピークに近づいているようだった。
「で、まず行きたい所とかはあるのか」このまま興奮させたままだと、葵の小さな体は破裂しそうに見えた。
「私、どうしてもスーパーボール掬いに行きたいんです」意外だ。スーパーボール掬いって何となく男の子が好きそうな印象があったからだ。
「どうしてスーパーボールなんか……」
「はい。思い出があるので。翔太さんは無いんですか?」スーパーボールの思い出は小さい頃やって、何度も挑戦して一つしか掬えなかった事くらいしか無い。あのスーパーボールはどうしてしまったんだろう。小さい頃の僕にとってはそれなりに大事だったはずだが。「思い出はないなあ」と言おうとすると、もう葵は楽しそうに別の物を見つけていた。
「他の方達もみんな浴衣ですね。あ、金魚をあんなに取った方も」
「落ち着け」
「でも、翔太さん、夏祭りですよ。夏祭りは一年に一回しか無いんです」
「当たり前だ」
「でも、夏祭りですよ」これはもう早い所境内に連れて行って好きなだけ遊ばせるほか無いな。
 そう言う事を考えながら歩いていると、夜の帳に迫力を増した鳥居が目の前に迫り、僕達はそれをくぐった。境内は賑やかだった。
 ふと、右隣を見ると、葵の横顔が見えた。夜店の証明に照らされた顔には無邪気な笑顔があった。
「どうかなさったんですか」葵がこちらを向く。またあの目元だ。しっかりと僕を見ている。正体の解らない緊張を覚えながらやっとの事で
「いやあ、浮かれてるな、と思って」と答えた。葵は少しも考えたりせずに
「だって、翔太さんと一緒に夏祭りへ来るなんて久しぶりですから」と即答した。おお、素晴らしい殺し文句だ。しかし、「久しぶり」と言う事は、八年前のじいちゃんの葬式の夏に葵と祭りへ来ていたのだろうか。そう言えば、僕にはその時の事を思い出すという宿題があった。
「さあ、まずスーパーボール掬いにいくか」僕はそう言って近くの屋台を指差した。
「そうしましょうか」葵はそう言って浴衣の裾を翻しながら駆けていった。
 実際の所、一番に行きたいと言った割に、葵のスーパーボール掬いの腕は悲惨だった。いくらやってもスーパーボールを掬うやつ(あれ、なんて言うんだろう)の紙を水に浸けてしまい、一個もとれないのだった。僕は見かねて屋台のおっちゃんに声をかけた。
「おじさん、僕もやります」
「はい、百円ね」
僕は例の物を受け取ると、葵のとなりにしゃがんで、水槽を覗き込んだ。僕は、あの頃に比べたら巧くなっていたんだろう。早々に黄緑色のを一個掬うと、
「おじさん、ありがとう」と言って掬うやつを返した。葵は驚いて
「え?もう取れたんですか?」とこちらを見た。そうしている間にも紙は濡れて破れてしまった。なんと言うか、歯痒い。えい、ままよ。
「こうだ、こう」僕は横から葵の手を取り、掬い方を教えた。なんか距離が近い気もするが、見ているだけよりましだ。あっという間に青と黄色のマーブルが一つ取れた。葵はくるりとこちらを向いた。ふわりと良い匂いがする。僕が慌てていると葵は
「ありがとうございました」と軽く頭を下げた。僕はいよいよ慌ててしまって、
「さあ、次行こう」と言って歩き出した。ズボンのポケットの中のスーパーボールが腿に当たって変な感じだ。
 葵は、たこ焼きの屋台の前で立ち止まった。よりによってこんな重い物を夕食後に食べるのか。
「半分こしましょうか」葵はそう言うと八個入りを注文していた。
「お前よく食うな」僕が何となくそう声をかけると
「良いじゃないですか。夏祭りですから」そう言うと、葵はたこ焼きを受け取った。手頃なベンチを探す。
そこらの低めの塀に腰を下ろすと、葵は爪楊枝に刺したたこ焼きをこちらに向けて
「はい、口を開けてください」と、言った。冗談じゃない。そんな甘々な事出来るか。
「いいよ、お前が食べろよ」
「良いですから、はい」絶体絶命だ。と、そこへ天から声が降ってきた。
「あれ、葵じゃん」見上げると、派手な浴衣を着た三人組だった。葵の知り合いか、と思って葵の方を見ると、慌ててたこ焼きを容器に引っ込め、
「あ、お久しぶりです」と挨拶をしていた。友達なのに敬語と言う事は、これはもう癖みたいな物なんだろうか。三人組は僕をじいっと見つめ、それから、葵の方に向き直った。
「あはははは、葵、夏休み中に彼氏作ったの?」
「いいえ、翔太さんはそんな」
「隠さなくても良いよ、見れば解るもん。良かったねー」なんて強引なやつだ。葵は完全に下を向いている。
「ねえねえ、君、どこ高?見ない顔だけど」僕は、東京の高校を口にして
「あんた達はあお、日向さんの友達なのか」と聞いた。三人組は一瞬ぽかんとした顔をした後、逆に
「どこから来たの?市内?」と訊いてきた。田舎の人間は県内の大きな都市を「市内」と呼ぶんだろう。
「いや、東京だ」僕はぶっきらぼうにそう答えた。それを訊いたとたん、三人組は、葵の事を忘れてしまったかのように
「ねえねえ、東京の高校ってどんな感じ?」という調子で僕を質問攻めにしてきた。またか、と思いつつ、気のない声で返事をしていると、ある程度質問すると、満足したのか
「葵、又学校でねー」と言いながら遠ざかっていった。葵はまだ下を向いていた。
「おい、大丈夫か。もしかしてお前、あいつら苦手なのか?」と訊くと、
「悪い方ではないんですけどね」と、軽く笑いながら葵はこちらを向いた。葵はたこ焼きの容器を持ち上げると、
「冷めちゃいましたね」と言って、僕に爪楊枝を渡した。僕は、冷めたたこ焼きを突き刺した。ぽすん、と気のない音がした。
 たこ焼きを無言で食べ終えると、その空気を拭き取るように葵は
「さあ、踊りましょう翔太さん」と、言った。向こうでは盆踊りの輪がゆっくりと回っている。
「私、こう見えても盆踊りは得意なんです。翔太さんはどうですか」
「ごめん、踊れない。あっちでお前が踊るの見てるよ」僕は実際盆踊りなんてやった事が無かった。祭りの真ん中に自分から飛び込んでいくなんて、そんな度胸は持ち合わせていなかった。
「スーパーボール掬いの時は教えてもらったので、今度は私の番です」
そう言うと、葵は僕の手を取って輪の中に飛び込んだ。そこは一段と明るい所だった。
「こうして、で、次はこうです。あ、そうそうそんな感じ」葵は本当に丁寧に教えてくれた。葵の腕の振り方、足の運び方、体の動きすべてが滑らかで、周りとは数段違った。
「お前、毎年踊ってるのか」
「はい、毎年一人で来ては踊ってるんです。今年は違いますけど」そう言って、葵はまた踊り始めた。櫓の光が、葵を照らす。葵は僕の前で踊っている。
 なぜか、今、とても葵の顔を見たかった。どんな顔をして踊っているのか、無性に知りたくなった。
 後ろの人に肩を叩かれる。
「進んでますよ」彼女はそう言って前を差した。
「すみません」僕はそう言って輪から抜けた。僕の居なくなった所は、すぐに人が来て、輪はまた途切れる事無く続いていった。
 葵は、一人で踊っていた。
 僕は、何となく不安になったので、葵に近づいていった。
「お前、やっぱ踊るの巧いな。遠目に見てても周りとは違うよ」
「ありがとうございます。そう言われたのは初めてです」葵はこちらを向いて微笑んだ。
「私ももう十分踊らせてもらったので満足です。せっかくですからお参りして帰りましょうか」葵はそう言うと、本殿の前へと向かった。
 後を追うと、もうすっかり暑さを失った風が吹いた。もう八月も終わりが近づいている。

 帰りのバスの中、葵は本当に満足した様な顔をしていた。
「本当に楽しかったです。ありがとうございました」
「いや、こっちも楽しかったからお礼なんて言うなよ」本心だった。
「あ、そうですか。それなら私も嬉しいです。ありがとうございます」
「だから、お礼はするなって」行きとは違う意味で興奮しているようだった。
 バスはだんだん山道へと入って行く。窓側に座っていた葵が小さな声を上げた。
「あっ、花火ですよ翔太さん」
窓の外を見やると、空に大輪の花が咲いていた。一発上がり、少し間を置いてもう一発。田舎の町がぱっと明るくなった。
「綺麗ですね」そう言う葵は窓枠に頬杖をついて花火に見とれている。白い頬に赤い模様が出たり消えたりしているのが妙に美しかった。
「夏祭りが終わると、夏も終わってしまいますね」なぜかその言葉が、僕を不安にした。
「小さい頃、お祭りが苦手だったんです。お祭りが終わるのは深夜ですから、子供は早く帰らなければいけません。そのとき遠ざかりながらも、後ろから聞こえる祭りの喧騒が嫌いでした」葵がそこまで饒舌なのは初めてだった。溜めていた思いを吐き出しているようだった。
「赤い法被や、眩しい屋台が、永遠に離れていってしまうようで怖かったんでしょうね」
「今は」そこまで言って、僕はふと黙った。これは本当に訊いていいのだろうか。迷ったが、思い切って訊いた。
「今は、もう、お祭りは大丈夫なのか?」
葵は笑った。
「大丈夫ですよ。お祭りは大好きです」
 自動放送が、山道の中のバス停の名を告げた。誰が使うのだろうか。ふとそんな事を考えていると、葵がぽつりと呟いた。
「でも、お祭りは終わっちゃいましたね」

 家のある町まで戻ってくると、もう十時を回っていた。都会より街頭の間隔が広く、かなり暗い。
「ところで、翔太さんはいつまでこっちにいらっしゃるんですか。さすがに九月には学校が始まってしまうんでしょう?」横を歩いていた葵が、歩調を緩めながらそう訊いてきた。かなりゆっくりになってしまった。
「うぅん。明後日ぐらいにはこっちを出ないとまずいかな。東京に宿題置いてきたし、行きと同じ位帰る時もかかるだろうし」そう言って葵を見ると、元々小さい葵の体がもっと小さくなっている気がした。下を向いているからだろうか。
「そうですか。まだいらっしゃっても別に良いんですよ。帰りの特急券代お出ししますし」その台詞に何か違和感を感じた。冗談半分の言葉なのだろうか。
「いや、それはさすがにまずいだろ。日向さん家にもそんなに長くご厄介になる訳にいかないし、適当な所で僕は帰るよ」葵はさらに小さくなって歩いていた。
「もういっその事こっちへ住んじゃったらどうですか。こっちの一学年に一クラスしか無くて、寂しいんです。みんな歓迎してくれます。どうですか。東京へは私が連絡しておきます」確実におかしかった。二人で冗談を言い合う時、葵は必ず僕を、あの目で見ていた。のびのびと笑っていた。今の葵は確実に変だった。
「おい、もしかしてどこか悪いのか?」念のためそう訊いてみた。
「え?大丈夫ですよ。それで、どうですか?翔太さん」
僕はここまで来てようやく、葵が必死に僕を引き止めようとしている事に気づいた。何故だろう。僕がこの町に居ると、何か良い事があるのだろうか。
「お前変だぞ」僕は、傷つける事覚悟でそう言った。葵はぴたりと歩みを止めた。気づけば僕の寝起きする家の前だった。
「僕には僕の住む町がある。いつかは帰らなきゃいけないんだ。来年の夏来るから、それで良いか?」出来る限り優しく、そう言った。帰ってくるのはいつもの優しい声だと思っていたから、返ってきた言葉のとげに驚いた。
「来年までなんて、長過ぎる」いつもの「ですます調」じゃ無かった。字面だけ見たら二人はいい感じなのに、今の僕らはそんなんじゃなかった。
 葵は、はっとした顔を見せると
「取り乱してすみません。おやすみなさい」と、立ち去ろうとした。僕は早い所部屋に帰りたくて、扉に手をかけた。後ろから声がした。振り向くと葵が、いつもの葵に戻って立っていた。
「一つだけ、お願いを聞いてください」いつもの口調で、ゆっくりと葵はそう言った。僕はなぜか口が動かなかった。「なんで」とか「良いけど」とか、言いたい事がたくさんあったのに、何かが僕を喋らせなかった。
「スーパーボールを、交換しませんか?」
葵は静かに、そう言った。虫の声が聞こえる。
「良いけど、欲しいなら、交換じゃなくて、あげるぞ」
「いえ、翔太さんには持っていてもらいたいんです」そう言うと、葵は持っていた巾着からスーパーボールを一つ取り出した。僕もズボンのポケットからスーパーボールを取り出し、右手で握って前に突き出した。
「翔太さん、左手を出してください」葵も右手を突き出し、左手の掌を上に向けながらそう言った。僕も同じようにする。
「これで、交換ですね」葵はそう言うと、拳を開いた。僕も握り拳を開く。二つのスーパーボールは音も無く互いの掌に落ちた。
「翔太さん、これ、大事にしますね」葵は夜の闇の中で笑った。あいつの掌の中には、黄緑のスーパーボール。
「そんな、大事にするほどの物でもないだろ」
「いいえ。大事にさせてもらいます。では、おやすみなさい」葵はそう言うと、下を向きながら小走りで駆けていった。
 僕は、掌を開いて、スーパーボールを見た。暗くて色が解らない。ポケットにしまう。
「転ぶなよ」遠ざかる背中を送りながらそう呟いて、玄関の扉を開けた。

 部屋に入って時計を見るともう十一時を回っていた。こんな時間まで外に居たからか、睡魔が強く襲ってきた。布団を敷き、横になると、腿に何かが押当てられた感じがした。痛い。何かはすぐに思い当たった。
 ポケットからスーパーボールを取り出した。赤いスーパーボールだった。
 あれ。
 おかしい。
 葵が掬ったのは青と黄色のマーブルのやつだったはずだ。
「何故だ」そう呟いた瞬間に、一気に思い出された。
 今年の夏の事じゃない。八年前の、あの夏だ。

 とにかく暑い夏だった。毎年夏に訪れる父の田舎はクマゼミがたくさん鳴いていた。
 午前中に葬式が終わったその日の昼下がり、親族がだんだんと帰っていき、がらんとした家の中には僕一人だった。
 一日に数本しか列車が来ないので、親族は皆同じ列車で帰った。両親はその送りに出かけていた。
 じいちゃんと過ごした夏は七回だった。そのうち初めの数回は覚えていない。幼すぎたからだ。去年の夏は母さんから怒られて、こうして縁側に座っていたらじいちゃんが慰めてくれた。
 八歳にもなれば死んだ人間との思い出は少なからず覚えている。斎場ではみんな泣いていた。いとこもはとこも来た。おばさんもおじさんも来た。誰だか知らない人も来た。みな黒い服に身を包み、じいちゃんに声をかけてはハンカチで顔を拭った。
 僕は、不思議と泣こうと言う気になれなかった。嘘みたいだった。じいちゃんは僕を慰めて、戒めてくれた、その時の顔のまま棺に横たわっていた。夜寝て、次の朝になったら「翔坊、今日は釣りに行くか」なんて言ってむっくり起き上がりそうだった。
 しかし、解っていた。そんな事は絶対にない。
 道ばたで転がっている蝉の様に、クーラーボックスの中の小アジのように、もう一度喋る事も無ければ、歩く事も無かった。
 縁側から見る夏の空はひどく狭かった。凶暴な太陽でさえ、ここまでは届かなかった。
 後ろで板敷きの廊下がぎいと軋むのが聞こえた。その足音がじいちゃんのに似ていたから、つい
「じいちゃん?」と訊いてしまった。振り向くとそこにはばあちゃんが居た。
「じいちゃんはもういない。それより、翔太、今夜日向さん家の子と一緒に祭りに行かんか」ばあちゃんは低い声で言った。退屈だった僕はすぐさま
「うん。行く」と答えた。答えてから「日向さん家の子って誰だろう」と考えてしまった。知らないけど、行く事は決まったのでこの際誰でもい良かった。僕はすぐその事を忘れた。
 日が暮れ、じいちゃんの居ない食卓で夕食をとると、ばあちゃんと一緒に外へ出た。湿度の高い、まとわりつく様な嫌な空気だった。
「さあ、迎えに行くか」ばあちゃんはそう言うと日向家へ歩き出した。
 日向家につくと、ばあちゃんは大きい声で
「ごめんください、新藤です」と怒鳴った。すぐにぱたぱた音がしたかと思うと、がらりと扉が開いた。中から老女が現れた。
「葵ちゃんを誘いにきました。翔太が帰ってきましたもんで」ばあちゃんがそう言うと、老女は「そうですか。葵をお願いします」と言って「葵ちゃん」を呼びに行った。
 僕は早く祭りに行きたくて堪らなかったので、そわそわしていたが、出てきた子を見てそんな気持ちは消えた。
 暗闇でも解った。その子の目は焦点が定まらず、光が無かった。泣いて泣いて、涙も出尽くしたような表情だった。僕の周りにそんな子は居なかった。頬には薄く消えかかっているが、青痣があった。
「では、葵を宜しくお願いします」老女は丁寧にそう言うと、すぐに引っ込んだ。
 ばあちゃんは、僕達に
「ほら、はぐれないように手を繋いどきなさい」と言って、強引に僕と葵の手を繋がせた。手は真夏なのに何故か冷たかった。
 バスに乗っても、神社が目の前に迫っても、その子、いや、葵は少しも喜ばなかった。何かに疲れきっている様な顔をしていた。
 スーパーボール掬いをしたり、屋台で物を買って食べたりしたが、その子は全然喋らなかった。
 一言も話さない奴と手を繋いでいるのは不気味な物で、どうにかしてその子と何か会話をしたくなる。何か話せば安心できた。だから僕は、声をかけてみた。
「たこ焼き食べる?」
「幾つなの?」
「お祭り毎年来るの?」
全部が、ぽとりと地面に落ちた。誰も拾ってくれなかった。ばあちゃんは知り合いを見つけて話し込んでしまうし、僕は誰かと手を繋ぎながら、独りぼっちだった。
 もう無理なのか、と思い、最後に
「その痣、大丈夫?」と訊いた。正直僕にとって人の痣なんてどうでも良かった。どうせどっかにぶつけたりしたんだろう。そう思っていた。しかし、葵は下を向きながらぼそりと
「痛いです」と答えた。意外だった。痣の質問は一番どうでも良さそうだったからだ。しかし、答えてくれた事で、僕はなぜか嬉しくなった。
「なんで顔に痣なんか出来てるの?」何も考えずにそう訊いてしまった。葵は苦しそうな顔をして、
「殴られました」とだけ言った。僕はさらに何も考えず、
「誰に?」と訊いてしまった。葵は、もっと苦しそうに呻いた後、黙り込んだ。
 僕は急に心配になった。僕が変な事を訊いたから、この子はこんなに苦しそうなんだ、とようやく気がついた。
「ごめん、答えなくて良いや。ごめん。気悪くしたでしょ。ごめん」僕はぱたぱたと何度も腰を折って頭を下げた。頭がぐわんぐわんする。気持ち悪い。でもずっと頭を振り続けた。自分でも何をしているのか解らなかった。ひたすら「ごめん」と言い続けた。
 ふと、耳に鈴を転がした様な笑い声が聞こえた。頭を止めて、葵を見ると、葵は堪らない、と言うようにクスクス笑っていた。僕は恥ずかしくなって
「謝ってるのに笑うのかよ」と言って拗ねた。葵は慌てて
「ごめんなさい。でも君の動きが面白くて」と言って、またクスクスと笑い始めた。僕は、拗ねた事に更に決まり悪さを感じた。そこで、僕はポケットに手を突っ込んで、赤いスーパーボールを取り出した。
「おい、これやるから」あまりにもぶっきらぼうな言い方だった。何故僕がスーパーボールをあげるのかも、全く脈絡が無かった。しかし、葵は何かを感じたのか、
「ありがとうございます。大切にします」と言って、大事そうに胸に抱いた。小さすぎる葵の手にスーパーボールはぴったり収まった。
 翌日、僕と家族は朝早く家を出た。列車に乗ってもまだ半分寝ていた僕は、遠ざかる駅を見ながら、葵に挨拶をし忘れた事を思い出した。やがて、意識は遠ざかり、葵も僕から遠ざかって行った。

 布団の上で、そこまで思い出すと、僕は再び赤いスーパーボールを見た。あの時から、葵はずっとこれを持っていたのだろうか。そうだとしたら、何故。そして、別れ際のいつもと違う葵。祭りの前に聞こえた男の声。高校生らしからぬ言葉遣い。痣。
 繋がりそうで繋がらない考えの海に溺れて、僕はいつの間にか眠ってしまった。

 目を覚ますと、時計は朝の五時だった。部屋を見渡す。荷物はついてから必要な物だけ毎回小出しにしていたので、荷物は鞄一つだ。
 僕は、昨日考えていた事の続きを考えた。昨日の夜、かなり良い所まで考えていたから、考えはすぐまとまった。よくある話だった。身近に感じた人はあまり居ないかも知れないが、実際存在する話だった。僕は、絶望し、そして、葵を助け出す方法を考えた。気づけばもう日が昇っていた。もうすぐ葵がチャイムをならして呼びにくるはずだ。言いようの無い緊張に包まれるのが解った。

 その日一日は、何も起こらず過ぎた。昨日のように葵が取り乱す事も無かった。
僕は明日帰ると言ったので「最後にもう一度」と言ってあの岬へ行った。
 もう盛夏を過ぎようとしているからか、ヒマワリは所々花を散らして種を付けていた。あの日ほど眩しく無い。海は変わらずのっぺりしている。葵は歩きながら
「今年の夏は楽しかったです」と言った。言ってから恥ずかしそうに首をすくめると、
「来年もまた来てくださいね」と言った。僕は、最後の確認の意味を込めて
「お前が東京に来るって言うのはどうだ?」と訊いた。言ってから、少し唐突な感じがしたので
「東京に来たら帰りたく無くなるんじゃないか」と付け加えた。出来る限り間違いは無くしたかった。嘘をついているみたいで少し後ろめたかったが、なんとか自分を納得させた。すると、葵は
「そうですね、帰りたく無くなるかもしれません」と言った。僕はこの言葉を聞いて自信を持った。よし、行ける。
「でも、東京には行けないんですよ。ですから、翔太さん。来年もまた来てくださいね」
葵は目を泳がしながらそう答えた。珍しい事だった。葵の目はいつも何かを捉えながらも、涼しいままだった。やっぱり何かある。しかし、今ここで問いつめる訳には行かなかった。最短で問題を解決するにはそっちが断然早かったが、僕は絶対葵を救い出したかった。確実さを求めたかった。
「そうか。じゃあ来年も来ようかな。来年もまたここへ来ようか」僕は出来るだけ優しくそう言った。考えている事を悟られたく無かった。葵は、本当に嬉しそうな笑顔で
「はい、お待ちしています」と言った。その笑顔を見ているのは、本当に辛かった。心に何かがチクチク刺さった様な感じだ。痛い。
 岬から戻ってくると、葵は珍しくまっすぐ家へ戻った。僕は、部屋に戻って、もう一度時刻表を確認した。よし、行ける。

 夕方になって、葵が僕を呼びにきた。夕食だ。僕は鞄を持って外へ出た。
 日向家はいつも通りだった。僕もいつも通り食卓に着いた。いつもと違い、僕は鞄を持っていたが、夕食前のばたばたした空気に、誰もそんな事気づきやしなかった。何食わぬ顔で椅子に座る。葵がぱたぱたと玄関へ駆けて行き、鍵を開けた。葵の父が帰ってきたらしい。玄関から
「お帰りなさい、お父さん」と言う声が聞こえる。返事は聞こえない。僕は身を固くする。
 葵の父を待って、夕食は始まった。いつも通りみんな色々な事を話したりして食べた。
 僕は、全員が食べ終わるのを待って、こう言った。
「皆さん、お世話になりました。僕は明日の一番列車で帰ります。ですから、皆さんとお会いするのは今が最後です。鍵はポストに入れておきます。長いことお世話になりました」
 そう言ってから、食卓を見回した。葵の母も、葵の祖父母も、心配そうな顔をしていた。葵の表情は……、見たく無かった。
 ひとり、僕が消えるのを喜んでいる奴が居た。葵の父親だ。そいつだけは表情を変えないように頑張っていた。ばれている。周りがこれだけ表情を変えているのに、そいつだけ仏頂面なのには絶対理由がある。
 それでも僕はそれに気づかない振りをして、
「ごちそうさまでした。みなさん、ありがとうございました」と、言って席を立った。葵の顔は見たくない。
 玄関へ歩いて行くと背後で足音が聞こえた。振り向くと、そこに葵が立っていた。半袖のワンピースを着ていた。腕には痛々しい青痣が幾つもある。人一倍白い肌に、それはあまりにも醜かった。
「どうした?」僕は何気ないふうを装ってそう訊いた。葵は、そのまま黙っていた。どうしたんだろう。
 十数秒が、かなり長い時間に感じられた。かなり時間が経ったその時、葵は口を開いた。
「行っちゃ、嫌です」
 僕は、辛かった。一瞬でも葵にこう思わせてしまう事が。確実さを求めるとかもっともらしい事を思いながら、それでも葵に辛い思いをさせてしまう自分が、この上なく下らない人間に見えた。八年余裕があったのに、こんな事を見逃すなんて、僕は注意力の無い奴だ。
「行っちゃ、嫌です」葵は、もう一度続けた。目元が赤くなり、鼻声になっている。僕のせいだ。泣かせてしまった。僕は本当に後悔した。
「行っちゃ、嫌です」葵は続けざまにそう言った。もう聞きたく無い。葵のそんな言葉は。見たくない。葵のそんな顔は。ずっと、楽しそうに笑っていて欲しい。あの岬に敷き詰められたひまわりの中で。
「行っちゃ……」葵がそこまで言った時、僕は葵を抱き寄せた。ああ、なんて事だ。彼女が僕に抱いているのは恋じゃなくて恩なのに。こんな方法でしか止められなかった。それでも、葵は泣きながら、僕の耳元で
「行っちゃ、嫌ですよう」と言い続けている。僕は、葵の両肩をつかむと、僕から引き離して、立たせた。まだ泣いている。仕方ない。もう、言うしかない。腹を決めて、僕は葵に宣言する。
「解った。すぐに、葵の所へ戻ってくるから。待っててくれる?」そう聞くと、葵は無言で頷いた。僕は、言葉を継いでいった。
「じゃあ、僕が帰ってくるまで、泣くなよ」なんて勝手な事を言ったんだろう。ただ、葵の泣き顔が見たく無いと言うだけで。しかし、葵は頷いてくれた。僕は、気持ちを引き締めた。よし、絶対に解放してやる。そして……、
「終わらない祭りをしよう!、葵!」

 外は生温い風が吹いていた。気が緩みそうだ。僕は玄関の扉を閉めた後、こっそりと日向邸の裏庭に回った。植え込みの陰に隠れて、気を伺う。裏庭側には、台所に繋がる勝手口と、葵の父の部屋の窓がある。部屋の窓は網戸をした状態で開け放たれていた。窓の一枚内側には障子があった。
 僕は鞄から携帯電話を出して、ポケットにしまった。
 やがて、網戸の内側から、大きな声が聞こえた。葵の父だ。彼は酒を飲まない事を今までの食卓や葵から確認している。つまり、あいつは今、素面だ。
 障子があるせいか、何を言っているのか詳しく聞こえない。もうあいつは始めたのだろうか。それともまだ別の事をしているのだろうか。僕は、あいつがそれを始めた時、冷静で居られる気がしない。どうにかして早くなってきた鼓動を鎮める。
 やがて、奴は障子を開けると、網戸を閉めた。これは計算外だった。てっきり気づかずにそのまま始める物だと思っていた。しかし、幸運な事に、奴は障子を完璧には閉じなかった。角度を調節して、こっそり中を覗く。
 それでも見えないので、僕は窓へ近づいて行った。台所の換気扇から大きな声が聞こえる。
「このくそ野郎がァ」
「昨日だって、あんな奴とどこほっつき歩いとった!」
そして、鈍い音がした。
 僕は、ここまで聞いて、確信した。
 葵は、虐待されていたのだ。
 もっと早く気づくべきだったのだ。
 まず、初めにおかしいと気づくのは痣だろう。もし、壁へと追いつめられて殴られたりしたのならば、頭を守るため、腕を額の前に持ってくる。そのときに痣が出来るのが、腕の内側だ。ここなら普段生活している分には気づかれない。
 僕はそっと携帯電話のボイスメモ機能を開き、録音を始める。そうこうしているうちにも、葵は傷つく。しかし、証拠が無ければ、僕は本当にただの不法侵入者になってしまう。
 次に気づくのは、あの言葉遣いだ。親に対してもあれだけ敬語で話す。敬語は、親しい仲だと逆に距離を感じさせる。特に、父親に対しては、小さい頃から虐待をされたりしたら、懐かないだろう。自己防衛で相手から離れるのだ。ストックホルム症候群と言う物もあると、今朝インターネットで調べたが、特殊な例だろう、
 そして、今僕が見ているのが動かぬ証拠だ。
 携帯電話のボイスメモは三分程経っている。もう良いだろう。僕は、自分に、そして、葵の父親に怒っていた。許せなくなっていた。鞄をひったくり、勝手口を開ける。アルミ製の軽い扉は簡単に開いた。中を見ると、食卓と台所に葵と父親以外全員居た。三人とも目を丸くしていたが、僕を見ると、誰も咎めはしなかった。みんな、自分より強い奴を止められないのだろう。「お邪魔します」の一言を言うのもまどろっこしかった僕は靴を脱ぎ捨てると食卓の向こうにある葵の父親の部屋の扉に手をかけた。一気に引いて、開け放つ。
「誰だァ」先に声を発したのは葵の父親だった。今まさにしゃがみ込んだ葵を蹴ろうとしていた。葵の肌は、所々赤くなっていた。今さっき叩かれた所だろう。
「葵から離れろ」僕は低い声でそう言った。
「お前、飯の恩も忘れやがって」奴は僕に噛み付きそうな勢いで迫ってきた。そうだ、それで良い。葵が何もされなければそれが一番良い。
「ただじゃおかねぇぞ」
「娘を殴って何が楽しいんだ」本当は殴り倒してやりたいのを我慢してそう聞く。
「あ?知らねえよンなもん。こいつは俺の言う事だけ聞いてりゃ良いんだ。それなのにおめえなんかと遊びに行きやがったら叱ったんだ」最悪だ。娘は父親の言う事を聞いてりゃ良いなんて、そんな事を言える思考回路がよく解らない。
「おもちゃを取られて起こるなんて子供のする事だ、下らない」僕はそう吐き捨てると、葵の方に向き直った。
「約束通りだ。迎えにきたよ」そう言うと、葵はこわばらせていた体を解いて、笑った。ありがとう、笑ってくれて。
 横を向くと、奴は完全に頭に血が上っていた。拳を作ると、
「さっさと消えろやァ、あぁ?」と言って、殴り掛かってきた。持っていた鞄で防ぎ、殴った事で空いた脇腹に回し蹴りを入れた。
 不思議な事に、葵が笑った顔をみて、僕は冷静になっていた。頭に血が上った奴が不思議と滑稽に見えた。こんな奴に負けるはずが無い。負けたら、葵は解放されない。ずっと縛られ続けてしまう。
 奴は又立ち上がってきた。懲りもせずにまた殴り掛かってくる。その手首を取り、外側へ捻った。咄嗟に出たが、案外巧く言った。奴はバランスを崩して床に倒れ、その上から更に腕を捻る。このまま体重をかけていくと肩だか肘だかが外れるんだろう。
「おい」僕は低い声で奴に言った。
「娘を二度と殴らないか」
「なにさらす、糞ガキが」しぶとくも奴はまだそう言った。
「いいから、約束しろ。二度と娘を、葵を殴るな」そう言って更に捻る腕に体重をかける。奴は呻いた。
「約束するかッ!」僕は初めて大きな声を上げた。後一息と言う所まで体重をかける。奴は苦しそうに呻いた後
「ええい、うるさい!勝手にしやがれ!」と言った。拍子抜けしたが、今はそれが聞きたかった。
「そうか。じゃあ金輪際二度とこんな事するなよ」僕はそう言うと、
「行こう」と言って葵の腕を引いた。ああ、こんなに痣がある。こんなに赤くなっている。葵は
「はい」と答えて、自分の足で歩き始めた。

 部屋の引き戸を閉めると、さっきの三人はこちらを見ていた。心配そうな顔つきだった。
 そこで、僕は葵の母親からすべてを聞かされた。葵の両親は葵が七歳の夏に、二人で乗った車で交通事故を起こし亡くなっていた。葵は一人で留守番をしていた。
 そして、事実上の叔母である日向家に養子として来た。その頃から葵の父は仕事で溜めたストレスを葵で発散するようになった。葵はその頃から縛られていた。
 すべて気づきようの無い事だったが、その気になれば訊いて、もっと早く気づいたかも知れないのだ。何か葵に謝りたかったが、葵の母は
「最後に一つだけお願いを聞いてくれませんか」と言って来た。謝るタイミングを逃した。
「何でしょうか」
「葵を東京に連れて行ってやって欲しいんです」
 このお願いには正直びっくりした。葵自身もこの町に居るのが当たり前、と言う所があったから、それを母親とはいえ他人が言うのに驚いた。
「この子は引っ越してからこのかたずっとこんな調子でしたから、この町にいい思い出が無いんです。新藤さんならお付き合いがありましたし信用に足ると思っております。どうかこの子を新しい町へ連れて行ってはくれないでしょうか」
 僕はこの願いを聞き入れない訳には行かなかった。理屈では解らなかったが、断る理由も無いし、
「はい。大切にします」とか、なんとか分けのわからない言葉で承諾してしまった。多分あの両親の事だから冷やかしたりはするだろうけど、拒みはしないだろう。

 荷物を取って来ると言い、自分の部屋に戻った葵だったが、戻って来たときにはあのポシェット一つだけしか持っていなかった。
「他に要る物あるんじゃないのか?」僕がそう訊くと
「保険証と、印鑑と通帳と……、必要な物は全部入ってます」と言った。本当に必要な物だけだ。
「まあ、服とかは向こうで買えばいいしな」そう納得すると、
「あ、あと、スーパーボールも入ってますよ」と、葵はあわてて付け加えた。その台詞は妙にくすぐったかった。
 そして、葵は、葵の祖父母、母に向き合うと、
「みなさん、今日までありがとうございました。私は、今日この家を出てゆきます。新しい町へ行っても元気でやってゆきます。皆さんもお元気で」なんか今生の別れみたいだ。実際、この日本に住んでいる限り、合いたいと思えば何時でも会えるのだ。裏を返せば、葵のこの町との決別はそれほどの覚悟の居る物だったんだろう。葵はもう一度
「ありがとうございました。お元気で」と言うと
「行きましょう、翔太さん」と言って玄関を出た。僕も慌てて
「ありがとうございました」と礼を言った。
 僕は、葵の歩調に合わせて歩いた。一つ気になる事がある。
「葵はこれで良かったのか?」
「はい?」
「葵はこれで良かったのか?」
「はい。例えこの町を出たってそれは逃げた訳じゃありません。私が東京へ行きたいからそうするんです」
「面白いとこじゃないぞ。高校だって変わるし、色々大変じゃないか?」
「それでも、変わらなきゃいけない時が来たんです。別れの時なんです。再会の時はきっといつか来ますよ」その言葉を聞いて、僕は安心した。これで葵と一緒に東京へ帰れる。
「そうか。それならいいんだ」

 駅が近づいて来た。時計は夜の九時を差している。最終電車には十分間に合う時間だ。
 駅のヒマワリは、すっかり種だけになって、のっそりと立っていた。来年は、その種が花を咲かすのだろう。それは、きっと、今年のよりも美しいのだ。
青大将
2013年12月18日(水) 10時58分16秒 公開
■この作品の著作権は青大将さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
まだ創作を初めて間もない頃の作品です。読みづらい所も多々あると思います。それでも読んでくださった皆様に感謝の念が尽きません。
今後の参考に致しますので、どうか読んでくださった皆様は感想をお願い致します。

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