雨の音(第三稿)
0.プロローグ

 木佐木(きさき)町は人口一万人弱。高齢化と過疎化の波にさらされた、どこにでもある寂れた田舎町だ。東北地方にはこのような町は珍しくない。実際、誰の目にもそのように映るだろう。ただし私の抱いている感想は全く違う。
 木佐木町周辺では若い女性が失踪するという恐ろしい事件が続発している。警察の懸命な捜索にもかかわらず、女性たちは一人も見つかっていない。
 いや、一人だけ発見された女性がいる。
 森宮奈歩(もりみやなほ)。
 彼女は一七年前、忽然と姿を消し、のちに妊娠した状態で発見された。私は森宮奈歩に話が聞きたいと思って彼女が入院する病院を訪ねたが、彼女は心を酷く病んでいて、話が通じるような状態ではなかった。森宮奈歩の失踪と最近続発している事件を同一視するのはまだ早計かもしれない。しかし私の直感は告げている。二つは同じ背景を持つ事件であると。
 森宮奈歩には息子と娘がいる。森宮直登(もりみやなおと)と森宮雨音(もりみやあまね)の兄妹は地元の高校に通うごく普通の学生だと聞く。ただし森宮雨音については一言説明を添えねばならない。
 森宮雨音はアルビノだ。
 奇しくも木佐木町には「鬼が白子の娘を産ませた時が里の終わりだ」という言い伝えが遺されている。そのため町の人々――特に年配の男性の多くが、森宮雨音に格別の関心を払っているらしい。今年一六歳になる森宮雨音はすでに多くの重荷を背負っていると言えるだろう。その重圧は察して余りある。この先、森宮雨音はどのように葛藤してゆくのか。
 わざわざ木佐木町に来た甲斐があるというものだ。
 このように忌まわしい事件や逸話が残る木佐木町で一体どんな狂気が花開くのか、私は楽しみでならない。

1.静かに腐敗する

 電車に揺られること二時間余り。
 車窓から見える景色が変化し始める。疎らにしかなかった民家は徐々に密度を増す。大型店舗もちらほらと見かけられるようになる。ようやく電車は市街地に入った。生きている街の呼吸が感じられるかのよう。この活気は僕たちが住む田舎町には見られないものだ。
 僕たちが住む木佐木(きさき)町と言えば、バスは二時間に一本、私鉄は一時間に一本しか走らないという辺鄙なところ。高校を卒業したら都会に出たいと思う。とは言え僕は、山形市より都会に行ったことがないのだけど。
「次は終点。山形――」
 女性車掌の柔らかな声が車内に流れる。その声で終点が近いことが分かると、車内は少しざわつき始める。僕たちと同じ年頃の学生たちやお年寄りたちが荷物を確認し出す。自前の移動手段を持っていない場合や、長距離を移動する場合には、やはり電車は欠かすことのできない移動手段と言える。それに車内は冷房が利いていて快適という点も見逃せない。
 今は七月半ば。
 予報では今日は真夏日になるらしい。山形県は雪国として認められているが、夏の暑さの厳しさでも知られている。予報通りと言うべきか、まだ午前中だと言うのに車窓からは鋭い日差しが差し込む。きっと冷房の利いている車内から一歩出れば、茹だるような暑さだろう。
 日曜日だというのに暑い日差しの下を歩かなければならないと思うと、少し陰鬱にもなる。今日くらい少し日差しが陰っていても罰は当たらないと思うのだけど。
 僕は喉の渇きを覚え、バッグからペットボトルを二本取り出す。そのうち一本を対面の席に座る妹の雨音(あまね)に手渡した。頬杖を突いて車窓からの眺めに目をやっていた雨音は両手を添えてペットボトルを傾ける。
 雨音は特異な容姿を持つ。
 滑るような銀色の髪。太陽光を浴びたことがないような白色の肌。そして世界をまだ知らないかのような赤色の瞳。
 ただし外国人と言うわけではない。先天性色素欠乏症――いわゆるアルビノだ。この容姿のため、雨音はひどく目立つ。車内でも時折雨音に視線を向けられていた。
 雨音は一口飲んで一言漏らす。
「ぬるい」
 雨音の声は明るい響きを持つ。音域が上下することが少なく、透明感がある声は柔らかくしなやか。可憐とは雨音のような声を言うのだろう。
「仕方ないだろ」
 と僕は相変わらず可愛げのない妹の言葉に思わず苦笑する。
「暑いんだからぬるくなるのも当然だよ」
 僕もペットボトルに入ったお茶を一口すする。ほろ苦い甘さが口の中に広がった。確かにぬるくなっていたが、僕にはあまり気にならない。
 基本的に人当たりの良くない雨音だが、僕に対しては一層きつくなる傾向にある。まあ、相手が僕だからという面はあるだろう。残念ながら雨音には僕以外に素の自分を見せられる相手がいない。せっかく母譲りの美人に生まれてきたんだから、もう少し柔らかく人に接することができれば、もっと友達も増えるだろうに。
 電車が山形駅に着いた。
 ふわり、と雨音が立ち上がると、甘く爽やかな白檀の香りが舞った。
 ドアが開くと生温かい風が吹き付けてくる。それだけで僕の背中に汗が浮かぶ。やはり外は暑かった。黒のハンドバッグと白の日傘を下げた雨音を連れ、僕は人の流れに身を任せるように駅の中を歩く。
 雨音を連れているせいで周囲の目を惹いてしまう。
 シニヨンにまとめた長い銀髪。華奢な体の線が浮かび上がった白のブラウス。黒のフレアスカートからしなやかに伸びた足には同色のタイツ。身長一五五センチのほっそりとした体と相まって、雨音は人目を引くほど儚げな印象を持つ。ただ雨音本人はそのことに大して興味がなさそうだった。今も周囲からの視線に無関心な様子で、無言のまま僕についてくる。
 僕たちはバスに乗り換えて母が入院している病院へ向かった。
 いつものように打ちのめされると分かっていながら。



 母が入院する施設は人目を避けるようにひっそりと郊外に建っている。平屋建てで、事務棟、食堂、体育館、作業棟、居住棟があり、あまり病院らしくない開放的な作りだ。正確にはこの施設は救護施設というらしい。
 真新しい白い外壁が目に鮮やかだ。
 いつものように玄関で職員に挨拶し、雨音を伴って面会室に向かう。
 全館冷房が効いており、内部は涼しい風が吹いている。吹き抜けになったロビーは採光を考えて設計されているのか、光に溢れた印象だ。母は決して刑務所のような場所に閉じ込められているわけではない。
 突き当りがT字になった廊下には患者たちの行列ができていた。いつものことなので僕らはもう驚かない。まだ一一時を過ぎたばかりだが、食堂が開放されるのを待っているのだ。食事の一部メニューが選択制になってからというもの、患者たちは一時間も前から食堂に並ぶようになったと聞く。
 患者たちを見守る職員に何故そんなに早く並ぶのかと尋ねたことがある。
 すると、
「みなさん、お食事をとても楽しみにしていますからね」
 とのことだ。
 つまるところ、食事をすることくらいしか楽しみがないということだった。
 患者たちは主に六○代のお年寄り。彼らが寝間着姿に近い格好でだらしなく廊下に座り込み、甲高い声で猥談を交わす光景は、滑稽と言うより憐憫の情を誘う。
 ここはまるで空気が静かに腐敗してゆくようで。
 待合室でしばらく待っていると、職員に連れられて、派手なワンピースを身にまとった母が入ってくる。ワンピースには汚れが目立つ。随分洗っていないようだ。微かに尿の臭いが鼻を突く。
 母はぷっくりと肥えている。
 母が結婚したばかりの頃の写真を見たことがある。若く美しい母はもうどこかに行ってしまった。今の母はだらしなく肥えて身だしなみにも気を遣わなくなった女性だった。
「あんたたち、誰?」
 毎月のように見舞いに来ているというのに母は僕らの顔を覚えてくれない。
 僕らの母は心を病んで長く入院している。おそらく退院することはない。それは、僕らが自分の子供だと認識していないことから考えても明らかだ。
 母は僕を産んだ直後、姿を消した。その半年後、半裸の状態で国道を放心状態で歩いていたところを保護された。なにが母の身に起こったのか一目瞭然だっただろう。しかも母は妊娠していた。それが雨音だ。
 僕の父である誠二郎は雨音を自分の子供として引き取った。一体どのような感情が父の中で渦巻いていたのか僕には分からない。おそらく分かる者などいないだろう。しかし、父と雨音の間にはいつも冷ややかな空気が漂っている。父はそんな関係をなんとかしたいと思っているらしいが、雨音はその気持ちに応えようとしない。
 雨音が心を許すのは不本意ながら僕だけということになる。そんな状況を何とかしたいと思いながらも、どうしたらいいのか僕には分からない。ただ、心を許すと言っても雨音の場合、可愛げがあるとはとても言えないけど。
 今も僕のシャツを握り締めたままなにも言おうとしない。
「母さん。僕は直登(なおと)。母さんの息子だよ。こっちは母さんの娘の雨音。雨音、挨拶して」
「お母さん、久しぶり……元気、だった……?」
 雨音の言葉はぎこちない。
「元気なもんか。またパンツがなくなった。盗まれたんだ」
 母は忌々しそうに吐き捨てた。ちなみに母はまだ席についていない。身の置き所を忘れたように腕を振り回しながら面会室の中を行ったり来たりしている。
 この施設では患者の持ち物がよく盗まれる。日用品でさえ盗まれてしまうのだと言う。患者たちが一カ月に与えられる金銭は約一万五千円。その大半は衣服や煙草、お菓子、ジュースといった類に使われるらしい。
 煙草と言えば、施設の喫煙率は五割程度だとか。母は入院してから煙草を吸うようになったと言う。そのせいか母の皮膚にはシミやそばかすが目立つ。
 僕はバッグから差し入れを取り出した。母に着てもらおうと思って買った下着や靴下だ。
「母さん、良かったらこれ使って」
 母は万引きするような素早さで紙袋をつかみ取る。
 今まで何度も差し入れを持ってきたけど、一度も感謝の言葉をもらったことがない。今の母は礼を言うことを忘れてしまったかのよう。
 そんな母を雨音は痛々しそうに見つめていた。涙をこらえるように下唇を噛んでいる。
 僕は机の下で雨音の手を握ってやる。すると雨音は、僕に手を強く握り返すのだった。
 母が目敏く気付く。
「あんたたち、できてんのか?」
 男のような口調。
 しかも、その内容は実の子供たちに掛けるべき言葉ではなかった。
「母さん。変なこと言わないでよ。僕はただ、雨音を励ましてやってるだけだよ」
「あんた、可愛い顔してんのに頭おかしいのか?」
 と母は雨音に言葉をぶつける。
「医者に診てもらった方がいいぞ。でないとあいつらみたいになるぞ」
 あいつら、とはこの施設の患者たちのことだろう。母は他の患者たちをどこか蔑む節があった。おそらく母は自分が心を病んでいるという自覚がない。それはとても悲しいことのように思えた。
 三○分の見舞いはあっという間に過ぎ去った。
 僕たちは最後に、
「母さん、体に気を付けてね。また来月になったら来るよ」
「お母さん。あんまりお菓子、食べないでね」
 と母に言葉を掛ける。
 返事はなかった。
 僕たちは職員に「母をよろしくお願いします」と頼んで、施設を後にした。



 見舞いを終えてバス停で待つ間、僕と雨音の間に会話はなかった。雨音は表情を隠すように日傘を深く差している。僕はなんともなしに日傘越しに雨音を眺める。白の日傘は熱が籠りにくく見た目も軽やかで、華やかさを強調するようにレースで縁取りされている。
 その向こうで雨音が一体どんな表情をしているのかうかがい知れない。こういう時、雨音は僕にさえ顔を見せるのを嫌うのだった。
 午後になって日差しは一層鋭さを増す。熱せられたアスファルトが焦げた臭いを漂わせる。
 そんな中、若い母親と幼い少女が反対側の道を並んで歩いていた。少女ははしゃぎながら母親にじゃれついている。母親は困った様子で少女が道からはみ出ないように注意しているらしかった。
 気付けば、雨音の傘は微かに震えていた。
 あの母子にあって、雨音と僕らの母にないもの。その差は、深い穴のように開いている。その穴にいくら涙を零したところで埋まることなどはなくて。
 僕は雨音の手を握ってやった。雨音のひんやりした手は春雪のように儚く僕の中で溶けて行った。雨音を慰めてやれるのは今も昔も僕しかいない。そのことを痛いほど実感した。こいつを守ってやらなければいけない。
「兄さん」
 と雨音がためらいがちに口を開いた。
「遠くに進学したいって本当?」
「聞いたのか?」
 この前、進路希望調査が学校であった。僕らはまだ高校一年生。卒業までまだ時間はあるが、学校側はせっつくように進路を決めることを求めてくる。そんな動きに対して僕は都会にある大学へ進学するという希望を出していた。その話をどこからか雨音が聞いたのかもしれない。いつか雨音に自分から話そうと思っていたのだけど、後手に回ってしまった。
「私も同じ希望を出すから、もしお互い受かったら、一緒に住もうよ」
 相変わらず日傘は深く差されたまま。
 それでも不安そうに地に落ちる声から雨音の心情は伝わってきた。そうだ、僕はこいつを一人ぼっちにすることはできない。こいつにとって頼りになる肉親は僕しかいないのだから。
「いいよ。一緒に住もう」
「本当? 一緒にいていい?」
「ああ。おまえはなにも不安になることなんてないんだぞ」
「……」
 うなずくように日傘が傾く。
 僕たちはバスが来るまでずっと手を握り合っていた。



 食事を終えた僕らはいつものように駅ビルで時間をつぶすことにした。まず雨音の先導で五階にある本屋に向かう。どうやら雨音には欲しい本があるようだ。いつもネット通販で欲しい物を買い求める雨音だったが、時々店に出向くことがある。その度に僕は荷物運びとして酷使されるのだった。
 大体、今だってバッグを持っているのは僕で、雨音と言えば小さなハンドバッグを提げているだけ。最初から大きな荷物を持つ気がないのは見ただけで分かる。まあ、兄妹の関係なんてこんなものかもしれないけど。妹に可愛げがあるのは幼い時に限定された話なのは多くのお兄さんに納得してもらえるはず。
「あった」
 と声を上げた雨音は平積みされている新刊の文庫本を一冊手に取った。愛しげに表紙を指先で撫でる。
 新刊のタイトルは『我が身の剣と愛しき魔法』。剣と魔法のファンタジーだろうか。愛という単語が含まれていることから考えて恋愛要素もあるのかもしれない。いずれにせよ、僕は聞いたことがなかった。
「その本が欲しかったのか?」
「そう」
 雨音は人混みを抜けて会計を済ませる。雨音は他にもファッション雑誌も購入していた。
 それから僕らは三階にある喫茶店で帰りの電車を待つことにした。午後二時過ぎという中途半端な時間のせいか、客は疎らにしかいなかった。この店は僕らの行き付けだった。柔らかな色調の内装と落ち着いた照明のおかげで居心地は悪くない。僕はアメリカン、雨音はコーヒーフロートを頼む。
 テーブルを挟んで対面に座った雨音はファッション雑誌を眺めながらストローでコーヒーフロートを飲む。時折、上に乗ったアイスを長いスプーンで口の運ぶ仕草が実に優雅だ。そんな雨音に目をやりながら僕もコーヒーをすする。
 ふと女子高生らしい女の子たちのささやきが耳に入った。
「ね、あの子。モデルかな?」
「綺麗だよね。アルビノって言うんだっけ?」
「一緒の男の子も可愛いよね。付き合っているのかな?」
「でも格好がちょっとね」
 多分、僕らのことを言っているのだろう。雨音が周囲の注意を引いてしまうのは今に始まった話ではない。ただ今回は一緒にいる僕のことまで話に上っていた。
 雨音に比べれば数段落ちると思うが、人に言わせれば僕もそれなりの外見らしい。もっとも、僕は雨音と違い、身の回りに頓着しない。今日も、半袖の白いシャツに、カーキ色のカーゴパンツというラフなスタイルだ。雨音と一緒に歩くのだからもう少し気を遣ってもいいかもしれないが、母の見舞いに行くというのに変に着飾る気にはなれなかった。母にはいつもの自分を見て欲しい。
 ふと僕は雨音が不機嫌そうな顔で、僕たちのことをささやき合っている女子高生のグループを睨みつけていることに気付いた。
「雨音? どうしたんだ?」
「兄さんはなんとも思わないの?」
 雨音はさらに不機嫌そうな顔になった。
 僕にはそんな雨音が不思議に思える。
「なんのことだ?」
「あの人たち、兄さんのこと悪く言ってる。私はその格好、兄さんらしくていいと思う」
 という答えが返ってきた。
 僕はつい苦笑する。
「ありがとう。でも睨み付けるのはなしだよ、雨音」
 そんな会話を交わしている時だった。
 こつこつ、という靴音が近付いてきた。
 見れば、黒のパンツスーツという格好の若い女性がこちらに歩み寄ってきていた。年齢は二○代半ばと言ったところ。胸元までまっすぐに伸ばした黒髪にはカラスの濡れ羽色とでも言うべき風情があった。彫りが深いわけではないが、端正な顔立ちをしている。闇夜を映したような黒い衣装と相まって、この女性はひどく人形的な存在として心に映す。そんな中、銀朱のネクタイがやけに艶っぽかった。
 女性は僕たちが座るテーブルで足を止めた。
「こんにちは」と女性が声をかけてくる。
「こんにちは」
 僕は戸惑いながら挨拶を返す。一体、誰だろうか。僕は心当たりがないし、ファッション雑誌から顔を上げた雨音もどうやら初見らしかった。
「座っていい?」
 と女性は僕たちの答えを待たず、長い黒髪をふわりとなびかせて僕の隣に座った。チョコレートの匂いが舞う。
「――森宮雨音さん。お母さんの具合はどうだった?」
 空気が凍り付く。
 どうしてこの女性が母のことを知っているのか。僕らの間を漂う空気の温度が一気に下がるのを感じた。
 雨音は険のある声で尋ねる。
「誰……?」
 くすくす、と可笑しそうに女性は笑う。
 この女性は美しい。
 しかし不思議なことに親近感は全く感じられない。太陽から隠れて闇を養分に咲く花があるとすれば、この女性のように暗く美しいに違いない。
 女性は悪びれもせずに答える。
「ごめんなさい。まだ自己紹介がまだだったわね。私は相羽岬(あいばみさき)。郷土史の研究をしているの。最近は木佐木町の歴史を調べていてね」
 僕らの住む木佐木町に若い女性の興味を引くようなものがあるのか。僕には甚だ疑問だった。相羽岬と名乗った女性は余りにも怪しい。大体、郷土史の研究というのは引退したお年寄りがやるものじゃないのか?
 ここで女性店員が相羽岬に注文を聞きに来た。
 しかし相羽岬は、
「すぐに失礼するからかまわないでいいわ」
 と水だけ受け取って女性店員を追い返してしまった。
 女性店員は青ざめた顔で引き下がる。
 僕は唖然とした。あまりにも傍若無人。先ほどの僕らとの会話のやり取りにしてもそうだ。人の心を慮るという要素があまりにも欠けている。
 相羽岬と顔を突き合わせることになった雨音はいつにも増して仏頂面だ。半分ほど残っているコーヒーフロートに口を付けることもなく、押し黙ったまま相羽岬の様子を手負いの猫のような感じでうかがっている。
 相羽岬が身を乗り出した。
 獲物を見つけた獣のように濡れた瞳が輝く。
「木佐木町の木佐木とは鬼咲の当て字だと言われている。昔から鬼の隠れ里として近隣の住人に恐れられていたの。その木佐木町には言い伝えが遺されている。鬼が白子の娘を産ませた時が里の終わりだとね」
 突拍子もないことを話し出す。
 鬼だって? そんなの空想上の生き物だろう?
「でも、こういう言い伝えもある。白子の娘が鬼の子を産めば、その子が里を救ってくれると。どう? 面白いでしょう? 白子の娘である雨音さん?」
 雨音の顔は一層白くなった。
 怒りの余り声も出ないのかもしれない。
 その代わりに僕が言ってやる。
「ふざけないでください。貴方は正気ですか?」
「もし私が正気を失っていたとしても、それを私に確認しても意味がないでしょう? だって正気を失っているんだから」
 なんて答えだ。
 人をからかって面白がっている。
「仮に『私は正気よ』と答えたら貴方は信じるの?」
 僕は煙に巻かれたような気分だった。相羽岬が本気なのか冗談なのかさえ分からない。
 雨音も声を失っている。
 そんな僕らを尻目に相羽岬は鮮やかな手つきで煙草を取り出してジッポで火を点けた。ふぅーっ、と長い溜め息のように紫煙を吐き出す。チョコレートの匂いがすぐに店内に充満する。
「ここは禁煙ですよ」
 としか僕には言えなかった。
 しかし相羽岬は平然としていた。
「だから?」
 禁煙の喫茶店で人目を気にせず煙草が吸えるとはどういう神経をしているのだろうか。やはり頭のネジが何本か抜けてしまっているのではないか。
 嫌煙家である雨音はもちろん、周囲の客も眉をひそめている。
 見兼ねたように先ほどの女性店員がやってくる。
「お客様、困ります」
「お邪魔したわね」
 と相羽岬はまだだいぶ残っていた煙草をコップに投げ入れて席を立つ。あー、この人のせいで僕の中での喫煙者のイメージがかなり悪くなった。雨音みたいに嫌煙家になりそう。
 そんな僕の視線を受け流しつつ、
「私はしばらく木佐木町で調べ物をするわ。また会うこともあるかもね。その時はよろしくね」
 と相羽岬は含み笑いを浮かべる。
 第一印象は最悪なんだけど。こんな人と再会なんてしたくない。
 相羽岬が去ると、店内には混沌としたざわめきが満ちた。皆、相羽岬のことを話しているのだろう。
 僕も、
「一体なんだったんだ、あの人は」
 と口にしてしまっていた。普段、人の陰口は言わないようにしているが、今はなにか言わずにはいられなかった。
 沈黙している雨音に言葉を掛ける。
「おまえも気にするなよ」
「……」
 雨音はやはり無言でコーヒーフロートを飲む。優雅に飲む姿は普段と同じ。しかし、かたかたとグラスが音を立てていた。
 やっぱり動揺しているんだ。
 雨音はまだ一五歳。あんなことを言われて心が揺らいだとしても仕方がないと言える。兄貴として僕が雨音を守ってやらないと。
 僕は雨音の手に自分の手を重ねた。
「大丈夫。怖くないよ。僕がおまえを守ってやるから」
「……兄さん」
 赤い瞳に吸い込まれそうになる。
 指が自然に絡み合う。
「なに?」
「クサ過ぎ。兄さんにはそういう台詞は似合わない」
 がくっ、ときた。
 そう返すか。まあ、いつもの調子に戻ったと思うことにしよう。



 帰りの電車では雨音はずっと無言で文庫本を読んでいた。本屋で買ってきた『我が身の剣と愛しき魔法』という本だ。雨音は真剣な表情で本に目を落としている。こんなに一生懸命な雨音を見るのは久しぶりかもしれない。
 なあ、と僕は雨音の様子が気になって声をかけた。
「面白いのか?」
「話しかけないで。集中できないから」
 という返事が返ってきた。
 むむ。言い方がまずかったのかな?
 仕方なく僕は押し黙り、時折ペットボトルのお茶をすすりながら車窓から見える景色に目をやって時間を過ごした。日曜日だというのに帰りの電車も学生で混み合い、賑やかな談笑が耳に心地良い。
 やがて雨音が本を読み終わる頃に電車は木佐木町の今泉駅に着いた。雨音を促してホームに立つ。
 僕たち以外に誰もいないホームは解放的だ。空がいつもより青いように感じられる。
 んー、と僕は思い切り伸びをした。
「恥ずかしいからやめて」
 と雨音に注意されてしまった。
 でもなあ、と僕は言葉を返す。
「僕たち以外、誰もいないじゃないか。おまえもやってみろって。気持ちいいから」
「絶対やらない」
 雨音はそっぽを向いて歩き出してしまった。慌てて僕も歩き出す。
 木佐木町にある今泉駅の駅前は、昔は栄えていたと聞くが、今では商店街も全て閉店してしまった。それでも駅前では旅館が二軒、今も頑張っている。
 駅からは徒歩だ。歩いて一五分もする頃には深い森が見えてくる。木佐木町の始まりからあるという原生林で、鎮守の森として町の人々が親しむ。砂利を敷いただけの細い参道を進んでいくと、涼しげなヒグラシの鳴き声が樹上から聞こえてくる。木漏れ日が目に優しい。子供の頃はよく雨音と遊んだものだ。
 少し歩いてから参道を外れる。
 すると木々の陰から僕らのうちが見えてくる。僕らのうち――森宮家は、木造の二階建ての日本家屋だ。ちなみにクーラーはなし。夏の涼は扇風機と風鈴が頼りというのが僕たちの生まれる前からの家風らしい。
 僕らの家は代々、神社の神職を務めている。雨音も巫女として重要な役割を果たす。でも僕は神社を継ぐ気はなくて、高校を卒業したら都会に出るつもりでいる。幸い、父は僕の進路希望に理解を示してくれている。僕と同じ気持ちだと言っていた雨音に対してはどんな態度を取るのだろう。
 雨音の場合、まだ自主性が育っていなくて、単に僕と離れたくないだけだと思う。でも高校生活はまだ始まったばかり。そのうち雨音にも進みたい道が見えてくるだろう。そうなれば僕の兄貴としての役割はほとんど終わったも同然だ。安心して肩の荷を下ろすことができる。そうなったらそうなったで少し寂しい気持ちがあるかもしれないけど。
「ただいま」
 と不釣り合いな広さを持つ玄関に入る。森宮家には来客が多い上に一斉にやってくるので玄関は広めに作っているのだ。父の誠二郎の靴が一足、下駄箱にないところを見ると、おそらく社殿でお勤めをしているのだろう。
 雨音は無言のまま家に上がる。靴を脱ぎ散らかす。
「こら、雨音。靴はちゃんと下駄箱に入れるんだ。何度も言ってるだろ」
「めんどくさい。兄さんが片づけて」
 と言って雨音は二階にある自室に行ってしまった。きしきし、と木の階段が雨音の歩みに合わせて音を鳴らす。仕方なく僕は自分と雨音の靴を下駄箱に仕舞う。
 腕時計を見ると四時半近い。
「さてと」
 僕はエプロンを着けて夕食の支度を始めた。今夜はバイト先に七時に行けばいいから少し時間に余裕がある。
 今日はいつもより気合を入れよう。
 やがてでき上がったのは、レバニラ炒め、オクラのお浸しだった。あとは冷蔵庫に残っているキムチと飲み物を出せば夕食としては完璧だろう。
 僕はラップをかける前にスマートフォンで今日の自信作を撮って、SNSに投稿した。それから冷蔵庫に入れる。入れ終えたところでスマートフォンが鳴った。今さっきSNSに投稿した写真にコメントがついたという通知だった。
 アールさんかな?
 アールさんは僕の写真や日記にまめにコメントをくれる人だ。言葉遣いから女性かなとは思うけど、それ以上のことは分からない。
 スマートフォンを見ると、
『美味しそう』
 というコメントがあった。やはりアールさんからだった。
 僕は返信する。
『これからバイトです。行ってきます』
 それから僕は二階の雨音の部屋を訪ねた。
 襖越しに声をかける。
「雨音、入るぞ」
 ドアを開けると雨音はノートパソコンに向かっていた。雨音は珍しいことにマックユーザーだ。雨音によれば、使い慣れてしまえばマックの方が使い勝手が良いとのこと。僕もパソコンを購入する時は参考にしようと思っている。もっとも、雨音のことだから値段のことなんか気にせず、やたらハイスペックのものを薦めてきそうだけど。
 雨音の部屋に入ると甘い匂いが漂ってくる。どうして男と女という違いだけで部屋の匂いまで違ってくるんだろう。
 部屋の中は雨音にしては整理整頓されている。女の子らしい小物などがあちこちを飾っていて、可愛らしい印象だ。ちなみに畳の部屋だというのに雨音はベッドを使用している。そのベッドに、丈の短い白のキャミソールドレスという部屋着の雨音が寝っ転がってノートパソコンに向かっているのだった。
「なに?」
 顔も向けずに雨音は言葉を発する。声は可愛いんだけどな。
「夕食の準備ができたよ。冷蔵庫に入ってる。食べたくなったら温めて食べて」
「ん」
 と雨音は吐息だけで返事をする。
 そんなにパソコンって面白いんだろうか。
「なあ、なにをやってるんだ?」
「SNS」
「そうなんだ。おまえもSNSをやってるんだ。僕もやってるんだよ。あとでフレンド登録しようよ」
「兄さんとはしない」
 全く可愛げがない。
 気を取り直して僕は出かけることにした。家の裏手に止めてあるスクーターに向かう。黄色のベスパ。高校入学の祝いに買ってもらった物だ。木佐木町ではバイトに行くにしても移動手段が必要不可欠。でもベスパの代金はバイト代を貯めて返そうと思っている。
 ベスパのエンジンが軽快な音を鳴らす。
 僕は夕日によって朱に染まった町を疾走した。涼しい風を全身で浴びる。この時刻、道路は仕事帰りの車で混み合う。それでも一○分ほどで木佐木町の中心部である南木佐木に着いた。
 南木佐木には知る人ぞ知る『明星苑』という中華料理店がある。それほど大きくない家族経営の店なのだが、今年に入ってから人手が足りなくなったとかで、新たに僕をバイトとして雇うことになった。
 裏にある家族用の駐車場にベスパを止め、勝手口からキッチンに入る。
「入りましたー」
 時間は七時前。飲食店としては戦場のように混み合う時間帯だ。
 キッチンでは主人と夫人に加え、その娘であるシズ姉が目まぐるしく働いていた。
 シズ姉は僕と目が合うと、
「ナオちゃん、こんばんは」
 と挨拶を送ってきた。僕の名前は森宮直登(もりみやなおと)。それで昔からナオちゃんと呼ばれている。僕も一之瀬静稀(いちのせしずき)のことをシズ姉と呼んで親しむ。明星苑を営む一之瀬家のお父さんはうちの神社の氏子ということもあって、僕らは幼い頃から実の姉弟のように仲が良かった。
 シズ姉は今年一八歳で、僕や雨音が通う地元の高校の三年生。長く伸ばした黒髪を一つ結びにして胸元に垂らしているのが特徴的だ。その胸元はエプロンを押し上げるようなボリュームがあって、時々目のやり場に困る。駄目だ、シズ姉をそんな目で見ちゃいけない。
 僕にとっては実のお姉さんに等しい存在だ。今でこそ僕は一通り料理ができるようになったけど、昔はシズ姉に教わったのだ。女手のいない僕ら森宮家のために、手伝いに来てくれたこともしばしばある。
「ナオちゃん、今日もよろしくね。あとで山形の話、聞かせて」
 軽く微笑んでシズ姉は注文を取りに行った。店の方から、雑談を交わす客たちの声や、バラエティを流すテレビの音が実に賑やかに聞こえてくる。今日も盛況だ。
 僕は着替えてから任務である皿洗いに取り組む。しかし途中でいるべき人間がいないことに気付く。
「店長、則之(のりゆき)はどうしたんですか?」
「あの野郎、遅れるってよ。首にして欲しくなかったら五分で来いっつったんだけどな」
「またですか」
 バイト仲間であり、同じ高校に通う林田則之(はやしだのりゆき)は時々とんでもないことを仕出かす。遅刻もその一つ。その度に店長は拳骨を食らわせているのだが、店長も決して嫌っていないことは容易に察することができる。どうにも憎めない男なのだ。
 仕方なく僕は則之の分まで皿洗いに励んだ。
 三○分ほど経っただろうか。すごい勢いで勝手口のドアが開いた。
「入ります! すみませんでした!」
 則之は僕らにリアクションする暇を与えずにキッチンで土下座した。
 美しい土下座というものを見たことがあるだろうか。地面に額を付け、綺麗に指を揃える。僕と同じ一六歳にして、則之は美しい土下座を体得していた。それで店長の怒りが収まるわけではなかったが。
「馬鹿野郎! てめえ、なんで遅れた!」
「実は……」
 顔を上げた則之の表情がだらしなく緩む。
 こいつ、黙っていればイケメンなんだけどね。
「すっげえ美人に声を掛けられたんですよ! こんな奇跡、二度と起こらないと思って彼女と話し込んじゃって。気付いたら時間が過ぎてて。それでこんな時間に……。でもアドレス交換しちゃった。へへ……」
 拳骨が振り下ろされた。
 いってえ、と則之が喚く。
「言い訳なら、もっと上手い話を考えろ!」
「ほんとなんですって! ほら、直登! ケータイ見てみろって!」
 と則之は土下座のままジャンプする。
「僕に振るなよ」
 そう言いながらも僕は則之の携帯電話を見た。
『相羽岬』
 と表示されていた。
「なあ、則之。その人、長い黒髪じゃなかった?」
「そうだけど」
「所構わず煙草を吸ってなかった?」
「吸ってたよ。チョコレートの匂いのする奴」
「やっぱりか……」
 嫌な名前を見たと思った。あの人、本当にこの町にいるんだ。
 則之が興味津々といった表情で僕に尋ねてくる。
「なあ、直登。おまえの知り合い?」
「知り合いって思われたくないっていうか」
「じゃあ知り合いじゃん」
「そうなるのかな」
 そこで店長が怒鳴った。
「おまえら! 駄弁ってねえで仕事しろ!」
 はいっ、と僕らは威勢よく返事を返して皿洗いを始めた。何百枚という皿を白くピカピカにするという作業は妙に充実感がある。もしかすると僕は家事に向いているのかもしれない。最近では家のことを任されて嬉しいし、少しも苦ではない。主婦ではなく主夫という言葉もあるらしい。そういう男が増えているのかな。



 深夜になって閉店作業をしようと思ったら、店長は則之に遅刻した罰として一人でするように言い渡した。
「そんなぁ」
 と嘆きながら則之はてきぱきと閉店作業をする。
 手の空いた僕は、そんな則之を尻目に店先に出て背伸びする。頬を優しく撫でる夜風が心地良い。
「んー」
 思わず声が漏れる。
 見上げれば、満天に星が輝いていた。聞けば都会では街が明るすぎて星が見えにくいと言う。そう言う点では田舎にもいいところはあるのかもしれない。
 星を眺めながら今日の出来事を振り返る。
 妹と一緒に母を見舞いに行き、いつものように打ちのめされたこと。相羽岬という謎めいた女性が現れたこと。そして日々の務めを今ようやく終えたこと。
 からん、とドアが開く音がした。
 振り返るとシズ姉が瓶入りのコーラを二本持ってこちらに歩み寄ってきた。
「ナオちゃん、お疲れ様。飲む? 冷えてるよ」
「シズ姉もお疲れ様。ありがとう」
 シズ姉が栓を抜いてコーラを渡してくれる。
 一口飲む。
 しゅわしゅわした炭酸が喉を刺激する。仕事を終えたあとの炭酸は効く。
「ぷはー」
 という声が出てしまった。
 くすくす、とシズ姉は笑った。
「ナオちゃん、おじさんがビール飲んでるみたい」
「美味しくてつい」
 と苦笑してしまう。
 シズ姉は僕の傍らに立ち声を落とす。
「おばさんの様子、どうだった……?」
「ん……いつも通り」
 いつも通りとは絶望的ということ。
 シズ姉の声は益々沈み、黒々としたアスファルトに落ちた。
「そっか……」
 良くなるといいね、なんて気休めはシズ姉は言わない。言って欲しくない。
 シズ姉が言ったのは別のことだった。
「ナオちゃん、辛くない?」
「え?」
「だって、お話もできないような状態なんでしょ? 会えば辛い思いをするんじゃない?」
「でも……僕らの母親だから」
 雨音にとっては唯一血の繋がった親だ。雨音を一人で見舞いに行かせるなんてことはできない。妹を見捨てれば、母を見捨てた父と同じになってしまう。確かに雨音は可愛くない妹ではある。でも僕の大切な家族なのだ。守ってやらなければいけない。
 シズ姉も片手で持ったコーラを傾ける。
「ぷはっ」
 シズ姉も僕と似たような声を出した。
 可笑しさの余り僕は噴き出す。
 きっとシズ姉はわざとそんなことをしたのだろう。シズ姉の気遣いが嬉しかった。
「あー。ナオちゃん、笑ったなー」
「だって」
 星空の下、僕たちは笑い合う。



 帰宅すると、午後一一時を回っていた。僕は遅い夕食を取り、温め直したお風呂に入った。
 湯船に浸かると、
「うー」
 という声が出てしまう。僕好みの熱めのお湯に首まで浸かって、ぼんやりと天井を見上げる。自然とシズ姉のことが思い出された。シズ姉はいつも僕のことを心配してくれる。本当のお姉さんだって、シズ姉みたいに優しくはないだろう。
 何故かシズ姉のことを思うと笑みが零れてくる。
 どうしてなんだろう。
 湯上りで火照った体をバスタオルで拭いてからパジャマに着替え、二階に上がる。
 バイクのポスターを壁に張った自室が僕を出迎える。部屋には最低限の物しか置いていない。勉強机と本棚、畳んだ布団。それくらいだ。
 眠気に耐えて布団を敷いていると、襖越しに雨音の声がした。
「兄さん……入っていい?」
 まだ起きていたのか。もう一二時だぞ。
 寝ようとしていたところを邪魔されたわけだが、僕はできるだけ柔らかい声で返事を返す。
「いいよ。こんな時間にどうしたんだ?」
 おずおずと部屋着のままの雨音が入ってくる。雨音は外では長い銀髪をシニヨンにまとめているが、家の中では下ろして過ごす。
 雨音は布団の上にちょこんと座って僕を見上げる。
 妹を自分の布団の上に座らせるなんて、精神衛生上あまりよろしくないよな。
「兄さんとお話ししたくて。駄目……?」
 そう言われると弱い僕がいる。
 一体なんだろう。
 僕は雨音の隣に座った。
「いいよ。なに?」
「今日、買った本のこと。少し兄さんと話したくて」
「あーなんだっけ? 我が身の……」
「我が身の剣と愛しき魔法」
 すらすらと雨音は答える。
 まあ、あれだけ熱心に読んでいたら当然か。
「そう、それ。でも僕は読んでないよ」
「だから私の話、聞いて」
 そういうことか。
 僕は無言になった。もしかすると苦い顔になっていたかもしれない。
「それなら明日でもいいじゃないか」
「今日中に兄さんに話したいの」
 雨音の表情は真剣だった。
 そんなにも雨音にとっては大事な用件なのかもしれない。
 仕方なく僕は折れた。
「分かった。聞くよ」
「ありがとう!」
 と雨音は顔を綻ばせた。こういう表情は可愛いんだよな。普段は素直じゃないけど。
「ジャンルはラブファンタジーなの」
 と雨音は嬉しそうに身を乗り出して話し始める。
 髪に残ったシャンプーの柑橘類の香りが舞う。
 僕は聞きなれない言葉に思わず聞き返す。
「ラブファンタジー?」
「恋愛を主軸にしたファンタジーのこと。それでね、舞台は一九世紀末のドイツをモデルにした異世界なの。倭国という明治時代の日本みたいな国から留学してきた兄妹が主人公なんだ。妹は病気を持って生まれて二○歳まで生きられないって宣告されてて。主人公である兄はなんとか妹を助けようと頑張るの」
「ちょっと待て」
 と僕は雨音の話を手で遮った。
「恋愛要素はどこに入ってるんだ? 家族の話じゃないか」
「兄妹が恋に落ちるって話だけど?」
 どうだ、という得体の知れない自信に満ちた表情で雨音は答える。
 僕は思わず確認した。
「義理の?」
「ううん」と雨音は首を横に振る。「血の繋がった実の兄妹だよ。異母兄妹だけどね」
「……」
 僕は絶句した。
 なんで眠い夜に妹から兄妹が恋に落ちるなんて内容の小説の話を聞かされないといけないんだ。
 雨音は僕の気持ちに気付いていないのか珍しく饒舌に話し続ける。
「それでね、妹は幼い頃から大事にしてくれる兄に恋をしているの。自分でもいけないって思うんだけど、兄に優しくされる度に気持ちが揺らいでしまうんだ。そんな妹の心理描写が読んでいてすごく切ないの。応援したくなる」
「最後はどうなるんだ?」
 この話を早く切り上げたくて僕は結論を急かす。
 僕に促されて妹は終盤の展開を説明する。
 話しているうちに勝手に感情が高ぶってきたのか時折涙ぐむ。
 そんなに感動できるのか?
 しかし話を聞いているうちに眠気が襲ってきてついうとうとしてしまう。
「痛っ!」
 耳を引っ張られた。
 見れば、雨音の奴は怒ったように僕を見ていた。
「真面目に聞いて。兄さんのために説明してるんだから」
「ごめん」
 とりあえず謝っておく。
 雨音は説明を再開する。
「妹はとうとう兄に告白するの。小さい頃からずっと好きだったって。兄は最初は妹を拒むんだけど、だんだん自分の本当の気持ちに気付いて行くんだ」
 話が危険な方向に収束しようとしている。
「それで事件が起きて二人きりの夜を過ごすことになった時、二人はとうとう結ばれるの。それがすごくロマンティックで」
 やっぱりそういう結末なのか。
 僕は妹を追い返さなかった自分の選択を後悔した。
「私、すごく感動した。読んで良かったって思った」
「そう、良かったね」
「それでね、兄さんにも読んで欲しいの」
「はぁ?」
 素っ頓狂な声が出た。
 なんで兄妹が一線を越えるような小説を読まないといけないんだ? なんの罰ゲーム? しかも僕は今ストーリーを全部聞かされたのに?
 かろうじて声が出た。
「なんで?」
「ああいう素敵な兄妹もいるんだって兄さんに知ってもらいたいから。ね、いいでしょ? 絶対、読んで損はしない。むしろ読まないのは人生の損失」
 そこまで言うか。
 むしろ僕にとっては人生の汚点になりそうな小説なんだけど。
「兄さん……もしかして私の話、つまらなかった……?」
 好きな小説を語り尽くして感情の高ぶった雨音に迂闊なことを言えば、どういう反応が返ってくるか分からない。
 僕には一つしか選択肢は残されていなかった。
「分かった。読むよ」
「ありがとう! すぐ持ってくる! なるべく早く読んで!」
 はしゃぎながら雨音は銀髪をなびかせて部屋を出て行こうとする。
 でも僕はそんな雨音を呼び止めた。
「本当にその話がしたかったのか? 他になにか言いたいことがあったんじゃないか?」
「……」
 先ほどまで水を得た魚のように生き生きとしていた表情が沈み込む。
 僕は雨音に座るよう促す。
「雨音。本当に言いたかったことを聞かせてくれよ。それで怒ったりしないからさ」
 雨音は素直に布団の上に膝を着く。
 しかし口を開こうとしない。
 仕方なく僕の方から水を向ける。
「もしかして母さんのことか?」
「うん……お母さん、今日もやっぱりちゃんとお話してくれなかったね」
 いくら僕らが母に言葉を投げても、母は暴投しか返してくれない。心が通じ合うとはとても言えなかった。
「お母さん、もう治らないのかな……?」
 可哀想という気持ちだけで母に優しくできる期間はとうに過ぎた。僕らが今も母を見舞い続けているのは母への執着かもしれない。いつか母と気持ちを通じ合わせることができるのではないか。そんな淡い期待を僕らは手放すことができない。
 僕は力強く言葉を返す。
「母さんみたいな病気の人は年を取ったら落ち着くことがあるって施設の人が言ったことがあるじゃないか。それにいい薬が開発されることだってあるだろうし、今はまだ薬が合ってないだけかもしれない。それまで待とうよ――でもね、雨音」
「なに?」
「おまえが苦しかったら見舞いに行くのを止めてもいいんだよ」
「……大丈夫」
 雨音は元気を取り戻していた。
「だって私たちのお母さんなんだから。いつかお母さんと一緒に暮らせる日が来るまで頑張る」
「そうだな」
 と僕は雨音の頭を撫でる。
 雨音は目を細めて僕の手に身を委ねた。
 時計を見れば午前一時になろうとしていた。

2.傷口に蜜を塗る

 目覚まし時計が鳴らすけたたましい音が僕の眠りを乱暴に破った。僕は布団からもぞもぞ起き出して目覚まし時計を止めたが、あと五分寝たいという誘惑がなかなか抜けなかった。
 うう、あと五分だけ。
 眠いのも仕方がないのかもしれない。昨夜は疲れて帰ってきたのに午前一時まで妹の話に付き合わされたのだから。
 時刻は五時半。
 雨音の奴、まだ寝てるんだろうな。正直ちょっと羨ましい。
 僕は内心そうぼやきながら制服に着替え、一階に降りた。空気が動いておらず、まだ僕以外に誰も起きていないことを示していた。
 戸を開けると、甘く清涼な風が吹き付けてきた。風鈴が軽やかな音を立てる。
 空気の入れ替えをしたところでエプロンを着けて朝食とお弁当の支度に移る。
 やがて朝食ができ上がる頃、父の誠二郎が居間にやってきた。黒縁の眼鏡をかけた温和な雰囲気は町の人々から慕われていると聞く。
「おはよう、父さん」
「おはよう、直登。美味しそうだな。今朝はなんなんだ?」
「今朝はね」
 と僕はお弁当に盛り付けをしながら答える。
 朝食の一品目はサツマイモのヨーグルトサラダ。クリーミーな味わいが楽しめる。
 二品目は玉子焼き。冷ましただし汁を加えているのがポイントだ。
 三品目はホウレンソウのお浸し。やっぱり緑黄色野菜も摂らないとね。
 四品目と言っていいかは分からないけど、梅干しも付けてみた。
 シンプルかもしれないけど、それなりにきちんとした朝食になったと思う。自画自賛かな?
 テーブルに朝食を並べてゆく僕に父が一言。
「直登ばっかりに苦労を掛けるなあ」
「そう思うなら手伝ってよ」
「お父さんはそういうのは苦手なんだ」
 いつものやり取り。
 父は僕を労う発言はするが、一度も手伝ってくれたことがない。今も新聞を読みながら、時折自分が面白いと思った記事を音読している。相槌を打つのも面倒だ。一体どんなリアクションが欲しくて音読しているんだろう、と思ってしまう。
 例えば木佐木町周辺で若い女性が失踪したという事件であるとか。物騒なことにそういう事件が木佐木町ではよく起こる。警察もきっと懸命に捜査していると思うが、いまだに一件も解決していない。
 気を取り直し、食事の前に朝食を写真に撮ってSNSに投稿する。
 さて雨音を起こしに行こう。
 二階に上がって雨音の部屋の前に立つ。
「雨音、朝だぞー」
 返事がない。
「入るぞー」
 からから、と襖を開ける。
 甘い匂いが鼻をくすぐった。
 ベッドの中で雨音はまだ眠っていた。長い銀髪がシーツの上に散らばっている。
「ん……っ……」
 寝息を漏らして僕の前で寝返りを打つ。
 幸せそうな寝顔だ。ちょっとイラッとした。僕は毎朝五時半に起きているというのに妹は惰眠を貪っている。ここは兄としての威厳を示す時――。
「雨音! 起きろ!」
 がばっ、とタオルケットを剥がす。
 しかし僕は仰天する。
 雨音は大きめの白いワイシャツ一枚しか身に着けていなかった。僕のワイシャツだ。ワイシャツからしなやかに伸びる足が眩しい。こんな妹の姿なんて、見たくなかった。
 狼狽する僕の前で雨音は上半身を起こし、両腕を上げて大きく伸びをする。ふるふる、と背中が震えていた。
「んぅ……っ……」
 悩ましい吐息を漏らす。
 雨音は目尻をこすりながら挨拶する。
「兄さん、おはよう」
「お、おはよう……って、そうじゃない。おまえ、その格好はなんなんだ?」
「その格好?」
 と雨音は不思議そうにワイシャツをつまむ。ボタンを二つ外しているせいで胸が見えそうだった。
「ああ、これ? 兄さんのワイシャツだよ。大きいからゆったりしていて寝心地が良かったよ」
 雨音の身長は一五五センチ。僕は一七二センチ。二○センチ近くの身長差がある。確かにゆったりした着心地だっただろう。
 いや、そういう問題じゃなくて。
「勝手に僕のワイシャツを着るなよ」
「いいじゃない。兄さんのケチ」
 ベッドから降りた雨音は僕の前でワイシャツのボタンに手をかける。
「うわっ! 僕の前で着替えるな!」
「ふーん?」
 雨音は手を止めて僕に詰め寄る。やや前屈みになった雨音を僕は正視することができない。
「兄さん、焦り過ぎ」
 ふふっ、と雨音は笑う。
「からかうなよ! ご飯できてるから着替えたら降りて来いよ!」
 僕は足早に雨音の部屋を後にした。
 心臓が高鳴っているのを自覚する。
 一階の居間に戻ると、
「直登? どうしたんだ? 顔が赤いぞ?」
 と父が不思議そうに尋ねてきた。
 なんでもない、としか僕には答えられない。
 やがて制服姿の雨音が降りてきた。白色のブラウスに紺色のスカーフとプリーツスカート。細い足を強調するように黒色のタイツを穿く。長い銀髪はいつものようにシニヨンにまとめている。
 よく似合っている。
 妹だと分かっていても見惚れてしまうことがある。
「二人とも、ご飯にしよう」
 と父が新聞を畳んで呼びかける。
 僕たちは席に着き、いただきますと手を合わせてから朝食にした。
 雨音はまず最初にヨーグルトサラダに箸をつける。その小さな口にサツマイモを運ぶ。
 うちではサラダにマヨネーズは使わない。偏食の傾向にある雨音がひどく嫌うからだ。小学生の頃、先生に無理やりポテトサラダを食べさせられた雨音は教室で吐いてしまったことがある。それ以来、雨音は冷蔵庫の中にマヨネーズがあるだけで露骨に眉をひそめるようになってしまった。もう見るのも嫌なのだろう。
「雨音、ヨーグルトサラダはどうだ? 自信作なんだぞ?」
 雨音は箸を置いて一言。
「まあまあ」
「そういう時は美味しいって言うんだよ。おまえのためにマヨネーズは使ってないんだから」
「マヨネーズなんて産業廃棄物」
 酷い言い様だな。マヨラーを敵に回すぞ。まあ、雨音がマヨラーな人と仲良くマヨネーズかけご飯を食べている姿なんて想像できないけど。
 そんな僕の感想など知らず、雨音は箸を進める。
 父が会話に入ってくる。
「直登、美味いぞ。これなら向こうから婿に欲しいって言われるぞ」
 向こうと婿をかけているのか。
 あまりにも寒い。
 父は自信たっぷりと言った表情で僕らを舐め回すように見る。
「父さん……その冗談、笑えないよ」
「……」
 雨音は仏頂面になって押し黙っている。せっかく会話が弾んでいたのにしぼんでしまった。
 父親が年頃の娘とコミュニケーションを取ろうと頑張り過ぎた結果、オヤジギャグを飛ばして場の空気を壊してしまうというのはよく聞く。残念なことにうちでもそういう光景はしばしば見られる。その度に僕がフォローするわけで。
「父さん、普通に話せばいいんだよ。別に面白いことを言わなくてもいいんだよ」
「雨音」
 と父はまたなにか言おうとする。
「日差しが強くなってきたから父さんが車で学校へ送ってあげようか? 直登のスクーターじゃ日焼けするだろう?」
 ちょっと過保護過ぎるんじゃないか?
 確かに雨音にとって日光は大敵だ。雨音の皮膚にはメラニンが致命的に不足している。
 しかし雨音はこう答えるのだった。
「別にいい。兄さんと一緒に行くから」
「そ、そうか……」
 雨音の答えに父は目に見えて落ち込んだ。
 こんな空回りはいつものこと。父は雨音を甘やかすことでしか愛情表現できない。雨音は別に甘やかして欲しいわけじゃないんだと僕は思っている。悪いことをしたらちゃんと叱ってくれるような本当の愛情を欲しているんだ。気が向いた時だけ優しくするような中途半端な愛情なんて雨音は求めていない。
「ごちそうさま」
 と冷たい声を出して雨音は立ち上がり、玄関に行ってしまった。
「雨音、ちょっと待ってて。洗い物を済ませるから。父さん、洗い物をしないなら早く食べて」
 父を急かせて僕は三人分の食器を洗い始める。
 洗い物を済ませたところで携帯電話が着信音を鳴らす。
 確認すると、今朝SNSに投稿した写真にコメントがついていた。アールさんだった。
『美味しそう。私はヨーグルトサラダが大好き』
 雨音もアールさんみたいに率直に言ってくれればいいんだけど。
 僕はアールさんに返信して玄関に向かう。
「兄さん、遅い」
 雨音はもう靴を履いていた。
 僕も急いで下駄箱から靴を出す。
「ごめん。ちょっとね」
「ふーん」
 雨音は追及してこなかった。いつもならしつこく追及してくるのに。
 まあ、いいか。
 僕はベスパを引っ張ってくる。
「雨音。日焼け止めはちゃんと塗ったか?」
「ん」
 と雨音は吐息だけで返事を返す。
 見上げれば、原色で染め上げたような鮮やかな空が広がっている。空の高みでは風が強いのか、入道雲が千切れてゆく。
 黄色のベスパに二人乗りなった僕らは学校へ向かう。雨音はしっかり僕の腰に腕を巻き付ける。しなやかな両腕にぎゅっと力が籠るのが分かった。雨音は華奢だけど、抱き着かれると確かな柔らかさがあって、妹もちゃんと大人になったんだなあと思う。こんなこと恥ずかしくて、とても本人の前じゃ言えない。
 道路は通勤に向かう車で混み合っているが、そこはベスパの小回りが活きるところ。軽快に進んでゆく。前方から吹き付けてくる風が心地良い。しかしアーチ状になった橋の真ん中は風が強くて寒いほどだった。背中に押し付けられた雨音の体温を強く意識する。
 大きな道路から外れて走ることしばし。
 やがて僕の目に古びた木造校舎が見えてくる。度々改修の話が出ているらしいが、校舎を新しくする予算の目途が立たないのだとか。そんなわけで僕ら生徒はいまだこの校舎に通っている。
 僕は校門のところでベスパを止める。
 雨音はさっさと降りてヘルメットを僕に渡す。手鏡で髪をチェックしている。
「大丈夫だよ、雨音。どこもおかしくないから」
「ならいいけど」
「さ、行こう。ここで話していたら通行の邪魔だから」
 僕はベスパを押して歩く。そんな僕に雨音は無言で付いてくる。
 そんな僕らに好奇の視線が集まる。登校してくる生徒たちはいつも僕らのことを可笑しそうに見るのが常だった。
 僕らだって年頃なんだし、いつまでも登下校が一緒なのはおかしいのかもしれない。現に僕は校内でシスコンと認知されている。異を唱えたいところだけど、仕方がない。性格に難のある雨音には友達がおらず、僕が一緒にいてあげなければ孤立してしまうのだから。



 木の香りが漂う校舎に入り、玄関で雨音と別れた。
 僕と雨音は同学年。僕は四月生まれで、雨音が三月生まれ。しかし違うクラスに分かれている。僕と別のクラスになったことを雨音はひどく憤慨した。学校に行く意味がないとまで言った。もしかすると雨音は僕と一緒に授業を受けることは楽しみにしていたのかもしれない。いや、考え過ぎかな。
 教室ではすでにたくさんのクラスメイトが雑談を交わしていた。朝からテンションが高い。
「直登! おはようっ!」
 則之が抱き着いてきた。
 一番テンションが高いのはこの男だろう。
 僕は則之を引きはがして挨拶を返す。
「おはよう、則之。暑いからくっつくなって」
「お熱いのはおまえだろ! 朝から妹とべったりなんて世のお兄ちゃんたちが憤死しちゃうぜ!」
 世のお兄ちゃんたちなんてなに?
「俺はな、おまえの体に残った姫様の残り香を嗅いでいたんだよ!」
「うわ、気持ち悪い」
 と僕は思わず則之と距離を取った。
 ちなみに姫様とはネット上での雨音のあだ名だ。夏祭りの際、巫女として神楽舞を奉納している雨音はちょっとした有名人だった。夏祭りではわざわざ雨音を見るために木佐木町を訪れる人がいるほど雨音は持てはやされている。雨音の扱いはまるでネットアイドルのようでもあった。僕としては、そんな風に遠巻きに雨音を見るのではなく、ちゃんとした友達になって欲しい。
 雨音本人は姫様というあだ名を快く思っていない。まあ、ツンケンしているところは姫っぽくないこともないと思う。
ちなみに則之は神楽舞を舞う雨音を見て一目惚れしたらしい。その割に他の女性に目移りしているところがないとは言えない。
 則之は熱く語る。
「白檀って言うの? 姫様の香りって最高だよな。ああ、俺も直に姫様の匂いを嗅ぎたい。おまえと代わりてぇ。そんでももって結婚してぇ」
「でも分かってる? 兄妹だったら結婚できないんだぞ」
「しまったぁあ!」
 則之はエビのようにのけ反って天井を仰ぐ。
 則之の奇行はいつものことなのでクラスメイトは誰も気にしない。
「俺の完璧なプランが! そんなところに欠陥があったとは!」
「どこが完璧なプランだよ。穴だらけじゃないか」
 と僕は自分の席に着く。
 則之が僕の机の上に項垂れてきた。ちょっと邪魔。
「でも俺のプランはまだあるぜ。聞きたいか?」
「聞きたくない」
「それは聞きたいと言うことだな! いいだろう、教えてやる!」
 則之は勢いよく立ち上がる。
 明後日の方向を指差す。
「もうすぐ夏休みだ! 夏休みと言えば海! 俺は姫様を海に連れ出して水着を拝むのだ!」
「雨音は海に行かないぞ。日焼けできないからな」
「しまったぁあ!」
 またも則之はエビ反り。
 大袈裟に頭を抱えてみせる。
「じゃあせめて! せめて姫様の寝間着を教えてくれ!」
「せめて、の使い方を間違っているよ」
 脳裏に今朝の雨音の姿が蘇る。
 まさか僕のワイシャツだと言えるはずがない。
「教えない」
「未来の弟の頼みを断るとはなんて奴だ!」
 馬鹿な則之の馬鹿な話に付き合っているうちに予鈴が鳴り、ホームルームになった。
 ぺたぺた、とサンダルを鳴らしてクラス担任の四十万先生がジャージ姿でやってくる。
 四十万(しじま)先生はいつも野暮ったいジャージを着ている若い女の先生だ。担当が体育だからジャージでいいだろー、というのが四十万先生の言い分らしい。いつもやる気がなさそうで、長く伸ばした茶髪の頭をぼりぼり掻いている姿が印象的だ。
「林田」
 と四十万先生は艶のある声で則之を呼んだ。
「おまえ、この前の期末試験で赤点を取ったから夏休みは補習なー」
「俺の夏は終わったぁあ!」
 クラスメイトたちの間で失笑が漏れた。
 しかし則之は立ち直りが早い。
 例のごとく美しい土下座を披露する。
「追試を! 追試を受けさせてください!」
「しかしなあ……」
 と四十万先生は渋る。
 茶色く染めた頭を掻く。
 それでも則之は諦めない。額が床にめり込むほど深く頭を下げる。
「過去最高の点数を出しますから!」
 追試になってようやく本気を出すのは則之らしい。
 渋々と言った感じで四十万先生は折れた。
「他の先生方に聞いてみる。今回だけだぞー」
「ははぁ!」
 ひたすら平伏する則之の姿はまるで時代劇の農民のようだった。



 今日は雨音のクラスと合同で美術の授業があった。雨音に命じられて選択授業では美術を選ぶことになった。
 雨音の奴、素直じゃないけど本当は僕と同じ授業が受けたかったのかな?
 まさかね。
「ねえ、兄さん」
 と隣に座った雨音が問いかける。
 生徒たちの描いた絵や胸像が並ぶ美術室には絵具の匂いが漂っていた。美術の授業は他の授業とはちょっと雰囲気が違う。僕以外の生徒たちもどこか浮ついていた。
 そんな中で、いつもは仏頂面の雨音もどこか上機嫌に見えた。
「今日はなにをするのかな?」
 雨音は雨音なりに美術の授業を楽しみにしているらしい。
 僕は雨音に向き直って応える。
「さあ、なんだろう? 雨音はどんな授業を受けたい?」
「私はね……」
 生徒たちの交わす雑談で賑わう美術室で、雨音の声は僕の中に響いた。
「――兄さんと一緒ならなんでもいい」
 どきっとした。
 雨音の赤い瞳が僕を捕えた。
 僕には自分の気持ちが分からない。どうして妹の言葉なのにどきどきしてしまったんだ。素直じゃないし、小憎らしいことばかり言うし、僕のことを兄として敬ってないし。それなのに僕は妹のことが可愛いと思えてしまう。一体どうして?
 答えの出ない迷宮に迷い込んでしまった僕は雨音に返事を返すことができない。
 そんな時、美術の先生が美術室に入ってきた。まだ二○代と思しき若い女の先生だ。
 ぱんぱん、と手を叩く。
「はい! 注目!」
 騒がしかった美術室が静まる。
「今日は二人一組になって相手の似顔絵を交互に描いてもらいます。相手に遠慮して美男子や美人に書いたら駄目。ありのままに描くこと。と言っても絵には対象への感情が反映されます。写実的に描くには自分の主観を自覚することが大切なの。主観を踏まえてこそ客観的な視点は成り立つということを分かって欲しい――じゃあ分かれて!」
 がたがた、と一斉に生徒たちが椅子から立ち上がる。
 隣の雨音が僕に肩を寄せてきた。甘く爽やかな白檀に香りを強く意識した。
「兄さんは私を描いてくれるんだよね?」
 媚を含んだ声。
 僕はまたしてもどきどきしてしまう。
 戸惑いながら答えた。
「ああ、いいよ」
「じゃあ兄さんから描いて」
 まずは僕から描くことになった。
 僕は画板に画用紙を付けてHBの鉛筆を走らせる。
 卵のような輪郭の顔。生え揃った睫毛。潤んだ瞳。
 妹はいつの間にかとても綺麗になっていた。そのことが僕には嬉しい。
 綺麗になった妹のありのままの姿を描きたい。
 硬いクロッキーを握る手に力が入る。
 いつしか僕の耳には周囲の雑音は耳に入らなくなっていた。
「兄さん、まだー?」
 雨音は甘えた声を出す。
 僕は雨音に動かないように言った。
「まだ一○分も経ってないだろ」
「だって兄さんの目、エロいんだもん」
「エロいってなんだよ」
「変なところ見てるでしょ」
「見てないって!」
 急に大きな声を出した僕に周囲の視線が集まる。
 言いがかりにもほどがある。恥ずかしい思いをしてしまったじゃないか。
 ふふっ、と雨音が勝気そうに笑う。
「兄さん、どきどきしてるでしょ?」
「なんだよ、それ。どきどきなんてしてるわけないだろ」
「ほんと?」
「ほんとだって。ほら、姿勢を戻して」
 と僕はスケッチに集中した。
 僕が集中し出すと雨音も無言になる。
 僕は雨音を見ている。
 雨音も僕を見ている。
 まるで世界に僕と雨音しかいなくなったみたいで。
「はい、そこまで!」
 その時、先生の声が美術室に響いた。
 はっ、と僕は我に返る。
 教室を回る先生が僕の後ろに立って講評した。
「直登君は一番集中していたよね。集中していただけあってすごくいい線が描けてる。直登君は妹さんのことが可愛くて仕方がないのね。その気持ちが絵に表れてると思う」
 僕が描いたのは、柔らかな午後の日差しの中で椅子に座った雨音が穏やかに笑っている姿。
 気になったのか雨音も僕の後ろに回り込む。
 不思議そうに雨音は僕に尋ねる。
「私、こんな顔してた?」
「僕にはこう見えたんだよ」
「ふーん。兄さんにはこう見えたんだ」
「駄目かな」
 僕は少し不安になって雨音に尋ねた。
 ううん、と雨音は首を横に振った。
「そんなことない。兄さんに描いてもらえてすごく嬉しい。だって、兄さんにちゃんと見てもらえたんだから」
 雨音は満足げだった。僕は気恥ずかしい気持ちになる。でも、喜んでくれたのなら良かった。
 次は雨音が描く番になった。
 雨音の赤い瞳が僕に注がれる。
 あまりにも真剣な表情に僕は気後れしてしまう。
 思わず身動ぎした。
「兄さん! 動かないで!」
 途端、雨音の叱声が飛ぶ。
 やがて雨音が描き上げたのは、目に優しげな光を湛える僕の姿だった。
「僕はこんなイケメンじゃないよ」
 くすぐったい気持ちになった。
 雨音は自信たっぷりに語る。
「兄さんはかっこいい。自信を持って」
「そうかな」
「そうだよ」
 先生が雨音の絵を講評する。
「雨音さんの絵はちょっと主観が入り過ぎかな。でも、私はこの絵が好き。とてもいい絵だと思う。お兄さんへの愛情がすごく伝わってくる。貴方たち、いい兄妹なのね。正直、少し羨ましいな」
 第三者にそんなことを言われると恥ずかしい。
 僕は気恥ずかしさの余り先生の言葉を否定する。
「そんなことないですよ。僕たちは普通の兄妹です。こいつ、僕にツンケンしてばっかりだし」
「そう?」
 僕の言葉に先生は否定的だった。
「私が初めて貴方たちを見た時、兄妹だとは思わなかったけど」
「じゃあ、どう見えたんですか?」
「うーん……」
 先生は困ったように笑った。
「それは先生の口からは言えないかな。教育者だしね」
 教育者として言えない言葉とは一体なんだろう。
 僕は先生の真意が測りかねた。
 それなのに雨音は何故か満ち足りた顔をしていた。
 雨音は先生がなにを言おうとしていたのか分かったのだろうか。
 気になって僕は雨音に尋ねた。
「なあ。おまえには先生がなにを言いたかったのか分かったのか?」
「兄さんには秘密」
「気になるよ。教えてくれ」
「駄目」
 と言ったきり雨音は貝のように口を閉ざしてしまった。
 こうなると僕には雨音の口を開かせることができない。
 見れば、先生はそんな僕たちを見て、くすくす笑っていた。



 昼休みになると、僕とお弁当を食べるために雨音が教室にやってくる。
 入り口のところで立ち話をしていた男子たちが無言で雨音に道を譲る。男子は雨音のことを好いているのか嫌っているのか、よく分からない反応を返す。雨音があんまり綺麗だから気圧されているのかもしれないけど。
 例外は、
「姫様! 今日も麗しい!」
 則之という一匹の馬鹿だけで。
 雨音は則之の言葉に反応せず、無言で空いている椅子を持ってきて僕の隣にちょこんと座る。
 僕は雨音にお弁当を渡す。
「はい。今日のお弁当」
「玉子焼きは?」
 と雨音が上目遣いに尋ねてくる。
 ちなみに玉子焼きは僕の得意料理でもある。お弁当に玉子焼きが入っていない日は、「今日は玉子焼きがないの?」と雨音が尋ねてくるほど。美味しいとは言ってくれないけど、雨音なりに楽しみにしているらしい。
 僕は穏やかに答えた。
「入ってるよ。開けてごらん」
 今日のお弁当の中身は、煮豆、キムチ、玉子焼き、ごはんというもの。そんなに手間はかかっていない。朝食の片手間に作ったものだからね。でも、お弁当ってそういうものだと思う。毎朝のように気合を入れていたら身がもたない。適度に手抜きしつつ安い食材でそれなりに美味しい物を作るのがお弁当作りのポイントだ。
「玉子焼き、入ってるんだ」
 雨音は少しだけ笑った。この笑顔を見るために頑張っているのかもしれない。
 則之が言わなくていいことを言う。
「姫様が笑った!」
 指摘されて雨音の笑顔が天の岩戸に引っ込んでしまう。
 雨音は少し天邪鬼だから、笑えと言われると絶対に笑わないようなところがある。
 しかし則之は空気を読まない。
「姫様! 写真撮るからもう一度笑ってください!」
「絶対、笑わない」
 ほらね。
 雨音はぷいっと則之から顔を背ける。
「そこをなんとか!」
 則之は床に移動して土下座して頼み込む。
 そんな則之を雨音は一顧だにしない。
 こうも簡単に土下座されると慣れてしまって効果が薄れるような気がする。
 クラスメイトたちも最初は則之の土下座に驚かされていたが、今では慣れっこになって一々注目しない。今もそれぞれお弁当やパンを食べながら雑談している。
 それでも則之は土下座を続ける。
 僕は仕方なく則之に立つよう促す。
「玉子焼きを一口分けてやるから立てって」
「おお! ありがたい!」
 と則之は素早く立ち上がる。
 ぱくり、と則之は魚みたいに玉子焼きを一口食べる。
 美味いと則之は絶賛してくれた。
「程良い火の通りのおかげで口の中でとろけるような甘さが広がって。だし汁を加えることで上品な甘さが演出されていて。砂糖控え目なのもいいな。直登、今日も絶品だぜ」
 こいつは馬鹿なのに舌は鋭いな。
 しかし、そこまで褒められると妙に落ち着かない気分になる。
 なんて答えようかと思っていると、四十万先生がのそのそ教室に入ってきた。
「直登。食事が終わったら職員室に来てくれ。ちょっと話したいことがある」
 四十万先生は相変わらず、若い女性なのにぞんざいな話し方をする。
 僕は困惑しながら答えた。
「分かりました。なんでしょう?」
「それは職員室で話す」
 と四十万先生は獣臭い体臭を残して四足で教室を出てゆく。
 則之が不思議そうに言う。
「直登。おまえ、なにかしたのか?」
「いや、なにもしてないよ」
「じゃあ、なんだろうな。悪い話じゃないといいけどな」
 則之は心配してくれる。
 馬鹿だけど、則之は悪い奴じゃない。
 お弁当を食べ終えたところで僕は席を立つ。
「兄さん。叱られたら慰めてあげる」
「いやいや、それはないと思うよ」
 苦笑して職員室に向かう。
「失礼します」
 と一言断ってから職員室に入る。
 先生たちはパソコンと睨めっこしていたり、食事を摂っていたり、生徒と話していたりしている。そんな中、四十万先生はリンゴを齧っていた。どうやらそれが四十万先生の昼食らしい。
「四十万先生、お話ってなんですか?」
「あーなんて言うかなー」
 四十万先生は歯切れが悪い。
 ちょっと間ができる。
 やがて四十万先生が話し出した。
「おまえの妹のことなんだけどなー。あたしもそれとなく見守っていたんだが、友達が全くいないっていうのが気になってなー。虐められているわけじゃなさそうだが、それでも孤立しているのは良くないだろー。いつまでも兄貴にべったりというのもおかしいし、おまえがずっと面倒を見るわけにも行かない。そのあたり、おまえはどう思っているんだ?」
 うーん。
 なんと言うべきか。
「そういう話って雨音に直接言うべきじゃないですか?」
「担任から話したそうだが、暖簾に腕押しという印象だったそうだ。それで兄貴のおまえの言葉なら耳を貸すんじゃないかと思ったわけなんだ」
「僕だって雨音にはもっと積極性や自主性を持って欲しいって思います。これまでもずっと話して聞かせました。でも、あいつは全然言うことを聞いてくれなくて……」
 僕には歯痒い思いがある。
 雨音のためならなんでもしてやりたい。でも、そんな僕の気持ちがかえって雨音から自主性を奪っているのだとしたら、僕は一体どう接してゆけばいいのだろう。
 四十万先生の手が僕の肩に優しく置かれる。
「おまえの気持ちは分かった。あたしも同じ気持ちだ」
「先生……」
「あたしも今すぐ変わるのは無理だって分かってる。少しずつでも変わってもらえるよう、みんなで関わっていこう」
 ありがたい言葉だと思った。
 普段ずぼらな態度で生徒に接している四十万先生がこんなことを考えているとは知らなかった。
「それを言っておきたかったんだ。そのために学校はあるし、先生はいるんだ。おまえはなにも一人で抱え込む必要はないんだぞ」
 初めて四十万先生が頼もしいと思えた。
 ありがとうございます、と僕は深く頭を下げた。
 今まで雨音には誰も味方はいないと思っていた。でも、ここに一人、雨音のことを案じてくれている人がいる。他にも僕が知らないだけで心配している人がいるかもしれない。雨音にそのことを実感して欲しい。僕以外にも心を許せる相手がいるんだと分かってくれたら、いつか僕と離れる時でも笑っていられるだろう。
 だって僕たちは兄妹。
 いくら仲が良くっても、ずっと一緒にいられるわけじゃない。



 日の沈みゆく空色が鮮やかな印象を心に与える。
 僕は教室で一人、雨音を待っていた。雨音は委員会で遅くなるらしい。部活動に興味を示さなかった雨音は、委員会を押し付けられることになった。
 それで雨音が選んだのは図書委員だ。雨音が図書委員をしている姿を見たことがあるが、本の貸し借りなどをそれなりに真面目にこなしていた。でも僕が近くにいると、だらけてしまうこともあった。
 そういうわけだから僕はこうして教室にいるわけだ。
 僕は雨音が貸した『我が身の剣と愛しき魔法』という本を読むことにした。正直、気は進まない。だって兄妹が一線を越えてしまう内容らしいし。でも雨音のお気に入りの小説を読めば、雨音のことが少しは理解できるかもしれない。そう思って筆の海を進む。
 倭国という明治時代の日本みたいな国から、帝国というドイツっぽい国に留学した異母兄妹の物語だった。妹は度々発作を起こすことからしてなんらかの病気を患っているらしい。そんな妹を主人公である兄がとても大事にしているのが印象的だった。
 異母兄妹というと冷ややかな関係を連想してしまったが、この作品の兄妹は年頃の二人にしてはあまりにも距離が近かった。「兄様(あにさま)」と呼んで兄を慕う妹の心理は間接的にしか描かれていなかったが、それでも兄への好意は痛いほど感じられた。
 明らかに兄以上の存在として見ているのが分かる。
 そんな妹の好意に兄は最初のうちは気付いていない。しかし話が進むにつれて兄は妹の好きという感情が兄としてではなく男として好きなのだと気付いてゆく。
 そして創立者祭という学校のお祭りの夜に、兄妹はキスを交わしてしまう。
 そこまで読んだところで、
「ナーオちゃんっ」
 と後ろから誰かに抱き着かれた。
 背中に大きくて柔らかい胸が当たる。長い髪が首筋をくすぐった。
 オレンジにも似た甘い芳香が舞う。
「うわぁっ」
 と僕はびっくりして本を閉じた。
 妹がいる身で兄妹が恋に落ちるような小説を読んでいるなんて知られたらなんて思われるか分からない。
 僕は慌てて立ち上がり、抱き着いてきた人物から逃れる。本を背中に隠す。
 抱き着いてきたのはシズ姉だった。妹や男友達に抱き着かれた感覚とはまるで違う。いけない本を読んでいた後ろめたさも手伝っているのか。僕はこれまでにないほど動揺していた。
「シズ姉! 脅かさないでよ!」
「ナオちゃん、びっくりし過ぎ」
 くすくすとシズ姉は悪戯っぽく笑う。綻んだ口元に手をやる仕草が艶っぽい。
 やはりと言うべきか、シズ姉の関心は僕が読んでいた本に向かってしまった。
「ナオちゃん、なにを読んでいたの?」
「小説だよ」
「ふーん。どんな小説?」
「ラブファンタジー、かな」
「へー! 意外! ナオちゃんってそういう話も読むんだね! どういう話なの? ヒロインはどんな子?」
 しまった、答えを間違えた。
 かえってシズ姉の興味を惹いてしまう。
「ヒロインは主人公の妹、かな……」
「え? それってラブファンタジーなんだよね?」
「うん……そうなんだけど」
 ものすごく説明し辛い。
 シズ姉の顔がだんだん険しくなってくる。こんな表情を見せるのは久しぶりだ。なんだか僕が悪いことをしたみたいな。まあ、確かに世間的に大っぴらにできない趣味の人が読む本ではあるんだけど。
 説明を粗方終えると、
「ナオちゃん」
 ぴしゃりとした口調でシズ姉は厳しく言う。
「誤魔化さないでちゃんと説明して。兄妹がいけないことをする本を読んでいたの?」
「誤解だよ。僕は雨音に読むように言われたんだ。好きで読んでいたんじゃないよ」
 僕は手をかざして弁解する。
 でもシズ姉は許してくれない。
「雨音ちゃんのせいにするなんて、ずるいよね?」
「……ごめんなさい」
 素直に謝ると、シズ姉は僕の頭を優しく撫でてくれた。
 許してくれたのかな。
 限りなく僕は無罪に近いと思うんだけど。
「ナオちゃんは雨音ちゃんに変なことをしたくなって代わりにそれを読んでいたわけじゃないんだよね?」
「当り前だよ! 雨音は妹なんだよ!」
 思わず僕は叫んでいた。
 落ち着いて、とシズ姉は僕に座るように促す。
 僕とシズ姉はそれぞれ椅子に腰を落ち着けて話すことにする。一つ結びにした長い黒髪が緩やかに胸元に垂れる。その胸元はシズ姉が椅子に座った動きで、弾むように揺れた。こんな時だと言うのに凝視してしまった。
 僕の視線に気付いていないのか、シズ姉が真剣な表情で尋ねる。
「それでナオちゃんは、兄妹がいけないことをする小説を読んで、どんな気持ちになったの?」
 なんだか尋問のような。
 僕は読んだ感想を途切れ途切れに話し出す。
「兄妹でお互いに恋愛感情を持つなんて、なんだか怖いよ……普通じゃないと思う。だって兄妹なんだよ。家族なんだよ……それなのに異性として意識し合うって、どう考えてもおかしいよ……」
「ナオちゃんが冷静に判断してくれて良かった」
 シズ姉はそんなことを言う。
 どこか含むところがあるような言い方だった。
「これからもお兄さんとして雨音ちゃんのこと守ってあげてね」
「なんでそんなことを言うの?」
「雨音ちゃんはね、ちょっとナオちゃんに対して危なっかしいところがあると思うんだ。べたべたし過ぎって言うのかな。ちょっと度を越したところがあるよね。私、ずっと心配してるんだよ。二人がそういう小説みたいな関係になっちゃうんじゃないかって」
「そういう関係って……」
 僕と雨音が?
 僕は怖くてそれ以上、考えを進めることができなかった。
 夕日は陰り、教室は薄闇に包まれる。
 窓の外に目をやれば、町は夜の準備を始めて、ぽつぽつと明かりを灯してゆく。
 そんな時、雨音が教室に入ってきた。
「兄さん? 静稀となにしてるの?」
 雨音はシズ姉に対して、いつも棘のある態度で接する。
 今も冷たい目でシズ姉を見詰めるのだった。
 対するシズ姉は優しい声を投げかける。
「雨音ちゃん。ナオちゃんに変な本を読ませるのは止めた方がいいよ」
「変な本?」
「兄妹がいけないことをする小説のこと」
 それで雨音はシズ姉の言わんとしていることを理解したようだ。
 雨音は毛を逆立たせるような感じで反論する。
「変な本じゃない。兄さんに読ませたのは純愛を描いたちゃんとした小説だよ」
「純愛って言っても兄妹でしょう?」
 雨音とシズ姉はまるでこれから喧嘩を始めるような雰囲気になっていった。
 シズ姉は音もなく立ち上がると優しい声で雨音を叱る。
「雨音ちゃん。いくらナオちゃんにそういう本を読ませても無駄だよ。ナオちゃんは貴方のことを家族として見ているの。そういう本みたいなことをしたいとは思ってないんだよ」
「静稀には関係ない! 私たちのことは放っておいて!」
 とうとう雨音は叫び出してしまった。
 それでもシズ姉は動じない。
「駄目だよ、放っておけない。私は貴方たちのお父さんに貴方たちを見守るように言われてるの」
 見兼ねた僕は立ち上がって仲裁することにした。
 二人に間に入って視線を遮る。
「二人とも止めてくれ。一体どうしたんだよ。二人とも落ち着いて話そうよ」
 しかし、
「落ち着くのは雨音ちゃんの方じゃない?」
「静稀だってキレてたよね?」
 二人は静かに互いのことを攻撃し合うのだった。
 こんな二人、見ていたくない。
 とにかく二人を引きはがすことにした。僕は雨音の本をバッグに仕舞って、雨音を促す。
「雨音、委員会が終わったならもう帰ろう。シズ姉、話の続きはまた今度ね」
 雨音は無言のまま僕に従って玄関へ向かう。
 一人残されたシズ姉がなにを考えていたか、僕には分からない。



 夕食の後片付けを終えた僕は居間でテレビを見ていた。今日はバイトが休みなので、録画しておいた番組を消化できる。と言っても僕の場合、料理番組なんだけど。日々こういう番組で刺激を受けるのが料理への情熱を維持する上で欠かせない。
 父はいつものようにニュースを見たあとは書斎に引き篭もっている。
 雨音は一番風呂に浸かっているみたい。
 そんな八時過ぎ。
 風鈴の音色が耳に心地良い。
 ばたばた、と居間に足音が近付いてきた。
「兄さん!」
「雨音?」
 雨音の格好を見て僕は仰天した。
 雨音は裸にバスタオルを一枚巻きつけただけの格好だった。ソファから立ち上がった僕の胸に飛び付いてくる。
 どういう状況なのか理解が遅れた。
 動揺していた僕は雨音の体を支え切れず、雨音と一緒にソファに倒れ込んだ。雨音の長い銀髪が僕の上に零れ落ちて、肌をちくちく刺激した。濡れた髪に残った柑橘類のシャンプーの香りが鼻をくすぐる。
 見れば、体がもつれ合ったせいでバスタオルがはだけて、雨音の体が露わになっていた。雨音の胸は控え目だけど、形はお椀のように整っていて、薄桃色のつぼみから目が離せない。
 雨音は体を密着させて来る。
「見られた!」
「いや、これは不可抗力で……」
「誰かが窓の外に立っていたの!」
 雨音の話を総合すれば、お風呂場の窓辺に人の気配を感じたらしい。
 しかし、うちの周りは鎮守の森ばかりで、覗き魔が出るような環境とは思えない。それでも僕は念のため家の外を見回ることにした。誰もいないと分かれば雨音は安心するだろう。
 僕はサンダルを履いてお風呂場に回った。サンダルが砂利を踏んで軽い音を立てる。
 その音が聞こえたのか、お風呂場のところから反応があった。向こうからも砂利を踏む音が聞こえた。
「誰だ!」
 思わず声を出す。
 黒っぽい服装の男がお風呂場の窓辺に立っていた。暗いために確かなことは言えないが、おおよその年齢は四○代と言ったところ。手にはカメラを持っている。
 男は僕から逃げ出した。
「待て!」
 サンダルで出たことを後悔した。走りにくいったらない。
 男は鎮守の森の中に入り込む。このままじゃ見失う。そう思った矢先、男は転倒したようだった。大方、木の根にでも足を取られたのだろう。情けない声が聞こえてきた。
 僕は男に駆け寄り、押さえつけた。体重は男の方が上だろうけど、やはり足をケガしているらしく、あっさり取り押さえることができた。
「あそこでなにをしていたんだ?」
 と僕は男に確認する。
 男はなにも言おうとしない。
「覗きは立派な犯罪だぞ。この変態」
「俺は変態じゃない! 探偵だ!」
 男は意外なことを言った。
 言い逃れにしては上手いことを言うと僕は妙なところで感心した。
「言い訳は警察でしてくれ」
「待ってくれ! 依頼人の名前を言うから警察だけは勘弁してくれ!」
 探偵というのは死んでも依頼人の名前は出さないんじゃなかったっけ? でも、それはフィクションにおける探偵の話なのかもしれない。
「相羽岬っていう女だ! あの家の様子を探るように言われていたんだよ! それだけなんだ! だから見逃してくれ!」
 相羽岬。
 またもこの名前が出た。僕の周囲――あるいは雨音の周囲に、岬という女性は出没している。目的がなんなのか判然としないのが不気味だ。本人は郷土史の研究をしていると語っていたが、郷土史の研究をするのに探偵を雇う理由が分からない。
 僕は探偵を自称する男に尋ねた。
「雨音の裸を撮っただろう。カメラを渡すなら見逃してやる」
 僕はカメラを没収し、二度と僕たちの前に姿を現さないと約束させてから男を逃がした。
 家に戻ると、雨音は丈の短い白のネグリジェを着て、玄関で僕を待っていた。
 不安そうに赤い瞳が揺らぐ。
 ネグリジェの裾をぎゅっとつかんでいる。
「兄さん……騒がしかったけど、ケガしてない?」
 一応、心配してくれたのか。
 僕は雨音を安心させるために笑った。
「大丈夫。どこもケガしてないよ。それよりこれ。おまえを盗撮したカメラだ。自分でデータを消してくれ」
「……見たの?」
 恥ずかしそうな、それでいて探るような目で僕を見つめる雨音。
 兄への信頼感がゼロなのかもしれない。
 ちょっと心外だ。
 まあ、さっき直に見てしまったのだけど。
「見てないよ。だから自分で消してって言ってるんだ。じゃあ僕はお風呂に入ってくるから」
 やれやれ。
 今日も色々あった。
 それにしても、あの相羽岬という女性。一体なにを考えているんだ。今度会ったらとっちめてやる。
 そんなことを考えながら僕は熱いお風呂に浸かった。

3.雨の音に濡れる

 ハンカチを洗濯籠に入れておくのを忘れた。
 ベスパに跨ってバイトに向かう直前のことだった。
 気付いた僕は家に戻って、洗濯機を置いてある脱衣場に向かった。ドアを開けたところで雨音と鉢合わせする。雨音は陶然とした表情で僕が脱いだばかりのワイシャツに顔を埋めていた。匂いを嗅いでいるのだろうか。まさかとは思う。しかし、そうとしか判断できない状況だ。
 顔を上げた雨音はびっくりした表情をしていた。
 雨音の赤い瞳が揺れている。
 僕が脱衣場に入ってきたことで、雨音は慌てたようにワイシャツを背中に隠す。
「おまえ……なにをしてるんだ?」
「……」
 雨音は気まずそうにしているだけで答えようとしない。
 僕もそれ以上、追及できなかった。
 けれど、はっきりと分かってしまった。雨音は僕のことを異性として見ている。今までも薄々思わなかったわけではない。しかし、その度に自分の思い違いだと思おうとした。それが明確な形で気付かされてしまった。
 僕は怖くなって雨音から逃げ出すようにバイト先に向かった。
 バイト中も雨音のことが頭から離れなかった。ぼーっ、としていると則之からツッコまれてしまったけど、それに上手いボケを返すこともできなかった。
 涼しい夜風に当たりながら店先で閉店作業をしているとシズ姉が声をかけてきた。
「ナオちゃん、お疲れ様。なんだか今日は上の空だったね。どうしちゃったの? なにか心配事でもあるの?」
 シズ姉はよく僕を見ている。少し気恥ずかしさを覚えるほど。
 僕は今日の雨音との出来事を話した。
「ナオちゃん、大変だったね」
 シズ姉の落ち着いた深い声が心に沁みた。
「ちゃんと叱ってあげた?」
「ううん……なにも言えなかった」
「そういう時はちゃんと叱ってあげなきゃ駄目だよ?」
 シズ姉は優しいけど、しっかりしている。
 でも、あの時は気が動転していて、どうしていいか分からなかった。あれ以上、妹と一緒にいたらどうにかなってしまいそうで怖かった。
 正直に言えば今も怖い。
 家に帰ってから雨音とどんな会話を交わせばいいか分からない。
 僕は現実から目を背けるように夜空を見上げた。
 澄んだ夜空はどこまでも晴れていて、落ちてゆくような感覚を覚える。それなのに僕の心は陰っていた。これから雨音とどう接するべきなのか。
 不意にシズ姉が僕の腕に触れた。温かなシズ姉の温もりが僕を慰めてくれた。
 目を転じれば、シズ姉はとても優しい目で僕を見ていた。その瞳は夜の空色のようだった。
「ナオちゃん。私たち、付き合おっか?」
「え?」
 付き合う?
 言葉の意味を理解するまで時間がかかった。
 それはつまり僕とシズ姉が恋人同士になるということ?
 でもシズ姉の言葉はあまりにも唐突で。
 僕はシズ姉の気持ちが分からなかった。ぐるぐるとシズ姉の言葉が僕の中で回る。
 しかし僕は戸惑い以外にも喜びを感じていた。
 今までも女子に告白されたことがないわけではない。けれども僕はこんなに嬉しい気持ちになったことはない。胸が熱くなった。
「シズ姉……」
「私ね、ずっとナオちゃんのこと弟のように思っていた。でも……雨音ちゃんがどんどんナオちゃんに惹かれてゆくのを見ているうちに自分の本当の気持ちに気付いたんだ。雨音ちゃんにナオちゃんを渡したくないって」
 シズ姉がそんなことを考えていたなんて。
 僕は全然その気持ちに気付かなかった。僕は人の気持ちに鈍いのだろうか。
 穏やかな口調でシズ姉は続ける。
「雨音ちゃんも、私とナオちゃんが付き合うようになれば諦めてくれると思う。ナオちゃんは思い切って雨音ちゃんと距離を取るべきだよ。どっちつかずな態度を取り続けたら雨音ちゃんは変な期待を持ち続けると思う。それに私たちだけが幸せになるんじゃない。雨音ちゃんも幸せになれるの。ね、名案でしょう?」
 確かにシズ姉の言うことには一理ある。
 雨音を突き放せない僕の煮え切らない態度が雨音に変な期待を持たせているのだとしたら、僕はその連鎖を断ち切らなくてはいけない。それが長い目で見れば雨音のためになる。今はどれほど残酷な仕打ちに思えても実行しなければならない。
 でも僕は――。
「分かった、シズ姉」
 僕はシズ姉の手を握った。
 強く握り締める。
 シズ姉に向き直って、穏やかな光を湛えた目を見詰めて告げた。
「僕たち、付き合おう」
「ありがとう、ナオちゃん。これからもよろしくね」
 僕の答えなんて最初から知っていたような顔でシズ姉は微笑んだ。
 僕はその表情に戸惑いながら答えた。
「うん。よろしくね、シズ姉」
 でも僕は、シズ姉のことが好きなのだろうか。



 家に戻ると、鎮守の森の脇に設けられた駐車場に見慣れない小型車が停まっていた。
 誰の車だろう?
 この時期に駐車する車は大抵氏子さんの物なので、僕は自然に覚えている。しかし記憶を手繰ってもこんなお洒落な車を持っている氏子さんはいなかった。
 闇夜にも鮮やかな黒塗りの小型車は、確かフランス製でプジョー2008と言うモデルだ。車が好きな則之が語っていたのを覚えている。今年の一月に発売されたばかりの最新型のフランス車が何故、うちの駐車場に停まっているのか理由が分からなかった。
 困惑しながら玄関に入る。
「ただいまー」
 途端、チョコレートの香りが僕の鼻を刺激した。しかも見慣れない女性物の黒い靴が綺麗に揃えて置かれてあった。
 この香りは覚えている。相羽岬という女性が好んで吸っている煙草の匂いだ。
 相羽岬と言えば、この前は探偵を雇って僕の家を探っていたことがある。実害は雨音がお風呂を覗かれたことだけのようだけど、それでも許せるようなことではない。
 僕は急いで靴を脱いで明かりの点いた応接間に向かう。
 書画などの骨董品をそれとなく飾る応接間では、ソファに座った父と相羽岬が向かい合っていた。
 父はプリントアウトされた印刷物を読んでいるところだった。
 一方の相羽岬は横柄な態度でソファに体を沈み込ませながら煙草を吸っている。僕の姿を認めると、新しい獲物を見つけた猫のように笑う。実に不愉快な笑みだった。
 思わず声が尖る。
「貴方はなにをしに来たんですか?」
 しかし反応を示したのは父だった。
 僕の声に父が驚いたように顔を上げる。
「直登?」
 もしかして僕が帰宅したことに今まで気付いていなかったのだろうか。父が一体なにを読んでいたのか気になる。
 僕の心を読んだように相羽岬が笑う。
「そんなに怖い顔をしないで。私は喧嘩をしに来たんじゃないのよ」
「でも、うちを探偵に探らせていましたよね?」
「そんなこともあったかな。まあ、座って話しましょう」
 相羽岬は全く悪びれた様子を見せない。ここまで開き直られると、毒気を抜かれたような気分になる。
 言うなりになるのは癪だったが、座らないことには話が進みそうにない。
 しかし父はこんなことを言う。
「直登。部屋に行っていなさい」
「嫌だよ。僕はこの人に言いたいことがある」
 わざと音を立てて僕は父の隣に座った。
 相羽岬を睨み付ける。
「それで貴方はなにをしに来たんですか?」
「誠二郎さんに読んでもらいたいものがあって。私が木佐木町について調べてきた内容をレポートにしてみたの。まだ未完成ではあるんだけど、木佐木町の歴史に深く関わってきた神社で働く誠二郎さんに是非読んで欲しくて――ねえ誠二郎さん、感想を聞かせてくれる?」
 相羽岬は忍び笑いを漏らす。
 そんな相羽岬に促された父は動揺を隠しきれない様子だった。
「こんな世迷言、誰も信じない。勝手にうちのことを書かれるのは迷惑だ」
「父さん、一体なにが書いてあるの?」
「おまえには関係ない。黙っていなさい」
 僕を除け者にするような言い方に苛立つ。
 僕と父は言葉もなく睨み合った。
「喧嘩しないで。親子は仲良くしなくちゃ」
 そんな僕らを相羽岬は実に楽しげに眺めていた。
 鮮やかな手つきで新しい煙草に火を点ける。チョコレートの匂いのする紫煙が舞う。
 誰のせいだと思っているんだ。
 僕は無性に腹が立った。
 相羽岬は滔々と語る。
「森宮家は昔は分家も含めて大勢の血族がいたの。でも今では本家であるこの家だけになっている。どうしてか分かる?」
「どうしてですか?」
 確かにうちは昔、随分栄えていたと聞いたことはあった。でも、今では分家は皆廃れてしまったらしい。親戚付き合いなんて、今はほとんどない。
 困惑する僕に、相羽岬は暗い情熱をにじませるように語る。
「血族同士で結婚していたからよ。だから結果的に血族の数は世代を重ねるごとに減っていった。それに結婚という形にあまり拘ってはいなかったみたい。森宮家では私生児がとても多いの。その私生児たちは父親が誰なのか分からなかったのではなく、父親が誰なのか公にできなかったからじゃないかしら」
 僕は困惑を深めた。
 相羽岬がなにを言わんとしているのか理解できない。
「つまりね……兄と妹、姉と弟、父と娘、あるいは叔父と姪。そういう組み合わせで生まれた子供たちなのだと思う」
「ふざけないでください!」
 僕は立ち上がって叫んでいた。
 それじゃ近親相姦じゃないか。
「でもね、直登君」と相羽岬は可笑しそうに言う。「森宮家では遺伝病がとても多かった。近親交配を続けるとそういう病気になりやすい。その科学的根拠が私の推測を裏付けているんじゃない? 例えば貴方の妹の雨音さんも遺伝子の異常によって色素が欠乏しているわけだし。雨音さんの母親は誠二郎さんの従妹。だとすると雨音さんの父親は伯父さんなのかもね」
 そんなはずはない。伯父は僕たちが生まれるずっと前に死んでいる。いい加減なことを言うな。
 相羽岬の言葉が僕の怒りをこれ以上ないほど湧き上がらせた。
 僕は今にも相羽岬につかみかかりたい気持ちをぐっと堪えた。膝の上に置いた手を固く握る。
「雨音のことをひどく言わないでください。貴方がどんな妄想を抱いていても自由なのかもしれません。でも人の気持ちを傷つけていいわけじゃないんです。そのことが貴方には分かってないです。全く分かってない」
「人の気持ちなんて私はどうでもいい。私はただ、隠された忌まわしい事実を暴きたいだけ」
 相羽岬の答えは予想通りと言えば予想通りだった。
 僕がどんな気持ちで雨音を守ってきたか、この人は全く理解していない。ただ興味の赴くまま秘密を掘り返し、飽きたら穴を埋めることなくどこかへ行ってしまう。そんな自分勝手な人なのだと僕は理解した。
 僕は父の手からレポートを奪って相羽岬に叩きつける。レポートを綴じていたタブルクリップが外れて紙片が床に散らばった。
 それでも相羽岬は笑みを崩さない。
「帰ってくれ! 二度と雨音の前に現れるな!」
 こんな乱暴な言葉を使うのはいつ以来だろう。
 それほど僕は相羽岬に憤慨していた。
「直登。言葉が過ぎるぞ」
 けれど、父は僕の怒りを分かってくれなかった。
 自分の代わりによく言ってくれた、と言うべきところじゃないか?
 僕は父と自分の気持ちに誤差を感じた。人と人の心に距離があるとしたら、その差異は誤差と呼ぶ他にない。
 近いと思っていた父との距離は、実は遠かったのか。
「今夜はこれで失礼するわ。直登君、貴方なかなかいいお兄さんじゃない。もっとなよなよした子だと思っていたのに意外だった」
 そんな言葉を残して相羽岬は応接間から出て行った。
 見送りをする気にもなれなかった。
 僕は父を応接間に残して二階に上がる。
 すると雨音が僕の部屋の前で待っていた。
 白檀の香りが舞った。
「兄さん……」
 抱き着いてきた雨音は僕の胸に顔を埋めた。
 バイト先でシズ姉は雨音と距離を取るべきだと助言してくれたのを忘れたわけじゃない。でも僕には心細そうにする雨音を突き放すことができない。
 雨音の細い体を両腕でそっと優しく包み込む。
「雨音……聞いてたのか?」
「うん……」
 やっぱり聞いていたのか。
 雨音は小さな声を漏らす。
「兄さん……私は一体、何者なの? 一体、誰の子共なの?」
「おまえが誰の子共だって関係ない。おまえは僕の妹だ」
 その言葉に雨音の手が伸びて、僕のシャツを力一杯つかむのが分かった。
 雨音の体温が愛おしい。
 僕も雨音を強く抱き締める。
「おまえが誰の子共だって関係ない」と僕は力を込めて繰り返す。「僕らは兄妹なんだ。僕はいつもおまえのそばにいる」
「本当? ずっと一緒にいてくれる?」
「約束する。ずっと一緒だよ」
「うん……ありがとう、兄さん」
 僕の腕の中で雨音が涙ぐんでいる。
 ずっと一緒にいると雨音と約束を交わした。でも僕はついさっき、シズ姉と付き合うことにしたのだ。
 僕は嘘を吐いていることになるのだろうか?



 次の日のお昼休み、雨音が僕の教室にやってきた。
 僕は立ち上がって雨音にお弁当を渡す。いつもとは違う僕の様子に雨音は不思議そうな顔をする。
「雨音。今日から一人でお弁当を食べてくれ」
「どうして……? 兄さん、昨日約束してくれたよね。私を一人にしないって」
 教室だと言うのに雨音は今にも泣き出しそうだ。
 そんな雨音の様子を周囲は怪訝な目で見詰めていた。ひそひそ、と小声で何事か話し合っている。
「それとこれは別だよ」
 そう言って僕は教室を出ようとする。
 雨音は僕のシャツをつかんで引き止める。
「どこに行くの?」
「シズ姉のところだよ。今日からシズ姉と一緒にお弁当を食べることにしたから」
「……」
 ぎしっ、と雨音は強く奥歯を噛み締めたようだった。
 シズ姉の名前を出した途端、先ほどまでの弱々しい印象はどこかに引っ込み、剥き出しの感情を見せる。
 僕のシャツをつかむ手の力が増す。
「雨音、離してくれ」
「離さない」
「僕とシズ姉は付き合うことにしたんだ」
 雨音はシャツから手を離して一瞬よろける。
 強い衝撃を受けているようだった。
 そんな雨音を慰めようと僕はできるだけ優しい声を出す。
「なあ雨音。昨日言ったことは本心だよ。でも僕らは兄妹なんだから線をきっちり引くところはあると思うんだ。いつまでも兄妹べったりなんておかしいだろ? いい子だから分かってくれよ。その代わり今日も玉子焼きを入れておいてあげたからさ」
「兄さんの馬鹿!」
 雨音はお弁当を僕に投げつけた。
 お弁当の中身がぶちまけられてシャツを汚す。
「うわっ。雨音、なんてことするんだ」
「兄さんの馬鹿!」
 と雨音は繰り返す。
「私は玉子焼きが好きなんじゃない! 兄さんと一緒に食べる玉子焼きが好きなの!」
 そう叫ぶ雨音はまるで子供のようで。
 僕は雨音にかける言葉が見つからなかった。
「もういい! 兄さんなんか知らない!」
 雨音は教室から走り出してしまった。
 一瞬、追いかけようかと迷う。
 でも僕はシズ姉と付き合うって決めたんだ。
 僕はシャツの汚れをハンカチで拭ってシズ姉の待つ中庭に向かった。
 暑い日差しの差す正午過ぎ。
 生徒たちは木陰に避難して芝生の上でお弁当やパンを食べていた。かなかな、とヒグラシの鳴く声が聞こえてくる。
 その中に混じっているシズ姉の姿が見えた。
 僕の姿を認めると、芝生の上に座ったまま笑顔で手を振る。
「シズ姉、お待たせ」
「ナオちゃん、そのシャツどうしたの?」
 シズ姉は立ち上がってハンカチでシャツを拭いてくれる。
 オレンジにも似た甘い芳香が香った。
「いや……雨音がね……」
 僕はためらいながらもシズ姉に先ほどの雨音との出来事を語った。
 シズ姉は僕の話を黙って聞いてくれた。
 どうしてだろう、シズ姉に話を聞いてもらうだけで心が和らぐ。
 やがてシズ姉が木漏れ日のような笑みを見せた。
「ナオちゃんは強いね。私にもそんな強さが欲しい」
「え?」
 僕はシズ姉の言葉の意味がすぐには理解できなかった。
 座ろう、とシズ姉に促されて僕たちは芝生の上に座った。芝生が肌をちくちくと刺激するのが心地良い。夏草の匂いが心を落ち着かせてくれる。
 シズ姉が静かに続ける。
「雨音ちゃんみたいに可愛い妹に好きになられてしまったら、弱い人はきっと流されてしまうと思う。流されて気持ちに応えてしまうかもしれない。でもナオちゃんは強い人だね。強いから厳しいことも言える。それが本当の優しさなんだよ」
「シズ姉……」
 シズ姉の気遣いが嬉しかった。
 魔法瓶から注いだお茶をシズ姉が差し出してくれる。
 冷たいお茶を一気飲みする。ほろ苦い甘さが喉に沁みた。
 一息ついた。
「ナオちゃん、落ち着いた?」
「うん、ありがとう」
「さ、お弁当にしよう。私、お腹が空いちゃった」
 シズ姉は僕が来るまで箸を付けずに待っていてくれた。
 僕たちはお弁当を開いて昼ご飯にした。
 今日の僕のお弁当は、ドライカレー、玉子焼き、ラッキョウ。お弁当を開くとドライカレーの香ばしい匂いが食欲を刺激する。
 僕の玉子焼きを一口食べたシズ姉は感想を漏らす。
「ナオちゃん。料理、上手になったね」
「そんなことないよ。シズ姉にはまだまだ敵わないよ」
「この分だと私もいつ追い抜かれるか分からないな。最初、ナオちゃんに料理を教えた頃は手を切ってばかりで、内心すごく不安だったんだよ」
 昔の話をされると、すごく恥ずかしい。
「ね、明日からお弁当を交換しよっか?」
「うん、いいよ。シズ姉はなにが好き?」
「ミートボール!」
 一瞬も迷いを見せずシズ姉は答えた。
 その答えに僕はつい笑ってしまう。
 シズ姉は笑顔で僕を咎める。
「笑ったなー」
「だって、シズ姉の好物って子供っぽいんだね」
 意外だった。
 長く伸ばした黒髪を一つ結びにした髪型と言い、モデルのような魅力的なスタイルと言い、シズ姉は大人っぽい雰囲気をまとう人だ。だから嗜好も大人っぽいと思っていた。でも意外と子供のような面も残しているらしい。
 そんなアンバランスなところが可愛く思えた。
「いいよ、シズ姉。明日はミートボールを作ってあげる。ソースはなにがいいかな?」
「うーん」
 とシズ姉は少し考える様子を見せる。
「トマトソースかな」
「分かった。トマトソースだね」
「楽しみにしてるね」
 シズ姉は向日葵のような笑顔を咲かせるのだった。



 日曜日、僕はシズ姉と初デートに出かけようと玄関で靴を履いていた。
 ばたばた、と音を立てて雨音が駆け寄ってきた。
「兄さん、どこに行くの?」
 不安そうに雨音の赤い瞳が揺れている。
 僕ははっきり答えた。
「シズ姉と出かけてくる。じゃあ留守番、よろしくね」
「駄目!」
 出かけようとした僕の腕を雨音は両腕で挟んだ。
 僕は仕方なく雨音をなだめる。
「雨音……おまえも今年で一六歳だろ? そろそろ僕から卒業する時期だよ。分かるだろ?」
「分からない!」
 雨音は子供のように駄々を言う。
 益々両腕に力を込める。
 切なそうに雨音は僕に訴えかけた。
「私には兄さんだけなの……兄さんしかいないの……。お父さんも周りの人も私のことをちやほやするけど、本当の私を見てくれない。兄さんだけは私をちゃんと見てくれる。子供の頃から優しくしてくれて、叱ってくれて、私すごく嬉しかった。ずっと感謝してたんだよ。素直になれなくてごめんなさい。でも、兄さんしか甘えられる人がいなかったから……」
「おまえの気持ちは嬉しいよ。でも駄目だ。僕たちは兄妹なんだから」
 僕は雨音を置いて玄関から出た。
 すると雨音は裸足のまま汚れるのも構わず外に飛び出て来た。背中の半ばまで伸ばした長い銀髪が風になびく。僕の正面に回り、両腕を広げて行く手を遮る。
「あの女は兄さんを不幸にする! 私には分かるの!」
「雨音……怒るぞ。シズ姉を悪く言うな。子供の頃から僕たちに優しくしてくれたじゃないか」
 僕はあえて厳しい声を出した。
 それでも雨音はシズ姉への不信感を語り続ける。
「家族でもないのにあんなに静稀が優しくしてくれるのはおかしい。絶対になにか理由がある」
「理由ってなに?」
「分からない……けど……」
 そんな雨音の答えに僕は少し苛立った。
 理由が判然としないのにシズ姉のことを悪く言う雨音の態度こそおかしい。
「理由がないのにシズ姉の優しさを疑ってるのか?」
「だって……」
 雨音は悔しそうに下唇を噛む。
 広げていた両腕が力なく下がる。
「行ってくるよ。今のおまえの言葉はシズ姉には言わないでおくから」
 僕は妹を残してベスパで南木佐木に向かった。
 南木佐木にはビジネスパークという名前の、ショッピングアーケードやホテルなどの複合施設がある。中には映画館も含む。ここで夕方まで過ごすのが今日のデートの内容だった。
 このあたりに住む高校生なら誰でも考えそうな内容ではある。でも僕の収入では初デートだからってお金のかかることはできない。無理に背伸びして失敗するより、僕は僕らしく振舞った方がきっとシズ姉も落ち着いてデートを楽しんでくれると思う。
 中に入ると涼しい風が吹き付けてきた。ビジネスパーク内は自然の風が循環しており、まるで森の中に迷い込んだような感覚を来る度に覚える。
 待ち合わせは一○時。まだ五分前だ。
 シズ姉は待ち合わせ場所である一階の喫茶店で先に着いていた。
「ナオちゃん、ここだよ」
 とシズ姉がテーブル席から立つ。
 腰回りをカバーした半袖のロングパーカーにジーンズを合わせている。変に飾ったところのないシズ姉らしい格好だと思う。
「シズ姉、ごめん。遅れちゃったね」
「ううん。そんなことないよ。私も今、来たところだから」
 僕らは連れ立って喫茶店を出る。
 行く先は二階の映画館だ。ちゃんと上映時間は調べてある。封切されて少し経つので席は半分しか埋まっていなかった。おかげで良い席を指定することができた。
 僕らは塩味のポップコーンとコーラを飲み食いしながら映画を見る。
『モンスター交響曲』
 そんなタイトルのアニメ映画をシズ姉は見たいと言っていた。それを覚えていた僕は初デートで一緒に見ることにしたのだ。
 絵柄は子供向けだったが、内容は大人でも十分楽しめるものだった。
 怪物に生まれながら優しい心を持っていた子供たちは、森の中にひっそりと建つ朽ちかけた砦で暮らしていた。人間の優しい女性が母親代わりだった。彼らは血の繋がりこそないものの、まるで本当の家族のようで。
 しかし平穏な暮らしも長くは続かない。
 怪物を恐れた軍人たちは砦に攻め込んだのだ。女性と軍人たちは互いの正義を主張する。
 危険かもしれない存在はあらかじめ除いてしまうのか。
 だからこそ教え導くのか。
 子供たちは知恵を絞って軍人たちを無力化してゆく。
 最後に女性は軍人たちを諭す。
「貴方たちを殺すこともできた。でも、それをしなかったのは子供たちが人間らしい心を持っているから。どうかそれを分かって欲しい」
 軍人たちは考えを改め、女性と共に子供たちを見守ってゆくことを決意する。
 そんな結末だった。
 見れば、隣に座ったシズ姉はハンカチで涙を拭っていた。確かに僕も感動したけど、泣くほどではなかった。シズ姉は感受性が高いのかな?
 映画館から出た僕らは喫茶店に戻って感想を語り合うことにした。
 と言うより、シズ姉がすごく語りたそうな顔をしていた。
「感動的だったねー」
 うるうる、とシズ姉はまだ瞳を潤ませていた。
 僕は肯定的な相槌を打つ。
「そうだね。感動的だった」
「ねえ、ナオちゃん。怪物は隠れ住むものなのかな? いつか日の当たる場所で暮らせないのかな?」
「どうだろう?」
 僕は首をひねった。
 僕は考えをまとめながら話した。
「いきなり仲良くするのは無理じゃないかな。人の心を変えるのは難しいよ。でも、少しずつでもいいから変わっていけるんじゃないかな、って思う。実際に触れ合ってみなくちゃ分からないことってあると思うから」
「そうだね……でも」
 とシズ姉は言葉を切った。
 僕は「なに?」とシズ姉の言葉を待つ。
 やがてシズ姉は声を潜めて言った。
「怪物の子供は怪物なんだよ。現実はね」
 心に氷が刺さったかと思った。
 あんなに感動していたシズ姉の言葉とは思えなかった。
 僕はとっさに答えることができず、時間を稼ぐためにコーヒーをすすった。全く味が感じられなかった。まるで泥水を飲んでいるようだ。
 一体シズ姉はなにが言いたいんだ?
「ねえ、来る時に雨音ちゃんになにか言われなかった?」
 唐突にシズ姉は話題を変えた。
 僕は言葉を濁す。
「別に大したことは言ってなかったよ。シズ姉によろしくって言ってたかな」
「それは嘘だね。雨音ちゃんはそんなことは言わない」
 シズ姉は強い口調で断言した。
 僕を見つめる目がいつもより大きいように感じられた。夜の空色にも似た瞳が僕を逃がさない。空気がじっとりと重い。
「雨音ちゃんはナオちゃんを引き止めたんじゃない?」
「……なんで分かるの?」
「ふふ。なんでだと思う?」
 シズ姉ははぐらかすばかりで僕の質問には答えてくれなかった。
 なんだかシズ姉が怖い。
 シズ姉はこんなことを言う人じゃないのに。
 僕はシズ姉のことが分からなくなっていった。
「さ、次はどこに行こっか?」
 またも唐突にシズ姉は話題を変えた。
 いつもの柔和な微笑みを浮かべる。
 重苦しかった空気が一変したような気がした。
 僕はほっと息を吐く。
 それから僕たちは夕方までビジネスパークで過ごしたあと、バイト先である『明星苑』に急いだ。



 帰宅することには深夜になっていた。僕は遅い夕食を食べ、熱い風呂に浸かった。
 一息入れたところで二階に上がる。
 自室に行こうとした思った時、ふと雨音の声が耳に入った。
「ん……っ……兄さ、んっ……」
 一体なんだろう?
 雨音の部屋に近づく。
 歩みを進めるごとに戸惑いは確信へと変化していった。
 震える足で襖に歩み寄る。
――開けてはいけない。
 理性はそう制止する。
 それでも僕は確かめずにはいられなかった。
 襖を少しだけ開ける。薄闇に包まれた室内に目を凝らす。
 夜目にも眩しい雨音の白さが目に飛び込んできた。
 瞬間、僕は息をのむ。
「ぁ、あ……はぁ……っ」
 ベッドの上で白いネグリジェを着た雨音がもぞもぞと動いていた。両膝を立て、足の付け根に指を沈み込ませている。もう一方の手が半ば肌蹴たネグリジェの胸元に忍び込む。
 苦しげで、それでいて切なそうな雨音の声が耳に届く。
「兄さん……寂しいよぉ……どうして? どうして私の気持ち、分かってくれないの? 私は……こんなに兄さんのこと好きなのに……」
 雨音は時折、濡れ光る指を口に運ぶ。
 部屋の中には雨音の音だけが立っていた。
「兄さん……っ……兄さんっ……」
 雨音は一心に僕を呼ぶ。
 雨音の中の熱はどんどん高まっているようだった。
 そして僕自身の熱も。
 気付けば、僕は廊下に突っ立ったまま嗚咽を漏らしていた。雨音に気付かれまいと口元を抑える。それでも涙は勝手に零れてゆく。
 雨音の気持ちに応えるわけにはいかない。
 でも、自分を一人で慰める寂しそうな雨音の姿から目を離すことができない。妹の渇きを今すぐ癒してやりたいと思ってしまった。それは許されないことだ。みんなを悲しませてしまうだろう。なにより雨音を不幸にしてしまう。
 雨音はいつか僕以外の誰かと恋をして、結婚して子供を産んで、幸せな家庭を築く権利があるんだ。
 それを奪っていいわけがない。
「兄さんっ、好き……大好きっ……」
 例え雨音本人が僕を渇望していたとしても。
 僕はその場から逃げ出した。
 しかし雨音の声や姿が僕の脳裏から消えることはなかった。
 自室で布団に横になり、自分を鎮めようとする。けれど、僕の体はなかなか言うことを聞いてくれない。暗闇の中で苦しみはいつ果てることなく続いてゆく。
 僕は雨音に恐怖しつつ欲情していた。
 いつも可愛げのない言動で僕を振り回す雨音。僕が傍にいないところではいつも寂しそうにしているという雨音。素直じゃないけど僕に絶対的な信頼を寄せてくれる雨音。
 そんな雨音が可愛くて仕方がない。
――僕はシズ姉と付き合っているんだ。シズ姉を裏切ることはできない。
 目を閉じて、いくら念じても雨音の存在は僕の中から消えてくれなかった。僕は愕然とする。シズ姉の存在は僕にとってお姉さんでしかなかったのか。僕は本当の気持ちから目を背けるためにシズ姉と付き合っているだけなのかもしれない。
 どれくらい時間が経っただろう。
 不意にぺたぺたという足音が部屋の中に立った。
 体を向けると、すぐ傍にネグリジェ姿の雨音が立っていた。
 僕は慌てて上半身を起こす。
「雨、音……っ……!」
「……兄さん、見てたよね?」
 雨音はネグリジェの肩紐を外す。
 衣擦れの音を残してネグリジェは雨音の肌を滑り落ちて行った。
 暗闇の中で雨音の白い体が眩しく心に映す。
 濡れたように輝く長い銀髪。闇の中で潤む赤い瞳。無駄な肉がないのに女性的な柔らかさを併せ持つ肢体。
 僕は雨音から視線を外すことができなかった。
 雨音は一糸まとわぬ姿で膝を着いて、布団に潜り込もうとする。
「兄さんに……気持ちいいこと、して欲しい……」
 僕は雨音を両手で押し留めた。
「駄目だ、雨音。こっちに来るな」
「どうして駄目なの……?」
 雨音はまだ体の奥に残る熱を吐き出すようにささやく。
 その艶っぽい声が僕の中の衝動をさらに呼び起す。
 それでも僕はかろうじて常識的な答えを返した。
「何度も言ってるじゃないか。僕たちは兄妹なんだ。そんなことはいけないことだって分かるだろう?」
「秘密にすればいい」
 平然と雨音は言ってしまう。
 薄闇の中、雨音の瞳が熱っぽく煌めいた。
「ずっと二人だけで生きて行こう? 誰にも言わなければいいでしょう?」
「そんなに上手く行くはずないよ」
「気付かれてしまったら町を出ればいいの。誰も私たちのことを知らない町で生きればいい。幸い、私たちは兄妹だから名字は同じ。一緒に暮らして、愛し合って、子供を作ったら誰も兄妹だなんて思わない。ねえ兄さん、そうしよう?」
 雨音の語る未来図が僕には恐ろしくて仕方がなかった。
 雨音はこんなことを考えていたのか。
「だから兄さん、私を愛して」
「馬鹿なことを言うな!」
 僕は手を振り上げた。
 びくっ、と雨音は体を震わせる。
 けれども、いつまでも叩こうとしない僕に雨音は薄目を開けた。
「叩かないの……?」
 僕は力なく腕を下ろした。
 手が震えている。
 かろうじて声が出た。
「叩けるはずないよ。大事な妹にそんなことはできない」
 涙が出てきた。
 どうしたら雨音に分かってもらえるんだろう。
 項垂れる僕を、雨音は裸のまま抱き締めた。雨音の両腕が僕の頭を優しく包み込む。柔らかな感触に僕は安らぎを覚えた。
 でも、そんな思いはいけないことだ。
 そんな僕の心の内を知らないのか雨音は言い募る。
「兄さんはやっぱり優しいね。ねえ、兄さん。世界で一番自分を大事にしてくれる人に恋をすることはいけないこと? 兄妹だって、それぞれ違う魂を持った二人の男女なんだよ。惹かれ合ったって不思議じゃないでしょう?」
 例え兄妹と言えども、それぞれ違う魂を持った二人の男女に過ぎない。
 その言葉は雨音が読むように言った小説の一文だった。
 それでも僕は、
「駄目だ。おまえの気持ちには応えられない」
 雨音が愛しいから拒絶した。



 月曜日の早朝、僕はシズ姉に食べさせるためにまたもミートボールを作っていた。今日はこの前とは少し作り方が違う。合挽き肉に牛乳を加えて捏ねてみた。もちろんシズ姉が好きなトマトソースで味を付けるのは忘れない。
 フライパンで焼き上げたミートボールが香ばしい匂いを放つ。
 父や雨音にも食べさせようと皿に盛り付けたところで写真に撮る。しかし、いつもならすぐにコメントをくれるアールさんは今日は沈黙していた。
 やがて制服姿の雨音が起きてくる。
 泣き腫らした目が痛々しかった。
「雨音、おはよう。今日はミートボールだぞ」
 昨夜のことは今も忘れることはできない。
 でも僕は忘れた振りをして極力明るい声を出す。
 そんな僕に雨音は尖った声で答える。
「それ、静稀の好物?」
「ん? そうだけど?」
「私、食べない。お弁当にも入れないで」
 雨音はそんなことを言う。
 僕は雨音を優しく叱る。
「あのな雨音。わがまま言うなよ。美味しいから食べてみなって」
「絶対、食べない」
 雨音は不機嫌そうに顔を背けiPhone≠弄り始める。
 不意にスマートフォンにコメント通知を知らせる着信があった。アールさんからだ。
『私、ミートボールは好きじゃない』
 そんなコメントが付いていた。
 いつものアールさんらしくない。アールさんはいつも好意的なコメントしかしないのに。一体どうしたのだろう。
 朝食を終えた僕らはベスパで学校へ向かう。雨音は僕にしがみ付いたまま、なにも言葉を発しようとしなかった。僕にも妹に掛ける言葉がない。
 互いに言葉もなく学校に着く。
 教室に入ると不穏な空気に包まれていた。クラスメイトたちはひそひそと小声で言葉を交わしている。僕を見ると一層声を潜めるのだった。
 一体、何事だろうと則之に尋ねる。
「則之。一体どうしたの?」
「直登。落ち着いて聞けよ」
「落ち着いてるよ。どうしたの?」
 僕は則之の大仰な言葉遣いに辟易した。
 則之は声を潜めて答える。
「一之瀬先輩が警察に捕まったんだ」
 僕はしばし、その言葉の意味を理解することができなかった。
 シズ姉が捕まった? どうして?
「一之瀬先輩は最近続いている失踪事件に関わっているから連行されたって噂だ。あくまで噂だ。だから落ち着いてくれ」
 そんな則之の声も僕には届かなくて。
 僕はスマートフォンでシズ姉に電話した。しかし出ない。電源が入っていない、というアナウンスが返ってきた。
 僕は次にシズ姉のお父さんである店長に電話した。
「店長! シズ姉が捕まったって本当ですか!」
「ああ……本当だ。今は任意同行で警察署に行っている」
 店長の声にはいつもの歯切れの良さがなかった。落ち込んでいるのが分かる。一人娘が警察に連れて行かれたのだから当然だ。
 僕はスマートフォンに向けて叫んだ。
「警察に行きます! シズ姉を取り戻します!」
 僕はそう告げて教室を出ようとした。
 そんな僕の腕を則之がつかんだ。
「どこに行く気だよ」
「警察だよ。シズ姉を取り返す」
「落ち着け!」
 則之の叫びが僕を打った。
「おまえが行ったって警察は一之瀬先輩を解放してくれないぞ。俺らにできることは待つことしかないんだ。先輩の無実を信じて今は待とう」
「でも……」
「おまえがうろたえたら先輩も悲しむぞ」
 その言葉が僕の理性を蘇らせてくれた。
 そうだ。ここで僕が狼狽して問題を起こしたら帰ってきたシズ姉が悲しむ。今までと変わらない日常でシズ姉を迎えてあげないといけない。
「ありがとう、則之。ちょっと落ち着いたよ」
「良かった。おまえ、時々我を失う時があるよな。友達としてちょっと心配だぞ」
 意外なことを則之は語った。
 僕が我を失うだって?
 僕は冷静な性格だと思うんだけど。でも、それは僕の思い違いで、親しい人たちには違う見え方なのだろうか。
 僕は意外な思いだった。
 しかし今は則之の言う通り、シズ姉の帰りを待つしかなかった。



 シズ姉が警察に連れて行かれてからというもの、『明星苑』への客足は遠のいてしまった。僕はしばらく休んでいいと言われ、自宅で手持無沙汰な夜を過ごすことになった。
 そんな夜、知らない番号から電話があった。
 一体、誰だろう?
 まさかシズ姉? なにか事情があってシズ姉が自分のものとは違う電話からかけてきたのか?
 僕は慌てて電話に出た。
「シズ姉?」
「残念ね。静稀さんじゃないわ」
 シズ姉とは違う女性の声が返ってきた。低く、籠ったような声に僕は聞き覚えがある。
「相羽……岬……?」
「ご明察」
 相羽岬の楽しげな声が聞こえてくる。
 きっと今、にやにや笑っているのだろう。その姿が容易に想像できた。
「一体なんの用ですか? いや、そもそもどうして僕の番号を知ってるんですか?」
「お金さえ払えば他人の番号を知ることなんて、そんなに難しいことじゃない。覚えておくことね」
 と相羽岬は平然と答えた。
 そう言えば相羽岬は探偵を雇って僕の家を探らせていたことがあった。一体そのお金をどうやって工面しているのか謎だった。プジョー2008なんていうお洒落な車に乗っているみたいだし。郷土史家と言っていたのは嘘なのだろうか。それとも副業で儲けているのか。
 いずれにせよ僕には相羽岬と会話するような理由はない。
「もう電話しないでください。切りますよ」
「一之瀬静稀のことで話があるって言ったら貴方はこの電話を切れる?」
 僕は一瞬、硬直した。
 何故この人がシズ姉のことを知っているんだ? いや、僕の家を調べていたのなら、僕と近しい人を調べていてもおかしくはない。
 僕は電話の向こうの相羽岬を探る。
「どういうことですか?」
「詳しい話は直接会ってしない? 私はビジネスパークのホテルに泊まってる。そこに来て欲しい。ビジネスパークに着いたらこの番号に電話して」
「……分かりました」
 一体なにを話す気だろう。
 僕はベスパに乗ってビジネスパークのある南木佐木へ向かった。
 言われた通り電話してロビーで待っていると、相羽岬がすぐにやってきた。相羽岬は一応美人ではあるし、しかも黒いスーツを着ているから目立つ。まるで見る者の心に黒いしみを残すかのよう。
 相羽岬は開口一番、
「見せたいものもあるし、部屋に行きましょう。付いてきて」
 と僕を促して歩き出した。
 仕方なく僕は言われるまま付いてゆく。
「ところで」
 と僕はエレベータの中で相羽岬に尋ねる。
「いつもその格好なんですね。まるで喪服みたいです」
「そうね」と相羽岬は笑みを含ませた声でうなずく。「この格好ならいつお葬式があっても平気でしょう?」
 考えられる中でおよそ最悪の回答が返ってきた。
 おそらく僕は苦い顔になっただろう。
 そんな僕の反応に相羽岬は満足げだった。
 本当に理解できない。
 やがて相羽岬は自分が泊まっている部屋の前で足を止めた。
「直登君。狭い部屋だけど、適当にくつろいで」
「お邪魔します」
 相羽岬の泊まっている部屋ではチョコレートの匂いが染み付いているかのようだった。灰皿には大量の灰が残っている。クリーム色の柔らかい色調の内装なのに、相羽岬がそこにいるだけで落ち着かない雰囲気に塗り替えられていた。
 相羽岬はスーツの上着を脱ぎ、銀朱のネクタイを緩めた。襟から覗く首筋が艶っぽい。
 そう言えば、僕は妹やシズ姉以外の女性と二人きりになったことがない。
 少し胸が騒いだ僕は相羽岬から視線をそらした。
 その視線の先にラヴクラフト全集という古びた文庫本があった。シングルベッドの脇に置かれたその文庫本は随分と読み込まれているらしく、手垢が目立つ。
 一体どういう内容なのだろう?
「その本が気になる?」
 いつの間にか背後に回っていた相羽岬の声が耳朶を打つ。
 僕は慌てて相羽岬と距離を取った。
「その本とは学生時代に出会ったの。衝撃的だった。特に『インスマウスの影』という作品が素晴らしい。寂れた漁村を訪れた主人公が次第に狂気に侵されてゆく様が真に迫っていてね。暗く美しい世界観は、作者であるラヴクラフト自身が精神に失調をきたしていたからこそ書けたのだと思う。評価の別れる作家ではあるけれど、私は愛してやまない」
 相羽岬は暗い情熱を吐き出す。
 恋するように相羽岬の目は輝いている。
「岬さんは……それで郷土史家になったんですか?」
「ええ、そう。日本の歴史にはラヴクラフトが描いた世界に似た狂気が隠されている。それを暴くのが私の楽しみなの」
「でも郷土史家なんて儲かるんですか?」
「全く儲からないわね。これは趣味でやってるのよ」
 予想通りの答えが返ってきた。
 郷土史家が儲かるなんて聞いたことがない。
「私の父は資産家でね。色々と支援してもらっているの」
 随分と恵まれた境遇だと思う。
 大方、あのプジョー2008も資産家という父親に買ってもらったのだろう。
 しかし、それはいい。今はシズ姉のことだ。僕はその話を聞きに来たのだから。
「それでシズ姉の話ってなんですか?」
 まあ掛けて、と相羽岬は僕にベッドに腰掛けるよう促す。
 どっかと僕は足を踏ん張るようにベッドに腰を落とした。どんな突拍子もない話が飛んできても受け止めてみせる。
 風を入れましょう、と相羽岬は窓を開ける。相羽岬の長い黒髪が夜風になびく。
 新鮮な外の空気が美味しい。
 相羽岬は椅子に座って煙草に火を点ける。
「私が探偵を雇っているって話は知ってるでしょう。その探偵に町のことを色々調べさせていたの。それでね、失踪する女性たちは必ず一之瀬静稀さんの接触を受けているのよ。どう、驚いた?」
「な……」
 絶句した。
 それじゃあシズ姉が犯行に関わっているという警察の見解は全く正しいことになるじゃないか。
 ややあって衝撃から立ち直った僕は反論した。
「動機がありません。シズ姉にはそんなことをする動機が全くないじゃないですか」
「だから最初は任意同行を求めたのでしょうね。動機は今のところ警察も分かってないみたい」
「当り前です! シズ姉は無実なんだから!」
 僕は思わず立ち上がっていた。
 どんな突拍子もない話を言われても動揺するつもりがなかったのに。
 まあ落ち着いて、と相羽岬が僕をなだめる。仕方なく座り直す。
「これは警察にいる私の協力者の話なんだけど。一之瀬静稀と頻繁に連絡を取り合っている人物がいるの。私はその人物こそ事件の首謀者だと見てる。警察も同じ見解でしょうね」
「誰なんですか?」
 僕の問いに相羽岬はくすりと笑った。
 嫌な予感がする。
 果たして相羽岬は言った。
「貴方の父親・誠二郎さんよ」
 僕は言葉を失った。
 無言でいる僕を前に相羽岬は滔々と言葉を連ねる。
「誠二郎さんは神社の神職として町の人々から厚い信頼を集めている。実質的にこの町のリーダーは誠二郎さんなのだと思う。貴方にはそんな実感はないかもしれないけど、あの神社が町の人々――特に年配の男性たちに与える精神的な影響力と言うのは大きなものなのよ」
 僕はにわかには信じることができなかった。
 父には、年頃の娘との関係に悩む普通の父親という印象しかなかった。家事を一切手伝おうとしないのは常々不満に思っていたけれど、それも心のどこかで許していた。いずれにせよ、僕にとって父は普通の人でしかなかった。
 そんな父が町の重要人物だと言われても、事件の首謀者だと言われても、僕には信じることができない。相羽岬の言葉は僕の理解を超えていた。
 押し黙る僕に相羽岬は一冊の絵本を持ってきた。
 表紙には、大きな鬼と着物を着た少女が描かれている。民話だろうか?
「なんですか、これは?」
「これはね、森宮家の分家に生まれた絵本作家が昔、書いたものなの。これを手に入れるのは苦労したわ。なにせ、全く売れなかった絵本だから。彼が入院していた精神病院の図書室に置かれているのを譲ってもらったのよ」
「精神病院?」
「彼は心を病んで入院していたのよ。死ぬまでね」
 嫌な話を聞いた。
 ぱらぱらと絵本をめくる。
『今は昔。木佐木町に鬼がやってきました』
『町で悪さをする鬼に困り果てた人々は巫女にお願いして鬼の気持ちを鎮めてもらうことにしました』
『巫女は鬼のために舞いました。大人しくなった鬼は巫女と一緒に暮らし始めます』
『それ以来、町に悪い人が来ても鬼が追い払ってあげました。人と鬼は仲良く暮らします』
『やがて巫女は孕みました。鬼の子供です』
『しかし、ある侍によって鬼はとうとう退治されてしまいます』
『侍はこれからは自分が町の指図をすると言います。重い税がかけられました』
『困った人々を見兼ねて鬼の子供が侍に立ち向かいます。子供は鬼に変化して侍を倒しました』
『その子供は父親である鬼に代わって町を守り続けたのでした。子供には森宮という姓が与えられました』
 そんな風に絵本は締め括られていた。
 僕には相羽岬がなにを言いたいか分からなかった。不気味な印象だけが絵本から伝わってくる。
 いつの間にか夜風がじっとりと重い。
 相羽岬が暗い情熱をにじませながら解説する。
「これが森宮家の始まり。つまり貴方たちは鬼の末裔なのよ」
「馬鹿なことを言わないでください。頭のおかしい人が描いた絵本の話でしょう?」
「でも面白いと思わない?」
「思いません!」
 叫んだ僕を、相羽岬は楽しそうに眺めている。
 やっぱり来るんじゃなかった。
「失礼しました。もう帰ります」
 僕は絵本をベッドに置いて立ち上がった。
 出て行こうとする僕の背に相羽岬の言葉が突き刺さる。
「私の言葉が信じられないなら自分で調べたらどう? 私が思うに貴方は一番真実に近い場所にいる」
 足が止まった。
 しかし、これ以上動揺を見せても相羽岬を楽しませるだけだ。
 僕はなにも言わず部屋を出た。
 ビジネスパークの外に出ると空気が本当に新鮮だった。それで僕は自分が思っていた以上に緊張していたことに気付いた。じっとりと背中が汗ばんでいる。
 僕は半ば、相羽岬の言葉を信じてしまったのかもしれない。



 帰宅すると家の明かりは消えていた。携帯電話で時間を確かめると、もう一二時近い。随分長い時間、相羽岬の話を聞いていたらしい。
 父も妹も、もう寝ているようだ。
 僕は足音を忍ばせて父の書斎に入った。父にはここには入らないように言われている。その言い付けを生まれて初めて破った。
 相羽岬の言葉は思った以上に僕に影響を与えていたのだろうか。
 いや、違う。
 僕は父やシズ姉の無実を証明したいだけなんだ。調べることで無実が証明されたら、僕は安心してシズ姉の帰りを待つことができる。
 書斎は古い本のカビっぽい匂いに満ちていた。
 一体なにから調べようか。父は日記を毎日つけるような几帳面な性格ではない。となると、机にでんと構えているパソコンから調べるべきか。
 僕はパソコンの電源を入れた。
 起動までの時間がもどかしい。外では風が強くなってきたのか、窓ガラスを激しく揺らす。その音で父が起きてしまわないかと不安になる。
 パスワードを求められた。なんと入力するべきか迷う。
『SeijrouMorimiya』
 とりあえず入力してみたが、弾かれてしまった。
 迷った僕は、
『19690719』
 と父の生年月日を入力してみた。
 今度はパスした。
 硬い感触のキーボードを打ちながらパソコンを調べる。
『鬼』
 という単語を試しに検索してみた。
 しかし一件もヒットしない。
『森宮』
 で検索してみたが、やはり一件もヒットしない。
 仕方なく僕はライブラリを一つずつ調べることにした。
 まずは画像ファイルから。
「……」
 途端、僕は古いパソコンのように固まってしまった。
 画像ファイルには雨音の写真ばかりが保存されていた。赤ちゃんの頃から最近のものまで。際どい写真もある。父さんは一体どういうつもりなんだ?
 次はメールボックスを漁る。受信したメールのタイトルを見る。
『雨音ちゃんの写真、すごく良かったよ』
 というタイトルが目を惹いた。
 そのメールを開く。
『この前もらった雨音ちゃんの写真、すごく良かったよ。アルビノの美少女なんてレアだねー。愛欲父さんが雨音ちゃんに欲情する気持ちがよく分かるよ。こんな娘がいたら俺だったらすぐに犯しちゃうね。愛欲父さんは娘が育つまで待ってあげてるんだから紳士だよね』
 この人、なにを言ってるんだ? 父が雨音に欲情してるだって? そんなわけあるはずないじゃないか。
 僕はにわかに反応できなかった。
 震える手で同じ発信者のメールを次々と開く。
『ただ、愛欲父さんの言う通り、息子君の存在が邪魔だね。雨音ちゃんはすごいブラコンなんだって? 息子君には早く家を出てもらって、雨音ちゃんと二人きりにならないとチャンスが生まれないよね。愛欲父さん、頑張って息子君を追い出す計画を進めてね。雨音ちゃんとのハメ撮りを期待してるよー』
 ふざけるな。
 僕は沸々と怒りが湧き上がるのを感じた。
 しかし今まで父が僕の自立を快く後押ししてくれていたことも思い出していた。神社の息子だったら普通家に残ることを期待するものじゃないか?
 これまでは父が理解を示してくれているとばかり思っていた。しかし父が僕を家から追い出して雨音から遠ざけようとしているのであれば話の筋は通る。そして父は僕がいなくなったあと、雨音に乱暴するチャンスをうかがっていたのか。
 信じたくはない。
 けれども、父の知り合いらしい男の反応を見るに、父からかなり詳しく家のことを聞かされているという確信があった。全て作り話を父本人にしようとしているとはとても思えない。
『森宮家の男は血族の女とセックスすることで鬼に変化するっていう話はすごく萌えたよ。そういうリスクがあっても惹かれてゆくっていう展開はすごくいいよね。応援してるよ。息子君には死んで欲しい愛欲父さんの気持ちに激しく同意!』
 僕は吐きそうになった。頭がぐらぐらと揺れている。
 父が僕に死んで欲しいと思っている。
 僕という人間の存在を全否定されたような気分だった。しかも森宮家の男が血族の女と結ばれたら鬼に変化するだって? そんな話が現実にあるはずがない。
 しかし僕は、森宮家の始祖が鬼であるという仮説を相羽岬から聞いたばかりだった。もし、今チャットを通じて聞いた話が真実だとしたら、僕と雨音は絶対に結ばれてはいけない関係ということになる。ひどく雨音が憐れだった。切なそうな声を上げて自分を慰める雨音の姿が鮮明に浮かび上がった。
 僕はどうしていいか分からず、しばしパソコンの画面を睨んでいた。
 そんな時、
「直登、そこでなにをしているんだ?」
 という父の声に僕は我に返った。
 見れば、ドアのところにパジャマ姿の父が立っていた。ひどく不機嫌そうな顔をしている。
「書斎には勝手に入るなと言ってあるだろう」
「そんなことより父さん! この人の言っていることは本当なのか? 雨音に変なことがしたいって!」
 僕は席を立って父に詰め寄った。
 父は不機嫌ではあるものの、驚くほど落ち着いていた。
 そんな父は一笑に付す。
「多分、人違いだろう。ネットではよくある話だ」
「嘘だ! この人ははっきり雨音の名前を出した! アルビノで雨音っていう名前の子なんて、うちの雨音だけだよ! そんな偶然があるって言うのか!」
「じゃあ、その人は俺の話で妄想を膨らませた困った人なんだろう。おまえもネットには気を付けないといけないぞ。ネットではなにげなく言った言葉を好き勝手に解釈して話を膨らませる人たちがたくさんいるからな」
 父は全く僕の話に取り合おうとしなかった。冷たい眼差しで僕を見詰めている。ただ父が嘘を吐いていることだけは伝わってくる。だとしたら相羽岬の言葉は真実なのか。
 いや、そんなはずはない。
 僕は今なお父を信じたいという気持ちを捨てきれないでいた。
 父を疑うということは、これまで育ててくれた日々を全否定してしまう気がする。
「直登、二度とこの部屋に勝手に入るんじゃないぞ」
 父は冷たく僕に言い渡した。
 僕は大人しく書斎から出るしかなかった。
 言いようのない不安を抱えながら。



 夏祭りの日がやってきた。
 相羽岬に森宮家の話を聞かされてから一週間経つ。それとなく父の様子を観察しているが、今のところ変わった節はない。これまで通りと言っていい。
 夏休みに入ったと言うのにシズ姉はいまだに身柄を解放されていない。一体いつまで拘束されなければいけないのだろう。噂では今では被疑者として本格的な取り調べが始まっているとか。信じたくはない。しかし、いまだにシズ姉が帰ってこない以上、警察からの疑いが強まっているのは確か。
 学校でもシズ姉への疑いが日に日に強まっているようだった。このままでは学校に帰ってきた時、シズ姉の居場所がなくなってしまう。
「兄さん、準備できた」
 不意に雨音の声がした。
 浴衣姿の雨音が僕の部屋に入って来ていた。白地に鉄線の柄の付いた浴衣は、雨音が細身と言うこともあって良く似合っている。
 僕はと言えば、いつものようにシャツとカーゴパンツというラフな格好だ。
「雨音、よく似合ってるよ。日焼け止めはちゃんと塗った?」
「うん」
「じゃあ行こう」
 夏祭りは屋台が出店するのは木佐木町の中心部に限られているが、今泉でも町内会などが小さな催し物を行う。今泉にある福祉施設でもちょっとした集まりがある。また、町内会では例年、子供神輿を企画しており、今年も子供たちが小さな神輿を担ぐことになっていた。
 僕は、日傘を差した雨音を連れて今泉の町内を歩いて回った。
 福祉施設の前で入居者と一緒にラムネを飲みながら待っていると、祭囃子の音が近付いてきた。僕と雨音は携帯電話を取り出して写真を撮る準備をする。
 やがて子供神輿を先導する年長組の少年たちが姿を見せた。勇ましく法被を着こなしている。
 僕は手を振りながら子供神輿の行列を写真に撮る。雨音も僕に習う。
 そんな時だった。
「あっ!」
 と雨音が大きな声を出す。
 子供神輿を担いでいた子供の一人が転んでしまったのだ。行列が乱れる。
 雨音は普段は見せない鋭い動きで子供に駆け寄る。
「ボク、大丈夫?」
 雨音が子供を立たせてやると、子供は泣き顔を見せることなく、気丈に笑った。
「大丈夫! お姉ちゃん、ありがとう! 神楽舞、楽しみにしてるね!」
 子供神輿が再び動き出す。
 何事もなかったようでなによりだ。
 子供神輿を見送ったあと、僕は雨音に語りかけた。
「おまえって子供好きだよな」
「そう?」
「学校で友達と話しているのと全然雰囲気が違うよ。さっきだって頼れるお姉さんって感じだった」
 雨音もいつの間にか成長していたのかもしれない。
 僕がずっと傍にいて見守ってあげる時期はもう過ぎてしまったのかも。
 それでもあの夜の父の態度が気にかかっていた。それが解決するまでは父に目を光らせておかないといけない。
 そんな僕の心中など知らないように雨音が珍しく穏やかな声で語る。
「私ね、子供の頃はずっと辛い思いをしてきた。だからかな、子供には優しくしてあげたいんだ」
 幼い頃に辛い思いをしたから他人にも辛く当たるのか。そうではなく、だからこそ同じ辛さを味あわせることのないように優しく接するのか。同じ体験をしたとしても、その後どちらを選択するかによって生き方は大きく変わる。
 雨音は良い選択をしたようだ。
 その選択を、兄として僕は誇らしく思う。
 夜になって雨音が神楽舞を奉納する時間になった。普段は人がほとんど来ることのない狭い境内には五○○人以上の参拝客が詰め掛けていた。ほとんど町の外から来た人たちだ。雨音が神楽舞を奉納する姿がネットに投稿されて以来、雨音の存在は町の外にも知られるようになった。今では『姫様』と呼ばれて、ちょっとしたネットアイドルのよう。
 篝火の明かりだけが照らす境内には参拝客の汗の臭いが満ちている。
 明かりの絶えた拝殿は薄絹で仕切られて中の様子をうかがうことはできない。参拝客たちは息を詰まらせるように何事か小声でささやき合っていた。参拝客の熱気が肌で直接伝わってくるような、そんな雰囲気だった。
 僕は手伝いを抜け出して雨音を見守るために参拝客に混ざっていた。そんな僕を則之が見つけた。
「直登。お疲れ様」
 則之はこれから始まる雨音の神楽舞が待ち遠しいと言った表情だった。期待に胸を膨らませる、とは今の則之の様子を言うのだろう。
 則之は神楽舞を待つ間、僕と話すことで時間を潰すことにしたらしい。
「神楽舞の逸話を知っているか? 木佐木町に現れた鬼を鎮めるために巫女が舞ったのが始まりっていう話」
 その話がただの伝説ではないのではないか、という疑念が僕の中に生まれている。その鬼こそが森宮家の始祖であったという仮説を相羽岬は唱えた。森宮家の分家に生まれたという絵本作家がそんな作品を遺していたらしい。
 信じたわけではない。
 しかし今の僕は件の絵本作家の狂気を否定するだけの現実感を持ち合わせていないのも事実。
 則之は熱っぽい口調で語り続ける。
「鬼がアルビノの女の子を産ませたら町が滅びるって言い伝え。俺は信じちゃいないけど、おじさん連中はマジみたいでさ。氏子会に親父の付き添いで行っても姫様のことばっか聞かれるんだぜ。正直うぜえって思う。そんなんじゃ姫様が息苦しくて大変だろ」
 則之がそんな風に雨音の心配をしてくれていたなんて知らなかった。
 則之の父親はうちの神社の氏子さんの中でも重要な立ち位置であるため、則之は氏子さんたちの内情について詳しかった。
「大人たちが姫様になにを期待してんのか、正直よく分かんないけど、姫様にはこんな町を出て自由に生きて欲しいよ」
「則之、ありがとう」
 不意に拝殿に明かりが点いた。しゃんしゃん、という鈴の音が軽やかに響いた。
 参拝客がどよめく。
 薄絹がするすると滑るように開いて拝殿が奥まで見えるようになる。
 拝殿の中央に両手に鈴を持った雨音が立っていた。巫女の装束である緋色の袴が雨音の白さを一層際立たせる。雨音の赤い瞳が篝火の明かりを受けて濡れたように煌めく。雨音にはなんの表情も浮かんでいない。一点をじっと見詰めている。
 参拝客は無言になった。
 やがて静かに音曲が始まる。
 その音曲に合わせて雨音が神楽舞を踊り始める。右に回ったかと思えば、左に回り、円を交互に描くように足を静かに運ぶ。雨音の歩みに合わせて鈴が鳴る。指先まで計算されたような完璧な踊りだった。激しい動きは一つもないのに目を離すことができない。
 初代の巫女は鬼を慰めるために神楽舞を踊ったと言う。その言い伝えが真実であるかのような説得力を、おそらく僕だけでなく参拝客全員が感じ取っていることだろう。雨音の踊る神楽舞には荒ぶる心が凪いでゆくような力があった。
 一体どれくらい時間が経ったのか。
 僕は喉の渇きを忘れるほど雨音の姿に魅入った。不意に雨音の視線が固定された。雨音の視線が僕に注がれる。
 そんな錯覚を一瞬覚えた。
 雨音はぴたりと静止していた。それが神楽舞の踊りの終わりであることが僕はすぐには分からなかった。毎年のように神楽舞を見ていると言うのに、今年の雨音の踊りには前年までにない迫力がある。
 そして明かりが途絶え、再び薄絹によって拝殿は仕切られる。
 参拝客から一斉に拍手が湧いた。皆、雨音に魅了されていることが分かる。
 そんな雨音が自分の妹であることが誇らしかった。
 雨音。
 綺麗だったよ。

4.雨空に溶ける

 夏休みも半ばを過ぎた頃、客足が戻りつつある『明星苑』で僕は則之と共に皿洗いに励んでいた。
 シズ姉はまだ戻っていない。けれど店長も奥さんも気丈に振舞っている。そんな二人を前にすると、とても弱音なんて吐いていられなかった。シズ姉の帰る場所を守るんだ。
 外からは激しい雨の音が聞こえてくる。今夜は空が荒れており、黒々とした雨雲が町を濡らす。僕らが抱える心の内を表すような空模様だった。
 そんな時、僕のスマートフォンがポケットの中で鳴った。うっかり電源を切るのを忘れていた。
 店長の厳しい叱声が飛ぶ。
「おい、直登。ケータイの電源を切っとけって言ってるだろ!」
「すみません、用件を聞いたら切りますから!」
 慌てて僕は発信元を見た。
 公衆電話とあった。
 一体、誰だろう? 僕の胸はわけもなく騒いだ。
 電話に出ると雨音の声が耳に飛び込んできた。
「兄さん! 助けて、お父さんが!」
「雨音? どうしたんだ?」
「お願い、早く来て!」
 雨音は、「助けて」とか「早く来て」とか繰り返すばかりで要領を得ない。しかし雨音の切羽詰まった涙声が緊張感を煽った。一体、なにが起きたんだ?iPhone≠所持している雨音が公衆電話からかけてきたことが、ただならぬ事態であることを語っていた。
 その時、父のことを思い出した。父は雨音にただならぬ感情を抱いていると思しきメールを発見したことを忘れたわけではない。しかし僕は父への信頼を捨てきれなかった。まさか父が雨音にそんなことをしたいと思っているはずがない。
 そう思おうとした。しかし僕は雨音の傍から離れるべきではなかったのかもしれない。
 その結果、雨音は……。
「雨音! おまえ、まさか父さんに――」
「あっ!」
 という雨音の小さな叫びを最後に電話は途絶えてしまった。
「雨音? おい、雨音?」
 叫べども答えは返ってこない。
 雨音の身になにかが起きたのは間違いない。
 雨音が危ない!
「悪い、則之! あとは任せた!」
 呼び止めようとする店長や則之の声に背を向けて、僕は雨合羽も着ずにベスパに飛び乗った。
 礫のように降り注ぐ雨の下、僕は自宅のある今泉へ向けて走り出す。
 今泉まで急いだとしても一○分弱。
 間に合ってくれ。
「雨音! 無事でいてくれ!」
 僕の叫びは夜に溶けてしまい、雨音に届くことはない。
 不意に対向車のハイビームが視界を焼く。距離感を失いそうになりながら僕は懸命にぺスパを走らせた。雨足は一向に収まらず、むしろ激しさを増してゆく。全速を出して雨と風を正面からベスパで切り裂いた。そのせいで全身で強い雨を浴びることになり、ヘルメットから垂れる雨水が目や鼻に入る。雨粒からは微かに土の匂いがした。冷たい雨に体が濡れても心を騒がせる不安を冷ましてはくれない。
 焦燥感が身を焦がすようだった。
 雨音の身になにかあったら、僕は一体どうすればいいんだ。
 自宅に着いた頃、僕は下着まで雨に濡れていた。キーを外す間も惜しんで玄関に上がる。
「雨音! 無事か?」
 居間では、甚平をだらしなく着崩した父が一人で酒を飲んでいた。グラスに注がれた酒を呷るように飲み下す。まるで感情を酒で押し流すように。
 そんな父の自棄になったような様子に僕は確信した。
 父が雨音になにかしたことを。
「父さん! 雨音になにをした!」
 父は乱暴にグラスをテーブルに叩きつけた。
 テーブルに琥珀色の液体が零れる。
 僕を見ようともしない父に僕の中の不安は益々大きくなった。
「父さん! 答えろ!」
 ようやく父は僕を見た。
 ひどく濁った目だった。
「今まで育ててやってきたんだ。そんな娘の処女をいただいたとしても、誰に責められる謂れはない!」
 体温が一気に冷えた。
 手遅れなのか?
 そんな僕の動揺を他所に父は苛立たしげに続けた。
「それなのに雨音の奴、これからぶち込んでやろうって時に俺を蹴って逃げやがった! あの恩知らずめ!」
「ふざけるな!」
 僕は父の頬を思い切り殴った。父はソファから転げ落ち、酒瓶が倒れて酒を零す。
 初めて人を殴った。それも実の父親を。
 それでも後悔するような後ろめたい感情はなかった。ただ、拳が熱を帯びたように激しく痛かった。もしかすると折れているのかもしれない。いや、今はそんなことに構っている場合ではない。
 僕は玄関から飛び出して、再び雨の中、ベスパで走り出す。この近くで公衆電話のあるところと言ったら駅近くに建つ旅館正面だろう。おそらく、そこに雨音がいる。
 雨音、待っててくれ。
 今すぐそこへ行くから。



 五分ほどベスパを走らせる頃には何故か手の痛みは引いていた。もしかすると折れたと思ったのは勘違いだったのかもしれない。人を殴ったのは初めてのことだったから、殴った時の手の痛みを過剰に捉えていたのだろう。
 それより今は雨音の行方だ。
 電話ボックスの中で誰かがうずくまっているのが見えた。照明のほとんど絶えてしまった夜の町では、電話ボックスの明かりがひどく心細かった。電話ボックスの背後に建つ旅館は寝静まったように音や明かりが絶えている。とっくに終電の時間は過ぎて、今は日中以上に駅周辺に人気はなかった。
 僕はベスパから飛び降りて電話ボックスに駆け寄った。
「雨音!」
「兄さん!」
 やはり雨音だった。
 雨音は雨の中、電話ボックスから飛び出し、僕に抱き着いてくる。雨音の裸足の足は泥で汚れ、爪が割れて血が出ていた。その痛々しい姿に胸が締め付けられる。雨音の体はすっかり冷え切っており、僕の腕の中でがたがた震えるばかり。それはきっと寒いという理由だけではなくて。
「お父さんが……お父さんが……」
「なにも言わなくていいよ」
 と僕は雨音を抱き締める腕に力を込めた。
「分かってるから。温まれる場所に行こう」
「うん……」
 僕は雨音を後ろに乗せて南木佐木にあるビジネスパークに向かった。雨に濡れたネグリジェ姿の雨音を誰かに見られると厄介なことになると思っていたが、幸い誰にも出くわすことはなかった。非常階段から入ったのが良かったのかもしれない。褒められる行いではないが、今はそんなことを言っている時ではない。
 僕は相羽岬の泊まっている部屋の前で電話を掛けて呼び出した。
「すみません、大変なことが起きたんです。今晩、泊めてくれませんか?」
「ふーん、それで?」
「それでって……」
 僕はしばし続く言葉が出なかった。
「どうして泊めてあげなくちゃいけないの?」
「雨音に大変なことが起きたんです! 今は貴方しか頼れる人がいないんです!」
「雨音さんに?」
 相羽岬は興味を示したようだった。
 がちゃり、とシャツとスラックスという格好の相羽岬がしばらくしてドアを開けた。
 相羽岬はびしょ濡れになった僕らを見て目を輝かせる。雨音に対して遠慮のない視線を注ぐ。
「話を聞かせて」
 と僕たちを部屋に招く。
 すみません、と僕は相羽岬に申し出た。
「雨音の体は冷え切っているんです。シャワーを浴びさせてもらえませんか?」
「……」
 僕の言葉に相羽岬は露骨に嫌そうな顔をした。
「お願いします。その間にお話ししますから」
「まあ、それならいいけど」
「雨音、シャワーを浴びておいで」
 と僕は雨音に促した。
 雨音はなかなか僕から離れようとしないので、僕は雨音を抱き締めてあげた。
「僕はここにいるから。このままじゃ風邪を引くよ」
 雨音は無言のままバスルームに入っていった。
 相羽岬はソファに腰掛けて煙草を吸いながら、僕に対面のソファに座るよう手で促した。
 仕方なく僕はソファに腰を落とす。
 早速と言った感じで相羽岬が身を乗り出す。
「で? なにが起きたの?」
 相羽岬は実に生き生きしていた。
「雨音の様子を見れば、大体予想は着くんじゃないですか?」
「貴方たちの口から直接聞きたいのよ」
 なんて人だ。
 雨音に大変なことが起きたっていうのに、あくまで他人事として楽しんでいる。
 しかし説明しなければ追い出されてしまうかもしれない。
 仕方なく僕は話し出した。
「父が、雨音を乱暴しようとしたんです」
「なんだ、未遂か」
 相羽岬はあからさまに残念がった。
「貴方は!」と僕は思わず叫んだ。「貴方は女性でしょう! 例え未遂でも雨音がどれだけショックだったか想像できるはずです!」
「私は他人に共感する能力が乏しくてね」
 ふぅっ、と相羽岬は紫煙を吐き出す。
 この人は本当にダメな人なんだ。僕は深く理解した。
「貴方たちの父親である誠二郎さんは仲間内で雨音さんが最近色っぽくなったと語っていたと聞いている。だから、もしかして雨音さんを女として見てるんじゃないかって期待していたんだけどね。まあ、期待通りではあるかな。未遂に終わったのは残念だけど」
 もはや相羽岬に掛ける言葉がなかった。
 相羽岬が二本目の煙草に火を点けたところで、雨音がバスローブを着て戻ってきた。
「雨音、お帰り」
「雨音さん。血は繋がっていないとは言え、父親に犯されそうになった気分はどう? 後学のために聞かせてくれない?」
「貴方はいい加減にしてください!」
 と僕は声を大にして相羽岬を抑えた。
 くすくす、と相羽岬は可笑しそうに笑う。
「場を和ませようとする冗談よ。そんなに怒らないで」
「冗談だとしても本気だとしても問題です」
「そう?」
「そうです」
 苛立ちを隠せない僕に相羽岬は笑みを濃くする。
「せっかく兄妹揃っていることだし、いい話をしてあげる。雨音さん、ベッドにでも座って」
 雨音は大人しくベッドに腰掛ける。
 相羽岬が話し出したのは、彼女が雇っている探偵の話だった。
「失踪した女性たちをどこに隠しているのか調べさせていたの。それで山奥にある防空壕のことが分かったのだけど、そこへ調べに行くと言ったきり、彼は連絡を絶ってしまった。おそらくそこが当たりね。木佐木町の秘密はそこに隠されてある」
 戦前、空襲から逃れるため防空壕が作られたという話は、おそらく日本人なら誰でも聞いたことがあるだろう。そこに父はなにを隠しているのだろうか。
 ここで相羽岬はスマートフォンの画像を見せた。
 スマートフォンには、鉄格子の向こうに大柄の人物が座り込んでいるのが映っているが、暗いせいではっきりとは見えない。
 ただ、なにか忌まわしい存在であるような気がしてならない。
「これは、なんですか……?」
「もしかすると、これが鬼なのかもね」
 相羽岬は楽しくて仕方がないと言った様子で笑った。
 そして僕らを試すように尋ねる。
「この話は警察にはしていない。貴方たちはまさか全てを警察に任せて解決を待つなんてことはしないわよね。それに、事件が解決しても警察は真実を明かしてくれるとは限らない。真実を確かめたければ、みずからそこへ赴く必要がある――直登君、雨音さん、貴方たちにはもう私に従うしか選択肢はないのよ」
 僕は雨音を見詰めた。雨音も僕にじっと視線を注ぐ。
 僕らに言葉は要らなかった。
 相羽岬に向き直って僕は決意を告げた。
「その防空壕に行きます。場所を教えてください」
「分かった。私も行くわ。鬼が実在するという仮説を自分の眼で確かめたいからね」
 互いの利益が一致した。
 相羽岬の部屋で夜を明かした僕らは、準備を整えて防空壕があるという場所へ向かった。



 相羽岬が運転するプジョー2008から降りて山中を一時間余り歩いた。
 樹上からはセミがけたたましく鳴き、折り重なった木々の枝の隙間から強い日差しが差し込む。人の手が入らなくなった山は荒れ果て、道も消えかけて歩き辛い。
 僕は時折、ペットボトルのミネラルウォーターで喉を湿らせながら、先頭を歩く相羽岬の後に続いた。最後尾を歩く雨音は無言のままついてくる。
 そんな雨音に僕は優しく声をかける。
「疲れたら言うんだぞ」
「……まだ……大丈夫」
 雨音は気丈に答える。
 木々の密度は次第に増し、山中は薄暗くなってゆく。心なしかセミの声も小さくなっているようだった。
 本当にこの道で合っているのか。
 僕はだんだん不安になっていった。
「兄さん、本当にこの道で合っているの?」
 雨音も不安らしい。
 それでも相羽岬は僕らのことなどお構いなしと言った様子で歩き続ける。長い黒髪が風になびいて揺らぐ。相羽岬の足取りには疲労の色が見えなかった。
 対する僕はだんだん思考を放棄して機械的に足を踏み出すだけになっていった。険しい山道を転ばないように歩くだけで精一杯だった。
 最後尾の雨音は遅れがちになる。
「ここね」
 不意に相羽岬が足を止めた。
 道の向こうに岸壁に開いた洞穴が見える。
 これが目的の防空壕なのだろうか。
 洞穴からは冷たい空気が漂ってきていた。暗闇が口を開けているように洞穴は奥が暗くて見通せない。まるでこの世とは違う場所に続いているかのような感覚に囚われる。一体どれくらいの深さなのだろうか。ここに木佐木町の秘密が隠されていると相羽岬は語っていた。
「雨音、覚悟はいいか?」
「うん」
 この先になにが待ち受けていようとも後悔しない。
 雨音は僕にこくりとうなずいた。
 そんな僕たちを見て、相羽岬がにやりと笑った。
「行きましょう」
 相羽岬は小さな懐中電灯を取り出して点灯した。懐中電灯の明かりが闇を暴く。
 なだらかな下り坂になった洞穴はところどころにランプが吊るされていた。やはり、ここは防空壕だったのか。ごつごつした岩肌が剥き出しになった床を靴が叩く。僕ら三人の足音が奥まで響いてゆくような気がした。空気が淀んでいて長く吸っていると肺が腐ってしまいそうだった。この臭いは母の病院で嗅いだことがある。人の生活臭だ。
 雨音が無言で僕の手を握ってきた。僕は雨音を勇気づけるため強く握り返す。
 やがて広い空間に出た。
 懐中電灯がゆっくりと部屋の中を照らしてゆく。
 小部屋がいくつか隣接しているようだったが、そこには鉄格子がはめ込まれており、まるで地下牢のような印象だった。人里から離れた場所にこんな場所が隠されていたなんて想像もしていなかった。一体この場所はなんなのか。
 どの小部屋も無人ではあったが、糞尿が残されていた。近付くにつれて臭いが強まり、鼻が曲がりそうだった。
「やはり、ここに何者かが幽閉されていた……」
 相羽岬は喜びを隠せないようだった。自分が雇っていた探偵の身を案じる様子はまるで見られない。
 しかし僕も雨音も、言葉も出なかった。
 雨音は不安を訴えるように僕の手を握る力を強める。
「きっと移動したんだわ。探偵に見つかったことを重く見たのね」
 相羽岬はそんな推論を口にする。
 僕はなんと言っていいか分からなかった。
「ここを調べれば木佐木町の秘密の一端が必ず明らかになる」
 相羽岬は床を這うような低い姿勢で懐中電灯を当てながら調べ始める。
「見て! 長い茶髪が落ちている! これはきっと女性の髪よ! やはり、ここに失踪した女性たちがいたのよ!」
 という相羽岬の歓声が地下壕に響いた。
 そんな相羽岬に答える声が僕の背後から響いた。
「そうだよ、ここに攫ってきた女の人たちがいたの。鬼の慰めものにするためにね」
 振り返ると、僕たちの帰る道を塞ぐようにシズ姉が立っていた。大きなバッグを抱えている。
 僕は驚きの余り声が上擦った。
「シズ姉? 警察にいるはずじゃ?」
「疑いが晴れて釈放されたんだよ。ナオちゃん、心配かけてごめんね」
 シズ姉はそんなことを言う。
 しかし疑いが晴れたと言うが、本当にそうだろうか。警察がそんなに簡単に釈放するとは思えない。それでも僕はシズ姉が嘘を吐いているとは思いたくなかった。
 思わずシズ姉に歩み寄ろうとした僕の腕を、雨音がつかんだ。
「兄さん。行っちゃ駄目。このタイミングでこんな場所に静稀が現れるのはおかしい」
「でも……」
 僕はシズ姉の様子を観察する。薄暗い地下壕の中で、シズ姉は穏やかに笑う。それはいつものシズ姉の微笑みと変わらない。しかし、こんな場所で穏やかに笑っているシズ姉は、雨音の言う通りなにかがおかしいのかもしれない。
 沈黙する僕と雨音に代わって相羽岬が問うた。
「ここに鬼が幽閉されていたの? 木佐木町の人々は代々、鬼をここに隠していたんでしょう?」
 相羽岬はあくまで鬼に拘る。
 シズ姉は滔々とした口調で答えた。
「日本列島の先住民族。それが鬼の正体。その血を絶やさないことが私たちの目的なの」
「森宮家が血族結婚を繰り返してきたのは、その血を薄めないためかしら?」
「そうだよ。貴い血が薄れてしまっては困るよね。でも、血が濃くなり過ぎて病気になる子供が増えてしまった。だから私たち女が協力してきたんだよ」
 協力?
 その言葉はひどく忌まわしい響きを持っていた。
 シズ姉が淡々と語る。
「私がお父さんにここに連れてこられたのは一二歳の時。そこで鬼の子供を妊娠したの。でも流れちゃってね。それ以来、私は子供ができない体になってしまった。そんな役立たずの私に誠二郎さんは他の女をここに連れてくるっていう新しい役目を与えてくれた」
 シズ姉が妊娠していて、流産したことがあって……。
 僕は過負荷がかかったように固まってしまった。シズ姉にどんな言葉を掛ければいいのか分からない。綺麗で優しくて穏やかだったシズ姉にそんな秘密があったなんて信じられない。いや、信じたくないと言うべきか。シズ姉に抱いていた憧れが音を立てて崩れて行くかのようだった。
 そんな時、雨音が厳しい声でシズ姉に問いかけた。
「私のお母さんもその犠牲になったの?」
「雨音ちゃん、犠牲なんて言い方しないで。鬼の子供を産むことは大切な役目なんだよ。貴方たちのお母さんは鬼の世話をしていたんだけど、鬼に気にいられたの。それで鬼の手が付いた。貴方はそうやって生まれたんだよ、雨音ちゃん」
 シズ姉の言葉に雨音は体をよろめかせた。ショックだったことは容易に察することができる。僕は雨音の体を支えてあげた。
 そんな僕らを他所に相羽岬はシズ姉に尋ねる。
「そんなことより鬼はどこ? 鬼に会わせて」
「鬼ならここにいるじゃない」
 とシズ姉は僕を指差した。
「森宮家の男子こそ鬼なんだよ。怒りや憎しみのような負の想念が最高潮に達した時、森宮家の男子はみんな、異様な能力を発揮することができる。それこそが日本人の原型である証。私たちが守り続けてきた生き神様の正体」
 僕が鬼だって?
 にわかには信じられない話だった。
「シズ姉? 冗談だよね?」
「冗談じゃないよ、ナオちゃん。ここにいた鬼はもう男として機能しなかった。かと言って誠二郎さんにはみんなを引っ張っていく役目がある。そうなると、あとはナオちゃんしかいないよね。ナオちゃん、これからは貴方がここで暮らすの」
 シズ姉はバッグからなにかを取り出した。
 暗闇の中、それはぎらりと光る。鉈だ。
「相羽岬さん。貴方も協力してくれるって言うなら生かしておいてあげるよ。でも協力を拒むなら死んでもらうしかない。貴方は色々と知り過ぎたから」
「生憎、私は他人が犯されるのは楽しいけど、自分が犯されるのは趣味じゃないの」
「そう。じゃあ死んで」
 シズ姉は鉈を振りかざして相羽岬に歩み寄る。
 僕は必死でシズ姉を制止した。
「シズ姉! 止めてよ、こんなのシズ姉らしくないよ!」
 ふふ、とシズ姉は微笑むけれど、歩みは止めない。
「ナオちゃんと恋人になれて楽しかったよ。形だけではあったけどね。でもナオちゃんや雨音ちゃんを監視するにはちょうど良かった」
 そんな。
 僕と付き合うようになったのも嘘だっていうのか。
「まるでマインドコントロールされてるみたいね」
 相羽岬は左半身をやや前に出してシズ姉を待つ。腕に覚えのある動きだ。
 闇の中でシズ姉と相羽岬が向き合う。
 シズ姉が鉈を振り下ろす。
 同時に相羽岬が鋭く動く。鉈を持つ方のシズ姉の手首に相羽岬が手刀を添えたと思った瞬間、シズ姉の体が反転していた。シズ姉の手から離れた鉈が金属音を立てて床に転がり、雨音の足元まで達した。
 相羽岬はシズ姉の利き腕を極めて身動きを封じる。
「直登君、なにか縛る物を探して!」
 そう言われても僕はとっさに動けなかった。シズ姉が鉈を振りかざして襲い掛かって来ても、僕にはシズ姉を敵だと思うことができない。
「直登君!」
 相羽岬は何度も僕に命じる。
 そんな時、ごきっという骨が外れる音が防空壕の中に重く響いた。シズ姉はみずから関節を外すことで自由を取り戻し、素早く立ち上がった。シズ姉は、痛みなど感じていないかのような様子で、血走った目を大きく見開き、相羽岬に再び向かう。
 相羽岬はやはり左半身の構え。
 シズ姉が残った左腕で仕掛ける。相羽岬は襟をつかもうとしたシズ姉の左腕を見切った。しかしシズ姉の狙いは相羽岬の長い髪だった。思い切り髪を引っ張られて相羽岬はさすがに苦悶の声を漏らす。
 さらにシズ姉は相羽岬の顔面に頭突きを食らわせる。
 相羽岬は意識を朦朧とさせた様子で膝を着いた。
 シズ姉は鉈を拾い上げようと動く。しかし、先んじて雨音が鉈を手にしていた。
 シズ姉は雨音に優しい口調で語りかける。
「雨音ちゃん、いい子だからそれをこっちに渡して」
「嫌……嫌……」
 と雨音は鉈を胸のところで握ったまま後退りする。
 ついに壁際に追い詰められた。それでも雨音は鉈を渡せない。
「こっちに渡せぇえ!」
 鬼女のような形相でシズ姉が叫んだ。その表情を見た時、僕はシズ姉への未練を捨てた。
「ごめん、シズ姉!」
 僕は思い切りシズ姉に体当たりする。シズ姉は壁に頭を打ち付けて、ずるずると崩れ落ちた。慌てて僕はシズ姉に駆け寄る。
 シズ姉はちゃんと息をしていた。良かった、死んでない。
「直登君、借りを作ってしまったわね」
 と相羽岬がいつの間にか立ち上がっていた。
「この借りは事件が解決したら必ず返すから」
「いいですよ。ほとんどなにもできませんでしたし」
「それじゃ私の気が済まないの」
 相羽岬には彼女なりの美学があるらしかった。
 相羽岬はネクタイを外してシズ姉の両手首を後ろ手に縛る。シズ姉が拘束される姿を見たくはなかった。
 やり切れない思いだけが募る。



 シズ姉を警察に引き渡した。
 やはりシズ姉は釈放されたのではなかった。何者かの手引きで脱走したらしい。と言って町の人々とは考えにくい。やはり警察にシズ姉の協力者がいるのは間違いないだろう。シズ姉の協力者とは、つまるところ父の協力者に他ならない。父の影響力が警察にまで及んでいることに僕は薄ら寒い思いがあった。そんな警察にシズ姉を預けて大丈夫かという懸念はあったが、自分たちでずっとシズ姉を拘束しておくわけにも行かない。
 僕と雨音は相羽岬に連れられてホテルに戻った。
「結局、鬼とは出会えなかったわね。残念だわ。あとは一之瀬静稀の自供を待つしかないか」
 相羽岬は替えのネクタイを巻きながらそんなことを言う。
 相羽岬は落胆した様子だったが、僕にはそんな相羽岬を気遣う余裕はなかった。シズ姉は森宮家の男子こそが木佐木町の人々が隠してきた鬼だと語った。その中には当然、僕も含まれている。いまだにシズ姉の言葉を信じることができない。
 そうかと言って全てシズ姉の妄想と片づけることもできなかった。
 失踪の末に雨音を妊娠した母。木佐木町の周辺で続発している若い女性の失踪事件。そして何者かが幽閉されていた形跡の残る地下壕。
 歪な形のピースを組み上げた結果、一体どんな絵が浮かび上がるのだろう。
 悩む僕に、対面のソファに座った雨音が話しかける。
「静稀が兄さんを不幸にする女だってこと、これで納得できたでしょう?」
「おまえの言葉をちゃんと聞かなかったのは悪かったと思ってるよ」
 しかし、シズ姉が防空壕で豹変するまで、僕にはシズ姉に疑いを持つことはなかった。雨音がシズ姉への敵対心を露わにする度に戸惑うばかりだった。あの頃は雨音の直感が正しいなんて、思いもしなかった。
 問題はこれからのこと。
 一体どうするべきか。
 その日の夜、ノックの音が来訪を告げた。
 煙草を吸っている相羽岬が僕に出るように言い出した。仕方なく僕がドアを開ける。
 ドアをノックしたのはスーツ姿の中年男性だった。警察手帳を見せる。先ほど警察に行ったばかりなのに一体なんの用だろう。
 警察官は意外なことを告げる。
「直登さんですね。お父さんの誠二郎さんへの疑いが強まったので、お話をうかがいたくて。妹さんの雨音さんも一緒に署まで来てもらえませんか?」
 その声は部屋の奥にいる相羽岬にも聞こえたらしい。
「あら? 私は除け者?」
「貴方は黙っていてください」
 ぴしゃり、と僕は相羽岬に厳しい声を出した。
 やれやれと相羽岬は肩をすくめた。
 僕は雨音を連れて警察官の車に乗り込んだ。
「シズ姉……いえ、静稀さんがなにか話したんですか?」
「いいえ。別件です」
 警察官は言葉少なだった。
 僕と一緒に後部座席に乗った雨音が耳打ちした。仄かに白檀の匂いが香った。
「……兄さん、警察に行く道と違ってる」
「え?」
 周囲にそれとなく目を走らせる。確かに警察署に向かうためには遠回りの道を進んでいた。どういうことだ?
 まさか、と僕は戦慄する。
 警察にシズ姉の脱走を手助けした協力者がいることは推察していた。だとしたら、この警察官こそがその協力者ではないのか。大体、警察官が一人で僕たちを呼びに来たというのも考えてみればおかしい。
 僕はごくりと生唾を飲み込む。
 やがて車は警察署への道から完全に外れた。木佐木町の中心街を抜け、人通りの少ない夜の道をひた走る。
 雨音は怯えた様子で僕にしがみ付いてきた。
 そんな雨音を強く抱き締めながら恐る恐る警察官に尋ねる。
「この道は、警察に向かう道じゃないですよね……?」
「……」
 警察官は答えなかった。
 車が停まったのは数年前に閉鎖された病院だった。かつて白かった外壁は風雨にされされたまま放置され、今は灰色がかっている。ところどころ割れた窓ガラスから薄暗い中の様子をうかがっても、なにも見通すことができない。
「降りろ」
 警察官が後部座席から雨音を引っ張り出す。
 雨音が僕に手を伸ばす。
「兄さん!」
「雨音に乱暴なことをするな!」
 しかし警察官はお構いなしと言った様子で僕と雨音に手錠をかける。
「ついて来い」
 僕らはほこりが積もった待合室を抜け、病棟に続く階段を上っていった。
 病室の一つで父の誠二郎が待ち受けていた。
 父は腰かけていたベッドから立ち上がり、雨音の顎に手をかけて上を向かせる。
「雨音。今からでも遅くない。直登から俺に乗り換えないか?」
「絶対に嫌」
「なら力づくでものにするだけだ。娘の処女をいただくのは父親の特権だからな」
 と父は唇を舐めた。
 このままでは雨音が乱暴される。
 その時、僕の脳裏にある考えが閃いた。
「待て、父さん! 雨音は初めてじゃない! 雨音は僕を初めての相手に選んだんだ!」
「……」
 父は無言のまま雨音から離れ、僕の腹を強かに蹴り上げた。
 思わず苦悶の声が漏れる。
「ぐっ!」
「この恩知らずめ! 今まで誰が育ててやったと思ってる!」
 父は何度も僕を蹴りつける。痛みの余り思考することさえできない。意識が白く霞む。
 雨音の悲痛な声がやけに遠くから聞こえてきた。
「やめて、お父さん! なんでも言うことを聞くから!」
 そこでようやく父は僕から離れる。
 忌々しげに呟いた。
「やる気が失せた。おまえはあとで適当な男にくれてやる」
 やはり父は雨音の処女を狙っていたらしい。雨音が処女ではないと嘘を吐けば興味を失うと思っていた僕の予想は当たった。
 父は警察官と共に部屋を出て行こうとする。
 そんな父を僕は喘ぎながら呼び止めた。
「父さん。シズ姉は、僕らは鬼だと言っていた。日本列島の先住民族だって。本当にそうなのか? その血を絶やさないために女性を攫っていたのか?」
「静稀ならおまえたちも油断すると思っていたんだが、おまえたちと静稀の信頼関係というのは俺が思っていたより弱かったのかもな」
「質問に答えろ!」
「じきに分かる」
 父は薄く笑った。
「今度はおまえが兄貴の代わりに女たちを犯してゆくんだからな」
「兄貴……?」
 父には誠一郎という兄がいた。僕にとっては伯父に当たる。その伯父は僕が生まれる前に死んだはずだった。しかし、それは父の偽装で、実際には生きていたのかもしれない。あの防空壕の中で。
 ということは雨音の父親は僕の伯父なのか。
 そうして僕たちは監禁されることになった。スマートフォンを取り上げられたために外部と連絡を取ることはできない。一日に二回、食事を出される以外に部屋に誰かが訪れることはなく、次第に曜日の感覚がなくなってゆく。
 雨音は不安に怯え、だんだん口数が減っていった。
 なにもできない自分がもどかしかった。



 そんなある日の夜、病室を見張る男が声を上げた。
「誰だ、貴様!」
 争う様子がドア越しに伝わってくる。
 しかし、すぐに静かになる。
 やがてドアが開くと、そこには相羽岬の姿があった。
 助けに来てくれたのか。
「なんだ、けっこう元気じゃない。死にかけてるかと思って期待してたのに」
 一気に嬉しくなくなった。
「どうしてここに僕らがいることが分かったんですか?」
「話はあと。行きましょう」
 僕と雨音は手錠をしたまま、相羽岬の先導で廃病院から抜け出した。手錠をはめられた状態だと、近くに停めてあったプジョー2008に乗り込むのにも手間取る。
「早くして。気付かれるわ」
「そんなこと言われても」
 見れば、反対側のドアから乗り込もうとする雨音も苦労していた。
 僕らが後部座席に乗り込んだのを確認して、相羽岬は車を発進させた。
 すっかり町は寝静まっていた。
 プジョー2008は狭く薄暗い道を抜け、国道に出た。深夜ともなれば、行き交う車はトラックがほとんどだった。おぼろげな明かりの中でテールランプが揺らぐ。
 相羽岬が運転しながら語る。
「則之君に感謝することね。貴方たちがあそこにいることを教えてくれたのは彼なんだから」
「則之が?」
「彼のお父さんが誠二郎さんと電話で話し合っているのを聞いたらしいの。彼のお父さんも氏子だからね。誠二郎さんと繋がっていたというわけ」
 父親を裏切って則之は平気なのだろうか。父親に裏切られた気分は最悪だったが、父親を裏切る気分は味わったことがない。助けてもらったとは言え、則之がどんな気分なのか心配だった。
 不意に雨音が声を上げて警告した。
「兄さん! 後ろ!」
 振り返ると、見慣れた白いセダンが迫っていた。父の車だ!
 相羽岬も気付いたようだ。
「飛ばすわよ。しっかりつかまって」
 相羽岬はアクセルを踏み込む。エンジンが高らかに叫ぶ。制限速度を無視してプジョー2008が疾走する。フランス車というだけあって、プジョー2008は滑らかな接地感を伴うコーナリングを見せる。どこで覚えたのか相羽岬は抜群の運転技術だった。
 急カーブでも相羽岬は速度を落とさない。ノーズが対向車と掠めようと臆することなくアクセルを踏み込む。雨音は怯えたように目を閉じて僕にしがみ付いてくる。正直に言えば僕も怖い。雨音がいなければ叫びたいところだ。相羽岬には恐怖はないのだろうか。
 シズ姉を取り押さえた格闘技術といい、資産家の娘だという経歴といい、この人には謎が多い。
 しかし父のセダンは離されなかった。しっかりと食らいついてくる。父に運転技術があるとは思えない。そうなると、父の配下が運転していると考えるのが妥当か。
 そう思った時、セダンの助手席から身を乗り出す人の姿が認められた。なにか細長い物を構えている。あれは――。
「猟銃!」
 僕は相羽岬に警告した。
 同時に銃声が響き、車内が激しく振動する。タイヤを撃たれたのか?
 相羽岬が暴れ馬を押さえつけるように懸命にハンドルをさばく。
 その時、前方でクラクションが鳴り、白い閃光が視界を染めた。
 対向するトラックとぎりぎりのところですれ違う。
「いい子だから言うことを聞いて!」
 しかしプジョーはコントロールを失ったらしく、ガードレールを擦りながら減速し、ややノーズをはみ出した形で停車した。エアバッグが作動する。
 僕が車内から這い出てみると、セダンがすでに近くに停車し、父たちが猟銃を構えて立っていた。
「直登。せっかく生き神に祭り上げてやろうという親心を無視したな」
 父はそんなことを言う。
 大方、あの防空壕のような場所で一生監禁するつもりだったのだろう。
 車内に取り残されたままの雨音が悲痛な声を上げる。
「兄さん! 私に構わず逃げて!」
 この状況ではもう逃げられない。
 それに今は逃げられたとしても父はいずれ追ってくる。そんな予感がある。ここで対決しなければならない。手錠で拘束された不自由な状態であっても。
 シズ姉の言葉を思い出す。森宮家の男子は怒りや憎しみが頂点に達した時、超常的な力を発揮するという。超常的という言葉がなにを意味するかは分からない。しかし今はそこにすがるしかない。僕は雨音が父に乱暴されそうになった出来事を思い出す。
 あの時の怒りが湧き上がってくる。原初の海が波打つように、混沌が煮え立つように。
 森宮誠二郎という男を僕は許さない。
 怒りの余り視界が白く霞む。
「あぁああ!」
 僕は自分の内側に眠る衝動を呼び覚ます。力が湧いてくる。
 両手首を拘束する手錠を紐のように引き千切った。
 父たちが狼狽しながらなにか喚いているが聞こえない。
 肉が裂ける。
 骨が砕ける。
 そして、それらが再構築される音。
 自分が人とは違う生き物になったことが分かる。
 僕は鬼だ。
「――」
 猟銃の放った銃弾が僕を貫く。朱く熱せられた棒を体に突きさされたような痛みが走る。それでも僕は倒れない。
 僕はゆっくりと父に歩み寄った。
 拳を振り下ろす。
 父の頭は胴体にめり込んだ。



「――興味深い話だったよ、直登君」
 取調官は穏やかな口調でそんなことを言う。
 初めは厳しい口調で僕を尋問していた取調官だったが、僕の話が進むにつれて憐れむような態度に変わっていった。
 僕の話を最後まで聞くと、取調官は言い渡した。
「君には静養が必要だと思う。いいところを見つけてあげるから、そこでゆっくり休むといい」
 そうして僕は母が入院する病院に送られることになった。そこには母だけでなく雨音の姿もあった。雨音は僕と同じ証言をしたため、やはり頭がおかしいと思われたらしい。
「兄さん、これからどうしよう……」
 この病院ではネットも携帯電話も禁止されている。そのどちらも雨音にとって必要不可欠なものと言えるが、そんな患者個人の事情を慮ってくれるような場所ではなかった。外部からの刺激を断ち、ただ心穏やかに暮らすことだけに専念させる。それがこの病院の趣旨だった。
 飲まなくてもいい薬を飲み、日中は簡単な体操や塗り絵などで時間を潰し、夜は早く就寝する。規則正しい生活ではあるが、人間らしい楽しみはどこにもなかった。
 それでも母との時間が持てたことだけは感謝してもいいかもしれない。最近の母は薬が合ってきたのか、以前のように興奮して暴言を吐くことが大分少なくなっていた。相変わらず僕らが自分の子供だという認識は持てないようだったが、親しい隣人くらいには思っているらしい。
 しかし雨音にとって、この病院はやはり辛い場所だった。患者の平均年齢は六○代。そんな中に一五歳の雨音が入ってきたのだ。患者たちの中には雨音に熱を上げる者が大勢いた。雨音が自分の恋人だという妄想に取り付かれて公言し始める者までいるほどだった。雨音には耐えがたいだろう。
「もう嫌。こんなところ出たい」
 僕の部屋を訪ねて雨音は涙ながらに訴えた。
 そんな雨音を僕は抱き締めてあげることしかできない。
「せめてスマートフォンがあればおまえも少しは気が休まるんだろうけどな」
「うん……連絡したい人、いっぱいいる」
「僕もいるよ」
 と僕はアールさんという人のことを話し出した。
「いつもSNSでコメントをくれた人でさ。他人っていう感じがしないんだよ。すごく距離が近いんだけど、全然嫌な感じがしないんだ」
「……」
 雨音は申し訳なさそうに黙り込む。
「アールならここにいるよ」
「え?」
「今まで黙っていてごめんなさい。私がアールなの」
「おまえが……?」
 僕はまじまじと雨音を見詰めた。
「アールはRain≠フ頭文字。自分の名前をそのまま使ったら兄さんに気付かれると思って……」
 そうだったのか。
 アールさんに感じていた親近感の正体に僕はようやく気付いた。
「兄さん……怒ってる?」
「怒ってないよ」
 僕は雨音の頭を撫でてやった。入浴の回数が制限されているせいで、髪には脂が残っていた。
 意地を張って僕と同じ証言をしなければ、こんな生活を送ることもなかったのに。
 そう思うと僕の胸は締めつけられた。
 一カ月ほど経った頃、則之が見舞いに来てくれた。僕らは面会室で再会を喜んだ。今まで則之とほとんど会話を交わさなかった雨音だったが、今はまともな人との会話に飢えているせいか、積極的に話しかけていた。
 この病院の患者の中には自分が今しゃべっている内容さえ忘れてしまう者もいる。それでは会話が成立しない。話が通じるという喜びを今ほど貴重に思うことはなかった。
「これ、岬さんから」
 と則之は手紙を差し出した。
「電話だと内容を聞かれるかもしれないからだってさ」
 則之が帰ってから僕と雨音は部屋で手紙を読んでみた。走り書きのような文字が踊っている。
『直登君。雨音さん。まだ正気? そんなところにいたら正気の人さえ狂ってしまうでしょう。貴方たちが望むならそこから出してあげる。近くまで迎えに行くから病院から抜け出して。場所と日時は――』
 そんな内容だった。
 僕は雨音の気持ちを確認する。
「雨音、どうする?」
「出たい。私、人間らしい暮らしがしたい。好きなこと一杯したい」
「ここから出ても居場所なんてないかもしれないんだぞ」
「それでもいい。兄さんと一緒ならいい」
 雨音は目に涙を溜めながらそう訴えるのだった。雨音に対する患者たちの好意は日に日にエスカレートしてゆき、今では雨音を四六時中追いかける者さえいるほど。
 僕は職員に何度も抗議した。
 しかし職員はその度に、
「ここには個性的な方たちがいますからね。しばらくしたら雨音さんもみなさんと仲良くなれますよ」
 他人に迷惑をかけることもここでは個性という言葉で片付けられてしまう。
 そんな職員の対応が僕の決意を後押ししたのは確かだ。
 相羽岬が指定した夜は都合の良いことに雨だった。雨ならば視界も利かず、脱走するには適している。僕たちは母に宛てた手紙を残し、職員の夜の巡回をやり過ごしてから部屋を出た。
 玄関から出る時が一番緊張する。誰かに見られているのではないか。もし職員に見つかって捕まってしまえば益々自由を制限されてしまう。そうしたら兄妹二人で一緒にいる時間さえ奪われてしまうかもしれない。そんな風に扱われれば息を潜めて暮らすしかないだろう。
 それでも僕らは自由を求める。雨音には翼を広げるだけの環境が必要なんだ。こんな場所で一生を過ごすなんて雨音には耐えられない。
 相羽岬が指定した時刻は零時ちょうど。あのプジョー2008で迎えに来ていると言う。
 僕らは手を取り合って雨の中を走った。天から注ぐ雨滴が強かに体を打ち、すぐに全身が濡れてくる。雨で視界が利かない。この先に本当に相羽岬が待っているのか、という不安を抱く。相羽岬の手の込んだ冗談なのではないか。
 そんな不安を紛らわすために僕は雨音の手をしっかりと握る。雨音も強く僕の手を握り返す。僕らには互いの存在だけが寄る辺で。
 僕にはもう雨の音しか聞こえない。


クジラ
2013年12月05日(木) 21時02分26秒 公開
■この作品の著作権はクジラさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ライトノベルと一般エンタメの中間的な作品になったと思います。

この作品の感想をお寄せください。
No.2  クジラ  評価:--点  ■2013-12-12 19:09  ID:52PnvSC7.hs
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>時雨ノ宮 蜉蝣丸さん

兄妹が作品中で結ばれなかったのは投稿を意識したからです。
もし次回作を書くことになった場合、
兄妹が結ばれてしまうと新たに登場するヒロインが噛ませ犬になってしまいます。
それを恐れたからです。

相羽岬は一番書きやすいキャラでした。
それが気に入っていただけたようで嬉しいです。
現実にこんな女性がいたとしたら敬遠してしまうでしょうけどねw

感想ありがとうございました!
No.1  時雨ノ宮 蜉蝣丸  評価:40点  ■2013-12-06 21:31  ID:zj0L21JFCH2
PASS 編集 削除
前作に引き続きお邪魔します。読ませていただきました。

伝説の辺りは、中身は前と同じでしたが、こちらの方が俄然わかりやすく読みやすかったです。お父さんが生々しくなっていたのと、岬さんが若干マイルド(?)になっていたのがよかったです。個人的に岬さんのキャラが苦手人種ですが気に入っているのでなおさらでした。
一方で静希さんが、まだちょっと……というのと、兄妹恋愛の展開は前作の方が個人的には好みでしたので、やや残念というか……。でも妹さんが独り自分を慰めるのを見たお兄さんが泣くシーンは、あと引く切なさがナイスでした。ですがやはり、そこで期待させられたぶん(ストーリー中で)結ばれなかったのが何とも肩透かしな感じでした。前作のいいところを上手く生かして欲しかったです。

またも好き放題言って申し訳ありません。ホントすみません。
岬さん好きです。ありがとうございました。
総レス数 2  合計 40

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