夏の名残の
私は宿命的に日陰者です。といっても、この世に生れ落ちたときから日陰に居たのではありません。何時の頃からか、私は日の当たらない、じめじめとした場所を棲みかとしておりました。このぬかるみの中に私を投げ込んだのが私自身であったのか、それとも他の何者かであったのか。私はそれを知る術を持ちません。とにかく、私は物心ついたときにはすでに日陰の住人だったのであります。
 日陰に生まれ育った私は、太陽が苦手でありました。あの眩しい光線は、薄暗闇に弱った私の目をたちまちに眩ませ、暖かい日の光は、私の魚の腹のように生白い肌を焦がします。長らく日陰で生活を送ってきた私の身体は、ちょっと太陽にあたるだけですぐに疲れ果ててしまうのでした。
 私が太陽を苦手とするもうひとつの理由。それは、私の胸のうちにありました。
 長らく日の当たらないぬかるみに棲んでいた私の心は、日陰者のそれにふさわしく卑屈に捻じ曲がってしまいました。よく、悪いことをすると「お天道様がみているぞ」などといいますが、太陽の光に当たっていると、私は、普段生皮の下に隠している私のこの捻じ曲がった、醜い性根が全てさらけ出されてしまうような気がするのです。そのとき、私は決まって太陽の光に炙られた生白い私の肌の毛穴から、腐臭が滲み出てくる錯覚を覚えました。他の人が、私の放つ腐臭を嗅ぎつけはしないか。そうして、私の卑しい性質を暴きたてはしないか…。そのようなことを考えるだけで、私の心臓は鋭い刃物を突きつけられたようなひやりとした恐怖に襲われるのです。そんな妄想でつかれ切った私は、所詮私のような片輪の日陰者には、堂々と日の当たる場所を歩く権利などありはしないのだ、と自嘲しては、またあのじめじめとしたねぐらへ帰って一人眠り続けるのでした。
 一人きりのねぐらは、とても心安いものです。ここには、日陰者の私を嗤う者も、私を追い立てる者も、無理に日の当たる場所へ引きずり出す者もいません。ここに居る限り、私は傷を負う心配は無いのです。薄暗く湿ったねぐらは、私は一人入ると一杯になってしまうくらい狭いものでしたが、かえってその狭さが私の心を鎮めました。薄暗い部屋のなかで身体を丸めて眠る私は、誕生のときを待っている胎児のようにも見えました。でも違っているのは、このあまりにも大きすぎる胎児が、母親の胎内から出て行こうとしなかったことです。
 
ある夏の日、私は夕暮れの中を歩いていました。凶暴なまでに照り付けていた太陽は、今はその力を失い、西の空へと沈もうとしています。私は、この西の空へゆっくりと沈んでいく弱った太陽のほうが、昼間中天に輝いている太陽よりもずっと好きでした。
西の空から迫ってくる茜色と、東の空からやってきた闇が混ざり合って、空には何色もの水彩絵の具を刷毛で延ばしたような、美しい模様が描き出されています。深い眠りにつこうとしている街は、夕日を受けて優しく暗く輝いていました。
 私は、街をずんずん歩いていた私は、ある家の前で足を止めました。その家の庭には、幾株もの花が植わっていたのです。一重咲きの菊のようにも見えるその花は、美しい黄色をしていました。すっかり心を奪われてしまった私は、その家の垣根の竹格子越しにその小さな花たちを見つめました。
「あのう。どうかされたんですか?」
私は突然の声に思わず肩を竦めました。恐る恐る見ると、そこには一人の少女が居ました。辺りはすっかり群青の闇に包まれています。その闇の中で、彼女はぼんやりと浮きあがって見えました。それは彼女が身に着けていた白いワンピースのせいかもしれません。それとは対照的に、腰まで伸びた黒い髪の毛が、群青色の闇と彼女の境界をあいまいにして、白いワンピースと不思議なコントラストを作り出していました。白い布から覗くほっそりとした手足は、小麦色に日やけしていて、足と同じく日焼けした顔にはパッチリした両の目と、控えめに通った鼻梁、それにぽってりとした可愛らしい唇がバランスよく乗っていました。年は私と同じくらいでしょうか。黒めがちの瞳がくりくりよく動く様子は、彼女を実際の年より幼く見せました。きっと彼女はきっとこの家の娘なのでしょう。身軽な服装なところをみると、ちょっと散歩にでた帰りなのかもしれません。
 私は少女のことを可愛らしいと思いました。私はこの少女に何事か語りかけようとしましたが、長いこと人とまともに口をきいたことが無かったせいでうまく言葉が出てきませんでした。何か言おうとすると、私の舌は鉛のようにずっしりと重くなって、上手に動かなくなってしまうのです。私はあせりました。そうして前身からいやな汗が噴出してくるのを感じました。シャツが汗でぐっしょりと濡れても、私には口をもぞもぞと動かすことしかできませんでした。
 そんな私の先手を取ったのは、少女でした。
「もしかして、このお花が気に入ったんですか?」
少女は竹格子のむこうの花を指差していいました。私はただうん、と頷いて見せました。
「じゃあ、とってきてあげますね。」
少女はにっこりと笑うと、竹格子の扉を開けてさっさと中に入っていき、どこかからはさみと新聞紙を持ってくると、あの黄色い花が植わっているところへしゃがみこんでパチパチと花を切り始めました。少女は鼻歌を歌いながら、花を次々と新聞紙の上に並べていきます。私は何が起きているのかよくわからぬまま、その鮮やかな手並みをぼうっと眺めていました。
 やがて少女が戻ってきました。その腕の中には、新聞紙に包まれたあの黄色い花が抱かれていました。
「はい、どうぞ。」
少女は、新聞紙で包まれた花を私へ差し出しました。私はぎこちない手つきでそれを受けとり、少女にちょっとお辞儀をしました。そのときも、僕の心臓は緊張で悲鳴を上げ、前身からは相変わらず嫌な汗が滲み出ていました。
「このお花、キバナコスモスっていうんです。綺麗でしょう?」
キバナコスモス。キバナコスモス。私は、少女が言った花の名を頭の中で反芻し、もう一度新聞紙にくるまれている花を見ました。なるほど。言われてみればこの花は、確かにコスモスの形をしています。ですが、この黄色や橙の花びらは、赤や白や桃色のコスモスとは似ても似つかぬものでした。
「私ね。この普通のコスモスより、キバナコスモスの方が好きなんです。なんていうか、夏の忘れ物って感じがして。」
なんてね、と少女ははにかみ笑いをしました。私は、身体中に張り詰めていた緊張が、それまでとは別のものに変わったのを感じました。今、私を満たしているものは、先ほどまでの氷のような恐怖ではなく、もっとずっと暖かくて、甘くって、優しいものでした。鉛のようだった舌は、徐々に解けていきました。
「ありがとう、ございます。」
私はまだ自由に動かない舌でやっとそれだけ話すことができました。あれだけ出ていた汗はもうすっかり止まって、汗で濡れていた肌もさらりと乾いてしまっていました。
「たまには外に出るのも、いいもんですね。このところ、ずっと部屋の中にいたものですから」
私は笑顔を作ろうとしましたが、長い間使っていなかった頬の肉は、わずかに歪んだだけでした。
「そうですか。気に入ってもらえてよかったです。よろしかったらまたいらしてください。花はうちにたくさんありますから。」
そう、彼女は私に別れを告げると、家の中へ入っていきました。彼女は去り際に私に手を振ってくれました。
 彼女の家の玄関が閉まった後、一抹の寂寥感が私の胸の中を通り過ぎました。こうしてはおれぬ。また私は、この世界を離れてあのねぐらへ帰らねばならないのだ。私は、彼女が私に手渡した夏の名残の花を手に、いつものようにねぐらを目指して歩き出しました。
 あたりはすっかり暗くなっていて、何処からか虫の声が聞こえてきます。私を散々に苛んだ夏は、もう終ろうとしていました。
 ねぐらへ帰ると、私は少女から貰った花を生け、机の上に置きました。十本あまりのキバナコスモスは、きちんと上を向いています。鮮やかな黄色は、闇の中でランプシェードのようにぼんやりと光って見えました。 私はもっとこの花が見たくなって、久方ぶりに窓を開けました。
開け放たれた窓から秋の気配を乗せた風が滑り込んできました。藍色の空には冷たい月が高く上がり、青白い光を部屋に投げ込んできました。花は青白い光のなかで冷え冷えとたたずんでいます。私はそこで鮮やかな色をした花びらが、 一輪毎に違っていることに気づきました。そのなかには、黄色と橙のようにはっきりとした違いを示しているものもあれば、一見同じ色だがよく見なければ違いがわからないものもありました。
風がカーテンを揺らし、部屋の中のものを撫でていきました。私の心はよく晴れた日の渚のように静かに落ち着いていました。こんなに落ち着いた気持ちになるのは、何年ぶりでしょう。私は遥か昔、私がまだ日の当たる世界で咲いてきたときのことを思い出し、次にこの花を摘んでくれた少女の顔を思い浮かべました。私もあのまま昼間の世界に留まっていれば、あの少女と友達になれたのでしょうか。もっと早くにこの花の名前を知ることができたのでしょうか。様々な思いが、無秩序に脳髄のなかを駆け巡りました。
私はこの花を夏の忘れ物だと言ったときの彼女の照れ笑いを思いました。太陽の光を捕まえて、閉じ込めたような花弁は、去っていく夏のせめてもの形見、あの強烈な太陽の欠片なのでしょう。その小さな太陽を、こんな日陰者の私が閉じ込めるとはなんともおかしなことではありませんか。
 終っていく夏が見せた幻のようなあの少女は、これからも昼間の日の当たる世界で行き続けるのでしょう。そうしてこんなちっぽけな残骸などではない本物の光明を抱きながら、総天然色の世界で生きていくに違いありません。それを思うと、私の胸は猛烈な寂しさで掻き曇りました。
 そうして締め付けられたように痛む胸を庇いながら、私は寝床にもぐりこみました。氷のような冷たい月は、相変わらず私たちを照らしていました。
 次の朝、私は暑さと眩しさで目を覚ましました。瞼の裏は、光を受けて焼きついたように赤くなっていました。目を開けると、あの薄暗かったねぐらに燦々と朝日が差し込んでいました。それまで無彩色で彩られていた私の部屋には、何色もの色が満ちていました。その光に照らされた部屋を見て、私は腹のなかでどんよりと渦巻いていたどす黒く重苦しい何かがすぅっと軽くなるのを感じました。
 ふと、私は吊るしたままになっている服に気がつきました。長い間袖を通していなかった、真新しいその服は、こちらをじっと見据えています。私は机の上の時計に目をやり、時間を確認すると、猛然その服を掴みました。
 久しぶりに袖を通した服は、まだ生地が馴染んでいないせいか、ずっしりと重く、なんだか落ち着かない感じがしました。それもその筈です。私はこの服を着るようになっていくらも時間がたたないうちに袖を通すのをやめてしまったのですから。通いなれていたはずの道は、久しぶりに通るせいか、どこか違う世界へ続いているように思われました。
 ずんずん道を進んでいくと、私と同じ色の服を着た人たちの数がだんだん増えてきました。彼らは私の存在など気にかけずに、楽しそうにおしゃべりをしながら歩いています。彼らの話し声を聞いているうちに、私の中にあのどろどろとした重苦しいものが溜まっていくのを感じました。先ほど私を照らしてくれていた太陽は、また私の皮膚をじりじりと焦がし始めます。心臓には、またあの氷のような刃が突き立てられようとしていました。そうしてわたしの身体は、またじっとりと汗をかき出しました。まだ糊の残っている真新しい私の服は、その汗を吸うことはありませんでした。
 やはり、私が外へ出たのは間違いだったのです。私のような人間は、あの少女のように日の光の下で生きることなどできはしないのです。私はまたあのねぐらが恋しくなりました。なんの刺激もない代わりに、何の痛みも辛さもない、あの部屋が。
 もう帰ろうと、踵を返そうとしたそのときでした。私の横を、一人の少女が通り過ぎました。通り過ぎていく少女の横顔をみて、私は驚きました。その少女が、私に花をくれたあの少女だったからです。彼女はあの白いワンピースの代わりに、私と同じ色の服を着て、私と同じ色の名札を身につけていました。
 私があっと驚いた刹那、彼女がちらと私のほうに目をやりました。私に気がついた彼女は、あのときと同じように私に微笑を投げかけました。
「この前のお花はどうですか?」
彼女の言葉に私は悪いことをしたわけでもないのにどきりとしました。
「元気に、していますよ。花瓶に入れてやったら、なんだか喜んでいるみたいで」
私は重い舌を懸命に動かして、やっとそれだけの言葉をつむぎだすことができました。私の全身に、返事をすることができたという安堵感と、変に思われはしないかという不安感がない混ぜになった妙な感覚が満ちていきました。が、私の返事を聞いた彼女は、私のそんな不安などお構いなしに、ぱっと顔を輝かせました。
「そう。よかった」
花の様子を聞いた彼女は本当にうれしそうでした。私は、そんな彼女と何時の間にか並んで歩いていることに気がつきました。私はそれに気恥ずかしさと後ろめたさを感じましたが、彼女はやはり気付くことなく、おとなしく私に歩調を合わせて歩いていました。
「もうすぐ、ユリの球根を植えようと思うの。春になったら、きっとまた綺麗な花が咲くと思うよ」
そうしたら、またうちにおいで。と彼女はいいました。
いつの間にか、腹の中のどろどろとしたものは消えてしまって、この間の夜のような穏やかな気持ちが戻ってきました。 澄んだ青空の中に浮かんだ太陽が、私たちを燦々と照らしました。この瞬間、私はもう日陰の住人ではなくなっていました。
 汗の乾いたばかりの肌を風が通り過ぎました。夏の匂いを残しつつも、秋の冷たさを残したその風は、私の皮膚を撫で、彼女の長い髪をすり抜け、身体の中にまでしみていくように思われました。
もうすぐ、秋がやってきます。


兎山花月
2013年10月03日(木) 18時56分53秒 公開
■この作品の著作権は兎山花月さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
読了ありがとうございます。
「私」が男なのか女なのかはご想像にお任せします。

この作品の感想をお寄せください。
No.4  昼野陽平  評価:30点  ■2013-10-08 01:24  ID:NnWlvWxY886
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読ませていただきました。

文章がうまくて表現力もある方だなと思いました。
とくに夕暮れの空の描写が好きでした。
お話的には、少女と花で救済されるというのはちょっと弱いかなと思います。

自分からは以上です。
No.3  兎山華月  評価:0点  ■2013-10-07 16:48  ID:E1i./DO.Ds6
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返信が遅くなって申し訳ありません…。

>>坂倉圭一様
感想ありがとうございます。
白いワンピースのくだりは、主人公の「不健康なまでに白い肌」と対比させたつもりでした。私も少女の服装に関して、かなり悩みがあったので的確なアドバイスを頂けてうれしいです。
この話を書こうとしたときに、白いワンピースの少女の絵が浮かんだので、違和感を感じつつもそのまま書き続けてしまったというのが本当のところです。

>>白星奏夜様
感想ありがとうございます。
作中にも出てきましたが、キバナコスモスが咲いているのを見ると、「ああ、夏が終わったなあ…」って思います。
練りきれていないというご指摘ですが、私自身雰囲気で書いてしまっているというか、ちゃんと構成を練らずにかいてしまっているところがあるので、白星様が感じられた「ふわふわした感じ」はそこから生じたものなのではないかと思います…。これから研鑽を積む必要がありますね…

私は最近創作活動を始めたので、このような形で皆様に感想をいただけるとうことに純粋に喜びをかんじています。
感想を下さった方々、本当にありがとうございました!
No.2  白星奏夜  評価:30点  ■2013-10-05 02:06  ID:cTp.Z1Y7g5c
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こんばんは、白星と申します。

雰囲気が素敵な作品でした。個人的なことなのですが、夏の終わり、というテーマが私はとても好きです。儚さと共にある清々しさ、と貧弱な語彙で例えてみましたが、夏の終わりは独特の雰囲気、心に訴えかける何かがあるように感じます。本作からも、それが感じ取れて、また酷暑が終わろうとしている今の季節を感じて、癒されました。

私も、男か、女か、のところで少し気になりました。狙いがあって曖昧にされたいたのなら失礼過ぎる発言なのですが、どこか練りきれていないような、統一するのを迷っているような、ふわふわしたものを感じました。

とはいえ、初投稿とのこと、これからもよろしくお願いします。またお会いできる機会をお待ちして、今回はここらで失礼させて頂きます。ではではっ〜。
No.1  坂倉圭一  評価:40点  ■2013-10-04 00:20  ID:VXAdgm2cKp6
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読ませていただきました。

羨ましいぐらいの感性ですね。僕は正直に衝撃を受けました。本当に心に残る作品を読ませていただきました。

少し残念なのは「作者からのメッセージ」でしょうか。(本文に決定的に分かってしまう言葉が紛れ込んでいました)
それと推敲不足のところでしょうか。

しかし、本文は、本当に羨ましい限りです。何度も何度も、はっとさせられました。素人のような文章も見受けられましたが、僕はそれ以上に、素人離れのした文章(表現力)にたくさん触れることができました。

少し気になったのは、「白いワンピース」と「小麦色に日やけしている肌」の相性の悪さでしょうか。白いワンピースというと、どこかお淑やかなイメージ(日焼けが似合わない)を持ってしまいます。僕ならこの少女の服装の描写を変えるように思います。

「この瞬間、私はもう日陰の住人ではなくなっていました」ですが、ここは「この瞬間、私はたとえ一時であっても、日陰の住人ではなくなっていました」といったニュアンスに弱める方が良いように思いました。

いずれにしましても、とても心に残るご作品でした。
ありがとうございました。
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