アナハナ

 白い霧で覆われた駅に、まだ明けないうちから走り出したケーブルカーが近づいてきています。
 新入りのティオは微睡んだ目を擦りながら到着を待ちました。ちょうどこの白い霧のように頭がぼうっとしているのですが、きいと軋む音が薄い氷の意識に罅を入れて、ティオは思わずはっとします。ケーブルカーの中にいる車掌のソレルが、無線通信でポーシャに停止信号を送ります。終着駅にいる運転手のポーシャが、手元にある操作盤のレバーを捻って、ケーブルを引き上げたり降ろしたりするモーターの動きを止めます。ケーブルカーが完全に停車すると、レバーの上にある丸いランプが緑に輝き、レバーを捻るポーシャの指の爪も少し緑色に輝きました。
 ティオは降りてくる光の粒たちを誘導する役目を任されています。さっそく、たくさんの光の粒が降りてきました。始発駅にいる太陽から生まれた光の粒たちは、こうしてケーブルカーで朝の空に運ばれて、夜になればまた同じケーブルカーで太陽のもとへ帰っていくのです。段々状の小さなプラットフォームは、あっというまに光の粒で溢れかえりました。光の輝きが白い霧の水蒸気に滲んで乱反射し、ティオは眩しさに目を細めました。
「みなさまこちらから二列になってお並びください」
 まだ使い慣れない敬語を使って、手も口も大きく動かしながら、ティオは光の粒を明け方の空へと送り出します。ソレルはケーブルカーの中から、てんやわんやのティオの様子を伺って、無邪気な笑いを浮かべていました。ポーシャは、丸眼鏡の位置をなおして、またゆっくりとケーブルカーを元の駅へと引き上げていきます。

 ティオもソレルもポーシャもまだ子どもです。ティオとソレルは男の子で、ポーシャが女の子でした。ソレルはここで仕事を始めたのが早かったので、新入りのティオよりも少し年下でした。一番年上なのはポーシャで、ティオよりずっと年上です。でも三人とも、まだ大人のからだではありませんでした。ティオもソレルも、制服の袖がまだ手首まで隠れてしまっています。サイズが合っていないのです。制服を着こなして一人前になるには、まだ三十年ぐらいはかかってくるでしょう。
 朝の仕事を終えたソレルは、駅員室にあるストーブに手をかざしています。ポーシャはティオとソレルのために、マグカップにココアを注ぎ、丸いビスケットを用意しています。
 新入りのティオは、勝手に椅子に座ったりしてはいけないと思って、じっと立ったまま動いていません。
「なにしてるのさ、座りなよ」
 ソレルが気づいたのでティオに話しかけました。ティオはおずおずと椅子を引き出して、腰を下ろしました。
「なんでそんな暗い顔をしてるんだよ。この仕事は嫌か?」
 ティオは首を横に振りました。
「ふうん、そう。まあなんだ、あんまり緊張しすぎないでくれよ。そうやってカチンコチンになられちゃうと、ぼくだっておまえとどう接したらいいのか分かんなくなるんだから」
 ソレルは被っていた帽子を脱いで、人差し指でくるくると回し始めました。帽子には三日月型のワッペンがつけられていました。
 ポーシャは台所で、銀のスプーンを使って、二つのマグカップにココアパウダーを掬って入れました。子どもの大きさに合わせたケトルでお湯を沸かしています。白い陶器の皿の淵に沿うようにビスケットを円状に並べて、中央にバターのカップとストロベリーのカップを置きました。
 お湯が沸きました。布巾を手にして、マグカップにお湯を注ぎます。新入りのティオが加わったから、マグカップを二つ注ぐのは初めてのことです。まだ綺麗なカップを汚してしまうのは、ちょっと嫌だなとポーシャは思いましたが、なんといっても今日は新しい仲間が増えた日です。嫌だと思う気持ち以上にうきうきしながら、もうひとつのマグカップにお湯を注ぎ入れます。ポーシャの丸眼鏡はすぐに湯気で曇りました。
 マグカップの中は茶色い渦を巻きました。まだ溶けきっていない粉が浮いて小さな星屑のようになっています。銀のスプーンでかき混ぜると、その星屑も溶け去っていきました。
「二人とも、お待たせ」
 マグカップに指を引っ掛けて、ポーシャはティオとソレルの前にココアを置きました。そして真ん中にビスケットの皿を置きます。ポーシャは、テーブルへ運ぶために使ったお盆を台所へと戻します。ソレルはポーシャが再びテーブルに戻るよりも早く、ビスケットを一枚手にとってかじりました。真ん中のソースもつけずにかじったのでティオは少しだけびっくりしました。
「遠慮しなくてもいいのよ、どうぞ食べて」
 戻ってきたポーシャがティオに話しかけます。いただきます、とティオは言って、一番近くに置いてあったビスケットを取って、バターソースを少し付けて噛み付きました。ポーシャは二人が美味しそうにビスケットを食べているのを見ると、眼鏡を外しました。テーブルの上にポーシャの眼鏡ケースが置いてあって、その中を開けると紺色の眼鏡拭きが小さく畳まれて入っていました。
 ティオも食べることにしました。昼間の休憩を済ませたら、今度はケーブルカーの整備と、駅舎の掃除に取り掛かります。

 ケーブルカーは、光の粒が生まれる天頂と雲が生まれる成層圏を結んでいます。ある日ティオがソレルに教えてもらったとおりに成層圏の駅を掃除していると、ごみ箱の中身を探ろうとしている大人のからだの男の人を見つけました。今はまだ夕方になっていないので、駅には誰にもいないはずです。ティオはびっくりしてしまいました。
 その男の人に話しかけようとするティオですが、なんだか声をかけてはならないぞと誰かに言われているような気がしてくるくらい、その男はさも当然であるかのようにごみ箱の中身を引っかきだしているので、ティオはそのおじさんを遠くから観察してみることにしました。
 おじさんは背中が丸くてもじゃもじゃした髭をしていて、もみあげから顎にかけて黒い毛が一直線に繋がっています。肌はティオよりも遥かに黒くなっています。しかし服装は白いトレーナーと白い長ズボンを着ていて、それはまるでパジャマのような格好でありましたが、煤や泥で黒ずんでいるせいで、とても汚らしく見えます。
 ごみ箱の中には、光の粒が太陽のもとへ帰るときに吐き出す汚い空気や塵が入っているはずです。そんなものに触って、いったいどうしようというのでしょうか、ティオには分かりません。
「おじさん、その箱に触らないでください。勝手なことをしてもらうと困ります」
 おじさんには聞こえていないようでした。そういえば長い髪がおじさんの耳を隠しています。ティオはどきどきしながら、ゆっくりと近づいていきます。
「おじさん、なにをしているのですか」
 近くまで寄って、やっとおじさんはティオに気づき、少しだけ止めてティオの太ももの辺りをじっと見つめました。あまりにもじっと見つめるせいで、ティオはなんだか不気味さと恥ずかしさが綯い交ぜになった気持ちになりました。
「おい、なにをぼうっとしているんだ」
 ティオの後ろからソレルの声が聞こえてきました。
「掃除をするのに時間がかかりすぎているぞ。夕方の便に間に合わなくなるぞ……なんだこいつは?」
 ソレルもおじさんのもとに近づきました。ソレルの方が、ティオよりも足取りがしっかりとしています。
「今は立ち入り禁止だ。どこから来たのか知らないが、いますぐに出て行け」
 しかしおじさんはティオのときと同じように、ソレルの細い足首をちらりと見ただけで、ごみ箱に触ることをやめませんでした。そのとき、おじさんはちょうどごみをすべて掻き出して、穴から内部を真剣に覗いています。ソレルは我慢できなくなりました。仕方がないので、一番らくで、手っ取り早い方法を使うことにします。
「えい、このっ」
 ソレルは、手に持っていたほうきでおじさんの頭を叩きました。なんどもなんども叩きます。二度、三度、四度と叩くにつれて、おじさんはごみ箱を触るのを止めて、頭を手で押さえてうずくまりました。おじさんは小さな声で唸っていますが、ソレルはまだ叩くのをやめません。
「おい、なにしてるんだ。おまえも叩けよ。剣士になりたかったんだろう?」
 ソレルはティオのほうを見ながらそう言いました。しかしティオは叩けませんでした。ティオは剣士のかっこよさに憧れて、自分も剣士になりたいと思ったのに、今ソレルがやっていることは、これっぽっちもかっこよくなかったからです。ティオが動こうとしないので、ソレルは放っておくことにしました。
 何十回と叩き終わったあと、ソレルは叩くのをやめ、さいごに、
「もうここに来るんじゃないぞ。次来たらもっと叩くぞ。百叩きだ」
 と言いました。ティオが残りの後始末をしておくように目で伝えたあと、ソレルはその場を去りました。
 しかしティオはどうすればいいのか分からず、しばらく立ったままおじさんの姿を見ていました。まだ小さく唸りながらうずくまっています。なんだか心配になってきたティオは、もう一度話しかけてみることにしました。
「おじさん」
 おじさんは肩をびくりと震わせて、手で頭を覆いました。また叩かれる、と思って怖がっているのです。
「ぼくは叩いたりしないよ」
 そう言ってもおじさんはまだ怖がっています。ティオは、おじさんのもじゃもじゃした髪の毛に付いた埃を手で払って、やさしく頭をなでてあげました。ティオがおじさんに触れると、おじさんはさらに怖がって、黒い肌がたまごの殻のように固くて割れやすいものに変わっていくのが分かりました。しかし少しずつ、その固さも失われていきます。
 やがておじさんはゆっくりと頭をあげました。まっくろな目で、白い部分がほとんどありません。唇がとても分厚くて表面が乾いています。その唇がにわかにぶるぶると震えたかと思うと、おじさんは
「頼みたいことがあるんだ」
 と、嗄れた声で言うと、ティオの腰をぎゅっと掴んできました。さらに、軽く前後に動かしながら、必死の形相でティオに詰め寄ってきます。突然のことなので、ティオは驚いて、またどうすればいいのか分からなくなりました。
「頼みたいことってなんですか」
 おじさんは、それが自分の使命であることを少しも疑わないような様子で、すぐさま答えました。
「ごみ箱の穴に」
 おじさんは、ぽっかりとあいた楕円の穴を指さして、
「ここに、花を咲かせたいんだ」
 と言うのでした。

 ティオが本当になりたかったものは剣士でした。
 まだティオが手も足もなかったころのことです。ティオはとても暗い森の中で一人ぼっちになってしまったことがありました。まっ暗でなにも見えないけれど、少し暖かいところです。もしそこが寒かったならば、ティオは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら出口を探り当てようとしたことでしょう。しかしその森は暖かかったので、だんだん体を動かすことがだるくなってきます。いやになってきます。それはとても危険なものだったと、現在のティオは思い返します。暖かい……それゆえに、やすやすと心の奥に忍びこんで来るのです。暖かさが、ティオの耳元で囁きました。ほら、おいでよ。もっとぼくと一緒に遊ぼうよ。ここにいればさむくないよ、いたくないよ、くるしくないよ、たのしいよ――。
 そのとき、ティオはなにかとても細長くて光るものを見ました。あとで剣士から、これは剣だよと教えられました。ティオはその剣の輝きを、ひとめ見ただけで好きになりました。暖かさと同じように、その細長くて光るものもティオのなかへすうっと入っていきます。そしてティオのなかで、剣士はとてもかっこよく、空を舞う鳶のように自由に身を翻しながら、ティオの中に潜む暖かさを剣で斬っていきます。暖かさが斬られて死んでいくとき、ティオの中にやってきたのは冷たさではなく、熱さでした。暖かさよりもずっと強いものが、汽笛のようにティオの底から突き上がってきました。
 ――さあ、出発進行! 
 剣を前に翳しながら、大きな声で剣士は言いました。動きはゆっくりなのに、とても力強い足取りです。だから、剣士が通った道はたちまち踏み固められて確固とした地盤ができあがります。剣士はまだ誰も通っていないところを歩いて、新たな道を開拓していくのです。ティオはその剣士の背中を見ました。背中だけで充分でした。ずっとこの剣士の後ろに着いていきたいと思いました。しかし、月の女王に籤を引いてもらうまでは、まだティオがこの先どうなっていくのか分かりません。
 ティオは籤を引く日を待っていました。その間に、少しずつ体が作られていきます。ティオは最初、魚のような形をしていました。鰓も尾も生えていたのです。しかし次第に、その尾は短くなっていって鰓もなくなってしまいます。代わりに発達しはじめたのはティオの脳でした。ティオの脳は、三センチある全身のうち、一センチを少し超えるほどを占めていました。さらに四肢と指が作り出されて、ティオは自分の腕を見ました。そして、男の子のしるしが作り出されると、ティオはとても嬉しく思うのでした。剣士になるためには、このしるしがなければならないのです。ティオにはちゃんと、そのしるしが与えられたのでした。
 しかし、月の女神がティオに引いてあげた籤は「光の粒を地上に送り届ける駅員」でした。剣士になれないことが、すぐに分かってしまったのでした。
 ティオはぎゅっとその籤を握りしめて、狭い路地を通っていきます。そこをまっすぐ通り抜けた先が出口です。

 ティオは、男がなぜあんなことを言いだしたのかよく分かりませんでした。ごみ箱はごみを捨てるためのもので、花を植えるものではありません。もし花を植えたなら、ごみ箱の穴の中から花が顔を出すことになります。そうなってしまったら、星屑たちは汚い空気を吐き出すことができません。そもそも、ごみ箱の中は下界の汚いもので満ち溢れているのです。そんなところに花が咲くことはできませんし、たちまち萎れてしまうに違いありません。
 そこまでティオは分かっていたのに、どうして花を植える約束をしてしまったのでしょう。そう、もともと頼みごとを断れない性格のティオは、あの男の切実な両目に後押しされて、首を縦に振ってしまったのでした。
 ティオは、ソレルやポーシャに内緒で、下界に降りて花の種を手に入れることにしました。花の種は花屋に売っているのだと、ポーシャの書斎にある本から知ったティオは、石造りのマンションや、大理石で出来た騎馬のレリーフや、コンクリートの道路で固められた、大きな岩のような灰色の街へと降り立ちました。まだ昼間なのに外には誰もいません。街に生きる人々が口裏を合わせているかのように、ティオの到来を歓迎するものは何もありませんでした。ティオは歩いて花屋を探しました。
「よう、こんなところに何の用だ、チビ」
 誰もいないと思っていた矢先に声をかけられて、ふわっとティオは声を出して驚きました。ティオは首をきょろきょろと動かして周りを確かめます。
「馬鹿だな、おまえの足元だよ」
 ティオが下を見ると、すぐ側に大きな円がありました。
「あなたは誰ですか」
「はぁ? おまえそんなことも知らないのか……あぁ、なるほど、その胸元のバッヂを見るに、空中にいる連中か。俺はマンホールだ。穴男と呼んでくれ」
「穴男さん。ぼくは花の種を探しています。このあたりに花屋さんはありますか」
「あぁ、あるとも」
「その店への行き方を教えていただけますか」
「タダで教えてもらうつもりか?」
「……この地上では、お金と交換することで商品を受け取ったりサービスを受けたりするのだと、経済学という本に書いてありました。しかし、ぼくはお金を持っていません……その代わり、きらきらと輝く星の欠片を持ってきたのです。お金もきらきら輝くものだと聞いたのですが、これではだめでしょうか」
「そうじゃない。金なんかもうこの街じゃ無用の長物さ。少し聞きたいことがあるだけだ」
 穴男は少し咳払いをしました。
「光を運ぶケーブルカーの駅員に、すごく綺麗で可愛い少女がいるらしいな」
 ティオはすぐに、ポーシャのことを言っているのだとわかりました。
「はい、ポーシャのことですか」
「そうだ、ポーシャだ。良い名だな。俺の想像通りだ」
「それで、何が聞きたいんですか。ぼくが知っていることなら、答えます」
「ずばり俺が聞きたいのはな、そのポーシャという少女が、どんな色の下着を穿いているのかということだ」
「えっ」
 ティオは、そのあまりにも唐突な質問にかなり驚きました。
「なんだ、意味が分からなさそうな顔をしているな。もしかして、空にいる連中は下着を穿いたりしないのか?」
「穿きます。けれど、僕はポーシャの下着を見たことがありません」
「……まあ、そうかもな。おまえ、まだ幼すぎて皮さえも剥けてないような感じもするしな」
「でも、どうしてそんなことを聞くんですか。たとえぼくが知っていたとしても、そんなことを教えるのはポーシャがかわいそうです」
「あぁ、そうかいそうかい。じゃあもう教えてやらない。一人でずうっと街の中をさまよっているがいいさ」
 ティオは困ってしまいました。そもそも、ティオはポーシャの下着の色など分かりません。ふらふらと街の中を歩き回ってみますが、街はどこを歩いても、どこから見ても同じ顔をしています。まるで死んでいる人のようでした。
 そろそろ日が落ち始める時間です。ティオはがっかりして、空に戻ります。光の粒を太陽の下へ返す仕事を始めなければなりません。

 仕事を終えたティオは、ポーシャの部屋の前に立ったままじっと動かないでいました。ドアノブをじっと見つめて、手にかけようとしたところで、また手を引っ込めます。
「ポーシャはどんな色の下着を穿いているのですか」
 いつも忙しそうにしているポーシャの前で、そんな質問をする勇気はありません。いくらおしとやかで穏やかな性格のポーシャでも、怒ってしまうか、泣いてしまうか……ティオには想像することすらできないのでした。
 だからといって、ポーシャの部屋に忍び込んで、勝手に洋服棚の引き出しを開ける勇気もありません。ポーシャは台所で夕食の片づけをしていますから、今なら中に入っても気づかれることはないでしょう。しかし、そんな方法で下着の色を調べてまで、花の種を手に入れるのはとても残酷なことだと思いました。すごく自分勝手なことではないだろうか、と。
 諦めよう。ティオがそう決心してその場を立ち去ろうとしたそのとき。
「あら、私に何か用?」
 白い月の色をしたハンカチーフで濡れた手を拭いているポーシャが近づいてきました。
 ティオはもう諦めるつもりで居たので、なんでもない、と言おうとしました。しかし、それよりも先にポーシャが自分の部屋の扉を開けて、
「入る?」
 そう尋ねたので、ティオはそのまま中に入ってしまいました。

「この仕事には慣れそう?」
 ガラスのテーブルを挟むようにして、ティオとポーシャは座りました。ポーシャの丸眼鏡の奥に、エメラルド色の瞳があります。その目は、あの白くて汚い男とはまた別の力がありました。その力に導かれるようにして、ティオは口を開きます。
「仕事はとても大変です……けれど、ポーシャさんのおかげでこの家にはすっかり慣れました」
「それはよかったわ。料理もまずくない? わたし、あまり味に自信がなくて」
「とんでもないです。今日のビーフシチューも最高でした」
「ありがとう。そう言ってくれると、わたしも作りがいがあるわ。ティオ君も、ソレル君みたいにいっぱいおかわりしていいからね。ティオ君、なんだか遠慮しているみたいだったから
「もともと、あまり食べないからだなのです。あまり食べ過ぎると、すぐにおなかが痛くなってしまうのです」
「それなら仕方ないわね。いっぱい食べてくれるのも嬉しいけれど、ゆっくり味わって食べてくれるのも嬉しいから、気にしないで」
 ポーシャは、少しウェーブのかかった長い髪をゆっくりと片手で梳き下ろします。少しも引っかかることなく、まるで水を指でかき回しているかのようにするりと流れます。同時にほんのりとハーブの香りがティオの鼻をくすぐりました。きっとあの長い髪を美しく整えるためのソープの香りなのでしょう。
「この仕事が大変なのは、わたしにもよく分かるわ。まだ生まれたばかりの光の粒は、油断しているとすぐにどこかへ行ってしまう。みんなが思い思いの方へ動こうとするから、ちゃんと地上に光を届けるのはとても大変なことなのよね。しかも、光の粒は迷子になってしまうとすぐに消えて死んでしまう。集まれば強い輝きを放つけれど、粒ひとつだけになってしまったら、あっという間に闇に吸い込まれてしまうから」
 ポーシャは壁に貼ってあるポスターに目を向けました。それは空に浮かぶ星座の天球図でした。その星座の中に、川のような、乳の流れたあとのような白い筋が一本流れています。
「あの白い筋はね、この世でもっとも美しくて大きなものだとされている、銀河鉄道の線路なのよ。わたしたちのような光の粒を運ぶ鉄道員のなかでも、選りすぐりのエリートだけが乗ることを許される夜行列車。私たちのような鉄道員が日々の仕事を頑張ることで、地上に昼と夜が届けられるのよ」
 ポーシャは再び、ティオのほうに目を向けます。
「けれど、ティオ君の心の中は、まだ昼と夜の境目がないみたいなの。どちらにも傾いていない」
「それは……どういうことですか」
「わたしの夢は、あの大きな夜行列車を動かす運転手になること。その前に、お祖父さんの代から伝わるケーブルカーでしっかりと経験を積んでるの。ティオ君、あなたの夢は、もっと違う別のことなのでしょう?」
 ティオは胸をどきりとさせました。ポーシャにはすでに、ティオの心をしっかりと理解していたのでした。寄り添うような優しい輝きを放つ両目を見ていると、ティオは何の嘘も、ごまかしも、する気が起きないのでした。
「ぼくは……本当は、剣士になりたかったんです」
「剣士。それは、どうして?」
「むかし……剣士に助けてもらったことがあって、その人を見てとてもかっこいいなあと思ったから。たぶん、ぼくはその剣士のことを尊敬しているんだと思います」
「いい夢を持っているじゃない」
「でも、僕は剣士にはもうなれない。月の女神様が籤を引いて、もうここで働くことに決まってしまったから」
「あら、月の女神様はとても気まぐれな方なのよ? あなたは生まれたばかりだから、まだよく知らないのね。あまりにも気まぐれだから、毎日違った姿で夜の踊り場にいらっしゃるぐらいなんだから。だからもしかしたら、剣士になることを許してくださるかもしれない」
 ポーシャの表情は紺青のヴェールのように静かなものでした。彼女の側にいたら、どんなに寒い風が吹き付けてこようとも、心の中が暖かいままでいられるのだろうと、ティオは思いました。
 だから、ティオはなおのこと、本当に効きたいことが聞けなくなってしまうのでした。こんなに優しい言葉をかけてくれるポーシャのまえで、どうして下着の色なんていう、変態的なことが聞けるだろう? 
「ティオ君は、剣士になったらどんなことをしたい?」
「まだよく分からないけれど……弱い人に手を差し伸べることのできるような剣士になりたい」
「あ、そういえば。今日ソレル君から聞いたんだけれど、白い男の人が成層圏の駅にいたらしいわね? 『ティオのやつがあの男のことを庇っていた。何を考えているのか分からないよ』って、口を尖らせて言ってたけれど。もしかして、あれも弱い人を助けるため?」
 ティオは、あの男を前にしたとき、別にその男が弱い人だとは思いませんでした。けれど、周りから見れば、それはティオが弱い人に手を差し伸べる――かつて森の中で自分の手を引っ張ってくれた剣士のように――光景に見えたのかもしれません。
「ぼく、その人に頼まれたことがあって」
「あら、なに?」
「駅のごみ箱に花を咲かせてほしいと言ってたんです」
「あら、ずいぶんと変わったことを頼まれたわね」
「でもソレルが、そんなことできるわけないって」
「できるわよ。新しいごみ箱を用意すれば済むことなんだから」
「育ててもいいんですか」
「ええ、もちろん」
 ティオはすごく嬉しくなりました。ポーシャからお墨付きをもらえたのですから、これでソレルに文句を言われなくて済みます。しかし、問題はその後です。
「あの……」
「なに?」
「今日の昼、ちょっと地上に降りて花の種を買いに行こうと思ったんです。でも店の場所が分からなくて、それで穴男さんという人に店の場所を尋ねたんです。そしたら……」
 ティオの声が小さくなっていくのを、ポーシャは不思議そうに見つめます。
「あの、穴男さんが、ポーシャさんのファンみたいで。その……ポーシャさんの……えっと、下着の色を教えてくれたら、その……」
「……え?」
「下着の色を教えてほしくて……それで、今日はここに来たんです」
 ティオはうつむいたまま顔をあげることができません。彼女がどんな顔をしているのか、見ることはできませんでした。
「な、なるほどねっ。事情はよく分かったわ」
 ティオは、ポーシャが息を吐く音を目にしました。そしてしばらくの間、沈黙が続きました。いったいどうしたのだろう、と思ってティオが顔を上げました。ポーシャは、怒っているのでもなく泣いているのでもなく、恥ずかしがっているのでした。少し目を逸らして、困ったような表情で、頬を赤く染めています。
「すけべな穴男さんに伝えなさい。私の下着の色は、ちょうどハレー彗星のような色をしていると」
「あ、ありがとうございます」
「教えたのだから、ちゃんと花の種を手に入れてきてね。手に入れなかったら、ひどいわよ」

  
「そうかー、ハレー彗星みたいな色してるわけか。うん、想像通りだ。まあ、俺知らないけどさ、ハレー彗星って」
 穴男はそういって一人でつぶやきました。
「よし、じゃあ次は靴下の色を……」
「ええっ」
「冗談だよ、冗談。心配しなくてもちゃんと教えてやるよ。この道をまっすぐ三ブロック進んで右に曲がり、突き当たりまでまっすぐ進むと俺の仲間がいる。その仲間の上に立って右に三十歩ほど歩いたところにある」
「ありがとう、そこに花屋さんがあるんですね」
「もしかしたら嘘かもしれない」
「ええっ」
「おまえ、俺はマンホールだぞ。おまえみたいに手も足もない。俺は生まれたときからずっとここから一歩も動いたことがないんだ。俺の下に広がっている下水道に、妙にナルシスティックなねずみが一匹いてな、そいつから聞いた話っていうだけのことだ。まあ、あのねずみは鼻につくが嘘はつかないから大丈夫だろう」
「一歩も動いたことがないのですか。ここから一歩も」
「ああ、一歩どころか、一ミリとして動けない。ごくまれに、水道局の連中が俺を外す時にほんの少しだけ動けるっていうだけのことだ。そんな俺にも楽しめることが二つあってな。一つは、一人で物事を考えたり妄想をして楽しむこと。空を飛んでいる鳥はどうして俺の真上で糞を垂れ流しておきながら平然と飛び去っていくのか、とか一日考えて過ごすのさ。もう一つは、俺の上を通りかかる美女のスカートの中を覗き見ること。こんな俺でも性欲だけは持て余してるんだ……へっへっへ、こんなマンホールでもちゃんと生きてるんだぜ」
 ティオにはまだ早い話題なので、なるべく穴男の機嫌を損なわないように、愛想笑いをしていました。
「ところで、おまえは空にいるっていうのにどうして花なんか植えようと思ったんだ?」
 ティオは穴男に事情を話しました。
「なるほど、ごみ箱の中に花を植えるため、か……たしかに正気の沙汰とは思えないな、その変な男は。だがよ……これだけははっきりと言える。穴なんてものは虚ろなものだよ。しかもごみ箱の穴っていうのは、汚いものがよってたかって放り込まれてしまうんだろう? 穴の気持ちになって考えてみると、これほど悲惨のものはないよな。だいたい穴なんてものはとにかく塞いでおいたほうがいいのさ。穴を塞ぐことだけが取り柄の俺が言うんだから間違いない。立派な花を育てて、花で穴を塞いでやりな」
 ティオは穴男に別れを告げて、言われた通りの道を歩きました。かくして、ティオは花屋にたどり着くことができたのです。
 しかし、ティオはなんとなく予想していましたが、花屋の中にも人は誰もいないのでした。ティオは花の種がある木棚の引き出しを開けて、いくつか種を瓶の中に詰めます。その他に必要なものを全て揃えたティオは、そのまま持って帰るのも心が咎めたので、テーブルの上に星の欠片を置いて帰ることにしました。値段がわからなかったので、不足することがないように少し多めに置いて、再び空中へと飛びあがり帰っていきました。


 ティオはさっそく、花を植える作業に取り掛かりました。ごみ箱の中を開けて、中身を全てひっくり返して空にしたあと、代わりに栄養分の豊富な土を入れます。この土も、ティオが花屋で手に入れたものでした。土の中に種を蒔いて蓋をすると、ティオはごみ箱の穴の中に如雨露の先端を差し込みました。ティオはその日から毎日、決まった時刻に水をやりました。
 一ヶ月が経ちました。ティオは今日も、光の粒を太陽から地上へ、地上から太陽へと往復して送り迎えをしています。しかし、ティオはその仕事を続けていくうちに、ある異変を感じずにはいられなくなってきたのです。
「変だな」
 駅を掃除しながら、ソレルがつぶやきました。
「光の粒が明らかに減ってる」
「……実は、ぼくもそれが気になってたんです。気のせいではないのですね」
「こう見えておれもこの仕事はかなり続けてきたんだけどさ、光の粒が極端に減るなんてことは今までなかった。ここ最近は、目に見えて少なくなってきてる」
 ポーシャは相変わらず、ティオやソレルの前で優しい笑顔を見せてくれます。しかし、誰もいない時になると、とても深刻そうな顔をして太陽の駅のほうを窓から眺めているのです。そんな彼女の姿を、ティオは目にしてしまったのでした。ポーシャは自分よりももっとはっきりと、今起きている異変を理解しているに違いないと、ティオは思いました。
 そして、ポーシャがとても大変な思いをしているのに、ごみ箱の花を咲かせるという、ソレル曰く「ばかげた」ことをしていていいのかと、ティオは心配になるのでした。
 ケーブルカーを動かす三人の鉄道員たちの不安は確実に膨らんでいきました。そしてとうとう、その不安が破裂してしまったのです。
 ある日、ティオは駅の中にある緊急信号のボタンを押しました。ケーブルカーを遠隔操作しているポーシャと連絡が繋がります。
「どうしたの!」
「ソレルが光の粒と喧嘩してるんだ」
「待ってて、今行くから」
 ソレルと、光の一粒が取っ組み合いの喧嘩をしています。他の光の粒たちは、大きな声で笑ったり囃したてたりしながらその二人を取り囲んでいます。ティオはその喧嘩を止めようと思いますが、足が一歩も動きません。剣士になりたいのに、全く動くことができないのです。ソレルや光の粒たちが何か言っていますが、あまりにもうるさくて汚くて、うまく耳に入ってきません。そして、ソレルの車掌の帽子がレールの中に落ちてしまって服もボロボロに擦り切れていき、光の粒もみるみるうちに色がくすんでいくのが分かりました。
「ちょっと、二人とも喧嘩は止めて」
 光の粒たちを押しのけながら、ポーシャが二喧嘩する二人のもとに向かいます。しかし、ポーシャが来ても、まだ二人は一向に止める気配がありません。
「やめなさい!」
 ポーシャが一喝したその瞬間、喧嘩は止まり、はやしたてる声も静まりました。何やら面白いことが起きているぞと、高みの見物をしていた風たちは、空気を掠める音を立てながら、逃げるようにその場を去っていきました。
「ソレル、いったい何があったの。ちゃんと事情を説明してください」
 真面目な顔つきでソレルを叱りつけるポーシャだが、ソレルは悔しそうに歯ぎしりをするだけで何も答えない。その代わり、さっきまで取っ組み合っていた光の粒が大袈裟なため息をついて答えた。
「別になんでもありませんよ。僕はこの車掌さんに端的な事実をお伝えしたまでです。その事実に納得いかなかったのか、この小さな車掌さんは逆上してしまいましてね、おかげでこんなとばっちりを受けてしまう羽目になってしまったわけですよ」
 光の粒は両手を腰に当てて、やれやれと言わんばかりに首を横に振りました。
「私はソレルに尋ねているのです、あなたじゃありません」
「そうは言っても、この車掌さんは何も答えやしないですよ。つまりですね、僕はこの人にこういうことを言ったわけです、こんなオンボロのケーブルカーは、そのうち誰も乗らなくなって廃れてしまうだろう、と」
 ソレルがまたしても、その光の粒に襲いかかったので、ポーシャは慌ててソレルを羽交い絞めにして止めました。そしてソレルの頬を、ぴしゃりと叩きました。ソレルは再び黙り込みます。さらに蹲って、しくしくと泣き出してしまいました。
 ティオは、泣いているソレルのもとに近寄って、そっと両方の肩をつかんであげました。ティオは、元気いっぱいのソレルが、まるで怯えた小動物のように震えているのを、はじめて目にしたのでした。
「このケーブルカーは、私のお父さんやお祖父さんから代々受け継いできたものなの。どうしてこのケーブルカーが廃れてしまうのか、ソレルじゃなくて私に説明してほしいの」
「私に言われなくても、もうご存知なんじゃありませんか? ここを利用する光の粒たちは、どんどん減ってきているのだということを。その原因、あなたはちゃんと理解してます?」
 ポーシャはゆっくりと首を横に振った。
「正直な方でいらっしゃいますね。こんな状況ですから、知ったかぶりを決め込むかと思いましたが」
「無知であることは恥ずかしいことじゃないわ」
「成層圏の駅で降りた、私たち光の粒はどこに向かうかご存知ですね? この地上にある大きな街に向かうわけです。そして私たちは街の上で輝き、昼の太陽の恵みを人間たちに与えるわけです。栄華を極め尽くした大都市を照らすことは、私たちにとっても最高に名誉なことでした。しかしですね、つい最近、ある致命的な事故が起きまして。いろいろあって人間が住めなくなってしまったわけですね。あれほど繁栄した街を、人間たちは捨ててしまうことを選んだ。分かりますか、あの街は今、誰も人がいないんですよ。これが何を意味するのか……聡明そうな顔をした貴女ならお分かりかと思いますが」
「そんな街を光で照らす必要はない」
「ご名答」
 光の粒たちはみな、首を縦に降って同意を示した。
「そもそもさぁ、光るこっちの気持ちを考えて欲しいよね。誰が好きこのんで、こんな死んだ街を照らそうとするのさ」
「ていうか、あんな何もない朽ち果てた街なんかを照らすために、オレたちは生まれたわけじゃないんだけど。オレたちが輝けるのはほんの一瞬だけなんだから、その一瞬をあんな街のために使いたくないんだけど」
「関係ないけど、このケーブルカー、もうボロボロじゃないか。さっさと経路を変えてリニューアルしたほうがいいよ。超特急とかになってくれるといいんだけどなあ」
「もっと関係ないけど、あの女の子、眼鏡が似合ってて可愛いなあ」
「そういうわけですよ、お嬢さん。私たちにも意思はあります。どこで輝くか選択する権利は認められてもいいはずでしょう。はっきり言って、貴女の自慢のケーブルカーに乗り込まざるを得なくなった僕たちのことを、もっと哀れんでいただきたいのですが、ねぇ?」
 光の粒たちは、ポーシャをじろじろと見つめました。ソレルと違って、彼女なら分かってもらえるという期待を込めていることが、ティオにもはっきりと分かります。
「……ティオ、ソレル」
 ポーシャは二人の方に顔を向けます。
「この光の粒たちを太陽のもとへ返してあげなさい」
 ティオは目を見開き、ソレルは顔を上げました。それだけでは我慢できず、大きな声で叫びました。
「なんでだよ! 僕たちの仕事はいったいどうなってしまうのさ! このケーブルカーを守っていかなくちゃいけないんだろ!」
「わがままは良くないわ、ソレル。それに光の粒たちは、私たちにとっては大事なお客様なのよ。そのお客様から必要とされていないことは、認めなければならないわ」
 ティオは、ものすごく悲しい気持ちでいっぱいになりました。三人で協力して動かしてきたケーブルカーが、もう必要とされなくなってしまったのだと、はっきりと目の前で告げられてしまったのですから。
 ティオはケーブルカーを目にしました。もうあちこちが傷んで来ています。最後の一本の支えだけで動いてきていたのでしょう。しかしその支えも、今まさに折れようとしているのでした。折れてしまえば、こんなに古くなったケーブルカーなど、一瞬にして星の屑になって忘れ去られてしまうのです。
「運賃はいただきません。どうぞご乗車ください。太陽の下へご案内いたします」
 ポーシャがそう言った次の瞬間、なにかが転がり込むようにして、光の粒たちの合間を縫って入ってきました。
 あの不思議なおじさんでした。
 相変わらず汚い格好のまま、ヒゲをぼうぼうに伸ばしています。
「待ってくれ」
 嗄れた声で膝を突き、光の粒たちやポーシャ、そしてティオとソレルの姿を見ています。
「待ってくれ……待ってくれ……」
 すると男は、唇をわなわなと震わせながら、両目から涙を流し始めました。それは、とても綺麗な涙とは言えませんでした。顔が煤で汚れきっているせいか、頬を伝う涙は透明ではなく、黒くなっています。とても汚い顔が涙でくしゃくしゃになっています。
「お願いだ……お願いだ……照らしてくれ……!」
 男は顔を地面に押し付けて、まるで擦りつけるようにめちゃくちゃに顔を動かします。ドロドロの手で固い駅のホームを引っかき、指先から血が流れています。ポーシャはその男の姿を、決して目を逸らすことなく見つめています。彼女のエメラルドの瞳は、決して哀れみを浮かべることなく、ただ男の苦しみを受け入れています。
「照らしてくれぇ……俺に光をくれぇ……! もっと俺に光をくれぇっっ……!」
 男は喉を破らんばかりの大声で叫びました。
 呆然としているソレルの傍で、ティオはあの男の正体を悟りました。
「おまえたちは光なんだろ、地上を照らしてくれる光なんだろ、俺を見捨てるのか、俺の家族を見捨てるのか、俺の街を見捨てるのか、汚いからと言って見捨てるつもりなのかーっ!」
 男は顔をあげて、さらにドロドロになった顔を光たちに見せつけて叫ぶと、ソレルと取っ組み合っていた光の粒に飛びかかりました。光の粒たちの悲鳴の渦が駅の中で舞い上がりました。あまりにも昂奮したせいか、いくつかの粒たちはもう砕け散って輝きを放ってしまい、あまりの眩しさに、ティオとソレルとポーシャは目を両腕で覆い隠しました。ティオには、もう何が起きているのか分かりません。悲鳴の中を縫うようにして、ただ声だけが聞こえてきます。やめろ、汚らわしい! 僕に触るなっ! 乱暴な怒声が駅ごと強く叩きつけるような響きです。はやくこいつを止めろっ、止めろーーっ! みんなで協力してこいつを燃やしちゃえ! うぉーーっ!
 ティオは自分の腕に両目を強く押し当てながら考えます。今からあの男は、ごみ箱に花を植えるように言ったこの男は、あの光の粒たちの集団によって燃やし尽くされてしまうのだ。
 そのときのティオは、もう怖い気持ちをなくしているのでした。うずのように滅茶苦茶に輝いている今ならば、もう何をやったって平気だと思えたのです。ティオは目を開けて光の中に飛び込みました。強烈な光がティオの目を焼きます。そのなかでティオは両腕を懸命に動かし、走り回ってあの男のいるところを探ります。ティオの服がチリチリと焼け焦げていくのが分かりました。しかし痛いとは思いませんでした。もう、夢中になっていたのです。
 滅茶苦茶に動かした手が何かをつかみました。ゴツゴツと固く、毛むくじゃらな男の腕です。ティオはその腕の下に飛び込んで、男の上から覆いかぶさりました。そして、必死になって自分の背中で光の粒たちの攻撃に耐えます。いよいよティオは背中に激痛を感じ始めました。その痛みに耐えるために、あの男を必死に抱きしめます。しかし、ティオの意識が朦朧としていきました。あまりの痛みに何も考えられないせいで、自分の体がどこからどこまでなのかすら分からなくなってきたのです。
 しかし、その瞬間、矢のように鋭い言葉がティオの耳に届きました。
「静まれ」
 それは女性の声でした。しかし、ポーシャのようなあどけない声ではありません。あまりにも涼しい声に、ティオは背中が暑いはずなのに寒ささえ感じました。
 光の粒たちは輝くのをやめました。


 真っ白になっていた視界が戻り、ティオはゆっくりと顔をあげます。そこにいたのは、どこかで見覚えのある顔でした。しかしティオはすぐに思い出します。忘れるはずなどありません。ティオを剣士ではなく駅員にした、あの月の女神が静かに見下ろしていたのです。
 どうして、とティオは口を開こうとしました。しかし、なぜか声が出せないのでした。
「肺をやられておるな。おそらく声すらも出せまい」
 ポーシャは片膝をついて頭を下げています。ソレルも、ポーシャを見て同じようにしています。そして月の女神は光の粒たちに目を向けます。粒たちは足がぷるぷると震えています。
「その怯えよう……罪悪感はあるらしいな。しかし無駄だ、おまえたちはみな、夜に吸われてしまえ」
 光の粒たちは慌てて逃げ出します。しかしそんなものは無駄でした。月の女神が指を鳴らすと、駅の側に浮かんでいた星たちが慌てて動き出します。すると夜の中から大きな夜色の腕が伸びて、光のつぶたちを手で払いました。光の粒たちは、そのひと振りで一瞬にして消え去ってしまいました。
 月の女神は、ティオと、抱かれている汚い男に再び目を向けました。
「おまえの名前はティオだろう」
 ティオは驚きました。まさか自分の名前を覚えられているとは思いもしなかったからです。その顔を見て月の女神は、
「私は記憶力が良くてな。籤を引いてやったもののことは全員覚えているのだよ」
 そう言って両膝を曲げて屈み込みました。
「おまえ、剣士になりたい、というのが本当の気持ちだったらしいな」
「……はい」
 しかしティオの返事は声になりません。
「籤の力は絶対だ。おまえは永久に駅員のままだよ。【生きている限り】はな。そのことは受け入れているか」
「……はい」
「なら、良い」
「……」
 月の女神は立ち上がり、あのごみ箱のもとへ近づいていきます。
 ティオは、ポーシャが涙を流しているところを目にしました。あの元気なソレルさえも、何度もしゃくりあげています。
お別れの時が近づいているのだと分かりました。
「おやおや、もうおまえは駅員の仕事を全うしたというわけか。仕方がないな。もう一度私のもとへ来るといい。【次の籤】で、また会おうぞ」
 ティオは再び目を閉じました。あの守った男の上に覆いかぶさるようにして、全身の力が抜けました。だからティオは、自分の背中で何が起きているのかを知りません。ティオの背中は、まるで蛹が孵化するときのように縦の亀裂が走り、大きな翼を広げているのでした。
この翼があれば、どこにでも飛んでいけるのです。それはたとえ、冥界の果てまでも。
「イカロス……」

 その日から、ごみ箱の花へ水をやるのは、ポーシャになりました。相変わらずソレルは「ばかげた」ことだと言っていますが、それはソレルが、一度言ってしまった言葉を翻すのは無責任だと思っているからでした。本当は、全然ばかげた花などではないのです。
ポーシャはそれから、あの街について本で調べました。その結果わかったことは、あの地ではもう二度と、花や植物が生えてくることはありえない、という事実でした。なるほど、確かに空中に浮かぶこの駅で花を咲かせることができそうなのは、このごみ箱ぐらいなものです。
ソレルは、空のあちこちに浮かぶ星たちに尋ねて回って、今よりもさらにいい土を探し回っています。そしてようやく見つけた赤茶色の土を、ポーシャのもとへ持ち帰ることができました。種をもう一度土から出して、新しい土へと植えかえます。新しい土からミミズが出てきて、二人は驚きのあまり飛び上がりました。
新鮮な水と豊かな土。あと必要なものは光です。幸いにも、光は有り余るほどこの駅にはあるのです。光の粒たちは、ごみ箱の中にある種のために柔らかな光を与えます。そして、あの誰もいなくなった街を照らすために地上へと降りていきます。あの街は今でも昼と夜が訪れているのです。誰もいなくなった街でも、時間だけは確実に流れています。
ごみ箱の中にある花の種が芽を出すのは、そう遠くはないのかもしれません。


 
時乃
2013年09月01日(日) 10時31分33秒 公開
■この作品の著作権は時乃さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
時乃と申します。

今作はファンタジー色が強い作品になりました。
個人的にはよく書けたほうの作品です。
批評や感想など、よろしくお願いします。

この作品の感想をお寄せください。
No.1  gokui  評価:40点  ■2013-09-06 22:31  ID:SczqTa1aH02
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読ませて頂きました。
独特の世界観で不思議なおもしろさがありました。メッセージ性もあり良く作り込まれているなと感心しました。
気になったところを三つほどあげますね。
まず、人間がいなくなった理由。これは読者によって微妙にちがってくるようにわざとはっきりさせていないのでしょうか。それならばそれで問題はないです。
次に、おじさんの正体。これもわざとはっきりさせていない感じがしますね。読者によって大きなものになったり、小さなものになったりしますね。
最後にティオの翼。剣士になりたいティオに翼? イカロス? 何か深い意味がありそうですが、読み取ることが出来ませんでした。

それでは、また独特の世界の作品を期待していますね。頑張って下さい。
総レス数 1  合計 40

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