犬大好き
 僕の家では犬を飼っていた。ゴールデンレトリバーという犬種で、五歳になった僕の誕生日プレゼントとして、我が家の一員になった。
 その犬に「ミスター」という名をつけたのは僕で、金色に光る毛が外国の犬を思わせたからであり、僕がその頃、父母の教育の元、英語を少しばかり覚えていたからだった。

 犬の成長とは早いもので、我が家の一員となった当初、両手で軽々と抱えられる程の大きさのミスターだったが、すぐに成長して行き、やがて父母の両手にすら抱えきれぬ大きさになった。
 その大きなミスターに、小さな僕は随分と遊んでもらったものだ。金色に光る背の上に乗ったり、自転車と犬の首輪に付けられた縄を結び、運んでもらったりした。夜に一緒に寝ることもしばしばあった。ミスターの体は柔和で暖かく、僕は彼を抱きしめながら眠りに着いた。
 ミスターの散歩は僕の仕事だった。家の近くに海があり、僕はそこに彼を連れていき、砂浜に転がる石を海に投げると、彼は全速力で、夕日の沈む海に、飛び込み泳ぎ始めるのだった。そして海を上がった彼は、ぶるぶると体を激しく揺らし、僕に塩辛い水飛沫を撒き散らせた。

 ミスターは大人しい犬だった。見知らぬ人が来ても吼えず、ただ黙ってその人の顔を見つめていたし、僕が誤って寝ていた彼を蹴飛ばしても、何も言わなかった。
 父母はそんな彼を溺愛し、
「いい子だねー」
 と頭を撫でた。
 こんな日が長く続いた。

 ミスターが死んだ時、僕は中学生だった。死んだ日の前日からミスターは、口から涎を垂らして、苦しそうに息をしていた。
「よし、家にあげてやるか」
 と父は言い、ミスターを重そうに抱えると、リビングに敷かれた布の上に彼を乗せた。白かった布は彼の涎で黒く変色した。苦しそうな彼を少し撫でて、その日、僕達はミスターをあまり心配せずに眠りについたのである。
 翌朝、母が泣いて震えた声で、寝ていた僕を起こした。
「もうミスターが死ぬかもしれん、だめかもしれん」
 冷水を浴びたように僕の眠気は、すぐに覚めた。けれども
「眠い」
 と答えて、もう一度眠ろうとした。死んでゆく愛犬を見たくなかった。
 きっと段々、息が弱まって、その内ピタッと息が止まって、そして体が冷たくなるんだろう、と思った。益々僕は、眠りたくなった。
 やがて部屋に父が来て
「今、死んだぞ」
 と眠れずにいる僕に言った。
 僕は飛び起き、急いで階段を下りると、リビングには横たえたミスターがいた。母が彼の頭を撫でながら
「死んでもたなぁ」
 と呟いた。ミスターの金色の毛並みは、今では白髪でまばらになっていたし、おそらく寿命だった。
「死んだ時間は、七時二十二分な」
 父は呆然と立ち尽くす僕に言った。僕は死体の横に座ると、彼の腹を撫でた。まだ柔和で暖かく、ついつい僕は泣いてしまった。そして父も母も静かに泣いた。僕が中学生の時だった。

 その日から一年以上経つが未だに我が家では、ミスターの話をする事がある。それは誰かがふと、口にし始めるのだ。そうして我々は死んだ愛犬を、生きているように思い、そして現実を見るとまた悲しくなる。庭の犬小屋には、あの日から減っていないドックフードと、乾いた餌箱がある。誰もそれを捨てようとはしなかった。
 ミスターが死んだの良い事に、僕の家の庭では野良猫が住み着くようになっていた。猫は庭で糞をし、僕達はひどく困っていた。ミスターがいたらな、といった思いは僕だけではなく、父母にもあっただろう。
 
 ある冬の日、玄関の外で猫の鳴き声が聞こえた来た。その声があまりにもしつこく続くので、母が様子を見に玄関を開けると、野良猫はいみじくも母の両足の間をすり抜け、リビングへと入ってきた。
 飯を食べていた父は
「おお」
 と驚いた。鼠色の毛の猫は父の足へ頬を摺り寄せ、にゃあ、にゃあと鳴いた。
「外が寒いんだろうな」
 と父は言いながら、食いかけのカマボコを猫の足元へ落とした。猫はもぐもぐとそれを食う。そしてまた父の足へ頬を摺り寄せ始めた。
「おお、可愛いな」
 と父は猫を撫でた。母はそれを見つめていたが、その内
「おいで、おいで」
 と手を叩きながら言った。猫は母の元を駆けていき、母の膝に乗ると、目を瞑り寝始めた。
「なかなか、猫も可愛いね」
 と母は猫を撫でながら口にした。

 食後も猫は家に居た。座ってテレビを見ていた僕の膝の上にも乗った。そして僕の顔を見て、にゃあ、と鳴いた。僕は可愛いと思った。そして頭を撫でた。猫は静かに目を閉じた。
 猫の頭を撫でていると、愛犬ミスターの事を不意に思い出した。あの可愛い犬の柔らかな毛を撫でていると、その内、目を瞑って眠ったなあ、と思った。可愛い犬だったな、と思った。
 その時、僕はこの猫を撫でている自分がひどく嫌な奴に思えて、膝の上の野良猫を、掌で叩いた。猫は驚嘆したように叫び、膝の上から飛び退いた。
「お前、なんしてんだ」
 と父が僕を咎めた。
「あぁ可哀想にね、猫ちゃん」
 と母が怯える猫の頭を再度撫で始めた。
 僕は父母もひどく嫌な奴に思えてならなかった。僕達がミスターを愛してやらずに、誰が彼を愛せるのか、と思った。

 最近では頻々と猫は我が家に来る。鼠色だった毛は、父が体を洗ってあげた事によって白く繊細な色になった。父の膝の上で、猫は眠る。その隣から母の手が伸び、猫の頭を静かに撫でる。僕はそれを笑顔で見つめてしまっている。こんな父母を僕は見たことがある。犬が居るとき、よく見た光景だ。
 

 母が僕に猫の餌を注文してくれと頼んで来た。
 僕はパソコンを開き、通販サイトから猫の餌を注文してしまった。おそらく明日来る。
 明日からは、猫が家族の一員だ。
 僕はそれを認めてしまった自分がひどく残酷で、弱い人間だと思えてならない。
 たぶん、きっと、ミスターは悲しんでいるだろう。
 僕も悲しい。
 明日はミスターの犬小屋を処分するらしい。
 ごめんね。ミスター。人間ってそんな物かも知れない。失望させてごめんね。
 と僕は一人思った。
 

 おわり。 
com
2012年11月21日(水) 05時27分53秒 公開
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■作者からのメッセージ
犬が好きです。
バイトの合間に書いている文章に飽きて来たので、これを書きました。
ご感想、ご指摘、あればお願いします。

この作品の感想をお寄せください。
No.4  com  評価:0点  ■2012-11-25 00:01  ID:L6TukelU0BA
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Zooeyさん
感想ありがとうございます!
あぁ、「ごめんね。ミスター」から、いりませんかねー。んー、確かに淡々としたところから急にセンチメンタルな事言っちゃってアンバランスになった気もします。でも最後に僕の感傷的な部分で終わりたいって思ってました…。感傷的な部分書いて虚しさ増せばいいなぁ、なんて思ってましたが、たぶん、感傷的にするなら最初から感傷的な感じにした方がよかったかもしれません。アンバランスですね!

一面的、多面的。未だにあんまり理解できません…。一面的って例えば、昔の時代に、糞尿がないと作物が十分育たないのに、糞尿が臭いから撒くのやめろって言う意見とかですか?
糞尿は臭いからやめて欲しいって意見が一面的で、多面的に見るなら、糞尿は臭いが役に立つってことですか?すみません話が逸れました!

ほう!画一的になって喪失感が強調されるんですね。なんかそれだけが救いです。。救いをありがとうございます。
もうこの先も一面的な小説しか書けなかったら、全部喪失感溢れるもの書くことにしますw

ありがとうございました。






No.3  zooey  評価:40点  ■2012-11-24 14:39  ID:LJu/I3Q.nMc
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読ませていただきました。

良かったです。
犬への愛情とその犬のことが薄れていってしまう喪失感を、読み手に共有させられる作品だと思います。

ただ、ラストの「ごめんね。ミスター。」から後ろが蛇足かなとも思えました。 書いてしまうことで、それまで淡々と描くことで表現できていた喪失感が弱くなって、
センチな方向に物語が寄せられてしまったように思います。

チャットで一面的とか多面的という話をしましたが、
後から読み直すと
人間を一面的に描くことで、それが画一的に映って、
逆に喪失感が強調されている気もします。

それはそれで味わいかなと思いましたが、
その辺のところはいろいろな見方があると思うので
他の方の感想も見つつ、判断されるのが良いと思います。

ありがとうございました。
No.2  com  評価:0点  ■2012-11-21 23:18  ID:L6TukelU0BA
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アンニーチャスッターイナカップさん
感想ありがとうございます
確かにド倫理ですね。。自分でもなんでこうなったのかよくわかりません。自分がどこに向かうのかも分かりません!

結構プレッシャーです!頑張ります!次は筋書き小説から抜け出そうと思います!
タイ語ってなんかカッコいいです。
No.1  アンニーチャスッターイナカップ  評価:50点  ■2012-11-21 22:40  ID:oE2tK3DWyuo
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えっとー。
ヌルいっす。
どーしちゃったんでしょう。
ド倫理ですやん。うーん。前に書かれてたみたいなのは、単純にただ裏返っただけのド倫理だったんすかね。で、良い感じにみえてただけ、、なんだろうか。。

今回はかなりびっくりしました。ふむ。
次楽しみっす。プレッシャー!!
総レス数 4  合計 90

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