Blue
 私の住む家のキッチンは、深い青色に塗られている。
 夫の趣味だった。金曜日の夜、唐突に大量のペンキと刷毛を買い込んできた彼は、土曜日の朝から黙々とキッチンの壁を青く塗りはじめ、ところどころに色むらを残しながらも夕方にはその作業を終えた。
 夫は寡黙であり、無愛想であり、そして照れ屋だった。
 ともかくも彼の思いつきによって突然青く染まったキッチンで、その日、私はパスタを作ることに決めた。
 真夏の土曜日の、静かな午後。ずいぶん遅い、お昼の支度。


 食塩を一つまみ入れて、ぐつぐつと沸き立つお鍋にパスタをはらりと放射状に広げたときだ。
 きっと、何かが私の記憶のなかの小さなつまみに触れたのだ。
 それは私が高校生だったときの記憶だった。同じクラスにいた、顔さえ思い出せない男子のこと。
 いつ見ても、彼は私に背を向けているのだった。
 例えば教室を掃除していても、廊下を歩いていても、彼を見かけたときはちょうど背を向けたときか、プイと違う方向に顔を向けていた。
 たまたまそういうことが続いて、それがきっと記憶のなかで彼に対するイメージとなり、やがて彼への印象はその背中だけになってしまったのだと思う。
 そのせいで彼に対する具体的な記憶は、すっかり抜け落ちてしまっていた。まるで夢のなかに出てくる人物のように。
 思い返そうとすれば二言三言の会話もあったはずだけど、きっと、その程度の関係だった。
 何がきっかけで急にそんな昔のクラスメイトを思い出したのかはわからなかった。
 顔も名前もわからない、そんな昔の友人を。



 茹で上がったパスタをアサリと炒め、意味もなくオリーブオイルを高い位置から垂らしたりして、昼食のボンゴレはあっという間にできあがった。
 白いボーン・チャイナのお皿に盛り付けて、テーブルにことりと置く。
 グラスに注いだ氷水はすぐに汗をかいた。コースターを敷こうか少し考えたが、布巾でそのつど拭けばいいという結論に至った。
 一人だけの、遅い昼食。
 夫は祖父の墓掃除へ出かけており、きっと今ごろ、炎天下の中で黙々と水をまいたり草をむしったりしている光景がありありと想像できた。
 夫との出会いは、私が大学生のころにさかのぼる。
 きっかけはありきたりなものだった。サークルの新歓コンパで泥酔し、駅のホームでゲロを吐いた私を淡々と介抱したのが彼だった。
 お互いに口数も少なく、目を合わせることも苦手で───、しかしいつの間にか私たちは次第に惹かれあっていった。惰性といえば惰性のように、やがて彼は私と結婚することとなった。
 彼はプロポーズのときもしっかりと私の目は見ず、プイと顔を背けたまま、結婚したいとつぶやくように告げたのだった。


 こんもりと盛られたボーン・チャイナのお皿には、いくつかの唐辛子のかけらとアサリの殻が残るのみとなった。グラスにも、氷山をそのままスケールダウンしたような氷のかたまりが一つ残っただけだ。
 食べ終えたあとにカロリーのことを考える。
 洗い物の労力で、きっとチャラになるだろうと自分を納得させた。
 お皿をシンクに置いたとき、玄関扉の開く音が聞こえ、
「ただいま」
 夫がいつもと変わらないトーンで声をあげた。
「おかえりなさい」
 私は手をエプロンで拭きながら、気まぐれのように玄関へ向かうことにした。
「おいしいボンゴレできたけど、全部たべちゃった」
「……食いしん坊か」
 彼は少し呆れたような色の笑顔を隠すように、プイと顔を背けてみせた。


                              了
横須賀
2012年09月22日(土) 01時21分40秒 公開
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■作者からのメッセージ
なし。

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No.3  蜂蜜  評価:20点  ■2012-09-25 18:24  ID:p72w4NYLy3k
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うーん、拝読しました。

ショートコメディとしてはややオチが弱く、純文系としては芸術性に欠ける感じで、どう受け止めて良いのか、いち読者としては困る作品でした。

夫婦もの、あるいは男女間の恋愛ものとしては、拙作『砂のやりとり』がありますので、良かったら読み比べてみて、感想を頂ければ幸いです……だいぶ作風が違うので、優劣という意味では、けして、ありませんが。
No.2  よこすか  評価:0点  ■2012-09-22 16:45  ID:636zmfN5EOo
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早速の感想ありがとうございます。
30点は高すぎだと思いますが、せっかくなので遠慮なくお受けします(^^)


仕事がつらすぎて、現実逃避のために書いた小説です。
なのでガリガリ書くとなると、同時に私の精神力がガリガリ削られているという状況が推測されます。
なるべく2本目は書きたくないものです(´Д`)
No.1  お  評価:30点  ■2012-09-22 12:38  ID:L6TukelU0BA
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どもどもーっす。
やあ、可愛いなぁ。
いや、横須賀さんが、じゃないですよ。作品そのものの雰囲気がね。
へー、横須賀さんてこんなの書くんだね。
というか、書かないて言ってたのに心境の変化?
書かないって言ってたわりには、雰囲気いいし、まとまってるじゃないですか。
これから、もっとガリガリ書こうよ。職場ネタとか、期待してるのになぁ。

さて。
いよいよ、ミニイベ板に厨二小説イベントの告知が立ちました。チェックよろしくです!
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