消える足跡
 何時からだろう。私の体はすっかり重くなってしまった。何時からだろう。私の心はすっかり鈍くなってしまった。今日を記憶に変え、明日を今に変え、昨日を忘れてゆく。当たり前である筈の営みを、享受すべき有り触れた幸せを、嗚呼、何故こんなにも無意味だと思えてしまえたのだろう。真っ白な雪が降り積もったその日、私は土手の上を歩いていた。私の背後には私の足跡が続いている。先刻までの私がそこに居たのだと知れる。けれど、それは次に来る人間に踏まれ、春の陽射しに溶かされ、始めから何も無かったかのように消えてしまう。夏草が茂る今、誰に私の足跡を見つけられるというのだろう。夕暮れの雨に、秋の風に、私の痕跡はいとも容易く消されてしまう。ならば、何故私はここに居るのだろう。誰の記憶にも残らない、或いは明日の私の中からさえも消えてしまっている、そんな今日の私を続ける意味を、私は如何しても理解する事ができなかった。

 貴方は酷く透明でした。春風を見上げさらさらと流れる雪解け水のように、夏の夕暮れにグラスの縁から滑り落ちる雫のように、秋の日の青空のように、真冬の朝のあの澄んだ空気のように。それなのに、その目は何時も悲しげでした。私は枯れた手を伸ばしてその頬に触れました。私は枯れた喉を震わせて言葉を伝えました。私はこの身に残った僅かな熱を寄せました。誰かが愛情と名付けてしまった感情で、貴方を繋ぎ止めようと、震える手を伸ばしました。

 俺は、後悔はしない心算だ。お前が如何であれ、あの少女にはお前が必要であるようだ。もしも、否、今更如何にもならないか。

 過ちと呼ぶには余りにも甘美で、しかし美談とするには悲し過ぎた。出会いが後少しだけ遅ければ、否、出会わずにいてくれたならば、私は微塵の後悔もなく終える事ができただろう。嗚呼、何故、如何して、君は、私を。

 私は幸福でした。貴方が優しげに微笑んでくれる度に、貴方が私の肩を抱いてくれる度に、私の為に言葉を紡いでくれる度に、私は幸福感に包まれていました。ただ一点だけ、その隙間にはっきりと居座っている暗がりだけが気がかりでした。

 少しばかり時計の針が早く動いているように思える。嫌な感じがする。電話が鳴ったのは、夜が更けてからだった。

 私を赦してくれとは言わない。私を分かってくれとも言わない。忘れてしまって構わない。私の消える足跡など、気に留めなくて良い。だからせめて、悲しまないでいて欲しい。

 どんな言葉があれば、どんな事をすれば、貴方はもう一度目を覚まして下さいますか。その為ならどんな犠牲も厭いません。お願いですから、目を覚まして下さい。

 夜を待たずに降り出した雨が止まない。皆は泣き疲れて眠ってしまった。俺はお前が好きだったウイスキーをグラスに湛えてお前を見ている。意外と思える程安らかな顔だ。死の苦痛を恐れていたお前の事だから、大層怯えた顔をしていると思っていたのだが、如何やら死はお前に安らぎを与えてくれたらしい。
お前らしい最後だったな。
お前は好まないだろうが、俺から見たお前は自由だった。風に舞う白い羽根と同じようにやって来て、落ち葉が風に流されるように帰って行くのが常だったな。幾分自由が過ぎたか。風に吹かれるまま、その意味さえ理解できずに流れ去ってしまった。まぁ、良いさ。お前の唯一の後悔は何時かあの娘がお前の元へ届けてくれるだろう。

 思えば貴方との思い出は雨に関するものばかりでしたね。出会ったのも雨の日でしたし、私が酷く貴方を困らせてしまったあの夜も雨が降っていました。
 そして今日、もうこの世で貴方と会う事ができなくなってしまった今日も雨が降っています。貴方の身を焼く炎は白い煙になって空へ登って行きます。そこから降り注ぐ雨に打たれていると、まるで貴方の腕の中に居るような気になれます。おかしいですか? 私を笑いたいのなら、どうかせめて次の雨の日にも、少しだけでも、傍に。


 貴方は今、どこに居ますか。
 貴方は今、何をしていますか。
 貴方は今、どんな言葉を紡いでいますか。
 貴方は今、誰の隣に居ますか。
 貴方は今、誰の手に触れていますか。
 貴方は今、秋の風に散ってゆく木の葉を見ていますか。
 貴方は今、何時ものように寂しげに微笑んでいますか。
 貴方は今。

 私は今、貴方の絵を描いています。
 私は今、窓辺でグラスを傾ける貴方を描いています。
 私は今、文字の世界に居る貴方を描いています。
 私は今、微笑みかける貴方を描いています。
 私は今、キャンバスの向こうに貴方を感じています。
 私は今、如何して泣いているのでしょう。
 私は今。


 お前の唯一の後悔は、あの娘と出会ってしまった事だったな。既に人間である事を諦めていたお前に、あの娘は躊躇いも無く手を伸ばした。俺の後悔は少し違う。出会わせるのが遅過ぎた。断っておくが疚しい気持ちは無いぞ。タイミングか、否、俺の怠惰か。考えてみれば疚しいのかも知れないな。ずっと見て来た俺が如何にもできなかったお前を、不意に現れたような小娘に救える筈が無いと、やるだけ無駄だと思ってしまった。まぁ、良いだろう。俺にはもう、否、初めからそうだったのか? まぁ、何が如何あれ、結末は動かす事ができない。

 貴方の傍に。少しでも、貴方の近くに。

 初冬の柔らかな光の中に一枚の絵がある。油彩で飾られたその絵の中で二人が眠っている。小さなソファで身を寄せ合い、お前らしくもない穏やかな顔をしている。その絵にサインは無い。もう永遠にされる事はないだろう。どこぞの女神像ではないが、俺にはその欠落が絵に美しさを与えているように思えてならなかった。


 また春になった。絵は俺が引き取って部屋に飾る事にした。お前の親類も、あの娘の親類も、眺めているのは辛いそうだ。俺は、如何だろうな、寂しさは余り感じていない。辛くもない。虚しさも感じてはいない。お前には何時か話したな、俺は価値も意味もある人生を送ってお前を笑ってやる、と。その時はお前にもお前の言いたい事があるだろうから、それを言って笑えば良い。ただ、少しばかり悔しくはある。お前やあの娘が生きている間に、一度でも言い負かせてみたかったが、まぁ、良いよ。その後悔は俺が背負って生きてゆくとしよう。


 私は、ゆらりと水面を漂っている。あいつは、何時もと同じように忙しくしている。少し笑った。私の世界には、あの男と、あの少女と、もう一人、否、言うまい。それがあっただけだ。
 今、僅かに揺らいだ。
 私は、嗚呼、何故君は私にこんな笑い方ばかりさせるのだろう。

 私は、求める。私は、手を伸ばす。それだけしか、私は知らない。そして貴方は、そんな困ったような笑みを浮かべて、手を取ってくれるのでしょう?

 時間が経つのは早いもので、辺りはすっかり冬になってしまった。俺は、少し考えてみた。矢張りあれも心中という事になるのだろう。ならば、おい、見ているんだろう? お前が殺したんだ。お前が責任取れよ。如何してだろうな。お前の事を思い返すと、俺は笑ってしまう。精々そっちで幸せに暮らせ。今日も俺は忙しい。いつかお前が言っていた足跡は、随分と長く続いていたものだったのだな、俺はまた友人達にその説明をしなければならない。遺書でも残してくれれば良かったんだがな。まぁ、良いさ。お前の、確かに今はもう消えてしまった足跡を思い出しながら、話をしてやるのは嫌いではない。
笹森 賢二
2012年07月07日(土) 22時55分34秒 公開
■この作品の著作権は笹森 賢二さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
晴天の空の下、風に吹かれて消える足跡。

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No.1  季織  評価:10点  ■2012-07-23 03:19  ID:pt5S5l.1Z4I
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 こんばんは。読ませていただきました。

 「私」「貴方」と発言する女性と「俺」「お前」と発言する男性が登場キャラクターということでいいのでしょうか?
 「如何」とかいて「どう」と読ませたいのでしょうか?ちょっとイラッとしました。
 もっと分かりやすく書いてほしいです。置いてけぼりくらった感じがしました。

 すみません。
総レス数 1  合計 10

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