コンパッション

 1

 朝からずっと働きづめ、往復2時間もかかる通勤電車に揺られ、ぐったり疲れて帰ってくる。
 毎日。毎晩。
 そんな生活を、これからもずっと続けていかなければならない。

 改札を抜けてバスに乗り換え、それからさらに路地裏に入りしばらく歩く。そこに僕と、僕の養う家族が住んでいた。築三十年は経っているであろう木造アパートは、家賃が安い他に何の取柄もない。狭く、何もかも古ぼけ、しかもみすぼらしい。床下が腐りかけ、少し体重をかけただけで凹む畳。うっかりすると話し声が全部隣人に筒抜けな壁。まな板一枚しか物を置く場所のない台所。排水溝はどんなに洗剤を流し込んでもカビの匂いがした。大人一人が肩をせぼめてようやく入れるくらいの広さしかない風呂や、和式便所なんぞ見たくも無い。わずかな庭先には目前に建つマンションのせいで朝と晩しか太陽の光が入らず、洗濯物の乾かない日は妻がきまって愚痴をこぼした。
 そんな生活を、これからもずっと続けていかなければならない。


 2

 2001年1月、それまで4年間務めていた飲食業店を辞め、コンピュータプログラマとして僕は再出発した。

 3流とはいえ、なぜ大学を出てから零細飲食業店なんぞに務めなければならなかったのかというと、それはひとえに僕自身の傲慢といい加減さから来ていたと言わざるを得ない。店は大学時代からバイトをしていた僕に社員昇格を提示し、僕は何も考えずにその話を受けた。それだけのことだった。

 大卒当時、つまり1998年前後の僕には将来設計というものが何もなかった。
 加えて、今思えばお笑いものだが、その頃はまだフリーターと呼ばれる「夢見る無職」、自分の本当にやりたいことが見つかるまではバイトでも構わない、という働き方は今ほど否定的に捉えられてはいない時代でもあった。
 そういう働き方は、本当に夢のある人にとっては今も昔も変わらないのだろうが、僕のような半端者にとっては格好の逃げ道でもあったのだろうと思う。
 将来のことなど特に考えてもおらず、とりあえず食えれば良い、そのうちちゃんと稼げるようになってうまくいくだろう、なんていう都合の良い夢を見ていた僕は、自分自身をどうしたいのかもよく分っていなかった。その後10数年たった今でも分らない。そもそもそれを見つけに、北海道くんだりから東京の大学にまで出てきたはずなのに、その4年をかけて分かったことが、18歳までに何も考えてなかった人間がその後の4年間だけで何かを見つけようだなんてそんな都合の良い話などあるわけない、ということを思い知っただけだったというのは皮肉だ。

 そんないい加減な就職の後、「失われた10年」と呼ばれる長い不況に日本は本格的に突入していった。経済ニュースを読んで入れば世の中がそうなっていくことは、あらかじめ分らないでもない話だったに違いない。それをわかっていた同年代の連中はしっかり中堅以上の会社に就職するか、公務員になった。その差が生んだ様々な影響がどういうものか、10年以上経過した今、僕はまざまざと身に染みて感じている。
 しかしそういった経済状況に全く無頓着な当時の僕は、そういう状況だったとは露知らずに、自分と自分の将来には自信のある、楽観的な、一言でいえば、無根拠で馬鹿な若者の1人だった。


 3

 4月。新年度の季節。東京の都心で学生と新入社員の姿がどっと増える、毎年恒例の光景が今年も繰り返された。真新しいシャツとスーツに身を包み、颯爽と歩いていく新社会人たち。歳を取り枯れた人間をあざ笑うような彼らの強さ、身軽さを僕は羨ましく思った。やり直そうと思えばいつでもやり直せるぜ、と顔に書いてある。そういう時代が自分にもあった。

 その日、JR田町駅で山手線を降りると僕は人ごみをなるべく避け、東京タワーの見える方へ歩いて行った。それから芝公園の近くに建つテナントビルに足を踏み入れると、エレベータに乗り「8F」のボタンを押した。記憶が正しければ、ここにくるのは1年ぶりくらいになる。
 空々しい気持ち。ここに来るとき自分が決して歓迎されない。それは嫌というほど分っていた。……


 4

 1999年に大学の頃から付き合いのあったバイトの娘と結婚のを境に、さすがの僕も将来を考えた。給料18万で多少の残業代があるとはいえ、拘束時間が平均15時間以上でこの先昇給の見込みもない状況は、どう考えても明るい未来があるとは思えなかった。
 保険もなく、年金も払っていない。会社はそれらの支払いを任意だと言っていた。やりたきゃ自分でやれ、と。しかし払おうにも元手がないのだから不可能だった。飲食業界ではこういう話は星の数ほどあるということは当時から聞いていたから不思議に思っていなかったが、今となってはずいぶんいいように搾取されていたなと思う。

 行き当たりばったりで、適当な人生を過ごしてきた自分にこういうことを言う資格はないのかもしれないが、北海道で5人家族で育った僕には家庭を持ったら家を持ち子供もやはり3人くらい普通に養えるのが当然という気持ちがあった。それは単に自分がそういう環境で育ったから、自分も大人になればそういう親並の生活をして当然であるという理由からのことだったのだが、一点だけ親とは意見が違う。共働きではなく、自分一人の稼ぎで5人を支える。それが僕の理想だった。

 父が塗装工で母が看護師(当時は看護婦と呼ばれた)の家庭に育った僕は、幼いころからいわゆる「鍵っ子」だった。そのせいで随分自由に過ごせた面もあったが、そのくせ自分の親が共働きであったことには不満だった。母を休めさせてやれない親父をふがいないとも思っていた。今思うと子供とはいえ、現実を知らない、実に傲慢な考えだった。一体誰がお前を何不自由なく大学までよこしてやれたと思っていたのだろう? ほかならぬその「ふがいない」親父のおかげだったというのに。
 しかし24歳の僕は大人になっても傲慢だった。無条件に自分は中卒の父よりも優れていると考えていたし、たまたま運と努力が結びつかなかっただけで、自分の将来とその将来を拓く自分の力を信じていた。やればできるはずだ、と。

 僕はプログラマという職種に目を付けた。1999年当時、中級以上の職業プログラマの年収は「フロムA」のような職業紹介雑誌を見る限りでは、普通に月収30万以上、40万というのもざらにあった。手に職つければ、この程度はいけるんだな、と思ったものだ。
 それにもともと、僕は凝り性なタイプで、仕事と趣味が両立すればいいな、ということは子供の頃からいつも頭にあった。それが理想だろう、と。

 人間というものは自分自身ですら思うようにコントロールできず、他人ならなおさら言わずもがなであるのに対し、機械であるコンピュータはこちらが正しく指示する限り、必ず言うことを聞く。しかもプログラムというものは基本的に全部ハンドメイド、手作りなのだ。
 これを読んでいるあなたがアクセスしているウェブサイトも、それを表示しているウェブブラウザも、それどころかウィンドウズやマックといった基本OSと呼ばれるものも全部、プログラマたちが手作りでこしらえたものなのだ。
 機械を知らないとできない職人的な仕事で、しかも手作りで成り立っているというところが、大学4年間を通じてまともに成し遂げられたのが英検2級取得のみという、僕の自尊心をくすぐったのだとも言える。僕はコンピュータを気に入った。こいつを極めてやりたい、と思った。


 5

「4月に入って新しい期が始まりました。今日から社内に新しい人を迎えることができました。せっかくなので前に出て挨拶をお願いします」
 朝礼の最初に社長から呼ばれたのは、僕と同年代の営業担当の男と、どう見てもまだ二十歳そこそこの初々しい女の子、ついでに僕だった。
「今日から社内で2ヶ月ほど作業することになりましたのでよろしくお願いします」そう言ってお辞儀する。

 馬鹿馬鹿しい。
 心の底から、馬鹿馬鹿しい。

 ちなみにこの挨拶の意味するところを正確に翻訳すると次のようになる。

『また派遣先が見つかりませんでした。社内にも仕事がないとのことで、仕方なく雑用で2ヶ月ほどいさせてもらいます。その先どうなるかは分かりません』


 6

 飲食業から情報処理業、殊にプログラマへの転職は簡単ではなかった。文系大学卒で専攻が言語学、しかも卒論がアイヌ語のフィールドワークという完璧な畑違いの僕には、専門学校で教わるようなプログラミング教育は皆無だったし、周りにその職業を選択した知り合いもいなかった。2012年の今のように、インターネットなど普及もしていなければ、就職活動エージェントなんてものの存在があったことすら一般には知られなかった時代。ただ唯一、「年収40万」という職業雑誌の言葉だけが僕を勇気づけた。

 最初は何をしたら良いかも分らなかったので、現役のプログラマが書き込みをするインターネットの掲示板が貴重な情報源だった。(ついでに言うとその当時から「2ちゃんねる」は存在していたが、既に「荒らし」がいるなどの悪い噂も多かったので僕はそれを利用しなかった)そこで「ぶいびー」なるツールで勉強すれば良いと教わった僕は、当時住んでいた国分寺の駅ビルに入っていたパソコン屋に行き、プログラミングツールの製品を買いに行ったのだが、そのとき商品棚には「ぶいびー」はなくて、「Visual C」という箱しか置いていなかった。
 「ぶいびー」とは「visual basic」の略だということまでは理解していた僕は、この「Visual C」という製品の「Visual」という部分だけを見て、まぁどうせ似たような製品なんだろう、と勝手な推測をした。しかもそのVisual Cの箱には「初心者用解説本添付」とまで書いてあるではないか。指南書までついているなら問題なかろう。そう判断した僕はVisual Cの箱を持ってレジに行った。

 しかし、家に帰って箱を開けてみた僕は驚いた。中にはCDが2枚と本が一冊入っており、CDのラベルには「インストール」と書かれている。インストールが何を意味するかくらいは分っていたのでそれは良しとして、僕の驚いたのは解説書と書かれたものの内容だった。それの1ページ目にはこう書かれていた。
『この本はC++を理解している方を前提に書かれたものです』初心者OKって箱に書いてあるのに? しかもそんな僕を笑うかのように驚きの前置きがさらに続いた。『C++はC言語を前提としており、C言語を理解していないと習得不可能です』

 なにぃぃぃ?! 
 これは一体何かの詐欺か?
 
 初心者用の解説書付きと書いてあるから買ったのに、実はC++というプログラム用の言語を知らなければその解説書は読むことすらできず、そのC++を理解するにはさらにC言語というものを理解せねばならない。
 それが解説書の前書きの内容だった。何回読んでもそういう内容にしか読めない。
「そういうことならそういうことだともっとはっきり「箱に」書けやッ!」
 妻に無理を言って渡してもらったなけなしの数万円のことを思うと、今更後には引けない。手をこまねいているわけにもいかず、僕は国分寺の駅前にある比較的大きな書店へと自転車を向かわせた。そしてコンピュータ書籍だけを集めた一角に行き、そこで「C言語」という名の本を片っ端から読み比べてみると、同じ話題を取り扱っているにも関わらず、わかりやすいものからそうでないものまで、前提としている読者に違いがあることを知った。それから2時間以上粘った挙句、本当にずぶの素人でもわかるレベルで、200ページくらいの厚さの本を買って帰ることにしたのだった。
 国分寺の、小高い丘の上に立ったアパートの一室でああだこうだとうだつのあがらないことを言う日々が終わろうとしていた。これから始まるんだ、という希望が灯ったような気がした。
 こうして僕は、プログラマとしてキャリアを始めるための第一歩を踏み出した。


 7

 1年ぶりの自社帰還を果たしたその晩、僕は暗がりの中、いつものように路地裏のアパートで蛍光灯のちらつく玄関の前に立ち、湿ったスーツのポケットから鍵を出した。じっとり体に絡みつくワイシャツと下着が鬱陶しい。

 東京はどうしてこんなにも不愉快な土地なのだろう。北海道から移り住んで15年以上経つが、春の花粉症のためにマスクやらゴーグルやらを身につけるだけでなく、必要以上に厚着をせねばならない自分にとって、この永遠に続くであろう不愉快な季節のループは、決して慣れることがないような気がする。

 疲れていた。
 あるいは――そんな気持ちに支配されていたかっただけかもしれない。がんじがらめで、報われた気がしなくて、ただ耐えているだけのようで、言葉にならない感傷のようで、途方もない、虚脱感のような、諦めのような、そういう苦い味が嫌いだった。
 嫌いで、慣れていた。

 時折、折に触れて、何か目標が持てたらなぁ、と思う。他人や他人の業績に負けん気をくすぐられたりして、自分の本心とは無関係に作り出した目標ではなく、本当に自分を信じて楽しめる目標があったら、どんなに良かっただろう。でも僕は違う。僕に趣味などというものはない。

「こうなったのも、お前自身が選んだ道だろう」と人は言う。確かにその通りだ。しかし一体全体、そういうアンタは何様なんだよ、と不遜な僕は口と心では全く逆の態度をとる。そんな説教が俺に何か役に立つのかよ、と。何を偉そうに…
 僕は僕なりに、たとえ半端者でも一生懸命生きてきたつもりだった。ずっと1人で家族も養っている。それを後悔していないとは言えないときもあるが、それを他人にとやかく言われたくはない。この10年、僕がどんな思いで生きてきたと…
 だが何を言おうとも結局、僕にあったのは若さだけだったのではないだろうか。その若さも30半ばを過ぎて失おうとしている。

 疲れていた。
 堂々巡りの毎日、擦り減る一方の人生、それでも黙って耐えている(と思いたい)自分のために、ねぎらいの言葉一つくらいあってもいいのではないだろうか? そんな自己憐憫に浸っても許されるべきではないのか? 他人がどうであれ、少なくとも僕にはそうだ。そして今夜は、まさにそういう晩だった。

 なのに――

 綾は僕の帰りを確かめただけで、すぐにTVに向き返ってしまった。救急病棟だか何だか知らないが、いわゆる医療ドラマを見ていたらしい。子供を二人寝かせ終わり、ようやく自分の時間を持てた彼女が楽しみにしている時間。
 僕は何か話すべきだったのだろう。話すべきことが無かったといえば嘘になる。むしろ話さなければいけなかった。話しさえすれば、彼女は付き合ってくれたかもしれない。
 でも僕等には、いや、「僕には」いつも以上に何も話す言葉がなかった。話せなかった。そもそも、これまで一週間の会話時間を全て足しても1時間に満たないのではないだろうか? 突然普段と違うものを望もうとしても、なかなかそうは上手く手に入らないものだ。だがそれでは夫婦の絆とは一体、何なのだろう?
 みんな、自分が幸せになると思って誰かを好きになったはず。結婚し、引っ越しもすれば子供も持ち、車に乗り、家を買う。そうすれば自分が幸せになれるから。そう信じ、希望を持てるから行動できる。決断できる。
 でも本当に、狙った通りの幸せになれる人はどれくらいいるのだろう? と最近僕は思う。

 結局、今夜も僕はノートPCに向かって黙々とネットサーフィンを続け、背中合わせにTVを見ていた綾は知らぬ間にカーテンで仕切っただけの畳続きの隣の部屋へ消えた。

 誰もいなければ、何も話すこともない。


 8

 綾が妊娠した。
 仕事の合間に本を読み、家に帰ってもひたすら勉強の日々の中、ようやくC言語の習得が完了した頃だった。本を買ってから半年以上経過していた。僕は心底、これに打ち込んでいた。
 既に述べたように、C言語の習得はC++言語習得の前提条件でしかなく、僕の前にはさらにC++の習得とウィンドウズプログラミングという2つの巨大な山がそびえ立っていた。ざっと計算しても500ページはある本を数冊読み、しかも実際に理解してプログラムを作れなければ意味がなかった。
 それでもあの頃、もう少し、ほんの少しでも止まることができていたら――僕は何かが狂い始めていた。

 綾の妊娠は嬉しかったが、僕はプログラミングの習得を何よりも優先させた。綾が文句を言ったことはない。でもそれを、僕は彼女の優しさだとは気が付かずに、単に体の調子が良いものだと、特に問題がないのだとばかり思っていた。
 綾のお腹がどんどん大きくなり、破水するまでずっと、僕は家事を手伝わなかった。炊事、洗濯、掃除、その一切をやらなかった。彼女との未来を守るためだと言い聞かせて勉強を優先し、彼女の体を守らなないというのは一体どういう矛盾なのか。それでも綾は不平一つ言わない。

 そして娘が生まれた。僕はその子を薫と名付けた。


 9

「実は昔作った劣悪なプログラムがあってね」それが朝礼の後に呼び出され、最初に上司から言われた言葉だった。
「A君が、君なら何とか改造できるだろうと言ってる」と彼は言った。「しかし他の人にやらすと2ヶ月要らない仕事に3ヶ月あげるわけにはいかなくてね」
 今後の仕事について話があると呼び出しておいて何を言うかと思えば、お前は本当にこの会社の常務なのか、と僕は思った。いい加減にして欲しい。
 いかなる難易度のプログラムなのか全く分からない僕に対して、この莫迦は、何としてでもそれを2ヶ月で改造して仕上げるという、言質を取りたいらしかった。僕ならできそうだと話したという、そのAさんと僕はこれまで一度だってちゃんとしたソフトウェア開発プロジェクトを過したことがない。つまり、互いの詳しいスキル内容など知らない。知るはずがない。それなのに、その彼の見積もりを盾にゴリ押ししようったってそんな無茶がどこにある。この常務はプログラムが何かをわかってない。プログラマの仕事を理解していない。彼の言い分がが罷り通るなら、すでにこの会社はソフトウェア会社ではない。請け負ってもいい。そんな会社は終わっている。



 10

 薫が生まれた後も、僕の生活は変わらなかった。何としてでもC++をものにして、ウィンドウズプログラムも可能な限り早く学び、6畳一間の生活から抜け出すこと。それが全てだった。金がなくて肩身の狭い思いを強いている僕の責任だった。それに学ぶこと自体、自分が向上していると実感できることが嬉しかったというのもある。

 薫は一目見ただけで父親の僕に似た子供だった。でも母親にべったりで、僕には懐かなかった。泣くと手におえないくらい、病気じゃないかと思うくらいに泣いた。ろくに世話もしないくせに、僕はそれが気に入らなくて薫を何度か邪険に扱った。泣き止まないと布団を何重にも被せ、その横でパソコンをいじったりもした。薫を連れて実家に帰れと綾を責めたこともある。
 綾は何も言わなかった。言えなかったのだろう。そのくらい当時の僕は聞く耳を持たなかった。
 逆に言うと、そうでもなければその後たったの1年半、仕事の合間と自宅学習だけでC++の習得とウィンドウズプログラミングの基礎(入門ではない)を理解することは僕には不可能だった。C言語から始めて、ようやくソフトウェア会社に就職可能なレベルになるまでに、2年を要した。
 当時、僕のプログラミングレベルは掲示板でも一部の現役プログラマが認めるほどにまで上達していた。僕は恐る恐るどこか職場を紹介してくれないかと掲示板で仲良くなった先輩にメールで頼んでみた。すると彼は2つ返事で承諾し、そのまま自社の社長に引き合わせてくれたのだった。おかげで十分な確信をもって飲食店を辞めることができた。給与18万円からの再スタート。2001年1月のことだった。
 「ここから俺は必ず這い上がって見せる。這い上がって必ずお前に家を買ってやる。家も車も、俺が育った頃の生活より必ず上の生活を手に入れる」僕は言った。
 綾はただ、続けられるの? とだけ言った。
 当たり前だ、と僕は答えた。


 11

 2007年のリーマンショック以降、IT業界では派遣の足切りが急激に始まった。派遣といっても、その多くは正社員派遣とでもいうべき仕組みで、要するに仕事のあるところへ会社が会社へ人を派遣するというものだと考えればいい。大手企業を頂点にピラミット型の産業構造をしている点では、建築業界とも大差ない。
 不況が舞い降りた後、ついに今から3か月前、僕自身の関わっていたプロジェクトも終わるときがきた。問題は、次の仕事がないことだった。
 不況の煽りで優秀なプログラマやエンジニアが金銭面での条件を落としたり、それまでやらなかったようなランクの若干低い仕事まで取ろうと奔走した結果、僕のような多少中途半端な技術者が押し出されて仕事にあぶれることとなり、自然と一つの仕事先に応募するプログラマが激増した。競争の激化とともに今度は選ぶ側も目が肥えてくるのか、採用するよりも落とすことに力点を置くかのような無茶な質問をするようにもなっていった(「英語は話せるか?」等)。
 結果、僕は数えきれないほどの面接に落ちた。

 落ちてみて分かったのは、人間というものを破壊するに暴力はいらないということだ。ただ一言、「NO」とそいつに言い続ければいい。「お前は要らない」と。それだけで弱い人間から正気を保てなくなっていく。それが、この数か月で僕の経験した全てだった。


 12

 だがリーマンショックがどうだの言う以前、とっくの昔に僕は、本当の意味では壊れてしまった人間だった――

「**君、もうやめにしよう。君を待っている人がたくさんいるだろ」僕をこの世界に入れるように便宜を図ってくれた先輩は、僕がその世界で突っ張り続けることからドロップアウトすることを勧める代わりに、僕が全てを放棄することを何としても止めようとした人でもあった。

 僕は薄ら笑いを浮かべて言った。「先輩…俺はもう限界ですよ」
 先輩の顔は真っ赤だった。首まで赤かった。西武鉄道に沿って僕は1人徒歩で狭山公園へ向かっていた。多摩湖のあるその公園へ向かう勾配が次第に上がっていく一本道の途中、なぜか彼はいた。
「なぜここが…」
「GPSだ!」それ以上を先輩は言わなかった。
 嘘だ。
 先輩は見たことのある携帯電話を手に持っていた。一目で分った。綾のだった。
「綾から聞いたんですね?」先輩はその問いに答えない。
「俺の責任だ、何も言わずに俺と一緒に病院に行こう」
「先輩に何の責任もありはしませんよ」
「俺たち……友達だろう!」
 僕は泣いた。
「先輩……友達でも、自分の子供を殺したりはしないでしょう?」
「そんな――」先輩の目がこれまで見たことがないくらい見開かれた。「嘘だろ……」

 その日の朝、綾が朝市へ特売品を買い物に出た後のことだった。薫は綾において行かれるのを異常に嫌がった。僕と二人きりになるのを嫌がっているのだと僕は思っていた。僕は薫に厳しかった。ママー、ママーと何時間でもわめき続ける。
 朝2時に帰ってきて、その日8時には家を出なければいけなかった僕は、その月、家にほとんどいなかった。その前もその前の月も同じ。典型的なデスマーチと呼ばれるプロジェクトが続いた結果だった。僕はチームリーダーとして全体を指揮する立場にあり、全ての人員に指示を出しつつ、自分でもプログラムを組む必要があった。顧客との折衝も全て僕の肩にかかっていた。そのため、ほとんど恒常的に家に帰ることもできず、睡眠時間も平均3時間程度の期間が1年以上続いていた。それが頑張り続け、一介の正社員エンジニアが中小企業を相手に月給60万円以上をむしり取るようになった代償だった。
 家に帰ると理由もなく常に不機嫌でたまらなかった。なぜこいつらはこんなに呑気に生きているのだろう、と。会話もなく、それでさらに自分の居場所がないように感じていた。かつてないほど稼いでいるのに金が思うように貯金されないことにも腹を立てた。いや、様々なことに腹を立てた。数えきれないくらいに……

「お前いいかげんにしろよ」
 わめきやまない3歳か4歳の子供を僕は布団に叩きつけ、その上から何枚も別の布団や毛布を重ねた。そして、這い出てこれないように上から覆いかぶさる。布団の隙間から出して許して、という金切り声が何度も何度も漏れ聞こえたが、布団がサイレンサーの役割を果たし、その声は曇り、小さくぼやけていた。ざまあみろ馬鹿野郎。頭が真っ白になっていく――おまえなんか――死ねばいい。死ねば……
 そうして何分過ぎたかもわからなくなった後、とうとう薫の声は聞こえなくなった。
 1分。2分……僕はとうとう布団を引きはがし始める。心臓が自然と高鳴っていく。
 薫の腕が現れ、次に胴体が出てきた。ピクリとも動かない。悪い予感がした、そして、顔にかかっている毛布を取り除いくと青紫になった薫の顔。どこも見つめていない目が半分開いている。

 殺してしまった。

 僕の時間はそのとき止まった。様々な思いが頭を駆け巡る。綾が来たらどう説明しよう……とか。ずっとこうなることを望んでいたとでも言えばいいのか?
………………………………………………………
…………………………………………………………


          ※   ※  ※

 先輩の上着から電話の音が鳴った。先輩の電話だった。顔が青ざめていた。そして受話器をとってから何事か聞くと一言こう言った。「薫ちゃんは死んでないぞ、お前の勘違いだ」

 薫は死んでいなかった。息も絶え絶えに娘は一言だけ言った。

 ぱぱ、ひどいよ

 布団を外したときは意識が朦朧としていたのだろうか、あるいは本当に意識がなかったのかもしれない。今となっては分らないが、とにかく死んでいなかった。

 パパ――

 いや、殺したも同然だ。
 お前の家族は壊れてしまった。
 お前が壊した。
 お前は自分の娘を殺す親だ。

 パパヒドイヨ

 薫の息は次第に力強さを増していた。だが僕はもう……生きていても仕方ない。「公園に行く」とだけ言い残して外へ出た。限界だった。何もかも。もう戻るつもりはなかった。……

 先輩は電話で薫の生存を聞いて安堵している。薫は死んでいない。だがそんなことが問題なのではない。
「先輩、それは結果論ですよ…」
 それが、普段は温厚な先輩をキレさせた。「お前! 言っていいことと…」体格のいい先輩の体があっというまに目前に迫り、そのまま僕は歩道の街路樹に押し付けられた。「ふざけるなよ!」
 先輩は綾の携帯を僕の耳に押し付けた。
「これで奥さんと話をしろ!」
 有無を言わさない押し付け方だった。受話器の向こうから声がする。
 ――パパ、どこにいくの?


 13

 綾がどうして先輩に連絡し、なぜ勘付いたのかはいまだにわからない。聞けないし、多分、教えてくれないだろう。ただあの後会ったとき彼女は泣いていた。僕も泣いて二人で抱き合った。

 先輩のような人はほとんど得難いと言っていい。彼は僕が家に帰るのを見届けた後、そのまま綾も車に乗せて僕を病院へ連れて行った。さらに医師に僕がクレイジーだということをどれほど吹き込んだのか知らないが、僕は重度うつの診断を得て家に帰った。そして帰り際、もうこの業界には戻ってこない方がいい、と先輩は言った。
 後で知ったのだが、先輩の奥さんは精神科の看護師なんだそうだ。先輩は僕を自分のいた会社に引き込んだ1年後に、別の会社に移って行ったが、その後も年に2,3度程度、家族ぐるみで付き合いがあった。しかし奥さんの職場が心療内科とまで、はっきり教えてもらったことはなかった。

 僕は仕事を辞め、3か月間何もせずに過ごした。その後、一度は全くコンピュータとは関係のない仕事に努めたものの、子供がもう一人生まれたのを機に今の会社に入社することに決めた。
 先輩は「仕方ないな」とだけ言った。結局、僕が金をとれる仕事はプログラミングしかなかったのだ。そしてそのスキルを叩きこんだのは先輩自身だった。
 だけど二人とも分っていた。たとえ派遣労働に切り替えたところで、程度は改善しても本質まで変わるわけではない。言ってみれば、僕は時限爆弾のようなものだった。


 14

 あれから数年後の春。4月。雑用を命じられ戻った会社に僕はいる。あと半年、派遣先がなければクビだとも。さらにその「雑用」にすら無理難題を吹っかけられるとは思ってもみなかった。
 人の顔もまともに見ずに話す常務の態度、閑散とした応接間、やたらに白い漆喰の壁に、微妙に震える蛍光灯のちらつきがやけに遠く、ぼんやりと冷たく見えた。そしてふと、取りとめもなく、思いが僕を支配した。

 何か決定的な過ちがあったのだ。そうに違いない。

 会社、家族、最早全てがうんざりだ。それでもずっと、会社がクビと言うまで何とか持ちこたえようと思っていた。でも……
 もう十分。もう、たくさんだ。
 ……

          ※  ※  ※

 綾のいない部屋に取り残され、とりとめのない想いを抱えたまま、僕は急に酒が恋しくなった。冷蔵庫を開けてはみるがそこにないことは分かっている。酒だけが友だ。服を着替え玄関を出ると、玄関脇に並んだ葉桜の枝が重なり合うように夜空へ伸びていた。それから、誰かが餌をやってるのだろう、駐輪場にはいつもそこでたむろしている猫が二、三匹、そうするのが当然であるかのように丸く重なりあっている。
 発泡酒を2本買ってこよう。それで1時間くらい、素面にサヨナラできる。ついでに猫缶も1つ買っておけばいい。少し、話し相手が欲しいから……

 けれども、コンビニから帰ると猫たちはもう居なかった。そんなに遠くに行ってないはずだろうと、敷地を一周ぐるりと見て回り、再び駐輪場を訪れ、それから近所の公園を二つ徘徊した。時間にして約三十分。その間、誰にも会うことはなかった。結局いくら探しても猫は見当たらず、侘しいままに公園を去り歩道をとぼとぼと歩く。全く、無駄足だったわけだ。
 成功も幸せも狙って奪える人間、夢中になれる趣味があり、特技を生かせる人間。そのどれでもない自分が、何か壮大な人生の無駄足を踏んでいるように思えた。僕は結局、最後は自分のことしか考えない人間だ。誰の説教も聞きたくもない。幸せがなにか、僕が知ることはないだろう。

 空になった缶ビールを握り潰し地面に叩きつける、それから、何となく少し上を見上げると、明らかに市役所が予算消化の目的で無様に切り刻んだ街路樹たちが、ダリの描いた枯れ木さながら、空疎な夜に耐えていた。誰もいない。誰も――

 誰にも、何も、話すことはなかった。
ぢみへん
2012年04月27日(金) 04時32分09秒 公開
■この作品の著作権はぢみへんさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
感想もらえたらうれしいです。
[4/29]大幅に書き換えたのでUPしました。内容に合わせてタイトルも変えました。
[5/13]後半部を中心に描写等を少し改稿しました。

この作品の感想をお寄せください。
No.7  ぢみへん  評価:--点  ■2012-05-27 23:01  ID:lwDsoEvkisA
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> うちださん

感想ありがとうございます。
4/29よりも少し前に掲載した内容は、1年ほど前にほぼ同内容の作品の焼き直しだったので、紛らわしくなったかもしれません。

また機会があったら感想よろしくお願いします。
No.6  うちだけい  評価:40点  ■2012-05-27 00:34  ID:oE2tK3DWyuo
PASS 編集 削除
拝読しました。
この作品、以前、4月29日?ってことはなく、モットずっと前にアップされてた作品と近いような気がするんですけど、すごくよくなってるようなきがしました。あくまでぼく基準ですけど。。
ないようが描写とともに、ものすごくあつくなってる。ような。記憶が曖昧なのですが、ぼくが以前読んだのは、たしか、感覚的には10枚前後だったような。
とにかく、読ませてもらえてよかったす。
ありがとうございました。
No.5  ぢみへん  評価:--点  ■2012-05-13 23:50  ID:lwDsoEvkisA
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まずは感想いただいたみなさん、ありがとうございます。
感想の書きにくい内容だということは分ってました。
なのでこんな高得点をいただけて大変驚くと共に安堵しました。

もちろん、この作品はもっと丁寧に書くことが可能であり、
その方が良いと思っているのですが、みなさんお察しの通り
半分近くが自らの体験によるものなので、僕にとってそれら
の過去を客観的に消化し、それを理解してもらえるように書く、
どんな気持ちだったのかということを書くというのが難しくて、
それで改稿前は雰囲気重視の作品にとどまってました。

しかし以前もほぼ同じものをここに掲載させてもらったときに、
やはりアクションが足りないだろう、と指摘されたことは憶えていて、
要するに主人公の気持ちを共有してもらうためには、
その背景となる情報が必要だと考え直し、改稿したという次第なんです。
この作品は僕にとってある種のトラウマです。
また少し変わった切り口で書くと思います。


>月子さん

生意気なんてとんでもない、最初に感想いただけて大変うれしかったです。
僕からすると月子さんの想像力の方がよっぽど羨ましいのですが、
またいずれ次のものを書いたら読んでもらえたら嬉しいですね。

>らたさん

改稿後の最初の感想ありがとうございました。
何かしら気に入ってもらえてうれしいです。
まだ社会に出ていない(もう出ちゃった?)とのことですが、
らたさんはすでに長い作品をいくつも書かれているようですし、
あまり経験の有無に左右されない作風なので、
そこに社会経験が加わった時にはどうなるんだろうなぁ、と思います。

序盤の時制が転々とするところは筆者の構成力のなさの表れです。
もっと読みやすくしないといけないですよね。
また次のを書いたら感想くれると嬉しいです。僕も感想書きますので。

>うんたさん

なぜだかわかりませんが、うんたさんのご感想を読んで、
「あぁ、ある意味俺が一番聞きたかった感想だ」と思ってしまいました。
そういう風に読んでもらえてうれしかったです。

>Physさん

ご感想をくれた方々みなさんにとても感謝しているのですが、
僕が意図したことをほぼ読み取ってくれたのはPhysさんと
うんたさんなのかなぁと思ったりしました。
僕は逆立ちしてもPhysさんのような繊細な感覚の小説は
書けないですが、そうした方にこのように評価していただけたことは、
とても励みになりました。
No.4  Phys  評価:40点  ■2012-05-06 20:28  ID:eKNLcJv0NWo
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拝読しました。

素晴らしい作品です。しかし、事実はどうであれ自伝的な側面を感じてしまう
お話でしたので、少しだけ評価を悩んでしまいました。ノンフィクション的な
雰囲気のお話はあまり読みつけていないので、評価軸があいまいなのです。

改稿前の作品、一年前くらいに一度拝見させて頂いていると記憶しています。
その時にも感想を書いたような気がします。

本作、何度読んでもやりきれなくて、胸が苦しくなります。私の家は経済的に
恵まれているわけではないのですが、幸い田舎でしたので、畑で野菜や果物を
作って暮らし、ゆったりと時の流れる自然の中で牧歌的な子供時代を送ることが
できました。それで、本作のような『都市型の家族』からは縁遠い暮らしをして
いたということもあり、その現実に圧倒されてしまいました。

私は理系出身者なので、学部卒でプログラマーになった友達が何人かいます。
あの業界が人間を摩耗させて生き長らえているということは、事実の上では
知ってはいますが、本作を読んで、本当にひどいのだと実感します。救いの
ない結末に、今もなおそこに存在する本物の闇を見ました。

読み終えて決して明るい気持ちにはなれませんが、それでも、小説という形で
提示するだけの価値が本作にはあると思いました。ぢみへんさんの誠実さを
文章全体から強く感じます。読ませて頂いてありがとうございました。

また、読ませてください。
No.3  うんた  評価:30点  ■2012-05-05 22:08  ID:iIHEYcW9En.
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はじめまして。読ませていただきました。

この小説がどのくらい作者様のご経験を反映しているのかは不明ですが、なんだか自分の友人の話でも聞いているような気分になってしまって(身近な人の話のように感じられて)、感想をなかなかまとめられずにいました。

私は社会人の男性です。プログラマーではなく、派遣労働をしているわけでもありませんが、この作品を読み、色々と考えてしまいましたので感想を書かせていただこうと思いました。

いきなり変な話からはじめて恐縮なのですが、おゆるしください。

以前に三十代後半で独身の女性と話していて、なにかの拍子で話題が子供のことになったことがありました。そしたら彼女が「子供については(産むことを)もう諦めている」そのようなことをふと口にして、その口調が自然というか穏やかなもので、だからか分かりませんが、とても切実なものを感じてしまったことがありました。

その穏やかな口調には、子供の話題が気まずいものとならないように、余計な気を遣わせないようにという細やかな配慮すら感じられて、痛まくしいような清潔なような、しんとしたかなしみが伝わってくるようでした。うまく説明できないのですが、そのとき男の自分にはとうてい理解のできないかなしみに、ちらっと触れてしまったような気になってしまったことを覚えています。

なんでこういう話をわざわざするかというと、この小説を読んでやっぱり同じように心をゆさぶられてしまったからです。淡々とした語り口に、つらさが滲んでいるように思えました。働くこととか、歳をとることとか、家族とか、夢とか。

私自身は独身ですが、家族があればもっと日々の生活に生きがいを持てるのではないかと夢想することがあります。子と親とがよりそって、まるで犬や猫のようにくっついて眠っている光景を見たりすると、やはり子供を育て、人に必要とされれば、「自分はこれまで生きてきたのだ、自分の人生をつくりだしたのだ」そういう実感をもうすこし得ることができるのではないか、そう考えてしまったりもします。

この小説の主人公は家庭を持ちながらも磨り減っていってしまいますね。現実として家族を養わなければならないし、そのためには過酷な環境で働かなければならない。だから自分はこう生きてきた、失敗はあってもこれで良かった、そのように自分のたどってきた道のりを割り切ることができないところに、切実さを感じてしまいます。

誰だって自分の過去に完全に納得することなどできないでしょうから、程度の差はあっても、多くの人たちが同じような悩みを抱えていることだと思います。そういう悩みを、働く男性の視点でとりあげたことで、私には友人の話しでも聞いているような、身近な物語として受け取ることができました。

どこか遠くで、顔も知らぬ方が毎日をぎりぎりでがんばっているのだ、そういう励みとなったことも蛇足かもしれませんが付け加えておきます。

> 時折、折に触れて、何か目標が持てたらなぁ、と思う。他人や他人の業績に負けん気をくすぐられたりして、自分の本心とは無関係に作り出した目標ではなく、本当に自分を信じて楽しめる目標があったら、どんなに良かっただろう

この主人公とちがって作者様には小説が書ける、ここは救いだと感じました。
ながながと拙い感想をすみません。
次作も是非読ませてください。私もジミヘンは好きです。ヘイジョーとか。
No.2  らた  評価:40点  ■2012-04-29 11:03  ID:9hhwgmk6ESY
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拝読しました。
書き換えられる前のものも読んでいたので、もう一度ひらいて読みながらあれあれ、と思いつつ、良かったです。
生意気な言い方ですが、とても良くなっててすごい、とその筆力に驚かされました。
この小説から、学ぶことが多かったです。
それは小説を書く、ということにしても、これから社会に出る身としても、です。
主人公の心理描写がスマートで分かりやすかったり、きちんとした裏付けのある行動にはらはらさせられたり、読みごたえがありました。世の中の闇に溶け込んでいく様をただ並べていくより、私はこういう噛みごたえがあるほうがとても好みです。
大切なことを小説で学べるというこの環境はすてきだなあと感じました。

何か言えることがあるとすれば、序盤に時勢が転々とするのに戸惑ったことです。
年号がふってあるのとないのとの関係を理解するのに、初見では躓きました。
私の頭が追いつかないだけのことかもしれません。偉そうにごめんなさい。

有難うございました。失礼いたします。
No.1  月子  評価:50点  ■2012-04-27 21:11  ID:1jnboxXQj5w
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初めまして、拙いながらも感想を書かせてもらえればと思います。


すごく好みの作風ですらすら読めて楽しかったです。
成人をすぎて若さを失い、人生の中間地点で世間にもまれている感じがとてもリアルだなぁと。
私はまだ親の保護のもとにいる人間なので、社会の大変さも結婚してからの妻との関係もわかりませんが、
この主人公の虚しさや寂しさが自然に入ってきました。
淡々としている文章にすごく合っている内容だったと思います。


すいません、生意気な言い方ですね。申し訳ないです。
感想を書くのが初めてなもので、自分が感じた魅力もろくに書けていないのですが・・・。
とくかくこの作品がすきだと思いました。
この先、わたしがどれだけ書き続けても書けないであろう世界観を描いてしまう
ぢみへんさんの感性がものすごく羨ましいです。


長くなってしまいすいません。
失礼します。
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