オリオンビール

 太郎が出て行ってから、この小さな部屋は急に狭くなった。あの子が山積みにしていたCDも、サーフィン雑誌も、サーフボードもみんな無くなったっていうのに。太郎の持ち込んだ海の匂いと、ときおり足の裏について不愉快でたまらなかった砂の粒が消えてしまったからかもしれない。
 
 太郎とは会社の近くにあるドイツビールをそろえた小さなバーで出会った。
 職場の同僚に連れられて初めてその店に足を踏み入れた日、私は仕事で大きな失敗をしたせいで荒れに荒れていた。
 納期を早めて、予算を削減して、だけどぎりぎりまで修正を聞いて欲しい、それならあなたに頼んであげるという押し付けがましい話をまともに相手して毎日終電近くまで対応し続けたのに、最後の最後ではしごが外されたのだ。「実は、もう一社話をしていたところが、希望に沿うものを出してくれたので今回の話はなかったことでお願いします」と。
 受発注書のやり取りは修正にかかる工数を最後までつんでからにしましょうというから、本来先にあるべき手続きを後回しにして着手したのに全部パアだ。
 もちろん、その責任は私にある。契約書もかわさずに手をつけた仕事の工数を請求するすべはない。
 この数日間の残業はただの「自己満足」な「自己研鑽」でしかなかったというわけだ。これは、本当だったらこっぴどく叱られるはずだった上司からかけられた慰めの言葉。
 
「これが飲まずにいられる?」
 私は、目の前にいるバーテンに向かって空になったビアグラスを叩きつける。もはや、不満をぶつける相手は誰でもいい。
「事情はわからないけど、とりあえず、ビールだったらいくらでも飲んでください」
 バーテンはニンマリと笑いながら、私の手元のグラスを取り上げた。
 既にアルコール摂取量の許容値を大幅に越えていた。必要以上に摂取したアルコールのせいで、理性を失いかけている頭をその適当な返事がさらに苛立たせる。
「なにこの子。なんかむかつく。かえる」
 帰る。そう口にしても何故か私は立ち上がれずにいた。
 隣で、待ってましたとばかりにそそくさと荷物をまとめだした同僚が「れいこ? 帰らないの?」と声をかけるのも無視して、じっと座っている。
 これ以上相手をしていられないと判断したのか、同僚はそこまでの払いを済ませると店を出て行ってしまった。
「お友達、帰っちゃいましたよ?」
 こちらの苛立ちを全く気にしないという具合で彼は言う。だから私もそれに答えることなくビールのおかわりを要求する。
「ビールって言ったじゃない」
 差し出されたグラスの中身はコーラだった。
「貴方をイメージして作りました」
 彫りの深いはっきりとした目元が、こちらをじっと見つめる。ひどくかしこまった顔でいる彼に何かを言わなければという感情がわいてくるのと同時にコーラの炭酸のしゅわしゅわという音とともに苛立ちが消えていく。
「なにそれ、どこのホストクラブよ」
「でも、一度言われてみたかったでしょ」
 うん、こういうの悪くない。そう答えるかわりに、グラスの中身を一気に飲み干す。
 できる限り好意的な笑顔で微笑むと、彼もまた、飛び切りの笑顔を返してくれた。
 これが太郎との最初の出会い。
 翌日、一人でその店に入るのにはそれなりの勇気が要ったけど、それは決して無駄にはならなかった。
 お酒を飲むのは愉しい。でも、どちらかというと、静かにおしゃべりをしながら飲むのが好きだ。
「今日は怒っていないんですね」
 最初のビールを注ぎながらいう太郎に、そのことを告げると、彼は「そうだと思ってた」と調子よく答えてくれた。
 それからというもの、会社帰りにその店によるのが私の日課になった。もちろん、それは、その店が純粋に気に入ったから。
 薄暗い店内も、それっぽい調度品も、耳慣れない音楽も。カウンターに立つ笑顔のかわいい年下の男の子は、仕事帰りの一杯のビールを飛び切り美味しく感じさせてくれた。
 私が、一つ自分の事を話せば、彼は二つ教えてくれる。彼の話題はサーフィンと海がほとんどで、海の無い土地で生まれ育った私には、彼の話は異国の旅物語を聞くようなたのしさがあった。私は彼がする海の話に夢中になり、それ以上に彼自身に夢中になった。
 それまで、サーファーなんて言う人種は、ナンパで、煙くさくて、迷惑で、理解し難い生き物だと思っていた。だけど、太郎の海で過ごすためだけに働くという潔さはむしろ誠実に思えた。
「明日、一緒に海に行こうよ」
 海で泳いだ事がないという私を、太郎が誘ってくれた週末の夜。いつかそうなれるんじゃないかっていうよこしまな気持ちもあって毎日のように通いつめていたわけだから、それはとても光栄なことだった。ただ誘われた事があまりにも嬉しくて、そのぶん気恥ずかしくて、結局呑みすぎてしまった私は、せっかくの約束をふいにしてしまった。
「こんなに天気が良いのに、もったいないね」
 ベッドから抜け出した太郎がカーテンを開けると、私の顔に夏の光が降り注ぐ。
「うわぁ、やめてぇ」
 二日酔いで重くのしかかる瞼には、それはあまりにも刺激が強すぎた。私は悲鳴を上げて、枕の下にもぐりこむ。湿気を含んだシーツに顔をうずめて前の晩のことを反芻し体を丸くする。
 酔いつぶれてしまった私を仕事を終えた太郎は家まで送り届けてくれた。彼を家に上げたのは、そうなることを私が望んでいたから。「お茶でも」なんてかわいらしい誘い方なんてしなかった。顔を近づけて、目をみつめて、抱きかかえられた猫みたいにじゃれついたのだ。

 当時、アパートの更新費用が払えずに友人の家に居候していたという太郎は、瞬く間に私の部屋に転がり込んできた。
 いつだったか、一緒に洗濯物を片付けていた時だと思う。突然太郎が思い出したようにあの晩のことを話し出した。
「ああいうの、もうしないほうがいいよ。れいちゃんはもっと利口な女だと思ってた」
 慣れた手つきで私の下着をたたみながら、小言のようにいう。その姿はまるで実家の母親のようだった。
 私は私で反抗期の娘の気分になり、勝手に人の家に住み着いて偉そうなこといわないでよと、その下着を取り上げる。
「それ、初めてのときはいてたよね」
 悪戯っぽく笑う太郎の顔はやっぱり年下の男の子だった。
 普段の太郎はそうとは思えないほど生真面目な性格で、ともに暮らすパートナーとして最適だった。だからこそ私は彼がそうしてたまに見せる表情に、簡単に虜になってしまった。
 私は本棚から一冊の料理本を見つける。
 太郎が唯一この部屋に残していったもの。沖縄の海が大好きで、サーフィンばかりして暮らしたいって、そういって出て行ってしまった恋人の忘れ物。もしかしたら、料理の下手な私のために残していってくれたのかもしれない。
(余計なお世話よ)
 頭をかすめた思いつきに心の中で悪態をついた。


 一緒に暮らしていた恋人がでていってしまった初めての週末。まぎれもなく自分の家なのにまるでどこかホテルの一室にとりのこされたような、そんないたたまれなさが身を包む。いつまでも布団の中にいるのが窮屈に思えてきて、なんとなく回してしまった洗濯機の音が止まってからどれだけ時間がたったのだろう。ぼんやりとした私を玄関のチャイムの音が現実に呼び戻す。
「太郎?」
 そんなわけ無いだろうという思いを込めて、あえてその名前を口にしてみる。
 のぞき穴の向こうに立っていたのは、やはり見慣れた彼の姿ではなく、ダンボールを抱えた宅配便の青年だった。
 荷物は、母が家庭菜園で育てた野菜。私の料理下手は母親譲りだ。それをよく知っている母から届いたダンボールの中身は、そのままでも食べられるか、ゆでるだけでなんとかなるものばかり。形はいびつだけど艶のあるトマト、甘くて美味しいアスパラ、新聞紙に包まった土つき枝つきの枝豆。
 一緒にくっついてきた悪い虫がいないかどうか一つ一つ慎重に確認してシンクに並べる。
 ビールと、岩塩と、マヨネーズと交互に頭に思い浮かべながら取り出した野菜のなかに、見慣れぬものがあるのに気がついた。
 緑色をした、大きな……瓜。これは、ゴーヤー?
 わが故郷はいつから南国野菜を育てられるような熱帯地域になったのだろう。首をかしげてそれを取り出す。ぶつぶつとした突起がひんやりとしていてちょっと気持ち良い。
 ダンボールが空になると、シンクの中は青々とした野菜でいっぱいになっていた。
 女一人でどうやってこの量を食べろというのだろう。一緒に住んでいる人がいるなんて言った事はない。
 そういえば、母から届くダンボールがいつからかひとまわり大きくなった。皮肉な事に、それに気がついたのは同居人が去った後。
 ゴーヤーを手にもったまま受話器を取る。三コールなった後、母が出た。
「もしもし、野菜ね、今日届いた。ありがとう。みんな美味しそう」
「あぁ、そう。元気にしているの?」
 母は自分が荷物を送った事など忘れてしまったかのように答える。
 いつもそうだ。この人は素直にありがとうを受け取る事が出来ない。料理が下手なだけでなく、こんな性格まで遺伝してしまうのだから血は憎い。
「ん、まぁ元気よ。変らない、そっちは?」
 生活はいやになるほど一変したけど、そんな事は言わない。ましてや、恋人に逃げられて毎日べそべそ泣いているなんて。
「こっちも相変わらずよ。たまにはもう少し連絡してきなさいよ」
 うん、と声に出さぬままにうなずく。ふと左手に持ったゴーヤーが目にとまった。
「ねぇ、このゴーヤー。うちで作ったの?」
「あぁ、そうそう。隣の奥さんがね、苗を分けてくれてさ。結構簡単に育つのよ」
 ぎこちない会話がとぎれると、母はいつものテンションに戻る。私が家を出てから十年近く経つけどいまだに安否を気遣うことになれない。お互いに。
「簡単って、これ沖縄の野菜でしょ? 北関東の僻地で育つの?」
「そうなのよねぇ、あんまり関係ないみたいよ」
「そう、でも、こんなのどうやって食べるのよ」
「あら、あんたまだ料理できないの? なかなか苦いけど結構美味しいわよ。私のゴーヤー」
「苦いって、そりゃニガウリって言うくらいだからさ。それはわかるけど、お母さんはどうやって食べているわけ?」
「ほら、あれよ。ゴーヤーチャンプルーっていうの?」
 母は、要領を得ない口ぶりでその作り方の説明を始める。
 手元のゴーヤーを転がしながら、私は太郎に連れられて行った沖縄料理屋を思い出した。
 そこは、彼のサーフィン仲間がやっているという中野の小さなお店。店内は、十席ほどのカウンターと、その後ろに六畳ほどの座敷があるだけ。団体が一組入ればすぐにいっぱいになってしまうその店は、お祭の夜のように騒々しかった。
 太郎からその店のマスターに「僕の彼女」と紹介されこそばゆい気持ちになったのも束の間、次々に店に現れる客に、今度はマスターから「この子ね、れいこちゃん。太郎の彼女」と紹介されることになる。
 馴れ馴れしく自分の名前をだされる度にその場から逃げ出したくなった。
「ちょっと挨拶してくるよ」
 そう言って席を立った太郎が、そのまま座敷に引きずり込まい、私は一人になってしまった。手持ち無沙汰になって、メニューを開いてみても知らない料理ばかりですぐに飽きてしまった。居心地の悪さから逃げ出したくて黙々とビールばかりを飲みつづける。ふと横をみると、空席になった太郎の場所に、趣味の悪いアロハをきた男が座っていた。さっき、マスターに紹介されたはずだけど誰だか思い出せない。
「あのぉ、そこ、連れが居るんですけど」
 おそるおそる注意をしてみると、真っ赤な顔で「いいのいいの、太郎ちゃんでしょ」と言う。多分、太郎の友人の一人なのだろう。
 男は、自分の飲んでいる泡盛を私にも出すようにマスターに声をかけている。
 出物だという泡盛を渡されるがどうにも匂いが受け付けない。口をつけふりをしながら愛想笑いをするのが精一杯だった。男は、そんな私の様子に気づきもせず、素性のわからない仲間内の話を始める。酔っ払いというのは往々にして厚かましいものだ。
 すぐ後ろで騒いでいる恋人を横目で睨みつけてみるが気付く様子はない。隣の男が恋人の友人でなければ、今すぐにでも立ち去るのにと思いながら、私は欠伸をかみ殺していた。
「れいちゃんには、沖縄の料理は口に合わないかもね」
 机に突っ伏してしまった男と入れ替わった太郎の言葉がよみがえってくる。太郎は〆にといってソーキソバをすすっていた。
「そんなことないよ。オリオンビール、好きよ」
 一人にされた事を不満にしながらふてくされる私に、さらに突き放すような事をいうから、私はまたふてくされる。
 それでも太郎が「れいちゃんはビールならなんでも良いんじゃないの」と笑うから、こんな事はたいした問題だなんて思いもしなかった。
 あの頃は、太郎の夢の中に自分も共存しているのだと信じていた。
 好きなサーフィンをするためにオフシーズンを稼ぎのいいバイトに当てて働く太郎と、一人で生きていくに充分にたる仕事も、時間の使いかたも持っている私は、互いにとってぴったりのパートナーなのだと思っていた。疑う余地も無かったのだ。あまりにも一緒にいる時間が自由で安定しすぎていたから。
 海の側に小さいアパートを借りて、二人で一緒にのんびり砂浜を散歩する。手をつないで。洗剤のCMみたいな平和すぎる老夫婦。私の考えていた三十年先の未来は太郎の描くそれとはまったく別のものだった。
 結局、私にとってたいした問題ではなかったという事が全てで、そこから私たちはすれ違いつづけたというわけだ。

 適当な生返事を返す私に構いもせずに、母は父が買ってきた健康器具の不満を口にしている。夕陽が差し込んでいた部屋の中は薄暗くなっていた。

「貯金が貯まったんだ。家も飯も、れいちゃんの世話になってるから当たり前なんだけど」
 仕事から帰ってきて、夕飯のメニューを尋ねる私に太郎が言った。
「なんのこと?」
 期待していたものとかけ離れた彼の返事に、スーツをハンガーにかける手が止まる。
「沖縄に行くことにした」
「あぁ、そう。どのくらい?」
 どのくらい? そう聞いた自分の声がそのまま耳に戻ってくる。
「いいなぁ、沖縄かぁ」
 私はそう呟くと顔を洗いに洗面所に入る。太郎が返事をしたのか、しなかったのか、それはわからない。
 その晩のメニューは、冷しゃぶサラダだった。塩茹でした枝豆と、お揚げのお味噌汁と、近所の肉家で買ってきたコロッケ。
 プルトップを開け、冷やしたグラスにビールを注ぐ。いつもと同じように、一日の終りに乾杯をする。
 太郎の作るご飯は、料理上手が自慢な男のそれとは異なり、いたってシンプルだ。茹でた豚肉と、貝割れをポン酢で合えただけ。そういう料理を事も無げに作る。そのくせ、枝豆は塩味がしみるように両方のへたをちゃんとはさみで落としてあるのだから芸が細かい。
 そういう太郎の作る食卓が、彼自身が大好きだった。
 定職につかなくても、年金を滞納していても、洗濯したタオルの端をぴっと伸ばしてくれる。
「沖縄に住むんだ。この家をでて、沖縄で暮らす」
 食事の後、太郎はそういった。
 ソファーの上で寝転がっていた私は、その言葉を自分とは関係のないことのように聞いていた。人はおなかが膨れると幸せな気分になる生き物だ。
「明日、れいちゃんが会社に行った後、荷物引き上げるから」
 事務的に話される太郎の言葉は、やはり私の頭の上を通り過ぎていった。ただ、急に酔いが冷めてしまったような、そんな薄ら寒さだけが体の中に残った。
 翌日、いつものように仕事を終えて家に戻ると、当たり前のように部屋のあかりがついていた。どこか安堵する自分を抑えるように玄関を開く。扉の向こうに太郎の姿は無かった。
 無人の部屋にともった明かりは、ひとり暮らしになる女への彼なりの親切だったのだろう。
「余計なお世話よ」
 今度は口に出していってみる。

 母との電話をきった後、そのまま眠りについてしまった私が目を覚ましたのは昼前だった。何時間眠ったのだろう。まるで子供みたいだ。
 カーテンの隙間から差し込む太陽の日差しをもったいないと思い、洗濯機に放置された洗濯物を再度洗いなおす。こうして日常を取り戻していくのだ。明日もスーツを着て、かかとの低いパンプスを選んで会社に行くし、週末が来れば映画も見に行く。私は一人の私を思い出せばいい。太郎の恋人だった私はもう居ないのだ。
 洗濯物を終え『今夜の献立につかえる初めての沖縄料理』と書かれた表紙を開く。ゴーヤーチャンプルーは、さして多くは載っていないその本の最初の頁にあった。手元に置いたメモ帳に、材料を書き込む。
 苦手な料理を苦手な調理で取り組もうと思ったのは洗濯物を干しているとき。
 冷蔵庫の中にはビールと、栓のあいたミネラルウォーターしかない。料理をしない私じゃ、何を置いていっても腐らせてしまうと思ったのだろう。
 太郎が出て行った日。あの子がまだどこかに隠れているのではないかと、部屋中の扉を開けてまわった。洗面所、お風呂、トイレ、クローゼット、ベランダ、最後の扉は冷蔵庫だった。
 暖色の照明に照らされた庫内は凍りそうなほどに冷えた缶ビールでいっぱいになっていた。
 開けっ放しの冷蔵庫の前にうずくまった私はしゃくりをあげて泣きつづけた。ビールを片手に。泣きじゃくる私の喉にしみるそれは冷たすぎて、また涙が溢れた。

 ゴーヤー 二分の一、卵 一個、島豆腐または木綿豆腐 二分の一丁、そこまでメモした手が止まる。
(スパムミート? なんだそれは)
 頭の中のクエスチョンマークにレシピの端に載った缶詰の写真が答えてくれる。
 コンビーフのポーク版といったところだろうか。果たして、そんなものが街中のスーパーで手に入るのだろうか。
 半信半疑のまま、きり取ったメモ帳を財布にはさむと家を出た。
 アパートは駅からずっと続く商店街のちょうど終りにある。屋根が天井を覆うアーケードだから、雨が降っても傘がいらないと不動産屋に言われて三年前に契約をした。
 半年前、契約更新の時に私が「もう少し広い家に移ろうよ」と言ったのに、彼が反対した理由を今になって知る。
 休日の商店街は、いつもの帰り道の閑散とした様子からは想像も出来ないほどに賑わっていた。家族連れ、カップル、車を押す老婦人。住宅地に囲まれたこの駅には色んな人がいる。
 人込みを避けながら、足早に駅へと向かう。途中、鏡張りのウィンドウにうつる自分と、その背後の風景が目に入る。私が足を止めても、皆変らずにそれぞれの目的に向かって歩いていた。途端に、初めて訪れた街で味わうような、寂寥感に襲われる。
 三年も住んでいて、休日に歩いた事が無かったのだろうか。いいや、太郎が海に行かない休日は一緒に出かけたりもしたはずだ。
 隣に人が居ないだけで、周りの様子はこんなにも違って見えるのだ。
 駅ビルに併設されたスーパーマーケットの缶詰売り場には、お目当てのスパムミートは置いていなかった。世の中はそんなに失恋女に優しくはない。
 普段、料理も買い物もしないくせに勝手に感傷に浸ってなれない事をしようとするからこういう事になるのだ。私は、母が使うといった豚バラ肉をカゴに入れ、残りの材料と見つけ出すとレジに向かった。

 太郎は海に行く時、いつも私に声をかけてから行く。
「れいちゃんも行く?」
 すぐにでも家を出られるように身支度整えた後、ソファーに転がって本を読む私を誘う。それは「家で待ってるよ」という私の返事を含めた言葉である事を私たちは互いに理解しあっていた。
 太郎が「この家を出て沖縄に行く」と言った時、私にはきっと「一緒に行く」という選択肢は用意されていなかったのだろうと、今更になって思う。
 それとも、泣いてすがったら太郎は出て行くのをやめてくれたのだろうか。何故そうしなかったのかと幾度となく思い描いた自分の姿はあまりにも現実とかけ離れすぎていて、あまりに滑稽だった。

 電化製品の説明書を読むように、レシピの端から端までを何度も読み返す。普段料理をしないからか、言葉がうまく自分の行動にイメージできない。それでも、三度も読めばなんとなく分かったような気持ちになるものだ。
 ゴーヤーチャンプルーは、名前だけ聞けばいかにも郷土料理という感じだけれど、言ってみるならただの野菜炒めだ。問題は、ゴーヤーの苦味を何処まで和らげる事ができるか。
 それには、まず苦味の原因である中綿をできるだけきれいに取り除く事。それから、食感が失われない程度に薄く刻む事。塩を振って水分を出したら、流水にさらす。
 本には、苦味を楽しむためにもすべてをする必要はないとある。でも、苦くて食べられないということでは困る。なにせ、私はスパムミートを用意する事が出来なかったのだから。きちんと具材を用意できなかった負い目を晴らすべく、私は調理のポイントとくくられた下ごしらえを完璧にすることにした。
 母の育てたゴーヤーは、レシピの写真よりは小ぶりで、初心者の私にちょうどいいように思えた。子供用のおままごとセットについているプラスティックの野菜のような感じ。
 両端のへたを落として半分に割ると青々とした瑞々しい香りが漂ってくる。今度は引出しから取り出したスプーンを手に、中綿を取り除く作業に取り掛かる。
 これが苦味の元だというのだから、できる限り丁寧に取り除かねばならない。
「あっ」
 つい、力んでしまってスプーンがすべる。果肉からはじけとんだ水分が顔にかかった。おそるおそるその雫をぬぐって舐めてみる。
「……苦い」
 なんともいえないえぐみが口の中に広がる。これは思っていたより手ごわいかもしれない。中綿をえぐる作業は先ほど以上に慎重になる。
 やっとの事で、中綿を取り出したゴーヤーを今度は薄くスライスする。包丁を持つのは本当に久し振りで、少し緊張する。それでも、そのごつごつとした果肉の断面は一枚一枚に表情が合って面白い。荒野を走るタイヤみたいな、そんな感じ。
 全て切り終ったあと、これは絶対に苦いだろうという分厚くなってしまった不良品たちをまな板の端によける。申し訳ないけれど、今回は食べてあげられそうもない。
 後は、塩をふって流水に晒すだけだ。
 できる限り丁寧に下ごしらえをしたゴーヤーがぷかぷかと浮いたボウルをざるに上げる。これを、豚肉と、豆腐と一緒に油で炒めて最後に溶き卵を加えればいい。
 舐めるように読んだ本をもう一度確認する。ここからは失敗は許されない。
 私は小さく深呼吸をし、フライパンをコンロに乗せる。と、そこで手が止まった。
「油……どこよ」
 シンク下の扉を開いても、それらしきものはみつからない。
 こういうときは、買いに出るしかない。私はソファーに投げ出した財布をつかむと家を出た。
 夕飯を作っている最中に、足りなくなった調味料を家のすぐ下にあるコンビニに買いに出るのは私の仕事だった。食事の支度はすべて太郎がしていたから。他にやることといったらグラスにビールを注ぐ事。
 食事の始まる前に、お店の生ビールにだって負けないきれいな泡を浮かべたグラスを二つ並べる。
「れいちゃんはビールを注ぐのだけは上手だよね」
 あまりに料理を作らない私を、太郎はそう言ってからかった。
 サラダ油がはいったビニル袋をぶら下げて部屋に戻る。あたりまえだけど、そこには太郎の姿は無くて、私は黙ってキッチンに立った。
 気を取り直して、フライパンを火にかけると買ってきたばかりの油を引き、ざるに上げたゴーヤーをフライパンにうつす。バチバチっと、ざるからこぼれた水分で油がはねる。
 私は眉間にしわを寄せながら、黙々と本にかかれた手順どおりに材料を炒めた。
 フライパンの中のゴーヤーは油を吸って鮮やかな黄緑色をしている。卵の黄色と合わさって、見た目にはとても美味しそうなそれを、覚束無い動作でサラダボウルに移す。
 味付けの最後に入れた醤油がフライパンを焦がして香ばしい匂いが漂っている。
「初めてにしては、それなりに上手く出来たんじゃない?」
 満足げに呟いて、箸と一緒にソファーの前のテーブルに並べる。
 冷蔵庫からビールを取り出そうと扉を開けて中をみると、いつもの見慣れた銘柄にまじって、ポップなラベルのオリオンビールがあった。
(いつかってきたんだろ?)
 今日の料理にはそれが一番ふさわしい。私はその缶を取り出した。
「いただきます」
 グラスに注いだビールを口に含む。なれない作業に緊張して口内が渇いていたのだろう。喉に染みる冷たさが気持ちよい。
 箸をもって、できるだけ薄いゴーヤーを一枚つまむ。
「苦い……、よりしょっぱいかも」
 確かめるように今度は肉や卵もあわせて口に入れる。
「やっぱり、しょっぱい……」
 苦味から逃れるための下ごしらえでふりかけた塩を流しきれていなかったのか。それとも味付けの塩の分量が多すぎたのだろうか。明らかに塩味が濃い。多分、いや、絶対にこれは失敗作。
「これじゃ、合うか合わないかなんて分からないじゃない」
 口に出して言うと、余計に悔しさがこみ上げてくる。
 塩辛いゴーヤーチャンプルーを黙々と口にしていると、時折感じる独特の苦味が次第に癖になってくる。それでも、塩辛いのには変わりはなくて、グラスのビールはあっという間に空になった。机に置いた缶にはまだ重みがあった。直接口をつけると残っていたビールを一気に煽る。
「しょっぱい……」
 そう呟いて、空になった缶をつぶして机に転がした。
 サラダボウルに半分ほど残ったゴーヤーチャンプルーと、空になったグラスと、潰れた空き缶。
 ソファーに上がって寝転がった私は、焦点の定まらない目でそれらを眺める。じっとしていると、口の中に染み込んだ塩分に唾液が沸くのを感じる。
「上手に作れば美味しかったかもしれないじゃん」
 悔しさの次にこみ上げてきたのは、寂しさだった。
 ただ、ぼーっと、目の前の情景を眺めていると、缶の底に白い四角いものが張り付いているのが見えた。
 のそのそと体を起こして、さっきつぶしたそれを手にとる。
 缶の底には小さく折りたたんだ紙切れがセロテープで貼り付けられていた。そっと、爪を差し込んで紙を取り外す。
 胸のうちで、ざわざわと押し寄せる期待感と、それを抑えようとする気持ちがぶつかり合う。
 破かないように、そっとテープをはがす。
 そこには丸っこい女の子みたいな太郎の字があった。
「れいちゃんが好きだといった沖縄の味です」
 紙に書かれた言葉を声に出して読みあげる。一回、二回、……三回繰り返す頃には、涙で紙の上の文字は滲んで見えなくなっていた。
「お世話になりましたとか、もっと言う事あるでしょ」
 声を震わせながら、呟く。できることならば、笑い飛ばしたいと思いながら。
 それから私は、もう当分泣く必要はないだろうというほどに、声を上げて泣きつづけた。
chanceux
2012年05月11日(金) 01時21分15秒 公開
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■作者からのメッセージ
以前投稿したものの修正版です。久しぶりなので作法等おかしかったらごめんなさい。

この作品の感想をお寄せください。
No.6  chanceux  評価:--点  ■2012-05-16 11:45  ID:KErSiZYYknE
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HALさん
ご丁寧な感想を頂きありがとうございます。
4年ほど前にアップした作品なのですが、読み返してみるとダサい文章が多くてげんなりしながら手を入れてみたものの、中途半端に終わって誤字まで残す始末、お恥ずかしい限りです。
文章をすっきりとシンプルにというのは昔も今も目標とするところなので少しは読んでくださる方にその意図が伝わったようで嬉しく思います。

ぢみへんさん
冗長なストーリーを端的にまとめていただきありがとうございます。
当時盛り込みたかったメッセージが伝わったようで嬉しいです。
また機会があればよろしくお願いします。

山本鈴音さん
感想とご指摘、ありがとうございます。
ご指摘の箇所、たしかにいただけないですね。冒頭部分は読み返してみて、れいこが仕事人であることをあまり記述できてないかなと思ったこともあり追加した部分なので推敲が甘かったかもしれません。お恥ずかしい。。。
もって回った言い回しを出来るだけやめようと努力してはいるのですがまだまだですね。みなさんがこんなに丁寧によんでくださっているのに書き手のほうが読み込み不足だなんて本当にお粗末ですね。
スパム…4年前は分らないって言う人結構いたんですけどねー。最近はハワイブームだからみんな知ってるのかな。

うちだけいさん
先日も直接に感想をいただいたのに、またどうもありがとうございます。
テンポのあるストーリーはそもそも発想する頭がないので、小さいエピソードで纏め上げるのが自作だと思っています。
やさしいですかー、ほめられてますよね!?うれいしいな。違う!?
けしてハッピーエンドではないけど、読後感のやわらかい作品がかければなと思っています。また機会があったらよろしくお願いします。

ひじりさん
まぁ!レアキャラから2回も感想をいただけて光栄です。
そうですね、小金もちの独身女がヒモに逃げられるだけの話なんですけど、それを俗っぽくせず、メルヘンにもせず、日常として表現するのが、私のやりたかったことだったとおもいます。もうしばらくはこんな長文かけそうもないですが、「あるある」を蓄えていつかまたチャレンジしたいと思います。
No.5  ひじりあや  評価:40点  ■2012-05-16 02:30  ID:ma1wuI1TGe2
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そういえばこんな話だったなあ、と懐かしく思いつつ、やっぱり好きな作品だなあ、と思いました。
前回読んだときにどのようなコメントを残したのか全然覚えていないので、当時と矛盾したことを言ってしまうかもしれませんが・・・。

細かいところで、面白いフレーズが入っているな、と思います。たとえば、

> ソファーの上で寝転がっていた私は、その言葉を自分とは関係のないことのように聞いていた。人はおなかが膨れると幸せな気分になる生き物だ。

の、おなかが膨れると幸せな気分になる、というところ。
満腹感があると幸せになるのはたぶん誰でも経験があって、本人にとって重要なことも、幸福感にひきずられてしまって他人事のように聞こえてしまう。多かれ少なかれ、これと近い経験をしている人は多いと思うのです。この「あるある」感が、読者に親近感をもたらしているというか、作品にリアリティを与えていると思います。

> 本には、苦味を楽しむためにもすべてをする必要はないとある。でも、苦くて食べられないということでは困る。なにせ、私はスパムミートを用意する事が出来なかったのだから。きちんと具材を用意できなかった負い目を晴らすべく、私は調理のポイントとくくられた下ごしらえを完璧にすることにした。

の、スパムミートを用意する事が出来なかったのだから。
これは当時、あんまし好きな箇所ではなかったのですけど(スパムでゴーヤーチャンプルーを作ったことがなかったからだと思いますが)、小さなことを負い目に思ってしまうことも多いな、と。これも「あるある」なんですよね。

ストーリーだけで言えば、同居していた恋人と別れる、それだけのものです。
けれど、作中に「あるある」と思わせるものを散りばめ、料理する場面に描写を割くことで、「それだけ」ではない小説に仕立てています。そこが読んでいて、いいなあ、と思います。
No.4  うちだけい  評価:40点  ■2012-05-15 20:55  ID:CZOIz3QLVx2
PASS 編集 削除
とてもよかったっす。
ラッキーな百足の方もボチボチ読ませてもらってるんですけど、あれですね。
えっと。
やさしい。やさしさが良い感じです。キーワードっぽい。
ぜんぜんとってつけてないけど、ここって場所ではちゃんとやさしい。
太郎くんみたいな男になりたいっすわー。

あう。今読んだら、山本さんとかぶってたす。
もう一個印象。
好きってのは絶対伝わるものだけれど、その「好きって気持ちの現れ方」には、もしかしたら差異があるのかもしれないっすね。
とかとか。

苦いの無くそうとしたら、しょっぱくなっちゃいましたね。
No.3  山本鈴音  評価:40点  ■2012-05-13 23:14  ID:xTynl89qwNE
PASS 編集 削除
とても優しい恋愛物語、見せていただきました。
拝見していて読み手のこちらがどぎまぎする位です。
私だったら……と自分に置き換えて読んでしまいます。

マスターとの掛け合いに始まって、二人の駆け引きにある温かさ、似たもの母娘も共感が持てて、程良い距離感が感じられました。
料理シーンに臨場感があって食べたくなりました(ゴーヤ苦手なんですが)。
沖縄の素材が雰囲気に合ってますね。
べったりしないけど温かみがあるといいますか……。
分厚いゴーヤは刻めばいいのに、とか余計なことを想ったり(笑)
味が最終的に塩っぽくなる失敗に、同意です。

序盤に職場(SE?)の愚痴が丁寧に説明されていますが、少々かいつまんで早く導入に入ると、読者が話に惹きつけられやすい気もします。
「あの」「それ」「こんな」といった指示語が多すぎて、意味を掴みにくい所がありました。
後半の『あまりにも現実と〜〜あまりに滑稽だった』など、持って回った言い回しだと、内容が分かりづらくなってしまうのではないかと。

諦めが早すぎる、自分が主人公だったらドロドロするだろうに……とも考えましたが、どこか自ら身を引いてしまう所が主人公の魅力でもある。
という風に、読者の心まで揺り動かすことに成功している良作だと思いました。

余談ですが、スパムって有名な食材じゃないんでしょうか?
当方東京民なんですけれども、わりと皆知ってると思い込んでいたので……どうなんでしょう。
No.2  ぢみへん  評価:30点  ■2012-05-13 20:24  ID:lwDsoEvkisA
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切ない話ですねぇ…
同じ場所にいて同じものを見ていても、違うことを考えている二人。元々長くかみ合うはずのなかった恋愛のビターメモリーって感じで。

次回作期待してます。
No.1  HAL  評価:40点  ■2012-05-13 20:17  ID:I7piNPSwFys
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 拝読しました。
 切ないですねー……。素直になれない女性の、丁寧に綴られた心の動きに、一々共感しながら読了しました。悲しいお話なんですけど、ほろ苦い余韻がすてきでした。

 読み終えてから、色々想像しました。太郎、ひどい男だなあ。どうしてそんなに急に、出て行ってしまったんだろう。どうしても沖縄じゃなくちゃならなかったのかな。主人公が、彼のことを好きだといいながら、彼の好きなものを本当には理解しようとしなかったから? 彼女は定職についていて、自分は先の見えない、年金さえ払っていない状態で、そういうのが重かった?

 僭越ないいかたかもしれませんが、文章がいいなと思いました。すっきりとシンプルで読みやすく、それでいて、描写のポイントが押さえられていると感じました。

 二か所、これは誤字かなというところを見つけましたので、(自分も誤字の多い方なので、人様のことを言えた立場ではないのですが/汗)校正の足しになればということで、報告させていただきますね。
> そう言って席を立った太郎が、そのまま引きずり込まい、
> 口をつけふりをしながら

 いいものを読ませていただきました。拙い感想、どうかお許しくださいますよう。
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