朝、目覚める。目を開けて目を閉じて、また、目を開ける。薄い生地の、クリーム色のカーテンを開けて、開けない窓の向こうのガラス越しの真夏を見る。壁掛けの時計が午前7時を示している。7月の、明るすぎる夏休み前の平日の、それは水曜日の午前7時で、窓の向こうにはアスファルトの市道があって、その向こうに古びたコンクリートの防波堤があって、更にその向こうには、リフレクションが眩しい太平洋の海原があって、それを私には見ることができる。

「明日は普通に学校だから」
「明後日は、普通に、土曜日だし」
「休めない。休まないよ」
「休みなよ。休まらないよ」

 二階から見る、太平洋の水平線に並行する波は、梅雨が明けて間もないから、風もかすかで、だからただ、ただ揺れてるだけで、まるで室内のプールみたいにおだやかだと思う。海の向こうには、もちろん空がある。どっこまでも白い青色が広がっている。私は今、隣に眠る男を起こさないように、ゆっくりとベッドから出た。男は男で、うつ伏せになって、日焼けした裸の広い背中の半分を肌蹴て、ちがう半分をタオルに巻かれて窮屈でいて、まるで死体のように安らかに眠っている。取り替えない、冬ものの毛並みのいい、カーペットに散らかった二人の下着を私はかがんで拾い、それを乾燥機を備えなかった小さな洗濯機の洗濯槽に入れて、私は狭い浴室に静かに向かった。それは緩んだ体に応えない水量の少ないシャワー装置で、私はゆっくりと水温を下げながら、最後にそれは、心地いい深い井戸みたいな冷水になってくれ、私の太陽に負けて火照った肌と、それにまとわりついた汗を、冷やしながらも洗い流してくれた。私の、趣味で買ったローズマリーの固形石鹸を、私はそのまま肌にすべらせて、男の汗とともに洗い流していく。私の首筋から胸を、私の胸から脇腹を、脇腹からバスタブに片足をかけたその脚を、丁寧に泡立てて洗い流していく。

「まじめなんだろ」
「まじめじゃないよ」
「まじめだよ」
「そんなんじゃないの」

 男は、多分、まだ目覚めない。男はきっと、本当に死んでいるかもしれない。生きていれば、シャワーの音に気がついて、ふざけてドアを開けては、私の身体を無邪気に悪戯して、最後は、無理矢理に体の中に少しだけ暴力的に、入って来るに違いない。きっと、昨日の夜は、それまでの、いつものような夜じゃなかった。シャワーを止めて、小さな排水溝に掛った私の長い髪の毛をはがし取り、軽く輪にしてトイレに流してみる。鏡に映った私を見つめてみる。いつまでも私は私を見つめて、目から目を離さないで、すると私は、私のことについて、少し悲しくなってくる。男は、やっぱり、息を細く、そのうちに死んでしまったのかもしれない。それとも、本当は、死んでしまっているのは私の方で、私は私のことをただ、かばっているかもしれない。

「最低だね」
「それでいいよ」
「悔しいんだろ」
「悔しくなんかない」

 浴室を出て、バスタオルを巻き、ベッドの脇に置いたスポーツバッグの中から新しい白い下着と、白い夏用の制服を取りだし、毎日のいつものように身に纏い、髪の長い黒髪のきっと客観的には普通の、女子高校生になってみる。男は、やっぱりまだ、目覚めない。私は小さな冷蔵庫を開け、その空っぽの中から昨日の夕方、近くのコンビニエンスストアで買ったスクランブルエッグのサンドイッチを取りだしてみた。100%濃縮還元の、紙パックの安っぽいみかんジュースとグラスとストロー。懐古趣味な木製の丸いテーブルにそれを置いて、重たいチェアーに腰掛けて、剥がし取ったセロハンの中の冷蔵庫の中で冷やされた、水分の少しだけ抜けたサンドイッチをひとくちだけ齧る。ジュースを使っても、喉の通りの塞がる心地悪いのと、唾液のたくさん出る軽い吐き気が素直な私の今の身体の具合で、私自身の、食欲が無いのと、カラダの具合の、どこかが致命的に悪いことが、すぐに私には悟れてしまう。サンドイッチの三切れのうち、二切れを食べ残して、もう時間が無いから、テーブルの上に伏せられた男の使うハンドミラーを取りだして、軽くメイクをし始めてみる。メイクは、あまり濃くしない。むしろ、ほとんどしてないのと同じに近い。男は、それでも、まだ、いつまでも目覚めない。目覚めないと言うより、少しも動かない。携帯電話の、真夜中に届いたメールを確かめる。クラスの女の子の友達と、男の子の友達と、アルバイト先の、男の先輩からひとつづつみっつ、届いている。感情の学生らしく濃い、でも、私にはすぐに忘れてしまいそうな薄い内容のメールがそこにある。何かを思い出して、窓の外を、もう一度、見つめてみる。椅子に座る私からは、青い空しか見えないでいる。まだ、まだ、男の背中は動かない。それが何故だか、そのうちに、ただ呑気にさえ、思えてくる。ストローで、ミカンジュースを口に含んで、口に含んだそれを、ストローで、男の背中に吹きかけてみた。動かない。もう一度、かけてみた。やっぱり、まだ、動かない。たぶん、死んでいる。きっと死んでいると思う。

「私は私だから」
「私も私」
「それでいいじゃない」
「そうかもしれない」

 男は、昨日の夜、ベッドの中で、私の耳元に、何かを呟いた。言葉にならない感情の、移し替えたみたいな抽象的な文字の羅列だった。私は、玄関に行って、靴を履いて、ゆっくり、ドアを開けた。もうすぐ夏休みで、もうすぐ停留所には、スクールバスがやってくる。ドアノブに鍵をかける。鍵を抜いて、カバンに仕舞う。男は、きっと、息をしていない。多分、私の中で、死んでると思う。
瑞穂
2011年09月09日(金) 00時16分02秒 公開
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■作者からのメッセージ
こんばんわ 
一気に書きました。

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No.2  夕凪  評価:40点  ■2011-09-28 19:03  ID:qwuq6su/k/I
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 会話文が又、良くて 自分の心にぴったり来るし。「朝目覚める〜」と「2階から見るの、心象風景がそのまま あたしのものと同一なんで、こういう風に書ける人が居るんだ・・・と驚くばかりです。「セロファンの中の冷蔵庫で少し水分の抜けたサンドイッチ」とか大好きな言葉です。「浴室を出て〜からの女子高生になってみるがまた、じ〜んと来る程 ピッタリ来ました。木の机やみかんジュース、サンドイッチ等が、何というのか自分が不幸で 幸福だった中学生時代へタイムスリップしている心象と 何か同じことしてるみたいで・・好感が持てました。
No.1  山田さん  評価:30点  ■2011-09-13 22:43  ID:idCHhdjOsh2
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 拝読しました。

 かなりの部分を読み手の解釈に任せている作品だな、と思いました。
 会話にしても、これは男女間の会話なのか、それとも彼女の自問自答なのか。
 男性は生きているのか、死んでいるのか。
「私の中で、死んでると思う」ということは観念的な死を示唆しているのか。
 ミカンジュースを男の背中に吹きかけるなんて、とてもリアリティがあっていい表現だな、と思う反面、どこかリアリティを失って夢の中を漂っている彼女がいたりする。
 なんていうか、掴めそうで掴めない面白さがあるなと思いました。
 僕は結構好きな世界だったりしますが、これ、好き嫌いが結構分かれる作風なようにも思えます。
 それが良い悪いってことじゃなくですね。

 面白かったです。
総レス数 2  合計 70

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