思い出日記
 九月某日(火曜日) 晴れ

 西空がやけに赤い。窓を開けると、秋を思わせるそよ風が、庭の芝の香りを運んできた。この夕日の何と美しく、何と懐かしいことか。
 今となっては、すっかり郷愁の彼方に消えてしまったが、あの頃、関西方面に単身赴任していたときのことを思い出す。もう何年になるのだろう。
 大阪の島町にあるXX事務所に通うため、谷町の、あるIDKマンションの一戸を借りていた。

 それは、うらぶれた生活だった。孤独が笛のようにひゅうひゅうと鳴るような生活であった。ベッドのシーツは何日も取り替えたことがなかったし、食べ残しの缶詰やソーセージの残りが冷蔵庫で臭いを立てていることもあった。
 一人きりの生活には、愛する相手もいないし、憎む相手もいない。愛せず憎めず、つまり、そこにボクの人生は無いに等しかった。だが、仕事をして生きていかねばならなかった。何しろ、遠く離れたN市近郊には妻と子供がボクの帰りを待っていたからだ。
 それにも拘わらず、仕事に追われていたその頃は、半月に一度の帰省がやっとのことで、土曜の夜帰って、日曜の夕方には戻らねばならないという慌ただしさだった。家族との愛は陽炎のようなものだった。
 たちまち消えてしまうような陽炎はボクにとって確かなものではなかった。ボクは確かなものが欲しかった。当時の、そのような心理は今もって分からない。
 なぜあの頃、通天閣のジャンジャン横町だったのか。本当は、学生時代と、就職当時の二、三年はずっと東京だったから、むしろキタの繁華街が合うはずなのに、どうして、この下町だったのか今でも分からない。もしかしたら、中学生の頃読んだ林芙美子の「めし」がボクの深層にこびりついているのだろうか。

 アーケードの路地に並んだある焼鳥屋で働く中年女がいつもボクを親切に扱ってくれた。彼女は数年前東京から流れてきたという。偶然だが、ずっと昔、高田の馬場から早稲田寄りにあったボクのいた下宿の近くに住んでいたという。
「たーさん、今日、疲れているみたいやわぁ。大丈夫なの ?」
 無理をして大阪弁を使っているような話しぶりであった。ボクは彼女に特別な感情を抱いていたわけではなかったが、行ったときの話し相手はほとんど彼女だった。もう一人若い子がいたのだけれど。
 他の客に給仕をしてから直ぐボクの前に来たのだが、それがごく自然なので此処のオヤジも特別な目でボクを見るようなことはなかった。
 帰るとき、いつも目と目が鋭く合ったがボクは何となく逸らすようにして扉を開けて出た。そして、御堂筋線の動物園前駅まで数分歩いていった。


 彼女、今頃どこで、何しているのだろう。年も随分取ったことだろう。
 そう、……あれは確か、小雨がぱらつく初秋の夜だった。
「ねえ、あたしが本気になったら、たーさん、どうする?」
 しけこんだラブホテルのベッドの中で、ボクの左腕に抱え込まれた女は、悪戯っぽい笑みを浮かべて、目に中を覗き込んだ。
「嬉しいね。例え火の中水の中、どこにだって飛び込んでやるよ」

 あの夜、ボクは、なぜか、ひどく深酔いしていて、もう看板で、客は誰もいなくなったというのに、
「やい、親父 ! もう一本だ」
 と、空き徳利を突き出す始末だった。
「駄目ですよ。たーさん。身体に障るから。さあ、もう帰りましょ」
 女は、一度奥の方に入っていってから、着替えをして出でくると、
「あたし、このお人、駅まで送って、そのまま帰りますから」
 と、親父を振り返り、ボクの両肩に手をかけた。親父は頷いて、ほっとした表情をした。

 どこをどう歩いたのか、それとも車を拾ったのか、いや、そうではなく、ホクが無意識のうちにここへ来る道を選んでいたのかも知れない。だが、彼女を抱えていたのか、それとも抱えられて来たのか、それすら覚えていない。

 ふと気が付いて見上げた上には、きらきら星のような灯りが輝いていた。吃驚したように後ろ手を着いて起き上がると、向こう側の薄暗いガラスの壁に、呆然とした自分のワイシャツ姿が映し出されていた。円形のベッドに腰をかけ、ネクタイを半ば解きかけている。右の方を振り向くと、同じ大きなガラス張りの向こうには、こちら方だけから見える、女のぼやけた裸身があった。背を向け、シャワーを浴びている。

 最初のとき、女に、ほんのちっとした抵抗があった。それがボクを苛だたせ、荒々しい振る舞いとなった。その振る舞いが女の心を悲しませ、やがて、荒ませた。ボクは更に苛立ち、この悪循環はその輪を広げてしまった。
 だが、エスカレートしていったボクの暴力に苛まされ続けていた彼女の肉体が、無意識下に沸き立つ憎悪の感情を、密かに、そして緩除に、ねじ曲げてしまい、マゾヒティックな気分に変化させたのだろか。
 突然、女は、溶けたかのように弛緩してしまうとボクに密着した。ボクは、いきなり柔らいだ女の身体をむさぼり始めているうち、凶暴な力が湧き出して、崩れた白い裸体を腿の上に抱え起こし、再び新たな行為をした。
 女は、それに応えたかのように、自ら進んで採った、あられもない姿態が堕落しているようで、それが快く感じられるのをボクに悟られまいとしたのだろうか、濃い眉の間を少し寄せるだけで、その表情は、身体の芯の悦びに身を任せているのではありませんよ、というように、殊更空々しい表情をしてみせた。
 やがてそれに絶えきれず、狂おしげに燃えさかっていくと、アッ、と言う小さな声を出した。

 あのときの彼女の悲しい呻きが、今でも鼓膜に蘇る。

 果てた末、虚脱感に襲われていたボクの肩にそっと手をかけ、
「……ねえ、今度のお休み、あたし、お弁当作るから、動物園行ってみない?」と言った。
 ボクはうんざりしてそれに答えず、他ごとを考えて煙草に火を付けた。女は私への問いかけで、ほんとの愛を確かめたかったのかも知れない。じっとボクの目を見つめていたが、その目を逸らし、煙草の煙を天井に吹き上げた。そして、大仰な仕種で腕時計を見た。
「おっと、と、こりゃあいかん」と言った。
「どうしたの?」
 ボクは女の虚ろな眼差しを無視して、
「さあ、早くしろよ」
 彼女を急かし、ベッドを下りて帰り支度を始めたが、女は悲しげな眼差しで、ボクの立ち振舞を見守っているだけであった。
 そのとき、ボクには何にも急ぐこともなければ、慌てることもなかった。ただ、酔いの覚めた、この気鬱な場面から一刻も早く逃げ出したかっただけのことだった。
 外に出て、なにがしかの札を女に握らせたとき、不審そうに私を見つめた彼女の白い顔が、突然、今にも崩れそうになったかと思うと、慌てて両手で覆い、横に逸らせた。


 その後悔が、今になってボクの胸を噛む。やり場のない悔恨が体中を駆けめぐる。咄嗟に、ジャンジャン横町に飛んでいって、あの女を捜し出し、心から詫びを申し入れたい衝動に駆り立てられた。
 明日か、明後日か、この二、三日のうちにでも、是非、出かけてみようかと思う。どうせ今の所、会社に用はない。

 夕空は間もなく薄闇に変わって、ボクの心は益々沈み込んだ。(完))
田尻 晋
http://homepage3.nifty.com/stajiri/htm2/midi.html
2011年01月26日(水) 14時03分41秒 公開
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No.2  田尻 晋  評価:--点  ■2011-01-27 10:19  ID:CUDIGjRHC3k
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zooeyさん!
拙い私の作品を読んで下さいましてありがとうございます。
ご指摘の点、まさにその通りだと読み返して分かりました。また、引き続き書いていきたいと思いますのでよろしくご指導賜りますようお願いします。
No.1  zooey  評価:30点  ■2011-01-27 00:47  ID:qEFXZgFwvsc
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初めまして、読ませていただきました。

ひとつ前の作品も読んでいたんですが、
感想を書かないまま、時間が過ぎてしまいました。ごめんなさい。

冒頭の情景描写から、流れるような描き方で、引き込まれました。
心情描写も含め、丁寧かつ美しい表現だと思います。

ただ、状況の説明が省かれすぎていて、少し戸惑いました。
あと、「ボク」が孤独に耐えかねて、「女」と関係を持つようになるというのが、
弱かった気がします。
焼き鳥屋の場面や、行為の場面に、もっと孤独感が伝わる描写を入れると、
さらに良くなると思いました。

つたない感想で、すみません。
私も田尻 晋さんのように、美しい情景描写ができるようになりたいです。
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