幸せのありか
 例えば、僕のこの右手は僕が経験した事柄からこうなっている。人間というものは経験を糧にして日々を生きている。
 勉強だとか、友人関係の構成だとか、それら全てが学校生活という経験を積み重ねることによってできているのだ。
 だからこそ、今この眼の前に起こっている事態に僕はただただ茫然としていた。
「……何だ、これ」
 転校してから数週間、もうすっかり馴染んでしまった帰り道で僕はそれを見つけた。夕陽が僕を熱く染めていた。履きなれたプーマのスニーカーが足を止める。
 車も人も、この時間帯にはあまり通らないこの道。その道端に一つの大きな段ボールが置かれていた。貼られている張り紙が乾いた風で撫でられていく。
『これを拾うとあなたは幸せになります』
 貼り紙にはそんなことが丸い字で可愛らしく書いてあった。それだけならばまだよかっただろう。それだけならば、僕はこんな段ボールに眼もくれず家路を急いでいたはずなのだ。
「いやいや、これはさ……」
 段ボールの中には一人の女の子がいた。段ボールは比較的大きなものだったが、それにすっぽりと身体が納まってしまうのだから身長はかなり小さいに違いない。
 虚しく響く烏の鳴き声の中に女の子の寝息が混ざった。眼を閉じ、その女の子は眠っていた。長く川のような黒髪が段ボールから溢れて綺麗だった。僕はその可憐さに一瞬息を呑んだ。
 が、そんな浮ついた気持ちも一瞬で消える。
「待てよ」
 何だか、こういった状況をどこかで見たことがあるような気がする。僕は必死に自分の記憶を追憶した。そして、ようやく思いだした。あれは、確かそう。暇だった時に読んだライトノベルだったっけか。かなりテンプレ設定のラブコメで主人公は偶然道端にあった段ボールから偶然美少女を拾ってしまうのだ。そして、その後はお約束通りのラブコメ展開。下らないといって途中でその本を投げ捨てたんだった。
 小説は現実に起こらないことを書くから面白いのであって、そんなことが本当に起きたら誰だって認めようとはしないんだよな。宇宙人だって超能力者だって、そんなものはいるわけがない。って、これもどこかのライトノベルで読んだような気がする。
 僕がそんなことを思っているうちに後ろを自転車が軽快な音を奏でながら通り過ぎていった。それに乗っていたおじさんは僕と段ボールに訝しげな視線を向けながら夕陽の中に消えていった。
「下らない」
 僕はそう言って踵を返そうとした。いつまでもここにいたら警察が来たっておかしくない。面倒な事になるのは御免だった。
 僕のスニーカーに小石が当たって小さな音を立てた。それに反応したのか眠っていた女の子は眼を覚ました。
「うん……」
 眼を右手で擦りながら女の子は段ボールの中から身を起こす。やはり、僕が予想した通り小さな体躯の女の子だった。軽く背伸びをして女の子は視線を僕に預けた。女の子は僕を見るとまるで珍しい動物でも見たような表情を浮かべた。僕はその真黒な美しい瞳に見つめられて身動きが取れなくなっていた。
 しばらくの間、僕ら二人の間に奇妙な沈黙が流れた。気まずさ、というかなんというか。こんな怪しい女の子とは一刻も早く関係を断ち切りたかったのだ。
 僕はようやく冷静になった思考でもう一度女の子を観察した。今日は平日である。高校生ならば当然、制服を着て下校しているか部活をしているはずなのに女の子はまるっきり私服だった。花柄のワンピースに大きめのカーディガンを羽織っているその女の子は僕の眼にはとても女子高生には見えなかった。
 彼女はようやく答えを見つけ出した小学生のような笑顔を浮かべ、こう言った。
「あなた、佐倉 希君でしょ?」
「え……?」
 僕は正直に言って驚いた。こんな女の子に知り合いはいないし、そもそも段ボールの中に入って眠っている人物に見覚えなんてあるはずもなかった。この街に戻って来てまだ日は浅いはずである。どうして自分の名前を知っているのか僕には理解できなかった。
「何で俺の名前を知っているんですか?」
 僕はそう、女の子に問いかけた。女の子はそれを訊くと得意げに人差し指を上に掲げ、こう答えた。
「私ね、天使なの」
 ………………。
 ああ、分かった。これは俗に言う宗教勧誘ってやつだ。私は信仰していくうちに天使にクラスチェンジしちゃいました。てへ。
 とか言うお決まりのパターンに決まってる。こういう輩には関わらない方が身のためだ。大体天使とか言うくせにこいつには羽も無ければ、頭の上に輪っかもない。胡散くささは僕の中でマックスだった。
「ああ、すいません。僕は根っからの仏教徒なのでこれで……」
 僕は視線を女の子から外し、その場を立ち去ろうとした。
「ちょっと、待ったっーーー!」
 急に女の子に右手を掴まれ、僕の身体はガクンと一瞬揺れた。どうやらかなりしつこい宗教勧誘のようだった。
「何ですか? 僕はこれから家に帰らないといけないんですが」
「仏教徒って何よ。私は天使だって言ってるじゃない」
「だから、どうせ宗教勧誘とか何かでしょう? 僕はそう言うの一切興味無いんで」
「宗教勧誘? そんなんじゃないって。ていうか、そもそも日本人は仏教徒とか言うくせにクリスマスを祝ってるじゃない」
「僕はそんなこと記憶にありません」
「子供の頃、サンタにプレゼントをもらったことぐらいあるでしょう!?」
「それは親からもらったのであって、別にキリストとかサンタからもらったわけじゃありません!」
 僕は女の子(自称天使)に掴まれた右手を強引に振り払った。
「これ以上しつこいようだったら警察を呼びますよ? それでもいいんですか?」
 僕はきっぱりと眼の前の女性に言い放った。これでもう僕からは身を引くはずだと思った。が、そんなことはあり得るわけも無かった。
 彼女は僕の言葉を訊くと、途端に大人しくなり、泣いている時のような啜り声を上げ始めた。両手を眼の位置まで移し、嗚咽を漏らした。
「そんなんじゃないんだってば……どうしたら信じてくれるの……?」
「い、いや、そんな泣くことは……」
 僕が豹変した自称天使の態度に戸惑っていると後ろの方からひそひそとした小さな声が聞こえてきた。振り返ると買い物帰りであろう主婦の皆さま方が僕を蔑むような眼で見ながら井戸端会議を繰り広げていた。当然話題は傍から見れば彼女に見えなくもない女性を泣かせている僕についてだろう。とにかく今はこの状況をすぐに打開しなければならなかった。気は進まないが。
「分かった。分かりましたよ。あなたが天使だという証拠を見せてくれれば大人しく信じましょう」
 彼女の嗚咽は僕の言葉を訊いた途端、ピタリと止んだ。そして、手の間から微かに見える口元が三ミリほど上がったように僕には見えた。
「ふふ、良かったー。信じてくれないかと思っちゃった。てへ」
「なっ……」
 この女、さっきのは嘘泣きかよ。
 彼女は先ほどまで泣いていたことが嘘のように満面の笑みを浮かべていた。言ってしまったことを反故にするわけもいかないし、僕は何だか損をしたような気持ちになった。
「えっと、私が天使だっていう証拠だっけ。いいよ、何個かあるんだけど一つ見せてあげる」
 そう言うと彼女は先ほど僕の話で盛り上がっていた奥様方の所へ懸けて行った。何をするつもりなのか僕には全く持って分からなかった。
「えいやっ」
「はあ……?」
 天使は奥様方の前で奇妙な踊りを踊った。
 ……いやいや、あいつは何をしているんだ?
 自称天使は奥様方の前で訳のわからない踊りを踊って何か彼女たちに声をかけているように見えた。
 だが、
「え?」
 奥様方の視線は僕に固定されたままだった。眼の前で不思議な踊りを踊っている天使には見向きもしない。未だ、蔑んだ眼で見られていて僕は悲しくなったが、それよりも何故天使のことが見えないのか。
 というよりもここを通りかかる通行人全てが彼女を無視しているように見える。まるで、そこに元々存在していないかのように。
「ねえ、これで分かったでしょ?」
 天使は僕が気が付かない内に踊りを止め、僕に声をかけた。得意げなその笑みは僕にとってとても可愛らしく見えた。
「私、天使だからさ、君以外には見えないんだよ。凄いでしょ」
「嘘だろ……」
 こいつは本当に天使なのかもしれない。そんな気持ちが僕の中で芽生え始めていた。いや、そんなわけがない。そう思う気持ちと拮抗していること自体が僕の中ではあり得ないことだった。
 奥様方は井戸端会議を終え、家路につく。天使の背後にある山から夕陽が垣間見えて僕は思わず眼を細めた。天使は夕陽にライトアップされてとても眩しかった。
「あの貼り紙、読んだでしょ?」
「あ、ああ、まあ」
「私はね、あなたを幸せにしに来たの。佐倉 希君」
「は? 俺を、幸せに?」
 僕は天使の言っている言葉の意味が分からなかった。戸惑う僕を他所に天使は先ほどまでとは打って変わって真剣な表情で続ける。
「君は将来、必ず不幸になるわ。私が、救ってあげる」
 天使の眼はその一瞬だけ、酷く悲しそうに見えた。
 夕方の少し寒くなった風が僕たちの頬を撫でた。
 これが、僕と頭の上に輪っかも無く、飛べない天使との出会いだった。



 とにかく、この自称天使を僕はどうにかしなければならなかった。
 僕の一人暮らしのアパートにつく頃にはもうすっかり陽も暮れていた。夕陽の代わりに街の不気味な明かりと三日月が僕たち二人を照らしていた。
 というよりも、こいつは自称ではあるが天使なんだよな。天使って人じゃないから、何人っていう数え方で正しいのか。いや、違うんじゃないか。何匹とか……? でも一応人間よりも格式は高い存在だから……。
「ねえ、どうかしたの?」
 人気のない夜道に女性らしい丸まった声が響いた。まだ時間は早いが、この季節になると昼の時間が短くなるのだ。どこかで猫の鳴き声が聞こえてくる。
「っていうか、何であなたは僕についてくるんですか?」
 僕はもううんざりといった声で彼女に尋ねた。このやり取りも何度目になるだろうか。何を言ってもこの女の子は僕についてこようとするのだ。僕はもう半分諦めた様子であった。彼女は明るい表情を浮かべながらこう答えた。
「だから、何度も言ってるでしょ? 私はあなたを幸せにしないといけないの」
「僕を幸せにって、そもそも何で俺なんですか?」
 僕の質問を訊くとその女の子は僕の隣でその小さな足を突然止めた。僕はそれにつられて思わず立ち止まってしまう。
 彼女は顎に手を添え、まるで哲学を考えるような小難しい表情を浮かべていた。
「そうだなー。うーん……どうして君か、か……そんなの私には分かんないよ」
「分かんないってどういうことですか?」
「だって、その……そういうのは神様が決めることだから、私には権限がないの」
「ああ……そうですか」
 何となく、彼女の言い分も分かるような気がする。僕は根っからの仏教徒(まあ、日本人の殆どは無宗教だが)であるが、常識として天使は神の使いであることぐらいは知っている。つまり天使の上司が神様っていうことだろう。
 それは彼女が天使だという前提があって成立する理論ではあるが。
 気が付くと、僕はもう目的地であるアパートの前まで辿り着いていた。最低限生活できれば十分なおんぼろのアパートである。木造で、部屋の壁は薄く、階段を登ればギシギシとした音が響く。利点といえば家賃が安いことくらいだ。父さんと母さんに無理を言ってこの街に帰ってきたのだ。贅沢は言えないし、これ以上二人に迷惑をかける訳にもいかなかった。
 風が吹いてアパート全体が微かに揺れた、ように見えた。
 そんなことはないだろうと思いつつ、僕はずっと訊きたかった質問を彼女にした。
「あの、まさかアパートの中までついてくるなんてことは、ない、ですよね?」
 僕は恐る恐る言葉を選んだ。まさかまさかとは思うが、そんなことはないはずだ。そんなことを僕は心の中で何度も思った。
「泊るよ? 当たり前じゃん」
 まるで、常識をさとされる子供のような感覚に僕は襲われた。彼女の声はそれほどまでにはっきりとしていて、否定のしようがないようだった。
「はあ……あのですね。僕は仮にも男子高校生なわけですよ。そんな僕とまだ若い女の子……まあ人ではないのかもしれませんけど。そんな二人が一つ屋根の下にってさすがに不味くないですか?」
「大丈夫だよ。君はそんなことしない男の子だっていうのは分かってるからさ」
「僕はそんなに紳士じゃないですよ。大体、何であなたにそんなことが分かるんですか」
「だから言ってるでしょ? 私は天使なの。だから簡単な予知能力くらいなら使えるんだよ」
 予知能力、と来ましたか……。
 確かに僕以外の人間に見えないっていうだけじゃちょっと信憑性に欠けるところもあったから、これが本当だったらこの女の子は本当に……?
「君の名前が分かったのも予知能力のお陰なんだよ。これで分かった?」
「その予知能力っていうのは、どの程度までできるんですか? たとえば、世界レベルとか、小さな出来事限定とか」
「そうだねえ、まあ大きな出来事ぐらいなら分かるよ。まあ、君に教えすぎるのも私の目的から外れちゃうから意味はないんだけどね。……もしかして、まだ私が天使だって信じてないんじゃないの?」
「ええ、まあ。常識的に考えてそうでしょう? もしかしたらさっきの見えてないっていうのもあなたが通行人を買収して僕を騙そうとしているだけとも考えられますし」
 自称天使は僕の言葉を聴くと頬を赤く膨らませて僕を睨み付けてきた。明かりが薄く表情はよく見えなかったが、恐らく起こっているのだろう。殺気立った雰囲気が僕の肌を刺した。
「なんでよー!? そんなめんどくさい事するわけないじゃん。いいよ、じゃあ決定的な予言を一つしてあげるから。今日は何年の何月何日!?」
 強い口調で彼女に尋ねられた僕は気圧されるように返答した。
「えっと、二千九年の九月二十一日ですけど……」
「ふんふん……」
 目を閉じ、彼女は何かを考え込むかのようにその桜色の唇を閉ざした。瞑想だろうか、アニメとかフィクションに出てくる予言者はこうやって瞑想をしていたような気がする。学ランの中に少し冷たい風が入り込んだ。
「今は何時何分だっけ?」
「七時二十分ですが……」
「うんっ、分かった。後ちょっとで今の日本の内閣が総辞職するから」
「…………」
 あー、分かった。やっぱりこの女、本当に新手の宗教勧誘だったんだな。今の内閣が総辞職なんていうことは有り得るはずもない。支持率は結構高い数値だったはずだし、そんなことを考えるほうが馬鹿馬鹿しい。これで、この女の言葉は全部嘘だったって証明されたわけだ。
「はいはい、分かりましたよ。あなたが本当に宗教勧誘の人だっていうことがね」
 僕はため息を一つ吐き、うんざりといった様子で彼女に言った。
「な、何よそれ!? 私の言葉が信じられないっていうの?」
「ええ、そうですよ。今から内閣が総辞職だなんてそんなことあるわけがないでしょう」
「本当だもん。今から少ししたら内閣が総辞職するんだもん!」
 ダダをこねる子供のように、目の前の自称天使は一歩も引くつもりはないらしい。彼女は軽く僕の胸を叩いてきて、僕はどうすればいいか迷ってしまった。
「分かりましたよ。あなたがそこまでいうのなら僕にも考えがあります」
「どんなよ?」
「今から僕の部屋に来てください。そこにはテレビもあります。あなたが言うことが本当ならテレビでも少なからず取り上げられるでしょう? あなたを天使だって認めましょう」
「いいわ。望むところよ」
 彼女は自信たっぷりといった様子でそう言った。ふいに風が吹いて彼女の髪が巻き上げられた。僕はなんだか、少し嫌な予感がした。

「へえ、やっぱり綺麗にしてあるんだね」
 特殊な動作(鍵を回し、ドアを二センチほど上に上げてから右に寄せて力強く開くというもの)によって開け放たれたドアの向こうに待っていたのは僕の部屋だった。幸い、僕の秘蔵コレクションは押入れの絶対に見つからない奥に仕舞いこんでいたお陰でこんなわけの分からない急な客人を迎え入れることができた。部屋といってもここにきてすることといえば、テレビを見るか本を読むか勉強をするか程度なのでそれほど物は多くなかった。僕一人分の大きさのベッドに小さなテーブル。テレビ、本棚。本当にそれぐらいしか置かれていなかった。
 部屋を好き勝手に物色して回っている自称天使を尻目に僕はリモコンを使ってテレビの電源を入れた。そして、そのリモコンを無造作にテーブルに投げた。あまり自分の部屋を勝手に見て回られるというのはいい気分ではないのだ。だが、そんな気持ちも後数十分で終わりである。
 テレビから聞こえてくるバラエティの砕けた笑い声はこの部屋の今のBGMとして相応しくはなかった。
「言っておきますけど、もしあなたの言う通りに内閣が総辞職しなかったら出て行ってもらいますからね」
 部屋を物色していた自称天使は忙しく動くその手を止め、僕の方へ振り向いた。戸惑いを隠せないその表情に僕は彼女の言葉の嘘を確信していた。
「えー!? わ、分かってるわよ。……大丈夫、よね……うん」
 彼女はそう独り言を何度も呟いていた。内閣が総辞職するなんてそんなこと起こるわけがない。外の風が南側にあるドアを軽くノックした。やはりこのアパートはもう寿命なようだ。後数年我慢すれば言いだけだから頑張ろう。そんな関係のないことを僕はぼんやりと考えていた。
 と、騒がしく流れていたテレビの笑い声の中に目立つ機械音が混ざった。僕はこの音に何度か訊き覚えがあった。あれはそう、地震の速報とかによくテロップが流れて……。
 僕はゆっくりとした動作でテレビに視線を移していった。まさか、まさか、そんな言葉が頭の中で反芻されていた。
「ほらー、ね? 本当だったでしょ?」
「嘘だろ……?」
 バラエティ番組では弄られ役の芸人が何かしらのコメントを述べていた。その頭上にニュース速報と名のついた文字が点滅して、速報を伝え始めた。
 あり得るわけがない、そんなこと。そんな僕の幻想はいとも簡単に壊されていった。
『先刻、首相の緊急記者会見により内閣総辞職が発表された。次の総選挙の日程はまだ未定』
 天使の予言は現実となった。
 こんなこと誰も予想するはずもない。明日のニュースやワイドショーはこの話題で一杯一杯だろう。天使は僕の唖然とした顔を見ると得意げな顔を浮かべて、手を腰に据えていた。
 こいつは、本当に天使なのか……?
 いや、そんなことあるわけが……
「ふふん、ほらね。やっぱりこうなったじゃない。これで私が天使だっていうことを信じてくれるんだよね?」
「あなたは、本当に天使なんですか?」
「本当だって何度も言ってるでしょ?」
「でも、何で僕の所に? さっきは神様が勝手に決めたとかって言ってましたけど、それでも僕だけを幸せにするっていうのはちょっとおかしいと思います。それは神様が僕にだけひいきしているみたいじゃないですか」
「え? うーんと、それは……」
 天使は急に言葉を詰まらせた。もしかして僕なんかに話してはいけないやんごとなき理由でもあるのだろうか。いや、そんなことを言ったって僕にも一応知る権利はあるはずだ……多分。
 天使はようやく言う覚悟が出来たのだろうか、重く閉ざされた口を開いた。
「あの、その、君を幸せにできたら一人前の天使になれるっていうかそういう感じなのよ」
「ということは、あなたはまだ正式な天使ではないと?」
「え、ええ、そうね。まだ見習いなのよ、私」
 天使の言い分は何なく納得出来るものだった。半人前の天使だから頭の上に輪っかも無く、羽もないということだろうか。そう考えれば自然である。半人前の天使だからこうして僕の前に姿を現すことも出来る。まあ、全部僕の勝手な思い込みではあるが。
「そうなんですか。でも、ちょっと質問なんですけど」
「うん? 何?」
「僕が幸せになるって具体的にはどういうことを言うんですか?」
 幸せの定義というのは曖昧だ。ある人が言うには幸せとはその人が幸せだと思うから幸せなのだ、とも言う。ある人が言うには本当の幸せというのは実感している人間は気が付かないものだ、とも言う。
 とにかくそんなものは曖昧だということだ。これは量子論の解釈に似ているのかも知れない、とも僕は思う。例えば、タイムトラベルを量子論的な解釈で考えてみるとする。もし、この世界が多元的なもので世界線を変貌されるような大きな出来事が未来からの干渉によって行われた時、世界が改変されるというのが一般的な考え方である(まあ、こんなもの全てが新書の受け売りではあるが)。その時、世界がどのように変貌するのか、それはそこにいる観測者によって解釈が変わる。分かりやすく言うならば有名なシュレディンガーの猫で例えてみよう。箱から出てきた猫が生きているのか死んでいるのか、それを判断するのは箱から出てきた猫を見た観測者によって変化するのだ。
 ちょっと関係の無い方向まで話が飛んでしまったが、幸せという定義を確実なものにしなければこの天使の目的は達成されないということになる。それは彼女にも僕にとっても困ることだろう。
 天使は僕の言葉を訊くと一瞬キョトン、とした表情を浮かべた。そんなに僕の質問がおかしかっただろうか。天使はその後、不敵な笑みを浮かべながらこう言った。
「そんなの決まってるじゃん。愛だよ、愛」
「…………」
 何か、またしてもこいつが天使なのか僕の中で疑わしくなってきた。愛って、つまり恋愛が人を絶対的に幸せにするっていいたのだろうか。この半人前の天使は。
 それは偏見だ。
 恋愛が十人なら十人の人間全てを幸せにするとは限らない。一人でいたほうが気が楽な人間だって必ずいるはずだ。僕はそう思う。そして僕はどちらかといえばそういう人間なのだ。
「あの、僕はそういう人間じゃないと思いますよ」
「何でよ?」
「だって、恋愛とかどうでもいいし」
「そんなことないよ。きっと君だって好きな女の子の一人でもできれば考えが変わるはず」
 どうやらこの天使は考えを変えるつもりは毛頭ないらしい。燃えるような瞳が僕を射抜いていた。
「はあ、まあ好きにしてください。じゃあ、今日はこれで、さようなら」
「ええ!? 何言ってんの。意味不明だよ」
「いや、だって見習いでも天使なら不眠不休、絶食、どんな寒空の下だって死ぬことはないんでしょう?」
「それこそ偏見だよ。私はまだ見習いなんだから人間と同じ感覚を持ってるし、人間と同じように生きてるの」
「天使って言っても不自由なんですね」
 僕はそう言うと、コタツの中から抜け出して、台所へコーヒーを入れに行った。毎日の日課である。疲れて帰ってきた時は熱いコーヒーを一杯飲み干す。最高の贅沢である。
 使い古しているせいか所々変色したヤカンに火をかける。どうやらこの天使は今日僕の家に泊まっていくつもりのようだ。ヤカンが鳴き声をあげるまで後数分である。
「で、つまりあなたは今夜、僕のこの家に泊まっていくと、そういうことですか?」
「そうだよ、当たり前じゃん」
「当たり前、ですか……」
 この女、遠慮というものを知らないらしい。さて、となると二人分の食事をつくらなきゃいけないということか。天使に作ってもらうというのも考えの一つだが……。
 僕はそんなことを思いつつ天使を横目で一瞥した。小さな体躯に小さな手。そして、その得意げな表情。
 やはりこいつに任せるのは不安で一杯だ。僕がやったほうが確実だろう。材料は冷蔵庫の中の物で足りるだろうか。無いとすればスーパーに行って……
「――ねえ」
「え?」
 今晩の夕飯のことで頭が一杯だった僕に天使は突然話しかけてきた。その周囲には何となく怒気が張り巡らされているような気がする。
「こんな可愛い女の子が一つ屋根の下に泊まるっていうんだよ? もっとこうなんかないの?」
「ああ、ベッドのことですか? いいですよ、僕は床で寝ますから」
「そうじゃないって。もっとこう慌てふためいて戸惑う可愛い男の子を私は想像してたの。それが何よ。僕は床で寝ますからって、どこのクールさんですかっての」
「何とでも言って下さい。とにかく僕は夕食の用意があるので……」
 と、僕は冷蔵庫の中の食材が今日食べる分に足りないことを確認して近くのスーパーに買い物に行こうとした。ドアまで後数歩の所で、ふいに後ろから服を掴まれ、床に押し倒された。情けない声が口から漏れる。
 僕はそのまま天井に仰向けになった。その瞬間、僕は一体何が起こっているのか分からなかった。
「な……」
 天使は僕の上にまたがってきた。
 僕はこの状況をまだしっかりと認識できていなくて、ただただ唇を振るわせるだけだった。
「ねえ、こういうのも幸せって言うんじゃない?」
 彼女はそういうと、その長い黒髪をかきあげた。その仕草は僕にとって妙に艶かしく見えた。近くで見る彼女の素肌は陶器のように白くて触れた瞬間、壊れてしまいそうだった。ワンピースから覗く胸元に僕の視線は意識せずとも釘付けになっていた。
「ちょ、ちょっと! 本気ですか!?」
「本気だよ。言ったでしょ、君を幸せにすることが私の仕事だって……」
 天使は僕に顔を近づけてきた。瞳を閉じ、まるでキスするかのような顔をしている。桜色の唇は光り輝いていた。
 本当に? 本当に僕はこいつと、この人と……
「――なんてね」
「へ?」
 天使は急に僕から顔を離し、体を起こした。今までのことが全て嘘かのようにコタツへ足を運び、体を丸めた。
「なんてねって、僕を馬鹿にしたんですか!?」
「だって、君があまりにも私に対して敬意を払わないからさ」
 天使は僕の言葉もそこそこにコタツの上にあるミカンの皮を剥き始めた。僕は後悔とか怒りとか、色々な感情で頭の中が一杯だった。暖房が唸り声を上げている。
「敬意って……ああもう、どうでもいいですよ」
「君のことは幸せにしてあげるから心配しなくても大丈夫だよ」
 ミカンを口の中に含んでいるせいか、天使の声は少々籠っていた。先ほどの回答はまだ出ていない。僕のことを幸せにすると言っていた天使は傍から見ればただの中学生のようにも見える。今日の夜はちゃんと眠ることが出来るのか、そんな不安を抱えながら僕はスーパーへ買出しに出かけることにした。





 僕にとって学校とはどこか居心地の悪いものだった。
 なんとなく、適当に先生の話を訊き流している内に授業は終わる。定刻通りにチャイムは鳴る。転校してきた当初は新鮮だったそれも今となっては訊き飽きた。
 何気なく見つめた空は酷く澄みきっていた。雲の形が何か動物のようにも見える。あれは、トラだろうか、いやライオンのようにも見えなくない。そんなことを思っている内に雲はかき切れて歪な形に変化する。今日はどうやら風が強いらしい。
『ねえ――』
 教室の空気は悪くなかった。幸い、この高校には僕が以前在籍していた高校にあったような闇は存在しないようだ。だが、眼に見えないところで壁がある。それは空気のように薄くもあり、鉄のように固い。いくつかの集団のごとに何かしらの境界線が張られているのだ。意識していなくてもそれは分かる。僕のような人間にはそれが痛いほど分かる。何か特別な事がない限り、その壁が取り払われることはない。あり得ない。
『ねえ、ちょっと――』
 そして、そんな僕はどのグループの中にも入ってはいなかった。つい先日までは転校してきたばかりだから、なんて言い訳を自分の中で語っていたものだが、どうやらそれも期限切れである。僕には何となく分かっているのだ。皆と僕の間には眼に見えない境界線があるのだ。グループごとのそれに似ているような。だが、それは僕が一方的に張っている。
 僕はそして自分の右手をチラリと見た。外の明かりに照らされて腕時計がキラキラと輝いていた。そう、これがあるから僕は未だにこんな状況何だと思う。
『ねえってばー!!』
 キーンと耳鳴りが大きくなった。僕はその影響で椅子から転げ落ちそうになる。そして、その原因となっている騒音の主へと顔を向けた。
 見ると、昨日から僕の傍に居座っている天使が頬を膨らまして御立腹のようだった。だが、御立腹なのは僕も同じである。
「ちょっと、いきなり大声で叫ばないで下さ……!」
 と、天使に文句を言いかけてハッとした。隣で話し込んでいた女子二人が驚いたような視線を僕に向けていた。不幸中の幸いと言うべきか傍から見れば奇行とも思える僕の行動はこの二人以外には気づかれていないようだった。
「…………」
 僕は机に顔を伏せ、件の女子二人から視線を外した。これで誤魔化せたかどうかはいささか不安ではあるが今できることはこれくらいである。教室は昼休みということもあって賑わっていた。
 僕はすっかり忘れていた。この自称天使は今僕にしか見えていない。そして、これも天使の特権というべきか、彼女は僕の心の中に直接語りかけてくることができるらしい。
 ……これでまた彼女が天使だという証拠が一つ増えたわけだが、まあ、まだ疑わしい点はいくつもある。僕は昨晩天使に教えてもらったように心の中で天使に語りかける。
『……で、何でそんな大きな声で話しかけてくるんですか? 僕じゃなくても驚きますよ』
『何でって、君が私の話に全く持って上の空だったからに決まってるでしょ!? 全く、私は天使なんだから、もっと敬意を払ってよ』
 天使は僕の後ろで腕組みをして、そう言い放った。どうやら昨日のことをまだ根に持っているらしい。無駄な食費がかさんで迷惑しているのはこっちのほうだというのに天使はそんなこと全く気にしていないようだった。
 加えて、居心地のいいベッドを彼女に寝取られてしまったせいで僕は今日、少しだけだが寝不足だったりする。これくらいは大目に見てくれてもいいようなものだが。というか、この天使は僕を幸せにするという名目でここにいるのではなかったか。今のところ、僕は不幸にしかなっていない。そんな思いは心の中にとりあえず仕舞っておくことにする。
『はいはい、分かりましたよ。で、僕に何の話ですか?』
『え? ああ、えっと、なんだっけかな。君を怒ったせいで忘れちゃったよ。待って、あとちょっとで思い出すから……』
 天使はそう言うと、頭に手を当てて何かを思いだそうとするように唸っていた。そこまで重要な事なのだろうか。もしかしたら、僕を幸せにすることに関係のあることだろうか。僕は知らず知らずの内に掌に汗をかいていた。そして、右手の腕時計の辺りがチクリと痛んだ。
『うーん、あ、そうだ。思い出したよ』
『それで、何なんですか』
『いやあ。学校ってやっぱいいなって思ってさ』
『……ああ、そうですか』
 急に力が抜けて僕は机の上に突っ伏した。僕は忘れていたのだ。この人は元々こういったようにある意味天然に近い性格をしていたということを。天使は僕を見て不思議そうな視線を向けていた。原因は彼女にあるというのに全く分かっていないようだった。
『ていうか、天使にも学校なんてあるんですね』
『え? う、うん。詳しくは言えないんだけどね。大体君たちの学校と同じようなものだよ』
『へえ……』
 また一つ知識が増えたと僕は思った。だが、こんなことを言ったって誰も信じてはくれないだろうとも思った。今までは意識していなかったが時間はもう十二時を回っている。空腹感が僕を満たし始めていた。
『そう言えばね』
『何です?』
『もう一つ訊きたいことがあったのよ。今はもう昼休みでしょ? なのに、君は誰とも話したりしていない。何でなの?』
『…………』
 天使は少し不安げな声で僕にそう訊いてきた。またしても腕時計の奥がチクリと痛む。
 チクリ、チクリ、チクリ。
 一番訊かれたくないことを訊かれてしまった。そう僕は思った。空はこんなにも澄みきっているのに僕の心の中は黒で覆われていた。
『何で、ですか。あなたは確か予知能力があるんでしたよね。だったら、僕のことも知っているはずだ。そうでしょう?』
『それは……知ってるよ。君の昔話とか色々、ね。でも、それとこれとは別じゃないの? 過去のことをいつまでも引きずっていたら人はいつまでたっても前に進めない。だから……』
『あなたに僕の何が分かるんですか。心の中が読めるからって僕のことを何でも知ったような気にならないで下さい』
『それは……』
 僕と天使の間に気まずい沈黙が数刻の間流れた。沈黙というのは少し語弊があるだろう。元々二人の間に言葉はなかった。ただ、心の中で会話をしていただけなのだから。
 僕が机にかじりついている内に教室の人口は少しずつだが少なくなっていた。皆購買や学食に行っているんだろう。僕はそうやってせわしく動くのが馬鹿馬鹿しくて朝の内にコンビニで昼食を買ってきておいた。心の中でもう一人の自分が語る。
 誰かクラスのやつを誘って食べに行けばいいじゃないか、と。
 が、今の僕には無理だ。きっと無理だ。机の上に置いた腕に顔を埋める。そうすると視界一面が闇に覆われた。いつ食べよう、そう思って鞄の中の昼食に手をかけた時だった。
「どうしたの? 元気ないね」
 声がした。男のものではない高い声。
 闇の外からの声。僕は緩慢な動作でその声の主を見た。
「なんだよ、風ちゃんか」
「なんだよって何よ。こっちは心配して声かけてるのに」
 ポニーテールに赤ぶちの眼鏡。身長は女子にしてみれば高い方だろう。そんな少女が僕の机の前に立っていた。彼女は僕の言葉を訊くと腕組みをして瞳を閉じた。
 昨晩から思っていたことだが、どうやら僕には女の子を怒らせる才能があるらしい。風ちゃんもどうやら僕のおざなりな態度にお怒りのようだった。
『ねえねえ、風ちゃんってこの子誰なの?』
 念話、といったらいいのだろうか。天使はそれで僕に尋ねてきた。何だか口調が妙に興味深々といった様子で、僕は少々不安になった。
『宮沢 風香。僕の小学校のころの幼馴染ですよ。あなたも僕が小学校までこの街にいたっていうのは知っているでしょう? 風ちゃんっていうのは幼馴染だからですから変な妄想しないで下さい』
『ふうん、ただの幼馴染ねえ……』
 先ほどまでの神妙な空気はどこに行ったのかと僕はこの天使に問い正したかった。恐らく後ろではニヤニヤした顔をした天使が今後の展開を伺っているに違いない。どうでもいいが、風ちゃんとの間柄をとやかく言われるのを僕は一番嫌っているのだ。後でしっかりと言っておこうと僕は思った。
「ちょっと、何でまた上の空なのよ」
「あ、ああ、ごめん」
「はあ、まあいいわ。何か希、本当に元気ないなって思ってね。どうしたの?」
 風ちゃんは昔から勝ち気な女の子だった。男の子とドッチボールをしても並みいる強豪(僕の中ではだが)をバッタバッタとなぎ倒し、サッカーをやってはエースストライカー。そんな運動のできる子だったということはおぼろげながらに覚えていた。
 が、そんな女の子がさらに頭までいいなんて誰が思うだろうか。結果的に風ちゃんはそのかけている眼鏡に似合うような成績をテストでとっているらしい。本人から訊いたので間違いないだろう。優等生かつ運動神経抜群なんて天は二物を与えないのではなかっただろうか。
 後ろにニヤニヤした顔で控えている天使に訊いてみたい気もするが、今は面倒なので止めておこう。そう僕は思った。
「そんなことないよ。まだこの学校に慣れてないだけ」
「ふうん、希がそう言うんならいいんだけどさ……なんて言うか、希変わった、よね」
「…………」
「昔はもっと元気だったような気がするんだけどな。ドッチボールでも最後まで粘って私といつも一対一になってたし」
「そんなこともあったね」
「でも結局、最後は私が勝っちゃうんだけどね」
 ニシシ、と風ちゃんは眼鏡越しに目じりを緩めた。昔は風ちゃんも眼鏡なんてかけていなかった。だが、その奥に潜む瞳は今も変わらなかった。僕をドッチボールで仕留める度に風ちゃんは今のような笑みを浮かべるのだ。
 変わらない。
 変わらないものがここにあった。
 そして、僕は頬を少しだけ緩めた。
「ああ、そうだったね」
「……希、やっぱり、変わったよね」
「…………」
「昔の希だったら今の私の台詞を訊いたら食ってかかってきたのにな。大人になったっていうか、私そう思うよ」
「そうかな」
「そうだよ。てか、まだこの学校慣れない?」
「何で、そう思うの?」
 風ちゃんは僕の言葉を訊くと一瞬キョトンとしたような表情を浮かべた。そして、こう続けた。
「だって希、クラスの誰ともまだ打ち解けたように見えないしさ。今だってまともに話ができるのって私くらいじゃない?」
「…………」
 否定はできなかった。
 確かに僕はこのクラスの中でまだ風ちゃんとしかまともに話せていなかった。
 チクリ、チクリ、チクリ。
 打ち解けてないというのは違うかもしれない。僕が自ら境界線を作ってしまっているのだ。誰とも関わらないように。関わりたくないように。意識せずともそうなってしまう。
 自分を変えたくてこの街に来たというのに僕はまだ何も変わってはいなかった。
「大丈夫だって、このクラスは皆いい人たちばっかりだからさ。希も新しい友達くらいすぐにできるよ」
「そうだといいんだけど」
「うーん、もう。ここで食いかかってきてくれないと何だが居心地が悪いって。お前に言われる筋合いはない、とかさ。昔の希ならそれくらい言ってきたのに」
「昔の、僕……」
 その言葉を訊いて僕は心の中で自分自身を自嘲した。
 何だか、風ちゃんと話していると二人の自分がいるような気分になったのだ。昔の風ちゃんに向かっていっていた僕。今の大人になった、僕。どちらが本当の自分なのか境界線が曖昧になる。
 分からない。
 今の自分が間違いなのか、それとも……。
「……まあ、いいや。もうすぐ昼休みも終わっちゃうしさ、希も昼ごはん食べてないんでしょ? 一緒に食べない?」
「いや、いいよ。購買に行ってパンを買ってこないといけないからさ」
「そう? じゃあ、今回はいいや。早く食べちゃいなよ」
「うん、分かってるよ」
 そして、僕は席を立った。教室の椅子独特の床を擦るような音が響いた。風ちゃんは僕を笑顔で見送ってくれた。
 僕は、嘘をついた。
 本当は朝の内にコンビニの内に買い物を済ませているというのに僕は、嘘をついた。
 理由は自分でも分かっている。風ちゃんと話していると昔の輝いていた自分に光が当たるような気がしたのだ。そして、その陰に今の僕は隠れるしかないのだ。風ちゃんに悪意はないのだ。全部、僕の勝手な思い込み。
 でも、僕はこの教室に居心地のよさを感じることが出来なかった。
『ねえ、確か昼食は朝の内にコンビニで……』
『あなたには関係ないでしょう?』
『それは……そう、だけど』
 天使はそれ以上何も言ってこなかった。
 教室のドアが開かれ、廊下の窓から外の景色が一望できた。空は、澄みきっていた。





 昼休みといっても学校の最上階に人の姿はまるで見当たらなかった。科学の実験室かいつも集会を開くホール程度しかないのだから来る理由なんて殆どないだろう。
 教室を出て昼休みの喧騒を抜けるため、フラフラと学校の中を歩いていたのた。そして、いつの間にかこんな所にまで来てしまった。行く当てなどなかったが、僕はとにかくあの教室から離れたかったのだ。いけないことだということは僕自身が一番分かっている。が、仕方がないのだ。今の僕にはそれが出来ないのだから。
「どこへ行くの?」
「分かりませんよ」
 後ろを付いて来ていた天使はどうやら念話を使う必要がなくなったのだろうか。空気を震わせて僕にそんなことを訪ねていた。
 先ほどの僕の雰囲気を感じ取ってか、その声色はどこか揺らいでいるようにも聞こえた。
「分からないって、もうすぐ昼休みも終わっちゃうし早くお昼にしようよ」
 天使に言われて僕はようやく気が付いた。そう言えば、この天使は三食きちんと食べないと生きていけない見習いだったのだ。僕だけならばまだいいが、この人にまで空腹感を味あわせ続けるのは何だか気が引けた。
 僕は天使の言葉を訊いて足を止めた。いつまでも先ほどのことを引きずっていてはいられなかった。
「……そうですね。じゃあ、食べちゃいましょうか」
「ん? 何だか妙に物分かりがいいね」
「別にあなたのためじゃありませんよ。ただ、僕もお腹がすいてきただけです」
「へえ、やっぱりいいところあるんだね、君も」
 天使は僕の前まで回りこんできてそんな言葉を発した。明るい、太陽のような笑みは何となく可憐に見えた。そして、そんなことを一瞬でも思ってしまった自分が酷く恥ずかしかった。
「だ、だから、あなたのためじゃないって言ってるでしょう!?」
「強がらなくてもいいって。何? 顔真っ赤にしちゃって」
 天使は僕の顔を覗き込むようにして、そう言った。屈辱だ。こんな半人前の天使にからかわれるなんて。早く元に戻れと願っても僕の顔の火照りは一向に収まる気配がなかった。
「ああもう、どうでもいいですからどこか……って、そう言えばお昼は教室に」
「それなら心配無用だよ!」
 天使はそう言うとどこからともなく僕が今朝コンビニで買ってきたものが入っている袋を取り出した。天使は得意げな笑みを浮かべていた。
「ほら、こんなこともあろうかと持って来ておいたから」
「……あなたは、どれだけ食い意地が張ってるんですか」
「食い意地って何よ。元はといえば君が早くお昼にしないのが悪いんじゃない」
 天使は頬を膨らませて僕に抗議してきた。
 その姿を見て僕は心の中で苦笑した。何を今まで下らないことで悩んでいたんだろうと。コロコロと移り変わる天使の表情を見ていたら今まで考えに考えていた自分がバカらしくなってきた。
 僕のことを幸せにする。
 確か天使は僕と出会った時、そんなことを言っていた。それはもしかしたら少しずつ現実になってきているのかもしれなかった。まあ、半信半疑ではあるが。
 とにかく僕は天使と一緒にいることが楽しくて仕方がなかったのだ。
「ふふ、分かりましたよ。僕が悪かったです」
「ふんっ、分かればいいのよ、分かれば」
「じゃあ、屋上で食べちゃいましょうか。この前風ちゃんに教えてもらったんですよ。本当は行っちゃいけないんだけど、行けないことも無いって」
 僕は天使に先だって廊下を歩きだした。気分が明るくなったら僕も本当にお腹が空いてきた。
「あ、ちょっと待ってよ!」
 僕の後ろからビニール袋の擦れる音と天使の高い声が聴こえてくる。最上階の廊下には僕たちしかいなかった。
 人間と天使とそれぞれ一匹ずつ。
 天使は人ではないけれど数で数える時は何と言えばいいのだろうか。やはり、人間と同じように何人だろうか。それとも羽が生えているから何羽とか? というよりこの天使は羽が生えていないのだった。思ってみれば天使に羽が生えているという常識自体、人間が編み出した創造に過ぎないのだ。本当の所はどうなのか後で訊いてみよう。そんなことを思いながら僕は廊下を天使とともに歩いていた。
 最上階の廊下の端に屋上へと続く階段はある。特別な時、例えば卒業アルバム用の写真を撮る時等以外は生徒がここへ来ることはない、筈である。風ちゃんは確かそう言っていた。
 が、行こうと思えばいつでも行けるのだとも風ちゃんは言っていた。金属質の扉はそこだけが学校という一つの社会から隔離されているように異質だった。鍵は恐らく開いているはずだ。風ちゃんの言葉を信じるのならば。
「あの扉の向こうが屋上です。さあ、行きましょう」
 が、天使は僕の言葉に返事をしてこなかった。歩きながら僕も感じていたが僕が屋上に行こうと言ってから天使はうつ向き気味にブツブツと独り言を呟いていたのだった。今もその状態は継続中である。
 僕は頭の上に疑問符を浮かべながらもそれほど気にせずに気休め程度にかけられている立ち入り禁止の紐を乗り越えた。そして、天使を一瞥したが天使はまるで動こうとはしなかった。
「どうしたんですか? 早く行きましょうよ」
「――ねえ」
「はい?」
「今日って九月二十二日だよね」
「はい、そうですけど」
 天使は俯きながら僕に尋ねてきた。先ほどまでとは声色が違っていたような気もするが僕はそれほど気にすることも無かった。
 そして、突然天使は僕の右手を強く引いた。まるで屋上へ行こうとするのを拒むかのように。
「おわっ!」
 思ったよりも大きな力で引っ張られたせいで僕の身体は進入禁止の紐にかかるような形になった。お腹の辺りが少し痛かったが天使はお構いなしといった様子でさらに強く僕を引っ張る。
 僕はたまらず、その手を振り払った。
「ちょっと! 何なんですか急に」
「ダメ! 今日屋上に行っちゃダメ!」
「はあ? いきなり何ですか」
「もし君が今日、屋上に行くようなことがあれば絶対に不幸になる。絶対に」
 天使は強い口調でそう言い放った。瞳は真っすぐに僕の瞳孔を射ていた。僕は一瞬その様子に戸惑ったが空腹感の方が勝っていたためか、天使の言葉を素直に受け入れる気にはなれなかった。
「また訳のわからない予言ですか? 大丈夫ですよ。僕は屋上から転んで落ちるなんてヘマはしませんから」
 僕は軽く天使をいなして踵を返した。
「あ! ちょ、ちょっと、ダメだってば!」
 天使はその小さな体躯のせいか立ち入り禁止の紐を上手く超えられていないようだった。その間に僕は金属質の扉の麓まで辿り着いてしまっていた。
「僕もお腹が空いてるんです。あなたの予言だって絶対じゃないでしょう? きっと大丈夫ですよ」
 僕はそう言って金属質の扉に手をかけた。天使が騒がしく何かを訴えているが無視をすることに決めた。屋上に一体何があるというのか。逆に僕は天使がそれほど言う僕を不幸にする何かに好奇心を擽られていた。
 この扉の奥に一体何があるのか。
 僕は静かにその重い扉を開け放った。
 一気に風と日光が入り込んできて僕は思わず眼を細めた。薄く開いた瞼から見えたのは無数に存在する雲と青空だった。
 そして、事故防止用に作られた手すりに背中を預けるようにしている少女を僕は見た。
「…………」
 小さな体躯に長い黒髪。その女の子は微かに流れる風の中で静かに本を読んでいた。
 何と表現すればいいのだろう。とにかく小さくて綺麗な少女だった。やや癖のある、しかし鮮やかな黒髪をきちっと結いあげている様が印象に残る。
「ん……」
 小さな少女は僕に気づいて視線を僕に向けた。その髪を掻き上げる仕草ですら僕にはとても可憐に見えた。
「誰……?」
「あ、えっと……」
 少女は手すりに手をかけながら徐にその腰を上げた。立ちあがるとその小ささがさらに顕著になる。恐らく先ほど僕を止めようとしていた天使と同じくらいの身長だろうか。
 僕はすっかり天使の存在も忘れて眼の前の少女に見惚れていた。
 少女は何故か僕に敵意を向けていた。視線で分かる。僕は不思議な気分になった。
「誰、なの?」
「ぼ、僕は最近転校してきた……」
「そうじゃない」
「え?」
「私に、何か用なの?」
 少女は怯えるように本を胸に抱えた。それでもその視線は刺すように僕を見ていた。本当に何かに怯えるかのように。春の匂いが鼻についた。
「いや、用ってわけじゃないんだけど……でも、何でこんなところで一人でいるの?」
「あなたには関係ないでしょ。もう、私に近づかないで」
 少女はそれだけを言い残すと、つかつかと僕の横を通り抜けていった。石鹸のようないい匂いが鼻孔を擽った。僕は少女を引きとめることもせず、ただただそこに立っていた。心の中では引きとめたい気持ちもあったのだろうか。正直よく分からなかった。
 金属質の扉が閉まる音がして僕はようやく我に返った。
「な、何だったんだろう。あの子」
「これで分かったでしょ?」
「うわっ! いたんですか」
 僕は今の今まで後ろに立っていた天使の存在に気が付かなかった。それほどまでに少女に見惚れていたのだろうか。冷静に考えれば考えるほど僕は自分が恥ずかしくなった。
 天使は僕を呆れるような眼で見ながら大きくため息を吐いた。両手を腰に当て、首を横に振る。
「分かったって、何がですか?」
「いや、こうなることは分かってたんだけどね。ほら、君が一目惚れしちゃったさっきの子」
「ひ、一目惚れなんかしてしてませんよっ。何言ってるんですかっ」
「隠さなくってもいいよ。うん、いや、君がこういうことになるのは私の予知能力で分かっていたことだからさ」
 天使は僕との会話の途中、緩慢な動作で先ほど女の子が座りこんでいた辺りの手すりに両手をつけた。そして、身体を大きく伸ばしてその高い声を発した。
 予知能力で僕の気持ちが分かるものなのか?
 僕の中にはそんな疑問が生まれていた。いや、確かに綺麗な女の子だとは思っていたけど……一目惚れってほどでは……いや、よく分からない。自分の気持ちなのによく分からない。それが人間なのだろうか。そんな哲学的な考えすら頭に浮かぶのだから、多分今の僕は普通じゃない。
 それだけは確実だった。
「そんな、予知能力って僕の心の中まで分かるものなんですか?」
「分かるよ」
 天使は僕のことを振り返りなどせず、青い空を見ながらはっきりとした口調でそう言った。迷いのない、澄んだ声だった。
「な、何でですか?」
「君とあの子はね、未来で恋人同士になってるの」
「…………へ?」
 ちょっと待て。
 僕が、今の女の子と恋人?
 いや、確かに、多少は可愛いとは思ったけど付き合いたいとかそんな気持ちはまだないと思うし……。
 いやいや、それ以前にあの娘とは今さっき初めて会ったばかりで、それで恋人になるなんてそんなことあるのか?
 僕はあの娘の名前も知らないし、現に今は話しかける以前に一蹴されたし、そんなの考えようもない。
「いや、君が一目惚れをしたのかってまでは分からないかな。まあ、未来ではそうなってるってこと」
 天使は振り返り、僕にそう言った。その目はどこか悲壮感に満ちていて、悲しそうだった。
「そんなのちょっと考えづらいです」
「そう」と桜色の唇が言葉を紡ぐ。「君にはその気持ちでいてほしいの」
「どういうことですか?」
「未来ではね、君は彼女と恋人になって、そして不幸になる。私はそれを止めに来たの」
 天使はそうして僕の所まで歩み寄ってきた。そして、その小さく柔らかな手で僕の右手を掴んだ。酷く暖かかった。一陣の風が吹き、天使の髪が乱れた。それでも天使はそんなことは気にしようとはしなかった。
「約束して、あの娘には近づかない方がいい。それが君が幸せになる道だから」
 天使は僕の右手の小指と彼女の左手の小指を重ね合わせた。その左手を揺らすと僕の右手もつられて揺れた。指切りという約束の一種だ。法的な拘束力も何もありはしない。嘘をついたって針千本呑まされるわけではない。
 けれど、天使の眼は必至だった。僕はその指切りを反故にするわけにもいけなかった。今にも泣きそうな女の子を笑顔にしなくてはいけなかった。
「わ、分かりました。約束します」
「ほ、ホント? ありがとうっ!」
 突然、天使は僕に突然抱きつかれた。甘く艶やかな香りが鼻孔一杯に充満して僕は一瞬どうしたらいいか分からなくなった。天使の体躯はとても柔らかくてフワフワしていて、まるで高級なクッションのようで。僕は慌ててその身体を離した。
 ビックリしてしまったのだ。女の子に抱きつかれたことなんて今まで経験していなかったから。
「ちょ、ちょっと! 急に抱きつかないで下さい」
「あ、ゴメン。何か嬉しくなっちゃって、ヘヘ」
 天使はゴメンね、と言いながら頭をかいた。僕は驚いて気が動転しているというのに天使はいたって普通そうだった。そう言えば、この天使は僕より年上なのだろうか。年齢なんて女の人に訊くものではないと思う。それに、天使に年齢があったとしてもそれが人間の縮尺と同じであるとは限らないし。
 まあ、全部彼女が天使であるという仮定に基づいての理論だけど。少なくとも僕には天使が僕よりも年上のように思えてならなかった。背は小さいし、態度も幼い。が、時折見せる寂しげな表情はたった十数年間生きてきただけの僕には到底まねできないようなもので。
 達観しているとでも言うのだろうか。上手く言葉には出来ないようなそんな雰囲気が天使にはあった。
「でも、近づかないなりに僕もあの女の子の名前ぐらいは知っていてもいいんじゃないですか?」
「え? どうして?」
 天使は首を傾げ、僕にそう尋ねた。いや、それくらいは教えてくれてもいいと思うのだが。
「だってそうでしょう? 色々学校の行事とかで彼女とニアミスしないためにもそれぐらいのことは知っておきたいってことです」
「ああ、そう言うことか。いいよ、あの娘の名前は桜井 栞。君を不幸にする女の子の名前だよ」
「桜井、栞……」
 僕は一人でその名前を何度か呟いた。そして、忘れないように心の中に刻み込んだ。
「分かりました。これからは気をつけますから。だから、急に泣き出さないでくださいよ?」
「なっ、泣いてなんかないよ!」
「何言ってるんですか。さっきは涙眼だったくせに」
「そんなことないってばー!」
 天使は優しく、僕の胸を叩いてきた。痛くはない。この人なりにプライドを傷つけられたということだろう。
 僕は天使のパンチを胸で受けながらいつも肌身離さず身につけている腕時計をチラリと見た。もう昼休みも終わってしまう。どうやらお昼御飯を食べている時間は残されていないようだった。
 空を見上げると月が薄らと姿を現していた。
 僕は、この人に嘘をついた。
 もしかしたら、この人の言葉は全て真実で僕は先ほどの女の子と一緒にいることで本当に不幸になってしまうかもしれない。だが、未来は不確定だ。そんなことは誰にも予想もできない。天使の未来予知がほぼ完璧だとしてもそんなものは僕が動かしていけばいいのだ。
 SF映画の主人公の殆どは確定された未来を何らかの方法で覆すことでハッピーエンドに辿り着く。きっと僕にも出来るはずだ。
 僕は、桜井 栞という少女に恋をしていた。これほどの感情は今の今までなかっただろう。
 そして、僕は今まさに眼の前の女性を裏切った。





 お昼御飯も満足に口にできないまま、あっという間に時間は放課後へと過ぎていった。あっという間というのはもしかしたら僕の主観だけのことかもしれない。授業中は先生の眼を隠れて隙あれば惰眠を貪っていたので、時間が過ぎていくのが早く感じられてしまったのだ。
 学校の授業が終われば、そこに席を置く人間の行動は大まかに分けて二択ということになる。そそくさと部活に足を運ぶ者と僕のように緩慢な動作で帰宅の途へつこうとする人間だ。まあ、その人間もそのまま遊びに行く連中と僕のようなタイプに二分されるわけだが。
 夕陽が教室の中に差し込んで室内をオレンジ色にペイントしていた。僕はその眩しさに一瞬片目を閉じる。
「希っ」
 と、僕は扉の付近から聴こえてくる馴染みの声に視線を移した。
 丁度、先生たちから配られた大量のプリント類を鞄の中に詰め込む作業が終了したのでタイミング的にはバッチリであった。
「風ちゃん。今日もいいの?」
「うん、オーケーオーケー」
 扉に右手をかけていた風ちゃんはニシシと風ちゃんらしい笑顔を浮かべて僕にそう言った。もう数週間も顔を合わせているのに未だ僕は風ちゃんの眼鏡をかけた顔に違和感を覚えずにはいられなかった。
「やっぱり変だね」
「ん? 何が?」
「その眼鏡。僕の思い出とは全く一致しないからさ」
「希、それ何度目? 私だって小学校の時よりは変わってるんだよ?」
 風ちゃんは苦笑いを浮かべながらそう言った。その言葉が何となく僕の心に深く残った。
「変わった、か……」
 変わった。
 僕は昔に比べて、変わってしまった。
 そんなことは分かっている。昔のように心の底から笑うようなことも少なくなったし、今だって本当に心を許せているのは風ちゃんくらいなものだ。
 風ちゃんは右手にぶら下げていた鞄を両手で持ち、頭の後ろへと移した。昔から風ちゃんが愛用していた鈴が鞄の動きにつられて綺麗な音を発した。
 懐かしい、音だった。
 風ちゃんが僕の近くに来る時はランドセルにつけられていたこの鈴が合図だった。あの頃のことだけは今も鮮明に心の中に残っている。そう、数年前のことよりはの話だ。
「今日も私の家で勉強でしょ?」
「うん。そうだね」
 僕は首を縦に振り、風ちゃんに肯定の意志を示す。
「母さんには言ってあるからさ。行こうよ」
 風ちゃんはそう言うと僕に構わず踵を返す。昔から、風ちゃんはせっかちだったな、なんて僕は過去のことを思い出したりしていた。
 風ちゃんに遅れないように右足を踏み出そうとした瞬間、僕は記憶の端に追いやっていた事象を思い出した。
『ねえねえ、幼馴染と家でお勉強なんて、どういうこと?』
 僕は天使の言葉を訊くと途端にその足を止めた。そうだ、僕は忘れていた。先ほどまで惰眠を貪っていたせいかこの天使の存在を僕はすっかり忘れていたのだ。
 声色から天使の今の表情を想像するのは容易いことだった。どうせニヤニヤしながら僕の表情を伺おうとしているに違いないのだ。昼間に言ったことをもう一度復唱する必要があるようだった。
『だから、風ちゃんはただの幼馴染だって言ってるでしょう? それ以上でもそれ以下でもないです』
『でもでも、女の子と二人っきりなんでしょ? さっきの口ぶりから見ると結構頻繁にいってるようだし、考えちゃうよね。ヘヘ』
『はあ……。あなたは男女の関係をそういう解釈でしか見れないんですか?』
 僕は天使の言葉に辟易しながら彼女の方へと振り向いた。天使は未だニヤニヤとしたその表情を崩してはおらず、どうやら僕の言葉を本気で訊くつもりはなさそうだった。
『つき合ってるんじゃないの?』
『違います』
『いつも一緒に勉強してるのに?』
『それは友達同士でもやることでしょうが』
『風香ちゃん、可愛いのに?』
『そうかもしれませんけど』
『幼馴染なのに?』
『幼馴染=恋愛ってどこのエロゲ脳ですか、あなたは』
『眼鏡委員長属性なのに?』
『僕は眼鏡フェチじゃないです』
『なーんだ、ちぇっ』
 天使との問答の末、ようやく彼女は僕の言葉を理解して、くれたように見えた。天使は本気で残念がっているようでそれはその卑しげな表情から見て取れた。
 まあ、僕も彼女の気持ちが分からないわけでもない。天使の一番大きな目的が僕を幸せにすることで、その一番の障害である桜井さんとの恋愛の可能性を断ち切るために一番手っ取り早い方法は僕が桜井さん以外の女子を彼女にすることだからだ。
 当然天使もその方向性で事を進めようとしているに違いない。風ちゃんはその方向性で行くと一番大きな候補、ということなのだろう。今現在ではの話だが。が、天使には悪いが僕は風ちゃんに恋愛感情なんて抱いたことはない。むしろ、この幼馴染という関係の居心地の良さに溺れてしまっているところもある。
 本当に居心地がいいのだ。
「希っ。何してんの? 早く行こうよ」
 遠くから風ちゃんの声が聞こえてくる。眼鏡委員長属性とは思えない元気の良さである。だが、それが僕の心を異様に安心させていた。もしも風ちゃんが一人きりで本を読み漁っている文学少女などに変わっていたりしたら僕はどうなっていただろうか。分からない。
「今行くよっ」
 今はそんなことは考えないほうがいい。そう僕は思った。





 風ちゃんの家は昔の頃と何一つ変わってはいなかった。赤い大きな屋根に小さな庭。閑静な住宅街の中ではただの一軒家として埋もれてしまうような普通の二階建ての家。唯一変わったものがあるとするならば昔はよく追いかけまわされた犬のチェロの小屋が綺麗さっぱりなくなっていたことくらいだろうか。
「ねえ、今まで訊いてなかったんだけどチェロってやっぱり死んじゃったの?」
 風ちゃんが自宅のドアへ手をかける間際、僕は何気なくそんなことを訪ねていた。特に意味はなかった。ただ、チェロのいた小屋の後を見ると何だか悲しくなってしまうから、それだけだった。
「ああ、うん。何年か前にね。もうおじいちゃんだったし仕方ないよ」
「チェロの子供とかはいなかったの?」
「いないよ。子犬をもらってこようか、なんて母さんは訊いてきたけど、私これから大学にも行くしお金かかるでしょ? だから、いいかなって思ったの。母さんも世話するの大変だし、あんまり迷惑かけたくないしさ」
 風ちゃんがそう言い終わった途端、チェロの小屋があった辺りの芝生が風に揺られたように見えた。僕は何となくチェロがまだここにいるような気がした。
 僕はそれが見えて一瞬嬉しくなって、そしてすぐに悲しくなった。また一つ思い出が消えてしまったから。
「今日は母さんしかいないからさ、多分今は買い物に行ってるんだと思う。まあ、二階に上がっててよ」
 風ちゃんはそう言ってキッチンへと足を運んで行った。風ちゃんのお父さんは確か弁護士でお母さんは専業主婦だったはずだ。昔はよくお父さんが遊んでくれないと僕に愚痴を零していたものだったが先ほどの口ぶりからもうそのころの風ちゃんではないのだろう。
 この街の全てが変わっているのだ。
 僕は風ちゃんに言われたとおりに二階へと続く階段を静かに上る。壁にかけてあった時計の音がやけに響いていた。
『ねえ、本当に今は二人きりだよ』
『…………』
 静かな風ちゃんの家の雰囲気を壊すかのように天使はまたそんな下らないことを言ってきた。もう面倒くさいから無視してしまおうかとも思ったがそうすると後々面倒なので僕は嫌々ながら天使に返答するしかなかった。
『だから、何もないって言ってるでしょう? 何回言ったら分かるんですか』
『いやいや、私は別にそんなつもりじゃないんだよ? ただ、二人きりだよっていう事実確認をしただけ』
『……はあ』
 天使のニヤニヤした顔もいい加減に見飽きたので僕は構わず階段を上る速度を速めた。
 風ちゃんの部屋は階段を上ったすぐ脇のところにあった。風香の部屋と書かれたプレートがその目印である。
 扉を開けると最近は見慣れた部屋が一望できた。女の子の部屋にしては物が少ない印象を受ける。ベッドと本棚と勉強机にパソコン。コタツにかかってある毛布だけはオレンジでこれだけが女の子の部屋と判断できる材料だろう。昔から男勝りなところがあった風ちゃんである。ぬいぐるみとかピンクの物とか少女らしいものは一切なかったからこういったことは僕にも想像出来た。
 僕はコタツの中に両足を入れて一息ついた。何だか今日は無駄に疲れた気がする。桜井さんと会ったからだろうか。それともこの天使が現れたせいだろうか。多分どちらもだろう。
 渦中の天使は初めて僕の部屋を訪れた時と同じように部屋を物色していた。そんなに人間の部屋というのが珍しいのだろうか。一応ここは風ちゃんの部屋なので釘をさしておかなければならないだろう。
『ちょっと、ここは人の部屋なんだから勝手に動き回らないで下さいよ。あなたは見えないんですから疑いの全部は僕に振りかかってくるんですし』
 天使は僕の言葉を受けて本棚の中に置かれていた新書に伸びるその手をパタリと止めた。安心はできないけどこれで分かってくれたとは思う。
『わ、分かってるよ。それにしても女子高校生の部屋にしては何か殺風景だよね』
『それが風ちゃんのアイデンティティーなんだからいいじゃないですか』
『ああいうタイプの子だと実は可愛いもの好きで部屋にはぬいぐるみが一杯あったり、なんて想像してたんだけどな』
『どんなテンプレ設定ですか、それ。とにかく大人しくしてて下さいよ』
 と、僕が心の中でそう呟くと部屋の扉が開かれて風ちゃんが入ってきた。右手にはジュースが二本とクッキーが乗せられたお盆を持っていた。当然のことながら天使の分は用意されてはいなかった。
「ごめんね、こんなものしかなくてさ」
「ああうん、全然お構いなく」
『ちょっと、私の分はないの?』
『当たり前でしょう? 風ちゃんにはあなたが見えてないんですから』
『ええー、そんなあ』
 天使は指を咥えるようにしてお盆に乗せられたクッキーとジュースを眺めていた。食い意地が張っている天使なんてなんかイメージと違う。僕はそう思った。天使はそんなこと考えもしないだろうが。
「ん? どうかした?」
「ああ、いや、何でもないよ」
「ふうん、変な希」
 風ちゃんは一瞬訝しげな視線を僕に向けてきたが、それもすぐに消えた。コタツの上にジュースとクッキーを置いて、コタツの中に入り込んでくる。窓から入り込んだ夕陽がジュースの黄色と混ざりあった。
「はあ、やっぱりコタツはいいよね」
 風ちゃんはコタツの上に顔を乗せてそんなことを言ってきた。これは不味い傾向である。何故ならば風ちゃんは大のコタツ娘だからだ。
「そんなこと言って、またこの前みたいなことにならないでよ。前はコタツから出てこないでそのままお開きになったんだから」
「分かってるって、希は心配性だなあ」
 幸せそうな風ちゃんの表情は崩れない。これはまた昨日のようなことになりそうだった。まあ、それでもいいかなんて僕も思ってしまったから多分風ちゃんの病気が移ってしまったのだろう。
 カラン、とジュースの中の氷が少し動いた。天使がゴロゴロとクッキーを食べたいとダダを捏ねている以外は静かだった。
 とても居心地がよかった。
「ねえ、風ちゃん」
「ん? 何?」
 居心地がよかったからだろか、本来の僕ならば風ちゃんに絶対訊きはしないような事柄を僕は訊こうとしていた。それが、僕の幸せのためならば。
「桜井、栞さんって風ちゃん知ってる?」
 シン、と風ちゃんの部屋の中が静まり返った。多分風ちゃんは気が付いていない。僕だけに聴こえていた天使の騒音がピタリと止んだせいだ。何とでも言い訳はできる大丈夫だ、そう僕は思った。
「桜井さん? ああ、知ってるよ」
 僕はコタツの中で掌に汗をかいていた。好きな子のことを誰かに訊く緊張感と天使が傍にいるという不安。この二つのせいだろう。気にはしない。
「クラスは違うんだけどさ、あんまり付き合いが良くない人らしいよ。何かクラスでも友達とかいないらしいし、同じ中学の子に訊いたんだけどよく分かんないって。昼休みになるとふらっとどこかに行っちゃうし、まあよく分かんない人ってことかな。これでも私友達は多い方だからさ、それくらいは知ってるよ」
「へえ、そうなんだ……」
 誰も、友達がいない……。
 僕は酷い人間だった。こんなことに共感してしまうんだから。酷い、人間だ。
 初めて桜井さんに会った時も僕は人知れずそんな感情を抱いていた。
 僕と、同じだ、と。
『――君さー』
『…………!』
 天使はのっそりと僕に顔を近づけてきて不満げな表情を浮かべていた。まあ、僕もこの程度は予想済みであるからテキパキとした受け答えをすることにする。
『さっき私と約束したばっかりだよね。桜井 栞にはもう近付かないって。どういうことなの?』
『だから、どんな人物なのか知っておくことでこれから出くわさないようにできるでしょう? 他意はないです』
『ふうん、本当に?』
『本当です』
『まあ、いいわ。けど、嘘だったら本当に針千本飲んでもらうから、そのつもりでね』
 天使は平然とそんなことを行ってのけた。僕はすっかり忘れてしまっていた。この人は見習いながらも本物の天使なのだ。針千本飲ませることももしかしたら可能、なのかもしれない。良くは分からないが。
『……マジですか?』
『マジ。てかガチ』
『う……分かりました』
「希、この前からぼーっとしてることが多いよ。大丈夫?」
「あ、ああ、うん。平気平気」
 危なく風ちゃんに天使の存在を気取られるところだった。昔から風ちゃんは感がよかったから油断はできないけれど。
「さってと」
 風ちゃんはゆっくりとコタツの中から身体を這い出そうとする。そして参考書類が散乱している机へと足を伸ばした。
「あ、僕も何か手伝おうか?」
「いいよ、今教科書とか出すからさ」
 風ちゃんは僕の行動を制すと机の引き出しを開けて教科書を取り出した。ついでに真新しいノートも。どうやら今日はやる気になってくれたようで僕は安心した。机の上に両手を出して勉強をするやる気を奮い立たせる。
 風ちゃんは教科書とノートを両手に抱え、僕のことをチラリと見た。そして、何気なくこんな言葉を口にした。
「そういえば希、いつもその腕時計をつけてるよね。お気に入りなの?」
「――――!」
「……どうかした?」
 チクリ、チクリ、チクリ。
 右手首が異様に痛んだ。
 そんなこと訊かれたくなかった。
 思い出したくもなかった。
 風ちゃんと一緒にいる時間はそんなこと綺麗さっぱり忘れていられたというのに、何で、何でそんなことを訊くのだ。
 風ちゃんは悪くない。
 悪いのは――誰だ?
 僕か?
 そんな自己嫌悪はもう飽きた。
 僕は悪くない、悪くない、悪く……ない。
 タイムマシンがもし存在するのなら、僕は過去の自分にこう言ってやりたかった。
 ――お前は幸せにはなれないんだ――
 そう、僕は今――不幸だ。
「希、大丈夫? 顔色、悪いよ?」
「……い、いや大丈夫。さあ、早く勉強しよう。風ちゃんの気が変わらない内にさ」
 上手く嘘をつけたと思う。
 それでも風ちゃんの表情は元に戻ってはくれなかった。
 風ちゃんは不安げな表情のまま僕の対面へと腰を下ろした。これ以上僕は何もできなかった。
「そう? ならいいんだけど……」
『…………』
 風ちゃんはそれ以上何もいわず僕に勉強を教えてくれた。
 天使は何も言ってこなかった。
 そして、僕も何も言わなかった。






「ねえ、本当に桜井 栞には近づかないんだよね」
「何度も言ってるでしょう? 大丈夫ですよ」
 天使は僕の部屋で昨晩と同じようにミカンの皮を剥きながらもう何度目か分からない質問を僕に向けてきた。
 コタツの中で丸まった身体はいつにもまして小さく見えた。先ほど温め始めたヤカンの中の水が沸騰を始めている。
 かく言う僕はというと、先ほど風ちゃんに教えてもらった勉強の続きをするため机に噛り付いていた。天使はそんな僕を見ても何も言ってはこなかった。僕は彼女がつまらない、等とダダをこねるだろうと予想していたのだ。が、その当ては外れた。
 案外大人しくコタツに身体を埋めながらテレビを見ていてくれるのだから僕も正直助かっている。桜井さんについて釘をさすこと以外は、だが。
「あの」
「何?」
「あなたは未来で僕が不幸になるっていいましたよね」
「言ったよ」
「そして、その大きな原因が桜井さんにあるといった。それはどういう意味ですか?」
「どういう意味って?」
「だから、彼女と僕がどういった過程を踏まえて不幸になって行くのかっていうことですよ。それをクリアすれば問題はないんじゃないですか?」
 何故、こんなことを訊いてしまったのか僕自身よく分からなかった。多分、天使がどこか元気がなさそうだったから、そうに違いない。
「それは言えない」
「何故です?」
「それを言ったら私の目的に齟齬が発生するから。言ったところで君が桜井 栞と恋人同士になれば結果は変えることはできない。未来の大きな分岐点は今この瞬間なの」
「そんなのやってみなくちゃ分からないじゃないですか」
「――やってみなくちゃ?」
 天使は僕の言葉を訊くと静かにコタツからその身体を起こした。立ちあがった所でこの人は小さい。そう、まるで桜井さんのように。
「よく私の前でそんな口が訊けたわね。私には全部分かるの、君は桜井 栞と一緒にいることになれば不幸になるの! これは確定された未来なの!」
「あなたの予言が確実だっていう証拠はどこにもない。あの解散だってもしかしたら偶然かもしれない。そういうことだってあり得るでしょう?」
「……はあ、ダメね。今日の君には何を言っても無駄だわ。私、アイスを買ってくるから。……もし桜井 栞に近づく気があるのなら止めておいた方がいいよ。他の誰でもない、君の為だから」
 天使は大きくため息をついて玄関のドアを抜けていった。どうせアイスを買ってくるって言ったって僕のお金なのだ。何だか無性に腹が立って仕方がなかった。
「なんだよ、くそっ」
 イライラは勉強をやって消化させることにする。軽快にシャーペンの音を立てながら問題をどんどん消化していく。ゲームをやるよりはよっぽど有意義である。
 ふと、僕はペンの足を止め部屋の中を見渡した。何もない。天使は昨日来たばかりだと言うのに何だか物寂しく見えた。天使がテレビを消していったせいで蛇口から水が滴る音しかしなかった。
 天使がいなくなって、寂しいのだろうか。
 気のせいだ。僕はそう思った。思いこんだ。
 気のせいか、机に身体を戻したところで問題を解く速度は一向に上がらなかった。
 僕は一体どうしたんだよ――
 ――突然、軽快な音楽とともにポケットに入れておいた携帯が揺れ出した。
 僕は慌てて誰からの着信を確認した。それは見覚えのある名前だった。何度となく口にした名前だ。
「……母さん」
 僕のことを生んでくれた人。そして、僕をここへと連れて来てくれた人だ。
「どうしたの? ……うん、大丈夫。上手くやってるよ」
 僕は椅子の上から立ち上がり、部屋の窓際へと移動した。
 星が綺麗だった。
 あの赤と緑の光は飛行機のものだろうか。
 チクリ、チクリ、チクリ。
 いや、もしかしたらあれはUFOかもしれない。そんなことを思っていた。
 チクリ、チクリ、チクリ。
「え? うん……そんなことないって。もう、前みたいなことにはならないよ」
 母さんの声は不安げなもので今にもかき消えてしまう蝋燭の火のようであった。僕はその声にただただ上手く答えるしかなかった。
 僕の勝手でここに一人暮らしをさせてもらっているのだ。生活費だってかなりかかるだろう。それでも、母さんは僕に転校することを勧めた。それが――
 ――僕が幸せになるための方法だと言うのなら。
「大丈夫だよ。心配しないで……ありがとう、母さん」
 僕はそう言って一方的にその通話を切った。最後に母さんの叫ぶような声が聞こえたが無視をした。
 これ以上会話を続けていたら涙腺が崩壊してしまいそうだったのだ。もうすぐ天使も買い物を終えて帰ってくるだろう。情けない顔を見せるわけにはいかなかった。
「…………」
 僕はまた、たった一人部屋の中に取り残されてしまった。
 そして僕は今の今まで肌身離さず身につけていた腕時計を取り外した。外した瞬間、腕時計の重さがなくなった右手に酷く違和感を覚えた。
 そして、僕は右手にあるその傷を凝視した。
 手首の辺りにある歪な傷。一本の線から刺のようにいくつかの線が小さく伸びている。
 まだ、消えない。
 消えてくれと願ったってどうせ無理だ。
 僕がこの街に戻ってきた一番大きな原因。
 誰にも悟られるわけにはいかなかった。風ちゃんにも天使にも。
 天使はもしかしたらこの傷のことを知っているのかもしれない。だから、僕の元に来た。
「何がひいきしてるだよ。神様は平等じゃないか」
 僕は天使にあった当初の自分の言葉に対して苦笑した。
 天使はきっと僕のことなら何でも知っている。そんな気がした。風ちゃんに腕時計のことを訊かれたときだって天使は何も言っていなかった。天使はきっと僕のことを幸せにしてくれる。でも――
 僕は傷から目を逸らして銀の腕時計を傷を覆うようににて右手首に巻き付けた。過去の記憶を仕舞いこむように。思いださないように。
「帰ってきたら謝ろうかな」
 そんなことを僕は呟いた。このままギクシャクしたまま過ごすのは何となく嫌だったのだ。天使は僕の為にきっと一生懸命なのだ。だから、僕もそれを受け入れようと思う。
 でも――僕は幸せの形は自分で見つけるものだ。そんな背反した考えを強く思った。
 裏切るのは、僕だった。






 何故、こんなことをしているのか自分でもよく分からなかった。いや、僕には分かっていたのだ。僕は天使の忠告を無視していた。
 空は昨日とは打って変わってどんよりとした曇り空だった。雲が今にも泣き出してしまいそうな不機嫌なそれ。
 そんな天気なのにも関わらず、桜井さんは昨日と同じように全く変わらずに屋上で本を読んでいた。変わらずに殆ど同じ場所に腰掛けて背中を預けて。
 どうせ天使には反対されてしまうだろうと朝の内に手は打っておいた。僕は毎朝コンビニで昼食を買うのが日課だった。朝早く起きて料理をするのも面倒だし、かといって学校の購買に命懸けで乗り込むというのも嫌だったのだ。
 いつもならコンビニに立ち寄る所を僕はあえて立ち寄りはしなかった。考えがあったのだ。しかしそれは後ろをトコトコとついて来る彼女――天使を裏切るということになる。
 構わなかった。
 それで僕が幸せになるというのなら構わないだろう。
 天使とは昨晩仲直りした……と思う。自身はない。昨日は僕の作ったご飯をやけ食いしていたし、天使の視線に晒されていると酷く居心地が悪かった。が、今朝になってみればいつも通りの彼女であった。出会ったばかりの少し子供っぽい天使。
 彼女は僕が今朝お弁当を買い忘れたというと酷く怒っていた。そして、何かを食べるためには学食に行くしかないとも言っておいた。それを訊くと彼女は眼を見張る早さで購買へとかけていった。姿が見えないというのにどうやって買い物をするつもりなのだろうか。しかもここは学校である。制服以外の人間は嫌でも目立ってしまうというのに。
 まあ、とにもかくにもこれで僕の計画は成功した。
 誰もいないはずの昼休みの屋上に僕と桜井さん、二人の姿があった。
 桜井さんは昨日と同じように敵意のある視線を僕に向けてきた。何でまた来たんだ。昨日は散々言っておいたのに。そんな心の声が聞こえてきそうだった。だが、昨日は気が動転していたからだろうか、今日は桜井さんのことを良く見ることができているような気がする。そして――
(……震えてる)
 桜井さんは僕に敵意ある視線を向けながら、微かに、ほんの微かに震えていた。肩が僅かに動いているのが見える。
 僕に、怯えているのだろうか。
 朝、鏡で見てきた自分の顔面を僕は記憶の中で再生してみた。そんなに怯えるほど強面ではなかったはずだ。どちらかというと大人しそうな部類に入る。僕は桜井さんが怯えている理由がよく分からなかった。
「どうしたの? 何で、震えてるの?」
「……何で」
「…………」
「何で、今日もここに来たの? 昨日、私には関わらないでって言ったのに」
 桜井さんの対応は昨日と全く変わらなかった。一方的な拒絶。僕の話なんて訊こうともしない。肩は震わせながらもその瞳だけは真っすぐだった。
「あの、その……桜井さんと話たかったからだよ」
「な、何で、私の名前……」
「友達から聞いたんだよ。ちょっと気になってさ」
 突然、桜井さんの場所から激しい音がして僕は思わず視線を向けた。
 桜井さんは自分の本をその足元に落としながら勢いよく立ちあがっていた。その表情には驚きしかなかった。驚愕、その二文字が一番ふさわしいようなそんな表情。
「私に興味を持ったって、どういうこと?」
 桜井さんの髪が湿った風に吹かれて乱れる。
「何でいつも屋上にいるのかなっていう単純な疑問だよ。僕も友達、少ないしさ、だから……」
「――だから、私に関わらないでって言ってるでしょ!?」
 桜井さんは大きな声を上げてそんなことを言ってきた。僕は驚いて声が一瞬出なくなった。まさかこんな強烈に拒絶されるなんて夢にも思っていなかったし、桜井さんからそんな声が出るなんて驚きだった。
「何で私の言うこと、分かってくれないの? あなたなんか――」
 桜井さんは突然、ハッとしたようにその桜色の唇の動きを止めた。そして両肩を激しく震わせてその場にしゃがみ込んでしまう。
「桜井さんっ!?」
 僕は慌てて、桜井さんの元へと駆け寄った。殆ど反射的に身体が動いてしまった。頭の中で考えたわけではなかった。
 桜井さんの様子は尋常ではなかった。両腕で肩を抱き、その小さな身体を震わせて小さく、微かに何かを呟いていた。
「……私……今、何て言おうと……したの……?」
「桜井さん、大丈夫っ?」
 僕は一瞬、無意識の内に桜井さんの身体に触れようとしていた。が、あと数センチの所で思いとどまった。簡単に触れてはいいものではないのだ。博物館に展示されている宝石のように。誰もいない場所で佇む一本の桜の木のように。僕には桜井さんがとても尊いものに思えて仕方がなかった。
 だから、迂闊にその身体に触れられなかった。そんな美しいものを僕の手のひら何かで汚したくはなかったから。
「…………ごめんね」
 桜井さんの震えは小さな言葉と共に止まった。力強く押さえつけられていた両肩も今は解放された。僕は冷静になって桜井さんに近づけていた両手を引っ込めた。そして、多分だが今の僕は顔が赤くなっているのだろう。一気に学ランを脱ぎたいほどに体温が上がるのを感じたのだから間違いない。
 桜井さんは俯いたまま、しばらく座りこんだままだった。僕はどうしたらいいのか分からずにただただ青空を見つめるしかなかった。
「そ、そんな、桜井さんが謝ることないよ。僕が勝手に……」
 僕はその身体に残された勇気を振り絞って居心地の悪い沈黙を破った。
 桜井さんは僕の言葉を訊くとゆっくりとした動作で顔を上げた。薄い瞳が光に透けて見えた。
「違うの」
「え?」
「私、あなたと話さなくちゃいけなくなった。さっきは、その、ごめんなさい」
 それでも、その無機質な表情は変えることなく、桜井さんは僕に謝罪をしてきた。
 これは進展があった、と解釈していいのだろうか。桜井さんの表情から感情が上手く読み取れない僕は正直な所、迷っていた。
「あ、そ、そうなんだ……なら、まずは僕の名前からだね」
「あなたの名前……私、知ってるかもしれない」
「え? ホントに? 当ててみてよ」
 桜井さんは僕の言葉を訊くとその無機質な表情を崩した。不安げな瞳が僕の心の中を刺していた。
「――佐倉 希君……じゃ、ないよね?」
「あ、うん、そうそう。当たりだよ。なんで僕の名前知ってたの?」
「そうか、やっぱり、そうなんだね……」
 桜井さんは突然、その双眸を地面へと落とした。この感覚を僕は知っていた。
 あれは小学校低学年の頃だ。僕がクリスマスにサンタさんから貰ったプレゼントは少しだけ高級なバッドとグローブだった。僕は本当はテレビゲームが欲しかったのだ。昔の僕はどちらかといえばインドア派で今もそれは続いている。その時僕は思ってしまった。サンタさんは僕の気持なんか分かってくれないんだと。そんな浮かばれない気持ちに苛まれてしまった時、僕は眼の前にいる桜井さんのように双眸を布団の上へと落としたのだ。
 桜井さんの今まさにいる状態は昔の僕と酷似していた。つまるところ、僕だったから残念だったとそういうことだろうか。女の子の気持ちなんて僕には良く分からなかった。でも、直観として多分僕の感覚は当たっている。それが酷く悲しかった。
「あ……僕なんかじゃ、やっぱあれだよね、はは……」
 僕は涙を零さないように天を仰いだ。まだ涙腺は決壊していない。空の青さもまだよく見えていた。
「あ、いや、違うのっ。佐倉君がどうってことじゃなくてね、ただ……ちょっとね」と桜井さんは言った。そして、僕と立ちあがって僕と並ぶように青空を見上げた。「私、あなたのこともっと知らなくちゃいけない。そして、仲良くならなくちゃいけないの」
 桜井さんは青空を見上げながら、そんなことを言った。仲良くなるって……い、一体、どういう……。
 僕は桜井さんの言葉に浮かれていた。そして、先ほど感じていた不安感など綺麗さっぱりと忘れてしまっていいた。
「仲良くなるって……どういう……」
「――!? あ、違うのっ。仲良くなるっていうのは別に恋愛感情とかそういうことじゃなくてね、ただ友達として……」
 慌てて先ほどの言葉を否定する桜井さんが可愛らしくて僕はまた自分の体温が上がっていくことを感じた。風に乗って、桜井さんの甘い香りが鼻孔まで届いた。
 僕は思わず、笑ってしまった。
「そんなに大げさに否定しなくてもいいよ。分かってるからさ」
「なっ……もう、私のことバカにしないでよね。そんなことしたら、あなたのこと――嫌いになっちゃうからさ」
「うん、分かってるって」と僕は言った。そして、自然な動作で右腕につけられていた腕時計の時間を確認する。「もうすぐ昼休みも終わっちゃうからさ、何か食べようよ。何も食べてないんでしょ?」
「私は、いいわ。そんなにお腹空いてないし」
「そんなこと言わないでさ、ほら――」
 僕は自分でも驚くほど自然に桜井さんの右手をその手に取った。顔が高揚しているのことは決して気取られないように、自然に、自然に。
「わっ、ちょ、ちょっと」
 桜井さんが一瞬バランスを崩したが、すぐに立て直したことを僕は背中で感じ取った。もう時間は少なかったし、急ぐしかなかったのだ。
 僕は浮かれていた。
 桜井さんが放った言葉の重さにも気付かずに。
 ただただ意中の女の子と仲良くなれたということだけで。
 僕は、まだまだ子供だった。








「――ねえ」
 帰り道、いつもの夕暮れ。
 僕はいつも通りの帰り道を天使と一緒に歩いていた。茜色に染まる坂道を下れば一段落が付く。アスファルトを蹴る足が自然と早くなっていた。偶然にも周りには人影がないものだから天使もこうして普通に喋ることができる。それが、僕にとって苦痛だった。
 遠くの信号機の警告音と烏の鳴き声だけが妙に耳に残る。昼休みに桜井さんの手を取ったその右手は今もポケットの中に大事に仕舞いこんでいる。
 誰にも触れられないように。しばらくは大事にしておこうと思ったのだ。
「ちょっと、訊いてる?」
 鞄を持つ手もいつもより軽快だった。もっとも天使に悟られるわけにはいかなかったが。
 昼休みが終わって教室に戻った途端、天使の僕に対する尋問が本格的に始まった。さっきはどこに行ってたの、とか。そんな僕がまともに答えるわけもない問答。それは今も続いていた。まあ、僕は上手くかわしてはいるつもりだけれども。
「訊いてますよ。何ですか?」
「まだ、昼休みにどこに行っていたのか訊いてない」
 天使が僕の眼の前に立ちふさがるようにして回りこんできたので僕は仕方なく足を止めた。
 もう少しすれば季節は夏になる。そうなったらこの暖かな夕陽さえ鬱陶しくなるんだろうか。そんな関係の無いことを僕は考えていた。どうでもよかったのだ。天使との会話など早く終わらせて帰りたい気分である。
 天使は頬を膨らませて僕に言い寄ってきた。昨晩と比べれば天使の真剣度は少々下がるため、僕は大丈夫だろうと勝手に思い込んでいた。
「だから、昼休みは他のクラスの友達の所へ行ってたんです。あなたの知らないね」
「それはおかしいよ」
 天使はそう言い切った。あまりにも自信たっぷりな口ぶりに思わず僕は口籠ってしまった。左手の手のひらには汗をかいている。僕は思わず鞄を落とさないように強く掴んだ。
「な、何でそんなことが言えるんですか?」
「私と君は心の中で会話できるでしょ? それはよっぽどのことがない限り遮られることはないの」と天使は言った。「よっぽどのことって言うのは精神的に不安定な状態のことを言うの。例えば――女の子と一緒にいて、気持ちが高ぶっていた、とかね」
「う……」
 僕は思わず、天使から一歩距離をとった。確信をつかれてしまった。あの念話にそんな便利な嘘発見器並みの能力が備わっているなんて思ってもみなかった。
 まずいまずいまずい。
 本当に僕は針千本飲まされるのか? いや、ここは嘘をつき通すしかない。それしか僕に残された道はなかった。
「友達と一緒にいるだけで、そんなに精神的に高揚することなんてあるのかなー」
「そ、そんなのあなたには分からないじゃないですか。もしかしたら、そういうこともあり得るかもしれないし……」
「アーッ!」
 天使は突然、何かに気が付いたのかよろめいた。そして地面に倒れ込みそうになる。が、あと一歩の所で何とか踏みとどまった。そして、僕に対して言ってはいけないことを口にした。
「ど、どうしたんですか?」
「ま、まさか、君って……ホ――」
「言わせませんよ!? そんな趣味、僕にはありません」
「じゃあ何でよ。言ってみてよ」
「そ、それは……」
 くっ、やっぱりプライドを捨てて素直にそうなっておけばよかったか。命よりの大切な物なんてこの世にはないし……いや、もしも僕が学校でそんな疑いをかけられたのなら僕は素直に死を選ぶだろう。この判断は正しかったのだ。
 だが、どうする。この場を乗り切る嘘は……あれしかないか。これなら多分、自然に行けるはずだ。
 僕はそんな確信を抱きながら口を開いた。
「じょ、女子だったんですよ」
「何が」
「その友達がです」
「ふーん……」
「友達でもちょっとはそういう感情も……抱く……かもしれないでしょう?」
 天使は僕を舐めまわすように見てきた。本当なのか? 嘘なんだろ? そんな心の声が聞こえて来そうだった。
「その子の名前は?」
「え?」
「一応教えてよ。私にもその義務くらいあるでしょ? あっ、ていうか私に明日見せてよ。その女の子。私も見てみたいなー」
「そ、それは出来ません」
「何でよ?」
 苦しい嘘を続けていくしか僕にはなかった。明らかに天使は不審そうな表情を浮かべているがそれでも仕方がなかった。
「あなたのいた世界ではどうだったか分かりませんが、僕たちの世界では個人情報に嫌というほどうるさくて……」
「…………」
「興味本位であったのなら止めておいた方がいいですよ」
「風香ちゃんのことはあっさりと教えてくれたのに?」
「うっ、そ、それは……」
「はあ……」
 天使は僕がうろたえたことを見ると諦めたように、呆れたように大きくため息をついた。
「まあ、いいわ。今回はそういうことにしておいてあげる」
 僕は天使の言葉を訊いて心の中でほっとしたため息を深くついた。って、これももしかしたら訊かれているかもしれないわけで。これ以上墓穴を掘るわけにはいかない僕は何も考えないようにしようと心の中で強く思った。
「あ、そうだ。何か今無性にアイスが食べたいのよねー」
 天使は言葉と共に右手の人差し指を右方面へと向けた。僕は恐る恐るその方向へと視線を向けた。殆どゴーストタウンと化している町中に申し訳なく佇んでいる一軒のコンビニがそこにはあった。
 学校の近辺というのはコンビニの数が多い。それは僕のような帰宅途中の高校生が買い食いをしてなけなしのお小遣いを消費してくれるという魂胆があってのことだろう。
 僕はそんな甘っちょろい考えに乗るつもりはさらさらなかった。両親に無理を言って一人暮らしをさせてもらっているのだ。こんな下らないことで生活費を飛ばすわけにはいかなかったのだ。
 だが、今の会話の流れ的に天使がコンビニの方向を指さしたということはつまり、そういうことだろう。僕は心の中で全てを悟った。
「アイスが食べたいなー。でも今私、小銭がないんだよねー」
 わざとらしい天使の口調に僕は止むなく財布の紐を緩めるしかなかった。
「分かった。分かりましたよ。ほら、百二十円で足りるでしょう?」
「ハーゲンダッツがいい」
「――ッ! ああもう、分かりましたよ」
 僕は財布から五百円硬貨を取り出して天使に叩きつけるように渡した。
 天使はニヤリとまるで悪代官のような笑みを浮かべていた。
「へへ、ありがと。いやー、君はやっぱりいい人だね。全部使っちゃってもいいってことでしょ?」
「ええ、構いませんよ」
 僕は半ばやけくそになりながら天使に返答した。五百円があれば一体どんなことができただろうか。そんな後悔が頭の中で溢れていた。
「やったー、じゃあ買ってくるね」
 天使はその嫌らしい笑顔を崩さずに道路を軽い足取りで渡って行く。この時間帯になれば殆ど道を通る車もない。天使が轢かれる心配はないだろう。もっとも、今の僕に心配するような気持ちは殆どなかったが。
 天使が浮かれた様子でコンビニの中へと入って行く様子が見て取れた。僕は一本だけ仲間外れにされたように立ちすくむ街路樹に背中を預けた。
「全く、あの人は……」
 口から出てくるのは天使を叱責する言葉だけであった。まあ、元はといえば僕が苦しい嘘をつかなくてはいけない状況を生み出してしまったのが悪いのだが。
 僕はもう一度、財布の中身を確認した。そして、小さくため息をついた。我ながら五百円くらいいいじゃないか、自分はどれだけ守銭奴なんだと思うこともある。が、苦労して僕の生活費を出してくれている両親のことを思うと良心の呵責が邪魔をする。
 あの人はそんな僕の気持ちまで分かっているのだろうか。いや、分かるはずがない。僕の心の中を知っているのは僕だけなのだから。
 と、街路樹の背後から激しいバイクの騒音が鼓膜へと届いた。
 こんな田舎だ、騒音を上げながらバイクを乗り回すような輩も少なからず存在する。それだけならば僕は全く興味を抱くことはなかっただろう。
 だが、その騒音は僕の背後、街路樹を挟むようにして段々と小さくなっていった。僕は気になって街路樹の脇から顔を出し、その様子を伺った。
 僕はバイクのことは良く分からなかったので名前までは特定できなかった。が、そのメタリックな銀色のボディと大きな前後のタイヤは男心を擽る何かがあった。
 要するに格好良かったのだ。
 バイクから地上に足を下ろした人物はすらっとしていて背が高く見えた。僕より五センチくらい高いだろうか、その位。真黒なライダースジャケットとヘルメットが異様に似合っていた。その人物はヘルメットをゆっくりとはぎ取った。そして、髪を整えるようにして顔を何度か横へと振った。
 その人物は男だった。短めのツンツンとした髪に真珠のような真黒い瞳がやけに格好よく見えた。少なくとも僕よりは。
 バイクに乗った男性は僕から視線を外さなかった。僕は威圧感に似た何かを感じ、思わず一歩後ろへと下がった。
「ねえ、君は佐倉 希君、だよね?」
「な、何で、僕の名前を?」
 デジャブ。
 彼と僕が初めて交わした会話の感想を一言で表せというのならこの単語が一番相応しい。
 そう、確か天使も僕の名前を一方的に知っていたのだ。
 この人は何なんだ?
 一つはっきりとしていることは僕はこの人のことを知らない。確実にだ。そもそもこの街に戻って来てまだ日は浅いし、僕に用事がある人物なんて想像もつかない。もしかすると子供の頃の知り合いか? いや、まだ断定は出来ない。とりあえず、警戒しておくことにデメリットはなさそうだった。
「僕のこと、誰だか分かる?」
「え? い、いや、すいません、分かりません……」
「フフフ、ハハハッ」
 彼は僕の言葉を訊くと可笑しそうに、とても可笑しそうに高笑いをした。僕はわけが分からずにその場に立ち尽くすしかなかった。
「いやいや、ごめんね。そりゃそうだ。君が僕のことを知っているわけがない」
「知っているわけがないって、どういうことですか? 何で僕の名前を知っているんですか?」
「そんなにいっぺんに質問しないでくれよ。僕は聖徳太子じゃないんだからさ」
「…………最近の研究では聖徳太子は存在しないという説が有力です」
「君は物知りだね。君だったら、きっとそんな風に返してくるだろうなって思ったよ」
 彼はヘルメットをバイクの座席に置き、ガードレールを飛び越えて僕の近くまで寄ってきた。威圧感があった。僕より少し背が高いというわけではないのかもしれない。
「簡単に話そうか。僕が、桜井 栞の彼氏だって言ったら君はどうする?」
「…………へ?」
 桜井さんの……彼氏。
 この男が、彼氏……。
 僕は数刻この状況を理解するのに時間がかかってしまった。
 そして、この男の行動がそう考えるととても辻褄が合ってくるということにようやく気が付いた。
「桜井さんの……彼氏?」
「そうさ、栞がね君のことを言っていたんだよ。佐倉 希君」
「桜井さんが、僕のことを何て……」
「鬱陶しい男がいるから面倒なの、って栞は言ってたよ」
「なっ、そんな――」
 僕は思わず彼に詰め寄った。襟元を掴む勇気も無いくせに、その言葉が嘘だという確信だけを抱きながら。
 そんなことを桜井さんが言うわけがなかった。そもそも、この男が桜井さんの彼氏だという時点で怪しい。僕よりもかなり年上だし、とても桜井さんと接点があるようには思えなかった。
「栞がそんなことを言うはずないって? 何で君にそんなことが分かる? 君に栞の何が分かる?」
 その瞳は真剣そのものだった。手を出されないだけまだマシだっただろう。そんな気迫が彼にはあった。僕は言葉を出すことができなかった。
「そ、それは……」
「君が知っているのはせいぜい、桜井 栞という名前と本が好きだということぐらいだろう? 僕は栞のことなら何でも知っているんだ。今の君が知らないようなこと全部」
「――――ッ」
「だからこれは僕からの忠告だ。二度と栞に関わらないでくれ。自分の女に手を出そうとした男をこれくらいで許してやってるんだ。安いものだろ」
 男が言っていることは全てが正論だった。確かにそうだ。もし本当に桜井さんがこの男の彼女だとしたら僕が桜井さんに近づくのはお門違いというものだ。
 僕は瞬間、天使の言葉を思い出していた。
 ――もし桜井 栞に近づく気があるのなら止めておいた方がいいよ。他の誰でもない、君の為だから――
 近づくな、とはこのことをさしていたのだろうか。分からない。今の僕には何も分からなかった。
 彼はその真剣な表情を閉じて、一瞬の内に朗らかな表情へと戻っていた。僕が話を訊いて分かってくれたと思ったのだろうか。
「ふう、まあ、僕が言いたいのはそれだけだ。それじゃあ、今日はこれでね」
「……あ、あの」
「何だい?」
「本当にあなたは、桜井さんの……その、彼氏なんですか?」
「ああ、僕と栞が歳離れ過ぎてるだろって? 僕は今大学生なんだけどね、家庭教師をしていたんだ、栞の」
「家庭、教師……」
「それでね。まあ、良くない事なんだろうけど今の君には関係のないことだろう?」
 確かにそうであった。過程がどんな形であれ今の結果が全てなのだ。人生なんてそんなものである。僕はやりきれない気持ちを下唇を噛むことで押さえつけた。
「残念だったろうけど君にもすぐにいい人が見つかるさ、じゃあね」
 男は僕に名乗りもせずにヘルメットをつけ直した。耳障りなバイクの音が一面に響いていた。僕は彼の顔を見ることが出来ずに双眸を落としていた。
 これで桜井さんとの関係も終わりかと思うと悔しくて仕方がなかった。
「――ねえ」
「うわっ!」
 僕は暫く俯いていたせいか、天使が傍に立っていることにまるで気が付かなかった。
 が、天使は僕のことなど見ようともせずにただバイクが走り去って行くアスファルトを見ていた。無機質で悲しげな場所を。
「なんだ、いたんですか」
「今の人って知り合い?」
 天使は視線を動かすことなく僕にそう訊いてきた。その瞳には見覚えがあった。それは昨晩天使が見せたそれに酷く似ていた。
「い、いや、知り合いではないです」
「あれって、いや、まさかね……」
「どうしたんですか?」
 天使は考え込むように独り言をぶつぶつと喋り始めた。
「いや、何でもないわ。それで、あの人になんて言われたの?」
「そ、それは……何でもないです」
「ふ〜ん、言いたくはない、と。分かったわ」
 天使は僕の少し中途半端な答えも気にせずに踵を返した。そして、僕は天使がアイスをたった今買ってきたのだということを思い出した。
「早く帰りましょ。ハーゲンダッツが溶けちゃう」
 天使に連れられるようにして僕は家路を急いだ。天使が言っていた独り言が頭の中にこびり付いて離れなかった。
 それが、僕の最後の希望だったから。








 この石ころを、家に帰るまでに蹴り続けることができたら、自分は何か願い事を叶えることができる。
 そんなことを思える人間は幸せだと思う。そんな人はこんな風に石ころが道から外れてしまっても「今のはなし、もう一回」とかそういうことが簡単に言えてしまうのだ。
 私は少なくともそんな人間じゃなかった。
 私の神様は私自身だったから。
 私が蹴っていた石ころは思った通りに進んではくれなかった。無駄に大きくて歪な形をしていて全然私の言うことをきかない。一人では広く感じる通学路も石ころを蹴っていると酷く狭く感じられる。
 石ころが道の端へと転がって行く。私の足元にはもっと形が良くて適当な大きさの石ころが落ちていた。が、私はそんな物には目もくれず、先ほど蹴り飛ばした言うことを訊かない石ころの方へ足を伸ばした。
 この石ころが気にいったとか、そんな理由じゃない。ただ、何となくこの石ころのことが気になったから、それだけである。
 陽が落ちるのが少しだけ早くなったような気がする。季節的に言えば小冬というやつだろうか。冬になりかけの微妙な季節。隣を自転車が勢いよく駆け抜ける音がして、私は一瞬イヤホンを外した。そして、またそれを耳へとつけた。
 これでまた一人きり。
 何となく、一人になりたかった。
 スカートはもう慣れたとはいえ、若干寒かった。ジャージを下だけはくのも何だか憚れて今に至る。
 十六歳。
 もう人前で涙を流すことはなくなった。そんな微妙な年齢。そんなことにももう慣れた。
 石ころがまた道端へと進路を変える。私はまたそれを追いかける。
 つま先が少しだけ、痛かった。
 家に、帰りたくなかった。
 ――幸せって、どうやったらなれるんだろう。
 そんなことを、ふと思った。風が頬を撫でた。




 家のポストにはいつものように白い封筒があった。
 手に取ることさえ憚られてしまうような真っ白い封筒。宛先なんて、もちろん書かれてはいない。
 この封筒は私が気を使って回収しなければどんどん溜まっていく。毎日のように一通ずつ。
 私は小さくため息をつきながらその封筒をポストの中から取り出した。これで何度目のことであるかはもう覚えていない。
 差出人は母だった。
 もう辺りはすっかり暗くなっていて真っ白な封筒はほんのりと光を放っているようだった。私は微かな苛立ちを含めながら封筒を握りしめた。
 重い動作でドアノブへと手をかけた。本当はまだ家に帰りたくはなかった。家に帰れば母さんに会わなくてはいかないからだ。
 宛名を書かずにポストに投降したってまた自分の所に戻ってくるに決まっているのだ。母さんは一体何を考えているのだ。心の中ではそう思いつつも私は母のことを許している。いや、諦めているのだ。私はいつだってどこか諦めている。
「……ただいま」
 私は小さな声でそう呟いた。出来れば母には顔を合わせたくなかった。だから、少しでも母に聴こえないようにと小さな声で。
 でも、母はどんな小さな声だったとしても私の声を聞き逃さない。いや、もしかしたら私の声ではないのかもしれない。
 もしかしたら――司のものかもしれない。
 私は小さな声で言ったが、母には関係がないようだった。とことことキッチンのほうから駆けてくる足音が鼓膜へと届いた。
「あ、お帰りー」
 母のどこか気の抜けたような丸まった声がする。私はどこかやるせない気持ちになって少しだけ尖った声を母の言葉に被せた。
「……お母さん、またこんなことして。宛先書かなくちゃ家に戻ってきちゃうんだよ」
 私は母に白い封筒を向けながらそんなことを言った。そんなことを言いながらも私は母を許している。諦めている。
「ねえねえ」
 母は私の言葉を無視するかのように話を始めた。何で私の言葉を訊いてくれないのだと、私の中で苛立ちが募り始める。でも、これは思ってはいけない感情だ。私はそれを瞬時に抹消した。
「晩御飯は何がいい?」
「……もう材料は買ってあるんでしょ?」
「うん。ハンバーグとチャーハンね、意外と材料は同じだったりするのよ。で、司はどっちがいいかなって」
 心が微かに、だけど確かに揺れた。
 ――司。
「チャーハンがいい」
 私はぶっきらぼうにそう言うと母を通り越してリビングへと向かった。リビングは少しだけ寒かった。
「司、珍しいわね。いつもはハンバーグがいいって言うのに、何かあったの?」
「……別に」
 言葉数は少なく、私は母の言葉に答えた。
 テレビの上に並べられたビデオとテレビそれぞれのリモコン。少しだけどっちがどっちだか迷ったけど、間違わずにテレビのリモコンを選ぶ。私、よく間違えるんだよな、とそんなことを思いながら握ったリモコンは予想以上に冷たくて体温と溶け合うようにして私の手のひらにおさまる。ひやり、と私の体温と融合しようとする。テレビをつけると、いつもと変わらない、悩みを感じさせないバラエティ番組が流れていた。目をつむっても指でなぞれるような芸能人のつまらないやり取りがむしろ心地よかった。
 こうして私の一日が終わって、司としての夜が始まる。
「本当にチャーハンでいいの?」
「そうだよ」
 何度も同じことを確かめるので私も少し苛立つ。
 母は私の言葉を無視するかのように「ま、いつもハンバーグじゃ飽きるわね」等と付け足してチャーハンを作る準備を始める。明るい丸い声が刺のように私の耳にささる。
 司の好きなハンバーグじゃなくて、私の好きなチャーハン。
 私はソファに腰掛けながら今日のことを思い出していた。
 ――佐倉、希君。
 いつも一人でいる私に何を思ったのか話しかけてきた男の子。予想通り、だろうか。
 まさか本当に佐倉君が私に話しかけてくるなんて思ってもみなかった。ちょっとおどおどしていて頼りない男の子。
 私は佐倉君に握られた掌を見た。何も残ってはいなかった。彼の暖かさも何も。
 ――桜井さん――
 佐倉君は私のことをそう呼んでいた。当たり前だ、出会ったばかりで名前で呼ばれたりしてら何となく調子のいい人だと思ってしまう。でも――
 でも、桜井さんって誰のこと? 
 私のこと?
 それとも、司のこと?
 そんなの決まっているのに私はそんな気持ちを抱いた。もう、彼とは仲良くなるしかない。私が遠ざけたって彼は諦めたりしないだろう。何となくそう思う。だから、そうするしかないのだ。
 そして私は佐倉君に呼んでほしかった。私の名前を。栞、という名前を。
 テレビの中から零れてくる音は、やはりいつものように耳にうるさくて、嫌な気持ちになる。母が包丁を動かすトントントン、という音に夜が深まっていくリズムが重なる。ゆっくり、ゆっくり、街を食べるようにして消えていくひかり。ひかりの落ちていく音が街を夜へといざなう。「すぐに出来るからね」そんな母の言葉が私を溶かす魔法の呪文。そんな魔法を含みながら夜は深まっていく。
 胸がかき乱される。
 今日も、苦しい。







 リビングは私にとって居心地が悪すぎた。
 私は仕方なく、私の部屋へと続く階段を上る。母には勉強しなきゃいけないからと適当な嘘をついた。けど、私の部屋だって居心地がいいわけではない。どちらかといえば、という話だ。
 階段を私はあっさりと登り切って部屋のドアノブへと手をかけた。ここだけが家の中で私で、栞でいられる場所。でも――
「お帰り」
 誰もいないはずの私の部屋に一人の男がいた。いや、この人のことを私は知っていた。
 真黒なライダースジャケットに真黒な短髪。身長は平均以上だろう。少なくとも私は見上げるほどだ。彼は私の勉強机に勝手に腰を下ろして私の本を読み漁っていた。
「勝手にそこに座らないで下さい」
 私は刺のある言葉を彼に投げつける。彼はそれを殆ど気にしていないかのように笑顔を私に向けた。何となくこの表情に見覚えがあるような気がした。でも、気のせいだと私はすぐに考えるのを止めた。
「そんなにイライラしないでよ。いいじゃないか、ベッドに座るよりはさ」
「何でその二択になるんですか。座るなら床に座ってください。あなたも男性なんでしょう?」
「冷たいなー君は。僕だって色々と疲れることがあるんだよ。……まあ、君ほどじゃないけどね」
「…………」
 私は彼の言葉を無視するようにして鞄をベッドに投げつけた。それでも彼は私から視線を外さなかった。瞳の奥には私を心配するかのような、そんな光が微かに見えた。
 この人がそんなことを思うわけないと、私はその考えをすぐさま否定したが。
「今日も司ちゃんを演じたの?」
「私はそんなことしてません」
「じゃあ、何?」
「お母さんが勝手に思っているだけです。それより、そこ退いてください。私の机です」
 私は半ば強引に彼を椅子から剥がした。そして、机に突っ伏した。唯一家の中で心休まる場所が彼のせいで台無しになってしまった。無論、彼も悪気はないのだろう。顔を見れば分かった。
 彼は私の本をパタンと閉じて、こう言った。
「今日、佐倉 希と接触したね?」
「…………ええ、まあ」
「僕は忠告したのに、何で拒絶しなかったの?」
「出来ないですよ。もう、佐倉君とは仲良くなるしかないんです」
「ふーん、そっか」
 それ以降、部屋の中には暫く沈黙が流れた。私も彼も何も語らない。別にこんな空間は居心地が悪いわけじゃない。私は勉強する気にもなれず机に突っ伏したままだった。
 彼は私の彼氏でもなければ、兄でもない。
 彼は自分のことを――悪魔、だと名乗った。
 数日前のことである。
 突然、私の部屋の中に見知らぬ男――彼がいた。家には母もいた筈だし、どうやって入ったのか分からなかった。窓を壊された形跡はなかったし、泥棒か強姦だと思うのが常識的だろう。でも、私は疲れていたのだ。
 本来ならば悲鳴を上げてもおかしくないところで私は「誰ですか?」等と酷く淡々とした口調で彼にそんなことを尋ねていた。
 彼はそれを訊くと少しだけ笑ってこう言った。
 ――僕は、悪魔だ。君を幸せにしに来た――
 正直、意味が分からなかった。悪魔? 私を幸せに? そんなこと出来るわけがない。私は彼のことを追い出そうとした。冷静に、淡々と。
 だが、彼は私の抱えている心の闇をピタリと言い当てた。
 ――君は、恐れている。他人と関わることを――
 ドクン、と心臓が高鳴る音がした。そして、背筋を冷たいものが流れた。この人は知っているのだ、私のことを母のことを司のことを。私は怖くなった。悪魔だと名乗る眼の前の男が。だが、男は優しい声色でこんなことを言ってきた。
 ――君が幸せになる方法を教えてあげようか。他人と一切関わらなければいいんだ。今までもやってきたことだろうけど今からは僕が協力しよう。君はそうなって一瞬自分が不幸だと感じてしまうかもしれない。でもね、裏を返せば君は幸せなんだ。僕の言っている意味は分かるだろう?――
 意味は分かった。そして、私は半ばどうでもいいような気持ちで彼を招き入れた。私の部屋に。私を、幸せにするために。
 それから数日が経って、今はこんな状態だ。彼が昼間何をしているのか私は知らない、知りたくもない。私はあまり彼のことを好きにはなれなかった。言われなくても分かっているのだ。私は他人と関わらない。今までも、そしてこれからも。余計なお世話だ。私は彼にそう言ってやりたかった。
 彼は、悪魔は付け加えてこんなことを言ってきた。その言葉は異様に私の耳に残っていた。
 ――君は思ったはずだ。僕の助けなんか余計なお世話だってね。でも、君だけでは対処できない人間が現れる。その人間の名前はね――
 その人間の名前は――佐倉、希。男の子だと彼は言っていた。そして、私は出会ってしまった。佐倉 希君に。手に触れてしまった。
 きっと悪魔は何でも知っている。私のことも佐倉君のことも。それが何となく嫌だった。気に食わなかった。悪魔に何で私を不幸に、幸せにしようとするのか、そんな理由を訊いたことはなかった。きっと悪魔は何でも知っているからだ。
 私の部屋に悪魔の姿は不釣り合いだった。子供の頃の名残から少しだけ残る女の子らしい装飾物が悪魔のライダースジャケットと微妙なハーモニーを醸し出していた。きっと悪魔はそんなこと気にしてはいない。その証拠に今もまるで自分の部屋にいるかのように寝転がって本を読み漁っている。私の本を勝手に。
「君が佐倉 希と接触することは分かっていたよ」
「……え?」
 悪魔は床に寝転がりながら突然、そんなことを言い始めた。
「そして、こんなことになることもね。だから、先手を打っておいた」
「どういうこと?」
「今日の夕方、佐倉 希に会ってきたんだよ。釘をさしておいたからさ」
「釘をさすって一体……?」
「僕の彼女に手を出すなってね。彼は気が弱そうだったし、これで全て解決さ」
「か、彼女って、そんな勝手にっ」
 私は思わず机から立ち上がって悪魔にそんな言葉を投げかけた。そして悪魔はようやく持っていた本から視線を離した。
「不服だった?」
「不服です」
「何で? 僕じゃダメだった?」
「そういう問題じゃないでしょう!?」
 私は悪魔がニタニタと笑っていることが腹立たしくて仕方なかった。こっちは真剣に喋っているというのにまるでこちらを莫迦にしたような。苛立ちがつのる。
「意外と純情なんだね」
「余計なお世話です。佐倉君に言ったのはそれだけですか?」
「鬱陶しい男がいるから何とかしてほしいって君が言ってたっていう設定にしておいたよ。どうだい? 中々ダメージが大きそうじゃないか」
「なっ、何でそんなこと、私は――」
「私はそんな人間じゃないって? ならなんで、最初に出会った時、佐倉 希を突き放した?」
「そ、それは……」
 私は言葉が続かなくなって口籠ってしまう。悪魔は何でも知っているのだ。私のことも佐倉君のことも、何でも。だからこんなに余裕たっぷりでいられる。情報とは生きていく上で最も大切なものだ。私はそう思う。
「君はもうそうするしかないんだ。そういう人間なんだ。だから、君が僕のしたことに対して文句を言ってくるのはおかしい。それは間違っている。僕がしていることは君が望んだことなんだ」
「……そんな、私は――」
「僕だって命懸けなんだ。君に関わっているとたとえ悪魔の僕でさえどうなるか分からないからね」
 ――命、懸け。
 私はその言葉を訊いた途端、身体が強直することを感じた。そして、急速に体温が冷えていくことも。
 この人だってそうだ。たとえ、悪魔だっていったって私と関わる人は全部、全部そうだ。だから、私は――
「分かって、ます……」
「君は佐倉君と仲良くなる必要なんてないさ。君が悲しい気持ちになる必要もない。そのために僕がいるんだ。君は何も心配せずに――ずっと一人でいればいい」
 悪魔の言葉が最後に耳に届いて、私は考えることを放棄した。
 佐倉君のことも。
 お母さんのことも。
 司のことも。
 そして、眼の前にいるこの人――悪魔のことも。
 きっと課題は終わらない。そう思った。






 私の名前は司じゃない。
 私はお父さんがつけてくれた自分の名前が大好きだった。栞。栞。本の中に挟まれた栞のように誰かを導けるような人間になってほしいという思いを込めてつけられた名前。四歳くらいの時だろうか、お父さんはそう言って私の頭を撫でてくれた。猫みたいに柔らかかった私の髪の毛をくしゃくしゃと。お父さんは本当に私を愛おしそうに見てくれた。眼を細めてくれた。私を大切だと言ってくれた。私は、お父さんの眼の中に映る自分が大好きだった。
 だけど私の名前は、私の意思とは裏腹に司に変わった。忘れもしない去年のこと。柔らかくて真っ白なもの覆われた街の真ん中で私は司の仮面を被ることになった。
 お父さんとお母さんは両方とも二回目の結婚だった。良く言えば再婚、悪く言えばバツイチ。私はバツイチという言葉が好きではなかったけれど、これが一番分かりやすいから使う。お母さんは数年前に前の夫と別れていた。
 私のお母さんは私を出産したときに出血多量で死んでしまったらしい。だから、私は私の本当のお母さんを見たことがない。もしかしたら、私は捨て子だったのかもしれない。お母さんを見たことがないのだからその可能性はあり得る。けれど、私はそんなことあまり気にはしなかった。私は大のお父さんっ子だったし、お父さんがいればそれでよかった。
 私はたまに「お母さんが欲しい」なんて言ってお父さんを困らせた。その時のお父さんの表情は忘れられない。
 初めてレストランで今のお母さんと会った時、私は再婚を確信した。お母さんを見るお父さんの眼が本当に大切なものをみるように輝いて見えた。私を見るような、そんな視線。愛おしげにやわらかく、目尻にしわが寄る。
 お父さんの澄んだ瞳に映るお母さんは、やっぱり綺麗に見えた。
 私はこの人のことをお母さんと呼ぼうと思った。お父さんが愛おしいと思っているのなら私も愛おしい。お父さんの為にもこの人を好きにならなくてはいけなかった。
 そして、当然のようにお母さんにも連れ子がいた。
 それが、司。
 私より二つ年下の小さな女の子。私の妹。私に似ていてどちらかといえば内気な子だった。外で遊ぶよりも部屋の中で本を読んだり、絵を描いたりすることが好きな、そんな子。頭もよかった。テストではいつも百点に近い点数を取ってくるし、私も負けてられないな、なんてそんなことを思った。
 最初はそれでよかった。お母さんが連れてきた小さな女の子が私の初めての妹。嬉しくもあり、気恥ずかしくもあった。最初は、よかった。
 お父さんはやっぱり優しかった。実の子である私にも義理の子である司にも、平等に愛情を注いでくれているのが良く分かった。だけど、お母さんは違った。いや、違ったと思っているのは私だけかもしれない。けれど、私にはうっすらと、ほんのりと、だけど確かに感じることができた。私は司と平等に愛されてはいない。心のどこかで諦めてはいても、私はその反対側で許し切れてなかったのだと思う。
 きっかけは何であったのか、私は思い出せない。きっと色々なことが積み重なってしまったのだ。幼い私が思った汚く歪な感情。
 ――司ばかりが母さんに愛されている。
 そんなことを思ってしまった。私はお母さんのことを愛しているのにお母さんはそれに答えてはくれないのだ。
 嫉妬。
 私も心の底からお母さんに愛されたかった。もしかしたらお母さんは私も司も平等に愛してくれていたのかもしれない。だが、問題は私がどう思ったか、である。
 あの時も、あの時も、あの時も、あの時も、あの時も、あの時も――いつだってお母さんは司のことを優先させていた。
 そして、私はいつしかこんなことを思うようになってしまった。
 
 ――お母さんなんか大嫌い――
 
 心の底から思っていたわけではなかった。だけど確かに、心の片隅にそんな感情が芽生えていた。それがいけなかった。私は今になってもそれを酷く後悔している。
 でもきっと、お母さんの眼に私は映っていなかった。
 その頃からだろうか、お父さんが私に気を使うようになったのは。食事の中で司のいい話題が始まるとお父さんは心なしか無言になった。そして、チラチラと私の視線を伺っていた。今ならその意味が分かる。「大丈夫だからな」なんて思っていたのかもしれない。
 あの日もそうだった。司とお父さんが二人で出掛けて行く時、お父さんは私に手招きをして耳元でこう囁いた。
 ――お母さんは栞のこと、大好きなんだからな――
 私はその瞬間、涙が瞳から零れそうになった。今まで溜まっていたものが全部吐き出されていくようなそんな感覚が身体の中を巡っていった。私はその時何故か気丈であった。多分、お母さんに泣き顔を見せるのはどこか嫌だったのだ。
 もし、あの時泣き出していたりしたらお出かけは中止されてあんなことにはならなかったかもしれないのに。私は、後悔している。
 お母さんが「気をつけてね」なんていうのをお父さんが「大丈夫だよ」と軽く返していたのを私の耳は微かに捕えていた。
 それは現実となった。
 無免許運転だったそうだ。さらに、酒も入っていたらしい。その車は、事故を起こさないようにと慎重に運転していたお父さんの車に躊躇いなく衝突した。あっけなかった。すべて吹っ飛んだ。誰も助からなかった。馬鹿みたいな若者たちも、お父さんも、司も。司の胸には私がプレゼントしたペンダントがかかっていた。その中に入っていた写真は歪にひび割れていた。




 お母さんは壊れた。突然だった。
 私のことを忘れた。栞を忘れて、私のことを司と呼ぶようになった。
 私の司はここにいるもんね。お父さんと栞はどこに行っちゃったんだろうね。車で出かけたっきりだね。どこかに逃げてしまったのかな。全然帰ってこないもんね。どうしかのかなぁ? 司はどう思う?
 司はどう思う?
 司はどう思う?
 医師が言うには多大な精神ショックによる現象なのだという。自分の都合のいいように脳の中で事実を置き換えてしまう、精神のコントロールが苦手な人に良く見られる現象なのだと言う。私は、窓の外の青空を見つめながら、お父さんの最後の笑顔と「お母さん、ちょっと脆いところがあるから、な」という優しく低い声を思い出していた。治るんですか? という私の問いかけに、医師はひとこと、「難しいでしょう」とだけ答えた。私はその時不思議と落ち着いていた。
 今、廊下で待っているお母さんは誰のことを待っているんだろう。
 司だ。
 私は置き換えられた。お母さんによって、私と司は置き換えられたんだ。お母さんの中で「消えて欲しくない人物」は司で「その人物の変わりに消えてもいい人物」は私だった。
 私は「夫の連れ子」。
 寂しかったけれど、私にとってはもうお母さんだけが唯一の家族だった。お母さんにとってたった一人の家族が司でも私にとっては、たった一人の――
「大丈夫ですか?」
 医師の言葉で私は我に返った。大丈夫です、ありがとうございました、と医師に礼を言い、放心状態で廊下にいたお母さんの元へ私は走った。
「お母さん」
「どうしたの司……母さん、どこかおかしいの?」
「そんなことないよ、大丈夫だから」
 私はそう言って笑った。今度こそはちゃんと笑えていたはずだった。
 お母さんは陽射しを思い切り吸い込んで、ふっくらと膨らんだ布団のような笑顔で言った。
「お父さんと栞のことは思い出にとっといて、二人で強く生きようね」
 私はお母さんが死ぬまで司として生きていこうと思った。お母さんの顔を見る度にお父さんの顔を思い出す。お父さんのやさしく揺らぐ瞳の泉にうるうると愛しさの象徴として映っていたお母さん。大切にしなければいけないと私は思った。どんな形であれ、私がこの人にとっての最後の家族なのだ。
 私は一人、心の中で思っていた。きっとお母さんを不幸にしたのは私だ、と。私が心の中でお母さんのことを嫌いだ、なんて思ってしまったからお母さんは不幸になった。
 思い当たる節はいくつかあった。幼稚園の頃、私を苛めていた男の子が事故に合って右足を骨折したということがあった。その他にもいくつか。私はお母さんのことから確信した。
 ――きっと私が嫌いになった人間は不幸になってしまうんだ。
 確証に近い恐怖。私はそんな物を覚えた。だから、私は誰とも触れあわなくていいのだ。お母さんの二の舞には誰もさせない。
 たとえ、佐倉君であっても。
 でも、佐倉君とはもう手を繋いでしまった。触れあってしまった。私は佐倉君が不幸になるのが怖かった。
 私は悪魔の言葉に安心していたのだ。これで、佐倉君と言葉を交わすこともない。
 漆黒に染まっていく空の中で私はそんなことを思った。








 昨日の夜は上手く寝付けなかった。桜井さんのことで色々思う所があったからだ。彼氏と名乗った真黒なライダースジャケットを身に纏った男。多分、僕なんかよりずっと格好良かった。桜井さんにはお似合いだ。否定したい気持ちが先行しつつも僕は心のどこかでそれを受け入れていたのかもしれない。
 元々無理な話だったのだ。僕なんかでは、きっと桜井さんに釣り合わない。そんな微かな思いがシャボン玉のように心の中で膨らんでいった。ゆっくりと、ゆっくりと。
 天使はそんな僕の気持などまるで構う様子もなく、僕から半ば強制的に取り上げたお金で買ったハーゲンダッツを味わうように口の中へと運んでいた。まあ、天使にしてみれば理想的な展開なのかもしれない。僕と桜井さんを接触させないように色々なことを試みてきた。そして、桜井さんに彼氏らしき人物が現れたのだ。これ以上僕が入り込む余地はないだろう。あの時も思ったがもしかして天使は桜井さんに彼氏がいたということを知っていたのかもじれない。いや、きっとそうだ。
 だから、僕が桜井さんに近づこうとするのを妨害した。僕が桜井さんに彼氏がいることをしって傷つかないように、僕が不幸にならないように。
『あの、ちょっといいですか?』
 いつも通りの朝の通学路。変わり映えしない普通の道。金曜日だからといって変わらない。そんな道と空がいつまでも続いているように見える。多分、僕の気のせいだ。こんな小さな町である。きっとどこかに果てはあるのだ。
 天使は僕の横を静かに歩いていた。僕以外には誰にも見えない彼女。もし、皆に見えたとしてもその小ささからもしかしたら見落としてしまうかもしれない。そんな体躯が僕の横にあった。
『ん? 何?』
『あなたはもしかして、桜井さんにその……彼氏がいたことを知っていたんですか?』
 僕は空気を震わせることなく、天使に尋ねた。
『それがどういう意味を持つの?』
『いや、もし知っていたとしたら僕が傷つかないように桜井さんに……って思ったんですよ』
『ふ〜ん……』
 天使は両手を頭の後ろで組みながら僕の話を聞いていた。何となくどうでもよさそうな表情である。
『別に、そんなの知らなかったよ』
『え? そうなんですか?』
『私は別にそこまでいい人……いや、いい天使じゃないからさ。君が傷つかないようにまでは私には無理だよ。君の気持は君にしか分からないんだからね』
『じゃあ何で、僕と桜井さんが接触するのをそこまで避けようとするんですか?』
 天使は一つ溜息をついて、僕の質問に答える。
『だから何度も言ってるでしょ? それは言えないの。私の目的の為にね。でも、いいじゃない。結局君は桜井 栞に近づけない。何故ならば彼女には彼氏がいるから。私の見立てでは君は人の彼女を寝取るような度胸まではなさそうだしね』
『そ、それは……』
『そうでしょう? なら、いいじゃない。私も君も幸せなんだからさ……』
 天使はその言葉を言い終わった後、一瞬だけ寂しげな表情を浮かべていることを僕は見逃さなかった。笑顔の合間に見えたその表情。僕はそれに気づいて足を止めそうになった。
 だが、それは出来ない。天使に気づかれるのは何故か僕を不安にさせた。理由は分からない。
『――ねえ』
『へ? な、何ですか?』
 突然天使が言葉を発してきたので僕は驚いた。天使の表情は向日葵のような笑顔だった。
『ジョン・タイターって名前、聞いたことある?』
『ジョン・タイターですか? 一応、ネットや本で見たことはありますけど』
 ジョン・タイター。名前とその話を訊いて僕も一時期興味を持ったことのある題材だ。
 何でも彼は未来人なのだと言う。、二千三十六年からやってきたタイムトラベラーを自称して複数の掲示板やチャットでのやりとりを通じて、タイムトラベルの理論や自身のいた未来に関する状況、未来人である証拠などを提示していった。その時は話題になったが、結局彼の未来予知は当たらずにその熱も冷めていったのだ。
『何であなたがタイターのことを?』
『私だって人間界に下りてくるんだもん、その位のことは知ってるよ』
 その位のことって、結構マニアックな話題だと思うのは僕だけだろうか。そんな突っ込みは心の中に仕舞っておくことにした。
『タイターのいっていたタイムトラベルの理論はさ、結構現代の物理学的に言っても不備はないような内容なんだよね』
『ブラックホールの中心にある特異点を裸にして事象の地平線を超える。そうすることによって過去へのタイムトラベルを可能にする。確かそんな感じでしたよね。僕の知識が間違っていなければですけど。でも、タイターの理論はちょっと極論すぎる。まず、ミニブラックホールを安定して作りだすなんてことは無理そうだし。それに座標指定だって膨大な計算が必要なはずです。って僕は思いますけどね』
『君はやっぱり物知りなんだね。タイターの予言では世界はもっと荒れたものになるはずだった。二千年問題が起きて、アメリカでは内戦が始まる。それがきっかけとなって核戦争が勃発する。それが彼の予言した未来』
『でも、それは現実にはならなかった。だから僕はタイターに興味を失ったんです。ノストラダムスと一緒じゃないですか。一部の信者たちが持ち上げるだけで、結局は現実にはならない』
『そうだね、でもそれはちょっと違うと思う』
『何がですか?』
『タイターも言っていたことだけど、この世界はいくつもの別の世界が並列して存在している。いわゆるパラレルワールド理論だね。その世界の中にはタイターの予言した未来通りの世界が存在するかもしれない。核戦争が起きる大きな要因として二千年問題があるってタイターは言ってた。でも、二千年問題は起きなかった。起きてもおかしくなかったのに』
『それは詭弁ですよ。僕たちには目に見えているものしか見えない。タイターの話、僕は信じていませんから』
『――でもさ』
 僕は何気なく天使のほうに視線を預けた。その言葉には何か強い力を感じたからだ。彼女が天使だからだろうか、それは分からなかったが。
『もしかしたら別の世界もあるかもしれないってこと。君が桜井 栞と結ばれてしまう世界もあるかもしれないし、その逆もある。そして――君が幸せになれる世界もあるかもしれないってこと』
『……どういうことですか?』
 僕は思わず首を傾げた。
『私はそのために来たってことよ。君が桜井 栞と結ばれる世界じゃなくて別の――君が幸せになる世界を作るために私は来たの。だから、私の言うことを訊いて、ね?』
 天使は可愛らしく首をかしげながら僕にそんなことを訴えかけてきた。普段ならば無視をしてしまうようなその仕草も今の言葉の重さではそうすることは憚られた。
『……分かりましたよ』
『本当に、お願いね』
 天使の言葉を最後にして僕たちの会話は途切れた。ここのところ雨が降る機会が少ないような気がする。僕にとってはありがたいことだった。
 空は、こんなにも青かった。








 屋上へと続く金属製の扉を力いっぱい押すことで開け放つ。その先に待っているのは無数の雲と青空と、一人の少女だった。
 結局僕はここに来てしまった。天使の言葉を無視して、裏切って。
 自分でも天使に申し訳ない気持ちで一杯だった。裏切るというのは僕の心の許容範囲に収まらないようなそんな不安な気持ちを狩りたてる。でも、僕はこうするしかないのだ。
 だって、まだ諦めきれないのだ。寝取るとかそういった言葉になってしまうのかもしれないけれど、僕は桜井さんのことが好きだった。もしかすれば、あの彼氏と名乗る男は偽物だったのかもしれない。その可能性だって大いにある。あり得る。
 僕の中ではそうに違いなんて、現実的ではない考えが広がっていた。それは多分、僕が桜井さんのことを好きだからなのだろう。きっとそうに違いない。
「……佐倉、君?」
 桜井さんは僕が屋上に現れたことに気が付くといつものように読んでいた本をパタンと閉じた。栞を挟むこともなく。
 桜井さんの表情は驚きで満ちているようだった。それがまた僕を不安にさせた。
 昨日彼氏が釘をさしておいたのに、何でこの人はまた屋上に来たの?
 そんな桜井さんの心の声が聞こえて来そうだった。僕は不安を押し殺して言葉を紡いでいく。
「あのさ、いい天気だね……」
「うん……そうね」
 言葉が上手く続かなかった。僕が言いたいことはそうではないのに上手く口が回ってくれなかった。天使が僕に度胸がない等と言っていたことを思い出す。
 その天使はというと昨日と同じように購買へとパンを買いに行っていた。僕は二度もそんな小細工が通用すると思ってはいなかっただけに内心驚いていた。
 同時に天使の言葉に対して僕はこんなことを思った。僕は度胸がないわけじゃないんだ、と。
「えっと、その……」
「何?」
 桜井さんはフェンスの傍に腰掛けながら僕の言葉を待っていた。僕は勇気を振り絞って言葉を紡ぎ出す。
「桜井さんには……彼氏とかいるのかな……って」
「――! 彼氏って……」
 桜井さんは一瞬驚いたような表情を見せ、そして考え込むように双眸を落とした。僕は生きた心地がしなかった。もし、この答えに桜井さんがいると答えたら――そんな考えが過ぎるのをなんとか頭の中で整理することで一杯一杯だった。
 桜井さんはしばらく、僕にとっては永遠のような時が過ぎた後、その桜色の唇を開いた。
「…………そんなのいないわ。佐倉君の思い違いじゃないかしら」
「え? いないって……」
 僕はその後口にしそうになった言葉を無理やり喉の奥へと押し込んだ。余計な事は言わない方がいい。何となくそう思ったのだ。
「あ、ああ、そうなんだ。そうだよね、ごめんね、変なこと聞いて」
「ううん……別に構わないわ」
 桜井さんに彼氏はいなかった。僕の望んだとおりに物事が進んでいく。僕は嬉しい気持ちで満たされていた。そして、僕はまた忘れていたのだ。天使を裏切っていたことを、天使の言葉を。
 桜井さんは風に吹かれる髪の毛を右手で押さえつけた。その姿はとても可憐だった。少なくとも僕にはそう見えた。そして、僕は彼女のことがとても愛しかった。
「えっと、今日もお昼ご飯まだ食べてないんでしょ?」
「え、ええ、まあ……」
「じゃあさ、一緒に――」
 ――バタン、と僕の言葉を掻き消すように屋上の扉が勢いよく開かれた。
 僕は反射的にその方向へと振り向いた。この屋上に来る人間なんて僕と桜井さん以外にはいないはずだ。僕も転校してきたばかりなので確証はないが、そう言いきれるほどこの屋上には人の匂いがしないのだ。
 こんな所にくる人間なんて僕たち以外にいるわけが――」
「なっ――!」
「……? どうしたの?」
「い、いや、何でもないよ」
 そこに立っていたのは僕が知る存在だった。確かに屋上にくる人間なんて僕と桜井さん以外には存在しない。でも――でも屋上にくる天使ならば僕はその存在を知っていた。
 天使は怒りを通り越して冷静になったような、そんな形相を浮かべながらドアの向こう側に立ち尽くしていた。僕は思わず声を出してしまいそうになった。が、冷静に考えてみれば天使は僕以外には見えないのだ。桜井さんに存在を知られるのは色々と不味いだろう。ここは僕が何とかやり過ごさなくてはいけない。そう思った。
「あの人、佐倉君の知り合い?」
「え? な、何で!?」
「OGか何かかな、学校なのに私服だし」
「あ、あの人が見えるの?」
「……? 佐倉君、何言ってるの? 見えるに決まってるじゃない」
 一体どういうことなのか僕には理解できなかった。桜井さんだけ天使が見える能力がある? いやいや、前にも天使は屋上に来ていた。その時に桜井さんも天使を見るチャンスはあったはずだ。その可能性はあり得ない。
 だとすれば、この状況を説明できる一番論理的な結論は――天使が自分の意志で桜井さんに自分の姿を見せている、ということだろう。
 それが何を意味するのかは僕には分からなかった。
 天使はその怒りを秘めた形相を崩さずに僕たちの方向へ歩き出してきた。心なしかその足音も力強く響いてくる。
「あの人、やっぱり佐倉君の知り合いじゃないかな。こっちに近づいてくるし」
「…………」
 僕は恐怖で言葉が出なかった。天使のことを裏切ったという事実が僕を責めていた。そして、天使が桜井さんに自分の姿を晒して何をするつもりなのか、不安だけが募っていく。
 天使は僕たちの近くで立ち止るとその両手を腰に当てて、語りだす。
「あなた、希の何なの?」
「え、私ですか?」
 天使は以外にも桜井さんへと言葉を投げかけた。僕はそれをただただ見守る他なかった。
 それよりも、初めて呼ばれた気がする。希、という名前で。
「いや、私は別に……」
「希は――私の彼氏だから」
「………………は?」
 ……こいつ、何を言っているんだ? 僕の彼女って一体どういう……。
「――――!」
 その瞬間、僕は天使の考えていそうなことを理解した。つまり、つまり天使は僕の彼女だと言って桜井さんと僕の関係性を断とうと、そういうことだろうか。そうに違いない。
「佐倉君……本当なの?」
 桜井さんが僕の瞳を見ながらそんなことを尋ねてくる。その表情はどこか悲しげだった。
「い、いや、そんなこ――」
「あなた、希は私の彼氏なんだからちょっかい出さないでくれる? 希、行きましょう」
 天使は強引に僕の左腕を掴んだ。それはもう強い力で。この小さな体のどこにそんな力があったと言うのか。
「な、ちょ、ちょっと」
 僕は天使に引きずられ桜井さんの傍から引き離された。桜井さんは何も口にせずにただただ茫然と、悲しそうな表情で座りこんでいた。
「ちょっと、待って下さいっ」
「…………」
 天使は僕の言葉には一切答えようとしなかった。僕は天使の顔を見ることができなかった。彼女がどんな表情をしているのか、僕には分からなかった。罪悪感が僕の心を引きずっていた。だから、僕は天使の腕を無理やりに引きはがすなんてことはできなくて、ずるずると扉の外まで引きずられてしまった。
「あの、一体どういう……」
「私との約束、守ってくれなかったね」
「――――! そ、それは……」
 誰もいない屋上へと続く踊り場で、天使は僕に背を向けたままそんなことを呟いた。僕は何も言い返すことができなかった。天使の声色は淡々としていて、悲しそうで僕はどうしたらいいのか分からなかった。
「別にいいよ。これも、分かっていたことだからさ」
「…………」
「もうこれで大丈夫。君が桜井 栞に接触することはもう、ない。そうでしょう?」と天使は言った。「私が言っていることは全部本当のことなの。だから、私を信じて」
 僕が返答に困っていると天使は我関せずと言った様子で歩き出した。小さな背中が天使の今の感情を物語っていた。
 僕はただ、茫然とその場に立ち尽くすしかなかった。







 天使はあの後、教室には戻ってこなかった。日が陰って時間が放課後になっても彼女は姿を見せなかった。どこに行ってしまったのか、そんな不安で授業なんてまるで集中することができなかった。家にもう帰ってしまったのだろう。そんな楽観的な考えは浮かんですぐに消えた。
 天使がもしいなくなってしまったらと思うと胸が張り裂けそうだった。僕を幸せにすることが困難になったから元いた場所へと帰ってしまったのかもしれない。その可能性だって大いにある。僕が大人しく天使の言うことに従っていればこんなことにはならなかったのかもしれない。
 後悔しかなかった。
 たった数日、いや、数週間だろうか。もうそんな時間的なことは忘れてしまった。でも、僕は確かに天使がいなくなってしまったら酷く寂しいと思った。
 もし、天使が戻ってこなかったら僕は――
「希、大丈夫?」
 僕の机の前に立っていた風ちゃんの声で我に返った。いつの間にか皆帰る準備を始めている。どうやら僕の気づかぬ間に七時間目の授業が終わってしまったようだ。
 風ちゃんは心配そうに僕の瞳を見ていた。
「何か、考え事してたの?」
「あ、ああ、うん、大丈夫だよ。何でもないから」
「そう……なの?」
 僕が何と言ったところで風ちゃんの不安な気持ちは晴れないだろう。そう思った。それでも僕は風ちゃんに言うことはできなかった。天使のこととか、僕のこととか。
 きっと僕が弱いせいだ。他人に喋ることがまだ怖いんだと思う。たとえ、それが風ちゃんでも。
「うん。今日も勉強見てくれるんでしょ? さあ、行こうよ」
「あ、う、うん」
 僕が風ちゃんの手を取ろうとした途端に教室がざわめき出した。別に僕ら二人のことを見て、というわけではない。教室にいる皆の視線は何故か窓の外、多分校門の方向を向いていた。
「おい、あれ見ろよ」
「あれってどこのクラスのやつだ?」
「あれじゃない? 桜井さん、桜井 栞さん」
「――――!」
 僕は思わず、覗き込むように窓の外を見渡した。校門の方向を重点的に。風ちゃんも後から追うように視線を向けてくることを背中で感じた。
 桜井さんが、
 桜井さんが、バイクに乗ろうとしていた。
 一人ならばまだよかっただろう。
 前の席に真黒な男を乗せて、桜井さんはどこかへ走り去ってしまった。
 僕はただ、茫然とそれを眺めていた。何もすることも出来ずに、ただ口を開けたまま。
「あれって、彼氏じゃない?」
「やっぱ桜井さんってそういう感じだったんだね」
「あんまり友達いないのもそのせいかな」
 左隣にいる女子の声が何となく頭の中に入ってきた。そう考えるのが自然だろう。多分、僕も他人事だったらそう思うに違いない。
「あれって、桜井さんだよね。そう言えば希、桜井さんのこと私に訊いたことあったよね」
 風ちゃんが僕に話しかけてくる。感覚はある。でも、頭の中で僕はまだ上手く整理がついていなかった。
 桜井さんの言葉は嘘だったのか。
 彼氏がいないと言ったのは僕を傷つけないためか。
 そんなことを思うと悔しさと絶望感しか溢れてはこなかった。
 風ちゃんの言葉に何と答えればよいのか、分からなかった。
「あれってどんな意味があったの?」
「…………ごめん」
「え?」
「やっぱり、今日は僕帰るよ」
「ちょ、帰るって勉強は?」
「またいつかお願いするからさ。ごめんね、風ちゃん」
「希……」
 足取りも重く、僕は机から立ち上がった。
 風ちゃんの最後の言葉がやけに耳に残った。
 何だろう、この嫌な気持ちは。
 振られた時の悲しみというやつだろうか。それとも、桜井さんに嘘をつかれたという悲しみか。
 どっちにしろ同じことだった。
 天使のことなんて考えに及ばない程、僕は精神が衰弱しきっていた。きっと、天使は家に帰っているはずだ。そんな甘い考えを抱きながら僕は家路を急ぐ。








 一人で帰り道を歩くのは久しぶりだ。そんなことを思った。最近は、天使が来てから僕は一人でいることが少なくなったように思う。学校へ行くときも、学校の中にいる内も、学校から帰るときも。帰って家の中でゆったりとしているときでさえそうだ。僕はいつも天使と一緒にいた。四六時中、というほどではないが、殆ど。
 足音と時たま左の道路を走り抜ける自動車の音しか聴こえてはこなかった。僕は俯き、地面を眺めていた。そう言えば、天使はいつも空を眺めていた。僕といる時も暇さえあれば。僕は故郷が懐かしくなったのかな、なんて軽く考えていたけれど今思えばその仕草も懐かしかった。思えば、桜井さんだってそうだ。僕といる時も空を眺めていた。その小さな体躯で自分よりも何倍も大きな青空を。
 僕なんかは地面を見ている方がお似合いに違いない。そう思った。天使や桜井さんよりも大きいくせに地べたばかりを見つめている。そんな自分が嫌になった。天使の気持ちも考えないで勝手な行動ばかりをしている自分が。
「何やってんだよ、僕は……」
 独り言を呟いた。
 自分自身がよく分からなかった。
 桜井さんのことが好きなのは本当だ。何でかと聞かれれば上手く答えることができないけれど、それでも好きだった。
 それでも、それで天使に迷惑をかけてしまうのなら。そう思うことも少なくなかった。今更、こんなことになるのなら辞めておけばよかったなんて後悔ばかりが募る。
 もしも、もしも天使が家にいなかったら僕はどうすればいいのだろう。桜井さんと関わらなくなれば天使は戻ってくるのだろうか。いや、それは危うい考え方だ。もう手遅れなのかもしれない。彼女は、天使は僕を幸せにするという任務を果たすことが出来ずにあちらの世界へと帰ってしまった。そんな最悪の場合を考えると全身に鳥肌が走った。
「何で、僕は……」
 アスファルトの上に僕の涙が零れ落ちそうになる。とうの昔に枯れ果てたはずのものが今更になって込み上げてくる。
 天使にもう一度だけ顔を見せて欲しかった。一度だけでよかった。もう、後悔するのは沢山だった。
「…………ん? なんだ、あれ?」
 視界の端の端。道路を挟んで向こう側の歩道に二人の人影が見えた。僕は何となく気になって視線をそちらへと向ける。
 ちょうどよく、その二人は街灯の真下にいたので姿形まではよく見えた。一人は男、僕と同じ学ランを着ていることから同じ学校の誰かだろう。そしてもう一人は女の子。その女の子に僕は見覚えがあった。忘れるはずもなかった。
「桜井、さん……?」
 暗くてよくは見えないが桜井さんのことだけははっきりと分かった。身長とか顔の形とか薄暗くたって僕には分かった。
 二人はただ突っ立っているというわけではなかった。車道を走り抜ける車の音が邪魔をして上手く聞き取れない。が、見る限り二人は何か口論をしているようだった。
 あの真黒な男はどこに行ったのか。桜井さんは今日、あの黒服と一緒に帰宅の途についたはずだ。当然、今の状況でも一緒にいなければおかしい。なのに、何故あの男は桜井さんの傍にいないんだ。
「どういうことだよ……」
 僕がどうしたらいいのか迷っている内に事態は進行していった。学ランの男が何かを叫んだと同時に桜井さんの手を強引に掴んだ。
「――――ッ!」
 僕はそれを見ると反射的にガードレールを飛び越えた。視界には桜井さんしか映ってはいなかった。左右から車のクラクションがうるさく鳴り響く。が、今の僕には届かない。
 桜井さんを助けたかった。天使一人、どうにもできない僕だけど、それでも桜井さんのことだけは――助けたかった。
「…………いやっ! 離して!」
 二人の口論の音が聞き取れるほどの距離まで僕は近づいていた。桜井さんに声をかけるのが先か、それとも早く近づいてあの男をどうにかするのが先か、僕は寸前まで迷っていた。だから桜井さんに声がかけられなかった。
 それが、僕の大きな失敗だった。
「いいだろ、いい加減大人しくしろよっ」
「……あなたなんか――大ッ嫌い!」
「――――ッ! 桜井さ――」
 僕が桜井さんたちがいる方向のガードレールに足をかけた時、事態は急変した。
 僕が声をかけようとした瞬間、桜井さんは学ランの男を突き飛ばした。男は桜井さんの力を侮っていたのか、面白いように後ろへと飛んだ。そして、その衝撃でガードレールを上半身からまるでプールに飛び込むかのように乗り越えた。
 ――まるで壊れたマリオネットのように男の身体は宙へと飛び跳ねた。
 僕は一瞬自分の眼が信じられなかった。人はこんなに簡単に吹き飛ばされてしまうものなのかと自分の常識を疑った。
 男は数メートル離れた所まで飛ばされてピクリとも動かなくなった。僕はただ唖然とその光景を受け入れるしかなかった。
「な……なんで……わ、私……また……――ッ」
 桜井さんがその場に崩れ落ちる様を僕は視界の端で捕えていた。顔を両手で覆うようにして桜井さんはアスファルトの上へしゃがみ込んでしまった。
 僕なんかに何が出来るのかは分からなかった。でも、ここで桜井さんを一人にしておいてはいけない。そのことだけは感覚で分かった。
「桜井さ――――」
「――おっと、そこまでだ」
 僕の眼の前にどこからともなく、背の高い男が現れた。黒いライダースジャケットを身に纏った、忘れるはずもない、桜井さんの彼氏だと名乗ったあのバイクの男だった。
 僕は仕方なく足を止め、見上げるように男の表情を伺った。
 笑っていた。
 こんな状況になったのにも関わらず、男は笑っていた。僕はそれがどうしても許せなかった。
「そこをどけっ! 今、桜井さんを一人にさせるのは危険だっ!」
「何故、君にそんなことが分かる? 君に栞の何が分かる?」
「――――ッ。お前、ふざけるなッ!」
 僕は右の拳を男の顔面へと放った。本気で人を殴りたいなんて思ったのはこれで二度目だった。僕は渾身の力を込めたつもりだった。
 だが、そんなものはこの男にあっさりと止められてしまった。まるで野球の球を捕るかのようにガッチリと僕の右手は男の掌におさまった。
「そんな力で栞を守れるのか? いや、君は何も守れない。何も救えやしないんだ」
「……黙れ……!」
 僕は力を振り絞った。何とか手を振りほどこうとしたのだ。でも、離れない。この男の力は想像以上のものだった。
 桜井さんを助けられない悔しさとか、この男に負ける悔しさとか、色々なものが込み上げて涙が一筋僕の瞳から零れ落ちた。
 桜井さんはまだ、僕たちの存在に気づかずに地面にしゃがみ込んでいる。
「お前、何なんだよ。桜井さんの彼氏だったら、あの子の傍にいろよっ! 何泣かせてんだよっ!」
「ああ、君はそう名乗っていたんだね。栞の彼氏だって」
「いい加減に、まずはそのうすら笑いを止めろよ!」
 僕は空いている左の拳を男の顔面をめがけて放った。今度こそ、今度こそ一発こいつを殴り飛ばしてやる。そんな思いが溢れて僕は冷静になれなかった。
「血の気が多いな」
「なっ――ぐっ!」
 単純なものだった。男は僕の左の拳に合わせてカウンタークロスを放ってきた。冷静になれば予想できたものを、僕は避けることが出来ずにぞの場でよろめいた。
「ほら、まだやるのか?」
「こ、この――」
「――止めなさい!」
 僕たち二人を制止する声が背後から轟いた。聞き覚えのある声だった。
 僕はその声に反応して背後へと振り向いた。そこにいたのは予想通りの人物だった。
「あ、何でこんなところに……」
 そこにいたのは、天使だった。
 暗闇から突然現れるように、天使は僕たちの元へと歩み寄ってくる。花柄のワンピースも大きめのカーディガンも出会った時と何一つ変わってはいなかった。
「……やっぱりね、君もここに来てるかもしれない、なんて薄々思ってはいたよ。そんなことはないって信じたかったけど、無駄だったようだね」
 男は僕ではなく天使に向けてそう言った。この男には天使が見えているのか? 何でだ。色々な可能性が僕の中で渦巻いた。この場を収めるため? 天使の身体は見た目の通りか弱い。交渉が通じないような場でそんな暴走的行動をとるというのはちょっと考えにくい。だとすれば――
「私も、同じことを思っていたわ。あなたには、ここに来てほしくはなかった」
「僕も同じさ」
「あ、あの、あなたはこの男と知り合いなんですか?」
「…………知り合い、か。そうね、そういうのが一番いいのかもしれなわね」
「で、でも、この男は桜井さんの彼氏だって……」
「そうだね、君には確かにそう名乗った。でも、僕は本当は――悪魔なのさ」
「あ、悪魔って……」
「…………」
 眼の前の男――悪魔は未だ桜井さんの前に立ちはだかるようにしてそんなことを言ってきた。
 悪魔だと突然言われてすぐに信じられる自分が微妙な感じだった。天使が僕の前に現れているからだろうか。いや、そうじゃない。そう考えると全ての辻褄が合ってしまうからだ。
「僕は桜井 栞を不幸にしにきた。勘違いするなよ。桜井 栞にとっての不幸とは他人と一切関わらない、ということだ」
「お前、一体何を言ってるんだ」
「僕のその目的の中で一番の障害となるのが、君だよ、佐倉 希君」
「質問に答えろ!」
 僕は思わず、声を荒げた。悪魔が何を言っているのか一切理解できなかった。桜井さんを不幸にする? それが目的? やはり意味が分からない。
 僕は何となく左隣にいた天使のことを一瞥した。天使は苦しそうな、悲しそうな表情でただ地べたを見つめたいた。
 一体何がどうなっているのか僕には分からなかった。
「栞が不幸になるということは裏を返せば彼女が幸せになるということなんだ。そういうことさ、佐倉 希」
「桜井さんを不幸にして、それが幸せって全然矛盾してるじゃないか」
「君は子供だな、幸せの背景というのは不幸なんだよ。世にいるカップルが全て幸福だとしてもその背景には恋を諦めた不幸な人たちがいる。飢えに苦しむライオンは食料を見つけることで幸せになる。だが、食べられた草食動物たちはその生涯を閉じて不幸となる。スポーツでも何でもそうだ。勝ったものには幸福が与えられ、負ければ不幸になる。どうだ? 幸不幸なんて言うのはそういうものさ、一見背反しているように見えて、どこか似ている。それが大人の考え方だよ、少年」
「僕はそんな哲学的な答えを求めたわけじゃない! 桜井さんは今、幸せなのか、それとも悲しんでいるのか、それが一番重要だろうが!」
「……いいのよ、希」
 天使は高ぶる僕の気持ちを抑えつけるように、そっと肩に手を置いてきた。その横顔はとても優しいものだった。
 僕はその横顔にどこか見覚えがあった。
「ねえ、悪魔さん。ここは、希にも知ってもらった方がいいんじゃないかしら」
「何を?」
「真実を。何故、私たちがこれほどまでにこの子を邪険に扱うのか、この子には知る権利があるわ」
「クッ、はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
 男は突然、何を思ったのか大きな声で笑い出した。今までのうすら笑いとは比較にならない程大きな。
 この状況で何が面白いというのか。僕は怒りを通り越してこの男に恐怖を覚えていた。
「こいつが知って何か変わるなんて本気で思っているのか? 確かに君ならば可能性にかけてみたくもなるよなぁ」
「…………」
「答えはノーだ。変わらないさ、何もかも。こいつが知ったところで事態は何も変わらない、変わるはずがない。僕が一番それを知っている」
「そ、それは……」
 天使は言葉に困ったのか、口を紡いでしまう。僕は二人が何を言っているのか理解できずにただただその場に突っ立っていた。
「この僕が言っているんだ。間違いない。こいつは変わらない。何をどうしたって」
「それでも――それでも私は、希に知ってほしいの。色んなことを、あの子のことも」
「はは、ははは! いいよ、今回は君に免じて見逃すさ。佐倉 希。君は知ればいい、栞の本当に気持ちを。でも、君はきっと変わらない。僕が断言する。そうなっても、僕が君を止める。覚悟するんだな」
 悪魔はその言葉を残して街灯の外の闇へと消えた。本当に闇に溶けていくように。
 僕は悪魔に対する恐怖もそれなりに、なりふり構わず桜井さんの元へと駆けだしていた。
「桜井さんっ!」
「…………佐倉、君……」
 桜井さんは涙でくしゃくしゃになったその顔を僕へと向けた。僕はそれを見るととてもやりきれない気持ちになった。何で自分は彼女をこんな風にしてしまったのか。
 その小さな体躯を抱きしめてやりたかった。強く、強く、強く。けれど、僕にはそんなことできるはずもなくて。
「大丈夫? どこか、痛む所とか……」
「それよりも、あの人のこと、助けてあげて……」
 桜井さんは瞳に涙を浮かべながらもはっきりとした口調でそう言った。
 僕はハッとして背後へと振り向いた。桜井さんと悪魔についてのことで僕はすっかりその存在を忘れていた。
 先ほど桜井さんに乱暴をしようとしていた男がアスファルトの上でピクリともせずに寝転がっていた。もう息を引き取っているのかと錯覚してしまうほど、その周囲は静寂に包まれている。
 桜井さんに乱暴しようとしたのだから、もう放っておいてもいいんじゃないか。そんな悪魔のような考えが一瞬だけでも頭の中に浮かんできて僕は背筋に冷たいものを感じた。どんな人間だって簡単に命を捨てていいものではない。まずは助けて桜井さんに先ほどのことを謝らせなければいけないのだ。今、助けるべきはあの男だった。
「あ、ど、どうしよう、まずは救急車を……」
「それは私がやっておくから、早くあの人の所に行きなさい」
 僕にそんな言葉をかけてきたのは天使だった。その表情は今まで僕が見たことがないもので。けれど、僕には今、そんなことを気にしている余裕なんてほんの少しもなかった。
「そ、そうですね、行ってきます」
 僕は天使に桜井さんと救急車の手配をお願いして男の元へと駆け寄る。すでに少しではあるが野次馬が姿を見せ始めている。面倒になる前になんとかしなくてはいけなかった。
「…………」
 僕は息を切らして走った。
 僕は天使の異変にまるで気が付いていなかった。天使がどんなことを考えているのかなんて何も考えてはいなかった。
 それが、いけなかったのだ。









 今日の希はいつもに比べておかしかった。いつも、ちょっとおかしい。もしかしたら、それは私の主観的な感情で希の本質とはそういうものなのかもしれないけれど。でも、私は小学校時代の希のことをはっきりと覚えている。知っている。
 友達も多くて、いつも人ごみの輪の中心にいて。ちょっとばかり運動神経がいいからって私に何度も何度も立ち向かってきた。ドッチボールしかり、サッカーにしかり。多分、希は男の子だから女の子の私に負けるのが悔しくてたまらなかったのだろう。
 ――くっそー、次は絶対負けないからなっ。
 希の言葉は今でも鮮明に覚えている。そんな希は今では変わってしまった。友達の輪の中にいつもいたはずの希は変わった。昼休みも、いつだって自分の机の上に突っ伏して居眠りをしている。最初に見た時はらしくないって思った。それは私の正直な感想。
 表情だって明るくなんかなくて、いつもどこか遠くを見ているような暗い瞳を浮かべていた。昔の希とは違っていた。
 希は時々、まるで誰かに語りかけるかのように視線を宙に向けていた。私は気になってしまった。昔と違う希に、どこかおかしな希に。
 陽が落ちて、真暗な帰り道に私は一人で空を眺めていた。この街からは夜の星座が良く見える。あの三角形は多分、冬の大三角形といわれるものだ。三角形という図形は不思議だ。私はそう思う。三角形はどんな形にも変化する。点にも、直線にも、円にだってなってしまう。三角形という図形は宗教的に見て特別な価値がある。だから、星座にも大三角なんて括りが出来たのだ。
 なんて、最近読んだ新書の知識を私はふと思い出していた。そんなことはどうでもよかったのだ。とにかく今は夜空が綺麗で仕方がなかった。一陣の風が私を包み込んで私の髪の毛を揺らしていく。私は思わず、髪の毛を右手で押さえつけた。
「……希、どうしちゃったのかな」
 思いに反して私の口からはそんな独り言が零れ落ちた。心配で仕方がなかったのだ、希のことが。まだこの学校に馴染めずにいて友達も出来ていないのだろう。
 希にそんなことを訊いたって上手い回答が得られるわけもなくて、私は半ば途方に暮れていた。
「どうしよう……あ、そうだ」
 私は今考え付いたことを実行しようと鞄の中から真赤な携帯電話を取り出した。そして、慣れた手つきでアドレス帳の中を確認していく。
「あった……」
 希が小学校を卒業して引っ越していった後、私たちは暫く手紙のやり取りをしていた。文通、というやつだろうか。変な意味はないが遠いところに行ってしまったからはいそれでさようなら、というのは私の気持ち的に少し嫌だった。その手紙の中に希はあちらの実家の電話番号も書き記してあったのだ。
 希が何故、一人でこの街に戻ってきたのか。
 希が何故、あのころと変わってしまったのか。
 聞き出すためには最高の相手であるに違いなかった。
 私はアドレス帳からその電話番号を選択し、コールをかける。一回、二回、三回……ようやく電話が通じた。
「……はい、佐倉です」
 聞き覚えのある優しい声が電話越しに聴こえてくる。間違いなく希のお母さんだった。何度も希の家に遊びに行った時お世話になっていた。今でもその思い出は忘れたことはない。
「あ、あの、私希の小学校のころの友達で風香と言います」
 何故だか緊張してしまった。久しぶりだからだろうか。よく分からなかった。
「ああ、風香ちゃんね。よく家に遊びに来てた」
「はい、そうです」
「あら、そうなの。元気にしてた?」
「ええ、私はいつも元気ですよ」
「それはよかった。それで、今日はどうしたの?」
「あの、その、えっと……」
 私は思わず、言葉を濁した。こんなことをお母さんに聞いてしまっていいのだろうか。今更そんな不安が心の中をかけずり回っていく。失礼ではないだろうか、お母さんにも、希にも。
 でも、私はここで訊いておかなければいけないような気がした。勇気を振り絞って言葉を紡ぎ出す。
「希のことで訊きたいことがあるんです」
「…………」
 携帯電話の向こう側からは沈黙が聞こえてきた。希のお母さんの息遣いは少しだけ乱れていた。
「……あの子、希はそっちで元気にやってる?」
「元気にですか……正直に言うとあまり元気はないように見えます」
「そう……」
 希のお母さんは携帯電話の向こう側で溜息を我慢しているようだった。息遣いでそれは分かった。
「希、どこかおかしいんです。小学校のころの希はもっと活発的で、でも今の希にはそんな面影は全く見えません。何かご存じないですか?」
「…………風香ちゃんになら話してもいいのかしらね」
「え?」
「希のことを気にかけてくれているあなたなら」
「どういうことですか……?」
「あの子ね、中学と高校までは途中で転校しちゃったからなんだけど、いじめられていたらしいのよ」
「――いじめ?」
 希のお母さんの口から信じられない言葉が飛び出して私は目を点にした。
 ――希がいじめられていた?
 ――そんなこと考えられない。
 小学校時代の希から見れば、そんなことは絶対にないと断言できる。ずっと一緒にいた私だからこそ、言える。そんなことあり得ない。
 でも――最近の希の雰囲気を思い出すとその言葉もあながち間違いではないように思えてしまった。
「かなり酷いものでね、一時期不登校になったこともあるのよ。希は大丈夫だって、何でもないよって最初のころは言っていたのよ。多分、私たちを心配させたくなかったんでしょうね」
「…………」
「バカよね。私があの子の異変に気が付かないわけがないのに、強がって我慢して。でも、私もあの子に何もしてあげられなかったわ。あの子のプライドを傷つけたくなかったのよ。あの子、根は気が強いから。私たちが口を出したりしたら……って考えてしまったのよ。それが、いけなかったのね」
 お母さんの声は震えて、今にも泣き出してしまいそうなものだった。私はただ黙ってそれを訊いている他なかった。
「そうして何もできないまま、あの子の精神はギリギリのところまで行っていたのでしょうね。とうとう希は自分の部屋で手首を切り裂いていたわ」
「な――っ! そんな……」
「そのことを話すのは家族以外ではあなたが初めてよ、風香ちゃん。それから希は四六時中お父さんから貰った腕時計をつけるようになったの。その傷を隠すために」
 私はその時、希がいつもつけていた腕時計のことを思い出した。希には似合わない、なんて感想を抱いてしまったが、そういうことだったのか。私は全てを知ってしまった。
「そう、だったんですか」
「私たちがね、半ば強制的にあの子に一人暮らしを始めさせたのよ。小学校のころの友達もいるだろうしってね。でも…………やっぱりそうね、すぐに馴染めるわけないわよね。希は変わってしまったでしょう?」
「私は、そう思ってしました」
「風香ちゃん。あなたにだから言うわ。希を支えて欲しいの。多分、友達も上手く作れていないだろうから、私たちから言うのもあれなのよ。だから幼馴染のあなたが希の傍にいてあげて。何もしなくてもいいの。でも、あの子にとってあの街での孤独は辛すぎるでしょう? お願いね」
「――はい、分かりました」
 私は力強くそう呟いて通話を切った。私の中には希の変化の理由が分かった安堵感と悲しい気持ちが溢れていた。
 あの希がいじめられていたなんて今でも信じられない。信じたくはない。でも、そう考えると納得出来てしまう希の現状が嫌で仕方がなかった。
 自分に何が出来るのかは分からない。
 もしかしたら余計なお世話なのかもしれない。
 それでも私は希のために何かをしたかった。
 あんな希を見ているのは私にとって辛すぎたのだ。
 夜空は、やはり綺麗で仕方がなかった。









 病院特有の薬臭さが僕の鼻孔をつついた。殆ど真っ白な空間で僕は今、桜井さんと二人きりだった。
 もう夜だからだろう、天井の照明もぽつぽつと落ちてきて少しだけ薄暗かった。先ほど買ってきた缶コーヒーも冷めてしまうほど時間が長く長く流れていた。長椅子に腰かける僕と桜井さんの間には人一人分のスペースと目には見えない壁があった。少なくとも僕にはそう感じられた。
 先ほどの一件からもう数時間は経ってしまっただろう。僕と桜井さんは一緒に救急車の中に乗り込んでこの病院まで足を運んでいた。
 桜井さんの傍にいるはずの天使はそこにいなかった。また、彼女は姿を眩ませてしまった。多分、僕のせいで。
 そんなことに気を回す暇もないほどに桜井さんはパニックに陥っていた。僕は桜井さんを落ちつかせ、かつ車に轢かれてしまった男を見送らねばならなかった。たとえ桜井さんに乱暴しようとした男でも命を助けられる権利はあるからだ。
 沈黙が僕たち二人を包み込んでいた。僕はその空気に耐えきれずに口火を切った。
「あのさ……一体、何があったの?」
「…………」
 桜井さんは両手で缶コーヒーを抱えたまま、口を開かない。また僕は気まずくなって黙ってしまう。やはり、今の発言は地雷だったのだろうか。あの二人にどんなやり取りがあって、どんな関係なのか僕は全く分からなかった。やはり、訊いてはいけなかったのかもしれない。
「……コーヒー、ありがとうね」
 そんなことを思っていると桜井さんが突然、言葉を発した。表情は俯いたせいでよく見えなかったが、桜色の唇が微かに動いたことだけは見えた。
「い、いや、いいよ別に」
「ごめんね、佐倉君。こんなことに巻き込んでしまって」
「大丈夫だよ。それより、もう落ちついた?」
 僕は精一杯、明るい声でそう言った。僕の思いが桜井さんに伝わっているかは分からないが。
「うん……もう平気」
「そっか、よかった」
「佐倉君、私の話聞いてくれないかな」
「へ?」
 桜井さんはそして、その表情を僕へと向けた。可憐なその笑顔が悲しみの色に染まっていた。眼なんか涙を流したせいで真赤に染め上がっている。僕はそんな桜井さんを見たくはなかった。
「私の、せいなの」
「ちょ、そんな、どういうこと? 桜井さんは悪くないよ。悪いのはあいつで……」
「ううん、悪いのは私なの。全部、全部」
「あ…………」
 桜井さんは諦めるように、自分に語りかけるように、そう呟いた。何故そこまで自分を責めるのか、僕には理解できなかった。悪いのは桜井さんを襲おうとしたあいつだ。誰が見たってそう判断するに違いない。なのに、桜井さんは自分を責め続けていた。
「悪いのは、たしかにあの人かもしれない。私、無理やり言い寄られたの。いいからつき合えって。多分、私が大人しい娘なんだって思ったんでしょうね。あの人の強い力で引っ張られた瞬間に私思っちゃったのよ――大嫌いって」
「そんなの当たり前じゃん。無理やりそんなことされたら誰だって……」
「――私にはそんなこと許されないのよ!」
 桜井さんは突然、声を荒げた。そして、その双眸に涙を浮かべた。
「私は誰も嫌いになっちゃいけないのっ。誰とも触れあっちゃいけないのっ!」
「え……一体どういう……」
「私のお母さんね、今病気なの。病気っていっても心の病気。私のお父さんと妹がね交通事故にあって死んでしまったの――私のせいで」
「桜井さんのせいって、そんなこと」
「私が妹に嫉妬したの。そしてお母さんのことを嫌いになった。お母さんに不幸が訪れればいいって思ったのかもしれない。だからお母さんは家族を失って病気にかかったの、お母さんには不幸になったの」
「そんな、全然桜井さんのせいじゃないよ。全部偶然――」
「偶然なんかじゃないっ!」
 桜井さんはそうして僕のことを睨みつけた。僕は蛇に睨まれた蛙のように身動きをとることが出来なくなった。勿論、言葉を発することも。
「あの時も、あの時も、あの時も――私が嫌いになった人はみんな不幸になっていった。全部、私のせい。私が嫌いになった人は皆不幸になってしまうのよっ」
「そ、そんなことないよ。桜井さんは――」
「何で佐倉君にそんなことが言えるの!?」
「え? いや……」
「何か証拠でもあるの? 私がそんな人間でないってどうして言えるの? 佐倉君に何が分かるの?」
「あ…………」
 僕はそれ以上、佐倉さんに何も言葉をかけることが出来なかった。桜井さんの言っていることは多分全て偶然だ。だが、現実とは複数の偶然が折り重なって構成されるものである。桜井さんの言葉を完全に否定することは僕には不可能だった。
 僕は桜井さんの眼をまともに見ることができなかった。
「……ごめん、言い過ぎたね。あの人のことは私が全部やっておくから佐倉君はもう帰って」
「い、いや、僕も――」
「もう、私に近づかないで。私に近づくときっとあなたを不幸にしてしまう。私にそれを拒む力はないの」
「そんなっ、たとえ桜井さんの言ってることが事実だとしても桜井さんが僕を嫌いにならなければ――」
「そんなのきっと無理よ」
「何でさ?」
「人はいずれ、干渉している人間のことを嫌いになるの。そういうものなの。今は私、佐倉君のことどっちかと言えば好きよ。でも、いつかそのバランスが崩れる。永遠に幸せが続く物語はこの世界に存在しないし、あってはいけないの」
「僕は――」
「帰って。そして、私の前にもう現れないで。私、あなたのことを不幸にしたくないの。お願い……」
 桜井さんは今にも泣いてしまいそうな声で、そう言った。僕は力いっぱい缶コーヒーを握りしめていた右手に力を込めた。もうすっかり冷えていて、肌に直接冷気が流れ込んでくる。
 桜井さんの瞳は本気のそれだった。僕は何も出来ない自分が悔しくてたまらなかった。中学の時も、高校の時も、僕には現状を打開する力なんてなかった。あるはずもなかった。たった一人の、眼の前にいる少女の孤独を埋めることすら僕には出来なかった。
 どんな言葉をかければ正解なのか必死で何度も何度も頭の中で考えた。考えた分だけ、時間の無駄だった。
 僕は右手の力をふっと抜いた。そして、その双眸を落とし、踵を返す。ゆっくりとした足取りで僕は桜井さんの元を去っていく。結局僕は幸せにはなれなかった。桜井さんを幸せにすることも出来なかった。
 何もできやしなかった。











 コンコンとアパートの階段を僕のスニーカーが叩く。左手で持つ鞄がやけに重く感じられた。桜井さんと別れてからどれくらい時間が経っただろうか。そんな感覚も薄れてしまうほど僕は茫然自失としていた。
 どうしたら桜井さんを救うことができるのか。それしか頭になかったのだ。
 空を見上げれば冬の大三角がその姿を僕に見せていた。とても綺麗だった。そんな感想しか抱けなかった。
 緩慢な動作で自室の扉を開ける。その時僕は扉の奥から光が零れてきたことに今更ながら気が付いた。
「なんで……?」
 恐る恐る扉の奥を覗き込む。そこには、彼女がいた。
「ん、お帰り」
 天使が、そこにいた。
 いつものようにコタツの中に入り込んで、ミカンをほおばって。初めてこの部屋に来た時と彼女は何一つ変わってはいなかった。
「あ、どうして……」
「何よ。私がここにいたらいけないの?」
「僕はてっきりどこかに行ってしまったのかと……思って」
「何言ってるのよ。私はまだ君を幸せにしてないじゃない」
「……ふ、はは。そうですね」
 桜井さんのことと、天使のこと。二つの不安が僕を苛んでいたがその一つは今解消された。
 変わらない。
 天使は僕の前から消えたりしないんだ。きっとそうだ。
「どうしたの? 気持ち悪いわね。急にニヤニヤしたりして」
「いや、何でもないです」
 僕は先ほどまでとは違う足取りでリビングまで足を運び学ランを脱ぎ始める。桜井さんのことは気がかりだが今は天使が帰ってきたことでよしとしよう。そう思ったのだ。
「ねえ」
「どうしたんですか?」
「どうだったの? その、桜井 栞のこと」
「それは……」
「訊いたんでしょ? あの子のこと」
「まあ……あなたは最初から知っていたんですか?」
「まあね。私はあなたに関わることなら大体のことを知っている。私が桜井 栞に近づくなって言った意味、分かってもらえた?」
「何となく、分かります。大体のことを知っているのなら桜井さんの、その、体質の真偽とかも分かるんですか?」
「…………」
 天使は暫く、口を開くことを止めた。ミカンを剥くその両手は既に止まってしまっている。答えにくいことなのだろうか。天使の双眸は酷く辛そうであった。
「そのことについてははっきりと答えることは出来ないわ。あの子も言ってただろうけどあの子のお父さんと妹が亡くなってしまったことはきっと偶然よ。お母さんが病気になってしまったことだってきっとそう。でも、偶然だってはっきりとした証拠を私は持っていない。現象は、現実というものは全て偶然の折り重なり。あの子の体質ももしかしたら現実なのかもしれない」
「でも、そんな曖昧なものなら――」
「疑わしきは罰せずって言葉があるでしょう? 裁判において被告に対して犯罪の証明がなされない場合、被告は無罪にならなければならないってこと。この場合、被告は桜井 栞の体質よ。完璧に存在しないことを証明しない限り、あの子は信じない。信じるわけがないわ。あの子の思い込みはもはや精神病のそれに近いわ。君にそんなこと出来るの? 出来ないのなら不用意にあの子に近づくべきではないわ」
「でも――」
「私は何度も忠告したわ。君に、桜井 栞に近づくなって。これが最後よ。これ以上、あの子に近づくのなら君は確実に不幸になる。私は君に関することなら大体のことを知っているわ。私の言葉を信じるのなら――分かってくれるわよね」
「…………」
 天使の質問に僕ははっきりと答えを返す気にはなれなかった。まだ、桜井さんのことを諦めきれないのだ。こんな僕にどんなことが出来るのかは分からない。もしかすれば、何も出来ないのかもしれない。
 でも、自分が不幸になるのが怖いからって他人を見捨ててしまったらそれは幸せとは言えない。そんなものは幻想だ。人間は一人きりではきっと幸せになれないんだ。
 僕がもし、桜井さんにも天使にも出会わず、中学や高校の時のような苦痛も味あわず、穏やかな毎日を送ったとしてもそれはきっと幸せじゃない。
 幸せはきっと触れ合う人々の笑顔のなかにこそ存在するんだ。だから、僕は諦めたくなかった。
 でも――
「そう、ですよね。僕にはきっと無理だ。桜井さんの心を全て受け止めることなんて僕にはきっと出来ない。僕にはきっと何もできない――」
「希…………」
 不安だった。
 僕には力なんてなかった。
 中学の時も高校の時も、僕は何も出来なかった。
 今ある現実を変えようとしたって無駄だった。だから、僕は死ぬことを選んだ。選ぼうとした。僕は逃げた。何をしたって変わらない現実から。辛い現実から。
 僕は、弱い人間だった。
「……はあ――それで、いいの?」
「え?」
 天使は僕にそう語りかけてきた。矛盾している。天使の言ってることは矛盾している。僕を幸せにするのなら桜井さんに近づかないことを選んだ僕を応援、するべきだ。なのに、なのに――
「君に――希にとって、あの子は諦めきれる存在なの? あの子はこれからずっと一人きりで生きていくでしょうね。それも一つの選択だわ。他人のために自らは不幸になる。美しい自己犠牲よ」と天使は言った。「でも、でもそれでいいの? あの子にこれからそんな辛い人生を送らせてもいいの? 希はそれで耐えられるの? 君はそれで本当に――幸せ、なの?」
 天使は僕に訴えかけながら、そう問うた。
「あなたが言ったんじゃないですか。僕が幸せになるにはそれしかないって。矛盾してます、あなたの言っていることは」
「矛盾してる、かもね。でも、私はもう希に諦めて欲しくない。色んなことを、桜井 栞のことも。ねえ、そうでしょう?」
「あ…………やっぱり知ってたんですか」
「私は君に関することなら大体のことを知っている。もう、昔みたいに諦めないで。お願い、あの子を幸せにしてあげて」
 天使の瞳には涙が浮かんでいた。
 星座のように美しいそれは数刻の内に床へと零れ落ちた。
「そんな、それでもし僕が不幸になったりしたらあなたは……」
「私のことは気にしないでいいの。私はきっと、君がその選択を選ぶのなら消えてしまうだろうね」
「消えるって、そんなのダメです!」
「ダメじゃないよ。君が桜井 栞を救うことを選ぶのは間違いじゃない。むしろ正しいことかもしれない。私が消えることを拒んでくれて凄く嬉しいよ。でも、君には諦めて欲しくないから……」
「どっちかなんて選べませんよ!」
 僕は思わず、声を荒げた。
「あなたが消えずに、桜井さんを救う方法って無いんですか? 僕はあなたに消えて欲しくない。あなたは――」
 その瞬間、暖かくて柔らかいものが僕の全身を包み込んだ。
 小さくて、でも、はっきりと感じ取れる。天使の体温。
 僕の顔の近くに天使の涙の雫があった。
「いいのよ。私はね、君を幸せにしにきたの。一般的に見れば、私の言っていることが幸せって言うのかもしれない」と天使は言った。「でも、そんなの人それぞれだよ。色んな国で色んな人が生きている。経済的に豊かじゃない国だってそこに生きている人は絶対的に不幸ってわけじゃない。そこに、傍に誰がいてくれるかが一番重要なんだから」
「でも――」
「男ならウジウジ言わないの。私のことを気にかけてくれて本当に嬉しい。今の希も、大好きだよ」
 僕の頬にやわらかいものが触れた。ハンカチのようにふわふわとしていて、暖かい。それは天使の唇だった。
「なっ――!」
 天使の唇はすぐに離れた。まるでそれが夢であるかのように僕の頬には感触だけが確かに残った。
「どうしたの? 顔、真赤だよ?」
「し、仕方ないじゃないですか。そんなことされたら誰だって」
「そうかな、私の彼氏はもう慣れちゃったけど?」
「え? 彼氏って……」
「ふふ、それは内緒よ。女の子には秘密が多いの」
 天使はそして、その小さな身体を僕から離した。
「きっと、あの人も許してくれるわ。何、嫉妬してるの?」
「し、嫉妬なんかしてませんよ」
「そう、それは残念。そりゃそうよね、君には桜井 栞っていう女の子がいるんだもんね」
「そ、それは……」
「ふふ、私は本当に残念だったんだけどな」
「からかわないで下さい」
「からかってないよ、本当に、残念」
「……二股、ですか?」
「うーん、そうかもね。二股って言えばそうなるかも。それよりも――」
 天使は両手を腰に当てて、僕に詰め寄ってくる。僕は先ほどのキスがまだ頭の中に残っていて、思わず顔を逸らしてしまう。
「どうやって桜井 栞を納得させるかよ。何か考えた?」
「でも、あなたは消えて……」
「あーもう、もう一回キスしてほしいの?」
「い、いや、そういうわけじゃ」
「大丈夫よ。私は消えるって言ってもいつも希の傍にいるから。一番近いところで、ずっと君を見てるんだから――」
「それってどういう――」
 その時、玄関から軽快なチャイムの音がリビングに鳴り響いた。こんな時間に僕の部屋を訪れる人物など、心当たりがなかった。
「あ、誰だろ。はい、今出ます」
 僕は玄関まで駆けよってそのドアを開け放った。外の冷気が一気に入り込んでくる。
「こ、こんばんは」
「風ちゃん……?」
 そこに立っていたのは風ちゃんだった。赤ぶちの眼鏡はやはり似合っていない。風ちゃんの表情はどこか不安げで僕はこんな風ちゃんを見たことがなかっ。
「どうしたの? こんな時間に」
「あ、あのね、私希のことが心配で……」
「え? いや、僕は別に……」
「――私、訊いたの。その、希のこと、希のお母さんに」
「…………そう、なんだ」
 この街にいる誰にも知られたくなかった。特に風ちゃんには。学校の中で一番心を許している風ちゃんには知られたくなかった。
 僕は小学校時代の思い出の象徴である風ちゃんだけは汚したくなかった。それは多分、僕のエゴだ。
「何で、話してくれなかったの?」
「それはだって」
「私のことが信用できない?」
「それは違うよ」
「じゃあ、何で?」
「……風ちゃんには余計な心配かけたくなかったんだ」
「そんなの間違ってるよ。私は希のこと本気で――」
「変に気遣いされるのも嫌だったんだ。分かってくれないかな」
「――――ッ! ああもう、もっと私を頼ってよ。私たち幼馴染でしょ?」
「うん、そうだね。ありがとう」
 風ちゃんは僕の言葉を訊くと大きくため息をついた。呆れるように眼を細め、そしてもう一度僕の双眸を見た。
「はあ……。希、辛かったわよね。学校での変化も頷けるわ」
「…………」
「私がもう少し早く気付いて上げられればよかったわ。一人ぼっちで、希寂しそうだったもの――でも、今の希いい笑顔をしてる」
「え?」
「何かあった? ほんと、昔の希みたい」
 風ちゃんに言われて僕は自分の顔を右手で撫でた。僕は全然意識してなかった。最近、いや、中学高校とあまり笑っていなかったことに。
 でも、今の僕の頬は少しだけ緩んでいた。
「あ……はは。ほんとだね、少し楽になったよ。多分、風ちゃんのお陰かな」
「そう? それならよかった。私に何か出来ることがあったらいつでも言ってね」
「うん…………実はさ、ちょっと今悩んでることがあって」
「何? いいから何でも言ってみなさいよ」
「うん、えっと……」
 僕は正直迷っていた。風ちゃんに桜井さんのことを話してしまってもいいものかと。桜井さんにとってはあまり話してほしくないはずだ。僕の立場だったらきっとそう。
 その瞬間、僕はあることを思いついた。
「あ、桜井さんのことでさ」
「桜井さん? 確か希、前も桜井さんのことで私に聞いてきたよね」
「うん、それで、桜井さんの子供の頃の知り合いとかになんとか連絡つかないかなって」
「まあ、友達づてで訊いて回ればなんとかなるとは思うけど、どうしたの? 急に」
「ちょっとね、ありがとう風ちゃん。風ちゃんがいなかったらどうにもならなかったよ」
「当たり前でしょ? 私は希の幼馴染なんだから」
 風ちゃんはそう言って、携帯電話を取り出して友達へ連絡を取り始めた。桜井さんのことはきっと上手くいく。
 僕は風ちゃんに気付かれないようにそっとリビングのほうを振り向いた。天使が僕のことを見て微笑んでいた。多分、風ちゃんには見えていない。
 それが少しだけ悲しかった。








 病院の廊下はやはり薬臭くて居心地が悪かった。それでも私の家には及ばないけれど。
 微かに残る蛍光灯がチリチリと私を照らしていた。薄暗くて今の私の気持ちにはピッタリだった。
 佐倉君が帰ってからもう数十分が経った。佐倉君の背中はとても悲しそうなもので、私は悪いことをしたと思う。でも、これでよかったのだ。佐倉君が不幸になるのは私にとってとても辛い。それなら――私が一人、不幸になればいい。そう思った。思うしかなかった。お母さんみたいな人をこれ以上増やしたくなかった。
 これで、よかったんだ。そう思うことにした。
 私は、多分、私のせいで車に轢かれてしまった人の病室へ足を運ぼうとベンチから腰を上げた。幸い、右足の骨折だけで済んだらしい。それでも、私に何か要求されるのかもしれないけど、でも私は行かなくてはいけなかった。
「――行く必要はないよ」
 背後から声がする。
 聞き覚えのある声だった。
 私は声のするほうへ振り返る。
 黒づくめの男。黒いライダースジャケットに身を包む長身の男、悪魔が立っていた。
「いつからいたんですか?」
「さっき、かな」
「私が佐倉君のことを追い返す所も?」
「見てたよ。いい判断だ。君は佐倉 希に関わるべきじゃない」
「行かなくていいって、一体どういうことですか?」
「ふ、君は気に入っていなかったようだけど君の彼氏ってことであの男には話をつけておいた。最初は君のせいだ、なんて怒っていたけど君のことを襲ったことを証明する証人がいるって言ったら面白いように黙ったよ。あんな男でも罪の意識くらいはあるらしいね」
「……そうですか」
「君も正直言ってあの男の所に行くのは気が病んだだろう。僕は悪魔だけどこれくらいのことはしてあげるさ」
 悪魔はそう言って私の近くへ歩み寄ってくる。私は後ろに後ずさりする力もなくて、ただそこに立っていた。
「君は、あれで佐倉 希が諦めたって思うかい?」
 悪魔は私を覗き込むようにしてそんなことを訪ねてきた。
 そんなこと分かるわけない。
 佐倉君の気持ちなんて私なんかに分かるわけがなかった。
「そんなこと分かりません」
「だろうね、けど僕には分かるよ。彼はきっと諦めちゃあいない。諦めるとは思えない。何とかして君の心の闇を打ち払おうとするはずさ」
「何で、あなたにそんなことが分かるんですか?」
「言っただろう? 僕は君に関することなら大体のことを知っている。勿論、佐倉 希のこともね。僕は君を不幸にしなければいけないんだ。何を犠牲にしてもね」
「何で、そこまで私の不幸に固執するんですか? あなたにとって何かメリットがあるんですか?」
「メリットか……そうだね」
 悪魔は私に近づけてきた顔を静かに話すと、その大きな背中を私に見せてこう言った。
「――気まぐれ、かな。悪魔なんてのは大体そういう生きものさ」
「そう、ですか」
「君は何も心配しなくていいよ。佐倉 希は僕が止めるからさ」
 悪魔がそう言うと、彼はまた闇の中に消えた。そこには彼の温かみとか、そういったことは一切残ってはいなかった。
 私はまた暗い病院で一人ぼっちになった。そして多分、これからも。
 そう思うと切なくて溜まらなかった。
 不覚にもあんな悪魔みたいな男でも傍にいてほしいと感じた自分が悔しかった。












 季節は秋をまたぎ冬に差し掛かった。風はほんのりと紅葉と雪の匂いを帯びて街の温かみをさらっていく。
 僕が今いる公園だって例外ではなかった。新緑の緑は色を変え、さらには枯れ始めている。自然はいつだってそこに留まることはない。時に身を任せ、変わっていくのだ。それは人にとっても変わらないことである。人はいつだって絶えず環境に応じ、変化していかなくてはいけない。それがいい変化であれ、悪い変化であれ。
 変化の歩みを止めてしまった人間は砂漠に打ち捨てられた屍に等しい。僕はそう思う。生きるということはそういうことだ。たとえ、自分が悪い方向へ変化してしまってもそれを受け入れなければいけない。人は皆、自分がいい方向へ変化することを望むから努力し、他人に認められたいという願望を持つ。
 僕だって、そんなのは変わらない。でも僕はその歩みを止めて、一時期死を選んだ。
 それはきっと間違っているのだ。僕だって変わらなくてはいけない。
 きっと今が、その変化の時なのだから。
「――ここで、何をしているんだい?」
 公園のベンチに腰をおろしていた僕に遠くから声をかけてくる男がいた。忘れるはずもない。黒いライダースジャケットを身に纏う悪魔だった。
 公園の中には僕ら以外誰もいなかった。ブランコが風に揺られてきいきいと音を鳴らしている。それだけだった。
「あなたには関係ないことです」
 僕は強気で、悪魔にそう言った。僕の言葉を訊くと悪魔は何故か小さく笑いだした。まるで僕の行っていることが間違いであるかのように。
「クク、そうだね。確かに僕には何の関係もないことだ。これは君と栞の問題なんだからね」
「…………」
「大方、君は栞をここに呼び出してどうにかして彼女を説得しようとした。違うかい?」
「…………桜井さんの子供の頃の関係者に連絡を取りました。桜井さんが自分のせいで不幸にしてしまったと思っている人にも。彼らはその不幸が全て自分のせいだって言ってくれました。全部桜井さんの思い込みなんです。桜井さんは他人を不幸にしてしまう人じゃない」
 昨日、風ちゃんに頼んで僕は桜井さんの子供のころの知り合いに連絡をとった。誰も、自分の不幸が桜井さんのせいだなんて言ってはいなかった。だから、桜井さんは――
「君の考えは全て正論だ。正しすぎて虫唾が走るほどにね。だが、故に詭弁でもある」
「どういうことですか?」
「は、簡単なことさ。君は栞の気持ちを考えたことがあるのか?」
「桜井さんの、気持ち……?」
「あの子がどんな覚悟を持って、昨晩君を突き放したと思う? 君に最初に会った時、彼女はどんな気持ちで君を無視したと思う? 全部君のためさ。君が不幸にならないようにって、自分の気持ちを押し殺してまで栞は自分が不幸になる道を選んだ」と悪魔は言った。「栞はきっと君に惚れてる。僕だから分かることさ。君に、栞のその覚悟を踏みにじる覚悟があるのか?」
「それは…………」
 僕は不覚にも言葉に詰まってしまった。
 悪魔の言っていることも一つの正論だ。
 桜井さんは僕を不幸にさせないようにって、それだけのことを、僕のために考えて、それで自分が悲しめばって思っているんだ。
 でも、それは――
「栞の体質が完全に偶然だっていう証明は君にはできない。そんな中途半端な気持ちなら彼女を不用意に傷つけるな。これが、最後の忠告だ」
「そんなの――そんなの分かってるっ!」
 僕は、悪魔に向かって叫んだ。
「でもそんなのおかしいよ。だって、だって誰かを幸せにするためには、まず自分が幸せにならなくちゃいけない。そうじゃなきゃおかしいじゃないか。僕は桜井さんに一人だけ不幸になる道を歩んでほしくない。それが間違っていると言い張るのなら、僕はあなたを倒す」
 僕は慣れていない動作で身構える。
 自分よりも背が高くて強そうな相手だ。
 きっと、勝てるわけがない。
 それでも僕はもう諦めたくなかったのだ。
「それが君の答えか。なら、僕は――君を殺さなくてはいけない」
 悪魔は――信じられない速度で僕の懐へと入り込んできた。眼で追うことができない彼の瞳は本気で僕を殺そうとしているように見えた。
「――――ッ!」
 拳が、僕の腹に突き刺さった。 
 くぐもった悲鳴を上げ、僕はふらふらと後ろへよろめく。その目の前に、拳があった。
 僕は咄嗟にしゃがみ、土上で転がり距離を取った。
 まだ痛みの残る脇腹を押さえながら、悪魔を睨みつけ立ち上がる。
「どうした? もう終わりか?」
 悪魔の余裕を含む笑い声が癇に障る。
 でも、僕には何も出来ない。
 痛みで反撃に出る余裕すらなかった。
「終わりなわけ、ない、だろ……」
「そうか、それはそうだなっ!」
 顔面に拳が突き刺さる。
 腹部にも。
 何度も、何度も。
 僕は反撃の糸口を見つけられずにただただサンドバックにされていた。
 痛い。
 痛い。
 痛い、痛い。
 何も出来ない自分が悔しい。
 僕はきっと、桜井さんのことなんか――
「――もう止めて!」
 叫び声と共に、悪魔の攻撃が止まる。
 僕は薄らと残っていた視界で、その声の主を一瞥した。
 桜井さんが、そこに立っていた。
「桜井、さん……」
「もう止めて。何でこんなことしてるの? 私、こんなこと望んでない」
「ここには来なくていいと言ったはずなんだけどな。何でここに来た?」
 悪魔が桜井さんのことを問いただす。
「あなた、佐倉君を殺すって言ったわよね。止めて、私はそんなこと――」
「君の意志など関係ないさ。佐倉 希を殺せば僕の目的は達成される。それで、僕も消える。それで、全てが丸く収まるんだ」
「そんなのおかしいよ。何で佐倉君が死ななくちゃいけないの? 私のため? そんな方法しか分からないなら――私が死ぬ」
 桜井さんはポケットから隠し持っていたナイフを取り出し、自分の首を撫でるように刃を添わせた。その右手は恐怖で震えていた。
「何をっ、よせ――!!」
 ――パン、と乾いた音が鳴り響く。
 それと同時に桜井さんの持っていたナイフが地面へと転がり落ちた。
「なっ――何を」
「間違っているのは、あなたのほうよ。桜井 栞」
 花柄のワンピースに大きめのカーディガンを羽織っている女性。
 それは、天使だった。
 天使は桜井さんを睨みつけるようにして言葉を紡ぐ。
「あなたはいつまで怖がっているの?」
「怖、がる? 私が何を」
「他人の行為を受け入れることに関してよ。あなたは怖がっているだけだわ。自分と関わった人間が不幸になるから、なんてそんなの言い訳よ。あなたは怖いだけ。自分の体質を受け入れて一緒にいてくれる人が現れることが」
「怖くなんてない。私は怖がってなんかいない。だって、佐倉君は私と一緒にいたら――」
「もしかしたら、不幸になるかもね。でも、あなたは分かっていない。一番希を不幸にしているのは自分だってことに」
「あなたは、何を言ってるの?」
「人が一番不幸になる瞬間って言うのはね、自分の行為をあっさりと無碍にされた時よ。希があなたのためにどれだけのことを考えて、今行動しているか、あなたに分かる? 分かるわけないわ。怯えてるだけのあなたにはね」
「私は、怯えてなんか、怯えてなんかいないっ!」
 桜井さんは地面に落ちたナイフを拾い上げ、その鋭い切っ先を天使へと向け、放つ。
 天使はよけようともせず、ただただ桜井さんを睨みつけたままだった。
「桜井さん――だめだっ!」
 その瞬間、天使は桜井さんのことをギュッと抱きしめた。
 優しく、とても優しく包み込むように。
 その光景は、まるで姉妹のように僕には見えた。
「怖かったね。でも、もう大丈夫だよ。もうあなたには傍にいてくれる人がいるんだから」
 桜井さんは天使に抱きしめられると急にその動作を止めた。
 そして、涙を流し、静かに慟哭した。
「わ、私は……だって、もうお母さんは……」
「あなたは、毎日ポストに封筒が入れられていること、不思議に思わなかった?」
「…………え?」
「あの宛先を、私は知ってるよ」
 天使は桜井さんから身体を離すと懐から真っ白な封筒を取り出した。まるで雪のようなそれは触れることすら憚られる様に綺麗だった。
「あなた、この中身だって見たことがないでしょう? 今、見てみなさい」
 天使はそう言って、封筒を桜井さんへと手渡しした。桜井さんは不安そうな顔を浮かべたまま、その封を切った。
 そして、その文面へ静かに眼を通す。
「…………あ…………お、母さん……」
 桜井さんは両手で自分の顔面を覆った。そして、激しく鳴き声を上げ始めた。
 桜井さんの手から力なく離れたその文面は僕の足元へと風に乗って飛ばされた。
 乾いた右手で僕はその文面を手に取った。
 悪魔は、何も言ってこなかった。

『お父さんと栞へ
 お父さんと栞がどこかへ行ってしまってもう随分時間が経ってしまいました。
 私は、心配で心配で夜も眠れないような毎日を過ごしています。
 もしかしたら、栞が我儘をいってお父さんを連れ出してしまったのかも知れませんね。きっと私のせいです。私が栞のことを本気で愛していないと思われて、そして嫌われてしまったのでしょう。
 母親失格ですね。
 もしかしたら私も心のどこかで司にえこひいきをしてしまったところがあるのかもしれません。
 でも、私は栞のことを愛しています。
 まだまだ栞のお母さんとして私は未熟なのかもしれません。それでも、私は栞のことを愛しています。
 私はお父さんのことも、栞のことも愛して止みません。ですから、もし私を許してくれるのなら、栞、どうか私たちの家に帰って来てください。
 私は、あなたの母でありたいと心の底から思っています。

 追伸 もし、二人が帰ってきたのなら、栞の大好きなチャーハンを家族みんなで食べましょう。
 母より』

 手紙の文面は、こういった内容だった。僕には殆ど意味の分からないものだったが、きっと桜井さんには大事なものであるに違いない。僕はその手紙を両手で大事に抱え込んだ。
 誰にも、桜井さん以外には触れられないように。
「はあ…………」
 と、手紙を抱きかかえる僕の横で悪魔が一つ大きなため気を吐いた。そして、考え込むように後頭部を右手でかいた。
「何でこんなことになるのかな。……ほら、佐倉 希。君は行かなくてもいいのかい? 栞の元へ」
「あ……はい!」
 今さっき殴り合いの喧嘩をしたばかりなのにその相手に敬語を使ってしまう僕はやはり気が弱いんだろう。
 悪魔は呆れるように眼を細めていた。
 僕は行かなくてはいけなかった。桜井さんの元に。
 先ほどの悪魔の拳がまだ尾を引きずっていた。もたついて、震えている足取りで僕は桜井さんの元へ急ぐ。
「さ、桜井さん」
「…………佐倉、君」
「これ、大事なものなんでしょ?」
 僕はそう言って、抱えていた手紙を桜井さんへと手渡した。桜井さんは震える指先でその文面を掴んだ。
 桜井さんの瞳からぽろぽろと零れ落ちる涙が地面をしっとりと濡らしていた。
「ごめんね、佐倉君」
「え?」
 桜井さんは急に僕に謝り始めた。僕は行く当てもなく狼狽するばかりである。
「私、勘違いしてたの。私はお母さんを不幸にしていたんだと思ってた。……でも、それは間違いなの。一番不幸になったって思ってたのは私自身。お母さんは、いつも私のことを希望を持って待っていて、私はただ自分の殻に閉じこもっているばかりだった。私は、バカだった……」
 地面へ落ちていた桜井さんの涙は行く先を変え、手紙へと落ちていく。吸い込まれていく。
「私は幸せ者だった。いつだって、私の傍には私のことを考えてくれる人がいたのに私はそれに気づかなかった。私は……」
「桜井さん……」
 僕はどうしたらいいのかなんて分からずに辺りをキョロキョロと見渡すばかりだった。
 しょうがないじゃないか。眼の前で女の子が泣いていたらどうしたらいいのかなんて――
『――もう、何やってるのよっ』
 頭の中で声が鳴り響く。
 僕は思わず、天使のことをその眼で見た。
『こういうときはね、ぎゅっと抱きしめてキスの一つでもしてやればいいのよ』
『ええっ!? そんな、急に言われても……』
『はあ……やっぱ希はへたれよね。分かっていたことだけど』
 僕は天使に上手い反論も思いつかずにただただムッとした表情を浮かべるしかなかった。
「ねえ、桜井 栞さん」
 と、天使は僕との会話を打ち切って泣き止まない桜井さんへと声をかけた。それはまるで優しく、頼もしい姉の姿そのものであった。
「希はダメ男よ。ダメ男で、臆病で、へたれで、弱虫で」
「む…………」
「――――だけど強い。とっても優しい。希のことを信じてあげればきっとあなたは幸せになれるわ」
「は、はい……あの、あなたは一体、誰なんですか? 私、初めて会った時から他人のような気がしなくて……」
「へえ、流石ね。感が鋭いわ。私はね、天使よ。神の使いである天使。そして――未来の、あなたよ」
「――え? 未来の、私……」
「ええっ!?」
 僕は思わず、天使の言葉に眼を白黒とさせてしまった。
 天使が未来の桜井さんって、そんな、そんなことが……
「私と希はね、未来で結婚間近だったの。でもね、私はその瞬間、不安に駆られた。このまま結婚してしまって希が不幸にならないかって。だから、過去に戻って未来を変えようとしたの。希が、私と結ばれないようにってね。でも、そんなのそもそも無理だった。今希が立っている世界線と私たちの未来の世界線は全くの別物。この世界線での事象を変えたって私たちの未来は変わらない。それでも、今ここにいる希には幸せになってほしかったの」と天使は言った。「あなたには酷いことをしたわ。私はどうにかしてあなたと希が結ばれないようにって色々工作をして回った。希の彼女っていうのも……まあ、全部が全部嘘ってわけでもないけどね。どう? 未来の私は。結構美人でしょ?」
 天使はそんなこの場面ではふざけた様な言葉を桜井さんへと投げた。
 桜井さんは、もう既に涙を拭いていて――笑っていた。それは可憐で、綺麗だった。
「ふふ、そうですね。…………私はこれからどうなってしまうんですか?」
「そんなの分からないわ」と天使は言った。「私たちの世界線とあなたたちの今いる世界線は全くの別物。これから何が起こるかなんて私にも見当が付かない。もしかしたら、あなたは希と結ばれないで、別の人と結ばれるのかもしれないわよ?」
「え、そ、それは……」
 桜井さんは頬を赤らめて僕の方を見てきた。
 僕はその可憐さに思わず顔を逸らしてしまった。可愛かった。この女の子をいつまでも守っていきたいと思った。
「なんだかな、どうしてこんなことになってしまうんだろう。そう思わないか、佐倉 希」と悪魔は言った。
 悪魔はあきれ果てたように言葉を紡いだ。
 だが、その表情は僕にとってどこか笑っているようにも見えた。
「僕はね、この状況をどうにかするには君を殺すしかない。そう思ってた。だが、それは間違いだったんだね。最高の結末はやはりこの結果しかなかったんだ」と悪魔は言った。「君の勝ちさ、佐倉 希。君は今、最高の未来を掴み取ったんだ。君の手で、何も出来ないはずの君の手で。誇るといい。この僕に勝ったんだからね。流石は――昔の僕だ」
「…………やっぱり、そうだったんですか」
 僕は存外、それほど驚くことはなかった。
 最初に会った時から何となくそんな気はしていた。他人とは思えないその雰囲気。不幸を身に纏ったようなその表情。
 悪魔はやはり、僕自身を映す鏡だったのだ。
「おや? あんまり驚かないんだね」
「ええ、何となく、天使の言葉を訊いてからそんな予感はしてましたから」
「ふ、まあいいさ。僕もね、不安だったんだ。結婚を間近に控えてこのまま結婚してしまったら栞は、ずっと僕を不幸にしてしまうんじゃないかっていう不安に駆られながら毎日を過ごしていく。そう思ったら、ここに立っていた。僕は栞にそんな思いをさせるなら過去の自分を殺して自分も消えてしまおうなんて、そこまで思った。それが謝りだと教えてくれたのは皮肉にも過去の自分だったよ」
 冷たい風が僕たちを包み込んだ。
 冷気が学ランの中に入り込んでくる。今となってはそんなことはどうでもよかった。未来の僕は幸せそうな顔をしていたのだから。
 ――天使と悪魔から光の粉が溢れだす。
「え、な、何?」と僕は言った。
「はあ、時間みたいだね」
「ええ、そうね」
「ど、どういうことですか?」
「希は、タイムパラドックスって言葉を知ってる? タイムパラドックスは起こってはいけないことなの。私たちはここで消えなくちゃいけない」
「そ、そんな――」
 知らず知らずの内に僕の瞳からも涙が零れ落ちていた。
「だって過去の自分に正体を知られてしまったんだもの。しょうがないわ」
「消えちゃだめだっ! 僕は、消えて欲しくない!」
 赤ん坊のような我儘だってことは分かっている。それでも僕は天使に言葉をかけずにはいられれなかった。
「嬉しいよ、希。私のことを気にかけてくれて。でも私はもうここにいるわ。だから心配しなくても大丈夫よ」
「ぼ、僕は――あなたと、会えてよかった」
「私もよ。結構楽しかったわ」

「僕のこと、嫌いだった?」
「――はい、正直に言えば」
「そうか。残念だな。でも、君の彼氏って言ったのはあながち間違いではなかっただろ?」
「…………何で、本当のことを話してくれなかったんですか? 話してくれていたら、私は……」
「何でだろうね、男のプライドってやつかな。僕はね、イライラする奴だよ。ムカつく奴だよ。時々本気で嫌いになってしまうかもしれない。それでも、君が支えてやってくれ、栞」
「…………はい」
 悪魔と天使を包む光が激しさを増した。
 閃光のように、それは辺り一面に伸びる。
「それじゃ、もう時間ね」
「そうだね」
「じゃあ…………」
「「二人に幸せが訪れますように!」」
 光の爆発が僕たちを包みこんだ。
 それも全て一瞬の出来事だった。
 再び眼を開いた時、天使と悪魔の姿はそこにはなかった。風が二人の名残を惜しむように吹きすさんだ。








 ――瞼を開ける。
 深い闇の中で私は再び眼を覚ました。
 何もない。
 何もない。
 黒しかない、本当の無の空間。
 ここは数多に存在する世界線の狭間。世界の端っこ。宇宙の、端。
 タイムパラドックスとなり得る要因は全てここに還る。タイムパラドックスは起きてはいけない。世界が崩壊するか、私たちが消滅し、ここに来るかの二択である。
 過去に戻って希を救うと決めた時、こうなることは覚悟してた。でも――
「寂しい、な……」
 どうやら、声くらいは出すことができるらしい。どこまでも声は響いていって戻ってくることはない。私は一人きりだった。そう、まるで――昔のように。
「――寂しくなんてないさ」
「――え?」
 私しか存在しないはずの空間で声が聞こえた。確かに聞こえた。それは忘れるはずもない。暖かくて優しい声。
「…………希」
 涙が、溢れる。
 止まらなくなる。
 私が一人でいるときはいつだって希が傍にいてくれた。
 不安な時も。
 落ち込んだ時も。
 悲しみに暮れている時も。
 希はいつだって、私の隣にいた。
「こんな所まで二人一緒だなんて、やっぱり僕たちは運命の二人のようだね」
「…………希っ!」
 勢いよく、希へと抱きついた。
 私よりも少し大きな背丈で、抱きなれた希の感触。やっぱり、昔の希よりもこっちのほうがいい。なんて私は思った。
「心配しなくてもいいよ。僕がいつだって君の傍にいるからさ」
 額を寄せ合う。
 瞼を閉じて希の体温を感じる。
 暖かい。私には希しかいない。
「希、結婚しよう。今ここで」
「うん、僕も同じことを言おうと思ってた」
「…………大好き」
 唇を重ねる。
 やわらかくて、熱くて、唇の感覚は鋭敏だ。触れあった唇から伝えあう、生々しいほど甘い、とろけるような感覚だけが脳髄を走る。
 何もなくなんてない。ここには、希がいるのだから。
「いつまでも、ここにいよう」
「うん、いつまでも、二人きりで――」
 闇が私たちを包み込んだ。
 ――きっと私たちはここから永遠に出られることはないだろう。
 それでもよかったのだ。
 ここに、希がいるから。











 エピローグ



 学校の屋上というのはちょっと特殊である。
 一日中殆ど誰も足を運ばないせいか。行っただけで何か自分が罪を犯したような感覚に襲われる。子供の頃に秘密基地を作る感覚にちょっと似ているかもしれない。
 誰も入り込めない自分だけの空間、それが学校の屋上というものなのかもしれない。
 僕は屋上へと続く扉を開いていっぱいに広がる青空を眺めた。
 きっとこの空は神様って人が作ったに違いない。僕は神様に言ってやりたい。
 おお、神よ。日によって空の色くらい変えてもいいじゃないですかって。
 月曜日は、黄色?
 火曜日は、赤?
 水曜日は今のまま、青色でいいだろう。
 木曜日は、茶色?
 金曜日は……月曜日に黄色を使ったから金色、かな。
 土曜日は土色。
 日曜日は……うーん、何色だろう。
 てか、想像してみると真赤な空ってのも不吉そうで嫌だな。
 神様は一週間で世界を作り出したらしい。そんなのはきっと嘘だろう。そんなヤツはいない。もし仮に神様がいたとしたら、そいつは一週間で世界を作る様な勤勉なやつでは絶対ないな。そいつは、いつまで経っても経っても――
『まだ作り途中なんで見せられないよ』
『ちょ、待って、もう少しで出来るからっ』
 ――とか言ってダラダラ作業を進めるタイプに違いない。
 それか、作り途中だけどあきて――
『俺が作るべきものはこんなもんじゃない……』
 ――とか言ってるヤツだ。ま、後者なら我ら人間はすでに見捨てられてるわけです。
 ひでぇぞ! 神!
 なんて事を思いつつ天をにらむ。
 でも、こんな空を作ってくれる神様ならいてもいいかもしれない、なんてそう思った。
「――佐倉君」
 向こう側から、やわらかい声がする。
 一人だけのはずの空間にいるその人物は僕が好きになった女の子、桜井さんだった。
 屋上に申し訳ないように一つだけ置かれているベンチに腰を下ろし、その脇には可愛らしい弁当箱が置いてあった。
 天使と悪魔が一緒に消えてしまってからもう数日が経った。僕たちはそれからこうして昼食を屋上で二人で食べるようになった。全部、桜井さんからの提案である。
 最初は照れ臭かったが今はもう慣れてしまった。人間の慣れとは怖いものである。
「うん、今行く」
 桜井さんの所へ駆けよって、ベンチに腰を下ろす。桜井さんが恥ずかしそうに蓋を開けた弁当箱の中身はとても美味しそうなものだった。
「うわ、美味しそう。いつもごめんね」
「ううん、いいの。佐倉君に、食べて欲しかったから…………」
「う、うん…………」
 気まずい沈黙が僕たちの間を包み込む。多分、この沈黙だっていつかは慣れてしまうんだろうと、そう思うとなんかもったいなかった。
「あ、あのさ、あれから、どう?」
 僕はこの数日間、訊きたくても聞けなかったことをとうとう口にした。天使と悪魔のことは口に出しずらかったのだ。
「うん……ちょっとね、あんまりあの人のことは好きじゃなかったんだけど、寂しいっていうか」
「そうだよね、やっぱり」
「あ、でも、佐倉君のことが嫌いってわけじゃなくて、あの人のことが…………!」
「あ、うん。ありがとう…………」
「…………そう言えば、佐倉君、天使さんとしばらくずっと一緒にいたんでしょ?」
「う、うん、まあ」
「何も、しなかった?」
「え、ええ!? 何もして……ないよ」
 そう言えば、一度ほっぺたにキスをされたような気がして僕は思わず言葉を濁してしまう。
「あーっ! 絶対何かあったんでしょ、未来の私と」
「な、何もないってっ」
「嘘、今一瞬言葉を濁したじゃない」
「ほ、ほんとだってっ」
「もう、佐倉君のバカ」
「いや、ほんとに何もしてないってば――」
 ――天使と悪魔が消えてから、こんな生活が続いている。
 二人の考えた未来もきっと正しいものだったのかもしれない。僕はいつだって桜井さんが不安に駆られないか心配で心配で溜まらない。多分、桜井さんだって同じようなことを思っているに違いない。
 二人があれからどうなってしまったのか、僕には分からない。でも――
「ふふ、冗談よ」
「え?」
「私、そんなに気にしてないから。結局は天使さんも未来の私、私自身なんだからさ。私は今――幸せだよ」
 桜井さんはそう言って、僕に笑って見せた。
 可憐で、いつまでも守りたいと思わせる笑顔。
 その笑顔を隣でいつまでも見ていられることが僕の幸せなんだと、そう思った。
U4
2011年02月24日(木) 19時28分12秒 公開
■この作品の著作権はU4さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
こんにちは、U4です。
今回の作品は電撃用に書きあげたものなのですが。
正直に言ってあまり自分はこの作品に自信がありません。
ですが、皆さんに色々と酷評を言ってもらってそこから直していけたらな、と思い今回出させていただきました。

気にしてもらい点は
・キャラクターがはたして立っているのか。
・最後まで読んでみて、伏線がバレバレすぎじゃないか。
・そもそもこれは面白いのか。

この三点ですね。よろしくお願いします。

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