呼び名
「決めた。あなたの名まえは、ニコラスね」
 ただでさえ小洒落たカフェの慣れない雰囲気にどぎまぎしていたぼくは、いきなりそんなこと言われてなおのこと面食らった。
 彼女は紅茶(キャンディだかなんだか)を啜り、名まえのわりにぜんぜん甘くないのね、とぼやいた。ぼくはぼくで、オレンジ・ペコーってぜんぜんオレンジの味がしないのはなんでだろ、って訝りながらちびちび飲んでいた。まったく、名まえってやつはいつだって、ちっとも体を表さないものなのだ。
 だけど、それにしたってニコラスはないだろう。こんな非の打ち所のない純和製モンゴロイドを捕まえて、だ。
「恋人の呼び名って、大事だと思うのよね」
 ぼくの狼狽などお構いなしに、彼女はそう続ける。
「そうかな、ぼくは紅茶の名まえのつけかたのほうがよっぽど深刻だと思うぜ。だってこれじゃ商品名に偽りありだ。そもそもこの店は、店名からして気に食わなかったんだよな。看板見たかよ、カフェの綴りがcafeになってたぜ。こんちくしょう、正しくはアキュート・アクセントをつけてcafé だ。もっと言えばフランス語での正しい発音はカフェで……」
「うん。そんな話はどうでもよくて。圭司、あんたの呼び名のことなんだけどね」
 ぼくの熱弁を遮って、彼女はマイペースに話を続ける。気に、しちゃいないさ。こちとら、世の中に冷たくされるのには、慣れっこなんだ。
「圭ちゃんとか、圭くんとか、ありきたりな呼び名は嫌なのよ。あなたの前の恋人が、あなたを呼んでいたのと同じ呼び名じゃ、なんだか癪なの。必要なのは、あたしの、あたしによる、あたしのためだけの呼び名なのよ」
 おやおや。にわかにゲティスバーグ演説じみた高尚な話になってきたぜ。
「だからこそのニコラスなの。ニコラス・圭司(けいじ)。気の利いた駄洒落だと思わない? いままでだれもあなたをニコラスなんて呼ばなかったでしょう? だって、こんな平安時代の貴族みたいな地味顔を、いったいだれが好き好んで……」
 そこで彼女は「あっ」と口を塞いだ。
 いや、もう遅いから。気にしてないけど、申し訳なさそうにこっち見るの、やめてもらえませんかね。優しさが、逆に人を傷つけることだって、あるんだぜ。
 溜息をついてぼくはやけくそ口調で答える。
「ま、たしかにね。いままで何人か付き合ってはきたけど、だれにもニコラスなんて呼ばれたことはないよ。いいんじゃないの、きみがそう呼びたければ。まあ、しばらくはニコラスって呼ばれても自分のことだと気づかないで返事できないかもしれないけど」
「あたし、独占欲が強いの。重い女なのよ。あたしと付き合うの、たいへんなんだから」
 ふふふ、と彼女は悪戯そうに微笑する。そして、ふいに真顔に戻って、そっと囁く。
「好きよ、ニコラス」
 嗚呼、これだもんな! 変わり者で口は悪いけど、ひどく可愛いぼくの彼女。華奢で可憐で色白で栗色の長い髪は艶やかで。こんちくしょう、それで、たいていのことは、許しちまう。いや、彼女がたとえアンドレイ・チカティロばりの大量殺人鬼のカニバリストだって、ぼくが裁判長なら一審から三審まで無罪にするね。それぐらい、彼女は可愛いんだ。
そしてぼくも彼女の麗しい御名を口にする。
「ぼくだって愛してるよ、<b>ランヴァイル・プルグウィンギル・ゴゲリフウィルンドロブル・ランティシリオゴゴゴホ・寿限無寿限無、五劫のすりきれ、海砂利水魚の水行末、雲行末、風来末、食う寝る処に住む処、やぶら柑子、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグリーンダイ、グリーンダイのポンポコナのポンポコピーの長久命のルイジ・ディ・サヴォイア・デュカ・デグリ・アブルッチ級軽巡洋艦</b>」
 軍艦で締めるんかい。もはや、日本女性人名の原型をさえ留めていない。そしてとにかく、長すぎる。だけど、愛する彼女がそう呼べと言うのだから、仕方ない。
彼女はいったい、歴代の彼氏になんて呼ばれてきたのだろう。彼女の過去に、いったいなにがどれだけあって、彼女の呼び名はここまでアクロバチックな変遷と恐竜的進化を遂げてしまったのだろう。想像するだけでなんかもう絶望にも似た切ない気持ちでいっぱいになるけど、彼女を愛するぼくとしては、彼女の意向に従うほかない。そうじゃないか? 愛するって、過去も含めてすべてを受け入れることじゃないか? すごく男らしいこと言ってるようで、なんだかちっとも男らしく聞こえないのは気のせいかな? 
紅茶を啜りながら、彼女は満足げに微笑む。ぼくは、彼女の本名を、知らない。(了)
D坂ノボル
http://homepage3.nifty.com/decadence21/
2011年02月22日(火) 18時20分28秒 公開
■この作品の著作権はD坂ノボルさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
恋文です。

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No.5  鮎鹿ほたる  評価:40点  ■2011-03-19 10:56  ID:O7X3g8TBQcs
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こんにちは。
この作品のいいところは読んでる途中で
じゃ、彼女を彼はなんて呼ぶんだろう?
って感じさせられている点にあると思います。
壷にはまりました。

けいじだからニコラス
僕も昔、菊地ってやつにKだからドクターってあだ名つけたのを思い出しました。
No.4  のんべいキャサリン  評価:30点  ■2011-03-04 21:42  ID:8RZFFJ7S5.E
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何処が恋文なのかいまひとつわからないのですが、いつものD坂さんのユーモアがあふれていてこれは恋文なんだと納得させられました(笑)面白かったです。
名前って不思議ですね。時にその人をよく表してたりして不思議です。
紅茶に詳しいのですね。雰囲気を上手く紅茶のエピソードで引き立てているなと感じました。私も北欧の紅茶なのですがティーセンターという紅茶を愛飲しています。
小作品としてまとまっていたなと思いました。
今までに書いた作品が素晴らしすぎるので、今回の点数は軽く書いた作品に対してです。
また素晴らしい作品を読ませてください。
No.3  ゆうすけ  評価:40点  ■2011-03-03 11:16  ID:1SHiiT1PETY
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拝読させていただきました。

笑わせていただきました。彼女のキャラと主従関係がいいですね。可愛いから許す、恋は盲目、男の悲哀が切なくて笑えます。
さて長い名前、雑学に秀でたD坂さんならではの意外な場所からの引用ですね。地名と軍艦名、凄いですね。こういう悪ノリ、私は好きですよ。うちの親戚が猫にアナスタシアマルチンスカヤと名前を付けていたことを思い出しました。私だったら官位やあざなを付けたいな。

いつも確実に楽しませてくれることを期待して読ませていただいております。
私はD坂さんの毒が好きでして、今後も毒のある作品も読ませて欲しいと思っております。
No.2  楠山歳幸  評価:50点  ■2011-02-27 23:30  ID:sTN9Yl0gdCk
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 はじめまして。拝読しました。

 とても良かったです。
 呼び名だけの題材なのにドラマがあるなあ、と思いました。
 短い中にキャラが立っていて、彼女も主人公もとても可愛らしく感じました。
 主人公の「僕」は都合のいい彼氏なのでしょうね。でもなんとなくがんばれ、と思いました。

 楽しく読ませていただきました。
 拙い感想、失礼しました。


 
No.1  zooey  評価:50点  ■2011-02-23 00:51  ID:qEFXZgFwvsc
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初めまして、読ませていただきました。
とても面白いですね!
「ニコラス・圭司」、気の利いた駄洒落だと思います(笑)
そのほかにも、文章の中にユーモアがあふれていて、
ストーリーもですが、それ以前に文章を読むだけで楽しかったです。

そこへちゃんとしたストーリーも乗っかっていて。
前半、彼女への不満とも思える言葉を並べておいて、

>嗚呼、これだもんな!

以降から、盲目的な愛情を語ることで、その愛情の怪物的大きさが伝わってきました。
いやなところをたくさん知ってても、吹っ飛んでしまうっていう、自分でも制御のできない気持ちが愛情なんだなと感じました。

……が、ラストのオチも利いていました。
そんなに愛しているのに、本名を教えてもらえてない。
主人公が愛する女性がラストで一気に神秘的になり、ミステリアスになり、
だからこそいっそう彼の盲目的な愛情も際立ちました。

楽しく読ませていただきました。
また、読ませていただきますね。
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