最終走者(アンカー)から観た黒猫(オーメン)
 起きた。
 と、気付くまでに、十秒は使ったと思う。ぼやけた天井が目に映る。視点が合っていない。虚空をさ迷う目の焦点を天井にピタリと合わせて、夢と現実の区別を付ける。夢じゃない。現実だ。
 ゆっくりと上半身を起こす。背中が痛い。どうやら、また布団に入りそこねたらしい。電気カーペットの上で寝転んでいた。腰から上を左右に回して軽い体操をする。固まった体が小さく悲鳴を上げた。
 今は、何時だろう。窓の向こう側は、黒いペンキを塗りたくったように真っ黒で、その向こう側には情けなく髪を跳ねた自分がこちらを見ている。
 頭を片方の手でボリボリと掻きながら、もう片方の手を電気カーペットの上に這わせる。枕がわりにしていたクッションの傍らに無造作に置かれていた携帯電話を探り当て、サブディスプレイを覗いた。午前五時を過ぎたところだ。朝だった。予想外の時間の流れに驚く。自分が予想していた時間とのズレが、奇妙な違和感によって、強制的に修正される。
 今は、現在は、朝の五時だ。月曜日の、朝の五時だ。平日の朝の五時だ。
 ……月曜日、平日の、朝の五時?
 僕は頭を左右に一回ずつ振り回して、机の上を見た。白紙のページが開かれたノートと、何冊かの教科書が並んでいる。B5サイズのノートの上に、芯の出ていないシャーペンと汚れた箇所のない白い消しゴムが転げてある。宿題だ。手をつけた様子は無い。
 もう一度携帯電話を見る。時間は数分しか変わっておらず、日付は相変わらず月曜日、時間は朝の五時。

 嘘だろう?

 この宿題は今日が提出日だ。なのに、白紙だ。何でだ?
 二日間も休日があったのに、ノートは白紙だ。何でだ?

 思い返す。土曜日、休日一日目。
 昼の十二時過ぎに起床した。遅めの朝食(もはや昼食)を食べながら、後一日あるじゃないか。明日一日使ってゆっくりと片付ければ良い。今日は体を十分に休めよう。明日の自分に宿題の処理を任せた自分がいた。

 日曜日、休日二日目、昨日。
 朝の九時に起床する。机の上にノートを広げて教科書を並べ、いざ、という瞬間に携帯電話が震えだした。友人からの、ボーリングへ行かないか、という誘いの電話だった。考えた。ボーリングは魅力的だった。最近はテスト勉強ばかりで、気の晴れない日が続いていた。友人の思いも同じようで、何人かで集まって気を晴らそうじゃないか、という提案だった。計算した。夕方には帰ってきて、それで夜まで頑張って片付ければ良い。夕方からの自分に宿題の処理を任せた自分がいた。

 だけど、夕方に僕は家に帰らなかった。
 友人達と夜遊びをしていた。夜の街を歩きながら、考えた。今日は徹夜だ。寝ずに朝まで一心不乱に宿題を片付ければ良い。夜中の自分に宿題の処理を任せた自分がいた。
 
 そして、夜中の十二時過ぎだ。
 遊び疲れて帰ってきて、夕飯を食べて、風呂に入った。さあやるぞ、と机に向かい筆箱からシャーペンと消しゴムを取り出した。その途端に、睡魔が襲って来た。ふっと目の前の景色が黒くにじむ。白いノートが黒く染まっていく。瞼を必至に開きながら、携帯電話で時間を確認する。一時間だけ、寝よう。起きたら空前絶後の頑張りで宿題を片付けよう。今の僕に宿題の処理を任せた自分がいた。

 一時間の仮眠のはずが、ちゃっかりすっかりたっぷりすっきり、五時間の睡眠を取ってしまった。
「これは、やばい。ヤバイ」
 ヤバイ、と言ってはみたものの、あまり危機感を感じていない自分がいた。眠気のせいだろう。中途半端に睡眠を取ってしまったから、まだ寝足りないと脳味噌が思考活動の活発化を妨げている。危機感を放棄して、活動を停止させようとしている。
 後悔が襲って来た。二日前に、土曜日に、十二時過ぎに起きて遅めの朝食(もはや昼食)を食べていた自分が、宿題を片付ければ、それでハッピーエンドだったんだ。そうしていれば、今頃の僕は夢の中で感動のエンディングを、名前がひとつしか出てこないスタッフロールを見ていたに違いない。何故、未来の自分なら出来ると、そう思ってしまったんだろう。人間は未来に希望を託し、過去に絶望を植えつける生き物だ。そんな生き物の、愚かな性質を、僕は、呪う。

 だが僕は、自分の思い通りにはならない。なることは出来ない。二日前の自分から、次々と期待されて回ってきた挙句の果てが、今の僕なのだ。今の僕には期待すべき未来の僕はいない。すなわち僕がアンカーだ。この渡されて来たバトンは、僕がゴールまで走って持っていかないといけない。
 今一度、現在時刻を確認する。月曜日の、朝の、五時半になろうというところだ。学校へと出発する時間は、七時四十分。いまから約二時間後。それじゃ駄目だ。間に合わない。ならばどうする。簡単だ、バイクを使おう。先月取得したばかりの、原動機付自転車の運転免許を、今こそ使うのだ。そうすれば、いつもなら徒歩で一時間は掛かっていた道のりも、三十分、いや、もっともっと短縮出来るだろう。自分のバイクは持っていないが、兄貴のバイクを使わせてもらおう。今日は兄貴のバイトは休みだ。大丈夫だ。行ける。やれる。
 よし、そうと決まれば、とりあえず

「コーヒーを買って来よう」
 先刻から瞼が重たくてかなわない。まずはこの甘ったるい眠気を吹き飛ばさなければ、出来る計算も出来ないだろう。真冬の外に出て、自販機にコーヒーを買いに行けば覚醒は間違いない。
 僕は上着を着て、首にマフラーを巻きつけた。
 
 玄関から外に出ると、顔に冷えた空気がぶつかって砕けた。思わず両肩を窄めてマフラーに顎を埋めた。人知れぬ間に雨でも降っていたのか、地面は湿り、辺りには濃い霧が漂っている。人間はおろか、カラスと鶏も寝ている時間だ。まだ空は暗く、黄色い満月が薄い雲に滲んでいた。まるで、泥水の中にビー玉をひとつ沈めたような、そんな感じだ。
 僕は上着のポケットに両手を深く沈ませて、暗い坂道を下り始める。吐き出す息が、マフラーを僅かに湿らせた。
 車の通りが少ない山道を降りる。自販機は徒歩で十分と行った所にある。時折車道を通り抜けるトラックのヘッドライトが、僕の顔を照らして行った。遠い感覚で立ち並ぶ街灯が霧を光で浮かばせている。オレンジ色のカーブミラーは磨りガラスのように曇ってしまって、ミラーとしての機能を果たしていなかった。こういった日に、交通事故が起こるのかもしれないな。なんて、気楽に考える。
 突然、道路脇の茂みから、黒い物体が飛び出してきた。驚いて足を止める。歩道の真ん中に姿を表したのは、黒猫だった。真っ黒な体をしたその猫は、こちらを一瞥すると首を傾げて、音もたてずに去っていった。黒い体を闇に溶かして、目の前を横切った不幸の象徴は、少なからず僕を怯ませた。

 自販機が見えた。闇に包まれた街の中で、ポツリと光り鎮座する三つの自販機は、まるでダンジョンの中のセーブポイントの様だった。
 国道沿いにある自販機は、なかなかどうして品揃えが良かった。僕の財布もそれに気を良くしたのか、小銭ポケットから五百円玉を一枚出してくれた。というより、五百円玉しかなかった。缶コーヒーを一つ購入する。手の中で転がして、冷えた両手を暖めた。
 踵を返して帰路に着く。予想以上の気温の低さが、僕の足を早くしていた。

 最後の上り坂に差し掛かった辺りだった。降った雨が凍ったのか、地面が滑りやすかった。僕は完全に油断をしていた。凍りついた地面に足を取られた。自分の体が前のめりに傾く瞬間、先の黒猫を思い出した。記憶の中で、不幸の象徴は僕を一瞥して首を傾げた。近づく地面を眺めながら、なるほど、と頭の中で手を叩いた。
 だけど、なんとか踏み止まって、地面との衝突は免れた。傍からみたら一人で奇妙なダンスをしているように見えただろう。それほどに奇っ怪なステップを踏んで、僕は地面との衝突を回避した。地面に転がった缶コーヒーを拾う。
 誰に見られたわけでもないはずなのに、気恥ずかしさに襲われて、さらに足を早めた。
 なるほど、黒猫は不幸の象徴と言うより、考えようによっては、不幸を前もって知らせてくれる人生のアドバイザーなのかもしれないな。そんな楽観的な思考が頭をよぎる。

 自室に戻ると、思いのほか息が切れていた。体もいつの間にか温まり、上着を来ている必要もなくなった。
 机の前に座り、早鐘を打つ鼓動を落ち着かせる。
 缶コーヒーをひとつ開けて、喉の奥に流し込んだ。既にぬるくなっていた。だが、電球に光りが灯ったかのように、頭にかかっていた靄が晴れた。だんだんと思考がスッキリとして来て、冷静な自分が目を覚ます。
 考えた。そして思い出した。
 兄貴が昨日から、バイトの休みを利用して友人達とバイクで遠出していることを。
 そもそもうちの高校はバイク通学が禁止だということを。
 休日二日を使わないと処理できない宿題は、二時間では到底処理することは不可能だと言うことを。
 ……。
 …………。
 ………………。
「は、八方塞がりだ」
 もう僕には、託すべき未来の自分が、いない。

 ちゅんちゅん、と。鳥の鳴き声が聞こえた。窓の外から見える空は、明るみを増して来ている。
 黒猫を思い出す。記憶の中の不幸の象徴は、やはり、不可避の不幸を嘲笑って去っていった。
 ため息を吐く。目の前が暗くなった。気が重かった。
 コーヒーを飲む。もう冷たくなっていた。ただ苦かった。
しぐれ
2011年01月28日(金) 10時15分00秒 公開
■この作品の著作権はしぐれさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
久しぶりに投稿させてもらいました。
行き詰ってしまって、頭を抱えていたので。とりあえず何か書いてみようと思い、書かせてもらいました。
オチが薄く、インパクトも有りませんが、あまり設定を凝ることも無くぱぱっと気楽に書いてみました。
感想、ご意見、ご指導等がございましたら、是非、コメントしてもらえると嬉しいです。
ご鞭撻のほど、よろしくお願いします。

(タイトルがシンプル過ぎたので、変更しました。)

この作品の感想をお寄せください。
No.6  しぐれ  評価:--点  ■2011-02-04 18:37  ID:CWtu6ZAOC0A
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>ふうさん

お読みいただきありがとうございます。

テンポよくスッキリと読める。という感想は、読みやすい小説を目指している僕にとってはとても嬉しいひと言です。
自分で1から想像したイメージを読み手に共感してもらうのも勿論難しいですけれど、自分の経験からのイメージを共感してもらうのも大変ですね。
そういう意味では、この小説のキモである「学生が抱く宿題への恐怖」というイメージがうまく伝わったようで、安心しました。

貴重な感想、ありがとうございました。
また機会がありましたら、どうぞよろしくお願いします。
No.5  ふう  評価:50点  ■2011-02-04 13:47  ID:4F3CKBYKZHI
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はじめまして、拝読させていただきました。

感想と言うほどの物が出来るかどうか分かりませんが、とてもテンポよくスッキリと読める内容になっていたと思います。

切羽詰まっている人間がテンポよく書かれているとそれだけで不思議と面白くなってしまうんですね。

複数の僕が時間を変えてすべきことを後回しにし、今の僕にバトンが回ってくるという描写が新鮮で、気がついたらニヤけながら読んでました(笑)

学生で放置癖のある自分にはとてもほろ苦く、後ろ指を指されるようなこそばゆい作品でした。でも面白かったです。どうもありがとうございました。
No.4  しぐれ  評価:--点  ■2011-02-02 20:18  ID:CWtu6ZAOC0A
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>クロさん

お読みいただきありがとうございます。

比喩表現についての感想、大変嬉しいです。自分も学生の身なので、そのアドバンテージを活かして執筆してみました(苦笑)。
学生にとって、宿題に対する気持ちは大小あれど同じだと思いますので、こういう雰囲気は伝わりやすいかな? と思っていましたが、クロさんの感想を聞いて、安心しました。

頂いた感想は、これからの執筆に対しての励みになります。ありがとうございます。
また機会がありましたら、どうぞよろしくお願いします。
No.3  クロ  評価:50点  ■2011-02-02 17:46  ID:/absj6w31.Y
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拝読させていただきました。
未熟者ですが感想を書くことをお許しください。

zooey様と同じく、多彩な比喩表現に心を奪われました。
特にセーブポイントのような〜。の部分は情景が頭に浮かんでくるようです。
一応学生の身でありますので、主人公の心境が自分とシンクロするような部分が多々有り、入り込んで読み進めることができました。何度も「あるある。」と苦笑いを浮かべながら読ませていただきました(笑

楽しい時間をありがとうございました。
No.2  しぐれ  評価:0点  ■2011-01-30 04:53  ID:RIBmSLEGg.U
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>zooeyさん

お読みいただきありがとうございます。

お褒めの言葉を貰い、大変恐縮です。
語り部の、白紙の宿題に対する恐怖は、「些細(?)なことに必至に取り組む」という一種のコメディ的な要素として受け取ってもらえたら、幸いです。
しかし、完結した物語に説明は不要なので、指摘された以上、なんらかの説明または描写の不足、コンテクストのズレがあったのだと思います。改善の努力をします。

僕の場合、気合を入れて執筆に挑むと、気負って空回りしてしまい、文章や物語の脈略が狂ってしまうことが数々あります(汗)。ので、あまり気負わずに書いた方が良いのかも知れません。

頂いた感想とご意見は、これからの執筆に向けて大変参考になりました。ありがとうございます。
また機会がありましたら、よろしくお願いします。
No.1  zooey  評価:40点  ■2011-01-30 01:02  ID:qEFXZgFwvsc
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初めまして、読ませていただきました。

丁寧な表現の節々にユーモアがあり、読んでいて楽しく思いました。
特に、比喩のセンスがイイですね。本気でうらやましいです(笑)

ただ、仕方ないのだと思うのですが、宿題、忘れることにそこまでの恐怖があったかなぁ、
いざとなれば、解答を写してしまうだろうけどなぁ、
なんてことを考えてしまいました。

気楽に書いて、こんなにいい作品が書けるということは、
本気モードだと、どんな作品を書かれるのだろうなぁ、と思ってしまいました。
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