フラッシュバック











 真冬の空は光を失い、闇による永い支配が始まった――

「明日って言ってたのに……」
 そうつぶやきながら、僕は病院へと車を飛ばしていた。本来なら、明日の予定だった――僕の子どもが生まれる日の話だ。明日はちょうど仕事が休みだったので、今日はきっちり仕事を終えて、満を持して明日を迎えたかったのだ。
 それなのに、急に陣痛が来ただなんて――誰に似たのか、どうやら我が子もマイペースらしい。仕事を切り上げて早めの退社をした僕は、日没後の環状線を真っ直ぐ突き進んでいった。
 初めて夫になったのは去年のことだが、今日は初めて親になる記念すべき日だ。急展開のため心を整えるのが遅れていたが、我が子に早く出逢いたいという気持ちがようやく沸々とこみ上げてきた。僕はアクセルを更に踏み込んで、エンジンを鳴かせてみせた。ふと速度メーターに目をやると、時速百キロが表示されていた。視線を前方に戻した次の瞬間、僕の前を走っていたワゴン車が急に止まった――僕は慌てて急ブレーキを踏み込んだ。車はキキーッという甲高い悲鳴を上げて、大きな反動に僕は否応なく前のめりになる。
 ――追突してしまったのだろう、あと二十センチ進んでいたら。
「何だよ、急に!」
 僕は苛立って、まさに目の前のワゴン車を睨みつけた。
 だが、あたかも強く自己主張しているかのような、漆黒の中で赤い光を放つブレーキランプが目に飛び込んでくると、ふとあの時、、、の光景が蘇えった――Aのことだ。

 Aとは、小学校三年生の時に同じクラスだった――Aは障害を持った男の子だった。その左目は常にまぶたに塞がれていて、視力を失くしていた。
 まだ幼かった僕らは奔放で気遣いを知らず、Aに関わろうとはしなかった。Aの無口な性格も手伝って、彼はいつも一人でいた。
 そんなAと僕が接点を持ったのは、冬休み明けの寒さが厳しい日のことだった。東京に珍しく雪が積もり、見渡す世界を白く染めた。そうなれば、休み時間に僕らがやることは一つしかなかった――そう、雪合戦だ。普段は味気無い褐色が広がる校庭も、この日ばかりは気の利いた遊び場をあしらって、僕らは手当たり次第に雪玉を作っては投げ合った。
 不意に、僕の後頭部に雪玉が命中した――犯人は野球部の、アンダースローで鳴らす友達だった。ドカベンの里中を彷彿させるそのフォームから放たれる球は、威力にこそ欠けるがコントロールは正確だった。
「あ、このヤロー!」
 僕はやり返そうと雪を強く握り締め、硬球を作って追いかけた。友達は咄嗟とっさに、Aが一人で楽しそうに作っていた、育ち盛りの雪だるまの陰に逃げ込んだ。僕は物陰に隠れる敵を見事に打ち抜くギャングの気分で、僅かに覗いた友達の顔を目がけて、雪玉を思いっ切り投げ付けた。だがその時、手元が狂ってしまい、雪玉は無防備だったAの右目を直撃した。
「痛っ!」
 叫び声を上げて、Aはすぐその場にうずくまった。
「へへ、ハズレー」
 友達は楽しそうに、僕におどけてみせた。その直後、チャイムが鳴った。
「ヤベッ、授業始まるぞ!」
 友達は焦って走り出した。僕も友達に続いて走り出したが、Aの様子がどうしても気になった。 一瞬振り返ると、雪だるまの足元が紅く染まっているように見えた。
 それから何十分経っただろうか――救急車が校庭に入ってきて、Aが搬送されていった。
 僕はずっと胸騒ぎが収まらなかった。Aのことばかりが無性に気になって、その日は結局一睡もできないまま朝日を迎えた。

 そして、僕の悪い予感は現実になった――。
 先天的に片目を失くしていたAは、後天的にももう片目を失うことになった。その瞳には永遠に夜が訪れたままで、二度と朝日を映すことはできなくなったのだ。
 Aのことを思うと、僕の中で幾つもの感情が交錯した。ただひたすらに申し訳なく思う気持ち、自分を責める気持ち、Aの今後を憂う気持ち――だが最も強く湧いた感情は、Aがその怒りによって、僕への復讐心に燃えているのではないかという、恐怖心だった。両目を失くしたAにはもう何も失うものはない気がして、もし恨まれたら、と思うと恐しくて仕方がなかった。
 単にAの性格のためか、それとも忌まわしい記憶を呼び起こしたくなかったからなのかはわからない――Aは、右目を失った原因を誰にも話そうとはしなかった。Aの親や先生も、深く追及しようとはしなかった為、僕が責めを受けることはなかった。
 救われた僕は自らのことを公にはしたくなかったが、それでもAに謝らずにはいられなかった。会って許しを請わなくては、胸の中にずっと潜んだままのモヤモヤが消えない気がした。
 Aが退院し、自宅療養していることを知って、僕はAの家を訪ねた。しかし、何だか怖気付いてしまって、家の前まで来ながら、それ以上Aとの距離を縮めることができない。
 何度Aの家を訪ねただろう――ついに、僕はAに謝ることができなかった。

 僕の心を象徴するかのような、暗いグレーの雨雲が空を覆った日だった。窓側の席に座っていた僕は、希望の光を探すように外の景色ばかり眺めていた。
 一瞬の出来事だった――窓のすぐ外に、頭から落ちていく人影が見えた。Aのことばかり考えていた僕は、それが彼だと瞬時に認識した。そして、Aと一瞬だけ、目が合った、、、、、気がした――。
 直後に、一人の女子が「キャー!」と叫んだ。
「どうした!?」
 先生が聞くと、叫んだ女子が驚いたまま答えた。
「今、外に……人が、人が落ちていって……」
「何!?」
 そう言うと先生は窓から身を乗り出して、下を見た――そして、すぐに先生は叫んだ。
「見るな!」
 その声は、窓側に座っていた僕らに向けられていた。
 だが僕は、事態を確認せずにはいられない衝動に駆られ、先生の制止を振り切って窓から下を見た。
 Aが、無残な姿で横たわっていた。黒いアスファルトの上には、その頭から飛び散った鮮血が放射線状に描かれていた。

「あれから二十年くらい経ったのか……」
 ランドセルを背負っていた僕が、こうやって車を運転し、自分に子どもができることに、時の流れを感傷的に想った。

 あの目が合った瞬間、僕はAから何か無言の主張を受けているような感覚に囚われた。 誰のせいで自殺に追い込まれたのか――その“犯人”に向けられた眼差しだと解釈すると、最もしっくり来る答えに思えた。
 彼の死後、僕は途轍もない恐怖心に襲われた。もし、遺書に僕の名前が載っていたら――Aの右目を奪ったことが知られたら――僕はどうなってしまうのだろう。世界の終わりに等しい絶望感が、僕を包み込んだ。
 だが、遺書は見つからなかった。もしかしたら、全て明るみに出た方が僕は楽だったのかもしれない。彼が自殺した理由――光を見失い、生きる希望をも失った真実――は、僕だけが知り得たまま生きていくことになった。僕はまるで見えない十字架を背負っているような、決して拭えはしない罪悪感をいつも共にしていた。

 何年自らの過ちを悔い、苦しめられ続けただろうか。疲れ果てた僕はいつしか、無意識にあらゆる考えを浮かべて、自らの罪から逃避しようとしていた。
 小学生時分だった僕は、精神的に未熟だった。Aに謝れなかったのも、当時は不器用でその術を知らなかったからだ――それは致し方ないのではないか。それに謝ろうという気持ちはあったわけで、行動以上にその気持ちが大事なのではないか。
 そもそも、Aの自殺は本当に僕と関係があるのだろうか。遺書もなく、僕の考えていることは全て僕の一面的な推測に過ぎない。万が一、僕と無関係だったら、自らの責任を問い続けた僕はむしろ謙虚で模範的な人間ではないか。
 それに盲目で人付き合いの苦手だった彼は、社会に適合していくことも難しく、いずれは同じ末路を辿るのではないか――僕の頭は、事実と僕の無罪を強引に結び付けるように、都合よく働いてみせた。その責任を、自分のものとして直視することを避ければ、苦しみが和らぐことを僕は学んだ。
 また、真実を共有できる人がいなければ、また慰めてくれる人も僕自身しかいなかったのも事実だった。
 そんな保身を少しずつ受け入れられるようになってきたのだろうか。時が経つに連れて、僕は背負っていた十字架の重みから次第に解放されていった。

 ――Aのことを思い出すのは、随分と久しぶりな気がした。そして、こうして思い出すことが、何だか必然であるような気分に陥った。何故だろう――。
 おそらく今、新しい命の誕生を目の当たりにするという時に、命の尊さを想い、それにまつわる過去を思い出したのだろう。
 だがAのことを思い出しても、自己批判に苦しめられることはなかった。十字架はもう、僕の背中からは消えていた。

 病院に着いた僕は、分娩室へと急いだ。我が子の誕生に今まさに立ち会うのだと思うと、何とも言えない高揚感が僕を包み込んだ。分娩室の前まで来ると、顔見知りの看護士さんが僕を待っていた。
「あ、先程生まれましたよ!」
 ――残念ながら誕生の瞬間には立ち会えなかったらしい。だが、早く子どもを見たいという気持ちが変わることはない。僕は期待を胸に分娩室の扉を開け、中へと入っていった。
 ――居た! 他でもない、僕の子どもだ! すぐに壊れてしまいそうな小さなその体から、僕は無限に広がる大きな存在感を感じていた。大役を果たし、横になった妻を見ると、彼女は僕に無言でうなずいてみせた。僕は自然と笑顔がこぼれ、無言でうなずき返す。
 目を閉じたまま泣きじゃくる我が子の姿は、何とも愛らしい。僕と妻のどちらに似たのだろう――早速確認しようと、僕はその顔を覗き込んだ。その瞬間、まだまぶたの開かない我が子と、目が合った、、、、、気がした。
 この感覚、どこかで――僕はハッとした。嫌な直感が、僕の笑顔と幸せな気分を一瞬で奪い去った。まぶたが開かないのはおそらく、生まれたばかりだからなのではない――。
 あの時、、、と同じ表情だ、まさか――僕は首を素早く振って、辺り一面を見回す。ホッとした笑顔の妻は、何も知らないようだ。そして僕は、このおめでたい状況の中、暗い顔のままうつむいた担当医の先生に気付いた。
「先生……」
 僕の声に、先生は少し驚いた様子を示した。だが、僕が先生と同じような、深刻な空気を醸し出していたのだろう。先生はすぐに察したようだった。
「ちょっと、こちらへ……」
 そう言って先生は、僕を廊下に導いた。
「非常に申し上げづらいことなのですが……」

 先生が明かした真実は、僕が危惧した通りのことだった――我が子は生まれながらにして、この世に存在するあらゆる美しいものを見る権利を失った。そればかりか、醜いものを知ることすら許されないのだ。我が子の視界に訪れた闇は、同時に僕の心にも暗い影を落とした。僕は、自分が犯した報いを自分で受けている気がしてならなかった。

 気持ちが整理できないまま分娩室に戻ると、妻が僕に言った。
「ねえ、あなたの子よ。抱いてみて」
 日差しが明るいほどその影を濃くするように、嬉しさに満ちた妻に打ち明けることは酷だと思えた。
 我が子を抱いた瞬間、またAの記憶が鋭く脳裏をよぎった――背中から消えていたAの血塗られた十字架を、僕は今抱え込んでいるんだと気付いた。そしてそのまま生きていくのだろう、これからずっと。我が子を抱きながら、体重以上の重みに、そんなことを悟った。
「すぐに大きくなるんだろうね。そのうち、抱えられなくなっちゃうんじゃない?」
 妻の何気ない言葉に、僕は人生で最も下手な愛想笑いを演じた。

 だが、そういうわけにはいかない――。僕には人生をかけて、我が子を支えていく責任がある。目が見えない苦しみを共にし、その痛みを分かち合わなければならない。
 そして、たとえ目が見えなくても、生きることで希望の光が見出せるということを、いつか我が子に教えてあげるのだ。
 それが、Aに対する償いでもあるのだから。
桜井隆弘
2011年01月17日(月) 00時59分36秒 公開
■この作品の著作権は桜井隆弘さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
お読みいただきまして、ありがとうございます!

前作とは雰囲気をガラッと変えてみました。
自分には無関係だと言い訳して逃れた責任が、より身近なものとなった時、はじめて人はそれを重く受け止めるような気がします。
何か感じていただけるものが少しでもあれば、幸いです。

この作品の感想をお寄せください。
No.4  桜井隆弘  評価:--点  ■2011-01-25 00:24  ID:kDCQnIbv2M2
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>ゆうすけさん
僕も基本的にはキャラクターに名前を付けるのですが、今回はA君があまりにも可哀想な設定だったのであえて伏せることにしました。
「必然性」……「十字架」というテーマと併せて、処女作を意識して重ねた作品です。ラストは(処女作に比べれば)少しは希望を見出すように締めました。ちなみにランドセルなんて言葉も織り込んだりして(笑)
そうですね、罪悪感がある限り、Aに許してもらいたいという感情は尽きないんでしょうね。

ご懐妊おめでとうございます! お子様の五体満足を心よりお祈りしています。


>Physさん
まず、Physさんの誉め言葉と思わせぶりに磨きがかかっているように感じました。調子に乗らないよう、今後も気を引き締めていきたいと思います。
……あ、でもお褒めの言葉ありがとうございます(笑)

一点目のご指摘については、先生が生徒たちに問い、教訓めいたことを言うシーンを描こうかなとも思ったんですが、そういった教訓が本筋と逸れてしまったり、コンパクトさを欠いてしまうかなと思い割愛しました。……すいません、単に僕の怠慢ですね(苦笑)
リアリティのある作品を描く上で、Physさんのご指摘は相変わらずご参考になります。

二点目はそうですね、意味を複数持つ言葉のチョイスは避けた方がいいですね。今後気を付けます。

Physさん好みな書き手さんになれるよう頑張りますので、今後とも導いていただけると嬉しいです(笑)


>zooeyさん
僕はどちらかというと情景的な描写だったり、凝った表現が苦手なので、(自分の中にある)心理描写主体な作品が多くなりがちなんですが、評価していただけると嬉しいです。

年齢設定はそうですね、小三に相応しくない心理描写でしたね。完全に僕のミスです。
ただ、ランドセルってワードを出したかっただけかも(苦笑)
No.3  zooey  評価:40点  ■2011-01-18 12:28  ID:qEFXZgFwvsc
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はじめまして、読ませていただきました。

人間の心理をきちんと捉えた作品だと思います。
「申し訳なく思う気持ち」よりも「恐怖心」が勝っていたり、
自殺の後に、自分の身を守る理屈を考えて罪の意識から逃れたり、
そういう部分に、何か人間味を感じました。

文章もとても読みやすかったです。

ただ、気になった点は、年齢です。
小3というのは、こういう苦悩を持つには幼すぎる気がします。
そのくらいの年齢では、自分の不安感をここまで明確に言語化はできないはずです。
言葉を知っているとかいないとかにかかわらず。

それに、習い事の時は必ずお迎えにおうちの方が来るような年齢なので
様子の変化に大人が気づき、話を聞いてあげるというのが、自然な気がします。

たぶん、こだわりがないのであれば、年齢設定はもう少し上にしたほうが自然だと思います。

でも、私みたいな未熟者が言うのも変なのですが、とても優れた作品だと思いました。

また読ませてください。
No.2  Phys  評価:40点  ■2011-01-18 10:20  ID:xLdBwQPeFUs
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拝読しました。

まず、読み易さと安定感に磨きがかかっているように感じました。冒頭から
一切詰まることなく最後まで読めましたし、ストーリーラインも桜井さんの
伝えたいメッセージを上手く伝えられているような気がしました。

主人公の感情の流れもすっと入ってきましたし、短い中にも桜井さんの思い
が濃縮されているお話だと思います。コメディもさることながら、こういう
シリアス調にもよく合う誠実な書き口ですね。羨ましく思います。

ただ一つだけ、リアリティというか、気になる点がいくつかありました。

まず、「なぜAに雪玉を当てたことが、周囲に露見しなかったのか」です。
私の経験上、こういった事態の時には先生が事情聴取まがいのことをして、
状況を生徒たちに尋ねるものかと思います。教育委員会へ報告などもある
でしょうし。ですから、その日に外で遊んでいた主人公も問い詰められて
然るべきと感じました。

もう一つは、
>そして僕は、このおめでたい状況の中、暗い顔のままうつむいた担当医の先生に気付いた。
の「おめでたい」は「歓迎すべき」の方がしっくりくる気がしました。丁寧語
だと、私はどうしても「おめでたい奴」のように、皮肉な印象を受けてしまう
からです。

なんだか自分のことを棚上げしつつ、的外れの指摘、ごめんなさい。(汗)
私はいちおうファンの一人なので、自分好みな書き手さんにしちゃいたい、
なんて思いがあるのかもしれません。好きなアイドルグループの追っかけ
をしてるみたいで恥ずかしいですけど…。

また、読ませて下さい。
No.1  ゆうすけ  評価:30点  ■2011-01-18 09:14  ID:DAvaaUkXOeE
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拝読させていただきました。
読みやすい文章で、自己保身と罪悪感に揺れる感情がスムーズに伝わってきました。特に、謝りたくても謝れなかった所が秀逸です。細やかな感情描写がいいですね。
私の個人的な意見なんですけど、各キャラクターには、AとかBとかではないで、個人名か愛称のようなものを付けた方が感情移入できるんです。A君にも名前が欲しいと思いました。
Aの自殺と、我が子の盲目、この二つは偶然のようでもあり必然のようでもありますね。私の解釈ですと、これらは偶然であり、Aに対しての罪悪感と罪滅ぼしの感情が主人公に芽生えたように思えました。Aに対しての申し訳ない気持ちを、もっと表現した方がいいように思えます。それが欺瞞であろうとも、Aに許してもらいたいみたいな感情描写もいいかな。子供にAの名前を付けるとなるとちょっと重すぎるかな。

それにしても、新機能をうまく使いこなしていますね。ラストの子供の写真とか。今ちょうど妻が妊娠してましてね。子供が五体満足であるか、これは重い話ですね。
総レス数 4  合計 110

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