災　難

あっ！という間の出来事であった。 　古ぼけた自転車に乗った老婆が、田んぼの真中の、ずっと向こうまで伸びている一本道の左端を，前のめりの姿勢でペダルをこいてところを、後ろから来た乗用車が追い抜いた直後、自転車もろとも転倒したのだ。 　なに、その車が自転車に接触したとか，引っ掛けたとか，そういう大層なことではではない。 　乗用車は前方から来た大型トラックの物凄い勢いに圧倒された形で，擦れ違う際，一瞬，一メートル近くまで接近したことは確かだが，婆のアクシデントは，たまたま、舗装された部分と、道路端の未舗装部分との，三センチほどのギャップのところで前輪をすべらせたと言うだけのことであった。 　婆は直ぐ起き上がると，辺りをキョロリと見回したが，見ているものが誰もいないと知るや，途端に，イテテ，イテテと口走りながら，顔を顰め，裾を捲くり上げ，擦り剥いた膝頭を見つめてながら，指先に唾をつけ，こすりつけた。 　赤く血の滲んだ傷が，しくしく傷んだ。 「ざまあないわい。コンチキショウ」 　しゃがみこんだまま，婆は，腹が立って，腹が立ってしようがなかった。 「やあーい。バカヤロウ」 　走り去る乗用車の後に罵声を浴びせたが、そのとき，車は一時停車したものの，ちょっとしてから直ぐ動き出し，だんだん小さくなる一方だった。 「バカヤロー」 　虫が収まらず，もう一度怒鳴った。更に腹が立ったのは，昼飯前、嫁の、 「ばあちゃんよ、そう，もたもたしとっては話にならんがね。ちったあ、シャキンとして、シャキンと」 　と言ったことだ。そのシャキントが，突然胸を突き上げてきて，なんともかんとも，はらわたが煮えくりかえって仕方なかった。 「どいつもこいつも。ひとをコケにしゃがって」 　思えば思うほど腹立しい。 　近頃の息子と言えば，嫁の尻の下敷きになりはこそすれ，自分には，優しい言葉をかけたこともなく，土産に羊羹，一本買ってきたこともない。それどころか， 「なあ，おっかあよ，それ，もうちょっと，なに，それ，その畑の草のことやがよ。丁寧に採らんとよ，二度手間やでよ。なあ，あ」 　嫁のつげ口であろう。父っつあんが生きてござりや，いいつけてやるものを。何とか，あいつらを懲らしめる手立てはないものか。婆は，炎天の道端で，ふと，思いつくことがあった。 　先の車が一時停車したのは，自分のことを気遣ったに違いない。そりゃあそうだろう。人様をひっくり返しておいて逃げりゃあ，ひき逃げになる。婆はそのように思い詰めた。 　きっと，バックミラーに俺の姿を映し，心配しながら走っていったことだろう。これはえらいこった。そうだ，こうしてしばらくうずくまっていりゃあ，たちまち，あいつの良心が病んで戻ってくるに違いない。 「婆あ様よ，大丈夫かい」 　早速，冷房の効いた病院に運んでくれるだろう。そればかりでない。見舞金やらなにやら，それに，倅が目を剥いて驚くだろうが。嫁もこれで嫌味を言うこともあるまい。これは大したもんだ。 　婆は，我ながらええこと考えついたとほくそ笑んだ。そこで早速，脚をくの字に曲げ，顔を田んぼの方に向けて横になった。 　婆が自転車でここまで来たのは，スーパーでの買い物帰りだった。何，大した買い物ではないが，大判焼き五個と，大層古びた下着の替え，二枚であった。 　このスーパーは村中の美人を集めたというだけのことはあって，普通の店の主婦が多いのに比べ，女店員目当ての若者で賑わった。それらの中には，人妻店員にちょっかいをかけ，その亭主にこっぴどい目に合わされそうになったという者もいる。 　それが新聞種になりかけたので，経営者が女店員の亭主に金を払い，もみ消したという噂がある。 　婆が自転車もろともひっくり返った頃，たまたま，この店で，年は二十七，八才ぐらいの男が，先日のディートで，なにしたとき，彼女にダサイと言われたことから，やけに派手なパンツ二枚と，お袋に頼まれたクリームコロッケ一包みの買い物を済ませ、置いてある自分の車のところに来ると、そこを一回りして車体を確かめて見た。 　なに、買ったばかりのピカピカ新車だったからだが、ひょいと見ると、左ドアーの裾辺りに十五センチほどのかすり傷がついて，少し凹んでいるではないか。思わず、ギョッとなって，チキショウと言った。どうせ自転車で来た主婦が無神経に，ペダルを漕いだ瞬間付けていったものであろう。 「チキシヨウ」 　同じことをもう一度言うと、そこにしゃがみこみ、丹念に傷を眺めてみた。諦めきれず、あたかも、生き物をいたわるかのように何度も何度もそこをさそってみては、立ったり座ったりした。 　やがて、車に乗り込んでみたものの、もう一度降りてきて、その傷を撫ぜてみた。それから、やっと車を出した。 　たった一軒の、田舎町にあるのスーパーだから近在の農家からやってくる自転車利用の客が多いのも事実だった。 　彼も、ここから十五キロほど先で親父が農業を営む実家から，車でこの町の農協に通勤しているのだが、お袋に頼まれたクリームコロッケが災いの元ではないかと考えた。パンツの買い物は，そのついでのことで自分のせいではないと，思考を適宜に捻じ曲げた。 　家に帰ったら、何が何でもお袋に修理代を出してもらわねば合わないと考えながら、田んぼの真中を突き抜ける一本道を走っていった。 　ふと前方の道路端に，人らしきものが倒れているのを見かけた。 「なんだろうえ？」 　若者の心臓が少し早めに打ち始めたが，近づくと，まともに人ではないか。ブレーキをかけ，停車しようと思ったが，係わり合いになるのではと考えると，更に鼓動が激しくなり，そのまま通過しようと思ったが，もし誰かに見られており，後でナンバーなど覚えられていると問題になる。余計なことまで頭に浮かび，心配の種が大きく膨らんだ。 　婆が倒れている所を通り過ごしたところで，一旦車を停め，若干バックしてその場に停めた。 「ほれ，どうしただ。婆あ様よ」 　肩に手をかけ揺すってみたが，動かない。 「こりゃあ，えらいこっちゃ。日射病にでもなっただないたろうかや」 　若者は慌てて立ち上がり，どうしたものかと，うろついていると，突然， 「何言うか。人様をひっくり返しておいて，日射病はないだろうが」 　婆は，むっくり起き上がって，睨み付けた。 「何のこっちゃ」 「何はないだろう。おみゃあ，さっき，俺をひっくり返したがや」 「何のこっちゃ」 「おみゃあさん，惚けやーすな」 「何でえ，俺が惚けとるというんじゃ」　 「やかましいわい。この傷を見よ。この傷を」 　婆はスカートを，ずっと上まで捲り上げたが，さすが，恥ずかしくなり，ちょっとばかり下げた。 「その傷が俺と何の関係があるというのじゃ」 「分からんか，おみゃあさん」 「分かるきゃあないだろうが」 　押し問答をしている最中のことであった。たまたま，そこをバイクに乗ったポリースマンが通りかかった。 　なに，バイクと言っても白バイのような上等なものでなく，郵便配達員が乗っているやつと同じで，ただ後ろにつけた箱が赤ではなく，黒いということが違う。 　それに気づいた婆は，大声を上げた。 「助けてくれやー」 　言わずと知れたことで，その現場を見たポリースマンは直感的に人身事故と判断した。 「どうした？」 　明らかに若者を疑って、ずかずかと降りてきて睨み付けた。 「どうもこうも，俺がここを通りかかったら，婆あ様が寝転がってござったもんで。助けようとしたまでのことですがね」 　若者は，おたおた，正直に言った。 ｢うそつけ。この傷が証拠だわさ。おまわりさん，見てちょう，ほれ，これ，これを｣ 　婆は，また惜しげもなくスカートを捲り上げた。 ｢俺は絶対自転車を引っ掛けておらん。これは罠だ｣ 　若者の白い顔が，見る見る紅潮した。 「罠？誰が我に罠を掛けたというんじゃ。ええかげんなこと言うな。コノヤロウ」 　そこで，ポリースマンは彼の車を調べた。やっぱ，確かな証拠があった。 　彼は黒い箱から物差しを取り出し，自転車を起こし，地上からのペダルの高さと車の傷の高さを計った。ペダルの一番高い位置で車の傷が合致した。 「おい，ちょっと署まで来てもらうでなあ」 　その途端，優形の顔が妙な形に歪んで凍り付いたようになった。 　(完)

田尻　晋 2011年01月10日(月) 15時19分44秒 公開 ■この作品の著作権は田尻　晋さんにあります。無断転載は禁止です。

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