屈 辱
「何すんのよお!」
 突然、乾いた平手ちの音が背後に響いた途端、女の甲高い叫び声が上がった。
 物悲しく、薄暮がにじみ始めたこの街に、ふらっと紛れ込んで来て人ってみたスナックバーだった。入り易く、上品な店構えだが、客は、まだ誰もいなかった。色白な中年女のバーテンが愛想よく彼の注文に応じてから、ちょっと席を外したが、その留守中、若い二人が入ってきたのだった。
 慌ただしく後ろのボックスに座り込むと、何やら、ひそひそ話をし始めたが、出来事はその直後のことである。
 せいぜい、五、六人程度のこのカウンターと、彼らがいるボックス併せて六つがあるだけの余り広くもない店だが、客は、先に来ていたこの老人と、彼らの二人だけだった。
 つい今し方、目の前にいたママさんは、まだ戻っていなかった。
 振り返った瞬間、女は打たれた自分の頬を片手で押さえ、その男を睨み付けている。
 一瞬漂った沈黙は、女に憎悪をたぎらせ、反撃の期をうかがわせているのか、それとも、次第に怯えへと萎縮させているのか、老人は、斜め後ろのボックスに視線を送り、かたずつを呑んで見守った。
 これは、とんでもないところに居合わせたものだと後悔し、この場から逃げ出したい気持ちに揺れ動いたが、呑み代、支払うバーテンが見当たらない。仕方なく、今、しばらく様子を見ることにした。

 女は明らかに萎縮している。しかし、男はまだ飽き足らないのか、それとも、女の萎縮した姿が彼をサディステックに駆り立てたのか、追い討ちをかけるかのように声を絞り出した。
「このやろう!」
 言うや否や、今度は、鋭く、女の肩を突いた。その途端、ひっくり返るように椅子から転げ落ちると、短いスカートの裾が翻り、白い素肌の太ももが開けっぴろに曝け出た。
 開いた脚から、黒の下着が鮮烈なコントラストで彼の目を射貫いた。思わず、ぎょっとして生唾を呑んだ。
 生まれてこの方、見たこともない女の光景だ。転げた姿は扇情的だが、老人の目にはなぜか痛々しく映った。
 まだ宵の口なので、この小さなスナックでも、がらんとしていた。女バーテンに急用でもできたのだろう。席を外したほんの一瞬の出来事であった。
 女は、思いも寄らぬ一撃で動転してしまったのか、呆然として、見えた侭の姿勢がまだ繕えないでいる。男はその浅ましい姿に逆上したのか、席を立ち、更に足蹴でもするかのように近寄ってきた。
 この一部始終を見ていた先の老人がついに、堪り兼ね、
「なん、なんちゅうことするとです。ちょいと、ちょいと待ちんしゃい!」
 あたふた両手を振りながら、高い丸型のスツールから滑り降りて来た。
「何だ、何だよお、おめえは?」
  いきなり、白髪のいがくりが、どんぐりまなこ剥いて立ちはだかった。
「おなご叩いて白慢にゃあならんぞね」
「おまえ、どこの者だ。横から口出しするんじゃねえ」
 男は、やくざのような□の利き方で彼を睨み付けた。
「手出しもしとらんおなごを、足蹴にすることもなかでしょう。そうじゃろが。それが、よか男のすることですとね!」
 老人の顔は青ざめ引きつっている。
「何お!このやろう」
 言うや否や、男は老人の肩を突いた。途端、よろよろっと、後ろ向きによろめいていってカウンターの角にぶつかり、したたか背骨を打った。ぐらり、目眩を感じたが、
「あんた!今度はこの老いぼれですとね!」
 助けた女の前で顎を突き出し虚勢を張った。転んでいた女はいつのまにか身繕いし、元のボックスの隅に身を寄せていた。表情は青白く、小さな肩が小刻みに震えている。
「やかましい!」
「こげんかこっ、暴力行為というもんじゃろうが!ばってん、警察沙汰ですたい」
「何イー」
 警察という言葉がかえって男を刺激したのか、肩を怒らし詰め寄ってきた。
「やるっちゅなら、やっちみんさい!」
 老人は顔を強ばらせ、わなわな唇を震わせながら更に虚勢を張った。これは、誰が見ても勝てそうではない。
「このやろう」
 今度は、老人の胸倉を鷲掴みに捻り上げた。その威力は彼の誇りを奪おうとした。
「やめときんしゃい!」
 のけぞりながら、こん身の力を込めて、その腕を振り払った。が、その瞬間、パンチが飛んだ。あっさりその場に崩れ落ち、白目を剥いた。脳震とうこそ起きなかったが、暫く立ち上がることができないでいる。
「やめでえ〜」
 女が悲鳴に近い声を出して、倒れた彼に擦り寄った。
「ねえ、大丈夫?」
「……」
 パンチにはそれほど大した威力はなく、格別の異状はなかったが、男への恐怖と、彼女に対する差恥が脳裏を充して返事もできないでいる。
「私が悪かったかの。おじさんにまで迷惑かけちゃって。ごめんね」
 そう言うと、素早く寝転がっていた彼の首の後ろに手を回し抱きかかえた。若い女に抱きかかえられたことなど、生まれてこの方一度だってない。
 それに、おじさんと言われて妙な気がした。六十過ぎた白髪の白分をお爺さんでなく、おじさんと呼んでくれたのが、妙に照れくさかった。それより、凶暴な男から、覆い被さるようにして身を守っている彼女の態度にこれまで経験したことのない優しさを感じた。
「なんちゅうこともありませんけに。それより、あんたの方、どうもなかかねえ」
 老人は、こうされているのが気恥ずかしくてならなかったから、自力で起き上がろうと気が焦り、もがいてみたりするのだが、しっかり抱え込まれた形で身動きできない。女が心配そうに、まじまじ彼の顔を覗き込んだので慌ててどんくり眼を閉じた。すると、柔らかな胸の感触と温もりが、灰かな香と共に伝わった。
 そっと薄目を開けてみた。眉毛の濃い瞳が不安げに、まだ、上から見つめている。
 その途端もう一度目を閉じたが、いつまでもそうはしていられない。
「ああ、もうよかばってん」
 男の恐怖より彼女への差恥の方が先に立ち、やっと立ち上がろうとしたとき、
「余分なこととするんじゃねえ」
 今度は女の肩を後ろへ引いた。
 再び、女が両脚開いて後ろに転げると、再び、黒が彼の目に飛び込んだ。
「なんするぞ!」
 はらわたでも搾り出すかのように絶叫した。心の底から怒りが込み上げたのだ。最初から勝てる相手ではないことはわかっている。
 が、のこのこ逃げだす自分が許せない。何としてでもこの屈辱には耐えねばならぬ。この男、余程気が短く手の早い奴らしいが、執念深いのか、それともサディストなのか、どう見ても正気とは思えない。だが、老人の心は一筋だった。
 目を剥き、歯を食いしばって、ふらふらっと立ち上がった。再びパンチのくるのは必至だが、もう一度男の前に立ちはだかった。
「あんさん、もうちと冷静にならんかとね」
「なにおう?……このやろう」
 と、再び胸倉を掴みかけたとき、
「お止めなさいよお!」
 鋭く、違った感じの女の声が飛んできた。その一喝には心を揺さぶる讐きがあった。
「お止めなさいよ、お互い、いい年して」
 先の女バーテンが戻ってきたのだが、この貫禄からすると、どうやらここの女将らしい。お互いという言葉からすると、彼女は、この状況を対等の渡り合いと判断したのだろうか。
「由さん、いっも誰彼なく手を出すんだから、あんたが悪いに決まっているよ。もしそうなら、お客さん、許してやってくださいな」
 由という男への厳しい眼差しが急変して、老人の方に笑顔を作った。まさに地獄に仏であった。女将がもう少し遅かったら、顎の骨でも外されるか、鼻柱の一つでもへし折られ兼ねなかった。
「こいつ他人のことに口出ししやがって」
 捨て台詞を言うと、男は、ぷいと外へ出ていった。
 小綺麗な中年女将には馬鹿にされずにすんだが、再度立ち上がって男と向かい合ったのは立派でも、景初から負け犬だったことは、ここに置き去りにされた若い娘がよく知っている。これは彼にとって、未だかって受けたことのない屈辱だった。
 しかし、老人は複雑な気持ちだった。倒されて惨めに落ち込む一歩手前のところで、若い女からはおじさんと呼ばれるし、恐怖の限界で、女将から、あの暴力男と力で対等のように見られた。それだからかどうか分からないが、老人も、つい、軽い調子で身体に付いた挨をパッパと払い、襟元を直して、ちょっと首をしゃくり上げる仕種をした。
「美保ちゃんどうしたのよ」
 女は美保と言う名らしい。白目の部分がきれいで、まだ、あどけないぐらい可愛らしい。彼の子供くらいの年格好だ。
「……お金のことなの」
 聞き取れないくらい、小さな声で言った。
「またあ?……あんたも、よりにもよって変な奴、好きになっちゃたのね」
「でも、……根は良い人なのよ」
 娘は項垂れたままぼつりと言った。
「あら!お客さんほっといてごめんなさい」
 艶やかな笑顔を老人の方に振り向けて、
「水割り変えますね。前の分は私が捨ててしまうから」
 呑みかかっていた先の分の代金は不要と言わんばかりだった。
「いいえね、この娘、可愛そうなんですよ。中三のとき、働き者の父親亡くしてね。田舎には病気がちな母親独り残して、こちらの電気の部品造る工場に勤めているんですよ。二十歳は過ぎたんですけどね、夜学の高校にでも行きたいらしいんだけど、母親への仕送りしなけれりゃならないし、夜のバイトは誘惑が多いから嫌だと言うし、困ったものですよ」
 老人は、先程の動転がいつのまにか立ち消えてしまい、ほろりとなった。
「あの男、自動車の修理工場のメカで腕はいいらしいんだけど、金遣いが荒くてね、時々この娘に……」
「ママさん、止めて」
 娘はそれ以上言われるのが心苦しいのか、頭を屈めるようにしてボックスの隅に身を縮めた。
「そげんとね」……
 老人は感慨深げに、ぼっりといった。
 女将は老人の人の良さそうな顔に、悲しげな表情を読み取ったが、更に言い続けた。
「いいじゃない、あんたが悪いわけでもなし」
「だって……」
「何もかも話したってどうってことないでしょう?若しかしたら、女の私なんかより、このお客さんの方がよっぽど人生のこと深いんだよ」
 娘は首を傾げ、テーブルに置いてあるナプキン一枚とって折り紙を始めた。
「ほなあ、くにはどこかいね」
 老人は娘の仕種に心を奪われた。こんな年端も行かぬ小娘の、病んだ母親はどこでどうしているのだろうと思いやった。
「それが九州なんですよ」
「ええ?そりゃ、本当が?……ばってん、九州のどこですたい」
 老人は九州と聞いて、急に精気を取り戻したかのように、どんぐり眼をしばたいた。
「福岡県ですよ」
「福岡とな?福岡のどこですたい」
 しばたいていた眼が見開いた。
「美保ちゃん、なんとか言いなさいよ」
 女将は、しょんぽり肩を落としている娘を促した。
「……秋月です」
 こちらを向くでもなく、俯いたまま、蚊の泣くような、か細い声で言った。
「いや、いや、ま、なんちゅうことですたい」
 老人の感嘆の声に溜め息が滲んでいた。
「秋月とね!わしは隣の大分じゃけん、それにしても、いやあ、こげんかこつあるのものじゃねえ」
 今時、与那古鳥の人が知床に住んでいても不思議はないご時世だが、彼はこのことがひどく不思議な縁のように思えてならなかった。
 ふと、若い頃、筑後に仕事で何度も脚を運んだことが思い出された。

 阿蘇、九重の山々から有明海に注ぐ筑後川は[筑後次郎]と呼ばれる大河だ。その流域に穀倉地帯として知られている筑後平野が開けている。河口付近は、網の目のように走る水郷地帯に、詩情あふれる北原白秋のふるさと、柳川がある。柳川から北へおよそ三十キロ、清流に恵まれ、周囲を山々に囲まれた静かな城下町、そこが秋月だ。
 この町には、京都を思わせるたたずまいがある。老人は、小年時代、大分の山間部から久留米に出てきて下宿し、久留米高校に在学していた。そのとき、郷土史の研究に度々出かけたこの秋月で、偶然のことから旧家の娘と知り合い恋をした。
 もちろん、結ばれるはずのない淡いものだったが、ふと、その苦い恩い出が脳裏を過ると、気のせいか、美保という娘にその面影を感じた。しかし、それはこのときの幻想で、美保でなくてもちょっと目許が似ている同じ年頃の娘なら、誰であろうと、そういう錯覚に捕われたに違いない。それほど、彼の今の心境は、まるで、ガラス細工のように脆く、危なげで心許なかった。
                              
 豊後竹田市の北、芹川に沿った長湯温泉を皮切りに、別府、耶麻渓、小倉を経て本州に渡り、中国、四国、関西の各地の都市、山間部、海辺部を巡り巡って、この名古屋の街のビジネスホテルに辿り着いたのが十日程前のことだった。
 あのとき以来、まるで濃霧の森の中に迷い込んだような、底知れない不安に怯えながら、果てしのない彼の旅が続いていた。

 故郷を出る三カ月程前、妻の初回忌の法要を済ませてきた。法事には、大阪のD大助教授をやっている独り息子と嫁、それに二人の孫の他、親類縁者、総勢五十名ほど集まった。
 料亭での斎事の席では、若くて助教授になった息子に尊敬のまなざしが注がれた。主役である老人の方は二の次であった。老人は嬉しくもあったが、無視されたと言っていい自分は、やはり用済みな存在だと思った。
 村人は入れ替わり息子の前へ出てきて愛想を言いながら酌をした。だが、隣座った嫁は能面のように無表情で、何も言わなかったし、老人がわざわざ料亭まで出かけていって、吟味し、心配りした膳にもほとんど箸をつけなかった。
 ただ、自分の子供の世話をしているだけで、接待者側の立場としての、客に酌をして廻るなどという気の効いたことは一切しなかった。老人独りで酌して廻った。
 村人はそれが当然であるかのように見えた。軽々しく追従笑いをしたり、むちゃくちゃ料理に手を着けたり、酌をして廻ることなどしない彼女が気高く感じらたのだ。
 だから、老人がたとえ今、独りの侘び住まいであっても有名大学の助教授夫妻が付いているのだから、彼に変事などあるはずがないと思っていた。
 村人は、滅多にありつけないご馳走の一つ一つに目細めて口に運び、あごを突き出し酒を酌み交わした。あちこちに大声を出して馬鹿笑いをする者もいた。そして、時々、傍らに置いてある自分の引出物に気を配った。'亡き妻への供養の語らいなど、期待していた老人の心の中など、誰一人として思い遣ることはなかりた。
 何もかも済ませ、家に婦って落ち着いたところで、息子は、この大分の家を処分して大阪へ出できたらどうかと勧めた。近くに小さなマンションを買って住めば、何かのとき心強いだろうとも言った。是非、そうしろと強く勧めた。だか、同居しょうとは決して言わなかった、
「親父さん独り、ほっちょくわけにもいけんですき」
 大学助教授の息子でも実家に戻ると九州弁になる。
「……ばってん」
 老人に、この地を出られない特別の理由などなかったかが、簡単には踏み切れない、住み慣れた先祖代々のこの地への執着が息子への返事を暖味にした。
「迷うことなどなか、そげなこたあ、どうにでも……」
 息子がむきになって語を進展させようとしたとき、傍らで聞いていた嫁の、あの能面が、心なし歪んだかのように見えた。
 暗黙の彼女の意志表示なのか、息子はその話を、いきなり、ぽっんと止めた。嫁には、老人のいがくり頭と、顔に刻まれた深い皺が気に入らなかった。彼の表情が変わる度、ミミズのように動くその皺がどうしても許せなかった。
 その日の夜、突然、息子一家は、仕事が忙しいからと慌てるように帰る支度を始めた。帰るとき、上の孫が何を思ったか、
「おぢいちゃんの顔、駿だらけで嫌」と、言った。嫁はもう一度確かめでもするかのように、ちらりと彼の顔を横目で見たまま、子供の手を引っ張るように連れ出した。

 まだ大学院生だった当時の息子が、いきなり我が家に連れてきた彼女に対し、死んだ妻は、驚きと、娘の冷たい感じの第一印象に、つい、よそよそしくなり、息子の恋人としての優しい思いやりが出来なかった。それが今でも尾を引いている。
 その頃の彼女にしてみれば、息子に乞われて、わざわざこの九州の片田舎まで出てきたのにという気持ちがあったに違いない。都会育ちで、資産家の娘というプライドは、この泥くさい風土が鼻持ちならず、例え彼の両親といえども、言葉の詑りや仕種が許せなかったのだ。
 その日の嫁の態度に、老人は漢然と屈辱を感じたが、彼女に、何か、酌に障ることでもあったのだろうかと色々思いを巡らし、心を痛めた。
 時代は目まぐるしく移り変わる。いつまでも先祖の地に綿々どして朽ち果てるのも愚かなことだ。息子にわれなくても、いい加減、踏ん切りを着けようと思っていた。

 法事が終わって四、.五日後の深夜、突然、上腹部に強烈な痛みを感じたが、しばらくすると胸が悪くなり少しばかりの吐血をした。
 ずっと以前から胃の不調を感じていたが、売薬で済ましていたのが悪かった。不安が募り、翌朝、総合病院へ出かけると、医師は、明日の朝、何も食べずに来なさいと済ました顔で言った。その当日、白墨を溶かしたようなジュースを呑んで調べた結果、怪しい陰が見つかった。医師は風が吹くような声で、精密検査が必要ですねと言った。
 更にその翌日、今度は、苦しさの余り歯で食い千切らないよう、プラスチックの輸っぱを衡えさせられ、いきなり、その環の穴から黒いゴム管の先に付いたカメラを喉の奥に突っ込まれ、おえっ、おえっと言いながら胃袋の内側を覗き込まれた。上下に動いていたカメラが一点に留まると、医師は小さい声で、ああ!これだ、と感嘆の声を出した。 医師は何枚彼の写真を撮り終わると、ゆっくりカメラの管を引き抜いた。看護婦は流れ出すよだれを拭き取りながら、さあ、これで終わりましたよ、と優しく言った。医師は、胃に潰瘍が出来ていますね、薬で直りますが、これは老人性胃炎にストレスが重なって起ったものです。くよくよすると、すぐ再発しますよ。だから、のんびり暮らすことですね、と、気楽なことを言った。そして、取り付く暇もなく、ぷいと横を向いたまま、何処かへ行ってしまった。
 自分の体内に、何の断わりもなく、まるで当然であるかのごとく、単なる生物を扱うように、平然とゴム管を突っ込まれたことが、なぜか、彼にとって屈辱だった。
 診察を終えて廊下で待っていると、孫みたいな若い看護婦が笑顔で近寄ってきた。
「さあ、これを持って会計したしてから、薬局でお薬もらって下さいね。ちゃんと飲むんですよ。そして、この予約表をよく見て、もし分からないことがあったら、誰かに読んでもらい、きちんと頭に入れてから来てくださいね。いいですね。じゃ、お大事に」
 まるで幼児を諭すかのように、丁寧な言葉付きで指図すると、中に戻っていった。
 老人は看護婦の作り笑顔と優しい言い方に、突然、不安と戸惑いを感じて項垂れた。 老人は特別な捻くれ者ではなかったが、彼女のこの哀れみに、再び屈辱を感じたのであった。
 彼は、このとき初めて、年寄は屈辱の人生を送らねばならないものだとだと気がついた。そして、屈辱は病院に隈らず、これからも生きている隈り続くだろうと思った。鏡に映った虚像の通り、世闘が自分を見るのは仕方ないことだと思った。誰一人として、彼の心の中なぞ分かりっこない。
 翌臼、老人は、町の不動産屋へ出かけてみた。不動産屋は、彼の所有している山林、田畑宅地など、一切の物件をいつでもこちらで引き取りますと強く勧めた。
 そして、老人は息子に手紙を書いた。

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 先日直お母さんの初回忌に来てくれてありがとう。まさか、わしより先仁逝くとは夢にも思わなんだ。母さんも、これで一年、あの世で気楽にしちょるたい。お前や孫達に会えてさぞ喜んでくれただろう。身寄りはお前立ち家族だけとなっちもうたが、一年ぶりに元気な様子をみて安心した。
 わしのことも何かと気い遣ってくれてありがたいと思っている。孫もおきゅうなって将来がたのしみです。嫁はんも子供のことで何かと気を使うだろうが、気を使いすぎるとストレスがたまり、胃潰瘍になりますけに、あまり無理をばせんよう、お前も労ってやるがいい。
 さて、わしのことだが、年もとった。年を取れば誰でもあの世へ逝かねばならん。どこから旅立つかは人それぞれの巡り合わせちゅうもんだが、自分で選ぶこともできるだろう。先祖代々この地に住んでおったのだからこの地で旅立つのが一番とも思えるが、ここも以揃とば大分変わりました。皆都会へ出て行くように.なった。ここでは食っていけんから無理もなかとですき。お前はああ云うて-れたが、わしは都会生活には馴染めません。お前の近くにマンション買うて孫達と遊ぶのもよかでしよう。夢に見たこともありました。じやけん、いつまでもちゅうわけにはいきません。
 そうかと云って、わしもこの地に独り朽ち果てるのも気が御子すすまん。いろいろ考えてみたが、やっぱりここを売りはらおうと思う。どこに佳み着くかはまだ決めてはおりません。暫-は気儘な旅に出て見たい。いろんな所でいろんな人々にもおうてみたい。冥土へ行ったとき母さんの土産話もいるですき。
 先祖と母さんに対しては菩提寺に永代供養を願い出れぱ心も安まる。これ以上、もう後ろは向かんことにした。
 それで、じや、先祖の土地、思ったより多額で買うらしい。わしはその半分で充分暮らせる。残りの半分はお前たち家族のものじゃ。金になったら後日小切手で送ることにしょう。それでは達者でな。心配することなか。嫁さん、美しかばい。孫達可愛いかばい。
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 老人は長い手紙を書き終わると、ほっと一息っいて寝転がった。長い間の迷いが吹切れた思いだった。
 そのまま大きく背伸びをすると眠くなった。台所の方で何か物が落ちる."かたっ"と云う音がしたが気にもしなかった。

 暗いトンネルの中。まるで音速で走るかのようにものすごい早さで突っ走る。すると、突然、白い光の中に入る。太陽より眩いが目を閉じる必要はない。なんと明るいことか。目の前は果てしなく草花の野原が展開している。満ちあふれるばかりの幸福感だ。
 遠くで子供が花摘みをしている。
 どれぐらいまどろんだろう。夢を見ていた。何かで読んだ【臨死体験】のときの情景みたいだが、あれは意識を喪失したときの語だし、それに、故人とも出会わなかった。
 ふと、その浅い眠りから目が覚めると、法事が終わって息子達が帰るとき、孫の、「おじいちゃんの顔汚い」といった言葉が脳裏を過った。孫に悪い印象を与えたことが、なぜか、すまないように思えてならなかった。夢の中で花摘みしていた子供は孫だったのだろうか。
 口が乾いていた。ふらふらっと立ち上がって台所へ行こうと、座敷から一段下がった板の間へ降りようとしたとき、上り櫃の所で足を踏み外し、仰向きにひっくり返えり、どたん..と、床が響くほどの大きな音を出した。音の割には、さ程のこともなかったが、そのままぽかあ-んと口を開け、後ろ手を着いて庭の方に目をやった。鶏が猫にでも追い立てられたのか、けたたましく鳴き声を立てて走っていった。
 だが頭の中は空洞だった。その空白の脳裏に、突然、死の思考が湊み始めた。孤独の無気味と怖れだった。
 その実体を知る由もない。客観的に、個体が塵芥になると言うだけでは釈然としない。脳生理学では、意識という精神の統括的機能を果たす脳組織そのものは、脳のどこを探しても見当たらないという。意識は単独の存在としてどこかにあるのか。死とは、肉体から意識を引き抜くことなのか。
 それがどうであろうと、死の必然性は、人間の理性をはるか超えている。死と太陽は、じっと見詰めていられぬもなのだ。
 明らかに、その死がそんなに遠い将来でないはずなのに、準備も覚悟もないのは、彼自身のだらしなさによるだろうが、それだけではない。死が間近と思いながら、死に対して何の用意もしていないのは、一方ではそんな切羽詰ったことだと、切実に感じられないからだ。死が遠いのか、近いのかそれがはっきりしないのだ。
 医師も看護婦もあの老人は大体何年ぐらいで死ぬ、と分かるだろうが、彼自身、主観的に、死が近いうちだと感じられないのは、死というもの、つまり人間であることを止めるということが、今、現に日々生きている彼にとって、その人閲であることを、ある日突然止めてしまうと云うことが、どうしても切実に考えられず、想像できないからだ。自分が突然なくなってしまう、誰だって、これを自分自身描くことが出来るだろか。だが、そいっは必ずやってぐる。それがいっなのか。知りたい。いや、知りたくはない。恐ろしくて知りたくない。
 知ったところでどうなるものでもない。現に、この通り、息をしているではないか。だが、いつ止まる?そのジレンマに、激しく心が揺れ動く。
 死のときを切実に切追感を持って感じ取ることが出来ず、誰一人として自分を理解してくれるものがいない孤独な状況に置かれた彼に、抑圧された願望の隠れ家としての旅を思いつかせたのだ。
 ここから見渡せる、物干し竿も、走り回っている鶏も、柿の木も、庭の草花も、なぜか、変によそよそしく取り澄ませているように思えてならなかった。
ふと、妻の面影が障子をよぎる鳥陰のように、一瞬彼の脳裏に去来する。

「待てど暮らせど来ぬ人を宵待ち草のやるせなさ:.……」
 死ぬ間際まで妻が口づさんでいた竹久夢二の歌の一節が鼓膜の奥に響いてきた。
 独りきりの生活。愛するものは誰もいない。憎む相手もいない、同時に闘う相手もいない。あたかも極地に取り残された犬のような孤独を感じ、怯え、しかも法えながら死を待たねばならなかった。最卓、ここに彼の人生はなかった。例え屈辱の旅路が予想されよ、と、今の彼にはそれより生きる術はなかった。
 孤独の地獄から逃げ出すにはこれよりなかった。そうしなければ寂しさのあまり心理的に凍え死ぬただろう。

 不動産屋が老人の家屋敷と田畑、山林などそっくり買い取ったという語は、村人とって驚天動地の出来事だった。彼の家が何百年と続いた家柄であったということもそうだが、老人と同じ境遇になった人々でも、彼の決断…実際には決断ではない…と同じように村を捨てるものは誰一人としてなかったからだ。夫に先立たれ、独り身で先祖の地を守り通している老婆だって何人かいる。
 村人は、彼が、現代文明に毒され…帰属意識の喪失…先祖代々の故郷まで捨てる個人思考に走った西洋かぶれと非難した。

 それから一月もたった頃、老人は菩提寺の住職を訪れた。老いた住職は、一部始終、彼の語を聞いてはくれたが、黙ったまま、最後まで一言も言わなかった。
 老師は、彼の現代的な感覚に嫌悪感を覚え、彼の人生観の変わり身に唖然としたのだ。昔から、生まれ必ず死ぬまで所属していた共同体を平然と離脱する彼の神経を許すことが出来なかった。老人にはそれが分かったから、帰り際、手を付き、畳に頭をこすりつけて、挨拶したが、老師は、前を向いたまま、表情一つ崩さなかった。ただ、永代供養料の入った袋の裏側をちらっと見たときだけは、多少、和んだかに見えた。
 老人は、なぜか、自分の生きていることが済まないように思えてならなかった。
 老師は彼を理解してくれる唯一の人物と思っていたのだが、老師の無表情さは、老人を再び深い孤独感に陥れた。正直言って、老師が少しでも白分を理解してくれるものと期待して来たのは、誰かに向かって自分を表現したい、例えば日記を書いたり、絵を描いたりして白分を表現したいという本能のようなものだった。
 つまり、他人に自分を理解してもらいたいのは、自分では、皆目、白分が分からないからだ。
 親類縁者にも、世語になった人にも、一軒一軒、なにがしかのお礼袋を持って挨拶して回ったが、その姿に村人は軽蔑の眼差しを持つだけだった。きっと先祖の崇りがあるに違いないとひそひそ畷いた。
「あげんかこつ、よかろうかね。孫の一人に継がせることも出来るたい。本人一人の問題じゃなかとばい。村のことたい」
 村人にとっては、老人の後にやってくるよそ者のことも考えねばならなかった。
 その数日後、老人はこの村からぷいと姿を消した。


 人恋しの老人は、美保という娘が秋月いたと聞いて一挙に心が動かされた。奈落の底に落ち込んだような孤独から解放された思いだった。そかも、美保の面影に、若い頃の郷愁が揺れ動いたのだ。
「いや、こげんして見ると、あんたば二十歳過ぎには見えんとばい」
 美保は恥ずかしそうに項垂れたままでいる。
「それで母さん、国でどげんしとるとね」
 ボックスの隅に小さくなっている彼女の前の席にきて、遠慮気味に腰を下ろした。
「……独りです。近くに叔母夫婦がいますので、ときどき面倒見てもらっていますけに」
 ちらりと、九州弁がもれた。
「ほう、そりゃあよか」
 美保の返事を聞いて彼の心が和んだのだろうか、しばらくの間、ほっとしたような沈黙が漂った。
「さっき、女将さん、あんた中三のとき父さん亡くしたちゅうとったがどげんしたとね」
 老人は再び彼女のことに思いを巡らせた。
「工事現場へ働きに行ってまして、事故に遭ったんです。転落即死でした」
 今度はきちんと標準語で答えた。
「ああ!何んちゅうことぞね……」
 よくありそうな話だが、老人は、悲劇というものは容赦なく訪れることをよく知っていたから、大きく頷いて得心をした。
「夜学に行きたいちゅう話だったが」
「………はい」
 美保は更に肩をすぽめて答えた。
「ところで、さっきの男……」
 老人は美保の方に顔を近づけ、声を細めて言いかけたが、途中で口を噤んだ。先の怒りが蘇り、脳裏を満たすと同時に、娘の男への気持ちを配慮したのだろう。
 それをいち早く美保は察したのか、悲しそうに首を傾げ、頬が触れんばかりに彼の顔を覗き込んだ。
「……ほんとにごめんなさい」
 老人の、男への憎しみは、彼女の美しい、淋しそうな顔で同情と心痛に変わった。
「……あんた、あの男と結婚ばするとね」
「……そげんこと!」
「ばってん、決めちょっるっ ちゅうわけでもなかと?」
「もちろんです」
「そりゃ、本当が ? 」
 どんぐり眼を見開いて、美保の目を覗き込むと、彼女は、俯いたまま、こっくり頷いた。
 老人は、ほっとして、優しい眼差しになった。
「何か、ほしかもんなかかね?」
「いえ、よかです、いりません」
 また、九州弁がもれて出た。
「遠慮はいらん、なんでも言うてみんしゃい」
「……よかです」
 肩を捻るようにしてから首を振った。その仕種が可憐でならなかった。何とかしてやりたくて仕方なかった。
「美保ちゃん、水割りのお替わりよ」
 カウンターで女将が声を掛けた。美保はそれを取りに立ち上がろうとしたとき、
「ついでに、そこのブラインド閉じてしてちょうだい」と、女将が言った。
 ボックス越しの窓に掛けてあるブルー色のプラインドから通る人ががよく見えた。美保は、椅子とテーブルの狭い間を通るのが面倒なのか、ボックスの手前で立ち止まり、泳ぐような姿勢で紐に手を伸ばした。ほんの数センチ届かない。更に前につんのめるような姿勢になった。
 片足が上がった。揺れ動きながら更に上にあがった。スカートの裾が迫り上がり、白い太腿の後ろの方が、ずっと奥まで露になった。白い素肌の脚は、まるでバレーの踊り子のように真っ直ぐ伸びて上がった。
 老人は、再び見てしまった。今度は後ろのほうから見てしまった。その姿勢はずっと続いたのだが、彼には、わずかな時間のように思われた。
 やっとブラインドを降ろして新しい水割りを持ってきたが、娘の仕種は素人じみて、ぎこちなかった。
 老人は今見た彼女の黒が脳裏から消え去らないまま、彼女の顔を見るのが気恥ずかしかった。今度は、老人の方が項垂れた。
「はい、おじさん、どうぞ」
 おじさんという言い方は好きでなかったが、どこかを櫟られる思いだった。出された水割りを遠慮気味に手にすると、一気に飲み干した。
「おじさん強いのね」
 美保が感嘆の声を出した。
「…そげなこたあ、自慢にもならんがよ」 と、俯いたまま「お替わり」と言った。実際、彼は一升ぐらいの酒は平気だったが、今度は一口飲んだ。
「いらんこと、言うようじゃけん……」
 言いかかって、もう一口飲んだ。
「……あの男、これ以上深入りしちゃいかんばい。あんた美しか。心も美しか。ばってん、いっまでも付きおうちょると、心まで汚れるですき」
 老人はしんみりとした調子で言った。
「ええ、分かっています。近い内、別かれるっもりです」
「ああ、そりゃあよか。そりゃあよか」
 彼は安心したかのように、大きく息を吸うと、残りの水割りを一気に飲み干した。
 丁度そのとき、二、三人連れの客が入ってきた。女将が潤んだ声で、いらっしゃいませ、と言ってから、
「美保ちやん、こちらの方、気にしなくていいのよと、気を利かしたが、老人は、
「ほな、帰るとするばい。秋月の母さん、独りば淋しかねえ」
 独り言のように眩くと、腰を浮かし、後ろのポケットから分厚い札入れを取り出した。無造作に、中から一万円札の二、三十枚は入っていると思われる札束の殆とを、数えもしないで掴み取り、美保の目の前に差した。
「これ母さんにやっちょくれ。ほんの気持ちじゃけん」
「……あら ! 」
 美保は目を丸くして、しばらく札束と、老人の顔を見比べた。
「はようしまっときんしゃい」
 急き立てるように言って座を立った。そのまま出口に行って女将に会計するとき、美保の方に顎をしゃくり上げ、
「あん人の面倒ばみてやってくんしゃい」
 小さな声で囁くように言うと、扉を押して出て行った。

 その直後、
 ボックスから立ち上が一て来た美保と、女将り目が合った。美保は、彼女にウインクしてみせた。
「いらっしゃいませ」
 美保は先に入ってきてカウンターの席に着いている客に、上品な挨拶をした。
「掛けてもいい?」
 馴れ馴れしくもなく、遠慮気味でもなく親しみやすい言い方だった。声を掛けられたのは中年の口ひげはやしたサラリーマン風の男だった。
「どうぞどうぞ、いいとも」
 男も彼女の態度につられ慇懃な態度をとって体を寄せた。
「美保ですよろしく」
 そういいながら、高いスツールに丸いヒップを持ち上げるように腰掛けると、短いスカートの裾がずり上がり、象牙のような素肌の太ももが現れた。男は横目でそれを見下ろし、
「何か飲む?」
 やけに優しく美保の頬に擦り寄せてきた。入り口の扉が再び開いて新しい客が入って来たが、美保は、ことさら、振り向きもせず、サラリーマンに寄り添った。


 老人は滞在しているビジネスホテルに帰ると、その夜遅くなってから息子に手紙を書いた。
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 あれからずっと旅を続け、もう半年になりました。
 色々な風土に接してきたし、そこで暮らしている人たちの、様々な生き方も知ることができました。
 逢う人はみな良い人ばかりです。秋月出身の健気で美しか娘にも逢いました。
 まだまだこのに先、どんな人に逢うか分かりませんが、若しかしたら、わしが、恐れ戦き、脱帽し、平伏し、くさびを打ち込まれるような人に逢うかもしれん。
 そのときは、わしはその人のそばに置いてもらいたいと願うでしょう。こげんしてみると、先祖に対しては申し訳ないちゅう気持ちと、子孫の故郷を奪い去ったと言う罪悪感に変わりはなく、ときどき悩むこともありますが、いまさら男らしゅうないと自分に言い聞かせます。村の人々はわしを非社会的人間と非難したでしょう。しかし、わし個人を全うするには、これより途はありませんでした。
 わしは帰属意識を失ったのではなく、あえて孤独の途を選んだのです。わしの救いようのない孤独を癒す薬はどこにもないことを知った上でのことです。
 帰るところがないちゅうことは、行くしかないちゅう生き方ですけに。
 今、尾張名古屋に来ています。この大都会の街には電線ちゅうものが張り巡らされておらず、まこと美しか街です。本通を少し入ったビジネスホテルに宿を取っています。この一週間ほど、ここを中心に、静岡、浜松、岐阜などの各地を廻りました。
 明日早朝ここを立ち、北へ向かうつもりです。美濃から飛騨、北陸方面ですが、どうなることじゃろね。俳人、山頭火の気分ですばい。
 別便で名物、名古屋コーチンの味嗜漬け送りました。
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 老人は筆を置くと大きなあくびをした。途端、眠くなり、そのままデスクに顔を伏せた。すると、いつのまにか、美保がめそめそ泣いてる夢を見ていた。そして、この大都会も、物悲しく夜が更けていった。


 今にも消されてしまいそうな、ほんの数軒の飲み屋か、かスナックの灯を残して、この街も、間も無く眠りに着こうとしている。
 薄暗く、街灯に光った人造大理石のぺイブメントに、どこからとなく、コツコツと乾いた靴音が響いてくると、この店のクラシツク調の扉が押されて開いた。
「そろそろ看板ね。バイトの娘、帰えした?……ネオンのスイッチ、切って」
 少女のように初々しい顔つきの美保が、女将に言いつけた。立て続けにさま、
「今日の売上げは ?」
 尋ねられた女将は、慌ててレジを開け、札を数え始めると、それと前後して、前髪を垂らした若い男が裏口から入ってきた。
「支配人、朱美と理沙、それに麻美の店の売上げです」
 そう言いながら、札束と伝票の入った布袋三つを美保の前に差し出した。それを受け取って、
「何か変わったことあった ? 」
 あどけないくらい可愛い顔だが、瞳は男の目を見据えている。彼女は、自分のことを彼らに支配人と呼ばせていた。しかし、実のところは、スナックバー四軒を持つオーナーだった。
「いいえ、別に、普段と……。それじやあ、これで、……車のキーここに置きますから」
 男が立ち上がろうとしたとき、
「ちょっとお待ちなさいよ。あのときのボーナス上げるわよ」
 美保はそう言って男を引き留めた。男は黙ったまま傍らのボツクスに腰を降ろした。
「はい、ちょっきり二十三万八千円」
 女将は、ボーナスという言葉を耳にしながら、美保に報告し、伝票と札束を布袋に入れた。
「近いうち、歩合上げるから頑張ってよね」
 美保は、女将の渡した袋を先の布袋と一緒に黒皮のショルダーバッグ放り込んだ。
 女将は歩合が上がると聞くと、つい、気負いが出て、もう少し店内暗くしたほうがよいではないかと、意見を言いかけたところで、
「何飲む?あたしスコッチ。あんた達適当にやって」
 美保に腰を折られた形の女将は、少し不満だったが、いそいそと、三のグラスとボトルをボックスに持ってきた。美保は、腰を前にずらし、のけ反るような姿勢でスカートのポケットからせしめた札束を取り出し、
「さあ、五万円づつ」
 数えながら渡すと、女将と若い男がぺこりと頭を下げた。二人とも、思ったより多いと思っている。
「あんたの眼力で、素早く私の事務所に連絡してきたけれど、あの爺さん、ただの金持ちと違うわよ」
「あら、どこがですう ? 」
 女将は不審そうに小首を傾げた。だが、それには答えず、
「あんたの即興、巧いわよ。出来てる」
 今度は男を褒めた。男は照れ笑いしながら、
「N大芸術学部出身の姐さんのようなわけにはいきませんよ」
 謙遜の態度だが、ボーナスの額のこともあって、ついお世辞を吹いた。それにつられて、
「それにしても、九州の秋月、どうして知ってたんですう?それに、ちらちら九州弁だって」
 今度は、あのとき、老人との会語に耳を済ませていた女将が不審げに尋ねた。
「ばかね、知るわけないでしょう。あのねえ、特徴のある日本の方言、大ざっぱに言って、東北、関西、九州弁でしょう。詑りのさわり、ちょっと知ってれば、そこの感じ出せるじゃない。秋月はね、九州へ行ったとき、地図見て記憶にあったからよ。ロマンチックな名前だから、あんただってすぐ覚えられるわよ。
 でも、あいつ、まさか、そこにいたとは思いも寄らなかったわよ。どきっとしたね。突っ込まれたら、どうしょうかと思っちゃった」
 平然と言いながら露わに脚を組み、煙草片手に慣れた手付きで目の前のダブルのスコッチ一気に飲み干した。顔姿とは似ても似つかない仕種である。普段の彼女の外見から、このキャラクターは分からない。
「やっぱ、大学出は違うわ」
 女将は、つくづく感心しながらお世辞を言った。
「きっと、また明日くると思うがね。来たらまた違絡しますけど、今度はどうします ?」
 女将は来ると確信して言った。
「来るわけないね」
「あら ! どうしてですう ? 」
 不審げに聞き返した。
「理由はないけど、こないね」
 美保の冷ややかな言い方は断定的だった。
「それにしても、あの爺、聞かせてくれたわよ。あんたと付き合っていると、心が汚れるってさあ」
 男の方に目を移し返した。
「ぽくあ、使われているだけで付き合っちゃいませんがねえ、それでも汚れますか」
 男は薄笑いを浮かべて皮肉を言った。
「それなら逆じゃない」
「そう言えば、ひひ爺って感じじゃなく、むしろ、好爺という感じだったわねえ。それに何となく寂しそうで、孤独と言うか」
 女将が今更のように思い出した。
「あいつ恰好つけやがって」
 美保は忌ま忌ましげに顔を顰めた。
「この世に心の美しい奴なんているかよ。キリストや仏陀でもあるまいし。心を宿す肉体は美しく肌で包まれているけど、中身はやっぱ汚いんだよ。体内では、どろどろに溶けた肉や野菜を酸化させながら、絶えず炭酸ガス吐き出している。
 臓物なんか一杯詰まってるだろう。ぐねぐね、ねたくっている大腸の色、ピンクじゃないんだよ。青灰色だよ。おまけに中身はウンコだらけ。それと同じなんだよ。心だって」
 美保は何が気に入らないのか、一気にまくし立てた。
「うわべ、装っているだけなんだよ。それが白律的に働いてしまうのさ。恰好良く。分かるだろう ? 」
 彼女の容貌の美しさと、言葉の中身が、言っていることを象徴している。
「分かりませんね」
 男は、ぽかかんと口を開けたまま美保を見っめた。
「自分の身体を養うには汚い心が必要なんだよ。人間様の世界だって、サバンナの野生動物の生態と変わりゃあしない。お腹が空いたときも、男に抱かれたいときも、そんなとき、心はみすぼらしいんだよ。ママさんだってそうだろう ?ええ ?そうだろう ?」
 美保は女将の顔を見据え、念を押すように言った。接客のときの、あのしおらしい言い方と打って変わったこの言い草は、演劇やっていたせいだろうか。どっちの美保が本当の美保なのか分からなかった。
「飢えた男が、裸の女のお腹にへばり着いたときのざまあ、見てみなよ。惨めったらありゃしない。愛してるう、とか何とか、うわ言いやがって。つまり、心がつい自律的にお芝屠しちゃうのさ。笑っちゃうよ」
 見据えられた女将も照れ笑いした。
「それに、心がいつも美しかったら、美しいもの見たって感動も何も起りゃしない。真赤なカーテン背景に、真紅のバラ描く画家いないだろう。音楽家だって同じだよ。憂欝なんだよ。心が。だから、美しい音、欲しいのさ。ベートーベンだってそうだろう。偉い作家の先生だってそうだよ。どいつもこいつも心の中がひもじいのさ」
 女将は、内心、美保はひどい奴だと思った。仕留めた鴨なのだから、そこまでけなさなくてもいいのではないかと思った。美味しかったのだから、悪かったね、ご馳走さん、と言えばいいじゃないかと思った。よくもこれほど豹変できるものだと思った。
「まったく忌ま忌ましいったらありゃしない。心が汚れるだとお、ばかばかしい。分かってもないくせして」
 飽き足らないか、また言った。
「でもさあ、由さんに突き倒されなさったとき、慌てて助けようとしましたよ。それに、正直者で、何となく孤独って感じでしたよ」
 女将は美保の理屈っぽい言い方に多少反感を募らせると、老人にかたを持ちたくなった。
「あれはね、心理学的にいうと、コンフリクトという一種のフラストレーションなんだよ。つまり、心の葛藤があって、いらいらするからああなるんだ。自分の心が醜くシワシワになるからだよ」
「心が美しいから、ああしたんじやない。逆だね。分かだろう ? それに正直者と言うのはね心がいっもビビッてるんだよ。これも心理学的にいうと、批判的思考の広げられない臆病者のことだよ。彼が孤独ってこと、直感的に分かったけど、概して、孤独な奴の生き方というのは、誰をも、何ものも愛することをしない、また愛されることを求めようとしないものなのよ。愛を心の深いところに沈殿させ、明瞭に意識しよとしない証拠だね。
 あの爺、孤独を美化する年ではないけれど、本当に孤独で生きていこうと考えているなら、大間違いだね。彼がここへ来たのも、人間は半分は社会的で、後の半分は孤立的な存在だからだちという証明だよ。人間の精神生活は独りで自足し満ち足りることなど出来るわけがない。
 本当の孤独というものは、帰属すべき対象をどこにも見いだすことの出来ない状態で、幻覚剤でもやらない限り耐えられるものではない。だから、少しでも自分を紛らし、ごまかしていくしかないんだよ」
 今度は、先ほどから美保の屁理屈を聞いて、むかついてきた男が改めてあの孤独な老人の風貌を思い出し、例えパンチに手心を加えたとしても、倒してしまったというやり方を後悔し、腕を膝頭に着いて項垂れた。
「由、お前、生半可な仏心出したら首だよ」
 いち早く彼の心を読んだのか、美保は顔に似合わぬ厳しい気性の一面を見せた。
「いいえ、とんでもない」
 由は慌てて打ち消したが、美保がときどきやつてのける、びっくりするような即興お色気芝居で、今日も巧く稼いたというのに、なぜ、あの老人を侮辱したがるのか分からなかった。
 彼女の威力に、二人とも圧倒された感じだったが、女将は恐る恐るもう一度言い返した。
「でもね、お金出したのは美保ちやんに惚れたか、同情したか、どちらかでしょう ?」
「違うね」
 美しい能面のような表情の侭の冷たい言いい方だった。
「転んで脚開いたのは、勿論、惚れさせるというモティベーションだけど、彼の目は応じなかったね」
「本能の領域でさえ自縛した。男としては異常な行動様式だよ。どんなに年をとっていても決して失うことのない、男特有の感動の色を見せなかった。つまり、自分をごまかしたのさ」
 女としては最も恥ずかしい姿態をとって男の気を引こうとしたにもかかわらず、それに乗らなかった老人に腹を立てているのだろうか。
「それに、同情はね、する方も、される方も、何かしら自分というもを表現せずにはいられない習性なのよ。金持っていれば、恵んでやろうと自己表現するのさ。素人が、芸術家ぶって文章やカンバスに自分という人間を表現したいのと同じなのよ」
「つまり、嫌みなんだよ。虫が好かないんだよ。あの爺には可愛げがないんだよ。もうちいと、意地汚く、触らせろとか何とか言って来た方がまだ許せたのに」
 美保は吐き捨てるように言った。
 あの老人は、人恋しさに、ほんのちょっと立ち寄った後の、影にすら、屈辱を受けねばならなかった。女将も男も黙ってしまった。夜が更けた。
 女将は、美保が自ら同情を餌にしておきながら、それはそっくり棚に上げ、さっきから屁理屈ばかりこねまわしている彼女にむかむかしていたが、こうしてみると、やっぱ、人間は悲しいことに、自分をごまかさずには生きていかれないものだとつくづく思った。
 そうすると、女将は、あの老人も、美保と同じように、何となくインチキ臭く思えてくるのであった。
 雰囲気が白けてしまった。
「……お色気の芝居、馬鹿みたい。私としたことが……ざまあないよ。まったく」
 何を思ったのか、美保が独言のように眩いた。いつもなら、必ず引っかかるであろう自作の演技に、何の反応を見せなかった老人に余程腹が立ったのだろうか。
「……帰ろ」
 彼女の言葉に、二人とも声を揃えて、
「おやすみなさい」と、挨拶した。
 店内の灯が、一斉に落とされた。店の前には、美保のフェアーレディーZが置かれていた。
 寝静まったこの街を、まるで、屈伏でもさせるかのように、VG 3リッターのエンジンを吹かし上げると、タイヤの悲鳴が闇夜を引き裂いた。          (完)                                                                
田尻 晋
http://homepage3.nifty.com/stajiri/htm2/midi.html
2010年12月31日(金) 12時07分49秒 公開
■この作品の著作権は田尻 晋さんにあります。無断転載は禁止です。
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No.3  田尻 晋  評価:--点  ■2011-01-21 14:14  ID:CUDIGjRHC3k
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>あや、あつしさん!
Resが遅れてしまって申し訳ありませんでした。読んでくださり心よりお礼申し上げます。
----------------------------------------------------------------
>ゆうすけさん!
お母さんも鹿児島の方でしたか。わたしも、仕事の関係でしばらく九州方面を転々としていました。
読んでいただいたことに心より感謝いたします。
No.2  ゆうすけ  評価:30点  ■2011-01-04 18:00  ID:ySrKhKJdka.
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拝読させていただきました。

主人公である老人の屈辱、孤独、寂しさが見事に描かれていると思います。
九州弁もいい味を出しています。私の母が鹿児島出身なので、懐かしい響きです。

不思議な漢字の使い方が所々見られますが、このストーリーには合わないと思いました。

後半で、見事に老人を騙した側の視点になりましてこれも面白いのですが、これですと主題がどちらか分かりにくいと思いまして、やや蛇足感がありました。

文章面では、主語がなくて分かりにくい箇所がありました。冒頭部分で主語がないために一人称視点なのかと思い、若干混乱しました。

やや読みにくい部分もありましたが、ぐいぐい引き込まれて一気に最後まで読ませるパワーを感じました。老人の心理描写が巧みであったからだと思います。
では、また。
No.1  あや あつし   評価:30点  ■2011-01-03 17:21  ID:IVwtDtmN1sY
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拝読させていただきました。老人と老人をとりまく登場人物の想い、屈辱という題名は読む人にとってどちらともとれる内容でおもしろいと思いました。老人の九州弁がまた一徹な人柄をあらわして面白い演出と思います。また読ませてください。
総レス数 3  合計 60

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