回航
〜 回航 〜


 私がその部屋に入ったとき、彼は窓から外を眺めていた。初夏の涼やかな風が、窓の向こうの木々の小枝を優しく揺するのが見える。青々とした葉が陽光を弾き、北海道特有の澄んだ空気をさらに涼やかに印象づける。彼は両手を後ろ手に組んだままゆっくりと振り返り、人なつこい赤ら顔に笑みを浮かべながら右手を差し出した。
 彼、ネーリング・ボーゲルとは、久しぶりの再会だった。造船技師だったボーゲルと最後に顔を合わせたのは、私が海軍奉行としてあの函館戦争に赴いたころだったと記憶している。あれからおよそ十五年。互いに初老を迎え、この函館の地で彼と会うことになにか因縁めいたものを感じる。握手を交わした私はすぐ傍らにあった綺麗な椅子を勧められた。

「お久しぶりですネ。郁之助サン」

 椅子に腰掛ける私にボーゲルが言う。流暢な日本語。西洋人特有の訛りがわずかに耳に引っかかるが、あの頃と変わらない低音の声は心地良かった。

「ええ、貴方もお元気そうで何よりです」

 私は生きて再会できたことがただ嬉しかった。今までも何度か誘いをもらってはいたのだが、農学校の校長として何かと忙しくしている自分はなかなか会うことができずにいた。それがつい先日、どうしても会いたい用事があるという電報が届き、何かあったのではないかと心配してなんとか都合をつけて函館まで来たのだ。
 来てみれば何のことはない。こうして元気そうにしながら私に紅茶をすすめているではないか。拍子抜けしたのと同時に安堵の溜息が漏れた。

「少し昔の話がしたくなりマシタ」

 目の前に腰掛けたボーゲルが、自分のティーカップを手に取りながら言う。彼は紅茶を一口すすると、ゆっくりカップを下ろしながら大きく息をついた。真意を計りかねてとりあえず頷く私を青い目がじっと見ていた。
 昔の話がしたいというボーゲルの言葉に私は微笑みながらも複雑な心持ちだった。この十五年の間にあったことは、私にとって筆舌に尽くしがたいことばかりだったからだ。
 戦争に負けた私は敗軍の将として官軍に下った。幸い欧州での経験や渉外としての能力の高さを買われ榎本武揚と共に政府の近代化に尽力することとなったが、逆を言えば敗軍の将ですら組み込んでいかねばならないほど明治新政府は人的に枯渇していたと言うことだろう。
 誘われるままに与したとはいえ、薩長の派閥に占められた政府のなかで立ち回るのは並大抵のことではなかった。北海道開拓使として過酷な労働と厳しい自然に真っ向から立ち向かった。どんなに献身的に働こうが、周囲の多くの人間は私たちを生き恥をさらす賊将と蔑んだ。その侮蔑の視線を作り笑いでやり過ごしながら耐え、いつか日本が列強に肩を並べる日を夢見て懸命に励んできた。
 友の多くはあの戦争で死んだ。生きながらえたことを嬉しいと思ったこともない。ただ、義を信じて散っていったあの碧血碑(函館戦争での戦死者を奉る慰霊碑)のもとに眠る戦友達を辱めることがあってはならない。その思いだけを胸に、明治黎明の日本を見届けるつもりで生きてきた。私にとっての昔話は決して笑顔だけでは語ることが出来ないものだった。
 結局、私たちふたりの間には当たり障りのない会話が続いていた。

「相変わらず、泳げないのデスカ」

 ボーゲルが人なつこく笑う。つまらないことほど良く覚えているものだ。海軍に従事していた自分が泳げないというのはどうにも印象深いらしく、当時から彼にはよく笑われたのを思い出した。

「ええ。まあ、いまとなっては海で泳ぐようなこともありますまい。特に不便はないですよ」

 
 時折、窓を訪れる小鳥のほかに、私たちふたりの時間を止めるものはなく、しばらくそうして他愛のない話をしていたのだが、ほどなくして急にボーゲルの顔から笑みが消えた。何かあると思った私も口をつぐみ、彼が語るのを待った。さほど長い間では無かったと思うのだが、窓枠でささやく小鳥の声が妙に耳に残った。
 やがて、私を見つめながらボーネルは呟くように言った。

「アレは素晴らしい船デシタ」

 ボーネルの言葉に一瞬胸が詰まり、呼吸が浅くなるのを感じた。ティーカップを持つ自分の手がわずかに震えだす。ボーネルが私に言う船とはあの船のことに違いなかった。

「ダンジック号」

 私の言葉にボーネルは笑顔で小さく何度も頷いた。
 ダンジック号。一八五五年に建造されたプロシアの軍艦。のちにイギリス軍に渡り、イーグル号と名を変えたのち、日本に回航され江戸幕府の軍艦となった船だ。

「とても美しい船デシタ」

 笑顔のまま、ボーネルが嬉しそうに言う。
 ダンジック号はプロシアのダンチヒ造船所で建造された。当時、ボーネルはそのダンチヒ造船所で技師としての技術を学んでいたのだそうだ。ダンジック号はそのダンチヒ造船所で初めて造られた軍艦で、その完成後の検査を行ったのがほかならぬボーネルだったと聞く。
 全長は三八間(六九メートル)、全幅六尺(一〇.六メートル)。四〇〇馬力の蒸気機関を有し、総排水量七一〇屯。プロシア国内でも最上級のオーク材をふんだんに使い、煌びやかな商船を幾隻も造りあげてきた造船職人達が、その意地と誇りをかけて仕上げたコルベット艦だった。

「そう、とても美しい船でした」

 そう答えながら私の意識は海の上にあった。
 見上げるのは、そびえるマストのむこうがわにある真っ青な空。その空に二本の煙突から立ち上る黒煙がとけ込む。両舷の巨大な外輪が力強く海原をつかみ取り、船は鋭く波間を切り裂いていく。
 甲板の手すりにもたれる私の目の前に、時折跳ね上げられる海の飛沫が、鼻先に潮の香りを残しては消えていく。磨き上げられた極上のオーク材が、太陽の光をはじき飛ばし、船は輝きながら海原を往く。
 
「あの船が初めて海に浮かんだときのコト、今でもはっきりと覚えてイマス」

 ボーネルの声に、私は夢想の航海を中断させられた。
 プロシアの誇りをかけて建造された当時最新型のコルベット艦。それまで商船しか手がけたことがなかったダンチヒ造船所の職人達が、初めての軍艦建造に苦悩しながらも必死で造りあげた船だったそうだ。

「嬉しかった。あの美しい甲板に立ったトキ、私は本当に嬉しかったデス」

 私はティーカップを置き、無意識に目を閉じる。そして、その船が辿った過酷な運命に思いを馳せた。

「カイテンマル」

 ボーネルが言う。私は両目を瞑ったまま、反射的に漏れかけた息をぐっと呑み込んだ。同時に、両手が拳を握っているのに気づく。

「日本での名前は『カイテンマル』でしたネ。話を聞かせてくれませんか」

 私は頷くことも出来ずに、ただ目を閉じていた。そして瞼の裏に浮かぶのはあの船、回天丸と共に闘った仲間達の姿だった。



 一八六九年。明治二年三月二五日。私は山田港にいた。目標である甲鉄艦が停泊する宮城の宮古湾まではあとわずか。しかし、一緒に作戦行動するはずの「蟠龍(ばんりゅう)」は前の晩の嵐で行方不明となり、一緒に山田港に到着した「高雄」もまた機関故障を起こして足踏みしていた。

「荒井総司令官殿。いかがなさいますか」

 海軍奉行であり作戦の総司令官だった私にそう聞いたのは、回天丸艦長、甲賀源吾。私よりも三つ年少で、ちょうど三十になったころだったろう。その後ろには陸軍奉行並であり、切り込み隊の切り札として乗艦していた元新撰組副長土方歳三の姿もあった。
 我々の目的は新政府軍に払い下げが決まった当時最新型の軍艦、甲鉄艦を奪取あるいは破壊することだった。しかし、予期せぬ嵐のために軍艦二隻を欠き、我々の戦力は大きく摩耗していた。私はあの時ほど決断に窮したことはない。あの決断をこれまで何度後悔したことだろうか。そして、これからどれほど後悔することだろう。
 甲賀が進言したのは「アボルダージュ」と呼ばれる作戦だった。それは敵船に接舷し乗り込んで奪い取るというもので、砲撃が中心となった近代の戦艦戦では、世界的にも例が少ない作戦だった。

「本来なら三艦で取り囲み、一気呵成にしかける力押しの作戦だ。この回天丸だけでも作戦完遂は望めるか」

 私の問いに甲賀が答える。

「回天丸には神木隊、彰義隊の勇士のみならず、土方殿もおられる。接舷さえできれば白兵戦では負けるはずがありません」

 操舵は自分がするから接舷に失敗するはずもない。そう言う甲賀に私は押し切られた。結局、作戦続行を言い渡し、甲賀を司令室から出した。
 部屋に残った土方さんが言う。

「意気軒昂。威勢があっていい。まあ、無いよりまし、といったところだが」

 甲賀のことを言っているのだ。常に自らの正義を信じ、正攻法で事に当たる。甲賀は妥協のない真正直な男だった。

「あれは正直な男です。それだけが取り柄といってもいい。だから、皆に慕われるのでしょう」

 私は思うままを言葉にした。土方さんは唇の端に笑みを浮かべて、腰に差していた刀を鞘ごと引き抜いた。椅子に腰掛けるのだろうと思い、それを勧めたが「結構」と断られた。

「荒井君は甲賀君とは昵懇だったな」

「まあ、昵懇というか、あれが勝手にうちに転がり込んできただけのことですが」

 幾何学や天文学に興味があった私は一時期自宅でその学習に打ち込んだ。それを聞き及んだ甲賀が一緒に学びたいと押しかけてきたのだ。とかく物事を知ることに貪欲な男で、飯時だろうが客が来ようが一切かまわずに疑問に思うことを問いつめてきた。結局、住み込み同然に一緒に過ごすこととなったのだ。

「何事にも熱心な男です。時に過ぎることもありますが」

 私の声に土方さんは小さく頷いた。
 不意に体が揺れた。船が進み出した。私も土方さんもなんとなく天井を見上げながら、揺れに体をならす。すぐに均衡を取り戻した土方さんが私を見据えてひどく低い声で言った。

「荒井君は剣もたつと聞くが、どうだ」
 
 私は意外な問いに驚いた。直心影流に学び、いささか腕に覚えはあったが、まさか新撰組副長にむかって「できる」とは言えようはずもない。「まだまだ」と笑って誤魔化した。土方さんは瞬きもせずに私を見ていた。殺気はなかったが、言いようのない威圧感に背筋がぞくりとした。
 つづく話題を探そうとしたが、そうすぐに適当なものは見つからない。思考は自然、これから待ち受ける過酷な状況を分析し始めていた。船足が速くなるのを全身で感じる。それはその時が近づいていることを如実にあらわしていた。私は率直に聞いた。
 
「勝ち目はありますか」

 土方さんは手にした刀をどんと床について、それにわずかに前のめりにもたれかかった。

「ねえな」

 にべもなくそう言い放って、そして笑った。

「いいか、荒井君。このいくさ、どのみち勝ち目はねえんだ。海で負けるか、陸(おか)で負けるか。どっちにしたって長くはねえ。どうせ死ぬなら、俺ぁ、一人でも多く斬り捨ててから死にてえんだ。だったら、いくさは多いほうがいい。それに海の上で斬り合いなんざ、なかなかできるもんじゃねえしな」

 今度は言葉に、いまにも刀を抜き放たんばかりの殺気がこもっていた。しかし、それは妙に明るいものだった。私は後にも先にも、あれほどまでに陽気に充ちた殺気を感じたことがない。

「なるほど、死に時を間違えるなということですな」

 私は内心の畏怖の念を表に出さぬように努めて、笑った。

「左様」

 土方さんが答える。船が波間を切り裂いていくのを全身で感じながら、私たち二人は笑いあった。私の背中を冷や汗がつっと伝った。
 


「話してもらえませんカ。郁之助サン」

  ボーゲルの声に私は我に返った。どうやら私は無意識に、ひきつった笑みを浮かべていたようだ。気恥ずかしくなってそのまま笑って言葉を返す。

「いやあ、私はただ夢中で。よく覚えておりません」

  覚えていないわけはない。一生忘れられるはずもない。そして、それは私が偉そうに話すことでもない。これまでも私に奇異なものを見るような視線を送りながら、下卑た愛想笑いと共にあの戦争の話を聞かせてくれとせがむ輩はいくらでもいた。私は生き恥をさらす我が身を嘆いているのではない。共に闘いそして死んでいった仲間のことを、私ごときが語ることはできないと思うのだ。
 いくら旧知の間柄といっても、興味本位でさらりと尋ねられて「はい、そうですか」と話せるほど軽いものでは無い。だから、私はいつもどおり、笑ってごまかすことにした。
 努めて愛想笑いを浮かべながら、ティーカップを手に取る。カップを口元に運ぼうと顔を上げた私は、どきりとして思わず手を止めた。
 上等な紅茶の香り越しに眺めたボーゲルの目が悲しい光を湛えていた。瞬きもせずにじっと私を見つめている。その青い瞳の中に私は明確な殺気ではないが、それに迫るような苛烈な思いを感じた。私はどうして良いか分からないまま、身じろぎもできずに彼を見つめた。

「私は船を作りマス。命をかけて作りマス。自分が作った船がどうやって戦い、どう死んでいったのかを私は知りたかったのデス」

 ボーゲルは、低くゆっくりと言葉を吐き出した。私は「あっ」と思うと同時に、申し訳なく思い恥じ入った。あの船は、私だけのものでは無いのだ。甲賀や土方さんや、あの船で死んでいった多くの部下と戦友達そして、あの船を意地と誇りをかけて造りあげた造船技師達、みんなのものなのだ。そのことにあらためて気づかされた。
 回天丸。天を、世界を回すために造られた船。激動の幕末の荒波を乗り越え、波濤を打ち砕き、新しい時代の夜明けを見届けようとしたあの雄姿を、あの勇壮な最後を私は見た。それを伝えることも私の務めなのでは無かろうか。しかし、そうは思っても容易に言葉には出てこない。さまざまな想いが溢れて、言葉にならないのだ。
 動揺を抑えきれなかったのだろうか。私が手にしたカップの中で揺れた紅茶が一滴跳ねて、テーブルにしかれた真っ白いクロスに琥珀色の小さな染みをつくった。

「上手く、言えないのです」

 クロスに滲んだ染みを見つめながら、私はそう吐き出すのが精一杯だった。

「ゴメンナサイ。あなたにはつらい思い出でしょうネ」

 涙の乾いた顔でボーゲルは笑って言った。潔い笑みだった。私には、どこか土方さんの笑顔にかぶって見えた。話せるものならば全てを話したい。そう思うのだがやはり言葉は見つからなかった。
 軽く深呼吸をすると、すっかり薄くなった紅茶の香りが鼻腔をくすぐった。私はティーカップを手にしていたことを思い出し、冷めてしまったそれを一口すすった。香りの飛んだ紅茶は、少し苦かった。
 そのまましばらく、二人で冷めた紅茶を味わっていたのだが、やがて沈黙を嫌うようにボーゲルが口を開いた。話題は近況についてだった。

「私は今、函館港の工事を監督してイマス」

 なんでも彼は今、三菱に雇われて、船舶の往来をしやすくするため港の水深を掘り下げる浚渫工事の指揮監督をしているという。

「港の底を掘ると、いろんなものが出てきて面白いデスヨ」

「はあ」

 話の流れに乗れず、私は首を傾げた。ボーゲルはとまどう私の様子を気にかけることもなく、おもむろに立ち上がった。長身が窓を覆い、テーブルに影が差した。しかしそれもすぐに流れ去り、ボーゲルは私の背後に立った。彼の良く通る声が頭の上から降ってきた。

「良い椅子デショウ。肘掛けを触ってみてくださイ」

 意図が分からないまま、言われるがままに自分が腰掛けている椅子の肘掛けを撫でてみる。同時にその手元に目を凝らした。それが磨き抜かれたオーク材であることは、一目でわかった。力強く、それでいて暖かい感触。それはどこか懐かしい感じがした。それは極上のオーク材だった。
 極上のオーク材。それに思い当たった瞬間、鼻先に潮の香りがした。船が波濤を切り裂く音さえ聞こえる気がする。

「ボーゲルさん、これは」

 私は椅子に座ったまま振り返り、ボーゲルの顔を見上げた。彼は満面の笑みで頷いた。その笑みに私は確信した。それはあの回天丸の一部だったのだ。

「港の底をすくったら上等のオーク材がたくさん出てきましたネ。ダンチヒ造船所の技師の仕上げは独特だから私が見間違えるはずないネ。それがダンジックだと分かったときは涙が止まらなかったデス」

 自らが完成を見届けた船が沈み、その沈んだ船の欠片をすくい上げたのだ。造船技師としてこれほどの僥倖があるだろうか。その破材をボーゲルが廃棄できようはずもなく、自分で再び磨きをかけて椅子に仕立てたのだという。
 目頭が熱い。私は両眼に涙がじわりと浮かぶのを感じた。漏れかけた嗚咽を必死にこらえようと、無意識に口元に拳を運んでいた。涙に霞む視界に、椅子が、回天丸の残滓がぼやけながら浮かんでいる。

 忘れられるものか。あの日、回天丸は甲鉄艦の横っ腹に船首から突っ込み、二間(三.六メートル)も敵艦に乗り上げた。切り込み隊が抜刀する鞘走りの音と一気に上がった鬨の声が、いまだに私の内耳に張り付いている。
 ひとり、またひとりと船首から敵艦に乗り込んで行った。その中にはもちろん、土方さんもいた。艦長である甲賀源吾も船首に仁王立ちになり、刀を振り回して指揮をしていた。
 後に続くべく、甲板で抜刀した私の耳に飛び込んできた敵のガトリング砲の轟音。私の目の前で、すぐ右で、左で倒れていく兵士達。敵艦の甲板に目をやれば、大勢に取り囲まれながらも土方さんが獅子奮迅に立ち回っていた。新撰組副長、壬生狼の土方歳三は健在だった。白刃が煌めくたびに血煙が渦巻き、土方さんがまるで赤い霧の中にいるように見えた。
 船首では甲賀が、片足を撃たれて崩れた。助けようと駆け寄る私の目の前でさらに右腕を撃ち抜かれ、刀を取り落とす。ようやく私の手が届くかと思ったその時、甲賀のこめかみを敵弾が貫いた。
 弾雨が激しく空気を切り裂く中、私は声を上げることも出来ずに立ちつくした。その私を尻目に元新撰組隊士野村利三郎が、とんぼ(右上段)に刀をかついで咆吼しながら敵艦へと乗り移っていく。
 形成は不利。外輪が邪魔をして横付けできず、船首から突っ込んだ回天丸からは限られた人数しか敵艦に乗り移れなかった。橋頭堡となった船首はガトリング砲の格好の的となり、味方が次々と撃ち倒されていく。
 気が付けば、私は舵に取り付いていた。退却を告げて、すぐに舵を切る。ふと隣を見ると、返り血で真っ赤に染まった土方さんがいた。息ひとつ切れていなかったように覚えている。
 舵と格闘しながら敵艦をみると、甲板で取り囲まれている兵が見えた。腰を落とし、片平の突きの構え。その新撰組独特の形から、それが野村利三郎だとわかった。まだ、二十六歳の若者。助けたかった。心底、助けたかった。しかし、私は甲鉄艦に乗り上げた回天丸を引きはがすのに精一杯だった。私は野村を見捨てたのだ。夢中だった。夢中で操舵し、逃げた。函館での決戦を前に、回天丸をそこで沈めるわけにはいかなかった。

「気にするな。あいつはここが死に場所だ」

 土方さんがそう言ったが、私には何の救いにもならなかった。
 敵の砲撃を振り切り、湾を脱出した後、ようやく舵を離れた私は甲板に座り込み手摺りにもたれかかった。見上げるのは、そびえるマストのむこうがわにある真っ青な空。その空に、二本の煙突からもうもうと立ち上る黒煙がとけ込んでいく。私の目の前に、時折跳ね上げられる海の飛沫が、鼻先に潮の香りを残して消えていった。いつしか涙が溢れた。涙の向こうに、磨き抜かれた船の手摺りが輝いていた。


「我一艦といえども以て敵を破るに足れり」

 嗚咽をこらえきって、ようやく言葉を吐き出す。ボーゲルは私の後ろに立ったまま、私の言葉を聞き漏らすまいと息を殺すようにじっとしていた。私は椅子から立ち上がり、ボーゲルに向き直った。
 
「回天丸の艦長だった甲賀源吾という男の言葉です。回天丸さえあれば戦争に勝てると艦長は言ったのです。回天丸とはつまり、そういう船でした」

 ボーゲルは優しく微笑んで、大きく頷いた。私にはこれ以上を語ることは出来ない。それを察してくれた、全てを理解してくれた笑いであって欲しい。私はそう願った。

「ちょっと待っててクダサイ」

 そう言うと彼は、おもむろにきびすを返し、隣の部屋へと足早に歩いていった。程なくもどってきた彼の手にはくすんだ木材が握られていた。それが何かは、もはや疑いようもない。

「私が持っている最後の欠片デス。コレをあなたに渡したかったノデス」

 私の腕ほどの大きさの木材。元は船の甲板に敷き詰められていた部位だという。私にはその欠片がとてつもなく重く感じられた。函館港で動けなくなり、それでも砲台として最後まで戦い抜いた回天丸。それが破壊されていく様を私はすぐ近くで見守っていた。まさかまたあの船に触れることが出来るなどと、思いも寄らなかった。
 思えば甲賀も土方さんも、みんないなくなってしまった。あたら失ってしまった野村のような若い命もたくさん見てきた。自分が生きながらえてしまった意味を探しながらの人生は、決して楽なものではない。それでも今日、自分が生きる意味をひとつ見いだすことができた気がした。

「磨きましょう、私も。この回天丸の形見を磨き抜いて、何かの形にしたい」

 私はそう言いながら、自分が笑っていることに気が付いた。妙に心が弾む。

「私は不器用ですから立派なものは作れない。何がいいかな。そうだ、たばこ盆にしよう」

 ボーゲルが怪訝そうな顔をしながら笑っている。急に陽気になった私が可笑しいのだろう。しょうがないではないか。嬉しくて仕方がないのだから。

「艦長の甲賀という男は『知りたがり』の『でしゃばり』でしてね。客が来ても引っ込まないものだから仲間内ではよく『たばこ盆』と呼んで笑ったものです。これなら大きさもちょうど良いし、できあがったらどうにかして甲賀の親類にでも届けましょう。そもそもこれは、あいつの持ち物ですからね」

 するとボーゲルが急に困った顔をして椅子を指さした。

「では、私の椅子も返さなくてはイケマセンカ」

 私は一瞬あっけにとられたが、すぐに声を上げて笑った。ボーゲルもその良く通る豊かな声で笑い声をあげる。生きている。私は笑いながら、そう思った。
 

  

− 了 −
  
 

 
 
  



  

 

  

 

 

 
 

 

 
 
天祐
2023年01月15日(日) 11時57分06秒 公開
■この作品の著作権は天祐さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
旧作の焼き直しです。
お目汚し、失礼。

この作品の感想をお寄せください。
No.8  天祐  評価:0点  ■2023-04-21 19:59  ID:YV7Um1wtNM2
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えんがわ様
大変うれしい感想ありがとうございます。
意図がうまく伝わったようで作者としてはうれしい限りです。
さらに精進したいと思います。

李都氏
お久しぶりですね。
いつも丁寧な感想ありがとうございます。
素敵でした、か。
素敵な登場人物たちです。
どこまでが史実でどこからがフィクションかを確認するのも楽しいかもしれません。事実は小説よりも奇なりですからね。
私は事実を少しなぞってみただけに過ぎないかもしれません。
また、よろしくお願いいたします。
No.7  李都  評価:50点  ■2023-03-03 23:09  ID:9pxemaegKFc
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拝読しました。
お久しぶりですね。
感想自体も本当に久々で失礼があったらどうしようかと、恐る恐る打ってます。

冒頭の「綺麗な椅子」という言葉にどうも違和感がありましたが、後半のためでしたか。
他の景色などは具体的に表現されているのにそこは曖昧な感覚で形容されていたので
なんだか不思議に思ってました。
主人公は呼び出した目の前の彼に視線がいっているので、
椅子自体は目の端でしか捉えていないぼんやりとした存在であるのに
不思議と綺麗だと思うその繋がりを感じ取る人の機微みたいなものが素敵だなぁと感じました。
個人的には時代物をほぼ読まないのですが、地元に近い函館という舞台であることで話にも入りやすかったです。
終始天祐さんはこのお話のどこのシーンを書きたかったのかなぁと
想像して探すのが楽しかったです。
私は主人公の「上手く、言えないのです」というセリフのところが好きです。
大の大人が小さく背中を丸めて震えてるような
肩を抱きしめてあげたくなり、胸がキュッとしました。

長々と勝手を申しました。
素敵でした、読ませていただきありがとうございます。
No.6  えんがわ  評価:30点  ■2023-01-28 22:20  ID:PyFRimgEhSs
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情景がダイナミックに浮かびます。

ボーゲルさんの優しい青い目、戦場での荒々しい戦闘、そしてすべてが終わった後の寂しくも穏やかな対話場面。

後悔で始まり、未来への希望で閉じられる。
軽い笑いを誘う問答に、かえって泣けてしまいます。

善いものを読ませていただきました。
No.5  天祐  評価:--点  ■2023-01-28 20:54  ID:F2cSASWZGBA
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>時雨ノ宮 蜉蝣丸 氏

うれしい感想ありがとうございます。
氏が留守にされていた期間を私は存じませんが、私も長いことこちらをホームとしておりますので、こうして感想をやり取りできる仲間がいることに改めて感謝しています。
お伝えしたことが伝わったようで非常にうれしく思います。
ぜひ、いつか氏の作品も拝読できれば幸いです。
ありがとうございました。

>ゆうすけ氏
毎度、ありがとうございます。
まだまだ精進が必要ですね。どうしても書きたい部分に比重が乗りすぎてしまって視野が狭くなっているようです。
うれしい感想、ありがとうございました。


No.4  ゆうすけ  評価:50点  ■2023-01-22 17:31  ID:QOM0ArBj2LA
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拝読させていただきました。
冒頭の描写、丁寧に描かれていて情景が目に浮かびます。そして主人公の語りによって物語世界に引き込まれていきました。
まず、文章の雰囲気が素晴らしいです。しっかりと物語世界を構成しているのでその世界にどっぷりと浸れますね。やっぱり天祐さんです、以前から頑固職人的なイメージを持っていましたが、まさに今作はその印象です。
甲賀エピソードをもう少し掘り下げてほしいのは私も感じました。魅力的なキャラをもっと味わいたい、より深い喪失感を得るために。

さて歴史ものの特徴として、その歴史に興味があるか否かで楽しめ度の度合いが違ってきますよね。私は歴史は戦国時代オンリーなので他の歴史はよくわからんので、もしかしたら知っていた方がより楽しめたのかなと思います。加えて重厚な雰囲気なので、軽いノリと分かりやしテーマが好きな読者には面白味が分からないような気もします。
No.3  時雨ノ宮 蜉蝣丸  評価:40点  ■2023-01-18 00:05  ID:9rderctIiIQ
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こんばんは。長い間留守にしていた古巣を覗いてみたら、胸穿つ作品がそっと置かれていて驚いてしまいました。

訳あって最近、幕末の志士や近代の軍人について触れる機会があり、また幼少から戦時中の話を祖父母に直に聴くかされてきました。あくまで『そういう出来事があった』『そういう歴史とされた』の範囲での認識に留まりますが、全く知らない・無関係な話題という訳でもなく、話を聴けば嘆いたり昂ったりしてしまいます。

目に刺さる紺碧と殺伐とした火薬の匂いが眩しくて、痛々しくて、けれど飴色の肘掛けになった“彼”は穏やかに微笑んでいるように見えて仕方なくて、なんだか泣いてしまいそうでした。

ありがとうございました。
No.2  天祐  評価:--点  ■2023-01-16 23:09  ID:F2cSASWZGBA
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>アラキ様
丁寧な感想ありがとうございます。
友人。確かに、そうかもしれませんね。
作者の意図を越えてキャラクターが想いを伝えてくれているようで大変うれしい感想です。
ご指摘の土方描写と甲賀描写のアンバランス。言われて初めて気が付きました。
確かに甲賀とのエピがもう少し充実していればラストがもっと生きるでしょうね。
精進いたします。
お読みいただきましてありがとうございました。
No.1  アラキ  評価:50点  ■2023-01-16 16:25  ID:pu1HY/1I14U
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拝読しました。
ボーゲル氏は、主人公を息子(回天丸)の友人のように感じていたのではないでしょうか。
息子の最期を知りたいのと同時に、深く傷ついているであろう友人を少しでも慰めたいという思いがあったのではないかと。
ボーゲル氏の優しさを感じる作品でした。

件の出来事を語る口調に落ち着きがあるのが良いですね。
時が経ち、思い出しても当時ほどの激しい感情は湧いてこない。
だが描写は鮮明。決して忘れることはできない。
そんな印象を受けます。
あと、「あの船は、私だけのものでは無いのだ」この一文は刺さりました。
確かに、辛いことがあると忘れがちなことですよね。

内容は壮絶なのにどこかゆったりとした雰囲気が、大人同士の会話らしくて好きです。
強いて難を挙げるなら、最後は甲賀氏の話題で締めていたのに、回想では土方氏ばかりなのが少しだけ気になりました。
総レス数 8  合計 220

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