徒然に
心に映り行くよしなしごとをそこはかとなく書き綴れるほどの文才も無く、ただ安穏と日々を過ごしている私ができることと言えば、目の前を移ろい行く事象をただただ眺めることだけだ。
 起きて食べて出して寝る。人生とはこれの繰り返しに過ぎない。反復と重複と驕りと懺悔と恋慕と侮蔑の混在する時流に呑まれて苦悩し、身もだえる様を装ってもつまるところはただひとつ。それが生きているという単なる事象であるということだ。
 それは蝿や蚊がふわりひらりと飛び行くことと本質的な意味で違いは無い。そこに意味を求めようとするから人というものは殊更格好をつけたがる。生きていることに満足するというのは真に滑稽な思想だ。生きていることに満足も不満足も無い。生きてしまっているのだから。それに抗おうとすれば死を受け入れるしかないのだ。
 語りつくされた陳腐な思想ではある。しかし総じて陳腐なものほど本質を語っているものだ。劇的だとか、感動的だとかというのは奇をてらう謳い文句でしかない。劇的に見えても、感動的に思えても、つきつめればそれは必然の積み重ねでしかない。
 ありふれた日常。そうくくられる日常のどこがありふれているというのか。まったく同じ一日を過ごすという人間を見たことがあるか。聞いたことがあるか。一分一秒も違わない生活を送る人間などいるわけがない。葉の上をこぼれる露の一滴のように、まったく同じ軌跡をたどる日常などありえない。そこには思いもよらぬ偶然のようにみえる必然があり、心ときめくような素晴らしい出会いのように思える必然の出会いがある。
 私たちの人生は運命とか奇跡とかいうものとは本質的に無縁なのだ。自分が叩き潰した蚊が自分によって殺されるのは必然であったのと同じように、私が生きていることは単なる事象に過ぎない。
 人はなぜか原因と結果を切り離して認識することが好きなのだ。それは空に浮かぶ雲が何かの形に見えるのを喜ぶ子供らが、なぜそこに雲があるのかを考えないのと同じことだ。
 我ながらずいぶんとひねくれた考えをするようになったものだと思う。目の前にある事実をひとつの事象としてとらえる。味気ないように思えるかもしれない。しかし、本質とは味気ないものだ。どんなに優れた手品であってもタネがわかった瞬間にまったく違った見方をするようになるのと同じことだ。本質がわかると尾ひれや枝葉は一瞬にして消え去ってしまう。
 私の日々に感動は無いに等しい。ここで私が言う感動とは世間一般に言われる演出過多な感動のことだ。そもそも世間がよく言う感動するということ自体が作為的に感じられる。人は感動した気になっているだけだ。感動を望み、希うからこそ目の前に起きた必然の事象を感動的に捉えたがる。感動させられているわけでもなく、感動しているわけでもなく、感動したいから感動した気になっているだけなのだ。
 私は老いている。齢七十五を数え、ベッドに横たわりながら、日々家族の介護を受けて生かされている老人だ。家族との会話はない。家族はそれを痴呆のせいだと思い込んでいる。否定するのもわずらわしく、別に大したことでもないので私はそれでいいと思っている。起きて食べて出して寝る。これだけのことをするのに会話など必要ないのだ。
 私は生きている。これは重要なことだ。私が生きているという事象が重要なのではない。生きているということそのものが重要なのだ。例えの話をしよう。
 別に無くても良いのだが、私が横たわるベッドからは窓が見える。そこには毎日違った世界が写る。ある時は、ふと気がつくと小さな鳥が窓枠にとまって、私の顔をじっと見ていた。なんという名前の鳥なのか私は知らないし、知りたいとも思わないのだが、あんまりじっとこちらを見つめるので声をかけてやらなければ可哀想な心持になってしまった。だが、なんと声を掛けてやろうかと思いあぐねているうちに小鳥は、ぱっと飛び立ってしまった。なんとも陳腐な話だろう。この話自体には何の感動も無い。
 ある時は窓の向こう側から犬が吠え立てていた。朝も早い時分だったように思う。別に放っておいてもいいのだが、時間も時間だ。私はかまわないが、こんなに朝早くから騒がれては家の者が可哀想だ。いつも世話を焼いてもらうばかりでも情けない。一声かけて追い払ってやろうと大きく息を吸い込んだのだが、気がつくと犬の声が聞こえない。あんなにうるさく吠えていたのがまるで嘘の様に静かになってしまった。なんとも陳腐な話だろう。この話にもなんの感動も無い。
 ある時はその窓を雨が激しく叩いていた。あいにく家の者が出払っていたのでカーテンを閉める者が居なくて真っ黒い窓がよく見えていた。
 真っ黒い向こうの世界からまっしぐらに飛んできて窓ガラスにぶち当たり飛び散っていく雨粒が、部屋の明かりに照らされてきらり、きらりと光っていた。へばりついた水滴が、蝸牛のはった後のような軌跡を窓ガラスに残していく。それは、ばったん、ばったんとやかましくガラスを揺らす風の音とはなんとも対照的で、妙にちぐはぐな感じがした。しばらくそれを眺めていたのだが、おもむろに家内が部屋に入ってきていささか乱暴にカーテンを閉めてしまった。その時になって初めて、もう少し窓ガラスを見たがっていた自分に気がついた。開けておいてもらおうかと声をかけようとするうちに家内はすうっと部屋を出て行ってしまった。また、声を出せず仕舞い。なんとも陳腐な話だろう。この話にも感動はない。
 この窓は私の日常をありふれたものにさせない。死んでいるのか生きているのか自分でもわからないような時に、ふと見た窓の向こうはきちんと生きて動いている。何も語らずとも何かを語りかけてきているように思うのだ。テレビではこうはいかない。人が恣意的に作ったものはあまりに空虚なのだ。窓の向こうの無意識の連鎖がふと私の心をゆすることがある。それは感動するということではない。人は日常にことさら大仰な感動がなくてもいいのだ。生きているという気づきがあれば生きることは足りるのだ。感動というものはあるに越したことは無いが、本当の感動とは誰かに押し付けられたり、自分で思い込んでするものではない。
 何が言いたいのかというとさっきの話。窓を見て声を上げられなかった自分が覚えたのはある種の怒りだった。激しい怒りではない。ほんのわずかな、しいて言えば怒りと言える感情。そこに私は感動とは言わないが、感じたのだ。自分の感情がわずかにゆれたことを。
 確かに私はあの時、怒っていた。小鳥よ、なぜ私の声を待たなかったのだ。吠え立てた犬よ、なぜ私の声を待たなかったのか。妻よ、なぜ私の声を待たなかったのか、と。どれもとるに足らないどうでもいい事なのだが、私の心が揺れたのは確かだ。
 人は感情の生き物だという。だが、己の気持ちの動きを真に感じている人間が果たしてどれだけいるだろうか。嬉しいとか悲しいとか腹立たしいとか楽しいとか何かにつけて感情を表現しようとするが、果たして本当にそう思っているのだろうか。私には大半の場合がそう感じているふりをしているだけにしか思えてならないのだ。
 本心からそう感じて、それを発露させる時。それは生きている間にそう多くはない。私はいま日がな一日、その瞬間を待ち続けているのだ。
 傍から見ればなにもせずにただただ無為にそこにあり続けているだけに見えるだろう。しかし、私にとっていつ訪れるかわからないその瞬間を待ち続けるだけで何もしないこの日常が生を実感できる、いや生を実感しようとあがいている証明なのだ。私はただ耳を澄まし、ただ窓の向こうを見続け、そしてその瞬間を逃すまいと常に緊張し続けているのだ。
 それは生きる意味をもとめて動き回った若かりし頃よりも、さらに壮絶な毎日なのかもしれない。喜んだふりをしてはいけない。悲しいふりをしてはいけない。怒ったふりをしてはいけない。楽しいふりをしてはいけない。慎重に自らの心のうちに耳を澄まし続けている私を、人は呆けたと言うのだ。嗤いたければ嗤えばいい。同情するならば同情すればいい。哀れむならば哀れんでいればいい。そうしたいふりをしながら、そうしたい顔をして、そうした気になっていればいい。
 死んだものは想わない。だから私は死んだものを想わない。重要なのは「生」なのだ。何度でも言おう。重要なのは生きることなのだ。恣意的だろうか。それでいいのだろうと思う。生きることは大いなる理不尽さを含む。それでもなお生きることこそ重要なのだ。そう思うのは生きていたいからではない。ただ生きているからなのだ。私と躯の違いはそこにある。そして、その一点のみの違いによって、私は私足りえているのだ。
 日がな一日、じっと五感を研ぎ澄まし続けることが今の私の「生」だとしても、事実そうなのだが、それだけで私は足りるのだ。幸せとはなんと陳腐なものだろうか。いや、幸せと思うこと自体が陳腐なのかもしれない。しかし、そういうものだろうと思う。
 あの窓ガラスが散る前に私は多分いなくなる。しかし、その窓ガラスよりも私は意義ある存在なのだ。生きているというそれだけの理由で私は意義ある存在なのだ。それはとても重要なことであり、そして同時にどうでもいいことでもある。何度も言うが、生きていることに意味など無い。生きていることそれだけが重要なのだ。生きた結果が問題なのではない。生きている状態が重要なのだ。だから、私が生きていることに大きな意味はないが、私がここにいるという事象があるということを私は知らなければならないのだ。生を美化してはいけない。同時に、無視してはいけない。窓ガラスが割れていないことと同じように、私がここにいるという事実を理解しなければならない。
 今日は黒いカラスが窓ガラスをこつこつと小突いている。その高貴な猛禽は自らの羽毛よりもはるかに黒い両眼で私をじっと見つめながら、ただ黙々とガラスを小突いている。意外と私より窓ガラスの方が先に砕け散ってしまうかもしれない。もしそうなったならば、私はきらきらと輝きながら私に降りかかるその破片の中で声をあげて笑おうと思う。
 その時こそ世界よ、知れ。
 私は生きている。
天祐
2021年05月12日(水) 20時49分10秒 公開
■この作品の著作権は天祐さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
旧作の焼き直しです。
帯刀さんからの酷評を希望(笑)

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No.4  天祐  評価:--点  ■2021-05-19 18:51  ID:AFI4V1OnFDA
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山田さん氏。
お久しぶりです。
そして感想、ありがとうございます。

結果的に難解なものになってしまい、申し訳ありません。
作者が解説してしまうと読者への解釈の押し付けになってしまう気がするのであまり深くは言いませんが、少しだけ。
テーマは私の死生観です。
生きるとはどういうことかを主人公に語らせています。
難解という感想は正解だと思います。
生きるとは実は単純で難解なものなのだということだと思います。
嬉しい感想でした。
歴史物についてはちょっと筆が止まっています。
頑張ります。
ありがとうございました。
No.3  山田さん  評価:30点  ■2021-05-18 16:15  ID:UQcHp6qyFKU
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拝読しました。
お久しぶりです。
懐かしいお名前の方にこうして出会えるのも、気恥ずかしいような、嬉しいような。
とまぁ挨拶はこれくらいにしておいて。

実はこの作品が掲載されてすぐに読んでいました。
そしてどう読んでいいのか、皆目分からずにいました。
日にちを置いて再読してみれば違う風景も見られるかな、ということで7、8回は読ませてもらいました。
初読(こんな日本語あるかなぁ)の時よりもしっくりとはきたのですが、やはり「そうか、こういうことを書きたかったのか」というのは正直僕の悪い頭では分からなかったです。
下でゆうすけさんが「若いころに読めば、なんだこりゃ難しくて意味わからんぞ」と書かれてますが、決して若くない僕も「難しくて意味わからん」的状況に陥ってしまったと(汗)。

己に対して諦念しているようでもあるし、そうでないようでもある。
悟りを開いたようでもあるし、でも突発的な感情の揺らぎもあるようにみえる。
最後の「私は生きている」というセリフは希望のようにも思えるし、あざけりのようにも思える。
書かれている内容からして凄く排他的なものを感じるし、でも所々凄く腑に落ちる(納得できる)フレーズも散らばっているので、全く無視もできない。
痒い所に手が届きそうで、届かない、あるいは痒い所をかいているんだけど、実はそこじゃないところが痒い(痒い所が分からない)。
読んでいてそんなもどかしい気持ちになる作品でした。

正直、上記のような感想(感想じゃないなぁ、多分)を抱きました。
僕にはまだまだ難しい作品、だったのかも知れないです。
あまりお役に立てない感想で申し訳ないです。

ちなみに僕が覚えている天祐さんの作品は、歴史物です。
あまり細かい所は覚えていないのですが、圧倒的な力強さを感じた記憶があります。
あと、ゆうすけさんと同じように賽の河原で子供が石を積む話(だったかなぁ。記憶がちょっと曖昧です)が印象的でした。


どうでもいいことですが、マーラーの5番は第4楽章のアダージェットしか聞いた事ないです。

ありがとうございました。
No.2  天祐  評価:--点  ■2021-05-16 22:41  ID:AFI4V1OnFDA
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ゆうすけ氏

感想ありがとうございます。
いつも嬉しい感想ありがとうございます。
マーラーの5番ですか。恐縮です。
マーラーの5番でしたら個人的にはウィーンフィルが良いなと思っています。
道徳の教科書に載せられるような作品を目指して精進を続けたいと思います。
ありがとうございました。
No.1  ゆうすけ  評価:40点  ■2021-05-16 17:22  ID:l9HNwrYHA8I
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 拝読させていただきました。
 冒頭から続く陰鬱な心理描写に或いはこれは随筆的なものかと思い読み進めると、どうやら老人を主人公にした小説だと途中でやっとわかりました。
 この寄せては返す感情の波のような、ひたすら壁に投げたボールを取ってまた投げるような感情描写が、あたかも私が今私が聴いているマーラー交響曲第5番のようでもあり、はたから見ればどうでもいいことをいつまでもうじうじと悩み続ける私としては無言で立ち去りがたい迫力があります。
 若いころに読めば、なんだこりゃ難しくて意味わからんぞ、と立ち去ったと思います。読む人、読む時の気分によって抱く感想は多様になりそうです。

 随分昔となってしまいましたが、天祐さんの作品では三途の川に行く子供のと、立ち止まったらどうなるかと悩むのが印象に残っていますよ。細部にまで手を抜かない重厚な作品だったと記憶しています。
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