流点観測
   1 中央線快速

 冬の夕暮れはあっと言う間に終わった。街の明かりはキラキラと輝き始めて、影は色濃くなっていく。
 そんな中わたしは『でるでる英単語』なんて勉強本を、なぞりながら揺られていた。赤いセロハンみたいな下敷きをして日本語から英語のスペルを手繰り寄せていく。今はケイタイで、何もかも便利になっているけど、本という形がないとわたしは勉強している実感が沸かない。焦燥感は埋められない。
 甲高い男の子の声。家族の笑い声が聞こえてくる。母は艶のあるハンドバッグを下げ、父にぶら下がっているのは、如何にもな遊園地帰りの紙袋。子供はネズミの耳をカチューシャのようにくっつけている。そっか、もう、冬休みなんだ。
「でねー、えへへ、ヒロクンがねっ」
 子供の屈託ない弾み。
「まったく、家族サービスも楽なもんじゃないな」
 それをからかうような父親の愚痴。
「ご苦労様、今日も楽しかったわよ」
 見守っている母親の優しさ。
 その声らが邪魔だったわけではない。 ただ、その純度がわたしには苦しかった。届かない所にあるバラのはずなのに、握り締めてしまって棘だらけになったような鈍い痛み。

 わたしは予備校生。
 去年の冬、高校二年の頃から目指していた本命の上智大学に落ちた時、父と母の顔は真っ赤になった。そしてそれからどんどんと、中央大学、明治大学、法政大学、東洋大学と、不合格が続くと、両親のそれは段々と青くなった。とうとう最後の望みの日本大学も駄目だった、でもまだ諦めたくない、と伝えた時、その顔はどうなっていたのだろう。わたしはうつむいていて、見ることができなかった。そしてそのうつむきは今日まで続いていた。一人で食卓につくことが多くなった。食べることは勉強の気晴らしになるけれど、一緒に食べるとなると気遣いばかりが多くなって、居たたまれなくなっていた。
 だから楽しそうな家族に向かってわざと軽く咳をしたのには、抗議というよりも嫉妬の意味の方が強かったんだと思う。「こほんこほん」と町の図書館のお姉さんがするように、してみた。だけど幸か不幸か、そのようなわたしの小さな抵抗は届かず、親子は朗らかに笑い合う。わたしは『でるでる英単語』を鞄に突っ込んで、一休憩。深く息を吐いた。少しうとうと出来そうになったこともあって、一眠りすることにした。そう思えたのは張り詰めた受験シーズンの中、久しぶりだった。 この時期になると、学力の上積みなどたかが知れているけれど、皆、全力で何時間も使い続けて気休めをする。わたしも八時間、講義をこなしていた。頭が痛い。重くジンジンとする。それを振り払おうと電車の中でこくりこくり。『もうーいーくつ寝ーるとお正月』、なんて妙に浮かれた歌もあったっけ。わたしは電車に揺られて眠った。
 のだと思う。

   2 第九車両

 高校の友人が言った。
「西に行こう」
 少し日に焼けた茶色の肌が楽しそうだった。
 わたしはつられるようにバスに乗った。
 やがて赤、黄、紅、手の平大のモミジが綺麗に見えるところまで来た。
 でも何故か「綺麗」とは口には出来なかった。何時からかわたしの中にはそうした躊躇いが確かに育っていた。
 友人も何も喋らない。
 やがて透明になり。
 影のようになり。
 酸素に溶けるように消えていった。

 旅の終着点は雪に覆われた山だった。
「オネエチャン」
 緑の皮膚をした馬守に先導され、トロッコのようなもので滑走した。
「お姉ちゃん!」
 その麓で、屋台のような所で射的をした。引き金が驚く程に軽かった。手に入れた商品はガチャガチャのようなもので、カプセルを開けると鉄の塊でわたしにはそれは組み立てると鉄橋になるパーツの一部だと
「お姉ちゃん! カボチャのカレー食べる?」

 ふと目を開けると、電車だった。女の子がわたしの肩を揺すっていた。どことなく広がる違和感。
「やっと、起きた」
 女の子はほっとしたような膨れっ面で、こちらを見つめている。
 小学校高学年くらいか、もしくは中学生くらい。まだ頭がぼやけていて曖昧なままだ。いや冴えていても、こんな児童の年齢なぞ、何時の間にか見当がつかないほどに、触れ合うことも測ることも無かったような。少しずつ景色に色がついてくる。ブラウン。
「心配したんだから、もう!」
「ごっ、ごめん」
 ブラウン。茶色と焦げ茶色の間。わたしは周囲を見渡す。
 違和感の正体。
 それは椅子も床も天井も、全て木で出来ていることだった。
 木の椅子はコツコツ、ゴツゴツと座り心地が悪い。
 不安の中、ジーンズのポケットに手を入れる。
 ケイタイを探す。
 無い。
 財布を探す。
 無い。
 定期入れを探す。
 無い。
 膝下の鞄は。
 無い。

 ナイナイ尽くしだ。
 何もないわたしの震えがひたひたと喉元にこみ上げてくる。代わりに声を吐き出す。
「ねっ、ねえ、ここはどこ?」
 不思議そうな顔の女の子。
「電車よ」
「だから、どこの電車?」
 目をぱちくりさせて
「ねえ、お姉ちゃん、はじめてなの?」
「えっええ……」
 何が初めてなのかわからないのも、また、「はじめて」の特徴の一つなのだろう。
「じゃあ、窓の外、見てみる? 特別サービスだよ!」
 こうなると会話の主導権は相手のものだ。
 わたしはたくさんのクエスチョンを抱えながら「うん」と答えるしかなかった。

 女の子は窓を横に滑らせる。
 すると網戸がある。
「えっ? 網戸? がある?」
「こうしないと入ってきちゃうからね」
 少しずつ闇に慣れて、闇以外の色や輪郭が滲んでいく。目を押し出すように凝らすと、せわしなく動く足、妙に艶めいた腹が、網戸をびっしりと覆っている。
「やっ!」
 昆虫の群れ。
「光が恋しいのよ。ここら辺じゃ、ここだけだからね」
 大柄なカブトムシやクワガタ、カナブン。男の子だったらダイヤモンドなのだろうか。わたしには無理だ。ゴキブリと同類のキモチ悪い生き物だ。この女の子にとっては、どうなのだろう?
 と見てみると、女の子はポケットをごそごそと探っていた。そして澄んだ緑色のビー玉みたいなものを取り出した。それを手の平の上に置いて、ぶつぶつと唱えて
「ショクチュウカ!」
 女の子の勇ましい声と共に、 手の平からエメラルドグリーンのツタが伸びていく。それは網戸の隙間へと、一つ一つの穴の中へと、ぎっしりと覆い、絡まっていく。鮮やかな緑の線が昆虫の黒を包み被さり、やがて先端から白い花が次々と咲き、虫たちを吸い込んだ。そして役目を終えた緑は茶色へと枯れ、花びらは白のそのままで虚空へと散っていった。
「なっ、何これ?」
「ショクチュウカ!」
 もう一度ゆっくりと繰り返してくれた。今度は意味をなんとか汲み取れた。
「食虫花……虫を食べてくれる花よ」
 あのビー玉のような丸いものは、植物の種だったみたいだ。
 こんなことはありえない、これは夢だ。夢だ。きっと。そう!
 頬をつねってみる。痛い。
 まばたきをしてみる。視界は変わらない。
 現実はやって来てくれない。
 これは抜け出すことのできない、覚めることのない夢、なのだろうか……

 女の子は、虫のいなくなった網戸をスライドする。
 外は真っ暗だった。光ない深海の底のような景色に、電車の窓の明かりが寂しそうにぽつぽつと続いている。けれど、それら窓の明かりは、水中のペンギンのように驚くほど速く流れている。
 目を凝らすと、電車の後ろの最奥に、揺らめくものがあった。
 思わず窓から身を乗り出す。
 風はない。
 そこには青白い炎が蛇のように絡み付いていた。炎がとぐろを巻いていた。ゆらゆら。ゆらゆら。
「火事?」
「これが、火が動力源なの」
「だって! 燃えてるわよ!」
 炎は最後方の車両を包んでいて、黒い煙がそれに照らされていた。疑問が自然と声になった。
「炎、ここまで来ちゃう?」
 ちょっとした沈黙。
 やがて、女の子は少し顔を上げ、何か閃いたように
「車掌室へ行こう! あそこなら火は届かないし、カボチャのカレーも食べれるし」
「かぼちゃのカレー……」
 カレーはともかく、火の届かない所まで行くというのには、大賛成だ。それに車掌さんなら、帰る方法を知っているかもしれない。
「そうね。行ってみようか」
 久しぶりに心臓が走っていた。

   3 第八車両

 前の連結部へと扉を開け閉めする。子供のころ、訳も分からず、そうやって前へ前へと遊んだ記憶。「あらあら」「行こう! 行こう! お母さん」確か小学生の時だっけ。
 次の車両への扉を開く。すると、こぼれ落ちそうなほどの人、人、人。黒色や灰色のスーツ色、そこにアクセントのようなネクタイ色が、車両一杯に詰めこまれていた。月曜のラッシュアワーよりも混雑している。それぞれ無表情にどこか遠くを見ている眼。くたくたになった背広。顔には表情の色が無いが、何処か疲れているようにも感じられた。
 女の子はためらわずに、群れへと向かう。そして何のてらいも無く、その中へと溶けていった。
「早く、早く、お姉ちゃん」
 車両の中央から声がする。
 わたしは人差し指を伸ばし、 恐る恐る目の前のサラリーマンを突っつく。
 透けた。
 指先から伝わるのは、ほんのりと湿った冷たさ。
「早く! 早く!」
 わたしは意を決して、息を止め、人の群れへと身体を乗り出す。プールの中に居るみたいだ。色はビニールのように透けて、でも透明な人の塊で、わたしはその眼をつむり、駆け足になった。ひたすら走る。息が持たない。
 群集の途中で、口を開き、大きく息を吸う。じんわりと加湿器から直に空気を吸う感覚。決して心地いいものではない。床への足の蹴りは速くなっていく。走って。走って。湿っ気から抜け出し、肩で息をして、眼を開けると、女の子がクスクスしていた。
「そんなに急がなくもいいのに」

   4 第七車両

 ギイギイ。
 連結部まで来ると、ギイギイと音がする。
 ギイギイ。
 ギイギイ。
 定期的に響くそれは、嫌な予感を導いていた。例えば、首を吊った人が揺れている音。桜に実った大きな果実のように。
 ギイギイ。
 わたしがためらっていると女の子は「えいっ」と扉を開けた。
 あったのはブランコ。それも怖いくらいの速さで、こがれている。
 乗っているのは男の子。公園とランドセルの似合いそうな男の子だ。
 びっくりする程の、遊具とは思えない勢いで半円を描いている。そのブランコの両端は吊り輪へと繋がっていた。
 わたしが声をかけようとする前に男の子が
「お客さん?」
 次いで女の子が
「そっ、まだ来たてホヤホヤ。 ちょっとそこ通してくれる?」
「いや、ダメ。ブランコで回転しなきゃ」
 わたしは堪らず
「落ちちゃうじゃない。そんな危ないことは止めた方がいいよ。お父さん、お母さんはどこ? 」
 男の子は、つまんないの、って顔をして、
「母さんも父さんもいないよ。ここにはいないんだ。それに、マッタク、何も分かってない。オネエチャン。今の時代、回転だよ。カイテン。一回転すれば、 二、三車両くらい軽く飛びこせるんだ 」
「回転?」
 女の子は毅然とした顔で
「この子は何をやっても回転、回転。だからいつまでたっても子供のままなのよ」
「なんだって! この植物マニアめっ!」
「いい? 通してくれたらカボチャのカレーをごちそうしてあげる。でも、そうじゃなかったら、あんたの言う植物でブランコごと壊しちゃうんだから」
 ポケットに手を突っ込む。
「やっ、止めろよ! 見さかいも無く使っちゃダメだ、そんな力 」
 その声には必要以上に強いアクセントが込められているように思えた。
 男の子はブランコをこぐのを止めた。惰性でギイギイする。
「カボチャのカレー、約束だよ」
「うん」
 と言うと、女の子はその隣を跳ねていった。わたしは突然の展開に飲み込まれるままだった。
 言いそびれたことがある。すれ違いざまに口にしようかと思ったが、やっぱり止めた。
 ねぇ、一緒に車掌室へ行かない?

   5 第六車両

「足元に気をつけて! 」
「うっ、うん……」
 何があるのだろう。扉を開ける。

 床が真っ黒だ。真っ黒。それも色を塗った感じではない。
 右足をゆっくりとそれへと向ける。
 透けた。いや、透けたんじゃない。
 床が無い。闇なのだ。

「わっ!」となり、重心が後ろへと傾く。しりもちをついてしまった。
「だから、気をつけてって言ったのに」

「だ、だって、床が無いのよ! 驚くわよ! どうやって進めばいいの? そもそもこの電車、何なの? まるで遊び道具を、滅茶苦茶にばらまいたみたい! そう! 子供がクレヨンで描いたラクガキよ!」
 女の子は不思議そうな顔で
「電車は電車よ。ずうっと昔からこうなの。そう言えば何か巨大な昆虫にかまれた跡だとかいう噂もあったわね。車掌さんが気を抜いたスキにね、昆虫が下からガブリ!」

 ちぎれた床には羽虫が彷徨っていた。

「進み方はね。イスとツリカワを使えばいいのよ」
 確かに電車には壁にくっつけたかのような椅子が、乗車扉を挟んで並んでいる。そしてそれを補うかのように吊り革が、天井から真っ直ぐに連なっている。
「いい? こうするの」
 女の子はそう言ってシルバーシートに飛び乗った。そこから手でわたしを招いている。
 椅子の上を土足で歩くのは、少し抵抗がある。ただ木製の椅子だからか、それ程に罪悪感は無い。わたしは女の子を追いかけるようにシルバーシートに乗っかった。椅子は乗車口の前で途切れている。あるのは吊り革だけ。
「ウンテイの要領でやるの。さっ、行くよ」
 女の子は器用に吊り革を掴み、進んでいく。ストン。五つ目の吊り輪であちら側の椅子に辿り着いた。
「じゃ、やってみよう!」
「無理よ。わたしには出来っこない」
「ダイジョウブ、ダイジョウブ。失敗したらそれなりにサポートするから」
 そんな言葉を明るく軽い調子で言われると、却って信用できない、不安な気持ちに満たされてしまう。
 それに大丈夫じゃない。わたしは体育は得意ではない。クラス全員参加のリレーだって、ドべ用の走行順番だったのだ。通信簿は何時も「2」だった。はっきり言えば、運動音痴だ。
「駄目っ、途中で落ちちゃうよ」

 五分経ったのか、十分経ったのか、気まずい沈黙が流れた。

「もうっ、意気地なし。カレーの下準備しないといけないし、先に行っちゃうよ」
 ここに取り残されるのは、一番困る。
「やるわよっ!」
 半ば怖気づいているわたし自身を奮い立たせるように怒鳴る。

 手を運ぶ。足を宙に置く。
 右手に一つ目の釣り輪。
 手繰り寄せるようにして左手で二番目の吊り輪。
 指がしびれるほど痛い。もう一度、右手。 あと二つ。でも、もう手は言うことを聞かない。
「ダメみたい」
 泣き言を言いながら、四番目の吊り輪に左手を伸ばそうとする。
 だが、手は宙をきった。吊り輪を掴みそこなった。片手だけになる。
 その右手はもう限界だ。
 手が離れる。
 落ちる。闇の底へと落ちる。

 網。
 わたしはハンモックのような網の中に居た。
 茶色の細い茎で出来た網だ。女の子が、ぽつり。
「アミクサ、間に合ったみたいね」
「そんなのあるなら、最初から出してよ!」
「いやいや、世の中そんなに甘くないんだな」
「だからって、危うく落ちるところだったのよ。死んじゃうところだったのよ」

 女の子は意に介さずに
「じゃあ、先に行っちゃうよ。カレーの下ごしらえしなくちゃね」
「ちょっ、ちょっと待ってよ」
「車掌室で待ってるから」
 そう言うと、女の子は次の車両へと行ってしまった。
 その後ろ姿はどこか頼もし気だった。
 わたしは網にからまって、這いずるように前へと進む。それが酷くコッケイに思えた。自分でも笑ってしまうくらい。
 帰りたい。 今すぐ日常に帰りたい。

   6 第五車両

「……ッ…………ッ」
 息を整える。
 手を頬にあてると汗が伝う。多分、リンゴみたいに赤く染まってるんだろう。

 次の車両へと扉を開ける。
 木目の椅子に、木目の床、木目の天井。
 ただ、乗客が一人。お爺さんが、溢れ出すようなリュックを背負い、パンパンに詰まった二つの大きなバックを、椅子の横に置いて、こっくりしている。顔には皺がいくつも刻まれていて、閉じた眼の線がそれに紛れるように混ざっていた。

 さわらぬ神に祟りなし。わたしは忍び足になる。大きな波風はたてずに、ひっそりとやり過ごしていく。わたしの人生みたいだ。だけど老人は忘れ物に気づいたかのように目を開け
「やあ、どちらへお行きかな? 」
「えっ? えと……」
 どもりそうになりながらも
「しゃ、車掌室へ。そうだ、この位の女の子、見ませんでした?」
 手で身長を示しながら
「追いかけてるんです。先に行っちゃったみたいで 」
 老人は髭をさすり
「ほう、そう言えば、えらく元気な女の子が駆けていったかな。とりつくしまもなかったよ」
「はい! どれくらい前に?」
「うーむ……十五分くらい前じゃろうか」
「はい……」
 追いつけるかもしれない、なんて希望は無くなった。質問を変える。
「お爺さん、変な質問をしますけど。ここどこなんです? わたしは東京の中央線に乗っていて、気付いたらここに……」
 ニッポンの、という注釈は必要だっただろうか、と言い終えてから思う。
「かれこれ十年になるのかな。わしが此処に来たのは。 納得のいく花火を作りたくてな。妻も息子も捨て、最後にはわし自身の人生も捨てて、此処に来たんじゃよ」
「はぁ……」
「わしには花火が全てじゃった。火薬の粉から厳選してな。完成を思い描いて玉に詰め、配置して。もちろん長年の勘とそれ以上に長い想像がいるのだがね。そうしてたった一つ理想の花火があがれば、それで満足じゃった」
 先生や親戚、年上の人と話していると偶にこういう時がある。口を挟んじゃいけないような、そんな空気。
「しかしなぁ、二十年もコツコツと時間を掛けた大玉花火が失敗した時にはなぁ、いや火薬の配分は間違ってなかったのだよ、ただ披露の夜、小雨が降っててなぁ。沢山の人が一番の笑顔を用意してくれていたのに、ちょっとしたことで全て駄目になってしまった。あの後、失意の余り、わしは死を選んだのじゃよ。電車のホームで飛び降りてな。黄色いでこぼこの床に足を震えさせていて」
 悲しい予感がよぎる。うそっ……
「そっ、それって死後の世界ってこと? わたし、死んじゃったの?」
「まぁ、慌てなさんな。どうだい、わしの手を握ってみんか? 」
 ごつごつとした右手が差し上げられた。わたしはためらいながらそれへと手を伸ばす。
「透けた…… 」
「生きている者は生きている者だけに触れられる。死んだ者は死んだ者だけに触れられる。それが此処の掟じゃ」
 椅子に並んだ膝をぽんぽんとゲンコツで叩きながら
「お嬢さんは、ただ迷い込んだだけ。此処の住民とは違うようじゃな。何時か時が来れば、戻れるじゃろう」
「一体、いつ? 」
「さあ、残念じゃが、珍しいケースじゃからな。それよりも久し振りに人と話をして、喉がしゃがれてしまったわい」
 そして懐から銀の懐中時計を取り出し
「ふむ、もう、そろそろか」
 丁度、その言葉を合図にしたかのように
「間もなく、緑ヶ丘ー、緑ヶ丘ー、緑ヶ丘でございます」
 電車のアナウンスが流れた。

「やれやれ、やっと着いたか。お嬢さん、此処でお別れじゃな」
 ふと思いついたようにバッグを開いて
「これを持っていきなさい 」
 大きな円筒型の筒に、ロープがくっついている。少し重い。手にズシリとする。
「これって、花火? 」
「七年ものじゃよ。簡易型だから紐に火をつけるだけで、子供でも撃てる。余計なお節介だったら、車掌さんにでもやればいい」
「そっ、そんな余計だなんて。なんでこんなに大事なものを」
「わしの死んでいる間の探求成果を、生きている人にも見せたくなってな。わしにもあっちの世界に未練があるようでな。遠く離れた息子の代わりに、とでも言うと重くなりすぎてしまうかのう」

「間もなく、緑ヶ丘ー、緑ヶ丘ー」

 乗車扉が開いた。見えるのは虚空、闇だけだ。花火師さんは、リュックを背負い両手にバッグを抱き抱え、その暗闇へとゆっくりと溶けていった。
「さよなら」
 答える代わりに手で応える。 こうしてわたしの手には筒型の花火が残った。

   7 第四車両

 次の車両へと扉を開けると、そこはライトブラウンに輝いていた。床も椅子も壁も天井も、艶っぽかった。そんな光景に見惚れながら、歩いていると、わたしは滑った。
「あっ!」
 滑って転んで、おしりをしたたかに打った。
「つぅっ……」
 ワックスだ。木造の小学校の大掃除以来、お目にかかったことの無いワックスが、この車両にはベタベタと塗られている。
 あのツンとくる独特の匂いがしている。
 それにしても落ちるだの、滑るだの、受験生には縁起が悪い限りだ。

「何よ!」
 わたしは近くの椅子を支えにして立ち上がろうとする。が、椅子もワックスまみれで滑る。中々立ち上がれない。
 だが、一旦立ち上がってしまえばこちらのもの。アイススケートのようにすいすいと足を滑らす。フィギュアのように回転は出来ないけど。幾度かバランスを崩しかけるが、足に力を込めて持ち直す。そう、小学校でもそうやって遊んでいた。
 何とか次の連結部へと辿り着いた。わたしもやればできるじゃない、と自分で自分を見直す。

   8 第三車両

 ギ  イギ ギイ。
 耳を澄ます。
 ギイギイギイギイ。
 聞いたことのある音だ。

 わたしは扉を開けた。
 そこにはブランコに揺られている男の子がいた。
「遅かったねぇ 」
 双子というわけではなさそうだ。
「あの植物マニアは、もうとっくに先に行っちゃったよ。何やってたのさ」
「色々あったのよ。色々。落ちかけたり、花火もらったりとか。そっちこそどうしてここにいるの? ずっと前の車両でブランコをこぎ続けてたじゃない」
「回転さ。回転によってワープしたのさ」
「あのブランコで一回転したの?」
「そう、その通り。ユウゲンジッコウ。で、何があったんだ? くわしく聞きたいな」
 わたしは三車両間にあった出来事を話した。真っ黒穴、花火、ワックス。落ちる、貰う、滑る。

 男の子は黙って聞いていたが、 女の子がアミ草を出すのを、わたしが落ちるその瞬間まで待っていたことを話すと、 少しムッとしたようだった。
「酷いのよ。そんな便利な力があれば、先に使っておけばいいのよ。 きっとからかっ」
「オネエチャン!」
 まくし立てるように
「何で植物の種から、あんなにも早く、草花へと成長するか分かる? あれは決して便利な力じゃないんだ。自分の生きる力を分けてあげて、花を咲かせてるんだ。文字通り命を削ってるんだよ。軽々しいものじゃあないんだ」
「ごっ、ごめん。そ、その、知らなくて」
 知らなかった、で通る問題ではない。テストだったらバッテンをつけられる。人だって心だってそうだろう。だけど、今のわたしにはそんな答えしか思いつかなかった。ぶっきらぼうに言ってるけど、この子なりに女の子を心配してるんだ。
 それから花火のことになると」
「花火、見たいな。夏祭りに行って以来だ。ねぇ、冬の花火ってどんなもんなんだろうね。ここら辺は闇が濃いから、きっと映えると思うんだ 」
 あの時、言いかけた言葉が泳いだ。
「ねっ、ねえ、一緒に車掌室へ行かない? 作りたてのカレーもあるし、車掌さんなら花火を何とかしてくれるかもしれない」
 ギイ……ギイ……と男の子は迷いを見せた。
「そっ、それにわたし一人じゃ心細いし……」
 ゆっくりと
「何をしろって言うわけじゃないわ。一緒にいるだけでいいの。わたし、一人ぼっちには慣れてたつもりだったけど、やっぱり心細いわ」
 電車がゴトゴト揺れる。
「本当、言うと怖かったんだ。一回転したときさ、ブランコから振り落とされそうになって。なかなか楽しい遊びだと思ってたけど。もうくり返せない」
「うんうん、怖いよね」
 男の子はそのブランコから飛び降り
「よし、いっしょに行こう。 花火もカレーも、一人よりもみんなでやった方がずっといいから」

   9 第二車両

 扉の先は坂のように傾斜のついた車両だった。上り坂みたいに車両全体が傾いている。のぼれないことはないけれど、自転車だと押して歩かなきゃといった傾斜だ。
「ねぇ。どうってことないでしょ? オネエチャン」
「慣れちゃったのかしら。うん、わたしもそう思う 」
 確かに、透ける人が詰まっている、床が無い、に比べればどうってことない。
「じゃ、のぼろう!」
「うん」
 並んでのぼりはじめて、気が付いた。 妙につるつるしている。
 床が、じゃない。わたしの靴が、だ。多分ワックスのせいだろう。それに電車の振動が加わる。でも大丈夫、まだ大丈夫。
 車両のちょうど真ん中に来たときだった。わたしは滑った。滑って倒れそうになった。すっと男の子の手が伸びる。わたしはそれを掴もうとした。
 しかし、宙をきる。
 いや、触ったはずだ。
 透けた。透けたのだった。
 そのまま始めの場所まで滑る。手から抜け落ちた円筒型の花火もくるくると転がってきた。

 わたしは何とか男の子に話しかける。
「ねぇ、もしかして」
 それを打ち消すかのように
「なぁんだ。オネエチャンもか。全くとろいなぁ。いいよ。いいよ。這いつくばってでもいいから、ここまで来なよ 」
 そうだ、先に進まなきゃ。
 わたしはワックスまみれになった靴を脱ぎ捨てて、靴下姿になる。それでも滑る。とうとう裸足になる。
 こうして車両をのぼり終えた。肩で息をしていると、男の子は扉を開けて待っていた。「意外と根性あるじゃん」

   10 第一車両

 星座! 星座! 星座!
 最後の車両は星に満ちていた。
 何故、最後かというと、その車両の奥には車掌室とご丁寧に書かれたドアがあるから。
 ジジ……と言いそうなほの暗い照明に、キラキラと宝石のように光る石が床、壁、天井それぞれに埋められていて、それを銀の線が結んで、星座の姿を指し示している。上野の大きなプラネタリウムでも、こんなに綺麗には映えない。
 良く見てみると右側のドアに一つだけ赤い石がある。滑らかなそれにふれながら
「何かしら」
 男の子は少し得意げに
「リュウの目だよ」
「龍の目……」
「昔、リュウはこの宇宙を自在に駆けていた。そして方々の星くずを食べて生きていた。その時の一匹が太陽系で迷子になっちゃって、必死に親のリュウはその子を探した。けど、見つからなかった。長いこと探している内に涙が出てきて、ウサギみたいに目が真っ赤にはれ、ついには力尽きて、星になった」
「そうなの」
 龍の子はどうしているのだろう?
 いつか沢山の星に導かれて、故郷に戻れていたらいいな、と思う。
「これはね、この車両を星の展示場に変えていった人から聞いたんだけどね。ああ、全くバカな奴だよ。どんなに綺麗に飾ったって、やがて火に巻き込まれて、無くなってしまうのにさ」
 男の子はため息をついた。
「でも、いいんじゃないかしら。一人でも見てくれたら、その人は報われるんじゃないかな。少なくとも、わたしは忘れない。
 いつか無くなるって結局の所みんなそういうものでしょ? どんな本も、どんな絵も、どんな人も、いつか無くなる。時に洗い流される。けど、それでも何かを残したいって気持ち、分かる」
 少なくともわたしは忘れない。
 この星座もこの不思議な電車での出来事も。
「へぇ、けっこうロマンチストなんだ。まぁ、いっか。さっ、車掌室へ行こう」
「うん」

    11 車掌室

 ギシイギシイ。
 車掌室は思ったよりもずっと広かった。車両の半分くらいある。大きなちゃぶ台。ベッド。ベッドの上で飛び跳ねている人。調理器具。ガスコンロの近くに女の子がいる。
「もう、遅いじゃない。どこを道草してたの?」
「えと、色々あって」
「わざわざやって来たんだよ。もうカボチャのカレーはできてんのか?」
「へぇ、回転マニアがここまで歩いて来るとはねー。珍しいこともあるもんだ 」
 ベッドの上を飛び跳ねている老人からギシィ、ギシィとバネがきしむ音がする。
「できてんの?」
「今、仕上げをするところよ」
 するとわたしへと目線を移し
「そうだ、お姉ちゃん。ベッドでジャンプする係りを車掌さんの代わりにしてくれるかしら? スパイスのあんばいは車掌さんじゃないと上手くいかないの」
「え? ちょっと待って。車掌さん? 何で飛び跳ねてるの?」
 ギシイギシイ。
 今まで黙々と跳ねていたその人が
「やあ、お嬢さん。これはね。虫が寄り付かないように、特殊な空気を送ってるんです。ほら、見なさい。ベッドの先端に大きなバルブがあるでしょう。ここから、送ってるんです」
「そっ……そう 」
 ギシイギシイ。

 ギシイ、ギシイ。
 というわけで、わたしはベッドで飛び跳ねながら、カレー作りを見守ることになった。
「ターメリック、クローブ、カルダモン……」
 車掌さんは幾つかのスパイスを調合しているようだ。ギシィ、ギシィ。それをコトコト煮たった鍋の中に入れていく。隣にはてんぷら鍋があって、女の子が薄切りにしたカボチャを揚げている。ギシィ、ギシィ。
「へぇ、煮込むんじゃないんだ」
 わたしもカレーの中にカボチャを入れてトロトロになるまで火を加えると思っていた。意外だった。ギシイ、ギシイ。
 車掌さんはカレーに何か液体状のものを入れる。すると、「わっ」とカレー鍋から火が吹き出た。天井まで焦げてしまうような火柱だ。それが落ち着くと
「どうです。味見してください 」
 女の子は木のスプーンで一サジすくい
「そうねぇ、クローブが足りないかしら? 今日のカボチャは熟れて味が濃くて甘いから、これじゃ負けちゃうわ」
「そうですか。これまた手厳しい」
 とスパイスを足している。カボチャは油の表面へと浮かんでいた。「ああ! オネエチャン!」
「とばなきゃ!」
 わたしは調理に見とれて、棒立ちになっていた。
「ごっ、ごめん」
 と言いながら飛び跳ねようとした時だった。
「あっ!」
 背面の窓に、青黒い固まりが映った。
「これは、いっ、いかん!」
「いけないっ!」
 固まりはどんどん近づき、大きくなる。
「お姉ちゃん、回転だよ! 宙返りするんだ!」
「えっ、だっ、駄目よ。出来っこないわ!」
「そうだ、花火! あの花火で退治しよう!」
 瞬間、お爺さんの優しい顔がよぎった。あの人はわたしを喜ばせようと、花火を渡したに違いない。それを武器にしようなんて。ダイナマイトを発明したノーベルのように。出来ない。わたしには出来ない。

 青黒い固まりは徐々に輪郭をくっきりさせてきた。巨大な昆虫がセロハンな羽を広げている。カブトムシみたいに大きな角が生えている。それもこの車掌室をゆうに超える大きさだ。
「車掌さん、正面の窓、開けられない?」
「むっ、無理です」
「いいわ、割るから! 頼むから後で、弁償しろ、なんて言わないでね」
 女の子はポケットから種を取り出した。ぶつぶつと唱える。手の平が青白く、光った。そして
「大食虫花!」
 女の子の手から柱のように大きな茎が湧き出る。そしてそれは、窓を貫き、昆虫の目の前まで迫る。
 淡くピンクがかった花びらが、なめやかに昆虫を飲み込む。目の前には沢山の緑の茎、葉、棘。不謹慎にも綺麗だった。
 しかし、しかし、ピンクの花から昆虫の黒い角が突き出た。そして花は四方に散った。
「ダメみたい……」
 そう呟いた女の子の頬には汗が伝っていた。初めて見せる少女の幼い表情だった。
「まだよっ!」
 ギシイ、ギシイ。
 わたしは跳ねる。跳ねる。跳ねる。勢いをつけて跳ねる。覚悟する。空中で体育座りの格好になる。ベッドのシーツ、壁、天井、視界がぐるりと回る。わたしは回転し、したたかに頭を打った。それからわたしは。わたしは……

   12 花火

 何時かの小学生。雪が降っていた。
 空に舞うそれを手の平に乗せると、溶ける。
「積もるかなぁ」
 すると母が
「積もらないわよ」
「また雪ダルマ作りたいなぁ。かまくらは無理かなぁ」
 ギシイギシイ。
「やだ、雪かきが大変よ」
「お母さんのケチ」
 ギシイギシイ。

 ギシイギシイ。
 耳元で音がする。目を開けると、車掌さんが跳ねていた。
「おやおや、起きられましたか」
 わたしはベッドの中にいた。
 女の子と男の子も駆け寄ってくれた。
「大丈夫?」
 どうやら気を失っていたらしい。
「んっ……うん……」
 手を挙げ、伸びをする。段々と視界がはっきりして来た。空が闇色だ。
「あれっ? 天井は」
「昆虫に持ってかれたの。足でひっかかれてね」
 天井には生々しい大きな穴が縦長に空いていた。まさか! 駄目っ! わたしは堪らず起き上がり、そのまま第一車両に走り込む。数々の星座が描かれている車両。その天井は変わらずに、煌いていた。
「よかった……無事で」
「うんうん、被害は車掌室だけみたいだ。それも天井に丁度いい穴が。アメフッテジカタマルとはこのことだね」
 男の子が、ぽんと円筒形の花火を叩く。そうだ、花火を打ち上げよう。

 車掌室へと引き返す。
「あの、ライターあります?」
 車掌さんが
「マッチなら、ほら、これです」
 赤にラクダのシルエットが浮かぶマッチ箱だった。

 花火を天井の穴に向けて置き、縄を手繰る。マッチをこする。キャンプでの飯ごう以来だ。しかし、火がつかない。一回、二回。
「上手くいかないなぁ」
 手が震えている。
「平常心よ。ヘイジョウシン」
 三回、四回。ぼぅっと炎。縄につける。
 縄には油を染み込ませていたのだろう。あっという間に火が走る。火の固まりが一筋、天井を超え、虚空へと向かう。

 そしてパッと光ったかと思うと、オレンジ色の花を咲かせる。そしてその一つ一つの花びらの突端から、鮮やかなレッド、ブルー、グリーン、イエローの色が時間差で、パッ、パッ、パッ、パッと広がる。空には光、鼻には火薬。
「きれい……」
 女の子が顔を輝かせる。あぁ、いいなぁ、この子は思ったことを素直に言葉に出せて、と思う。何時からだろう。頭と口がこんなにもこんがらがって、上手く繋がらなくなったのは。

   13 カボチャのカレー

「カレー、まだ食べてないの?」
「そうだよ。オネエチャンが起きるまでずっと待ってたんだ。こっちはヒモジイ思いをしてさ」
「本当は出来たてが一番いいんだけどね。それはまた今度ね」
 その、また今度、がずっと遠くにある気がした。だけど、こう答えてしまった。
「うん、また今度」
 木の器に木のスプーンが用意される。ご飯の上に、カボチャの薄切りの天ぷらが三個乗せられた。それから北海道のスープカレーのような、タイのグリーンカレーのような、液体状のカレーがかけられる。
 大きなちゃぶ台の上にカレーが置かれた。車掌さんはベッドの上を飛び跳ねながら、カレーの入った木の器を持っている。少し長い間。わたしが一人、口にしようかどうか迷っていると、女の子が
「いただきます」
 ああ、そうだ。ご馳走を食べる時は、何時もそう唱えるんだった。
 わたし、男の子、車掌さんで三人ばらばらに
「いただきます」
「いただきます!」
「頂きます」

 カレーソースはそのまま食べるとピリッと辛い。それも持続的な辛さじゃなくて、瞬間的な刺激がする。それだけではつらい。けれどカボチャと一緒に食べると、その刺激がカボチャの甘味と重なって、何とも幸せな味がする。天ぷらの衣にカレーソースが染みて不思議な一体感がある。
 車掌さんが跳ねながら器用に食べて
「いやぁ、何時もながら美味しい。なんとも南国に来たような気分にさせてくれますな」
 男の子が
「うん、カボチャがホクホクしてる。いい味だよ 」
「ねぇ、お姉ちゃんはどう?」
 わたしは慌てて
「おっ、美味しいよ」
 男の子がからかい半分で
「もっと言えることがあるでしょ。ここがこうで美味しいとかさ。表現力がないなぁ」
「だって、美味しいものは美味しいんだもの」
 女の子はくすりとした。
 男の子は笑った。
 わたしもつられて笑った。

   14 流点観測

「あと、二十七分ですな」
「なっ、何がですか?」
「嬢ちゃんの乗車時間がですよ。あと二十七分。おやっ、二十六分になった。もうじき帰れますよ 」
 ジョウシャジカン。すんなりと入ってこない。だけど、水に墨汁を入れたかのように、じんわりとその意味が広がっていく。
「えっ? 元の世界に戻れるの?」
「はい」
 ようやく実感が沸いてきた。帰れるんだ。だけど、何故だろう。あれだけ帰りたい、帰りたい、と思っていた筈なのに、今になって、まだもう少しここにいたいと思うのは。
 確かめたいことがある。わたしは女の子に手を差し伸べて
「握手しよう」
 女の子はハテナ顔で、しかし、ゆっくりとわたしの手を握った。
 温かかった。
「ねぇ、この子はどれだけかかるの?」
「三十分ほど前になるまで、わかりませんな。あと一時間か一日か一年か。それとも、もっと先か」
「一緒に帰ろうなんて、無理な相談なのね」
「いいよ、帰らなくても。結構気に入ってるんだ。この電車」
 わたしは瞳を見つめながら
「でも、待っている人がいるんでしょ。何時か帰らなくちゃ」
 わたしはすっかり会話の無くなった、でも寒い夜には部屋にストーブをつけてくれていた父と母を思った。
 男の子が悪態をつくように
「さぁね、待ってる人なんて居ないんじゃない?」
「じゃあ、わたしが待つわ。何日でも何年でも何十年でも、また会える日を思い描いて。何百年でも、死んだ後でも。英語の構文や、歴史の年表なんて直ぐ忘れちゃうわたしだけど、今日のことは忘れない。
 ねぇ、世界の片隅にでも、それがたとえ一人でも、再会を祈る人が居るって素敵なことじゃない?」
「また古いロマンチストなんだから」
 男の子の声には軽い嫉妬が感じられた。
「いいわ。あなたとの再会も待ってあげる。出来れば、あんまり早く会いたくないけどね。またどこかで会えることを信じてるわ。回転なんだけど。わたし、けん玉は、けっこう得意なの。一緒に遊んでくれないかな」
「へん!」
 少し照れているような、嬉しいような、そんな響きだった。

 時間は刻々と過ぎていった。わたしにはこんなに一生懸命にお喋りをするなんて、初めてのことだった。

 十四分後、世界は再び流れ始めた。

 朗らかな家族。
 遊園地帰りの紙袋。
「ジェットコースターなんて、ちっとも怖くなかっただろ」
「パパ、二回も乗るなんてズルい」
「はいはい」
 ああ、わたし、何でそんなにイライラしてたんだろう。そこには喜びがあった。それも豪華で贅沢なものじゃなくて、今でも手の届きそうな。お父さんお母さん……
 その奥にはドアに寄りかかりながら、携帯をいじくる人。
 空いた席の前で、吊り革に掴まっている人。
 でん、と座りながら漫画を読んでいる人。
 みんな色々な想いを抱えながら、それぞれの点から点の目的地へと、一本の線を流れていく。わたしもその一人。

 帰ってきたんだ。あの電車でのあの時間は、瞬きをするような一瞬だったのだろうか。平然と、何事も無かったかのように、日常が繋がっている。
 確かめると、携帯電話も財布も定期入れもある。靴も靴下もある。
 でも、くちびるにあのカレーのスパイスのピリピリした痛みは無い。
 ただ、瞳の奥を満たし、溢れてくるのは。 いけないっ!
 わたしはバッグに入れていた『でるでる英単語』を取り出し、軽くあくびをするふりをした。
 涙がまぶたからこぼれ、ゆっくりと頬を伝い、膝元へと落ちた。
えんがわ
2015年02月05日(木) 20時34分00秒 公開
■この作品の著作権はえんがわさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
よろしくお願いします。

この作品の感想をお寄せください。
No.2  えんがわ  評価:--点  ■2015-02-18 03:52  ID:DR2hIgqKGrg
PASS 編集 削除
>Physさん

ありがとうございます。
はじめまして。

って最初に言おうと思ってたんです。なのに、ほんと、数年も前にお読みしていただいて、しかも覚えてまでくださってたんですね。びっくりしてしまいました。自分ってそこまでして頂けるほどの者だとは、本当に全く思っていなくて。
自分は「誰かに見られてるなーっ」て言うそういう不安みたいなのを抱えてまして、この文章も「もしかして」とか、そういうのは自分の心の問題で自業自得なんですが、本当にTheインターネットって感じで。でも、Physさんみたいな方だったり、そうした素敵な方も、もしかして見ていただけるのかなーって、ありがたいな。それはPhysさんだけじゃなくて、自分の妄想のようなものの中で、何人もそういう人が増えて行ったら(病院行ってきなさい自分)

それだけなのに嬉しいのに、こんなに丁寧に楽しんでお読みいただいて、感謝です。嬉しいです。


「えんがわさんの比喩」
どうなんでしょうか? うーん。
多分、自分が今目指していきたいのは
「女子高生で受験生のわたしが使いそうな比喩」
なのかなー。そこまで自分のパワーは全く及んでませんで、やっぱりほんとうに自分に酔いながらタイピングしてしまったのかな。そこに向かっていくのは大変なのかな。
イタコ上段者になってみたいものです。

文章量のばらつきは、とても苦手で、これでも前よりは少し安定はしたのですが、流れというか呼吸していて心地いいテンポみたいなのには遠いです。推敲していてちょっと良くなったり、でもあそこは悪くなったりと。多分、そこを徹底的に繰り返すのが最善の道なんでしょうが、そこまで根気よく出来ない自分が恥ずかしいです。特に文章のバランスの「量」だけを調整する為に、推敲するのには強い抵抗があって、あー、だから自分って弱いなって思います。改善出来るのかな。少しずつ変わっていけたら嬉しいな。

カレーは大好きです。お寿司のエンガワも大好きです。そうした舌にお会いしていただいたようで、感激です。自分は何回も繰り返し同じ小説を投稿してしまうことがあり、投稿ペースも一定していませんが、こんな調子でやっていくと思いますので。こちらこそ、またお読みして頂ければと思います。多分、がっかりなさると思いますが、その「がっかりさせてごめんなさい」よりも、「こんなにダメな文章なのに、読んでくれたなんて嬉しい」という気持ちのほうが強くなる根拠のない確信が今はあります。
ありがとうございました。どうかその時までこの場所が続きますように。シェイシェイ再見。です。
No.1  Phys  評価:40点  ■2015-02-14 11:56  ID:r2uruZNS3k6
PASS 編集 削除
拝読しました。

すごくおもしろかったです。えんがわ様のお話は数年前に何度か読ませて
頂いていたのですが、「語彙が豊富で不思議な比喩表現をされる方」という
感想を抱いていました。本作で印象に残ったものを摘記させて頂くと、

> プールの中に居るみたいだ。色はビニールのように透けて、でも透明な人の塊で
> じんわりと加湿器から直に空気を吸う感覚
> 巨大な昆虫がセロハンな羽を広げている

でしょうか。ちょっとした一言一言が味わい深かったです。私も満員電車に
乗って毎日通勤しているのですが、そのときの感覚を的確に表しているなあ
と思いました。いつも喉を乾燥させないためにマスクをしているので、若干
息苦しいのもプールの中に似ています。(それは私だけかもしれませんが)

また、表現がいいというだけでなく、文章のリズムが軽妙なのも、えんがわ
様のお話の魅力ではないでしょうか。本作は電車の車両番号で章立てされて
いるため、場面の切り替わりがとても分かりやすかったです。私はあんまり
ファジーな表現、抽象的な状況説明を読み解くのが得意ではないので(つまり
読解力がないのですが……)、読むうえでとても助けになりました。

そして一つだけ、これが変わったら私はもっと好きだったかもしれない、と
感じた点を申し添えます。それは、章ごとの文章量に少しばらつきがある点
です。車両ごとにいろんな「アトラクション」が出てくるのが本作を楽しむ
ポイントの一つだと思うのですが、もっと長く「アトラクション」を楽しみ
たかったなあ、と思う車両がいくつかありました。私は、花火を作っていた
おじいさんのエピソードが一番好きです。全車両のエピソードがあの程度の
長さだったら、より構成の妙を楽しめたのではないかと思いました。

最後になりますが、章立てによって細切れにされたそれぞれのエピソードが
それこそカレーの具材みたいに一つのソースの中に溶け合っていて、結末の
カタルシスを作り出していました。とても素敵な作品でした。

また、読ませてください。
総レス数 2  合計 40

お名前(必須)
E-Mail(任意)
メッセージ
評価(必須)       削除用パス    Cookie 



<<戻る
感想管理PASSWORD
作品編集PASSWORD   編集 削除