桜の森
 かつては栄えた西の地に、「桜の森」と呼ばれる場所がある。山の中腹から山頂にかけて広がるその一帯には大量の桜が咲き誇り、春には幻想的な光景を創り出している。その場所も古くは普通の森だったといわれるが、いつから桜が咲くようになったかを知るものは、不思議と誰もいないという。
 そんな謎めいた桜の森の中心近くには、一本だけ薄墨に染まった桜がある。他の桜に埋もれるようにして咲くその花はこれまで一度も薄紅に染まったことがなく、わずか一週間足らずで命を散らすその花を、喪に服しているようだと評する者もいる。
 険しい山々に守られたどこか秘境のようなその森は、羨望とわずかな畏怖の念を持って、様々な伝承とともに語り継がれている。



 きっかけは、去年の春先に結婚したばかりの妻の一言だった。
「どうしても行きたい場所があるの」
 そう言って出した名前は、知る人ぞ知る、とある西の山だった。
 『桜の森』。その名で知られる場所は、その幻想的な美しさから一定の人気を誇っているが、ふつう、カップルや新婚で行くような場所では決してない。桜の森の中心に、喪に服していると言われる桜があるからだ。ましてや、身重の妻が行くには、少々きつい道のりになる。それでも最後には負けたのは、自分でもずっと気になっていたからだろう。
 そうして訪れたのは、もうすぐ桜の散る頃。昼下がりの微睡みが心地良い休日だった。
 険しい山々に囲まれているその場所も、近くまでは道路の通った場所である。ぎりぎりのところまで車を進め、ようやく止まったのは川の側の大きな木の下だった。
「ここからは歩きになるぞ。平気か?」
「大丈夫よ。ここからならそんなに遠くないもの。あなたは心配しすぎよ」
 苦笑交じりにはにかむ妻は、愛おしげにようやく目立ち始めたお腹を撫でた。
「きっと、あなたに似て丈夫な子になるわよ」
 間違いなく自分よりも丈夫な妻はそういって笑い、ゆっくりとドアを開けた。
 歩くこと、約二十分。それまで聞こえていた川のせせらぎがふつりと途絶え、鮮やかな新緑は、唐突に薄紅へと姿を変えた。桜の森に入ったのだ。
 ゆったりと吹き抜ける温かい風と、絹のように柔らかな日差し。時折、思い出したようにさざめく木々が、淡い薄紅の雨を降らす。
 話に聞く以上に幻想的なそれに息も忘れて見入っていると、視界の端を白い光がかすめた。太陽の光を浴びて白銀に輝く、それは一匹の蝶だった。何とはなしに、蝶について歩を進める。ふと蝶を見失ったとき、目の前にそびえていたのは、あの薄墨の桜だった。
「――やだ、あの蝶どこへ行ったのかしら」
「まあ、このあたりに住処があるんじゃないか」
「でもあの蝶、私たちをここへ呼んだみたいじゃない?よく考えれば、私の歩くスピードに合わせて飛ぶなんておかしいわ」
 珍しく食い下がる妻に見つめられ、先ほどまで追っていた蝶を思い出す。なるほど確かに、少し先に行くとしばらくそこをくるくると回り、二人を待っていたようにも思える。だが、そんなことがあり得るのだろうか?
「……まあ、仕方ないわね。少しここで休みましょ」
 持ち前の明るさを発揮する妻につられて、笑みを零す。薄墨の桜の下にある小さめのベンチほどの岩に腰かけようと、妻が軽く桜の幹に手を掛ける。――そして、白い光が弾けた。
 長く寝すぎた後のような、うっかり飲みすぎた翌朝のような、鈍い痛みが頭を支配する。もう一眠りしたい衝動を何とか抑え、重い瞼を持ち上げる。そんなに時間は経っていないようで、目の前には先ほどと同じような光景が広がっていた。ただ一つ違うのは、目の前の薄墨の桜が、まださほど大きくないことだった。その木の前には、こちらに背を向けるようにして、一人の女が立っていた。服装も髪型も違うが、それは妻だった。妻はくるりと振り返り、蕩けるように微笑んだ。
「敏成様」
 細く白い喉から発せられる声は、妻そのもの。ただその名前に、聞き覚えはなかった。それは誰のことかと問い詰めたくなる一方で、それは自分だという、不思議な確信めいたものもあった。知ってか知らずか、妻は一歩、こちらに歩み寄った。
「敏成様、お会いしとうございました。敏成様はきっと帰って来てくださると、ずっと信じておりました」
 心底嬉しそうな瞳の奥に深い悲しみの色を見て取り、喉元まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。そうしなければ自分のよく知る妻が二度と戻らないような、そんな気がした。代わりに出た言葉は、自分のもので、自分のものではなかった。
「――百合。勝手に出て行ってすまなかった。ずっと待っていてくれたのか」
「あなた様と出会ったあの日より、私は、百合は敏成様のもの。敏成様がお戻りになるなら、百合はいつまででもお待ちします」
 震える声で、うっすらと涙を浮かべる妻は、けれどよく知る妻とは別人で。
 だからきっと、この感情も記憶も行動すらも、「敏成」のものなのだろう。
 気付くと腕の中にいた妻とよく似た女は、一度大きく震え、胸に顔を埋めた。濡れる服が、彼女が声もなく泣いていることを伝えている。
「――あなた様が亡くなられて、……あなたはまだ若いからと、まだやり直せるからと、……どんなにたくさんの殿方に逢わせられてもそれは敏成様ではないのに、みんな勝手なことばかり。……だからせめて敏成様とただ一度だけ見に行った桜の木を、寂しくないようにと、もう誰にも邪魔されないようにと、――でも本当は、最期の瞬間までご一緒したかった……!」
 引き裂かれるような声で啜り泣く彼女を強く腕に抱き、見ていたのはしかし別の光景だった。
 どこか、山の中の小さな村。人々が身に着けているのは、歴史博物館で目にするような、平安時代よりももっと古いもの。
 腕に幼子を抱き、幸せそうに微笑む妻とよく似た女。
 若君を守り育てよと、低く通る声は誰のものか。
 月光の差し込む見覚えのない造りの部屋。不思議と自分の家の一室だとわかるそこで、眠る女はこの家の侍女。
 小さく寝息を立てる女の額に、触れるだけの口づけを残して。
 深い森の中、耳の奥で鳴りやまない戦の音と、漂う濃い死臭。
 地に伏せて石のように冷たく凍った幼子に、国の大切な跡継ぎが、自分の大切な養い子の姿が重なって。
 山の麓近くに広がる、広い野営地。隠す気などさらさらないその様に、地方の小国などとるに足らないと思っていることがうかがえる。
 眼窩に見える、酒を飲んでくつろぐ兵達の姿。怒りとも嘲りともつかない歪んだ笑みを口の端に乗せて。
 俺は、刀を振り下ろした。
 次に見えたのは、まださほど大きくはない桜の木々。
 その中央に、埋められた勾玉は最後の夜に残していった形見のもの。
 長くはないが短くもない余生のほとんどを桜の森で過ごした女は、勾玉の上に咲く薄墨の桜に寄り添うようにして静かに息を引き取った。



(敏成様。敏成様――)
 目を開いているのか閉じているのかさえ分からない白い光の中で、ただ声だけが静かに響く。
(敏成様、ずっと、お慕いしておりました)
 さらさらと、揺れる小梢に紛れる声は、どこか憂いを帯びていて。
(どうか、今度こそ、幸せに――)
 微かな痛みを感じるほどのまばゆい光の向こうで、降りしきる桜がふわりと波立った。



「――なた、あなた」
 気付くと、あたりはいつの間にか肌寒くなっていた。顔を覗き込む妻の後ろで、沈む前の強い光を受けた桜が炎のように揺らめく。その中でも、それは一際眩しい光を放っていた。
 妻の首にかかる、来た時にはなかったはずの薄紅の勾玉。それは、白昼夢と呼ぶにはあまりにも鮮明な光景の最後に見たそれに、とてもよく似ていた。食い入るような視線に気づいたのか、細い指先で慈しむように勾玉を撫でる。
「これ、あなたがくれたのよ」
 いたずらっぽく笑う妻は妻で、何かを見たようだった。仕返しのように、わずかに笑う。
「ああ、覚えてる」
 そういうと、妻は一瞬驚いたように目を見開き、次いで、蕩けるように微笑んだ。
「きっと、お腹のこの子が教えてくれたのね」
 その顔に、桜の雨の中で幼子をあやす女が重なって。
「ああ。――元気な、男の子だな」
 幸せそうに頷く妻の首元で、桜色の勾玉がわずかに瞬く。どこかで赤ん坊の泣く声が聞こえた気がした。



 かつては栄えた西の地に、「桜の森」と呼ばれる場所がある。その森の中心にひっそりと佇む一本の桜の老木がある。羨望とわずかな畏怖とを持って数々の伝承を生み出したその桜は、いつの頃までか薄墨の花を咲かせていたという。ただ一つわかっているのは、喪に服したまま時を止めたようなその桜が薄紅に染まって以来、桜の森には様々な花が芽吹き、鳥の声が響くようになったことだろう。その桜の木がいつから薄紅の花を咲かせ始めたのか、いつから安産の守り神と崇められるようになったのか、詳しく知る者は不思議と誰もいないという。
鈴木理彩
2014年10月16日(木) 14時56分06秒 公開
■この作品の著作権は鈴木理彩さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 かつて主人と女中という身分でありながら想い合っていた二人が、戦で引き裂かれた末に来世で夫婦になったお話。
 途中、だいぶ駆け足で分かり辛いかもしれないです……

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No.4  鈴木理彩  評価:0点  ■2014-10-26 17:37  ID:OV.iKSSikvg
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ありがとうございます。確かに単調すぎる節はありますね……
桜に関しては、現実の日本というよりファンタジーのどこかの世界、のような設定だったので特に考えてませんでしたが、確かにこれだけでは説明不足でした。すみません。

時系列もですが、眼窩……言われて初めて気付きました……これは怖い。正しくは眼下でした。
次はもっとよく読みこんでから出直します。ご指摘ありがとうございました。
No.3  陣家  評価:20点  ■2014-10-22 01:19  ID:xirF3gxu5AI
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拝読しました。

かわいらしいお話ですね。
幸せ一杯、夢一杯な世界で良かったですが、途中でもう少しはらはらさせる展開があればもっと良かったとも思いました。
例えば桜の精となった女が現れて、主人公を黄泉の国に連れ去ろうとするとか。
そこに敢然と立ちはだかる今の妻とか。
で、蝶々に身を変えていたお腹の子が女をこう呼ぶと。
「お母さん! やめて!」
「あれ、もしかしてあなたって、私の生まれ変わり?」
「そういえば、あなたって私にそっくり……」
「そうみたい。ごめんあさーせ、お幸せにー」
で、めでたしめでたし。
なんてね。

無粋ですね。
無粋ついでに、桜の森も現実的ではないので、どこかお寺か神社の中みたいなところに一本だけ残っている設定の方が現実味がありそうです。
と言うのも、岐阜県の淡墨公園にある薄墨桜(エドヒガンザクラ)は天然記念物ですから、もしも樹齢千年を越える山桜が群生しているような場所が発見されたら、即、保護区域に設定されて入ることなどできなくなるはずです。
ちなみに今現在桜の名所で見られるソメイヨシノは戦前に国威掲揚のために地味な山桜を伐採して、挿し木によって植え替えられたものがほとんどで、おまけにソメイヨシノは江戸時代末期に品種改良で生み出された物で、寿命は70年程度と言われています。

> きっかけは、去年の春先に結婚したばかりの妻の一言だった。
ここで回想形式をとるなら、ラストで現在に戻さなければいけなくなります。
普通に現在形で繋ぐ方が自然だと思います。

>眼窩に見える、
この誤変換はちょっと怖いです。

いろいろ好き勝手書きましたが、丁寧で上品な語り口はとても好感度が高いと思いました。
これからもどんどん書き続けてください。
No.2  鈴木理彩  評価:0点  ■2014-10-18 18:37  ID:OV.iKSSikvg
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ご指摘ありがとうございます。言われてみれば、確かにニュアンスが違いますね……もともと別の話をアレンジしたのもありますが、読み込みも足りなかったかなと思います。
語り手については、もう少し情報を乗せるか最後まで悩みましたが、今回は個人的な理由から、あえてこの形に挑ませていただきました。
描写については……精進します!
ありがとうございました。
No.1  八回  評価:10点  ■2014-10-16 20:33  ID:myjKqV1Q02w
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読ませてもらいました。
もっと文章を読み直されるべきだと感じました。
読みにくさを感じる部分や、意味合いがあやしい部分などが見られます。
一つ取り上げさせていただきます。
>そう言って出した名前は、知る人ぞ知る、とある西の山だった。
>『桜の森』。その名で知られる場所は、その幻想的な美しさから一定の人気を誇っ ているが、ふつう、カップルや新婚で行くような場所では決してない。桜の森の中心に、喪に服していると言われる桜があるからだ。ましてや、身重の妻が行く には、少々きつい道のりになる。それでも最後には負けたのは、自分でもずっと気になっていたからだろう。
「知る人ぞ知る」と「一定の人気」の組み合わせが今ひとつピンと来ません。「知る人達の中で一定の人気」ということでしょうか。であればかなり限定的な「一定」になります。また、「自分でもずっと気になっていた」ということは自分も「知る人」の中の一人で、山登りなどを趣味としているのでしょうか。しかしそのような描写が見られないため、語り手がどのような人物像なのかが見えてきません。
全体的に描写不足で、それゆえ駆け足になるのでしょう。
少々きつく書いてしまいましたが、今後の参考になりましたら幸です。
総レス数 4  合計 30

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