時空租界チバラギ!


 プロローグ 〜 夜明け



 古来、人はゲームと共にあり、ゲームも人の世を覆い共にあった。
 しかしそれらはテーブルゲームと呼ばれる紙や木、石で出来たものばかりであった。
「テレビゲームあれ!」
 ある日、ゲームの神は言われた。
 するとベクタースキャンのテニスゲームが生まれた。ゲームの神はアタリのPONと名付けられた。
 人々は熱狂し、たちまち世界中のアーケードに敷衍した。
 ゲームの神はそれを見て良しとされた。
 夕となり、朝となった。アーケードゲームの誕生日である。
 幾日かが過ぎ、人の世にはマイコンブームが到来していた。
 ゲームの神はまた言われた。「マイコンで冒険ができるようにせよ!」そのようになった。
 テキストだけのZorkシリーズに始まり、やがてグラフィックがグリーンディスプレイを飾るようになった。
 夕となり、また朝となった。アドベンチャーゲームの誕生日である。
 アドベンチャーゲームは当初、テキストをタイプして謎を解く物であったが、時が経ち、ポートピア連続殺人事件のようにコマンド選択式のものが主流となっていた。
 マイコンはやがてパソコンと呼ばれるようになっていた。
 ゲームの神はまた言われた。「パソコンでロールプレイングゲームができるようにせよ!」そのようになった。
 ウィザードリィとウルティマが生まれた。
 ウルティマではプレイヤーの分身であるキャラクターがアバターと名付けられた。
 ゲームの神は彼らを祝福して言われた。「生めよ増えよ電脳空間に満ちよ!」そのようになった。
 夕となり、また朝となった。ロールプレイングゲームの誕生日である。
 ゲームのグラフィックは進歩し、3Dレンダリングが主流となっていた。
 ある日、PSO2というゲームがあった。PSO2はFFOの子、FFOはEQの子、EQはウィザードリィの子であった。
 人々は女キャラのグラフィックのある部位のバー移動式の調整機能に強いこだわりを持ち、おっぱいスライダーと呼んだ。
 ゲームの神はそれを見て、いたく気に入られ、良しとされた。
 夕となり、また朝となった。
 ゲームの神は休眠に入られたようであった。

 そして……
 
 悠久の年月が流れ去った。





 第一章 同伴下校とソーサラーズ


 01

 荒涼とした大地に赤茶けた風が吹きすさぶ。
 ひび割れた荒地に屹立する少女は、静かに双眸を閉じ瞑想していた。
 ――来る!
 少女がキッと両目を見開く。そのオッドアイは一匹の狂犬じみた醜悪なモンスターを捕らえていた。猛然と牙を剥き、土煙を上げながら突っ込んでくる。
 少女がさっと右手を体の前にかざす。
 華奢なその体を覆うマジックローブがちぎれんばかりに強風になびき、スカーレットレッドの長い髪が逆立つ。
 少女の真一文字に結ばれていた唇が開き、口とお腹の中間辺りから響くようなトーンで高らかに発声を始めた。
「万里を睥睨する黒き王よ、我が求めに応じ、爆炎の裁きの下に我らが敵に滅びを与えん」
 呪文詠唱完了。
 少女の全身から揺らめく炎のようなオーラが立ちのぼり、彼女のかざした掌に向かって、まばゆいばかりの光の粒子が四方八方から集中する。
 次の瞬間、少女がトリガーワードを発した。
「ドラゴンフレアー――!!」
――fizzle――
 唐突に空中に大きく光の文字がスクロールする。そして少女の手からは鈍い煙の筋が弱々しく立ち昇っただけであった。
 プスッと。
「いけね、フィズった、ヤバス!」
 少女は口に手を当てて足をじたばたさせながら逃げる体勢に移ろうとする。が、それより早くモンスターは目前まで急接近していた。耳朶を聾する唸声と共に突進してくる。
「きゃあ、きゃあー」
「またかよ」
 くるっと、
 後ろにいた男が入れ替わるように少女の前に割りこむ。
 黒いローブ姿のその男は大柄で褐色の肌、ムーア人風のスキンヘッドだ。飛び掛かってきたモンスターに対してローブの袖を一閃、ドッジスキルの発動で軽く横へといなすとそのまま数秒間のスタンを逃さず距離をとる。
「極北の地の氷よ、我が手に来たりて、魔槍となれ」
 男が素早く詠唱を終えた。
「グラスジャベリン!」
 男の手から放たれた大きな氷の槍が敵の体を貫く。煌めく氷の破片が派手なエフェクトを振りまき四散した。
 遠吠えのような断末魔を残し地面にくずおれるモンスター。
 後には土煙の中に骸が転がるばかりだ。
「おお、やった! グッジョブ!」
 満面の笑みで親指を立てる少女。
「グッジョブじゃねえよ!」
「じゃ、マーベラス!」
 と、今度は両手の親指を立てる。
「はあ……」
 と、スキンヘッドがため息をつくの図である。
「だってぇ、魔法出なかったんだもん。もしかして射程距離外だった?」
「いや……おまえ、さっきまんりって言っただろ? 万里(ばんり)のとこで」
「あれ? そうだっけ? だから失敗したのかあ。ほんっと細かいよね判定が」
 ぷんすかぴーと怒りながら言う少女の頭から蒸気の柱が三本ほど生えてくる。
「うざいエモーショナルエフェクタ使わなくていいから」
 と言いながら、男は16トンと書かれた巨大なハンマーを振り上げ少女の頭を殴打する。
 ピコッっと。
「そのエフェクタの方がこわいって」
 首をすくめながら膨れあがった巨大なたんこぶを撫でる少女。
 男の手にしていたハンマーはすぐに消滅する。
「そもそもコボルトロードごときにそんな高レベル呪文撃ち込んでもしょうがないってーの。明らかにオーバーキルだし」
 男はコボルトロードの死体をルートしながら零す。
「えー? ドラゴンはスライムを倒すのにも全力で立ち向かうっていうじゃん」
「もうやめてあげて……だよ、そこまでいくと」
 男は古より伝わるオーバーキルの代名詞を口にのぼした。
「で、なんか、良いアイテム出た?」
「いや、ネームッドでもレアポップでもないからな、金だけだよ」
「なあんだ、せっかく苦労して倒したのに」
 言いながら少女はオーバーレイ表示されたインベントリを開き、ちゃっかり分け前を確認している。
「無駄に苦労しただけだけどな」
「あたしゃ派手にいきてーんだよ、こう、ガンガン行こうぜ! ってな具合に」
「戦略もなにもあったもんじゃないな」
「大体こんなのもともと無理があるんだよ、殴りキャラのいない魔法使いだけのMMO-RPGなんて」
「いやそういうゲームだし、いまさら言ってもしょうがないし、LFPコール上げて、サモナーのプレイヤーでも探すか? ペット召還出来るぞ」
「もー、なんか疲れた、いったん落ちよう」
 と、おおげさに肩を落としながら言う少女。
「わかった、わかった、じゃとりあえず村に戻ろうか」
 男の方も気抜けしたように言いながら立ち上がった。ルートを終えて金の回収が終わったコボルトロードの死体はすでにフィールド上から消えている。
「いえっさー、だけどパーティゲート呪文は頼んだよ、あれってなんか苦手で……」
 てへへ、と苦笑いしながら舌をペロッと出し、顔の前でへろへろと手を上下させる巨乳少女ウィザードだった。
 男はあきれ気味の表情で無視し、右手のモーションフリックから基本ユーティリティ・デクテーションモードを開き詠唱を始める。
「乳と蜜に満たされし丘、ホワイトゲーブルスに我らを運び、癒しと休息を……」
「それだよ! それ! その出だしを口にするのがなーんか抵抗あるんだよねー。つーか製作者のセクハラ?」
「いや、アバターとのコンボでコンプレックスをカミングアウトしなくていいから(おっぱいスライダーの使いすぎには注意)」
 まばゆい光芒が降り注ぎ、無数のグラスハープをかき鳴らすようなエフェクト音に包まれながら二人の姿がかき消すように見えなくなった。
 拠点の村にゲートインし、アイテムショップで不要なアイテムを処分した後、銀行の前まで移動する。
 二人揃ってメニューからログアウトコマンドを選んだ。


「あー疲れた、喉乾いた」
 ネカフェのツインシートに体を投げ出しながらぼやいているのは茶髪の女子高生であった。
 投げやりな動作で眼鏡型SMDをスタンドに乱暴に引っかける。
 隣に座っていた男子校生の方はきちんとつるを畳んでスタンドに置いた。
 二人とも高校の制服姿だ。ブレザーはハンガーに吊してブースの壁に掛けてある。
 VRゲームの最中でも空腹感や便意はリアルに感じることが出来る。それは一種の安全装置なのだ。いくらゲーム内での疲労感がフィードバックされる仕組みとはいえ、所詮それはゲーム内でも癒すことが出来るため、危険を伴うのである。(男に限って言えばボトラーは相も変わらず健在ではあるらしいが)。
「ねえ、トッキー、さっきゲートインする時になんか言った? エフェクト音でよく聞き取れなかったんだけど」
「ん? いや別に」
 トッキーと呼ばれた男子高生、時翔《ときかけ》が、しらばっくれて返事をする。
「そう? ならいいんだけど……つーかさあ、おもしろくないよ、これ、体感ゲームなのに体使って戦えないなんて」
 最近じゃすっかり当たり前になったこの手の完全没入型VRゲーム。剣技だけで勝負するゲームもあれば、剣と魔法のすべての要素を取り入れたタイプも少なからず存在した。しかし日がたつにつれ魔法使いばかりに人口比が偏っていき、壁役のタンクは希少な存在になってしまうのだ。なにしろとにかく疲れるわけであり、結局のところ昔からそうなのだが、体感型ゲームで徹ゲーは出来ない。そういう単純な理由でこんなゲーム、つまりプレイヤーが操れるキャラクターは魔法遣い《キャスター》だけなどという極端な設定のゲームが市場のメインストリームとなってしまっているのだ。
「そもそも友里《ゆり》がやりたいっつーから俺もつき合って始めたんだろーが」
「そーだっけ?」
 茶ボブの後ろ頭をぽりぽり掻きながら言う女子高生、友里だった。
「そうだよ、ほんと忘れっぽいな、おまえ」
「でも、結局これ早口言葉ゲーじゃん。滑舌練習ソフトじゃん、ただの」
 口を尖らせながら文句たらたらの友里。
「あめんぼ赤いなアイウエオ、ってね」
 時翔が流暢に言い放つ。
「くっ……やるね。劇団員?」
 恨みがましい目をしながら時翔をにらむ友里。
「つーか、おまえの場合、漢字の読み方能力に問題があったんだけどな……」
「ちょっとー、むしろ(睥睨)ヘーガンが読めたことを称えてもらいたいね」
「へいげいだろ」
「……あれ?」
 頭を何度か振りながら記憶を辿る友里。
「カンだったんだな……」
「うるさいねぇ、運も実力のうちなんだよ」
「そういうことは発揮してから言ってくれよ」
 時翔は氷が溶けて薄くなったコーラを口にしながら、さすがにめんどくさげに言う。
「にしても空中に出てくるあのカンペ、読み上げなくても出せる魔法ってしょぼいのばっかりなんだよねえ」
「ああ、まあなぁ、高レベル魔法のオートスペルブックは課金アイテムだから……つまり、そういう商売なんだろ」
「せめてふりがな打ってくれって思う」
 友里も思い出したように自分のウーロン茶を飲みながら言う。
「いいじゃないか、勉強になって」
「いらないって、あたしゃ国語だけは赤点取ったことないんだから」
「ん? 国語だけ? って……友里、おまえ、やっぱり……」
 時翔は先刻の校内での友里とのやりとりを思い出していた。
 …………
 ……

 02

 ――ぷりん、ぽろん、ぱらん、ぽん。――と。
 気の抜けた放課チャイムの放送がスピーカーから響いている。
 帰り支度をする時翔が顔を上げるとそこに友里が立っていた。いつもの締まりのない笑顔、平たく言えばにやにや顔だ。
「トッキー、今日一緒に帰ろうじゃん」
 友里はすっかり帰り支度を整えて机の横に立っている。学校指定のブラウスにリボン、ニーソックスだが、スカートは巻き上げ気味で短い。ブレザーの第一ボタンも止めていないが、全体的に見れば女子としては平均的な服装と言えるだろう。茶髪とスカート丈を除けば決定的な服装違反と呼べる箇所はない。
 服装違反がないことについては時翔の方も同様なのだが。
「なんだよ友里、今日は同伴下校の日じゃないだろ? つーかそのあだ名やめろって」
「なんで? かっこいいじゃん」
 にやにや顔からさらにパワーアップして、にしゃにしゃ顔で言う友里。
「よくねーよ、なんか犬につける名前みたいだし」
「犬に失礼なこといっちゃだめだよぅ」
 ぱし、と鞄のフタを無言で閉じ席を立つ時翔。
「ふー、さ、一人で帰るかな」
「う、うそですぅ、ごめんなさいぃ」
 胸の前で両手を合わせながら謝意を示している。
 おまけにうってかわった半べそ顔、相変わらず良く動く表情筋だ。
「つーか、昨日も一緒に帰っただろ」
「あのね、昨日のゲームの続きやりたいんだよぅ、かわいい彼女の頼みなんだからぁ、いいじゃん?」
 と、小首をかしげつつ今度はしおらしい声を作る友里。
「彼女ねえ……ま、一応な。で? またネカフェ行く気かよ、家でできねえの?」
「うちのパソコン古いからムリ」
「しょうがねえなあ」
「わーい、やっぱ持つべきものは彼氏だよねー」
 実に屈託のない笑顔だが、盲信は禁物なのは時翔も学習済みだった。さすがに。
「ところで、後期試験の結果どうだったんだ?」
 校舎の階段を下りながら時翔が友里に訊ねる。
「ひっ……!」
 友里の足が硬直して止まる。膝がわなわなと震えている。
「そ、それをきいて……どうする気なの?」
 戦々恐々としながら横目で時翔を見やる友里。
「だめなのかよ?」
「おそろしいことになるよ……それをきいてしまったら」
 もはや顔面蒼白状態だ。
 まだ一年生ではあるが、二学期の後期試験の結果はどうやら訊いてはいけない恐ろしい結果だったらしい。
「それに……たかが彼氏に個人情報のリークなんて出来るわけないよ」
「信頼度、低いな……つーかもう人間不信レベルだよな」
「もう気分は董卓だよ」
 おおげさに肩を落としながら独裁者の悲哀を醸し出そうとする友里だったが、そもそも自業自得なのは共通していることに納得する時翔だった。
「へえ……それじゃ俺はなんなんだよ?」
「えーっと……呂布?」
 思いの外高評価だとは思った時翔だったが、そこはかとなく悲運な別離の物語を予感させる会話でもあった。
「だけど、いいのかよ、遊んでて」
「いや逆に今しかないんだよ遊べるのは……あとは野となれ山となれ! だよ」
 とうとう開き直ったようである。ぐっと握り拳を作る友里。
「おい、明日から補習始まるんじゃ……逆にとか言ってる場合か?」
「ん? あれ? よく知ってるね、もしかして仲間だったの? なんだあ、もぅ早く言ってくれればよかったのにぃ水くさいなあ」
 またも豹変、満面の笑みでぽんぽんと時翔の肩を叩く友里。
「いや、残念だが明日からは袂を分かつことになりそうだな、俺赤点なんて取ってないし、ひとりでガンバってくれ」
「えーっ!? 薄情ものー!!」
「まあ、呂布奉先だし」
 時翔が思っていたよりも早く予感が現実となったようだ。
「そうだ! 一緒に補習受ければいいじゃん、どうせ帰宅部なんだしさ」
「いや、補習ってプリントやるだけだろ」
「じゃ、私の横で答え教えてくれるだけで良いよ」
「なんの解決にもならんぞ、それ……」
「じゃあ、プリントは自分でやるから」
 殊勝に身を縮ませながら上目使いで言う友里。
「まあ、それなら……っておい、あやうく譲歩戦術に乗せられそうになったじゃないか」
「ちっ、気付かれたか……」
 不敵に唇をゆがめながら慚愧の念に耐える表情の友里だった。
「腹黒いヤツだな」
「ふ、そんなこと言っていいの? 月夜ばかりじゃないんだよ?」
 脳内仕込み杖を煌かせながらドスの効いた声で言う友里。時翔のノリツッコミに気をよくしたか、テンションアゲアゲだ。
「返り討ちにしてやるよ」
 脳内十手を構えながら反駁する時翔だった。
「……で? 何科目赤点だったんだ?」
 ここで情け容赦なく現実の話に引き戻す時翔。
「ぐっ……そ、そんなこと言えないよっ……さ、最重要機密だよ……」
 一気にテンション大暴落のトーンで言う友里。
「かなーりやばげな雰囲気だな。そう言えば前のテストでも数学がひどかったみたいだけど、今度は何点だったんだ?」
「えっと……丸が一個だけだった」
 今や蚊の鳴くような声である。
「と言うことは、10点以下ってことかよ」
「それが……丸ついてたのは名前なんだよね」
「それ、0点ってことだよな……」
 それは丸ではなくOだ。
「明日から頑張るから今日だけ見逃してよ」
「そのセリフほど信用できないセリフはないな」
 ――明日やろうは、バカやろう――と、だれか偉い人も言ってた気がする。
 と、言いつつも結局最後は友里に押し切られてしまうのがいつものパターンなのだ。時翔は本日もネカフェに寄り道決定の覚悟を決めているのだった。
 一階まで階段を降り、下駄箱がある板の間に降りる。
 下駄箱は一見古ぼけた木製だが、扉の裏がわに指紋スキャナーが付いているらしく、指をフタの隙間に差し込むことで解錠される仕組みになっている。
 時翔が上履きを脱ぎ、革靴を取り出す。上履きも外履きも学校指定品だ。
「トッキーの内履《うちば》きっておニュー?」
「いや、違うけど」
「へえ、なんかきれいだね」
「友里みたいにかかと踏んづけたりしないからだよ」
「いいじゃんべつにー、細かいこと言うよねー、風紀委員?」
「スリッパにした方がいいんじゃないのか?」
「ふーんだ」と、少々ふてくされ気味に焦げ茶色のローファーをコンクリの床に置き、履き替える友里。
 二人揃って、校門のゲートでIDカード兼用の定期をかざして校外に出る。
 夕方とはいえまだ日は高く、日没まではかなり時間がある。
 それでも頬をくすぐる秋風は、思いのほか心地よかった。
「わはーい、ガッコー出ると気持ちも軽くなるねー」
 校門を出たとたん、友里は意気揚々とスキップで時翔を追い抜いていく。ただでさえ短いスカートがめくれ気味に揺れるが、そんなことはお構いなしだ。
 まったく自由人としか言いようがない。
「ところで前から気になってたんだけど」
 しばらく歩いてから、時翔が前を行く友里に背中から声を掛ける。
「え? 何が?」
 虚を突かれたように時翔の方を振り返る友里。
「うちばきって、あんまりこの辺じゃ言わないよな」
 通学鞄を片手で肩掛けにしながら時翔が訊く。
「ぉおーう? なっなんでっ? みんな言ってない?」
 突然の時翔のクエスチョンに瞠目して聞き返す友里。
「いや、普通は上履きか上靴だろ」
「まっ……マジ?」
「うん、もしかしてローカルネームっぽいヤツか?」
 数瞬のあいだ懊悩の表情を見せていた友里だったが、しどろもどろながらもなんとか返答する。
「そ、そうだ、まえに……言ったじゃん、中三の時こっちに引っ越してきたこと……」
「ああ、そうだったな。でも大阪に親戚いるけど、そんな言葉聞いたことないから、もしかして北の方か?」
「そ……」
「……?」
「そ、そっだだこと、どごだっでいいでねすがあああっ!」
「どこの方言だよ」
 とりあえず関東周辺でないのは間違いないようである。
「だっ……だいたい、そんなこと言い出したら、いろんなところに疑心が暗鬼を生んじゃうよ」
 どういうわけだか頬を真っ赤に染めながら言う友里。
「いや、別にバカにしてるわけじゃないって、意味は通じてるし、ちょっと訊いてみただけだから、そんな気にスンなよ」
「じゃ、じゃあ外履きはっ? もしかして違ってる? 私だけ!? 私おかしいのっ!?」
 と、今や瞳までも潤ませて食い下がる。
「いや、外履きは外履きでいいと思うよ」
「え? あれ? そっか、あはは、なあんだ、よかったあ、もーおどかさないでよー」
「ああ、ワリーワリー、でも考えてみれば外履きの反対で内履きなんだからおかしいわけでもないよなぁ」
「だよねー、だよねー、じゃあ、白墨は白墨でいいんだよね」
 再度、数秒の沈黙が流れる。
「んっ? あ、ああ、大丈夫だよ意味は通じてるし」
「ちょっ、なんか今、ビミョーな反応しなかった?」
「いや、まあ……チョークって言うヤツもいるかなあっ――てな感じ?」
 ――そんな名詞は知識としては知っているが生徒の間で使うヤツは見たこともない。大体白いチョークが白墨なら赤いチョークはなんて呼ぶんだ? 赤墨か?
 などと、余計な疑問がわき起こるが、それはおくびにも出さない時翔だった。
「むっ…… ってな感じって、なんなのさ。ちょっと口開けてみて」
 と、時翔の頬を人差し指と親指で挟む友里。
「どぅわんでだよ」
「奥歯にモノ挟まってないか確認するから」
「はざまっでねえっで!」
「ほんと?」
 手を離して時翔を解放してやる友里。
「ああ、ネギもモヤシも食った憶えはねえ!」
「じゃあさあ、ワラ半紙はワラ半紙でおけ?」
 今度は時翔の顔をじっとりとした目でのぞき込みながら言う友里。
「……ごめん、それは聞いたことない、っていうか多分見たこともない……と思う」
「聞いたことないのに見たことないってわかるんだ、ふーん」
「いや、だから見たことないから聞いたことないんだって」
「まあ、私もじいちゃんの子どもの頃の話でしか聞いたことないんだけどねー」
「ひっかけかよ」
「ちっ、つまらない男だね」
 にひひ――としたり顔の友里。
「理不尽なダメ出しだな、おい」
「へっへーん、もう名誉挽回には、明日は私の補習につきあってくれるしかないよねー、あははは」
 うひひひ、ひやっひやっひやっ、へむへむへむ、と笑い続ける友里。
「いやだっつーのに」
 友里は笑い始めるとなかなか止まらない悪い癖があるのだ。しばらく笑いが後を引いていた友里だったが、ひとしきり騒いだあと、急に静かになった。
 ふう、と軽いため息をつく友里。
 反動で賢者モードに入ったのかもしれない。
 ――まったく喜怒哀楽が激しいヤツだ。
 時翔はそんな友里を無視して今度は数歩先を歩く。
「ね、加治矢くん」
 後ろから友里がさっきとはうって変わった神妙な口ぶりで声をかける。
「なんだよ、急に名字で呼ばれると変なかんじだよ」
「トッキーだって、私のこと名字で呼んでんじゃん」
「それはそうだけど……なんだよ急に」
「あのさあ」
 妙に口ごもる友里。
「どしたん?」
「私ってやっぱり――変かな?」
「――! い、いやあ……そんなに……は」
 とっさに訊かれてつい本心がかいま見える返答をしてしまう時翔。
「ほんと? なんか、そういうの自分じゃ分からないっていうか……」
 うつむいて歩きつつ言う友里。
「私、中学までけっこう引っ越し多くてさ、親が引っ越しマニアだったから」
「あ、ああ、そうだっけ、っていうか仕事の関係だろ、親の」
「そうなんだけど……中三の時に気が付いたんだ、私っていつでもどこでも浮いてるんじゃないかって」
「友里……」
 友里はついに立ち止まってしまい、自分のつま先を見つめている。
 なんだかダウナーなオーラをまとい始めたな、と若干あせる時翔だった。
「だから……さ、高校入って、こんな形で私なんかとカップリングさせられちゃって迷惑に思われてるんじゃないかなって……」
 体の前で鞄を両手に持ち、消え入りそうな声で言う友里。
「いや、まあ、俺も校則だってのは分かってても最初はちょっと抵抗あったけど、今はそれほどでもないっつーか」
 鼻の頭をぽりぽりと掻きながら友里に向き直る時翔。
「リアリー?」
 不安げに顔を上げつつ友里が言う。
「リアリーだって」
「そっか、……あの……変なこと訊いて――ごめんなさい」
 ちょこんと頭を下げた後、顔を上げた友里の瞳がまっすぐに見つめていた。目にはようやく輝きが戻ったように見える。
「うん、だから、よかったんじゃねえか……きっかけはどうあれ」
 そう言うと時翔は前を向き再び歩を進める。
「そっか……そうだよね、もしかすると運命の人なのかもよね」
 小走りに時翔の横まで追いついてから時翔に向かってにっこりと笑い顔で言う友里。
「ん、ああ……袖ふれ合うも何かの縁って言うだろ」
 若干照れ気味に横を見やりながら言う時翔。
「そうだよね、鎧袖一触って言うもんね」
「いやいや、運命の人を雑魚キャラ扱いにするんじゃない」
 ――ま、友里流の照れ隠しってとこだろう。
「うん、でも、わかった、もう気にしないよ、何があっても」
 と、がぜん気迫を込めて言う友里。
「う、なんか、極端なところは、直した方がいい気もするけどな」
「もう金輪際気にしないことを誓うよ! ロマンスの神様に!」
 天を仰ぎつつ誓いを立てる友里。
 空には鱗雲が夕焼の気配を映して輝いていた。
「もしかして言質とられた!?」
 などと、こんなやりとりをしているうちにネカフェに着き、一時間ほどゲームした後、今は休憩中というわけだ。

 03

「ちょっとドア開けてー、たのもー」
 友里がブースの外から叫んでいる。ドリンクバーのおかわりに行っていたのだ。
「ほいほい、ちょっと待てよ」
 とブースの扉を開けてやる。
「はい、トキリンのも入れてきたよ」
 友里が手にしたプラスティックのトレイには、ストローを刺したコップが二つ並んでいる。
「おお、サンキュ、ってかそのあだ名もやめろって」
「私って気が利くよね、ね、ね」
「ああ、そんな恩着せがましいこと言わなきゃな」
「ね、飲んでみて」
 時翔にコップを手渡しながらにやりと笑う友里。
「なんだよ……って、なんじゃこの色! 何を入れてきたんだよ!」
「ふふ、いろいろだよ」
 黒に近いが微妙に毒々しい色の液体。泡立つ炭酸でさえなぜか不気味に見えてしまう。
「俺が頼んだのはコーラだったはずだけど、何混ぜたんだよ」
「飲んで当ててみてよ、でもコーラは入ってないからね」
「それで、この色かよ!」
 恐る恐る一口飲む。
「まずっ! くもないな……」
 ――だけどうまいとも言えない、微妙な味だ。それがかえってムカつく時翔だった。
「友里は何入れてきたんだ?」
「牛乳だけど」
「ん? ドリンクバーにそんなのあったっけ? ホテルの朝食バイキングじゃあるまいし」
「フレッシュミルクだよ。コップ一杯分貯めるのに手間と時間がかかるのが難点なんだけどね」
 …………
 時翔が友里のセリフを理解するのには数秒の時間を要した。
「おまえ、怒られるぞ! コーヒー飲む人が迷惑するだろうが! つーかそんなもん飲んだら胸焼けしそう……」
「氷入れたらちょうどいいんだよね」
 と言いつつ、鼻歌交じりにストローでコップの中身をぐるぐるかき混ぜる友里。
 友里のミルクに対する執念に関してはツッコミたくなる箇所もないではないが、ややこしいので口にはしないでおこう。と自分に言い聞かせる時翔だった。
「あ、よい子は真似しないようにね」
「自覚があるんなら、ぜひやめてもらいたいよ」
 二人して喉を潤し? 一息ついたところで友里が口を開いた。
「ねね、今度は違うゲームやってみようか?」
「え? 今から違うゲームするの? なんなんだよおまえ」
「あれ? トキにゃんはソーサラーズがそんなに好きなの?」
「いや、今日は昨日の続きがしたいからって来たんだろ?」
「いやあ、何て言うか……あのゲーム、はずこくねえ?」
「それを言うのかよ……今さら……」
 ――それを言ったらおしまいというものだろう。
「しょうがねえなあ」
 タッチパネルディスプレイを操作し、アクティブなゲームの一覧を眺める時翔。
「じゃ、これは? マリーン・スピリッツ」
「それって一緒にやったことあったっけ?」
「まえに一回だけな」
「ん、思い出した、エイリアンと戦うやつだよね」
「そうそう、人類側の海兵隊とエイリアン陣営に分かれてやるPVPだな」
「でも、こないだは最悪だったじゃん、最初の惑星降下でドロップシップごと撃墜されて終了って、まだ何もしてねえっつーの」
「ああ……あれはなあ、コマンダー役も人間がやってるからなあ……」
「捨て駒の気持ちがわかっても虚しいだけってのはよくわかったけどね」
「百回ぐらい死なないと階級が上がらないらしいからなあ」
「戦争の無意味さがよくわかったよ……」
 腕組みをしてウンウンとうなずきながら、しみじみと言う友里。
 ――何げに良ゲーだったのかもしれない。
「じゃあ、他にはっと……」
 気乗りはしないが再びディスプレイのゲーム検索に戻る時翔。
「ねえ、トッキー、これは?」
 同じように友里の席側に設置されているディスプレイを指先でフリックしつつ眺めていた友里が声を上げた。
 友里が指し示すゲームタイトルを見ると、
 ――ケダモノの森オンライン――
 だった。
「これって、なんかほのぼの系のやつなんじゃない?」
 友里は勝手にわくてかのようだ。
「いや、それってR18系だから」
 タイトルを一瞥した時翔が嫣然と言う。
「えええぇぇぇ、こんなにかわいいキャラなのに?」
「だから、よく見てみろよ、選択アイコンがグレーアウトしてるだろ? 俺たちのIDじゃ年齢制限で入れないの!」
「えええ、全年齢版はないの?」
「あったけどな、昔。タイトルはちょっと違ったけど……」
 もう説明するのもめんどくさくなった時翔だった。
 ちなみにそのゲーム、正規のログアウト手続きをせずに切断すると、次回ログオン時にはリセクロスさんに説教されることで有名だ。
「あれ? これなんだろ」
 しばらくしてまた友里が素っ頓狂な声を上げた。
「なんだ?」
「これ見てよ」
 友里の見ていた画面を見ると、それはさっきまでプレイしていたゲーム、ソーサラーズのユーザー情報BBSのページだった。
「謎の新エリアに続く隠し洞窟発見? だってさ」
 友里はやたらと色めき立っている。
「こんなのよくあるエセ情報だろ」
 時翔はそのトピックスを眺めながらも訝しげに言う。
 この手のゲームじゃ日常茶飯事とも言える適当情報だ、ことによるとプレイヤーの仕組んだ罠であることも珍しくない。真意を確かめるまでもなく、そのうち物好きなプレイヤーがネタばれしてくれるのを待つ方がよっぽど賢いとも言える。
 しかし友里はしつこくその関連スレッドをためすつがめつしている。
「オクトヘッドクラブ山脈の南壁らしいよ」
「それだけの情報じゃ場所もよくわからんな」
「ふむふむ、種まき爺さんの右足のあたりだってさ」
「え? 何爺さんだって? なんか意味不明なんだが……」
「なづがしいズー」
 故郷に思いを馳せるかのごとき遠い目をして言う友里だったが、ハッと我に返ったかのように「行ってみよう」とのたまう。
「まじで? 飽きたんじゃなかったのかよ」
「だって新エリアだったら早い者勝ちでキャンプできるじゃん」
「そりゃそうだけど」
 友里の意見にも一理はある、突発的なイベントクエストはゲームの話題作り、てこ入れの手法としては常套手段とも言えるからだ。
「もしかすると例のセクハラ呪文のオートスペルブックがドロップするかもじゃん」
「そんなに嫌だったのかよ」
 キャンパーにまでなる気はない時翔だったが、まあ友里がその気になってる以上、行くしかないのだろう。言い出したら聞かないヤツだし。
「この場所って例のセクハラ村の近くだよ」
「どんな村だよ、風評の流布で訴えられるぞ」
 確かに場所的に言えば最後にログアウトした村からそれほど距離はない。これならちょっとだけのぞきに行くのにもさして時間は掛からないだろう。
「じゃ、ちょっとだけな」
 時翔はメニュー画面からソーサラーズのアイコンをタップする。
「ぃよっしゃー」
 二人してスタンドに掛けてあった眼鏡型SMDを揃って装着する。ゲームが起動するとすぐ目の前にタイトルとクレジットが表示される。
 いつものようにログイン認証を済ませ、セーブポイントからの再開を選ぶと、すぐさま目の前に広がるVR世界。降り立つと同時に徐々に体の感覚がVR世界にシフトしていく。
 原理はよくわからないのだが、眼球の動きを読みとって脳波とシンクロさせる画像を投影することで完全な没入感を与えることを可能にしたのがこのSMDなのだという。
 世の中頭のいい人がいっぱいいる物だと時翔は思う。
 まあそのおかげでいろいろと楽しい娯楽の世界が広がったのだからそこはありがたく享受しようと思うことにしている。

 04

 気が付くとそこはのどかに広がる村落の風景だった。
 目の前にはログアウトした場所である銀行がある。とは言っても村という設定に沿ったちょっと立派目なログハウスという風情の建物ではあるのだが。
 周りには多めの緑の中に、ぽつり、ぽつりと点在するショップや酒場や宿屋などが並んでいる。ファンタジー系のRPGではおなじみの風景だ。
 村の北側には遠くフォグに霞む山並みがそびえ立っていた。
 視界オーバーレイからマップを選び確認する。どうやらあれがオクトヘッドクラブ山脈で間違いないらしい。
 時翔は傍らに立つ友里のアバターキャラを確認してみる。
 ピンクと白を基調にしたやたらとレースをあしらったメイド服のようなコスチューム。めいいっぱいに強調された胸とひらひらのフレアスカート。およそ友里のイメージとはかけ離れているが、そこはゲームというものだ。この世界に入れば特に違和感もないし、これはこれで見慣れていることもあって、友里だと一目で認識できる。人間の適応力というのはまったくすごい物だとパーティ・インバイトリクエストのOKボタンをタッチしながら時翔は思った。
 ド派手なスカーレットレッドの長髪を揺らしながら友里が近づいてくる。
「トッキーのアバターってさあ、なんでこんなおっさんキャラにしたの?」
 と、見た目年齢十四、五歳の少女アバターが目をすがめながら言う。
「別にいいだろ、かっこいいんだよ、俺的にはこれが」
 見上げるような長身に精悍な褐色のスキンヘッド。黒を基調にしたマント型のローブが実に渋い。まさに壮年の漢としか言いようのないアバターだ。もちろん基本性能はどのアバターでも変わらない。あくまでも見た目だけの話である。
「へーえ、まあアバターなんて自分の劣等感の裏返しだっていうもんね、そういえばトッキーってガキっぽいもんねー アハ」
 へきろーん、と小さい牙を口から光らせながら友里のアバターがからかうように笑う。
「ふん、かわいくないヤツだな、腐れ縁的幼馴染みみたいなセリフを吐くんじゃない」
 ――そんなにおっぱいスライダーの件に突っ込んで欲しいのか? しかし紳士の時翔はあえて不問に付すことにする。
 めんどくさいし。
「ところでさっきのBBSの書き込みにあった場所って心当たりあるのか? なんとか爺さんとか言ってたけど」
 時翔が先行き不安を隠しようもなくぼやくように言う。
 ふふん、と半眼になった友里アバターが腕をまっすぐ前に伸ばし、ビシッと指をさすポーズを決める。
 友里が指さした先には霧に霞む山並みがそびえ立っていた。
「はあ? そりゃあれがオクトヘッドクラブ山脈だってのはわかってるけど。で? なんとか爺さんってのはなんのことなんだよ?」
「それはひみつ」
 にへへ、と笑う友里アバター。
 なんだかこの表情の再現性だけはやたらと高い気がするのだが、それは自分の脳内補正のなせるワザなのだろうと時翔は思う。
 BBSの書き込みにあった謎のエリアへの入り口、目標の山壁のどこかに位置するのはわかるのだが、例の暗号めいた文字列については時翔には見当も付かなかった。
 だが友里にはその暗号めいたスラングにも思える場所指定が明確に特定できているらしい。
 そうは言っても、どうせ大したことではないのだろうとも予想の付く時翔なのだが。

「あ、そうだ、私ちょっとショップ寄ってくね」
「ああ、ポーションの補充か?」
 友里は言い終わらないうちにすでにアイテムショップがある酒場に飛び込んでいた。
 遅れて時翔も古びた木製扉をくぐる。中を見回すとNPC《ノンプレイヤーキャラ》以外は誰もいなかった。
 ――ふむ、こうなるとどうにも例のBBSの書き込みの信憑性が怪しくなってくる。物好きなプレイヤーならばすぐさま確認しにこぞって集結してきても良さそうな物なのだが。やはりガセ情報ということがすでに確定しているんじゃないだろうか。
 しかしそういうことならば、友里が目星を付けているらしい探索目標を検分しさえすればそれでさっさと切り上げられる可能性が高い訳で、それも悪い話ではないなと時翔は考えた。
 友里はカウンター越しにトレーダーNPCとアイテム売買中だ。
「トッキーは買わないの?」
「ああ、俺はさっきログアウトする前に装備は調えてあるから」
 この辺が友里と時翔のプレイスタイルの違いだろう。
 中断している時間が長くなればインベントリの中身についての記憶が薄れてしまう。再開した時にすぐに行動に移れるように最低限必要な装備類は補充しておく。効率重視の時翔にとってはごく当たり前の行動なのだ。

「げ! お金が足りない!」
 泡を食った表情で友里が叫んだ。
「トッキー、お金貸してよ」
「はあ? 何買うつもりなんだよ?」
 ――やれやれ、当たり前のように要求してくれるよなあ。ちょっとは計画的に装備そろえて欲しいんだが……。
 心の中でつぶやきながら自分のインベントリを開きトレード画面を展開する時翔。
「で、いくらぐらい要るんだ?」
「傭兵代……どれくらいのランクがいいかなあ? 迷ってるとこなんだよねえ……」
「へえ、友里にしちゃえらく慎重だな。だけど行ってみて何もなかったら無駄金になっちゃうぞ。使い捨てだからなあ、傭兵NPCなんて」
「何言ってんのさ、用心に超したことないじゃん、なんせ未知のエリアなんだし」
 全力で主張する友里。えらく気合いが入っている。
 絶対に何かあると確信しているのか?
 女のカンってやつかもしれないな、となんだか気圧され気味の時翔だった。
 一応エリア検索でログインプレイヤーを確認してみるが壁役になるペットを召還できるジョブの人数はほぼ皆無だった。そもそもこの時間、プレイヤーの絶対数自体が少ない訳でそれもむべなるかなのだが。

 今プレイ中のゲーム、ソーサラーズにはプレイヤーキャラとして操れるロール(役割)としてはキャスタータイプしか選択できない。そのためプレイヤーは直接攻撃能力はほとんど持っていないのだ。
 魔法を撃ち込むための時間を稼ぐための足止め方法としては、おおまかに言って三つある。
 まずはルート《足止め》、スネアリング《速度低下》、スリープ《おねんね》、パラライズ《麻痺》系の敵の動き自体を封じる呪文を遠距離から先制して撃ち込む方法。二つ目はペットと通称される召還キャラを呪文で呼び出す方法。しかしこれはそのスキルを持つ属性のキャスターにしか習得できない制約がある。
 三つ目は今回のようにNPC、ノンプレイヤーキャラをお金で一時的に購入してプレイヤーのオプションとして随伴させる方法だ。ただし使い捨てなので所有パーティが全員ログアウトすると消えてしまう。まさに1プレイ限定の傭兵だ。

 仕方がないのでここは友里の意見を尊重し、時翔もショップに並ぶ雇用可能な傭兵リストを確認してみる。
「うーん、一番安いので良いんじゃないか?」
「え? それって武者フェアリーのこと?」
「それか、ぷっちょゴーレムか……」
 ごらんの通り、ネーミングからして世界観がカオスなのは目を瞑るとして、壁役としては頼りないにも程がある。とはいえ、その分ペットタイプの傭兵は安価なのだ。
 まあ性能の方も推して知るべしではあるのだが。
「これがコスパ的にお買い得なんじゃないか? マンモスチワワ」
「い、いやだよ、せ、せめてヒューマンタイプにしようよ」
 心の底から嫌そうに友里が懇願する。
「ぜいたくなヤツだな、じゃこの一番安い難民剣闘姫ってヤツでいいんじゃね?」
 ネカフェでプレイするゲームとしてはいささか皮肉が効き過ぎな気もするネーミングだが、まあそこまでの他意はないのだろう。
「分かった、それにするよ」と、渋々ながら承諾する友里。
 ゲーム内クレジットを支払うとニックネーム入力のオーバーレイウインドウが待ち受け状態に入った。デフォルトではウララというおざなりな名前が表示されている。
「うーん、なんにしよっかなー?」
 ここで友里はいきなり悩み出した。
「おい、そんなのデフォルトのままでいいんじゃねえの?」
「ちょ、何てこというのさ! せっかく高い金払って雇ったんだから思い入れの出来る名前付けてあげなきゃかわいそうじゃん」
 ――どうせ捨て駒にするんだけどな。
 ちなみに時翔のアバターキャラの名前はあああ≠ナある。ある意味鉄のポリシーを感じさせるネーミングだと時翔は自負している。
 どのみちゲーム内でもメインのパートナーである友里にはリアルが割れているわけで、ゲームキャラの名前なぞそれほど重要とも思えないというのが大きな理由ではある。
 購入したNPCキャラのプロフィール画像を見る。
 金髪に碧眼、片手剣に小型のシールド装備、アーマーは肌色露出度の高い、いかにも見た目重視のマスコット的な少女剣士の雰囲気だ。
「うーん、やっぱ妹的な名前がいいよね、あかり? ジャイ子? なにがいいかなー」
「えらくイメージがかけ離れたキャラチョイスだな、おい」
「よし決めた、これでいくよ!」
 きゃらーん、と少女剣士の輪郭が実体化しておずおずと二人の前に進み出た。
 かわいらしくちょこんとお辞儀をした後、小首を傾げながら高音ボイスで挨拶を口にする。
「はじめまして、メイ≠ナす、よろしくね、マトリョーシカ@あああなんて名前付けるヤツとかバカじゃね?=@さん、あああ≠ウん」
 いわゆるシステムのテンプレートに沿ったご挨拶のセリフというやつだ。
 ヒューマンタイプのNPCはある程度人工無脳的な受け答えができる仕様となっている。それだからこそ性能の割には人気がある所以なのだが。
「きゃわゆすうう」
 友里がうっとりと頬を紅潮させながら漏らす。
「おいおい、メイって俺の妹の名前じゃねえか」
「にゃはは、これでいやでも感情移入できちゃうよね、ね、お兄ちゃん」
「誤解を招くようなこと言ってくれるよなあ、俺をシスコンだとでも思ってるのか!」
「あれ? 違ったの!?」
「妹なんぞ、なんの興味もねえよ!」
「え? え? それって、もう攻略済みってこと!?」
「……言わせてもらっていいか? ……新発見だよ……このエロゲ脳がっ!」
「えー、そんなムキになんないでよ冗談なのに」
 わざとらしく棒読み口調で言う友里。
「冗談なのね……ごめん、ついていけそうにないわ、矢吹くん……」
「うーん、まあ、75点ってとこかな」
 意外な高得点である。とデジャビュな感慨がわき起こる時翔だった。
「それとなあ、ついでに言わせてもらうとおまえのアバターネームもあらためて聞かされると腹立つよな、自分の名前で人をディスりやがって」
「うへへ、実はちょっと後悔してるんだよね、ノリで付けちゃったのはいいけど、名前変更できないみたいだし」
「ほほう……友里にその気があるならPvPのハードコアサーバで決着つけてやってもいいんだぜ、あそこに移動すれば死亡=キャラデリートだからなっ!」
「はあ? なにマジになっちゃってんの? 名前のふざけ具合でいけばどっこいってとこじゃん」
「ぐ、そういわれると……そうかもな」
 ややツッコミの順番とタイミングを間違ったことに後悔をおぼえる時翔だった。
「それにしても……」
 と、現れた少女剣士、いまやメイと名付けられたNPCの周りをぐるぐると角度を変えながら眺め回している友里。
「見れば見るほど可愛いよねえ…… スクショ撮っとこ」
「なに? おまえそんな趣味あったの?」
「だって大枚はたいてデリったんだから、たっぷり元とらないと損じゃん」
 ぴきーんと、時翔のこめかみに血管が浮く。
「なあ友里、もう少しゲームの世界観ってもんを大事にしようや、ついでに自分のキャラもな」
「いいじゃん、鑑賞するぐらい、どうせ触れないんだしさあ」
 と、少女剣士の胸に指を突き立てる友里。VR世界で構築されたグラフィックである少女剣士の体と、赤髪ウィザードの指はなんの干渉も起こさずにすり抜けるはずだった。
 が、直後に友里が驚愕の声を上げた。
「あれ? あれ、あれ、あれれれえええええっ!? 当たり判定がある……?」
 突きだした友里の指先が弾かれて返ってきた。その部位にぴったりのエフェクト音が聞こえるほどに。
 ぽよん、と。
 そしてメイちゃんが身をよじらせてくすぐったそうに声を上げた。
「やんっ」と。
「え? 今おまえ触れたの? ――NPCに?」
「うん、柔らかかった……」
 にへり、と笑う友里。
「なっ、なんで? 課金アイテム? バグ?」
 信じられないといった表情で漏らす時翔。
 実際友里にも時翔にも初めて遭遇する現象であった。
 そもそも友里のアバターも時翔のアバターもそうであるが、プレイヤーどうしでさえもお互い触れることはできないのだ。
 当然である。感覚をフィードバックするこのタイプのゲームでそれができてしまうと、ゲーム本来の趣旨とまったく違った遊びに興じる輩が出てきてしまうのは自明の理だからだ。もっとも、年齢制限のないその手のゲームは別に存在はしているのだが(なんとかの森オンラインとか)。
 また、NPCにも当たり判定がないのは、部屋の出口を図らずもふさいでしまって出られなくなってしまうなどの不測の事態を防ぐためでもある。
 ゲームシステム上、唯一当たり判定が存在するキャラは敵モンスターのみとなっているのだ。
「どれどれ」と、時翔も確認しようと少女剣士NPCに近づこうとしたところで、すっと友里が立ちふさがるように制止する。
「やめといたほうがいいよ」
 瞑目してゆるゆると首を振りながら、冷徹に諭すような口調で友里が言う。
「やめとくべきだよ……」
 さらに場の空気を一気に氷点下に変えてしまうほどの怜悧な表情で少女ウィザードが言葉を紡ぐ。
「たぶん、システムのバグだよ。いや、それ以外考えられないね」
「お、おお……まあ……そうだな」
 友里の迫力に逆らえずに動けなくなる時翔。
「よけいなことしてシステム異常が検知されちゃったらめんどうなことになるよ、きっと」
「な、なるほどな、冷静な判断だな友里にしちゃ……」
「そう、ゲームの世界観が壊れるからね」
 腕組みをして時翔を見据え、決然と言い切る友里だった。
「う、なんか一抹理不尽なもの言いにも思えるけど、ま、そのとおりだよな」
 今の友里にはどうにも逆らえる雰囲気ではない。そんな威厳さえも感じ取れる態度だった。
「じゃ、じゃあ、そろそろ出発するか、準備も整ったことだし」
 時翔が空気を変えるべく、あらたまった口調で言う。
 が、そこで友里が、
「あ、あの、えーっとさ、貴石屋さん行ってマラカイトとキャッツアイ補充してきてくんないかな?」
「貴石ショップって村はずれの? 俺一人で行ってくるの?」
「う、うん、どうせ村の出口はこっち方面だし……こ、ここで待ってるからさ……」
 なぜか時翔から目を逸らしつつ、つっかえ気味の口調で言う友里。
「ふーん、いいけど、まさかとは思うけど、変なこと考えてないよな?」
「なっ! なに言ってんの! なにも企んでないよ!」
 と言いつつ頬を紅潮させている友里。
「ま、一応信じるけど、ことによるとこれからのおまえとの付き合いを考え直す必要も……あるかもしれないからな」
 半眼でおとがいを上げながら釘を刺すように時翔が言う。
「その発想がすでにおかしいって! は、はやく行ってきてよ」
 時翔の背中を押そうとする友里だったが、当然なんの手応えもなくすり抜けるだけだった。
 しかたなく時翔は酒場を出てショップに向かう。

 ――五分後、買い物を終えた時翔が酒場に戻ってきた。
 ガチャリと扉を開ける。
 友里はカウンターの椅子に座っていた。頬杖を付いた状態のまま横目で時翔の方をチラりと見やる。
「あ、お帰りー 早かったね」
 そう言うと友里は目を逸らすようにあらぬ方向に顔を向けてしまう。
「あれ? メイは?」
「えー? その辺にいない?」
 そっぽを向き、棒読みセリフで言う友里。
 時翔は酒場の中を見回す。
 ほどなく部屋の一番奥の隅っこでへたり込むように座っている少女剣士の姿を発見した。
 剣を床に取り落とし、下唇を噛みしめながら、片腕で自分の体を抱くようにしてぷるぷると小刻みに震えている。そして完全に瞳孔が狭窄した瞳にはうっすらと涙が光っていた。
「完全に事後じゃねえか!」
「人聞き悪いこと言わないでよー、ちょっとボディチェックしただけなのに。この子が敏感すぎるんだよー」
 白々しくも抑揚なく言ってのける友里。
「なるほど、わかった、おまえの名前は伊達じゃなかったってことだな」
「そんな壮大な伏線回収をこんなとこでするわけないじゃん」
「つーか、どうすんだよ、せっかく雇ったNPCが使いもんにならなくなってんじゃねえか!」
「ふー、大丈夫だって」
 友里はそう言うと冷ややかな微笑を浮かべながら椅子から立ち上がった。
 床にへたり込んだままのメイにターゲットフォーカスしたことが時翔のオーバーレイカーソルから確認できる。
 そしてその右手が空中をスイープし呪文詠唱の準備を始めている。
 おごそかに友里の口が動いた。
「連関の理に導かれし時の彷徨者よ、迷える我らへ真理の扉を指し示したまえ」
 友里が嚇怒の神雷のエフェクトを身に纏いつつ、超級のスパークエフェクトとともに叫んだ。
「エターナル・インカネーション!」
 全身にそのスパークを受け止めた少女の体が光り輝く。透過光が消え去ると同時にゆらりと片手剣を床に突き立てて少女剣士が立ち上がる。見る間にその体に闘気がみなぎるのが見て取れた。
「それって……最高レベルのステータス回復呪文だよな……」
「ふっふっふ、まさかこんなところで使うはめになるとはね」
「俺もまったく同感だわ、しかも今回に限って噛みもしなかったしな」
 友里のMPは今や0である。
「いいじゃん、どうせ目的地に着くまでにはMP回復できるって」
「わーった、わーった、もうさっさと行こうぜ」
「よーし行くよ! メイちゃん」
 友里の声に少女剣士が先刻とは見違えるほど元気な声で応答する。
「はい、あああさん、マトリョーシカ@あああなんて名前付けるヤツとかバカじゃね?さん」
「……やっぱ俺もこんな名前にするんじゃなかったってちょっと後悔してるわ」
「あははは、だよねー」
 二人プラスNPCの三人パーティは村の入り口に掛かる橋を越え一路北の山脈へと進路を取った。
 先頭を行く友里が振り返り、おでこに手をかざしながら気取った口調で言う。
「しばしのお別れだ、セクハラ村よ」
「おまえが言うんじゃない!」

 05

 結局なんだかんだでメイの体には触らせてもらえなかった時翔だったが、途中出会ったNPCに触れてみてもやはり当たり判定はなく、スカスカとすり抜けるだけであった。
 どういうイレギュラーかは定かではないが、傭兵NPCにのみ発生している一時的な現象なのかもしれない。
 くだんの少女剣士メイは着かず離れず、プレイヤーのオプションよろしく最後尾をちょこちょこと追従してきている。ちょっとした段差を飛び越える折には、よっ! とか、はっ! などのセリフが伴っているところなども芸が細かい。
 実に良くできたAIと言うべきだろう。おかげでセクハラ耐性は低かったようだが。
 道すがら時翔が友里に訊ねる。
「なあ、友里、そろそろ教えてくれよ」
「ん? なにが?」
 振り返りながら応える友里。
「なんとか爺さんとか言ってただろ?」
「ああ、あれね、この辺からならちょうどよく見えるっしょ?」
 友里が行く手の山壁を見やりながら言う。
「ん? 山の形のことか?」
「形っていうか、模様だね、ほら雪解け後が種まきしてるおじいさんの形に見えるんだよ」
 と、山壁を指さして言う友里。
「ふーん、そう言われてみれば……」
 目をすがめて山の模様を凝視する時翔。雪をかぶった山肌に浮き出た岩肌が人型に見える。
「ナットクだわ…… で、右足っていうと、あの辺かあ」
 そのシルエットから、時翔にもおよその目的地の位置がイメージできた。
 
 数分後、岩肌に密着する位置までたどり着く。ここまで来るともう近すぎて人型の模様は認識できないが、おそらく目測していた位置からそれほどずれてはいないはずだ。
「あそこだ!」
 友里が指さす先に風穴めいた入り口が見えた。小走りになった二人が穴の入り口までたどり着く。近くでよくよく見てみると、さほど大きなものでもない。直径二メートルほどの小さな穴だ。
「ふむ、ここか、確かにあったんだな」
「うん、思った通りだね、ふふ、やったね」
 友里は興奮気味に肩を揺らしている。
 しかし穴の中はすぐに暗闇に覆われていて先はまったく見えない。どうもおかしい。色使いが反転していてエリア境界が確認できるほどの不自然なグラフィックだった。
 バグっているようにも見える。自然な地形グラフィックを売りにしているVRゲームであるソーサラーズでは、あり得ない不自然さにも思えた。
「じゃ、入ってよ」
 当然と言わんばかりの口調で友里が時翔に告げる。
「え? 俺が? 先に?」
「うん、別に死にゃしないよ?」
「なんかなあ……」
「レディーファーストでしょ、普通」
 口を尖らせて友里が追い打ちを掛ける。
「それなら、友里が先でいいんじゃねえの?」
「はあ? 案内のない部屋出入りする時は男が先なんだってば。で、女性が入るまでドア押さえてて、入ったらドア閉めんの。レストランでは男が下座、道歩くときは男が車道側。それから階段上がるときは男が後、降りるときは先ね。ふう……かっこいいよねえ」と、うっとり顔の友里。
「その暗記力をなんでテストに活かせないんだ? 大体それって西洋のマナーだろ、俺は現代日本人なんだって」
 と、鼻白く言う時翔。
「ちょ……これっていちよー中世ファンタジーの世界なんだよ、世界観ってものを尊重しようよ」
「話題がループしてるよな。リセット早すぎだろ……そもそも俺はロールプレイヤーじゃないんだけど」
「志が低いよー、そんなこっちゃ変態紳士の風上にも置けないよー」
「ほほう……紳士をつけて成立する単語の中で最悪なチョイスをしてくれたようだな」
「ああ、もうめんどくさいなあ、じゃ、いちにのさんで同時に入ろう」
 しびれを切らしたように友里が言う。
 今回は時翔の粘り勝ちだ。
「そうするか」
 二人並んで穴の前で前傾姿勢をとる。
「じゃ、いちにの……さん」
 突入――
 と同時に目の前が真っ暗になる。今まで味わったことのない違和感に二人とも狼狽しながらも、視界が戻るのを待つ。
 そして……
 気が付くとネカフェのブースだった。
「あれ?」
「なんだ……?」
「落ちた?」
 二人してゲームをしていたネカフェのブースに立っていた。
「え? あれ? なんでおまえコスプレしてんの?」
 制服を着ていたはずの友里がなんと先ほどの少女ウィザードのひらひらのコスチュームを身につけている。どころか、髪の毛も茶ボブからスカーレットレッドの長髪となっている。
「いや、トッキーだって……」
 友里も開いた口がふさがらない表情で時翔の黒衣のマントと、そしておそるべきことにスキンヘッドに目が釘付けになっている。
「トッキーって、ズラだったんだ……」
「いや、そこかよ」
 ツッコミどころがめちゃくちゃである。とはいえこの混乱した状況では無理もないのかもしれないが。
 時翔でさえ今の状況がまったく掴めていなかった。
 時翔も友里も、顔かたち、おまけに身長も現実に戻っているのに、コスチュームと髪型、それに装飾品などがそっくりそのままゲーム内の状態のままなのだ。
「これって、新機能?」
 友里が茫然自失のままつぶやく。
「いや、ありえないだろ……」
 ありえない、なぜなら二人の傍らにはもう一人の人物がきょとんと立っていたからだ。
「メイちゃん!」
「うそおお!」
「これって……テクノロジーの勝利だよ! ついに二次元妹の実体化に成功したんだね、マジすごいよ……」
 友里は脳の機能がマヒしているとしか思えないセリフを口走る。
「いや、落ち着け友里、おかしいだろ! 周りをよく見てみろよ」
 言われてさすがの友里もあることに気が付く。
「制服がない! 壁に掛けてた上着がなくなってるよ!」
「だろ? ぜったいおかしいって」
 しかも視界オーバーレイ表示までそのまま残っている。つまりゲーム内の視界から今このネカフェのオブジェクト内に移動してきたとしか思えないのだ。
「ここって、もしかして……」
 さすがの友里も思い当たったかのように瞠目する。
「うん、現実《オフ》じゃなくなくねー?」
 動揺のせいか、時翔が三重否定ギャル語調だ。
「新エリアって……ネカフェステージだったの?」
 どストレートな解釈を表明する友里。
「いや、それもおかしいんだけどな、だって体はリアルに戻ってるし、どっちがどっちなんだかわけ分からんよ」
 ふと少女剣士、メイちゃんの方はと見てみると、待機状態のアクションを時折入れながらゲーム内そのままの状態で佇んでいる。
「おい、友里、ログアウトできるか?」
 はっとして友里もオーバーレイメニューを確認している。
「で、できない、ログアウトコマンドがグレーオフしちゃってるよ」
「ああ、俺のほうも同じだ。どうなってんだ一体……」
「ねえ、セルフモニタはポップする?」
「だめだな、こっちも機能しない」
 SMDデバイスにはワールドカメラからの画像情報を取り込んで、現在SMDを使用している本人と周辺状況を、アプリ中からチェックする機能が搭載されている。
 当然のことながらSMD本体にもGセンサーや近接震動センサーなどのセキュリティ上の安全装置は付いているが、それでも現実世界の肉体の状況が気になるのは人情というものである。
 そういうわけで、ほとんどのVRアプリは、ユーティリティーとして自分モニタ用、つまり自分撮りカメラの画像ウインドウをポップさせて、ゲーム中でもリアルタイムにチェックできるようになっているのだ。
 しかしその機能も今や無効となっていた。
「うーむ……ということは……」
 何とか理屈に合う仮説を頭の中で組み立てようとする時翔。しかし友里は居ても立ってもいられなくなったのかブースの扉を開け、外に出ようとしている。
「待てって、友里、どう考えてもここはゲーム内だと考える方がつじつまが合う、おかしい点は三つだ、アバターがリアルの姿になってること、ステージがなぜか現実世界に似せたモデリングになっていること、なぜかログアウトできないってことの三つだ」
「う、うん、そんだけ整理してもらえるとわかりやすいよ」
 友里は少し落ち着きを取り戻したように時翔の方に向き直った。
「でも、でもさあ、それでも……やっぱおかしいよ、ぜったいおかしい……」
 ゆらりと友里が時翔に近づく。
「ゆ、友里……」
 そうだ、おかしい、決定的に……ある意味恐怖にも似た感覚が胸元からせり上がってくるのを時翔も抑えようがなかった。
 だけど確認しなければならない。
 そこは……いや、そこだけは。
「ねえ……」
 意を決したかのように友里が毅然とした表情で時翔にまた一歩近づく。
 友里が時翔の左腕をぱしと掴んだ。
 まっすぐに時翔を見つめる真摯な瞳がそこにあった。
 そして友里は言う。
「私の胸……触ってみて」
 そう言うと、ぎゅっと目を閉じて顔を横に向け、胸を思い切り反らせるポーズで時翔の行動を待っている。
 友里の頬はゆであがったように真っ赤に染まっている。
 時翔に逆らう理由はなかった。
 右手をゆっくりと持ち上げる。
「…………んっ」
「Bカップ……」
 時翔の掌にすっぽり収まるこのサイズは、そう判断せざるを得なかった。
 いや、そこじゃない、サイズなんてものは見た目で一目瞭然なのだ。問題はそこではない。
 当たり判定が存在する。
 そう、それは実験、検証、確認のための作業だったのだ。
 そして念のためではあるが、おっぱいスライダーの効力も失われている。
 それを同時に、なおかつ瞬時に確認するのに最も手っ取り早い方法、それがこの行為だったのだ。
 他意はない。あらゆる意味において。
 まあ、見た目の話で言えば、ゲーム内での時翔のキャラも身長や顔かたち以外はまるっきりリアルと違っているわけで、そこは見ただけでわかることなのだが。
 それでも、モデリングの変更がなされているだけなのであればありえない話でもない。
 だから友里は時翔の腕を掴むことで当たり判定の有無を確認し、次いで時翔の確認を求めるために自分を触らせたのだ。
 リアルともっともかけ離れた部位である、そこ≠。
 友里が顔を真っ赤に染め上げたまま時翔に訊く。
「ど、どうだった?」
「うん、リアルだった」
 額から冷や汗を垂らしながらようやくそう告げる時翔。
「間違いなく本物だ」
「いや――いやいやいや、その感想はおかしいっしょ、トッキーが私の胸なんて触ったことないじゃん」
 言われるまでもなく、時翔にとっても図らずもファーストタッチをこんなところで経験するとは思いもよらない出来事だった。
「言っとくけど、私はリアルだなんて認めないよ! 私のファーストBがこんなわけわかんないシチュエーションだなんて認められるわけがないよ! 親にも触られたことないのに!」
「そうなのか……悪かった」
「いや、今の笑うトコなんですけど」
 眉間にシワを寄せ、半眼になった友里の手に160トンと刻印された巨大なハンマーが出現する。
 直後、時翔の頭上に振り下ろされた。

 06

「エフェクタまで使えるとなると……」
「うん、当たり判定はあるけど、やっぱこれオンラインなんだよね……」
 一通りお約束とも言えるスラップスティックなやりとりを終えた後、冷静に現状を確認し合う二人だった。
「とりあえず、このネカフェステージとやらを探索してみようぜ」
 そう告げた時翔に対して友里の反応が妙だった。
 変に体をよじらせ、もじもじしている。
「その前に……」
 友里がそわそわしながら言う。
「なんだよ?」
「行きたいかも……」
「どこに?」
「だから……」
「?」
「お、お花摘み……」
「花畑なんてないぞ――って、おい友里!」
 こらえ切れなくなった友里がブースを飛びだし、トイレに駆け込んだ。
 しばらくしてトイレから出てきた友里は落ち着きを取り戻してはいたが、別の意味で青ざめていた。
「これがオンラインなんだったら……私、リアルでは悲惨なことになってるよね、きっと……」
「う、そう言われれば……」
 現実ではツインシートに二人並んで腰掛けているはずなのだ。恐ろしい光景が時翔の脳裏に去来する。
「じゃ、俺も行ってくるよ、トイレ」
「えっ? なんでそうなるのよ!」
 何とち狂ってんの? と言わんばかりの表情だ。
「おあいこだろ、それに、おまえにだけ恥をかかせるわけにはいかないさ」
 爽やかなイケメンボイスがネカフェの廊下に響き渡る。
「さらに悲惨さが増すだけなんじゃ……」
 友里がこの世の終わりだよ、とでも言いたげに目を剥く。
「いや、実は俺も行きてえんだよ、さっきから……」
「は、はは、そっか、そうだよね……し、しかたないかもね……」
 もはや諦念混じりではあったが、さすがにそこは合意を示す友里だった。
「ち、ちなみに小さい方……だよね? いくらなんでも……」
 そのファイナルアンサーには返答せずに時翔は男子トイレに消えていった。
 一人残される友里。顔色を失い、ぐらりと足下が揺らぐ。
「は・る・ま・げ……」
 どん、と両手両膝を床につけ、うなだれる友里だった。

 しかし、トイレから出てきた時翔は意外なほど神妙な表情を見せる。
 時翔は言う。
「なあ、ここってやっぱオンラインじゃねえんじゃねえか?」
「なっなんで?」
「トイレが機能してるなんてありえないだろ?」
「そういえばそうだよね……」
 思い直したように友里も首肯する。
 空腹感と便意はゲームに没入しすぎないための安全装置だったはずだ。それをゲーム内で行えてしまったら、それすなわち廃人プレイ真っ逆さまになってしまう。
「もしかして……」
 はたと思い当たったように友里がつぶやく。
「私たち……もしかして死んじゃったのかも……きっとそうだよ、幽霊になっちゃったんだよ、ゲームやってる途中で……ひ、ひいいいい」
 さっきまでの混乱がぶり返すように巨大なウエーブで友里の思考を襲ったようだ。
 現実逃避かもしれないが。
「なんでそうなるんだよ! 落ち着けって、俺も友里もちゃんと足は付いてるだろ!」
 友里の肩に両手を乗せ、がくがくと揺さぶりながら、なだめすかすように言い聞かせる時翔。
「そ、そんな古典的ななぐさめじゃ納得できないよ」
「ふむ、それもそうだな」
 ある意味なんでもありのVR空間を日常的に受け入れて生きている現代人にとってはなんの説得力もないセリフだ。
 時翔もやや冷静さを失していたかと思い直した。
「とにかく、何かのシステムのバグでおかしなことになってるのだけは間違いないだろ、とにかくこの半分オンライン、半分リアルみたいな状況から抜ける道を探すしかないよ」
 自分に言い聞かせるように時翔が言う。メイが実体化した理由も難解な問題として残っているのだが。
「そ、そうだね……うん、さすがトッキーだよ、意外に頼りになるじゃん」
「よし、落ち着いたな、うん、じゃいいか? まずはこのネカフェから調べてみようぜ」
「わかった」

 慎重を期して、二人で廊下を歩き始める。
 少女剣士のメイもゲーム内と変わらず、後をついてきている。現実の無機質で殺風景なネットカフェの背景に中世ファンタジーRPGコスチュームの三人。
 その姿は第三者的視点から見ればあまりにもシュールな光景だったことだろう。
 だがしかし、その第三者は一向に見あたらない。
 どこもかしこも無人であった。
 ネカフェの廊下を進み、受付があるコミックコーナーを目指す。見慣れた光景のはずのネカフェの内部だが、どうにも作り物めいて違和感が拭いきれない。
 やはりここはVR空間なんじゃないだろうか、と思いを新たにする時翔だった。
「だれもいないな……」
「うん……でもだれかいたら、それはそれで恥ずかしいんだけどさ」
 あらためてお互いのコスチュームを確認し合う。
「ぷっ……」
「おい、今笑ったな」
「不可抗力だって」
 みひゃはは、と笑う友里。さすが本物の迫力《ウザさ》はすごい。
「客観的に見てどっちが恥ずかしいんだろうね」
「そりゃ、おまえの方だろ」
「変態紳士のコスプレに言われたくないよ」
「痛さで言えば友里の方が破壊力絶大だろうがよ」
 この手のコスチュームは基本細身でないと様にならないのは悲しい事実だ。
 二人して喃々と無益なディスリ合戦を繰り返すうち、受付カウンターのあるネカフェの出口に到着していた。
 ここは出入り口ということもあって、かなり広々としたスペースが設けられており、壁際には、コインゲームやクレーンゲームなどの時間つぶし用のマシンが数台並んでいる。レイアウトも特に変わっていることもなく、ただ人影が見あたらないことを除いては見慣れた風景であった。
 予想通り、カウンターにも店員どころか人っ子一人見あたらない。
「ここも無人だね……」
「うん、こりゃとてもリアルとは思えないな」
 この時間、客を一人も見かけないというのはありえないことだからだ。
「このまま外に出ていいのかな?」
 友里が存外に常識人な疑問を口にする。
 料金の支払いに関して言えば、定期を兼ねているID端末を機器にかざすだけで行えるのだが、無人のカウンターに置かれている装置が作動しているのかどうかも不明である。 
 ここで友里は意外な行動をとった。
 ピンポーン、と店員召還ボタンを押下したのだ。
「なにやってんの、おまえ!」
「え? いや一応、さあ、食い逃げかっこわるいし」
 そう言われてみればそんな気もする時翔だった。
 状況からして誰も出てくるとは思えなかったが、呼び出しボタンはちゃんと動作しているようであった。
 しかし、意外なことにバックヤードから応答の声が聞こえた。
「はーい、おまちくださーい」と、めんどくさげな声で。
「ええっ? だれかいるのか!?」
「NPCの店員さんかな?」
 意表をつくその応答に色めきたつ二人であった。
 数秒後、カウンターの奧から姿を見せたのは少年であった。
 おそらくは十歳にも満たない小学生くらいの男の子。
 ぴったりとした黒いボディスーツに身を包んでいる。
 デザインは華美な物ではないが、ぎりぎりRPGの世界観に沿っていると言えなくもない。
 近づくと同時にぴょこんとカウンターの上に飛び上がり、そこに佇立する。
 そしてその表情には年齢にはとても似つかわしくない、不敵な笑みが張り付いていた。
 少年は二人を代わる代わる見据えるとおとがいをあげ、お子様ボイスで口火を切った。
「とうとう、ここまでたどり着いたか!」
 と、傲岸不遜にふんぞり返っている。
 チビこいので、迫力は感じられないが。
「なっ、なんだおまえ!?」
 時翔が想定外すぎる登場人物に面食らって声を上げる。
 友里の方は言葉を失って口をぽかんと開けているだけだった。
 ふふん、と少年が一際不遜に笑う。
「そうだねえ、なんと言ってあげればいいのかな? なんと言ってあげるべきなんだろうねえ、こんな場面にぴったりのセリフ、決まり文句、そうだねえ――例えばこんな感じかな?」
 と、両手を広げ息をめいいっぱい吸った後、その体躯から発せられるであろう最大の音量で発声する。
「ゲンジツセカイへようこそ!」
 快哉を上げるように言い放ったあと、
「ってとこかな?」
 と付け加える。
 少年は両手を広げたままじろりと二人を睨んでいる。
 リアクション待ちなのは間違いない。
 時翔はごくりと生唾を飲み込んだ後、友里を横目で見やり、アイコンタクトを試みる。
 友里も時翔の目を見ながら複雑な表情を作っている。
 (NPCエネミー?)
 (いや、違うだろ、いくらなんでも)
 (ここでまさかのロールプレイヤー?)
 小声でひそひそとお互いの見解を披露しあう二人。
 埒があかないことを確認した時翔が恐る恐る質疑の言葉を発する。
「あの……ここってラスボス部屋みたいなとこってこと?」
 一応少年のセリフのニュアンスを尊重した質問をする。大人な対応だと我ながら思う時翔だった。
「ああ、なるほどねえ、そうだよね、そりゃもっともだ、いたしかたない、では単刀直入に言わせてもらうよ、ずばり、君たちにはここで料金を支払ってもらいたいのさ」
 少年は不遜な態度のまま、さらに意味不明なセリフを投げかけてきた。
 どう考えても会話が成り立っていない。いや、成り立つと思う方が間違っているのか?
「で、あのう、料金支払えばログアウトできるんでしょうか?」
 どう見ても普通じゃない相手だ。こういう場合低姿勢で臨むのが無難な対応というものだろう。時翔の短い人生経験からもそれくらいの答えは導き出せた。
 少年が時翔の言葉に応えてにたりと笑う。
「できるとも、ただし……リアル人生からのね――」
「なっ――」
 時翔は思わず愕然とした呼気の音を上げてしまう。
「僕が欲しいのはね、君たちの――心臓さ!」
 語尾の方は超然とした叫び声となっていた。
 その言葉が終わると同時に少年の右手から光弾が発射される。
 それはなんの前触れもなく。
 一直線に放たれたその光輝が時翔の体に直撃する。
「ぐっ――はあっ――」
 時翔のマントが焼けこげ、灰となって散り散りに舞い落ちた。
 だが、致命傷とはいえないダメージだ。時翔はとっさにオーバーレイ視界に浮かぶ自分のヒットポイントバーを確認してみる。それでも三分の一ほどが持って行かれていた。
 現実なのか仮想なのか、もはや判然としないこの状況でヒットポイント表示に絶対性があるのかどうかなぞ分からない。しかし敵がゲームシステム上の攻撃を仕掛けて来た以上、敗北条件はやはりそういうことなのだろう。
 今やエネミーである少年が怒気を露わにしてつぶやく。
「ふん、まあ、さすがに一撃で瞬殺というわけにもいかないんだね、どうやら、そういうわけかい、まったく、まったく、まったく――――ぬるい<Qームだぜ!!」
「トッキー!」
 友里が叫んだ。
「友里っ! 戦闘だっ! 呪文を――攻撃しろ!!」
 時翔が叫び声にも似た下知をとばす。
「あう――」
 友里は突然のことにパニクッている。慌ててクイックスペルブックに登録しているファイヤーボールの魔法を撃ち込むのが精一杯だった。
 友里の手から放たれた炎の玉が少年めがけて飛んでいく。
 が、それを少年は片手の掌をかざして受け止めた。そしてその掌はアイスシールドで覆われている。炎と氷が相殺し派手な水蒸気が少年の体を包み込んだ。
 だが、それも一瞬のことで、蒸気が霧散した後には微動だにしてもいない少年の姿が現れた。 
 ダメージなし。
 完全なリバーサル技だった。
 再び少年がにたりと笑う。ゆっくりと体勢を立て直すと余裕の所作で背中に右手をまわした。
「そうそう、そうだったねえ、そういうシステム、そういうスキルを競うゲームだったんだねえ、はは、めんどくさい、めんどくさい、めんどくさいよねえ、めんどくさいんで、こちらはエネミーとしてやらせてもらうよ――――手っ取り早く――ね!」
 ずばんっと、肩口から大剣が抜き出される。それは少年の身長よりも大振りなサイズであった。少年がその凶悪なファルチオンめいた大剣を振りかざし、カウンターを蹴って跳躍する。
 フォーカスされているのは魔法少女コスプレ女子高生――友里だ!
「きゃあああああああっ」
 友里は少年が自分に飛びかかってくるのだけは認知できはしたものの、完全にてんぱっていて、防御魔法や、回避スキルさえも使う余裕がない。
 頭を抱えてしゃがみ込んでしまっている。
 時翔は瞬時に発動するクイックスペルブックの攻撃魔法を連打するが、とても間に合わない。
 数瞬後に目の当たりにするであろう光景を確信した時翔は思わず目をつむってしまう。
 ――だめだ、やられる!
 覚悟を決めた次の瞬間だった、時翔の耳朶を弄するほどの鋭い金属音が鳴り響いた。
 ギャリィィィィィン――と。
 恐る恐る目を開いた時翔が見た光景は――友里の前に敢然と立ちふさがり、少年の大剣を片手剣で受け止めている少女剣士の姿だった。
「メイ!」
「な、なにっ!? ――こ、こいつ!!」
 思わぬ伏兵の登場に驚きを隠しきれない声音で少年が唸った。
 やや遅れて、時翔の放った魔法弾が少年の無防備な横っ腹に連続的に命中するが、そちらの方はさしたるダメージを与えているようには見えない。あらかじめ耐魔法防御のシールドを纏っていたのだろう。スパークエフェクトから察するに、シールドをすべて削る程度の効果しか与えていない。
 一方、火花を散らすつばぜり合いはまったく互角のまま、両者一歩も引く様子もなかった。
 体格的には二人とも同等ではあるが、振っている剣は重量、刃渡りとも圧倒的に少年が勝っているはずだ。現に押し合いのつばぜり合いではパワーは拮抗しているように見えた。
 ガツンッと押し合った両者の剣が反動で離れる。
 だがそこからの動きはメイのスピードが少年を凌駕していた。
 ただ単に剣の重量特性による物理的な速度と言うよりも、メイの動きその物が常軌を逸して速いのだ。
 しかもメイの剣はそれがあたかも体の延長であるかのごとく実にしなやかに動く。
 上、中、下段――少年がめちゃくちゃに振るうごつい大剣の動きを先んじて封じるように次々と受け流す。
 目にも止まらぬ動きのおかげで剣と剣の発する火花が残像を引きながら乱れ飛んでいる。
 しかし趨勢はじりじりと、そして確実にメイが少年を追い詰めつつあった。
 メイはその回転数に物を言わせ、時折大剣の隙をつくように盾による強烈なバッシュを入れる。
 その度に少年は、体ごと後方に仰け反らされていた。
 少年の顔が引きつるように歪む。あきらかに焦燥の色が濃い。
 対照的にメイの表情は怜悧だった。明鏡止水の表情のまま着実に剛の強撃を柔の回転で捌いていく。そのスピードにはいささかの衰えもない。時翔はそのあまりにも見事な剣捌きに支援魔法を入れることも忘れ見入ってしまっていた。
 今や少年の息が上がっている。
 少年は形勢を立て直すべく一気にバックステップで後方に飛んだ。
 いや、もはや引かされたという表現が正しいのだろう。
 食いしばった歯の隙間からぜいぜいと乱れた呼吸が漏れている。
 少年が呻くように漏らす。
「……おま、え……ま、さか……」
 それまで無表情だったメイの口角がにやりと上がる。
「おや、ようやくお気づきですか、ちょっと遅すぎますわ」
 慇懃な雰囲気ではあるが、底知れぬ冷ややかさが込められている。そんな口調だった。
 ――なんにしてもメイがしゃべっている! それもAIが使うテンプレートセリフじゃなく、そう、まるで、まるっきりプレイヤーのように!
「キサマ、まさか――時空警察!」
 強烈な渋面を見せながら少年が叫ぶ。
「……おや、そのような蔑称を口にされないでいただけますか?」
 メイは嘲弄するかのように口元に笑みを浮かべている。
「く、くそ、くそくそくそがああああああ」
 少年がネカフェの出口から外に飛び出した。
「逃げても無駄ですよ!」
 警告のセリフを言い放ったメイだったが、迷いのない敵の全力ダッシュに虚を突かれた形で、追走が一歩出遅れてしまう。
 メイが少年を追って表に出る。
 時翔も後を追って外に出た。
 街路にもまったく人影はみあたらなかった。時翔にとってもはやそれは想定内の光景ではあったのだが。
 少年は後ろも振り向かずに全力疾走している。すでに十メートルは距離を取られている。
 しかしメイのスピードは物理法則を完全に無視しているとしか思えなかった。ニトロ全開的なその加速ダッシュは、目で追うことさえも難しかった。
 メイがあっという間に少年の前に回り込み、行く手を阻むように立ちはだかる。
「あの、大人しく縛についていただけませんか?」
 息の乱れもなく、静かに諭すようにメイが言う。
「一応言っておきますが……あなたには弁護人、あるいはそれに準ずる弁護人工知能、弁護人工無脳、弁護bot、以下略――、これらの弁護を受ける権利と黙秘権が認められます。だから、大人しく投降してください」
「くっ、だれがっ、キサマ達なんぞに……」
「まだ抵抗するつもりですか。無理ですよ、私どものペースメーカーはあなたの十倍以上の物理速度を持っていますから」
「やはり……調停者《アービター》か、くっこっこの犬がっ!」
 言いながら少年の右手がフリック動作を見せる、何かを企んでいた。
 そう、多分このゲームならではのシステム戦略を。
「あのスペルは……」
 そのプリエフェクトには見覚えのある時翔が思わず漏らす。
 少年の右手からブラウンに光るエフェクトがほとばしりメイの体を包み込んだ。
「きゃっ、なに? これは……」
「ふ、ふはは、実に初歩的なスペルさ、発動に時間が掛かるのが欠点だがな、スネアスペル、歩行速度ダウンの魔法だよ!」
 少年はしてやったりの表情で註解する。
 メイは明らかに油断していた、圧倒的な速度に物を言わせ余裕を見せすぎていのだ。
「や、なんで、重い、足が……」
 メイは全力で歩を進めようとするが、まとわりつくブラウンのオーラにはまるで粘度があるように、その動作を完全に封殺している。
「ふ、ざまあねえな、ではごきげんよう、あんたと丁々発止しても勝ち目がないのは承知したんでね、ひとまず戦略的撤退とさせてもらうよ」
「く、そんな……」
「あばよ」
 少年はくるりとメイを迂回して逃げ去る体勢に入った。
 と、その時、かすかな声が響いた。
「ルート!」 
 少年の背後、遙か後ろから飛来した小さな光輝が背中に命中する。
 バシっ! と。
「なに!?」

 彼らが対峙する車道に設置された信号が、車影もない交差点の進路指示を変えていた。
 振り向いた少年の目に映ったのはぼろぼろのマントを身にまとい、スペルを放った直後のモーションを取るスキンヘッド男子高校生の姿だった。
 見る間に少年の足下の地面が割れ、数本の触手めいた緑色の茎が伸びる。そしてあっという間にその足にがっちりと絡みついた。
「な、なんだこりゃ!」
 少年の足はがんじがらめにされた茎で微動だにもできなくなっていた。
 時翔がゆっくりと数メートルの距離まで近づく。
 街路灯に照らされた時翔の顔に仄かな微苦笑が浮かび上がった。
「足止め《ルート》スペル。初歩の初歩スペルですよ?」
 時翔が嗜虐的に響き渡る声で告げる。
 そして再びの静寂。
 ………………
 …………
 ……

 ――万里を睥睨する黒き王よ我が求めに応じ爆炎の裁きの下に我らが敵に滅びを与えん――

 地を這うような詠唱の声が――なのにどこか蠱惑的な響きを伴って静かに流れる。
 それは時翔の背後に立っていた友里の長大な呪文詠唱だった。

 そして彼女が言う。決めセリフを――
「どいて兄さん、そいつ殺せない」
 僅かに苦笑しつつ時翔が黙って体を横にずらす。
 白とピンク、レースをあしらったティアードスカートの女子高生が、両手の掌をまっすぐ前にかざし、屹立していた。
 はあぁぁぁ、と、友里が大きく息を吸い込む。
 友里の体を中心にして巨大な熱波が円を描くように取り囲む。
 ビル街が真昼の陽光を受けているかのごとく照り輝いていた。
 友里の体からは金色のオーラが沸き立ち、燃え上がる。
 かざした掌には生き物のように幾筋にも踊り狂う炎の粒子が次々と収束していく。
 直後、友里の絶叫が――劫火渦巻くバックドラフト確実の扉をぶち破った。


「ドゥラァゴオオオォォォォォゥン!! ――フレアアアアアァァァァァァァ!!」








 第二章 アービターとイグナイター

 01

 夜の街路。
 時翔《ときかけ》にとっては見慣れているはずの光景、しかしこの光景は明らかに現実離れしていた。
 街路灯は点灯し、ビルの窓には明かりが漏れているが、なぜか信号機や交通インフォメーションパネルは消灯したままであり、その機能を果たしていない。
 そして時翔達以外に動くものは何もなかった。車も人も、ネコの子一匹見あたらない。
 辺りはただ静寂が支配し、時翔と友里の足音だけがビルの壁にこだましている。
 二人は車道の真ん中に仰臥している少年の元にたどり着く。目を閉じ、ぴくりとも動いていない。
 友里の放った火炎放射は少年の体を申し分なくバーベキューにしていたが、そこはゲーム内のエフェクトということなのか、服や髪は焼けこげ、顔も煤だらけではあるものの、せいぜいそこまでであり、陰惨でリアルなダメージ表現はされていない。もしもあれがリアルな炎であったなら、少年の体は文字通り消し炭になっていたことだろう。
 少年の傍らには少女剣士メイが、膝立ちで覆い被さるようにしてその体を検分していた。
 そしてそのコスチュームは露出度の高い申し訳程度のプロテクター、いわゆるビキニアーマーというヤツだ。おまけに長い金髪のポニーテールは腰の辺りまで達している。
 彼女は倒したモンスターの金品を拾得《ルート》するかのように少年のボディチェックをしていたが、やがてズボンのポケットから四角い金属製のカード型ケースを取り出した。
 ケースを開き、中身を確認している。少女剣士はそこでようやくホッとしたように息を吐き、再びケースを閉じた。
 対する時翔の方もそのコスチュームは特異と言わざるを得ない。黒衣のマントの裾は戦闘によるダメージで半分焼け落ちているが、ゆったりとした衣の裾が地面にこするほど長くたなびいているし、なによりスキンヘッドが有無を言わさぬインパクトを与えている。そして友里の方はレースをあしらったメイド服のようなひらひらドレスに、スカーレットレッドの長髪というド派手な出で立ちである。
 時翔が少女剣士の視線に促されるように声を掛ける。
「あの……」
「はい。もう大丈夫、終わりました。ご協力、感謝いたします――ご主人」
 時翔に向かってにっこり笑いかけると、パッパッと膝の汚れを払いながら立ち上がる。
 身長は友里よりも頭一つ低く見える。時翔も友里もコスチュームはともかく、顔とスタイルについてはまごうことなき東洋人であるのに対して、少女剣士の方は金髪に碧眼と、どう見ても日本の市街には溶け込みそうもないキャラクターである。そしてその顔はあどけなさを残してはいるが、西洋人的な造詣を差し引いてみても十二、三歳の年頃に見える。
「ご主人……って、俺のこと……?」
 そのあまりにも違和感のある代名詞に戸惑う時翔。
「あ、すいません。ついクセで……えっと、あああさん……でしたね」
 はっとしたように目を泳がせ、申し訳なさそうに二の句を繋ぐ少女剣士さん。
「はあ、いや、もちろん……そうだけど」
 自分であああ[#「あああ」に傍点]と名乗っている以上、そこは了承するしかない時翔だった。
 ゲーム内でアバターネームが第一義に優先されるかどうかは個人の主義主張、プレイスタイルによって様々ではあるが、あえて時翔のアバターネームである〈あああ〉ではなく、代名詞を使うところからすると、少女剣士は明らかにロールプレイヤーではありえないということだろう。そしてもちろんNPC《ノンプレイヤーキャラ》でもありえない。
「もうこの際だし、時翔でいいけど……リアルネームの。で、こっちは友里ね、もう分かってると思うけど」
「む? なんで自分だけ下の名前?」
 と、不満げに友里。
「ん、いいじゃないか、呼びやすいし」
 ――今さら言うほどのことでもないし。とも思う時翔。
「そうですか、では時翔さん、いろいろとお聞きになりたいことはおありでしょうが……」
 相変わらず少女剣士は見た目の年齢にそぐわない落ち着いた口調だ。無論これがあくまでアバターだとするならば、中身はおっさんだという可能性もないわけではないのだが。
 一呼吸置いて、時翔は当惑しながらもごく自然な質問をぶつける。
「あんた、って……GMさん?」
 GM――ゲームマスターの略だが、この場合はもちろんシナリオ担当というわけではない。GMとはMMO-RPGにおいては通常、メンテナンスやトラブル解決を担当するメンバーのことを指す。多くの場合、メーカーの雇われスタッフだ。見た目はゲーム上のキャラクターと区別は付きにくいが、ゲーム内ではユーザープレイヤーでは行使できない超越した能力と権限を持っている。
「そうですね、そのようなものとお考えください」
「じゃ、こいつはチーターかハッカーってとこ?」
 時翔は、足下に横たわる少年に目を向けながら言う。チーターとは、いわゆるチートツール使用などで不正行為を働く悪質プレイヤーのことだ。
「そう――なります。争乱の元ですから」
 なぜか言い澱みながらも、少女剣士GMは、そう――言った。
 ここで今まで黙っていた友里が一歩進み出る。
「ちょ、待ってよ、じゃ何? このエリアもこいつが作ったっての?」
 意外に鋭い疑問だな、と思う時翔。
「あ、いえ……それはちょっとした手違いで……」
 少女剣士はもごもごと口を濁している。
「なーんか……変なんだよねー、ねえ――メイちゃん?」
 と、あごをさすりつつ横目を向けながら言う友里。友里はあくまでメイちゃん扱いをやめないつもりだ。
「あのさあ、今って、ホントにオンラインなわけ?」
「えっ、ええ、もちろんそうですっ」
 そう言いながらも、どこかキョドっているメイちゃん。
「そもそもこんな大仕掛けする意味がわかんないんだよねー。だってただのPK《プレイヤーキル》にこんなウィザード級のハッキングする必要があるとは思えないんですけど?」
 友里がコンセンサスを求めるかのようにチラリと時翔の方に目を向ける。
「んー、確かにそうだな、俺たちなんてまだ新米《ニュービー》で大した装備も金も持ってないし……」
「だしょ? 大げさすぎるよ」
 実際その辺りは時翔も同意だった。冷静に考えれば疑問はまだまだ沸いてくる。
「地形をリアル市街地に差し替えるってとこまでは、なんとなくふざけ半分で驚かせようってならわかるけどさ……なんでプレイヤーアバターまでモデリング変更する必要があるの?」
 容赦なく問いつめる友里。
「そ、それは、多分……セキュリティカメラの映像をスキャンして、その……」
「不自然だよ……メイちゃん」
 メイの言葉にかぶせるように不気味なほど迫力のある声音で迫る友里。
「えっ、いや、そんなこと……」
 体の前で両手をわたわたと振りながら冷や汗を垂らすメイちゃん。
「なーんかウソ吐《つ》いてるよね?」
 半眼になった友里がじわりと追い打ちを掛ける。
「いえ、いいえ、ウソなんて……」
 メイちゃんは苦しげに身もだえを続けている。
 ふーん、と、一息唸った後、友里はフッと目を逸らし、遠くに視線を移す。
「悲しいよ、メイちゃん……」
 と、吐露《とろ》するようにつぶやく。
「いつからそんな子になっちゃったんだよ」
「い、いつからと言われましても……」
「あの二人で過ごした熱い時を忘れちゃったの?」
「えっ、あ、あわわ、あれは友里さんが、その――無理矢理……」
「へえ、抵抗しなかったのに?」
 友里は再び少女剣士の方に向き直り目をすがめながら言う。
 ――おいおい、俺がいない間にどんなすごいことやってたんだ。と寒気を覚えてしまう時翔。
「そ、それは……天井の染みを数えている間に終わるから――と言いくるめられて……」
 言い終えて、ポッと頬を染めながら横を向いてしまう少女剣士。
「生娘を手込めにする放蕩若旦那かよ、おまえは……」
 思わず友里にツッコミを入れてしまう時翔。
 ――つーかメイの中身おっさんだったらどうするんだ?
 まあそれは今がオンラインであればの前提だが。
 しかし友里は追求の手を緩めなかった。
「さっき、こいつにハーフビターとか呼ばれてたよね?」
 倒れている少年を指さしながら友里が少女剣士に詰問する。
 そうだっけ? と記憶を辿る時翔。
 しかし友里の鋭い指摘にぴくりと彼女の肩が震えた。
 単語はちょっぴりずれていたが、なんらかの核心を捕らえた問いだったのは間違いない。
 改めて友里が少女剣士を射抜くように見据る。
「あんた、何者なの?」
 友里の言葉に少女剣士はゆっくりとこちらに向き直る。
 そして、僅かにトーンを落とした声音で漏らした。
「あの……なにも聞かずにオンラインということで納得していただけませんか?」
 少女剣士の科白はここに来て、もうどこか開き直った響きを伴っている。
「納得できないね!」
 腕組みの体勢になった友里がきっぱりと言い切る。
「どうしてもですか?」
「どうしても、だね」
 あくまで決然と言い切る友里。
「なぜ、そこまで……」
 一歩も譲らない友里の勢いに少女剣士は困惑した表情だ。
「決まってるよ! オンかオフか、私の人間としての尊厳が掛かってるんだから――当然だよ!」
 ――ふむ、多分あの件だよな……と、なんとなく合点がいった時翔だった。
 例のトイレの一件だろうことは間違いない。
 確かにやばい、あれは。
 もしこれがオンラインなら、クリーニング代を請求してもいいかもしれない。誰にかはよくわからないが。
 激高気味の友里は勢いに乗ってなおも喝破する。
「これがオンラインで、ログアウトして、目をさました瞬間に店員さんに囲まれてたら――人生終わりだよ?」
 友里の想像力は時翔のそれを遙かに凌駕していた。
 それはまあ、そうだろう……一応女子高生だし。
 と、認識を新たにする時翔。
 一方、友里は空恐ろしい想像を増長させている。
「……その瞬間から私のあだ名はお漏らし友里に決定なんだよ? ……ふふ、へへ……」
 もう泣き笑いの表情になりながら友里が自嘲する。
「いや……それならまだましな方かもね……もっと最悪だと……」
 友里はブルブルと震えながら考え得る最悪の想定に辿りつたようだ。
「ヘタしたら……ネカフェのブースでニャンニャンする、貧乏バカップルのそしりを受けちゃうかも……」
「おい! ニャンニャンって何だよ!? なんか怖すぎるんですけど!」
 思わず叫んだ時翔だったが、それでも断然今がオフライン説に賛成したい気持ちでいっぱいになっていた。
「そうですか……わかりました。そうまでおっしゃるなら……」
 友里の牢固とした主張の前に少女剣士が観念したように目を伏せた。
「場所、変えましょう。寒くなってきましたし」
 静かに告げると少女剣士は二人の横をすり抜け、先刻飛びだしたネカフェの方角へ歩を進める。
「ちょっと! メイ――ちゃん?」
 彼女の意図は掴めないが、静かな迫力に逆らいきれず、友里も時翔も後を追う。
 後ろを振り返りもせずにずんずんと歩を進める少女剣士。
「ね、ねえっ! あいつはどうすんの!?」
 友里がはたと気が付いたようにその背中に声を掛ける。
 あいつ――少年は道の真ん中に横たわったまま取り残されている。
 少女剣士が顔だけでちらりと振り向き、吐き捨てるように言う。
「それはご心配なく。除去《パージ》班がすぐ片づけますから」
「……ぱーじ?」
 目を瞬たかしてオウム返しする友里。だが少女剣士はそんな友里を歯牙にも掛けずに歩みを進め、ネカフェの入り口をくぐる。
 慌てて後を追う友里。時翔もその後を追う。

 02

 ネカフェの内部は相変わらずの無人だった。廊下を進み、元々二人がゲームをしていたブースまでたどり着くと少女剣士は扉を押し開き、先に立って中に入った。
「さあ、座ってください、そこに」
 カップルシートの前に立った少女剣士が二人に向き直り、指示するように告げる。
 二人は訝りながらも、渋々シートに腰を下ろした。
 何が始まるというのだろうか。
 ここまで戻ってきたからには、何かしらの意味があるのだろうが、思案を巡らせど時翔には予想も付かなかった。
 そして諭すように少女剣士は低く囁いた。
「そこはお二人が座っていた場所です」
「そうだけど……だから?」
 少女剣士のあどけない顔を渋面で見上げながら友里が切り返す。
「分かりませんか? つまり――今なら、まだ戻れるのですよ」
 怜悧な表情のままで、まるで通告するかのような少女剣士。
 友里と時翔はお互いの顔を見合わせ、彼女のセリフの意味を吟味する。
「戻るって、ログアウトするってこと?」
 時翔が釈然としないままに訊ねる。
「そうです」
「ふーん、やっぱり、ここってオンラインなんだ」
 腕組みし、片目を瞑った友里が苦々し気に吐き出す。
「そうだとも言えますし、そうではないとも言えます」
「なにそれ? 結局どっちなわけ?」
「あなた方をこれ以上巻き込みたくないのです。ええ、もちろんここまで巻き込んでしまったのは私の責任ですし、申し訳ないとは思っています。でも――だからこそこのまま忘れていただきたいのです」
「はあ? その言い方だと結局オフラインってことになるんじゃないの? ねえトッキー」
「う、そうだな……」
 確かにその通りだ。時翔も同意するしかない。
「仕方がありませんね……」
 どうあっても納得しない様子の友里に観念したかのように目を伏せる少女剣士だった。
「いいからもう、とっととゲロっちゃってよ」
 汚いな――そんなにお漏らし友里になるのが嫌なのか?
 ある意味尊敬にも似た気持ちが芽生える。
「私らを巻き込んだって言うんなら聴く権利はあるよね? ね、メイちゃん」
 念を押すかのような友里のプレッシャーだ。
「ふう……分かりました、お話します……」
 そう言いながらもまだ躊躇が伺える重い口調だ。
「でも……何からお話すべきなのか……」
「と、とりあえず、あんたのことから話してよ、まずはそっからでしょ?」
「そうですか……では……」
 と口にしたものの、少女剣士は視線を横に向け思案している。
 沈黙が重い。
 やがて二人を交互に見つめ、さらに間を設ける。
 彼女の神妙さがさらに増す。
 固唾を飲んで少女剣士の言葉を待つ友里と時翔。
 やがて、少女剣士はおもむうに述懐を開始した。
「私は二十七年前、この世に生を受けました。二千五百グラムの玉のような赤ん坊だったそうです――」
「そ、そこからなんだ……」
 口と目を両方同時に丸くして言う友里。
「っていうか、二十七歳なんすか?」
 時翔の方は実年齢? にツッコむ。
 しかも、実年齢二十七歳というのを鵜呑みにしたわけではないが、微妙に丁寧口調になってしまっていた。
 しかし彼女の落ち着いたもの言いを顧みれば不思議ではない実年齢だとも言える。とするならば、やはり少女の外見はアバターに他ならないということになる。どうも話が見えてこない。今ここはオンラインではないという前提で話を聴く心づもりになっていた時翔もまたまた混乱しそうになっていた。
「メイちゃん、あんた、まじめに話す気あんの?」
 と、切れ気味の友里。しかし気持ちは分かる。
「すみません、でも必要なのです、ここからお話しすることが……」
「う……そうなんだ……じゃ続けてよ、もう、いいから」
 いたって神妙な口調の少女剣士に茶々入れを諦める友里。
「それでは……えーと……お二人とも、新生児接種《ファーストアダプション》はご存じですよね?」
「あ、アダプ……ション? そ、そんなことぐらい知ってるよ、宇宙人に誘拐されることでしょ」
「それはアブダクションだな」
 時翔が冷静にツッコむ。
「え? え? それじゃあ何? 知ってるのトッキー」
「んん……ああ、あれだろ、保健体育で習ったじゃないか、ユビキタスなんとかプログラム? だったっけ?」
「そう、UHP(Ubiquitous Harvesting Program)のことです。そのUHPの一環として新生児は分け隔てなく受けるように義務化されているのです」
 時翔の脳裏に保健体育の教科書のイラストがぼんやりと再生される。
 静脈に注入される連結型ナノマシンとしては最大級のガジェット。それはまるで数十本の触手を持つメカニカルな節足動物めいたイラストと記憶している。それは血管を通って最終的には心臓の内部、心室に定着後、活性化する。
「トッキーって保健体育キングだったんだ……」
 正確無比なマシンのように友里がボケる。
「おい……無理矢理そんなところに食いつくんじゃない。赤点クイーンのくせに」
 野生の咆哮のごとき時翔のツッコミスキルが受けて立つ。
「そんな女王様聞いたことないよ!」
 国語のおかげで赤点グランドスラムを逸した友里が虚しい抵抗を試みていた。
「あの……お二人とも、まじめに聴く気はあるのでしょうか……」
 片眉をひくつかせながら少女剣士が訴える。
「あ、すんません、この人は一分以上ボケなしの会話が続くと窒息する体質の持ち主なんです」
「そう……ですか、それはお気の毒です」
 と、今度は慈愛にも似た表情で言う少女剣士。
「ちょっと! 私のことを泳いでないと溺れるサメみたいに言わないでよ!」
 そう、呼吸するようにボケる。サメではないにしても友里の前世はきっとマグロかカツオというところだろう。
「でも、アダプションって、ずいぶん前から普通にやってるよなあ……それと何の関係が?」
 憤慨する友里は無視して話を進める時翔。
 新生児接種《ファーストアダプション》――当然ながら時翔も友里もそのご多分には漏れているはずもなく、今さら説明されるまでもない当たり前の社会制度というイメージしか沸いてこない。
「はい、もちろんそれは国民の審議と吟味の末に採択されたシステムなのです。三十年前に」
「三十年か……そんなに昔なんだ、もう……」
「そう――ですね、新生児に対して完全義務化されたのは二十年前ですが、今では世界の半数以上の国々で採用されています。それだけ社会平和に有用なシステムだということが認められたということです」
「ふうん、って言うかあんただって生まれる前から決まってる普通の決まり事なんだから何も不思議なことなんてないんじゃないの?」
 シートに深く腰掛け、足を組んだ体勢で零す友里。それがどうした? と言わんばかりだ。
「もちろん……その通りです。ただ……」
「ただ……?」
「ええ、ただ一般にはあまり認知されないままでバージョンアップされている機能があるのです」
「機能? ジェネレータ機能とか、モニタリング機能とか以外に?」
 時翔が教科書受け売り通りの知識をぶつける。
「そう、本来UHPの趣旨はエネルギー問題の解決を前提に推し進められたものでした。――バイオロジカル・エネルギー・ハーベスト――人体そのものに発電機《ジェネレータ》を埋設《インプラント》してしまう。個人差はありますが、現在最新のアダプターが発生し、高周波送電できる電力は、安静時で一時間に数百ミリワットを達成するまでになりました」
「ふーん……あっそ……ま、そんなことぐらいは知ってるよ、でもそれが一番大事な機能なんでしょ? なんか昔の人は携帯とかノーパソをいちいち家で充電しながら使ってたらしいけど?」
 組んだ自分の足に肘を乗せ、頬杖を付いた友里がローテーションで合いの手を入れる。
「はい、UHPの標榜する理想はいわゆる地産地消、エネルギーの自給自足を極限まで進めることでした。その結果、発電所の数は減り、温室効果ガスの発生も激減し、化石燃料はほとんどその用途を石油製品の生産と一部の旧型ジェット機の燃料にのみ使用できるようになったのです」
 弁舌爽やかに、まるで社会見学に訪れた先のコンパニオンのごとく説明を並べ立てる少女剣士。
「ま、時すでに遅しって感じだけどね」
 対して苦々しげに言い散らす友里。
 これが社会見学なら、真っ先に引率の先生にたしなめられることだろう。
 つまみ出されても文句は言えない。
「いえ、危機的状況にあった海面上昇をなんとか食い止めることが出来たのですから、大きな成果だったのです」
「じゃ、もっと早くやればよかったんじゃないの?」
「は、はあ……でも、ですね……最初は結構反対意見も根強かったのですよ」
「なんで? 宗教的理由とか?」
「いえ……そういうわけではなく……たぶん、管理社会への反発とか……改造人間反対、とか……」
「はあん? 分かんないけど、そんなこと言ってたら、入れ歯もズラも、つけ爪もできなくなるんじゃないの?」
「そりゃちょっと意味が違うだろ?」
 時翔が脱線しそうになる話を元に戻す。
 基本、女性というのは順応力が高い。時翔には当時の物議が妥当なものとして想像できないこともなかったが、友里はそんなことは微塵も思わないようだ。
「ともかく、当初はそういう反対意見も根強かったのです。ですからアダプションを受ける受けないは本人の自由意志に委ねられていたのですが、アダプション費用はもとより、年間単位で政府から助成金が受けられることに加えて、余剰電力を電力会社に買い取らせることで、さらに経済的利益が得られるとなって、徐々にアダプター装着派が世の趨勢となっていったのです。そして装着した人は当然自分の子供にもアダプションを受けさせることは当然の流れだったというわけです。なにしろアダプターのもう一つの機能、身体モニタリング機能は我が子の健康管理と行動管理に絶大な効果を発揮するものでしたから」
「子供の管理……かあ、親心ってやつかなあ?」
 幼少期であれば健康管理、長じては行動管理、世の親ならばこれほど渡りに船の便利な機能はないとも言えるだろう。時翔にもそれくらいは想像できた。
「もちろん、本人の健康管理にも大きなメリットをもたらしてくれました。体重管理と運動不足に神経を遣わなくとも済むようになったわけですから」
「それ! 実はそれだけはなーんか納得いかないんだよね。だって喰って寝てるだけで小銭が稼げるとか……おまけに太りもしないしさ」
 友里がまたどうでもいいところに食いつく。
「はい、体脂肪率オートキャリブレーションは常に理想体重になるように余剰カロリーを電力に変換してくれますから。アダプションを受けた人は肥満による生活習慣病から解放されるという魅力的な特典が漏れなく付いてくるのです。特に女性にはこの上もない魅力的な機能だったのです。ただ、世のダイエット産業や、健康機器業界からは強い反発があったのも確かですが」
 確かに今の時代、肥満児もメタボリックも最早死語となっていた。もちろん申請すれば脂肪キャリブレーション値を平均から変更して自分の好みにセットすることも自由であるのでスポーツ選手や、仕事柄の制約上で体格を標準以外に変えることも自由なのだ。もちろんそれも身体モニタリング機能のおかげで危険が及ぶ前にアラートが上がるため、事故は皆無であった。アダプションとは、個人それぞれが選任の栄養士を従事させている状態と言っても過言ではないのだという。これも保健体育と社会公民の授業で講義を受けた内容だった。
 ただし過剰な管理社会に対する危惧は長らく討論の的となっていたのも確かで、プライバシーとのトレードオフに値する利便性が本当に得られるか否かについての結論は早々には出なかった。 
 しかし無線生体認証《BxRFID》を駆使した高度なセキュリティ管理による犯罪率の激減、社会インフラの利用者負担における徹底的な公平化は誰もが納得しないわけにもいかず、戸籍イコール、アダプションというシステムを世の中が受け入れるまでにさほどの年月は掛からなかったのだ。
「ふう……で? 社会科の講義は終わり? 分かったからさぁ、結局アダプションの秘密ってなんなのさ」
 いい加減しびれを切らした友里がぞんざいに催促する。
「はい、アダプターが最終的に拡張を受けた機能、それが知覚神経系への割込みです」
「しん……けい?」
 眉をひそめながら聞き返す友里。
「そうです、この機能は当初、高度医療用途に限定して利用が認可されました。採用当初は身体の局部麻酔の代換えとして使用を限定していたのですが、やがては全身麻酔にまで利用されるまでになったのです」
「えええ? そんなことできんの?」
「神経系のインパルスをアクティブに打ち消すことで、脳への知覚情報を遮断するのです。そして最終的には脳の活動そのものを一時的に休止させることもできることが確認されたのです」
「休止……? ええ? 体の感覚をマヒさせる? でもそれって体だけでしょ? 脳が普通に活動してるのに神経をマヒさせて全身麻酔になるなんておかしいんじゃ……」
 時翔がありったけの知識を動員した疑問をぶつける。
「いえ、それは違うのです。脳神経研究が未熟だった時代、神経は脳から伸びたしっぽのようなものだと考えられていました。でも実際は逆なのです。脳は脊髄神経の末端にぶら下がる付属物に過ぎないのです。言うならばそれは単なる格納庫《ストレージ》なのです。ですから神経系に無感覚状態を創り出せば、脳で処理される情報にもブランクが挿入される。それを人間は知覚することはできないのです」
「う、うーん……で、割込ってなんかいやな予感が――」
「はい、もちろん、割込《インタラプト》とくれば、次は分岐《ブランチ》ですから」
 至極当然といった論調で時翔の言葉にインタラプトが入る。
「人の神経系の伝達速度は早くても100メートルパーセク程度、時間分解能は0.005秒を超えることはできないのです。解明されている限り脊椎動物としても、時間利用効率はかなり劣悪な生物なのは否定できない事実なのです。時間は有限な資源ですから、最大限有効に活用する必要があります。そこでアダプターの神経利用時間のコントロール機能を利用することで時間を効率的に分轄使用する方法が考案されました。時間リソースのシェア、つまりシーケンシャルにタスクスケジュールをプログラムすることで各個人に世界を別個に認識させることが可能となったのです」
「は、あ、いや、ちょっと付いて行けないです。シーケンシャルって、そんなバイトのシフトじゃあるまいし……」
 時翔がくらくらするこめかみを押さえながら言う。
「いえ、概念的にはそれで合っています。もう少し身近な例で例えるならば……そう、テーブルゲーム、オセロや将棋などですね、これらのゲームはお互いに交代で一手ごとに動けるルールですよね。ですが、コンピュータを使用したリアルタイム戦略ゲームでは各人同時に動いているように見えます。でも実際にはそうではありません。ただ単に順番に処理するターンが人間の知覚を超えた速度で行われているだけのことなのです」
「じゃ、時分割って、昼夜交替制とかの意味じゃなく……?」
「交代制と言えばそうなります。ただし、同じ時間、同じリソースを共有して利用するために、その交代の時間がごく短い時間――ナノセカンドオーダーで行われているということです。ですから形としてはほぼ同時に存在し、生活を共にしていると言えるでしょう。互いに干渉することなく」
「ええ? でも、そんなの、コンピュータのプログラムだからできるかもしれないけど、現実の時間で動いてる世界を…… え、え、そんな……どういうこと?」
 完全に混乱する時翔。
 ここで少女剣士は自分の胸に手を当てるポーズになり一呼吸置いた。
 そして静かに開示する。
 世界の秘密を――おごそかに。

 03

「GUTC(Global Universal Coordinated Time)が稼働を始めたのは同じく三十年前。それはイッテルビウム光格子時計の実用化と、OFDMの技術を光偏向に応用することで、量子情報の伝達をタイムラグなしに伝えることのできる量子テレポテーション継手《カプラ》を急速に普及させ、量子インターネット、今で言うキュビネットをローコストで世界中に敷設させることを可能にしました。つまり、世界は一つの絶対的な基準クロックを獲得したのです。GUTCという。そしてこの時からアダプターは新たな機能を与えられたのです。そう……ペースメーカー[#「ペースメーカー」に傍点]としての」
「ペース……メーカー? 心臓にペースメーカー、なぜか……違和感がない――ような……」
 時翔が呆然とつぶやく。
「そして私たちはこのペースメーカーで時分割された時空間を共有して利用する社会システムに暮らすことになりました。いわゆる時分割同伴世界《TDMW》に」
「同伴……って、そんな……パラレルワールドじゃあるまいし」
「そうですね、厳密に言えば本当の並行世界の概念には当てはまりません。あくまで世界は一つしかないのですから。ただ、その社会インフラやリソースを共有《シェア》して生活することを可能にしただけなのです。ただし時分割されて割り当てられた時間を生きている人々には互いを認識することができないだけで――」
「はあ? それって……学校で教わる普通の……常識なんですか? ぜんっぜん、知らなかったんですけど!」
「もちろん、施行当初は周知徹底が図られました。しかし、それはあくまで社会インフォメーションに限定された使用を目的にしていたからです。社会インフラの時分割利用のための。そして時が過ぎ、やがて人々は見えない隣人について興味を失っていったのです。まるで隣の家の住人が顔も知らない存在になってしまうかのように」
「そんな……でも、時分割って、そもそも……なんのために?」
 時翔の問いに少女剣士は視線をはずすと、遠くを見つめるような表情になった。
 そして噛みしめるように言葉を紡ぐ。
「人間は……人類は増えすぎたからです。この地球上に……。今世紀初頭、人口問題は人類の喉元に突きつけられた致死の匕首でした。二酸化炭素の排出量は減ることもなく、海面は上昇し、多くの大都市が放棄を余儀無くされました。食料は払底し、そしてエネルギーは枯渇していました。このままでは文明を維持することさえままならないのは火を見るより明らかだったのです。それでも――それは分かっていても人口のコントロールはこの上もない難題だったのです。だから……人々は愚かな歴史を繰り返す寸前まで追い詰められていました。殺人、テロ、そして戦争……しかしぎりぎりのところで――水際でそれを回避してきました。そして人類の英知が導き出した最も平和的な解決策、それがリソースの時分割利用だったのです。それこそが、ある時期のアダプター機能拡張が可能にした機能、分割された存在そのものをマスキングすることでした。つまり、同じ世界に生活する隣人を人々は感覚意識の外に追いやることを受け入れてしまったのです……いえ、選んだのです」
「いや、いや、ちょっと、無理でしょ、そもそも……現実時間を分割なんて、デジタルデータじゃあるまいし……」
 ふう……と。時翔の反論に少女剣士が一息間を設ける。
「数学で微分積分は習いましたか?」
「え? あ、まあ、一応は……」
 脈絡のないその質問に虚を突かれた感を覚えながらも時翔が返答する。
「では、教科書の微分積分の序章にこんなことが書かれていませんでしたか? 飛んでいる矢は止まっている、と」
「ん、いえ、憶えがない、かも……」
「では、アキレスと亀の競争でしょうか」
「あ、それは、なんとなく……うさぎと亀みたいな変な話……でもアキレスってギリシャ神話の英雄でしたっけ?」
「そうです、これはどちらもゼノンのパラドックスという古典的な論理で、矢の方は――飛んでいる矢のどの時点を切り取っても矢は静止している。だから矢は止まっているのだ――という理論と、アキレスは亀に追いつくことができない、なぜならばアキレスが亀の地点に到達した時点で亀は僅かに先に進んでしまうから――というものです。ええ、これは常識的に考えれば詭弁としか思えない理屈です。でもこのお話はある重要な真理を示唆してくれているのです。つまり時間をどんどん短く分割していくと、もうそれ以上短くできなくなる限界が存在する、ということです。時間は途切れなく完全なアナログデータとして流れているのではなく最小の単位、粒子が存在するのだということを。だからこそ、完全に同期《シンクロ》のとれたチューニングが可能なのです。意識世界にも」
 相変わらず長口舌を淀みなく語る少女剣士。ここまで来ると、もはや世の理を説き聞かせる高僧のごとき威厳が感じられる。
「チューニング……、シンクロ……、時間って、そんな都合の良いものだったんだ……」
 と、その時。
「ぐ、う、う……」
 時翔の隣に座っている友里の口からうめき声が漏れる。
「どうした、友里?」
 見ると、友里は顔面蒼白状態だ。
 頭を抱えた姿勢となって、苦しそうに悶えている。
「い、痛い……頭が、割れるように痛いよ……兄さん……」
 息も絶え絶えに訴える友里。
「友里! しっかりしろ! 何か思い出しそうなのか?」
「ど、どうしたのですか……友里――さん? はっ! まさか酸素欠乏症にかかって!」
 長大な解説モードに没頭していた少女剣士だったが、我に返ったように友里の状態に驚く。
 しかしながら、今や友里の最大の理解者である時翔は冷静だった。
「いや、大丈夫です、友里の頭がオーバーヒート起こしただけですから。っていうかなんでおまえは俺のことをいちいち兄さん役にするんだ?」
「はあ……はあ……ここはどこで私は誰なの?」
「そこまで悪化したのか」
 そう言うと時翔はそっと友里の頭に手を乗せる。ちなみに髪の毛は赤髪ロングのままである。
 しかし、友里はその手を乱暴にパッと振り払った。
 そして、グイッと少女剣士を睨み付ける。
「メイちゃん、いいかげんにしてよ! 数学0点の私をディスってんの?」
「ひうっ……」
 と、友里の捨て身の個人情報漏洩攻撃に吃驚《きっきょう》する少女剣士。
「い、いえ、そんなつもりは毛頭……」
 いや、まあ自業自得なんだけどね――と聞こえないようにひとりごちる時翔。
「テストの点数がすべてじゃないですし……」
「ふんっ、同情するなら単位をくれっ、だよ。悪いけど数学なんかで説明されても、なんの説得力もないから」
「あ――う、そ、そう言われましても……」
「私は数学なんて分数の割り算以来、金輪際信用できないんだよね」
「分数の割り算って……それ、数学てか、算数なんじゃないのか?」
 一応ツッコんでおく時翔。それにさっきの微分積分の話だってどちらかと言えば哲学の話なんじゃないのだろうか、とも思う時翔だった。
「そもそもさあ、分母と分子をひっくり返すとか、無茶じゃん。ひっくり返しちゃだめでしょ? なにそれ? ちゃぶ台返し? みたいな」
 ――なるほど、それはなんとなく同意できる気はする。結果的に正解を導く一番手っ取り早い方法だったとしても、実際はそこに至る明確な理屈が存在するわけで、それを一足とばしにしてしまうと、後はもう単に受け入れられるか、受け入れられないかの問題になってしまう。そしてそれは往々にして人生の価値観に明暗をつける岐路となりえるのだという。友里は明らかに失敗例だろうが。
「とにかく、間怠っこしいにも程があるんですけど!」
「す、すみません……」
「メイちゃん、あんた、話が下手だよ」
「そ、そうで……しょうか……」
 と、どもりまくりの少女剣士だった。先ほどまでの一瀉千里な語り口調は影も形もなくなっている。
「そ、大体私は嫌いなんだよ、そういうの。なんていうの? 延々と続く探偵小説の解決編とか、三塁からホームに走るだけで一話分使う野球アニメとか――SF小説の考証説明とか!」
 ――うーむ、いろいろ否定してはいけないことを否定してしまっている気がする。と、思わずにはいられない時翔。
 しかし、友里は言いたいことを言って溜飲が下がったのか、やや落ち着いたトーンに戻って言う。
「ふう、もういいよ、もういいから、とりあえずここまでは大体理解したことにしておくから、そのかわりここからは手短にやってよ」
 ――なんと! 理解したことにしておくんだ……友里も今なら分数の割り算も受け入れられるんじゃないのか?
 そう思いながらも実のところ時翔としても友里に共感する気持ちも少なからずあった。
 正直――なるほど、わからん――状態なのは時翔も同じなのだ。
 一つだけ言えるとしたら、ここまでの少女剣士の解説はとっくの昔に時翔の常識の範囲を逸脱しているということだろう。
 だけど……それは違うのかもしれない。どんな制度も法規も時を経て当たり前になって、いつしかそれがしきたりやならわしになってしまえば、誰もなんの疑問も感じなくなるんじゃないだろうか。
 時翔にとってのアダプションのように……。
 時翔がそんな感慨にふけっていると友里の要求に対して思案に暮れる雰囲気だった少女剣士が、おずおずとした上目使いで口を開いた。
「手短と言いますと……」
「とにかく――前置きはここまでとして、メイちゃんの正体と、私らのこの格好の理由と、あの子の正体だよ」
「そ、そんなにいっぺんにですか!」
「とりあえず、まとめて三行で説明してよ」
 ずばっと自分の顔の前で指を三本立てるポーズをとる友里。
「さ、三行ですか!?」
 バランスというものを完全に無視した友里の要求だ。
「やっぱ無理? んー……じゃ、ガンダムで例えるとか?」
「おい、ハードル上がってるだろそれ。そもそも何をどう例えるんだ?」
 ――いや、さっきのメイの酸素欠乏症ってのがサブリミナル的に効いてるのかも……
 墓穴を掘ったのか? メイちゃん。
「兵隊さんの位《くらい》で例えてくれてもいいよ」
「……」
 まあ、なんというか、いろいろと友里の趣味趣向が伺い知れておもしろい。
 などとツッコミを入れるのも忘れて感慨にふける時翔だったが、そんな時翔を気にも留めることもなく、二人の質疑応答は続いていく。
「ま、それは冗談として、わかった、じゃ、一問一答でいかせてもらうよ」
 ついに友里が一方的に宣言する。だけどそこまで怒らなくてもいいんじゃないか、とも思う時翔であった。
「わかりました。できる範囲で簡潔にお答えします」
 意外にも観念したように少女剣士が言う。
「じゃ、メイちゃん、あんたの本名は?」
「そ、それは……本名は明かせません。ですが正式にはアービター340号ということになっています……」
「は? なにそれ? 恒点観測員?」
 なんじゃそりゃ? ……うーむ、わかった振りをしていた方が良いのだろうか……時翔はここまで来ると自分のツッコミスキルではカバーできそうにないのを感じていた。
「い、いえ、光の国から来たわけではないんですが……」
「わかった、じゃあ、あんたのことはこれから、ただの風来坊と呼ぶけど、OK?」
 ――どっから出てきたんだ? 風来坊。だれか教えて欲しい。
「そ、それは勘弁してください。えっと……その、あの、一応コールサインは持っています」
「コールサイン? コードネームじゃなくて?」
「です、です」
「じゃ、それでいいから教えてよ」
「はい、えっと、あの……ドン亀……です」
 なぜか、かわいらしく頬を染めながら言うドン亀さん。
「どんがめぇ?」
「はい、訓練生時代に教官から頂いたニックネームなのです」
「な、なんか、ひどくない?」
 と、若干引き気味の友里。しかし亀とは言っても神話の英雄にも追い抜くことができない亀もいるぐらいだから、侮ることはできない。とはいえ、まだしも風来坊の方がましなのでは? とも思う時翔だった。
「いえ、あの……訓練生としては、劣等生でしたので、教官からいつもドジでのろまな亀と言われ続けていまして……それがそのまま定着してしまったのです」
「ドジでのろまな亀……略してドン亀……あんた、いじめ受けてたの?」
「い、いえっ、そういうわけではないのです。教官はとても熱心で尊敬できる方でした。ですからこの名前にも誇りを持っているのです」
「ふーん……」
 と言いつつ、ゆっくりシートから立ち上がる友里。こうして間近で相対するとさすがに友里の方が上背はある。
 しかも友里は腰に手を当て、なぜか尊大な態度で少女剣士を見下ろしている。
 そして重々しく言う。
「では、改めてよろしく、ドン亀さん」
「はいっ!」
 と、即答する少女剣士。
「よし、いい返事だ松本」
「まっ、松本じゃありません」
 もはや阿吽の呼吸を思わせるやりとりだ。
 ――ところで誰? 松本って?
 なんだかさっきから一人取り残された気分だったりする。友里の理解者だという自負が揺らぎそうである。この二人、存外気が合うんじゃないのか? お互いキャパシティが高いだけかもしれないが……。
 あるいはノリが良いだけなのか。
 などと仄かな疎外感までもが芽生えるのを感じる時翔だった。
「じゃあ二つ目の質問にいくよ」
「あ、はい」
 時翔の寂寥感をよそに話は進んでいく。
 というか、ドン亀さんがなんの訓練生だったのかは気にならないのか? と思いつつも、次の質問は時翔にとっても一番気になっている疑問だった。
 友里はずばり問う。
「私らがこの格好になってる理由だよ」
「そ、そうですね……」
 メイ――もとい、ドン亀さんは少し考えた後、下を向く。
「では、失礼して」
 と言いながら、おもむうに剣の柄に手を掛ける。
 それは自分が腰に差している少女剣士としての基本装備、片手剣、ショートソードだ。
 そのままゆっくりと刀身を鞘から引き抜く。ネカフェのブースが一瞬で緊迫した空気に包まれた。
 ギラリ、と抜き身の刀身が二人の目の前で威圧的に光っている。
「う、なにするつもり」
 友里がひるみながらも声をあげた。
「論より証拠をお見せしましょう」
 少女剣士が刀身をひらめかせ、ゆっくりと体の前に移動させる。
 そのままやおらに――剣先を友里の顔の前に突きつけた。
 びしっ――と。

 04

「ちょ! やめてよ!」
 友里は必死に剣先から逃れようとシートに身を縮ませる。
「なっ、何するんだ!」
 時翔も叫ぶ。
 だがドン亀さんは二人の動揺など意に介さず、微笑を浮かべながら告げる。
「大丈夫、触ってみてください」
 にこやかに友里を見下ろす少女剣士ドン亀さん(二十七歳)だった。
「触るって……剣に?」
 無言でうなずく少女剣士。
 双眸を細めて訝る友里。
 友里が恐る恐る――刀身をどかすように横向きに手をあてがう。
 そしてスカッとその手が刀身をすり抜けた。
「え? これって!」
「当たり判定が――ない!?」
 時翔も目を見張って叫ぶ。
「って、これってもしかして!」
「はい、そうです。つまり拡張現実《AR》ということです」
 友里の体に剣をぶすぶすと抜き差しながら、気持ち良さそうに言うドン亀さんだった。
 拡張現実《AR》――今この状態がVRゲームのオンラインでないのだとすれば、そこから導き出される答えとしては理にかなっている。そもそも今の時代、AR自体は巷にあふれかえっていると言っても過言ではない。単眼バイザー式、あるいはハーフミラー式の透過型視界オーバーレイグラスは各社から様々な商品がラインナップされ、それぞれのキャリアごとに利便性を謳った百花繚乱状態とも言える。
 翻って考えてみれば、そもそも時翔も友里の視界にもゲーム中と同じオーバーレイメニューがインポーズされたままなのだ。だとすればやはりこれは何らかの方法でCGによる視界オーバーレイが追加された状態と考えるしかない。しかしVRゲームの視界を得るための必須アイテムのはずであるSMD《スマート・マウント・ディスプレイ》はもとより、AR視界を得るためのいかなるディスプレイデバイスさえも装着していないのだ。
 ――だとすれば。
 時翔がそこに思考をたどり着かせると同時にドン亀さんが言明する。
「アダプターによる視界コントロールは疑似視界を脳にインポーズすることができるのです。そしてこれこそが時分割同伴世界《TDMW》構築の要諦なのです」
 視覚神経の乗っ取り、それはいわばインプラントされた透過型ディスプレイということなのか。
 だとすると、今こうして見えている風景のどこまでが現実の風景でどこからが仮想の風景――つまりCGなのか判別がつかない。しかもそれを時分割して同じ場所に生活している人間さえも不可視の存在にしてしまうなどという、どう考えても信じがたい、まさに夢物語としか思えないことを言ってのけたのだ、この目の前の少女剣士――ドン亀さんは。
 ここまでくるともはや友里のことを揶揄する余裕もなく、時翔でさえもその理解力はもはやオーバーフロー状態であった。
 ――いやしかし……でもそれならば……
「ということはつまり、俺たち自身の体は生身の体で、この服や髪形や装備品はARで……」
「そうです」
「でも……でもドン亀さんはその剣を使って実際に戦っていた――つまり、当り判定があったんじゃ……」
 時翔が当座の疑問をぶつける。
「そう、当たり判定はあります。エネミー属性に対しては」
「エネミー……って、それ……ゲームの……ルール?」
 ゲーム設定。
 世界を統べるシステムルール。
 つまり、ドン亀さんが今手にしているショートソードは、このゲーム――いわゆるCOOPゲームであるソーサラーズにおいては無効となるフレンドリーファイヤーに相当するというわけか。確かにそれならば味方の武器や攻撃魔法は当たり判定がないのは当然だろう。と、ひとまず強制的に自分を納得させる時翔だった。
「はい、システムはそのまま引き継がれますから」
「引き継がれる――って…… どこからどこに?」
 もはや飽和した思考のままに合いの手を入れる時翔。
「その……お二人がログインしていたネットゲームから、ここ――つまり現実世界のチバラギシティに――です」
 呆然とする二人に向かってドン亀さんは続ける。
「視界のオーバーレイは今のところ完全ではないのです。完全視界型のマウントディスプレイが創り出すフルワールドグラフィックほどは視覚をカバー出来ません。せいぜい透過型ディスプレイ程度の補助的グラフィックを視覚に追加するのが精一杯なのです。そしてあなた方がゲーム中にくぐったエリア境界はゲーム内からリアルワールドへ誘い込むためのポータルだったのです」
「ポータル……ってあの山の洞窟……」
 自失のままに時翔がつぶやく。
「はい、彼が創り出したトラップだったのです」
 もちろん彼女の言う彼とは、さっきの少年のことだろう。
「彼は私の担当エリアで検知された争乱者《イグナイター》なのです。私は彼を追っていたのですが、ポータルをどこに設置したのかが不明だったのです。なので、仕方なく彼の仕掛けた罠に引っかかる人を待っていました――あの村の酒場で。彼が仕掛けた罠、つまりBBSの書き込みにあった種まき爺さんの意味を解する人を待っていたのです」
 少女剣士の語り口調が再び調子を取り戻している。にわかには信じがたいながらも、一通りの顛末は謹聴するべきかもしれない。と、時翔は思う。
 思うが……
 しかし――
「それって、おとり捜査じゃん!」
 またもや友里の斜め上四十五度付近からのツッコミが炸裂する。
「あうっ」
 と再びカウンターを喰らったかのごとく萎縮するドン亀さんだった。
 しかしながらさっきのドン亀さんの話に出てきた練習生、あるいは教官――一応時翔も予想していたことではあったが、ドン亀さんはなんらかの捜査員であろうことは友里も思い当たっていたと言えるだろう。
「いえ……その……一応認められているのです……組織では……」
 と、テンパったように言い訳めいたことを言うドン亀さん。
 なにはともあれ、組織――アービターと自称するドン亀さんが所属しているなんらかの組織。
 その点については未だ説明は受けていない……今のところ謎のままだと言える。
 だが、
「げっ! 謎の組織でたあ!」
 と、友里が大げさに叫ぶ。
 うーむ、わざとらしくないか? さすがに。
 そして、またまた話が長くなるだけなんじゃないのか? と今さらな老婆心がわき起こる時翔だった。
 だがしかし、時翔は思い出していた、彼、先ほどの少年が少女剣士に向かって投げつけたセリフを。
 そう――彼は言った、確かに。
「時空警察……?」
 時翔がその名称を口から零す――と。
「はうっ、そ、それは、通称なのです。正しくは社団法人時分割空間警備保証監察局、なのです」
 ノータイムでドン亀さんが反応した。
「いや、いいんじゃないの? それなら、縮めても……」
 偽らざる気持ちで言う時翔。
「いえっ、そこは職務に就く人間としては譲れません。それに、そんな略し方をしてしまうとタイムマシンに乗ってやってきた未来警察と勘違いされかねませんし――」
「ええっ!」と、またまた大げさに驚く友里。
「じゃ、じゃあトッキーのキラキラネームは伏線じゃなかったってこと?」
 と、ミステリーの犯人が主人公の探偵だったかのごとくの理不尽を訴える。
「おい友里、おまえそれ、今思いついただろ」
「それって時空の因果律に対する反逆だよ」
「あくまで人の話を聞かないつもりなんだな」
 ――だいたいキラキラネームで悪かったな。それと俺の命名に関しては親がSF好きだっただけのことだ。と、今にも焼き切れそうになる堪忍袋ストラップを、脳内ガンジス川の水で強制冷却する時翔だった。
「で? ドンちゃんはその時空警察の捜査員ってわけ?」
 時翔が隣で発散する特濃の瘴気は一顧だにもせず、友里が次のコーナーへと話を移す。
「は、はい、一応……」
 ――あれ? 認めちゃった。通称で。なぜか友里に対して弱腰なのは相変わらずである。
 しかも、ドンちゃんって……それも認めるのか……。
 と思いつつも、友里の押しの強さは時翔も認めるところではあるのだが。
 って言うか、基本ドンちゃんでOKなのだろうか。
 ホントに?
 わたしのドンと呼ばせてもらっていいのだろうか。と、今度は謎のノスタルジーに苛まれる時翔。
 それにしても……、
「社団法人って、それって、民間警察? みたいな?」
 時翔も幾分訝しげに問う。
「ええと、秘密警察でしょうか、どっちかというと」
 えへ、となぜか照れ気味に答えるドンちゃん。
「うさんくさっ」
 と、友里。
「ひうっ」
 と、ドンちゃん。
 んー、なんか飽きてきたな、このパターン。と思ってしまう時翔だった。
「それじゃあさあ、なんか身分証明書みたいなの見せてよ」
 ここでなぜか友里が常識人めいた要求を口にする。さすがに空気を読んだのかもしれない。
「身分証明書……ですか」
「まさか、持ってないの?」
 じとり、と、半眼になった友里が横目を向ける。
「ええと、その……紙媒体ではないのですが」
 もじもじするドン亀さん。
 ためらいながらも彼女は腰に下げていた袋から白いプラスティック製のリモコンのようなものを取り出した。
 それは彼女の少女剣士のコスチュームからはかなり異質な雰囲気の質感と形状であったが、それであればこそ、リアルなアイテムである証明なのだともとれる。
 そしてその形状はよくよく見れば、端的に言って――古くさい携帯ゲーム機のように見えた。
「身分証明になるかどうかは分かりませんが、職務権限で行使可能な範囲で証拠をお見せしましょう」
 そう言うと彼女は両手でそのプラ製ガジェットを胸の辺りで構えた。
 その持ち方から想像するに、どうやらこれはなんらかのコントローラであるらしい。
 ドン亀さんはまず右側に付いているスイッチをスライドさせる。
 へろーん、と起動音めいたサウンドが流れた。
 見ると、裏側には何かシールのようなものが張ってある。
 そこには、
[時空トレーナー]
[時空警察備品]
[無許可持ち出し禁止]
 と、黒いゴシック体の文字が緑色のテープにデカデカと印字してある。
 ――つーか、使ってるし、その略称。
 思わず脳内ツッコミする時翔。
 しかし友里の方はまったく別の部分で感銘を受けていた。
「ドンちゃん、テプラ使えるんだ……」
「えっ? あ、はい、一応……なにかと便利ですし」
「私は無理、さっぱり分かんなくて」
 まあ、確かにあれは古くさくて分かりにくい操作体系ではある。時翔は学校の備品の中にあったそのクラシカルな機械のたたずまいを思い出していた。それでも、大きく変わることなく、しっかり受け継がれているところはもはや伝統芸能と言ってもいいかもしれない。
 などと、畢竟、どうでもいい話だが……。いや、時空警察のスポンサーがキングジム社という線もある……、いや、ないか。
「それでは、お二人のペースメーカーの設定を少々変更させていただきます」
 丁寧な口調ではあるが、その意味するところはとんでもないことなのは予測がつく。
「なっ、何するわけ?」
「お二人のペースメーカーの同期を別領域《 レイヤー》に移動《シフト》します。あ、今ここは彼のポータルのせいで移動させられた予約《リザーブ》領域なのですが、彼のコントローラは確保しましたから、大丈夫なのです」
 一体何が大丈夫になって、何が大丈夫でなかったのかも不明ではあるが、それはこの先起きることで理解できるということなのだろう。
 ドン亀さんは両手で持ったコントローラを親指で操作している風だ。
「では……上上下下左右左右BA――と」
「は? なにそれ? 中国語?」
 と、友里がツッコむ間もなく驚くべき変化が起きる。
「あ、あれ……制服!」
 友里も時翔もお互いの姿を、次いで自分の着衣を確認する。
 二人ともがファンタジーRPGの衣装から、元の高校生の制服に戻っていたのだ。
 コスチュームだけでなくヘアスタイルも友里はスカーレトレッドの長髪から茶髪ボブカットに、時翔の方はスキンヘッドから伸び気味のフェザーショートに戻っている。
「はあ、なつかしい……この感触」
 友里も時翔も自分の服の裾を引っ張ったり髪の毛を撫で回したりして、しばらくぶりの感触を確かめていた。
 だがふとドン亀さんの方を見てみると、彼女だけは相変わらず少女剣士の姿のままで変化はなく、先ほどと同じポーズでコントローラを手にしたまま佇んでいる。
「む、ドンちゃんはなんでそのままなの?」
 友里が不平を滲ませながらドン亀さんを質す。
「はい、職務権限です」
 にっこりと微笑みながら、きっぱりと言い切るドン亀さん。
「えー、なんか、つまらないなあ、芸がないっつーか?」
「そ、そうでしょうか」
 背筋をぴんと伸ばしながらドン亀さんが反応する。
「そうだよ、せめて名前に合わせて甲羅とか背負ったコスチュームになるとかさあ。ついでにアロハとサングラスも」
「はっ! なるほどです、そこまで気が回りませんでした」
「ま、いいけどさあ……むー、もしかして、それがそのまま本物のドンちゃんだったりして……ってそれはないか……さすがに」
 首をひねりながら、疑い深げにつぶやく友里。
「お、おい、友里」
「ん? どしたの?」
 時翔がネカフェのブースの壁を指さしていた。
「壁が……」
「え? あれ? 何これ!?」
 自分のコスチュームの変化に気を取られていた二人だったが、ふと周りを見回して改めて大きな変化に気づく。
 変化したのは二人のコスチュームだけではなかった。
 ネカフェのブース――その壁紙が真っ白に変化しているのだ。
 いや、壁紙どころか、見回してみると床も、天井も、今までと色が変わっている。床は無地のPタイルそのままなのはともかくとして、天井の鉄板は赤錆たような無骨な色となっていた。
 一言でいえば、廃墟――あるいは建築途中の内装が施されていない状態という形容がしっくり来るだろうか。
「どうなってんの!?」
 友里も今さらながらあっけにとられていた。
 二人の様子を見たドン亀さんが落ち着き払った声で解説を加える。
「驚かれましたか? このレイヤーではARによるテクスチャ情報はオーバーレイされません。よく見てください、つまり――これが現実なのです」
「現実……」
 なぜだかつい先刻も聞いたような気がするフレーズに猜疑心しか湧いてこない二人であったが、お構いなしにドン亀さんは続ける。
「ここはいわゆるメンテナンスレイヤーなのですが、ここも予約領域ですから当然無人です――今のお二人にとっては」
 呆然と立ち尽くす二人は、今や白茶けた風景をきょろきょろと見回すのみとなっていた。
 ここで突然、友里がはたと思い当たったように言う。
「ま、まさか手抜き背景の言い訳じゃないよね?」
「え? あの……ちょっと意味が分かりません……けど」
 盛大に気勢をそがれた感を露わにしながら、ドン亀さんが脱力ぎみに漏らす。
 そして友里の方はなぜか人差し指をこめかみに当てて、なにやら思案している。
「ん? あ、そっか」
 と、ぱん、と両手を合わせると思い直したように、すげなく言う。
「ごめん、今のは忘れて」
 おい、ボケ逃げかよ……
 無責任な所業ではあるが、ここはさらりと流すべきだとなぜか思う時翔だった。
「そ、それでは、お二人とも外に出てみませんか」
 気を取り直すようにドン亀さんがそう言うと先に立って廊下を進んで行く。

 05

 再び後を追う友里と時翔。歩きながら辺りを見回すと、廊下の壁も真っ白でやはり内装らしいものは施されていない。
 それどころか、壁に貼り付けてあったはずの新作ゲームの宣伝ポスターや案内板さえもどこにも見当たらなかった。
 しかし、よく見ると壁の端面や床の一定間隔にはバーコードとおぼしきマーカーが印刷されている。どうやらAR情報のオーバーレイに関しては古式ゆかしい方法も併用されているようだ。
 先ほどの出入り口方面のコミックコーナーに着くとドン亀さんは振り返り、周りを見回しながら言う。
「さあ、よく見てくださいここに収まっている書籍の数々を」
 見回すまでもなく、本棚に並んでいるのはタイトルさえも書かれていない真っ白な背表紙のみである。時翔が手近の一冊を本棚から取り出す。中を開いて見るが、どのページを捲ってもすべて白紙であった。
「お解りになりますか、それらはただのスクリーンなのです。ただ背表紙に内蔵のIDタグに対応したテクスチャを投影するための」
「ええ、まあ……なんとなく解ってきました」
 時翔が幾分冷静に答える。
 つまるところペーパーレスではなくインクレスということなんだろう。白紙のページに投影されるのは、この本を手にした人間が受信したAR情報、つまり活字や写真のデータなのだ。いや、絵や写真はともかく、活字の方はおそらくフォントの一括ダウンロードによるテキストデータというところなのかもしれない。その辺は昔からある電子媒体書籍の応用だろうことも想像がつく。そして当然のことながら何も印刷されていないページはコンテンツの入れ替えに伴って廃棄されることもないわけで、その意味においても紙資源の節約としては相当なものとなるに違いない。
 壁紙にしても内装のペンキにしても塗り替える必要もないのならば実に省資源となることだろう。 
 これが究極のエコロジーということなのだろうか。
 などといかにも小市民的な思考に陥っている時翔だった。
 していると、ぱさりと乾いた音に我に返る時翔。それは友里が投げ捨てた雑誌が足下に落ちる音であった。やはりその雑誌も表紙は真っ白である。確認するまでもなく中身も自由画帳状態なのは間違いない。友里はまた別の本を取り出してぱらぱらとページを捲っていたが、本を手にしたまま動きを止め、深いため息をつく。
「なに? なに? なんなのこれ! 私らってだまされてたわけ? ――AR詐欺だったわけ?」
 ドン亀さんが友里に歩み寄り、床に投げ捨てられた雑誌をゆっくりと拾い上げた。そしてその白い表紙をそっと指で撫でる。
「いえ、そうではありません。これらはユーザーインターフェイスとしての、正常進化形なのです」
 キッと、友里がドン亀さんの方に向き直る。 
「はあ? 白紙の本にお金払わされてるのに?」
 と、まるで消費者団体代表者のごとく食ってかかる。
 しかしドン亀さんは静かに、その碧眼にどこか憂いを感じさせる色を滲ませながら囁く。
「そうですね……そのお気持ちはわかります。……でも、本当にコストパフォーマンスレシオだけを純粋に追求するならば、実のところ電子媒体に勝るメディアはないのです。大衆娯楽として日々消費され更新されていく……こうしたコンテンツはそれこそダウンロードメディアで気楽に閲覧するのに最適だと思われていました。実際、紙媒体の発行部数は数十年前から下げ止まり状態で、早晩消滅することも不思議なことではないと誰もが思っていたのです。でも、それでも完全に消滅することがなかったのは、やはりこのインターフェイスに愛着があったからです。本棚から本を取り出し、表紙を開き、ページをめくる。それは有史以来、人類が伝え、築き上げてきた由緒正しい文明活動の形なのですから」
 でも――とドン亀さんがさらに付け加える。
「最近はもう完全AR型のオブジェクトが増えてきているので、こうしたテクスチャ式の媒体はすでに高級でレガシィな部類になりつつあるのです」
「高級……ってまさか……」
 時翔が茫洋とつぶやく。
「はい、定期アダプションでバージョンアップされてきた最新型アダプターでは知覚系のスループットが飛躍的に向上していますから、この類のオブジェクトはかなりフルARに移行しつつあるのです」
「定期アダプションって……毎年一回受けてる……あれか」
「そうです、それでも流体系の触感情報の再現は難しいので、液体――例えばプールや温泉などのAR化はほとんど進んでいません」
「そんなもん進まなくていいよ!」
 友里が憤懣やるかたないといった表情で口を挟む。
「いや……ちょっと待ってもらえますか、ドン亀さん……こんなこと……世の中の人は誰も不思議に思わずに、その、普通に生活してるんですか、みんな……」
「そう――ですね、実際少し前まではAR使用製品には必ず表示義務があったのですが、それも次第になくなっていったのです。いわゆる大人の事情ということで」
「大人の事情って……」
「AR率の多寡はそのまま価格に直結しますから――ARオブジェクトはイニシャルコストは高いのですが、一度製品化してしまえば量産には原材料を必要としないぶん破格の値段で供給が可能なのです。――価格が安ければ多少のことには目を瞑る。あえて詮索をしない。この世の常です。それが大人の事情というものです」
「そんな、いくら値段が安いからって、実体もないのに……」
「いえ、実体はあります。ソフトウエアとしての。支払われる対価はライセンス使用料、いわゆるカスタマー契約料なのですから」
「どうでもいいよ! そんなこと!」
 かんしゃくを起こした友里が手にしていた本をまた投げ捨てた。
 だがしかし、その光景を目にした時翔が驚きの声を上げる。
「え? なんだ、これ」
 投げ捨てられた本の軌跡、その落下運動がやけにスローモーなのだ。まるでスローモーションを見ているかのような緩慢な動き。見た目はそこそこ厚みのある本にしか見えないのに、それがまるでぺら紙のようにふわふわした動きで落下していく。
 ふと思い立ち、時翔も自分が手にしていた本を手から離し、落としてみる。
 遅い……どう見ても遅すぎる。まるで水の中を沈んでいくように高度を下げていく本。手元から床に落ちるまでに軽く五秒ぐらいは掛かっているように見える。
 もう一度拾い上げて落としてみる。やはり同じだった。
「これ……なんで?」
 時翔が気味悪そうにつぶやく。
「遅く……見えますか? やはり」
 時翔の不審げな様子に気づいたドン亀さんが言う。
「当たり前でしょ? これ……どう見たっておかしいですって」
「そうですね、慣れるまではその感覚が普通だと思います」
「慣れるって……何に?」
 時翔が恐る恐る訪ねる。それはおそらくまた、とんでもない回答が返ってくることを予想してのことだった。
 そしてドン亀さんが言う。
「加速《ツゥインク》に――です」

 06

「加速……それって……」
 次から次へと繰り出されるドン亀さんの不思議解説に理解が追いつかない時翔だったが、そうは言っても、もはやここまで何度も陥ってきた感覚でもある。それならば、ここは待とう、友里のツッコミを――いやボケを。
「ちょ、私らって、加速してるの? 今……」
 時翔が思っていたより頼りなげに友里が零す。さすがにこのシチュは荷が重いのだろうか。
「はい、それもペースメーカーの機能ですから」
 涼しい顔で言うドン亀さん。
「な、何倍くらい?」
「約十倍ですね」
「十倍!? それやばいよ、フリーザ様に勝てちゃうよ」
 ――うむ、やはり切れ味が悪い。友里も動揺は隠せないようである。
「甘いな、友里、二十倍プラス元気玉じゃないと勝てないんだぞ」
 ここはボケ倒しで応じる時翔。原典を知悉している時翔からしてみれば、友里のうる憶えで孫引きぎみのボケをフォローする気持ちもあった。我ながらなかなかの気配りだと思う時翔だった。
 もちろん正確にはスーパー化せねばならない。ついでに言うと、うる憶えも、うろ覚えのうろ覚えによる誤記である。
「んー、でも、十倍って感じが全然しないんだけど……」
 友里が自分の手の平を見つめ、それを素早く閉じたり開いたりさせながらつぶやく。
「それは……三人とも加速していますから、比較対象がないのです」
「うーん、でもなんで加速する必要があったの?」
 今度はかなり冷静にツッコむ友里。
「はい、お話が長くなってしまいましたし、あまり遅くなると申し訳ありませんから」
 なるほど、意外に気配りが効くドン亀さんだった。この辺は年長者としての責任感というものだろうか。いかに治安がよい時代とはいっても未成年の夜遊びが推奨されているわけでもない。
「はあ……そりゃお気遣い、どうも」
 と、時翔。
 十倍に加速しているというドン亀さんの説明が本当ならば、実時間は十倍に引き延ばされるということなのだろう。でも、
「加速って……どういう原理で……?」
 なんとなく予測はつくが、一応訊いておくのが礼儀というものだろう。
「内臓クロックを逓倍して神経系のインパルスを加速するのです。もちろん体には多大な負担をかけることになってしまいますから、加速中は気をつけてくださいね」
 きゃぴろんっと、無垢な笑顔で答えるドン亀さん。
「ないぞう……?」
「はい、五臓六腑、はらわたのことです。と言っても、源クロックは心臓なんですけど」
「なに……それ、どうやって気をつければいいの?」
 友里が不安げに訴える。
「大丈夫、激しい動きをしないように気をつけて立ち回っていればいいのです。慣れればめったにけがをすることはありません」
 十倍の運動神経を得たとしても身体の耐久力は十倍になるわけではない。そういう意味らしい。つまり限界まで体を動かすことは体の耐久力を超える負荷を筋肉や骨、関節に与えてしまうことになるわけだ。この辺は図らずも界王拳システムと同定して考えてもいいようだ。
「そっか、ふーん……」
 と、思案しつつ、友里が握り拳を作り、それを空中に向けて突き出した。
 しゅぱっ――と。
「ねえ、これって破壊力も十倍なの?」
 きらーんと目を輝かせながら友里がドン亀さんに問う。
 元々の友里のパンチに破壊力と呼べるパワーがあるとも思えないのだが……しかしここでドン亀さんが慌てて制止する。
「や、やめてください! そんな危険な行為は――」
「え、そんなに危ないんだ……これって」
 正拳突きのポーズで固まったままの友里が言う。
「ええとですね……破壊力、というかエネルギー量は質量掛ける速度の自乗に比例しますから、十倍どころじゃ済まないのです」
「そ、そうなんだ……じゃ、気をつけるよ」
 意外に素直な友里だった。てっきり――今オレは究極のパワーを手に入れたのだ! ウハハハッ――なんて悪のりするかと思った時翔だったが、友里もそこまで体を張る気はないらしい。
「んー、でももうちょっと試してみたいなあ」
 と言いつつ、ぴょんとその場で飛び上がる友里。
 そのまま軽く一メートルほど浮き上がる。そしてゆっくり降下――その場に着地する。
 ――これは……さすがに劇的だった。とても現実とは思えない光景だ。まるでワイヤーアクションでも見ているかのような錯覚に陥る時翔。
「い、いけません! やめてください! 後でひどいめに遭いますよ!」
「うるさいなあ、ドンちゃんは。私、こう見えても体力はあるんだから」
 飄々と言いながら再度大きく飛び上がる友里。そのまま空中で一回転した後、降下中にシャドウエアリアルコンボを見事に決める。
 それを見るドン亀さんはすでにあきれ顔だ。
「もう知りません! 好きにしてくださいっ」
 前言撤回。やっぱり体を張ったバカだった。なんだかもう友里がのび太くんに見えてくる時翔。
「……きっと後悔しますよ」
 ドン亀さんが口を――β、みたいな形に尖らせながらそっぽを向いてしまう。
 ドンえもんと呼ぶべきだろうか。
「ところでさあ、ドンちゃん」
 華麗に着地を決めた友里が制服のスカートを直しながら言う。
 しかしドン亀さんはぷいっと横を向いたままだ。
「さっきも――これ使ったんだよね」
 友里はどこかはすっぱな調子だ。
 さっき――あれか、さっきの男の子を追走した時のドン亀さんの動き。あの時もやはり加速を使っていたのは間違いないだろう。言ってみればそれはまさにチート、ルールをねじ曲げる行為そのものではないだろうか。現実世界のルール、物理法則への反逆だ。
 だけど彼女は――ドン亀さんは言うに違いない。またぞろ職務権限だと。
 友里の問いかけにドン亀さんがゆっくりと向き直る。その表情は先ほどまでのおどけた様子は微塵もなく、どこか婉然とした微笑を浮かべている。さながら心中の逡巡を糊塗するかのごとくに。
「ええ、もちろん、最後の質問にお答えしなければなりませんから」
 完全にシリアスモードに入ったドン亀さんが決然と言った。
 最後の質問――それは彼、あの少年の正体についてだ。
 ひょっとすると、ここまでは単なる前振り、ただの前説だったのかもしれない。
 そして、ここまでの突拍子もないドン亀さんの話、その中でも最も理解しがたい、あるいは信じがたい胡乱な部分。
 それを時翔が問う。改めて。
「さっきの男の子が犯罪者だって言ってたけど……」
「はい、そうなのです。彼は元々加速層《ツインクレイヤー》の住人で、ルールを犯した越境者なのですが、実はここ最近、越境専門に橋渡しをする違法組織が跋扈していまして、時分割空間の安寧を脅かす存在となっているのです。彼もその組織の手引きを受けていたと判明しています。なので彼らを争乱の火元、イグナイターと呼んで特に排除を強化しているのです」
「加速層……って、そんなのあるんだ……。え? じゃあ俺たちは減速層に住んでる……とか?」
「いえ、基本的に減速という概念は存在しません。時翔さん達が生活しているのは一般層《レジットレイヤー》ですから」
「一般層……」
 加速――に対して減速があるわけではなく、非加速ということなのだろうか。
 時翔が考えている内に、ここで友里が割りこむ。
「もー、それもワケ分かんないんだけど! パラレルワールドとか言いながら、こんなのただの楽屋裏みたいなもんじゃん。もっと人のいっぱいいるとこを見せてよ!」
「そ、それは、ここはさっきも言いましたがメンテナンスレイヤーなので、基本的に人は生活していないのです」
「じゃ、人がいっぱいいるところに連れてってよ。加速層――だっけ?」
「それはできません。実稼働しているレイヤーへの移動は許可なく行うことは許されていないのです。それに、強制的に別レイヤーに移動しても、ペースメーカーの同期がシンクロしていない状態では、異なる時間スロットを利用している他の人達は認識できませんから」
「ふーん、ま、つまるところそれだよね。同じ場所で生活しているのに、隣にいるのに見えない、声も聞こえないなんて、常識的に考えてありえないんですけど!」
「そうですか……仕方がありませんね。それほどまでに言うのでしたら、こちらの方も実演しましょう」
 ドン亀さんはそう言うと再びゲーム機にしか見えないコントローラを構える。

 07

「実演って、なっ、何する気?」
 友里が条件反射的に身構えながら言う。
「そうですね、とりあえず友里さんか時翔さんのどちらかを別レイヤーに移動させてみましょう」
 ドン亀さんは頼んでもいないのにクレーンゲームの景品を取り出し口ギリギリにセットしてくれるゲーセンの店員のごとくノリノリである。
「させてみましょうって……別レイヤーに移動したら、どうなるの……」
「もちろん、お互いに相手が見えなくなります。それでご理解いただけるかと」
「き、消えちゃうってこと?」
 友里がさらにたじろぎながら念を押すように質す。
「大丈夫、ご心配には及びません、一時的なものですから、すぐにお戻ししますし」
「う、うーん、一時的って言われても、なんかなあ……消されるみたいで、ちょっといやな感じが……」
 時翔も物憂げに零す。
「ではどちらのアダプターを設定変更させていただきましょうか」
 二人の疑念には意も介さない様子でコントローラの電源スイッチをオンにするドン亀さん。
 へろりーんと、相変わらず牧歌的な起動音が流れる。
「「……どちらか?」」
 友里と時翔が顔を見合わせて同時につぶやいた。
「そ、それじゃ、トッキーの方で――」
 早押しクイズの回答者並みに、素早く友里が機先を制する。
「おい、なんだよそりゃ」
「べっ別にいいじゃない、それにすぐ戻すって言ってるし」
「いや、俺はドン亀さんの説明に疑問点はないから、ここは友里が体験するってことでいいんじゃないか?」
「え? いやあ、なんかさっき張り切りすぎて心臓が痛いような気がするんだよね。ほら、私って虚弱体質だし」
 と、わざとらしく自分の胸を押さえつつ弱々しく言う友里。
「おまえさっき体力には自信があるとか言ってたじゃないか」
「き、気のせいだよ、私体育も赤点だし」
「そりゃ筆記試験がメタメタだし、チーム競技とかじゃ減点喰らいまくってるせいだろ、体力は有り余ってるくせに」
「ちょっと、私のこと協調性ゼロの体力バカみたいに言わないでよ!」
「深窓の令嬢じゃないのは確かだけどな!」
 犬も喰わない二人の言い争う声がネカフェのコミックコーナーに響き渡る。
「あのう……ではジャンケンで決めるとかではどうでしょうか……」
 ドン亀さんは、やめて! 私にために争わないで……というセリフが似合いそうにふるふると身を震わせると、代官に直訴状を差し出すかのような仕草で怖ず怖ずと提言した。
「あ、それいいね、私ジャンケンだけは負けたことないし」
 友里の細い目が通常の70パーセント増しほどに開帳し、その瞳はセントエルモの灯が一斉に点ったかのようにちらちらと不気味に輝いている。
「マジかよ……」
 不敵に微笑む友里はなぜか自信ありげだ。時翔はそこはかとない不気味さを感じ取っていた。
 まあ、当然ではあるが。
「じゃ、一回勝負の恨みっこなしでいいな?」
「もちろん、いちよー言っとくけど、勝った方が選択権を行使できるんだからね」
「おお、分かってるよ」
「じゃ、構えて」
「しょうがねえなあ……じゃいくぞ?」
 仕方なく構える時翔。
「おうよ!」
 気合い充分の友里が応える。
 おでこがくっつきそうなほど肉迫させて向き合う二人。互いに右腕だけを後ろに思い切り引きながら勝負の構えをとる。
「「せーのっ!」」
「「だっさなっきゃ負っけよ!」」
「じゃんけんぽん!」「じゃんけんぽっころけェつ馬のクソ」
「わーい、勝ったあ」
 友里の勝ちであった。
「友里の勝ちであった、じゃねーよ!」
「なっ何? 誰に対して言ってるの?」
「じゃなくて……なんだよ今の!」
「言っとくけど後出しじゃないよ、トッキーが早出ししただけだからね」
 すなわち、じゃんけんぽんの、ぽんのところでチョキを出した時翔に対して、クソのところでグーを出した友里の余裕の勝利であった。
 残念ながら。
「そんなのありかよ……」
「ん? 私の生まれた町じゃこれが正式な掛け声だったんだけど……」
「そんな掛け声聞いたことねえよ!」
「え、なんでそんなこと言うの? それじゃ私がおかしいみたいじゃない……」
 一瞬のうちに百面相スキルを発動させた友里が瞳をうるうるさせながら訴える。
「いや、そりゃ、地方によっていろんな掛け声はあるだろうけど、さあ……」
「そっか……、やっぱり私おかしいんだ……、変なヤツなんだ……、うっ……、えうっ、ぐしっ……」
 手の甲で目尻を拭いながら鼻をすすり上げる友里。
「お、おい、わかったから……いいよ、もう俺の負けで」
「ホント?」
「ああ、地方の文化は尊重しないとな……」
「ゃった」と、小声で言った後、にひひ、と相好を崩す友里。嘘泣きもいいところである。
 しかしこいつ――道理で自信たっぷりだったわけだ。
 などと、今更な慚愧の念に耐える時翔。
 おそらくはこの手を使って破竹の勢いで連戦連勝を重ねてきたに違いない。掛け声の、じゃんけんぽ――までが同じであることを利用した狡猾なトラップである。しかも予備動作の掛け声である出さなきゃ負けよ≠ニいう、割合にローカルな掛け声は揃えておいて、油断させるという念の入りようである。とは言っても、一度きりしか使えない初見殺し戦法な上に、確実に友達を失う両刃の剣であることも間違いないだろうが。
「では、時翔さん、覚悟はよござんすね」
 コントローラを構えたドン亀さんが、待ちかねたように――しかも変なノリで時翔に宣告する。
「うわ、ちょっと待って――」
 覚悟未完了の時翔が慌てふためく。
「では――お許し下さい……SJBLRJSR、と」
 タイトル画面が消える前にコントローラの十字キーとボタンを素早く動かすドン亀さん。
 なぜだかスーパー化しそうなコマンド詠唱が流れると同時に、時翔の姿が徐々に透け始めた。
「やめれー………………」
 時翔の姿が消えていくのに合わせて、断末魔も一緒にフェードアウトしていく。
 声が聞こえなくなると同時に時翔の姿もかき消すように見えなくなった。
 完全なる人間蒸発。
 あるいは神隠しさながらに。
「ほ、ホントに、消えちゃった……」
 ぽかんと口を開けて、呆然と立ちつくす友里。
「どうですか、見えないでしょう?」
「見えない……って、え? どこ行っちゃったの?」
 ドン亀さんに詰め寄る友里。
「ちゃんとそこにいますよ」
「ええ? どこ? 見えないよ……声も聞こえないよ?」
「大丈夫、時翔さんからも友里さんからも、お互いは見えない設定にしていますけど、こちらの声は時翔さんには聞こえるように設定しています。お寂しいでしょうし不安でしょうから」
「じゃ、私の声はトッキーは聞こえてるの?」
「はい」
 余裕の表情で微笑みながらドン亀さんが答える。
「ホント? そこに――いるの? 返事してよ……」
 不安げに震える声で友里が呼びかける。
 一方時翔は自分以外誰もいないネカフェのコミックコーナーに一人立ち尽くしていた。それでも、何もない空中からドン亀さんと友里の声だけは聞こえてくる。
『おーい、友里、聞こえてるぞ! って言ってもこっちからも見えないんだけどな!』
 空中に向かって必死に応える時翔。しかし、その声は友里には届かないのであった。
 半面、友里の方から呼びかける声は時翔には聞こえている。
「どこ? 返事して! ダァーーーーン!」
『ん? なんだ? 誰だよダンって!』
 律儀にツッコミを試みるも、時翔の声は友里には届かない。
「友里さん…………さすがです、そのお名前は伊達じゃなかったのですね」
 こちらの方では時翔の代わりに的確なツッコミを入れるドン亀さんだった。
 しかし、もしそうだとするならば、なんという遠大な伏線回収であろうことか。
「んー、残念ながら下の名前はアンヌじゃないんだけどね〜」
 もはや誤用ではない意味での確信犯的な友里であった。
「んで? トッキーはなんで見えなくなっちゃったの? 怪しい隣人さん」
「いえいえ、私はイカルス星人さんじゃありません」
 当意即妙にドン亀さんが返しを入れる。
 ――つーかそれ一体なんのネタなんだ? いいかげん元ネタを教えて欲しいんだけどなあ……。
 と、一人っきりにされ、いやが上にも疎外感が増す時翔だった。
「で、さぁ、なんで見えなくなるの? 透明人間になっちゃったの?」
 友里が語気を荒げてドン亀さんに詰め寄る。
「はい、ではご説明しましょう」
 待ってましたとばかりにドン亀さんがにっこりと笑う。毎度おなじみ解説モードに移行した合図である。
「て、手短に、お願い、ね」
 友里が戦々恐々としながらつぶやく。
「それでは友里さん、光学迷彩という技術はご存じですか?」
「そ、それくらい知ってるよ。プレデターとかが使うヤツでしょ」
「その通りです。でもそれはSF映画の中のお話なんですよね。でも実際に研究は進められていたのです。主に軍関係の研究機関でなのですが……。そこで研究されていた最も初歩的な光学迷彩スーツは背中側に取り付けてあるカメラの映像をスーツ前面の液晶加工素材のモニター側に投影するというものでした。そうすることで理論上は見えない兵士、ステルスソルジャーを作り出すことができるというわけです。でもこの方式には致命的な欠点がありました。つまりスーツ装着者の前面からだけしかステルス効果を発揮しないというところです。もちろんスーツの前面にもカメラを取り付けてスーツ背面にも映像を投影するということはできるのですが、どうしても微妙な方向のずれまでは合致させることはできません」
「へえ、まあ、なんとなく想像付くよ、そこでまたぞろARってことなんでしょ?」
「さすがです、友里さん、つまりカメラ映像の代わりにリアルタイムワールドカメラの映像をアダプターに送信してマスキングしているというだけのことなのです」
「ことなのですって、じゃ声は? 音は聞こえるんじゃないの?」
「音声はもっと簡単な原理です。アナログ電話機の頃から確立している技術、エコーキャンセルの技術を応用しているだけですから」
「なんか、簡単に言ってくれるよねぇ……」
「簡単ですよ。人の知覚性能は、実のところかなりあやふやで低解像度な物なのです。人間の視覚のシャッター速度に当たる動体視力はおよそ120フレームパーセクが限界と言われています。その程度のCGをリアルタイムに視点位置計算してアダプターに送信することは技術的には造作もないことなのです」
「ふーん、じゃあワールドカメラの死角に入れば見えちゃうってこと?」
「基本的にはそうです。でも、今やそれこそワールドワイドで敷設されているワールドカメラの死角なんてめったに存在していませんけどね」
「ええっ! そうだっけ? トイレとか更衣室とか、お風呂とかいっぱいあるんじゃないのっ!?」
 友里が驚愕の表情で反論する。
「なくはないのですが……今のところ人口カバー率99.999パーセントのカバー率となっていますから、そこは推しはかっていただければ、と」
「まっ、まじで? 信じられないんだけど――」
「ワールドカメラはユビキタスですから」
「なんでもユビキタスって付ければ良いってもんじゃないよ……」
 毒づきながらもぐるりと周りを見回す友里。確かにカメラが天井の各所に設置されているのは間違いない。さらには壁のコーナーや、入り組んだ通路付近にもまんべんなく設置されている。
「でっ、でもさ、こっちの本棚の影とかは? 絶対死角になってるよね?」
 友里は等間隔に並ぶ本棚の真ん中辺りの空間に移動し、カメラレンズの位置を確かめながら言う。
 しかし、ドン亀さんはそんな友里の疑問など想定内と言わんばかりの余裕の所作で友里の見つけた安全地帯に入ると、ぐるりと同じように辺りを見回す。
「ここですね」
 ドン亀さんが本棚に収まっていた一冊の書籍を抜き出すと、奧にカメラのレンズが光っているのが見えた。
「げ、そんなとこに! って――どうせARで隠すんなら、そんな本棚の奥にセットしなくてもいいんじゃないの?」
「うーん……いわゆる実相寺アングルということでしょう」
「アングルにこだわる意味が分からないよ……」
「どんな業界にも凝り性の方はいますから」
「なんの芸術性もありがたみもないし……っていうか、死角がないなんて、かなりショックなんだけど」
 冷や汗を滲ませながら愕然とつぶやく友里。
「大丈夫、ご心配には及びません。プライバシーの侵害というのは、中途半端に情報が漏洩するような事案にのみ発生するものなのです。プライバシーを侵害しようとするいかなる人間にもプライバシーがなければ、そこに一方的な強弱の差は生まれません。それがパワーバランスというものです」
「なんか、むちゃくちゃな理屈みたいな気もするんだけど……」
「もちろん、トラブルがないわけではありません。世の中、不遜な輩というのはいつの世にも絶えることはありませんから……。でも大丈夫、そのために私たち、ええと……時分割空間警察が組織されているのですから」
「ん? 今なんか微妙に略したよね」
「気のせいです」
 きっぱりと言うドン亀さん。
「ふーん……」
 とそれっきり横を向き、じっと空中に目を凝らす友里。次の瞬間、素早く空中に向かって拳を突き出した。
「そこだっ!」
『いでっ!』
 ドン亀さんの話に聞き入っていて、まったく油断していた時翔が、顔面に友里のパンチを受けて仰向けにひっくり返る。が、もちろん友里の方からは見えない。し、聞こえない。
「あれ? そこだと思ったんだけどなあ……」
「ふふ、手応えがありましたか?」
 目を細めながら、いかにも楽しそうにドン亀さんが訊ねる。
「いや、ぜんぜん」
 ブンブンと首を横に振る友里。
『おいおい、なんでだよ! 完全に入ったってーの!』
 じんじんする鼻をさすりながら見えない友里に向かって時翔が猛然と抗議するが、もちろんその声は友里には届かない。
「お気の毒に、時翔さん鼻血出していますよ」
「え? なんで? 当たってないよ?」
「いえっ、見事に正中線をとらえていました。さすがです、友里さん」
「当たった? かすったってこと? いちよー手加減はしたつもりなんだけど。あれでしょ、十倍加速してるわけだから」
「ええ、見事に命中していました。実はですね、完全ではないのですが、触感情報にもマスキングが掛かるようになっているのです。だから友里さん、自分の手をよく見てみてください」
「えっ、あれ、そういえばちょっと赤くなってる、かも?」
「そうなのです、触った感触はなくとも、実際には当たっていますから、物理的ダメージは残っているのです」
「そんなあ、じゃあじゃあさ、道を歩いていてもぶつかったりしちゃうんじゃないの?」
「そうですね、そういう事故はたまに起きてしまいます。でも基本的には異なるレイヤーの住人は生活圏が分かれているので、めったにそういうことは起きないのです」
「んん? でもそれって共有してることにならないんじゃ?」
「いえいえ、ツインカーとレジッターでは世界の広さを知覚する尺度が異なっていますから、ちょっとした区画整理や、交通区分の仕分けで十分回避できているのです」
「そ、そうなんだ……信じられないけど……」
「でも、よく時翔さんの立っている位置が分かりましたね。まったく見えていないはずですのに。もちろん嗅覚情報もマスキングされているはずですし……」
「んー、まあそこは、ね」
 てへへ、とはにかむように、うしろ頭をかく友里。
「あの、よかったら、なぜ分かったのかを教えていただけませんか? 何かシステムに穴があるということも考えられますから」
「ええ? どうしても?」
 むずがるように言葉を濁す友里。
「ぜひ!」
 友里の手を握り、その顔をまっすぐに見上げながら懇願するドン亀さん。
「んーっと、えっとね――つまりー」
 なぜだか顔を赤らめながら友里が言う。
「愛だよ」
「はうっ」
『ひえっ』
 ――クリティカルヒット! なのか?
 とりあえずここはそういうことにしておこう。
 いろんな意味で。
 と、時翔の胸中に複雑な思いが沈埋していく。
「ってことで、そろそろトッキーのこと元に戻してよ」
 デレ展開をぶった切る勢いで友里が言う。後腐れは微塵も残さない女である。
「ということは納得していただけたということですね」
「うーん、まあ、ね。こんだけはっきり見せられ――じゃない、見えなくされちゃうと、ね。納得するしかないよね」
 そう言いつつも不承不承な口ぶりの友里。
「そうですか。それはなによりです。では時翔さんをお戻ししましょう――」

 08

 再びコントローラを手にして電源スイッチを入れるドン亀さん。
「あれ?」
 コントローラの電源スイッチをカチャカチャと何度も動かすドン亀さん。
「どうしたの?」
「電源が入りません」
「ま、まさか壊れちゃったの?」
「いえ、これはバッテリー切れですね」
「はあ? バッテリー切れ? って……なんで? ……その機械ってあんたのIDで登録されてるんじゃないの?」
「はい、このコントローラは特殊でして、生体電力受信機能を持っていないのです」
「えぇぇ、今時そんな携帯機器があるんだ……」
「これは私物ではありませんので」
「ちょっと! やめてよ。換えのバッテリーとか持ってないの?」
「このタイプのコントローラは電池交換式になっていないのです」
「はあ? じゃあどうすんの! って言うかなんでそんなに電池切れが早いの?」
「あの……実はさっき酒場で待機している時に暇でしたので、ちょっとパズドラで時間つぶしていまして……それで」
「そんなレトロゲーで遊ばないでよ! って言うか、それってゲーム機能もあるんだ」
「はい、この形はいわゆるカムフラージュなのですが、一応ちゃんとゲームもできるようになっているのです」
「って、どうすんのよ! このままトッキーが行方不明になっちゃったら、私家に帰れないよ」
 ――え? 友里……おまえ、なんだかんだ言っても、ホントは……。
 などと冷静に鑑みれば友里にあろうはずもないツンデレ属性を錯誤する時翔。それほどに動転すると同時に気弱になっている証左であろう。あるいは先刻のクリティカルヒットのダメージが残っているのかもしれない。
「このままトッキーがいなくなっちゃったら、真っ先に疑われるのは私じゃん! まだ生命保険は掛けてないけど」
 ――おい、おまえこっちに聞こえてるのが分かってて、言ってるんだよな……。
 いや、忘れているのかもしれないが。いやいや冗談が過ぎるだろう。まったくもっておかげさまで、一瞬のうちに自我を取り戻した時翔だった。
「大丈夫です。充電すればすぐ使えるようになりますから」
「へ? なあんだ、それを早く言ってよ」
 そう言うとドン亀さんはどこから取り出したのかDCジャックをコントローラに差し込む。
「ん? その先はどうなってんの?」
 よく見ると、充電している線は途中の空中で、ぷっつりと途切れているように見えた。
「あ、気にしないでください」
「気になるなあ……」
 などとやりとりしているうちに充電は一瞬で終了する。
 再び携帯ゲーム機にしか見えないコントローラを構えるのは、相変わらずのビキニアーマー装着ジャパニメ少女剣士である。
「では、BAAB、と」
「なんか、だんだんおざなりになっていくよね、そのコマンドって」
「ええ、このコマンド自体は誤動作防止の安全装置のようなものですから。危険度の高いコマンドほど複雑になっているのです」
 などと、遊園地でアトラクションのマスコン操作方法を披露するがごとく、言葉を紡ぐドン亀さん。
 そのドン亀さんの言葉が終わらないうちに時翔の姿が友里の目の前に出現するが、その表情は憮然と友里を睨んでいた。しかし友里の方は一向に悪びれもせずに、心底ホッとため息をつき、やっとこれで一安心とばかりに分かりやすい笑みを輝かせている。
「おかえりトッキー、あれ? なんで鼻にティッシュ詰めてんの?」
「おまえがやったんだって」
「あ、ほんとに当たってたんだ、ごめん、ごめん」
 と、お風呂場でシャワーのお湯がはねたことをわびる程度には気持ちのこもった謝辞を口にする友里。時翔もいつもならここでカウンターのひとつも返すところではあるが、今はその気力が起きない状態であった。
 素直に認めたくもないが、つまるところドン亀さんの言う見えない隣人についての信憑性について、疑いようのない証拠を身をもって体験したからかもしれない。加えて肉体的にもダメージを負っているので、なおさらである。
 ドン亀さんの方はというと、こちらも時翔に対して、初めてのお使い任務遂行に帰還を果たした幼稚園児を労うがごとく微笑んでいる。
「お疲れ様でした、どうですか、ご気分の方は」
「ま、まあ、どうということもないですけど……」
 実際どっと疲れを感じるのは肉体的ダメージのせいだけではないのは間違いないのだが、なんとなくそれを認めたくない気もする時翔だった。
「そうですか、それはなによりです。時翔さんのメンタルはお強いのですね」
「なんすかそれ?」
 少々むっとしながら答える時翔。
「いえ、精神と肉体にダメージを残す方もいらっしゃるので」
 なんなんだ? 心臓に毛が生えているとでも言いたいのだろうか? いや、毛どころか、メカニカルなおぞましい虫を生まれた時から飼っているのは承知しているのだが……。そもそもなんの心構えもなく、こんな現実とも仮想ともつかない手品めいたどたばた騒ぎを体験させられて正気を保っていられる方が稀なんじゃないのか? とも思う時翔。
 と、その時――
「はい、チェックメイトキングツー、こちらドン亀です、どうぞ」
 突然、ドン亀さんの目が中空を泳ぎ、次いでこめかみに手を当てる仕草をとりながら、素っ頓狂な声を上げた。どうやら何らかの通信に応答している風である。察するにドン亀さんが所属する組織、その上層部からの通達といったところだろう。
 って言うか彼我でえらくコールサインの雰囲気が違いすぎないですかねえ。
「――え? まさか、そんな」
 ドン亀さんはひどくショックを受けた様子で固まっている。
 どうもなにやらトラブル発生ってな感じだ。
「わ、分かりました、すぐに合流します」
 こめかみから手を離し、ドン亀さんが二人の方に向き直る。
「あの、実は、帰投命令が出てしまいました。可及的速やかに戻らなければなりません」
「はあ、そうですか……」
 一方的な終了宣言にあっけにとられながら時翔が答える。
「本当に申し訳ありません」
「いや、いいですけど、結局なんだったのか、よく分かってないんですが――」
「え、なに? これで終わっちゃうの?」
 友里の方も不服申し立てを行う。
「はい、でも最後にこれだけはお願いしておかなくてはなりません」
 そう言うとドン亀さんは、今までにないほど真剣な表情になり、二人の方を交互に見つめる。
「なっ、なに?」
 友里がドン亀さんの迫力に押され気味に一歩下がる。
「実は、今までお話ししたことはあなた方の年齢と、市民区分ではアクセス出来ない情報が多分に含まれています。ですので――」
 ここでドン亀さんは言いにくそうに言葉を切りながら、下を向く。
「え? この展開って、まさか……」
 友里は何かを恐れるようにたじろいでいた。
「折り入って、お二人にお願いしたいことがあるのです」
 キッと目を上げたドン亀さんが決然と切り出す。
「も、もしかして、それって……」
 ドン亀さんの目が射抜くようにキラリと光った。
「はい、私と契約≠オていただきたいのです」
「うわ、契約……って何する気? ……まさか……」
 友里が残りヒットポイント5で、1000dam/secのDOT魔法を喰らったかのように青ざめる。
「ええと……? 説明は、これから――」
「言っとくけど私、熱力学の第二法則は尊重してるから!」
「いえ、ちょっと……話を聞いてください――」
 と、言葉を繋ごうとするドン亀さんのセリフを聞こうともせずにさらに後ずさる友里。本棚が背中に当たり、振動を受けた本がざわざわと心象背景的な効果音を奏でた。
 幸い本棚から本は落ちてこなかったが、友里はたまりかねたように自分の胸を両手で守るように押さえながら叫んだ。
「私らのこと、豆腐ジャムに変えようっていうの!」
 ――うーむ、
 さすがにちょっと怒られそうなボケ――というより地口だよなあ、とぼんやり思う時翔。
 しかし、ドン亀さんは聞こえない振りをしているかのように見事にスルーしつつ例の腰に下げている袋のジッパーを開き、中をまさぐっている。さすがに時間的な余裕がないせいかもしれない。
「ありました、はい、これです」
 彼女が袋から取り出したのはA5サイズ程の二枚の書面だった。
「へ?」と拍子抜けしたように固まりながら受け取る友里。時翔の方も同じ物を受け取る。
 そこには守秘義務契約書≠ニ銘打ってあるのが読めた。
「そうです、守秘義務契約《NDA》です、これにサインを頂きたいのです」
 なるほど、つまり口外無用ということか。今までの説明がドン亀さんの所属する組織にとって法律的な守秘義務にどこまで反するものなのかはよく分からない。しかしながらこんな物を持ち出してくるということは、少なからずそれに反してしまっているということなのだろう。それは分かるのだが、こんな物に軽々にサインしてしまっていいのだろうか? そもそもこれって法人同士が結ぶ契約なんじゃないんだろうか? とも思う時翔。
「独立行政法人通則法第54条2の拡大適用に相当することにはなるのですが、仕方がありません」
「サイン……って言われても、なんかなあ……いいのかなあ」
「お願いしますぅ――それがないと帰れないし、怒られちゃいますぅぅ」
 両手を顔の前で合わせて、瞳を潤ませながら懇願するドン亀さん。
 おいおい、ここでそのキャラで押すのかよ、とは思いつつもちょっと可愛い。なにしろ見た目はジャパニメ少女剣士だし、庇護心をくすぐるしぐさがはまりまくっている。
 もはや恥も外聞もかなぐり捨てた勢いにほだされそうになる時翔だった。
「でも、そんな急に言われても、全部目を通してないし」
「大丈夫です、基本的に私がお話ししたことを口外なさらなければそれで大筋はOKですから」
「うーん、でもなあ――」
「あ、友里さんもお願いしますっ」
 と、友里にも水を向けるドン亀さん。
 友里の方はというと用紙をぴらぴらさせながら、
「でさあ――もしこのサインを拒否したらどうなるの?」
 と、訊きにくいことをズバリと問う。
 その言葉にドン亀さんは目を丸くした後、視線を下に落とし、うつむき加減でポツリと漏らす。
「そ、それは……最悪の場合パージしないといけなくなります……」
「ぱーじ? ……って何それ、私らを消す気なの?」
 パージ、少々聞き覚えのある単語であった。それは先ほどの少年に対して行われた処置、いや処理だったはずだ。
「いえ、それはあくまで最悪の場合と言う意味で……しばらくは組織の方で監視対象としてマークされることになるはずです」
「じゃ、とりあえず家には帰れるの?」
「はい、今日のところは少々の細工が必要になるとは思いますが」
「細工?」
「ええ……不肖わたくしめが、お二人がログアウトして意識が戻る前にドリンクバーから汲んできたウーロン茶をお二人の下半身に――こう……しとどに」
 というわけで、お漏らし友里の完成ということらしい。
「そんなカムフラージュいらないから!」
 二人にとって――と言うより友里にとってそれが嫌だったからドン亀さんの長話に付き合ったわけであり、そうなれば元も子もないと言える。
「それで? そのしばらくが過ぎたら、それからどうなるの?」
「あるいは、このレイヤーから移動してもらうということになるかもしれません……」
「げっ、お、おどかす気?」
「そりゃ困る――ような気もする」
 時翔も虚ろに零す。
 そもそもドン亀さんの話自体が誰に話しても信用してもらえるとも思えないが、ドン亀さん的世界観の箝口令に違反する行為なのだろう。その結果ドン亀さんがどのようなペナルティーを受けるのか分からないし、二人にとってどんな社会生活上の不都合が生じるのかも想像もつかない。しかしここまでドン亀さんの話に付き合ってきた以上ここはもういっそのこと従うべきだろうか。と懊悩する時翔。
「ま、いっか、ドンちゃんがそこまで言うなら。ほいペン貸して」
「あ、ありがとうございますぅ」
 ドン亀さんが差し出したペンを受け取ると用紙を壁に押し当て、さらさらっと署名する友里。
「あっ! 友里! おまえ!」
「まあまあ、いいじゃん、ドンちゃんが困るんなら協力してあげようよ」
 と、友里の玄孫がネコ型ロボットをタイムマシンで送り込みたくなること請け合いの連帯保証人っぷりを見せる。
 こうなっては仕方がない。時翔も渋々ながら用紙にサインする。
 ドン亀さんは、その用紙をうやうやしく受け取ると控えを二人に返した後、用紙を丁重な仕草で袋に仕舞った。
「お二人ともありがとうございました。あとはIDへのレジストを忘れずにお願いします」
 ぺこりと頭を下げる少女剣士さん。
「では、そろそろ急ぎませんと」
「もう行っちゃうの?」
「はい、お名残惜しいですが……」
「これっきり会うこともないのかな?」
「そうですね、この姿では、おそらく」
 そう言うと、ドン亀さんは、今この三人がいるネカフェのコミックコーナーから最初のブースに戻ることを提言した。
「一応あそこでゲーム内からポーティングしてきましたから、戻る時にもそこから戻らないと、何かとややこしいのです」
 ここは大人しくドン亀さんの指示に従う二人。
 最初のブースに戻ってきた三人は先刻と同じように時翔と友里がツインシートに腰掛け、ドン亀さんがその前に立つ。
「それでは時間もありませんので急がせていただきます」
 ドン亀さんはあたふたとコントローラを操作し始める。
「あせって失敗しないでよね」
「大丈夫です、これは簡単な操作ですから」
 その言葉とは裏腹に画面を指でタップしつつ、丁寧な操作を繰り返しているドン亀さんだった。
「自分の時だけやけに慎重に見えるよね」
「そ、そんなことありません」
 びくんと背筋を伸ばして反駁するドン亀さん。
 当たらずも遠からずだったようである。
「友里さん、時翔さん、長々と私の話につき合ってくださってありがとうございました」
「い、やあ……どういたしまして……」
 反射的にこくんとうなずきながら答えてしまう友里。
「それでですね……ええと……私の話をどこまで信じるかは、お二人にお任せしておきます。でも――」
「ん?」
「これだけは信じていただきたいのですが――」
 見ると、コマンドが発動したらしく、ドン亀さんの姿が足元の方から徐々に輪郭を崩していく。
「何?」
 ドン亀さんはまるで末期の言葉を刻むように真剣な表情で言う。
「――私たちはマトリックスに住んでいるのでもなければ水槽の中の脳でもないのです。それだけは理解してください。この世界は多くの人々の努力と試行錯誤の上にようやく成り立つ兆しを見せ始めた理想の社会なのです」
「マジで言ってんの?」
 さすがに半ば鼻白みながら友里が眉根を寄せる。
「少なくとも、私はそう信じています」
 今やドン亀さんの姿は、風に吹き飛ばされる砂絵のように胸元まで形をなくしている。口元が消える直前、ドン亀さんは言った。
「あ、それと、先ほどの契約書のレジストをお忘れなく――」
「分かったよ」
 そうしてドン亀さんの姿は完全に空中に四散して見えなくなった。
 時翔が消えた時と同じように……。

 09

 ドン亀さんが姿を消すと同時にネカフェの喧噪が戻っていた。
 小音量で流れるBGM、客の話し声、歩き回る音。二人のいるブースの壁や床も見慣れた色形に戻っている。
 それでも時翔は疑わしげにキョロキョロと回りを見回してしまう。
 友里の方も、目をぱちぱちさせながら自分の出で立ちを確認した後、時翔の肩に恐る恐る手を押しつける。当たり判定があることを確認しているのだろう。
 ログアウト……したのだろうか。
 しかしVRゲーム用の眼鏡型ディスプレイ――SMDはシートの傍らに落ちている。
 夢落ち――ではないのは確かだ。
「ふう……、帰ろ」
 ポツリと言った友里の言葉に時翔は我に返った。
 二人して黙然と身支度を整えてブースを出る。
 ドリンクバーで飲み物を補給する人や、コミックコーナーで立ち読みする人、ネカフェの内部はいつもとなんら変わりはなかった。受付で料金を支払いネカフェを出る。
 時刻を確認すると午後の六時過ぎであった。ネカフェに入ってから三時間程しか経っていない。体感時刻的に考えてもこれは短すぎる経過時間だ。――心臓に埋め込まれたペースメーカー、生体クロックの加速。あれは本当のことだったというのだろうか。
 すっかり日の落ちた下り坂の街路を降りていく。何の変哲もない見慣れた現実の風景。だが本当にそうなのだろうか。先刻までのドン亀さん、アービターと自称するかのエージェントの言葉を信じるならば、今この世界は現実の一側面でしかないのだという。

 そして……

 ――私たちはマトリックスに住んでいるのでもなければ水槽の中の脳でもないのです――

 ドン亀さんが帰還する前に残した最後の言葉が時翔の頭にリフレインする。
 だけど……
 そうだとしても、どうにも釈然としない。
 生まれてこのかた生活してきた世の中が、現実として受け止めてきたこの世界が、誰かの作り物だったなんて。そんなこといきなり言われても、はいそうですか、と首肯できるわけもない。
 ――作り物?
 いや待て、作り物だなんて言ってしまったら、そもそもがすべて作り物ではないか。
 建物も、服も、食べ物も、自分たちの回りに存在するいかなる道具も社会制度も、すべて誰かが創った作り物じゃないか。
 誰かが作った社会という器の中に自分たちが生まれて生活している――させられているのだ。
 もしもそれが自分で創る物だとするならば、あるいは何かを変えていこうとするならば、まずは自分が成長して、教育を受けて、今の社会制度や枠組みを理解して、社会制度の変革に参画する権利を得て、それからだ――そこからが始まりなのだ。
 いやいや、待て待て、それもおかしい。
 そんなことはまっとうな教育を受けているというのが前提じゃないか。
 少なくとも今日聞いた話は、学校の社会科で習ってきたような教科には含まれていなかった。
 そんなカリキュラムは受講した覚えはない。
 テレビやラジオやネットニュース等で目にしたこともない。
 はっきり言って記憶にない。断言できる。
 だけど、そこは全くの秘密にされているというわけではないのだという。
 ドン亀さん曰く。
 公然の秘密――なのだという。
 秘密というよりも都合よく世の中を回すための暗黙の了解。
 ――大人の事情。
 あえて突っ込まない、つまびらかにしない。
 それが大多数の人間にとって最大公約数的な幸福に通じるから?
 本当にそうなんだろうか……
 いや、違う――
 どこかに齟齬があるはずなのだ。利害の衝突が起きているに違いないのだ。だからこそ先の少年のような異端分子、ドン亀さんが言うところの争乱者《イグナイター》なんて物が暗躍しているのだろう。
 そもそもあの少年が何を目的に、何を得るために自分たちに危害を加えてきたのか、結局解らずじまいではないか。ドン亀さんはのらりくらりと口を濁して、そこのところをハッキリと聞くことはできなかった。今から思え返せば意図的にそうしていたようにしか思えない。
 ではなぜ……?
「……ッキー……、トッキー!!」
 ここまで思考に没頭していた時翔だったが、友里の呼び声に気づいてハッと顔を上げる。
 前を見ると友里が数メートル離れた路上で振り返り、困惑した顔で立ち止まっていた。
「何ぼーっとしてんの? さっさと帰ろう」
「あ、ああ……ワリィワリィ」
 考え込んでいるうちに足の運びがお留守になっていたようだ。慌てて友里のところまで早足で追いつき、再び夜のバス通りを並んで歩き始める。
 少し前を行く友里は相変わらず押し黙ったままだ。妙に夜風が肌寒い。ここはほぼ海岸通と言ってもいいのだが、夕凪の時刻をとうに過ぎて陸風になっているせいか、昼間のような強い潮の香りはしない。
「なあ、友里」
 なんとなく気まずい感じがして、時翔の方から会話の口火を切る。
「ん?」
 歩を緩めることなく応える友里。
「どう思う?」
「何が?」
「さっきのドン亀さんの話」
「ああ」と、覇気のない調子で答える友里。
「どうなんだよ、おまえ、どこまで信じてるんだ?」
「うーん……」
 鞄をぶらぶらさせながらも妙に早足で歩く友里。標準よりも幾分短めのプリーツスカートが風に揺れて、見るからに寒そうだ。
「なんだよ信じてないのか? あれだけノリノリなリアクションしてたくせに」
「それがさあ、落ち着いて考えてみたら、あれって全部ゲームの中のイベントだったんじゃないかって思えて来ちゃったんだよね。よくあるサービス開始一周年記念とかのさあ」
 友里は熱病から冷めたように淡々とした口調だ。
「おいおい、全否定かよ」
「だってよくある話じゃん、サプライズとかでなんの前触れもなくおかしなイベントが始まるのって。クリスマス期間には敵のモンスターがサンタクロースの帽子かぶってたり、コスチュームがクリスマスカラーになっちゃってたり」
「へえ、じゃああれはただのイベントだったって言いたいのか?」
「まあおもしろい話だと思ったけどね」
「おもしろい?」
「そうだよ、私らの住んでる街が人外魔境だったなんて、ぶっ飛んでるよね」
「はは、人外魔境か。なるほど、確かにそうだよな」
 つまりそれを認めることは自分自身を人外認定することと同義になってしまうわけだ。
「うん……でも、結局あれはゲーム中の出来事、ぜーんぶVRが見せたシナリオだったって言われれば納得なんじゃない?」
「納得――か、確かにそう言われれば全部説明はついてしまうんだな……」
 ――お漏らし友里を回避できた件以外は……と、ちらりと思う時翔。
「うん……それにぶっちゃけ、ドンちゃんの話ってややこし過ぎてもうほとんど憶えてないし」
「友里、心配するな、それは俺も同じだから」
「だ、だよね……大体ああゆうイベントやるならエープリルフールにやるべきだと思うよ」
「そうだよな、なんの記念日でもないし、季節イベントでもないもんな」
「あのね、私もゲームは好きだし、プレイ中はすっごいテンション上がるし、弾けちゃうんだけど、なんかね……いつもそうなんだけど、ログアウトしたとたん変に冷めちゃうんだよね。あれかな、賢者モードってやつ?」
「そりゃ冷めすぎだろ。で? 友里はやっぱりドン亀さんの話は全部でたらめだったって思ってるのか?」
「全部がでたらめ――とは思わないけど、まあ、ほとんど?」
「ふうん、まあ、俺もちょっと信じられないんだけどな、特に一般層《レジットレイヤー》とか、加速層《ツインクレイヤー》とかな」
「げ、なんだかんだ言ってよく憶えてんじゃん。しかもそんな恥ずかしいなんちゃってテクニカルタームを……も、もしかして洗脳されちゃったの?」
「おい! いきなりリアリストになるなよ!」
「だってさあ、無理がありすぎるよ、いくらなんでも……」
「まあ、そりゃそうだけどさ……冷静に考えりゃ、な……しかし切り替えの早いヤツだな」
「こう見えても、私はおきゃんでドライな現代っ子だからね」
「俺だって、ナウなヤングだぞ」
 流行は繰り返す。かつて昭和と呼ばれた和暦の末期に流行ったスラングが最近の流行となっていたりするのだ。言い訳臭いが。
「それにさあ、ゲームはゲームだから楽しいんだよ。ゲームと現実をごっちゃにするもんじゃないよ」
「いや……してないつもりなんだけどな……俺としては」
 どうやらドン亀さんの懇切丁寧な説明も、友里の前ではすべてが徒労だったようである。
「ゲームと現実は違うんだから、勘違いするべきじゃないんだよ。それが許されるのはまあ中学二年生までだね」
 結局のところ友里の中ではドン亀さんはソーサラーズのちょっとふざけたゲームマスターという認識で、あれは手の混んだいたずら、あるいはサービス、でなければイースターエッグくらいにしか思っていないようである。
 まあ、確かに……
 それならばそれで良い気もする。いや、実際その方が丸く収まるのだろう。あんな、ドン亀さんの話のような、目に見えるものすべてに疑心を持たなくてはいけないような――暗鬼に怯えないといけないような世の中。そんなものは願い下げだ。夢オチで結構、VR落ち上等、それが妥当な線と言う物じゃないか。とりもなおさず今となっては彼女――ドン亀さんの言葉を裏付けるような証拠もありはしないし、確認する方法もないのだから。
 いや、待て……
 時翔は自分の制服のポケットを恐る恐る探ってみる。かさり……と、小さな紙切れが指先に触れた。
「なあ、友里」
「何?」
「おまえも持ってるのか? 控え……」
「控え? うん、いちよー持ってるよう」
 当たり前のように返答する友里。どうやらこの書面に関しては存在を認めているようである。
 時翔は制服のポケットから取り出した先ほどの守秘義務契約書《NDA》を眺めてみる。
「よく見たら裏面にもいっぱいなんか字が書いてあるんだな」
 街灯の頼りない光の元では、全くといって良いほど判読不可能であった。
「字が小さくてこんなの読んでいられないよ」
 時翔が手にしている書面を横から一瞥した友里がつぶやく。
「一応読んでおいた方が良いんだろうけどなあ」
「トッキーが読んどいてよ」
 今や興味を失ったオモチャのような扱いだ。
 書面の存在自体は認めても、有効性についてはこれっぽっちも認めていないようである。
「とんでもないことが書いてあるかもしれないぞ」
「そういえば自分のIDにレジストしとけって言われてたね。ま、それくらいはやっておくよ、約束だし、記念にはなるからね」
「するのかよ!」
「だって約束したし……ま、家に帰ってからでいいんじゃない?」
 坂を下りきり、バス停に到着した。ここからは友里と時翔は別路線のバスで自宅に帰ることとなる。停留所のインフォパネル表示によれば友里の自宅へ向かうバスの到着まで後五分程であった。
 二人は誰もいない待合室のシートに腰を下ろす。センサーが人影を検知し、頼りないLED照光が点灯した。
「それよりさあ、明日からの補習つき合ってくれるよね?」
「うげ、すっかり忘れてた」
「私は忘れていないよう、私は現実的な女だからね」
「そうだったな。って、俺は関係ないんだけどなぁ」
 実際友里は人一倍現実的な女なのだ。普段はおちゃらけていても、その実冷静に損得勘定で動く頭の良さも持っている。そのせいで時には腹黒いと誤解されることもあるだけなのだ。
 と、もはやルサンチマンにも似た自己暗示で擁護を試みる時翔。俺が洗脳されているとしたら黒幕は友里だろう、と自嘲的に思ってしまう。
「憂鬱だなあー、明日から補習なんて、なんかサザエさんのエンディングテーマが聞こえてきそうだよ」
「それは、憂鬱だな」
 ちなみにサザエさんはいまだに不動の視聴率第一位番組である。
 東芝海底実験都市は永遠の桃源郷なのだ。
「でもトッキーが手伝ってくれるからなんとかがんばれそうな気がするよ」
 いつのまにかすっかり決定事項となっているようだった。
「はぁ、分かったよ、でも答えは教えないからな」
「えへへ……いいよ」
 車道を流れるEVカーのヘッドランプが目に入り、一瞬目を細める。
「ま、いてくれるだけで、さ」
 茫洋とつぶやく友里。こりゃあ友里が時たま見せるアンニュイモードだな、と思う時翔。
 それでいて悲しいかな次のボケを待ってしまう。手もなく籠絡されるわけにはいかない。友里が時折フェイクも織り交ぜてくるのはもちろん学習済みなのだ。
 だが――なかなか来ない。
 無限の数秒が経過した後、ようやく友里が口を開く。
「……いいんだ」
 ふむ……結局来なかった。今日は売り切れなのかもしれない。
「そっか」
「うん」
 通学鞄を膝の上に置き、うつむき加減の友里がぼんやりと待合室の床に目を落としていた。輝度重視な演色性の悪いLED光のせいか、友里の青白い顔に掛かる茶髪も灰色めいて見える。
「ねえ、トッキー」
 ふと思いついたように顔を上げる友里。
「ん? なんだ?」
「今って毎日楽しい?」
「なんだよ急に……うん、そうだなあ、ま、そこそこってとこかな」
「そこそこ、か、私もそんな感じかな」
 噛みしめるように言葉を繋ぐ友里。どうやらフェイクではなかったようだ。
 とはいえ、正直ダウナーモードの友里は苦手な時翔だった。
「なあ、友里……」
「ん?」
「おまえ、もしかして、少しはショック受けてたりするのか?」
 やおらに顔を上げて時翔の目をのぞき込む友里。
「受けた、って言ったらどうする?」
 心なしかさらに青ざめた顔色だ。
「どうした? 酸欠か?」
 友里は無言のまま前方に視線を戻し、首を横に振る。
「何か思い出しそうなのか?」
 珍しく時翔の方から誘い水を掛ける。
「ううん、大丈夫、体が、ね……ちょっとだるい気がするだけ」
 だがやはり乗ってこない。これは重症かもしれない。
「気分悪いのか?」
「そういうわけじゃなくて……なんていうか、説明しづらいんだけどさ……変な感じなんだ」
「変な感じ?」
「うん、例えばさあ、ぼーっとしてる時に乗っちゃったバスで、路線を間違えちゃったかも、とか焦ったことない?」
「ああ、たまーにあるな、でもそういう時って単にぼーっとしてただけで結局はいつものバスだったりするんだけどな」
「で、さあ、外の景色を見て確かめようとするんだけど、そういう時に限って車窓の景色がいつもと違って見えるよね。あれこんなとこにコンビニあったっけ? とか……、でもそれって毎日見てる時には気がつかなかっただけで。いつもと同じ風景なんだよねぇ。あれって何でだろ?」
「まあ、意識の問題だろうな、それか、勝手なイメージを創り上げちゃってるからかもしれないけど」
「秒針の動きを確かめようとすると一瞬止まってるように見えるし、見つめられてる鍋は煮立たないし」
「どんどん違う話になってきたな」
「あーもう分かんないっ、やっぱ疲れてるのかな」
「ああ、そうだろうよ、今日はもうさっさと寝た方がいいぞ、どうせ勉強なんかしないんだろうから」
「うん、分かってるよ……」
 やがて坂の上からEVバスに特徴的な多灯カクテルLEDヘッドランプの光が近づき、静かに停車する。
「じゃあ、お先に」と、友里が乗りこむ。
「ああ、また明日な」
「うん、ばいばい」
 走り出したバスの窓から友里が手を振っているのがちらりと見えた。バスが走り去るのを見送った後、時翔も反対方向のバスで自宅への帰路に付いた。

 バスを降りると時翔の自宅までは五分ほどの道のりである。
 大通りを外れて住宅街に入ると、道はことさら暗くなる。
 チバラギシティ第三区画にある時翔の自宅周辺は、スマートグリッドクラスBの住宅が建ち並んでいる。つまり屋根も壁も太陽電池パネルで覆い尽くされているため、そのシルエットはほとんど夜の闇にとけ込んでしまうのだ。家々の窓から漏れる灯りがなければ、そこに住宅があることさえ視認できないであろう。おまけに街灯もセンサーが人影をキャッチしない限り点灯することはないので、人が歩いていないところは基本的に真っ暗なのである。
 そのくせ街路を死角なく網羅するワールドカメラは、赤外撮影による監視を二十四時間休みなく行っているのだ。結局のところ最終的にはエコロジーよりもセキュリティが優先されているということなのだろう。
 自宅の玄関をくぐり、リビングの横を素通りする。扉の向こうから時翔を誰何したのは妹のメイだった。共働きの両親はまだ帰宅していないらしい。
 本来ならばリビングで夕食を摂るところだろうが、何となく食欲がわかない。
 しかし今日の夕食当番はメイの番だったはずだ。食べ盛りの中学生が兵糧攻めで目を回すことにはなっていないだろう。もし自信作を用意していてくれたとしたら、ちょっと気は咎めるが、今晩はパスさせてもらおう。
 さっきまで友里の変調を気に掛けていた時翔だったが、友里と別れて一人になってみると、どっと疲れが吹き出てくるのを感じていた。そのせいでなんだか空腹感も感じないのだ。全身を襲う疲労感はどういうわけだろう。時翔は二階の自室に直行すると倒れ込むようにベッドに身を預けた。
 しばらくぼんやりした後、ふと思い立ち、例の守秘義務契約書《NDA》を取り出してみる。今や友里にとっては子供銀行券以下に価値が暴落した一品ではあるが、ただの紙切れではないのはなんとなく分かる。

 ――どうかレジストをお忘れなく――

 ドン亀さんの最後の言葉を思い出す。
 そう言えば友里はやったんだろうか?
 うーむ……
 自戒するように弾みを付けてベッドの上で上体を起こし、左手にはめているリストバンド型スマホを端末モードに切り換える。ディスプレイには摂取カロリー不足のアラートアイコンが表示されていた。
 食欲はなくとも、アダプターは律儀にインフォメーションを出してくるのだ。本人の意志には関係なく……。
 通常は生体発電機からの電力供給がデフォルトとなっているスマホだが、今はホームジェネレータからの電力受信に切り替わっていた。安全装置が働き、電力受信ローミング機能が手近の電力供給ポイントをサーチしたのだ。
 時翔はトラックキーボードを五指に展開させ、試しに書面をスキャンしてみる。スマホから照射されたプロジェクションウインドウの中に、二十桁あまりのコード入力ダイアログがポップした。
 ――うお、めんどくせえ……
 このタイプの承認入力はセキュリティポリシーの関係で、基本的に手打ち入力を要求してくるのだ。元々レーザープロジェクション型のトラックキーボード入力は得意ではない時翔だった。
 そうは言っても約束は約束だ。ため息をつきながらも何とか入力を終える。確認画面でアクセプトを押したところで力尽き、再びまどろみに身を任せた。





 第三章 オブザーバーと同伴世界

 01

 ◇ ◇ ◇

 捜査報告書 記 アービター340号

 西暦(和暦)87年10月9日

 時分割法第73条第1項違反行為にかかるツインクレイヤー在住イグナイター認定番号324号の検挙未完遂理由と顛末を報告するものとする。

 西暦(和暦)87年10月8日、かねてより手配中の同被疑者がコンシューマーゲーム、製品名ソーサラーズ Ver.1.2.4=iアダプター使用出願番号102156番)へのハッキングおよび利用者アダプターへのEMP被害を与える事案が発生。本官は局内端末より同アプリケーションにスーパーユーザー権限にてログイン。時分割法第13条第2項アプリケーション保護則に基づきNPC擬態にて調査を行った結果EMPポータルゲート位置の特定に成功。同イグナイターを確保に向かうも想定外のアプリケーション制限による障害によりイグナイターの位置をロスト。その間にイグナイターはEMPポータルゲートから二名のレジッターにEMPショックを行使。リザーブレイヤー第281層に当該レジッター二名の強制不正同期を検知した。急遽ポータルゲート追跡によってイグナイターのログイン地点をチバラギシティ第4区画(旧桜川市北部)ネットカフェキダゴロウ≠ニ特定。本官はAR超層アバターにより同イグナイター確保に向かい同レジッター二名の協力により確保に成功。非合法アダプタートレイナーと略取されていた三名分のアダプターIDを押収した。その後EMPショックにより損傷を受けていた同レジッター二名のアダプター修復作業中にパージ班より連絡を受信。同イグナイターの搬送中に逃走を許したとの報告を受け同班と合流に向かうもその間に完全ロストした模様。イグナイターにおいてはこの時点でレイヤー移動手段を有していなかったことから反政府組織ドネイターズによる介入によってツインクレイヤーへの超時空ジャンプを可能にしたものと推察される。なお、搬送中のミスについては同パージ班の報告書を参照のこと。

 ◇ ◇ ◇

「これはなんでしょう?」
「はい、ええと……報告書です。局長」
 そう言った後、私は唇を噛みしめて彼の言葉を待つ。
「それは見れば分かりますが」
 ゆったりとしたエグゼティブチェアーに収まり、報告書に目を落としながら、ぼやくように彼が言った。慇懃な口調とは裏腹に、その表情には明らかな蔑みの意が見て取れる。
 分厚い絨毯が敷き詰められた執務室は耳が圧迫されるような無音感で満たされていた。瀟洒な事務机を挟んで向かいに座る私は膝の上で両手の拳を固く握りしめる。パイプ椅子がぎしりと音を立てた。
「ひどいものですね、どこをどう読んでもミスばかりではないですか」
「はい、申し訳ありません」
 刺すような視線が痛い。私はうつむき加減で目だけを上げて答えてしまう。
 高級調度品に囲まれたこの部屋には私と局長、それにもう一人、巨大な事務机の右サイドに書記係の女性が座っている。背筋をピンと伸ばし、机に作りつけのクラシカルなプロジェクションキーボードを両手の指に当てながらも微動だにせず、視線だけを私と局長の方に交互に向けている。のだけれども、秘書という感じでもなく、やはり書記、あるいは司書という感じだった。その無表情に佇んでいる様は、まるで彼女自身がこの部屋の備品であるかのようだ。
「こんなことではいつまでたっても昇進できないでしょうに」
 その昔、ロシアに広がっていたというツンドラ平原に流れる川の水音のように冷たい声で彼は言う。私は再び目を落とし、沈黙で答えた。
「まあ、いいでしょう」
 そう言うと彼は報告書を机の上にはらりと落とし、椅子を下げて立ち上がった。総髪の黒神がつややかに光る。ストッカーである彼は齢七十歳をとうに超えている。しかしもちろん、ペースメーカーによる脳保全機能により、実人生時間は当然ながら短い。そして彼は上司、私と同じ保全層《ストックレイヤー》の住人ではあるが、彼はこの監察局に最近着任したばかりの新任オブザーバーなのだ。
 そして今私は局長室で彼の査問を受けているというわけだ。
「ところで、あなたは情報社会学の方が専門だったと聞きましたが?」
「はいっ、い、いえっ、それはカレッジの方で専攻していただけで――」
「ほう、そうですか……」
 そう答えた彼が、ふと思い出したように彼女の方に目を向ける。
 彼女、つまりこの部屋のもう一人の利用者、テーブルサイドに静謐に佇んでいる書記係だ。
「十兵衛さん、ここからはオフレコということで」
 十兵衛というのが本名なのか、あるいはコールサインなのかは知らない。本来、局内でコールサインを使用する意味はないはずだが、特務部署であることを鑑みれば、あり得ないことでもない。しかしそうは言っても、フェミニンな外見にはなんとも似つかわしくない呼ばれ方だ。
 彼女は、「はい」とレスポンスした後、表情一つ変えることなくプロジェクションキーから指を離した。
 局長は軽くうなずくと、再び私の方に視線を戻し、質問を再開する。
「で、なぜフィールドメンテの方に」
「そ、それは……座学だけでは……」
「ふむ」
 彼は威圧的な微笑を浮かべながらも、口ごもった私を促すように低く合いの手を入れる。
 私はいっそう体を硬直させ、彼の視線にぶつける勢いでキッと目を上げた。
「座学だけでは、実践が伴わない……真実の社会が見えない……理解できないと、そう、思ったからです」
「なるほど」
 彼は口元に笑みを刻んだまま答える。
「まあ、それもまた一興ですね」
 そう言うと彼は、後ろで手を組み合わせ、ゆったりとした歩調で窓際の方に移動する。
 局長席の後方はテラスに続くガラス扉になっており、こちらに背を向けたかと思うと、窓越しの風景を眺めている。
「ドン亀さん……こっちへ来て、ごらんなさいこの眺めを」
「あ、はい」
 私は椅子から立ちあがり、窓際に移動する。少し離れて彼の左横に立ち、同じように眼下の景色に目を向けた。
 それにしても――ドン亀というのは私のコールサインだが、考えてみれば十兵衛の方がまだしもましなコールサインに思えてきた。今さら言ってもしようがないが……。
 東向きの窓の外に広がる風景は、海沿いにそびえるリゾートホテルから望むかのような一大パノラマだ。近景のメガフロート上に林立する低い建物はすぐに途切れ、その向こうには新東京湾が視界のすべてを支配している。遠景に霞むつくば丘陵方面とその南の房総島は、広大な霞ケ浦水道によって分断され、今や巨大な内陸海の様相を呈していた。
「随分すっきりしたと思いませんか」
 ぴったりとした士官用のグレーの制服を一部のゆるみもなく身に纏う壮年の男が、それでも僅かにくだけた調子で言った。
 すっきりした、と。
 彼が一体どのくらい昔に比べて、すっきりしたと言っているのかは実際にはよく分からない。しかし私の年齢、二十七年間の記録を辿るだけでも彼の言わんとしていることは、おぼろげに理解できる。

 02

 ――およそ百年前から顕著になった急激な海面上昇は、世界中の海抜ゼロメートル地帯を分け隔てなく海没の危機に追い込みつつあった。それでも日本、特に東京は巨額の費用を投じて海進を食い止めようと躍起になっていた。それなのに、まるで狙い澄ましたように発生した地震によって、防潮壁の大規模な崩壊が起こり、津波による被害で排水ポンプ類もすべて破壊されてしまったのだ。
 しかも地震によって地盤が液状化しているところに、その後襲った津波で高層建築以外はほぼ海面下に没し、基礎工事が堅牢な高層建築だけが残る形となった。しかしそれも海水の浸食により、あっという間にその数を減らし、海面上から姿を消して行ったのだ。海の底に沈んだ鉄筋コンクリートのビル群は、今では最高の魚礁となり、新たな生態系を生み出しつつある。だけれども、市街地が完全に海中に没したとはいえ、ビル群の残骸による座礁の危険性は高く、大型船舶の航行は叶わず、大規模な漁業はままならない状態だ。それゆえに新東京湾は今や魚たちの楽園となっているのだ。
 つまり……どこまで行っても人間は自然の力の前には無力なのだ。どんな最新工法で建築された建物だろうと、人間が定期的にメンテナンスしなければ、あっという間に崩壊する。それが海中ともなればなおさらだ。もちろん、メンテナンスを怠らなければ、海上であろうと海底であろうと簡単に崩壊するようなことにはならない。現にこのメガフロート、海抜が高かったおかげで、かろうじて水没を免れた皇居の沖に建造された――通称、長田アイランドは、東京スカイツリーをメインアンカーとして利用している。そしてその頂は数十メートル海抜を下げたとはいえ、なおも電波塔としての利用を継続されているのだ。
「早いものです」
 しみじみと感慨にふけるように彼ら漏らす。
 私の三倍近い年輪を重ねてきた彼の人生がどんな物だったのかは知るよしもない。だけれども、彼がこの世に生を受けた時には――物心がついた頃には、まだ相当数のビル群が海上に残されていたはずだ。それでもやはり、月日が経つのはあっという間なのだ。あっという間に一年が過ぎ、あっという間に十年が流れ去る。ついこの間まで威容を誇っていたビルの残骸も、気がつけば消え去っている。ただの海原へと回帰を遂げている。人間というものは年齢を重ねれば重ねるほど時間の流れが加速していくように感じられるものだという。それは当たり前の感覚だ。自分自身の人生を振り返ってみてもそれは実感できる。
 そして、そう……それは――
 保全層居住者《ストッカー》であれば、なおさら[#「なおさら」に傍点]なのだ。
「あなたは今の世界をどう思いますか?」
 如才ない眼光に、微笑を湛えつつ彼が言う。しかし、なんとも漠とした問いだ。
「今の世界、ですか……」
「ええ、あなたは情報社会学を専攻していたのでしょう? そしてあなたは座学だけでは見えてこない問題を、実地に検分したかった。そうでしたよね。で、どうですか、あなたが思い描く理想の社会に比べてどうでしたか?」
 理想の社会……
 そうだ、いつの時代も人間はそれを追い求めてきた。そのためにテクノロジーを発展させてきたのだ。だから私は確かめたかった。追求したかった。そのためにこの仕事を選んだのだから。
「つまり、この――時分割同伴世界《TDMW》をですか」
 私は問わずもがなのことを確認するように言ってしまう。
「無論そうです。現状の社会制度、今の世界はあなたの理想だと思えますか」
 私には、彼の意図が今ひとつ汲みとれない。そんなことを訊いてどうしようというのだろう。
 あるいは単に世間話をしたいだけなのだろうか。
 しかし、それでも私の答えは決まっている。
 それを言葉にする。
「もしも……当時、京都議定書を完全に履行したとしたら、温暖化を六年遅らせることが出来たのは、計算上確実でした。ですが、それをアメリカが履行する費用だけでも世界中の人々に清潔な飲料水を供給するのに匹敵する費用が必要だったんです。そして……やはり日本でさえも議定書の目標には到底達しえませんでした。結局は他国からの排出権購入で、数字上の目標値を達成するのがやっとだったのです。でも、それは間違いではなかったと思っています。生産を落とし、不便に耐えたとしても、結局は破滅的温暖化は避けることはできなかったのですから。だから……その時に私たちが無一文で立ちつくすことにならないようにしてくれたのは、英断だったと思っています。そのおかげで私たちには、新たな社会システムを構築する力が残されていたのですから。今のこのシステムが理想かと問われれば、それはどうかは分かりません。でも、少なくとも、理念は正しいと思っています。このシステムの設計者は偉大な人たちだと思っています。いえ、天才だと思っています」
「天才、ですか、なるほど」
 私の勢いをはぐらかすように、飄々とした口調で彼は答えた。
 私は睨み付けるような勢いで、彼の方に向き直る。彼の不自然なまでに整った顔が微かに困惑に歪んだように見えた。それでも私は畳み掛けるように反駁する。
「では、局長は、どう……思われているのですか」
「私ですか、ふふ、私にとっては、なんともわずらわしい世界ですね」
 彼の言葉に私は少し面食らう。
 そこまで言うとは……それは立場上どうなのだろう。と思ってしまう。
 いや、そうではなく。
 職業オブザーバー。今度の局長はどうやらそういうことらしい。
 だけども、それでこそオブザーバーと言えるのかもしれない。筋金入りなのかもしれない。
 この世界の傍観者であり、そして睥睨者なのだ。
 見に徹するのが彼らの仕事なのだ。
 そもそもオブザーバーでありながらも局長という、いびつな組織体系なのだ。本来ならば私が報告すべき相手は直接の上長、中間管理職であるはずなのだが、今回の案件にはドネイターズ絡みということで、この新任オブザーバーが使命感に絆されたのだろうか。逃亡を果たしたイグナイターは完全に行方をくらましている以上、私から得られる情報はこれ以上ないはずなのだから。
「なぜ、そう思われるのですか?」
 そんなことを聞いても無駄だと思いつつも、私はつい訊いてしまう。
「なぜって? 面倒くさい世の中だからですよ。あなたはそう思いませんか?」
「それは、そうかもしれません。しかし、それでも人類は衰退を回避しました。このシステムのおかげで人口を減らすことなく危機を乗り越えました。……多分。だからこそ……人類は新しいステージに踏み出すことができたのです。私は……そう信じています」
 私は体の横で握り拳を作って一気に言葉を並べた。
「ふふ、まあ、それもそうかもしれませんが。しかしどうでしょうね、結局のところは土地の資産価値を上げたい地主的な思考なのではないですかね」
 彼は私の勢いを受け流すかのように、相変わらず微笑を湛えたままで言う。
 つまるところ……
 ノー率、コー率、ケンペー率。
 実際、そういう揶揄も根強い。海面上昇によって手狭になってしまった居住地域にひしめき合う人口。そして皮肉にも人口問題に拍車を掛ける世界的な長寿化。その両方を一挙に解決するための禁断の凶銃。時間軸方向に無理無体に建坪率を上げる暴挙。そんな否定論も絶えてはいない。
 だからこそ、反政府組織ドネイターズのようなレジスタンス集団が、絶えることなく存在し続けているのだ。
「おっと、さすがに言葉が過ぎましたね。これは失礼。でも、まあいいでしょう。どのみちあなたにとっては生まれた時からこういう世の中なのですし、それを受け入れるのは当然のことです。教育というのは常に恣意的な物ですから」
 彼が一体何に対して懐疑的になっているのか、どうもよく分からない。そもそも彼の年齢を考えれば、この世界を設計し、法律を定め、制度を確立させた官僚達と同世代なのは間違いのないところのはずだ。なにしろ今の制度、このシステムが稼働を始めたのはほんの三十年ほど前のことなのだから。
 私としても、彼の経歴は知るところではないし、知り得る立場でもない。ひょっとすると、当時の彼は経済エコノミストでも生業にしていたのだろうか。
 でも、それでも何か違和感は拭えない。
 こんなことで良いのだろうか、とも思う。
 オブザーバーの立場、と言うよりも……
 ストッカーとして……。
「おやおや、そんな顔をなさらないで頂きたいものですね」
 私の怪訝な表情を見て取った彼がおどけるように言う。
「確かに今の私はオブザーバーという任職に就いてはいますが、だからと言って発言権がないわけではありませんよ」
「はい、それは分かっています」
 発言権は存在する。でも、だからと言って強制権はない。それがオブザーバーというものだ。
 だけど、それは口には出すまい。
「かつて……」
 回想するように彼が言葉を紡ぐ。
「最も成功した社会主義国家は日本だと、皮肉混じりに言われていた時代がありました」
 そんなことは知っている。でもそれは褒め言葉でもあったのだ。その時代、国民の誰もが自分を中流階級だと思い、終身雇用を日本人の美徳だと信じて疑わなかった。だけどもそれは同時に軍国政権体制の名残でもあったのだ。
 だから……
 彼は横目で私の表情を咀嚼するように確認した後、ゆっくりと続ける。
「そう、それも長くは続きませんでした。個人主義的、市場自由主義的な価値観が広がるにつれ、社会は人々に格差を生み出し、それをさらに拡大してきました。しかしそれを縮小することなど出来るわけもありません。今さら縮小することなどね」
 私は、堪らず彼の述懐の腰を折る。割って入る。
「だ、だからこそ、この制度が作られた――いえ、新天地に入植したんです。公平でリベラルな社会を、誰もが納得できるような、それでも――努力次第ではそれに見合った報酬を受けられるような、そんな両立を可能にする社会を目指したんです。この――同伴世界で」
 勢いのままにまくし立てる私の言葉を制するように、静かに彼が応える。
「なるほど、あなたはなかなか優秀な方だ。ストッカーとして。そしてもちろん――」
 彼は言葉に重みを与えるべく少し区切ってから言う。
「調停者《アービター》としてもね」

 03

 何かに得心がいったという風に、締めくくるように彼が言った。
 そして私のクールダウンを待つかのようにインターバルを置いた後、改まった雰囲気で彼が言う。
「ところで、報告書にあったレジッターのお二人に付いてですが――」
「は、はいっ」
 この奇妙なディスカッションが、まだもう少し続くものと思っていた私は、若干気抜けして呆けてしまっていた。
「ああ、十兵衛さん、記録の再開をお願いします」
「はい」
 彼の言葉に遅延なくレスした彼女が、プロジェクションキーボードに両手の指をすっと戻す。
「このお二人はEMPショックの被害に遭われたようですが」
「そうです、ポータルゲートを通過してしまっていたので……」
「なるほど。それで、お二人のアダプターの修復を行った、と」
「はい、EMPショックによる損傷は軽微でしたので、キャリブレーションと、位相同期テストまで問題なく済ませました」
 彼は私の言葉にほんの少し眉根を寄せる。
「それにしても時間が掛かりすぎのように思いますが」
「あ、はい……彼らを落ち着かせるために少々事情説明を……」
「事情説明ですか」
 彼は明らかに訝しんでいる。私の表情を伺うような視線が痛い。
「もっ、もちろん守秘義務に触れるようなことはなにも――」
「……そうですか。しかし彼らの年代に対してそこまで詳しい説明は不要なのではないですか?」
 そうだ、その通りだ。実際私が開示した情報は許容範囲ぎりぎり、いや一部は年齢制限を超えるものも含まれていた。
 でも……
 私は知りたかった。
 この世界が――今のシステムが、まっさらな世界観をもつ一般市民にどう受け止められるのか、それを確かめたかったのだ。
 それは今まで机上の理論だけで学んできた、私の研究者としての探究心なのは認めざるをえない。だけどもそれは、あくまで純粋な研究心に基づいていることにも自信がある。
 誓って単なる興味本位なんかじゃない。
 私は胆力を奮い起こし、目力を込めて顔を上げる。
「今回のケースでは、必要と判断しました。彼らはそれに値する状況認識力が備わっていると判断しました」
「ふむ」と彼は応えると、今度は十兵衛女史の方に顔を向ける。
「このお二人のステータスは参照できますか」
 彼女は、「は――」と小さく返答した後、高速に両手の指をフリックさせ、ホロモニタにリストを表示させる。
 彼女が表示された情報をかいつまんで読み上げ始めた。
「チバラギシティ第二区画、木場倉学園高校、一年次在籍の男子生徒、および女子生徒です」
 中空に拡大表示されたホロモニタには、確かに聞き覚えのある彼らの名前が表示されていた。
「ただ……」
 と、冷静に彼女が言及する――いや、指摘する。
「この女子生徒のアダプターのアクティベーションが確認できません」
「え! そ、そんな……はずは」
 思わず私が口から零した言葉に、局長は物憂げに双眸を細める。
「再レジストは間違いなく行ったのでしょうか、ドン亀さん」
 仮借ない上司の問責が私に向かって飛んでくる。
「え、あ、はい……レジストキーは渡しました……でも……」
「レジストは確認しなかったのですね」
「は、はい、申し訳ありません」
「そうですか」
 失望感を露わにしながら彼が再び十兵衛女史に問う。
「十兵衛さん、その女子生徒のペースメーカーの誤差率《ジッター》は測定できますか」
「はい、少々お待ちください」
 私はこれ以上ないくらいにおろおろしながら、彼女の正確な指さばきを見守るのみとなっていた。
 優秀なオペレーターがすぐに調査結果を報告する。
「およそ0.1ppmの誤差を検出しました」
「それはよろしくないですねぇ、これはシンクロ率の低下を招きますよ」
「申し訳ありません、私の責任です。これからすぐに行って、レジストさせてきます」
「お待ちなさい、ドン亀さん、こういう仕事は本来サルベージチームのテリトリーでしょう、あなたが行く必要はないと思いますが」
「い、いえっ、私の責任ですから、彼女とも面識もありますし、それに……サルベージ、までは、するほどのことでもないかと」
「ふむ」
 局長は腕組みをして考え込んでいる。
「十兵衛さんはどう思われますか」
「――はい」
 彼女としては自分に意見を求められるとは想像だにしていなかったようで、珍しく動揺を隠せない表情を見せている。それでも私の方をちらちらと見ながら、言葉を選びつつも発言する。
「局長の言われる通り、慎重を期すならば迅速にサルベージを行うべきだと思いますし、必要があればパージすることも止むを得ないと思います。ただ、彼女はまだ学生ですし、人命に危険が及ぶような職業に就いているわけでもありませんから、時間が許すのであれば、再度キャリブレーション後、アクティベートで現状復帰させるのも次善の策かと思われます」
「なるほど」
「ただ、あまり悠長にしていると、調歩同期《フェイズロック》していないペースメーカーは次第に誤差が大きくなってきますから――」
「うむ、問題が起きかねない、ですからねぇ」
 局長の言葉を受けて、彼女がひときわ重々しく言う。
「はい、エンカウンターの発生が懸念されます」
 ――エンカウンター
 それは避けたい。
 元々体調不良や、電波障害によりペースメーカーの同期が狂って、エンカウンターが発生する事例は時たま起こりうるが、アクティベーションさえされていれば、あくまで一時的なことであり、自動修復でことなきを得るのがほとんどである。しかし彼女のように、ペースメーカーがフリーラン状態のままではシンクロ率は悪化する一方になってしまう。
「すぐに出動させてください」
 私は居ても立ってもいられない心持ちで、出動要請を願い出る。
 もちろん、大口を叩いた手前もあったのだが……。
「まあ、いいでしょう。許可します。既に問題が起きていなければ良いのですがね。彼女とて子供というわけでもありませんし、周りへの影響も看過できないですからね」
「局長、それについてですが、ご心配には及ばないのではないかと」
「十兵衛さん、どういう意味でしょうか」
「はい、これは、木場倉学園高校後期試験の結果ですが――」
 十兵衛女史が彼女の個人情報の一部分を拡大してポップアップさせる。
 そこに表示されていたのは、
 7教科合計271点。
 惨憺たる結果である。
「なるほど、そういう意味ですか」
 つまり、単純に一言で言えば……
 彼女曰く、
 バカだから心配ないんじゃね?
 と言いたいのだろうか。
 辛辣、かつ上から目線な見立てであるが、私としては十兵衛女史のことを、この部屋の備品、あるいは情報端末の周辺機器などと先入観を持っていたことに、大いに反省しきりであった。
 しかし逆に彼女――友里さんのパーソナリティーを多少なりとも知っている私としては、胸にのしかかる重石のように、不安が広がりつつある。
 ――おそらく、やっかいなことが起きる……いや、もう起きているかも……。
 それにしても、――友里さんだが、彼女としても、こんなところで自分のテスト結果がさらし者になっているとは夢にも思わないことだろう。それを思うと少々気の毒ではある。
「それでは、これからすぐに行ってもよろしいでしょうか」
 私は焦燥感を抑えきれず、局長に進言する。
「まぁ、いいでしょう」
「ありがとうございます。それでは、ええと、超層《スマーフ》アバター27番の使用許可をお願いします」
 こちらの方は、もう手っ取り早く十兵衛女史に対して申請する。
「受理しました。27番、出動スタンバイです」
「ふむ、では十兵衛さん、ここまでの記録はよろしいですか」
「はい、すべて漏れなく」
 静かに答えた彼女に向かって局長が締めくくるように言う。
「分かりました。では以上のように記録《スクリプト》し――」
 そう言った後で私の方に向き直り、定型句のように事務的な口調で低く告げる。

「以上のように実行《エグゼキュート》してください」





 第四章 友里と同伴学園


 これからちょっと私のことを喋らせてもらおうと思う。
 なんのために、誰に向ってなのかは自分でもよく分からないけれど。
 もしかしたら、地面に掘った穴に向ってなのかもしれないけれど。
 たまには自分を見つめ直すのも悪いことじゃない。はずだよね。
 まぁ、ほんのちょっとだけだから言わせてほしい。
 って言っても、話するのは苦手だから、うまく伝わらないかもしれないけれど、我慢して聞いて欲しい。
 文章っぽく、できるだけわかりやすく、まとめてみようと思う。
 だって本読むのは割と好きな方だし、文学少女とまでは言わないけれど、作文も結構得意なんだ。
 でもまあやっぱり、作文っぽくなるかもしれないけれど、黙って聞いてほしい。
 文句は言わないで。
 そこの人。
 とにかく聞いて。
 私、年齢十五歳。自分で言うのも何だけど、どこにでもいる普通の中学三年生の女子だ。
 どう? 親近感沸くよね、だって普通の女子中学生なんだから。
 誰だって自分のことを普通だって思いたいし、思ってるはずだよね。
 それならやっぱり誰だって普通の人間には最大公約数的にシンパシィ感じるはず。
 だって世の中には普通の人間が一番多いはずなんだから。
 だけど、そうは言っても、やっぱり少しくらいは普通じゃないところが誰にでもある。それも当たり前。
 そうじゃなきゃ、誰が誰だか分からなくなっちゃう。
 だから私にだって普通じゃないところが少しはある。
 それくらいの自覚はある。
 例えば。
 顔がカワイイところ。
 性格がお茶目なところ。
 真面目で親に逆らったりしないところ。
 客観的に見てそう思う。
 え? 主観的の間違いじゃないかって?
 それはない。絶対。
 異論は挟まないで。
 でも、さすがに美少女とまでは言わない。
 そこが私の奥ゆかしいところ。
 明るく染めた髪の毛にショートボブ。
 おかっぱじゃないからね。
 いわゆる茶ボブってヤツ。
 平均的な女の子なら、五割り増しでカワイくなる髪型だ。
 そういうところも含めてカワイイって意味なんだ。
 自分でもその辺はちゃんと分かってる。
 せいぜい平均よりはだいぶカワイイって程度。
 健気にもそれを認めている私はやっぱり慎ましい。
 そもそも超絶美少女なんて、その辺にいるわけないんだし。
 もし自分でそんなこと思ってる女がいたとしたら、あきれかえるしかない。
 どんだけ自信過剰なんだよって、小一時間説教してやりたくなる。
 えーっと、それはどうでも良いんだけど。
 とにかく見た目は大事だよね。悪いより良いに超したことはないんだもん。
 だから今言ったことは私にとってはあまり問題じゃないってこと。
 何が言いたいかって言うと、別の普通じゃないところで困った問題がいくつかあるって話。
 例えば、
 そう、
 私はあだ名で呼ばれたことがない。
 あだ名、ニックネーム、二つ名てヤツ。
 でも、あだ名どころか、下の名前で呼ばれたこともほとんどない。
 もちろん親以外の友達からだけど。
 だいたいこの名字もよくない。友里だなんて、名前みたいな名字が。
 ちゃんづけにするだけでも、それだけでナットクしちゃうんだ。
 先生も、クラスメイトも、友達も。
 うん。友達……。
 友達の複数形は友たち、だなんて言うけれど、友達なんて、いっぱいいればいいってもんじゃない。
 何十人も友達がいる子なんてのも見たこともない。
 しょせん友達なんて二、三人いればそれで十分なんだ。
 でも……
 白状すると、中学三年生の二学期現在のところ、私には友たちどころか、友達と呼べる友達は一人だっていない。
 理由は単純、引っ越しが多いせい。
 生まれ故郷の青森にいたときは、幼馴染みの友達がいっぱいいたけれど、パパの仕事の都合で引っ越してからは会うこともなくなった。
 そのままいつのまにか顔も忘れちゃった。
 今から思えば、子どもってホントにバカだと思う。
 遠くに離れたら、もう簡単に会えなくなるのは分かるはずなのに、
 自分の世界から消えちゃうことがどんなに大事件なのかってことが、全然分かっていなかった。
 私もバカだし、友達もバカ。みんなバカ。
 だからそんなバカの顔も、もう思い出せない。
 でも私が悪いんじゃない。勝手に引っ越した親が悪いだけ。
 でも、だからといって、別に親を恨んでる訳じゃない。
 パパは優しいし、お母ものんびり屋だけど、しっかり者で尊敬してる。
 いつだって一人っ子の私を大事に思ってくれている。
 それだけは疑ったこともない。
 だけど、それからの私は引っ越し三昧の生活がずっと続いている。
 もう小学校、中学校あわせて何回引っ越したかも憶えていないくらい。
 引っ越して、転校するたびに友達はリセットされて、そんなことが何回も続いていくと、だんだん面倒になってきたんだ。
 面倒って言うか、怖かったんだと思う。
 せっかく仲良しができても、また離ればなれになることが。
 だから、積極的に友達を作れなかった。
 パパの転勤はいつも数ヶ月ごとに続いていたから。
 もう、友達を作る気力もなくなってきちゃう。
 どこへ行っても、いつまで経っても落ち着かない。
 いつもそわそわと気が急いて。
 どこへ行っても私はよそ者。
 そんな感覚が身に付いてしまっていた。
 ついでに言うと、勉強も遅れがちだった。
 漫画なんかだと、転校生は超頭良かったりするけれど。
 あんなのウソ。ありえない。
 転校したら教科書も変わるし、変わってなくても教わったところをもう一回やらなくちゃならなかったりするし、教わってないところがテストに出題されたりするから、成績は下がる一方だった。
 そして。
 今日我が家で一大事が起きた。
 私は生まれて初めて親にたてついた。下克上を起こした。
 だけどそれにはちゃんとした理由があったからだ。
 もう中学の卒業まで後半年も残っていないのに。
 なのに。なのにだよ!?
 引っ越しが決まったことを告げられた。
 だから私は切れた。
 ヤダッ!! って。
 ちゃぶ台をひっくり返した。
 そして、
 泣きながら、
 わめきながら、
 訴えた。
 私がどれだけ損してきたか、
 どれだけつまらない思いをしてきたか、
 たまっていた思いを、ひたすらぶちまけた。
 おさえていた気持ちを爆発させた。
 だけど。
 気が付くとパパもお母も泣いていた。
 ごめんよって言って、すまなさそうにしょげかえって。
 娘に頭を下げていた。
 そこで初めて我に返って、
 ちょっぴり後悔した。
 今の今まで、
 ずっと良い子でいた私なのに。
 生まれて初めて本音をぶつけたら。
 とても悲しそうにしてる両親を見てしまったら。
 これでよかったのかも分からなくなって。自分の部屋に閉じこもって、
 そして、
 泣いた。
 訳も分からず、悲しかった。
 友達がいなくても、
 勉強が出来なくても、
 いつでも私の味方だったパパとお母なのに。
 悲しませてしまった。
 二人を。
 いつでも良い子だった私が。
 私ともあろうものが。
 もうだめだと思った。
 そのまま泣き寝入りして、気を失った。
 だけど。
 朝になったらパパが言った。
 超意外なことを。
 引っ越しはやめるって。
 転校しなくてもいいって。
 パパは単身赴任するって。
 私はぼんやりした頭でぼんやり理解した。
 パパはちょっと寂しそうだったけど、一大決心をしてくれたのだ。
 私が初めて見せた反抗を、
 生まれて初めてのわがままを、
 涙をのんで聞いてくれた。


 ラッキー!
 言ってみるもんだよね!
 やった!
 で。
 その日から私は変わった。
 今までのように引っ込み思案じゃなく、
 努めて明るく楽しく気さくに、
 友達の輪に入ろうとした。
 でも。
 そこでまた新しい発見があった。
 自覚がなかったワケじゃないんだけど。
 うすうす感じてはいたんだけど。
 私はほんのちょっぴり、いわゆる、ちまたで言うところの、
 KYってヤツだった。
 空気が読めないヤツらしかった。
 誰かと話すたびに、会話するたびに、
 私の意見は的をはずしているらしかった。
 ずれているらしかった。
 はっきり言って、常識レベルで問題があるらしかった。
 長い長いジプシー生活のおかげでそういうことになっていた。
 だめだ。
 このままじゃ。
 せっかく転校を免れたのに、これじゃ親に会わす顔がない。
 こうなったらもう中学は諦めるのも手だ。
 高校に賭けよう。
 進路指導も受けたけれど、義務教育で行ける高校は設備も古くて気が進まない。
 だけど私の今の成績じゃ入試のない公立くらいしか行けないなんてはっきり言われてしまった。
 冗談じゃない。
 せっかく引っ越しを免れて高校を選べる立場になれたのに、公立に行ったんじゃ引っ越ししたのとさして変わらない。
 だから。
 そこからは一念発起した。
 勉強した。
 遊んでる暇なんか一秒もない。
 私の今の目標。
 木場倉学園高校。
 そこにはカップリング制度が試験導入されているらしい。
 いやでも異性の友達がセッティングされる制度。
 相手を選ぶことはできないらしいけど。
 今の私には都合の良いシステムだ。
 手っ取り早くて確実な制度だ。
 なんでこんな制度が導入されたのか。
 聞くところによると、いわゆるエンコーとか性風紀の乱れが深刻な問題になったから――らしかった。
 小学校では集団登校、集団下校なんて当たり前だったけど、さすがに高校でそれを復活させるわけにもいかなくて、その代案だったそうだ。
 どんなに小グループでもいいから、誰かが誰かを形だけでもサポートすることで、そういうことを防ぐなんて名目らしい。
 そんなバカな、と最初は誰もが思ったし、生徒からの反発も大きかったらしいけど、効果は劇的だったそうだ。
 形だけとは言え、彼氏、彼女がいるということで、心理的にそういう行為ができなくなるらしい。
 まぁ、私はそんなことする気もないし、ありえないんだけど。
 とにかく今はこの制度がある学園に行けば、とりあえず異性の友達が自動的にできる。
 インスタントだからってバカにしたもんじゃない。
 パートナーには友達もいるし、コミュニティも広がる。
 芋づる式に輪が広がるって寸法だ。
 だから私はこれに賭ける。
 全幅の信頼を寄せる。
 もうこれにオールベットするしかない。
 そして始まった猛勉強の日々。
 毎日まっすぐ帰宅する。
 もう、スーパーエリート帰宅部と呼んでほしい。
 寸暇を惜しんで机にかじりつく。
 今日もガリガリとペーパーに書き込む。
 え? ノートだろって?
 ちょっと違う。
 ペーパーはペーパーでも、カンニングペーパーだ。
 だけど誤解はしないでほしい。
 これは私の開発した勉強方法なんだ。
 もちろん、実際には使わないからね。
 カンニングペーパーを作る要領で問題をチョイスすることで、より実戦的なノートができあがる。
 だから実際には使わなくてもしっかり記憶できるというシステムだ。
 これは長年の経験を生かした私の裏技だ。
 必殺技なんだ。
 カンニングペーパー式暗記法と命名しようか。
 あれ? もしかしたらこれで本書いたら売れるかも?
 いや、だめか、ネーミングが人聞き悪すぎる。
 本棚に並んでるだけでイメージが悪い。
 だけど、成果は本物だった。結果は正解だった。
 入試結果が届いた。
 先生から渡された。
 合格通知を受け取った! 桜が咲いたのだ。
 志望校に受かったのだ。
 カンニングペーパーのおかげだ。
 もちろん異議は認めない。


 そして早いもので、今日が入学式。
 真新しい高校の制服に身を包む。上から下まで学校指定品。
 模範的な服装だ。
 茶髪はこれくらいなら大丈夫だと聞いた。
 ネイルは中指だけにしておこう。
 マスカラも控えめに、ピアスは一応はずしておこう。
 スカートは膝上十五センチにセットした。
 これがスタートポジションだ。
 ここから、日一日と二、三ミリずつ短くしていくのだ。
 砂山の砂が一粒減っても砂山に変わりはないように、少しずつ短くしていけば誰も気が付かないのだ。
 これは、最後の一粒でも砂山には違いない理論式おしゃれ術とネーミングしようか。
 うーん、これもちょっと人聞きが悪い気がしてきた。
 ニップレスさえ取らなけりゃ、AVにはあらず、なんてバカな男子が強弁を吐いていたのを思い出してしまった。
 これもネーミングに問題ありだ。
 やめておこう。
 白のニーソをソックタッチで止め、真新しい焦げ茶のローファーに足を通す。
 型くずれしていない堅くて分厚いスクバの細い取っ手を握りしめる。
 大きな声でいってきますと言って家を出た。
 木場倉学園高校前でバスを降りて、校門までの桜並木を歩く。
 登校する学生の列に合流する。
 桜が満開だ。花びらが風に舞い散っている。
 制服のブレザーにも桜の造花のピンで止められた白いリボンが下がっている。
 これこそ新入生の証だ。
 入学式限定グッズなのだ。
 今日から私は木場倉学園高校新入生。ピカピカの一年生。
 中学時代のことなんか、もう忘れた。
 と言うよりも思い出したくもない。
 この一年生の中に私の彼氏か、友達になる男子が一人いるのだ。
 そして予感がする。
 その人が私にとって一番の何者かになるだろうことが。
 いや、私の運命の人になるだろうということが。
 そんな確信が沸いてくるのだ。
 ここはもう相手がどう思おうと、関係ない。
 泣こうが喚こうが知ったことじゃない。
 運命の前にはどれも瑣末な問題だ。
 だから文句は言わせない。
 言うまでもなく、
 絶対に。

 桜のピン留めの下でリボンが風に揺れる。
 今度こそニックネームで呼んでもらえるだろうか?
 ミク? ミクちゃん? ミックミック……
 夢が広がる。広がりまくる。
 もうなんでもいいや、この際。
 リボンに書かれた文字。
 私の名前。
 少し滲んだ赤色のフルネーム。

 私の名前は――友里未来子《ゆりみくす》。




 第五章 アン エンカウンター

 01

「よお、カジャ、オハイオ級!」
 木場倉学園高校前のバス停を降り、校門までの通学路の途中で背後から時翔にバカでかい声で挨拶をしてきたのは級友の伴兵彦《ばんたけひこ》だった。
 ちなみにカジャというのは時翔の名字、加治矢を縮めただけの捻りのないニックネームである。
「ああ、おはよう、伴」
 気だるげに応える時翔。
「ん、なんだ、今朝はいつになくテンションが低いな」
「いや、おまえが無駄にテンションが高いだけだろう」
「そうか? 俺はいつも通りだぞ」
 朝っぱらからタイフーン級にうっとうしい挨拶をしてくるヤツではあるが、中学時代から旧交途切れることなく久しい友人の一人であることは認めざるを得ない時翔であった。
 まあそれでも、悪友というカテゴライズの中で、筆頭を務める男であることも間違いのないところでもあるが、同じくうっとうしい勢にカテゴライズされる友里に比べれば、男同士ということもあって気楽ではある。少なくとも攻撃型原潜ほどの脅威はない。
「まったく、おまえはいつも上機嫌でうらやましいよ」
「なに言ってんだ、やっとこさ試験も終わったとこだろ? この開放感を満喫しないでどうするんだ」
 快活かつ脳天気に伴がのたまう。
「まあな、確かにな……」
 そう答えた時翔だったが、その試験結果に絡む厄介事が待ち受けていることも間違いないのである。それも自分の責任というわけでもない、強制ボランティアとも言えるイベントである。しかも、そんなことはあえて意識の外に追いやっていたにも拘わらず、わざわざ思い出させてくれたことに、いささか業腹でもある。
「なんだ? お疲れ気味か?」
 時翔が邪魔くさげに首を縦に動かす。
「ああ、なるほどね」
 ニヤニヤと、伴の方は意味ありげにほくそ笑んだ。
「なにがだよ?」 
「いやいや、そう言えば昨日も友里さんと一緒に帰ってたよなあと思ってさ」
「関係ねーよ」
 と言いつつ、関係大有りなのだが、ここは悪友の妄想が暴走するのを危惧して否定しておく。
「まあしかし、おまえんとこは仲いいよなあ……うちのクラスでもナンバーワンなんじゃないか?」
「そ、そんなことないだろ……」
「いやあ、週二回の同伴下校日以外にも、一緒に帰るトコなんてなかなかいないぞ」
「それは友里のヤツがゲームに嵌ってやがってだな――」
「おいおい、照れるなって。良いことじゃないか、内申書的にも」
「内申書ねえ……とんでもないガッコに来ちまったよなあ」

 ――カップリング制度。
 このメチャクチャな規則が、創立時から校則に組み込まれているのは我が校ぐらいであろう。ところが創立五年を迎えた我が木場倉学園高校は、当初からこのシステムを採用した新進学園として、そこそこの人気を集めているという。
 当初は性風紀の乱れに歯止めを掛ける目的で制定されたらしいのだが、近年ではそれを拡大解釈して、校則に組み込む学校が増えてきているのだ。
 実のところ、木場倉学園高校が創立当初からこの規則を定めているのも、別の理由がある。
 地球規模で起きていた大変動。急激な海面上昇による大都市の消失。それら未曾有の災厄を何とか乗り切り、ここ数十年でようやく人々は生活に余裕を取り戻しつつあった。そうなると人々はその余裕を娯楽へとまわし始める。第一次産業から第二次産業へ、そして第三次産業――つまりサービス業へと求人比率を高めていったのだ。かつて絶大なる人気を誇っていた飲食サービス業、なかでも女子校生が将来就きたい職業の第一位として不動の地位を獲得していた憧れの職種、その志望が急増したことによる需要の拡大に伴って、ついにこのような制度を持つ学校が創立されたそうだ。
 しかもあまりにも増え過ぎた志望者への門戸を狭める意味合いもあるのだ、というのが学校側の言い分なのだ。言わば太陽政策と相通ずるものがある。規制するよりも逆にその道のエキスパートを目指すことで、早期から厳しい現実を体感させて、無秩序な拡大を防ぐのが名目なのだという。
 その道のエキスパート。
 プロフェッショナル魂。
 あるいは求道精神。
 そのために文科省の選択科目に新たに追加された科目。
 それは今ではこう呼ばれている。
 水道=\―と。
 お≠ヘ要らないんですかねえ……と老婆心を抱く者も少なくない――らしいが。

「ほんと、おまえんとこのカップルぐらいだって、まじめに付き合ってんのは」
 伴は瞑目し、ウンウンと頷きながら言う。
「そうなのか?」
 これは意外な情報である。
「当たり前だろ。大体まともな女は男女交際証明書を無理矢理にでもでっちあげて提出して、回避してるヤツがほとんどらしいからな」
「まじで?」
「ああ、どんなルールにも抜け穴ってヤツがあるもんなんだよ」
「そうなのか……知らなかったよ」
「生徒手帳にも書いてあるだろ? 見たことないのか?」
「気がつかなかったよ、しかし、まあ、確かに友里はまともとは言い難いヤツだしなあ」
「おいおい、友里さんは当たりだろ? なに言ってんだカジャよ」
「え? アイツが? そうか?」
「そうだろう。美人とまでは言わねえけど、性格は明るいし、パートナーとしちゃ文句ねえだろ」
「まあなあ、あれでもうちょっと大人しくしていてくれりゃ、俺も文句はないんだけどな」
「なんだよ、贅沢なヤツだな」
「ふん、伴よ、そういうおまえのトコはどうなんだ」
「い! 俺のトコか……」
 一瞬でたじろぐ伴。頭を掻きながらしどろもどろになっている。
「俺のとこはなあ……」
「確か、椎名さんだったよな。あの子は文句なしの美人だと思うが。男女交際証明書も出してないってことは、付き合っている男もいないってことだしなぁ」
 おまけに、物静かで落ち着いた雰囲気の女の子だ。できることならスワップしてほしい。
「まあ、な」
「仲、悪いのかよ」
「良くはないな。正直。何て言うかなあ……彼女冷たいんだよな。妙に大人っぽいし、だから変に気後れするっつーか」
「ああ、そんな感じはするな、俺もあんましゃべったことないけど、しっかりした感じだし、友里とは好対照な感じするな」
「ああ、だから俺も同伴下校の日以外で一緒に帰ったことなんて一度もないんだよな」
「そっか」
「あ、別におまえんトコがうらやましいワケじゃないぞ。俺も別に特にどうこうって気持ちがあるわけじゃないし」
「そうなのか……」
「ああ、しかしなんだなあ……考えてみりゃ夢のない制度だよな」
「夢?」
「ああ、夢だ。思い出してみろよ、中学時代なんて彼女ができるなんて言って見りゃ夢のまた夢って感じだっただろ? それがなんの努力もしないで棚ぼた式にゲットできるんだから、そういう意味じゃ夢のようなシステムだとは思うんだよ」
「じゃあ、夢がかなって万々歳じゃないか」
「それが違うって言ってんだよ。そりゃ自分が本心から良いなって思える女子が彼女になるんだったら、それこそ夢がかなったって思えるけどよ。所詮お仕着せの彼女だろ。だれが決めたのかしらねえけど、インスタントのパートナーだぜ。お見合いでも選択権はあるだろうに、それもなし。拒否権は認められてねえんだからさ」
「そうだな、チェンジも認められないんだからな」
「ほんと、大人の考えることってわけわからんよ」
 ほとほと辟易したかのように吐き出す伴だった。
 まあ、チェンジが認められないのは男子も女子も同条件ではあるのだが。
 そこでタイムアップとばかりに鳴り出した予鈴に、せき立てられて校門をくぐる。

 02

「オハラハー、トッキー」
「おう、おはよう」
 教室に入るなり、カムチャッカボルケーノな気分にさせてくれる挨拶をしてきたのは友里だった。
 ひょっとしてこの界隈でまともな挨拶をすると、特高にしょっぴかれる法律でもあるんだろうか、と思ってしまう時翔。
「なんだ、昨日はだるそうにしてたのに、すっかり元気だな」
「うん、一晩ぐっすり寝たら元気いっぱいだよ」
 と、いつもにも増して満面の、にしゃにしゃ顔で応える友里。
「って言うか元気すぎて、今朝はめっちゃ早起きしちゃったよ」
「そうなのか? 友里って朝弱かったんじゃなかったっけ」
 それでなくとも、昨日は疲れていた様子だったのに、どうなっているんだ?
「うーん……なんでだろ? 早起きしたはずなのに、すごく寝坊した気分なんだよね」
「ホントに寝坊しないでよかったじゃないか」
「そうなんだよねー。今日は一限目から漂流教室だし、遅れないでよかったよ」
「移動教室だろ。そんなにタイムスリップしたいのか?」
 細かいボケも、いつも通りの友里である。本当に調子が良いようだ。
 そう言えば、今日の一限目は選択科目の時間であった。生徒は各人自分が選択している科目の実習室に早めに移動しなければならない。ところでそもそも移動教室というのは、校外学習を指す言葉のような気もするのだが、校内での教室移動を移動教室というのは、誤用なんじゃないかと常々思っている時翔であった。
 それはともかく。
「ところで友里は何を選択してるんだっけ?」
「ちょっと! 今さらそんなこと訊くなんて地味にショックだよ」
「ああ、特別授業ってたまにしかないし、男女別の科目が多いから、あんまり気にしてなかった」
「そ、そうなんだ……えっと、私が選択してるのは」
「……まさかとは思うけど」
「水道だよ」
 そのまさかであった。
「ええっ! 水道って……あの?」
「あの水道だよ」
 にやりと口角を上げる友里。
「へえ、ってどんなことやってるんだ?」
 一応流れで驚いてみた時翔であったが、実はどんな授業が行われているのかはよく知らないのであった。
「ちょっと! 何やってるのか知らないのに驚かないでよ!」
「いや、全然知らないってわけじゃないんだけど……とりあえず接待作法だろう? サービス業的な」
「まあそうなんだけどね……でもどんなことって言われても、私もよく分かってないんだけど……色々と細かいルールがあるんだよ」
「ルール?」
「うん、まず授業が始まったら、先生のことはママって呼ばないといけないんだよね」
「ママ……え? なんで?」
「わかんない。ついでに日直のことはチーママって呼ぶことになってるし、授業の開始の挨拶もちょっと変わってるんだよ」
「挨拶って……起立、礼、着席だろ、普通。……そのチーママが号令するんだろうけど」
「うん、起立はするんだけど、礼のトコが変な唱和になってるんだよ」
「シュプレヒコールでもするのか?」
「えっと……『ここは舞台、私たちは女優よ』、だったかな」
「女優って……劇でもやるのか?」
「やらないけど」
「じゃ、どんなことやるんだ?」
「うーん、前回は確かライターの使い方だったような……」
「そんな危ないことやらされるのかよ」
「別に危なくないよ。お客さんが咥えたタバコに、いかに素早く着火できるかのタイムアタックを競うんだよ」
「そんなことやってるのか……しかし十分危ないだろ、特にお客さん役の人が」
「ま、そこはホロモニタ使ってるからね」
「はーん、なるほどね」
 さすがにそれなりに金のかかる教材を使っているようである。学校が力を入れているだけのことはある。
「うわっと、ヤバス、そろそろ行かないと、着替える時間がなくなっちゃう」
 そういえば、女子の半数くらいはすでに教室を出ているようだ。まだ残っているのは選択科目の中でも特に準備に時間のかからない科目を選択している生徒であろう。
「ん? 着替えるって実習服にか?」
「そうだよ、あれって着替えるの時間掛かるから早くしないと」
「ちなみにどんな服なんだ?」
「え? いやあ……普通のドレスだよ」
「ドレスって……まじで?」
「あ、言っとくけどメイド服とかそんなんじゃないからね」
「いや、別にそんなこと期待していないんだが」
 と言うよりも、それに近い格好は昨日見飽きるほど見た覚えがある時翔だった。
 言っちゃ悪いが、すでに友里のメイド服姿なぞ、なんの希少性も存在していないのだ。
 ついでに言うとあまり似合っていないのも、すでに確認ずみである。
 時翔がそんな回想をしているうちに友里はあわただしく教室を出ていった。
 しかし普通のドレスというのもやけに引っ掛かるセンテンスではある。そもそもそれがどういった形のドレスなのか分からないだけに、どこか端倪《たんげい》すべからざるインパクトのあるビジュアルなのではないかと思ってしまう時翔であった。
 まぁ、意外にイケてたりするかもしれないが、変に期待したところで、そのコスチュームに邂逅する機会もなさそうなので、どうでもいいことである。
 ちなみに時翔の方が選択している科目は、平凡な情報技術系の専門教科のうちのひとつであり、教室移動の必要もないので余裕なのだ。
 しかし、時翔はさっきの友里との会話の中で、そこはかとない違和感を覚えていた。
 違和感。
 と言っても、会話の中身についての話ではない。中身のある話だったとも思わないが、そのこと自体はいつものことであるので、何ら問題があるわけではない。
 そうではなく、友里との会話が妙にずれている感じがしたのだ。
 いや、友里の感性がずれているのは重々承知しているのだが、そこでもなく、会話自体のテンポ、スピードが、何か拙速な感じがしたのである。
 たまたまそういうテンションの日もあるだろうという考えもあるだろうが、それでも何かいつもとテンポが違う。反応がワンテンポずれて、と言うよりも、ワンテンポ前倒しで返ってくる感じがしたのだ。
 会話がキャッチボールだとするならば、こちらが投げる球はゴムボールなのに、返ってくる球は硬球レベル。そんなイメージ。主観的に表現するとすればそんなところだ。
 自分との会話が主観的だとするならば、客観的な評価を下すには友里が誰かと会話しているのを、岡目八目的に眺めることができれば、比較対象になるのだろうが、あいにく友里はめったに他のクラスメイトと話をすることがない。そういうわけで今朝もそんな機会には恵まれなかったのだ。
 だけどもそれは、今のところは単なる違和感であり、その後何事も起きなければ、やはりただの気のせいであったと看過できるレベルの違和感だったのかもしれない。
 そう、何事も起きなければ……。
 しかし、そうは問屋が卸さなかった。
 異変が起きたのは五限目の体育の時間だった。
 今日は土曜日で、授業も五限目までしかない上に、テスト明けの体育の授業ということもあって、男子はバスケットボール、女子は卓球といった具合で、半ば骨休め的なサービスタイムを満喫していた。
 体育館の真ん中がネットで隔てられ、バスケットコートでは男子がバスケの練習試合をのんびりとプレーし、女子は二つある卓球台で適当に勝ち抜き戦を行っていた。
「おい、カジャ、友里さん、スゲーぞ」
 選手交代でコートを外れた時翔に走りよって声をかけてきたのは、おなじみの伴であった。
「は? 何がだよ」
「卓球だよ、もしかして元選手だったのか? ありゃスゲーって」
 選手? 友里が? 卓球の? そんな話は全く聞いた覚えのない時翔だった。
「とにかくこっち来て見てみろって」
 伴が強引に時翔の袖を引っ張って男子と女子を分けているネット際まで連れてくる。
「すっごっ、友里さん、もう十人抜きじゃね?」
「あ、また! 今のスマッシュ、どうやって打ったの? 全然見えなかったよー」
 などと、ほとんど黄色い歓声が友里の台を取り囲む女子の間で交わされている。
 今友里と対戦しているのは比較的運動神経の良さそうな小柄な女子であったが、完全に相手の打つ球に翻弄されるばかりで、返すのがやっとという状態に見える。
 で、対戦相手の友里はと言うと。
 一見すると突っ立っているだけ。
 そう、ほとんど棒立ちにしか見えないのだ。
 なのに目にも止まらぬステップで、まるで相手がそこに打ち返すことがあらかじめ分かっているかのごとく、瞬時に移動し、何の迫力もないフォームから、弾丸のようなスマッシュを相手のコートにたたき込んでいる。
「ひぐっ!」
 小柄な女子の方が返し損ねた球を、額で受け止めてしまい、尻餅をついた。
「あ、ごめんねー、返しやすいコースに落としたつもりだったんだけど」
 友里が謝意の言葉を並べているが、締まりのないにたにた顔なので、まったく誠意を感じ取ることはできない。
 ――アイツ、やっぱり……
 時翔の違和感が気のせいではなかったことに確信を持ったのは、友里が次のスマッシュを、横を向いたままであくびしながら打ち返すのを見た時だった。
 おいおい、そんなわけないだろ。
 つーか、イヤミったらしいことするなよ。
 しかし、周りのクラスメイトは、完全に実力差ゆえの余裕の態度だと勘違いしているようで、何の疑いも持っていないどころか、友里の隠された才能の発露に度肝を抜かれている雰囲気である。
 もしも、本当の実力者、それこそ中学時代から卓球の選手だった者でもいたとしたら、このあり得ない機動を指弾することもできたであろうが、あいにくうちのクラスにはそうした人材を擁してはいなかったらしい。
 もちろん時翔もその方面での知識は皆無に等しいが、そんな物はなくとも、状況証拠から導き出されるひとつの仮説を立証するに充分な傍証であった。
 この状況を説明するのに最も即した理由付け。
 たったひとつの冴えた推論。
 どう見ても友里は――

 03

 ――ぷりん、ぽろん、ぱらん、ぽん。――と。
 いつもの気の抜けた放課チャイムの放送がスピーカーから響いている。
 それは六限目のホームルームが終わり、担任が本日補習を受けるべき生徒の名前を発表し、教室で使用する事務用品の整理を、係の者が担当することを告げた直後であった。
 時翔も知らなかったのだが、補習を受けるべき生徒は、なんと友里一人なのであった。そして奇しくも事務用品の整理係は時翔他一名なのであった。
 時翔としては先ほどの卓球の件を友里に問い詰めたいところであったが、着替えタイムからホームルームまで、時間が押していたこともあって、話できずじまいであった。
 しかしまあ心配は要らない。たった今からこの教室で補習が開始されるのである。友里を問いただす時間は充分に準備されている。何しろたった一人の補習受講者ということで、担任も講師も誰も立ち会わず、一人で黙々とプリントをやるだけなのだそうだから。
 友里が渡されたプリントを見ると、本日は物理と数学のプリントであった。
 しかしその前に時翔にはこなすべき仕事が課せられている。
「あ、トッキー、どこ行くの?」
「いや、俺、係の仕事があるから」
「そんなこと言って逃げる気なんじゃ――」
「いやいや、そんなこと企んでねえって。ちゃんと戻ってくるから」
「ホント?」
「ああ、信じてくれオイディプス王よ」
「そ、そんな激怒しないでよ……」
「してないから。カバンもここに置いていくし、安心だろ」
 意外に文学ネタが通じる友里だった。
「うん、わかった、信じるよ。はやく戻ってきてよね」
「ああ、すっぽんぽんになっちゃっても、戻ってくるから」
「そうなったら、私の方が逃げ出すよ」
「ぉおーい、加治矢ー。さっさとやっちゃうよ、準備室に用品が届いてるらしいからー」
 教室の出口から時翔に向かって声を掛けてきたのは、整理係の他一名、椎名東子であった。
 整理係にして、そして忘れてはならない、今朝方話題に上ったばかり、伴のパートナーを勤める人格者である。
「ああ、今行く」
「じゃ、友里さん、加治矢はちょっと借りていくから、一人で頑張っててねー」
 教室からの出がけに友里に向かって言う椎名。
「えっ、あ、うん……」
 友里はなぜだか恐縮した様子で返答している。
 こういうところ、時翔に対する態度と他のクラスメイトに対する態度がかなり違うのはちょっと面白い――と思う時翔だった。普段は時翔に軽口を叩いている友里ではあるが、実際のところ結構人見知りが激しいヤツなのだ。
 あるいは人見知りされているだけなのかもしれないが。
 友里を教室に一人残し、二人で職員室の隣にある用品準備室へと向かう。
 時翔は廊下の前を早足で行く椎名の背中を追いかける形だ。肩より少し短めの真ん中分けにされたお下げ髪が上下に揺れている。つやのあるさらさらヘアーは友里のように茶髪でもなく、顔の方も化粧っけはないが、元の造型がよろしいので知的な感じを受ける。スカート丈もいわゆる膝当たりというヤツで、友里のように巻き上げて短くもしていないが、まあ、クラスの女子の大半に見られるような標準的な長さではある。ミニスカートが何度目かの復権を果たしつつあることぐらいは、流行に疎い時翔でも耳にしていたが、それでもやはり椎名にはこのスカート丈が彼女らしいとも思う時翔だった。
「ところで用品の整理って何やるんだ?」
 時翔が椎名の背中から訊く。
「へ? あんた今まで係の仕事やったことないの?」
「ああ、今学期初めてだから」
「あ、そっかー。まあ、キングファイルにテプラで分類シール張ったりー、共用の文房具にクラス別シール張ったり、とかだよー」
「ふーん、そうなのか」
 しかし、キングファイルって……チューブファイルだろ、普通。
 昨日に続く謎のキングジム押しである。
 ひょっとすると、この学校の出資企業だったりするのだろうか。
 実のところ、それは時翔の考えすぎではあるのだが。
 椎名が借りている準備室の鍵を使い、扉を開ける。中に入ると台の上に段ボール箱に詰められた用品類が置かれていた。椎名は箱に入ったチューブファイルを取り出しながら、時翔に細かい指示を与えていく。
「そこのテプラでクラス番号を打っていくの。そう、テープはそのサイズのままでいいから。それから、ステイプラーと、バインダーもね」
 何やらごちゃごちゃとあるものである。いくら電子化が進んでも、こうした有形のアイテムというのは、なくなることはないのだろう。印鑑やサインがいまだに有効なのも、むべなるかである。
「ところでさー、加治矢ー」
 作業の手を止めることなく椎名が口を開く。
「ん、なんだ?」
「友里さん、変わってきたよねー」
「友里? あいつは元々変わったヤツだと思うけど」
 椎名は時翔の返答に少し目を見開いた後、黒目勝ちの瞳を向けながら言う。
「そういう意味じゃなくて」
「……?」
 椎名は再び手にしていたファイルの整理に動作を戻しながらつぶやく。
「あの子が転校してきたのは中三の二学期だったんだけどさー」
「中学? ああ、椎名って中学時代、友里と同級生だったのか」
「そう、だから私も付き合いが長いってわけじゃないから、あの人のことそんなによく知っているわけじゃないんだけど、あのころに比べると、ずいぶん変わったなあって思うよー」
「そうなのか……」
「そう。ほんと高校に入ってから変わったよー、うん、あんなに卓球がうまいなんて知らなかったけど、性格的にはすごい変わったと思うよー」
 太鼓判を押すように、断言する椎名。
 卓球の件に関しては、別の要因が絡んでいることがほぼ確定しているのだが、それを今ここで説明するわけにはいかない。
 おまけに性格的にと言われても、時翔としては、友里と無理矢理カップリングさせられた入学当初から思い返すに、それほど変わったという印象はあまりない。
 いわゆる高校デビューというやつだろうか。
「なあ椎名。あいつ、中学の時はどんなだったんだ?」
「んー、そーだねえ、ま、一言でいえば……ぼっち?」
 一言すぎないか?
 しかし、まあ――
「なんとなく想像はつくけどな」
「いや、でもはぶられてたとかじゃないよ。いじめられてたってわけでもないしー……うん、何て言うか、ちょっとずれてるって言うか、うまくみんなととけ込めないって言うかー、そんな感じ?」
「そっか……」
「うん、私も小学生の時に転校したことあるから、なんとなく解るんだよねー。こう……自然に孤立しちゃう感じが」
「孤立ねえ……」
「まー、私の場合はお隣のグンタマシティからの引っ越しだったしー、小学生の時だったから、すぐに馴染めたんだけど、あの人って結構いろんなところに引っ越ししまくってるみたいだから」
「ああ、そうらしいな」
 やはり中学に入ってからの転校というのは実際インパクトが大きい物なのだろう。
 中学時代の友人というのは、特に重要な付き合いになる友人が多いと聞く。
 それだけに馴染むのにも余計にハードルが高くなる物なのかもしれない。
「それに……」
 と、やや重い口調になって椎名が言う。
「あの子が前に居た中学でちょっとした事件があったらしいんだよねー」
「事件……?」
「事件って言うか事故なんだけどね……でも本人から聞いてないんだったら、私の口からは言えないかもね」
 事件……ないしは事故。
 なんだろう、気にならないと言えばウソになるが、さすがに椎名を問い詰めるのは仁義にもとるというものだろう。
 まあ、普通に考えればいじめ絡みってところだろうか。
「でも、そのせいで、なおさら頑《かたく》なになっちゃったみたいなんだよねー」
「頑な……かあ、しかし、アイツって今でもそうなんじゃないのか?」
「いやいや、今はずいぶんましになったよー、みんなともよくしゃべるようになったし、挨拶もするし」
「そうなのか、でもそういうのって、クラスの雰囲気とか、気の合うヤツが増えたとか、そんなとこなんじゃないのか?」
「それもあるかも、だけどさあ――」
 そこまで言うと、椎名はなんとなく意味ありげな口調で頬を緩める。
 ふーん、こいつって、結構おしゃべりなヤツだったんだな……。
 時翔としては、もっと取っつきにくい女子という先入観があっただけに、椎名の意外な饒舌さに、驚くと同時に安堵の気持ちも感じていた。
 少なくとも、理不尽に気を遣う必要のある女子ではないのは確かだ。
 まあそれでも曲がりなりにも半年以上は付き合っている、友里程お気楽とは言い難いのだが、それだけに女子と話をしているという緊張感は、何やら新鮮なものを感じる。
「それでも加治矢ってすごいと思うよー」
「すごい? 俺が?」
「うん、だって、あの友里さんがここまで変われたのは加治矢のおかげだと思うから」
「いや、俺はなにも……」
「うんうん、分かってるって。そりゃ校則の縛りってのもあるけどさー、あんたってちゃんと友里さんの話聞いてやってるのは確かだしねー」
「無理矢理、付き合わされてるだけな気もするが……」
「それが、すごいんだって。あの友里さんのテンションに付き合えるってとこだけで。なんていうの? こう、包容力みたいなのがあるよー」
「そ、そうかな……」
「そうだって。だから、加治矢には感心してるんだ。いい巡り合わせで良かったなあって。変な学校の変な規則だけど、いいこともあるんだなーって、さ」
「うーん、アイツにとっては良かったのかもしれないけど、俺は結構疲れることも多いんだけどなぁ」
 椎名は、あはは、と笑い、
「そうかなー、結構良いコンビじゃん。みんなもそう思ってるよー」
 そうなんだろうか? そう言えば伴のヤツもそんなことを言っていた。もしかすると一年B組みのベストカップルということになってたりするんだろうか? しかしなんとなく友里と同レベルみたいなイメージが定着しているのは、喜ばしいこととは言い難い気もするが。
 まあ、内申書的には悪い話でもないんだろうけどね。
「うん、まあこれからも友里さんのことをよろしく頼むよ」
 時翔の肩をポンと叩きながら言う椎名たった。
 なんだこいつ? クラス委員長か何かなのか? 違うけど。
 しかしまあ、存外クラスメイト思いのいいヤツじゃないか。伴にしたって、もっと打ち解けた付き合いができそうな気もするんだが、伴のヤツがヘタレすぎるだけなんじゃないのか?
 その後、用品の整理は十五分ほどで終わり、二人して教室に戻る。

 04

「待たせたな。友里、戻ってきたぞ」
 友里は意外にもちゃんと机に座ってプリントをやっていた。
 やはり立ち会う教諭の姿もなく教室には友里ひとりである。
「あ、トッキー、遅いよう、もう少しでセリリンを処刑するとこだったよ」
「俺のカバンに変なニックネームを付けるなよ……って、俺のカバンをどうするつもりだったんだ!」
「冗談だよ、ちゃんと保管してあるから。ほら」
 友里が指さす方向を見ると、時翔のカバンが置いてあった。
「って、なんで窓ぎわの桟の上に置いてあるんだよ!」
 開いた窓から吹き込む風で、カバンがぐらぐらと揺れている。
 すんでのところでセリリンを救出する時翔。
 友里の隣で、椎名がこらえきれずにクスクス笑いを漏らしている。
「友里さん、ごめんねー、加治矢が手伝ってくれて助かったよ。キングファイルとか重たいから男手があるとはかどって早く終わったよー。さすが男の子だよねー」
「え? あ、そ、そうなんだ、や、役に立ててよかったっス」
 相も変わらず、上級生に対するような、変な丁寧口調、かつ、噛み噛みである。
 中学時代からの付き合いじゃなかったのかよ。
「それじゃ、私は帰るから、補習ガンバってねー。加治矢ー、友里さんのことよろしくねー」
 帰り支度を整えた椎名が、カバンを手に、片手を振りながら教室を出ていく。
「ああ、お疲れさま、また明日な」
 廊下の窓越しに見える椎名の姿を見送ったあと、ふと友里の方を見る。
 と、とんでもない仏頂面だった。
 これ以上ないというぐらいの、への字口に三白眼で睨んでいる。
 さっきまでとは、えらい変わりようである。
「トッキーってツインテール萌えだったんだ」
 憮然としながら友里が言う。
「いや、そんなことないけど……」
 大体あれをツインテールっていうのか?
 ただのお下げ髪だろ。
「じゃあなんで、あの女をそんなじっと見てるの? 名残惜しげに」
「なんだ? 別に見てないぞ」
「うそ、見てたよ」
「見てないって」
「絶対見てた。特に腰の辺りを」
 おい、ツインテール萌えの嫌疑はどこいったんだ?
 ツインテールって、もしかして、グドンの餌のほうのことだったのか?
 あんたはグドンと言いたかったのか?
 だとすると、遠回しに時翔を揶揄する友里の半畳だったともとれる。
 いや、それは考え過ぎか。
 まぁ、どっちにしても、
「とりあえず、オヤジギャグはスルーだな」
 くっ、とさらに一段友里の表情が険しくなる。
 今の宣言がもしも本当ならば、友里のボケは八割方無効化されることになってしまうだろう。
 これは由々しき事態である。自縄自縛、自家撞着な行為と言わざるをえない。
「えらく時間が掛かってたけど、何やってたの」
「ちゃんと仕事してたって」
「ホントかなあ、てっきりあの女の色香に惑わされてんじゃないかと心配してたんだよ」
「そんなわけないだろ」
 時翔は友里の意外な嫉妬心の強さにたじろぎつつも、理不尽さをも覚えずにはいられない。
「リアリー?」
「リアリーだって」
「それならいいんだけど」
 そう言うと友里はぷいっと前を向き、自分のカバンの中から一冊のノートを取り出した。
 ページを開くと何やら難しそうな顔をして書き込んでいる。
「なんだ? そのノート。何書いてんだ?」
「え? これはただのノートだよ」
「見せてみろよ」
「いいよ。ほら」
「椎名東子って書いてあるけど、しかもなんか赤字で……」
「ただのアドレス帳だって」
「ホントか? 表紙見せてみろよ」
「い、いやだよ、これはただのノートです」
「いいからちょっと見せてみろって」
「しょうがないなぁ」
 表紙に書かれていたのは……
 ――ノート・《(倒置法)》デス――
「ほら、ね」
「ノートですってわざわざ書く必要あるのか? ん、なんか脇にちっちゃくルビが振ってあるような……」
 ――(倒置法)――
 …………
 って、
「デスノートじゃねえか!」
 まあ、友里にそんな呪力があるとは思えないが、クラスの連中に見つかったら洒落ではすまないのは間違いない。だいたい友里のことを中学時代から心配してくれているような、気のいいクラスメイトを亡きものにしようなどとはとんでもない所業である。それとも、ああ見えて実はいじめのリーダー格だった、なんて衝撃の事実があったりするのか? まぁ、ないのだが。
「これはボッシュートだな」
「あ、せっかく作ったのに……」
「くだらないもの作るんじゃない」
「ちぇっ、まあいいや、まだ殺すリストもあるし」
「おまえは中間徹かよ!」
「ボンタン狩りリストもあるし」
「そんなリストは存在しない!」
 今さらではあるが、友里のタイムトラベラー疑惑がつのる時翔だった。
 まあ、時翔もひとのことは言えないのであるが……。
 時翔のお株を奪う、時をかける少女、友里である。
 三段警棒とか隠し持っていたりして。
 ちょっと怖い。
 そうなると友里の中学の時のあだ名は狂犬友里で確定だろう。
 ん? ひょっとして友里の中学の時の事件って……いやまさか。
「え? ボンタンって食べるやつだよ、ほら」
 と、ポケットからキャラメル箱を取り出す友里。
「なんだ……急にシャバ僧になったな」
「トッキーの方こそ、引っ張らないでよ。ほら、アメちゃんあげるから、怒らないで」
 差し出された手の平には、オレンジ色のキューブ状物体が乗っかっている。
 ――ボンタンアメ。
「大阪のおばちゃんかよ」
 オヤジギャグならぬ、おばちゃんギャグである。
 しかしオヤジギャグよりは受けがいいかもしれない。
 時翔も兵六餅ぐらい常備しておくべきだろうか、と考えてしまった。
 それにしてもこのアメは歯にくっついて食べにくい。
「はっ、ヤバス、こんなことしてる場合じゃないよ、プリントやらなくちゃ」
 急に自戒して現代に、じゃない、現実に戻る友里。
 再び机の上のプリントに向き合う。
 時翔の方は特にすることもないので、ボンタンアメを食べながら前の席に腰を下ろして、友里がプリントと格闘しているのを見守る。
 二人きりの教室にシャーペンが机を叩く音と、ボンタンアメが歯にくっつく音だけが響いている。
「物理のプリントからやってるのか」
「うん、数学よりは得意だからね」
 得意なのに赤点ということは、数学もまんざら苦手ってわけでもなかったりするのだろうか。
「うーん、うーん」
 シャーペンを握りしめ、眉をしかめて一生懸命考えている。プリントは自分でやると宣言したのは嘘ではなかったようである。友里にしては、なかなか殊勝な心掛けだ。
 時翔としては先に、さっきの卓球の件を問いただすつもりだったのだが、こうなるとなんとなく切り出しにくい。まぁプリントが終わってからでもいいかもしれない。
「ひーこら、やっと一枚目が終わったー。頭痛くなってきたよ〜。でも次は周期表の穴埋めか……私これだけは得意なんだよね。先生も気が利くじゃん」
 なるほど、得意って言ってたのはそのことか。しかし結構はかどっているじゃないか。これは益々もって、しばらく静観していた方がよさそうだ。
「えーっと……水兵リーベ僕の舟……っと」
 なんつーベタな暗記法を採用しているんだ。
 と、つい低く笑い声を漏らしてしまう時翔。
「な、何? なんで笑うの? 私変なこと言った?」
 多少は変なことを言った自覚があるのか、敏感に反応する友里。
「あ、いやいや、その憶え方って、全国共通なんだなって思ってさ。よく聞くからさ」
「そ、そうなんだ、もうびっくりさせないでよ。私また変なこと言ったのかと思っちゃったよ」
「ああ、わりぃわりぃ、気にせず続けてくれ」
「うん、水兵リーベ僕の舟、七曲がりシップスクラーク牛乳……だからここはカルシウム、か」
 うんうん、合ってる合ってる。こういう古典的な暗記法もまだまだ捨てたもんじゃないんだな。
 最後のCaが、か≠カゃなくて牛乳ってのがなんとなく友里らしいが、別にオリジナルというわけでもないのだろう。
「ええと次は縦に行った方がいいよね……エッチでリッチな加藤さん、ルビーせしめてフランスへ。と」
 うーん、なんだか全国の加藤さんとフランスに怒られそうな憶え方だよなあ。
 しかし周期順の横はともかく、族の縦列はあまり一般的ではないこともあって、地方によって独特な憶え方が伝わっていたりするのだ。それもまた面白いと言えば面白いのだが。
「次、17族……、ふっくらブラジャー私に当てて」
 ブッ!
 って、
「――おい!」
 思わず小さくなったボンタンアメを、口から吹き出してしまった時翔。
「なっ、何!? 何か間違ってる!?」
「いや、ちょっと待て……、ふっ《F》く《Cl》らブラ《Br》ジャー私に《I》あてて《At》――か、確かに間違っちゃいないな……」
「も、もう! びっくりするじゃない、合ってるんだよね」
「ああ、合ってる、無問題だ」
 しかしどう考えても、潜在的な願望がサブリミナルされているとも思う。
 んもう――と時翔を睨んだ後、問題の続きに戻る友里。
「仮面ライダーストロンガー、バイクに乗って、らったった〜〜〜〜と」
 もう好きにしてくれ。
 すでにどの族なのかを確認する気力も失っている時翔だった。

 05

「おっしゃ、物理終わったー――――」
 バンザイして鬨の声を上げる友里。
 うむ、痛みに耐えてよく頑張った。ということで一区切り着いたところで訊いてみよう。
 今朝からの――かねてよりの懸案事項を。
「ちょっと休憩するか」
「うん、そうだね」
 シャーペンを机に置いて、ううーんと、伸びをする友里。
「なあ、友里」
 神妙な口ぶりで切り出す時翔。
「ん? なあに」
「さっきの卓球だけど」
「え、ああ、見てた? 全勝優勝だったよ、自分でもビックリなんだけど、私にあんな才能があったなんて今の今まで気がつかなかったよ」
 満面の笑顔で言う友里だった。
 そんな友里を見て、ふう、と溜め息を一つ吐く時翔。
「友里、ちょっと、立ってみろ」
「なんで?」
「いいから、立ってその場で軽くジャンプしてみろ」
「ジャンプ? へ、変なこと言うよね……。はっ! もしかしてカツ上げ!?」
「違うから、小銭なんかいらねえから」
「じゃ、じゃあ……弾んで揺れてマグニチュード8点とか言うつもりなんじゃ……」
 そんなこと今時の小学生でもしないっつーの。って言うか揺れるほどねえだろうが、胸。
 と、思った時翔だったが、それは口には出さず飲み込んだ後、もう一度促す。
 友里は仕方なく椅子を下げて机の横に立った。
 なんなのよー、とぼやきながら膝を小さく落とす。
 そしてその場で小さくジャンプ。
 ――否。時翔の身長を超えんばかりのBボタン上レバー入れ大ジャンプだ。
 ジャンプの頂点で危うく天井に頭をぶつけそうになるが、寸前で下降に転じる。
「あ、ひゃあ!」
 慌てて、スカートの前を押さえる友里。続いて地響きを立てて教室の床に着地する。
「やっぱりな……」
 深刻な顔をしてつぶやく時翔。
 友里はスカートの前を押さえたまま真っ赤になって時翔を見上げている。
「や、やっぱりって……白……だったってこと?」
「それも違うし、そんなとこ見てないから」
「ホントに?」
「ああ」
 って言うか、そんなカミングアウト要らねえから。
 いや、しかし。
「ホントに分からないのか?」
「何が?」
 ぽかんとしながら答える友里。
「友里、おまえ――加速してるだろ」
「え、え、え、えぇぇぇぇぇぇぇぇ」
 なんだ? 自分じゃ気が付かないものなのか? そんなわきゃないんだが……。
 うーむ、と考え込む時翔。時翔の気のせいだなどということはないはずだ。あの卓球スキルといい、今のジャンプ力といい。明らかに常軌を逸している。
 ふと思いついて、時翔は机の上のノートを手に取り、そのまま床に自由落下させる。
「どうだ友里、遅く見えないか? 落ちる速度が」
「うーん、普通にしか見えないけど……」
「そうなのか……おかしいな」
 もしも昨日聞いたドン亀さんの説明のように、生体クロックが加速しているならば、自由落下運動でさえ遅く見えるはずだ。少なくとも慣れるまでは……。
「ねえ、加速って、もしかして昨日の?」
「ああ、そうだ、友里、おまえあれをレジストしたか?」
「あれって、あの契約書?」
 頷く時翔。
「そう言えばしてない……なんかめんどくさくて……」
「やっぱりな……」
「トッキーはやったの?」
「まあ、な」
「ええええ! マジ?」
「おい! おまえもやっとくって言ってたじゃないか」
「そうだっけ?」
「はぁ、もういいから……で? 契約書は?」
「家に置いてきちゃった」
「だろうな……」
「んー、でも加速とか、あれってゲームの話じゃん……」
「そうだけどな、つまり、あれだろ、ドン亀さんが言ってたように、なんかのきっかけでおかしくなってんじゃないのか?」
「な、何が?」
「そりゃ、アダプターがさ」
「そんな……信じられないよ……」
「信じるも信じないも、現におかしくなってるだろ、おまえ」
「そ、そうかな? でもあの契約書がなんか関係あんの?」
「うーん、はっきりとはしないけど、レジストした俺はなんともなくて、レジストしなかった友里がおかしくなったんだから、何か関係あるって考えるのが道理だろ」
「そ、そうなのかな……」
「だいたい卓球なんて本格的にやったことあるのか?」
「う、ない……」
「だろ?」
「じゃ、じゃあ、私が会得したと思ったのは卓球道じゃなくて、達急動だったってこと?」
 かなり高難度のツッコミが要求されるボケである。と言うかマニアックすぎる。
 ツッコめる人だけツッコんでおいて欲しい。
「とにかく……危ないのは端から見てても、はっきりしてる。今のジャンプだってたいがいだぞ。後でひどいことになっても知らないからな」
「そ、そんなおどかさないでよ、にゃ〜ん」
「まあ、それはプラシーボだろうけどな」
 しかし友里が加速していることを、どうにかして理解させる方法はないのだろうか。
 ジャンプで自覚できないとなると、他に方法は……。
 この時間から卓球をさせるわけにもいかないし……。
 うーむ。
 思案した時翔は、今度は白紙のノートを何枚か切り離し、手で粉々にちぎって紙吹雪を作る。
「いいか、友里、今からこの紙吹雪を上から落とすから、下に落ちるまでに、できるだけたくさん手の平で掴み取るんだ。いいな? 横からだぞ?」
「横から掴み取る、って、そんなの一枚掴めたらいい方なんじゃないの?」
 友里がもっともなことを言う。当たり前である。十六歳平均女子の普通の動体視力、普通の運動神経であれば、それが普通なのは間違いない。しかしそれは、言うまでもなく普通であればの話だ。
 今、時翔はある仮説を立てていた。今の友里はフルタイムで加速しているわけではなく、神経を集中させた時に、瞬間的に加速しているのではないだろうか。つまりパートタイム加速なのだ。
 それは卓球の時に見せたような、瞬間的な集中力を要求される運動において、無意識的に発揮されるのかもしれない。ならばそれに似たようなシチュエーションを創り出してやればいい。
 つまり目標を定め、それに対してトライアルさせるようなシチュエーションを用意してやればいいのだ。
「よし、友里、十枚だ。十枚を目標につかんでみろ」
「えええ! 絶対無理だよ!」
「まあまあ、いいからやってみろって」
「う、うう、ん、分かった……やってみるよ」
「いくぞ! それっと」
 時翔が紙吹雪を友里の目前上空に投げ上げる。
「えい、はっ、とりゃ!」
 う、見えない……友里の動かした手が見えなかった。
 どんだけ速いんだよ……。
 想像以上のスピードに恐れおののく時翔。
「あれ? なんかえらくゆっくり落ちてきたよね? なんとか十枚くらい取れたんじゃないかな?」
 しかし友里の方は事も無げに飄々としている。
「よし、じゃあ、見せてみろ」
「はい」
 友里が満足げに両手を開いて見せる。
 もちろん、片手で十枚、両手を合わせて二十枚以上はあった。
「お約束だな……」
「何が?」
「いや、いい。でもこれで分かっただろ? 自分でできっこないと思えることができちまうんだから、おかしいだろ?」
「う、うん……そうだよね、なんか納得できたよ」
 ようやく友里も我が身の異常に自覚が芽生えたらしい。かくも長い道のりであった。
「でも、さあ、なんかこれって便利だと思うんだけど」
「便利?」
「そうだよ、加速したい時だけ加速できるんなら、便利に使えそうじゃん」
「いや、危ないだろ、無意識に加速なんてしちゃったら。アダプターの動作不良なんだったら体にどんな影響がでるのかも分からないし」
「うーん、そっか、なんかスイッチみたいなのがあればいいんだけどね」
「なんだよスイッチって」
「奥歯ガキッ、とか、梅仁丹チャラッ、とかだよ」
 奥歯にスイッチなんか仕込んだら、流動食で過ごすことになるんじゃないか?
 あと、梅仁丹は原作だけの設定だし。って言うか、加速じゃなくてテレポートだし。
 などと、誰にするでもない脳内解説を展開する時翔。
「そんなことできるようになったら、ドン亀さんに逮捕されるんじゃないか?」
 一応脅しを掛けてみる時翔。しかし友里の方は、
「ドンちゃんはソーサラーズのGMさんだから、大丈夫だよ」
 などと都合の良い解釈を、でっち上げている。
「いい加減にしろ、友里。何かあってからじゃ遅いんだぞ!」
 とうとう時翔が真剣な顔で大喝する。
「う、分かったよ……でもどうすればいいの?」
「そうだな、まあ、とにかく今日のところは大人しくしておいて、家に戻ったらまずは例の契約書をレジストしてみるんだ」
「うん」
 さすがに神妙な面持ちになる友里。
「もしもそれで直らないようだったら、もう病院に行くしかないだろうな」
「病院……そっか、そうだよね、そうするしかないよね」
 病院、というキーワードが効いたのか、劇的にしおらしい態度になった友里であった。
 顔色も青ざめて、思い詰めている風だ。
「ま、そう落ち込まなくてもいいって、きっとすぐに直るから」
「うん、そうかな……」
「とりあえず、残りのプリントをさっさと終わらせて家に戻ろう、友里の家まで送っていくからさ」
「ほんと? ありがとう、やっぱトッキーって頼りになるよう」
 友里は両手を胸の前で組んで子犬のように瞳をうるうるさせている。
「はは、まあ一応彼氏だからな」
 あくまで学籍上の話ではあるが。
 しかし正直なところ、たまーに見せるこの友里の子犬モードには弱い時翔であった。
「うん、安心したら、ちょっとご不浄に行きたくなっちゃった。ちょっと待っててよ」
「え、ああ、大丈夫か? 一人で」
「つ、連れションする気なの?」
「あのなあ、ご不浄なんて言うヤツがそんな下品な言葉は使いません」
「えへへ、冗談、一人で大丈夫だよ。ここの女子トイレ、音姫さまも付いてないし、恥ずかしいからいいよ」
 いや、別にトイレ内まで随伴する気はないんだが……そもそも音姫さまなんて、稼働させている学校があるのか? まあ、エコではあるんだろうがなぁ。
「じゃ、行ってくる」
「ああ……」
 時翔は、心配げに友里の背中を見送った。

 06

 友里が向かったのは教室二つ分ほど離れた距離にある女子トイレであった。
 秋の日はつるべ落とし。
 廊下の窓にはもう夕闇が迫っており、低く差し込んだ夕日が廊下内をオレンジ色に染め上げている。
 周りの教室にも人っ子一人見当たらない。こんな土曜日の夕方に校内活動しているのは熱心なクラブ活動メンバーだけであろう。隣の校舎にある音楽室から聞こえてくるブラスバンド部の楽器音だけがもの悲しげに響いている。放課後の廊下内は、まるで世界の終末のような雰囲気だった。
 こんな雰囲気のせいだろうか、なんだか廊下を歩いているだけで、くらくらする。
 ちょっとムンクの叫びの顔真似でもしてみようかと思った友里だったが、空しいのでやめた。

 用を済ませた友里が廊下に戻った時だった。廊下の少し向こう、窓に向かって、ひとりの少年が窓からグラウンドを眺めているのが目に止まった。
 小学校の低学年ぐらいに見える。少年と言うより男の子と言った方がしっくりくる。どこから入り込んだのかは知らないが、こんな時間に何をしているのだろう。お兄さんかお姉さんを迎えに来たのだろうか。しかし、校門のゲートはIDの照合がないと通過できないはずだ。とすると学校関係者の身内なのだろうか。
 しかも、その容貌はどこか奇妙であった。ダークグレーのぴったりとしたボディスーツめいたものに身を包んでいる。
 なぜだか、友里はそのコーディネイトに既視感を覚えた。
 どこだっただろう? つい最近のような気もするのだが……。
 う……なんか変。
 男の子を視界に捉えてからいきなり、さっきから感じていた違和感が強くなった気がする。
 なんの変哲もない、いつもの校舎の廊下なのに、目に映るすべての風景がいつもと違う物を見ている錯覚に捕らわれる。そんなはずはないのに……。
 男の子も幻? そんなばかな……。
 目を瞑ると、世界がぐるぐる廻っているかのような感覚に捕らわれる。
 無意識に壁に手をつき、片手でこめかみを押さえてしまう。
 この感覚……。
 そうだ、この感覚は、あれに似ている。
 VRゲーム。
 ログインアウト中の足下が覚束ない、頼りなく浮遊する感じ……。
 友里は頭を振りながら、もう一度目を見開く。
 男の子は幻などではなく、やはりそこにいた。友里はさらに数歩男の子に歩み寄る。
 くらくらする感覚はどうにか去っており、頭は霧が晴れるように冴えてきた。
 男の子が友里に気付き顔を向ける。すると男の子はどういうわけか、目を見開いて驚愕した様子を見せた。
 しばらく口をぱくぱくさせて狼狽の表情を見せた後、震える声で言葉を発した。
「お姉ちゃん、だれ?」
 それはこっちのセリフだよ、と言いたかったが、見知らぬ場所に迷い込んだ小学生なのであれば仕方ないのかもしれない。と思った友里は、なるべく優しく応対しようと試みる。
「私はこの学校の生徒だよ。あんた、どこの子?」
「ガッコウ?」
 男の子はまるで知らない単語を聞かされたようにきょとんとしている。
 こんな小さな男の子には理解できないかもしれないと思いつつ、友里は説明を重ねた。
「そう、学校。ここは木場倉学園高校の校舎だよ」
 男の子は案の定、目を瞬かせながら小首を傾げている。
 まいったなあ……。
 正直なところ子供は苦手な友里であった。友里自身が一人っ子なうえに、親戚にも年下の子供が存在しておらず、どう扱って良いのかさっぱりなのである。
 特に男の子とくればなおさらである。
 いきなりお姉ちゃん、などと呼ばれても戸惑うしかない。
「ここが? お姉ちゃんの学校なの?」
 男の子は気の抜けた声を発しながら、友里の方に近づいてきた。
 と友里が思った寸毫の間――
「え?」
 すでに男の子は友里のすぐそばに立っていた。
 友里が瞬きした一瞬の間に――としか思えない。
 まだ数メートルの距離があったはずなのに、ダッシュした様子もないのに、それでも確かに男の子は、すぐそばで友里を見上げていた。息一つ乱れた様子もなく。
 なんで……?
 あまりのことに、一歩後退り、反射的に固く目をつむる。
 もしかして……
 これで次に目を開けたら……
 ハッ、いない、ギャー!
 ってヤツなんじゃ……。
 片目だけ、そうっと開けてみる、と。
 いた、友里の顔を見てにっこりと微笑んでいる。
 男の子は友里がうろたえている理由が見当も付かないという風で、不思議そうにくりくりと目を動かしている。
「まさか……ざしきわらし?」
 思わず口をついた男の子に対する人外認定だったが、まんざら冗談というわけではなかった。
 こうして改めて近くで見てみると、この男の子――どうしてだか奇妙な印象を受けるのだ。もちろん、普段から子供を見慣れていないこともあるだろうが、それでも友里が知るこの年ごろの子供としては、しぐさや目の配り方、口調などが年格好の割には妙に落ち着いて見えるのだ。
 友里にはそれがどうしても妖怪じみて見えた。
「ざしきわらしって、なあに?」
 男の子が友里の動揺ぶりを、愉快なエンターテイナーが見せるパフォーマンスのようにいっそ面白そうに見ている。
「そ、そうだ!」
 友里が唐突に思いついたように、目の前の男の子に手を延ばす。そして恐る恐る……頭に手を置いた。
「う、CGじゃないみたいね……」
 この辺は友里にも学習機能が備わっていることの証だろう。
 昨日さんざん聞かされた、友里にとっての電波話、いくら自分ではゲームの中のイベントだという自己暗示があるにしても、防衛本能的に確認の意識が働いたのだ。
 男の子はくすぐったそうに、イヤイヤしながら身をよじらせる。
 そうして――
 男の子が頭に置かれた手を退けようと、友里の手首を――掴んだ。
 瞬間――!!
 強烈なめまいが再び友里を襲う。
 友里は、夢中で男の子の手を振り解くように手を引っ込めた。
 心臓が早鐘を打ち、友里の中の何かが覚醒するように、あるいは何かが切り替わったかのように、視界がぐにゃりと歪む。今や上下の感覚も怪しくなっている。友里は必死に目を閉じ、足を踏ん張った。
 なんで――どうして?
 ゆっくり息を吸い、吐き出す。それを何度か繰り返す。どうにか三半規管が機能を取り戻してくれた。
 ゆっくりと目を開ける。そして……友里の目に飛び込んできたのは――
 見たこともない光景――だった。
 目の前に広がっていたのは、まるでどこかの廃工場のような景色。校舎の窓枠は、赤さびた手すりへ、廊下は暗いタイルへとその外見を変化させていた。とても校舎内の廊下などではあり得ない。
「え、え、ここどこ?」
「お姉ちゃんの学校じゃないの?」
 男の子が、不思議そうに言う。
「ちっがーう!」
「ちがうの?」
「さっきまではそうだったけど、変わっちゃったよう」
「ふうん、でも、なにもかわってないよ」
「あ、あんた、どこにメぇ付けてんの」
「だって、ここは前からずっとこんなだもの」
「こんなって……じゃあここはなんなのよ!」
「パパは、にもつ置き場だって言ってたよ」
「荷物……置き場?」
 確かに、今のこの風景からは、その形容がふさわしく思える。通路の所々に見える扉も、無骨な鉄扉にしか見えないのだ。
「うん、ほんとは入っちゃダメって言われてるんだけど、ちょっと探検してたの。でも迷っちゃって」
 無邪気にはにかみながら男の子が言う。
「探検……って、私の学校を心霊スポットみたいに言わないでよ」
 とは言え、今や校舎の面影はどこにもない。夕日に照らされた通路は、まさにうらぶれた倉庫の通路内としか見えなかった。
 そして無人である。友里たち以外には誰の姿もない。
「ね、ねえあんた、他の誰かに合わなかった? その辺で」
「だれもいないよ、お姉ちゃんしか」
「そんなワケないんだけど……」
 ここは校舎の一階ではあるけども、グランドや他の校舎との連絡通路には一人や二人くらいの生徒か先生に出会っても不思議はないはずだ。誰にも会わないなんて、そんなはずはない。
「だって、友だちは、ここをオバケやしきって呼んでるもの」
「お化け屋敷?」
「うん、だからお姉ちゃんはオバケなのかなあって、びっくりしたの」
 うちの学校がミステリースポットどころか、アトラクション扱いされているようだ。
 いや、今のこの廃工場のような雰囲気は、その称号にふさわしい様相を呈しているのは間違いないのだけど……。いくらなんでも、夕暮れの校舎内とは言え、ここまで禍々しい雰囲気は醸し出してはいなかった。リフォームするにしたって、趣味が悪すぎる。
 でも、この現象、この体験は記憶にないと言えばウソになる。
 風景の変遷、モデリング変更、壁紙変更。
 いわゆる――テクスチャーチェンジ。
 でも、あれはゲームの中のイベントだったはずで……現実にそんなことがあるはずがない。
 友里は恐る恐る震える手で手近の壁を指先で触れてみる。
 ざらりとした感触。廊下の壁はコンクリートに塗装が施された普通の壁だったはずだ。
 でも、こうして触ってみても、触感自体は見た目と乖離しているとは思えない。
 どだい、カラーリングは全く違っていても、材質自体は見た目には同じような物なのだ。触感だけを頼りに、目に映っている方こそが偽物だとは断じにくい。
 だけど、自分の頭がおかしくなったのでなければ、やはりドン亀さんの説明にあった、AR詐欺を目の当たりにしているだけなのだろうか。
 それとも、やっぱりおかしくなったのは自分の方なのだろうか……。
 はっ、そうだ! トッキー。
 時翔はまださっきの教室にいて、友里の帰りを待っているはずなのだ。
 教室に戻ってみよう。
 友里はもはや男の子の存在さえも忘れ、自分の教室であったはずの場所まで戻ると、元教室の扉、今やその無骨な鉄扉に手を掛ける。
「う、開かない」
 それはまるで何年も開けたことがないようにびくともしない。
「カギかかってるから、あかないと思うよ」
 いつのまにか友里の後ろに立っていた男の子がたしなめるように友里に言う。
「そんなバカな!」
 友里は扉をドンドンと叩きながら、
「トッキー! 中にいるの? トッキー! 返事して!」
 と大声で叫ぶ。
 しかし、どこからも、なんの返答もなかった。
 友里は扉を開けるのは一旦あきらめ、窓の隙間から中を覗き見る。
 裏側から降りたブラインドの隙間から見える部屋の中は、しかし恐ろしいことに真っ暗であった。
 とても誰かがそこに座っているとは思えない。
 こんなところに人がいたら、それこそお化けかと思ってしまう。
 がっくりと肩を落とす友里。
 ふと、夕焼けを映す廊下の窓ガラスに意識が向いた。
 そうだ、外はどうなっているんだろう……。
 今まで気にしなかったことの方がおかしいくらいだ。
 確認しなければ。
 友里はできる限り心を落ち着かせながら窓の外に目をやった。
「やっぱり……」
 ある程度予想はしていたし、もう必然とも言える展開だったのかもしれないのだが。
 そこに学校の面影はなかった。
 校舎も体育館もグランドも、友里が見慣れた景色はことごとく差し替えを受けていた。
 白茶けた、あるいは赤茶けた、なんの装飾もデザインも存在しない、バラックのような低い建物の群れ。
 それは、見渡す限り学校の敷地外、校外にも広がっている。
 夕日を受けてたそがれるそれらの屋根や壁は、生気や活気をまったく感じさせない廃墟のように見えた。

 07

 まさしくこれは。
 一人漂流教室。
 朝からあんな冗談を言ったバチが当たったんだろうか……。
 くすん、夢なら覚めてよ。
 ゲームならログアウトさせてよ。
 頬をつねっても痛いだけだし、
 空中をタップしてもメニュー画面は出てこなかった。
 よしんば、知らない間にVRゲームにログインしてしまったのだとしても、今はドンちゃんのような水先案内人もいなければ、プレイヤー間でのフレンドチャットもできないのだ。
 一応、腕に嵌めているスマホを確認してみるが、案の定圏外だった。
「お姉ちゃんも迷子になってしまったの?」
 友里がひとりでうろたえる様子を黙ってみていた男の子が、声を掛ける。
「そうみたい……トイレから教室に戻る間に迷子になるなんて、自分でもびっくりなんだけどね」
 友里は苦笑いで自嘲する。
「ふーん」
 男の子の方は友里の絶望なぞ、どこ吹く風で呆けた声を出す。
「お姉ちゃんって、もしかして」
「ん? なに?」
「この世界の人じゃないんだよね?」
 男の子が、突然見透かしたようなセリフを発する。
「えっ、あんた、なんか知ってるの? この仕掛けのこととか、例えば……なんとかレイヤー、みたいなやつ」
 友里はしゃがんで姿勢を低くすると、目線を男の子に合わせて問い詰める。
「しかけ? ってなあに? そんなのしらないけど」
「え? じゃあどういう意味?」
「お姉ちゃんって、きっと、あれだよね」
「あれって?」
「ヨーセーさん!」
「…………はあ?」
「ぼく、お話できいたことあるんだ。ぼくらがいけない遠いところにはヨーセーさんがすんでるって」
 男の子は夢見るような調子で、もはやおとぎの国の住人になっている。
 やはり子供は子供なのだ。
 ゆっくりと立ち上がり、溜め息をつきながら肩を落とす友里。
 友里としては改めて、なんの解決の糸口も得られそうもないことに、落胆するばかりであった。
「ちがうの?」
「そうだね……確かに見た目は妖精かもしれないけど……」
「わーい、やっぱりヨーセーさんなんだ、すごいや」
 手を叩いて大喜びする男の子。
 それを見た友里は、はっと気づいた。
 ここにはツッコんでくれる人間はどこにもいないことを。
 空しい、と言うよりも、心細さの方がより鮮明になる。
 失って初めて気が付く有難さ。
 ああ、わたしってほんとバカ。
 などと考えている友里は、この時点ではまだ余裕があったのかもしれなかった。
「でも、なんで私が妖精さんなの?」
「だってお姉ちゃん、急に目の前に出てきたし、それに、はじめて見たんだもん。こんなにのっぽな女の人」
「のっぽ?」
「うん、びっくりしちゃった」
「へ、へえ……それって喜んで、いい、ことなのかな……」
 男の子の言ってることがさっぱり分からない。
 友里としては、自分の身長は平均より少し高いぐらいだと思っているのだが、この子の周りにいる女性は、すべからくチビということなのだろうか。
 もしかすると、牛乳嫌いが多いのかもしれない。
 ちなみに友里は、一日二リットルは飲んでいる。
 もちろん、身長を伸ばしたい訳ではないのだが。
「ねえ、ヨーセーさん、帰り道をさがしてよう」
「なっ、知らないよ、そんなこと」
「ええっ、なんでそんなこと言うの? もしかしてやっぱりオバケなの?」
 男の子は半泣きになっている。
 友里は腕組みをして男の子を横目で睨みながら、忌々しげに言う。
「お化けじゃないってのに、私も迷子になってるって言ったでしょ。私の方が泣きたいくらいなんだから」
「じゃあきっと迷子のヨーセーさんなんだね」
「だから、妖精さんでもないってのに」
「ねえねえ、いっしょに帰り道をさがそうよ、のっぽで迷子のヨーセーさん」
「しつこいね、このクソガキは……だいたいここは一階でしょ? 迷う意味が分からないよ」
「ううん、ちがうよ、ぼくもっと下から上がってきたの、かいだんで」
「階段? ここの校舎に地下はないよ?」
「ここから上がってきたの」
 言いながら階段へと友里を導く男の子。
 ここは校舎の一階である。友里が知る限りこの校舎には地下階は存在しない。階段は一階から始まっているはずなのだ。半信半疑のまま友里が階段の場所までついて行き、確認してみると。果たせるかな、男の子の言う通り、地下へ降りる階段が続いていた。
 一体全体いつの間に、この校舎に地階が増設されたのだろう。少なくともさっきまではなかったはずだ。
 さっきと言っても、それは風景が変化する以前の校舎であった時の話だが。
 さて、降りてみるべきだろうか?
 友里は考える。
 いや。
 ここは遭難した時の基本、うろうろせずにその場から動かずに体力を温存して救助を待つべきなんじゃないだろうか。
 救助なんて期待できるかどうかも分からないけれど……。
 助けに来てもらえるとしたら。
 トッキー。
 先生。
 ドンちゃん。
 お巡りさん。
 山岳救助隊。
 猟友会。
 どれも望み薄である。
 そもそも、自分は遭難していると言えるのだろうか。時翔が言うようにアダプターの動作不良なのだとしたら、ドンちゃん的世界観を当てはめれば、案外今ここに、この場所で、すぐそばに時翔が立っているなんて可能性もないわけでもないのではないだろうか。
 冷静に考えをまとめようとする友里であったが、やはりギャル語調三重否定に動揺を隠せない友里であった。
「ヨーセーさん、こっちこっち、はやくいこう」
 友里が深い思索にふけっている間に、男の子はもう階段を下に降り始めていた。
 階段の半ばでこちらへ振り向き、一生懸命手招きをしている。
「うーん、しょうがない、ちょっとだけ、行ってみよ」
 もしかすると、元の世界に戻るゲートめいた物があるかもしれない。
 などと、持ち前の楽観主義を発揮した友里が男の子に続いて階段を降りる。
 男の子は友里が付いてきてくれたのを見て、大喜びではしゃぎながら階段を駆け下りていく。
 そして階段の残り三段目あたりから、ぴょんとジャンプ。
 そのまま大きく弧を描いてふんわりと着地する。
 おやおや、まあ、ふんわりと?
 はて?
 うわ……もしかして……。
 さすがの友里もこれを見て――事ここに至って理解する。
 ――加速してる……よね。あの子って、どう見ても。
 そしておそらくは、男の子の落下運動以外の挙動が普通に見えているのは、自分自身も同じように加速している証拠なのだ。それも、さっきの学校で起きたような瞬間的加速ではなく――パートタイム加速ではなく、フルタイムで加速しているとしか考えられない。
 ということは、やっぱり、ここがドンちゃんの言っていた……。
 加速層《ツインクレイヤー》。
 ってやつ?
 階段を降りきった友里が改めて周りを見回す。
 地下道のような通路が延びていた。まるで病院の廊下のような白茶けた殺風景な通路。しかも数メートルおきに複雑に分岐して、さらにその先もまたすぐに分岐しているのが見える。
 まるでこれは……
 迷路。
 ラビリンス。
 ダンジョン。
 構造自体は、大きな駅の地下街めいているが、その壁面は短い間隔でドアが並び、シンプルそのものである。ドアにはそれぞれナンバーが振られているが、それが何を意味する物なのかは分からない。
「ちょっと! 待ってよ、はぐれちゃうよ」
 男の子は、どういうわけかさらに早足となって、通路をずんずん進んでいく。
 幾度か曲がり角を抜けた後、友里の方に振り返り、
「わあ、ありがとう、もう知ってるところに戻れちゃったよ、やっぱりヨーセーさんのおかげだね」
 本気で言っているのかどうかも分からないが、男の子はそんなことを口走る。
「いや、私は追っかけてるだけなんだけど……」
 すでに戻る道さえも分からなくなってしまっている。友里はもう半分やけくそで男の子の後を必死で追いかけた。
 突然、男の子が一つのドアの前で立ち止まった。
「ここ、ぼくの家」
 ドアを指さしながら男の子がうれしそうに言う。
「はあ……はあ……そ、そうなんだ、そりゃよかったね」
 友里は息も絶え絶えに答えるのがやっとだった。
 しかし、ここが家? 住宅? 集合住宅みたいな感じなのだろうか。しかもどう考えてもここは地下である。裏口か、あるいは勝手口なのだろうか。
「入って、パパがいるから」
 言いながらドアを開けて中に入る男の子。
「ただいまあ」
 パパ? やだなあ、怒られるんじゃないのかな……。
 どう考えても友里はここではよそ者である。
 通報されるんじゃないだろうか。
 友里はドアの外で立ち止まり、中の様子をうかがう。
 でもよく考えてみると、通報されるとしたら……どこに?
 やっぱり時空警察かな?
 時空侵犯で逮捕されるんじゃないだろうか。
 まあでもそれならそれで、元の世界に返してもらえるのは間違いないだろう。
 強制送還でも文句はない。
 ドンちゃんにお目通りがかなえば、事情は分かってくれるような気もするし……。
 案外悪くないかもしれない。
 何にしてもとりあえずは大人の人がいるならば、会って事情を説明した方がいいような気はする。
 いくらなんでも同じ日本人なのだから、話せば解るというものだろう。もしかしたらアダプターを治す方法を知ってるかもしれない。
 友里が覚悟を決めてドアをくぐり、中に入るとそこはだだっ広いリビングとなっていた。
「ここにすわって待ってて、パパを呼んでくるから」
 男の子は友里にソファを勧めると奥の部屋に消えていった。
 友里はソファに浅く腰掛け、落ち着かない様子で部屋の中を見回す。調度品は実にシンプルで、すっきりしているが、生活水準はそれなりに高そうだ。
 友里の自室、その四畳半和室で愛用している、愛媛ミカン印木製勉強机に比べたら、いっそセレブなお部屋と言っても過言ではないだろう。
 ふと、壁に大きなアナログ式の時計が掛かっているのが目にとまった。
 今何時だろう。トッキーはさぞかし心配していることだろう。
 捜索願が出されていたらどうしよう。
 時間を見ると、一時四十分――か。
 え? この時計狂ってる?
 確か物理のプリントが終わって時計を見た時、ちょうど四時だった憶えがある。
 トイレに行くと言って教室を出てから、三十分位経っただろうか。
 ん、いや待てよ……時計も加速してるのかな?
 よくよく時計の盤面を凝視してみると、短針の他にもう一本針が追加されている。
 超短針?
 そしてその針は、四時の辺りを指している。
 そうか、そういうことなのか……。
 あの一番短い針が、本来の時間を指し示しているのかもしれない。
 十倍加速だとすると、一分が十分だとして……、
 男の子に出会ってから実時間の経過時間では三分くらい……か。
 ホントに?
 でも、もしそうだとすると、今すぐ戻る事ができれば、事を荒立てずに納められそうだ。
 本当のことを事情説明するとしたら大変だろうから、そうなったら適当にごまかそう。

 08

「やあ、いらっしゃい」
 奥の部屋から姿を見せたのは小柄な男の子だった。
 え? パパって言ってなかったっけ?
「パパ、この人だよ」
 男の子が嬉しそうにはしゃいでいる。
 本当にパパなのか……。
 この子の父親となると、男の子の年齢から察するに二十代後半から、せいぜい三十台前半位の年齢を予想した友里だったが、その予想はまったく外れていた。どころか、成人しているとも思えなかった。実際、背格好は小学生の高学年位に見える。しかし、相貌に関しては口ひげを蓄えていることもあって、顔だけを見る限りにおいては、子を持つ親の年齢に見えなくもない。服もゆったりとしたガウンを身に着けているが、胸元からは黒いアンダーウエアが覗いている。しかし、一体何歳なのだろうか。
 なんだか訊くのも怖い気がする。
 加速世界の基準が全く分からないので、想像するしかないが、精神活動が十倍に加速しているとするならば、十歳で百歳分の人生経験を積んでいる計算になる。でもそれはさすがにあり得ないとは思う友里だった。
「どうも、初めまして、安藤です。この子はタイラと言います」
 男の子のパパ、安藤さんは丁寧に挨拶すると、応接テーブルを挟んだ向かい側のソファに腰掛けた。
 安藤さんの声は、その容貌からは想像もつかないほど落ち着いていた。
 やはり、父親というのは、ウソというわけでもないのか……。
 男の子の方は、その父親の隣に座って大人しくしている。
 友里は慌てて頭を下げて、挨拶を返す。
「は、初めまスて……わだス、友里でっス」
 急に使いつけない丁寧語を使おうとすると、訛りが出てしまうのは、友里の得意技である。
「ユリさんですか。いいお名前だ」
 ――チッ、ただの名字だっつーの。
 反動で無意味に毒づく友里だった。
「この子が迷子になっているところを助けてくれたそうで、ありがとうございました」
「いえ、どういたしまスて」
 まあ、そのおかげで今現在、友里が迷子中なのであるが。
 さて、どう説明したものだろうか……。
「本当にご迷惑をお掛けして、よく叱っておきますから、ご勘弁お願いします。――まあ、お茶でもどうぞ」
 そう言うと彼は応接テーブルの上のポットからカップにお茶を注ぎいれる。
「あ、いえ、おがまいなぐ」
 友里は座ったまま、膝を揃えて軽くおじぎする。
 男の子はタイラというのか。どんな漢字なのだろう。それともひらがなのままなのだろうか。
「ところで、ユリさんは妖精さんだそうで」
「ええええ、わ、私は一介の女子高生でして」
「はは、冗談ですよ。でも――」
 安藤さんは意味ありげに一拍置き、友里を見据えてから言う。
「あなた、こちらの住人じゃありませんよね」
「どきっ」
 思わず口で言ってしまうほど、動転してしまう。
「えーと、あのう、そのう、なんて言うか、ここって……お隣さんの世界なんっスよね」
 うつむき加減で恐る恐る、安藤さんの顔を上目使いで見ながら言う友里だった。
「はは、やはりそうですか。もちろん、ここの住人ではないのは、一目見ただけで分かってしまうのですがね」
「見ただけで?」
 怪訝な表情で聞き返す友里。
「もちろん」
 そう言って、安藤さんは自分のカップに口をつけた。
「あのう……私ってやっぱり逮捕されちゃうんでしょうか?」
 友里は身を縮めながら、おずおずと訊ねる。
 逮捕はないにしても、補導ぐらいはされそうな気がしている友里だった。
「おや、これは意外ですね、なかなかの事情通のようで」
「いえ、ちょっと、昨日トラブルに逢っちゃいまして、それで……」
「トラブル? 何か事件にまきこまれた、ということですか?」
「事件と言うほどのことでもないんですけど……」
 そう。
 実際問題として、単にゲームの中でプレイヤーキルにあっただけなのだ。ぶっちゃけ実被害はないに等しい。それよりも、友里にとって衝撃だったのは、時空警察なんて存在が必要な世の中だったということなのである。
 友里としては、半信半疑。いや、ほとんど与太話ということで、折り合いをつけようと画策していたのだが、何の因果かこんなことになってしまって、今や絶賛被害拡大中という気分なのだ。
 友里は昨日の事と次第を、安藤さんにかいつまんで説明する。
 できるだけ手短にまとめたつもりだったが、さすがに三行にはならなかった。
 安藤さんは友里の要領を得ない話を、辛抱強く最後まで聴いた後、深く頷いてから言う。
「なるほど、最近多いらしいですね、そういう不遜な輩が」
「でも、時空警察に助けてもらって、ついでにいろいろ教えてもらったんです」
「ほう、それはそれは……しかし珍しい話ですね」
「珍しいんですか?」
「ええ、時空警察は秘密主義と聞いていますからね。そんな話は聞いたことがありません」
 秘密主義……とてもそうは思えなかったが、一応最後に口止めを要求されはしたのだから、そういうことなのだろう。
「何か特別な理由があったのかもしれませんが、時空警察自身が最近は変わってきたのかもしれませんね」
「はあ、でも安藤さんも、いろいろ事情通のようで」
「ええ、一応。それ関係の仕事をやらせてもらってるものですから」
「へ、へえ……」
 それ関係って、どれ関係なんだろうか。
 と言うよりも、どっち関係なんだろうか。
 え? まさか……。
 今更ながら、急に不安に駆られる友里。
「それで? ユリさんは、昨日そのまま返してもらえたのですか?」
「はい、なんとか」
「ふーむ……そうすると、今日のことは、昨日の後遺症というところですかね」
「今日のことって、私がこっちに来ちゃったってことスか?」
「そういうことです」
「じゃあ、安藤さんには、こんなことになった原因が分かるんですか?」
「さあ、それはどうですかね」
 安藤さんの、なんだかはぐらかすような物言いに、ちょっといらっとする友里。
「あの……私、さっき上の窓から見たんですけど――」
「窓……、と言うと、地上の景色をですか?」
「そうです、一階の窓からだから、あんまり遠くまでは見えなかったんですけど」
「ほほう……、で? どうでした? あなたが見た景色はどんな感じでしたか?」
 安藤さんが、興味津々といった風情で友里に訊ねる。
「えーっと、何て言うか……ぼろっちいって言うか、貧乏くさいって言うか――」
「貧乏くさい?」
「あっ、わ、わ、でも、そ、そんな感じがしたんです」
 さすがに失礼に値する形容だったと気が付き、慌てて取り繕う友里。
「ハッハハ、いいのですよ、あなたが見て感じたことなんですから」
「は、はい……」
「しかしですね、実を言うと、あなたが見た景色、あなたの言うこの世界の風景は、私は見たことがないのですよ」
「え、ええ? なんでですか? もしかして上に出たことがない……とか?」
「いえいえ、そう言う意味ではありません」
 うーん……じゃあ、どういう意味なんだろう。
 どうにもこうにも回りくどい。いわゆる迂遠な話は苦手な友里であった。
 できれば三行で説明して欲しい。……無理か。
 安藤さんはカップを置き、心持ち声のトーンを落として言う。
「あなたがさっき見たとおっしゃる世界は、この世界のスタンダードではないからです」
「スタンダード……?」
 スタンダードは別の風景だとでも言うのだろうか……。
 文脈に則ればそういうことにしかならないけれども。と混乱するばかりの友里だった。
「ええ、あなたは地上にお住いなんですよね? ということでしたら、おそらくはあなたは一般層居住者《レジッター》なのでしょうが……」
 ――レジッター、確かドンちゃんもそんなことを言っていた。
 じゃあ、やっぱり私はそういうふうに呼ばれる世界の住人ということなのか……。
「はい、多分、そうだと思われます」
「やはりそうですか、そしてアダプターの動作不良を起こして、こちらに来てしまったということでしょうが、そうした場合、一気にこちら側にシンクロすることはまずないのが普通なのですよ」
「一気に? ですか」
「ええ、おそらくあなたが見たのは、あなたが無意識に選択した、いやこの場合、同期してしまった、データベースのレイヤーシーナリーでしょう」
 データベース?
 シーナリー?
 なんのことかさっぱりである。
 もうこれ以上、新語を登場させないで欲しいなあ……。
 という友里の願いも虚しく、安藤さんの話は続く。
「アダプターが不安定状態に陥った場合、所有者の精神状態がレイヤーシーナリーの選択に影響を与えることがあるのです」
「へえ……そうなんですか」
 とりあえず、合いの手を入れる友里だった。
「ユリさん、あなたが風景の切替わりを受ける直前に何を考えていたか憶えていませんか?」
「直前……ですか」
 そう言われても……どうだっただろう……
 早くプリント終わらせて帰りたい――なんて思ってたような気もするけれど……。
 うーん、そう言えば……
「なんとなく、夕方の廊下って寂しい雰囲気だなあ……とか思ってたような気がします」
「ふむ、それですね。その無意識下の動揺が影響したのでしょう」
「影響――ですか……」
「そうです、言わば、あなたが選択したのですよ。ステージセレクトしてしまった、と言ってもいい」
 そんなこと言われてもなあ……。
 じゃあ、元の世界に帰りたいって念じれば戻れるんだろうか?
 一応やってみる友里。目を瞑って強く念じる。
 えいっ、と目を開けてみるが、そこには余裕の笑みを浮かべた安藤さんが、相変わらず座っている、前と同じ部屋の中であった。
 やっぱりだめか。
 まったくもう、どうなっちゃってるんだろう……。
「……それで、帰る方法なんですけど」
 もう、ここは事情通であるらしい、この人に頼るくらいしか思いつかない友里だった。
「もちろん、ありますよ」
「ほ、ほんとに? よかったあ」
「ええ、もちろん」
「でもなんで、こんなことになっちゃうんスか」
「そうですねえ、原因については、色々とケースバイケースですが、まあ、よくあることなんですよ」
「え? そ、そうなんだ」
「ええ、私どもではあなたのような事例をこう呼んでいます」
 安藤さんが宛然とした笑いを浮かべながら言う。
「邂逅者《エンカウンター》と」

  09

 ……おいおい。
 出たよ、ゲーム脳。やっぱりこいつもかっ。
 一体世の中どうなってるんだろう。
 もういい加減にしてくれないかなあ。
 と、身も蓋もない感慨を抱く友里。
「でもそれって、どっちがモンスター扱いなんスか?」
 と、ぞんざいに訊く友里。
「いやっはあ、面白い発想ですね、なかなかに」
 軽薄に笑う安藤さん。
 さらにむっとする友里。
「では、お答えしましょう」
 安藤さんが手にしていたカップをテーブルに置き、膝の上で手を組む。そして友里を真っ直ぐに見つめた後、手のひらを上に向けて友里の方を指した。
「もちろん、あなたの方ですよ」
 友里は一瞬仰け反ってしまうが、すぐに首を起こした。
 そして……
 友里は仲間にしてほしそうに安藤さんを見――ずに、思い切り睨みつけた。
「私、帰りたいんですケド!」
 とうとう語気を荒げて言ってしまう友里だった。
「まあまあ、落ち着いて。お茶でもどうぞ。私どもとしましても、息子がお世話になったわけですから、できる限りお力になって差し上げたいのですよ」
「へえ……まあ、そういうことならぜひお願いしたいところですケド」
 友里はぷりぷりしながらもカップを手に取り、口を付ける。
「お気持ちは察しますが、その前にやらなければならないことがあるのです」
 安藤さんはわざとゆっくりと、鷹揚に話を続ける。
「……?」
「実のところ、あなたのペースメーカーはまだ完全にこちらの世界にシンクロしているわけではないのです。ですから、そのためにある手続きが必要なのですよ」
「手続き?」
「ええ、いったんこちらのレイヤーに完全に同調させるための作業。それが必要なのです」
 なんでこの人は、そこまで詳しいのだろうか。
 だいたい、お隣さんの世界のことを知らないのはお互い様じゃなかったんだろうか。
 それとも、こっちの世界の人は、すべからく事情通ということなんだろうか。
 だとすると、なんだか不公平にも思える。
 友里としてはどうにも猜疑心が強まる一方だった。
「それで、何をどうすればいいんでしょうか」
「そうですね、本来我々はアダプターが持つ、ペースメーカーの設定を勝手に変えることは許されていません。それは紛うことなき違法行為に当たりますからね。しかしルールに関しての是非を問う前に、そもそも一般人が簡単にいじれるような物ではないのです。いえ、一般人どころか、ウィザード級ハッカーでさえ手に負えない代物なのです。こいつはね」
 安藤さんは、自分の左胸を親指で指した。その安藤さんの心臓にも、ナノマシンが埋め込まれているのは間違いないのだろう。
 もちろん、友里と同じアダプターが。
「じゃあ、どうすれば……」
「もちろん、方法はあります。非合法ではありますが」
「え? 非合法……って、それって犯罪行為になるんじゃ……」
 そう言った友里の言葉に、くっくっと、安藤さんはさもおかしそうに含み笑いを漏らす。
「ユリさん」
「は、はい……」
「あなたはすでに違法行為に及んでいるのですよ」
「え、だって、私は何も……」
「していない――ですかね?」
「してないっス」
 ボイスロイドばりの棒読みで返答する友里。
「していない、そう……しなかった。やるべきことを……アダプターの再レジストを」
 先ほどの友里の説明から洞察したとは思えないくらいに鋭く指摘する安藤さん。
「う……」
 さもおかしそうに安藤さんが続ける。
「怠ったのです。そして結果的にこの事態を引き起こしてしまった」
「そんな……だって、こんなことになるなんて知らなかったし――」
「はは、まあ、そうですね。当然ですが、情状酌量の余地はあります」
 しかし――と安藤さんは続けて告げる。
「過失責任は免れないでしょうがね」
「で、でもちゃんと事情説明すれば、分かってもらえるんじゃ……」
「しかし、時分割法は厳格ですからねえ、お叱り程度では済まされないですよ。事情聴取もあるでしょうし」
「そんなあ……」
 事情聴取……だなんて。
 そうなると、必然的に親にも連絡がいくことになるのだろう。
 大人たちに囲まれて詰問される場面を思い浮かべながら、項垂れる友里。
 そんな友里に向かって、安藤さんが諭すように言う。
「いや、私としても事情は充分理解できます。だからこそ穏便に、元の鞘に収める方法をお教えしようというわけですよ。ぶっちゃけ、さっさと戻ってしまえばいいわけです。いわゆる三秒ルールみたいなものと思えばいいのですよ。あなたも早めに戻らないと困ったことになるんじゃないですか?」
 げ、そう言えば……
 友里の脳裏に、数学の補習プリントのことがよぎる。
 怒られたあげくに、単位まで落とすわけにはいかない。
 でも、どうしよう。
 うーん……
 そうだ! こういう時こそ、脳内会議だ。
 目を瞑り、会議室のビジョンを展開する。
 あれ、会議室ってどんな感じだっけ?
 ま、とりあえず、床もテーブルも大理石造りみたいなのにしておこう。
 アンモナイトが埋まってるのがいいかな。
 高い背もたれのついた議長席に自分が鎮座するイメージ。
 よし、
 脳内会議――スタート!
 友里『私の脳内人格、全員集合!』
 友里は仲間を呼んだ。
 友里A『はいはーい』
 友里B『あいよー』
 友里C『おっひさー』
 友里D『ちょりーっす』
 友里E『おなかへったー』
 うわ、どうしよう――バカばっかりだ。
 そんなバカな。
 絶対これ収拾着かなくなるよぉ。
 友里『えーっと、時間がないので多数決とします』
 一同『えーーーっ。ぶーぶーぶー』
 友里『静粛に!』
 友里『では、安藤さんを信じようと思う人』
 『はいはーい。さんせー。わーわー。ぱちぱちぱち』
 友里『じゃあ、やめといた方がいいと思う人』
 『しーーーーーん』
 会議終了。
 ま、いっか。
 もう背に腹は代えられない。
「…………ユリさん、ユリさん、どうしました?」
「わ! あ、はいはい」
 病気の文鳥のようにじっと目を閉じている友里を、安藤さんの声が現実に引き戻す。
「さっきからお呼びしているのに返事がないので、ただのしかばねかと思いましたよ」
 おいおい、なんだかモンスターから、さらにランクダウンしちゃってる。
「眠いのですか?」
「ち、違いますっ、熟考してたんです」
 友里が真剣な面持ちで安藤さんに向き直った。
「ああ、なるほど……で、決心は付きましたか?」
「はい……でもホントに大丈夫なんですか?」
「ええ、方法自体は簡単ですから」
 にこやかに言う安藤さん。
「じゃあ……お願い……します」
 友里は胡乱に思いながらも、ええいままよと、乗っかることに決めた。
 しかし、どんな方法なんだろう……またぞろゲーム機型コントローラ登場だろうか。
 と、友里が予想していたところに、安藤さんがどこから取り出したのか、友里にある物を手渡した。
「まずはこれを装着してください」
「え? これって……」
「そう、SMDです」
 SMD《スマートマウントディスプレイ》――眼鏡型のヘッドマウントディスプレイである。しかも最新式のタイプだ。正確に言うとこれは、それ自身がウェアラブルPCとなっており、プロジェクションキーボードの照射機能も備えている。
「な、何に使うんスか、これ……」
「もちろん、ログインするためですよ。あるアプリケーションにね」
 アプリケーション?
 安藤さんの言葉に、戸惑いを隠せない友里。
 電子機器であるアダプターをいじくるのだから、その方法もおおよそ電子デバイスを用いるのだろうという想像はついていたが、まさかこんなありふれたデバイスが出てくるとは意外であった。
「ご心配なく、私もご一緒しますから」
 そう言うと安藤さんは、SMDを装着し、友里にも装着を促す。
 不承不承ではあるが、友里も仕方なくSMDを装着する。
「では、簡単に説明しましょう」
 SMDを装着した友里を見た安藤さんが、安心したようにソファに深く座り直し、説明を始めた。
「アダプターの持つ神経系への割り込みは、もともと医療用途にのみ使用を認可されていたのですが、最近ではそれも緩くなってましてね。とうとう民間の娯楽にも使用認可が下りるまでになりました。バーチャルリアリティのための神経感覚の制御――つまり、ペースメーカーへのプラグインが可能なのですよ。アプリケーション上でね。アダプターへの直接的ハッキングはほぼ不可能と言ってもいいのですが、アプリケーション側のハッキングは不可能なレベルでもありません。ま、そこを利用するわけです。アプリケーションの動作に影響を与えないように、セキュリティホールを発生させる。まあ、平たく言えば踏み台にするわけです。バックドアと言ってもいいでしょう。そこから、生体クロックの同期を変更するんですよ」
「ええっ? そのアプリって……もしかして……」
 友里が呆然としながらも確認するように口にのぼす。そのアプリケーションとやらを。
「ソーサラーズ……?」
「そういうことです、では、ご自身のIDでログインしてください、私も一緒にログインしますから」
「うーん、でも、なんか……」
 さすがの友里でも不穏当な気配を感じる。これではまるで……そう、昨日の続きではないか。
 そして、これからチート行為をしようというのなら、今度はこちらが演じることになることになるのではないだろうか。いわゆる……件の、イグナイターとやらを。
「さあ、どうしました? 帰りたくないのですか? 早くログインしてください」
「そりゃ、帰りたいっスけど……」
「では、先にログインして待っていますから、向こうで案内いたしましょう。それでは」
 そう言うと、安藤さんはソファに背をもたれさせた体勢になり、素早く空中をフリックし、ログイン情報入力を済ませる。すぐに、眠りに落ちるように、微動だにしなくなってしまった。
「パパ、いってらっしゃーい」
 安藤さんの隣に座っていたタイラくんが言う。
「あれ? お姉ちゃんは、行かないの?」
 と、今度は不思議そうに首を傾げながら友里に向かって言う。
「う……も、もう、行けばいいんでしょ、行けば!」
 SMDにはすでにキュビネット上のソーサラーズのログインページが表示されていた。
 半ばやけになりながら、友里はログイン情報を入力する。
 認証が済むと、唐突にぐらりとくる酩酊感。この感覚だけはいつもと同じだ。
 そうか、これがアダプターへの干渉ということだったのか……。
 そう言えば、最後にログアウトしたのはネカフェのブースだったはずだが、一体どこにポップするのだろう……。いや、あのネカフェはゲーム内のエリアというわけではなかったのだった。じゃあやっぱりセクハラ村に戻ってるのだろうか。
 友里は朦朧とする意識の中で、そんなことを考えながら、感覚が戻るのをぼんやりと待った。

 VR世界と、現実世界の狭間で。[#「現実世界」に傍点]






 第六章 ルッキング・フォー・パーティ

 01

「遅いな……」
 主のいない机の前の席に腰掛け、手つかずのプリントに目を落としながら時翔がつぶやく。
 友里がトイレに行ってから、すでに二十分は経過している。
「あいつ、まさか逃亡したのか?」
 そんな文句をひとりごちた時翔ではあったが、もちろんその可能性は低いということは承知している。
 それよりなにより心配なのは、時翔が最も危惧していた事態の発生である。
 アダプターの変調、ペースメーカーの暴走によるアクシデント。
 そちらの可能性の方がよっぽど高いし、そうであれば対応は急を要する。
「まずは電話してみるか」
 時翔は左腕にはめているスマホを操作し、友里の番号を選ぶ。
 しかし、呼び出し音は鳴らず、
『お掛けになった番号は機器の電源が切れているか――』
 すぐさま無機質な録音音声が再生される。
「なっ、マジかよ」
 こんなアナウンスを耳にしたのは何年ぶりだろう。
 なぜならば、生体電力で駆動しているモバイル機器が、電池切れになることなどあり得ないからだ。
 電源が切れているとすれば、持ち主が明示的に電源をオフにした場合に限られている。
 そして友里がそんなことをする必要はないはずだ。
 やはり、何事かが起きている。
 尋常ではない何かが……。
 そう考えると、もはや居ても立ってもいられなかった。
 時翔は飛び出すように教室を出て、女子トイレの方へ向かう。
 廊下は日没後の残照を残すばかりとなっており、後十分もすれば、電灯を点けなければ歩くこともままならなくなるだろう
 時翔は早足で教室を二つ通り越し、トイレの場所までたどり着く。
 焦燥感に苛まれながら、女子トイレの扉の前に立った。
「友里、いるのか?」
 声を掛けてみるが、返事はない。
 中からは、まったくもって人の気配は感じられない。
 なんの物音もしないし、もちろん音姫さまの音もしない。したとしても聞き分けはつかないのだが。
 さすがに女子トイレに突入するのは躊躇を覚えるが、この非常事態では仕方がないだろう。ひょっとしたら中で倒れているなんてこともあり得る。
 もちろん、友里がここにはおらず、どこか他の場所に移動していることもあり得るのだが、とりもなおさずトイレに行くとすれば、ここ以外には考えられないのも確かである。まずはこの場所に友里がいないことだけでも確認しておく必要はある。
「友里、入るぞ」
 一応宣言だけはしておく。しかし女子トイレは、相変わらず不気味に静まり返っていた。
 入り口の扉を開け、中に足を踏み入れる。
 五つある個室をすべてチェックするが、やはり誰もいなかった。
 どこもかしこも陶器製のタイルが、冷たい光を放っているのみである。
 唯一、時翔の意識に引っ掛かったのは、男子トイレの個室には置かれていない、三角コーナーの物体であったが、今はそんなものを検分どころか、描写している場合でもない。
「あいつ、どこに行っちまったんだ……」
 女子トイレから廊下に戻り、もう一度友里に電話をしてみる。
 反応は、やはり先刻と同じだった。
 友里の家に電話してみようかと思った時翔だったが、よくよく考えてみれば、家の電話番号なぞ知らないのであった。
 改めて、途方にくれる。
 が、はたと思いついて周りを見回す。
 もしかすると、歩いているうちに本人の意思とは関係なく勝手に加速してしまって、窓を突き破ってたりしていないだろうかと思いついたのだ。しかし、女子トイレから教室の入り口まで、廊下のどこにもそんな痕跡は発見できなかった。窓も壁も無傷であるし、もちろん天井に突き刺さってもいなかった。
「一体、どこに……」
 まさか……
 時翔としてはそれだけは考えたくなかったのだが、可能性としては十分あり得るのだ。
 昨日のネカフェでの体験学習。ドン亀さんがレクチャーしてくれた、時翔が知らなかった大人の世界。
 そうなのだ、それがでたらめではなかった証拠は、ついさっきも目の当たりにしたばかりなのである。ならばやはり、その可能性も現実問題として考慮に入れるしかないのだ。
 パラレルワールド……いや、レイヤーシフト、だったか……。
 しかしもしそうだとすると、はっきり言ってお手上げである。姿も見えず、声も聞こえず、触れることもできないのだ。そう考えると、ひょっとして今ここに時翔のすぐ隣に友里が立っていたりするのかもしれないが、たとえそうだとしても、時翔は友里を発見することはできないであろうし、こちらから見えないということは、やはり友里の方からも時翔を見ることはできないはずだ。
 かてて加えて通信手段も存在しないのである。
 電話が通じないのであれば、メールを打っても無駄だろう。
 時翔の方からメール送信はできるが、肝心の受信側、友里のスマホがこちらの基地局で認識できないのであれば、当然受信することもできないはずである。
 いや、とりあえず送信だけでもやっておくべきか……。
 そう思い立ち、時翔がスマホを端末モードに切り替えた時だった。
「時翔さん」
 突然、時翔に声を掛ける人物が出現した。
 そう――出現。
 まったく唐突にその人物は、時翔の目の前に現れた。
 廊下の角から現れたそのシルエットは、成人女性のそれだった。
 白いブラウスに黒のタイトミニ。背丈はハイヒール込みで時翔と同じくらい――なので女性としては長身な方だろう。栗色の長い巻き毛が、魅惑的なふくらみを強調するかのように胸元で跳ねている。
「えっ……?」
 ひたすら呆けている時翔に、女性はさらに歩み寄る。
「お久しぶりです、時翔さん」
 上品かつ、パーフェクトメイクな唇が動き、澄んだ落ち着いた声が、時翔の耳をくすぐった。
「だ、誰っすか?」
 彼女は若干困ったように目尻を下げたが、それでも時翔の反応はもっともだと思い直したのか、決まり悪そうに告げた。
「はい、私、ドン亀です」
「ドン亀……さん?」
 整った中にも、あどけなさの残る、抗いがたい魅力的な笑顔で彼女は時翔を見つめている。
 これがドン亀さんだとすると……。
 しばらく見ないうちに随分成長してしまったものである。
 実際、二十歳半ばくらいに見える。
 いや、お久しぶりなんて言われてつい、しばらくなんて思ってしまったが、お久しぶりどころか昨日ぶりなのだ。そうは言っても、昨日のドン亀さんはソーサラーズから抜け出した、ビキニアーマー少女剣士――推定年齢十二歳の姿だったわけで、だとすると、これもアダプターの成せる業ということなのか……。そもそも人種自体も変わっちゃってるし。
 今時翔の目の前にいる女性は、どう見ても東洋系の美女といった顔立ちである。
「もしかして、これがドン亀さんの実体?」
 彼女の自己申告、年齢二十七歳を思い出した時翔が問う。
「えーっと、それはお答えできません」
 いたずらっぽく、マニキュアが光る細い人さし指をあごに当て、秘書スタイルバージョンのドン亀さんが回答した。
 しかしまあ、そんなことは今ここで追求しても仕様がない。昨日もネカフェで時翔の目の前で消え失せたのだから、またもや忽然と現れても、もはや不思議でもなんでもない。
 何しろ彼女――コールサインドン亀さんは、泣く子も消し炭にする時空警察なのだ。神出鬼没など朝飯前なのだろう。
 いや、バーベキューにしたのは友里だったか。
 ドン亀さんは、その亡き骸の身ぐるみを剥いだだけであった。
「しかし、まったく面影がないんですが……」
 ついでに言うと声も違う。完全な別人、大別人ワンセブンである。
 昨日のドン亀さんと、今目の前にいるドン亀さん。どちらがCGなのか――アバターなのか、なんて詮索するのも無駄なことなのだ。
 まあ、この際そんなことどうでもいい。
 本音を言ってしまうと、時翔にとってこの再会は願ってもないことだというのは、偽らざる気持ちなのだった。
 今の閉塞した状況、手詰まり、それを打破してくれるのは、結局のところこの世界の先達者、水先案内人、そのエキスパートであるところのドン亀さんくらいだろうと思っていたのは確かなのである。
 まさに渡りに舟、ご都合主義な展開と言っても過言ではない。
 ここはもう飛び乗るしかないのだ。遠慮なく。
「ドン亀さん! 友里がいなくなって――」
「大丈夫、分かってます。友里さんのことは」
 ドン亀さんは、なにもかも承知していると言いたげな女教師のような風情だ。
 時翔を落ち着かせるようにもう一度短く微笑むと。居住まいを正した後、説明を始めた。
「友里さんの居所は本部のサーベイヤで把握しています。ご無事ですから心配しないで――今のところは」
「今のところ?」
 にこやかに不穏なことを言うドン亀さんのパーソナリティは変わっていないようである。
 どうやら本物のようだ。
「はい、彼女のペースメーカーは、位相同期ずれを起こし、不安定な状態になっていました」
「同期ずれって、なんで……?」
「それは……彼の違法行為が原因だとしか言えません」
 やや、トーンダウンして口ごもるように言う彼女。
 ドン亀さんが言う彼とは、昨日の彼、ネットゲーム――ソーサラーズから抜け出したネカフェで、イグナイターと呼称されていた、あの男の子のことだ。
「じゃあ、昨日のレジストキーは、やっぱり……」
「そうなのです、レジストによるアクティベーションが行われなかったので、彼女のペースメーカーは非同期の状態、フリーランになってしまっていたのです。ゲームで言えばセーブ手続き、正規のログアウトをしないままに、ゲームを終了してしまったのと同じことなのです」
 相変わらず舌の滑りも快調のようである。しかもビジュアルがリアル女教師なので、なおさらパワーアップしている感がある。
 しかし、セーブねえ……
 なんだか、必要以上にかみ砕きすぎなんじゃないだろうか。
 こまめなセーブは身を助く――とは言うけれど。
 そこまで現実がゲームライズされているのかと思うと、ちょっとぞっとしない時翔だった。
「じゃあ、友里はやっぱり見えなくなっちゃってるんすか?」
「ええ、今は別レイヤーに移動してしまっています」
「……そうっすか……それで、友里は今どこに?」
「実は……すぐ近くにいます」
「すぐ近く……って今この場所に?」
 思わずきょろきょろと辺りを見回してしまう時翔。
「いえ、そこまで近くはありませんが、この学校の敷地内だとだけ言っておきましょう」
「あ、そうすか」
 どこだろう? トイレの三角コーナーに閉じこめられてるとか?
「とにかく、すぐにとっ捕まえてもらえますか?」
 今の時翔には友里の姿は見えなくとも、ドン亀さんであれば発見は可能だろう。
 時空警察なら迷子の保護だって立派なお仕事のはずだ。
 ゴーストバスターよりは信用できそうだし。
「はい、もちろん――こうなったのは私の責任ですので」
「いやまあ、友里が約束守らなかったのが悪いんですよ」
「いえ、最後まで確認しなかった私の責任ですから」
 まあ、確かにこんな事になるとは教えてもらっていなかったのも事実である。
 時翔にしたって、昨日はへとへとだったわけで、あのままベッドでグロッキーしていたら、友里と同じ轍を踏んでいたかもしれないのだ。
「それでは、時翔さんはここで待っていてください。私は時翔さんにこのことを伝えに来ただけですから」
「ああ、そうなんすか……あ、でもあの契約書は友里の家に置いて来ちゃってますよ」
「大丈夫、ちゃんと控えを持っていますから」
 そう言えばそうだった。あの時カーボンコピーを貰ったんだった。
「では、そろそろ行ってきます」
 かかとを揃えてピシリと敬礼してみせるドン亀さん。巻き髪がふわりと揺れ、たわわな胸がプルンと弾む。
 さすがにこの姿だと敬礼がさまになっている。実にたのもしい限りだ。
「よろしくお願いします!」
 つられてキヲツケして答えてしまう時翔。
「承りました――それでは、位置を確認します…………よっと」
 懐(谷間)から携帯ゲーム機を取り出すドン亀さん。
 うーむ……
 拭いようもない疑念が頭をもたげる。
 そんなところから出てくるってことは、そのボリュームはフェイクってことなんすかねえ……。
 拡張現実と言うか、誇張現実である。
 景品表示法に抵触しそうな気もする。
 AR版おっぱいスライダーの恐ろしさに震撼する時翔だった。
 と言うよりがっかりしている時翔がいた。今さらだが友里のことを責めて申し訳なかったな、とも思う。ちょっと触って確かめてみたい衝動に駆られるが、当たり判定があってもなくてもショックな気がするので、やめておこう。
「え? あれ?」
 突然、携帯ゲーム機型時空コントローラを操作していたドン亀さんが驚きの声を漏らした。
「…………?」
「どうして……そんな、まさか……」
「ちょ、ちょっと、何がまさかなんすか?」
「これって、ソーサラーズのサーバ……」
 ドン亀さんが思わず口から洩らしたのは、間違いなく聞き覚えのあるゲームアプリの名称であった。
「ソーサラーズ!?」
 時翔も思わず復唱してしまう。

 02

「ドン亀さん! ソーサラーズってどういうことですか!」
「待ってください、今本部に確認しますから――」
 ドン亀さんはこめかみに人差し指を当て、コーリング中のようだ。
「ホワイトロック、こちらドン亀、応答願います」
 なんだか、昨日と相手側のコールサインが違うような気もするが、まあ、いろいろチームがあるのだろう。
 そんなことより友里の身に何が起きているというのだろう。ソーサラーズって……どういうことだ? 補習プリントも終わってないのにゲームで遊んでるのか? いやいや、そんなバカな。
「……はい、そうです。そのIDです。ええ、7教科合計271点の――それで間違いありません。……え、そんな……」
 ドン亀さんは混乱した様子で交信中だ。しかも、本人確認のために、とんでもない情報が活用されているようである。
 友里にとっては彼氏にさえもリークしたくなかった情報が……。
「は、はい、分かりました……その場合は、そのように……」
 指を戻し、沈痛な面持ちで時翔に視線を戻すドン亀さんだった。もういやな予感しかしない時翔。
「時翔さん」
「は、はい」
 シリアスなまなざしに思わず固唾を飲んでしまう時翔だった。
「少々、やっかいなことになりました」
 栗色の前髪の間から覗く、真剣な瞳がひとかたならぬ事態の発生を告げていた。
「やっかい……と言うと……」
「友里さんのアダプターがハッキングを受けています」
「え、えええええ!」
 どうやら……と言うかやはり、と言うべきか、またまたアダプター絡みということらしい。一応驚きの声を上げた時翔だったが、その辺については予想通りと言えなくもなかった。
「いやいや、大体なんでハッキングされてるのにゲームで遊んでるんすか」
「いえ、それは逆ですね。ゲームにログインしたがためにハッキングを受けてしまったと言うべきでしょう」
「ゲームにログイン……って、ドン亀さん、その機械で友里の居所は掴めるんですよね? ならさっさと……」
「……はい……それがその……つまりアプリ側からのロックを受けてしまうと外部からはトレースできなくなってしまうのです」
「…………」
 もはや言葉もない。
 ゲームやりすぎた天罰でも当たったのだろうか、と懺悔したい気持ちに駆られる時翔だった。
「ご心配なく、すぐにこちらもソーサラーズにログインしますので」
「え? なんで?」
「はい、再捕捉するためには同じアプリケーションに同期する必要があるのです」
「そ、そうなんすか……でも、なんで友里はそんなことに?」
「ええと……友里さんのアダプターはとても不安定な状態でしたから、なんらかの事件にまきこまれた可能性が高いと思われます」
「事件って……まさか、昨日みたいな? でも昨日のアイツは逮捕されたんですよね?」
「それが……、残念ながら取り逃がしてしまいまして」
「取り逃がした? な、なんで?」
「すいません、油断していました、こちらの不手際です。失態なんです」
 申し訳なさそうに、消え入りそうな声で、上司に頭を下げる新人OLのようにドン亀さんが縮こまる。
「それじゃ、また昨日のアイツが?」
「それは……まだ分かりません」
「それで友里はどうなっちゃってるんですか?」
「はい……今のところ、ツインクレイヤー側からログインして数分しか経っていませんからまだ大丈夫だと思います」
「まだ大丈夫って……」
 ドン亀さんの大丈夫はすでに大暴落気味である。デフレスパイラルまっただ中と断言したい。
 大丈夫と言われても不安しか感じない時翔だった。
「とにかく、すぐにこちらもログインして救出に向かいます」
 そう言うとドン亀さんは再びコントローラを操作し始めた。
「あ、あの! ドン亀さん!」
「はい、なんでしょう」
「俺も一緒に行ってもいいですか!」
「え? そ、それは……」
「お願いします! ソーサラーズなら、俺もそこそこ慣れてますし、邪魔になりそうだったらすぐに落ちますから」
「しかし……」
「お願いします。友里がこんなことになったのは俺にも責任があるんです。監督不行届と言うか」
 真摯に願い出る時翔。
「お気持ちは分かります。でも……」
 ドン亀さんは戸惑うように目線をさまよわせながら力なく言う。
「だめなんです。今の私のこの姿はARアバターで、本部からログインしてるんです。だから……時翔さんをログインさせてお連れすることは物理的にできないんです」
「まじっすか……」
 時翔の目の前に立っている見目麗しい女性は、やはりアバターということらしい。
 しかし、これがアバター? CG? とてもそうは思えない。
 時翔としても、今までに少なくないCGは目にしてきたが、これほどまでに自然で違和感のないグラフィックは記憶にない。ソーサラーズのように最新VRゲームのCGでさえ、やはり実物との区別はつく位にはディティールのギャップは感じられたものだ。なのに今目の当たりにしている人型は、どこをどう見ても本物としか思えない。
「このアバターは……規制範囲を超えるデータ量を持っていますので」
「規制?」
「はい。過大なデータ量は無線ストリームを寡占してしまいますから」
 なるほど。あれか。近所でエロ動画をダウンロードしてるヤツがいると、ネットが重くなって大迷惑ってヤツだな。
「つまり、職務権限ってヤツっすね」
「はい、いわゆる不気味の谷を遥かに超えるデータ量と、テクスチャ解像度、ポリゴン数の使用が許可された特別製なのです」
「でも、どれだけデータ量増やせばこんなにリアルになるもんなんですか……」
「それだけではありません、モデリングにはオリエント工業の技術提携も受けていますから」
「そ、そうっすか……」
 これ以上ツッコむのは危険な香りがする。
 とにかく、一般のアバターなどとは一線を画した、カスタムメイド品ということで納得しておこう。
「大丈夫です、友里さんは必ずお助けします。待っていてください」
「う、そうですか……」
 ここはドン亀さんに任せるしかないのか……しかし、なんだかもどかしい限りだ。
 ん? いや待てよ……
 突如、時翔の頭上に高輝度LED電球が点灯する。
 そういえば……確か。
「ドン亀さん! ちょっと待ってください」
「は、はい?」
「ようするに、キュビネット接続できるSMDがあればいいんですよね?」
「え、あ、はい、もちろん……」
「あります、あるんです、キュビネット環境がばっちりの、部室[#「部室」に傍点]が!」
 時翔はあっけにとられているドン亀さんの手首を掴んだ。
 いや――掴めた。
 なんと、当たり判定まである!
 しかし今は細かいことに思考を巡らす余裕はないのだ。
「わっ、きゃっ、引っ張らないでください!」
 頬を紅潮させながらドン亀さんが訴えるが、お構いなく引き連れ階段を駆け上がる。つんのめりそうになったドン亀さんのハイヒールが階段でけたたましい音を立てた。
 そして二階に到着。
 ここは文化部の部室教室が並ぶ一角となっている。
 時翔は迷いなくひとつの教室に到着した。
 アプリ研&博コ。
 扉に描かれたネームが燦然と光っている。
 ネット環境だけならば、校内にも何カ所か利用可能な場所はあるが、SMDとなると話は別で、保有している場所は限られてくる。ゲームアプリの研究を主な活動内容にしているこのアプリ研の部室ぐらいしかないはずである。そして確実に存在しているのも間違いない。
「ここです」
 時翔はノックも忘れて、ガサ入れに来た警官隊のようにノブに飛びついた。
 が、開かない。鍵が掛かっている。
「げ、マジかよ!」
 なんで部活終わっちゃってんの? 早すぎだろ……
 心中で非難囂々を浴びせる時翔だったが、終わってしまっているものは仕方がない。職員室に行ってどうにか理由をつけて開けてもらうか……。いや、そんな悠長にしている時間はないだろう。やはり、無理か……。
「くそっ」
 時翔が床を踏みならして悪態を吐く。
「ここにSMDがあるんですか?」
 ようやく腕を解放されたドン亀さんが、静かに訊ねた。
「ええ、でも閉まってて、だめみたいです」
「そうなんですか……」
 ドン亀さんは両腕を胸の下で組み、少し考えているようだったが、ふいに窓の方を指さして叫んだ。
「あっ! フライングフィッシュが!」
「え?」
 その声につられて思わず窓の外に目をやる時翔。
「ん? 何も飛んでないっすよ」
 時翔がドン亀さんの方に視線を戻す――と、ドン亀さんが慌てた様子で振り返った。
「あれ? おかしいですね、見間違いでしょうか」
 などとドアを背にしてとぼけている。
 怪しい……
 何かを感じ取った時翔がもう一度部室のドアを試すと……
 やはり、開いた。
「やりましたね、ドン亀さん」
「なっ、何をでしょう」
 おたおたと目を逸らしながら言う挙動不審女教師だった。
「いえ、いいです……」
 自称秘密警察であるところの彼女であれば、どうとでも言い訳は出てくるはずだが、ここはドン亀さんの機転に甘えよう、と思う時翔だった。まあ職務権限もあるだろうし。
 というわけで、勇躍、時翔は部室内に足を踏み入れる。アプリ研部室に入るのは初めてであった。
 部屋の作りや内装は普通の教室と同じだが、十人分ほどのPC用デスクが並んでおり、机上には旧タイプのノートPCから、最新のウェアラブルPCまで、様々な機器やデバイスが設置されている。
 目指すSMDはすぐに見つかった。
 少しぎょっとしたのは、一番奥のデスクに向かった椅子に、腰掛ける形で鎮座していた人型ロボットだった。しかしそれは、よく見てみれば、いかにも古くさいロボット然とした見てくれであり、おそらくは教材用として中古品をどこからか持ってきたのであろう。もちろん電源も入っておらず、微動だにもしていない。
「ったく、脅かすなって……」
 時翔はリクライニング式の椅子に座り、手にしたSMDの電源を投入する。パスワードはデスクの端に張ってあった付箋紙に書かれていた。
 まあ、はっきり言ってこんな古式ゆかしい手続きは形式美みたいな物で、学校関係者以外の無線生体認証IDであればその前に刎ねられるはずなのだ。
 アダプター様々、万々歳である。
「ええと、サーバはどこを選べばいいんですか?」
 ログインページを開いた時翔がドン亀さんに訊ねた。
「chibaragi-#00でお願いします」
「分かりました」
「あ、それから、ログインしたら、酒場で私を仲間にしてください、傭兵リストの中に見つかるはずですから」
「え? なんでそんな手間かかるんすか?」
「仕方がないのです。向こうで落ち合うには、向こうのルールに則る必要があるのです」
 コントローラを手にしたドン亀さんが言う。
「うーん、なんだか分かりませんけど、とにかく行きましょう」
 時翔がログインすると同時にドン亀さんもコントローラをタップした。
 SMDが透過率ゼロになる寸前、視界の端に映ったドン亀さんの輪郭が薄れたような気がしたが、確認する間もなく時翔の意識は酩酊に飲まれた。

 03

 ログインしてポップした場所は、最後にログアウトした村の銀行前であった。
 友里が言うところのセクハラ村、ホワイトゲーブルズである。
 その名の通り、家々の屋根は白く塗られた物が目立つが、建物自体は板壁の物がほとんどであり、全体として見ると、なんとなくアンバランスな配色に思える。どう考えてもネーミングありきでモデリングされているのは明白である。遠景には白く霞む山並みが広がっており、空との境界は薄く滲んだ乳白色で満たされていた。昨日はあの山の中腹、種まきじいさんの足元に開いたゾーン境界からネカフェへと移動したのだ。
 それなのにここにポップしたということは、キャラが死亡したということなのだろうか? と思った時翔だったが、装備品やお金などはドロップした様子はなく、村を出発する前の状態を保っていた。
 キャラのステータスにも異常はなく、ヒットポイントも満タンである。
 レベルも7で、変わりはない。
 つまり死亡した痕跡はないのである。
 展開したインベントリウインドの右側には自キャラの全身ポートレイトが表示されている。褐色の肌に逞しい長身、黒色のマントを羽織った僧兵《モンク》キャラではあるが、ソーサラーズでは直接攻撃能力は与えられていない。あくまでこの職業《クラス》は強力な回復治癒系の魔法と、そこそこの攻撃魔法だけを操れる職業という設定になっているのだ。
 時翔はアイテムショップを併設する酒場へと直行する。低レベルプレイヤーには欠かせないポーション類を調達できる唯一のショップであるため、すでに毎度お馴染みの場所でもある。
 それなのに、なんだか不思議と懐かしく感じてしまう時翔だった。
 友里と二人でここに来たのはつい昨日のことだったはずなのに、まるであれから半年以上経過してるかのような錯覚を覚えるほどだ。
 それにも増して時翔は奇妙な感覚に捕らわれていた。
 目に映る中世RPGの世界、木々や土の匂い、かりそめの姿である自分のアバター、服や装備品など、どれも現実から乖離した作り物の世界であることは間違いないのに、それでも不思議な安心感を覚えるのだ。
 現実と虚構。
 おそらくだが、この感覚に陥っている原因、理由。それは時翔にとっての現実が――揺らぎないと思っていた、ただの現実が、そんなに確かな物ではなかったことに端を発していることは明らかなのである。
 それどころか、今の時翔にとっては現実の方がはるかに不確かな物に思えるのだ。
 人外魔境、とは友里の言だったが、つまるところ、そんな理不尽で不可解な世界よりも、この世界の方がよっぽどシンプルで信頼に置ける世界に思えるのだ。
 そんなことを考えるのは現実逃避なのだろうか。
 現実を受け止めきれないチキン野郎なのだろうか。
 子供っぽい逃げなのだろうか……。
 いや、違う。そもそも大人に比べれば子供の方がずっと順応性は高いはずだ。常識に捕らわれない柔軟性を持ち合わせているはずなのだ。変化を嫌い、様変わりに戸惑うのは大人であるはずだ。
 それならばやはり自分も、少なからず大人の仲間入りを果たしてしまっているということなのだろうか。
 見えない隣人に興味を失っていった大人達のように……。
 そんな取り留めのないことを考えながら歩いていると、あっという間に酒場に到着していた。
 考えてもきりがないことは封印しておこう。今は友里を助けることに集中するべきだ。
 油断すると頭をもたげるネガティブキャンペーンデモ行進を、脳内機動隊で牽制しつつ宿屋の木戸を開けた。
 酒場の中に入ると相変わらずプレイヤーである客の姿はなく、NPCの店員がカウンター越しに佇んでいるだけであった。
 時翔は早速トレーダーNPCをターゲットし、トレードメニューを展開させる。
 傭兵雇用のメニューに進み、雇用可能な傭兵リストを表示させた。
 その中に――あった。
 難民戦闘姫。
 相変わらず腰が砕けそうなネーミングであるが、確かにこれで間違いないはずだ。
 しかし色々と湧いて出る疑問は完全にシャットアウト出来ないでいる時翔だった。
 現在ログインしているソーサラーズのサーバはどう考えても一般サーバ、誰でも入れる普通のサーバのはずだ。実際ログインしているユーザーをメニューコンソールからちらりと確認してみたが、少ないながらも皆無ではない。
 それならば、その一般ユーザーがドン亀さんを購入していく可能性もあり得るだろう。
 ドン亀さんが売り切れ状態になっていてもおかしくないはずなのだ。
 いや、傭兵の補充は数時間で行われるのだったか。
 そもそもGM権限を持つドン亀さんならば、もっと自在な細工は出来そうな物だが、どういうことなのだろう。
 その辺は、本人に訊いてみるか……。
 時翔はクレジットを支払い、目的の傭兵を購入した。
 続いてポップしたニックネーム入力欄に、ドン亀と入力するべきか迷ったが、思い直し、デフォルトのままにしておく。
 少女剣士がゲーム的演出を伴う魔法のように――あるいはただの現実のように出現する。
 実体化した少女剣士がおずおずと進み出て、聞き覚えのある高音ボイスを発した。
「はじめまして、ウララです、よろしくね、あああ≠ウん」
 片手剣に小型のシールド装備、ビキニアーマー装着の金髪碧眼少女剣士がちょこんと頭を下げる。
 さすがに先ほどまでのドン亀さん、女教師バージョンに比べると見劣りする外観である。
 もちろん、世界観とのマッチということを鑑みるのであれば、こちらの方が断然自然ではある。
 立ち絵と背景のバランスは大事だということを改めて思い知らされる時翔だった。
 しかし、この挨拶って……。
 なんだかテンプレートな挨拶セリフに戸惑う時翔。蛇足ながらも、ついでに自分のキャラ名も思い出してしまった。
「ドン亀さん……ですよね?」
 少女剣士は待機モーションのまま、不気味な沈黙を保っている。
 ちゃんと自律機動しているのだろうか。
 え? まさかハズレ?
「ちょっと、ドン亀さん!」
 思わず大声で誰何してしまった時翔だったが、ドン亀さんの次の返答はウィスパーモードに切り替わっていた。
「大丈夫、ちゃんと中にいます」
 と。
「ウィスパーモード?」
 囁きモード、つまり内緒話モードというわけか。
「そうです、切り替えてください」
「あ、はい」
 時翔はパーティーメンバーリストからドン亀さんを選び、会話モードをウィスパーモードに変更する。もっともウィスパーモードとは言っても、テキストチャットに切り替わるわけではなく、音声は通常と同じように耳に聞こえてくるのだ。ただし、グループに属さない他のプレイヤーの耳には届かない仕組みとなっている。そして音声モードがそれと分かるように、若干のリバーブエフェクトが付加されていたりする。
「でも、どうしてですか」
「はい、私はあくまでNPCということになっていますから。つまり、この通常フィールド上では」
 通常フィールド――つまりここはハッキングを受けているわけではない、一般ユーザが利用している最中のパブリックスペースということらしい。
「それに私はGMではありませんし――」
 それは承知しているつもりなのだが……。
 そもそもなんでこんな回りくどい手順を踏んだ上に、内緒話モードまでにする必要があるのか、そこが理解できないのだ。
 ある程度の公権力が認められているというのならば、ソーサラーズの運営管理者の協力を得れば済むことなんじゃないんだろうか。人一人の命? かどうかは定かではないけれど、存在が脅かされるような事態が起きているならば、その位できるんじゃないんだろうか?
 人身事故が起きたら全線ストップする鉄道に比べれば、まだ社会的影響は少ないように思えるし……。極論すれば、サーバダウンさせるという手もあるはずだ。それに、実際問題として友里の身にどんな危険が迫っているのかも、はっきり言って謎である。
「えっと……アプリケーション保護のポリシーと言う物がありまして、稼働中のサーバをダウンさせることはできないのです。もちろんハッキングに類する超法規的行動も制限されているのです。あ、もちろん運営には許可を取った上でログインしています。私たちは今スーパーユーザー権限でログインしていますので」
 時翔の疑問に応じるドン亀さんの歯切れは悪い。
 一体全体どんなプライオリティの元に規則が定められているのか謎すぎる。
 NPCという仮初めの姿でしか活動できないということだろうか。とすると、元々一人でログインする予定だったドン亀さんはどうやってソーサラーズ内を探索するつもりだったのだろう。
「その場合は、適宜フィールドに存在するNPCに擬態して移動するのです」
「はあ、なるほど……」
「どのみち、ポップポイントはシステムが定めたセーブポイントからしか入れませんから」
 後は徒歩……ということなのか。なんだか悠長な話である。
「いえ、そうでもありませんよ。とりあえず、すべてのゲートスペルは用意していますから」
 そう言うとドン亀さんはトレードウインドウから時翔にアイテムを渡した。
「スペルブック……」
「はい、全部オートキャストできます」
 ソーサラーズでは基本的に魔法は呪文詠唱によって発動し、高レベル魔法ほど長々とした呪文を唱える必要があるのだが、ある程度レベルが上がると、下位魔法はスペルブックに自動詠唱の機能が追加され、タッピング一つで発動させることが可能となる。
 しかし、高レベルの攻撃魔法や、即時性の低いテレポートの魔法は単なるレベルアップやショップでの購入で入手することは不可能であり、難易度の高いクエストの報酬や、代金を支払って購入するしかない。
 代金、と言っても、ここで言う代金とはゲーム内で流通する貨幣のことではない。
 いわゆるリアルマネー、課金のことである。
 とは言え、時翔も友里もソーサラーズを始めたばかりの新人《ニュービー》であり、課金アイテムはまだ一つも所持してはいなかった。
 課金したら負け……とまでは思っているわけではないが、まだそこまで真剣に遊び倒しているわけではないし、その辺は慎重に判断するべきだという常識も持ち合わせている、というだけのことである。
 時翔は手渡されたスペルブックをチェックしてみる。
 おおむね1ページにつき3、4個のスペルが登録され、効果、性能についてのヘルプも表示されるようになっている。
 そして驚くべきことでもないのかもしれないが……
 コンプリートしていた。
 すべての魔法がオートキャスト可能となっている。
「それと、これもどうぞ」
 ドン亀さんが次々とアイテムを手渡してくる。
 アポカリプス99回チャージの杖。
 HP全回復99回スタックの薬ビン。
 壁抜けマトック99回分。
 etc……etc……
「これって……」
 時翔が疑問を挟もうとするところにドン亀さんが説明を加える。
「一応補足しておきますが、すべて正規品――チートアイテムの類は混じっていません」
「正規品……なんだろうけど、これって普通に購入したらどえらい金額になるんじゃ……」
「そうですね、私もその辺は詳しいことは知らないのですが、末端価格にすると数百万円にはなると思います」
「まじっすか」
「ええ、上位魔法はほとんどRMTで取引されている価格での相場になりますから」
 RMT、リアルマネートレード、つまりユーザー間での取引価格ということである。
 高級アイテムや、高位魔法は時間の掛かるクエスト報酬であることがほとんどなので、もっぱらオークションによってユーザー間取引で価格が決定するのだ。
 当然のことながら、流通する数量が少ないほど価格は高騰する。
 高級アイテムの入手にはお金か、時間のどちらかを投入するしかないのである。
 この辺は現実世界と相似形である。いや、ある意味現実よりもシビアなのかも知れない。
 なにしろ運と呼ばれる要素の介入がほとんどないのであるから。
 時翔としても、普段こうした高級アイテムの存在は見聞きしてはいても、とてもではないが手の届かない高嶺の花としか思っていなかった。
 しかし、こうして綺羅星のような最高級アイテムを実際に手にしてみると、所詮はただのデータなのだということを教えられた気分である。
 なんの苦労もなく与えられた物であれば当たり前かもしれないが……。

 04

「まずは、移動しましょう。お話は道すがらということで」
 ウィスパーモードながら、凛とした声音でドン亀さんが言った。
「あ、はい、そうっすね」
 時翔もそれには同意だった。おそらくこの上でポーションやアイテムなどの補充は意味がないと考えて間違いないだろう。先ほどもらい受けた大人買い課金アイテムに加えて、GM権限に近い行動が許されているならば、まずもって無敵と思ってもいいのかもしれない。
「では、グループゲートの最後の呪文をタップしてください」
「最後……ってこれか……」
「はい、そこに友里さんが囚われているようですから」
「囚われ……って、ここって最終ダンジョンの近く?」
「そうです、現行バージョンでの最終ダンジョン、そこの最深部に友里さんの反応があります」
 ということらしい……。
 もうとにかく理屈はすべて後回しにしよう。
「では、いきます」
 時翔は手にしたスペルブックから目的のグループゲート魔法をタッピングした。
 七色に煌めく光芒のエフェクトが降り注ぎ、シンセチックな効果音と共に景色がフェードアウトする。視界オーバーレイには、お馴染みのNow Loadingの文字が表示されている。しかもその時間がやけに長い。かなりデータ量の大きなエリアなのだろう。
 光のエフェクトが晴れると、野外の景色が広がるゲートポイントとなっていた。
 移動完了。
 なのだが、もちろんこんな場所には一度も訪れたことのない時翔であった。
 辺りは昼間の時間帯であるにも拘わらず、重たい空気が充満し、薄暗闇が支配するおどろおどろしい雰囲気のフィールドであった。
 見ると傍らにはドン亀さんがぽつねんと立っていた。
「着きました……けど……」
 きょろきょろと周りを見回しながら時翔が漏らす。
「お疲れ様でした。ではここからは、徒歩ですね」
 落ち着き払った声でドン亀さんが言う。
「え? まじっすか?」
「はい、ダンジョンの中にはテレポートできませんから」
 そりゃ、ゲームシステム的にはそうだろうけど……
 GMだったらやっちゃってもいいのでは?
 と思う時翔だったが、ドン亀さんはそんな時翔の心情を読み取ったかのように口上を開始した。
「アプリケーション保護則に従う限り、使用中のサーバの改変は行うことができないのです。ですから、ここからは自力――つまり徒歩でダンジョン最深部まで向かう必要があります」
 そう言うとドン亀さんはショートソードを抜き、ピシリと行く手を指し示した。
 ジャパニメ少女剣士が真剣な面持ちで見据える先、そこには豆粒のような石造建造物が陰々滅々とした風景の中に幽かに見えていた。しかしまだ相当な距離がある。徒歩であそこまでたどり着くにはかなりの時間を要しそうだ。しかも、辺りには凶暴なモンスターが徘徊しているのが遠目にも窺える。先ほど手渡された最高級アイテムを駆使すれば排除は可能なのだろうが、時間を優先するならばなるべく無駄な戦闘は避けたいところだ。
「あそこが入り口のようですね」
 ドン亀さんがごく自然に目的地を決定する。
「ええっ、いや、ちょっと待ってください、もしかしてこれからめちゃくちゃ大変なことをやろうとしてるんじゃ……」
 遠く霞む石造りの建造物を望みながら時翔が身を震わせる。
「仕方がありません、今のところ違法ポータルゲートは検知されていませんから、とにかくできるだけ急ぐしかないですね」
 それだけ告げるとドン亀さんは、自信たっぷりに金髪ポニーテールを揺らして行軍を開始した。
 いや、NPCがプレイヤーより先に歩いてるのは不自然なんじゃ……。
 と思ったが、先行させるNPCコントロールコマンドもあったのを思い出した。
 徘徊しているモンスターとの接触は避け、回り道しながら進む。
 残念ながら移動速度アップの魔法は時翔のクラスでは使用できないのがもどかしい。
 いくら最高レベルの魔法を使い放題とは言え、職業における使用可否の縛りは解除できないようである。これもアプリケーション保護則の制限というヤツなのだろうか。
「ドン亀さん」
「なんでしょう」
 ポニーテールをスイングさせて少女剣士が振り返る。
「よく分からないんですが、昨日のアイツって剣を使って攻撃してきましたよね」
「え? ああ、そうでしたね」
「ここってPvEサーバでしょ? だったらプレイヤーは直接攻撃できないはずですよね」
 PvEサーバ、すなわちプレイヤーvsエネミーの意味である。PvPが許可されているサーバならまだしも、COOPゲームのみに特化したPvEサーバではプレイヤーは直接攻撃どころか、同じプレイヤーを攻撃することもできないはずなのだ。そもそも当たり判定自体が存在しないのであるから。
 ゲームシステムの制約が絶対的に不可侵の物であるならば、そんなことができるのはおかしいのではないだろうか。
「それは……ポータルゲートを抜けた時に、通常サーバから移動してしまっていたのです」
「あ、あのネカフェステージ――ですか」
「いえ、予約領域《リザーブレイヤー》ですね」
「そうでしたっけ、じゃあ、あそこってなんでもありの空間ってことなんですね」
「そうではありません。アプリケーションに実装されている機能の制限が解除されるだけで、なんでもありというわけではないのです」
 ソーサラーズの大部分を占める通常サーバはPvEサーバであるが、少数ながらもプレイヤー同士で戦闘が行える、PvPサーバも用意されている。つまりプログラム的には実装されていると言う方が正しい、ということなのだ。
「え? それじゃあの空間ってアイツが造ったわけじゃないってこと?」
「そうですね、このアプリケーション、ソーサラーズを雛形にした別サーバだと思ってもらってもいいでしょう。つまり、彼がハッキングしたのはソーサラーズではなく、予約領域《リザーブレイヤー》だと言えます。だからこそプレイヤーはアバターではなく、生身の存在という大きな違いがあったのです」
「ええ!? やっぱりそうだったんですか!」
 とは言え、未だに半信半疑の時翔だった。現実の世界にゲームのグラフィックスを重ね合わせるだけならまだしも、ARグラフィックスであるはずの剣や魔法が物理的効果を発生させるなんて、どう考えても信じがたい。
「物理的現象を知覚するのは人間の感覚器官、神経ですから……」
 ドン亀さんは、どこかもどかしさに耐えるように低く漏らす。
 ああ、結局、そう来るのか……。
 物理現象を知覚するのは感覚器官。
 世界を認識するのは人間の神経に発生する電気信号。
 そして――
 その信号を発生させているのが――
「アダプターってことですか……」
 時翔が慚愧に耐えるように小さくつぶやく。
「そうなのです」
 ドン亀さんは、それ以上何も言わず、前を向くと再び歩を早めた。
 ここで一旦レクチャータイムは一区切りという感じである。
 しかし時翔にはもう一つ、大きな疑問が残されていた。
 ドン亀さん達が争乱者《イグナイター》と呼ぶ、彼らの目的、その動機についてだ。
 鬱蒼とした木立を抜け、視界が開けたところに差し掛かったところで、時翔が満を持していたかのように、背後から声を掛けた。
「はい、なんでしょう」
 下生えを踏み鳴らし、前を行く少女剣士が事務的とも言える声で答える。
「友里をさらったヤツの目的ってなんなんですか?」
 核心をつく質問である。だがどうしても訊かずにはいられないのも確かである。
 そもそも友里の身にどんな危険が迫っているのか、はっきりとは聞かされていないのだ。
 ドン亀さんは口元を引き締め、しばらく懊悩の表情を見せたが、やがてぽつりと口を開いた。
「彼らは……」
 やや歩を緩めながら地面に視線を落とし、ドン亀さんが口篭もりつつ言う。
「……彼らの目的は、亡命なのです」
「亡命……」
「ええ、ツインクレイヤーから、レジットレイヤー、あるいは……」
 あるいは――と言ったところで、再びドン亀さんが言葉を詰まらせた。
 時翔としては、今のところ世界が時分割多層化されていることまでは理解しているつもりだったが、その多層化がどれほど細分化されているのかまでは聞き及んでいない。
 昨日のドン亀さんのレクチャーから察するに一般層、加速層、その他メンテナンス用の予約領域があることまでは予想できたが、まだ他にもバリエーションが存在するということなのだろうか。
 再びドン亀さんが歩を早めながら言葉を繋ぐ。
「そう……他のレイヤーへの移住が目的なのです」
 結局、そこについてはドン亀さんは子細に踏み込むことなく、言葉を濁しながら話を進めるつもりらしい。
 守秘義務……と言うヤツだろうか。
 なんにしても、ここは話を先に進める方が得策だろう。
 今までのドン亀さんの情報開示パターンから考えて、そう判断した時翔だった。
「亡命……って、つまり、加速層からの?」
「そうです、そのために彼らはアダプターを狙うのです」
「狙うって……アダプターを取るんですか?」
「ええ、アダプターIDの乗っ取り、なりすまし《スマーフ》を行うのです」
「なりすまし……なんて、どうやって?」
「もちろん、外見をARでカモフラージュしたとしても、入れ替わることなど無理ですし、すぐにばれてしまいます。だから、彼らはレジットレイヤーでの受け入れ先を確保しているのです」
「彼ら?」
「はい、彼らが結成した反政府組織、通称ドネイターズと呼ばれています」
「そ、そんな、でも、他人のIDなんか盗ったらすぐばれるんじゃ……」
「いいえ、彼らはアダプターをMOD化する術を心得ています。だから、サーベイヤで追跡することができなくなるのです」
 MOD化……つまり、不正改造ということか。でもそんなことができるなら、最初から自分のアダプターを改造すればいいのではないだろうか。
「それはできないのです。元々のアダプターのハードウエアに制限が掛かっていますから」
 ハードウエア、心臓に埋め込まれたナノマシン、その機能が最初から限定されているという意味なのか。
 しかしそうなると……
 そこに想像を巡らした時翔の背中に怖気が走る。
 だが、ここまで知ってしまった以上は、もうはっきり訊いてしまわずにはいられない。
 ちゃんと聴く必要がある。
 意を決した時翔の問いにドン亀さんが答える。
 その、略取の方法を……。
「アダプターの心臓部、コアクロック部をカテーテルで取り出すのです」
「取り出すって、心臓から……!?」
 思った通り――と言うよりも想像以上に荒っぽい方法だ。だけどそんなことしたら……まさか……!?
「じゃ、じゃあ、盗られた人は……」
 ぎこちない声で恐る恐る訊く時翔。
「あ、いえ、カテーテルと言っても、心臓そのものにダメージを与えるわけではなく、足の静脈から差し込むのです。使用されているのは、今までの例からして、ナノマシンメンテナンス用の機器を改造したものを使っているようです。だから……命に別状はありませんが、結果としてアダプターが不活性化してしまいます」
 アダプターの機能停止。
 もちろん、アダプターが提供する機能、時翔でもよく知っている生体電力送信機能、生体認証機能などは機能停止するのだろう。だけど、それだけでは済まないはずだ。多層化されたレイヤー情報の受信、それができなくなるのは間違いない。でもそれがどんな結果をその人にもたらすのかは想像も付かない。
「アダプターそのものは生分解材質でできていますから、不活性化すると徐々に体内に分解吸収されます。ただし、生まれた時からアダプターでコントロールされてきた心臓がその制御をはずれると、まずいことが起きるのです。心臓が本来のペースで自律拍動を始めると……」
 再びドン亀さんが口篭もる。
「始めると……どうなるんですか」
 その時、視界オーバーレイにNPCの接近を告げるワーニングがけたたましく表示された。

 05

「くっ、巡回エネミーか」
 敵は一匹、レベルは不明であるが、自分よりも遙かに高レベルであることを告げるレッドネームとなっている。
 当然ではあるが、ここは最終ダンジョンを擁する高レベル帯御用達の土地である。巡回モンスターと言えども、楽に倒せる相手ではないはずだ。
 どうする?
 戦うべきか?
 いや、たとえ潤沢な攻撃魔法を使用して、倒すことは可能だとしても、無駄な戦闘で時間を浪費するのは得策ではないだろう。
 咄嗟にそう判断した時翔はドン亀さんの腕を引っ張り、岩陰に身を隠す。
 巡回エネミーは巡回コースが定まっているため、そのアグロ距離に踏み込まない限り襲われることはないはずだ。
 モンスターの足音と思しき地響きが遠ざかっていく。
「どうやら、やりすごせたようですね」
 最終ダンジョン付近のモンスターがどれほど凶悪な見てくれなのか少々興味はあったが、逆にそれを見て、びびってしまうのもいただけない。ここはなるべく知らぬが仏で勢いに任せて前進する方が賢明だろう。
 ドン亀さんは何も言わずにだまって時翔の指示に従ってくれた。
 それよりも、何か思うところがあるのだろう。
 うつむき加減のまま、ゆっくりと立ち上がり、時翔と共に前進を再開する。
 歩きつつ、さっきの話の続きを訊くべきか迷った時翔だったが、やはりなにか詮索するようで気後れしてしまう。
「でも、同伴世界でしたっけ? そんなのまだ信じられないんですけど」
 少々質問のジャンルを変えてみることとする。時翔としては、こちらも気になっている事案であるのは正直なところだ。
「そうですね……お気持ちはお察しします」
 ドン亀さんはまだ少し重い口調ながら、時翔の問いに応じる。
「この世界が時分割されるようになったのって、三十年前とか言ってましたけど、なんで学校で教えてくれないんですか?」
 時翔の質疑に、ドン亀さんは物憂げに目を伏せながら訥々と語りを再開する。
「そう……例えば時翔さんは運転免許をお持ちではないですよね」
「ええ、まあ……」
「でも、道路を通行することはできるし、歩行者としてのルールさえ弁えていれば、交通社会の構成員としては資格に不足することもないわけです。でも、自動車を運転するには自動車学校に通うなりして、知っておくべきルールが山のように存在していますし、それをクリアしなければそちらの交通の一員になることはできません。だけど、それでも歩行者として道路を利用する分にはなにも困らないし、規則に反することもないですよね」
「それは、まあ……」
「時分割世界も同じような物と考えてください。知るべき時が来たら、その時に勉強すれば良いことなのです。たとえ自動車の運転ができなくても実生活には困らない場合があるのと同じように」
 つまり、交通区分――みたいな物だと言いたいのだろうか。
 なんだか、ちょっと無理がある話だけど、なんとなく分かるような気もする。
 でも、そうなると一体世の中のどれくらいの人が、このややこしい世界の成り立ちを把握して生活しているというのだろうか。
 何も知らないままで――知らされないままで、一生を終える人もいるということなのだろうか。
 運転免許を生涯取得しない人がいるように……。
「時翔さん」
 呼びかけられて、はっとして前を見る。
 小高いギャップを乗り越えたところでドン亀さんが前方を見据えて立ち止まっていた。
 話ながら歩いているうちに、かなり目的地に接近していたようだ。
 遠方からは豆粒のように見えていたオブジェクトであったが、今やはっきりとそのマヤのピラミッドのような外観が見て取れる。
「うーん、ここっすか……」
 ダンジョンの入り口を見ながら、時翔が震える声で言う。
 なにしろ最終ダンジョンである。遠目から見る限りにおいても、異様な威容に圧倒されそうである。
 入り口の左右には巨大なモンスターが歩哨のように配置され、その待機モーションを見るだけでも、凶悪な攻撃力を想像するに充分な迫力を伴っている。
「では、行きましょう」
 時翔の心配など一顧だにもせずにドン亀さんが超級エネミーの守る入り口へと足早に歩を進めていく。
「え、ちょっと、待って――」
 慌ててドン亀さんの後を追う時翔だったが、ドン亀さんは歩を緩めることなく、あっという間にモンスターのアグロ距離ぎりぎりまで接近していた。これ以上接近すればエネミーはアクティブ化、つまり攻撃を受ける範囲内に入ってしまう。
 巨大な門扉の前に立ちはだかる二体の歩哨モンスターは体長十メートルはあるだろうか……特大ガーゴイルのようなモンスターが両手の爪を閃かせながら左右を睥睨している。
「では、時翔さんは左の方をお願いします。私は右の方を片づけますから」
「ええっ、そんな、まだなんの準備も――」
「では、武運長久を!」
 慌てふためく時翔を尻目に、少女剣士が剣を振りかざし、一直線に突進していく。
 その勢いには一片の迷いもない。
 まさか、本当に無敵……なのか?
 そして、
 あっという間になで切りであった。
 特大ガーゴイルの爪が、少女剣士の体を。
 瞬時にヒットポイント0となった少女剣士、ドン亀さんがボロ布のように地面に叩き付けられている。
「うわっ! ドン亀さん!」
 目の前で起きた大惨事に茫然自失で立ちつくす時翔であった。
 まさに鎧袖一触。
 難民剣闘姫、雑魚キャラ過ぎである。
 まあ、当たり前と言えば当たり前なのだが……。
 しかし幸運だったのは、モンスターのアグロ距離に時翔は踏み込んでいなかったことであろう。
 傷一つ負うこともなかった歩哨エネミーは踵を返し、ゆっくりと元の持ち場へ帰っていく。
 対するドン亀さんの体は、カマイタチ風呂にでも浸かったかのごとく、縦横に切り刻まれている――のではあるが、さすがに全年齢版の面目は保たれており、リアルな流血表現や欠損表現はオミットされている。
「てへ、やられちゃいました」
 ボイスチャットでドン亀さんが音声を送信してきた。
もちろんドン亀さんのアバターであるところの少女剣士はHP0になった時点で活動不能となっている。なので、この通信はキャラが死亡した際の移動場所、待合室となるゴーストロビーからの通信である。
「やられちゃった、じゃないですよ、むちゃし過ぎですって」
 同じくボイスチャットで返信する時翔。
「ごめんなさい、ノーマルNPCなのをすっかり忘れてました」
「って、どうするんですか? これから……」
「大丈夫、まずは蘇生させてください」
「ふう……わかりました」
 基本的には傭兵NPCは使い捨てにすることが多いのであるが、パーティに高レベルの回復役が存在する場合にはプレイヤーと同じように復活させることも可能なのだ。
 ただし、死体がタイムオーバーで消失する前に行う必要がある。
 そして、時翔のキャラクターの職業はまさに回復役の専門、そしておまけにコンプリートスペルブック装備なのである。本来時翔のキャラクターレベルでは蘇生などの高レベル魔法は使用することは不可能なのだが、マジックポイントブーストの魔法と組み合わせることによって詠唱可能なのだった。
 時翔はまずドン亀さんの死体を離れた場所にテレポートさせる呪文を唱え、次いで復活魔法をキャストした。何も考えずにアグロ範囲内でそのまま復活させてしまうと、生き返った瞬間にさっきのモンスターがアクティブ化してしまい、攻撃を受けて再び死亡ということになってしまう。高レベルモンスターとの戦闘で死亡した場合では、死体の召還魔法はなくてはならない重要なユーティリティー魔法なのである。

 数分後、時翔とドン亀さんの二人パーティは開いたダンジョンの扉から中を窺っていた。
 歩哨モンスターは入り口の地面に小山のように横たわっている。
 再戦を挑み、今度は時翔の魔法で難なく倒すことに成功したのだ。
 難なく、とは言っても最高レベルのダメージシールドとドレインシールドをドン亀さんに何重にも重ね掛けした上で、どうにか倒したのではあるが……。時翔の職業、その専門は回復ではあるが、補助的に敵にダメージを与える魔法はいくつか詠唱可能なのだ。もちろん直接的にダメージを与える、いわゆるダイレクトダメージスペルもないわけではないが、本職であるウィザードなどとは比べ物にならない微少なダメージしか与えられない。しかもDDスペルや、回復スペルを戦闘中に使用してしまうと、あっという間に殺す《ヘイト》リストの最上位に移動してしまい、モンスターのターゲットとなってしまう。
 しかし、あらかじめ戦闘前にキャストできる支援、補助魔法であればその危険を回避できるのだ。
 攻撃を受けることで敵に反射ダメージを与えるダメージシールド魔法と、敵のヒットポイントを吸い取るドレインシールド魔法は、組み合わせて使うことで無敵のタンクを作りだすことが可能なのだ。
 そうは言っても敵を倒すのに時間がかかるのが最大の難点であり、強力な直接攻撃魔法を打ち込んで倒す方法に比べると、効率の点では遙かに劣っている。
「って言うか、二人で最終ダンジョン攻略するんですか?」
 とりあえず歩哨モンスターが撃退したものの、この先へ進むには、わんさかといる敵を倒す必要があるのは自明の理だ。確かに強力な魔法は使い放題だが、真面目に一体一体倒していくとなると、どれほどの時間が掛かるか想像も付かない。あまりにも非効率的である。
 おっかなびっくり辺りを窺う時翔の隣でドン亀さんは例のコントローラをチェックしている。
「ここから北へ5ブロック、西へ7ブロックですね」
 落ち着き払った声で、少女剣士が言う。
「え? そこになにがあるんですか?」
「そこがちょうど真上なんです」
「真上?」
「はい、友里さんのアバターがいる場所の真上です」
 どうやら、ドン亀さんが口にしているのは目的の場所までの最短コースであるらしい。
「まずはそこまで移動しましょう」
 そう言うとドン亀さんはコントローラをしまい込んだ。
 運営に許可を取った上での時空警察の捜査なわけで、そこは信頼に足る情報であるはずだが……。
 完全に信頼できないのも正直なところだった。
「まずは、不可視《インビジブル》化しておきましょう」
 そう言えばそんな魔法もあった。いわゆる透明化の魔法である。
 この魔法の効果により、プレイヤーは完全に透明化する。
 したがって敵に襲われることもなくなるのだ。
 時翔のレベルではもちろん使えないレベルの魔法ではあったが、今装備しているのは金に物を言わせたコンプリートスペルブックなのだ。と言っても、実際に代価を支払って購入したわけではないのは周知の事実である。
 しかしドン亀さんも昨日の時点では歩行速度ダウンなどという低レベル魔法をまともに喰らっていた気がするのだが、多少はレベルアップしたということだろうか。もちろん、プレイヤースキル的に。
「ええ、ちゃんと下調べしてきましたので」
 時翔の憂慮を吹き飛ばすかのように、ぐっと握り拳を見せて応えるドン亀さんだった。
 昨日の失態は繰り返さないという気概があふれている。
 MMOーRPGは情報戦。
 その基本はどれだけグラフィックやインターフェイスが進歩しようが変わらないのだ。
「魔法の効果も、特性もばっちり頭に入っています。おもに最高ランクの魔法だけですが」
 やはり、不安は払拭できない時翔だった……。
 さて、完全に透明化した――のだが、もちろんプレイヤー同士では視認できるようになっている。
 二人は入り口の巨大な扉をわずかに押し開け、内部に足を踏み入れた。
 とたん――後ろで扉が自動的に閉まる音が聞こえる。
 慌てて後ろを振り返ると、すでにそこに扉はなかった。消失していた。天井に届かんばかりに口を開けていた門扉は消えてなくなり、周りの壁と同じく石組みの堅牢な壁に変化を遂げている。べたべたと壁に触って確かめてみるが、つなぎ目さえも残っていない。
「げ! 閉じ込められた!?」

 06

 うろたえる時翔に対して、ドン亀さんは平静を保っている。
「大丈夫ですよ、もうここに戻ってくることもありませんから」
「あ、そうなんですか」
 諦めて辺りを見回すと、内部は思いのほか単純な構造となっていた。
 吹き抜け構造の天井と、屋内庭園のような広々とした通路が北へ向かって伸びている。
 石畳の通路の左右には巨大な石柱が等間隔に並んでいた。
 もちろん、要所要所にはいかめしい鎧を身にまとったガードモンスターがにらみを利せているが、透明化している限り襲われることはない――はずだ。
 戦々恐々としながらゴツゴツとした石畳の通路を進む。
「あまり敵に近づかないでください、ごくまれにアクティブ化することがありますから」
「ひいっ、りょーかいです……」
 そういうことは先に言っておいてほしい。
 しかし、もしもアクティブ化してしまったらどうなるのだろう?
 こんなに密集して敵が配置されているということは敵一体だけとの戦闘では済みそうもない気がする。
 次々に敵がリンクして収拾がつかなくなるのではないだろうか。
 そもそも一体だけでも最高級魔法を湯水のようにキャストし、短くはない時間を掛けてやっと倒せるほどの高レベルモンスターなのだ。それを二体三体と同時に相手取ることなど到底不可能に思える。
「そうなったら、トレインですよね」
 時翔の危惧に対してドン亀さんが愉快そうに、MMOーRPGにおける最悪なイベントを口にのぼす。
 いやいや、そうなったとしても、一体どこに逃げればいいんだ?
「って言うか、外に出られるんですか?」
 入り口の扉はついさっき跡形もなく消えてしまったのだ。出口がないわけはないだろうが、ドン亀さんはその場所を把握しているのだろうか。
「はい、最深部にはちゃんとポータルゲートがありますから」
 にこやかに言うドン亀さんだった。
「最深部……ってやっぱり……」
「はい、俗に言うラスボス部屋ですね」
「まじっすか?」
 と言いつつも、多分そうなるんじゃないかと予想していた時翔でもあった。
「では、ゆっくり進みましょう」
「ら、らじゃーっす」
 ところが、歩きながらコントローラをチェックしていたドン亀さんが、突然振り返り叫んだ。
「時翔さん!」
「はい!?」
「お願いがあります!」
「ど、どうしたんですか、急に」
「死んでください!」
「えっ? えっ? ええええええ!?」
 少女剣士がショートソードを抜き時翔に向かって突きつける。
「ここから先へはお連れできません!」
 少女剣士が殺気立ったまなざしでじりじりと迫ってくる。
「なっなんで?」
「ごめんなさい、他に方法がないのです」
「いや、いやいや、理由を教えてくださいよ!」
「時翔さん、メニュー中のログアウトコマンドを見てください」
「あ、はい――」
 視界オーバーレイからメニューを開き、コマンドアイコンを確認する、と。
「うわ、グレーアウト――してる?」
「申し訳ありません、私のミスです。失態なんです。まさかエリア改変までしているなんて……」
 がっくりと肩を落としながら力なく言うドン亀さん。
「ここに入ってから気が付いたのですが……このエリアではログアウトコマンドにロックが掛けられています。しかもゲートアウトも無効化されています。だから、今ここで死亡してゴーストロビーからログアウトしてください。お金と装備はすべて失うことになりますが、仕方がありません」
「えっ、でも……ここもフレンドリーファイヤーは無効なんじゃ……」
「ああっ! …………すっかり忘れてましたぁぁぁっ」
 魂が脳天から抜けてしまったように、うつろな目になるドン亀さん。
 力なくうなだれ、時翔にスカスカと剣を突き立てる。
 しばし呆然としていたが、しばらくするとハッと気を取り直し、時翔に向き直る。
「で、では時翔さん――自殺してください。壁に頭をぶつけるなりして」
「そんなあ、自分で自分を殴ってもダメージにならないですよ」
 厳密に言えば、高所落下ダメージというものはあるが、ここには登れる場所などは見当たらなかった。
「そ、そうでした、ではあそこのモンスターを殴ってきてください。私はこの柱の陰に隠れてますから」
「そんな殺生な……」
「お願いします。私のためと思って死んできてください。ここでお祈りしていますから」
 言いながら、両手を合わせて懇願する少女剣士。
「で、でも……どうせ死ぬなら、どこで死んでも同じなんじゃないんですか? 別にボス部屋で死んだって……」
「そうではないのです、ラスボスの攻撃は特殊属性を持っているのです。つまりレベルドレインの……」
「レベルドレイン……」
「はい、高レベルキャラの場合はある程度耐えられるのですが、低レベルキャラがドレイン攻撃を受けると、最悪キャラデリートしてしまいます」
「そ、そうっすか…… ん、でも死んだら、とりあえずゴースト状態にはなるんですよね? ならログアウトできるんじゃ?」
「それが……過去の例にあったのですが、キャラデリートした場合、ゴーストロビーをキャンセルさせるという罠を仕掛けられた事例があるのです」
「? ……となると? どうなるんです?」
「ゴースト状態のままエリアをさまようことになります」
「えええええ! そんな」
「そうなると、救助には超法規的な手段を使わざるを得なくなるので……いろいろとまずいことが起きてしまうのです」
「んんん……いや、でも……」
 時翔は思案していた。
 ――ここまできて、自殺して終了なんて、嫌すぎる。
 それに……
「ドン亀さん、もしここで死んだら確実にゴーストロビーに戻れるんですか?」
「えっ?」
「もうここは改変されたエリアなんでしょ? だったら、戻れる保証なんてないわけですよね」
「そう言われてみれば……そうとも言えます」
「だったら、友里のところまで付きあわせてください! だって友里はもっと危険な目に遭ってるんでしょ? それなのに一人ですごすご帰るなんてできないです。今ここで死んでログアウトできない可能性があるなら、生き延びて帰れる可能性がある方に賭けたいんです」
「しかし……私にも責任がありますし」
「お願いします! 絶対に後から泣き言なんか言いませんから」
「でも、生き延びられるという保証もありませんよ」
「分かってます、それに……NPCが単独でラスボスに挑むなんて、それこそ保護測違反なんじゃないですか?」
 ドン亀さんが小さく苦笑する。
「そうですか、分かりました、それほどまでに言うのなら」
「ドン亀さん!」
「は、はい」
「きっと、お役に立ちますから!」






 第七章 ラストレイド


 01

 頬に感じる微かな風で友里は目を覚ました。
 ん…… ここ…… どこだろう……。
 そう言えば、私、ソーサラーズにログインして……。
 朦朧とする頭を、何とか回転させて記憶を辿る。
 安藤さんの部屋からソーサラーズにログインして、それから、どうなったんだっけ?
 そうだ、確か……
 ログインしてポップしてすぐに強烈に眠くなって。
 そのまま意識を失ったんだ。
 そうか……
 どうやら、
 まんまと嵌められた――ようだ。
 その証拠に……
 拘束されている。仰向けに寝かされている。
 石造りのベッドのような台……だろうか。冷たく堅い感触を背中に感じる。
 両手、両足と言えば……縛めで固定されている。
 身をよじってみるが、拘束具は台と一体化しているようで、びくともしない。
 首を左右に動かして辺りを見回す。
 石造りの神殿のような大きな部屋だ。
 高い天井にはロウソクがぐるりと並んだシャンデリアがぶら下がっていて、炎が風で揺らめくとシャンデリアの影も揺らめいている。
 足元の方を確認しようと目を向けたが、巨大な双丘に遮られて見ることができなかった。
 ――巨乳も良いことばかりじゃない……と、ちらりと思った友里だった。
 友里のソーサラーズでのアバター、白とピンクを重ねたティアードスカート姿の赤髪巨乳ウィザードが縛り付けられているのは、部屋の中央に置かれている石のベッドだった。
 でも、ちょっと待って――
 VRゲームで拘束なんてあり得ないんだけど。
 基本的にプレイヤーアバターは敵モンスターや地形オブジェクトには当たり判定はあるけれども、指先のモーションフリックで開くメニュー画面にアクセスできなくなるなんてことは、ないはずなのだ。
 もしそんなことになってしまったら、プレイヤーアバターはスタックしてしまう。
 ログアウトすることもできなくなるし、GMを呼ぶこともできなくなる。
 いわゆるハマリというヤツだ。
 しかもオブジェクトに嵌って動けなくなるなんて、大昔のテレビゲームのころから、クソゲーの代名詞みたいなバグじゃないか。
 冗談じゃない。
 けど……
 よく考えてみたら別にゲームで遊ぶためにログインしたんじゃなかったんだ。
 変なお隣さんの世界から元の世界に返るため――教室に戻ってプリントをやるため――そのためにわざわざゲームにログインしたんだった。
 ちくしょう……
 だからやばいって言ったのに!
 あいつらのせいで……
 脳内友里達に責任転嫁を試みる友里だったが、どこかでまだ何とかなるんじゃないかと思っている友里でもあった。
 ――そうだ、アダプターの設定を変えるとか言ってたけど、どうなったんだろう。
 そうなのだ、まだ――だまされたと決まったわけじゃない。
 とりあえず体は拘束されているけれども、口はふさがれてはいないのだ……、声は出せるはず。
 そう気づいた友里は大声でわめき立てた。
「ちょっと! だれか! 安藤さん! いませんか!」
 石造りの広間に友里の声がエコーを伴って響き渡る。
「だれかー!!」
 友里は喉が潰れんばかりに声を張り上げる。
 が、誰も応える者はいなかった。
 ひとしきりわめき散らした友里だったが、さすがにぜえぜえと息切れして声を途切れさせる。
 と、そこに――
「やあ、お目覚めですか」
 泰然とした男の声が聞こえた。
 友里は声の発信源に顔を向ける。
 広間の奥が階段状に高くなっており、玉座がしつらえてある場所があった。
 その玉座の後ろから何者かが進み出てくる。
 姿を現したのは、長身の男。テンプル騎士団のような甲冑に身を包んだ大柄な男だった。
 男は壇上から友里の方を見下ろしている。
 友里は必死に目を凝らした。
 誰だろう。
 安藤さん? でもシルエットから察するに安藤さんではなさそうだ。
 声も違ってるし……
 ん、いや、ここはゲームの中だったんだった。
 安藤さんのリアルであるところの少年に見える容姿、そのままであるはずはない。
「あ、あんた、だれ!? 安藤さん?」
 友里が首だけを横に向けて、男に向かって叫ぶ。
「ええ、そうですよ」
 男は当然といった口調で応える。その声は若々しい青年のものだった。どうやら金髪美形のアングロサクソン系の若者アバターと言ったところだ。
「安藤さん、これどうなってるんスか?」
 男は息巻く友里を平然と見下ろしながら玉座にゆっくりと腰掛けた。がちゃりと鎧が音を立てる。
「ああ、ご心配なく。ちゃんと処理は実行中ですから」
 玉座の左右に据えられた松明の炎が、騎士の甲冑に反射して重厚に輝いている。
「処理……って?」
「もちろん、あなたを元の世界に戻すための処理ですよ。ふふ」
 安藤さんアバターは不敵な笑みを浮かべながら言う。
「な、なら、なんでこんなとこに縛り付けるのっ!?」
「ああ、そのことですか。まぁ、ここは危険な場所ですからね。ユリさんの安全を確保するためですよ」
 危険な場所? そう言えばここどこなんだろう?
 無論、このゲーム、ソーサラーズに精通しているわけでもない友里がそれを認識できるはずもないのだが、ハッキング宣言をしていた安藤さんのことである。およそパブリックな場所でないことぐらいは友里にも予想できた。
「もう少し大人しくしていてください。エネルギーのチャージが終わるまでは、ね」
「エネルギー?」
「そうです、EMPショックのためのエネルギーです。こいつがなかなか時間が掛かりましてね、なにしろ神経パルスからアダプターへの逆流パルスを作り出すものですからね。チャージに結構な時間が掛かるのですよ」
「パルスって――なっ、何する気なの!?」
「おやおや、ユリさん。あなたはきのう体験済みのはずですよ」
「知らないよ! そんなの」
「きのうあなたが通過したポータルゲート、あれがそうだったんですがね」
「きのうって……あんたもしかして……」
 思わず息を飲む友里。
「はは、もちろん私がきのうの彼と同一人物というわけじゃありませんよ」
「じゃあ、何? 仲間?」
「まぁ、そんなところです」
 騎士アバターが肩を揺らして、笑いながら言う。
「きのうの仕返しでもするつもりなの?」
「仕返しというわけでもありませんが、せっかくの獲物をみすみす逃すのも、もったいないですからね」
「獲物って……、あんた、お茶に一服盛ったんだよね」
「ええ、予定ではもう少し長く眠ってもらうつもりだったんですがね。どうやらひと口ぐらいしか飲まなかったようですね」
「うそつきっ! 元の世界に帰るなんて私のことだましたんだね!」
 友里は憤りに顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「おやおや、だましただなんて人聞きの悪い。あなたは元の世界に帰りたいとおっしゃっていたじゃないですか」
「当たり前だよ……だからあんたの口車に乗っちゃったんだよ」
「落ち着いてください、言ってるでしょう、騙してなんかいませんと。あなたを元の世界にお戻しする、それを今からやろうとしているのです」
「ウソだっ! きのうのあいつは心臓を取るとか言ってたじゃん!」
「まぁまぁ、それは言葉のアヤというものです。そんな物騒なことはしませんよ」
「じゃ、じゃあ、何する気なの! こんなとこに縛り付けて……、さっきパルスとか言ってたけど……、はっ、まさか、えっちなことする気なんじゃ……」
 友里の疑義申し立てを、甲冑騎士は完全に聞こえない振りをしてスルーする。
 どうやらキャラクター、及び世界観を大事にしているらしかった。
 しかしこの場合、友里に対しては順当な措置ではなかったことを、彼はすぐさま思い知ることとなる。
「やっぱりそうなんだ……」
 友里が震える声で言う。
「私のこと、肉奴隷にする気なんだ……」
 甲冑騎士の面当てが、ガチャンとずり落ちる。
「しません!」
 面当てをせかせかと上に戻しながら安藤さんが反駁する。
「大体、そういう機能は実装されていませんから!」
「あ、そうなの?」
 そういう機能どころか、ソーサラーズでは服を脱ぐこともできないのである。つまり裸体のモデリングどころか、テクスチャーさえも用意されていないのだ。ソーサラーズのアバターは男も女もツルッテン、すなわちバービー人形状態なのだ。
「でっ、でも胸かっさばいて心臓えぐり取るつもりなんじゃないの?」
 安藤さんは、はあ、と一つ大きなため息を吐いた後、真剣な面持ちになって言う。
「仕方がありませんね、ではより正確に言い換えるとしましょう。今からあなたの心臓に寄生しているバグを取り除きます」
「バグ?」
「あなたの心臓に生息している寄生虫ですよ」
「そ、それって、もしかして――」
 友里が青ざめた顔で言う。
「アダプター?」
「その通り。改竄された世界にあなたを縛り付けている足枷。それを退治して差し上げようと言うのですよ」
「そんな……、でもそんなことしたら……」
 友里が押さえつけられているように首をすくめる。
 玉座の肘掛けに肘を置き、頬杖を突いた安藤さんがにやりと底意地悪い笑みを浮かべる。
 友里が不安げに洩らした。
「デブっちゃうんじゃ……」
 甲冑騎士の頬杖が外れて首がガクンと下がる。
「それは……まぁ、あなたの自己管理の問題ですが……」
 アダプターが提供する機能の一つである余剰カロリーの電力変換機能、それがなくなるとすると、一日二リットルの牛乳を消費する友里にとってはゆゆしき問題だと言えた。
「じゃあ、何がどうなるっていうの!」
「それは後のお楽しみとしましょう、さあ、そろそろエネルギーのチャージが終わりそうですよ」
 そう言うと安藤さんは玉座からゆっくりと腰を上げた。
 玉座の真下、友里が縛り付けられている石のベッドとの中間地点に、ほの青い縦長の光の楕円が出現する。それは友里にも見覚えのある色形、ポータルゲートに間違いはなかった。
「では、友里さん、行きましょうか」
 安藤さんが玉座のある階段を下りてくる。
 友里の手足を固定していた拘束具がガチャリとはずれた。
 赤髪巨乳ウィザードが弾かれたように上体を起こす。
「なっ、いやだよ! そんなとこ入ったら、また変なことになるに決まってるんだから!」
 甲冑騎士は階段を降り切ると、ポータルゲートの横に立った。
 青く揺らめくポータルゲートの燐光が甲冑に反射している。
「ユリさん、大人しくこっちへ来てください」
「やだ! 絶対やだ!」
 友里は台座から飛び降りるとゲートの反対方向へと赤髪をなびかせてダッシュする。
 そちらは部屋の入り口と思しき巨大な両開きの扉が立ちふさがっていた。
「ユリさん、そっちは危険ですよ」
 安藤さんが平坦に忠告する。
「そっちの方が危険だっつーの!」
 友里は扉の前まで来ると、城門のような巨大な扉をうんうんと押した。
 しかし扉はびくともしない。
「ユリさーん、その扉は自動ドアですから、手動では開きませんよー」
 ポータルゲートの横に立つ安藤さんが赤髪ウィザードに向かって忠告する。
「自動ドア? ぜんっぜん自動じゃないし――」
 今度は扉をドカドカと蹴飛ばす友里。
「いえいえ、そろそろ開く時間なのですよ。いやもっと正確に言えば――」
 安藤さんが大きく息を吸い、開示するように叫ぶ。
「スパウンする時間なのですよ」
「――スパウン?」
 その言葉を聞いた友里は扉への跳び蹴りを中止して、数歩後ずさった。
「そう、その向こうはラスボスのスパウンポイントですから。つまり、フロストドラゴン――ユニークネーム、レディーボックス≠フ、ね」
「ど、ドラゴン――!」
 友里の目の前で、あれほど蹴飛ばしてもびくともしなかった扉が重々しく開帳を始めた。
 扉の隙間からは強烈な冷気が白い煙となって噴出する。そのスモークは膝下を覆うまでに溢れ出し、それと共に目前の部屋に充満していた白い冷気が徐々に薄れていく。
 ゆっくりと醜悪なモンスターが輪郭を現した。
 見上げるばかりの巨大なモンスター。尻尾を含めて全長は30メートルはあるだろうか。クリスタルのような外皮に覆われた全身は血も凍る冷気を振りまき、凶暴な牙が覗く口からは、絶対零度のアイスブレスがシューシューと漏れ出している。
 ソーサラーズ、現行バージョンの最終ボス、最強最悪のドラゴンが両翼を広げて咆哮を発した。
「ぎゃあああああああ!」
 同時に友里も絶叫を上げて這う這うの体で転げるようにかけ戻る。
「ほらほら、さっさとゲートインしましょう。他に逃げ場所はありませんし、そいつの攻撃は情け容赦もないですよ」
 舞い戻ってきた友里に、安藤さんが愉快そうに告げる。
「いやだってーのに! はっ! そうだ、ログアウトしちゃえばいいんだ」
 今や両手の自由を取り戻しているのだ、メニューコンソールにアクセス可能なのを忘れていた。
 友里は視界オーバーレイに表示されているアイコンをタップし、メニュー画面を展開する。
「ん? げ! ログアウトコマンドが無効になってるし!」
「残念ながら、そのようですね」
 安藤さんが憐れむような笑みを浮かべながら言う。
「それとですね、一応忠告しておきますと、ユリさんのキャラはボス部屋にバインドしておきましたから、ここで死亡すると自動的にここにリポップすることになります」
「え? 何それ……それじゃ死んではポップして、また殺されての延々繰り返しになるんじゃ……」
「そうですね、誰かが彼女、レディーボックスを退治してくれるまでは、そうなるでしょうね」
「冗談じゃないよ! そ、そうだ、もうGM呼ぶからね!」
「どうぞどうぞ、まぁ、できればの話ですが」
 必死に空中をフリックし、メニューツリーを辿る友里。
 しかしすぐに……
 メニューアイコン中のGM petitionもGM reportもグレーアウトしているのを確認した友里が、ヘナヘナと床に尻餅をついた。
「さあ、こちらへ。さっさと離脱しましょう」
 安藤さんがポータルゲートの前で友里に向って両手を広げる。
 反対側のボス部屋からはフロストドラゴンがじわりじわりと間合いを詰めてくる。強烈な冷気が肌を刺す距離にまで接近していた。
「や、いやだ、どっちもいやだよう」
 頭を抱えてへたり込む友里。
 ――ふと、
 友里は気づく。
 視界オーバーレイの緊急メッセージ欄がチカチカと点滅しているのに。
「なんだろう…… え? これってエリアシャウト?」
 現在のエリアのみに限って全プレイヤーに発信される緊急メッセージはそれほど内容にバリエーションはない。仲間を集うルッキングフォーパーティと、後はトレイン喚起の注意メッセージぐらいである。
 メッセージアイコンを注視してフォーカスすると中身が表示された。
 そこには。
 あああ> Train! Run! Move!
 と、
 緊急メッセージは自動翻訳機能も働かないため、簡潔な英語で――と言うより、翻訳するまでもないお決まりの常套句が目に飛び込んできた。
「ん? トレイン……って?」
 あああ> Ruuuuuuuun!!!!! Mooooooooooooooove!!!! Dive2Gate!!!!
 さらに切羽詰まった悲壮感が文字から強烈に発せられる。
「ちょっと! トレインって、どこから? そんな……ゲートインしろって言われても――」
 この時になって安藤さんもシャウトに気づいたのか、思い切り困惑した表情を見せている。
 大体、トレインって言うなら、こっちだって似たようなものなのだ。
 トレインの場合は大量のモンスターをぞろぞろと引き連れて逃げる様が、列車のように見えることから付いた俗称だが、今こっちだって絶対に勝ち目のない敵モンスターに追い詰められつつあるのだ。
 もういっそ、友里の方こそトレインシャウトを上げたいくらいなのだ。
 だけど、ゲートインすることは実際のところは容易い。すぐ横にポータルゲートがあるのだから。敵対NPCはエリア境界を越えられない。これはMMO-RPGにおける古式ゆかしい絶対的ルールの一つだ。
 あれ? でも……このメッセージの送り主って――
 あまりにもどうでもいい文字列に、一瞬それが名前であることも認識できないでいたのだが……。
 そうだ……これって……でも……でも……
「もう! なんなのよー――――――!!」
 完全にパニックに陥る友里だった。

 その時――
 ずしん、と。
 どこからか地響きのような低く重い振動音が微かに耳に届く。
「なんだろう?」
 こちらに一歩一歩迫りつつあるフロストドラゴンの足音かと思った友里だったが、ドラゴンの方を見ると、さっきの振動音に反応したのか、足を止め、天井を振り仰いでいる。
 え? まさか、上?
 ――ドゴン、と。
 今度はさっきよりも大きく、壁一枚隔てた距離くらいの音量で部屋の壁を震わせる。
 そしてそれは間違いなく天井の方から響いてきたのが友里にもはっきり分かった。
 よもや、と思いつつ天井を凝視する。ぶら下がっているシャンデリアが大きく揺れ動き、土ぼこりがパラパラと舞い落ちている。
 次の瞬間。
 落雷のような大音響が轟き、広間の天井が崩れ落ちた。
 がれきの山が友里の目の前に降り注ぐ。
「うっうわあああああああ!!」
 大量の土煙が巻き起こり、視界を遮る。
 眼前に出現した大量の落下物に度肝を抜かれたのは友里だけではなく、AI搭載の敵NPC、レディーボックスも同様であった。
 低い唸り声を上げながら後ずさっている。
「ひっ、いっ、うっ、ちょ、ちょっと――げほっ」
 赤髪をぼさぼさにし、咳き込みながらもごしごしと目をこする友里。
 すると、
 土煙の中に微かに二人の人影が見えた。
 と同時に、
「友里ィィィィィィィィ!!」と、
 絶叫が響き渡った。
 友里を見とがめて叫んだのは黒いローブに身を包んだスキンヘッドの黒人、ネームタグを確認するまでもない、見慣れたアバターだった。さらに隣でショートソードを片手に地面に膝を突いているのは、こちらも見まごうはずもない少女剣士――ドン亀さんだ。
「トッキー!! ドンちゃん!!」
 驚きと感激の入り交じる声で友里も叫ぶ。
 そんな友里を見て一瞬安堵の表情を見せた黒人モンクだったが、すぐに険しい表情に戻り、友里の後ろを指し示した。
「友里!! そのゲートに飛び込め!」
 スキンヘッドモンクが友里に駆け寄りながら叫ぶ。
「あわわ――そんなこと言われても!」
「いいから! 早く!」
 友里が慌てて後ろを振り返ると、ポータルゲートは確かに健在であった。
 しかし、
 安藤さん――甲冑騎士の姿が見えない。
 え? どこに行ったんだろ?
 もしかして、ゲートイン――した?
 確か天井を破ってトッキーが現れるまではポータルゲートの横に立っていたはずなのだ。
「トキさん! もう追いつかれます! 早く友里さんを!」
 時翔の背後に留まっていたドン亀さんが天井に開いた大穴を見ながら叫んだ。
「友里! 何してる! 早く飛び込め」
 時翔が友里の腕を掴もうとしたが、スカッとすり抜ける。今さら言うまでもないが、ソーサラーズの通常サーバではプレイヤー同士の当たり判定は存在しないのだ。
 少女剣士ドン亀さんも、がれきを乗り越えてこちらに走り寄ってくる。
 その数秒後。
 天井に開いた大穴から数十体のモンスターが雪崩のように落下してきた。それは止まることを知らず、折り重なったモンスターが押し合いへし合いしながら、次々にスタックされていく。
 もう何匹いるのかさえ確認することも難しい。
 まさにトレインの終着駅、数珠繋ぎになっていたモンスターがノンブレーキで車輪止めに突っ込んで膨れあがり、大爆発して広間を埋め尽くしているかのようだ。
 そしてそれらは、どれもこれもレッドネーム、殴られれば一撃で瞬殺間違いなしの超級モンスターばかりである。 
 しかもその後ろには巨大なドラゴン、ラスボスレディーボックスがアイスブレス攻撃のモーションに入っている。部屋の中は凄まじい叫び声と、モンスターの蠢く音で、大合唱のるつぼと化した。
 まさにコンフュージョン。阿鼻叫喚の地獄絵図がハイパーインフレーション状態だ。
「早く!!」
 少女剣士が猛ダッシュで突っ込んでくる。
 ついにレディーボックスの口から絶対零度の冷爆炎がほとばしり出た。積み上がったがれきを越え、超級モンスターを飲み込みながら視界を真っ白に染め上げる。
 アイスブレスが部屋を覆い尽くす寸前、ドン亀さんが友里の腕を引っ張りながらポータルゲートに飛び込んだ。続いて時翔も飛び込む。
 ………………
 …………
 ……

 02

 うって変わった静寂。
 耳鳴りがしているのは、先刻の大音響の故なのか、三半規管の誤動作なのかよく分からない。
 あの一瞬、ドラゴンの吐き出すアイスブレスに飲まれたのか、ゲートインのエフェクトに包まれたのか判断が付かなかったが、ゲーム内での死亡ではないことは、奇妙な酩酊感が続いていることで確信が持てた友里だった。
 やがてそれが終わり、意識が鮮明になる。
 目を開けて辺りを見回す。
 薄暗い部屋だった。
 ――どこだろう、ここ。
 少なくともソーサラーズのゲームワールドではなさそうだ。
 ログインした安藤さんの部屋でもないし、もちろんタイラくんもいない。
 ほこりっぽい倉庫のような小部屋。部屋の中には体育マットや跳び箱、古びた机や椅子などが無造作に積み上げられている。
 友里は、隅っこに置かれた、くたびれたソファーの上で目を覚ました――ようだ。
 部屋に窓はない。
 地下……だろうか。
 薄暗い常夜灯のような灯りで辛うじて視界が保たれている。
 ただ、部屋の扉は開け放たれていて、暗い廊下が覗いている。
 扉は微かに揺れているようで、今しがた誰かが開けて出入りしたようにも見える。
 もしかすると、安藤さんだろうか。
 かもしれないが、今は追いかける意味はないだろうし、ここがどこかも分からない以上、うろつき廻るのは危険だ。
 友里は自分のコスチュームを確認してみる。
 白とピンクのドレスめいたひらひらのスカート。明らかにソーサラーズのコスチュームだ。
 やはり……
 視界オーバーレイも表示されたままだ。右上には自分のヒットポイントとマジックポイント、下の方には各種アイコンが並んでいる。
 つまり、完全にログアウトしたわけではないのだ。
 しかも、相変わらずログアウトコマンドは無効になったままであった。
 要するにきのうと同じ状態。種まき爺さんの足下のゲートポイントから、ネカフェのブースに移動したあの時と同じ状態だ。
 どうやら……
 またおかしなことになっている。
 コスチュームはゲームのままだけれども、自分の体はリアルに戻っているのが分かる。
 そう……、確認は容易い。一目瞭然なのだ。下を向くだけで……。
 どう見ても戻っている……A75に。
 この――体のサイズに合わせてコスチュームもフィットするのはどういう理屈なのだろう、とふと思った友里だったが、まぁ体のサイズに合わせてモデリングがし直されているのだろう。
 でも……
 そうだ!
「トッキー! ドンちゃん!」
 大声で呼んでみるが、返事はない。
 どこにも見当たらなかった。
 でもその理屈は納得できる。
 今の自分がリアルの体であるならば、どこか別の場所からログインしているだろう時翔とドン亀さんは、そこに戻っているに違いない。それがどこかは分からないが……。
 その時、
 視界オーバーレイ表示にアラートがポップした。
 それはウィスパーチャットの受け入れの許可ウインドウだった。
 送り主は――あああ
 トッキーだ!
 友里は勢い込んでアクセプトボタンをタップする。
 とたん、
『友里、無事か?』と、
 少しリバーブが掛かった時翔の声が聞こえた。安堵感に肩から力が抜ける。
 どうやら三人とも無事に離脱できたようだ。
「うん、平気、トッキー、どこにいるの?」
 友里もチャットモードで返事する。
『すぐ近くだ』
「ここって、またソーサラーズの改造ステージ?」
『そんなとこだ』
「そんなあ……」
 やはりと言うか、予想通りと言うか、あのポータルゲートでは元の世界には戻れなかったのだ。
 それはまぁ、そうだろうけど。元々ここは安藤さんが友里に潜らせようとしていたポータルゲートの先なのだ。多分ここでリアルの体になにかしようと企んでいたに違いないのだ。
 多分、そう……心臓に。
 やはり最終的にはソーサラーズからログアウト手続きをしなければ、この世界から抜け出すことはできないのだろう。
『とにかく心配するな。すぐ行くからそこで待ってるんだ』
「う、うん、早く来てよね」
 こんな寂しいところにひとりぼっちなんて嫌すぎる。って言うか、ここって学校なんじゃないだろうか。部屋の中の備品を見るとそんな感じがして仕様がない。
 どう見ても学校の備品を置いておく倉庫のような感じだ。学校の七不思議があったら、必ずランクインしそうなスポットである。
「そういえば、ドンちゃんもいるんだよね?」
 友里は不安になって、再びチャットで音声を送る。
『ああ、一緒だ』
『大丈夫、ちゃんといます』
 と、ドン亀さんの声。
「そっか、よかったあ」
『そちらの場所は把握していますから、安心してください』
「うん、分かったよ」
 ……
 ……
 ……まだかな。
 ……
「ねえ、今どの辺?」
 友里は夜道に電話で心細さを紛らわせる、仕事帰りのOLのように問いかける。
 しかし、二人が囁き交わす微かな音声が聞こえてくるのみだった。
「ちょっと、ねえったら!」
 だが返事はなく……
『ええと、この真下ですね』
『え? まじっすか?』
 ? なんだか不穏な会話が聞こえる。
 が、突如――
 爆音が轟き、天井が崩れ落ちた。
 破片がもろに友里の頭上に降り注ぐ。
「ぎゃああああ! またこのパターンだよぉぉぉ!」
 って、あれ?
 破片が直撃したはずなのに体にはかすりもしていない。
 でも足下を見ると転がったコンクリートの欠片が散らばっている。
 足にめり込んで。
 単なるエフェクト、ということだったんだろうか。それならば驚いて損した。
「友里!」
「友里さん、わわ……驚かせてごめんなさい」
 リバーブの掛かっていない二人の声が耳に飛び込んできた。
 友里が顔を上げると、そこには二つの人影があった。
 一人はトッキー。もはや見慣れたスキンヘッド黒マント姿である。
 しかし顔や背丈の方は、リアルのスペックに戻っている。
 VRゲームと、リアルのハイブリッド仕様、つまり友里と同じ状態であった。
 そしてもう一人、友里としては当然ビキニアーマー装着のジャパニメ少女剣士を予想したのだが、その予想は大きく裏切られた。
「え? 誰?」
 そこに立っていたのは、黒いタイトミニに白いブラウス、栗色の巻き毛をふんわりと揺らす、リアルスティックOLといった出で立ちの成人女性だ。
「はい、私、ドン亀です」
 少女剣士とはうって変わった大人っぽい表情で柔らかく微笑むのは、リクルートメイクをパーフェクトに決めた二十台半ばといった日本人女性であった。
「ドンちゃん……?」
「はい、お久しぶりです、友里さん」
 体の前に手を沿えて、ちょこんと頭を下げるドン亀さんOLバージョン。
「うそおおおおお!」
 友里は目を丸くして上から下まで視線を往復させている。
「いや、ほんとなんだ、友里」
 時翔が困惑したような複雑な表情で言う。
「まじ? も、もしかして……これが中の人ってこと?」
「いや、これもアバターなんだってさ」
 時翔がさっそくネタばらしするが、ドン亀さんは自分でカミングアウトしていたはずだから、問題はないだろう。
「え? あ、なあんだ、そっかあ、どおりででか過ぎると思ったよ」
 友里が目を細めて、得心がいったという風に頷きながら、ドン亀さんの胸部を見下す。
「は、はあ、これでも小さく調整したつもりなんです……。あまり大きいと邪魔になりますから」
「ちょ! けんか売ってんの?」
 ドン亀さんの言葉を聞いた友里が、赤髪を逆立てながら凄む。
 ドン亀さんの不用意なセリフが友里の逆鱗、いやウイークポイントにクリティカルヒットしたようだ。
「ひゃ、ご、ごめんなさい!」
 ドン亀さんがスケ番に恫喝された女教師のごとく首をすくめる。
 ビキニアーマー少女剣士であった時には、どちらかといえば友好的な態度を取っていた友里だったはずだが、外見がナイスバディお姉さんになったとたん、挑発的になった気がする。
 まぁ、致し方ないとは言えるのだが……。
「お、おい、やめろって」
 時翔がおろおろしながら仲裁に入る。
「せっかく友里のこと助けに来てくれたのに」
「ん、あ、そうだった……ごめん。ついむきになって」
 どうやら、正気を取り戻してくれたようだ。
 しかし、と、
 時翔は思う。
 うーむ、どうせARでオーバーレイするんなら、おっぱいスライダーの設定も持ち越してくれても良かったのになあ、と。
 実に気の利かない運営である。
「まぁいいや、じゃ、さっさとログアウトさせてよ」
 友里がドン亀さんに向かってお気楽に注文する。
「いえ、それはできないのです」
 ドン亀さんが真剣な面持ちになって言う。
「え? なんで? コントローラなくしちゃったの?」
「いえ、それは持っています。でもできないのです。ここは今、彼の統制下にありますから、まずは彼のコントローラを無効化する必要があるのです」
「彼って……安藤さんのこと?」
「そうです。このエリアは彼が創り出した――ハッキングしたレイヤーなのです。だからここでは彼が運営《モデレーター》だと言えます」
「なにそれ!? あ、そう言えば、安藤さんって、きのうの男の子の仲間だったんだけど」
 思い出したようにいまさらな情報を口にする友里だった。
「はい、分かっています。エリア移動してからのID検索で特定できましたから」
「あ、そうなんだ。さすがだね」
 その辺の情報は友里のいたラスボス部屋に突入する前に、道すがら一通り聞いていた時翔だった。
 三人はひとまずソーサラーズでのシステム上のパーティメンバーとなっておく。
 こうしておけば、離れていてもお互いのヒットポイントを確認できる上に、ウイスパーモードに切り替えなくともパーティチャットできるので、全員がバラバラになったとしても、グループチャットが可能になるのだ。
「とにかく彼を見つけ出し、違法コントローラを確保するのが先決です」
「でも安藤さんはどっか行っちゃったよ?」
 友里と共にログインした彼は、ポータルゲートを潜った後、この場所に戻ってきたはずだ。しかし友里が意識を取り戻すよりも早く、この部屋から出ていって行方をくらましている。
 追跡する方法があるのだろうか。
「大丈夫です。彼のユニークIDは、この世界にいる限りカムフラージュすることはできませんから」
 それならば話は早い。と言うよりも時空警察であるところのドン亀さんの任務としては、かの争乱者、イグナイターの確保こそが至上命令なのは間違いないのだ。
 だがここで時翔に一つの疑問が浮かんだ。
「あれ? でも、なんでドン亀さんはソーサラーズのキャラクターの縛りを受けなかったんですか?」
 前回ソーサラーズからネカフェステージに移動した時には、NPCそのまま――少女剣士のキャラクターの縛りを受けていたはずだ。
「はい、それは……前回は超層アバターの準備をしていなかったので、やむなく、だったのです」
 ふむ、そういうことか。つまるところドン亀さんの実体は遠く離れたどこかの端末――おそらくは時空警察の本部とかからログインしているのだろう。
 でも、やむなく……?
 ということはあんなソーサラーズのNPCよりもこっちのアバターの方が強いということなんだろうか。
 視界オーバーレイ中のドン亀さんのヒットポイントを見る。今のところ、全員のヒットポイントは満タンである。
 しかしながら、ヒットポイントバーは単なる棒グラフであり、所有ヒットポイントのパーセンテージを表しているに過ぎない。
 時翔としては、ドン亀さんのヒットポイント総量が気になるところであった。
 いや、それはヒットポイントに限った話ではない。全てのステータス、その値がとんでもない数字――それこそチートキャラとしか言えないようなステータスを持っているのではないだろうか。
 なにしろ、時空警察謹製のアバターなのである。難民剣闘姫などという雑魚キャラとは比べ物にならない性能を誇っているに違いないのだ。
 ドン亀さんは例の時空コントローラを取り出し、チェック中だ。
 その姿は、ぱっと見には携帯ゲーム機に興じる休憩時間のOLにしか見えない。
 というわけで、そんなに強そうには見えない。
 いや――今のこのドン亀さんのアバターは規制範囲を遙かに超えるデータ量を誇るカスタムメイドだと言っていたではないか。きっと見かけからは想像も付かないようなパワーを秘めているに違いない。
 時翔は想像を逞しくしてしまう。
 なんだろう、左手が変化して陽子銃になるとか? 足からジェットが吹き出るとか? いや体中からスラスターが出現して、周りをビットが飛び回る、とかかな?
「ちょっと! トッキー、なにドンちゃんを見てにやにやしてんの?」
 赤髪ウィザード、ツンデレ少女キャラとなった友里が、時翔の目線を見とがめて鋭いツッコミを入れる。
「うわっ、なんだ友里! 別ににやにやなんかしてないぞ!」
「ウソ! なんか妄想してたよね? えっちなことを」
 腕組みしておとがいを上げつつ言う友里。
「ばっバカ、してないって! そんなこと」
 確かに妄想はしていた。しかし断じてえっちなことではない!
「ひっ」と、
 コントローラの操作に集中していたドン亀さんが、友里の喝破に驚いたように身をすくませる。
「と、トキさん……」
 慌てて胸の谷間を右手で押さえ、左手でミニスカの裾を引っ張りながら、しゃがみ込んでしまう。しかし、そのポーズにその仕草は、逆にエロいと言わざるをえない時翔だった。しかも、あろうことか頬を朱に染めている。
「誤解です! してませんって、えっちな妄想なんて!」
 真摯に紳士で弁明する時翔。
「ほんとかなあ……、って言うか、トキさんってなに?」
 幸いなことに友里が別のところに食いついてくれた。
「え? ああ、時翔って呼びにくいだろうと思って、言いやすい呼び方でいいですよって、俺が言ったんだ。そうですよね? ドン亀さん」
「そ、そうなんです。時々舌を噛みそうになって」
「う……そこまでだったんすか……」
 ちょっぴりショックかもしれない。
「はわ、ごめんなさい、このアバター滑舌が悪くて」
 うわ、アバターのせいにしちゃった。それはちょっと無理があるんじゃ……。
「ふーん……、でもさあ、トキなんてかっこ良すぎない?」
 友里がどえらく冷めた調子で言う。
「おい、どういう意味だよ」
「いや、名前負けって言うか……格が高すぎって言うか」
「ただ名前を短縮しただけなんだけど……じゃあどんな呼び方ならいいんだよ?」
「うーん……ま、いいとこアミバって感じかな?」
「おい、それのどこが略なんだ、そもそも誰だよ、それ」
「誰だっけ?」
 わざとらしくすっとぼける友里。
 ドン亀さんの方はと見ると、コントローラを手に聞こえない振りをしている。
 と言うか、それどころではないのだろう。時翔も自重せねばと思い直す。
 しかしすぐに、「あ!」と、ドン亀さんが小さく声を上げた。
「アミ――いえ、あの、トキさん! 反応をキャッチしました」
 益体もない会話の隣で、ちゃんと任務を遂行していたドン亀さんであった。何か言い間違えそうになった気もするが、今はそれどころではない。
「どこですか、ヤツは!?」
「はい――こちらに接近中です」
 ドン亀さんが手に持つコントローラの画面を見ると、ワイヤーフレームでマッピングされた見取り図に光点が点滅しつつ画面中央に移動している。光点が画面の三分の一ほどの位置まで移動したところで、地図の縮尺が切り替わり、なおもこちらに接近中のようだ。
「襲ってくるんでしょうか?」
「分かりません、でもこちらに戻ってきたということは、体制を立て直したのかもしれません」
 ドン亀さんは立ち上がり天井に開いた大穴を見上げる。
「ここに居ては不利です。もっと開けた場所に移動しましょう」
「戦うんですか」
「仕方がありません。幸い彼はこちらの位置を探知することはできないはずです。接敵する前に準備を整えましょう」
「準備って?」
 友里がのほほんと訊く。
「はい、一応念のためということで、使うことにはならないでしょうが……友里さん、これを」
 ドン亀さんが友里に向かってトレードウインドウをリクエストする。もちろん、彼女が手渡したのは時翔も受け取った、スペルブックとアイテムの詰め合わせ一式だった。
「あれ? スペルブックなら持ってるよ?」
「ええ、それとマージしてください」
「うん、分かった」
 受け取ったアイテム群をしばし吟味する友里。
 やがて……
「う、うわ、わ、うわああああ」
 目を白黒させながら嬌声を上げる。
「これ! まじ? スペルブックもコンプしてるし! あ、ドラゴンフレア、あ、もっと強力なのもある! え? どこまでいくのこれ、うわ、こんな上まであったんだ、すごい! すごい!」
 と、もう夢中になってスペルブックをめくっている。
「うひひー、いっぺんでいいから、こういう強烈な魔法をばんばん撃ちまくってみたかったんだよね〜」
 友里はもうドーパミン大解放中だ。
 いつもにも増して嫌な予感でいっぱいの時翔。
「おい、こんなとこでぶっぱなすんじゃないぞ」
「分かってるよ〜 そんなこと、むふふ」
 本当か?
 いや……
 その前に……
 そもそもこんな物が役に立つんだろうか、とも思う時翔。
 いくらゲームシステムが重畳されてるとは言え、もうここは現実世界なのだ。
 単なるデータの塊であるこんなアイテムなど、所詮は目くらましみたいなものじゃないか。せいぜい、ARでカモフラージュされている壁や床のデータを書き換えるくらいしかできないんじゃないのか?
 まぁ、それはそれで役には立つことは、ついさっき目の当たりににはしたし、実際に階下のこの部屋に突入するには充分役立ってはいるのだが……。そうは言っても生きた人間に対しての影響力はまた別物だろう。いざとなったら現実の前にはなんの効果も発揮しないんじゃないのか? そんな時翔の猜疑心をよそに、友里は相変わらずスペルブックのページをめくって浮かれているし、ドン亀さんはコントローラのチェックに余念がない。
「どうやら彼の動きが止まりました」
 ドン亀さんが緊張した口調で囁く。
 時翔も眉根を寄せてコントローラをのぞき込む。
「どのくらいの距離ですか」
「校内には入っています。おそらくこちらの動向を窺っているのでしょう」
「え? 校内……って?」
 友里が虚をつかれたように聞き返す。
「ああ、ここは校内、木場倉学園高校の敷地内なんだ」
 時翔が不本意さを滲ませながら言う。
「そ、そうだったんだ、やっぱり……じゃここはどこの部屋?」
「地階にある倉庫だ」
 友里は知らなかったが、体育館の地下には不要品などを置いておく倉庫が設置されているのだった。
「んー? と言うことは、安藤さんの部屋って体育館の地下だったってことなのかな?」
 友里の記憶では、元校舎の階段を降りて、地下通路に入り、そこからぐるぐる巡ってあの部屋にたどり着いたはずなのだ。
 どういうことだろう? と混乱する友里。
「まずは上へ移動しましょう」
 ドン亀さんが隊長よろしく二人に指示を出す。
「あ、はい」
 と、時翔が部屋のドアから廊下に出ようとしたところを、ドン亀さんが呼び止める。
「こちらから上がりましょう」
 そう言うが早いかタイトミニ女教師、ドン亀さんは、先ほどぶち破った天井の穴から階上へとジャンプした。
 見えそうで見えなかった。
「うわっと、ドン亀さん、こっちは生身なんですよ! ついていけないですよ!」
「大丈夫、このくらいなら飛べるはずです」
 ドン亀さんが天井の穴から顔を覗かせて言う。
「え? まさか……」
 試しに小さくジャンプしてみる時翔。すると目測の倍以上は床から浮き上がった。
「げっ、これって!」
「はい、ここは少々クロックアップしていますから、これくらいなら飛べると思います」
「まじっすか……」
「へー、ここって魔法が使えるだけじゃなくて、加速装置も使えるんだ」
 友里の方はなんの躊躇もなく助走をつけたかと思うと、一気に天井の穴へジャンプで突入する。
 慣れたものである。実際のところ、加速感覚では時翔よりも友里の方が一日の長があるのだ。
 きのうもネカフェでぴょんぴょん飛んでたし。
「うわ、ちょっと待って――」
 時翔の方は恐る恐る小さなジャンプを繰り返した後、思い切って踏み切り、天井の穴に突入する。若干目測を誤り、体育館の床に結構な高度から着地することになったが、落下速度そのものが緩慢に感じられるため、パニックに陥ることなく着地を決めた。

 03

 改めて周りを見回す。
 常夜灯がほの暗く床に反射していた。
 そこは時翔にとっても友里にとってもいつもおなじみの体育館であった。今日の五限目にセットしたネットが、そのままの状態で残っている。ワックスの匂いがするこの空間は、昼間の喧騒がまだ残っているかのようだ。ただ一つ違和感があるとすれば、ピカピカの板張りの床に大きく口を開ける粉砕跡だろう。
 体育館の床にこんな大穴を開けてしまっては、当分使い物にならなくなるはずだが、どう辻褄を合わせるのだろう。
 いや、
 ここは時翔達が生活する世界とは微妙にずれた世界なのだった。さっきドン亀さんに聞いたところによれば、ここは例のイグナイターが改竄した、一般層用のメンテナンスレイヤーなのだという。もっとも、そうでなければ土足で体育館を歩くことさえできなくなる。ドン亀さん――女教師バージョンに至ってはハイヒールかつピンヒールなのだ。
 時刻はすっかり夜になってはいるが、加速しているせいか、体内時計で予想した時間ほど遅くなっていないようだ。
 とはいえ、仮想だろうが現実だろうが夕方から現在に至って確実に時間が経過していることは疑いようもない。現実、と言ってしまって良いのかは分からないが、時翔と友里の居た世界、一般層での木場倉学園高校もとっくに閉鎖している時間である。
 やりかけの友里のプリントは、教師の手によってすでに回収されてしまっているだろう。
 敵前逃亡の汚名と共に……。
 夜の体育館ということもあるが、やはりここも無人なのであった。しかしながら、三人中二人はファンタジーRPGのコスプレ状態であり、無人でなければとても校内をうろつきまわることなどできないであろう。友里はともかく、時翔にできる芸当ではない。
「まずは、校舎の方に移動しましょう」
 それには時翔も同意だった。ここは友里が囚われていた部屋の真上であり、彼が真っ先にチェックするポイントなのは間違いない。しかもこんなだだっ広いところでは身を隠す場所も限られてしまう。
 三人は体育館の壁面沿いに進み、渡り廊下を経て校舎に入る。幸い月明かりが廊下を照らし、なんとか歩けるほどの照度はあった。
「二階へ上がりましょう」
 ここも素直にドン亀さんの提案に従う。
 多分ではあるが、壁をぶち破れるアイテムを所持している今の状況であれば、より三次元的移動が可能な階上へと位置する方が有利という判断だろう。
 階段を上がるのに友里がジャンプで昇ろうとするのを、ドン亀さんが制止する。
「ええと、過負荷運動は最小限にとどめてください。後で疲れがまわってきますから」
「えー」
「それに、Gスーツも着用していませんし、加速はある意味麻薬のようなものですから」
「Gスーツ? 麻薬?」
 友里が訝しげに復唱するがドン亀さんはハッとして口をつぐんだ。
「あ、いえ、なんでもありません」
 言い淀むドン亀さんにさらに不満を募らせる友里だったが、結局は渋々と従う。
 ネカフェで飛びはねた後、どっと疲れが来たことを思い出したのかもしれない。
「でも、ドンちゃんはへっちゃらなんだよね? アバターなんだし」
 友里がイヤミっぽく言う。
「はい、そうですね……物理的には、一応」
「一応とか言って、きのうみたいにまだまだ加速できるんでしょ」
「いえ、このステージでは私もこれ以上の加速はできなくなっています。基本速度がツインカークラスとなっていますから」
 そう言われてみればその通りだ、と気づく時翔。ドン亀さんの動きが特に早くも見えない上に、自分たちが加速動作ができることから考えれば、基本速度自体が十倍程度に引き上げられているということなのだろう。
「あれ? そうなんだ。なんか頼りないなあ」
「うう、すいません……」
 申し訳なさそうに項垂れる女教師アバターであった。
 階段を上り二階の廊下を進む。
 と、一つのドアプレートが時翔の目に止まった。
 ――アプリ研部室。
 ここは先刻、ソーサラーズのポータルゲートから移動してきた際に時翔が目を覚ました場所である。
「ひとまずここに入りましょう」
 三人とも中に入ったところで、ドン亀さんが居住まいを正す。
 さすがに背景が教室ともなると、ドン亀さんはどこからどう見ても女教師にしか見えなかった。
「あの……時翔さんと友里さんはここでじっとしていてもらえませんか」
「え、でも……」
 ドン亀さん――魅惑の女教師バージョンがはにかむように笑う。
 なんだか教室で先生にお説教されているようなシチュエーションに思えてくる時翔だった。
「ええと……お二人とも、聞いてください、今回の私の任務は、あなた方を守ることと、彼を逮捕することです」
 ドン亀さんは静かに諭すように言う。
 二人はそのシリアスな雰囲気に呑まれて身を固くしながら頷いた。
「それに、考えたくはないのですが……もしも私が彼の確保に失敗したとしても、あなた方を守ることだけはできるのです」
「そうなんですか?」
「ええ、サルベージと呼ばれる、超法規的手段なのですが……」
「んん? でも……そういうことはできない決まりだったんじゃないの?」
「いいえ、本当は……強制的にログアウトさせることはできるのです」
「え? じゃあ先にログアウトさせちゃってよ!」
 友里がここでもっともなことを言う。
 そう――本来ならば、それが当たり前だろう。
 しかし、ドン亀さんは視線を逸らし、言い辛そうに洩らす。
「はい、そうなのですが……」
「何か問題があるんですか?」
 ドン亀さんは迷うように唇を何度か震わせていたが、キッと目を上げて言葉を繋いだ。
「お二人のアダプター、いいえ、ペースメーカーは少々ダメージを受けてしまっています。この状態で強制同期を使ってログアウトすると、さらにダメージが増えて、元通りにできなくなることがあるのです」
「……? それってどういう意味なんですか。もっと具体的に言ってください」
 時翔がもどかしげに言い寄ると、ドン亀さんが覚悟の眼差しを向けた。
「つまり、一般層《レジットレイヤー》には戻れなくなるかもしれない、ということです」
「戻れなくなる……って、戻れなくなったら、どこに行くんです?」
「それは……」
 再度、ドン亀さんが口篭もる。
「教えてください」
 時翔がさらに問い詰める。
 ドン亀さんが観念したように口を開いた。
「……最悪、ナーフレイヤーへ移籍することになります」
「ナーフ……?」
「はい、アダプターの機能が低下してしまった人のための、受け皿として設定されたレイヤーなのです」
「ええっ、それじゃ、今の生活はどうなるんですか?」
「お別れに……なります」
「そんな……」
 愕然としながらつぶやく時翔。
 あまりのことに呆然としてしまう。
「もちろん、アダプタートレイナーのリハビリで回復する可能性もありますが……、お二人はもう二度のEMPショックを受けていますから、かなり危険度はあがっているのです」
 ぐっと、喉を締めつけられるようなプレッシャーを覚える時翔。
「でも……大丈夫です。アービターの私が、イグナイターごときに負けるようなことはありませんから…………多分」
「多分って」
 とっっっても不安である。
「ちょっと! なんかワケ分かんない! ドンちゃんがやられちゃったら、なにもかも終わりだって言うの!」
 友里が猛然と詰め寄る。
「いえ、最悪なのはお二人のアダプターが略取されてしまうことです。もしそうなったら、もうサルベージすることもできなくなるので……だからこそ、ここに隠れていてほしいのです」
「はあ? なにそれ」
「もしも、万が一私が負けるようなことになっても、倒れる前にサルベージ要請を出すことができますから、瞬間的にこのレイヤーから退避できます。だからお二人がイグナイターの手に落ちることはありません」
「それでも、もしかしたら家には帰れなくなるかも、なんだよね」
「……そうです」
「ちょっと! 大体ドンちゃんって時空警察なんでしょ? 仲間を呼べないの? そんなに人手不足なの? はぶられてんの?」
「はぶられてはいません! ――ひ、人手不足なのは確かにそうなのですが……このレイヤーに干渉するには、暗号化された同期信号にシンクロするしか方法がないので、救援部隊を呼ぶことができないのです。だからこそ、彼の創ったポータルゲートを通過した……というわけなのです」
 むー、と黙り込んでしまう友里と時翔。
「ドン亀さん」
「はい」
「やっぱり一緒に戦わせてください」
 黒マントを翻して、スキンヘッド男子高生がきっぱりと告げる。
「ですが……」
「こんなとこでやきもきしながら隠れてるなんて、したくありません」
「…………」
 今度はドン亀さんが黙り込んでしまった。
「え? トッキー……本気?」
 ここでどういうわけか、友里が目を丸くしながら言う。
「ああ、当たり前だろ」
「で、でも、もし私らがやられちゃったら、どうなるの?」
 急に弱気なことを言い出す友里。
 対するドン亀さんが重々しく返答する。
「それは……今現在オーバーレイしているソーサラーズのシステム上で死亡することになれば、もう外部からサルベージするしか方法はなくなります。もっともそれは、私が健在であればの話ですが」
「や、やっぱり……、でも、なんでゲームで死亡したらそうなっちゃうの?」
「はい、このハッキングレイヤーで死亡すると、通常のようにゴーストロビーに行くこともなく意識を失ってしまうのです。なにしろ生身ですから……」
 うーむ……
 そう言われてみれば、きのう友里が魔法攻撃で少年のヒットポイントを0にした時、彼は気絶していた。確かに。
 あの状態になるわけか……。
「でさあ、訊きたいんだけど、アダプターを取られると結局どうなっちゃうの?」
 ……そうだ、肝心のそこは聞きそびれたままなのだ。
 確か、心臓が自律拍動を始めると、何かまずいことになる――なんてところまでしか聞けなかったのだ。
 一体、どうなるって言うんだ……。
「そ、それは……」
「死ぬの? リアルに」
 友里がばっさり袈裟懸けな問いを大上段から振り下ろした。
「いえ、死にはしませんが……最悪、植物人間になることもあります」
「げっ! まじで?」
 友里が血の気の失せた顔色でドン亀さんを凝視する。
「はい……だから、ここに隠れていてほしいのです。最悪の事態を招かないためにも」
「…………」
 友里も時翔も再び黙り込む。はっきり言って想像以上の被害予測である。
「いや、でも……?」
 時翔がはたと気づいたように顔を上げる。
「ゲームシステムが絶対だって言うなら、蘇生もできるわけですよね?」
「……あ、はい、その通りです」
「じゃあ、それなら――なおさら共闘するべきでしょ!」
「えっ! ええっ!」
 友里が驚いて時翔の方を見る。
「だって俺のジョブは回復専門のモンクですよ! ヒットポイント回復だってできるし、死んでも蘇生魔法が使えるじゃないですか! コンプスペルブックだって持ってるんだし」
「し、しかし……もしも全滅してしまったら……彼の手によって確実にアダプターを失うことになります。そうなったら……最悪です」
 だが時翔は豪語する。
「そんなの、やられなきゃいいんでしょ? ドン亀さんだって、さっき一人でも大丈夫だって言ってたじゃないですか」
「そ、それは……」
「俺と友里とドン亀さんの三人パーティで戦えば、なおさら負けることはないでしょ!」
 口角泡を飛ばさんばかりに力説する時翔。
「そうかもしれませんが……」
 考え込んでしまうドン亀さん。
 だがここで友里が、唐突に割って入る。
「私は、いやだよ」
 と、スカーレットレッドの長髪を乱暴に肩から払いながらつぶやく。
「え――」
 時翔は目を点にさせて固まってしまう。
「いやだって言ってるの。だって、サルベージったって死ぬわけじゃないんでしょ? なら戦うなんて、そんな危ないことしたくないよ」
「おい、友里!」
「戦いたいなら、トッキーだけ行けばいいじゃん」
「――っ! 友里! おまえっ!」
 思わず握り拳を胸のあたりまで持ち上げてしまう時翔。
 ひっ、と瞬間目を固く閉じ、身を縮ませる友里、すでに半分涙目になっている。
「待ってください!」
 ドン亀さんが慌てて二人の間に体を割り込ませる。
「友里さんの意見は正しいです」
「ドン亀さん……」
 ドン亀さんは秀麗な眉目を尖らせて、真っ直ぐに時翔を見つめている。
「トキさん、これはゲームではないのです。失敗したらお金と経験値を失ってやり直し――というわけにはいかないのです」
「う……」
 確かにそうだ……
 なんだかもう、あまりにも非現実的すぎて――
 どこかでゲームとごっちゃにして――死んでもリロードすればいい、リセットすればいい、なんて……軽く考えていたような気がする。
 そうだ、これはゲームじゃない。アイツが狙ってるのは、血肉の通った俺らの体、心臓の中の――――アダプターなんだ!
 それこそが――現実なんだ。
「うっ、うっ、うぇっ、ひっく……」
 赤毛の魔法少女が膝を抱えて床に座り込み、短くしゃくりあげている。
 白とピンク、派手なティアードスカートが、デコレーションケーキのように床に丸く広がっていた。
「もう……やだ……うぇっ……」
 抑えていた不安が一気に噴き出してしまったように、友里の嗚咽はなかなか止まらない。
「友里……すまん、俺……」
 掛ける言葉が見つからず、差し出そうとした手を友里の前でさまよわせるばかりの時翔だった。
「友里さん、トキさん、ひとまず落ち着いてください。私はお二人のアダプターをみすみす渡すことなど考えていません。サルベージでさえ最後の手段だと思っています。私がもし、友里さんをサルベージするのであれば、最初からそうしていました。上司からはそうすべきとも言われてきたのです。
 でも……、したくなかった。いえ、元々する気はありませんでした。
 彼を捕縛するのは私の職務ですから。彼さえ逮捕してしまえば友里さん、そして、今となってはトキさんもですが、安全に救出できるのですから。
 だから心配しないで。私は負けません。それに逃がしたりもしません。必ず彼のコントローラを確保して、お二人を正常にログアウトさせてみせます」
 揺るがぬ決意を表明するドン亀さん。
「でも……きのうのアイツみたいに逃げられちゃったらどうしようもないんじゃないですか」
 時翔の懸念に、ドン亀さんはそっと目を伏せ何事か思案しているようだったが、やがて目を上げ、言う。
「いいえ、彼は逃げないでしょう。多分……、そう――あの人は」[#「あの人」に傍点]
 あの人――と、ドン亀さんは確かに言った。
「あの人……って、知ってる人なんですか、あの安藤さんとかいう人を」
 もしかすると、指名手配犯ということなのだろうか。
 なんとなく、きのうの少年に比べても大物感がある気はしていたのだが、ひょっとしたら、この世界での賞金首なのかもしれない。
 友里の方もドン亀さんの意外な言葉に、鼻をすすり上げつつ目を向けている。
 ドン亀さんの方はと見ると、その目の奧には一層の熱がこもっていた。
 そして情熱的な唇が静かに動く。
「はい、よもやとは思っていたのですが――」
 ドン亀さんは慚愧に耐えるようにつぶやいた。
「最終ダンジョンに入ってIDを確認したところで気づいたのです。もし最初から気づいていたとしたら、時翔さんをお連れすることはなかったと思います」
 つまり……それほどの危険人物、だったということなのだろうか。
 それならばさっきドン亀さんが口にしたイグナイターごとき、というセリフは、強がりだったのか、いやあるいは自分を鼓舞するための言葉だったのかもしれない。
 その時、ドン亀さんの言葉が止まり、中空を見つめて固まってしまった。
 そして時翔はとっさに理解した。
 ウィスパーチャット!
 一対一の内緒話モードであるウィスパーチャットでは、たとえそれがパーティメンバーであろうと第三者に音声は聞こえない。外見的にも口を動かしているようにも見えないのだ。
 それでも、とまどうように視線を彷徨わせ、時折僅かにあごを引く彼女の動作を見れば、何事かを会話中なのは見て取れる。そしてそのチャットの相手は疑いようもなく彼、彼女があの人と呼ぶイグナイター、安藤さんに決まっている。
 やがて彼女は意を決したように二人に視線を戻した。
「私は行きます。お二人はここで待っていてください。動かないで。それと――」
 彼女は部室の窓の方に目をやり、
「窓ぎわには近づかないようにしてください。危険ですから」
 そう言い残すと、ハイヒールを鳴らして部室の入り口から外に飛びだしていった。
「あ、ドン亀さん!」
 時翔は呼び止めようとしたが、すでにドン亀さんの姿は夜の廊下に消えていた。
「トッキー、どうするの?」
 友里が恐る恐ると言った感じで、時翔の背中に声を掛ける。
「うん、こうなったらじたばたしてもしょうがない、ドン亀さんの言う通りにしよう」
 時翔は部室の肘掛け付椅子の一つにどっかと座り込んだ。
 そうだ、もうここは彼女の実力を信じるしかない。
 ヘタに動けば、時空警察であるところの彼女の足を引っ張りかねないだろう。
 最悪、人質にでも取られたら、それこそ目も当てられない。
 ドン亀さんとしては、その辺のことも当然考慮に入っているに違いない。
 しかし、やはりなにもできないのはもどかしい限りである。
 時翔は忸怩たる思いに耐えながら、低くつぶやく。
「ドン亀さん、お願いします」

 04

 彼女が呼び出しを受けて向かった先、それは校庭だった。
 夜の――木場倉学園高校の校庭。
 トラックのラインが微かに残り、サッカーゴールが月明かりにぼんやりとした影を落としている。
 静かな陸風が、海に向かってゆっくりと流れていた。
 人影が動く。
 少年の容姿。ぴったりとしたボディースーツに身を包んだシルエットが、グラウンドの真ん中に立っていた。しかし口ひげを伸ばしたその相貌は、まごうことなき成人男性のそれである。
 対するのは、栗色の巻き毛を揺らす美人OLの姿、調停者《アービター》340号、コールサイン、ドン亀≠ナある。
 彼女はゆっくりと歩み寄る。
「ニーナ、やはりキミか」
 彼は開口一番、そう言った。
「はい、お久しぶりです、安藤さん。いえ――教官」
 もちろんこの女性アバターが、生来の彼女そのままの姿というわけではない。
 それなのに個人が特定できてしまうのは、一見不思議なことに思えるかもしれない。
 しかし、人間の気配、目の配り方、一挙手一投足というものは、驚くほど個人の識別に関係する。
 そしてそれはアバターが精巧になればなるほど、情報量は密になるのだ。
 人間観察眼に秀でた人間であれば分かってしまう。是非もなく。
 しかもそれが、師弟関係とも呼べる間柄であったならば、なおさらであろう。
「ふふ、相変わらずだな、キミのその挨拶……だが、今回ばかりは本当に久しぶりだ」
 そんな風に、彼女の元教官、安藤は不敵な笑顔を見せた。
「そうですね、もう二十年ぶりでしょうか」
 安藤はニーナの言葉にほんの数瞬だけ目を伏せた後、ふっと息を吐き、言う。
「うむ、しかし教官はやめてくれないか、そんな過去の私はここにはいない。それは決別した過去の私だ」
「そうですか……それならば私もお願いします。私の本名を口にしないでください」
 頬に掛かる栗色の巻き毛を払いながらニーナが厳として言った。
「おっと、まだ気にしているのかね、そんなことを、ニーナくん?」
 こちらの方は、はぐらかすような口ぶりで言う彼、安藤だった。
「その名前を口にしないでください。それは決別した過去のDQNネームです」
「それは……親御さんが泣いてるんじゃないのかね?」
「ぐっ、泣きたいのはこっちです。もうNGワードです」
 歯ぎしりしそうに口を歪ませながら言う女教師アバター、ニーナだった。
 NGワード宣言までする彼女だったが、本名であるのも紛うことなき事実である。従ってここでは彼女を引き続きニーナと呼称する。
「えぬじーワードですっ!」
 ニーナが見えない壁の向こうにまで念を押すかのように大喝する。
 が、特に意味はない。
 そんなニーナを見ながら安藤の方はあきれ気味に零す。
「気にし過ぎだと思うが……」
 無論、第三者的視点に立った場合、時翔や友里の名前に比べれば五十歩百歩、どうということはないレベルだとも言える。しかしそうは言っても本人にとっては死活問題なのであろう。
「とにかく、この話は終了です。どうでもいいのです」
 と、うとましげにニーナが言い捨てる。
「それは悪かった。では昔のようにあだ名で呼んだ方がいいのかな?」
「もちろん」
 そしてそれは、今や彼女のコールサインとして使用中なのだ。こんなところでそれを公表するのはコールサインとしての秘匿性を捨てる行為ではあるが、命名者である彼に対してだけは、そんなものは意味がないとも思うニーナであった。
「ではドン亀、すっかり時空警察が板に着いたな」
 体育会系OBのように安藤が鷹揚に言う。
「はい、教官のおかげです」
 いっそ皮肉っぽく見えるほど、すがすがしい笑顔で答えるニーナ。
「そして今は敵同士というわけだ」
「そのようですね、でも噂には聞いていました。あなたがドネイターズに荷担したことは」
「だろうな」
「ええ、だから、いつかはこんな日が来ると思っていました」
「私もだよ」
「では、ここからはビジネスライクにいきましょう。時分割法違反の容疑で同行願えますか」
「もちろん――」
 言いながら、安藤は空中をタップする。
「――願えないな」
 その言葉が終わらないうちに轟音が大気を引き裂き、同時に雷光が辺りを真昼のように照らし出した。
 雷光が目指す先、それはグラウンドに立つ彼女、ニーナの体だ。
「う! かっ……ひっ、あ!」
 ニーナの頭上に巨大な雷柱がそびえたつ。雷撃は遠慮会釈なくタイトミニ女教師の全身を駆け抜け、おまけとばかりに側雷が近くの木へとスパークする。
 第一期卒業生が植えた記念植樹であったその木蓮の木は、あっという間に炎に包まれた。
 彼女が立っていた地面は、水蒸気爆発を起こしたかのように弾け飛び、小さなクレーターとなっている。
 雷撃を受けたニーナはクレーターの底に片膝をつき、全身から鈍い煙を立ち上らせていた。
 しかし、一見してダメージエフェクトは軽微だ。髪も顔も比較的綺麗なままである。
 空中に舞い上がった土埃が今頃になってパラパラと落下する。
 クレーターの中心でニーナがゆらりと立ち上がった。
 その彼女の表情には、憂いと苦渋が滲んでいる。
 そして鋭く安藤を睨め付けるのだった。
「やめませんか――こんな茶番は」
 夜目にもなまめかしい艶やかな唇が動き、吐き出すように言う。
「茶番とは、言ってくれるね」
「ええ、茶番です。所詮は。このステージも含めて」
 言いながら後ろにジャンプし、クレーターの後方に着地して距離を取るニーナ。
「そうか、ではこれならどうだ?」
 今度は安藤の指先から雷撃が水平にほとばしり出る。
「くっ!」
 堪らず横っ飛びで回避するニーナ。雷撃はそのまま直進し後方の校舎に命中した。
 再び起きる爆発と轟音。
 しかし今度は地面ではなく、人工物である建物がその着弾点となったのである。被害状況は極めて大きい。
 校舎の一階部分に半径数メートルの大穴が穿たれ、雷撃はそのまま貫通した。
 校舎の破壊された断面の数カ所から火の手が上がり、黒煙がもうもうと吹き出している。おそらく切断されたガス管に引火したのであろう。
 安藤はこの大惨事を見ながら満足げに言う。
「どうだ? なかなか良くできているだろう? このステージも」
「そうですね、よくできてます……まるで――本物のように」
「ああ、そうだとも、どれもこれも本物だ。そしてこの世界に紐付けされた今の私、そしてもちろんキミも、この世界の法則の元に存在を許される。同じだ、どこも。まぁ――きみにこんなことを言うのは釈迦に説法というものかもしれないがね」
「そうですか、でも――」
 ニーナが空中をタップする仕草を見せる。
「いい加減、終わりにしましょう」
 実のところ、落ち着き払った態度とは裏腹に、ニーナは内心では焦っていた。
 安藤の破壊行動は想像を超える規模にまで発展しつつある。このままでいくと、校舎を全て破壊しつくしかねない。そうなるとあの校舎の二階に隠れている二人にも危害が及ぶことになる。
 それだけは防がねばならない……
 全力で。
 ニーナが軽く指先を動かす。途端、ニーナの肩にロケットランチャーが出現した。
 素早く膝射《しっしゃ》の構えを取るニーナ。
 携行型ロケットランチャー、おそらくはRPG―7がモデルと思しきその照準が安藤をインサイトする。
「ファイヤッ!」
 ニーナの体が噴出煙に包まれ、ロケット弾が白煙の尾を曳きながら飛翔する。
 現実的には、ほとんどゼロ距離水平射撃とも言えるほどの至近距離ではあったが、そこはデフォルメされたエフェクトと言うべきなのか、ロケットの軌跡はぎりぎり目で追えるほどの速度で、安藤の体躯のど真ん中を捉えた。
 轟音と共に安藤の体があった地点に白い爆煙が膨れあがる。
 衝撃波は近くにあったサッカーゴールをなぎ倒し、ダイアモンドのバックネットを大きく揺らす。爆風で木立の枝が大きく揺れ動いていた。
 やがて煙が晴れ、安藤が姿を現した。
 健在であった。
 まったくもって見た目にはダメージなし。
 ニーナは自分のオーバーレイに表示されている安藤のヒットポイントバーを確認する。期待も虚しく、数ドットの目減りを確認することができたのみであった。舌打ちしながら、苦々しげに吐き出す。
「くっ……チート野郎――ですかっ」
「これは異な事を」
 白煙の残滓を纏いながら安藤が不敵に答えた。
 ニーナがRPG―7を放り出し、豊満な胸を目一杯に反らせて対峙する。
「違うとでも?」
「もちろん違うな。それにチートだと言うならば、キミの方こそチートなのではないかね? そんなアイテムは場違いな工芸品と言うものだろう? 世界観的に」
「いいえ違います。この武器はソーサラーズ、サービス開始一周年記念に配布された限定アイテム、間違いなくレジットアイテムです」
「そ、それは知らなかったが……」
 こめかみに青筋を立てながら言う安藤だった。
 しかしながら一周年記念にしてこのアイテム。どうやらネットRPGソーサラーズは、一周年を待たずにサービス末期の様相を呈していると言っても邪推ではないだろう。
 なりふり構わぬ強引なテコ入れである。
「ともかく、そんなレアアイテムを持ち出すまでもなく、私のキャラも魔法も全てノーマル品なのは認めてもらいたいところだね、もっともステータスはカンストなのは本当のところだが」
「そんなところだと思いました、それならば私の方も遠慮なくやらせてもらいます。ここからは――」
「ふふ、好きにしたまえ、しかし忘れているわけではないだろうね、ここは私の統制下にあるということを」
 言うが早いか、安藤がその五指を閃かせる。
 と、見る間に地面を割って一ダースを数えるモンスターが出現した。
 居並ぶモンスターは、どれもこれも超ハイレベルエネミー、あのラストダンジョンを護っていた衛兵クラスの超級モンスターである。
「なっ……これって……」
 ペットをサモンしたのか?
 いや、違う――
 こいつらは……
 ニーナの背中を電流のような戦慄が走る。
 懐柔《テイム》スキル――か!
 ニーナの目前に立っているのは、かつて彼女が少女剣士姿であった時に、ダンジョンの入り口で、そのいたいけな体をざく切りにした、例の特大ガーゴイルであった。
 お久しぶり――
 などと感傷に浸る寸暇もなく、地面を爪で蹴って特大ガーゴイルがニーナに襲いかかる。
 ガツンッ、とその爪を受け止めたのは、彼女の手に握られた長剣であった。
 その銘は――ドラゴンスレイヤー。言うまでもなく最高級の武器である。
 もちろん彼女のステータスも申し分なくハイエンドの域にある。だがいかに強大なパワーを有していても、単体では数の暴力には抗いがたいのだ。単体の能力に上限が存在する以上、結局のところハイエンド同士の団体戦となれば頭数が直接の戦力差となるのは自明の理なのである。
 しかも、前回刃を交えた際には強力なダメージシールドとドレインシールドの恩恵に預かり、勝利を納めたわけであるが、今はそんな物の加護は受けていない。裸一貫、ノンターボの自然吸気エンジン、すなわちノーバフなのである。
「重い……」
 絶望的な重量がニーナの腕にのしかかる。受け止めた爪をどうにか両手の剣で押さえ、辛うじて踏ん張るニーナだった。
 だがそこにガーゴイルの爪がさらに襲い掛かる。その展開はニーナとしては考えたくもなかったが、考える間もなく、避けようもなく、つまり、隣にいた、もう一体のガーゴイルの爪がニーナの無防備な下半身をなぎ払った。
「ひ、やあああぁぁぁぁぁぁ!」
 夜の校庭に女教師アバターの悲鳴が響き渡る。
 VRゲームの戦闘ダメージにおいて、激烈な痛みというものは発生しない。せいぜい攻撃を受けた部位にバイブレーションを感じ、アバターが有効打を受けたと識別できる程度の刺激に留められている。しかし痛みというものは、単に痛点に与えられた刺激が発生する信号パルスのみで感じるものではない。自分が築き上げた状況、つぎ込んだ時間、時にはお金、それらが一瞬のうちに灰燼に帰する瞬間、人は激烈な痛みに身を裂かれるのだ。
 己の失策に責め苛まれるのだ。
 プライドをずたずたに引き裂かれるのだ。
 そう、油断があった。
 ニーナとしては安藤との一対一の魔法合戦、その展開にのみ腐心し過ぎていたのだ。
 物理攻撃としての剣戟の応酬、それに対する準備が不完全であった。
 だが、一概に彼女を責めることはできない。なぜならば、人は外面に引っ張られるものだからだ。もしもニーナが少女剣士アバターの姿であったなら、前回のネカフェ戦よろしく、後れを取ることはなかったのかもしれない。
 そうは言っても、やはり……
 心の準備ができていなかった。
 そこを突かれる形となった。
 ニーナは自分のヒットポイントバーに目をやる。
 瀕死というわけではない。
 どころか、二割も削られていない。
 まだまだヒットポイントに余裕はある。
 だが、このまま攻撃を受け続ければ、死んでしまうだろう。
 アバターのヒットポイントがゼロになり強制ログアウトさせられてしまうだろう。
 無論のこと、このゲーム、ソーサラーズは全年齢版アプリである。従って血しぶきが飛び散ることもなければ、腕や足がもげることもない。せいぜい装備品が壊れて、若干肌が露出するという程度の、まぁ、ちょっとしたサービスレベルとも言える演出が存在するのみである。
 ニーナのアバターと言えども、この前提には則している。
 たとえ彼女のアバターが時空警察特製の万能タイプであろうとリアリティーレベルについては同様の制限を受けるのである。
 どれほどひどいダメージを受けようと、陰惨なダメージ表現は行われない。
 今のところ、それだけが唯一の救いと言ってもいいだろう。
 しかし気づけば……完全に囲まれていた。一ダースもの超級エネミーがニーナを中心にその輪を狭めつつある。あまりにも巨大なモンスターが肉迫する余り、ニーナの視界に映るのは巨大な爪、牙、角、などの凶悪なパーツばかりであった。
 そしてうれしい、いやおぞましいことに触手! クラーケンにも似たエネミーの触手がニーナの両腕の自由を完全に奪い去り、足が地を離れ、磔同然となっていた
「どうだね、我が精鋭達の爪の味は」
「くっ! ちょっと油断しただけです。この程度の攻撃、どうということはありません」
「そうかな? だがその状態ではヒールポーションも使えまい?」
 悔しいことに、その通りだった。
 ヒットポイント全回復のヒールポーションは所持上限値までストックしているが、回復については自動発動の機能は持たないのがこの手のゲームでのルールなのだ。少なくとも片手の自由が得られないことには、アイコンをクリックすることもできない。
 自分で自分を回復することはできないのだ。
 敵モンスターの攻撃は絶えることなく繰り返されている。
 現実的に考えれば、瞬時に細切れにされても当然とも言える攻撃が――斬戟が容赦なくニーナの体にヒットし続けている。
 ニーナは今、迷っていた。もしもこのままヒットポイントを削られてゼロになってしまえば、強制的にログアウトさせられてしまう。このエリアでの活動の足がかりを失うことになる。そうなった場合、サルベージ用のガイドピンを打てなくなってしまう。
 今のうちにサルベージ要請をするべきだろうか?
 そうすれば、少なくとも最悪の事態は避けられる――彼ら二人のアダプターは守ることができる。
 いや、
 まだ手段がないわけじゃない。
 それは職務権限を超越する手段ではあるけれど。
 アプリケーション保護則に抵触する行為ではあるけれど。
 そしてそれは彼女自身も試したことのない、もっと言えば、気乗りしない方法ではあるけれども。
 しかし、他に方法はない。
 まぁ、やってみよう。
 始末書の一枚や二枚は書くことになるかもしれないし、ひょっとすると、局員なら誰しも恐れる懲罰、マウスホイールのほこり取り一年間くらいは喰らうかもしれないが……。
「どうしたね? もう諦めたのかね?」
 両腕を拘束されたまま、なすがままに攻撃を受け続けるニーナに向かって、安藤が言う。
 しかし、ニーナはじっと目を伏せ沈思黙考しているかのように動かない。
 ニーナのヒットポイントはすでに三分の一を切っている。
「では、最後のとどめは私からプレゼントしようかな、ドン亀くん」
 そう言うと安藤は再びスペル発動の構えを取った。
「さあ、遠慮なく味わいたまえ!」
 安藤の双眸が見開かれ、その両手からごんぶとサンダーがほとばしる。
 だが、その直前、ニーナがキッと目を上げて囁いた。
「アンロック、完了」

 05

 瞬間、ニーナの両腕が肘の関節からもげた。
 腕がちぎれ、体が落下した。
 彼女の両腕は触手モンスターによって拘束されていたわけであるが、それを腕ごと失った今、その縛めから解放され、地面に投げ出される格好になったのだ。
 ニーナの残された腕は左右から引っ張られていたために、その支えを失い、カタパルト射出されるかのごとく夜空に飛散した。
 安藤が放った雷撃は的を失い、取り巻きのモンスター群に直撃するかに見えたが、なんら干渉することなく、その体をすり抜けた後、後方の校舎に命中した。
 どうやらフレンドリーファイヤー扱いとなっているようだ。
 校舎の一階部分に再び大穴が穿たれ、爆発が巻き起こる。
 ニーナの方は地面をごろごろと転がりつつ、その爆風から逃れた。
 逃れはしたが、すでにタイトミニ女教師の体はボロボロである。
 まさに満身創痍。
 両腕を引き千切られ、肉が裂け、骨が飛びだし、おびただしい出血が穴だらけの体から吹き出している。
 当然のことながら、通常のゲーム画面でこうしたダメージエフェクトが使用されることはあり得ない。
 しかし、データとしては準備されているのだ。
 実装されてしまっているのだ。
 全年齢版指定が決定する以前の名残としてではあるのだが。
 あるいはそれは、ソーサラーズが使用している3D描画エンジン、その元になったゲームが本来持っていた仕様なのかもしれない。
 モンスターの群れはターゲットを失ったのと、安藤が放った雷撃のせいで、パニック状態に陥っている。うろうろと徘徊するばかりとなっていた。
 しかし安藤は動揺を見せることなく、訝しげに言う。
「今度こそチート行為というところかな?」
 ニーナが血反吐に汚れた顔を上げた。
「マップハック野郎に言われたくありません」
「ならば、何をしたのかね? ソーサラーズでは欠損表現も流血表現も制限されているはずだが?」
「ちょっとDLCを導入しただけです」
「DLC……だと」
「未公開モジュールですけど」
 DLC――ダウンロードコンテンツの略であり、通常は追加モジュールとして有料発売されることがほとんどである。その中からニーナが解放したのはアバターの追加スキンであった。それは将来的に拡張する予定のサービスであるところの、R18サーバ用のダメージスキンであったが、ユーザーのニーズが見込めないためにお蔵入りしていたのである。
「ふっ、そんな物、所詮は見た目だけの変化だろう。性能は変わらないはずだ」
 鼻で笑いながら一笑に付すかのように言う安藤。
「いえ、そうでもありませんよ。アバターのパーツが分離できるようになると、便利なことがあるんです」
「なに?」
 安藤はニーナの不気味な迫力に動揺を覚えていた。実際見た目も不気味――と言うかほとんどスプラッタではあるのだが。
 ニーナがすっくと立ち上がった。
 と、見る間に体中の傷が癒え、両腕が再生される。
 モンスターによってもぎ取られ、グラウンド上に残された腕の方は、すでに綺麗さっぱり消えている。
「ああ、やっぱりヒールポーションでは装備品の再生まではできないようですね」
 すがすがしい声で言うニーナの体は、すっかり元通りになり、ナイスバディ女教師のプロポーションを取り戻していた。
 しかし服の方は――白ブラウスにタイトミニのコスチュームはぼろぼろのままで、下着がほとんど露わになっている。
 蛇足ではあるが、このあたりのモデリングもテクスチャーも、ここまで精密無比に作られているのは、やはり某社との技術提携による面目躍如と言ったところだろうか。
 クロッチのライン位置までほぼ完璧である。
 その筋のうるさ型であろうと、文句のつけようはないと言うしかない。
 などと……これ以上屋上屋を架す解説は差し控えておこう。

 ずいっと、
 ニーナが安藤の方に歩を進める。
 武器は手にしていない。しかし不敵な自信が体中からみなぎっているのが見て取れた。
「ふん……それで? どうしようと言うんだね?」
 安藤が目を細め、動揺を隠せない風に言う。
「もちろん――反撃でしょうか」
 ニーナの瞳は、夜の湖面のように不気味な静寂を湛えている。
 安藤ははっと我に返り、思い出したようにモンスターにアタックコマンドを発行する。
 うろついていたモンスターどもがぴたりと動きを止め、やがてニーナの方に向き直った。
「ふむ、のぞむところだ、さっさとけりを着けようではないか」
 安藤がふてぶてしげに言う。
「ええ、もちろん」
「行け! 我が精鋭達よ!」
 安藤が腕をかざす。
 それを合図にモンスターが一斉に雄叫びを上げ、ニーナに飛びかかる。
 しかし、ニーナはそれを避け、ジャンプ一番高々と空中に飛び上がった。
 ジャンプの頂点で、栗色の巻き毛が悠然と舞い踊る。
「では、ここからは――」
 空中で言いながら、そのまま下降、体育館の屋根に着地する。
 どごん、と。
 そしてニーナが言う。

「よい子には見せられない、戦闘シーンといきましょうか」

 安藤の眷属、その飼い慣らされたモンスターが体育館を押しつぶさんばかりに大挙する。
 ニーナはたじろぐ様子も見せず、ゆっくりと両腕を前に突き出した。
 その拳を強く握る。
 次の瞬間、両腕が肘の関節から切り離され、スクリュー回転しながら飛翔していく。
 ロケット噴射と見まごうばかりに、血しぶきの噴射を引きながら、その二本の前腕部が次々とモンスターの体を貫通していった。
 しかし残念ながら、ブーメランのように戻って来ることはない。片道キップの鉄砲玉である。
「な、なんだ、その技は……」
 安藤が呆気に取られたようにつぶやいた。
「はい、ロケットパンチ――とでもしておきましょうか」
 ニーナが口に咥えたヒールポーションをぐびりと煽った後、クールに技の名乗りを上げた。
 ポーションの効果により瞬時にヒットポイントが回復し、血が噴き出していた両腕は見る見るうちに元通りに再生する。
 その一連のシーンは――
 総じてグロく、
 いかにも下品で、
 とにかく不愉快。
 極めて不適切な表現としか言いようがなかった。
 ソフ倫の審査を待つまでもなく、
 いわゆる映像化不可の映像であった。
 一方、モンスターの方はまだ全滅したわけではなく、多大なダメージを受けながらも進軍を続けている。
 しかしながら、さっきのシーンを見ているだけでも精神的ダメージを受けることは間違いなしであろう。NPCのAIに倫理観という物が存在すればの話だが。
 ともあれ、このDLCをお蔵入りにしたスタッフの判断は、賢明だったと断じざるを得ない。
 だがこの後、そんなものはまだまだ序の口だったことを安藤は思い知ることになる。
「では、次……恥ずかしながら」
 ニーナがもじもじしながらも、ぐいと胸を反らせた。
 二つの巨大ミサイル(と言ってもGカップほどである)が、バズーカのごとく発射され、押し寄せるモンスターどもを粉砕する。その破壊力はミサイルのサイズからは想像もできない程の爆発力を秘めていた。どこか魂のこもった、いや、もはや情念のこもった一撃とも言えるおそろしい技であった。
 その爆発は校庭の全域をほぼクレーターに変容させ、爆心地にいた3,4体のモンスターは瞬時に塵芥と化した。
 そして残った敵も足首付きリモコンハイヒール、切り裂きネイル付き指鉄砲、弾数制限はあるが、巻き髪ロング毛針などで片づけていく。
 そこからの彼女の動きは驚天動地の全身凶器っぷりであった。
 木場倉学園の校庭を縦横無尽に駆けまわっている。
 響くニーナ。
 叩くニーナ。
 砕くニーナ。
 まさに一騎当千。
 孤軍奮闘、獅子奮迅の活躍である。
 ニーナは技を数種類繰り出すたびにヒールポーションを補給していた。
 つまり、それだけで次弾が補給されるのである。
 欠損部位が再生されるのである。
 それはもう、
 リアルなグラフィックでありながら、どうしようもなく非現実的な光景であった。
 どこまでも悪趣味、かつ不謹慎な絵ヅラであった。
 ただ、ここで浮上した事実として、このDLCはソーサラーズに全く最適化されていない、未完成品であるのは間違いないということだろう。やはり世界観は大事にして然るべきものである。
 気が付けば、あれほどいた敵モンスターも次々と倒れ、グラウンドに折り重なり、その醜悪な骸をさらしていた。
 モンスターの屍はやがて霧散し、片っ端から電子の藻くずへと帰していく。
「はぁ……はぁ……」
 ニーナはさすがに息切れを起こし、グラウンドの真ん中に片膝立ちとなっていた。
 おまけに無尽蔵のストックと思われたヒールポーションも底を尽きかけていた――残弾僅かとなっていた。
 ニーナが放った攻撃技は全て物理攻撃、言わば自分のヒットポイントを武器に変えて、敵にダメージを与える実弾攻撃技である。肉を切らせて骨を断つ、とでも換言できようか。
 それを可能にしていたのは、高価極まりない贅沢品であるところの全回復ポーションである。それが尽きようとしている今、もはや無駄撃ちはできない。
 しかし、安藤配下のモンスターは残らず片づけることに成功した。後はその本体、彼のヒットポイントを削り取るのみである。
 その安藤の方はと言うと、ニーナの八面六臂な大立ち回りを冷ややかな目で見守っていたものの、モンスターが全滅するのを看取ると、やれやれと言った仕草であごを撫でた。
「みんな殺してくれたようだね」
「はい、ようやく……」
「せっかく連れてきたというのに、おいたわしやだよ」
「そうですか、でも――大丈夫、今頃ラストダンジョンでリスパウンしてますから」
 なんだかんだ言っても、所詮はNPCである。死亡したとしても、全く同じNPCがシステムからダウンロードされ、所定の位置に配置されるだけなのだ。生まれ変わって。
 できれば次は、より良いNPC人生を歩んで欲しい物である。
「しかし少々驚きだがね、アバターにそんな使い方があるとは……まぁ、こっちは生身だからそんな真似はできないのが不公平と言えば不公平だが」
 安藤は口の端を歪めながら忌々しげに言う。
 ニーナがゆらりと立ち上がった。
「では教官、次はあなたの番です」
 怒気をはらんだ声で宣言した後、安藤ににじり寄る。
「一応言っておきますが……あなたには弁護人、あるいはそれに準ずる弁護人工知能、弁護人工無脳、弁護bot、弁護エキスパートシステム、弁護ロイド、弁護神託、弁護口寄せ、以下略……、これらの弁護を受ける権利と黙秘権が認められます。だから、大人しく投降してください」
「ほほう、なるほど、ビジネスライクだ」
「イッツマイビジネスですから」
「ふふ、は、はあっはははは――」
 唐突に――
 火が付いたように哄笑する安藤。
「何が、おかしいんですか……」
 憮然とつぶやくニーナ。
「ふむ、ここらが潮時なのかなと思ってね」
「逃げる気ですか」
「まさか」
「では、どういう意味ですか」
「キミの勘違いを正してあげよう、という意味だよ」
「勘違い?」
「いや、本質を理解していないと言うべきかな」
「今さらなんの話ですか、あなたのターンはもう終わりですよ」
「キミは解っていない。例えば……そうだな、では私を好きに攻撃してみたまえ」
「ぐっ、言われなくとも――」
 愚弄を続ける安藤にニーナの中の何かが切れた。
 ニーナはドラゴンスレイヤーをイクイップし、下段に構えながら安藤へにじり寄る。
 しかし、安藤は先ほどのニーナの攻撃でできた校庭のクレーターの縁にあぐらを掻いて座り込んだ。
「どこからでも来なさい」
 その余裕の態度は、かつて教練を行っていた時の、訓練生を完全に子供扱いするかのような態度であった。その顔には狡猾な笑みが張り付いている。
「もう、天誅ですわ――!!」
 ニーナが親の敵を取るかのような勢いで安藤に飛び掛かる。そして両手剣を上段から袈裟懸けに一気に振り下ろした。
 ――ちぃえすと、と。
 手応え充分……
 ニーナがそう感じた次の瞬間、強烈な振動がニーナの体を襲う。それは、剣を握った両腕から始まり、全身を駆け抜けていく。
 ニーナは思わず自分のヒットポイントバーに目をやった。
 目減りしていた、なんて生易しいものではなく、劇的に――それこそ半分近くに減っている。
「くっ、反射ダメージ、か!?」
 ニーナは明らかな挑発にまんまと乗せられてしまったことに臍を噛みつつ、バックステップで一旦距離を取る。
 通常、ダメージシールド系の魔法は、受けた物理ダメージに関わらず、一定量のダメージを攻撃側に与える物である。逆に言えば無敵化するわけではないのだ。被ダメージは免れないはずなのだ。
 しかし、安藤のヒットポイントバーは小揺るぎもしていない。
 数ドットさえも削れていない。
 これはもうどう考えても物理攻撃が通る相手とは思えない。
 ましてや、このまま強引に直接攻撃を加え続けても、いたずらにこちらのヒットポイントが減るばかりで、何らの対抗手段にはならないだろう。
 やはり、遠隔攻撃しかないのか……。
 そうだ、確かに先の魔法攻撃の応酬、あの時命中させたミサイル攻撃では僅かながらではあったが、ダメージを与えていたではないか。
 それならば……
 ニーナは覚悟を決める。
 さらに後方にジャンプし、空中で現状の彼女としては最強であるはずの攻撃を展開する。
 リアルタイプのアバターとしては、最もシュールなビジュアルである、例の技を。
「おっぱいみっそー!!」
 男ならば一度は喰らってみたいとさえ思えるその弾頭が安藤めがけて飛翔する。
 しかし安藤は身じろぎもせず棒立ちとなっている。
 双子のそのミサイルは血しぶきではなく、なぜか白煙を曳きながらツイストしつつ、彼の土手っ腹に命中した。
 耳をつんざく轟音が衝撃波と重なって拡散する。
 すでにこれまでの戦闘でクレーターだらけとなっていた校庭は、この爆発でフェンスも全て吹き飛び、その面影はどこにもなくなっている。
 あまつさえ、校外の近隣の住宅にまでその被害が波及しているのだ。
 家々の屋根や壁面に設置された太陽電池パネルがかなりの数吹き飛んでしまっている。
 爆煙が晴れると安藤が姿を現した。
 特に変わった様子もなく。
 余裕の表情で立っていた。
 だが、そんなビジュアルを確認するまでもなく、ニーナのオーバーレイ表示に示された安藤のヒットポイントは10パーセントも減っていないのだ。
 どう考えても小破に留まっている。
 対するニーナの方は被害が甚大である。ただでさえヒットポイントが半減しているところに、繰り出すだけでフィジカルダメージを受けてしまう攻撃を行ったのである。彼女のヒットポイントはすでに残り10パーセントを切っていた。
 これでは直接攻撃による反射ダメージを受けた状態とさして変わらない。
 とはいえ、直接攻撃では与えられなかったダメージを少ないながらも与えることができることは間違いないのだ。それならば、迷っていても仕方がない。
 勢いづく彼女は、空中から地面に着地する前に次の攻撃を送り出す。彼女の美しい栗色の巻き毛が針金のように逆立ち、鋭い光を放ちながら飛んでいく。
 金色に輝く針の束。それは刺突剣の束にも見えた。
 空気を切り裂く音を立て、安藤の全方位からその体に吸い込まれる。
 全弾命中。
 安藤の体はハリネズミの剛毛のごとくびっしりと全身に毛針弾が突き立てられている。
 だがしかし、それも蒸発する結晶のように消え去り、やがて無傷の少年アバターが姿を見せた。
 それでもニーナは狂ったように、第二波、第三波の毛針弾を発射する。
 もちろん徐々に、弾幕は薄くなって行く。限りある資源である限り当然なのではあるが。
 人間の頭髪は、平均して約十五万本と言われている。このアバターが一体どこまでその数字に則しているかは定かではないが、第三波攻撃を繰り出した後の彼女は、ほぼ丸坊主となっていた。ひょっとすればそれは、彼女にとってもっとも屈辱的な姿だと言えるのかもしれない。そしてヒットポイントもレッドゾーンとなっている。もはやこれ以上の人体欠損攻撃を加えることは不可能である。
 ニーナはなけなしのヒールポーションを摂取する。たちまちの内に美しい栗毛と双丘が復活した。
 やはり、スキンヘッドにまな板バストなどという姿は腹に据えかねるアバターであったのだろうか、ニーナの表情は心なしホッとした様子を見せている。
 だが状況は非常によろしくない。ヒールポーションも残り僅かである。このまま欠損攻撃を続けたとしても、安藤のヒットポイント全てを削り取ることなどできないのは明白である。
 安藤が低くつぶやく。
「まだ理解していないようだね」
「な、なにを、ですか……」
「この世界のルールをだよ」
「ルール……」
「キミはもう少し利口かと思っていたのだが――では、教示するとしよう」
 安藤がぞんざいに腕をワイプする。
 スペル発動――
 再びのサンダーブレイク系スペル発動――に見えたが、違っていた。
 安藤のジョブスキル、おそらくは雷撃系ではあったものの、それは瞬時発動型、ターゲットとの距離に関係なく、タイムラグなしに効果を発揮するダイレクトダメージスペルであった。
 すなわち――
 ちゅどん、と。
 ニーナの体が電光に包まれて自家発光するがごとく強烈にフラッシュする。
「う、う、あ、あ……」
 体を内部から焼き尽くすようなバイブレーションに背中が仰け反り、地面に倒れ込む。
 DDスペル。
 その実体、魔法の効果はどこからか飛んでくるわけではなく――いわゆるミサイルタイプと呼ばれる形ではなく、ターゲットに対して発動と同時に、瞬時にダメージを与えることができるのだ。
 続けて、
 ちゅどん、ちゅどん、
 ちゅどん、と。
 全て命中。100パーセントダメージで入っている。
 親の進言のごとく的を射ている。
 茄子の花のごとくハズレはない。
 ゲームシステム上、ロックオンされている限り外れようもないのだ。
 連続で撃ち込まれるスペルによってニーナの体は地面をはじけ飛び、反動で転げ廻る。
 転げ舞わされている。
 死に至るダンスを。
「う、あ……、ちょ、そんな、クールダウンは? はうっ!」
 右へ左へ、時には自らの痙攣によって地面から浮き上がる。
 浮き上がって空中にいる間にも、さらに雷撃が撃ち込まれる。
「っ……ひっ……うっ」
 情け容赦もなく。
 ニーナはすでに声を上げることもできなくなっていた。
 次々に撃ち込まれる雷撃スペルでニーナの体は再びぼろぼろになっていた。
 電流が走る柔肌は、焼け火箸を押しつけられたようにみみず腫れが刻まれ、次に火ぶくれが弾け、そこに雷撃を喰らい、最後は黒こげに近い色に変わっていく。このままでは早晩、全身が消し炭になることは火を見るより明らかである。
 だが、ある意味この悲惨なビジュアルを招いたのは彼女自身であるとも言えるのだ。
 全年齢版の規制を超えるダメージスキン。それをアンロックしたがための地獄絵図なのである。
 すでにニーナのヒットポイントは数パーセントを切るまでに減少している。もはや首の皮一枚と言っても過言ではない。
 と、そこで攻撃がストップした。
 インターバルを置くかのように。
 半焼死体となったニーナが地面に転がり落ちる。
 うつ伏せになったニーナは全身から鈍い煙を立ち昇らせていた。
「う、う……なんで……」
 ここで安藤がゆっくりと近づく。
「ま、こういうことだ」
「こ、こんな……」
「解ったかね、このアプリ、ソーサラーズは魔法至上主義のゲームなんだよ。直接攻撃《ミリー》スキルなどは、おまけのような物なのだ。たとえキミのアバターが欠損パーツ攻撃を繰り出したとしても、所詮は物理攻撃の域を脱しえない、魔法攻撃の前には児戯に等しいのだ」
 大人げない安藤の喝破は続く。
「ま、そうは言ってもこの程度のスペルはジャブみたいなものだがね。ではそろそろ終わりにしようではないか、ふふ、教えてあげよう……DDスペルがDDスペルである理由。いや、特別な呼び名で称されるその――真の意味を」
 安藤がおごそかにスペルブックをタップする仕草を見せる。
 そして言う。
「ニュークと呼ばれる由縁を――」
 とたん、夜の校庭が真昼のように照らし出され、強烈な光輝がニーナの体に炸裂する。
 巻き起こる地響きと、全てを焼き尽くすかのような高熱。
 まさに核爆発。
 女教師アバターが溶け落ち、液状化する。
 バターのように。
 その後、爆散。
 散り散りになった肉片が爆心地となったグラウンドの穴底にばらばらと舞い落ちる。
 それはもう――
 どこからどう見ても、
 申し分ないオーバーキルであった。
 もうやめてあげて、と言う暇もなく、瞬時にニーナのヒットポイントはゼロを切っていた。
 そのスペルのダメージ量は、たとえニーナのヒットポイントがフルであったとしても、一撃で昇天させられるほどのダメージ量であっただろう。
 全てを一撃の下に決してしまう魔法攻撃、それは魔法という要素を取り入れたゲーム全般が内包する隘路、いや、避けられない末路でもあるのだ。
 いずれ行き着く先なのだ。
 
 悲しいことに。






 第八章 ニューク・ラリー

 01

 散り散りとなった肉片が集まろうとしていた。
 小さな欠片同士がくっつき、大きな欠片へと変容する。それは時には腕のパーツであり、時には足のパーツであったりする。肉片の合体が進むごとに、やがてそれらは人型を示し始めた。
 その人型は言うまでもなく、時分割空間警備用の汎用仮想体、美人女教師の姿であった。
 ニーナがぱちりと目を開ける。
 彼女のアバターがニュークにより消滅した瞬間、ニーナの意識は酩酊に呑まれた。
 それはハッキングレイヤーからの強制ログアウトでは避けられない事態である。しかしそうは言ってもニーナの体はあくまでアバターである。いかにそのショックが強烈であろうと、やがては意識を取り戻すことになる。ログインした端末席の上で……。
 しかし、今ここは本部の端末席でないのは間違いない。そして最後に倒れたグラウンドでもなかった。
「ここは……」
 ニーナの目に最初に映ったのは星空。
 次にスキンヘッドの男であった。
「ドン亀さん――しっかりしてください」
 彼女に声を掛けているのは黒マントにスキンヘッド、モンク姿の男子高校生、時翔であった。
「トキさん!」
「よかったー、なんとか間に合ったみたいっすね」
 しかし、時翔は横たわるニーナに背中を向けて立っていた。
 顔だけを横に向け、あらぬ方向を向いてしゃべっている。
「ここは、もしかして……」
「ええ、校舎の屋上です」
 言われてニーナは辺りを見回す。コンクリートの床と、高い金網のフェンス。確かにここは木場倉学園高校の校舎の屋上であるらしかった。
「すんません、俺……やっちゃいました」
 どこか申し訳なさそうに言う時翔だった。
 もちろんニーナはこの状況を即座に理解した。
 蘇生魔法。
 おそらくは死体召還の後、そのまま蘇生魔法を使ったのであろう。
 元々彼女らはシステム上のパーティメンバーなのだ。たとえどこにいたとしても各人のヒットポイント残量は筒抜けなのである。おまけに死体召還はメンバーリストの選択から行うことができる。
「俺、どうしても、じっとしていられなくて、教室の窓から見てて……それで……」
 項垂れながら力なく言う時翔。
 だがニーナは時翔を責めることはできなかった。
 彼女が取るべき措置、サルベージ要請を発効する前に倒されてしまったのだから。
 おそらく安藤はニーナの排除後、辺りを徹底的に破壊せしめ、彼ら二人を燻り出すつもりだったに違いない。そうなれば彼らは安藤の手によってアダプターを略取されることになっていただろう。
 それは完全なる敗北を意味する。いわゆる最悪の結末である。
 ここは時翔の機転に感謝するべきだろう。
「バラバラになっちゃったアバターを召喚《サモン》できるのかどうか解らなかったんですけど、ちゃんと回収できました」
「そうですか……こちらこそ申し訳ありませんでした。大口叩いておきながら、あっさりやられてしまったのですから……」
「いえ、そんなこと……ないです」
「あの……ところで、どうして背中を向けているのですか?」
 ニーナが不思議そうに時翔に訊ねる。
「え? そ、それは……つまり、服が……」
 ニーナは改めて自分の体に目を落とす。
 全裸であった。
 男であれば誰しも、いや、女でさえ見とれてしまうほどの完璧なプロポーション。まさに生まれたての愛の女神がそこに横たわっているとしか思えない光景である。一介の男子高校生に直視せよと言う方が無理な話なのだ。
「ひゃぅっ」
 あわてふためきながら胸を両手で隠すニーナ。
 本来、全年齢版アプリであるソーサラーズにおいては、装備品、つまり服は着替えることはできても、下着類を脱ぐことなどできない。従って、戦闘で黒こげになろうとざく切りにされようと、一糸纏わぬオールヌードになることなどあり得ないのだ。この状態になっている原因、それは全てニーナがアンロックしたダメージャブルスキンのなせるワザなのである。
「ドン亀さん、何か装備できる服みたいなの持ってないんですか」
「服……ですか」
 ニーナはインベントリの中身を確認してみる。しかし、一度死亡してしまった以上、身に着けていた装備品は死亡した地点にばらまかれてしまっている。それはこの手のゲームではお約束なルールだ。
 身につける服どころか、ヒールポーション一つ持っていないのだ。着衣の確保に閑しては絶望的と言えた。さりとて、ニーナの死亡地点、さっきの魔法を受けた爆心地へ拾いに行くという手もないではないが、校庭には安藤が頑張っていることだろう。
 時翔は自分が装備しているローブを渡せないだろうかと考えたが、アイテムのステータス欄を見る限り、装備可能職業に女教師は含まれていなかった。
 せめて、ぼうぎょりょく23のエッチな下着≠ナもあればとも思ったが、パテントの関係でそれは無理な話であった。
 などと――悠長にしている暇は、実はないのだ。
「ようやくおでましかな?」
 リバーブの掛かった安藤の声が響く。
 それはウィスパーチャット、でもなく、エリアシャウトであった。
 どうやら、安藤にとって、この展開は想定の範囲であったようだ。
 と言うよりも、思うつぼに嵌められたと言う方がふさわしいのだろう。
 そもそも彼の目的は、元々は友里のアダプター、加えてまんまと罠に嵌った時翔のアダプターであるのだから。
「どうやら、見つかってしまったようですね」
 ニーナが立ち上がり、グラウンドを見下ろしながら決然と言う。
 もはや第二ラウンドの開幕を覚悟したニーナであった。
「こうなっては仕方ありません。トキさん、一緒に戦ってくれますか」
「ええ、もちろんです」
 もとよりそのつもりだったのだ。
 決意も新たに大きく頷く時翔。
 しかし、そう言いながらも、相変わらずニーナに背を向けたままの時翔であった。
 そんなことを気にしている場合ではないのも確かではあるが、やはりどうしても憚られる。
 スキンヘッドに身を窶してはいても、時翔も若干16歳の健康な男子なのだ。
 しかも自称、真摯な紳士なのだ。
「あの……トキさん、こっちを向いてください」
 もう観念したのか、あるいは開き直ったのか、ニーナが甘く囁く。
「え? でも……」
「大丈夫、私は平気ですから」
「そ、そうっすか……」
 そこまで言われては仕方がない。
 時翔も男である。そうなのだ、今はそんな些事に気を取られている余裕はないのだ。
 時翔は意を決してオールヌード女教師を視界に入れた。
「う、まぶしい」
 一瞬目が潰れたのかと思った時翔だったが、どうもそういうわけでもない。
 よくよく見てみれば――凝視してみれば……
 下腹部、及びバストトップに強烈な光線が当たっているかのごとく、ハレーションが起きている。
 さながら白線が引かれているかのように……。
「パレンタルロックが効くみたいです」
 満面の笑みで言うニーナだった。
「……いや、それロックされてないでしょ」
 どちらかと言えば放送コードである。
 でも、そんな物が効くなら最初からオンにしておいて欲しかった。と、時翔が思ったかどうかは定かではないが、時翔の視界オーバーレイ表示右隅の・RECインジケータが、静かに明滅を止めたことを知る者は、ここには居なかった。
 そんなことより……と、時翔は考えを巡らす。
 まぁ……全裸だからといって、特に防御力に変化はないのであろう。
 それに今必要なのは物理防御力と言うより、魔法耐性の方なのだ。
 あの安藤とかいう男、あいつはソーサラーズのクラスで言えば、メイジクラスのダイレクトダメージスペルの使い手であるらしい。
 時翔は先ほどのドン亀さんとの戦闘からそう読み取っていた。
 のではあるが……
 どうにも気がかりなことがあるのだ。
 ドン亀さんに対して。
 先ほどから時翔は訊いていいものかどうか、少々悩んでいるのだった。
 実のところ、こちらの方が気になって仕方がなかったとも言える程であり、このまま訊かずにスルーするのは精神衛生上非常によろしくない。
 そういうわけで、
 もう仕様がない。
 時翔は思い切って口にする。
「ニーナさん……って呼んだ方がいいんですかね?」
「な」
 ニーナが目を見開いて固まってしまう。
「ななななな、なんの話でしょう」
 彼女は黎明期の格闘ゲームのポリゴンキャラのような動きで、うろたえまくっている。
「いえ、さっき小耳に挟んじゃって」
 パーティメンバーである時翔には、彼女の会話も筒抜けと言うか、ダダ漏れなのであった。
「そ、それは……」
 彼女は急に真顔になって時翔を睨むように目線を向けた後、
「ダメです」――と、
 きっぱりと宣言する。
「あ、やっぱりまずいんすかね」
 それはそれで道理とも思えた。なにしろ彼女は秘密警察なのだ。身分を隠して行動するべきなのは間違いない。もしかすると、彼女の身に危険が及ぶ事態にならないとも限らないのだ。
 あくまで徹頭徹尾コールサインで通すのが本分であるのだろう。
「でもニーナって、どんな字を書くんですか? カタカナのままとか?」
 ぶっちゃけ、彼女がなんとなく自分の名前にコンプレックスを感じているらしいことは聞きかじっていた。しかしそうなると時翔としては、なおさら親近感が湧いてしまうのであった。
 キラキラネーム仲間として。
 だが、ニーナの反応は冷ややかだった。
「ノーコメントです」
 さっきよりも一段と険しい表情で言うニー、いやドン亀さん。
「んー、でも、いまどき普通じゃないですか、ニーナなんて、それこそ俺や友里に比べたら……」
 ――ん、あれ? 友里の下の名前ってなんだっけ?
 自分の彼女の名前も憶えていないことに戦慄を覚える時翔であった。
「だから、言わないで、その名前を!」
 とうとう強い口調になってしまう白線入り全裸美女アバター。
 ちょっとキャラが崩壊ぎみである。
 こうなると、なんだかもうちょっといじってみたくなる。
「新奈さん?」
「おだまり」
「……え?」
「それ以上我が真名を口にすることは許されません」
 なぜか中二っぽくなってしまった。もうキャラ崩壊し過ぎである。
 しかし本当に本名なのだろうか。
 とすると、ドン亀さんの中身おっさん疑惑はひとまずのところ払拭されたということになるが、さすがに確たる証拠とまでは言い切れない。
 が、ここは素直にそういうことにしておく方がいいだろう。
 その方が夢があるしね。
 そんな時翔のひそやかな安寧をよそに、ぷいと横を向いて黙り込んでしまう、コールサインドン亀さんだった。
 時翔がさすがにフォローを入れようとしたその瞬間。
 爆発音が耳朶を打った。
 慌てて視線を向けた先、それは屋上に設置されているはずの貯水タンクであった。
 が、すでにタンクの面影は消えており、ぺしゃんこにへしゃげている。
 見る間に、大量の水が時翔達の頭上から降り注ぐ。
「きゃ!」
「うわ! な、なんだ!?」
 よくよく見れば――
 タンクが破裂して、配管の残骸を残すのみとなっていた機械室の上に、黒いボディースーツに身を包んだ少年の姿があった。
 つまり、貯水タンクの破裂は攻撃によるものではなく、彼の着地――ハードランディングによってもたらされたのである。
「歓談の邪魔をして悪いが――」
 外連味たっぷりに言いながら、安藤がするりと空中をタップする。
「とりあえず死んでくれたまえ」
 言い終わらないうちに、屋上の半分ほどが校舎の最上階部分と一緒に吹き飛ぶ。
 未曾有の大爆発。
 今度こそ、確実に攻撃魔法による、無差別破壊行為である。
 だが、その刹那、
 時翔達の姿はそこにはなかった。
 僅差で――
 爆煙と、粉塵が巻き起こるその上空に、二人は逃れていた。
 それはもう物理法則を無視するがごとくの大ジャンプ。
 時翔は背中からドン亀さんに抱きかかえられた姿勢で空中へと急上昇中だった。
 実際、安藤の方も地上からこの屋上まで一気にジャンプしてきたわけであり、その重力法則の無視っぷりにおいては、同等と言えるのであろう。
 ともかく……
 超能力合戦の第二幕が切って落とされたことは疑いようもなかった。
 と言うか、思い出した時翔であった。

「あ、わ、わ、落ちる、落ちる落ちる落ちるううう――――」
 背中に感じる柔らかな弾力を堪能する余裕もなく、時翔が悲鳴を上げる。
 いかに重力係数が狂ったワールドであろうとも、ホバリングしているわけではないのである。
 ジャンプの頂点に達した後、今度は下降に転じたのだ。
 しかしながら、その降下速度は実に緩慢であった。この時になって、ようやく時翔は自分たちが加速世界で活動していたことに思い至る。
「大丈夫、落ち着いて! 着地します」
 眼下に見えるのは、安藤によって爆破の憂き目を見た屋上部分、その三階の青空教室となった地点だった。
 そのまま――ずしん、と、
 教室の床に軟着陸を決めるドン亀さん。
 すぐさま、あたふたするばかりの時翔の腕を引き、裏側の廊下に出ると、さらに奧へと遁走する。
「え? ちょ、逃げの、一手なんすか――」
 三十六計逃ぐるに如《し》かず。とは言うけれど。
 ドン亀さんに手を引かれつつ、廊下をひた走りながら時翔が訊く。
「まずは、体勢を、整えましょう――それに、DDスペルは、ターゲット、されなければ、喰らうことは、ありま、せんから――」
 確かにそうだった。いかに瞬時発動のダイレクトダメージ魔法と言えども、目線が通っていなければ命中することはないのだ。たとえターゲットされたとしても、オブジェクトの影に隠れることができれば、そのスペルは空振りさせることができる。地形効果を最大限利用することが対人戦においては、最も重要なテクニックなのだ。
 さすがは有能なエージェント、いやアービターだったか。沈着冷静な判断力には改めて頼もしさを感じてしまう時翔だった。
 廊下を突き当たりまで移動したところで手近の教室に飛び込む。
 ドン亀さんに導かれるまま、教卓を背に身を縮ませた。

 02

 さすがに息が上がっている時翔であったが、ドン亀さんの方はそんな様子もなく落ち着き払っている。
 とりあえず、ホッと一息つく。
 夜の教室は、ここだけを見る限りに於いては平穏な光景を保っていた。
 もちろん、この校舎の一階部分は穴だらけだし、屋上部分は半分ほど吹き飛んでしまっている。もう崩壊寸前とも言える有様なのだ。おまけに校庭は爆撃を受けたようにクレーターだらけであり、近隣の住宅も爆風で少なからぬ損傷を被ってしまっている。
 時翔は頭の隅でちらりと考える。
 これってホントに拡張空間なんだよな――と。
 たとえそうだったとしても、オブジェクトが壊れすぎなんじゃないのかな、と。
 単なるディティールやテクスチャーのオーバーレイだけで、ここまで表現できるものなのだろうか?
 まさか……
 いや、そんなはずはない。その証拠にここには誰の姿もないではないか。きっと現実に戻れば全ては元通りになるはずだ。少なくとも、そう考えなければ気が変になりそうである。
 そういえば……友里はどうしているのだろう。
 ドン亀さんがやられるのを見て、思わず部室を飛び出して屋上に駆け上がってしまったが、あのままさっきのアプリ研部室で縮こまって震えているのだろうか。
 ともあれ、今のところ友里は幸いなことにターゲットからはずされている。
 もちろんドン亀さんもろとも、自分もやられてしまったら、次に狙われるのは友里であるのは間違いないだろうが、現状では身を潜めているのも次善の策としては有りだろう。
 それにしても、やけに大人しくしているものだ。じっとしているのは大の苦手のはずの友里がどうしたことだろう。
 そもそもこちらの会話については、パーティチャットで筒抜けのはずなのだ。もちろんヒットポイントも一目瞭然なわけで、その辺りから類推すれば、おおよそどんな状況に陥っているかは想像できるはずなのだ。なのに、ボイスチャット一つ、メッセージ一つ寄こして来る気配もない。
 もしかして寝てるとか?
 あり得るから怖い。
 あるいは、家に帰ったとか?
 さすがにそれはないだろうが……。
 まぁ、あれほど戦闘行為を拒んでいた友里のことだ、どうにか逃げる算段を巡らしているなんてところだろう。大口を叩く割にはその実、人一倍の小心者なのだ。
 しかしこの調子で校舎の破壊が進めば、二階にあるアプリ研部室も遠からず破壊されるのではないだろうか。そうなると、いくら姿を隠していても発見されるまでもなく、襲われるまでもなく、死亡することになってしまう。
 その辺、ドン亀さんはどう考えているのだろう。
 と、訊いてみると。
「そうですね、こうなってしまっては、仕方ありません。友里さんのことは諦めましょう」
「……は?」
「最悪、死んでしまっても仕様がありません」
 ナチの司令官のごとくに冷酷無比な判断を下す、すっぽんぽん女教師だった。
「ええっ! どういう意味ですか!?」
「つまり、トキさんさえ生きていれば、蘇生できますから」
「マジ?」
 と言うか……友里も自分も生身なんじゃなかったっけ?
 さっきこれはゲームではないのですって言ってたよね?
 そもそも、魔法攻撃を喰らってヒットポイントがゼロになっての死亡というのなら、それはバーチャルな出来事だとは納得できるけれども、建物の爆発に巻き込まれても、がれきの下敷きになっても生身の体にはダメージはないということなんだろうか。
 まぁ確かに校舎のコンクリートの破片には、今のところ当たり判定はないようだけれど。
 と言うか……建物の実体そのものが存在しているのか?
 なんかそっちの方が怪しく思えてきた。
 しっかし、死んでもノープロブレムって……。
 ゲームなんかではよく、ダンジョンの奥深くから戻るのがめんどくさい時、わざと全滅させて城に帰還して、僧侶の魔法で死体を召還《サモン》して復活、なんてことをやっていたけれども、いざ自分がその立場――動かすの面倒だからとりあえず死んどけ、と言われる側に立ってみると、複雑な気持ちだ。
 思えば、ゲームのキャラクターとはいえ、なんという非情なことをやっていたのだろう。今頃になって、駒として扱われるゲームキャラクターの悲哀が分かったような気がする。
 いやあ、本当に悪いことをした。

 などと……意味のない懺悔をしていると……
 突然、教室のスピーカーがハウリング音を立て、校内放送が始まった。
 ――テスターマイク――本日は晴天なり―― なんて。
 しかしこの声は、どう考えても彼である。
 そもそも今この学校には、いや、この学校どころかこの世界には、約四人しか活動していないのだ。
 そして彼曰く。
「手間を掛けさせないでくれたまえ。時間がもったいないだろう?」
 なんの演出か、あるいは示威行為と見るべきか、そんなセリフが流れる。
「気にしないで、トキさん、まずは私の体に耐魔法シールドを全力でお願いします」
「あ、はい、了解です」
 時翔はサンダーレジスト、ファイヤーレジスト、アイスレジスト、と、持てる限りの最上位魔法をドン亀さんに重ね掛けしていく。
 おそらくは、最も効果を期待できるのはサンダー系のレジストアップであろう。
 とにかく、これで100パーセントのダメージが入ることはなくなるはずである。
「反射ダメージシールドも掛けますか?」
「いえ、それは必要ありません」
 まぁ、それはそうかもしれない。
 さっきの戦闘結果を見る限り、直接攻撃ではダメージを与えられないのは明白だからだ。
 とにかくヤツのヒットポイントを削るには間接攻撃あるのみ。言わば足を止めての打ち合い。それもアウトレンジからの遠隔攻撃の応酬しか手はないのだ。
「さあ、行きましょう」
 ドン亀さんが敢然と立ち上がる。
 ところで、あまり急に動くと白線の追従が遅れることがあるので気を付けて欲しい。
 と、そこまで言うとさすがに偽善者っぽいな、なんてことを想う時翔であった。
 だが、こちらから打って出るまでもなく――
 教室の天井が吹き飛んだ。
 爆風で教室内の備品である机や椅子は全て壁際に押しやられ、時翔達は教卓と黒板の間の僅かな隙間で難を逃れる。
「うわっ、なんてことを!」
 どうやら、安藤は校舎内を追いかけっこする気など毛頭なく、とにかく邪魔な障害物を排除するかのごとく、片っ端から破壊していくつもりらしい。
 さながら人間ブルドーザーである。
 時翔が親愛なる母校の受難に怒りを覚えていると、ドン亀さんががれきの転がる教室の真ん中に飛び出していった――
 時翔に大声で指示を飛ばす。
「トキさん、とにかく全力で私をヒールすることだけに集中してください!」
「は、はい!」
「いきます!」
 すでにドン亀さんは、上空から接近する安藤の姿を捉えていた。
 安藤が魔法発動のモーションに入る。
 それはさっき目の当たりにしたばかりの、一撃でドン亀さんを葬り去った、あの魔法だ。
 もはや隠れる場所はない。喰らうしか他に道はないのだ。
 強烈な光輝がドン亀さんの裸体を貫き全身が光り輝く。高周波加熱のごとく体の内部から指先に至るまで身を焼いて行く。魔法の直撃を受けたドン亀さんの周りでは、床板は一瞬にして灰と化し、コンクリートが溶け落ち、階下まで穴を穿つ。
 しかし耐魔法シールドの効果で、そのダメージ量はヒットポイントの10パーセントほどを残して踏みとどまっている。
 意外にも予想以上の効果を上げている。
 そしてどうやら、このクラスのDDスペルとなると、連続発射はできないようである。
 よくよく思いかえしてみれば、さっきの戦闘でも安藤は、このクラスのDDスペルを発動させる前に結構な予備時間を取っていたのを思い出した。
 つまり十分にこちらが活動する時間は用意されているのだ。
 ドン亀さんが階下から飛び上がる。
 時翔はすかさず回復魔法をキャストした。
 完全に回復したところで、今度はドン亀さんがロケットパンチとおっぱいミサイルを同時に繰り出す。
 もちろん安藤のヒットポイントにとっては微々たるダメージ量であったが、向こうには回復役はいないのである。このパターンをタイミングよく繰り返していけば、十分に勝算を見込めるはずだ。
 首尾よく何度かこのパターンを繰り返し、安藤のヒットポイントを三分の一ほど削り取ることに成功した。
 しかし、パターン入ったかに見えたその時、状況が変わった。
 安藤もバカではなかった――クッパ大王のようには行かなかった。
 単純な話である。つまり攻撃のターゲットを変更したのだ。
「邪魔だな」
 時翔に向かって安藤の指先からサンダービームが放たれる。
「ぐは!」
 それは威力的には大したことのない低レベル攻撃魔法ではあったが、時翔のキャラクターであるところのモンクにとっては、致命傷に近いダメージを受けるほどのものであった。もちろん、時翔自身も耐魔法シールドは準備していたものの、元々のヒットポイントが低いわけであり、被害は甚大であった。
「トキさん!」
 ドン亀さんがしまった、という表情で振り返った。
 安藤がすぐさま次弾を発射する構えを見せる。この手の魔法は威力は弱い代わりに比較的連射が効くのである。
 どうやら安藤はファンタジーRPGでの集団戦における戦略、まずは回復役から排除するという、基本中の基本を踏襲する気になったらしい。
 再び安藤の指先からサンダービームが放たれる。
「トキさん、伏せて!」
 叫びながらもドン亀さんの動きは素早かった。後方にいた時翔の体に覆い被さるようにして、サンダービームを自らの体を盾にして――防いだ。
「ひうっ」
「ドン亀さん!」
 背中にビームの直撃を受けて、そのまま時翔と向き合う姿勢で倒れ込む。
 彼女は眉根を寄せながら、痛々しく微笑んで見せる。
「ごめんなさい……こうなることは予想できていたのに、敵の射線を完全にブロックするのは難しいですね……」
 そんな全裸女教師と、コスプレ男子高生の絡みを冷ややかに見ながら、安藤は嘲弄するかのように言う。
「ふん、無駄なことを、その男さえ片づければ、キミらの勝算は微粒子レベルも存在しないのだ」
 言い終わらないうちに、再度発射されるサンダービーム。
 無慈悲この上もなく。
 だが彼女は時翔の体を包み込むようにして魔法からの射線を完全に覆い隠す。
「ひ……! あ……!」
 ドン亀さんの素肌が真っ赤に焼け、火ぶくれが浮き上がった。
 彼女がのけぞった拍子に、その胸に顔をうずめてしまう時翔。
「ど、どんひゃめひゃん!」
「心配しないで……大丈夫……大丈夫……まだまだ大丈夫……でも……このままトキさんを守りきれるかどうか……」
「くっくっく、そいつを庇っていても肝心の自分が力尽きるんじゃないのかね? どちらにしても二人揃っている今の状況ならば、どちらから殺しても同じことだが」
 残念ながら……
 悔しいことにその通りだ。
 そもそも、本来的にはファンタジーRPGの戦闘というものは、対NPCを想定したシステムなのだ。壁役がダメージを引き受け、その後方から遠隔攻撃を入れ、安全な場所から回復役がヒールする。それはヘイトコントロールが可能なNPCのAIだからこそ成立する戦略でもあるのだ。
 はっきり言ってしまえばそれは対人戦には全く通用しない。マジックポイントがヒットポイントやダメージソースに変換される前にシャットアウトしてしまうことが、最も効率の良い戦略だと言えるからだ。
 結局のところ、勝負の行方を決するのは瞬間的な攻撃力、よりダメージの大きな魔法攻撃を、いかに先んじて相手に打ち込むか、そこに収束してしまうのである。
「あわわ……ど、どうしたら」
「と、とにかく今はヒールを……」
「でも……」
「諦めてはダメです! チャンスを待つんです」
 そう言うとドン亀さんは密着させていた体を少し起こし、時翔の手が動かせる程の隙間を作る。
 そうだ……
 まだ諦めるには早すぎる。
 ドン亀さんは、今までもどんな状況に陥ろうと決して投げ出したりしなかったではないか。
 諦めちゃダメだ。
 逃げちゃダメだ。
 最後の最後まで希望を捨てずにベストを尽くすんだ。
 今までずっと、ドン亀さんが身をもって教えてくれたことではないか。
 それに応えねば。
 時翔は胆力を奮い起こし、オーバーレイメニューを展開する。
 時翔の目前にスペルブックが浮かび上がった。
 が、その距離は規格外のバストとほとんど重なっている。
 まるで効果音に、おなじみのちちびんたリカの嬌声が聴こえてきそうな絵ヅラである。
「う、やりにくいっす」
 いくら白線でぼかしが入れられているとは言え、それはトップのみに限定されたマスキングなのだ。むしろフェティッシュな嗜好者から見れば、より扇情的な光景と言えなくもない。こんなところで当たり判定があることが裏目に出るとは予想だにしていなかった。
 しかし、そんなわがままを言っている場合ではないのは明らかである。
 時翔は邪念を振り払い、スペルブックを必死にタップする。
 と。
「あっ……ん……」
 ドン亀さんが眉をしかめてギュッと目をつむる。
「……ドン亀さん?」
「あ、気にしないで、続けてください」
 時翔はさらに激しくワイプする。
「ひっ、ひゃうっ……」
「ちょ、ちょっと、変な声を出さないでください」
「ご、ごめんなさい……その……先っちょが……触れるか触れないかの感じで……こう……きちゃって」
「いや、いやいやいや、解説しなくてもいいですから!」
 しかし……
 うむ、
 触れるか触れないかの感じがよくなかったのかもしれない。
 いっそのこと、もっとがっつり行った方がいいのか?
 むう、それならば仕方がない。
 覚悟を決め、両手を沿えるべく、手の平を前に持っていこうとした――
 その刹那。

 一条の光が生まれた。

 教室の床、
 そこからサーチライトのような光が天を指す。
 それは先ほどの安藤の攻撃魔法により床に開けられた大穴の底からであった。
 その光は虹の七色のごとくグラデーションを見せ、花弁が開くように広がっていく。
 青空教室の床上、数メートルの位置に光の花弁が、やがて大輪の花を咲かせた。
 見れば、
 光の花弁の中心に、一人の少女が後ろ向きで立っていた。
 白とピンク、レースをあしらったティアードスカートがふんわりと広がっている。
 その髪は燃えるようなスカーレットレッド。
 右手には短いステッキを握っている。
 その光景は今までの非現実的なシーンとはまた違った、全くもって幻想的な一幕と言えた。
 まさしくファンタジー世界のごとくに……。
 呆然とその光景を見守るばかりとなってしまう時翔。
 安藤の方もこの唐突な展開に攻撃するのも忘れて目を丸くして固まっている。
 ただ一人ドン亀さんだけが、時翔に覆い被さった後ろ向きの姿勢であるがために、何が起きているのか気づいていなかった。
 やがてゆっくりと少女が首だけを動かす。
 そして時翔達の方を横目で睥睨した。
「なにやってんの、あんたたち」
 その声は地獄の底から響いてくるような、怨嗟の声にも似ていた。

 03

 なにはともあれ。
 シチュエーションだけを見れば、まるでベタなラブコメの修羅場シーンとも言えなくもない状態なのだが、少女の表情は無表情を通り越して能面のようである。
 時翔がわななきながらつぶやく。
「ゆ、友里……」
「え? 友里さん!?」
 時翔の声を聞いたドン亀さんが弾かれたように振り返る。
 ドン亀さんと横目のままの友里の視線がぶつかった。
 すると、友里の表情が一気に険しくなる。
「ドンちゃん、なんで裸なわけ?」
「ち、違うんです、これには深いわけが……」
 ドン亀さんがあたふたしながら、言い訳をしようとする。
「待て友里! おまえは大きな勘違いをしている、大体今までの話を聞いてなかったのか? パーティチャットが切れてたのか?」
 時翔も、なんとかなだめようと言葉を探す。
「は? 知らないよ、パーティチャットオフにしてたし!」
 ――あ、やっぱり?
「だって恐かったんだもん。なのに天井が落ちてきて」
 そう言われてみれば、この三階の教室は、アプリ研部室の真上なのだった。
 図らずも。
「まったく、この世界の天井って落ちてくるためにあるんじゃないかって思うくらいだよ」
 まぁ、二度あることは三度あると言うではないか。
 この際、そんなに怒るほどのことでもないだろう。
 しかし、友里はこちらに真っ直ぐに体を向け、両手を腰に当てて目を細める。
 緊迫した空気が一層密度を増した。
 そして友里が言う。
「ドンちゃん……ウソ吐《つ》いてたんだね」
「……ウソ?」
 ドン亀さんが意味を捉えかねるかのようにそのセリフを復唱する。
「だってウソじゃん、これはゲームじゃないとか、人はいなくても現実世界だとか、死んだら終わりだとか! 全部ウソじゃん!」
「いえ、いえ、そんな! 違います」
 必死に弁明を試みるドン亀さんだが、友里の勢いは止まらない。
 周りをぐるりと見回し、特に破壊のひどい、今や月面のクレーター然となった校庭を指さしながら叫ぶ。
「これのどこがゲームじゃないって言うのさ!」
 ドン亀さんも時翔もびくんと身を竦ませる。
「どっからどう見てもゲームじゃん!」
 花弁の上に乗っかっていることもあるのだが、見下すような尊大な眼差しでさらに大喝する。
「学園異能バトルじゃん――!!」
 う……
 確かに、
 そこまで言われてしまうと……
 時翔も反論できなかった。
 いや、それどころか、
 もうはっきり言って、同感だった。
 だけど……だけど、断じて遊んでたわけじゃない。
 遊んでるようにしか見えないかもしれないけれど。
 それでも――あくまでも、死を賭した闘いだったのは嘘じゃない。
 と、思う。
「お、おい友里、落ち着けって」
 なんとか友里をなだめようと必死の時翔。
 だが友里の方は、完全に頭に血が上っている。
 今度はじろりと時翔の方を睨み付けた。
「ふん、この浮気者」
「だから、誤解だって言ってるだろ」
「不潔だよ、いくらゲームの中だからって、調子に乗って」
「乗ってねーよ!」
 言いつつも両手はドン亀さんの胸部に添えられている。あまり説得力がないことに時翔は気づいていなかった。
「私だけ除けものにして――楽しく遊んでたんだね」
 もうなんとかして欲しい。
 誰でも良いから助けてもらいたい。
 と――ここで、時翔の願いが通じたのか、思い出したようにバトルの敵役であったはずの男が助け船――もとい、割って入る。
「痴話げんかは、その辺にしてもらおうか」
 屋上の縁でこちらを見下ろしながら、安藤がシリアスに言い放つ。
「は? なに? あんたまだいたの?」
 ぞんざいにも程があるセリフでばっさりと切り捨てる友里だった。
 安藤が頬を引きつらせながら瞑目する。その肩は怒りにブルブルと震えていた。
「ふっ……ふふふ、どうやら自分の立場が分かっていないようだな」
「友里さん! 気を付けて!」
 ドン亀さんが必死に叫ぶ。
 しかし安藤は学園異能バトルの敵役としてはあるまじき寡黙さで攻撃を繰り出した。
 先手必勝とばかりに、
 速攻で――!
「死ね!」
 おなじみのサンダービームが安藤の指先から放たれる。
 一瞬、時翔は友里のビッグマウスがその戦闘においても奏功するかのような期待を抱いてしまっていた。
 だが、それは全くの錯誤であった。
 単なる希望的観測であった。
 文句なく――申し分なく全身でサンダービームの洗礼を受け止める赤髪魔法少女。
 ゲーム的演出により、友里の骨格が透けて見えてたりする。
「いたたたあああ……と思ったけど、ん、なんだやっぱりゲームと同じじゃん」
 友里が飄々としながらひらひらスカートの煤を払いのける。
「友里さん! ダメです! 避けて!」
 ドン亀さんが悲壮感たっぷりに懇願するが、友里の方はなんの危機感も漂わせることなく、自分のスペルブックを捲っている。
 しかし、時翔が友里のヒットポイントを確認すると、まさにぎりぎり、なんとか致命傷で済んだとしか言いようのないダメージを被っている。
「ヤッベ!」
 時翔は慌ててフル回復の魔法を友里にキャストする。
 全裸女教師が身悶えしたような気がするが、そんなことには構っていられない。
 たちまち友里の体力は回復するが、当の友里はなんとなく不服そうだ。
「なんかこの魔法、不純物が混じってる気がする」
 細かいなあ。
 それはともかく――友里は、今の今まで死に淵に瀕していたことになんの危機感も抱いていなかった。
 もうこれはゲームだと割り切ってしまっており、恐怖感は完全に麻痺しているようだ。
 しかもなんだか友里特有の、疎外感に敏感に反応する悪い癖があらぬ方向に暴走しつつある。
 って言うか、ドン亀さんはいつまで抱き付いてるつもりなんだろう。
 時翔としても、さすがになんとなく罪悪感らしきものが芽生えそうになっている。
「ドン亀さん、そろそろ離れてもらえませんか?」
「ダメです! トキさんが狙われてしまいます」
 そりゃそうかもしれないけど……
 このままタートル戦法を続けてても、埒が空かないのも確かだ。
 ついでに、友里も怖いし……
 しかしドン亀さんはしばらく思案した後、譲歩案を披露する。
「では、私の背中にくっついてください」
 そう言うとドン亀さんは体を入れ替え、180度回転させると時翔をおんぶする格好で立ち上がった。
「これは……これで恥ずかしいかも」
 全裸女教師におんぶされるスキンヘッド男子高生。
 しかもこの状態で戦うなんて、どうにも見てくれが悪い。もうなんだかドン亀さんが、拝一刀に見えてくる時翔だった。実に渋い喩えで恐縮ではあるが、タートル戦法から子連れ狼戦法に宗旨変えである。
「しっかりつかまっててください」
 ドン亀さんは時翔をよいしょっと背負い直すと、そのまま友里が乗っかっている巨大一輪花の方へとダッシュする。
 しかし――
「来ないで!」
 友里が赤髪を逆立てながら二人に向かって叫ぶ。
「友里!」
「友里さん!」
「来ないでって言ってるの!」
 友里は二人に向かって叩き付けるように叫ぶ。
「私のこと、はみ子にしてたんだから今度は私の番だよ、うん……こっからは――」
 続いて安藤の方へ向き直り、言う。
「私のターンだよ!」
 友里のスカーレットレッドの髪が燃え立ち、ヒラヒラドレスが風に踊る。
 友里の瞳がタウリン120パーセントに煌めいた。
「あんた、そんな魔法使うってことはメイジ?」
 安藤は唐突に投げかけられた問いに狼狽しつつも、ようやく廻ってきた発言権に自我を取り戻したのか、低くセリフを発する。
「ふん、それがどうした。しかしそれは攻撃においてのスキルに過ぎない。防御力はその限りではないぞ」
 ふーん、と首肯する友里。
「やっぱりこれってゲームなんだ……ホント、びびって損しちゃったよ」
 友里の背中から怒りのオーラが沸き立つ。
 ステッキを握る手にこれ以上ないくらいの力がこもっていた。
「それに……どいつもこいつもずるばっかり。そんなら……そんなら、私も遠慮しないよ。課金アイテムならこっちにだってたっぷりあるんだ……やってやろうじゃないのよ――」
 友里は、手にしていたスペルブックの後半間近のページをステッキでタップする。
「遅ればせながら、参戦させてもらうよ――」
 言いながらスペルブックのページを捲る。
「金に物を言わせた――」
 そしてもう一度別のページをタップしながら叫んだ。
「札束での、殴り合いってヤツを――!!」

 光り輝く炎の弾が友里の頭上に出現した。
 さらにもう一回スペルブックをタップする。
 それと同時に、炎の弾が新たに一つ追加される。
 またまたスペルブックをタップする。
 タップ、タップ、タップ、タップ、タップ、タップ、タップする。
 合計10個の炎の弾が友里の頭上で回転を始めた。
 やがて赤髪魔法少女の唇が静かに動く。
「ドラゴンフレア、10連打――」
 抑揚なく友里が発声しながら、ステッキをなぎ払う。
 途端、友里の頭上で回転していた10個の炎の弾が、一斉に安藤の方に向かって飛んでいく。
 炎の弾は安藤に近づくにつれ、その大きさと速度を増しながら、時間差を伴って安藤の体に襲いかかる。
「ぐおっ!」
 まずは土手っ腹に一番手が着弾。
 一気に安藤の体が空中に持ち上げられる。
 すぐさま二番目が頭上から叩き付けられるように命中。
 その次が左側に入ったかと思うとすぐさま右側に命中。
 上下左右から次々に魔法弾が撃ち込まれる。
 安藤の体はほぼ空中に固定されながら、それでも魔法弾の衝撃によって少しずつ浮き上がっていく。
 しかし、逃げることは叶わなかった――避ける術はなかった。
 ダウンすることは許されなかった。
 四方八方から撃ち込まれる合計10発もの魔法弾デンプシーロールによって、安藤の体はもみくちゃにされている。
「な、なんだ、あの魔法は……」
 時翔が呆然とつぶやく。
「あれは……おそらく、あのマジックステッキによる魔法合成技でしょう」
 ドン亀さんが解説役を買って出る。
「元々のドラゴンフレアはAOE――いわゆるエリアオブエフェクトに分類される範囲攻撃魔法のはずだったのです。通常、範囲攻撃魔法は、多数の敵を一気に掃討する用途には最適ですが、高いヒットポイントを持った一体の敵に対しては効率が良いとは言えません。そこで友里さんはドラゴンフレアを最も初歩的な魔法であるファイヤーボールの形に変形させて、その攻撃力を一点に集中させることで、ファイヤーボールの突破力とドラゴンフレアのDPS――つまりダメージパーセコンドを兼ね備えた、全く新しい魔法に生まれ変わらせたのです」
「ええっ? あのステッキってドン亀さんが渡した大人買いアイテムの?」
「そうです、神器級アイテムの一つです。もちろんどの職業でも使えるわけではありませんが」
 なるほど、そう言えば、時翔がもらい受けたアイテム群の中にはそんなアイテムは含まれていなかった。
 しかしながら、友里がそんな戦略的なアイデアをとっさに思いついて、さらにそれを一瞬のうちに実行に移すことができるなんて、意外を通り越して不思議としか言いようがなかった。
 もう、なにかが覚醒したのだろうか。
「あ、いえ、レシピ本も一緒に添付していましたので」
「はは、なあんだ」
「そうなんですよ」
 そんな和やかな狂言回しをよそに、安藤の方はボロボロになった体を屋上の床に横たえている。
 しかし、ヒットポイントの方はと見ると……
 エフェクトの派手さに比べて、さして目減りしていない。
 そうはやすやすとはいかないらしい。
 どころか急激な回復を見せている最中である。
「げっ! あれってもしかして……」
 時翔の懸念を裏付けるかのようにドン亀さんがつぶやく。
「リジェネレーションですね、それも破格量の」
「そんな……」
 すでに安藤のヒットポイントは満タンとなっている。一体いつの間にこんな魔法を自分に掛けていたのか、などと悩むまでもない。友里がぶー垂れていた、さっきの間にである。
 しかしそのことは、彼にとって先刻の時翔とのコンビによるドン亀さんの物理攻撃技は、なんの脅威でもなかったことを意味する。
 要するに余力があることを隠した振る舞い、舐めたプレイ、いわゆる――舐めプだったわけだ。
 それは時翔にとって絶望的な結論であったが、それと同時に導き出される打開策が一つしかないこと示唆していた。
 だとすれば、ヤツを倒す方法は一つしかない。
 回復の暇など一切与えない程の絶対的なダメージ、再生するべき体力を1ドットも残さない程の、文句なしの完全なる死を与える魔法を撃ち込むしかないのだ。
 むくりと起き上がった安藤が首を左右にコキコキと鳴らす。
「なかなかいいマッサージになったな、礼を言っておこう」
 ニンマリとしながら挑発的に言う安藤だった。
「ふーん……言ってくれるよね」
 友里が苦々しげに洩らすが、こちらの方もその態度は余裕綽々だ。
 そんな友里にドン亀さんが懇願するかのように叫ぶ。
「友里さん! 油断しないで! 気を付けて!」
 それもそのはず、今まさに安藤が放とうとしているのは例の一撃必殺DD魔法、いわゆるニュークである。
 一瞬、時翔はレジストアップの魔法を掛けるべきなのか迷ったが、もはや無駄であることも悟っていた。
 あのクラスのDD魔法のダメージ量に対しては、そのダメージ総量の九割方を減じることができたとしても、紙装甲を誇る純粋な攻撃魔法キャラである友里にとって、なんの救済にもならないのだ。
 おそらくは、瞬間的に友里のヒットポイントは底を付く。
 避けようもなく……。
 すでに時翔は蘇生魔法でちゃんと友里を生き返らせることができるんだろうな、なんてことを思っていた。
 いや――と言うよりも、死んだまま放置するのも、やむを得ないのかもしれない、とさえ思っていた。どうにか安藤を倒すことができれば、その後でゆっくり蘇生させれば問題はないし、考えたくはないが、よしんば友里一人生き残ったとしても、ドン亀さんが死んでしまっては、どの道正常ログアウトはできないのだから。
 などと、時翔が戦争ゲーム理論めいたことを考えている内に無情にも事は進んでいく。
 安藤のスペル発動時間が終了し、まばゆい光と共に天空から巨大サンダーが落下する。
 それはもう予想通りの光景としか言いようがない。
 時翔が思わず目を背けたのと、ドン亀さんが地を蹴ったのは、ほとんど同時であった。友里が立っていた光の花弁が一瞬で消し飛び、教室の床が爆散する。
 前回、同じ魔法によって大穴が開いていたところに、再度同じ攻撃が床に命中したおかげで、校舎の三階であるこのフロアは完全に崩落を始める。
「うわああ、友里――――!」
 上空へとジャンプで逃れたドン亀さんの背で時翔が叫ぶ。
 しかし校舎の崩壊はもはや止めることはできなかった。三階部分が二階部分に積み重なり、その二階部分も雪崩のように一階部分を押しつぶして倒壊する。膨大な土煙が巻き起こり、上空の時翔達の視界をも奪っていた。
「ど、ドン亀さん! 校舎が!」
「くっ、ちょっと予想以上の威力です。着地点が見えません――落下ダメージを覚悟してください!」
 ドン亀さんが珍しくネガな情報を時翔に告げる。それは掛け値なしに、よろしくない状況であることを時翔に思い知らせた。
 まさか鉄骨で串刺し? などという縁起でもない想像が時翔の頭をかすめる。
 ジャンプの頂点が過ぎ、落下が始まる。
 時翔は恥も外聞もなくドン亀さんの首っ玉にしがみついた。
 その加速は加速世界の基準から鑑みても緩慢とは言い難いスピードであった。もっともそれは加速に感覚が慣れてきているせいもあるのだが。
 だが、垂直落下がほぼ最高速度に達し、土煙の中に突っ込んだ瞬間、柔らかな感触の中に体が包まれていた。
 ぽすっと。
「な、なんだ?」
 粉塵に霞む空気の中で目を凝らすと、虹色に光る花弁が目に飛び込んできた。
 そこは先ほど友里が立っていた馬鹿でかいデイジーのような花弁の中心、その上に軟着陸を果たしていたのだ。
「あ、あれ? なんで?」
 先ほど友里が立っていた花弁は魔法の直撃を受けて消滅したはずだ。それは時翔もはっきりと目撃している。
 ならばこれは?
 土煙が晴れると周りの状態が次第に確認できた。
 校舎は半分ほど倒壊してしまっているが、時翔達はその中空に浮かんだ花弁の上に立っているのだ。そしてそのすぐ隣、数メートルほど離れた場所にも光の花が咲いており、その上に友里が立っていた。
 花の妖精さんのごとく。
「友里!」
 友里がニヤリと笑う。
「ナイスキャッチでしょ?」

 04

「あ、ああ、友里が作ったのか、この花」
「そ、まぁ、ちょっと保険に作り過ぎちゃったけどね」
 周りはよく見ると同じ光の花が咲き乱れており、さながら空中のお花畑と化している。
 ソーサラーズにおいては、プレイヤーはどれだけレベルが上がろうと、飛行能力を取得することはできない。しかし、高レベル魔法の一つには空中に足場を創り出すことのできる魔法が存在するのである。
「だけど、おまえ、どうやって避けたんだ、DD魔法だったのに」
「そんなの反射神経に決まってるじゃん」
 事も無げに言う友里。
「反射神経?」
「うん、短距離瞬間移動《ブ リ ン ク》で避けたんだよ」
 言いながら梅仁丹ならぬ、ステッキを振るモーションを見せたかと思うと、友里は隣の花の上に移っていた。
 一瞬で――瞬間的に。
 おまけとばかりに、もう一度ステッキを振る。
 今度はまたすぐその隣の花の上に、友里の姿が移動していた。
「ブリンク――かぁ」
 ブリンクスキルは、高レベルの攻撃型魔法使いが取得する最終的な防御スキルである。
 時翔の職業であるところのモンクなどでは、パッシブスキルとしてドッジスキルの発動などを持っていたりするが、ブリンクはそれと違い、自動発動型ではなく、プレイヤーが自ら発動させる必要のあるアクティブスキルなのである。その効果は物理攻撃のみならず、瞬時発動型の魔法発動の僅かなラグを突くことで、DD魔法でさえ避けることができるのだ。その効果は確かに劇的ではあるが、ブリンクのタイミングはプレイヤーの判断に委ねられており、一歩間違えば手遅れ、それどころか、より悲惨な結果を招くことに繋がることもある。この辺は剣技を競うゲームでは重要視される要素ではあるが、ソーサラーズのような、じっくり腰を落ち着けてプレイするタイプのゲームでは、比較的軽視されがちな要素である。
「私って元々マイクロの方が得意な人間だから」
 マイクロってーか、目押しみたいなもんだけどな……
 と心の中で揶揄する時翔であったが、友里の運動能力は低くはないことは認めている時翔であった。
 友里は調子に乗って、花から花へと瞬間移動しまくっているが、およそそんなことをやっている場合ではない。
 やがて土埃が完全に晴れると無惨な校舎の残骸が姿を現した。一階まで倒壊してしまった校舎の向こう半分、辛うじて倒壊を免れたその三階のフロアに彼の姿があった。
 安藤が立っていた。
 不敵に笑いつつ。
「なるほど、ユリくん、キミはなかなかの使い手のようだねえ。しかし逃げてばかりではそっちのお二人さんと大差ないんじゃないのかね?」
「む、失礼なこと言わないでよ、あんなヤツらと一緒にして欲しくないね!」
 あんなヤツらとか言ってやがる……
 ――ん?
 もしかして、友里を見捨てようとしていたのがばれてるのか?
 いや、そんなはずはない。そんな会話はした憶えは……あったかもしれない。
 主にドン亀さんの口からだが。
「ところでさあ、ニュークが本職の職業《クラス》って知ってる?」
 安藤に向かって友里がふてぶてしげに問う。
 安藤は足元の瓦礫を踵で退けながら答えた。
「ああ、知っているとも――およそファンタジーロープレと名が付くゲームでは相場は決まっている。砲台の異名を冠する程の最終兵器……ウィザードだな」
「ピンポーン、で、それって、私のことなんだよねーほら――」
 友里が持ち前のうざい口調を発揮しながら、右手のステッキでスペルブックをタップする。
 瞬間的に安藤の周りの空気が揺らめき燃え上がる。あたかも全方位から火炎放射器を浴びせかけられたように。
「どーん、ってね、ひひっ」
 しかしそのDD魔法は、ニュークと言うにはあまりにも低レベルな攻撃魔法であった。
 おそらく、モーションの大きな高レベルDD魔法を発動させても、友里がやったのと同じようにブリンクで避けられてしまうことが分かっていたためであろう。
 つまり、まぁ――ちょっとした威嚇射撃、と言うよりも挑発行為《タウント》だと言えるだろう。
 友里の職業《クラス》であるウィザードならば、コンプリートスペルブックの魔法を駆使すれば、一撃で葬り去る魔法も登録されているはずだ。先ほど友里が放ったドラゴンフレアなどは、まだまだ序の口の低レベルスペルなのだ。安藤の方も、それを知っていたからこそ、わざと避けることをしなかったのだろう。要するに見切っていたのである。ドン亀さんとの戦闘でブリンクを使わなかったのも同じ理由としか考えられない。
 だけど……、これどうなるんだ?
 これじゃあお互いニュークで敵を即死って戦法は封殺されてしまったようなものではないか。
 お互いがお互いとも決め手を欠く、単なるにらみ合いで終わってしまう。
 あるいは延々と魔法を打ち合い、相手が疲れてミスを犯すまで待ち続けるか、とにかく疲弊してギブアップするまで魔法による殴り合い、回復しあいをひたすら続けるのか、そんなところか?
 もう時翔にはこの後の展開を予測することは不可能に思えてきた。
 だがしかし、友里のいたずらっぽい挨拶レベルの攻撃を受けた安藤が、その小柄な体を思い切り反っくり返らせて哄笑する。
「そうだな、そろそろ本気を出すとするか」
 対する友里もテンションマックスな雰囲気だ。
「そうだね、じゃあこっちもおっぱじめるとするよ」
「遠慮なく」
「当たり前だよ! ガンガンいかせてもらうからね!」
 その宣言を合図に、お互い同時にスペルブックに目を落とす。すでに次の一手は決定しているかのようだった。
 ここからはもう百人一首のごとくの早押し合戦、音ゲーにも似たスタートダッシュである。
 しかし、先手を取ったのは安藤だった。
「まずは、これでどうかな」
 安藤のスペルブックが名状しがたい複雑な彩りの光に包まれている。
 こんな現象は時翔もついぞ見かけたことなどなかった。
 高レベル帯の魔法発動にのみ発生するエフェクトなのだろうか。
 そんなことに思いを巡らす間もなく――
 にわかに暗雲が立ちこめ月を隠した。空気そのものが電気を帯びてきたかのように、あらゆるオブジェクトからスパークが飛び交っている。
 それはまるで、雷雲の中に突入した飛行機の機内のような状態だった。
 周りにあるもの全て、ここに立っている人間全てに、マイナスだかプラスだが知らないが、強烈な電荷が蓄積されていく。それが臨界点を越えようとしたとき、ドン亀さんが叫んだ。
「トキさん! ヒールを!」
「え? ってなんで?」
 DD魔法に対して先行入力ヒールなぞ意味がないとしか思えなかったが、ドン亀さんの指示に反射的に時翔が友里にフルヒールをキャストする。
 それと同時に安藤がつぶやいた。
「チェインサンダー」
 あらゆるオブジェクトに溜まっていた電気が一斉にスパークする。
 その光景は高エネルギー電子加速器がプラズマスパークを発したように、辺り一面をネット状にバーストし、毛細血管のような放電が周囲数十メートルを覆い尽くした。
 あまりの光量、あまりの熱量に感覚が飛び、五感が根こそぎ奪われる。
 辛うじて残っていた校舎の残存部分が一瞬で色を失い、砂の楼閣と化した後、ことごとく崩れ落ちる。それどころか、となりの校舎、プールや体育館までも輪郭を失い崩れ落ちていた。
 ドン亀さんにおんぶされたままの時翔は、そのスキンヘッドに栗色の巻き毛が被さっているという、様にならない風体となっている。
 時翔もドン亀さんも、全身に申し分なくプラズマを浴びることになったが、比較的ヒットポイントが高い上に、レジスト効果を保っていることもあって、少なくないダメージを受けてはいたが、死に至ることはなかった。だが不思議なことに友里までもが生きている。友里にとっては間違いなく瞬殺級のダメージだったはずなのに、ヒットポイントバーの残り数ドットを残して踏ん張っていた。
「あ、あれ? なんで友里が生きてるんだ?」
「よかった、間に合ったようですね」
 ドン亀さんが胸をなで下ろすように言った。
「でも、どうして?」
 時翔が腑に落ちない様子でつぶやく。
「はい、今のはDD魔法ではありませんから」
 ドン亀さんが種明かしをするように説明を開始する。
「もちろん、友里さんのキャラに高レベル範囲攻撃魔法に耐えうるだけのヒットポイントは備わっていません。しかし今しがた受けた攻撃はDD魔法ではなく、範囲攻撃魔法だったのです。範囲攻撃魔法はDD魔法のように瞬時に体力を奪う物ではありません。この場合ダメージを受ける前から体力回復の魔法を発動させておけば回復効果の発動中にポイント残量を超えるダメージを受けたとしても、死亡する前に必ず僅かなヒットポイントの回復を得ることができますから、死ぬことはないのです。そう……タルキウスを追い抜くことができないアキレスのごとく」
「そ、そうなんだ……」
 まるで、システムのピンホールを付くようなこすい技である。
 とは思えたが、そうでもないのかもしれない。
 やはり、MMO-RPGは情報戦。
 知識量こそが最大の生き残りスキルなのだ。
 もてる情報の多寡こそが、アバターを操る本人のスキルレベル、いわゆるプレイヤースキルそのものなのである。
 やはり、ドン亀さんは頼りになる。
 時翔の敬服の眼差しを受け止めるドン亀さんの横顔は、相変わらず満開の笑みを保っていた。
 七色に輝く花弁をバックにしていることもあるのだが。
 そうなのだ、不思議なことに時翔達が乗っかっている魔法の花弁の効力は失われていない。
 しかし、眼下に広がるのは茫漠とした廃墟、木場倉学園高校の成れの果てであった。
 瞬間的な攻撃力こそDD魔法には及ばないが、範囲攻撃が及ぼすエフェクトに関しては、こちらの魔法の方がはるかに影響力が高いとも言えるだろう。
「でも、今の魔法って一体何系の魔法だったんだ?」
「今のは――サンダーとは名ばかりの魔法、要するに強烈な中性子線による崩壊ですね」
 ドン亀さんがまたまた解説を加える。
「放射線も雷属性なんすね……」
 そう言われてみると、そうかもしれないと思える時翔であった。
「あれ? でも安藤はヒールで死亡を回避できることは知らなかったんですかね?」
「いえ、知っていたと思います。しかも、DD魔法ではブリンクで避けられてしまいますから……だからこそ瞬間移動では避けきれないAOE攻撃魔法、それを使ったということでしょう」
「となると……友里の方も?」
「ええ、もちろん対抗策としてはそうするしかないでしょう。それに友里さんは攻撃魔法に特化したウィザード。DD魔法に頼らなくとも充分な破壊力を持ったスペルを備えているはずです」
 安藤の方はと見れば、校舎の残骸と思しき数メートル大のコンクリート板の上に乗って、空中に静止している。友里と同じく、足場を創り出す魔法の一種なのであろう。嫣然とした態度でこちらを見下している。
 ドン亀さんがさらに言葉を繋ぐ。
「それに、彼の狙いは友里さんを倒すことではありません。もちろん当面の障害は友里さんなのは間違いありませんが、彼が本当に排除したいのはトキさん、あなたです。だからこそ範囲攻撃魔法を使っているのでしょう」
 確かにそうだ。友里だけを倒したとしても蘇生魔法で復活させられてしまうのは自明の理だ。
 安藤としても、そのくらいは計算できていて当然だと言える。
 かといって、友里だけを残してとんずらこくわけにもいかない。
 さすがにそれはできない。
 どの道今は友里の魔法だけが頼りなのだ。こうなった以上、被ダメージ量がマジックポイントの回復に追いつかなくなった時、そこに至った時がこちらの敗北ということだ。
 しかし分が悪いのも事実だ。
 範囲攻撃魔法では、一発でこちら全員のヒットポイントが等量分削られていくのだ。ドン亀さんや、自分は大したダメージ量ではなくとも、友里にとっては瀕死レベルのダメージとなってしまう。結局はそれを見越してフルチャージのヒールをキャストする羽目になってしまうのだ。安全策を採るしかない以上、コストパフォーマンスは悪くとも、その方針を変えるわけにはいかない。
 ここに来て友里頼みというのも情けない話でもあるし、実際不本意でもあるのだが、もう背に腹は代えられない。なんとか頑張ってもらうしかない。
 その友里は花弁の上で尻餅をついている。
「ふー、死ぬかと思ったけど忠実な下僕のおかげで復活できたよ」
 頼みの綱の友里が立ち上がりながら、ふざけたことをのたまう。
「でも、おかげでパワーアップしたみたいな気がするよ」
 などと……
 おまえはどこぞの戦闘民族の王子なのか? とツッコミを入れてしまうデン……いや時翔だった。
「じゃ、今度は私の番だね、なんかワクワクしてきたよ」
 今度はなんだか下級戦士っぽいセリフであるが、キャラ的には近しいイメージで能天気に友里が言う。
 とにかくもう完全にゲーム感覚である。これほどの破壊を目の当たりにしながらなんの恐怖も感じていないところが恐ろしい。
 いや、逆か。
 壊滅的な光景であるからこそ現実味を失っているのだろう。
 もしも今この状態が、現実に起きたできことだとすれば、その被害総額は十数億円に達するはずだ。なにしろ学校一つを丸ごと消滅させてしまったのである。社会的に見ても掛け値なしのテロ行為、破防法の適用は免れないところだ。
 しかしまぁ、こうなってしまえばスッキリしたものである。
 見渡す限りの瓦礫の山、いかにもゲーム然としたバトルフィールドではないか。ゲーム的に言うならば、さながら廃墟ステージといったところだ。
 ひとまずのところ、半径数100メートルに渡って壊れるべき物は壊れ尽くしたとみなしてもいいだろう。いくら頭ではCGだと分かってはいても、心臓に悪い特撮シーンを、これ以上見せられることがないのであれば、ある意味安心である。
 だが……
 この後、時翔のそのもくろみは、もろくも崩れ去ることとなる。
 思い切り思い知る事になる。
 どう見積もっても、甘過ぎる見積もりであったことを。

 06

「とりあえず、次はこの辺かなあ」
 友里が――どれにしようかな、といったノリでスペルをチョイスしている。
 高次魔法の詠唱には予備時間が長めに設定されている。しかも、一度それを放った後は強制インターバルが発生するのだ。次に魔法を使用できるまでの時間、俗に言うクールダウン時間が必要となる。
 従って、連続発射はできない。
 いきおい、そうなってくると、昔懐かしいターン制のオフラインRPGのごとく、代わり番子に攻撃を繰り出すことになるというわけである。
「ふん、いくらウィザードだろうと、今の私を倒せる魔法など有りはしない」
「さーあ、どうかな? とりあえず、見たことも聞いたことのないような魔法が、いっぱい載ってるみたいだよ、このスペルブック」
「ま、どうでもいいが、早くしないとこっちのクールダウンが終わってしまうぞ」
「うるさいなあ……うーん……でも出し惜しみしてもしょうがないよね」
 そう言うと友里はスペルブックの最後のページをタップした。
 惜しげもなく。
 友里のオーバーレイ視界の左側に巨大なバーが出現する。それはエネルギーのチャージメーター、魔法の威力を表すカラーバーであった。
 友里がステッキを両手で持ち、体の前に突き出す。
 友里の周りに光の粒子が漂い始めた。
 空気中の水蒸気が凝固して降り注ぐがごとく、次々と結晶化している。それは空間中のエネルギーが視覚化したことを示しているのだ。やがてそれらが友里の体を包み込み、渦巻きながら収束を開始する。
「さあ、一気に決めさせてもらうよ!」
 そう言いながらも友里は仁王立ちだ。
「あ、あれって、まさかのチャージタイプ?」
 時翔が虚を突かれたかのようにつぶやいた。
「そのようですね、私も見るのは初めてですが……」
 ドン亀さんが阿吽の呼吸を心得た解説者のごとく、コメントを引き継ぐ。
 だが友里は相変わらずステッキを握り締めたまま安藤を睨んでいる。
 まだまだチャージを続けるつもりらしい。
 さすがは最終魔法と言うべきか……。
 友里の目に映るチャージメーターがジワジワと上がっていく。
「でも早く撃たないと反撃喰らうんじゃ……」
「そうですね……オンラインマニュアルが正しければ、チェインサンダーのクールダウン時間は3分間。その後のスペル発動時間のラグを計算に入れてもせいぜい4分位しかありません」
「後何分位残ってるんですか?」
「170秒切りました」
「ということは、まだ大丈夫か……」
「でも、発射のラグもあるでしょうから、余裕を見て30秒前には撃たないといけません」
「そっすか……」
 この場の全員が固まったまま、じりじりと時間だけが過ぎる。
 30秒経過、残り140秒。
 しかし友里はまだ動かない。
 一体いつまでチャージを続ける気なんだ。
 それはいいとして、
 安藤の方も反撃に出る様子はない。
 腕組みをしたまま友里を見据え、コンクリートの浮島の上にあぐらを掻いている。
 クールダウン時間の縛りがある以上、魔法攻撃はできないにしても、物理攻撃による詠唱の妨害――いわゆるインタラプトはできるはずだ。
 一体どういうことだ?
 もしかしてヒーローの変身中や必殺技のモーション中には攻撃しないという、悪役の暗黙の掟を自らに課してでもいるのか?
 いや、
 そうではなかろう。
 どう考えてもあれは舐めプ、絶対に倒されないという自信の現れなのだ。
 だとするとヤツもゲーム感覚なのだろうか。友里同様に。
 いやいや、
 それも違う。
 ヤツの絶対的な上から目線を鑑みるに、獲物を弄ぶハンターの気分なのかもしれない。
 そうだ、
 ヤツにとって俺たちは獲物《ゲーム》に過ぎないのだ。
 だとすると……
 時翔が行き詰まる空気に絶えられなくなったかのように叫ぶ。
「くっ、友里! もういいからぶっ放せ!」
「ダメ! まだエネルギー25パーセントしか溜まってない!」
「マジかよ」
「今撃っても、28サンチ榴弾砲くらいの威力しかないって書いてある!」
 なんだそりゃ? でもけっこう強そうなネーミングじゃないか。単位もちゃんとフランス語読みだし。
 と言うよりも危なげな響きだぞ、いろんな意味で。
 いくら人間砲台、ウィザードといえどもそのまんま過ぎる。
「もうちょっとで50パーセントいくから!」
「そ、それって、どれぐらいの威力なんだ?」
 おそらくは興味本位で訊いてしまう時翔。
 横顔を見せた友里が力のこもった声で言う。
「94式45口径46センチ砲――!!」
「……そっか、だいぶ大きくなったな」
 単位も英語読みになったし。
 つーか、実はミリオタだったのか、友里。
 まぁ、友里に罪はないのだろう。そこはおふざけ好きな制作スタッフにもの申すべきである。
「残り60秒を切りました!」
 ドン亀さんが思い出したようにカウントダウンを報告する。
「まだか! 友里!」
「ダメ! 今やっとショックカノンになったくらい!」
 両足をさらに踏ん張りながら友里が唸るように低く応える。
 ぉおーう……随分時代が飛んだな。
 でも名前のインパクトは弱くなってるよな。
「もうちょっとで80パーセントいく!」
 どうあっても100パーセント溜める気らしい。
 だけど、どうやらタイムリミットには間に合いそうだ。こうなったら黙って見ているしか手はない。
 友里を取り巻くエネルギーの球は今や弾けんばかりに膨らんでいる。もう最初の10倍位の大きさにはなっているだろう。見ているだけで熱が伝わり、顔が火照ってくる。
「今、ティロフィナーレくらいだから!」
 訊いてもいないのに律儀に報告してくれる友里。
 しかも、なんだかツッコミたくもない路線変更である。
 しかしやがて、
「きた!」と、友里が小さく洩らす。
 その時、どこからともなく声が聞こえてきた。
『エネルギー充填100パーセント――』
 ようやくエネルギーのチャージが終わったことを告げるアナウンス。
 なかなかの親切設計である。
 しかもそのアナウンスは、なんだが渋い声であった。あたかも老練の現場技師といった印象を受ける。
 おまけに世界観も元に戻ってきた気がする。
 とにもかくにも、いよいよ機は熟したようだ。
 しかしどうしたことか、友里のヤツはまだ動かない。
 何やってるんだ?
 寝てるんじゃないだろうな?
 それよりも時間は大丈夫なのか?
「残り時間30秒を切りました」
「やばっ! もうさっさと撃っちまえ友里!」
「ダメ! もっと引き付けてからだよ!」
 適当なことを言いながら、まだ時間を稼ぐつもりの友里だった。
 ふと気がつくと、夜の町を覆っていた家々の明かりが次々と消えていく。
 なんだ? このあたりは早寝早起きの人が多いのか?
 いやいや、今この世界には、学校跡の空中に浮かぶ、お花畑の三人と、空中に浮いた瓦礫の上に立つ少年を合わせて合計四人の人間しか活動していないのだった。
 家々の明かりもそうだが、数少ない街灯も歩調を合わせるかのように消えていく。
 校舎三階の高さから見るチバラギシティ第二区が、木場倉学園高校の跡地を中心に、徐々にその暗闇の輪を広げつつあった。
「どうやら周辺のエネルギーも取り込んでいっているようですね」
 ドン亀さんが、潮が引いていくように後退していく街の光を見ながら言う。
 なんともまぁ、どこまでも近所迷惑な話である。
『エネルギー充填120パーセント――』
「友里! 早く撃て! 機関長に怒られるぞ」
「残り時間10秒です!」
 切羽詰まった声でドン亀さんが叫ぶ。
 しかし友里はまだ動かない。
「いい加減にしろ! 友里!」
『エネルギー充填140パーセント――』
 頑固オヤジの声が語気を強める。
「そ、そろそろかな……よし!」
 ユーハブ、アイハブ。
 操縦系統が友里の手に委ねられる。
「総員、耐ショック、耐閃光防御」
 言いながら友里が真っ黒なゴーグルを装着する。時翔達がそれに続く。
 防眩シールドでもなく、ゴーグルということは、どうやらソーサラーズのスタッフはファーストシリーズ原理主義であるらしい。
 さすがにここに来て、安藤がゆっくりと立ち上がった。
 しかし、立ち上がったものの、微動だにもしていない。
 完全に余裕の態度である。
 友里の手にしていたステッキがピストルのような形に変形を遂げる。
 ピストル型照準機の上部に付いたクロスサイトが、立ちつくす安藤の姿を捉えた。
 続いて友里の手にしていたピストルがぐおんと前に伸びる。
 間髪を入れず、伸びるに合わせて銃身の直径が何十倍かに拡大される。
 銃身の下部から、二本の野太い銃座が展開し、花弁の上に着地した。
 ついに深いライフリングが刻まれた巨大な銃口が姿を見せた。
 その銃口、いや砲口に蛍の群れのように舞い踊るイオン粒子が集まり、次々に奥へと吸い込まれていく。
 そして……
 友里がトリガーを引き絞りながら腹の底から叫んだ。
「ヤマトキャノン、ほっしゃあああぁぁぁぁぁぁぁ」
 膨大なエネルギーの柱が砲口からほとばしり出る。
 大気を切り裂き、稲妻のエフェクトを纏いながらそのエネルギー柱が真っ直ぐ安藤を飲み込んだ。
 瞬間、安藤の姿は消し飛ぶように見えなくなる。およそバラバラになって蒸発でもしたようにしか見えなかった。
 しかしそれで終わりというわけにはいかなかった。
 ほとんどゴミのようなターゲットを屠っただけのエネルギー柱は勢いを減ずることもなく、後方の市街を水平に――一直線に削っていく。
 凄まじい高熱のため、エネルギーに触れた建物は、瞬間的に蒸発し、消滅する。
 それでもなお勢いは衰えることなく、後方の山並みを貫通したあげく、完全に変形させた後、ようやく視界から消え去った。
 幸運だったのは、地表に沿って発射されたということだろう。もしも地面に直撃していたとしたら、想像を絶する破壊を地殻表面にもたらしたはずである。その弾道上にあるものはジュピターズゴーストであろうと昇天は免れなかったかもしれない。
「これって……」 
 赤黒く焼けただれた地面が、一本の絨毯のように視界の果てまで続いていた。その周辺では、市街地が揺らめく炎を上げてなおも延焼中だ。火の手は空を焦がし、燃え盛る建物からはとめどなく黒煙が上がっている。すでにこの学校跡地も劫火に囲まれており、高く立ち昇る煙のカーテンと降り注ぐ火の粉で視界がどんどん狭められつつあった。
 しかし……
「これがCG……?」
 時翔が虚脱状態でつぶやく。
 とても信じられなかった。
 ドン亀さんの背中に背負われていなかったら、花弁の上にへたり込んでいたかもしれない。ここまで行くともうテロ行為どころの騒ぎではない。都市一つを焼き尽くす、地球的規模の破壊行為ではないか。
「大丈夫」
 ドン亀さんがやにわに口を開く。
 だが、その表情は時翔からは見えない。ただ静かに不断の信条を自らに刻むかのように――いつもの定型句を繰り返すドン亀さんだった。
「ただのエフェクトですから」
「……それは、解っちゃいるけど、なんでここまでのグラフィックを用意する必要があるのか理解できないっす」
「いえ、こんなものは単なるフラクタル映像技術や流体シミュレータの演算結果に過ぎません」
「マジっすか……」
「それよりも」
 ドン亀さんが空中を睨む。それはヤツが立っていた位置、こちらとほぼ同じ高さ、今は亡き校舎の破片が浮かんでいた――安藤が浮かんでいた場所である。
 果たしてそこには、先ほどよりも小さくはあるが、岩の欠片が浮かんでおり、それを足がかりに少年が立っていた。
「安藤!」
 時翔が思わず叫ぶ。
「どうやら、力及ばずだったようです」
 ドン亀さんが苦々しく言うと、安藤が余裕の笑みを見せた。
「ま、そういうことだ。体を温めるには丁度良い温風だったよ、ふふ」
「くっ! くそ」
 時翔が迫り来る危険に全身の皮膚を粟立てながら洩らす。
 が、そこに、気の抜けるような声がかぶる。
「へえ、やっぱり、そっか」
 時翔達の少し前に浮かぶ巨大デイジー、その花弁の上で友里がお尻をはたきながら立ち上がる。
「やっぱ、AOEだとあれかあ――」
 手にしたステッキをくるくるとバトンのように回しながら友里が言う。
「弾幕薄いんだよねー、広がっちゃうから」
 そうなのだ。そこは認めざるを得ないところだ。これ程の災厄をもたらしたエネルギー量であろうとも、瞬間的なダメージに換算してしまえば――ピンポイントに限ってしまえば、その総量は非常に希薄な物となってしまう。
 つまり、エネルギーの無駄遣いだったわけだ。
 やはり、範囲攻撃魔法では一撃必殺なんて無理な話だったのか……。
 しかもさっきの魔法は友里にとっての最終奥義、ウィザードとしての最高レベルの魔法だったはずだ。そうなるともはや打つ手はない。
 絶望的な気分に打ちひしがれる時翔であった。
 だけども友里はさしたるショックを受けている様子はない。
 どういうことだ?
 まさかまだ何か奥の手があるというのだろうか。
「では、こちらの番かな?」
 安藤が満を持していたかのごとく、呪文を詠唱する。いや、スペルブックをタップする。
「トキさん! ヒールを!」
 時翔が慌ててヒール魔法をタップする。
 次もAOE魔法だとすれば、先付けでヒールを撃っておく必要がある。たとえ今現在友里のヒットポイントが満タンであろうと関係ないのだ。
 しかしそうは言ってもマジックポイントの回復量にも限度がある。クールダウン時間をフルに使ったとしても、マジックポイントはフルにはならない。少しずつ目減りしていく――いつかは破綻する自転車操業なのだ。
「くっ……お次はなんだ? またぞろさっきと同じ中性子線魔法か?」
 時翔が思わず吐き出す。
 そうであったとしても、手痛いダメージであることは間違いない。なにしろこちらのメンバー三人ともにヒールをかけ続けなければならないのだ。自分は当たり前として、ドン亀さんを見殺しにするわけにはいかない。そんなことをすれば、範囲攻撃魔法を喰らうまでもなく、DD魔法で時翔は瞬殺されてしまうからだ。そしてもちろん友里を見殺しにすることもできない。今や頼みの綱、唯一のダメージソースであるのだから。
 だが、その友里の魔法も打ち止めだ――頭打ちだ。
 ヤツを瞬殺できない以上、こちらに勝機は見えない。
 だけど……止めることはできない。
 破綻することが分かり切っていたとしても。
 今さら諦めは付けられない!
 やがて……
 安藤が呪文詠唱を完了する。
 だが、どういうわけか何事も起きない。
 なんと、
 彼が詠唱したのはセルフバフ、シールド魔法だったのだ。
 時翔がキャストしたヒールは全くの無駄撃ちだったわけである。安藤のフェイントに完全に引っかかったと言えるだろう。なにしろ、自分のマジックポイントをほとんど消費することなくこちらのマジックポイントを削り取ることができたわけである。敵ながらあっぱれな頭脳プレイと言わざるをえない。
「どうだ、もう充分思い知っただろう? これ以上の抵抗は無駄なことだと。お遊びはそろそろ終わりにしようじゃないか」
 ゲームオーバー。
 そう言いたいのか……
「このままゲームを続けていても私を倒すことはできない。それこそ時間の無駄だ」
 確かに……
 そうかもしれない……
 だけど、どうせ死ぬなら同じことではないか。やれるところまでやるべきなんじゃないのか? それでもダメなら、そこで諦めがつくってものじゃないか。
 でも一体どうすれば……
 時翔は混乱し次の一手、次の一歩を完全に見失っていた。
 その時。
『トッキー、ドンちゃん、聞こえる?』
 唐突に友里の声が響く。
 リバーブが掛かった音声で。
 これは……
 ウィスパーチャット!
『はい、聞こえています』
 ドン亀さんがすかさず返答する。
『なんだ、どうするつもりなんだ?』
 時翔の方は一人ごちるように洩らしてしまう。
『うん、そっか、じゃあさ、ドンちゃんに訊きたいんだけど』
 友里の声は落ち着き払っている。しかも安藤に気取られないようにするためだろうか、わざとらしくスペルブックを手荒く捲る動作をしながらの交信である。
『なんでしょう』
『ドンちゃん、ハダカってことは、もしかしてあれ持ってるんだよね』
『あれですか……』
『うん、あれ』
『もちろん持っています』
 ドン亀さんは以心伝心とばかりに話が通じている風だ。
 なんだ? あれって……
 時翔にはまだ思い至らないばかりか、なんとなく久しぶりに女同士の会話に置いてけぼりを喰らった気分である。
『じゃあさ、三つ数えたらそっちにブリンクするから、手渡してよ』
『は、はい――了解です』
『じゃ、いくよ、さん、にい、いち――』
 友里のカウントダウンが終わると同時に目の前に友里の姿が出現した。
 ブリンクでジャンプしてきた。
 次の瞬間、全裸だったドン亀さんの体に下着が装着される。
 残念、じゃなくて……え? これってまさか!
 呆気に取られている時翔をよそに場面は急展開を見せる。
『やった! これで解除できるよ――』
 友里が嬉々として叫ぶ。
『スペルブックの袋とじが!』

 07

 おいおい、
 解除って……
 R18アンロックキーのことか。
 突如、友里のスペルブックがなまめかしいピンク色の光を放ち始める。
 解除キーってピンクのしおりだったのか?
 などと思う間もなく、
「めてお☆インパクト!」と、
 友里がタップと同時に叫ぶ。
 スペル宣言であるその言葉はもはやウィスパーチャットではなかった。
 廃墟の学校跡に響き渡るほどの絶叫であった。
「まだなにかするつもりなのかね」
 安藤が虚を突かれた顔をしながらも、辟易とした声で言う。
「当たり前だよ! まだ終わってないんだから! まだ遊び尽くしてなんかないんだからね!」
 友里が安藤に向かって人さし指を差し向ける。
 びしっと。
「ここからが本当の――大人の遊びだよ!」
 今さら言うまでもなく、友里は16歳である。しかしここには垢バンを行使するGMは存在しないのだ。
 まさに無法地帯。
 力だけが放縦する野獣都市なのだ。
 金の力かもしれないが。
 安藤はそんな友里を見据え、肩をすくめながら言う。
「やれやれ、まだ時間を無駄にしようと言うのかね。いい加減にして欲しいんだが」
「ふん、そんなセリフはあれを喰らってからにしなよ!」
 そう言えば、すでに魔法は発動しているのだった。
 友里のヤツ、さっきなんて言ったっけ?
 時翔が考えながらも友里が指さした方向を見上げる。
 空の一点を。
 ここで時翔は言葉を失った。
 メテオが接近しつつあった。
 隕石が視界を覆いつつあった。
 速度にして時速七万二千キロ。
 直径にして400キロ。
 その大きさは本州の幅をも超える。
 最初の方こそ、大気に触れた隕石の下部が鈍く光を放っているのが確認できたが、それもすぐに空を覆い尽くす隕石の黒い影で距離感を失った。
 衝突地点は本州中央部。
 つまりここ――
 暗転。
 すでに時翔のカメラビューは赤道上空三万五千キロの位置にあった。
 今まさに巨大隕石が地表に衝突する瞬間である。
 衝突と同時に厚さ10キロの地殻が丸ごとめくり上げられている。
 地殻津波の発生である。
 衝突から数十秒のうちに日本列島は完全に粉砕されていく。
 地殻津波に張り付いた水深数千メートルの海もまるで薄皮のように見えた。
 一辺が一キロもある巨大な破片が、衝撃波の拡散と共に巻きあがっていく。
 砕かれた破片は高さ数千キロ、大気圏を突き抜けて宇宙空間まで達した後、再び隕石となって地表に降り注ぐ。
 隕石本体の衝突によるクレーターの縁は高さ七千メートル。エベレスト級の山脈のようである。
 そのクレーターの直径は四千キロ。
 中国大陸のかなりの部分を飲み込む大きさである。
 しかしここまではこの災厄のほんの入り口に過ぎなかった。
 隕石の衝突直後、宇宙から見たクレーターの中心に異変の主役が現れる。
 灼熱色に輝く巨大な塊。
 気体になった岩石、岩石蒸気の出現である。
 その量はざっと一千億メガトン。
 ドーム状になった後、押し出されるように一気にあらゆる方向に広がっていく。
 温度四千度の熱風が風速四百メートルで駆け抜けるのだ。
 二時間後には、岩石蒸気はヒマラヤ山脈に到達し、雪は川を作る間もなく瞬時に溶けて蒸発していく。
 そして衝突から一日で地球の裏側に当たるアマゾンにまで到達する。
 地球上の有りとあらゆる木は瞬時に燃え上がり、地球は灼熱の岩石蒸気に覆い尽くされた火の玉となる。
 岩石蒸気が地表を覆い尽くしている期間はおよそ一年間。
 その間に太平洋も大西洋も全て干上がり、そこに生物の姿を見つけることはできないであろう。
 というわけで。
 再びの暗転。
 ここは隕石の落下地点。
 灼熱の熱波が支配する世界である。クレーターの中心は溶けた岩石で見渡す限り視界を覆っている。その溶岩ドームの上空になおも光の花が咲き、その上に時翔達三人が立っていた。
「わーすごーい」
 時翔が鼻白んだセリフを発する。
 無論、時翔達は何のダメージも受けていない。
 それもそのはず、友里が放ったのは敵対NPC及び敵対プレイヤーにのみ当たり判定が存在する攻撃魔法なのである。フレンドリーファイヤーは無効となっているのだ。たとえそれが四千度の灼熱地獄であろうとスプラッシュダメージさえも発生しない。
 そうは言っても、四千度と言えば、ほぼ太陽表面に匹敵する温度である。もはやこんなところで自分が生きていることが、ことさら現実感を希薄にさせる遠因であろうと時翔は思うのだった。
 しかし……
 やったのか?
 それが肝心なところだ。
 足下はどろどろに溶けた溶岩の地面が果てもなく広がっている。時翔が生まれ育った街どころか、日本列島さえも存在しないのだ。
 今や海陸の境界でさえ判別不可能である。
 そんな中、時翔は目を凝らして安藤の姿を探す。死んでくれたのだろうか、蒸発してくれたのだろうか?
 だが、その願いも虚しく。
 相変わらず安藤は空中に浮かんだ岩の上に立っていた。
 平気の平左で。
「今のはちょっと痛かったよ」
 などと――
 まるでラスボスのごときセリフを吐きながらである。
 岩をも溶かす高温の最中にありながら、安藤が足場にしている岩は崩壊する気配はない。もっともそれは、魔法により現出させたオブジェクトであれば不思議なことではないのだ。時翔達が乗っかっている花弁も同じように健在であるのだから。
 だが、彼のセリフに反して、安藤のヒットポイントは目減りを見せている――およそ半減している。
 しかもリジェネレーションによる回復を見せていない。
 これは? どういうことだ? 効果が切れたのだろうか……
「どうやら、この魔法は持続ダメージを持っているようですね」
 黒ブラ、黒ショーツ姿のドン亀さんが重々しくつぶやく。
 もちろん今のドン亀さんのコスチュームであるところの下着は、この灼熱の高温下においても健在である。彼女のアバターはR18アンロックキーを友里に譲渡した時点で、通常の全年齢版リアリティーレベルに戻っているのだ。
 だからと言って友里のコスチュームが燃え尽きているということではない。いかに見た目が派手な魔法であろうと、フレンドリーファイヤ無効のcoopゲームであるソーサラーズにおいては、ダメージを受けることはないのだ。
 さすがに少々のスプラッシュダメージは被るにしても、ダメージャブルアバターのアンロックを行わない限りそんな事態は発生しない。
 友里の着ているいかにも熱に弱そうなひらひら魔法少女ドレスも、至って綺麗なままだ。
 それについては、安藤の黒色ボディースーツも同様である。
 つまり、見た目にはどの程度のダメージ量なのかは測れない。
 だが、ダメージを被っていることはターゲットフォーカスしてみればそのヒットポイントで一目瞭然なのだ。
 それにしても……
「持続ダメージ?」
「はい、通称で言うところのDOT、ダメージオーバータイムの効果を持っているようです」
 つまり、DOTによるダメージ量と、リジェネレーションによる回復量が拮抗している状態であるらしい。
 さすがはウィザードの最終魔法を越える魔法の面目躍如といったところか。
 魔法発動時の派手な演出はあくまでお飾りであり、実質的にはその後の持続ダメージの方がメインということなのだ。
 もしもこのままで、安藤のリジェネレーションが切れればヤツに死をもたらすことも可能かもしれない。
「でも、いつまで続くんですかね、この魔法の効果って」
「分かりません、もしかしたら一年間は続くのかも……」
 いや、そこまでは続かない気がする。
 そのころにはソーサラーズのサービスも終わってるかもしれないし。
 残念ながらソーサラーズは、サービス末期の気配濃厚なのである。なにしろその世界観の迷走っぷりを目の当たりにしている最中なのだから……。
 この世界は基本的にはメンテナンスレイヤーであるらしいが、戦闘システムにおいてはソーサラーズのシステムをオーバーレイしている。もしもソーサラーズのサービスが停止することになれば全ては霧散し、通常のメンテナンスレイヤーの風景に戻るはずである。
 多分……。
 そう信じるしかない時翔であった。
 とにかく、そのためにはこの魔法インフレ合戦、と言うか友里の一方的な魔法連打になってはいるが、なんとか安藤を倒し、この戦いに勝利するしかない。
 どう足掻いてもそれしか方法はないのだ。
 時翔の隣に立つ友里は口をへの字に曲げて、腕組みをしながら安藤を睨んでいる。
「ふん、負け惜しみ言っちゃって――結構喰らってるクセに!」
「おやおや、この程度の攻撃で私を倒せるとでも思ったのかね」
 安藤が鷹揚に言いながら、青色の液体の入った小瓶を取り出し、飲み干す。
 あっという間に安藤のヒットポイントは全回復を果たした。
 やはり、だめか……
 いかに強力な継続ダメージが入り続けようと、行動の自由が確保されている限りにおいて、みすみす自らのヒットポイントがゼロになるまでじっとしていてくれるはずがないのだ。
 座して死を待ってくれるはずはないのだ。
 やはり、一撃必殺のダメージを与える攻撃が必須。結局そこに回帰してしまう。
 だがしかし、さっきのはウィザードの最終奥義を越える超絶魔法だったはずである。それが通用しないとなると、今度こそ本当に打つ手がないのではなかろうか。
 そもそも……
 安藤はインチキをしているのだ。
 チートキャラなのだ。
 いくら超絶的な高性能を誇る魔法攻撃であろうと、所詮は正規品の範疇での話なのだ。元から無理がある戦いなのではないのか?
 どれほど金に物を言わせた課金アイテムであろうと、一般ルールを越えるスペックを持つチートキャラに対しては歯が立たないのではないのだろうか。そう考えるしかない程、安藤の防御力は一線を画している。越えてはいけないラインを越えてしまっている。
「やっぱり……無理なんじゃ……」
 時翔のつぶやきにドン亀さんが応じる。
 ここに来ても、動揺を見せることなく。
「トキさん、バキュラという敵キャラをご存じですか」
「……いえ」
「そうですか、ゼビウスという有名な縦スクロールシューティングゲームの敵キャラなのですが」
「それは聞いたことあるかもです……でも、それが何か……」
「バキュラは空中を回転しながら浮遊する壁であり、一見すると単なる障害物で破壊することは不可能に思えるのですが、実は256発ザッパーを撃ち込むことで破壊できると噂されていたのです」
「256発……」
「もちろん、自機が発射する対空弾であるところのザッパーは三連射しかできない上に、ゲーム画面自体が強制スクロールですから、物理的に256発もの弾を当てることは不可能なのです。ですからそれは単なる噂、言ってしまえば都市伝説のような物だったのです。ゼビウスのプラットフォームであるシステムがZ80という8ビットプロセッサを使用していたがために、そのような憶測を生んでしまったのです」
「……はあ」
「しかしこの考えには、ある真理が隠されているのです」
「そうなんですか……」
「ええ、たとえ破壊不可能としか思えない敵であろうと、必ず破壊されるに足る条件を備えている、ということです」
 ここでドン亀さんは少し間をおいて言う。
「無敵でなければ」
 いや、無敵なんじゃないの? と思ってしまう時翔だったが、それならば最初からダメージ自体を受け付けないはずだ、ということにも思い当たる。
 しかも、本来coopゲームであるはずのソーサラーズにおいては、プレイヤー間には基本的に当たり判定さえも存在していない。
 手っ取り早く言ってしまえば、自分に対して受ける攻撃はすべてフレンドリーファイア扱いとしてしまえばいいのだ。
 システムに対してハッキングを行っているはずの安藤がその絶対的とも言える条件を行使しないのは、そこに超えられないセキュリティが立ちはだかっているということなのだろう。
「だから、必ず倒せるはずなのです。どれ程高い防御力、膨大なヒットポイントを持っていようと」
「そうっすか……」
 そこまで断言されてしまうと、もはや言い返す言葉もない。
 だけど……
 まだ手はあるのだろうか。
「大丈夫、さっきのが最終魔法ではありませんから」
 ドン亀さんが毅然とした口調のまま重大発表をする。
「そうなんだ……」
 友里の方は、ドン亀さんの長口舌など耳に入っていない様子で安藤の方を睨んでいる。
「い、今のはちょっと手加減してあげたんだよ!」
 地球上の全ての生物を根絶やしにしたばかりの友里が、苦しい言い訳をする。
 しかし、やはりそうなのか……
 まだ上があるということなのか。
「わかったよ……もう頭にきた――もう後悔しても遅いからね――」
 友里が赤髪(アホ毛)を直立させて叫ぶ。
「やっちゃうからね――!」
 友里が袋とじを開いたスペルブックのページを、さらにひと捲りする。
 どうやら友里が持つスペルブック――その袋とじにはさらに強力な魔法が登録されているらしい。しかも安藤がダメージ回復を行っている間に友里のクールダウンも終わっているようである。
「スーパーノバくらいしす!」
 友里が大音声と共にスペルブックを叩き付けるようにタップした。

 07

 ――またそっち系っすか。
 時翔としては、もう天体ショーシリーズにはいささかの免疫ができかけているとも言えた。
 しかし考えてみれば我が太陽系の主星である太陽は、超新星爆発するには質量が足りないはずである。そんなことはお構いなしに魔法と言うことで無理矢理爆発させるつもりなのだろうか。それとも近々爆発の可能性が高いと言われるベテルギウスでも爆発させるんだろうか。そうだとしても、確率が低いと言われるガンマ線バーストが地球を襲おうと、すでにここには影響を受けるべき生物の姿は残ってはいないのだ。それよりも問題なのは雷属性の魔法の使い手である安藤にとっては、大したダメージは期待できないということだ。
 なにしろ放射線も雷属性であるらしいからね。
 などと、老婆心な事を考えていた時翔だったが、友里のとぼけたセリフで一気に腰が砕ける。
「ところでスーパーノバってなんだっけ?」
「おい! 知らずに使ったのかよ!」
「だって英語苦手なんだもん」
 逆切れぎみに言う友里。
「いや、物理は得意なんじゃなかったのかよ……」
「私が得意なのは、周期表だけだっつーの!」
 友里が思い切り胸を張りつつ言う。
 そうだっけ? 一応熱力学の第二法則も憶えてなかったか?
 しかしながら、そんな友里の高校生勉学台所事情にはお構いなしに魔法が発動を開始する。
 超新星爆発魔法とやらが。
 赤熱した光を放っている大地の果て、その地平線が暁光のごとき赤い光を纏い始める。見る間にその光は白く変わり、空を覆い尽くすと、地上の溶岩を強烈な光で照らし始めた。およそこの光は地平線の下に隠れているはずの天体、その膨張による発光エネルギーの増大を示していると考えて失当ではなかろう。どうやらこの魔法効果としては、最も手っ取り早い方法、時翔が最初に考えた単純にして強引な方法を選択したらしい。
 つまり、太陽が急激な膨張を開始しているらしかった。
 有無を言わさず視界が白一色に覆われる。その後はもう上も下も判別が着かない世界。ただエネルギーの放埓の真っ只中に放り込まれた感覚だけがなんとか意識の片隅に残るだけの時間が過ぎていく。
 暗転ならぬ明転。
 気が付けば時翔の視点は地球軌道上の外周辺りに移動していた。
 時翔は内惑星軌道方面、つまり太陽の方角に目を向ける。
 太陽はまずは物理法則に則った挙動、赤色巨星に変容しつつあった。見る見るうちに金星軌道付近まで膨張した太陽は、水星と金星を飲み込み、地球の間近に迫るほどの大きさに成長を果たす。いや正確に言うならばそれは老齢を迎えた恒星の姿、老獪をさらす姿なのだ。実際、見かけ上の等級は暗くなりつつある。喩えるならば水素という燃料を使い果たした、燃え尽きようとする焚き火なのだ。そしてやがては自らの質量によって収縮を余儀なくされる。増大した自己を支えきれずに己を押しつぶすことになるのだ。老いた巨人のごとくに。
 老人は夢に殺される。
 老齢を迎えた恒星は自らが生み出した元素により押しつぶされるのである。
 核融合反応の産声を上げたその時から、やがて輝かしい青年期もいつの間にか過ぎ去り、後に残るのは嵩張るばかりのヘリウムとなる。まるで潰えた夢の残滓のように……。
 しかし太陽にはヘリウムを核融合させるだけの質量など持ち合わせていないのだ。もしもこのまま物理法則に従うならば自重で収縮を始め、白色矮星に変じるはずである。少なくとも時翔はそう教わった記憶がある。
 だが――
 忘れてはならない。
 ここは魔法が跋扈するファンタジー世界なのである。
 ファンタジー。
 物語。
 伝説、伝承、言い伝え。
 その歴史は人類が言葉を生み出す遙か以前にまで祖を溯る。
 せいぜい百数十年の歴史しか持たない宇宙物理学など足下にも及ばないのだ。
 従って、太陽は爆発するのである。
 いや、爆発した。
 あっさりと。
 その刹那、爆発の中心部では超高温、超高圧の世界が生まれる。
 爆発の圧力により、太陽が生前は成し得なかった新たな核融合反応が開始する。
 水兵リーベ僕の舟。
 凄まじい圧力の中、熱核融合によって新たな元素が次々と生み出されていく。
 しかし、爆発自体はあっという間に終焉を迎えた。爆発により圧縮したガスも即座に拡散を始め、ニュートリノと共に外宇宙への旅に就く。それらは宇宙に広がり、また新たな生命の源となるのだ。
 もちろん地球を始めとする内惑星は一瞬で蒸発した。
 木星以遠の外惑星は太陽という求心力を失い、それどころか、太陽系というテリトリーさえも失った惑星群は、これも外宇宙への旅を始めるのである。
 解散!
 とばかりに。
 すべてが終わったあと……
 太陽が残したガスの漂う宇宙空間に時翔達は、ただ漂っていた。
 重力という縛りを失ったおかげであろうか、彼らを支えていた光の花弁も今は跡形もなく吹き飛んでいる。もっともそんな物は必要もないのである。今や上も下もない宇宙空間、太陽のない太陽系の跡地に浮かんでいるのであるから。
 太陽のない世界。
 真っ暗である。
 しかしそこはゲーム的演出ということなのだろうか、まるで各人が自照しているかのごとく存在を確認することができた。そもそも時翔はドン亀さんの背中におんぶされたままなのである。もうすっかりドン亀さんの背中は時翔にとっての安住の地となりつつある。このままだと幼児退行してしまいかねない。
 まぁ、そんなことより宇宙空間で生存していられる方がどうかと思うのだが、本来地上を舞台にしたゲームであるソーサラーズには宇宙空間マップは存在しないのだ。従って呼吸の要素も実装されておらず、気圧、気温などの要素は地上となんら変わりないと考えていいのだろう。とりあえず重力だけが失われた状態なのは間違いないのだが、移動に関しては、歩くモーションを行うことで、いささか頼りないが行動は可能であった。
 そして超新星爆発という高温高圧の世界を全身で受け止めたにもかかわらず、友里を含めた三人とも全くの無傷であった。
 友里は時翔の目の前に逆さまになって宙を漂っている。
 しかも腕組みをして仏頂面を見せているのであった。
 その理由は単純明快である。
 友里が見据える先、そこには安藤の姿があったからだ。
 ヤツの方もすでに足場にしていた岩もなく、真っ暗な宇宙空間を漂っていた。
 その表情は予想通り、もう見飽きたかと思えるほどの余裕の笑み――ではなかった――違っていた。
 時翔達と同じく、見た目にはなんのダメージも見受けられない健在っぷりであったが、視界オーバーレイのターゲットマーカーを安藤にフォーカスしてみれば、ヒットポイントは激減しており、どう見ても残り10パーセントを切っていたのだ。
 安藤が低く唸った。
「い、今のは、死ぬかと思ったよ……」
 思ったんだ……さすがに。
 安藤は目も虚ろで、大の字状態のまま、全身を細かく痙攣させている。
 どう見ても安藤のアバターは大破しているとしか思えない。
 しかも、リジェネレーションによる回復も作動していないようである。
「ドン亀さん! 今なら――あいつ、もう一押しで倒せるんじゃ!」
「くっ……」
 だが、彼女は躊躇していた。
 今の状況としては、友里はクールダウンに入ってしまっているため、今すぐに次の攻撃魔法を繰り出すことはできない。かと言って、自分が近接攻撃《ミリー》に転じたとしても瞬時に攻撃魔法を繰り出せる安藤の前には、時翔が絶好のターゲットとなってしまう。
 この戦闘の勝利条件を達成するためには、基本的に三人揃っての生存が不可欠なのだ。そのためには、最悪でも戦闘終了時に時翔が生存していることが大前提である。
 だから時翔が魔法攻撃の洗礼にさらされるわけにはいかない。
 それだけは看過できない。
 いや、しかし……
「撃てますか! ドン亀さん!」
 時翔がここで苦悩中の彼女に期待の水を向ける。
「そ、それが、だめなんです」
 ドン亀さんが悲壮に叫ぶ。
「え、あ、もしかして!」
「そうなんです、アンロックキーを友里さんに渡してしまったので」
 R18アンロックキーは今や友里の所有物となっているのだ。もちろん再度ダウンロードすることはドン亀さんには可能であろうが、今はそんな時間的余裕がない。
 したがって強力な身体欠損遠隔攻撃は不可能なのだ。
「と、とにかくできる限りのことをやってみます」
 ドン亀さんはそう言うと、時翔を背中に背負ったままロケットランチャーを取り出しラウンチする。
 時翔の肩にも発射の衝撃がどすんと伝わってくる。
 ところが、ここで友里が振り返り叫んだ。
「やめてよ!」
 友里の表情には抗議の色が浮かんでいる。
 しかし時すでに遅しである。ミサイルはここに来てようやくふさわしい背景を得たように力強く、かつ、頼もしくもホーミング軌道に乗っている。
 そしてふらふらと宙をさまよっていた安藤の体に見事に命中。ミサイルは地上にいた時と同じように爆煙が発生し、安藤を包み込んだ。
「やったのか……? 今度こそ」
 時翔は爆煙が晴れるのを目を凝らしてじっと待った。
 一面の星空を背景に、ようやく爆煙が薄まる。
 微かに姿を現した安藤の体にマーカーをフォーカスしてみる。
 が、視界オーバーレイに表示された安藤のヒットポイントは、残り数パーセントとなってはいたものの、それでも死に至らしめることはできなかった。
 未だしぶとく生きていた。
「すみませんすみませんすみません、私の力不足のせいで――」
 ドン亀さんが大げさすぎるほど申し訳なさそうに謝辞を述べる。
「いえっ、今度は俺が――」
 時翔がスペルブックを捲り、モンクとしては最高レベルの攻撃魔法に当たりを付けようとした、その時。
「だからやめてって言ってるの!」
 友里がひときわヒステリックに叫んだ。
「何言ってんだ友里! チャンスじゃないか!」
「まだだよ……」
「友里……」
「まだ残ってるんだ……最終魔法が……」
「おまえ!」
「やらせてよ! とことんまで――!」
「バカ! できるんならやらせてやるよ! だけど無理だろうが! さっき魔法使ったばっかりなんだから!」
「だ、だから、ちょっと待ってくれれば……」
 友里が少々焦りつつ言う。
 クールダウンが終了するまでは次の魔法が使えないことは、友里自身も承知しているのだ。
 すぐさま撃てないのは友里にも分かってはいるのだ。
「そんなこと言ってる場合かよ!」
 時翔の方も思いきり噛みつく。
 なにしろ千載一遇のチャンスなのである。もたもたしていたら、とっくにクールダウンが終わっているであろう安藤の反撃を受けてしまう。
 だが……
 そもそもにおいて安藤の様子がおかしい。
 落ち着いてヤツを観察してみるに、一向に次の行動に出る気配がない。
 手足をだらりと宇宙空間に伸ばしたまま。漂うに任せている。
「どうなってんだ?」
 時翔が不審げに洩らす。
「もしかすると……」
 ドン亀さんがはたと気づいた風に解説口調に切り替わった。
「先ほどの魔法の効果が持続しているようです」
「え? 持続って、またDOT――すか?」
 そう言えば安藤が自分自身に発動させているはずのリジェネレーションによるヒットポイント回復が起きていない。それを鑑みれば、まさしくそうとしか考えられなかった。
「はい、それに加えて、どうやら硬直《スタン》の効果も持っているようです」
「硬直……ってつまり麻痺して動けないってことか……」
「ええ、DOT、スタン、パラライズの効果も同時に与える魔法だったようです」
 まぁ、はっきり言ってしまえば、どれもこれも地味な効用ではある。
 ど派手な攻撃エフェクトに比べれば、おまけのようなものと言っても過言ではない。
 しかし、今ここに至っては大勢を決するに余りある程のギミックなのだ。
 強大なダメージ量に加えて水も漏らさぬ程のアフターサービス。さすがは袋とじ最強クラスの魔法としか言いようがない。この硬直効果がどれくらい保つのかは定かではないが、もはや勝負は決したと言っても間違いはなかろう。たとえ今すぐに硬直が解けたとしても、安藤が体力回復――攻撃魔法の手順を踏む前に、こちらの攻撃が先制できることは火を見るより明らかなのだ。
 時翔はなにはともあれドン亀さんにヒールを施す。これで艦砲射撃による削りの準備は万端整ったわけである。後は撃ち込むのみ――なのだが。
「もうちょっとで、クールダウン終わるから!」
 友里が両手を拡げ、頑としてドン亀さんの前に立ちはだかる。
「友里! もういいって! 後ちょっとで終わるんだ!」
 時翔が説得を試みるも友里は動こうとしない。
「なに言ってんのさ、その油断が命取りなんだよ」
「油断じゃねえよ! ここはコンボだっつーの!」
「………………」
 だが、友里は宙を漂う安藤の方見据えて黙り込む。
「友里!」
「……次が最後なんだ」
 ぽつりとつぶやく友里。
「見たいと思わない? ウィザードの最終最後の魔法攻撃」
「う……そりゃ、まぁ、少しは……でももうそんな大ダメージ魔法攻撃は必要ないんだ、見りゃ分かるだろ?」
「違うね、ドラゴンはスライムを倒すのにも全力を尽くすんだよ」
「ここにきてそれかよ……」
 友里の全身から禍々しくも名状しがたいオーラが沸き立っている。
 この状態の友里を止めることはもはや時翔には不可能と思えた。
 しかし――
 ここで、惰性運動していただけの安藤の体に変化が起きる。
 指先がぴくりと動き、目だけをこちらに向けながら言う。
「……どうした、とどめを刺さんのか?」
 このセリフ……
 どうやら安藤も観念しているということだろうか。
 難攻不落と思われた彼の防御も今や瓦解寸前。
 スライム呼ばわりのていたらくである。
 もうここは有終の美を飾らせるべく、さっさととどめを刺すのが武士の情けというものだろう。
 長い長い戦いもついに終焉の時を迎えようとしているのだ。
 いやあ、本当に長かった。
 一体何時間戦っているのだろう。現実世界では朝になっていたりして。
 などと感慨にふける時翔だったが、ドン亀さんの背中からは離れようとしないのであった。
 ――油断は命取りになるらしいからね。
「待ってなよ、もうすぐだから――さ」
 友里がひときわ不敵に洩らす。
 太陽系を消滅させてしまった魔法を越えるさらにその上の上位魔法。どう考えてもそれは引き続き天文学的ダメージ量を与える宇宙的イベントであるのは間違いない。特に天文少年というわけでもない時翔としては具体的には特定できないが、およそ科学番組のCGでしかお目にかかれないような一大カタストロフィというところだろう。
 まぁはっきり言って、ここまで来ると次も度肝を抜かれると言うほどのことでもなさそうだ。
 正直、感覚の麻痺、慣れっこになってしまった感がある。
 ところがここでドン亀さんがハッとした様子で言う。
「友里さん、その魔法ってもしかして……」
 ドン亀さんが友里のスペルブックを慌ててのぞき込む。
 見る見るうちにドン亀さんの顔が青ざめていった。
「ダメです! その系統のアイコンは、危険です!」
「えっ、危険って……なんで?」
 時翔はその警鐘に不意を突かれたように瞠目する。
 が、友里の方はドン亀さんの言葉なぞ意に介さず、瞑目しながら精神集中している。
 危険って、どういうことだ?
 そもそも何に対して危険が及ぶというのだろうか。
 土台、協力プレイゲームであるソーサラーズでは、味方の魔法は仲間にダメージを及ぼさない。それはこれまでの破天荒な魔法攻撃に於いても厳守されてきた基本ルールである。唯一可能性があるとすればスプラッシュダメージくらいだろうが、それが即死級のダメージに至るのはあり得ないことだ。
 いや、待てよ……
 まさか!
「クールダウン終了! んじゃいくよ――!」
 友里が高々とスペルブックを構え、右手でステッキを振り上げる。
「友里さん! いけません! その魔法は――」
 ドン亀さんが友里のステッキを掴もうと手を延ばしつつ叫ぶ。
「ハームタッチ系ですからぁぁ――――!!」
 が、友里はするりとかわしてモーションを続行した。
「ビッグバンあたーっく!」
 友里がそのドクロマークのアイコンである最終魔法をタップする。
 タップしてしまった。
 発動させてしまった。
 危険ではあるが、
 恐ろしく強力で――
 そしてそれ以上に……やっかいな魔法を。





 第九章 レストレーション

 01

「友里ちゃん、友里ちゃんってば、なにぼーっとしてるの」
「え? ああ、うん、私なにしてたんだっけ?」
「どうしちゃったの? 貧血?」
 友里が顔を上げると、そこには体操着姿の女の子が友里を見下ろして立っていた。
 あれ……
 ここは……?
 そうだ……
 今は体育の授業中だったんだ。
 一人で体育館の床の上に開脚し、思い切りつま先に手を延ばしたところで気が遠くなり掛けていたのだ。うん、確かにそうだ。
 でも、
「えっと……あんた、だれだっけ?」
「いやだなあ、まだ憶えてくれてないの? 桃果《ももか》だよ」
 友里に声を掛けてきたのはクラスメイトの新田井桃果《にったいももか》だった。
「あ、そうだっけ、ゴメン、人の名前憶えるの苦手で」
「あはっ、冗談だよ、だって友里ちゃん転校してきてまだ一週間だもん、しょうがないよ」
 桃果はしゃがみ込むと、友里に向かって屈託なく笑った。
「うん、いや、まぁ、私も冗談だよ、憶えてるに決まってるじゃん」
 なにしろ体操着のゼッケンにもでっかく書いてあるしね。
「あ、ひっどーい!」
 桃果は目を丸くして怒っているが、少しも恐くはない。童顔の上に元々目が大きいこともあるけれども、目尻が垂れているので全体的に緩い雰囲気の方が勝っているからだ。
 友里はそれ以上は取り合わず、もう一度開脚前屈をやってみる。
 いててて……
 それにしても固い体だ。
 友里の指先は足首までにも届いていない。
 他の女子生徒はと見れば、仲の良い二人組でペアになって背中の押しっこをしている。見渡す限りひとりでやっているのは友里だけであった。
 どういう恣意的人員編成のなせるワザか、こうしたペアで行う活動では、まず間違いなく最後の一人としてあぶれるのが友里の常であるのだ。
 友里とペアを組む人間がいるとすれば、それは先生の役目であるが、その先生の姿も今は見えない。
 桃果はブルマのずれをさりげなく直しながら、友里に向かって微笑んでいる。
 胸の近くまで伸ばしたロングヘアには赤いリボンが巻かれていた。
 ――中二にしてリボン。
 友里の感覚を持ってしても、それはちょっと痛々しさを醸し出す以上の効果はないだろうと断言できる種類のアイテムだ。今時こんな少女チックなおしゃれをしている女子生徒など桃果以外にはひとりもいない。
「ほんと、びっくりだよ」
 友里がため息混じりに言う。
「なにが?」
「う……ん、いやいや、自分の体の固さが」
「ふふっ、変なの。じゃ私が背中押してあげるよ」
 そう言うと桃果は友里の肩に両手を沿えた。
「い、いいよ、別に」
「いいから、いいから」
「あんたはペアの人いないの?」
「うん、私もあぶれちゃって」
「へえ……」
「じゃ、いくよ、それっと」
「いたいいたい、もう無理、ギブだよギブ」
「だめーっ」
「ぎゃー!」


 友里が今の中学に転校してきたのは二年の二学期初めのことだった。
 いつものことだが、クラスに馴染めない友里に、なにかと粉を掛けてくる唯一の子、それがこの新田井桃果だった。
 この子……まぁ、はっきり言ってしまえば、典型的なぼっちなのだ。いじめを受けているのかどうか、そこまではよく知らないが、ほとんど他のクラスメイトと話すこともなく、いつも一人で本を読んでいるような大人しい子だ。
 ま、見込まれたってヤツだろう。
 友里くらいの転校エキスパートともなると、こんなことはいつものパターンにして、おなじみのイベントなのである。
 クラスのヒエラルキー最底辺のお眼鏡に叶う転校生、それが自分だったということなのだ。
 リア充、キョロ充、ぼっち、ソロ充。
 ほんとに日本人ってのはカテゴライズ好きな人種だと思う。
 それでも強いて桃果を当て嵌めるとするならば、キョロ充というところだろうか。
 人付き合いは苦手なクセに、一人になるのは妙に不安で、とりあえず誰かと居れば安心する。
 そんなところだろう。
 だけど、その気持ちは解る。
 友里にしたって、一人が好きなわけじゃない。
 もっと子供の頃、小学生くらいの時には転校先で仲の良い友だちができていたように思う。
 でも、転校して離れてみれば、音信不通。
 小学生の付き合いなんてそんなもんだ。
 それより何より最大の問題は、友里家の引っ越しは、概ね半年サイクルで決行されるということだった。さすがの友里も小学生の高学年になる頃はそんな父親の職業に疑問を呈したこともあったけれども、所詮は保護者の庇護下にある身なのだ。異議申し立てはできなかった。
 だから、友だちなんて作っても無駄。
 エネルギーの無駄遣いなんだ。
 最初から持っていなければ、なくす物もない。
 当たり前の話だ。
 そんな風に構えていると、実際誰も寄って来なくなるものなのだ。誰しもめんどくさいことには関わりたくないのだろう。ぼっちと呼びたいなら、そう呼べばいい。別に間違いじゃない。
 でも、
 できればソロ充でいたいとは思うけれども……。

「よーし、この前の答案返すから、呼ばれた者は取りに来るように」
 数学の時間、背は低いクセに、妙にマッチョな数学教師が不吉な命令を宣告した。
 体型はクマっぽいのに口の周りに生やしている髭が不快感を催させる。
 友里はこの数学教師が嫌いだ。
 もちろん数学も嫌いだが、数学が嫌いだから教師も嫌いなのか、教師が嫌いだから数学が嫌いなのか、まぁ、どっちでもいいことだ。多分両方なのだろう。
 一人また一人と名前が呼ばれ、教卓まで自分の答案用紙を取りに行く。
 答案用紙が返される順番は回収された時の順番、つまり席順通りなのだ。
 そんなわけで次が友里の番――のはずだが、友里の名前は呼ばれなかった。
 代わりに、
「次、天才」
 と、数学教師が言う。
 まじめくさった顔で。茶化した風でもなく――だ。
「どうした天才」
 と、教師は友里の方を見据えながら、再度呼ぶ。
 不吉な予感は確信に変わっていた。
 友里は立ち上がり、半笑いの表情で教卓まで行き、答案を受け取る。
 0点であった。
 見事なまでの。
「いいか、みんな――」
 教師が眉一つ動かさず教室中の生徒に向かって言う。
「バカと天才は紙一重と言うだろう?」
 教室中がしんと静まり返っている。
 あろうことか、笑いを洩らす者は一人もいなかった。
 つまり、
 誰一人としてフォローする気はないということだ。
 なんだか、めまいがしてきた。
 教師の声がこだまのように遠くから聞こえてくる。
「俺には分かる、こいつは本物の天才だ。そうだな? 友里」
「は、はは……」
 友里はへづらうような笑いで応えるのがやっとだった。
 もう勘弁して欲しい。
 ただでさえ苦手な科目に加えて、今回などは、まったく習った憶えのない項目からの出題だったのだ。そのくらい考慮に入れてくれてもいいはずではないのだろうか。
 そりゃまぁ、0点ってのはひどすぎるだろうけど。
 とにかく、それもこれも転校という苛烈な運命の結果なのだ。
 わざわざクラス中のさらし者にすることなんてないではないか。
 このクソ教師、丸まっちい体型しやがって。
 陰険ティディベアと呼んでやろうか。
 おかげさまで、しばらくは天才≠ェ、自分のニックネームとなることは確定だろう。
 友里が答案を握りしめ、ふらつく足取りで自分の席に戻る。
 誰かが「天才だったんだ」と小声で言う。
 うるせえっつーの。
 じゃなくて……はやすならもっと派手にやってくれっつーの。
 友里は、針のむしろに座らされる気持ちで自分の席に着いた。
 教室内は特にざわつくこともなく、全員の答案が返されると粛々と授業が開始する。
 もちろん、その後の授業内容など頭に入るはずもない。
 ひたすら虚無の時間が過ぎていくのみだった。

 数学の授業が終わり、休み時間。
 さっそく友里の席に桃果がやってきた。
「友里ちゃん、気にしない方が良いよ」
 神妙な顔つきで桃果が言う。
「あの先生、あんなイヤミばっかり言う人だから」
 型どおりと言うべき慰めの言葉を掛けてくれるが、平均点以上の点数の人間に言われても気持ちは収まらない友里だった。
 そう――
 どうせ口だけなのだ。
 この子にしたって、どうせ内心はバカにしてるに決まってるのだ。
「いいんだ……どうせバカなんだから――」
 友里は投げやりに吐き出す。
「天才的なバカなんだから」
「そんなことないよ!」
 桃果は諫めるように眉根を寄せて言った後、頬をゆるませてから友里を真っ直ぐに見つめる。垂れ目かつ大きな瞳がキラキラと光っている。
「だって友里ちゃん、国語はすごいできるじゃない、朗読も上手だしすごいよ」
「え? あ、ああ……まぁ、ね……本読むのは昔から好きだったから、それだけだよ」
「そうだ! ね、今度一緒に数学の勉強しよう。私もそんなに数学が得意な方じゃないけど、一緒にやればきっとはかどるよ、それでね、私は現国苦手だから、かわりに教えて欲しいな」
「い、いやだよ……」
「どうして?」
「どうしてって……どうせ、またしばらくしたら転校する事になるんだ、やっても無駄だよ」
「そんなことない! きっと役に立つよ」
「もうほっといてよ!」
 友里は教室を飛び出してしまう。
「友里ちゃん!」


 昼休みになると、性懲りもなく桃果がにこにこしながら友里に声を掛けて来た。
「一緒にごはん食べない?」
 その手にはナプキンに包まれた小振りな弁当箱がぶら下がっている。
「食べない」
 けんもほろろに返す友里。
 ――なんで女子ってヤツは人とごはん食べることにこんなに拘るのだろう。
 たかが胃袋を満たすだけの行為だってーのに。
 憮然としたまま机から動かない友里だった。
「友里ちゃんもお弁当?」
 めげることなく、食い下がる桃果。
 しかし友里はだまってカバンの中から本日の昼食を取り出して机の上に置いた。
 カップラーメン。
 一瞬ひるむ桃果だったが、
「……あ、ラーメンなんだ、私も好きかな、ラーメン」
 と、硬い笑顔で応えた。
「ふーん、私はあんまり好きじゃないけど、これ安物だし」
「そうなの? でも今のインスタントって、結構おいしいよね」
「だったら、交換する? そのお弁当と」
 友里が僅かに気色ばみながら言う。
「え? うん、いいよ……あ、でも一緒に食べてくれるんだ、うれしい」
 零れそうな笑みを浮かべながら桃果が自分の弁当を友里に手渡した。
 他の席に出張中の所有者に了解を取り付けると、友里の前の席をくっつけて向かいに陣取る。
 友里の前には桃果のお弁当。
 桃果の前にはカップラーメン。
 桃果は目の前に置かれたカップラーメンの上蓋を眺めてみる。
「なに味のラーメンかなぁ」
 上蓋のラベルには味をイメージした写真がデザインされていた。
「え? 犬……?」
 桃果の頬が引きつる。
「うん、赤犬だよ、それ輸入物の安物だから」
 よく見れば、ラベルにはハングル文字が印刷されている。
「そ、そうなんだ……でも、おいしいかも……」
「まずいよ」
「そ、そんなことないよ、だって友里ちゃんがくれたラーメンだもん、きっとおいしいよ」
 桃果は意を決したように給湯器でお湯を入れて席に戻ってくる。
 フタのすき間から漏れる湯気を、虚ろな眼差しで見つめている桃果。
 ふと気が付いたように目を上げると、友里に向かって言う。
「あ、先に食べてて」
「そう?」
 友里が割り箸をぱちんと割る。
「じゃ、遠慮なく、いただきます」と、弁当箱のフタを開ける友里。
 その中身は、いかにも女子のお弁当といった彩り豊かな献立であった。早速パクつく友里。
 と、思いきや……
「これちょっと苦手」
 ブロッコリーを弁当のフタに避ける。
「う、これも食べられない」
 甲殻類だめなんだ、と言いつつエビフライも排除する。
「げ、このコロッケ、カボチャ入ってる」
 情け無用でこれもどける。
「友里ちゃんって、好き嫌い多いんだ……でもそれじゃ食べるものなくなっちゃうよ」
「ごはんと梅干しくらいだね」
「も、もしかして、日の丸弁当の方が良かったのかな……」
「うーん……でも卵焼きは好きだよ、肉入りが特に」
 だが、今回の桃果のお弁当には残念ながら入っていないのであった。
「ごめんね、いつもは入れてるんだけど」
 心底申し訳なさそうに桃果が言うが、友里はアスパラのベーコン巻きのベーコンだけを分離させて頬張りながら言う。
「お弁当、自分で作ってるんだ」
「うん、お母さん夜勤の仕事してるから」
「へえ……」
「だから友里ちゃんとこも、そうなのかなって思って」
 うちの母親は専業主婦だけどね。とは言いにくい友里だった。
「桃果は好き嫌いないの?」
「うん、あ、でも辛いのはちょっと苦手、猫舌だからかな」
「ふーん……あ、三分経ったよ」
 友里が教室の壁に掛かった時計を見て告げる。
「うん……じゃ、いただきます」
 フタをはがし、かき混ぜると、下の方から細切れの肉片が姿を現した。
 小刻みに震える箸でつまみ上げ、じっと見つめている桃果。
「どうしたの?」
「うう……」
「食べないの?」
 にやりとしながら友里が訊く。
「た、食べるよ……」
 ごくりと生唾を飲み込んだ後、えいやとばかりに口に入れる。
「おいしい?」
「う、うん……おいしい……かな……」
 桃果は半分涙目になりながら急いで麺の方を口に流し込んでいる。
 どう見ても、見るからに咀嚼を拒むような食べ方である。
「そんなに急いで食べたらやけどするよ?」
 桃果にはもはや友里のセリフなど耳に入らないようである。
 そして恐るべき精神力により完食を果たす。
「ごちそうさま……お汁捨ててくるね」
 幽霊のように青ざめた顔の桃果が立ち上がり、口を押さえながら給湯スペースに向かってダッシュする。
 友里はその後ろ姿を見送った後、ふう――と一つ、ため息をついた。
 まぁ、これで明日からはお昼時間に寄って来ることもないだろう。
 ちょっと気の毒だったかもしれないが、友里の昼食があのラーメンだったことは間違いないのだ。
 別に毒を食べさせたわけでもない。
 斯様《かよう》に慣れとは恐ろしいものなのだ。


 だが、翌日のランチタイム。友里の向かいの席で、特大卵焼き弁当と交換した猫肉ラーメンを完食する桃果の姿がそこにあった。
 彼女の順応能力は友里の予想をはるかに超えていたのであった。
「あんた……やるね」
 もはや気圧され気味の友里である。
「なにが……?」
 リボンを揺らして首を傾げる桃果。
「ほんとに好き嫌いないんだ……」
「うん、お腹いっぱい。それに、なんだか体がポカポカしてきたよ」
 頬を染めながらそんなことまで言う桃果だった。
「そ、そうなんだ……私は食べるつもりなかったんだけど……」
 と、小声で洩らす友里。友里のカバンの中には登校途中で購入したサンドイッチが入っていたりする。ラーメンの方は、今日も桃果がランチ攻勢を仕掛けてきた時のために用意しておいたのだ。
 まさか使うことになるとは――いや、まさか完食までするとは思っていなかったけれども。きのうのお肉とお腹の中で喧嘩してるんじゃないだろうか。
「えっ、なにか言った?」
「な、なんでもないよ」
 桃果は友里の言葉に小さく頬を膨らませる。
「もう……ともだちなんだから、なんでも言いたいこと言ってほしいな」
 そう言って、にっこり笑う。
「うん……」
 でも……
 ともだち……か。
 桃果のはじけるような笑顔がどうにも直視できずに目を逸らしてしまう友里だった。

 02

 下校時間。
 帰宅部の友里は当然ながら真っ直ぐ下校路に着く。
「友里ちゃーん!」
 とぼとぼと歩いていた友里の後方から、手を振りながら桃果が走り寄ってきた。
「途中まで一緒に帰ろー」
 息せき切りながら桃果が言う。
 しかし友里は桃果の方を一瞥すると、一層歩調を速めた。
「友里ちゃん」
 脇目も振らずに歩を進める友里の横から桃果が声を掛ける。
「なに?」
「あ、あの……ごめんね。お昼無理に付き合わせちゃって」
「ん、別に、いいよ」
 ――まずいラーメン食べてくれたしね。
 実は結構感謝している友里だった。
「卵焼き、おいしくなかった……かな」
「え? なんで?」
「うん、なんか怒ってるみたいだから……」
「別に怒ってないよ」
 怒ってなんかいない。
 そんなわけはない。
 でも、
 ただ……
「ほんと……?」
 首を傾けて友里の目をのぞき込む桃果。
「ほんとにほんと、リアリーだって」
「そっか……よかったぁ」
 両手を組み合わせ、顔をほころばせる桃果だった。
 ――まるで風に揺れる桃の花のように。
 出たよ……またこの笑顔。
 やめてほしい。
 そんな無邪気な笑顔を見せられると困惑してしまう。
「あ、あのさあ、訊きたいんだけど、あんたってなんで私にかまうの?」
「え? それは……」
 驚いたような表情で立ち止まる桃果。
 しばらく下唇を噛んで目線を彷徨わせた後、恐る恐る目を上げ友里を見つめた。
「えっと……あのね……友里ちゃんは、ちょっと前の私と同じだから……かな」
「同じ……?」
「うん、私もね、転校してきたんだ、一学期に」
「あ、ああ……そうなんだ……」
「うん、だから友里ちゃんいつも一人でいるみたいだから、すごく気になっちゃって」
 あんたも一人でいることが多いじゃない、と言おうとしたが、この子には比較的仲のいい友だちが何人かいるのは知っている。実のところ、友里のように完全な一匹狼ではないのは間違いないのだ。
 そもそも狼なんて形容は桃果には似合わないけれども……。
 狼というより羊って感じだ。
 一匹羊。
 いや、迷える羊か。
 ストレイシープ……なんちゃって。
「だけど……ね、友里ちゃんって、わざと友だちを作らないようにしてるみたいに見えるんだ」
 う、この子……なかなか鋭いところを突いてくる。
 ただの可愛いだけのお馬鹿さんじゃないみたいだ。
「へ、へえ、そう見える?」
「見えるよ! 休み時間だって窓の外ばかり見てるし、話しかけられても生返事しかしないし――」
「そんなの別に、誰にも迷惑掛けてるわけじゃないと思うけど?」
 友里は語調を強めながら言う。
「違うよ、友里ちゃんとお話ししたいって子がいるってことだよ。なのにそんなに邪険にしたらダメだよ」
「邪険にしてるように見えるんだ」
「見えるよ! どうしてなの?」
 桃果の語気がいっそう強まる。どういうわけかテンション過熱気味な感じだ。
 友里は桃果の勢いを受け流すかのように少し間をおいた後、再び歩を進めながらつぶやく。
「あんたと私って同じだって言ったよね」
「うん、言った」
 桃果は負けじと食い下がる。
「同じじゃないよ」
「え」
 桃果が当惑した顔で足を止める。
「同じなんかじゃない」
「どうして……」
「今まで私が何回転校を繰り返してきたか知ってる?」
 桃果がハッとした表情で口に手をあて、小さく首を横に振る。
「そうだね、ざっと……」
「ざっと……?」
 友里は指を折りながら記憶を辿っている。
「と、とにかく、自分でも憶えてないくらいなんだよ!」
「そ、そうなんだ……」
「そう、だからさ、友達ができてもすぐお別れしなきゃいけないんだ。だから――」
 友里は桃果の顔を睨み付けながら言う。
「だから、あんたと私は違うんだよ! もう私にかまわないでよ!」
 投げつけるように言って、友里はカバンを脇に抱えて走り出す。
「あ、友里ちゃん! 待って!」
 桃果の声を振り払うかのように全力疾走で坂道を走り降りる友里だった。


 日は変わって今日もいつものランチタイム。
 だけど今日は桃果が友里の元にやってくることはなかった。
 友里としては、ほんのちょっぴり意外。
 と言っても期待してたわけじゃない。
 それに、きのうの下校路であれだけひどいことを言われた翌日なのだ。桃果と言えどもさすがに自重しているのかもしれない。
 いや、単純に愛想を尽かされたってだけか。
 それはなんだか、ほんの少し寂しい気もしたけれど、それも仕方がない。これでいいのだ。
 自分のためにも、それよりなにより桃果のためにも。
 どんなに良くしてもらっても、自分には何も返すことはできないのだから。
 きっと、お互い禍根を残すだけの思い出に終わってしまう。
 なぜなら……
 ゆうべ、次の引っ越しが一ヶ月後に決まったことを父親から告げられたからだ。
 そんなことは、いつものことだし、今さらショックを受けるようなメンタルはすでに友里は持ち合わせていないと思っていた。
 なのに、どういうわけか今回は心に重くのし掛かる物が感じられる。
 それはどう考えてもあの子のことなのは認めざるを得ない。
 ほらね。
 だから言わんこっちゃない。
 こうなることは最初から分かってたんだから。
 そうは言っても、こんなに早く転校する羽目になるとは予想していなかったけれども。
 もしかしたら、最短記録更新かもしれない。
 桃果はどこでお昼を食べているのか、教室から出て行ったきり時間いっぱいまで戻ってくることはなかった。
 そういえば朝もおはようと挨拶を交わしはしたが、その後の休み時間からは脇目も振らずに教科書を見つつ、何事かをノートに書き込んでいるようだった。
 いつもなら休み時間の度に友里の所にやってくる桃果だったのに。
 なんだか拍子抜けだ。
 今までとの落差のせいか、妙な寂寥感を感じてしまう友里だった。
 しかしこれでいいのだ。むしろこの程度で済んで僥倖と思うべきなのだ。
 本当の仲良しなんかになる前に回避できてよかったのだ。
 嫌なイベントってやつを。
 今まで何度も繰り返してきたそれを。
 わざわざ繰り返すこともない。
 まぁ、ぎりぎりセーフというところだろう。
 などと……
 友里は自分自身に言い聞かせる。


 その日の放課後、帰り支度を整えて席を立とうとした友里の前に桃果が立っていた。
 見上げると、いつも通りの桃の花がほころぶような笑顔。
「なに?」
 友里は少々狼狽しつつも平静を装い、ぶっきらぼうに言う。
「え、えっと」
 桃果は、胸の前にノートを抱きながら、もじもじしている。
「……あ、あのね、友里ちゃん、数学の追試、明日だよね。だからね、今日……一緒に勉強しようよ!」
 つっかえつつも、語尾の方はきっぱりとした口調で桃果は言い切った。
「あれ? そうだっけ……」
 そう言えばそうだった。あまりに嫌なイベントすぎて自分でも忘れていた。フロイトの物忘れというやつだろうか。
 でも……
 どうしよう。
 ここで、また桃果に甘えてしまったら……私は……。
「いや、いいよ……別に」
 ぷいと横を向きながら言う友里。
「え? どうして……?」
「勉強はちゃんとやってるから……心配しなくていいよ」
「ほんと?」
「うん」
 ウソだけど。
 しかも、見え透いたでまかせはさすがに看破されてるっぽい。
「でも、心配だよ……合格点取らないと、またイヤミ言われちゃうよ?」
 ぐっ、それはごめん被りたいところだけど。
 友里の頭に淫乱――じゃない、陰険ティディベアの、にやつく顔が浮かんで身震いが起きる。
「ね、一時間だけでもいいから、一緒にやろう?」
「一時間だけ?」
「うん」
「それが……だめなんだよ、今日は職員室に呼ばれてて」
 とっさに口をつく言い訳。もちろんこれもウソだ。
「職員室? もしかしてお説教なの?」
「そ、そう、お説教なんだ」
「そっか……」
 眉尻を下げつつ、妙に納得する桃果。
 どういうわけか、いきなり信憑性が増したようだ。
「ううん…… じゃあ図書室も閉まっちゃうね」
 おまけに長いお説教で確定しているようだ。
「うん、だから無理」
 不本意ではあるが、ここは桃果の誤解の尻馬に乗る。
 うーん、と考え込んでいる桃果。
「そうだ! 私立図書館なら夜の九時まで開いてるよ、そこでやろうよ」
「う、うん……?」
「じゃあそれで決まりだね、私、正門のとこで待ってるから」
 そう言うと桃果は、「ちょっと図書室に本返しに行ってくるね」
 と言い残すと、教室から走り去ってしまった。
 あれ……?
 ちょっと待って!
 なんだか桃果の勢いに負けて承諾してしまったじゃないか。
 やばい!
 それでなくてもやばいのに……
 一緒に勉強会なんかしたら、
 このままじゃ、ほんとに――――

 友達になっちゃう。

 ――決めた。
 もう、仕様がない。
 裏門から脱出しよう。
 すっぽかそう。
 もうそれしかない!

「ハァッ……ハァッ……」
 下校路を全力疾走する友里。
 なんで……?
 一体――私は何をやってるんだろう。
 もう、わけが分からなくなってきた。
 自分でもあきれ果てる。
 愛想も小思《こそ》も尽き果てる。
 友里は立ち止まり、手で膝を支え、息を整える。
「ふう……ふう……」
 まだ残暑真っ盛りの初秋、もう全身汗だくだ。
 でも、とりあえずここまで来れば安心だろう。
 ふと、振り仰げば……
 少しだけ夕暮れの気配が近づく町並み。
 白茶けた無機的な道路や、リベットだらけの塀。
 きのうは桃果と一緒に二人で帰った通学路。
 転校してきてまだ二週間だっけか。
 ようやく慣れてきた通学路なのに。
 一人で通ってきた道なのに。
 なのに今日は……
 なんでこんなに……

 ――寂しげに見えるんだろう。

「ただいまぁ」
 自宅の引き戸をがらがらと開け、玄関をくぐる。
「あら、友里ちゃん、今日は早かったのね」
 と、エプロンで手を拭きながら、じゃらりと玉のれんを鳴らして母親が顔を覗かせた。
「うん、まぁ、ね」
 玄関にカバンを置いて、靴を脱ぐ友里。下駄箱の上の水飲み鳥をちょこんと小突く。
「ん、あれ?」
 落ち着いたところで、はっと気が付いた。
「って言うか、なんで娘を名字で呼ぶの!」
 あまりにも自然すぎて違和感がなかったのだった。
 つーか、お母、あんたも友里ちゃんでしょうが。
「あら、外国では自分の子供に自分と同じ名前を付けるのは珍しくないのよ」
「ええっ! た、確か違うよねっ! お母と私の名前……」
 愕然としながら、必死に母親の名前を脳内照合する友里だった。
「ホホホ、もちろん違うわよ、当たり前でしょ。だからこれはニックネームなのよ」
「…………おそろい……なんだね……」
 きっとママ友にでもそう呼ばれているのだろう。
 友里ちゃん、と。
「でも、早く帰ってきて正解ね。今日は降るみたいよ」
「え? もしかして……」
「そう、この季節は多いのよねえ」
 心底嫌そうに母親がぼやく。
 本州全土が亜熱帯に指定されてから久しいのではあるが、夏の終わりのこの時期、局地的に天候が激変する、いわゆるゲリラ豪雨が特に多いのだ。
「あら、もう降ってきたわよ」
 急激に窓の外が暗くなり、大粒の雨がトタン屋根を叩く音が聞こえてきた。
 雷鳴のドラムロールが遠くからこだましてくる。
 気が付けば、すでに雨足はバケツをひっくり返したような状態に変わっていた。
 稲光が空を走るのが目の端に映る。
「桃果……」
 学校の正門付近には雨をしのげる場所はない。
 この季節だから、携帯傘は持っているだろうけど、この雨なら、さっさと校舎に避難していることだろう。
 でも……
 まさかとは思うけれど……
 妙な胸騒ぎがする友里だった。
 電話を掛けてみようかと思った友里だったが、約束をすっぽかしてきた手前、なんだかそれも憚られる。いや、そもそも桃果の電話番号も知らないのだった。
 その時、一際大音響が轟き、窓の外が真っ白に光った。
「わわっ、近くに落ちたみたいね」
 お母がなんだか嬉しそうな口ぶりでつぶやく。
 近く……とは言っても、それなりにここからは距離が感じられた。
 だけど……それが、それこそが友里の不安をかき立てた。
 なにしろ友里の通う中学はここよりもだいぶ高台にあるのだ。
 もしかして……
 友里は雨傘を引っ掴むと玄関を飛び出した。
「ちょっと見てくる!」
「あ、友里ちゃん!」

 03

 雨足は急激に弱くなり、走っているうちに傘を差す必要もないくらいになった。
 さすがにゲリラ活動だけのことはある。
 友里は道路に残る水たまりを次々にジャンプで飛び越えながら、学校へ続く坂道を駆け上がっていった。
 坂を上がりきり、学校に近づく頃には雨はすっかり上がっていた。
 校区に入り、正門に続く塀の脇道まで来たところで、友里は足を止める。
 人だかりが見えた。
 しかも衝撃的な光景が目に飛び込んできた。
 そこは間違いなく学校の正門。
「げっ」
 なんと!
 正門脇の桜の巨木が鈍い煙を上げているではないか。
 やっぱり……
 嫌な予感は当たっていた。
 お巡りさんや消防と思われる人が通行人や、下校に就こうとしていた生徒を忙しげに誘導している。
 どうやら雷はあの木に落ちたようだ。と言っても、すでに処理は終わっているようで、立ち昇っているのは湯気だけに見える。これならば、雨宿りしてる人でもいない限り、けが人は出ていないはずだ。うん、きっとそうだ。
 友里は無理矢理自分に言い聞かせ、平静を保とうとする。
 だけどそれも束の間だった。
 正門に近づくにつれ、野次馬の人垣が何かを取り囲んでいるのが見えたのだ。
 え……
 まさか……
 よくよく見てみれば、道路の脇に救急車が止まっている。
 人垣が遠巻きに囲んでいるのは、救急隊員と救護を受けている人。
 間違いない……けが人がいる。
 突然――友里の左腕のスマホが甲高い電子音を上げ始めた。
 心拍異常のアラート音。
 それは心臓のナノマシンから送信される注意信号、即座に対応を要するリミットブレイクを告げる警報なのだ。
 だが、そんなものはどのみち友里の耳には入らなかった。
 がくがくと震える足を無理矢理引きずって人垣に近づいていく。
 その時――
 ふと、歩道わきの地面に、塀に立てかけるように置かれていた通学鞄が目に止まった。
「なんで、こんなところにカバン……」
 でもそれは、倒れている人との距離を考えれば、持ち主が受難の真っ最中だと考えるのが自然だ。
 鞄の脇にはずぶぬれになったノートが落ちている。
 そのノートには見覚えがあった。
 今日一日、桃果が休み時間に書き込みしていたノートと同じデザインだ。
 友里はとっさに拾い上げて持ち主の名前がないか確認する。
 しかし、表表紙にも裏表紙にもネームは入っていなかった。
 破れないように気を遣いながら、濡れたページをめくり、中を確認する。
 数学のノート。その最新のページには先日のテスト問題の解き方が、丁寧な字でぴっちりと書き込まれていた。これ以上ないくらい、懇切丁寧に。
 それを見た友里は――
 全身から力が抜け、一瞬気が遠くなる。
「桃果……」
 間違いない、このノートは……。
 呆然とノートを見つめる友里。その時だった。
「かわいそうにねえ」
 取り巻いている誰かの声が聞こえて、ハッと我に返る。
「近くに立ってたんだって」
「でも、直撃しなくてよかったですわねえ」
 友里は再び人だかりの方へと足を向けた。
 ひそひそと囁き交わす声の中を一歩一歩近づいていく。
 やがて人垣の間からちらりと地面に横たえられているセーラー服が見えた。
 救護隊員がAEDではない、なにかの機械を服の上から胸に押し当てている。
「も、も、か……」
 間違いない、それは桃果だった。
 雨に濡れて髪も服もずぶぬれだったが、とりあえず見た目からは外傷を受けた様子はない。
 しかし、じっと目を瞑ったまま微動だにもせずに、拡げられたストレッチャーの上に横たえられている。
 矢も楯もたまらず走り寄ろうとする友里の前に警備員が立ちふさがった。
「近づかないで! 今応急手当中ですから! あ、駄目だと言うのに!」
「通して! 私の友達なんです!」
 警備員の手を振り解いて駆け寄ろうとする友里。
「友里! 落ち着け、大丈夫だ」
 慌てて進み出てきたのは見知った顔、数学教師の男だった。
「せ、先生! 桃果は!」
「友里、落ち着いて聞くんだ。いいか、新田井が立っていた正門脇の木に雷が落ちた。だが、側雷を受けたわけではないそうだ、落雷のショックで飛ばされて倒れただけなんだ」
「ほんとに? 雷に打たれたんじゃないの?」
「ああ、そうだ。ただ、その時のショックが大きくてアダプターが……ちょっとな」
「アダプター? って心臓?」
 心臓に埋め込まれたナノマシンのことくらいは学校でも教わって知っている。でもそんなものが壊れたからってどうだって言うんだ。心臓が止まっちゃうとでも言うのだろうか。
「桃果! 桃果!」
 数学教師に後ろ手をつかまれながら、なんとか顔が見える距離にまで近づいたところで、大声で呼び掛ける。
 一通り応急処置は終わったのか、救護隊員が桃果の胸に当てていた機械をはずし、ストレッチャーを組み立て始めている。
 救護隊員の背中越しに見える桃果の顔が僅かに動き、目が薄く開いた。友里の方に顔を向けると、徐々にその瞳の焦点が定まる。
 血の気の失せた唇が微かに開き、言葉を発した。
「あ……やっぱり……友里ちゃん……だったんだ」
 桃果が蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「よ、よかった、私がわかるんだ……」
 意識がある。友里はそれだけで何にも代え難いほどの安堵を覚えた。
「わかるよ……友里ちゃん……来て……くれたんだ」
 どうにかして――痛々しく微笑を作ろうとしながら言う桃果。
「う……」
 胸にくさびが打ち込まれるような罪悪感に言葉が詰まる。
「……ご、ごめん……私……」
「友里ちゃん……大丈夫だから……心配かけてごめんね」
 桃果の目に溜まった涙がこめかみを伝いながら零れている。
 友里の目にも涙が溜まり、視界がぼやけそうになる。
「桃果……ごめん……」
「変なの? どうして謝るの……ちゃんと来てくれたのに……」
「桃果……だって……私、私は……」
 桃果はショックで記憶が混乱しているのかもしれない。
 どう考えても二時間以上は待っていたはずなのに。
 この、正門前で……
 土砂降りの雨の中。
 雷が鳴り響く中。
 たった一人で。
 しかも、多分、
 ノートの見直しをしながら。

 救護隊員の一人が搬送先の確認なのか、未だにどこかと連絡を取り合っている。
 淡々とした無線交信が続いている。
「応急処置は完了です。はい、そうです、いえ、サルベージまでは……。はい、分かりました」
 無線を交わす隊員の横で、他の隊員は器具類を救急車に積み込んでいる。
 さらに一人の隊員が、さっきの数学教師になにやら説明しているが、教師の表情は硬いままだった。
 友里は堪らず桃果の間近まで駆け寄るが、なぜか制止を受けることはなかった。
 なんとか危機は脱したということだろうか。
 周りの雰囲気も、こころなし緊張の糸が解けたような空気が感じられる。
 友里はストレッチャーにすがりつくように桃果の顔をのぞき込む。
「桃果!」
「友里ちゃん……うれしい……来てくれて……」
「ごめんね、遅くなって……ごめん」
「ううん、そんなことないよ、ちゃんと間に合ったもの……」
「そんな……そんなこと……」
 友里は必死に首を振る。
「あのね、聞こえたんだ……さっき……」
「聞こえた?」
 友里が聞き返す。
「うん、最初に友里ちゃんの声が……それで気が付いたの」
「そっか……そうなんだ、よかったよ」
「うれしかった」
「桃果……」
「うれしかったんだ……」
 うわごとのように再び桃果が言う。
「な、なにが?」
 友里は鼻をすすり上げつつ呼びかけ続ける。
「だって……私のこと……、ともだち、って言ってくれた」
「……もも、か……」
「うれしかった……んだ」
「ば、バカ、なに言ってんのさ……ともだちに決まってるじゃん」
「ほんとう?」
「あたりまえだよ、ともだちだよ、私の――だいじな」
「ほんとにほんと?」
「ほんとにほんと、リアリーだよ」
「そっか……よかったぁ」
 桃果は安心したのか、力を抜き、すっと目を閉じる。
「桃果?」
 ふと、言いようのない不安が友里を襲う。
「友里ちゃん」
 目を閉じたまま桃果が言う。
「ん、なに? なんでも言って」
 桃果は目を閉じたまましばらく黙っていたが、ふっと一つ息を吐くと低くつぶやいた。
「二年前もこうだと良かったのにね」
「……? ……二年前?」
 友里は怪訝そうに聞き返す。もちろん二年前などと言われても友里にはなんのことか解らなかった。
 しかし、桃果は意外なほどしっかりと、しかも静かな口調で言う。
「あの時、こうして会えてたら良かったのにね」
「あの時? あの時ってなんのこと……?」
「うん、そうだよね、解らないよね」
「解らないよ……なんのこと言ってんのさ」
 二年前と言えば、友里も桃果も小学生だったはずだ。もちろんそのころに出会った憶えもないし、友里の引っ越し前のことでもあり、同じ街にさえもいなかったはずだ。
 一体何のことを言っているのだろう。
 いや、桃果は混乱しているのだ。どう考えても脈絡のないことを口走っているとしか思えない。
「あのね、本当はね――会えなかったんだ、私達。だって――」
 しかし桃果は落ち着いた口調で続ける。
「え……?」
「だって、友里ちゃんは間に合わなかったんだもの」
「……桃果?」
 友里の心中に不安の種が生まれ、それが大きく膨らんでいくかのような感覚が起きる。
 それはまったくもって不思議で、不可解で、理不尽な感覚であった。
「な、なんのこと言ってるのさ……解らないよ!」
 必死に否定するしかない友里。そしてそれは、自分の中に芽吹こうとする感覚を否定する気持ちでもあった。
 ストレッチャーの手すりを握っている友里の手がブルブルと震える。
 桃果は混乱している。きっとそうだ。
 早く病院で手当をするべきだ。
 なのに……
 隊員はまだ救急車に搬入する気配もない。
 一体何をやっているんだろう。
 まだ受け入れ先の病院が決まらないのだろうか?
 友里と桃果を取り巻く人々がやけにスローモーに映る。
 しかも誰一人口をきいていない。
 周り中全てがまるで書き割りのセットになったかのように、ただひたすら――

 やけに静かだった。

 友里の時間だけが静かに流れているかのような錯覚を覚える。
 友里の中の不安の種が否定するのも無理なほど大きくなっていく。
「友里ちゃん」
 桃果がおもむろに口を開き、止まっていた時間が再び動き出した。
「なに……」
 おずおずと訊ねる友里。
「私、友里ちゃんに伝えなきゃいけないことがあるの」
「なんのこと……なのさ」
 友里は不穏な空気に息詰まる思いで洩らす。
「もう、時間だから」
「時間……? な、なに言ってんのさ……桃果、もうなにも言わなくていいよ。――もう、体を休めないと」
 桃果は首を振り、目を開けると友里の目を真っ直ぐに見つめた。
 その目には涙はない。代わりに刺すような光が宿っていた。
「だいじなことなんだ」
「い、今は桃果の体の方がだいじだよ」
「ううん、違うの、これは私の役目なんだ」
「なんのことか解らない……解らないよ……」
 友里の見開いた目が焦点を失う。
「だから、ちゃんと聞いて」
 今や桃果の声は静かな迫力を伴っている。
「い、いやだ……やめて」
 後ずさろうとする友里の手首を桃果が掴んだ。
 ぱし、と。
「聞くのよ、友里ちゃん」
 そして桃果は言う。
 無表情のまま。
 しかも、驚くほど朗然《ろうぜん》とした声で。

「ビッグバンあたっく」――と。

「ひっ! やあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 全身を仰け反らせながら、友里が絶叫を上げる。
 次の瞬間、ガシャァァァン! というガラスの割れるような音が鳴り響き、辺りが真っ黒な帳に覆われる。救急隊員も、野次馬も、先生も生徒も消え、学校も道も、地面も空もない空間に変容する。
 しばらくすると、光の粒子が空中に現れ、形を成し、友里の体を包み込んだ。
 見る間にそれはピンクと白のティアードスカート、魔法少女のコスチュームとなる。
 気が付くと赤髪となった友里が真っ暗な背景の中で、スポットライトが当たったように立ちつくしていた。

 04

 目を上げると、桃果は友里の手首を掴んだまま目前に立っている。
 もちろんストレッチャーも、いつの間にか消えてなくなっているのだった。
「ビッグバンあたっく……」
 憑かれたようにつぶやく友里。
 今まさに友里の中の大きく膨らんだ種が割れ、芽吹く。
 記憶の芽が。
「桃果……」
 瞠目して桃果を見つめるばかりの友里。
「思い出した? 友里ちゃん」
 桃果は虚ろな眼差しを友里に向けながら言う。
 友里は、ハッと我に返った後、ぐしゃぐしゃになった顔で唇をかみしめた。
「ぐ、う、う」
「びっくりさせちゃってごめんね。でも――」
 桃果は憂いを帯びた声音で告げる。
「私を呼び出したのは友里ちゃん……あなたなのよ」
「呼び――出した?」
「そう、魔法で」
「……魔法」
「あなたの使った魔法は負のエネルギーを敵にぶつける魔法。トラウマがエネルギー源だったのよ」
「そんな……」
 友里はがたがたと身を震わせる。
「そう……二年前、あなたは私との約束を破って家に帰ってしまった。そして私は正門前で雷の事故に遭って救急車で運ばれたの。あの時、あなたがここに来た時にはもう遅かった。間に合わなかったのよ。それが現実だったのよ」
「う、ぐ、ひっく……」
 桃果の話を聞くうちに友里は押し殺すような嗚咽を洩らし始めた。
 しかし逃げ出すことはできなかった。
 セーラー服姿のままの桃果から目を逸らすこともできなかった。
 空間に磔にでもされたかのように身じろぎ一つできないでいた。
 桃果はなおも言葉を紡ぐ。
「そしてそれっきりあなたと私は再会することはなかった。あなたの中で私の存在は消されてしまったのよ」
「ち、違うよ!」
 友里が鼻をすすり上げながら、なんとか言い返す。
「消してなんかいない……、ずっと……ずっと罪悪感で押しつぶされそうだった。何度も何度も後悔した。私のせいで桃果は……あんなことに、って」
「ふうん」
 桃果は一歩引いたかのような態度で友里の吐露を受け流す。
「それに……あの後、病院に連絡しても面会謝絶だって言われて……。先生の話でもニュースでも軽症だっていう話だったのに、どうやっても連絡は付かなかったんだ。ひぐ……そのうち私は遠くの町に引っ越すことになって……それでも連絡を取ろうとはしたんだ……けど、ひっく……やっぱりダメだった。新田井は遠くの病院に転院したとかなんとか言われて」
 友里の最後の言葉に桃果の目が鋭さを増す。
「転院――したんじゃないわ」
「……え」
 友里の顔が血の気を失う。
「そんな、まさか……死んじゃったの!」
「ううん、安心して、死んだりなんかしていないから。体の方は本当に怪我はなかったの」
「じゃあ、なんで……」
「私が雷でショックを受けたのは――アダプターだったから」
「アダプター、って……それ!」
「私のアダプターはね、――修復不可能と診断されたの」
「アダプターが……」
「うん、私も知らなかったことだから、友里ちゃんが知らなくても当然なんだけど、――それでね、友里ちゃん、私はあなたの知らない世界に転送させられたの」
「知らない世界……」
 しかしここで友里は思った。
 思い当たってしまった。
 もしかしたら……私は、知っているのかも、
 と。
 そして桃果の口が動く。
 無表情のまま。
「私が今いる場所は――」
 そうだ、
 確かに聞いたはずだ。
 それは、
 ドンちゃんが――ドン亀さんが言っていた、あの……
 でも、
 まさか、
 そんな!

「玩具《ナーフ》の世界なの」

 桃果が、そう――言った。
「ナーフ……レイヤー……」
 友里が茫洋とつぶやく。
「あれ? もしかして知ってたりした? そっかぁ、友里ちゃんも大人になってたんだね。でも当たり前かぁ」
 桃果が後ろ手を組みながら友里に顔を寄せ、いたずらっぽく言う。
「あの頃のままじゃないんだよね――お互い」
「わ、私はなにも変わってないよ……」
「変わってない、か……、そうかもしれないね。だって友里ちゃんにとってはまだ二年しか経ってないんだものね」
「そ、そうだよ……私がそんなに成長するわけないよ、たった二年で」
「でも、友里ちゃん、私はあなたとは違うの」
 桃果が抑揚なく言う。
 それはまるで、合成音声のように。
「え? なんで? 違わないよ……」
「ううん、違う。違うの。同じじゃないの。あなたと私、レジッターとナーフされた私は――」
 桃果の目が悲しげに揺れ動き、低く洩らす。
「同じじゃないんだよ」
「――!」
 友里が目を見開いて硬直する。
 そんな友里を横目で見ながら桃果が言う。
「今の私の姿は仮初《かりそ》めの姿、友里ちゃんがイメージする二年前の私の姿、ただのアバターなんだよ。もちろんこの音声もね」
「ウソだ……そんな、そんなはずないよ」
「ウソじゃないよ、見たい? 今の私の姿を」
「う……」
「見せてあげましょうか? 代謝加速を受けた、今の私の――本当の姿を」
 本当の姿……
 友里の知っている桃果は……
 中学二年生、14歳。
 いつも柔らかく、桃の花のように可憐に笑いかける女の子。
 胸にかかる長い髪に結ばれた赤いリボン。
 目尻の垂れた大きな目。
 怒っても少しも怖くない丸顔の童顔。
 それが……
 それが桃果……なんだ。
 桃果……だったんだ。
「ふふ、でも今でも童顔だって言われるんだけどね、皺は増えても」
「やめてっ!」
 友里は両手で耳をふさぎ、ぎゅっと目をつむると地面にしゃがみ込んだ。
「友里ちゃん」
 桃果が声のトーンを落とし、一転して優しく語りかけるように言う。
「ごめんなさい友里ちゃん、こんなこと言うつもりじゃなかったのに」
 友里は恐る恐る目を開け、耳を塞いでいた手を降ろした。
「もう……充分なはずだったのに……」
 さらにごめんなさいと繰り返す桃果の目は再び涙を湛えていた。
「じゅう、ぶん?」
「そう、もう充分。あなたは自分のトラウマと向き合った――条件を満たしたの。チャージは終わったのよ。だから、ほら――」
 桃果が友里の目前に一歩進み出る。
 ゆらり、と。
「最後の仕上げをしないと」
「仕上げ……?」
「そうよ、了承《アクセプト》キーを押すの」
「なに、それ……」
 呆けたようにつぶやく友里。
「私を――私の体を押して」
「押す……?」
「そう、突き飛ばすの――後ろに」
 友里は桃果の後ろの空間を見る。そこは何もかもが虚ろで、ただ暗い闇がぽっかりと口を開けているばかりだった。
 まるで奈落の入り口のように。
「そんなことしたら、落っこちちゃうよ……」
「いいの、それで魔法が具現化するのよ」
「そんな」
「さあ、押して――押すのよ。そうしないと発動しないわ――魔法が!」
「い、いやだ……できないよ、そんなこと」
「遠慮しないで。これはただの儀式なのよ。魔法成就のための手順。それだけよ。あなたの前にいるのはただのアバター、ただのスイッチなの」
「違う――違う違う違う違う――あんたは――」
 友里が泣きはらした目をいっぱいに開け叫ぶ。
「あんたは、桃果だもんっ」
「友里ちゃ――」
「私の――ともだちだもんっ!」
 桃果はふっと悲しそうに目を伏せながらつぶやく。
「そう思ってくれるなら、なおさらだよ。だからこそ押さないとダメなの。押す必要があるの」
「できない……できないよ」
「友里ちゃん」
「だって……桃果……怒ってる。私のこと……恨んでる。やっぱり」
 涙声でひたすら訴える友里。
 しかし桃果は沈痛な面持ちのまま首を振る。
「友里ちゃん……違うよ。あれは事故だった……不幸で不運な、だけの」
「でも、でも、私がちゃんと時間通りに行ってればあんたはあんな目に遭わなかった」
「ううん、そうじゃない。もしかしたら二人とも落雷に巻き込まれていたかもしれない。そんな可能性もあったのよ」
「だけど……私が二時間も桃果を待たせたから」
「そんなこと気にしてない! 怒ってなんかいない。恨んだりなんかしてないよ!」
 桃果が友里の肩に手を掛ける。
 いたわるように、そっと。
「ウソだ!」
 友里がその手をぱっと振り払う。
「友里ちゃん……」
「そっか……そうだよ」
 友里がふっと半笑いの表情になる。
「どうしたの?」
 今度は桃果の方が当惑する。
 友里は焦点の定まらない目を虚空に向けながら言う。
「私も桃果と同じところに行くよ。このまま押さなきゃ、そうなるんだ。そうだよ。なんでそれに気が付かなかったんだろ」
「ダメ!」
 桃果が友里の両肩を掴んで叱りつけるように言う。
「桃果……なんで? なんでダメなの?」
「それはダメだよ……友里ちゃん」
「どうして? 私、桃果がいるんならそっちに行きたいよ」
「友里ちゃん……、起きてしまったことは取り返せないのよ。私はもう、友里ちゃんの世界には戻れない。だけど、友里ちゃんには守るべき人がいて、悲しませてはいけない人がいる。だから友里ちゃんはここにいるんじゃないの?」
「守るべき人……」
「それに友里ちゃんはこっちに来るべきじゃない。友里ちゃんには友里ちゃんが生きるべき世界があるの」
「だって……だって」
「友里ちゃん、聞いて。私は、あの事故がきっかけでちょっと遠くに引っ越すことになっただけ。それに、自分を不幸だなんて思ってないよ」
「え」
「うん――こっちはこっちで楽しくやってるんだ……これでも、ね。いろいろ自由がきかないこともあるけど……それでもこっちにもお友達はいるし」
「ほんと……?」
「うん。だから、友里ちゃんは、友里ちゃんのお友達を助けてあげて。きっとそれは友里ちゃんにしかできないことだから」
「桃果……」
「友里ちゃん。私、友里ちゃんにまた会えて嬉しかったよ。ほんのちょっとの間だったけど、一緒に遊べたんだもの……、懐かしかったよ、うれしかったよ……充分すぎるほど」
「や、いやだ、もっと一緒に遊びたいよ、遊びたかったよ、体育でペアになってもらって、一緒にお弁当食べて、一緒に下校したかった。この二年間、言えなかったことがやっと言えたのに、やっと本当のともだちになれたのに、やっとまた会えたのに――またすぐお別れだなんて、そんなのってないよ!」
「友里ちゃん……私もおんなじ気持ちだよ……でも帰らなくちゃいけないの。あそこに……」
 言って表情を硬くし、遠くを見る桃果。
 しかし、しばらくして桃果に視線を戻し、ふっと笑みを浮かべた。
 やわらかく。桃の花のように。
 しかし、友里はだだっ子のようにイヤイヤしながら言う。
「そ、それに、一緒に勉強会もしたかった。だっていまだに数学は苦手なんだ。桃果に教えて欲しかったよ」
「それは……ちょっとかんべん……かな。ほんと言うとね、私も数学が得意ってわけじゃなかったから」
 えへ、といたずらっぽく笑う桃果。
「でもね、友里ちゃん、聞いて」
 そう言うと桃果は自分の胸を、手の平でそっと押さえた。
「離れても友里ちゃんはずっとここに居るから……」
 桃果の伏せた目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「アダプターが見せる幻影なんかじゃない。私だけの友里ちゃんが――本物の友里ちゃんがここに居てくれるから」
「もぼ、か……」
 友里の顔も涙でぐずぐずに崩れている。
 止めどなく溢れる涙で桃果の顔も見えなかった。
「だから、友里ちゃんの胸にもずっと居させて。私のこと」
「うん、うん、当たり前だよ、私の中にも桃果がずっと居たよ、この二年間ずっとだったよ。忘れるはずないよ。ずっとずっと、ともだちだよ――私の大切な」
「友里ちゃん」
 桃果が友里の手を両手で強く握る。
「ありがとう」
「ももかあぁぁぁ!」
「――! きゃ」
 友里は桃果の手を引っ張ると、その華奢な体を抱き寄せた。
 友里よりも少しだけ背の低い桃果は、友里のなすがままに体をあずけている。
「忘れないよ……桃果……ずっとずっと」
「うん、私も忘れない……」
 背中に回した腕で友里を抱きしめ返す桃果。
 友里は桃花の頬に自分の頬を合わせながら言う。
「桃果」
「うん?」
「また……会えるよね」
「…………」
「きっとまたいつか――会えるよね。桃果に……。いやむしろ私が会いに行くから。だから待っててよ……ね?」
「友里ちゃん……」
 友里からは見ることのできない桃果の表情。
 その目には戸惑いと深い哀しみが浮かんでいた。
 なぜならば……
 桃果には分かっていたから。
 ――ナーフされた自分は友里ほど長くは生きられない。
 おそらく、もう会うことはできないだろう――と。
 しかし――それでも桃果は静かに、はっきりと答えた。
「うん」
「約束だよ?」
 いっそう強く桃果を抱きすくめる友里。
 折れそうなほどに……。

 そして桃果が、もう一度答えた。


「うん」







 第十章 ダイアローグ

 01

「友里のヤツ、どうしちゃったんでしょう」
 時翔が訝しげにつぶやく。
 宇宙空間。
 友里がスペル宣言を行使してから数十秒が過ぎようとしていた。
 だが友里は右手にステッキ、左手にスペルブックをかざし、目を閉じたまま彫像のように固まっている。まるでオーケストラの指揮者が演奏終了した状態でストップモーションしているかのごとき絵ヅラである。
 しかもスペルは発動する気配もない。
 スペル宣言が成されたからには、なんらかのプリエフェクトが始まっても良さそうなものだが、真っ暗な宇宙空間は特に変わった様子もなく、静寂が支配していた。
 まぁ、宇宙空間なので音がしないのは当たり前ではあるのだが。
 一面の星空をバックに、依然として動こうとしない友里。
 もしかしてバグったのか?
 フリーズしてしまったのだろうか。
 VRゲームと言えども、所詮はプログラムである。クライアント側がフリーズしてしまう事態は時たま起こりうる。なんとなれば、ユーザ接続が何らかのトラブルで切断された場合、そのプレイヤーキャラはタイムアウトでログアウトするまで、石像のように固まったままに見えるのだ。
 だがしかし、クライアントプログラムの停止は、すなわちアダプター動作の異常を意味することは時翔にもおぼろげに理解できている。なぜならば、現状生身のうえに、視界オーバーレイデバイスであるSMDを装着していない時翔や友里が、拡張現実空間の視界を得られるのは、クラウドサーバからの無線通信で、アダプターにデータを随時ダウンロードしているからに他ならないからだ。
 つまり、言い換えればクライアントPC、あるいはウエアラブルPCそのものがアダプターであるとも言えるのだ。
 もしそうだとすると、またぞろ友里の実体は別の時空間、あるいはレイヤーに移動してしまったのだろうか……。
 いま目の前の宇宙空間に漂っている魔法少女姿の友里は、すでに単なる残像――ゴーストなのかもしれない。
「友里さんは――」
 時翔をおんぶしたままのドン亀さんが、おもむうに言葉を切り出す。
「このまま戻って来ないかもしれません」
「う、やっぱり?」
 予想は当たらずとも遠からずだったのだろうか。
「もしかして――この魔法って、やっぱりあれなんすか?」
 時翔が懸念していた考えを口にする。
「バグスペルってヤツ?」
 単純な理由である。
 使用するとアプリが落ちてしまう。
 特に滅多に起きないシチュエーションや、レアな魔法がレアな状態に組み合わさることでプログラムが想定外の動作に陥ってしまう。あり得る話である。ドン亀さんが危険だと言って友里を止めようとしたのも、そういう意味だったのだろう。
 しかし考えてみればそれは強制切断に成功したとも言えるのではないのだろうか。
 いや……
 強制切断は一般的にはゲームアプリ上ではキャラの死亡と同義なのが常識である。
 そうなると、よしんばゲームアプリからログアウトできたとしても、現実には気絶状態が続いている可能性が高い。
 と言っても、一体どこで?
 今この場所が、現実世界のどんな場所なのかと問われても、回答不可能な時翔であった。
 やっぱり、教室なんだろうか?
 レイヤー移動が時間移動でない限り、ここが本当の宇宙空間ということはないはずだ。
 そもそもタイムスリップしたら宇宙空間でした、というのはドラえもん所有のインテリジェントタイムマシンで解決済みの突っ込みポイントではあるのだが。
 やがてドン亀さんは時翔の問いかけに悄然とした口調で答えた。
「いえ、そうではありません」
「と、言うと?」
「かつて……」
 ドン亀さんが解説モードに入ったことを示すように、遠い目になる。
「かつて、さっき友里さんが使った魔法と同様のプログラムを実装したアプリが存在していました」
 同様のプログラム?
 そう言えば友里が袋とじ最終魔法をタップする前にドン亀さんが叫んでいた。
 確か、その魔法はハームタッチ系? ――だと。
「それって、どういう系統の魔法だったんですか?」
「はい、そもそもは単にクールダウン時間の長い――通常であれば一プレー中に一回だけしか使えないほどの再使用間隔を持った、大ダメージ攻撃魔法の代名詞だったのですが、そのアプリはもっと複雑なシステムを採用していたのです」
「複雑なシステム?」
「そうです、それはアダプターの機能を利用した新機軸を標榜していました。つまり強大な攻撃力を発生させるための条件として、単なる長いクールダウン時間ではなく、プレイヤー本人が抱えているトラウマと向き合わせることを発動条件と定めたのです」
「それって、でも……危険な香りがするんですが」
「その通りです。アダプターの使用制限が緩和されたVRゲーム黎明期には、実験的な作品が数多く生まれていました。その中でも最も物議を醸したのがそのアプリ、いわゆる鬱系魔法少女MMO-RPGだったのです。そのアプリはアダプターの機能を使って、プレイ中にあたかも回想シーンが挿入されるがごとく、プレイヤーに幻視《ビジョン》を見せることができるシステムを採用していたのです」
「そのビジョン……って、夢落ち、みたいな?」
「いえ、そのプログラムはアダプターの高度な機能であるところの思考加速を利用していたのです。ゲーム会社は、そのシステムをSGGS≠ニ命名していました」
「SGGS……。なんの略なんすか?」
「寸劇ジェネレートシステムの略です」
「……」
「プレイヤーの記憶の断片を組み合わせて、都合のいいお涙頂戴ドラマを適当に生成するシステムなのです。もちろん――そのゲームはR18指定ではあったのですが、全ての人が現実とゲームの区別がつく大人というわけではありませんでした。特に感受性の鋭い若年層には事故が多発する結果となってしまったのです」
「そりゃそうでしょう、しかも鬱系って」
「もちろん、大々的に鬱系だという宣伝文句を掲げていたわけではありません。むしろ日常生活上たまっているストレスを発散させる――カタルシスを感じさせる方向にプログラミングされているはずだったのです。ところが実際には思惑通りにはいきませんでした。本人でさえも憶えていないような、昔のトラウマ、とっくに克服して忘れていたはずの思い出したくもない嫌な思い出が、予期せぬほどの頻度でフラッシュバックしてしまう事例が大きく取りざたされることになったのです。中にはそのために重度のPTSDを受けてしまい、治療を余儀なくされるプレイヤーも発生する始末でした」
「PTSD……」
「もちろんそのゲームアプリは数ヶ月でサービス停止したのですが、実はその訴訟は今でも続いているほどなのです」
「でも、そんな危険なプログラムがなんでこんなアプリに実装されているんですか」
「分かりません、もしかすると解散した開発チームの何人かがソーサラーズの開発チームに加わっていたのかもしれません。その中の誰かがこっそりと仕込んでいた可能性もあります。どうせ使われることはないだろうとタカをくくって……」
「そんな……」
「なにしろR18サービス自体も頓挫した計画だったわけですから」
「でも友里はどうなんでしょう」
「どう、とは?」
「だから、つまり、今って自分のトラウマを見せられてる最中だってことですか?」
「それは分かりません。あくまで友里さんの心の中で展開されている再生シーンなのですから」
 うーん、でも友里にそんなトラウマがあったりするのだろうか?
 0点取っても他人事のようにゲームに興じることのできるメンタルを持つほどの強心臓なのである。
 とてもじゃないが、再起不能になるほどの過去のトラウマのフラッシュバックなんてあるように思えない。
 せいぜい、引っ越しが多くて、寂しい思いをしてきたとか、その辺くらいか?
 いや、楽しみにとって置いた冷蔵庫のプリンがなくなっててショック! とかの線も捨てがたい。
「トキさん、友里さんは存外繊細な神経をお持ちだと私は思っているのですが」
 本当だろうか。
 その割には友里にずけずけとしたセリフを遠慮なくぶつけてるような気もするドン亀さんなんだけど。と思ってしまう時翔。
「だから……」
 ドン亀さんが再び重々しく言う。
「やはり友里さんは戻ってこない気がするのです」
「そうでしょうか……」
「はい、過去のトラウマに向き合い、それに耐えられなくなった場合、アダプターの安全装置が作動し、自動クールダウンに突入してしまうのです。そうなってしまうと、やがてはアプリケーションからタイムアウトしてしまい、実質的には死亡ということになってしまうのです。アプリケーション上では……」
「じゃあ、やっぱり友里は……」
「はい、今私たちが見ている友里さんの姿はすでにゴーストなのかもしれません」
 ゴースト……
 残像、ではあっても、敵に対する当たり判定は残っている。すでに友里はこのアプリから落ちてしまっていると言うのなら、今はロスタイムのような物なのだ。それはいわゆるコネクションロストペナルティのための措置でもある。プレイ中にピンチに陥った場合、強制ログアウトで回避しようとしても、コネクションが切れた後、しばらくはプレイヤーアバターが無防備な状態でフィールドに残ってしまう。そうなると戦闘中であった場合は、ほぼ死亡が確定となるのだ。それこそが、リセットワザを迂闊に行使できない抑制効果となっているわけだ。
 しかも当然の事ながら、コネクションロストの場合、他のプレイヤーが蘇生魔法を使っても生き返らせることはできない。
「でも、落ちてないって可能性もあるんですよね?」
「もちろん。その可能性もあります」
「ゴーストの残留時間って何秒間でしたっけ?」
「約三分間です。ただし、友里さんが直面しているはずのビジョンの再生時間には各個人でばらつきがありますから、もう少し長くなるとは思います」
「その再生時間ってどれくらいなんすか?」
「思考加速を使っていますから、おそらくはどんなに長くてもプラス一分とは掛からなかったと記憶しています」
「と、言うことは、合わせて四分、240秒か……今何秒くらい経ったんだろう」
「スペル宣言してからおよそ二分経っています」
「それじゃ、後二分以内に決着を見るわけか……」
 しかし、それならば……
 時翔は前方を見据える。
 そこに浮かんでいるのは、
 この戦闘で倒すべき敵、イグナイター、安藤である。
 忘れていたわけではない。
 未だ硬直したまま、継続ダメージが入り続けたまま、宇宙空間を漂っている。ならば、もう友里の魔法発動など待つことなぞせずに、一気に追加攻撃を与えるべきだ。その理由は――考えるまでもない。ヤツのヒットポイントは風前の灯火とも言えるほど低い状態にあるのだ。今なら倒せる。倒せるはずなのだ。
 もしかすると、先ほどの友里が放った魔法攻撃によるそのアフターサービスも、時間切れで効果を失う可能性もある。そうなってしまうと、もはや打つ手はない。一方的にこちらが攻撃を喰らって終了となってしまうだろう。もう迷ってる時間はない、やるなら今じゃないのか?
「ドン亀さん! やりましょう」
 時翔が決然と言い放つ。
「はいっ」
 ドン亀さんが秒速で返答する。
 しかしドン亀さんの背中に一体化した状態のままなので、あまり様にはなっていない。
 だがその時、奇しくも状況が変化を見せた。
 と言ってもそれは友里の方ではなく、対峙している敵であるところの少年アバター、安藤の方であった。
「やれやれ、ようやく解けたよ」
 言いながら安藤は素早くヒールポーションを補給する。
「な……そんな……」
 絶望的な光景が目の前で起きていた。
 安藤を束縛していた硬直効果が時間切れで効力を失ったのだ。
 安藤は人心地付いたと言わんばかりに、大きく伸びをした後、こちらに目を向ける。
「どうやら、勝利の女神は君たちに微笑まなかったようだな」
「くっ……!」
 遅かったか。
 遅きに失したのか。
 悠長にし過ぎたのか。
 思わず思考停止寸前となる時翔だったが、ドン亀さんの叱責にも似た声で我に返る。
「トキさん! ヒールを!」
「あ、はいっ!」
 ドン亀さんは沈着冷静だった。そして諦めていない。投げ出すことなど絶対にないのだ。
 あらためてその重い想いを思い知る時翔。
 慌ててグループヒールの魔法をタッピングする。友里を含めた三人ともが、青いエフェクト光に包まれた。
 安藤がキャストしたのはやはりチェインサンダー。電界フィールドが出力を上げるプリエフェクトが開始する。
 熱を帯びたかのような光の粒子が辺りを彷徨い始めている。
 どうやら、地上マップの時とは微妙にそのエフェクトも変化を受けるようである。
 しかし、発動までに数秒のラグが生じるのは地上での場合と同様であるようだ。
「まずは友里さんから離れましょう」
 言うが早いかドン亀さんはハイヒールのかかとからスラスターを噴射させ、彫像のように固まったままの友里アバターから距離を取った。
 友里から距離を取った理由は単純である。
 範囲攻撃魔法の爆心地をこちらにオフセットさせるための作戦なのだ。
 友里との距離を取ることで、安藤としては魔法の爆心地点を友里に集中させるか、時翔ドン亀ペアに集中させるかの二択を迫られるわけであるが、友里が戦力外となっている可能性が高い今、こちらに集中させるのが賢明な判断なのは間違いないところだろう。もちろん友里アバターが消えるのを待たずに、念のために友里アバターに集中照射しておく手もありだろうが、友里がゴーストであった場合は、完全に魔法一発分を空振りするはめになってしまう。
 そしてやはり安藤が選んだのは時翔達の方であった。
 安藤は移動中のドン亀さんに対して、ある程度の偏差射撃で範囲攻撃を放ったが、ドン亀さんは神懸かり的マニューバーで方向転換を決め、最小限の被爆時間に収めることに成功した。なにしろ上も下もない、おまけに遮る物もない宇宙空間である。いかに範囲攻撃のエリアが広大であろうと地上マップよりもはるかに回避が容易になったと言えるだろう。実際受けたダメージ量も、地上で受けたときよりもかなり低いダメージ量に留まっている。
 続いてドン亀さんは体勢を立て直し、すかさずロケットランチャーを発射する。
 空気のない宇宙空間ではあるが、なにしろロケット弾である。特に問題なく使用できるのはありがたい。
 これは! いけるのでは!
 と、時翔が想ったのも束の間であった。
 ロケット弾は、問題なく命中したものの、微々たるダメージしか安藤に与えることはできないのだった。
 くっ……
 もしかして……
 またこのパターンなのか。
 お互い決め手に欠ける攻撃手段しか持たない持久戦。
 双方とも防御力、回復力は飛び抜けていても、相手のヒットポイントを削り取る術を持たない状態。再びその泥沼に足を踏み入れた感がある。
「ドン亀さん、なにかまずい雰囲気なんですが」
「大丈夫、計算上は、彼のAOE魔法を50パーセント以上喰らわなければ、こちらの攻撃がDPSで5パーセント上回れるはずです」
「ホントっすか……」
「はい、時間は掛かりますが」
 安藤の周りを高速で周回しながらドン亀さんが絞り出すように言う。
 なんにしても、千日手に近いことには変わりはないようだ。
 しかしここで、しびれを切らしたのか安藤が「ふむ」と、一人首肯しつつ、唸った。
「どうやら、手順を間違っていたようだな」
 安藤の攻撃が一時停止する。
 なんだか、さらにまずい雰囲気である。
「つまり」
 安藤が余裕綽々とした態度でスペルブックをなぞった。
「こっちが正解かな」
 そのセリフと同時に安藤の指先から青白い光線が発射される。
 それはもうすでに懐かしさすら感じる、例の――サンダービーム、だった。
 唐突に放たれた、そのビームを一瞬喰らってしまうドン亀さん。
「くっ」
 ではあったが、徐々に目が慣れてきたのか、断続的に放たれるそのビームをほとんど紙一重でかわしまくっている。
「わ、わ、わ」
 時翔は急制動、急旋回に振り落とされないように、必死につかまっているのがやっとだった。
 こうなると、こちらの攻撃の手も減じざるを得ない。ドン亀さんとしても回避に手一杯で、なかなか有効打を繰り出すことができなかった。もうはや先ほどのドン亀さんの胸算用も、誤算になりはててしまっている。
 しかし、それだけではなかった。
 最大の誤算は――
 ちゅどん――と。
 安藤のクールダウンが終わるごとに撃ち込まれるDD魔法だったのだ。
 もちろん、時翔はドン亀さんを盾にしているので、ターゲットされることはないが、ドン亀さんに命中するDD魔法は避けようがないのだった。
 そう、ここには身を隠す場所もなければ、射線を妨害するオブジェクトも存在しないのだ。
 同じ宇宙空間でも、アステロイドベルトのように小惑星が点在しているような場所であれば、それも叶ったのかもしれないが、あいにくここは太陽が爆発したばかりのガス帯、宇宙空間である。確かに範囲攻撃魔法は回避しやすくなったが、その代わりロックオンされてしまえば、避けようのないDD魔法は確実に喰らってしまうのだ。
 もちろん、時翔はヒールとレジスト魔法を適宜キャストし続けているが、ニュークレベルではないにしても、そのダメージ量は着実にドン亀さんのヒットポイントを奪っていく。おかげで時翔のマジックポイントの減少は目に見えて嵩んでいた。このままでは、持たない。どう考えても。

 02

「ドン亀さん、このままじゃ……」
 時翔が不安を隠せない声音でドン亀さんに言ってしまう。
『分かっています、こうなったら――』
 ドン亀さんは何事かを思いついたのか、ウイスパーモードに会話を切り替えた後、安藤の周りを回って一周し、もとの場所に位置取った。
『トキさん、よく聞いてください、今から私は自爆します。彼を巻き添えにして』
『ええっ! 自爆って、自分の武器で自分にダメージなんて入らないんじゃ……』
『いえ、僅かですがスプラッシュダメージを受けてしまうのです。この武器の場合』
 ドン亀さんがその装備品を手にする。
 それはロケットランチャー用の特製弾頭であるらしかった。
『この弾頭を一斉に点火させます。彼に取り付いて』
『そんな……』
『この一撃で安藤は瀕死のダメージを負うはずです。その後すぐにトキさんのDD魔法を全弾撃ち込めば、あるいは』
『あるいは……か。勝算がなきにしもあらずってことですね』
『申し訳ありません』
 真っ直ぐに前を向きながら言うドン亀さん。
『大丈夫、とは言ってくれないんですね』
『ごめんなさい、今回ばかりは』
 硬く、小さな声で答えるランジェリー女教師。
『あれ? でもよく考えたら、すぐに俺がDD魔法で瞬殺されちゃうんじゃ……』
 今までターゲットされることがなかったのはドン亀さんのタートル戦法のおかげなのだ。だがその盾を失ってしまえば直接攻撃の的にされて瞬殺されてしまうのは想像に難くない。どう考えても全弾撃ち込む前に、ニュークで倒されてしまうだろう。
『いえ、盾ならあります』
 ギリっとドン亀さんの目線が友里をとらえた。
 宇宙空間に浮かんだまま、微動だにもしていない魔法少女アバター。
 未だ消えることもなく、今や完全にオブジェクト然としながら、漂っている。
『まじっすか……』
 確かにゴーストではあっても、当たり判定は存在しているわけであり、射線の防御にも使えるのは間違いないだろう。
『ただし、チャンスは一回だけです。おそらく友里さんの紙装甲では攻撃に耐えられるのは一回だけ、すぐに吹き飛んでしまうでしょう』
『そんな、でも友里がゴーストなんかじゃなく、魔法が詠唱中だったらどうなるんですか』
『たとえ、詠唱が継続中だとしても、攻撃を受ければ詠唱はインタラプトされてしまいます。どのみち詠唱が完遂することはないのです』
『くっ……』
 もうそれしか方法はないのか……
『あるいは……」
 ドン亀さんがビームを右に左に交わしながら、息せき切って言う。
 時翔の体にもビームがかすり、少なからずダメージを奪っていく。
『今すぐにサルベージで離脱することもできます』
『う』
『こうなった以上、それもやむをえません……私としては、本当に申し訳もありませんが』
 サルベージ。
 その危険性はドン亀さんからレクチャーされている。
 正直に聞かされている。
 それでも……
 リスクは確かに大きいが、みすみす倒されてしまうよりは、メリットはある。
 それは間違いないのだろう。
 だけど……
 ここまで必死に戦ってきたことは全て無駄だったことになる。
 結局それは敗北したことと同義なのだ。
 今のドン亀さんでは一人でヤツを倒すことは出来ない。
 それを承知で彼女は言っているのだ。
 それはアービター、時空警察としての矜持を全て捨て去ることに他ならない。もとより覚悟の上での提案なのだ。ドン亀さんにとって、それがどれ程屈辱的なことなのかは時翔にも想像できる。
 ならば……
『いえ……ここまで来て逃げるなんて、いやです』
 時翔は腹をくくるように言った。
『逃げるのではありません、戦略的敗北ということです』
 いや、そっちの方が負け犬の遠吠え臭いんだけど……。
 とにかく、
 どっちにしても、いやだ。
『さっきのその作戦、やらせてください』
『……分かりました、では、次に私がDD魔法を受けた直後に友里さんの後ろに回り込みます。いいですね?』
『OKです』
「くくっ、ちょこまかと逃げていてもどうしようもないぞ、それそれ」
 安藤がネズミを追い詰めるかのようにサンダービームを掃射しながらクールダウンの終わったDD魔法を放った。
『いまです!』
 安藤の放ったDD魔法がヒットし、ドン亀さんのヒットポイントが一気に瀕死レベルまで落ち込むが、時翔はヒールを入れることはせず、すかさずドン亀さんから離脱、友里の後ろに回り込む。
 今や瀕死となったドン亀さんの体にロケットランチャーの弾頭がじゃらりと装着される。
 残弾全装備。
 頭の先から指先まで、まさに鈴なり状態だ。
 それを見た安藤は一瞬驚愕の表情を刻むが、すぐさま狂ったようにサンダービームを乱射し始める。
 しかしその狙いはことごとく的を外している。
 ドン亀さんが一瞬時翔の方を振り返る。
「では! 武運長久を!」
 言うが早いかドン亀さんは全身のスラスターを全開にして人間ロケットのように安藤に向かって突進していく。
 ビームが何発かドン亀さんの体をかすめるが、その回避速度は驚異的だった。
 重心の狂った矢のようにらせん運動を見せながら着実に安藤に接近していく。
「うおっ! くるな!」
 安藤が焦れば焦るほどビームは狙いをはずし、ドン亀さんは瞬く間に肉迫する。
 そしてついに――
 密着。
 と、同時に爆発。
 ドン亀さんの体に装着された核弾頭が一斉に火を吹く。
 爆発の衝撃波が友里アバターの後ろに隠れた時翔にも降りかかる。
 友里アバターの魔法少女コスチュームも爆風で焼け飛び、友里は半裸となってしまった。
 時翔は恐る恐る友里アバターの影から顔を覗かせ。爆発の中心点を確認する。
 爆煙の中からドン亀さん、女教師アバターが爆風に飛ばされて行くのがちらりと見えた。
 そう、ドン亀さんの体は全年齢版の縛りを受けているのだ。したがって木っ端微塵になることもなく、その四肢を投げ出したまま宇宙空間の彼方へと飛ばされていくのだ。
 もちろん、ヒットポイント0のまま。
「……ドン亀さん」
 一瞬時翔の脳裏に蘇生魔法のことがよぎるが、それは愚策としか言いようがないだろう。そんなことをしている間に安藤に回復や反撃の時間を与えてしまう。今は攻撃こそが最大の防御、戦闘の終結こそがこの作戦の要諦なのだ。
 そして、このエリアは改変されたハッキングエリアなのだ。もしもここが通常エリアであればキャラの死亡後は、ゴーストロビーに移動するわけであるが、ここではそういうわけにはいかない。つまりドン亀さん本体、いわゆる中の人は絶賛気絶中なのである。したがってこの後の指示を仰ぐこともできない。ここからは自力で判断して行動するしかないのだ。
 安藤の方は、爆発の衝撃で瞬間意識が飛んだかのようだったが、やがて首を左右に振ると自分の体を確認している。
 毎度の事ながら、見た目にはさしたるダメージを受けているようには見えないが、さにあらんや、ヒットポイントの方は、レッドゾーンに突入しているのが時翔のオーバーレイマーカーからも確認できた。
 ドン亀さんの捨て身の攻撃は奏功している。狙いは的を射ている。
 この機を逃せばもはや勝機はないだろう。
 時翔は、安藤がヒールポーションを摂取する暇を与える前にDD魔法を撃ち込むべくスペルブックを展開する。
 通常、回復役の職業が直接攻撃魔法を使用することはまずあり得ない行為であるが、非常手段として用意されているのである。
「全弾撃ち込んでやるぜー」
 時翔はヒールもせずにチャージしていたマジックポイントで使用可能な攻撃魔法をありったけ安藤の体に撃ち込む。
「ぐっ、お、うぉっ!」
 安藤が数発の攻撃魔法を受けてさらにヒットポイントを減らしていくが、時翔の魔法も連射できるわけではない。連打の隙をついて安藤も高速発動が可能なDD魔法を打ち返す。
 が、それは時翔が盾にしている友里のアバターにヒットする。
 ミスターゲットである。
 安藤もかなり焦っている証拠であり、そして友里を盾にする苦肉の策も成功したというわけだ。しかも高速発動タイプのDD魔法であったせいか、友里のヒットポイントさえ削り切れていない。
 だが……
 時翔のマジックポイントも無限ではない。やがて時翔の魔法攻撃も沈黙を余儀なくされた。
 しかもなんと、安藤はまだ死亡には至っていない。
 首の皮一枚で踏みとどまっている。
「くっ! ダメか! ダメなのか!」
 押し切れなかった。
 削り切れなかった。
 なんてこった。
 このドン亀さんとの波状攻撃で倒すことができなかったとなると、どう考えても作戦失敗である。
 一気に絶望が時翔の胸中を満たす。
 今やボロボロになった友里アバターの影で打ちひしがれる時翔を見とがめた安藤がニヤリと笑う。
「そこまでというところかな?」
「ぐ……」
 歯ぎしりして臍をかむ時翔。
 ここで安藤としては二つの選択肢を得ることになる。
 一つは、時翔が盾にしている友里のアバターを消し去り、時翔の物理シールドを奪ってから、時翔本体にDD魔法を撃ち込んで倒し切る方法。
 もう一つは範囲攻撃魔法で友里アバターもろともダメージを与える方法だ。
 しかし、その場合、一撃で瞬殺とはならない。それは前回の攻撃時に確認済みなのである。しかもクールダウンの長い範囲攻撃魔法を使ってしまうと、その後の波状攻勢ができなくなってしまう。
 だが実のところ、選択肢はもうひとつ存在しているのだった。
 安藤がゆっくりとヒールポーションを取り出し口に持っていく。
 そう、回復さえしてしまえば、後は煮るも焼くも好み次第。安藤としては盤石な勝利の方程式に違いないのだ。
 しかし、
 それこそが、安藤の失策であった。
 敵につけいる隙を与えてしまった。
 窮鼠猫を噛む――である。
 安藤が気づいたときには、その弾丸はすぐ間近まで接近していた。
 安藤がヒールポーションを口にしようとしたその瞬間、眼前に迫る魔法少女アバターが視界を覆う。そして友里の頭部が安藤の側頭部に命中。手にしていたヒールポーションを弾き飛ばした。
 とはいえ、友里アバターの方は相変わらずのでくの坊、単なる投擲の弾であったのだ。
「ちっ!」
 安藤は体勢を立て直すと、腹いせとばかりに友里アバターの頭部にかかと落としを入れた後、時翔の姿を目線を走らせて捉える。友里のアバターはくの字に折りたたまれ、反動でくるくると回転している。
 その後方に――
 両腕を伸ばし切った時翔が安藤を鋭く見据えていた。
 ジャイアントスローからのカタパルト射出。
 その一瞬を見損ねたことが安藤の最大の失敗であった。
 続いて脳震とう気味の安藤に突進する時翔。
 何もないはずの宇宙空間だが、気合いでダッシュ(原理は不明)――一気にその懐に入り込む。
「ぐっ、きさま!」
「うおおおおおおお」
 時翔が右腕を引き絞る。
 時翔の職業《クラス》であるモンクがかろうじて取得しているスキル。素手による近接攻撃《ミリー》スキルが発動しようとしていた。
 時翔の右ストレートが安藤の顔面を捉え、そのまま打ち抜く。
 もちろんダメージ自体は微々たるものである。そもそもこれは最後の手段、呪文詠唱のインタラプトのためのエマージェンシースキルなのである。しかしこうしてクローズドポジションを維持している限りはお互いに魔法を使うことはできない。しかも武器を装備するどころかアイテムの使用もかなわないのである。
 安藤が横を向き、折れた歯をぷっと吐き出し凄惨に笑う。
「やってくれたな、まさか仲間の体を投げつけるとは。キサマそれでも人間か?」
 安藤が嫌味ったらしく吐き出す。
 安藤と時翔のすぐ横で、友里アバターは回転を続けている。
 友里の体はドン亀さんの自爆攻撃で半裸になった上に、DD魔法を喰らい、あげくには時翔がハンマー投げの要領でぐるぐるに回されたおかげで、リアリティレベルが許す表現内において、最悪の状態になってしまっている。
 もちろん仕上げは安藤のかかと落としだが。
「な……こんなのはただのアバターだろ!」
 時翔が豪語するが、安藤は時翔の動揺を見逃さなかった。
 隙を突いて、時翔の胸ぐらを掴んで引き寄せる。
「げふっ」
 膝蹴りを鳩尾に打ち込まれた時翔が吐瀉物を吐き出す。
 だがその体勢から今度は時翔が組み合わせた両手を安藤の後頭部に打ち下ろした。
「ぐおっ」
 まさに足を止めての打ち合い、素手同士の殴り合いである。
 高校生男子の標準体形を持つ時翔に対して、安藤の方は時翔の胸ほどまでしかない少年体形である。客観的に見れば、時翔に分があるように思えるが、そういうわけでもなかった。
 ソーサラーズの戦闘プログラムは格闘戦においても機能しているようで、キャスタークラスである二人の能力はほとんど拮抗しているのであった。
 二人の攻防は徐々に速度を増し、回転しながらもみ合いつつ、お互いのパンチを交互に打ち込み合う。
 ついに二人の両の手の平ががっしりと組み合わされ、力比べのような体勢で動きが止まる。
 歯ぎしりしながら睨み合う二人。
 と、その時。
 泣き声が二人の耳に飛び込む。
 それは押し殺すようなくぐもった嗚咽だった。
 引き寄せられるように、声がする方に視線を向けてしまう二人。
 そこにあったのは、いや居たのは――
 友里アバターだった。
 安藤に蹴りを入れられた反動で宇宙空間を漂っているとばかり思っていたのだが、そうではなく、膝を抱えて丸まった姿勢で宇宙空間を背景に、ゆっくりと回転している。その姿勢はまるで胎内で眠る胎児にも見えた。

 03

「うっく……」
 友里の体が震えながら、ひときわ大きくしゃくり上げる。
「ゆ、友里……おまえ……」
 時翔が戦々恐々としながら声を掛ける。
「いたい……よ」
 今度は目を閉じたままの友里の口から、はっきりとした言葉が洩れ出す。
「いたい……いたい……ひっく……ぅえっ……ひっく……
 いたいよぉぉぉぉぉ……うっわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん……
 おぉぉぉぉぃ……ぉぃぉぃ……
 びぃぇぇぇぇぇぇぇぇぇん……うぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇん」
 すでに友里の泣き声は耳をつんざくばかりの慟哭となっている。
 宇宙空間なのに。
 しかしながら友里は……
 落ちていなかった。
 ログアウトしたわけではなかったのだ。
 赤ん坊のように泣き続ける友里に意識が奪われた時翔が力を抜いた瞬間だった。
 がつんっ、と。
 腕を振り払った安藤の回し蹴りが時翔の側頭部を捉える。
「うおっ!」
 目を回しながらはじき飛ばされる時翔。
 そして次に時翔が安藤を視界に捉えた時、最悪の光景が目に映ったのだった。
 ぐびりと、ヒールポーションを飲み干す安藤。
 たちまちのうちに安藤のヒットポイントが全回復を果たす。
「しまったぁぁぁぁ!」
 しかもとっくに魔法詠唱のクールダウンも終わっているのも間違いない。
 くっくと含み笑いを洩らす安藤。
「ま、そういうことだ、今度こそ終わったようだな」
 勝ち誇ったように余裕の態度でふんぞり返っている。
 すべては後の祭り、
 だけど……
 ここで時翔は一縷の望みを見いだしていた。
 友里が落ちていないなら、魔法は? 袋とじ最終魔法はどうなったんだ?
「うぇぇぇぇぇぇぇぇぇん……びぃぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇん……いたいよぉぉぉぉぉ」
「ああ、もう、友里! いい加減目を覚ませ! 泣きやめ!」
「うゎぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん……」
「どこが痛いんだ? 頭か?」
 確かに全身傷だらけ、満身創痍なのは疑いようもないのだが……。
「あたまとからだが同時にイタイんだよぉぉぉぉぉぉぉ」
 目を閉じてうずくまるような格好で顔を膝に押しつけたまま、友里が泣き叫ぶ。
 しかしかろうじて反応できるほどに覚醒しつつあるようだ。
 それにしても、と時翔は思う。
 友里はいつから目を覚ましていたのだろう。
 時翔がカタパルト投擲した時には完全にフリーズした状態であったはずなのだが。
 安藤の頭にぶつかったときに目が覚めたのだろうか?
「どうしようもないな、そいつは――ふふ、さて……そろそろ終わりにしようじゃないか」
 安藤が泰然とした声で言う。
 終わりにしようと。
 だが安藤とて学習機能がないわけではない。とっととけりを付けねば、またぞろ厄介事が持ち上がることを懸念しているのだ。
 だが、今度こそ終わり。
 今度こそチェックメイトだという確信もある。
 なにしろ、時翔も友里もヒットポイントはレッドゾーン、かろうじて生きている状態なのである。もはや、範囲攻撃魔法がかすりでもするだけで昇天するのは避けようもない。
「うゎぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん……うぃうぅい……うぃっく」
 迫り来る危機にも拘わらず、友里は相変わらず泣きじゃくっている。
「落ち着け友里! 気のせいだ! 逆プラシーボだ!」
「気のせいじゃないよぉぉぉぉぉぉ」
 頭にできた巨大なたんこぶをさすりながら訴える友里だった。
「大丈夫だ、傷は浅いぞ」
「体だけじゃなくて胸も痛いんだよぉぉぉぉぉぉ」
 胸? なんでだ?
 もしかしてあれか? SGGSだかの、変な寸劇を見せられた後遺症なのか?
 PTSD、なのか?
 しかしまぁ……
 この状態、この惨状を見る限り、魔法は失敗に終わったとみて間違いなさそうだ。
 時翔の最後の望みも潰えたようである。
 もう、どうでもいいが……
「友里! さっさと目を覚ませ、今はそれどころじゃないんだ!」
「ういっく、ひえっく、ももかぁぁぁぁ」
 ももか? なんのことだ?
「体も痛いけど、それより心が痛いんだよぉ」
「そりゃ、ただのムービーだっつーの。今が現実なんだって」
「びぃぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇん」
「あぁぁぁぁ、もう!」
 本当にやっかいな魔法もあったものである。
「やれやれ……だな」
 安藤の方も辟易とした表情で二人のやりとりを見やりながら、スペルブックを構え、最後通告するかのように言う。
「さあ、勝負は付いた。もうおとなしく死んでくれたまえ。もちろんこの魔法のインタラプトをする隙はあるが、それも無駄なあがきなのは理解できると思うが?」
 悔しいことに、安藤の言う通りだ。
 この距離であれば、今すぐ殴りかかれば、魔法詠唱のインタラプトは可能だろう。しかし彼我のヒットポイントの差は歴然としている。たとえ攻撃力はイーブンだとしても、勝てるわけはないのだ。
 それは悪あがき以下の行為でしかない。
 遅かれ早かれこちらの負けは、確定なのだ。
「では、お祈りでも唱えておくんだな。まぁ、悪いようにはしないよ」
 悪いようにはしない……か。
 そう言えばアバターが死亡して、それからどうなるんだっけ?
 そうか……アダプターを抜き取られるんだっけか……
 思えば――
 考えてみれば――友里には悪いことをしてしまった。
 ドン亀さんが言うところのサルベージで離脱しておけば、こんなことにはならなかったのだ。
 もちろんドン亀さんとて責任を問われることになるのだろう。
 この結末は……
 言ってしまえば時翔のわがままが招いた結果だとも言えるのだ。

 ――これはゲームではないのです――

 ドン亀さんの言葉が今さらながら思い出される。
「ひっく……桃果……ごめん……」
 ようやく大泣きが収まり、落ち着きを取り戻した友里が小さく洩らした。
「友里……」
 時翔は懺悔する気持ちで友里の肩を引き寄せ正面に向き合った。
「ももかぁぁ!」
 突然、友里が時翔に抱きついてくる。
「お、おい、ちょ――」
 不意を突かれてうろたえる時翔だったが、どうやら友里の目は、さんざん泣きはらしたせいか、ろくに見えていないようだった。
「ごめん桃果……ごめん……」
 時翔の胸に水鼻をすりつけながら友里が繰り返す。
 だが時翔は友里のなすがままに身をゆだねた。
 時翔は無言で友里の頭に手の平をそっと置く。
「うん……」
 友里がむずがるように首を動かすと、ダメージ赤髪ヘアがくしゃりと鳴った。
 そのまま、
 いたわるように――やさしく撫でてやる。
「俺の方こそごめんな。――友里……おまえはよくやったよ。頑張ってくれたよ、ほんと」
 友里はその言葉が聞こえているのか、聞こえていないのか、すがるように時翔の胸に顔を埋めている。
 それにしても……
 どういうわけだか安藤は未だアクションを起こさず二人を見守っている。
 もういつでも死の鉄槌を振り下ろすことはできるはずなのだが……。
 揺るがぬ勝利を確信した安藤にとって、最後のお情けとでも思っているのだろうか。
「さても、愁嘆場というところかな。だがそんなに悲しむことでもないぞ。別に殺そうというわけではない、それどころか――」
「う、うーん、あれ? トッキー?」
 と、ここで突然友里が正気を取り戻したように顔を上げた。
「あ、ああ、友里、気が付いたのか?」
「ここは?」
「ここか? ここはなあ、地獄の一丁目だな。たぶん」
「は? なにそれ……? ん? ん? ――あ、あ、あぁぁぁぁぁぁぁ!」
 友里が目を丸くして周りを見回す。
「思い出したか?」
「思い……出したよ……」
 友里が文字通り、夢から覚めた様子で虚ろに洩らす。
「私……魔法を……」
「ああ、そうだ、ウィザードの最終魔法を使ったんだ」
「うん、でも……失敗……なんだよね。私、撃てなかったんだから……」
「そうか……そうだな、なにも起きてないからな」
「うん……よく憶えてないんだけど、桃果と抱き合ってたら頭に激痛が走って……目が覚めたんだ……」
「そ、そうか……なにがあったんだろうな……」
「そういえば、いま、なにがどうなってるの?」
 友里は少し離れた場所に浮かんでいる安藤を見ながらつぶやく。
 安藤が勝者の余裕を見せつつ、無表情のままに応える。
「まぁ、見ての通りだよ、ユリくん」
 見ての通り。二人とも棺桶に片足を突っ込んだヒットポイント量。それに対して安藤の方はヒットポイント満タンだ。安藤の魔法のひと舐めで昇天である。
 三途の川の対岸でドン亀さんが手招きしているのが見えるようである。
「え? じゃドンちゃんは?」
 はっと気づいたように友里が時翔の顔を見上げながら訊ねる。
「……やられた」
 と言うよりも自爆特攻だったのだが、もはやそんなことは説明する気力も湧かない時翔だった。
「そっか……」
 さすがに空気を読んだのか、目を落とした友里が儚げに言った。
「私、押せなかったんだ。結局」
 友里がぽつりとつぶやく。
「ん?」
 押す、ってなんだ? おそらくはさっきまで見せられていたビジョンの中でのことなんだろうが、なんのことだろう? もしかしてミニゲームをクリアしないと失敗――とかのパターンだろうか。
 まぁ、とにかく詠唱失敗ということであれば、友里のマジックポイントも払底しているとみて間違いない。なにしろ最終最後の魔法だったのだ。もはや反撃の糸口も皆無としか言いようがないだろう。
 全ては終わったのだ。どのみち。
「ごめん……私、大口叩いておきながら、クリアできなかったんだ……発動条件を……」
 友里が意気消沈した声で言う。
「もういいって、やるだけのことはやったんだ。しょうがないさ。友里はよくやったよ」
「ぐすん……ありがと……加治矢くん……」
 う……
 どういうわけか、この突然に名字で呼ぶ技は反則級のインパクトがある。
 不覚にも時翔には、腕の中の半裸魔法少女が俄然萌えキャラに見えてしまうのであった。
「友里」
 もしかするとここは時翔としては、反対に友里のことを名前で呼ぶのが模範回答だったのかもしれないが、あいにく、それを≠キぐに思い出せない時翔であった。
「どうにも勘違いしているようだが――」
 盛り上がる二人を憮然と見下していた安藤が冷ややかに言う。
「君たちのアバターはここで死亡と言うことになるが、なにも現実の君らが死んでしまうわけではないのだぞ?」
「死ななないにしたって、無事じゃ済まないんだろ!」
 時翔が憤慨しながら言う。
「そうだよ! 病院送りになるって聞いてるんだからね!」
 友里も口を尖らせて同調する。
「ユリくん、私は約束しただろう? 元の世界に返してあげると」
「え?」
 友里が虚を突かれたように反応する。
「それに、こうも言ったはずだがね、だましているわけではないと」
「そ、そんな、今さらそんなこと、信じられないよ!」
「まぁ、確かにちょっと荒っぽいこともしたが、それについては邪魔が入ったからなのは理解して欲しいところなんだがね」
「じゃあ、なに? ちゃんと元通りの世界に戻れるって言うの?」
「ふっ」
 と、ここで安藤がシニカルに口元を歪める。
「それは無理だが」
 元通りの世界。それはドン亀さんが言うところのレジットレイヤー、二人が生まれ育ったチバラギシティに他ならない。そこに戻れないと言うならば、とても現実に戻れたとは考えられない時翔であった。もちろん友里も同様であろう。
「やっぱり、だめじゃん――そんなの元の世界じゃないよ!」
 友里がさらに語気を荒げる。
「ふむ、まぁ無理もないか……理解できないかもしれないが――」
 安藤が両手を拡げてゼスチャーしながら強弁する。
「私が言っているのは本当の元の世界、真実の現実世界ということだよ」
「現実世界……?」
 なんだか……
 そのポーズから繰り出されるそのセリフは、前にも聞いたことがある。
 そうだ、同じく、イグナイターと呼ばれていたあの少年の口から。
 だけど……、結局のところ元通りの生活には戻れないことは間違いないのだ。自分達が住む世界から消えてしまうと言うならば、やはり社会的に死んだのと同じことではないか。
 そんなことは――とてもじゃないが受け入れられない。
 想像も出来ない。
「そして君たちは貴重な人命を救うという、栄誉ある支援者として称えられるだろう」
「栄誉?」
「そうだ、寄進者《ドネイター》としてのね」
「寄進……って、それってアダプターのことなんだろ!」
「もちろん」
 当然とばかりに言う安藤だった。
「なに……なんのことかさっぱり分からない、分かるはずがない!」
 だがしかし、この期に及んで交渉が――命乞いが通ることなどあり得ないのも分かっている。どうあっても安藤は行使するのは間違いないのだ。アダプターの摘出とやらを。
「まぁ、その辺については、おいおい理解できることだ」
 安藤は思わせぶりに言葉をはしょり、時翔の抗議を切り捨てる。
 ばっさりと。
「トッキー」
 友里が絶望したかのように項垂れながら時翔にしがみつく。
「分かったよ、もうさっさとやってくれ。俺たちは負けたんだ」
 ゲームではないにしても、ここからの――この世界からの、脱出ゲームに。
「ふむ、覚悟はできたということかな?」
 安藤が満足げにうなずきつつ言う。
「是非もなし、ってところだろ。こうなっちゃ」
 吐き捨てるように言う時翔。
 しかしここで、はっとして、友里が安藤に顔を向ける。
「え? ちょっと待ってよ」
「なんだ?」
 安藤が鷹揚に応える。
「もしかして、私らって別の時空間に転送されるの?」
「もちろん」
 安藤が事も無げに返答する。
「じゃ、じゃあ、私たちって同じとこに行くの?」
 同じところ――
 時翔もその問いかけに思考が呼応する。
 そうだ、元の世界、住み慣れたチバラギシティに帰れないとしても、じゃあその先は?
 友里と同じ場所に転送されるということなのだろうか?
 そこのところ、
 どうなんだ?
 だが、安藤は、
「いや、それは確定していない」――と、
 眉一つ動かさず、そして突き放すように言う。
「えっ」
「そんな……」
 驚愕すると同時に声を上げてしまう二人。
「それじゃ、ここでトッキーともお別れってことなの!?」
 友里が声を荒げて捲し立てる。
「まぁ、今に分かるよ。焦ることはない。そうだな……三分ほど猶予を与えよう。ゆっくりとお別れの言葉を交わしたまえ」
「くっ……」
 しかし、三分間か。
 それだけの時間があれば、グループヒールをキャストすることも可能だ。だがそんな素振りを見せれば即座に攻撃魔法が飛んできて終わりだろう。もちろん安藤は油断なくスペルブックを構えている。
 どの道、万策は尽きているのだ。
 どう考えても。
「トッキー……お別れなの? 私たち……」
 時翔の胸にしがみつきながら友里が言う。
「いや、そうと決まったわけじゃないだろ」
「だって……」
 切なげに友里が吐息を洩らす。
 そんな友里を見下ろしながら時翔が力強く言う。
「もしも」
 うん? と言いながら時翔の顔を振り仰ぐ友里。
「もしも、離ればなれになっても、また会えるさ。きっと。どこにいたって、生きてさえいりゃ、会いに行けるだろ?」
「加治矢……くん」
 はっとして思い出す友里。
 離れても会いに行く。
 探し出してみせる。
 いつかきっと。
 友里の胸が熱いもので満たされる。
「そうだよ……私も約束したんだ。桃果と……。いつか……いつかきっと……って」
「桃果?」
「うん、約束したんだ」
「……そっか」
 もう一度友里の頭をなでながら微笑む時翔。
「うん」
 時翔が友里の頭を抱き寄せる――と。
 後頭部のたんこぶに手が触れた。
「あ、わりぃ……痛かったんだよな。まだ痛むのか?」
「大丈夫……もう収まったよ」
「そうか、よかった」
 ここで、時翔はふと思う。
 このたんこぶは安藤にかかと落とし喰らったときのだよな、と。
 もしかして、これだけはリアルに外傷を負っているのかもしれないな、とも。
 なんせ、安藤も生身らしいから……。
「そういえば、私が動けなかった間も私のこと守ってくれてたんだよね……きっと」
「ぉ、おーう、当たり前じゃないか」
 ぎくりとしながらも平静を装う時翔だった。
「ごめん……私、なんの役にも立てなかったのに……」
「な、なに言ってんだ、ここまで戦えたのは友里のおかげじゃないか、充分役に立ってたぞ」
 そっか、とはにかんで見せる友里。
「……でも、はずかしいな、こんなぼろぼろになっちゃって」
 と、今にもちぎれそうなガーターベルトをつまみながら言う友里。
「なに言ってんだ、俺だってぼろぼろだろ、おそろいじゃないか」
「えへ、そだね……あ、もしかして盾になってくれたの? だから……」
「え? ああ、あ、当たり前だろ! 彼女を守るのは彼氏の役目だからな」
「そっかぁ……ありがとう」
 友里がふやけた笑顔を見せながら言う。
「当たり前のことをしただけさ」
 イケメンボイスで言った後、むぎゅと友里を抱きすくめる。
 無意識に良心の呵責をごまかそうとする時翔だった。
「ん?」
 とつぶやく友里。
 その目線は中空に向けられている。
「どうした?」
「あれ? なんかインカミングメールアイコンが……」
 言って、じっと虚空を凝視する友里。
 視線入力するかのように。
「メール? 誰からだ?」
 ドン亀さん、なのか?
 なにしろ今このエリア、改変されたレイヤーにアクセスできるのはこの三人しかいないはずなのだから……。
 いや、ドン亀さんのアバターは死亡したのだった。それに再出動も難しいんじゃなかったっけ?
 だとすると?
 ん……
 そう言えば、もう一人いる。
 アクティブプレイヤーが。
 いるにはいる。
 すぐ近くに。
 でも……まさか。
「これ……」
 友里が呆然としながらつぶやく。時翔の体にまわされた友里の手がわなわなと震え出す。
 時翔は、ここまで黙して語らずの安藤の方に目をやる。
 どういうわけか、にやり――と、少年アバターが口角を上げた。
 しかし、その笑いの意味までは測りかねる時翔。
「ねえ、トッキー」
 友里がじっと中空に目線を向けたままつぶやく。
 しかし、ダイレクトメールの内容は時翔からは見ることは出来ない。
「な、なんだ? メールって、もしかして安藤が……?」
「うん、そうみたい、でもね、テキストじゃないんだ、これ」
「はあ? じゃなんなんだ……」
「うん、ムービーなんだ」
「ムービー?」
「うん、ゲーム画面キャプチャムービー」

 04

「……」
 おい……
 おいおいおい。
 内心でうろたえまくる時翔だった。
 キャプチャって……
 まさか……
 しだいに友里の表情が険しくなっていく。
「そっか、私もちゃんと役に立ってたんだ……」
 抑揚なく、うつろに漏らす。
「それって、もしかして……」
 もう疑いようはなかった。プレイ画面スクリーンショットと、プレイ画面ムービー保存機能は、ソーサラーズにも標準で実装されている機能である。
 そしてわざわざ安藤が送りつけてきたとすると、それは友里が留守にしていた時の、あのシーンなのも想像が付く。
 友里がぼろぼろになった理由の――顛末記なのだろうということは。
「へえ、そっか、トッキー、ウソ吐いてたんだね」
 友里が、一オクターブトーンを下げた声音で言う。
「友里、落ち着け、これは罠だ。なにを見てるのか知らないけど、きっとでたらめだ、ねつ造だ、悪意のある再現映像だ」
「そうかな、でもちゃんと透かしでコピライト表示も入ってるよ」
 ――無駄に著作権を大事にするゲームだなぁ、おい。
 まぁ、宣伝効果を期待してなのかもしれないが。
 なにしろ、プレイ画面のネット配信は、いつの時代も根強い人気を誇るコンテンツなのだ。
 こうなってしまうと、ムービーの真贋については、ごまかしきれそうにない。
「友里、聞いてくれ、俺は友里は落ちたものとばかり……」
「盾にするくらいならまだしも……なっ、投げ飛ばすとかっ……ありえないよ!」
 時翔の背中にまわされた友里の手がマジックローブを引きちぎらんばかりだ。
「ちゃ、ちゃうねん……」
 標準語の放棄に動揺を隠し切れない時翔。
「あんまりだよ……よくも……よくも……こんなっ!」
 友里の恨み節にひときわ熱がこもる。
「たのむ、友里、落ち着いてくれ、あれだ、肉を切らせて骨を断つってヤツだ」
「言い訳なんて聞きたくないよっ、死体損壊罪だけでも有罪確定なんだからっっ!」
 友里は体を離し、時翔の鼻先に人差し指を突きつけながら弾劾する。
「いや、それは飛躍しすぎだろ……」
 だってアバターなんだから――とは思ったものの、よく考えてみれば生身だったんだよな。
 悪かった、忘れてた。
 そこは申し開きがつかない時翔だった。
「って言うか死んでないし!」
 はい、そうでしたね。結果的には。
「くっくっく、はっはっはっ」
 安藤が堪えきれなくなったとばかりに、涙を流しながら腹を抱えている。
 しっかし、なんつー大人げないヤツなんだ。
 いつのまにか隠しキャプチャなんかしやがって。
 三分の猶予とか言い出したのはこれが目的だったのか?
 しかも視界外の画面をキャプチャできるなんてまるっきりチートとしか言いようがない。
 今さらな憤慨をぶつける時翔だったが、そんな言い訳をしたところで、友里の怒りの矛先を変えるまでには至らないことも分かっていた。
「う、う、う……」
 友里はますます身を震わせながら怒髪エネルギーをチャージ中だ。
 両手のこぶしを握りながら、どす黒いオーラを全身から沸き立たせている。
 もうはや時翔の目の前も真っ暗になりそうである。
 と言うか、本当に暗くなってきた。
「ん? なんだ?」
 元々暗い宇宙空間ではあるが、星々の光さえもやけに光度を下げている。どういうわけか、ステージ全体が異様な雰囲気に変容しつつあった。
 当然この異変に気づいた安藤も笑いを止め、訝しげに辺りを見回している。
 時翔も360度の宇宙空間をチェックしようと視線を巡らせる。
 時翔がそれに気づいたのは、自分が浮かんでいる空間から後方を確かめようと振り向いた時だった。
 その目に映ったのは……
 暗闇だった。
 漆黒の闇。
 それは奈落の淵のようにぽっかりと口を開けている。
 その形はポータルゲートと同一ではあったが、通常のポータルゲートのように青く光を放つことはせず、後方の星の光を遮っていることで存在を主張しているのだった。
「なっ、なんだこりゃ!?」
 待てよ……
 もしかして!
 時翔は目の前で殺人光線を放っている友里から目を逸らし、視線入力カーソルをコンソールウインドウに合わせる。そのまま大急ぎでログメッセージをバックスクロールしていった。
 ない、ない、ない、
 どこにもない!
 >マトリョーシカ@あああなんて名前付けるヤツとかバカじゃね? cast ビッグバンあたっく――の位置まで戻したところで時翔の予想は確信に変わった。
 探していた文字列、メッセージ。
 ――fizzle表示が見あたらない!
 つまり……詠唱失敗のシステムメッセージはどこにもないのだった。
 その意味するところは要するに、
 詠唱継続中――ということだ。
 もしも友里がタイムアウトでログアウトする事態となっていれば、そんなインフォメーションがログに表示される間もなかったであろうが、見ての通りに友里は落ちることなくオンライン中なのだ。
 ならばやはり、今現在においても詠唱は継続中であり、この異変は魔法のプリエフェクトと考えて間違いないはずだ。
 でも、それならば……
 ここで友里が、じわりとにじりよってくる。
 周りの異変など目に入らない様子で、頬を強張らせ、涙目のまま下唇を噛みしめている。
「友里、待て、おまっ、魔法がっ」
 友里は怒りのあまり我を忘れているが、一発逆転の目があるというならば、ここはなんとか友里を落ち着かせて、詠唱完了に持ち込ませたいところだった。
 もちろん発動するのはウィザードの最終魔法、袋とじ最強魔法である。
 それはまさに奇跡の一手、切り返しになるはずだ。
 だが……
 その願いをあざ笑うかのように、敵がその一手を先んじる。
 時翔が視界の端で捉えたのは安藤の所作であった。
 スペルブックのタッピング。
 安藤がなんらかの攻撃魔法を繰り出そうとしているのは明白だ。安藤とてこの不穏当な空気は痛いほど感じ取っているはずなのだ。なにごとかが起きる前触れであるのは予想の範疇だろう。それはこれまでにさんざん舐めさせられた苦杯であり、苦渋である。この期に及んで安藤に迷いはなかろう。
 時翔は脳細胞をフル回転させ、この窮地を乗り切る術を模索する。
 いや、熟考している暇なぞ――ない!
 時翔はもうほとんど反射的に友里の体を引き寄せた。
 できる限り友里を覆い隠すように安藤に背を向け、敵の射線を阻む体勢に持ち込む。
 敵がスペルを先行入力してしまっている以上、今から追いかけヒールをキャストしても無駄なのは明白だ。ならば友里への瞬時発動タイプのDDスペル、その一撃であればこれで詠唱失敗に持ち込ませる事ができる。だが範囲魔法攻撃であった場合はそこでジエンドだ。
「なむさん……」
 時翔は目をぎゅっと閉じ、その瞬間を待った。
 ……来ない。
 空振り、なのか?
 思惑は的を射たのか?
 しかしながら、安藤の魔法がターゲットロストで滑ったとしても、すぐに二の矢が飛んでくるのは避けられないだろう。
 その前になんとか……友里の魔法を。
 時翔が藁にもすがる思いで友里を見る。
 だが、腕の中の友里が勢い込んだ表情で時翔を睨み付けた。
「はなしてよ!」
「おい! 友里! ほら、よく見ろ! なんかブラックホールみたいなのができかけてるだろ!」
「はあ? わけわかんない、もうどうでもいいじゃん――どうせ私らの負けなんだから」
「いや、だから、おまえ、まだ魔法が――」
「はなしてって言ってるの! この人〈ピー〉人!」
 チャットフィルター殺しの単語を口走る友里。
「落ち着け友里、たのむ! あやまるから!」
「くっどーい! もうはなせ――――――!!」
 友里が思い切り時翔の体を両手で突き飛ばす。
 宇宙空間をバク転するかのように上下に一回転して飛ばされる時翔。
「うわっ――――って、ええ!」
 逆さまの体勢になった時翔の目に飛び込んできたのは、ポータルゲート。それも黒々と口を開けるブラックバージョンであった。
「そんな! なんで後ろに!?」
 なすすべもなく暗黒ゲートの中に吸い込まれていく時翔。
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――」
「え? え? え?」
 友里はきょとんとしてゲートに吸い込まれていく時翔を見送るばかりとなっていた。
 その時、
 突然友里のオーバーレイ視界に巨大なテロップが流れる。
 ――ACCEPTED――
 と。
「げっ! まさか!」
 驚いて安藤の方を見る。
 何もないはずの宇宙空間で踏ん張るように足をじたばたさせている安藤が、じわじわと引き寄せられていた。今しがた時翔が吸い込まれたばかりのブラックゲートに。
「キ、サ、マ……」
 脂汗をたらしながら唸る安藤。
 しかし抗っていられたのも束の間、まるで排水口に吸い込まれるように安藤も暗黒に呑まれた。
「あ、あれ? なんかしらないけど……、勝っちゃった?」
 呆然としながらつぶやく友里。
「だけど……ビッグバンって……こういうこと?」
 なんとなく大爆発が起きるのかと思っていた友里としてはどうにも拍子抜けな展開だった。
 釈然としない気持ちで時翔と安藤が吸い込まれていったブラックゲートを眺める。
 拡大するわけでもなく消滅するでもなく、相変わらず黒々とした口をあけたまま宇宙空間に浮かんでいる。
 それに、敵であるところの安藤が吸い込まれたところで、時翔が戻ってくるというわけでもなさそうだった。
 もちろん魔法発動者である友里は吸い込まれることはないのだろうが、これで終わりということなのだろうか。だとしても、いったいこの後どうなるんだろうか、と混乱するだけの友里であった。
 しかも前を向いても後ろを向いてもひとりぼっち。
 そしてだれもいなくなった――
 のだが、やがて変化が訪れる。
 おもむろに――じわじわと、周囲が明るくなり、宇宙空間が真昼のような光に覆われる。真昼のように、とは言っても、空気があるわけでも、反射物があるわけでもないのであるが、世界の背景そのものが、黒から灰色、白色へと変化していったのだ。
「う、まぶしい……」
 今や、まばゆいばかりの光に溢れた世界が友里の体を包み込む。
 まるで全方向から強烈なサーチライトで照らされているような光。
 友里は目を開けていられず、ぎゅっと目を閉じる。それでもまぶたを通して、強烈な光が差し込むのが感じられる。耐えきれなくなった友里は両手で顔を覆った。
 何も見えず、何も聞こえない。
 感覚という感覚がすべてオーバーフローしたかのようだ。
 じっと止まっているはずなのに、上も下も分からないのに、頭から真っ逆さまに墜落していくような感覚。
 でも、どこに?

 05

「あ……あれ?」
 どれくらい時間が経っただろうか。
 ふと気が付くと、目を射るような強烈な光は感じられなくなっていた。
 友里はおそるおそる目を開ける。
「ここは?」
 この二日間で、もう何度目になるか憶えていないほどの、ここはどこ? を口にする友里だった。
 たぶん、十回目くらいだよね?
 そろそろ終わりにしてくれてもいいんだけどね。
 などと言いつつ……
 それでも私はだれ? 状態にされていないだけマシ、というものか。
 そんなことを思いながら、自分の姿を確認する友里だった。
 これもすっかり恒例行事だ。
 服装は――ぼろぼろの魔法少女コスチューム――ではなかった。
 なんと、制服だ。チバラギ学園高校の女子用制服。懐かしささえ覚えるほどのコスチュームだ。
 ということは、今は完全に生身に戻ったということなのか。
 アバター、ハーフ・アバターと来て、ようやく元の自分の体に戻ってきたというわけだ。
 加速はどうだろう。
 自分の手の平を素早く開閉してみる。
 でも、自分では判断がつかない。
 今までの経験からすると、加速している場合、四肢の膂力《りょりょく》がアップすることはなんとなく分かっているけれども、比較対象がないことにはそれを自覚することはできない。
 下を見る。
 もちろん足下が見えた。
 見通しがいい。
 当然だけど、おっぱいスライダーの効果も発現していない。
 だけど……
 床がある。
 真っ白いタイル張りのような床。
 そこに友里は裸足で立ちつくしていた。
 でも周りは真っ白な世界。
 壁も天井も白一色で、そこに何があるのかも確認することはできなかった。
 これって……
 やはり、またぞろどこかに転送させられたのだろうか?
「トッキー! ドンちゃん!」
 叫べども、友里の声はなにもない空間にとけ込み、あっという間に霧散する。
 誰も応える者はいない。
「そうだ、ログアウトできるかも」
 友里は視界に浮かんでいるはずのメニューアイコンを探そうとする。
 が、なかった。――きれいさっぱり消えていた。
「そんなことだろうとは思ったけどね……」
 コスチュームが制服に戻っている時点で気が付いてはいたけれど、ソーサラーズのシステム空間にいるわけではなさそうだ。
 まぁ、それにしたって、いちいち驚いてはいられない。記憶を飛ばされていなかっただけでも御の字というところか。
 左腕に装着しているスマホの画面を確認してみるが案の定圏外であった。
「やれやれ……」
 友里が顔を上げ、前方に視線を戻した時だった。
「――!」
 友里の前方数メートルの場所にドアが出現していた。
 他にはなにもない空間に木製のドアが、ぽつねんと佇んでいる。
 友里は意表を突かれつつも、その顔に喜色を浮かべる。
「なんだ、ちゃんと脱出口があるじゃん」
 足早に駆け寄り、ためらうことなくドアノブに手を掛ける。
 軋みながら扉が開き、ドアの向こう側がつまびらかになった。
 友里が目にしたのは……
「な、なに? ここ……」
 ここはどこ? の回数記録更新である。
 そこは洋風の応接間のような部屋だった。絨毯が敷かれ、天井にはシャンデリア、右側の壁には作りつけの暖炉に火が入り、明々と燃えている。
 部屋の中央には長テーブルが鎮座し、奧の短辺――お誕生席、というかホスト位置にでっぷりと太った男が座っていた。テーブルの上にはステーキ皿が載せられている。
 男は髪も髭もぼさぼさ、モーニングめいたスーツを着ているが、こちらもくたびれた見てくれで、ネクタイもしていない。年齢は不詳だが、とりあえずおっさんであるのは間違いない。そもそも友里はこんなに太った人間を見るのは初めてと言ってもよかった。なにしろアダプターの基本機能であるところの体脂肪調整機能のおかげで、肥満体と言えばテレビで見る力士くらいしか見覚えがなかったからなのだ。そう考えると、この男の見てくれはただのアバターなのかもしれないとも思う友里だった。
 男は分厚いステーキを切っていたナイフの手を止め、友里の方に目を向けた。
「やぁ、やっときたんだね」
 男は脂ぎったにやけ顔で友里に声を掛ける。声は低いのに、妙にきいきいした響きが癇に障る。
「は? なに? あんた誰?」
 思い切り訝しげにつぶやく友里。
「僕かい? そうだなぁ――」
 男はナイフとフォークをステーキ皿にクロスさせて置き、ワインを一口飲んだ後、ゆっくりと言葉を繋いだ。
「ま、神様ってとこかな」
「神様?」
 友里はしかめ面のままで立ちすくむ。
「そうさ、神様。ゲームの、ね」
 ――なに言ってるんだこいつ。
 ゲームの神様ってどういう意味だ? GMってことなのか?
「そう睨まないでほしいなぁ、怪しいもんじゃないし、心配ないよ。ほらほら、立ち話もなんだし、こっちに来て座りなよ」
 男は左側の角席の椅子を無いあごで指し示す。
 心配するっつーの。怪しすぎるっつーの。だいたいこのタイミングで、こんなとこに出てくるなんて、およそフレンドリー属性だなんて思えない。猜疑心全開の友里だった。
 とは言っても、ソーサラーズのシステムから離れてしまった今となっては、宣戦布告することもできない。それにゲームシステムのオーバーレイがないというのなら、いきなり魔法を撃ち込まれる心配はなさそうだ。
 友里は男を睨んだまま、ゆっくりと近づき、傍らで立ち止まった。
 近くで見ると、男の下半身はさらに肉の塊といった風体だった。椅子に納まりきらず、尻の肉がはみ出て、たるんだ肉が垂れ下がっている。
「そこに座りなよ、落ち着いてゆっくり話をしようじゃないか」
「いいよ、立ったままで」
「元気だねぇ、若い証拠だ」
 当たり前だ。なんにしたってのんびりと腰掛ける気になんてならない。
「なんか食べるかい? お腹減ってるだろう」
「べ、別にいらない、けど」
 どうせ本物じゃないだろうし、たとえ本物だったとしても、変な物を入れられるのがオチだろう。
「そうかい?」
「で? あんたって、GMさんなの? ソーサラーズの」
「ああ、さっきのはそういう意味じゃないよ」
「じゃあなに、あんたもあの安藤の仲間ってわけ?」
「それも違うかな、友里ちゃん」
「なんで私の名前知ってるの」
「そりゃあ神様だからね。プレイヤーの名前くらいは知っておかないと」
「プレイヤー? それを知ってるんだったらさっさとログアウトさせてよ。敵は倒したんだから。それともなに? 今ってクリア後のエンディングムービーかなんかなの?」
 それならば、そろそろクレジットのエンドロールが始まっても良さそうなものだ。
「残念ながら、それも違うね」
「くっ――」
 だぁかぁらぁぁぁ、
 いいかげんキレるよ? 暴れるよ?
「じゃあ――いったいここはどこなのよ!」
 ばしりとテーブルを叩きながら友里が怒鳴った。
 男の前に置かれているワイングラスがあやうく倒れそうになる。
 しかしながら友里としては最大級の胆力をもって、穏便に話を進めているつもりだ。
「うん、いい質問だね。ここはどこ? どこだと思う? 友里ちゃん」
 自称神様が、相変わらずはぐらかすような口調で言う。
「は? 天国だとでも言いたいわけ?」
「惜しいな、でもいい線いってるよ」
「……」
「キミが使った魔法を憶えているかい? あの魔法はビッグバンを急激に逆行させる魔法だったのさ。拡大の逆転であるところの収縮。つまり今はビッグバン開びゃく前の宇宙に戻ってしまったわけだ。だからキミがいた宇宙は今や存在しない。すべては原点に戻ってしまったのだから」
「ハァ……」
 朗々と語るデブ男に、友里の方は目頭を指でもみながら深いため息を吐《つ》く。
「あのさあ、もうゲームの話はお腹いっぱいなんだけど……私だってそろそろ帰らないとやばいんだよ。いいかげん遊び疲れたし、家にも帰らないと親が捜索願い出しかねないよ? いいの? 未成年者略取で捕まるよ?」
 しかしデブ男は目を伏せながらかぶりを振り、ふっと鼻で笑う。
「その心配はないね。なにしろ地球どころか宇宙そのものが消えてしまったのだから」
「なっ……んなわけないでしょ! ここはゲームの中なんだから!」
 茶髪を振り乱して猛然と反駁する友里。
「そう思うかい?」
 男はいよいよもって飄々と答える。
「当たり前でしょうが! だいたいあんただってどうせ引きこもりのゲームオタってとこなんじゃないの? それとも――やっぱり誘拐犯の仲間ってこと!?」
 テーブルをばしばしと叩きながら友里が噛みつく。
「まぁまぁ落ち着いてよ。物事には手順というものがあるんだよ。というわけで友里ちゃん、キミの望みを叶えるための手順を説明しようじゃないか」
「手順?」
「そう、手順さ。と言ってもそんなに難しい話じゃないんだけどね」
「で? その手順を踏めばこっからログアウトできるわけ?」
「うん、いや、ログアウトってわけじゃないな、どちらかというと世界の再生――いや、創世ってとこかな?」
「そーせー?」
「僕が創った世界をキミが完膚無きまでに破壊してくれたからね。こうなった以上、今度はキミが創造主になるのが道理というものだろう?」
「なにそれ、私にゲームマスターになれって言うの?」
「そうさ、ゲームの神様の座を――友里ちゃん、キミにゆだねようというわけさ」
「はあ? わけわかんない……まだるっこしいにも程があるよ」
「そんなに難しい話じゃないさ。世界の雛形は用意してあるんだ。後はキミが好きに選べばいいだけなのさ」
「へ? それって、サーバ巻き戻しみたいなヤツ?」
「うーん、まあそんなイメージでもいいかな?」
「んじゃ、さっさとやらせてよ。データ復旧すれば普通にログアウトできるんだよね?」
「友里ちゃんはせっかちなんだねぇ、せっかく創るんだから少しは悩んでもいいんじゃないかな?」
「悩む? なに言ってんのさ、ゲームデータ復旧するだけなんでしょ?」
「そうじゃないよ。キミにゆだねようとしているのは世界の創世なんだから」
「ちょっと……もしかしてめっちゃ時間掛かるとか言うんじゃないでしょうね」
「時間――ね。そうだなぁ、少し掛かるかもしれないねぇ」
「ちょ、やめてよ、ホストマシンって最新の量コンなんじゃないの? どれくらい待てばいいって言うの?」
「んー、まぁ、一応137億年くらいだね」
「……はーんっ、そうくるんだ。別にいいよ、そんなら世界は五分前に出来たことにするから」
「はっは。こりゃ一本取られたね。ああ、やっぱり友里ちゃんは神様の素質があるよ、僕が見込んだだけのことはあるね」
「ぐっ、とーにーかーくー、神様でも悪魔でもいいからさっさとやらせてよ!」
 勢い込む友里に対して男は馬耳東風とばかりに、ゆっくりとナプキンで口を拭う。
「うん、じゃあそろそろやりますか」
 男は椅子から立ち上がった。
 続いて短い両腕を万歳するかのように上に掲げる。
 瞬間、部屋の照明が落ちたかのように真っ暗になった。
「え? なに?」
 面食らった友里がきょろきょろと周りを見回すが、一切合切何も見えない。
「こらー! デブ夫! どうなってんのよ!」
 だが、男は答えない。
 すると突然、友里の頭上で一筋のライトが点灯した。
 暗闇の中、スポットライトを浴びたように友里の姿だけが浮かび上がる。
「さあ友里ちゃん、これから世界の創世だよ。おごそかに行こうじゃないか」
 どこからともなく――ではあるが、友里の頭上とおぼしき方向から男の声は響いてくる。
「……?」
 声はすれども姿は見えず。
 なのだが、エコーが掛かったような男の声は続く。
「じゃあ友里ちゃん、まずはキミの望む世界を具体的にイメージしようじゃないか」
「イメージ?」
「そうさ。キミは神様なんだから、どんな世界にすることもできる。以前と寸分違わぬ世界にすることもできるし、全く違った世界にすることもできる。どうだい? おもしろそうだろう? 神様冥利に尽きるってものさ」
「まだそんなこと言ってるの……そんなことできるわけないじゃん」
「できるさ」
 暗闇の天蓋から男が答える。
「わけわかんないよ……私はただ元の世界に帰りたいだけなんだ」
「そうかい、じゃあ元通りの世界ということでもいいよ」
「それでいいに決まってるじゃん」
「本当に?」
「……当たり前だよ」
 いいかげんくどいっつーの。
 もうさっさとやらせて欲しいんだけど。
 しかし友里の意に反して男の質疑は続く。
「本当にそれでいいのかな? 友里ちゃんは何も望まないのかな? 今までの世界のままで何一つ不満がないと言うのかな?」
「不満って……そんなのあるに決まってるよ、って言うか不満持ってない人間なんているわけないじゃない」
「ほらほら、あるんじゃないか、不満が。ならばそれが解消された世界にしてしまえばいいのさ。難しく考えることはないんだ、簡単なことだろう?」
「なっ……だってそんなこと言い出したらきりがないよ、しかも一から創るだなんて」
「いや、そこまでは言わないさ。なにしろ元の世界を復元するとなると複雑だからねぇ。宇宙の設計図を引くだけでも友里ちゃんはおばあさんになっちゃうよ」
「神様にも寿命があるんだ……」
「ああ、まぁ、それも自分で決めちゃえることではあるんだけどね。とにかくそれくらいは時間が掛かる作業だって事だよ」
「あーっ、もう分かったから、はやく次のコーナーに進めてよ」
「そう急かさないでほしいなぁ、これは僕にとっても大事な引き継ぎ作業なんだから、そんな適当にしたくないんだよねぇ」
「そんなもん適当でいいから」
「しょうがないなあ、じゃあ、はい」
 男がそう言うと、目の前の暗闇にダイアログウインドウが浮かび上がった。
 そこにはこう書かれている。

 ――宇宙コンストラクションウィザード――と。

「さあ、ここからスタートだよ」
「ウィザード?」
「そう、いわゆる対話形式ってヤツさ。魔法遣いの事じゃないよ」
 それくらい知ってるっつーの。
 だけどまた、めんどくさいことこの上ないのも予想できる。
 いい加減、辟易する友里だった。
「しっかしなに? このおチープなウインドウ。VBかなんかで作ったの?」
「LabVIEWだよ。結構高いんだから、バカにしないでほしいなぁ」
「うん、ごめん、知らない」
 冷たくあしらう友里だった。
「そうかい」
 寂しげに男が答える。
「うん、んじゃぽちっと」
 そそくさとダイアログ中のスタートボタンをタップする友里。
 いちいち釣られてたら日が暮れてしまう。
 漆黒の壁紙をバックに、ウインドウが次へと切り替わった。

 06

 さっきよりも大きなウインドウにいくつかのラジオボタンが並んでおり、説明書きが加えられている。

 ・新規作成
 ・ビッグバン宇宙ベースをエディット
 ・ランダム生成

「う? これは二番目でいいんだよね」
 その他のオプションにツッコミを入れたい欲求に駆られるが、やめておくべきだろう。
「そうだね、世界を元通りにするなら、それが一番手っ取り早いからね」
 手っ取り早いとか言いつつ、先は長そうだ。
 もうランダム生成でも良いんじゃないかという気もしてくる友里だった。
 しかもさっきはスルーしたはずの疑問が再び頭をもたげる。
「って言うか、なんでログアウトするためにゲーム世界を作り直す必要があるわけ?」
「それはねぇ、友里ちゃんが破壊した宇宙はミラー宇宙だったんだよね。ま、言ってみれば本来の宇宙が観測者を失ってしまったわけさ。だから存在しないのと同義ということになってしまったんだよ。そもそも超ひも宇宙理論によれば、ひとつの宇宙は別のパラレル宇宙からのホログラムにすぎないのであって、つまり――」
「ストップ。もういい。分かったから。次に行くから」
 男の話を強引に中座させる友里。
 訊いた自分がバカだった。
「そうかい」
 あっさり引き下がる旧神デブ夫。割合に聞き分けがいいのだけが唯一の救いである。
 とにかく、
 迂闊にツッコむのはやめておこう。そもそも私はボケ担当だったはずなんだ。
 自分を見失わないようにしないと。
 などと、宇宙における自分の立ち位置を再確認する友里だった。
「と言うわけで、ネクストボタンをタップ、と」
 ウインドウが切り替わる。
 今度はなにやらパラメータ入力の画面が出現した。
 なるほど対話形式というわけである。
「なにこれ、次元数を決めてくださいって言われても……」
「なんだい、そんなことで悩んでたら先に進まないよ。デフォルトのままでいいんじゃないかな?」
「デフォルトって、十一次元になってるけど……」
 ちょっと多すぎない?
 そんなにいっぱいあったっけ?
「とりあえず……四次元くらいでいいんじゃないの?」
 縦横奥行きプラス時間方向でいいんじゃなかったけ?
 うーんと唸る男。
「そのへんは正統派科学の考証に則ってるだけだからねぇ。なにしろ目に見えない世界だから……。ところで僕が最初に創ったテレビゲームを知ってるかい?」
「知らないよ、そんなの」
「あれはベクタスキャンだったんだよね。言ってみれば一次元の世界だったわけさ。ほんと、技術の進歩ってのはすごいよね」
 しらんっつーの。
「でもこれ、二次元にしたらどうなるんだろ」
 平面の世界? あれ、でも時間軸がないと動けなくなるのか?
 じゃあ、三次元、ってこと?
「いやあ、第一次元が時間軸ということにすればいいんじゃないかな?」
「そっか、じゃあ三次元にすればアニメの世界に入っていけるんだ」
「うん、まさに大友くんの夢が実現する世界だよね」
「キモッ」
 やめておこう。
 大きいお友達に知り合いはいないし、喜ばせる気も起こらない。
 そんな汗くさそうな世界はいやだ。
「あれ、友里ちゃんは二次元妹が欲しかったんじゃなかったのかな?」
 そんなことまで憶えてるなんて。
 自分でもすっかり忘れていた。
「あ、あれはちょっとした気の迷いだよ……」
 大友さんのツッコミを一蹴する友里だった。
「ほう、そりゃ残念」
「それに、私はペラペラ人間になんかなりたくないし、そんな薄っぺらい人間じゃないし」
「そうかい??」
 語尾を上げ過ぎだっつーの。
 もう何も考えず、デフォルトの十一次元のまま先に進める。
 その後も友里が聞いたこともないような各種物理学的な設定の選択肢が表示されるが、めんどくさいので全てデフォルトのままで先に進める。
「んもー、こんなことなら、全部デフォルト設定にする選択肢を作っといてよ」
 ひたすらネクストボタンをタップしながら友里が零す。
 もはやメッセージさえもろくに読んでいない。
「あああ……せっかく作ったのに……。もうちょっとコメントしてほしいもんだねぇ。それにせっかく世直しするチャンスなのかもしれないのに」
「そんなもんめんどくさいっつーの。ん、あれ? また画面がちょっと変わった」
「ああ、世界のエディットは終わったのかな? そこからは、自分のキャラをエディットする画面だよ」
「自分?」
「そう、神として世界を見守るための自キャラを決めるのさ」
「私は私でいいんだけど……」
「うーん、せっかくなんだから、そこはちょっと神様の特権を行使してもいいんじゃないかな?」
 そう言われても……
 いじるとしたら……
 やっぱ胸?
 悪魔の囁きに絆されそうになる友里だった。
「欲がないなあ友里ちゃんは。なんなら、人間以外にだってなれるんだよ」
「え? 人間以外って……猫とか?」
 実は気楽そうでちょっと憧れてたりするのだ。
 でも十年くらいで死んじゃうのはいやかも。
「別に有機生命体じゃなくてもいいんだよ?」
「は? なにそれ? ロボットとか?」
「それでもいいけど、なんなら、地球そのものにだってなれちゃうよ」
「地球?」
「そう、惑星そのものにだってなれるよ。惑星友里とネーミングしてもいい」
 おいおい。
 なんじゃそりゃ。
「ガイア理論の観点からすれば惑星だって生命体の一種だからね。なんなら太陽にだってなれるよ。悠久の年月を太陽系の守護神として星々を見守るのもおつだろう? 神様らしくていいじゃないか」
 それは確かに長生きは出来るだろうけど、あんまり楽しくなさそうだ。
 コンビニにも行けなさそうだし。
「うーん」と。
 腕を束ねつつ頭を捻る友里。
「って言うか、神様って不老不死なの?」
「うん、いい質問だね。まぁ基本的にはそうなんだけど、別にそうじゃなくてもいいんだよ。神様は万能なんだから、死ぬくらいのことはできて当然だろう?」
 まったくもって、わけが分からない。
 じゃあ、神様がいなくなっちゃったら世界はどうなるんだろう。
 世界が消えちゃうのか?
 そのまま続くのか?
 誰かに引き継ぐのか?
「はは、自分が消えた後の世界なんて、あってもなくても同じなんじゃないかな?」
 ちょっと……
 暴言を吐かないでほしいなあ。
 このデブ神様は。
「人間一人の命は地球よりも重い。言い得て妙だよね。友里ちゃんが死んだ瞬間に宇宙そのものが消滅するわけだ。まぁ、すでに一回消滅させてるんだけどね」
 どうあっても人を破壊神扱いする気らしい。
「まぁ、せっかく作った宇宙なんだから記念に残しておくのもいいよね。そうなると僕と同じように、後釜を選ぶのが順当ってとこかな?」
「はぁ? あんたは死んでないじゃん」
「これから死ぬのさ。友里ちゃんが新しい世界を構築した瞬間にね」
 マジ?
 いや……
 適当なこと言ってるだけか。
「言ってみれば、僕が行使する最後の奇跡ってところかな?」
 なんだ? 大空を渡る風にでもなるつもりなのか?
 まぁ、どうせ飽きて別のゲームでも始めるとかだろう。
 気にしないでおこう。
「じゃあ、とりあえず同じ地球、同じ時代、同じ日本って設定のままでいいのかな」
「もちろんだよ。そうじゃなきゃ戻ったことにならないじゃん」
「姿形も十六歳の友里ちゃんのまま、と言うことだね」
「決まってるよ」
「へえ、本当に友里ちゃんは欲がない子なんだねぇ。せっかくなんだから少しくらいはアドバンテージを持たせてもいいんじゃないかな?」
「なにそれ」
「うん、環境を変えたくないんだったら、自分の周りは今まで通りにしておいて、友里ちゃんのステータスだけいじるくらいなら誰にも迷惑は掛からないんだし……そうだなぁ、超美人にするとか」
「そ、そんなの整形じゃん、気持ち悪いよ。それに今のままでも充分かわいいし……」
「おっと……こりゃ失言だったかな」
「愛着の問題だよ。あ、でも、ニキビくらいは治しておこうかな」
「ついでに好き嫌いも治しておくのもいいんじゃないかな?」
「それはいい。どうせ食わず嫌いだから」
「……そうかい」
 さくさくと選択画面をデフォルトのままで進める友里。
「ん? なに? このセーブ間隔って」
「ああ、ただのオートセーブの設定だよ」
「どういうこと?」
「うん、世界の進行が気に入らない場合はオートセーブポイントからやり直せるんだけど、その間隔の設定だよ」
「それって……気に入らないことが起きたら巻きもどしてやり直せるってこと?」
「そうなるね」
「そんな……それこそゲームじゃん……」
「もちろん、やり直しが利くなんて思ってたら、とんでもなくいい加減に物事を決めてしまいかねなくなるよね。だって何度間違えてもやり直せばいいんだから。そして、そうなると時間は停滞して前に進まなくなる。リロード地獄に嵌り込んじゃうからね。そうは言っても、それが許されていないわけでもない。だって世界が巻き戻ったって誰も文句を付けることはできないんだから。そもそも誰も気づくこともできないんだから」
「誰も……?」
「そう、誰も。自分でさえも――ね」
「――!」
「例えば、そうだなぁ、一ヶ月が過ぎたある日の朝に時間が一時停止して、神様としての記憶が戻る設定にしておく。そこで戻すか進めるか決めちゃえるわけだ。もちろん再始動後の世界の自分はその記憶も持っていない。巻き戻したとしても、だからまた同じ失敗を繰り返すかもしれないし、運良くうまくいく可能性もある。ま、そこは確率論だからね」
「そんな……そんなことしてたらきりがなくなるよ……」
「だからこそのセーブポイント間隔なんだよ。つまりある一定区間を過ぎないと神としての奇跡を行使できないわけだ。選択肢が多すぎるのも困りものだし、少しは制限を設けておかないと収拾がつかなくなるからね。そしてセーブポイントを過ぎれば、しばらくは神様としての責務からは解放されるわけだ。神としての記憶と共にね」
「わけ、分かんないよ……。そんな物忘れの激しい神様なんて嫌すぎるんだけど……」
「んー、それならオートセーブはオフでいいんじゃないかな? 世界の巻き戻しは出来なくなるけど、その代わり記憶の操作はされなくても済むからね」
「そ、その方がいいに決まってるよ…… もう一人の私が勝手にやり直した世界を何回もやらされるなんて、まっぴらだよ」
「そうかい?」
「当たり前だよ」
「記憶が残らないってのがミソなんだけどねぇ。だからこそ神としての重責に悩まされることもないわけで」
「そんな、無責任な……」
「神様なんて、無責任なものさ」
「なっ、なら私はやっぱり神様なんかになれないっ。だいたい私の家はお東さんだし……」
「うん、友里ちゃんは寛容な神様なんだね」
「もともと神様なんか信じてないし」
「そうかい、じゃあ話は簡単だ。本当の神様なんて存在しない世界ってことにすればいい。喩えて言うなら、そうだなぁ……ドラえもんのもしもボックスに入って、もしもボックスの存在しない世界へ! って注文してから外に出る、みたいな感じかな?」
「なにその喩え……」
「分かりやすいと思うんだけど。ドラえもんのいない世界へ、でもいいけど」
「そんなドラえもん最終回は嫌すぎるよ!」
 って言うか……
 ドラミちゃんだって、もしもボックス(花柄)は持っていたはずだ。
 原状回復は簡単だろう。
「うーん……じゃあ、トロイの木馬作戦ってことでもいいけど」
「よけいに分からないって!」
「はは、ともかく、一般ピープルに身をやつすってことでいいんだよね」
「そうだよ、一般ピープル最高だよ」
「わかったわかった、じゃあなにもかも元のままということでいいんだね」
「……うん」
「本当に? 大金持ちになるくらいならいいんじゃないのかな?」
 ちょっと……
 いきなり下世話な話にならないでほしい。
 でも……そんなこと。
「世界経済を混乱させたくないから……いいよ」
「そうかい、まぁ、世の中お金が全てじゃないって言うからねぇ」
「そうだよ、お金がほとんどでもないんだよ……」
「それなら、これはどうかな? 友達百人居る世界とか?」
「百人って、いきなりそんないっぱい出来ても体がもたないよ。宝くじに当選した人じゃあるまいし」
「寂しいこと言うんだねぇ。持つべきものは友達って言うだろう?」
「別に友達に不自由してないよ」
「本当に?」
「当たり前だよ」
 って言っても、一人くらいしかいないけど。

 07

「ふーん、じゃあそうだな、せめて自分の人生だけでも順風満帆《じゅんぷうまんぱん》に設定するくらいなら、いいんじゃないかな?」
「順風満帆?」
「そう、なにもかもがうまくいく世界。あらゆる経験が幸福で満足のいく結果になる世界。いつでも自分の身に起きる出来事が自分の望み通りになる世界。それでいてその世界ではそんな操作がされていることには気づくこともなく、ふつうの世界でふつうの人生を生きているとしか思えない世界さ。ラヴィアンローズ、バラ色の人生ってヤツだよ」
「は? なに言ってんのさ……、そんなのまやかしじゃん……つくりものの人生じゃん……。サーバPCがダウンしたらあっというまに消えちゃう世界じゃん……」
「そうかな?」
「そうだよ、そんなのいんちきじゃん、ごまかしじゃん……偽物の人生じゃん」
「ふーん、それじゃあ訊くけど、本物の世界ってどういう意味だい?」
「そ、そんなの、私が私のままでいる世界に決まってるじゃん。なにもかもうまくいく世界なんて、それって結局はロールプレイじゃん。誰かのフリをして生きていくだけのことじゃん」
「そんなことはないさ、この世界では友里ちゃんはありのままの友里ちゃんでいられるんだよ。誰か他の人の役を演じるわけじゃない。なぜならいったんその世界に入ってしまえば世界が作り物だなんて自覚することなんてできないんだから」
「う……だけど……、なにもかもうまくいくなんて、それって結局自分の努力とか必要ないってことだよね……自分の力なんて関係なしに」
 愕然としながらも反論を試みる友里。
「もちろん、そうさ」
 しかし男は事も無げに肯定した後、続ける。
「だけど、どうかな。人生なんて努力や実力があれば認められて成功するほど公明正大にできていないんじゃないかな。成功した人が才能や努力だけで世の中に認められたように見えるかい。卓越した才能があろうが、たゆまぬ努力を続けていようが、一生日の目を見ない人の方がずっと多いはずだよね。そう、結局のところ運とチャンスがすべてなんじゃないかな」
「そ、そんなこと、ない……と思うけど」
「へえ……友里ちゃんは意外に真面目な人なんだね。じゃあそうだな、毎日テレビに出てくるアイドルグループなんてどうだい。あれって才能が必要なのかな? 大ヒットドラマやアニメなんてどうだい。どこかで見たことあるような二番煎じの焼き直しに思えることはないかい? 友里ちゃんは本が好きだったんだよね。権威ある文学賞の受賞作を読んでみたことあるかい。なんでこんな作品が受賞したのか首を捻るような作品はないかい? 人生の成功なんてほとんど運だとは思わないかい? だってそうじゃないか。しかるべき場所、しかるべき時代、しかるべき家庭に生まれたか、しかるべき教育を受けられたかどうか、才能を伸ばす力になってくれる人物に巡り会ったか、評価されるべき社会へコネクションが得られたかどうか、すべて運しだいじゃないか」
「う……そんなまくしたてないでよ……でも……でもだよ……」
 うーん、と眉間に指を押し当てながら友里がつぶやく。
「そうだ……今まで親や先生には、こう教えられてきたんだ……」
 キッと目を上げ虚空を睨みながら友里が言う。
「現実を見ろ! って」
「現実?」
「そうだよ! 現実だよ! 私は現実的な女なんだからねっ!」
「ふふ、でもね友里ちゃん、現実の実体ってなんだと思う?」
「現実は現実だよ。真実はひとつなんだよ!」
「そうかい? 現実って言ったって、それは友里ちゃんが見たもの、聞いたもの、触れたもの、味わったもの、匂いをかいだもの――その経験の寄せ集めだよね。友里ちゃんがこれから創る世界だってそれはなにも変わらないんだよ。言ってしまえばそれは素粒子の過程で起きているか、半導体素子の上で起きているかの違いでしかないのさ。いったんそこに入ってしまえば、友里ちゃんが知ることの出来るのは観察と経験に支えられた感覚だけなんだから。どんなに事象の成り立ちを突き詰めてみたって、所詮は経験世界の内側にしか世界は存在し得ない。そう、つまり現実なんてただの外観に過ぎないのさ」
「……」
「だから、ためらうことなんてないんだよ。考えてもごらん、現実なんて理不尽なだけじゃないか。理不尽で無慈悲、不平等できまぐれ。そんなあやふやなものに運命をゆだねるなんて、非合理的だと思わないかい?」
「理不尽……」
 デブ夫は続ける。
「そう、理不尽だよね。誰にも迷惑を掛けることもなく、誠実に生きていようが運命は無慈悲な災厄を与えてくる。本人にはなんの責任もないのに、無辜の善良な人の頭上にも、それは遠慮なく降りかかってくる。それでもそれが本物だからという理由だけで価値があることだと言えるのかい? そんなにまでして尊重すべきものなのかい?」
 善良な人々……
 確かにそうだ。
 ただ一生懸命に誰かのために力になろうとしただけの行為で、なんの非難も受けることなんてなかったはずの親切心で、それが報われるどころか、一方的に崖から突き落とされるような災厄を受ける人間はいる――見たことがある。
 そうだ、私は知っている。
 そんな女の子がいたことを。
 友里は両手を握りしめ、俯いたまま足下を睨み付けている。
「ふふ」
 唐突に男が笑い声を洩らした。
「桃果《ももか》ちゃん、だったかな?」
「えっ?」
 驚いて顔を上げる友里。
「もちろん知ってるさ。気の毒だったよね、彼女も。彼女こそ典型的な運命の気まぐれの犠牲者だったよね」
「う……」
「だからさ――」
「な、なに?」
「なかったことにすればいいじゃないか」
「なかったこと……」
「友里ちゃんが望むならあの事故もなかったことにできるんだよ。不幸な事故は帳消しにしちゃえばいいのさ。ほら、立派に成功した友里ちゃんになってあの子を迎えに行こうじゃないか。そうすればずっといつまでも幸せな友達関係を続けられるんだよ」
「ぐ……う……」
「さあ、納得したかな? どうだい? トップアイドルになる覚悟はできたかな? それともオリンピックのメダリストか、女子ゴルフの賞金女王なんてのも捨てがたいよね。さあ、なにがいいかな?」
 しかし……
 友里は、口を引き絞りながら体を震わせている。
 やがて、涙に潤んだ目を上げ、虚空に向けてキッパリと言った。
「いやだね」
 と。
「……友里ちゃん?」
「そりゃ、桃果のことは助けたいよ。もしできるんなら、あんな事故に遭わない世界に作り替えたいよ。でも……桃果は言ったんだ――言ってくれたんだ――私に」
 友里の両目に溜まっていた涙が頬を伝って流れ落ちた。
「誰も恨んでないって!」
「へえ、そりゃあ彼女ならそう言うだろうね。でもそれって本心なのかな。事故に遭うと分かっていたなら同じ失敗はするはずないよね。もしやり直せるんなら、彼女だって迷わずそうするんじゃないかな?」
「だとしても……私がやったことは、なかったことになんてできない……。誰も赦してくれないんだ。無実になんてできないんだ。だから……だから……」
 握り拳に力を込めながら友里が叫ぶ。
「私だけ幸せになんてなれないっっ!」
「友里ちゃん」
「なっちゃいけないんだ! しかも、いんちきなんかしてっ」
「友里ちゃん、誰も友里ちゃんを責めたりしていないよ。それに友里ちゃんは良心の呵責は充分受けてきたはずじゃないか。もういいんだよ。きれいさっぱりなかったことにすればいい。不幸な記憶ごと消してしまえばいい。そうすれば誰も不幸になんかならないんだから」
「違う……違うよ、そんなの私の力なんかじゃない、私が解決したことになんかならない」
「そんなことはないさ。友里ちゃんの意思で世界が改変されるんだから。ね、リロードした世界で改めていい関係を築き上げればいいじゃないか」
「だ、だめだよ……そんなのチートだよ、いかさまだよ。なんの苦労もなく手に入るアイテムなんて嬉しくもなんともない。そんなのただの課金データじゃん、幻じゃん……」
「そうかな?」
「それに、ハッピーエンドしか用意されていないゲームなんてだれもプレイしたいなんて思わないよ」
「んー、ゲームだななんて思わなければいいんじゃないかな? それに一度この世界に入ってしまえば、そんな記憶もなくなるんだから。心配することはないんだよ?」
「そんな……シナリオが最初から決まってる人生なんて……まっぴらだよ……」
「そうかい? だとしてもそのシナリオを誰も見ることは出来ないんだし、書き換えることもできないんだから、そんなこと気にしなければいいだけなんじゃないのかな」
「気にするよ! だって……だってそうじゃん……エンディングがひとつしかないゲームなんて……そんな、そんなの手抜きじゃん。億万長者の上がりしかない人生ゲームなんて誰もやらないよ。そうだよ……そんなの、ぬるゲーでさえない! ただの――クソゲーじゃん!」
「そんな一本道ロープレに喧嘩売るようなこと言っちゃいけないな。それに人はだれしも幸福を望むものだろう? なにも悪い事じゃない、誰に遠慮することもないんだよ」
「……」

 誰もが望む幸福。
 そうかもしれない。
 でも……

 あの子は言った。

『アダプターが見せる幻影なんかじゃない。私だけの友里ちゃんが――本物の友里ちゃんがここに居てくれるから』

『だから、友里ちゃんの胸にもずっといさせて。私のこと』

 桃果の言葉が友里の胸を熱く貫く。

 そうなんだ、
 やったことは帳消しには出来ない。
 でも、無くした物を探しに行くことくらいはできるはずだ。
 それくらいなら、許されてもいいはずなんだ。

『きっとまたいつか――会えるよね。桃果に……。いやむしろ私が会いに行くから。だから待っててよ……ね?』

 そうだ……
 私は約束した。
 いつの日にか、
 どうにかして、
 私の方から会いに行くって。
 会いに行ってみせるって。
 探し出してみせるって。

 誰かが幸福になるためには誰かが不幸になる。
 それはきっと、
 桃果のことだけじゃない。
 たぶん、
 私が知らないうちに傷付けてきた人達もいっぱいいるはずなんだ。
 だから……
 そう考えたら、
 そう思ってしまったら……

 男が静かに語りかける。
「さあ、友里ちゃん、選びなよ。楽園への道を」

「やだっ! やっぱりできないっ――私にはっ!」
 友里の声ががらんどうの空間にこだました。
 そして沈黙。
 暗闇の世界を静寂が支配する。
 やがて、男が言った。
「ふーん」
「…………」
「じゃあ友里ちゃんは運命の女神に全てをゆだねてもいいと言うんだね」
「……い、いいよ」
「確実に幸せになれる道が目の前に開けているのに?」
「確実な……幸せ?」
「そうさ、そしてそれは人生の最終目標なのさ」
「ぐっ……う……」
 当然とばかりに断言する男の言葉に、友里は再び瞠目してしまう。
 でも……
 幸せ……? 幸福……?
 それが……それこそが……?
 目標? 最後の? 究極の? 至高の?
 いや……
 友里は突き上げる感情をおしとどめるように、ぎゅっと目を閉じる。
 いやいやいや、
 違う!
 違う違う違う違う違う違う――
「ちがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁうっ!」

 目を閉じたまま絶叫する友里。
 そして、ふっと目を開けてつぶやく。
「そっか……」
「……?」
「…………分かった」
「うん?」
「今分かったよ……」
「なにがだい?」
「私は……私は……きっと……」
「きっと……?」

「幸せなんて望んでないっ」

 私がなんのために生まれてきたのかなんて知らない。
 人生の意味なんて分からない。
 だけど、
 だけど……これだけは確かに言える。
 私の願いは、
 私の思う最高の人生は、
 ただ幸せになることなんかじゃない。

 私は……
 幸せになるために生きてるわけじゃない。
 そんなことのために生まれてきたわけじゃないんだっ。

 そうだよ……
 グッドエンディングなんてただの選択肢のひとつなんだ。
 ハッピーエンドなんて子供だましなんだ。
 だから――
 そんなの、
 そんなっ
 ハッピーエンドなんて必要ない。
 大団円なんてどっちらけなだけだ。
 スタンディングオベーションなんて怖気が走る。
 そんなもの邪魔なだけなんだ。
 だから――
 作られた幸せなんて――
 お仕着せの幸福なんてっっ――――

 そんなもんっ――――!!

「クソッ喰らえだよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ――――!!」
 
 ………………
 …………
 ……


「そうかい」






 エピローグ

 01

「友里、おい友里」
「……ん、んん……」
 教室の床に横たわった友里がゆっくりと目を開ける。
「目が覚めたか?」
「うん……あ、トッキー……」
 目をこすりながら友里が時翔のほうに顔を向ける。
「そうか、体、動くか?」
「うん、なんとか……」
「そうか」
「うん、で、さあ……やっぱり言わなくちゃだめなんだろうね」
「そうだな……」
 時翔が苦笑いを見せつつ答えた。
 ふぅ、と一息ついた友里が問う。
「で? ここはどこ?」
「教室だ。校舎の三階の」
「教室?」
 がばっと飛び起きる友里。
「教室……? 学校……ほんとだぁ」
 友里が頭を振りながら周りを見回す。
「ああ、俺たちの学校だ。壊れてないぞ」
「うん、ちゃんと天井も直ってるね……」
 もちろん、最終的には校舎どころか地球ごと破壊せしめたわけであるが、結局のところVR落ちということで事なきを得たようである。
「はぁぁぁぁ、よかったー」
 深い安堵のため息を吐く友里。
「あ、ドンちゃん! 無事だったんだ」
 時翔の隣に佇む女教師アバターを見とがめた友里が言う。
「はい、なんとか」
 ドン亀さんはどことなく憔悴した雰囲気ながら、安堵感を滲ませる微笑で応えた。
「私も、トッキーも、制服に戻ってる……ってことは、ログアウトできたの?」
「そうみたいだな。俺もさっき目が覚めたばっかりなんだけど」
「実は……私もなんです」
 ドン亀さんが決まり悪そうに告げる。
 そもそも仮想体であるドン亀さんに、無事という表現が当てはまるのか怪しいところだが、大過なく再ログイン出来たということで、意味合い的には間違いではないようだ。
「それより、あの後どうなったんだ? 俺たちが無事だということは安藤は倒したってことだよな?」
「え? うん……多分……トッキーの後から、アイツもブラックホールに吸い込まれていくのは見たから」
「そっか……で、それからどうなったんだ?」
 時翔もドン亀さんもキャラ死亡の直後、意識の断絶に陥ってしまっているので、その間に何があったのかは分からないのだ。
「うん、それからなんか今まで変なムービーを見せられてたような気がする」
「おいおい、またかよ……」
「うん、なんかもうよく憶えてないんだけど」
「それって、SGGSとかいうヤツだろ? まったくとんでもないよなぁ」
 それとも、頭の打ち所でも悪かったんじゃ……と思ってしまう時翔。
「まぁいいじゃん、ちゃんと戻って来れたんだし。選択肢は間違わなかったってことだよ」
「なんじゃそりゃ?」
「ところで……私達ちゃんとログアウトできたってことはアイツは逮捕できたんだよね?」
 友里が思い出したようにドン亀さんに訊ねる。
「う……、申し訳ありません……逃げられてしまいました……いえ、正確に言いますと、彼のシステム上での死亡は確認しているのですが、彼の本体は組織からの不正サルベージで追跡を免れたようなのです」
「ええっ、また?」
「面目ありません。あそこまで追い詰めておきながら……。しかし彼も強制同期を行使した以上、無事では済んでいないはずですが……」
 はて? 追い詰めたっけ? と、疑問に思う時翔だったが、落ち込んでいるドン亀さんが気の毒なので、そういうことにしておこうと思うのだった。
「でも、それじゃあなんで私たちログアウトできたの?」
 友里がもっともな質問をする。
「はい、それが……なぜか気が付いたらログアウトしていたのです」
「気が付いたらって……アイツの持ってるご禁制のコントローラを無効化しないと駄目だったんじゃなかったの?」
「そ、そうなのです。そのはずだったんですが。いっさいダメージを受けることもなく、戻れてしまったのです」
「へえ? なんで? 私たちの日頃の行いがよかったからかな?」
「マジレスさせて頂きますと、友里さんが最期に放った、魔法攻撃がシステムに影響を与えたとしか考えられません」
「それって、そういう特典だったんじゃないんですか?」
「い、いえ、そんなはずはないんですが……」
「そうなんですか」
「ただ……」
「……?」
 ドン亀さんがためらうように言葉を繋ぐ。
「ログを参照したところ、システムが瞬断した形跡が残っているのです」
「瞬断?」
「はい、友里さんが目を覚ますちょうど五分前のことなのですが……」
 どういう事だ?
 停電でも起きたのか?
 まぁ、確かに最後に友里が放った魔法は自爆プログラムみたいなものだった。
 システムが異常動作に陥っても不思議ではなかろう。
「ということは、俺らが気絶している間にサーバが再起動したってことですか?」
「いえ、シャットダウンしたログは残っていませんし、電源が完全に落ちた記録はないのですが、一瞬だけアダプターとの位相同期アンロックが検出されているのです」
「んー、それって、そんなに珍しいことなんですか?」
「……そういうわけでもないのですが……やはりその一瞬のアンロックが幸運にもハッキングプログラムを無効化してくれたとしか考えられないのです」
 つまり、結果オーライってことのようである。
 後先考えない友里の行動ではあったが、結局のところ安藤を倒し、ついでにハッキングレイヤーからのソフトランディングまで可能にしてくれたわけだ。
 なんだかんだ言っても友里のお手柄なのは認めざるを得ない。
「うん、よくやった、友里」
「へへ、いやぁ、それほどでもあるけどね」
 友里がふやけた笑顔で胸を張ってみせる。
 時翔は友里の頭をよしよしと撫でつつ、指でクシけずるフリをしながら、こっそりその手を後頭部にまわす。
 ん? おや?
 あれほど腫れていたたんこぶがきれいさっぱり消えている。
 友里の治癒力は現実においてもチートレベルということなのだろうか。
 いや、あのおおげさな腫れ方は単なるエフェクトだったようである。そのせいかどうかは測りかねるが、あれほど激怒していた死体損壊罪のことも忘れてるみたいだし。
 ふう――と。
 密かに胸をなで下ろす時翔だった。
「あ、ところで今何時?」
 はたと気づいたように友里が尋ねる。
「午後七時を回ったところです」
「ええっ、まだそんな時間なの?」
「はい、基本的に十倍加速で過ごしていましたから」
「そういえばそうだっけ……私なんて、もうてっきり朝になっているかと思ってたのに」
「そうですね、友里さんは特に思考加速も受けていましたから、なおさらそう感じるのでしょう」
「んー、でもドン亀さん。俺らのアダプターはホントになんともないんですか?」
「アダプター、ですか……?」
 そうなのだ。
 今までさんざんひどい目にあった諸悪の根元。
 いわゆる、不正強制同期。
 それに伴うパルスショック。
 少なからずそれを受けてしまっている二人のアダプターは、すでにかなりのダメージを受けていると聞き及んでいる。
 しかもドン亀さん曰く。
 ダメージを受けたアダプターは不安定になり、時翔達が生活していたレイヤー。つまり、レジットレイヤーに戻れなくなるかも、という話だったはずだ。
 そこのところ、どうなっているのだろう。
「それは……詳しく調べないと分からないのですが……お二人のアダプターは、今のところ至って正常動作しているようなのです」
「ほんとに?」
「はい、不思議なことに」
「…………」
「まぁいいじゃん。そんなにヤワじゃなかったってことだよ。私らの心臓は」
 どん、と自分の胸を叩きながら友里が剛気に言う。
 うーむ、友里が言うと説得力あるかも。
 なんてことは今の空気が読める人間なら言うべきではなかろうが。
「それで? もう家に帰れるんだよね?」
「そうですね、お家の方も心配している頃ですから、今日のところは速やかに帰宅してください」
「もう、襲われることはないんですよね?」
「大丈夫です。アダプターは安定していますし、こちらからネットにログインでもしない限り、彼らも手を出すことはできません」
「そっか……」
「じゃあ、俺が友里の家の前まで送っていくよ」
「ほんと?」
「ああ、当然だろ? 俺としちゃもうパトカーか救急車でも呼びたいくらいなんだ」
「ひうっ」
 と、時空警察ドン亀さんが鳩豆顔《はとまめがん》になる。
「すいませんすいませんすいません……私が頼りないばっかりに……うう」
 くすりと含み笑いを洩らしてしまう時翔だったが、ドン亀さんに向き直り軽くかぶりを振ってみせる。
「冗談ですよ。ドン亀さんは立派に職務を果たしてくれました。そのおかげで無事に戻ってこられたんだと思ってますから」
「うう……ありがとうございますぅ」
 仏様を拝むように両手を胸の前で組み合わせ、涙目で言う女教師アバター、ドン亀さんだった。
「どれもこれも、お二人の協力の賜物ですぅ」
「いえいえ。でもドン亀さん、ほんとに俺らのアダプターはなんともないんですか?」
「はい、サーベイヤでループバックテストしてみても同期に不具合は見られませんでした」
「レジストもオーケーってことっすか?」
「はい。今回はちゃんと代行申請して終わらせておきました」
 うーん……
 なんとなく不安は残る時翔だったが、そうは言ってもここは見慣れた木場倉学園高校の教室ではあるし、自分の体もコスチュームも現実の自分に戻っている。もちろんそれは友里も同様で、胸も安定のちっぱいに戻っている。
 戻ってきた――のだ。
 なにもかも、現実に。
「心配なさらないでください、当面はお二人のアダプターを重点監視対象に指定しますから」
 監視って、それはそれでなんか嫌なものがある。
 しかし、知らないうちにお隣さんのエリアへ行ってしまうようなハプニングもゴメンだ。
 さすがにもうやめてほしい。
 そのための監視であれば致し方ないこととして甘受するしかないのだろう。
「……よし、じゃあ帰るか」
「うん」
 友里がにこやかに応える。
「ドンちゃんも引き上げるの?」
「はい、逃げたイグナイターの捜査もありますし、まずは本部に戻って報告書を書きませんと」
「そうなんだ」
 と言ったところで友里が、しまった、とつぶやく。
「補習プリント……」
「あー、そう言えば数学はやりかけだったな」
 やりかけと言うか手付かずのまま放ったらかしなのだ。もちろんそちらのほうはすでに教師の手によって回収されていることだろう。
「まぁ、一応物理のプリントだけは終わってるんだからいいんじゃないか?」
「よくないよ……」
 はぁ、と意気消沈してため息を漏らす友里。
「ねぇ、今夜のことってドンちゃんから学校に説明とか出来ないの?」
「それは……」
 うん、確かにそうだ。事件に巻き込まれたのは間違いない以上、事情説明ぐらいはしてくれても良さそうに思える。
 一応警察ということであるのだから。
「実は、時分割法では六時間以内に現状復帰した場合には秘匿する義務がありまして……」
「へ? そんな……」
「申し訳ありません。規則でして、治安維持のために公表できないのです」
 心底申し訳なさそうに言うドン亀さんだった。
 まぁでも、そう言われてみればそうかもしれない。
 時空警察が公安めいた機関だということはなんとなく感じていたが、テレビやネットのニュースでこの手の事件の報道を見かけることがないというのも、そうした報道管制が敷かれているからに他ならないのだろう。
 なにゆえ全ての情報を開示しないのかは未だに理解しかねるが、世の中というのは、学校で教わるような自由で平等な社会ではなかったということだけは、しっかり勉強させてもらったと感じている時翔だった。
「まぁいいや、とにかく疲れちゃった……もう帰ろうよトッキー」
 急に糸が切れたように、うなだれて言う友里。
「そうだな、なんかすっげー体が重くなってきたし」
「あ、トッキーもなの? 実は私もそうなんだ。加速が解けたからかな」
「そうですね、過負荷運動がかなり長く続きましたから、そろそろ反動が来る頃かと……」
「うう、そんなこと聞かされるとなおさら体がだるくなるよ〜」
「しばらくは安静になさってください。栄養もたっぷり補給して」
「そういえばお腹ぺこぺこだよー」
「そうですね、かなり長い時間ブドウ糖補給しかしていないはずですから」
「……? ブドウ糖? そんなもん食べてないけど……」
「いえ、アダプター制御下のサージタンクのことです」
「タンク……って……そんなのあったんだ……」
「ええ、お二方のアダプターは76年式後期U型丙種ベースですから、もともと尿素分解機能と、乳酸置換機能を持っていて、前回のリビジョンアップでアドレナリン促進機能も実装されているはずです……えっと、この辺は学校で教わっているはずですが……あっ……カリキュラムが今年改訂されていますね。失礼しました」
「……」
 本当に――正真正銘の現実世界に戻って来れたんだろうか?
 と言うか、改造人間過ぎないか?
 日本政府の黒幕は、実はショッカーなんじゃないの?
 と、今さらな不安に駆られる時翔だった。
「では私はいったんこれで」
「えー? 家まで付き添ってくれないんだ……」
 不服そうに友里が洩らす。
「申し訳ありません……かなり前から帰投命令が出ていまして。それにお二人のアダプターは当面目を離さずにチェックしておりますので、どうかご心配なく」
「そうなんだ」
「はい、それでは本官はこれで――」
 ピシリと敬礼してみせる時空警察ドン亀さん、女教師バージョンだった。
「うん、ども……」
「それに」
「うん?」
「また近いうちにお目にかかるかもしれません」
「マジ?」
 それってアフターサービス的な話ということだろうか。
 いや、アダプターの監視を明言しているからには、それはあっても良さそうなものではあるのだが……。
「それでは、またいずれ」
 ドン亀さんはどこからともなく取り出した例の時空コントローラを操作し、夜の教室から姿を消した。

 02

 翌日、重い体を引きずって登校した時翔は、さらに輪を掛けてぐんにゃりしながら、机に突っ伏している友里に声を掛けた。
「よお、友里、早いじゃないか」
「ああ、トッキー、おはよう」
 おはよう面白活用ネタも尽きたのか、そんな余裕もないのか、普通に挨拶を返す友里だった。
「さては……、おまえもか?」
「もしかしてトッキーも? そうだよ、全身筋肉痛……なんだよ」
 もう声を出すのもいっぱいいっぱいな様子で友里が肩を上下させる。
「だいぶきつそうだな」
「だるっだるだよ〜なんとかしてよ〜」
「なんとかったって……」
 まぁ、時翔よりも友里の方が動き回っていたのも確かなので、その分ぶり返しも大きいのだろう。
「ねぇ、これってもしかして、今すぐ加速装置使えば楽になれるんじゃないかな……」
「おいおい、そんな、麻薬じゃあるまいし」
「……麻薬?」
 ぴくりと肩を震わせて友里がつぶやく。
「友里……?」
「そ、そうだね……よくないよね」
 急に自戒して背筋を伸ばす友里だった。
「いててて、やっぱ痛い……特に腰が……」
 そりゃそうだろう。重力に逆らった大ジャンプをあんなに何回もやってりゃ、背骨にきて当然だ。
「友里さーん、おはよー」
 と、ここで声を掛けてきたのは黒髪ツインお下げの女子、椎名東子だった。
 彼女はいつものように黒目勝ち、かつ涼しげな眼差しで、友里と時翔を交互に見比べた後、ふーん、と小さく唸った。
「さっき数学の先生に会ったんだけどー、プリントやらずに脱走したって怒ってたよ」
 むう、そんなことを報告しに来たのか。言われなくとも予想はしていたが。
「ま、まぁ、いろいろあって……」
 友里が東子の目線を避けるように横を向きながら小声で言う。
「へー、じゃ加治矢はなにしてたのー」
 いきなり水を向けられて狼狽する時翔。
「な、なにって、その、いろいろサプライズがあってだな……」
 腰をさすりながらしどろもどろで言う時翔。
 時翔の腰を冷ややかに見下しながら東子がつぶやく。
「腰が痛いの?」
「え? ああ、ちょっとな」
「友里さんも?」
「う、うん」
「へー、プリントもやらずに二人で腰が痛くなるサプライズやってたんだー」
 おい、
 オヤジギャグだろ、それ。
 つーか、そんなキャラだったのか、椎名東子よ。
 と、内心で喫驚する時翔だったが、かといって事の次第を説明するわけにもいかない。
「そっか、私の知らないうちに二人とも大人になってたんだねー」
「だから、違うって」
 椎名は、ふふっと笑い、
「それにさあ、今日の友里さんなんだかお肌つやつやしてるしー」
「お肌?」
「そう、だって――」
 言いながら友里の前髪を手の平ではらりとかき上げる椎名。
「ほら、おでこもつるつる、ニキビも治ってるし」
「え? ニキビ……?」
 あわてて自分の額に手をやってなで回すように確認する友里。
「ほ、ほんとだ、なくなってる……」
「なーんてね、冗談。ニキビに良い薬あるんだったら後で教えてよ、友里さん」
 じゃあねーと、軽くウインクをかまして自分の席に戻る椎名だったが、友里の方は椎名のほうを見もせずに手鏡で必死に自分の額を確認している。
「まさか……ね……」
「おい、どうした、友里」
「うん……なんでもないよ」
 手鏡をぱたんと閉じて首を左右に軽く振りながら友里がため息混じりに洩らす。
 時翔は友里のおでこにニキビがあったなんてまったく憶えがないのだが、やはり女の子はよく見ているものである。
 と言うか、友里は自分でも気づいていなかったんだろうか、治っていたことぐらい。
 朝鏡見たりしないのか?
 まぁ疲れていてそれどころではなかったのかもしれないが。

 その後も友里は授業中でさえも何事かを思い詰めているかのようにうわの空状態が続いていた。
 その行動はとにかく挙動不審だった。
 やたらとキョロキョロ周りを見回してみたり、はっと思いついたようにスマホの画面から何かを確認しているような素振りを見せたり、そうかと思うと自分の机や椅子を撫で回してみたり、といった具合で、とにかく落ち着きがなかった。
 まさか時翔に見えていないものが友里の目に映っていたりするのだろうか。
 いや、それはさすがにないはずだ。
 ドン亀さんの別れ際の言を信ずるならば――何か異常が発生しているならば、何らかのコンタクトはあってしかるべしだろう。
 だけどまぁ、友里の気持ちは分かる。無理のないことなのかもしれない。
 昨日散々なまでにAR詐欺に翻弄され続けていたのだ。もう人間不信ならぬオブジェクト不信に陥ってしまったとしても不思議ではなかろう。
 ある意味重度のPTSDを受けてしまっているといっても過言ではない。それは時翔にしても同じことである。
 いや、そもそも順応性が高いと思っていた友里でさえこの有様なのだ。
 やはり性急な情報開示は混乱の元を生み出す。ドン亀さんの説明は正しい現状認識に則った取り計らいだったのかもしれない。
 それにしても、友里の様子はちょっと病的とも思えるのだが……。

 放課後。
 数学のプリント四枚、つまり昨日のプリント二枚プラス二枚のプリントを渡された友里が机に向かっていた。
 時翔としても、昨日のこともあるし、さすがに友里を一人きりにするわけにもいかないので、昨日に引き続き付き添いを買って出たというわけだ。
 ようやく体の倦怠感も薄れて、なんとか補習プリントに挑めそうな友里だったが、頭脳労働はまた別の話なのだろう。
 敵前逃亡のペナルティとして倍単位のノルマを課せられた友里が、呆然としながら机の上のプリントに目を落としていた。
「増えちまったな、プリント」
「うん、おかげさまで、倍プッシュだよ」
「いや、別に先生は賭けに勝ったわけじゃないだろ」
 それどころか、負けが込んでいるのをどうにかして取り戻そうとする、泥沼ギャンブラーのそしりを受けそうである。
 おまけに友里を大穴だと見込んでいるのなら、とんだ自己破滅博徒である。
「とにかく、やるしかないな」
「そだね……」
 心ここに在らずといった風情で友里がつぶやく。
「うん、でも……やっぱこれでこそ現実って感じがするよ……」
 友里は一見意気消沈しているかのように見えるが、よく見ると微妙に口の端が上がっている。
「なんだ? なんとなく嬉しそうだな」
 友里がプリントを見つめる目にはどういうわけか慈愛にも似た色が浮かんでいる。
「うん、なんかね」
「変なヤツだな」
 友里はしみじみとした表情で印字された文字を指でなぞっている。
「いやあ、数学君、待たせちゃってごめんね」
「おいおい、なんか気持ち悪いこと言ってないか」
「いいんだよ。数学も大事な仲間なんだから」
「ゆ、友里……おまえ大丈夫か?」
 椅子から転げ落ちそうになりながら時翔が問う。
 ――いったいどうなっているんだ?
 何かの後遺症か?
 マインドコントロールでも受けてるのか?
「ドン亀さんに診てもらおうか?」
「ちょっと! そこまでおかしなこと言ってないと思うけど」
 まぁ、そうなんだが……
「それにさあ」
 真面目顔になった友里が時翔を見据える。
「なんだ?」
「あんまりドンちゃんの言うこと鵜呑みにしない方がいいと思うよ」
「う……」
 鋭い指摘……なのか?
 もしかすると、なかなかの慧眼と言えるのかもしれない。
 友里のくせに……
「そりゃ分かってるって」
「ホントかなぁ……だいたい見た目はどうでも、どうせ中身はおっさんってオチなんだから」
「そりゃ、そうかもな……」
 ドン亀さんの中身おっさん疑惑が完全に払拭されたわけではないが、はからずも彼女の本名とおぼしきものを聞き及んでいる時翔としては、内心では否定したい気持ちであった。
「そうだよ、しょせん大人の言うことなんて、あてにならないんだから」
「俺だって盲信してるってわけじゃないつもりだぜ」
「ふーん、ならいいんだけど」
 しかしまぁ……
 友里の心境の変化は、別にアダプターの異変というわけでもなさそうだ。
 とりあえず思い込みだろうが自己催眠だろうが、勉学へのモチベーションが沸いているなら、あえて水を差すこともないだろう。
 時翔はゆっくりとペンを走らせる友里の姿を黙って見守ることとする。
 例によって二人きりの教室に響き渡るのは、友里のシャーペンが机を叩く音と、先ほどから降り始めた季節はずれの天気雨が、窓ガラスを叩く音だけであった。

「ひー、終わったー」
 机に頭突きをくらわせながら、友里が悲鳴めいた声で言った。
「おう、がんばったな」
 教科書を参考にするのは許されているとは言え、苦手な計算をやり終えた友里は素直に賞賛に値する。そうは言っても友里の赤点は六教科に及んでいるため、あと二日は補習プリントを消化する日々が続くのではあるが、それは今は言うまい。
「もうだめ、知恵熱で頭ゆだりそうだよー」
「はは、じゃあ、プリント提出してさっさと帰ろうぜ。帰りがけになんか甘いものでも食っていくか?」
「え? マジ? トッキーのおごり?」
 うってかわって目を輝かせる友里。
「ん、まあたまにはいいか」
「ひゃっっほい! 何がいいかなぁ」
「現金なヤツだなぁ……まぁとりあえずドン亀さんにもたっぷり栄養補給をしておくように言われてるしな」
「甘いものと言えば近江屋だよね」
「じゃあ、あそこの回転焼でいいか」
「ん、それでいいよ」
「へいへい」
「だけど、近江屋に売ってるのは今川焼だけどね」
「? そうだったのか? 俺はてっきり回転焼だとばかり思ってたが……」
「それって同じものだから。地方によってはタイコまんじゅうって言うトコもあるよ」
 得意げに解説を加える友里。さすがは女子高生だけに、スイーツに関しては一家言あるらしい。
「そうなのか、よく知ってるな」
「だてにジプシー生活を続けてきたわけじゃないからね」
「そっか、やっぱり地方の文化は大事にしないとな」
「まぁ、神田今川橋はとっくの昔に海の底なんだけどね」
「そんなもん俺たちの生まれるずっと前の話だろ」
「でも、せめて伝統くらいは大事にしないとね。こんどトッキーにうちのお母がよく買ってくる、地方名物のおいしいラーメンを食べさせてあげるよ」
「そりゃ楽しみだ」
「インスタントだけどね」
「インスタントだって結構うまいからなあ」
「……」
 なぜだか唐突に黙り込む友里。
「ん? どうした? 友里」
「う、ううん……なんでもないよ」
 ぶんぶんと首を振りながら友里が言う。
「あ、私は卵焼きが入っていればそれでいいから」
「なんだそりゃ? 交換条件を要求するのかよ」
「へへ、そうだね」
「うーん……考えとこう」
 どうやら、つきあい始めて十ヶ月あまり、ようやくここにきて、お昼のお弁当を一緒に食べるというイベントに突入しそうな雰囲気である。
 随分長くかかったものだ。
「じゃ、帰り支度するから、ちょっと待っててよ」
「ああ」
 時翔は雨の具合を確かめようと窓ぎわから外を眺める。
「お、ラッキー。もう雨上がってるぞ」
「ほんと? よかったぁ」
 カバンに教科書を詰め込み終わった友里が窓際に駆け寄る。
「あ、虹が出てる!」
 言いながら、もっとよく見ようと友里が窓ガラスを開け放つ。
 校庭を挟んだその先に、切れ切れになった雲間から差し込む光で、大きな半円形の虹が見事な架け橋を作っていた。
「おお、ずいぶん立派な虹だな」
「そうだね」
 時翔がさりげなく横を見ると、友里の茶髪が風になびいて頬に掛かっていた。
「きれい……」
 うっとりとつぶやく友里。
 透き通るような夕刻の日差し。
 気持ちまで暖かくなるような光の中で、友里の頬が金色に反射して輝いていた。
「ああ……きれいだな……そこそこ」
「そこそこなんだ……」
「……ああ」

「ねえトッキー」
「ぉおーう、なんだ?」
 ぼんやりと友里の横顔に見とれていた時翔があわてて応える。
「虹って不思議だよね」
「不思議?」
「うん、なんでだか自分に見えてるこの虹って、私以外の人にも同じように見えてるのかなって、思っちゃうんだよね」
「そうなのか」
「もしかして、見えてるのは自分だけなんじゃ、って不安になるんだよ」
「ふーん、なんか分かるな、それ」
「そりゃあね、写真に撮ればちゃんと写るし、見えてるに違いないんだけど、本当に同じように見えてるのかなって考えちゃうんだよ」
「うーん、厳密に言えば光の反射なんだから、完全に同じってわけじゃないんだろうな」
「だよね、反対側からは見えないんだよね」
「ああ、確か」
 でも、そんなこと言い出したら、どんな物体も完全に同じ位置から見ていない以上、同じように見えてるわけではないのも確かだ。
 いや、そもそも別の器官を通して見ている時点で同じとは言えないような気もする。
 この辺はクオリアだかなんだかの、ややこしい話に行き着くはずなので、考え出したらキリがない問題だろう。友里はそんなめんどくさいことを考えているのだろうか。
 茶ボブのクラスメイトは、相変わらずぼーっとした表情のまま、遠くの造成地の斜面あたりから伸びている光のアーチを眺めている。
 が、ふっと洩らすように口を開いた。
「虹が地面と接する場所には、宝物が埋まってるんだよ」
「ん?」
 ややこしいことを考えていたのは時翔だけだったようである。
「宝物? 死体じゃなくて?」
「ぐっ、それは桜の木だっつーの!」
「そうだったな」
「だからぁ、もしも虹の麓《ふもと》までたどり着くことが出来たら、宝物をゲットできるんだよ」
「急にメンヘラ……じゃない、メルヘンな話になったな」
「ちょっと……さっきから無理にボケないでよ……」
「おう、ワリィ、友里が窒息しないかと思ってな」
「その設定はもう古いから」
「そうだったのか」
「とにかく……、そうだよ、子供の時に読んだ童話に書いてあったんだよ……アンデルセンだったかな? だから私……子供の頃、なんとか虹の真下まで行こうと頑張ったんだけど、やっぱり無理だったんだよね」
「なんか、可愛い話だな、それ」
「でも、今でもなんとなく虹を見たら、そこまで行ってみたくなるんだよ。無理なのは分かってても……」
「そっか」
「もしかしたら、まだどこかで信じてたのかもしれないね」[#「信じてた」に傍点]
「…………」
 ふっと一息、ため息を漏らす友里。
 そして小さく眉根を寄せると再び空に架かるアーチに目を向けた。
「そうだよ、いつか……行ってみせる。たどり着いてみせるんだ。探し出してみせる……きっと」
 どういうわけか決然とつぶやく友里。
 なんだか友里は時翔とは別のものを見ている様子である。
「宝物か……」
「うん、宝物だよ」
「あんな大きな虹だったら、きっとすげーでっかい宝箱なんだろうな」
「……ふふ、そだね」
 意外なことに……
 友里にしては珍しく――やわらかく笑った。
 まるで――
 百合の花がほころぶように。

「もしも……」
 ぽつりと友里がつぶやく。
「……?」
「もしも私が神様だったら、埋めておくんだけどなあ……宝箱」
「はあ? 神様? 友里が?」
「そう、全知全能の神様だよ」
 にへり、と笑う友里。
「そりゃ大変だ。うっかり神様の不興を買わないように気をつけないとな」
「そうだよ、私が気に入らない世界なんて消しちゃうんだからね」
「物騒な神様だな、おい。じゃとりあえずお布施しに行くとするか」
「うん、私カスタードホイップあずきミックスでいいよ」
「一番高いヤツだろ、それ」


 03

 それから数週間。
 友里がなんとか無事に単位をクリアし、落ち着きを取り戻す頃になっても、ドン亀さんは接触してくる気配はなかった。
 とりあえず二人のアダプターに問題はなかったということなんだろうか。
 まぁ、あの人のことだからすっかり忘れた頃に、ひょっこり姿を現すのかもしれない。
 さすがの友里もあのドタバタに懲りたのか、学校帰りにネカフェに寄ろうとは言い出さなくなっていた。
 もちろんそれは時翔も同じことで、ちょっとしたネットゲーム恐怖症に陥ってしまっているのだ。
 そうは言っても、ゲームにログインするまでもなく異世界にトリップしてしまう経験をしてしまった以上、安心はできないのだが。
 あれからしばらくは目に映る風景、手にしたもの、すべてに疑いが湧き、ついためすがめつしてしまうクセがついてしまったが、それも日が過ぎるうちに気にならなくなってしまった。
 大体そんな疲れることをしたくないのが人間というものなのだろう。
 疑いだしたらきりがない。
 結局のところ、生きていくのに都合が良ければ、よけいな猜疑心などを持ちたくないと思うのが人情というものなのだ。
 そして、あの数日間で時翔たちが経験した社会常識? は、やはり高校生という年代には非公開であるべき情報だったようで、それとなくクラスメイトにアダプター絡みの話題を振ってみても、いわゆる時分割同伴世界の知識を持っているものは一人もいなかった。
 もちろんあまり突っ込んだ話をすると、時空警察が飛んでくるかもしれないので、当たり障りのないレベルには留めたつもりだ。

 なんにしても平和で退屈な日常に戻って来られたのだろう。
 テレビでもネットでも、相も変わらず日々見聞きするのは、代わり映えのしないニュースばかりである。
 当然のことながら、時分割世界をほのめかすような情報は見かけることもない。
 少々興味を引いたトピックスと言えば、先日うちの学校近くの造成地から、ずいぶん昔の埋蔵金が出土したということぐらいだろうか。

 そう……
 なべて世はこともなし。

 天に神様がおわすのかは――知らないけれども。





 時空租界チバラギ! ソーサラーズ編 〈完〉


陣家
2014年02月08日(土) 03時19分39秒 公開
■この作品の著作権は陣家さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ

 この作文は今を去ること一年と少し前、厨二小説イベントで尻切れ蜻蛉で終わった、同伴下校とソーサラーズの完結版となります。
 完結させないと死ぬルールを自分に課した結果、しかも完結させますと宣言した手前、去年はこれ以外の文章はほとんど書くこともできず、一年以上を費やしてしまいました。
 これだけの文章に一体どんだけかかっとんねんという感じですが、ちびちびと書き足していって、なんとか終われそうなところまでたどり着きましたので、けじめを付ける意味で恥を忍んでアップさせて頂きます。
 内容的には、完全に自己満足作品以外の何物でもなく、ネタ的にもほぼR40指定と言えそうなものがほとんどなので、読者不在というのは重々承知しておりますが、もしも何かの弾みで読んで頂けて、万が一にもご趣味に合うお方がおられましたら、一言なりとも足跡代わりのクレームでも書き込んで頂ければ幸甚の至りと存じます。

 なお、本編は青空文庫のルビ形式、改ページ書式を一部使用しておりますので、TxtMiru2などのフリーソフト青空文庫リーダーにコピペすると反映されるかと思います。

 というわけで、ぼくがかんがえたさいきょうの異世界トリップSFファンタジーギャグ、ひとまずは完結です。


この作品の感想をお寄せください。
No.16  陣家  評価:0点  ■2014-09-05 01:20  ID:t3LtNRwV4B2
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丁寧に説明頂き、ありがとうございます。
さすがです。ズバリと言い当ててもらえたようで僕にとっては値千金のご意見でした。
読者がページを閉じるタイミング、そこですよね。
自分としては、なんとかページをめくらせるように苦心したつもりなのですが、まだまだでしたね。
考えてみると、たぶんこれは自分の読書スタイルからくる癖なのかもしれないと気が付きました。
自分の場合、なるべく頭使いたくない方でして、読んでてもなるべく脳みそを使わなくてもいいように書いてしまうのです。
斜め読みでも筋を追えて、2,3ページ飛んじゃっても気が付かないくらいが理想かあなあ、とか。
特に凝った表現や洒脱な言い回しがきらいな人間で、文章なんてあきらかな間違いさえなければ、問題ないよね、とか。
でも、うれしいことに丁寧に読んでくれる読者も少なからずいるとすれば、やっぱり一文を大事にするべきですね。
そもそも言い回しが面白くないならば、筋が面白いことが大前提であるべきで、文章もおもしろくなければ、お話もおもしろくないとなると切られて当然ですよね。
しかも、ギャグがメインであるはずの本作で50枚近くに至るまで、一か所もクスリともさせることができなかったというのは、作者の完全な敗北だったと思います。
天丼、脳内ツッコミ、ノリツッコミ、スラップスティック、シモネタ、パロディ、笑いの好みやツボは人それぞれ違うのは当たり前で、それを見越してもっとバリエーションを用意するべきでした。
そんなことは書き手は百も承知でなければギャグやコメディなんて書くべきではないですからね。
でもなあ、やはり難しいですね。自分の場合は特にノリツッコミに抵抗があって、片桐さんが面白かったと紹介してくださった作品のような、徹底したノリツッコミ(しかもシモネタ)の連弾はちょっと厳しいかもです。
いや、シモネタは自分も大好きで、結構たっぷり仕込んだのですが、出すのがちょっと遅かったようですね。
とはいえ、なんとかそういうのもうまく取り入れていきたいと思います。
今回は本当にありがとうございました。
No.15  片桐  評価:0点  ■2014-09-03 23:09  ID:n6zPrmhGsPg
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そういうことであれば、思いつくところを書いてみます。
辛辣になるかと思いますが、あくまで一サンプルとして捉えてください。
まず掴みが弱いと思います。
長大な物語として、これからどんな展開が待っているのだろうと興味をそそられることはありませんでした。プロローグがあり、よく見るヴァーチャル世界的シーンがあって、そのあとにはもう動きが感じられないシーンが続く。短いものならそれでも読みますが、この後もこんな感じがつづくのかなと思えた時点できついです(作者はそれだけで終わらす書き手ではないだろうと分かりつつも)。
言うまでもなく、ネット小説は、事前に面白いかどうかの保証がないですよね。冒頭で、お、これは、と思わすものがないと、もうページを閉じるのがふつうだと思います。その意味において、一章三節まで、これは、というものを感じられませんでした。
また、キャラクタも弱く、後に面白くなってくるという期待感を僕は持てなかった。だらだらと会話文が続くという作品に見えました。その会話文自体も、いまいち面白く感じられない。せめてひと笑い、ふた笑いないと、つづけて読んでいくのはきついです。こういうことも知っています、言葉で遊んでいます、的な面白さを狙った会話文と感じられましたが、始めの一笑いを感じられないと、つづけて読もうとは思えません。
また、地文もあまり良さがでていないと思います。手抜きというと言い過ぎでしょうが、読んでいて気持ちよくない。丁寧さが足りないからかもしれません。

 最後に。
 
 →荒涼とした大地に赤茶けた風が吹きすさぶ。
 と一章の書き出しにありますが、これも平凡すぎます。
 陣家さんの作品でなければ、この時点で読むのをやめたかもしれません。

とまあ、ざっと浮かんだのはこんなところです。
繰り返しますが、一サンプルとして捉えてくださいね。
No.14  陣家  評価:0点  ■2014-09-03 22:19  ID:t3LtNRwV4B2
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お久しぶりです片桐さん。
やあいらっしゃいませ。お待ちしておりました。
って、もうお帰りで?
これはとんだ粗相を致しました。
それは十分分かっちゃいるのですが、できれば一点なりともダメージソースを書き添えて頂ければ、とは思います。
確かにチャットで済ませるのは手っ取り早いし、意思を伝えやすいのはあるかもしれませんが、サイト利用者の多くはチャットを見られるわけではないので、意見ををまとめる訓練、感想批評をまとめるスキルアップの意味でも、なにがしか書き残してほしいと思います。
特に自分が欲しいのは改善ポイント、読み進めるのに障害となる部分の意見が是非とも頂きたいのもあって、かなり期待していたのすよ。
もちろんそれを理詰めで説明してよ、というわけではなく、この文章自体が趣味の赴くままに書きつづった物でありますので、自分の感覚では見えなくなっているポイント、抜け出せせずにいる隘路の出口がそこにあるような気がするのです。
ここに足跡を残して行かれた方の数十倍にも及ぶであろう第1話切りの代表としてクリティカルヒットを浴びせて頂きたかったです。

例えば、
うーん、そもそも、自分ではタイトルが良くないかなあ、と。
タイトルは作品の顔ですからね。
中身がパロディ満載なのはさておき、タイトルまでパクリ臭いのはさすがにヤバイかな、と。
なんのパクリかは、言わないでおきましょう。
ええ、あれですよ、サイバーパンクの始祖と言われる、例の。
反省してます。多分。
ありがとうございました。
No.13  片桐  評価:0点  ■2014-09-03 20:16  ID:n6zPrmhGsPg
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一章三節までは読みました。でも、それ以上読みたいとは思えませんでした。
分析的に語るのは僕の能力ではつらいので、とりあえずはこれだけ。
また、チャットで会えたらお話ししましょう。
No.12  陣家  評価:0点  ■2014-04-26 21:21  ID:/qwab7is9JQ
PASS 編集 削除
うお、まさかのまさかのイメージイラスト完成とは。
ちょっとした冗談でしたのに、まさにひょうたんから駒な展開です。
しかし仕事が速いですね。
たしかこの話をしたのは一昨日のチャットだったような……。
ありがとうございます。
楠山さんの作としては初めて見る大人の女性イラストでした。
落ち着いた雰囲気のコスチュームですね。
個人的にはもうちょっと胸が開いててほしいですが。
削除などととんでもない、もうこちらの投稿欄にコピーして統合したいところです。
イラスト、楠山画伯ということで。
とりあえずPCに保存させて頂きました。
でも考えてみれば、こういうコラボは今までなかったかもしれませんね。
もうTC、Pixiv化計画とでも命名しましょうか。
ともかく本当にありがとうございました。
No.11  楠山歳幸  評価:0点  ■2014-04-26 13:54  ID:3.rK8dssdKA
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 陣家さんへ

 拙書「オリオンをなぞる」にてドン亀さんのイメージ画をUPしました。
 いつものようにツッコミ所満載ですが、もしよろしかったら見て下さい。
 ご要望があれば削除します。

 少女剣士は無理なので十兵衛さんのイメージです。
 悪しからず。

 では。
No.10  陣家  評価:0点  ■2014-04-20 23:52  ID:kOIbAC2GXGY
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五月公英さん

お目通しありがとうございます。
五月公英さんは、SFやら、アニメやら、お笑い関係にも造詣が深いお方だと思っておりましたので、そちら方面での何某かのご意見伺えると嬉しかったのですが、特に感想なしですか。
とはいえ、最後まで読み通せたということでしょうか。
もしそうであれば、それだけでもありがたき幸せと存じまするです。
youtubeは一応チェックしましたが、最初のロープウエイのはいかにも素人の素撮りって感じで退屈ですね。
高さを感じさせるならば、窓枠や下をのぞき見てる人も一緒にフレームに入れないと。
まあ、最近はうるさくなったので、観光地でもカメラや動画は回しにくくなってきましたので、よほどの図太い神経がないと難しいんでしょうね。自分はやりますが。

二つ目のはなんかシーズンはずれちゃってる感もありますね。こういうのは寒いときにこたつの中で見たいものです。
三つ目は削除済みでした。

しかしなんだか五月さんとはいろんな意味で趣味が離れてきたのかもしれないですね。
自分はどっちかというと、べたなドリフっぽいギャグが好きなせいなのもありますが。

今作も神様ネタあたりで食いついてくれるかと思ったのですが、そうでもなかったようですね。

とにもかくにも、レスポンスありがとうございました。
No.9  五月公英  評価:40点  ■2014-04-19 18:56  ID:E5C7OdcrkHM
PASS 編集 削除
ちわー、宅配便でぇす。
お届けモノは、下の三点です。
ご確認をば。


高低差950m。

ttps://www.youtube.com/watch?v=yvxC_qsGnV4


気温-5℃

ttps://www.youtube.com/watch?v=Fq1oRy86p5Y


懐中電灯も、ぬか味噌つめれば出世魚。

ttps://www.youtube.com/watch?v=CS3TtEVdiso

拝読しました。
何か感想を…と考えていたのですが、どう書いたらいいのか分かりません。
で、差し入れという形で失礼を。
御容赦。
No.8  陣家  評価:--点  ■2014-03-07 00:42  ID:kOIbAC2GXGY
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ゆうすけさん。お読みくださりありがとうございました。
この1090枚にも及ぶブツを完結できたのはひとえに前回のイベントで、
これで終わり? まさか違うよね。と、お言葉を頂いた何人かの方達のおかげに他なりません。
とても一人の力では書ききることなどできなかったと思います。
もちろんゆうすけさんもそのお一人でした。
ほんとうに感謝の言葉もありません。
それでも正直に言ってしまうと、途中で、なんでこんなことに労力をつぎ込んでいるんだろうと、懐疑的になることもありました。でも、きっと完結させればまた読んでもらえるはずだ、なにがなんでも書ききってやろうと自分を鼓舞しながら書き進めました。
なので、本当に完結できて良かったとしみじみ思っています。
そしてこのような素人の雑文におつき合い頂いた上に過分な評価まで頂き、申し訳ないやら恥ずかしいやらで恐縮の至りであります。

正確ではありませんが、短文長文を全てカウントに入れて、この作はおおよそ人生で書き上げた十作目くらいの文章になります。
当方に文章力なんて持ち合わせはありませんが、なんとか苦痛なく読み進められるように苦心はしたつもりです。
実のところ自分はとてつもなく飽きっぽく、忍耐力のない人間なので、つまらないなあと思った時点でページを閉じてしまう方でして、とにかく一文読ませたら、次の一文を、一ページ読ませたら次の一ページをなんとか読んでもらえるように、消しては書き、消しては書きして枚数を重ねていく書き方で、なんとか最後までたどり着けました。
ある程度まとまった時点で、ボイスロイド弦巻マキ≠ウんに朗読してもらって引っかかる部分を徹底的に平易に書き直して音読に耐える形に整形したりしています。そういう訳で、書き手としてはかなり邪道だろうとは思っています。

舞台背景はいつものように陰惨な世界観なのですが、そうしないとおふざけが展開できない人間なので今回もやってしまいました。
なんだかんだ言ってもやっぱり日本人なのだなあと感じる部分でもあります。
とにかく読み手を裏切ることしか頭にないのでそろそろ裏の裏をかいて、最後までシリアスなんて展開なんてのも面白いかもしれませんね。

もちろん今作も一般受けなんてまったく考えず、ひたすら自分の趣味に走ったネタばかりになっています。
ちなみに自分が思う、誰がわかんねんネタ、そしてゆうすけさんレベルでないと分からないネタと思っているのを挙げてみますと……
友里アンヌ(ひし美ゆり子)
お許しください〜ポチッ(チャージマン研)
大別人ワンセブン(大鉄人17)
チェックメイトキングツー(コンバット)
と言ったところでしょうか。
そう言いながらも、最大の地雷は、
淫○ティディベア
ですが、決してググらないでください。

ゆうすけさんの趣味全開作品も楽しみにしております。
No.7  ゆうすけ  評価:50点  ■2014-03-05 11:14  ID:1SHiiT1PETY
PASS 編集 削除
 拝読させていただきました。R40ほいほいに捕まったゆうすけです。昔のゲームやアニメは分かるけど最近のは勉強不足で分からない……ちょっと寂しいかも。

 まずはこれだけの大作を書ききったことに敬意と称賛です。最後までだれることなく高いテンションを保ったままでの物語進行は素晴らしいと思いました。情熱を感じます。
 芳醇な語彙、面白い言い回し、軽快なセリフの応酬、さすがの文章力ですね。
 キャラクターもそれぞれキャラが立っていて面白かったです。それぞれが陣屋さんのアバターなんだろうな〜って感じ。
 いったいどうなったんだろう? と読者の興味をひかせて続きが気になる展開もいいですね。読み始めたら止まらない感覚……私好みなお話なのもあるかもしれませんが、つい仕事中に読破しているわけですし。
 舞台設定が面白いです。現実とゲームの融合、RPG的バトルをやるためのこじつけっぽい感じもありますが、ノリと勢いで押し切っているような印象です。
 実はドン亀さんが犯人かな? とか思っていましたが邪推でしたね。敵方勢力の背景とか、興味を抱かせてくれました。
 さてさて、これら素晴らしい要素をそれだけで終わらせないのが陣屋さんの陣屋さんたる所以なのでしょうね。何度も何度も読みながら笑って突っ込みましたよ。誰がこんなネタわかるんだよ! って。折角物語世界に没入していたのに強制ログアウトさせられてしまう瞬間ですね。なにやらロードス島戦記をコンプティーク紙上で読んでいて可愛いエルフの女性だと思っていたキャラを演じていたのがおっさんだったと知ったような……じゃないで、RPGリプレイを読んでいるような劇中劇のような感じになっているような気もします。陣屋さんが操るアバター達の活躍みたいな。分かっていてやっているんだろうな〜とニヤニヤしながら読みましたよ。ここら辺が自ら一般受けを捨てて、書きたいものを書くという姿勢に感じます。そんな陣屋さんが私は好きですよ。なんだか勇気をもらえました。
 よし、私もマニアックな知識と偏った趣味を生かして大作を書こう! そんな気持ちになれましたよ。
No.6  陣家  評価:--点  ■2014-02-19 00:09  ID:kOIbAC2GXGY
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gokuiさん初めまして。
私のほうは、gokuiさんのお書きになった作品にはまったく感想を付けていないにも拘わらず、このような長文を最後までお読み頂き、申し訳もありません。
面白かったと言って頂き本当にありがとうございました。

ええと、
誰の言葉だったか失念しましたが、
難解なことを易しく、易しいことを深く、深いことを楽しく書くんですよ
というのは、けっこう印象に残っている言葉なのですが、これって結局のところ最終的に楽しくなければ全て無駄なのだということを言いたいのだと思っています。
なので、まずは楽しんで頂けたのであれば本懐を遂げた思いであります。

設定の矛盾点についてはちょっとSFに触れたことのある人であれば、突っ込みどころ満載だろうと予想していました。
おそらくはあえて明らかな齟齬について言及を避けて頂いたのだろうとは思いますが、一応自覚はしております。
ただ、やはりそこは楽しさを優先するあまり手を抜いてしまった部分でもあります。
例えば女子の生理が始まるのは身長の伸びが止まる時期であることなど。
しかし、いかに悲惨な背景であろうとそれを描ききることで満足さを感じる読者も存在するわけですから、描ききることも必要だったのかもしれません。
でもそこはまぁ、続きを書くことが出来れば、後付的に設定を書き加えることでなんとか逃げおおせないかなと楽観している無責任な作者です。

さて、よく言われることですが、人類というのはテクノロジーを発展させて本当に幸せになれたのだろうかということがあります。
石器時代の日本人は一週間のうち二日働けば、一家全員を養えたとも言います。
そう考えると本当に人類は生産効率を上げることに成功したのかどうかも疑わしいのです。

そして思うのですが、ある時代の人類が考えうる最悪のディストピアが本当に実現したとしても、そこに暮らす人々は案外住めば都で自覚無く、それを仕方のない現実としてそこそこ楽しみも見いだしつつ生活しているんじゃないかと思うのです。
いや、そもそも今現在が過去から見れば最悪のディストピアであっても不思議ではないのかもしれません。
そんなことを考えていて、今作ができあがりました。
つくづく夢のない人間だなあと自分でも思います。
ありがとうございました。
No.5  gokui  評価:50点  ■2014-02-17 22:13  ID:3.rK8dssdKA
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 読ませていただきました。
 これだけの長編を一定レベル保ったまま書き終えたことに拍手したいと思います。面白いライトノベルでした。一度規定違反(完結ルール)で投稿されたものを、ルールに従い、完結させて投稿されたことも好印象でした。
 長すぎるボスバトル、マニアックすぎるネタ、ちょっとご都合主義な舞台設定(というか結構矛盾してるような気もするが……)などなどを踏まえても満点を入れたくなる作品でした。
 上記のご都合主義の数ある中から一例。最後の地球破壊状態のところですが、ちょっとリアルすぎます。というのは、ゲームなら破壊したものはちょっと間すれば復活すると思うからです。そうしないと荒れ放題なゲーム世界になっちゃいます。
まあ、そんなこと書きながらも、満点です。面白い作品を読ませていただきました。
No.4  陣家  評価:--点  ■2014-02-12 01:16  ID:kOIbAC2GXGY
PASS 編集 削除
えんがわさん
読んで頂きありがとうございました。

これほどまでの熱いお言葉の数々、まったくもって作者冥利につきる思いを噛みしさせて頂きました。
私の方なんぞ、えんがわさんの作品には短いネタばらしコメントを付けただけですのに、申し訳ないです。

ヒロインの子供っぽさは、どうにもこうにも作者の性格の反映でして、めっちゃふざけた奴ですし、取って付けたようなトラウマ設定も、いかにもテンプレートだという自覚もあったりします。
でもまずは、楽しさありきだとは思うので、主人公としてはこんな感じでご勘弁といったところです。
ドン亀さんについては、主要な登場人物の役割、いわゆるボケ役、ツッコミ役に対する大人な狂言回し役を与えたかったために、かなりご都合主義的なキャラになっていますよね。この辺はまだまだだなあと感じます。
でも個人的にマッドサイエンティストが大好きなので、思い入れの強いキャラでもあります。
なので、まずは味方として印象を固定するのもありかなあと。
まあ、デビルマンで言えば飛鳥了みたいなキャラですかね。
当然そういう展開も考慮というか、ぼんやりとしたプロットはあったりします。
今作では、匂わせる程度で、そこまでは描き切れませんでしたが、悲劇を描くにはまずは喜劇が描けなければという思い入れめいたものがあります。

バトルは楽しんで頂けたようで、良かったです。
なにしろラストバトルだけで500枚くらい使ってしまいましたから、途中でダレることがないようにということだけは気を遣いました。
ドラゴンボールも戦闘力インフレ状態のシリーズ終盤のバトルだと、敵も味方も地球を壊さないように気を遣いながら戦うはめになっていましたけど、どうもそれが歯がゆくて(一応、地球を壊すとドラゴンボールが壊れてしまうから、という理由付けはありました)一人ぐらい壊しちゃう奴がいてもいいじゃんという思いから、今作では思い切りそのフラストレーションをぶつける思いで、気持ちよく思い切り壊してみました。

当たり前の風景の描写。
そうですね、これも筆力を問われる難しい部分ですね。
普通の読者というのは、優しくない、と言うか、情け容赦もないのがデフォなので、当たり前にそこにあるものを普通に書いた時点で、ああ、なんかいっぱい文章が続いていくけど、こんな感じのことで文字が埋まっているなら、もう読まなくてもいいかな? と思うものなんだと思うのですよ。なにしろ自分がそうですから。
描写しないことで当たり前であることを表現できるか、当たり前のことを面白おかしく表現できれば最高なんですけど、そこに至るのはやはり高度な技術が要求されるものなのでしょうね。なんとか少しでもそれに近づけるよう精進したいと思います。

とにもかくにも、完読して頂き、本当にありがとうございました。
No.3  えんがわ  評価:30点  ■2014-02-10 16:39  ID:ci2fvnChkkc
PASS 編集 削除
一つの世界を疑似体験したような充実した読後感に浸っています。
この量を書けるのは凄いし、この量を読んだ自分は凄い、と言うか途中でギブアップしちゃうかなと思ってたんですがここに読み終えれました。作品の賜物です。

きっとそれは作者さんの熱量や密度が最後まで維持されていたり、途中でヒロインの感情、心理描写へとスイッチを替えたりして、
飽きさせないような工夫や構成のテクニックからじゃないかと思いました。
自分は良い以外の評価を付けれないヘタレでほんと申し訳ないのですが、これから読もうとしていて量にたじろいでいる方がいらっしゃったら、
ぜひぜひ読んでください、とても楽しい体験になります! と強くオススメしたいような、そんな作品でした。

ネトゲをしていないので幾つかわからない部分もあったんですが、おっぱいスライダーとか、でも小難しいわけじゃなく、専門的になり過ぎずに惹きつけられました。
人物は巧みだと思います。特にヒーロー・ヒロインのそれぞれの子供っぽくも重層的な心理の複雑さ、そして憧れてしまいそうになる二人のやり取り。
なんだろう。作品を通して二人の気持ちや関係が変わっていく、ってのではなく、あくまでも二人は何時もどおりという感じが、ほのぼのとしていて好きです。
この二人がとても自然体で寄り添ってくれるんで、多少専門っぽかったり難解な部分があっても、一緒に、まっ、いいかって思い。

えっと、ちょっと読むのが辛かったのが。
労苦を注いだとおっしゃる第二章でした。
設定説明の連続に、ヒロインがキレタりしたのですが、読者の自分もちょっとついて行けない部分があり、何だか哲学の講義を聞いているようでした。
最後の方のステーキを食べてる人の説明は、それほど辛くはなかったので、おそらくは、恐らくは、「ドン亀ちゃん」が説明下手なキャラなんだと思います。
真面目で、くだけるよりも実直さを重視し、その割にどこか遠いというか回りくどく、ミステリアスというより組織の機密で歯に衣を着せてしまう人物。
彼女は、何というか、硬い教師の授業というか、何というか一種の「お勉強」っぽさがあり。
じゃあ、性格を変えてみては、とは言えないほど、物語の中に組み込まれているので、ムズイ所だと思います。

最初の説明部分、状況的に危機感やハラハラが少ない、安心した舞台で行われたからダラダラ感があったのかなと思ったのだけど、
終盤の敵とのバトル時でのドン亀さんの説明も、それはそれで、緊急事態にだらっと解説してるのに違和感があったので、何か歯がゆいところです。
個人的に思いついたのは前半の時点では、ドン亀さんを「敵だか味方だかわからないミステリアスな存在」として描き続ければ、緊張感が持続したかなと思いました。
もちろん解説後まで「ドン亀」なのは伏せておいて。
「ドン亀」ネーミングはギャップを狙ったものかもしれないけど、余りにも親しみやす過ぎて味方っぽさ全開になっているように思えました。

ネットゲーでのバトルの描写は圧巻でした。
微妙に新しく古臭いそんな日常(?)世界の演出も、刺激的で面白かったです。

ただ一つ、あわよくば、異世界突入前の、ネットカフェでの人や雰囲気、学校での外観や雰囲気がもう少し丹念に描かれていれば、
そこが無人だったり廃墟になったりした時との落差が際立つんじゃないかと思いました。
当たり前の部分の描写ですが、折角の近未来という舞台と作者さんの筆力に、その当たり前を楽しく描写することも可能ではと思う、高い欲求です。

個人的に一番ハラハラしたのが、本を使う魔法(金色のガッシュとかを思い出しました)で、袋とじと言う笑えながら盲点だった荒業を繰り出してきたところ。
そして元気玉みたいな勝利を決定づけそうなタメ技をずいぶん前に出してきて、凄いと思うけどこれ以上に盛り上がる技って出るのかなと言う、
先読みを覆す怒涛の最強魔法のラッシュでした。
とにかくこの長さで息切れすることなく、クライマックスに行くにつれて盛り上がっていく構成には脱帽です。一生かかっても、自分には得れそうもありません。

何だか脈絡もなく、思ったことそのままって感じで、恐らく誤読もある、そんあ(な)雑感になってしまいすいません。
とても楽しい時間を過ごさせていただきました。感謝です。
No.2  陣家  評価:--点  ■2014-02-09 17:50  ID:kOIbAC2GXGY
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楠山歳幸さん、お目通しいただきありがとうございます。
こんなくそ長い文章を、こんなに早く読破なさるお方がいようとは思ってもいませんでした。
本当にお疲れ様でした。

自分は楠山さんの作品に全然感想も付けていないのに、すみませんです。

さて、前回イベントに投稿して以来、実のところ三ヶ月くらいは第二章を書くのに費やしてしまいました。
それくらい設定を煮詰めるのには苦労しました。
でもおそらくはここを読めるかどうかが、本作の死活を分ける部分だという自覚もあったのです。

本格SFと言われる作品がなぜ敷居が高いか、まあ読んでみれば分かりますよね。
映画化された有名作、例えばスターシップトルーパーの原作で機動戦士ガンダムの元ネタでもある、ハインラインの宇宙の戦士なんかを読んでみても、ほぼ全編未来世界の軍隊システムを延々と説明しているだけで、戦闘シーンなんて、全くないと言っても過言ではありません(ハインラインは軍隊出身なのです)。
小松左京の復活の日なんて、8割方はMM菌の設定説明に割かれています。
軌道エレベータで有名な、クラークの楽園の泉なんて、冒頭から王国だの騎士だのという話が飛び出し、高校生の書いたラノベを読んでいるのかと錯覚するほどです。
(おこられそう……)
でもやはり、それをやらないと、どうしてもできないこともある訳で、そこを完全に避けてしまうと、スペースオペラ的なものになってしまうのですよね。

というわけで、たとえ斜め読みだったとしても、何とかこの部分を乗り越えてもらえたのだとしたら、本当に喜ばしいことです。
多分SF好きの人にとっては、いいからさっさと説明しろよ、とじれったい思いを感じることでしょうが、はっきり言って自分も設定説明を延々と読まされるのは嫌いなので、こんな感じになってしまいました。
果たして成功しているのかどうか、怪しいところですが。
そういうわけで設定説明も中途半端なので、理解できる人はいないだろうと思います。

ミステリー要素
これは多分、アービターであるところの彼女の出自、目的の部分だと思うのですが、すべてを描ききるところまでは達していないだろうと思います。この辺は未だ構想中なのですが、いずれ主人公達と雌雄を決する展開が必要なのでしょう。
アービターのコールサインについてですが、実は元ネタはCA物語ではなく、家庭用FPSゲームである地球防衛軍に登場する武器が元ネタなのです。

まあ、それにしてもパロディネタが節操無さ過ぎですよね、昭和アニメから、最近のアニメまで、広すぎて、対象年齢不明ですよね。
最多登場ネタはDBとドラえもんですかね? やはり幅広い年代に親しまれていますから出しやすいです。
さすがに、まどマギネタや艦コレネタは新しすぎて失敗だったと思われます。

ともかく少しでも笑っていただける箇所があったとしたら、本当にありがたいことです。

ありがとうございました。
No.1  楠山歳幸  評価:50点  ■2014-02-09 01:31  ID:3.rK8dssdKA
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 読ませていただきました。

 ……。
 ええ。ええ。確かにわたしは陣家さんの作品を楽しみにしていました。
 616k。一瞬小数点が無いか探しました。知識もですがバイタリティ?にも脱帽です。
 何回かに分けて読ませていただこうと思いましたが、プロローグでなんだか笑ってしまい、三章あたりから夢中になってしまいました。説明はできませんが、読ませる力がありました。でも、このサイトは栞がないので20kぐらいに小分けしてくれたらもう少し助かったかなあ、と思います。
 ミステリー要素?が面白かったですね。なかなか休憩できず続きが気になりました。ヒロインも、冷めた目で見れば少年っぽい明るさのキャラという印象ですが、しっかりキャラと葛藤が描写されていて良かったです。
 最初は「おおゲームじゃあ!」と、ゲームをやらないわたしはほとんどついていけず、失礼と思いつつ斜め読みしてしまいました。それでも手を叩いて笑ったところがたくさんあり、ギャグセンスに唸りました。もっとも、イベントの続きを書くと宣言なさっていたのでここは当たり前なのですが。
 また、設定が素晴らしく、かつ、素晴らしく難解です。FをリアルにするためのSと理解しているつもりですが、どこがSでどこまでがFなのか、超低スペックなわたしには処理しきれませんです……。一言でいうと30年程昔のコンピュータの仮想記憶の世界なのでしょうか。激しく言い訳ですが、この世界観を理解できる読者が何人いるのだろうと思ってしまいました。設定説明のタイミングはセオリー通りと理解しているつもりですが、ここで振り落される読者がいたらもったいないと思います。本当に失礼ですが、尺を思うとここも斜め読みしてしまいましたすみません。でも、時間も量子世界という所はすごく興奮しました!
 弁護士と結婚したドジでのろまな亀のスッチャーデスさんを、はたして何人知っている読者がいるのか、ここも激しく謎ですね。
 と、難癖ばかり書いてしまいましたが、小説から離れてしまったやつでも大容量を一気に読んでしまうほど面白かったです。凄かったです。
総レス数 16  合計 220

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