翼の話
♢
 僕には小さい頃、一人の親友がいた。女の子だった。
 お母さんに聞いても、お父さんに聞いても、
「そんな子はいない」
 と言う返事しか返ってこない。姉ちゃんに聞いたって、
「夢でも見たんじゃないの?」
 としか返ってこない。
 確かに僕は、その女の子と、一夏をともに過ごした。野原で遊んだし、川でも遊んだ。一緒にお祭りにも出掛けたし、秘密基地を作って遊んだりもした。
 でも、彼女との想い出は、その一夏分しか無い。夏から後の記憶が、すっかり無いのだ。
 もしかしたら、本当にそんな子はいなくて、僕の妄想なのかも知れない。そう思うと、ぞくぞくと背筋が寒くなる。
 その事を考えるたび、僕は世界に一人だけ取り残された様な、そんな気がするのだ。
♦
 五歳の夏のある日、僕は一人で川縁に座っていた。ちょうどお盆の頃で、多くの人は帰省してしまったのだろう。街はいつもより静かだった。
 早く流れて行く水に、足を浸す。その場にしゃがみ込んでみる。
 水のしぶきが、顔に掛かった。水面を渡る風は、川の水に冷やされたのか、そこだけ、夏ではない冷たさだった。
 うだる様な暑さの、夏の日の事だ。
♢
 その日、僕が高校の屋上を訪れたのは、全くの偶然だった。
 四時間目の体育の時間、ふと校舎の屋根を見上げた俺の目に、奇妙な物が目に入ったのだ。
 よく晴れた初夏の空に、きらりと、白い物が光って見えた。それだけ聞くと、何か硬質な物をイメージしてしまうが、そんな事は無くて、それはとても柔らかそうに、風を孕んで靡いていた。
 うちの学校の屋上は、鍵などは取り付けられていない。生徒が自由に出入り出来る。けれど、誰も、暑くなり始めるこの時期に、好んで屋上に行こうとはしなかったし、そんな所に物を置いたりなんて事もしないはずだった。
 僕は、それを、何かの羽根なんだと思った。いつ拾ったのか解らないカケスの羽根に、質感がよく似ていた。壁に貼って、毎日の様に目にしているから間違いない。しかし、鳥の羽根にしては大きすぎる。病院なら、屋上に干したシーツを見間違えた、なんて事もあるだろうけど、ここは、まぎれも無く高校だ。
 とにかく、僕はその正体が気になったのだ。僕は、気になった事を放っておけない質だ。体育を終え、制服へと着替えると、すぐに屋上へと階段を駆け上った。最上階から屋上への階段は、誰も使わないからだろうか、床にも壁にも埃が積もり、空気は暗く淀んでいた。
 蝶番の錆び付いた、屋上へと続く扉を、肩で押開ける。ぎぎっ、と軋み、扉はゆっくりと開いた。埃っぽい空気の中へ、胸のすく様な風が流れ込む。
 そのまま、勢いをつけて、扉を開ききる。何者にも遮られない空が、果てしなく広がっている。
 僕は、暫く惚けた様に空を見つめて、それから、屋上を見回した。
 さっき、僕が見た物は何だったのだ。ここから見える範囲に、さっき見た様な物は無かった。
 そのかわり、一人の女の子が、座っていた。フェンスを背もたれにして、本を読んでいる。長めの黒髪が風に靡き、それが煩わしいのか、時折それを掻き上げ、耳へと掛ける。風で飛んでしまわない様に、注意して本のページを捲っている。
 ひとつひとつの動きが、僕の目を釘付けにした。
 だからだろう。その子が僕に気付いて、目が合ってもまだ、僕は声を掛けられなかった。
「君は、ここが好きなの?」
 耳元で話し掛けられた様に、よく聴こえる透った声だ。僕は、はっと我に帰る。
「そう言う訳じゃないですよ」
 ここに来た訳も話そうかとも思ったが、止めておく。
「あなたは?」
 僕が問いかけると、彼女は本をパタンと閉じた。閉じてからも、指先でカバーを弄くっている。
「私は、人を探してるの」
 なんと言うか、どこかずれている人の様だ。
「こんな所で探したって、見つからないんじゃないですか?」
「良いの。別に、その人に用事がある訳じゃないしね」
 彼女は、そう言って微笑んだ。その微笑みに、どんな意味があるのか、全く以て解らなかった。けど、少し引っ掛かる事がある。
「もしかして、屋上から見下ろして、探してるんですか?」
「何で解ったの?」
 彼女は、心の底から、「驚いた」と言う風に、目を見開いて、僕の事を見つめた。冗談半分で言った事に、これだけ驚かれるとは、逆にこっちがびっくりしてしまう。
「用事もないのに、人を探しに屋上に来るなんて、それくらいしか思いつかないじゃないですか」
「ああ、そうだね」
 彼女は、得心したように、深く頷いている。
「つまり、君は、そう言う人なんだね」
 何なんだ、この人は。初対面なのに、いきなり僕を決めつける様な言い方をしている。むっとして、僕は言い返した。
「そう言う人って、どういう人ですか?」
 しかし、彼女は相変わらず微笑みを浮かべている。僕の隠した敵意を知らないのか、見抜いているのか。のらりくらりと躱して行く。
「気になった事は、とりあえず確かめてみる、って所かな」
 悔しいけど、当りだ。僕がここへ来たのだって、何か不思議な物を見てしまったからだ。今だって、何なのか気になっている。ただ、それと同じ位、僕はこの人の事が気になった。彼女の名前は何だろう。幾つなんだろう。何が好きなんだろう。そして、この何もかも見透かした様な笑みは、何なのだろう。
「あなたは、誰なんですか?」
 失礼な位唐突な僕の問いかけにも、彼女は微笑みを崩さなかった。
「それより前に、君の名前を聞いていいかな?」
 確かに、それが礼儀だろう。
「僕は、黒部達也。君は?」
 僕がそう言うと、彼女ははっとした顔をした。暫く、僕の顔に穴があくほど、見つめた。照れくさくなって、僕は目を逸らす。少し湿った風が、僕の頭上を流れて行く。遠くに、青い山々が並んでいる。夏の近づく空は、薄い湯気を含んでいるようだった。
「懐かしいな。この感じ」
 彼女は小さくそう呟くと、もう一度僕に向き直った。恥ずかしそうな、小さな声が聴こえた。
「りっちゃん、で良いよ」
 その後に、更に小さな声が聴こえた。
「昔みたいにさ」
 なんと言うか、かなりの爆弾発言だったのかもしれない。当然の様に、僕はそれが気になった。
 でも、それを強く問いつめる事は、なぜか出来なかった。
 あの微笑みのせいで、僕は昔彼女にあった事がある気さえした。いあ、それは言い過ぎたか。
「何なんですか、昔みたいって」
 だから僕は、半分戯れ付くみたいにしか、問い返す事が出来なかった。
「いや、単にさ、昔そういう風に呼ばれてたなあってだけだよ」
 何かを取り繕う様に、彼女はそう言った。でも、本当に彼女が嘘を吐いているのか、そんな事は確かめようも無い。
 何かが引っ掛かる。
 相変わらず、空は抜ける様に青い。
♦
 僕は、暫く川を眺めていた。川は、泡を作ったり、渦を巻いたりしながら、それでも同じ所へ流れて行く。
 川に、ひとつ小石を投げ込んでみる。小石は、沈む事無く、川の流れに運ばれて行った。
 ふと、僕は面白そうな物を見つけた。
 立ち上がると、そろりと一歩を踏み出す。
♢
 あれから間もなく、梅雨がやって来た。僕は、いつの間にか屋上へと通う様になっていて、そのうちに、僕は彼女を、「りっちゃん」と呼ぶ事に何の躊躇いも無くなっていた。
 雨が降る日には、りっちゃんは屋上には出なかった。屋上へと続く階段の、一番高い所にある踊り場で、階段に腰掛けながら本を読んでいた。埃っぽく、暗い踊り場でも、りっちゃんは大して気にしていないようだった。
 そして、僕が来ると、本から目を上げて、僕と他愛も無い話に興じるのだった。
「あのさ」
 その日僕は、未だに訊いた事の無い質問をした。
「りっちゃんって、幾つなの?」
「私?」
 驚いた様に自分を指差し、「うーん」と何かを考え始めた。僕は、彼女の隣に座った。
「なんか考え込む様な事でもあるの?」
 アインシュタインは、自分の年を覚えていなかったと言う。訊かれるたびに、訊かれた当時から、生まれ年を引き算して答えていたらしい。
 だからといって、今りっちゃんが考え込んでいる事の説明にはならないが。
「一応、十六かな」
「何なの、一応って」
 普通の高校生なら、年くらいはっきり解るはずだと思うけど。
「口癖みたいな物なんだよ。言い直すね。私は、十六歳だよ」
 今度は、はっきりした口調だった。これ以上の詮索は止める。
「達也は二年生でしょ?」
「ああ、そうだよ」
 まあ、僕の年くらい、知っていても何の不思議も無いだろう。
「って事は、もう十二回目か……」
 りっちゃんは何かぶつぶつと呟いていたけれど、最近、これをいちいち気にしていたらきりがない事に気がついた。不思議な事を口走る人だ、と言う事だけ解ってれば良いのだ。
「って事は、同い年なのか?」
「うん。まあ、そうだね」
 その割に、僕は彼女の事を知らなかった。そんなに大きくも無い高校だ。同級生の顔の、見覚えくらいありそうな物だけど。
 しかも、僕は彼女の名前すら知らないのだ。何度も尋ねようとしたが、その度にはぐらかされてしまう。もちろん、あの微笑みでだ。
「ま、いっか」
 僕は、階段を見渡す。ひとつ下の階には、下級生のクラスがある。昼休みの喧騒が、静かな階段に響いている。ちょっと下を覗けば、そこにはたくさんの一年生がいるのに、ここだけ、校舎から切り離されたかの様に静かだった。
「何の本を読んでるの?」
 りっちゃんは、癖なのだろうか、会話をしながら、手にしている文庫本のカバーを指先で弄くっている。
「これ? これはね、小泉八雲」
 なんと言うか、それは女子高校生のチョイスではなさそうな気もするけれど。
「面白いの?」
「うん。面白いよ」
 そう言って、りっちゃんはまたカバーを弄くり始めた。
「なら、僕はお邪魔だったかな?」
 彼女は一人で本を読むのが好きなのだ。だから、人目につかないこんな所で、一人で本に没頭しているのだ。僕はそう確信していた。
「ううん。全然」
 慌てて、りっちゃんが手を振る。
「全然邪魔じゃないから!」
 珍しく強い調子の彼女の言葉に、僕は少しびっくりした。
「あ、ああ、そう」
「うん。本当だから」
 まあ、そう言ってくれるなら、僕だって安心出来る。
「だから、まだ、ここにいていいから!」
「あ、うん。じゃあ、もう少し、いさせてもらうかな」
 急な彼女の言葉に、僕はうろたえっぱなしだった。
「それにしてもさ、いっつも本読んでるな、って思ってね」
 りっちゃんに僕が話し掛けるとき、いっつも彼女は本から目を上げるのだ。それは僕に、まるでいつ何時も彼女が本を手放していない様に思わせた。
「まあ、本は好きだしね。昔は好きじゃなかったんだけどさ。ひまな時間が出来て、本を読んでたら、好きになったんだ」
 彼女はそう言って、踊り場の窓から、外を見やった。細い糸の様な雨が、ぱらぱらと校庭に降り続いている。灰色の砂は、色を濃くして、柔らかく湿っているようだった。
「梅雨って、良いよね」
 りっちゃんはまた、唐突にそんな事を言い出すのだ。
「そう? 僕は早く夏が来て欲しいけど」
 僕の言葉に、彼女は目をつむった。
「このさ、落ち着いた感じは、梅雨にしか無いじゃん」
 僕も彼女に倣って、目をつむってみた。ひんやりと冷たい空気が、僕の体を包み込んでいる。程よい湿気が、こんなにも心地よい物だなんて、初めて知った。
「確かに、夏はみんな落ち着きが無いよね」
 僕の言葉に、隣から賛同の声が聴こえた。
「そうそう。だから、夏より、夏になる前の、今が好きなんだ」
 目をつむりながら、深呼吸をする。深呼吸をしながら、これから来る夏に、思いを馳せる。
 今年も、暑い夏になるのだろう。
「ああ、今が続くと良いなあ」
 ぽつりと漏れたりっちゃんの言葉は、僕には拾う事が出来なかった。
 何でそんな事を言い出したのか、僕には解らなかったからだ。
♦
 川の水は、冷たかった。少し位はぬるいのかも知れない、と思ったけど、そんな事は無かった。
 足に、水の強い流れが当たる。僕は、踏ん張って耐えた。
 僕は、川の中州を目指していた。河原や土手から見る川の流れは、もう見飽きていた。中州から見る川は、どんな物なのだろう。
 僕はそれを知りたくて、その欲求を放っては置けなかった。
 もうひとつ。
 中州には、綺麗な花が咲いていた。
♢
 梅雨が明けて、りっちゃんはまた屋上に出る様になった。
 りっちゃんが好きだった梅雨も、永遠に続くなんて事はもちろん無くて、当たり前の様な顔をして、夏はやって来た。
 七月に入って、屋上は一段と暑くなった。それでも、りっちゃんは、屋上へと出る為の扉の、ちょっとした庇の下に座って、本を読んでいた。
「暑いなあ」
 僕は、その日何回繰り返したか解らない台詞を、また口にした。
「そう? 私は全然だな」
 実際、りっちゃんは汗の一滴も流さずに、涼しい顔をしている。夏服のセーラー服だって、大半の女子が半袖を選ぶのに、彼女は長袖を着ている。暑さには強い人なのかも知れない。
「ところでさ」
 りっちゃんはカバーを弄くる手を止めて、僕の目を覗き込んだ。
「何で、毎日の様にさ、私の所に来るの?」
「迷惑だった?」
「ううん。そうじゃなくて。ただ単純に気になっただけ」
 りっちゃんはそう言って、本を脇に置いた。立ち上がって、目も開けていられない様な、眩しい日差しの中へと歩いて行く。
 僕は、目を細める。一瞬、りっちゃんが見えなくなった。
「僕は」
 梅雨に入る前の、あの日の事を思い出す。あれは、本当に羽根だったんだろうか。いつの間にか、ここへ通う様になって、あんな物を見た事も、すっかり忘れてしまっていた。
「はじめは、羽根を、探しに来たんだ」
 りっちゃんは、フェンスにもたれかかった。太陽に灼かれたフェンスは、とても暑いはずなのに、彼女は平気な顔をしている。
「体育の時間にさ、なんか屋上に羽根みたいな物を見つけてさ。おかしな話かも知れないけど、あれは多分、大きな羽根だった。少なくとも、僕はそう思った。
 で、確かめようとして、屋上に来てみたら、君がいたんだ」
 喋っているうちに、僕はだんだん変な事を考え始めた。
 まるで、りっちゃんとその羽根に、何か関係があるかの様に思えたのだ。
 僕は、頭を振って、その変な考えを追い出すと、言葉を続けた。
「まあ、今でもなんか痕跡とか無いかな、って思ってるんだけどさ。半分諦めてるよ」
 りっちゃんは、ぼうっと僕の話を聞いていた。僕が言葉を切っても、目はどこか遠くを見ていた。空でも見ているのだろうあk。
「ねえ、聞いてる?」
 僕は、りっちゃんの脇に膝を付くと、強めに彼女の肩を叩いた。掌に、びくっと言う震えが伝わる。
「うわっ」
 心の底から驚いた様に、彼女は驚きの声を上げた。
「びっくりした」
 短くそう言って、りっちゃんはまた空を見上げた。僕は、彼女の脇にしゃがみ込んだ。
「羽根……、か」
「羽根が、どうかしたの?」
 僕の言葉に、彼女はゆるゆると首を振った。首を振って、また空を見上げた。
「翼と、何が違うのかなって」
 翼と言う言葉を聞いて、僕は、もう一度あの景色を思い出す。あれは、羽根と言う言葉よりも、翼と言った方があっていたかも知れない。
「じゃあ、明日までに調べてくるよ」
 僕の言葉に、りっちゃんはまた首を横に振った。
「調べるだけじゃ、面白く無いよ」
 僕は、気になった事の答えはすぐに欲しい。人に聞いて解るのであれば、躊躇いも無く人に聞くし、本に書いてあるなら、その本を見つけて、ページを繰るはずだ。
 でも、りっちゃんは違うのだ。気になった事と、出来るだけ長く向き合っていたいのだ。出来るだけ長く向き合って、「面白い」時間を過ごしたいのだろう。
 僕は、忙しい訳じゃない。りっちゃんに付き合う事にした。
「じゃあ、例えば翼って聞いて、何を思い浮かべる?」
 僕は、りっちゃんにそう問いかける。
「鳥の……、かな」
「でも、鳥の羽根とも言うよね」
「じゃあ、飛行機の、かな」
「でも、飛行機の羽根って言う人もいるよね」
「達也のいじわる」
 急に、りっちゃんは口を尖らせた。何の事だかさっぱり解らない。
「じゃあ、達也は、何を翼って言って、何を羽根って言うの?」
 妙に強い調子だ。そんなに、羽根と翼の違いが気になるのだろうか。それとも、こういう細かい事も、気になる性格なんだろうか。
「翼の方が、幻想的だよな」
 大雑把なイメージの違いしか解らない。
「羽根だと、この手に触れそうだけど、翼はそれすら許されないと言うか」
「あ!」
 りっちゃんはいきなり大声を上げた。
「イカロスは、翼だ! イカロスの羽根なんて言わないしね」
 薮から棒に、何を言っているんだ。ただ、彼女の言葉を反芻してみると、確かにその通りだった。
「ギリシャ神話か。って事は、僕の言っている事も、それなりに当たってるんじゃない?」
「そうかも知れないよ」
 りっちゃんは、急に興奮して来た様で、「うーん」と唸りながら、首を傾げている。
「イカロスはさ、結局は海に落ちちゃったんだよね」
 僕は、そう言いながら、イカロスの翼の故事を思い出す。
 王の不興を買い、迷宮に幽閉されたイカロスとその父ダイダロスは、鳥の羽根を集め、蝋で固めて、翼を作った。
 しかし、その翼で飛び立ったイカロスは、父親の注意を聞かず、天高く飛びすぎて、太陽の熱で蝋を溶かしてしまう。
 集めた羽根は散り、イカロスは海へと落ちてしまった。
「でも、私はイカロスが羨ましいよ」
 りっちゃんはそう言って、屋上にごろりと仰向けに寝転がった。僕もそれに倣う。
 一面の青空だった。ずっと高い所に、鳥が飛んでいる。あれは、まぎれも無く翼だと、僕は思う。
「だって、イカロスは、ずっとそのまま、飛んでは行かなかったんだもん」
 多分、イカロスの話を聞いて、イカロスを羨ましいと思う人は、いないはずだ。僕だって、イカロスみたいな最期は迎えたく無い。
 でも、りっちゃんはそのイカロスが羨ましいと言う。
 それは、やっぱり僕には解らなかった。
 鳥は、まだ輪を描いて、のんびりと飛んでいる。
 自分の翼で飛ぶのは、どんな気持ちなんだろう。
♦
 川の水深は、だんだんと増して行き、とうとうズボンの股下を濡らすほどになった。
 僕は、幼いながらに、これは危ないんじゃないか、と思い始める。でも、その度に好奇心が勝ち続けて、僕の足は止まらなかった。
 中州は、だんだんと近づいてくる。
 あとどれくらいだろう。最初は弱く感じた川の流れも、だんだんと強くなって来た。川の深さも、今はもう腰くらいまで来ている。
 次の一歩を踏み出した。
 足を、水底へとつけようとする。
 あれ? 届かない。
 もっと足を下げる。まだ、冷たい石の感触は、無い。
 残していた片足が、ふらつく。
 その瞬間、僕は、誰かに、自分の名を呼ばれた様な気がした。
 まずいと思った頃には、僕はもう川の中に転んでいた。
 冷たい水の流れを体中に感じて、僕はやっと、川に流された事を知った。
 ふと、僕の体に、何かが触れた様な気がした。とても、暖かい物だ。
 それが何かを確かめる間もないまま、僕の意識は遠のいて行った。
♢
 驚く事に、学校が夏休みに入っても、僕は屋上へと通っていた。
 塾にも行っておらず、部活にも入っていない僕にとって、夏休みは退屈な一日の寄せ集めだった。趣味も無く、宿題をそんなに溜めている訳でもない。だからといって、一日中家に籠っているのも、体には良く無いだろう。
 そうやって、自分の中で理由を付けて、僕は屋上へと通っているのだった。
 りっちゃんの方も暇なのか、僕と同じく、毎日の様に屋上にいた。
 七月下旬の、真夏日が続く日の中でも、彼女はずっと屋上にいて、本を読んでいた。それでも、顔には汗ひとつ見せていない。
「今日も来てるんだ」
 僕は、フェンスにもたれて座っているりっちゃんに、声を掛けた。
「そうだけど。なんか、呆れてない?」
「いや、全然そんな事ないけど。暇なんだな、とは思ってる」
「ほら、やっぱり」
 そんな会話を交わしながら、僕はりっちゃんの隣に腰掛けた。
 暑い。とにかく暑い。
 この辺りでは、この学校が一番高い建物で、ここから街全体を見る事が出来る。僕は振り返って、フェンス越しに、平べったい街と大きくうねる川を見ながら、持って来たハンカチで汗を拭った。
 今、僕とりっちゃんは、確かにこの町で、一番空に近い所にいるのだ。
 だから、暑い。
「暑く無いの?」
 思い返せば、僕は毎日の様にそんな事を訊いている。
「全然。私、暑いのは平気だから」
「そうなんだ」
 夏休みなのに、好き好んでこんな所に来るなら、暑さに弱くちゃ駄目なんだろうな。でも、それだけじゃ無いとは思う。
 ただ、僕はりっちゃんの言う事を、かなり信用していた。なぜなら、彼女は、七月に入ってから、途端に元気になったからだ。
 いつも本を読んでいるから解り辛いけど、話してみると解る。声のトーンは、梅雨が明けてから明るくなったし、言葉の数だって、前に比べると増えている。
「達也こそ、暇なの?」
 りっちゃんは、思いついた様にそう呟いた。
「まあ、暇って言っちゃあ暇かな。塾にも行ってないし、部活にも入ってないしさ」
「友達と遊びに行ったりとか、しないの?」
 なぜか、口調がお母さんっぽくなっている。まるで僕が独りぼっちでないか、心配しているみたいだ。
「みんなは海に行くって言ってたけどね。僕はいいやって言って断ったんだ」
 すっ、と、りっちゃんの息を吸い込む音が聴こえた。僕は、ふと隣を見る。
 りっちゃんはいつも通りの笑みを浮かべていた。
「やっぱり、泳げないから?」
「まあね。学校の水泳で結構巧くはなったんだけどね。自分から泳ぎには行かないよ」
 そして、付け足す。
「何で、僕が泳げないって解ったの?」
 りっちゃんは、いつもの微笑で、それに答えた。
「なんとなく、だよ。そんな、ガンガン泳げる様な感じじゃないじゃん。達也って」
「失礼だな」
 そう、僕が泳げないのには、ちゃんと訳があるのだ。
「僕はさ、水が怖いんだ」
 りっちゃんは、黙って僕の話を聞いている。りっちゃんの目を見て話すのには、向いていない話だろう。
 そう思った僕は、りっちゃんと同じ様に、フェンスにもたれて座った。こうしていると、空が広く見える。
「僕はさ、五歳の夏に、川で溺れたんだ。
 その日僕は、お盆のど真ん中で、僕は一緒に遊ぶ友達もいなくて、一人で川縁で遊んでた。川って言うのは、ここから見える、あの川の事だよ。
 そのうちにさ、中州へ渡ってみたくなったんだよ。あそこから川を見たら、どういう風に見えるんだろうってね。
 あともう一つ、中州には、綺麗な花が咲いてたんだ。紫色で、花びらに細かく切れ込みが入って、まるで細い花びらがたくさん集まっているみたいな花だった。それを、採りたかった。
 で、川を渡ろうとしたんだけど、五歳児の身長だからさ、すぐに足がつかなくなったんだ。まずい、って思った時には、もう流されてたんだ。
 で、気付いたら、病院のベッドの上だったんだ」
 また、僕はあの瞬間の事を思い出す。悪夢の様に、僕は何度も何度もそれを夢に見た。僕の好奇心は、已の所で僕を殺す所だったのだ。
 りっちゃんの横顔を盗み見る。何を考えているのか、全く読めない。汗を一滴もかかず、髪はさらさらと静かな風に揺れている。その横顔は、この世の物じゃないみたいに綺麗だった。
 途端に、恥ずかしくなる。いつもの様に見ているりっちゃんの横顔を、今日に限って綺麗だなんて、恥ずかしいにも程がある。
「良かったね。助かって」
 りっちゃんにしては珍しい、ぼそりとした言葉が聴こえた。
「うん。まあ、それは感謝してもし足りないよ。もしかしたら、こうして生きている事だって、奇跡なのかも知れない」
 真面目に、僕はそう思っている。川の流れの冷たさと、病院の壁の白さにうなされた夜が明けると、僕は真っ先にその事に思いを巡らせるのだ。
「それにさ、私とこういう形で会えたかも、解らないしね」
 そう言って、りっちゃんは恥ずかしそうに笑った。ほっぺたが、ほんのりと赤くなっている。そんなりっちゃんを見ていると、僕まで恥ずかしくなってくる。
「まあ、そうかも知れないけどさ」
 僕はそう言って、視線を空へと逃がした。
「あ、自分ばっかり、ずるいよ」
 りっちゃんの声が聞こえるが、無視だ、無視。
 まだまだ明るい夏の空は、どこまでも青い。
♦
 目を開けると、見慣れない天井が目に入った。家にある木目のあるやつじゃ無くて、無機質な、冷たい白い天井だった。
 体を起こしてみる。
 部屋は、大きな白い箱だった。カーテンで、隣のベッドと仕切られている。
 カーテンも、テーブルも、布団も、床も、壁も、白かった。ただ、一つだけ、戸棚が色を持っていた。茶色い木目がある奴で、正面の扉は閉じられている。上には、ぽつんと、真っ赤なさるぼぼが置いてある。
 僕は、病院に運ばれていた。
 猛烈な眠気が襲ってくる。睡魔に抗いながら、僕はここへ来る前の事を思い出そうとした。
 確か、僕は川に流されたはずだった。なのに、こうして何かを見たり、何かを触ったり出来ている。
 つまり、助かったのだ。
 僕は今、確かに生きている。
♢
 七月も終わりに近づくと、屋上の暑さにも馴れ始めた。ここは案外風通しが良くて、少しも風がない地面に比べれば、幾分過ごし易い場所なのだ。
「お祭りに行こうよ」
 りっちゃんは強い口調で、そう言った。昼下がりの太陽は、けだるそうにコンクリートを照らしている。
「え?」
 全く脈絡が無くそんな事を言い始めたから、僕は思わず訊き返してしまう。
「だから、お祭りに行こう」
 りっちゃんはそう言って、僕の目を覗き込む。期待に満ちた目が、本当に子供みたいだ。
「なんで、僕となの?」
 もっと別の友達とか、誘って行けば良いんじゃ無いだろうか。
「だって、みんな忙しいらしいしさ。達也は絶対に暇でしょ?」
「まあ、そうだけどさ」
 この町のお祭りは、一夏の間に三、四回ある。二つある商店街や、神社がバラバラに行うから、その度に賑やかなお祭りが楽しめる。
 でも、そんなお祭りを楽しめたのは、小学校までだった。友達はだんだん忙しくなり、僕も、縁日の灯に魅力を感じなくなって行った。何より、何でも無いたこ焼きや綿飴が、恐ろしく高い。一人でこんな所へ来たって、寂しいだけだった。
 綺麗な物は、綺麗な物のままでいて欲しい。そのうち、僕はお祭りへ行かなくなった。
「じゃあ、決まり。今日の五時に、八幡神社の階段の前に集合ね」
 思わず、うん、と言いかける。けど。
「あと二時間ちょっとなんだし、ここから直接行けば良いんじゃない?」
 ここから一旦家に帰るのは、ちょっと億劫だ。バスに乗って、十五分くらい戻らなければならない。八幡神社はその帰り道の途中にある。僕としては、直接向かいたかった。
「達也は何も準備要らないだろうけどさ、私は色々準備があるの」
 りっちゃんはそう言って、わざと頬を膨らませるのだった。
「そう言う物なんだ」
「そう言う物なんだよ」
 りっちゃんはそう言って、さも面白くてたまらないかの様に、含み笑いをした。つられて、僕も笑ってしまう。
「でもさ、何でいきなりお祭りなの? なんと言うか、そう言うのに興味ないかと思ってたんだけど」
 僕が知っているりっちゃんは、いつも屋上で本を読んでいる。華やかな物や、賑やかな物とは、接点がなさそうに思えたのだ。
「私だって、お祭りが嫌いな訳じゃないよ」
 りっちゃんは、笑い終えた後の静かさを持って、そう答えた。
「ただ、達也と行ったら楽しいかな、って思っただけだよ」
「それはどうも、ありがとう」
 こう言ってもらえて、嬉しく無いはず無いだろう。
「どういたしまして」
 わざとらしくお辞儀をするりっちゃんを見て、僕はまた笑い出してしまった。
 太陽は、まだ沈みそうに無い。

 八幡神社の前は、まだ明るいのに、多くの人でごった返していた。
「早く来すぎたかな……」
 腕時計に目をやる。まだ時計の短針は、「5」に少し届かない。
 八幡神社の境内へは、この石段から上がるしか無い。だからだろうか、いつもは人気の無い階段も、今日はかなり賑やかだ。
 たくさんの人が上って行く石段の、端っこに陣取って腰を下ろす。みんな、僕には目もくれずに、揃って楽しそうな顔をして、石段を上って行く。
 ふと、本が読みたくなった。いつも本を手放さないりっちゃんの気持ちが、解る気がした。こうして退屈をしている時こそ、本は面白いのかも知れない。普段はあまり本を読まないから、本当にそうなのかは解らないけど。
 やがて、石段の前の通りに、バスが停まった。僕が乗って来たバスの、三本後のやつだ。バスから降りて来る人を、一人一人確認する。
「やっぱりこの次のバスかなあ」
 そう呟いて、諦めようとした時だった。
 切れかけた降車客の波の最後に、一人の浴衣姿の女の子が付いて来ていた。閉まりかけたバスの扉から、慌てて降りて来て、道路の段差につまづいている。浴衣も草履も、馴れていないんだろうか。僕は、もう一度彼女をよく眺めた。
 綺麗な長い黒髪が、彼女の動きに遅れて付いてくる。夕闇がすぐそこまで迫っているのに、白い肌はその中に浮かび上がっているようだ。痩せ気味な体には、紺色の浴衣を着ていて、所々にぱっと花が咲いている。
 ぼおっと、見とれてしまった。多分、口はだらしなく開いていただろう。瞬きもしなかったに違いない。
 だから、僕は彼女と目が合うまで、彼女が誰だか気付いていなかった。
「お待たせ」
 りっちゃんだったのだ。
「うわっ」
 僕は、底抜けに間抜けな声を上げてしまった。
「ああ、りっちゃんか」
「達也、なんかぼおっとしてたけど、可愛い女の子でもいたの?」
 あなたを見てました、なんて、言えない。
「いや、単にぼおっとしてただけだよ」
「ふーん」
 りっちゃんは、疑いの目を僕に向けていたけど、気にしない様にして、立ち上がる。
「じゃ、行こうか」
「うん」
 そう言うと、りっちゃんは、ごく自然に僕の手を取った。
 うわあ、小さい。そんなに大きい訳でもない僕の手より小さい。それに、すべすべしてて、柔らかくて、暖かい。
 何でだろう。特別な事は何も無いのに、僕は興奮していた。お祭りの空気が、そうさせたのかも知れないし、夜が迫る神社と言う場所がそうさせたのかも知れない。思わず、ギュッと握り返してしまう。
 それに応えてくれたのだろうか、りっちゃんは、僕の前を歩きながら、にこりと笑った。僕はもう、これ以上無いほど照れてしまって、まともにりっちゃんの顔を見る事が出来なかった。もったいない事をした物だ。
 石段を上りきると、そこは別世界だった。
 橙色の提灯が辺りを照らし、たくさんの人が、出店を覗いたり、話したり、輪になって踊ったりしている。
 みんな、何かにうかされている。そう思った。と、同時に。
 昔こんな事があったのかも知れない。そう思った。
「どうしたの? ほら」
 りっちゃんが、握った手をぶんぶんと振った。はっと目が覚める。いけない。今日は事あるごとに考え事をしてしまう。
「ああ、ごめん」
「本当に大丈夫? 気分悪いなら今日は止めとく?」
 りっちゃんの心配そうな顔を見て、僕は深く反省した。
 うかされていたとしても、楽しめる時に楽しめば良い。つまり、今楽しまなきゃ、駄目なのだ。
「よし」
 僕は、りっちゃんの心配を吹き飛ばそうと、余計な位の元気をだした。
「じゃあ、今日は遊ぼう。何か、したい事ある?」
 りっちゃんは、安心した様な顔をして、頷いた。
「うん」
 そして、また僕の手を取った。
「私、やりたい事が、たくさんあるんだ」
 りっちゃんに手を引かれて、僕がまず連れて来られたのは、射的の出店だった。
「これやりたいの?」
 僕の問いかけに、りっちゃんは満面の笑みで応えた。
「うん」
 嬉しそうな顔を見ていると、こっちまで嬉しくなってきそうだ。りっちゃんは、射的の銃を取って、景品の棚を物色し始めた。
 りっちゃんは、すっと真面目な顔になると、彼女の腕には長過ぎる銃を脇に抱えて、狙いを定めた。試しに、僕は真後ろに回って、りっちゃんの狙いを確かめてみる。
 なるほど。彼女の狙いは、白いクマのぬいぐるみの様だ。僕は、視線を銃口からそっちへと移した。
 カシャン、と音がして、コルクの弾が飛んでくる。クマのぬいぐるみの左を掠めて、奥へと飛んで行った。
「あーあ」
 思わず僕は、そう声に出してしまう。しかし、りっちゃんは何も言わない。まっすぐぬいぐるみを見つめ、おもちゃのコルク銃を構えている。
 ところで、りっちゃんはお金を払ったのだろうか。屋台のおじさんは、他のお客さんと仲良さげに話しているし、りっちゃんの方には見向きもしない。りっちゃんも、お金を払おうとはしなかった。
 相当集中しているな。僕はそう思って、それ以上は言葉にしなかった。バレたら、僕がりっちゃんの分も払えば良いだろう。
 カシャン。
 二発目もはずれだ。今度は、ぬいぐるみの右を掠めた。
 それを見て、僕はポケットから小銭を出した。おじさんから銃と弾を貰って、構える。片目を閉じて、狙いを付ける。
 カシャン。隣から、軽いバネの音がする。またも弾は外れ、ぬいぐるみは変わらずに、台の上に座っている。
 僕も、引き金を引く。少し抵抗を感じながら、人差し指を思い切り引く。
 勢い良くコルクの弾が飛んで行き、銃口から遠ざかって行く。
 僕の腕が良かった訳じゃないだろう。多分偶然だ。僕は、白いクマのぬいぐるみに、弾を命中させた。
 自分の狙っていた物が、いきなり倒れたからだろう。りっちゃんは、驚いた様にこっちへ振り向いた。
 僕は、出来るだけ平静を装って、二発目を撃つ。適当な物に狙いを付けて、引き金を引くが、当たらない。キャラメルの箱を狙ったが、やっぱり的が小さすぎるようだ。
 適当に残りの弾を消費して、僕は銃を返す。おじさんから、景品のクマのぬいぐるみを受け取って、僕はりっちゃんに話し掛けた。
「これ、狙ってたでしょ」
「うん。そうだけど……」
 明らかにしょんぼりとしている。自分の狙った物が、他の人に横取りされてしまったのだ。
「残念だったね。ハッハッハ」
 わざとらしく、そう言って笑ってみる。出来るだけ明るく。出来るだけりっちゃんの癪に触る様に。わざとそう言う事をする僕って、性格が悪いのだろうか。
 でもこれは、本心からの行いじゃない。
「良いもん」
 りっちゃんはくるりと向こうを向いてしまう。完全に拗ねている声だ。
 ただ、拗ねているりっちゃんと言うのも、これはこれで珍しい物だ。いつも、色々な表情をくるくると変えるりっちゃんだけど、拗ねたり、塞いだり、そう言う表情は見た事が無かった。 
 だから、僕はその顔を見たくて、前に回り込もうとした。しかし、向こうも気付いていた様で、くるりと、また反対側を向いてしまう。
 仕方ない。僕は諦めて、このいたずらを止める事にした。
 とんとんと肩を叩いて、呼びかける。
「ごめん。もうこっち向いてよ」
 渋る様に、りっちゃんの背中が向こうへと回り始める。彼女に目を合わせて、僕は謝罪する。
「からかってごめん」
 そして、ぬいぐるみを差し出す。
「ほら、あげるよ」
 りっちゃんは、ぬいぐるみを抱えると、上目遣いに僕を見た。まだ、信用されていないのだろうか。
「本当に、くれるの?」
「うん。あげるよ」
 その為に取った物だしね。
 りっちゃんは、しばらくぬいぐるみをしげしげと眺めていたけど、やがて消え入る様な小さな声を出した。
「ありがとう」
 その声を聴いて、隣を見た。りっちゃんは、クマの腕を動かしてみたり、時々ぎゅーっと抱きしめてみたりしている。
 喜んでもらえたみたいで、何よりだ。
「どういたしまして」
 僕も、りっちゃんにだけ聴こえる様な声で、そう言った。
 りっちゃんが聞いていたかどうか解らないけど、それはどうでも良い。少し財布が軽くなった位だ。
 人ごみの動きに足を任せて、ゆっくりと本殿へと近づく。太鼓やお囃子の音が、だんだんと大きく聴こえてきた。
「でさ、次はどこ行く? どこでも付き合うよ」
 僕は、自分の声がうかれている事に気付いた。お祭りの空気に、僕も毒されて来たようだ。でも、悪い気はしない。この空気に酔ってしまったのだろうか。あんなにも苦手だった祭りの空気が、どことなく心地よくさえ感じられた。
 服の裾が、きゅっと引っ張られる。りっちゃんが、立ち止まっていた。
 視線の先を追うと、たこ焼き屋があった。
「食べたいの?」
 りっちゃんは、お腹を押さえながら、無言で頷いた。確かに、お腹がすいて来たかもしれない。
「じゃあ、食べようか」
 僕は、りっちゃんの手を引いて、屋台へと歩いて行く。
 これを食べたら、また別の事をしよう。
 夜は、長いのだ。

 永遠に続くと思ったお祭りも、終わる時は来た。
 結局、りっちゃんはこのお祭りで、一銭もお金を使わなかった。しかも、店主のおじさんも、りっちゃんの事は全く気にしていないのだ。だから、りっちゃんは、次から次へと色々な出店を転々と遊び歩いた。
 多くの人でごった返していた参道も、だんだんと人がまばらになって、それとともに一つ、二つと店も畳まれ始めた。
 それでも、りっちゃんと僕は、開いている店を探しては遊んでいた。しかし、それも限界があった。芋を洗うようだった参道から、人は消えて、結局数えるほどしか残らなかった。
「そろそろ、帰ろうか」
「そうだね。もう、どのお店も閉まっちゃったし」
 りっちゃんの声には、元気が無い。僕も、さっきまでの気持ちが嘘の様に、畳まれて行く屋台を眺めている。
 参道の端っこから、階段を下る。ここも、道の左右の高い所に提灯が下がっているけれど、はっきり言って不気味だった。両側には境内を取り囲む林があって、いかにも何かがいそうだった。
 慎重に、急な階段を一歩ずつ降りて行く。
 八幡神社の下を通る道は、既に真っ暗だった。ぽつぽつと街灯の所だけ明るくなっている。
「あのさ」
 りっちゃんは、内緒話でもするかの様に、小さな声でこう言った。
「こんなに遅くなって、ご両親は何も言わないの?」
「ああ、僕の親はね、基本的に放任主義だから。人様に迷惑かけなければ何しても良いって言われてる」
 これは、僕が小学校へ入学する前から、ずっと言われ続けて来た事だ。
 だからこそ、僕が川で溺れた時、両親は病室へ来て、まず泣いて、次に僕を叱ったのだ。人に迷惑をかけるな、と。
 僕を助けてくれた人が、誰なのか解らない。ただ、その人には、大きな迷惑を掛けたに違いない。僕は、今でもその人に謝りたいと思っている。
 だから、両親に尋ねてみた事がある。しかし、誰が僕を助けてくれたのか、と言う僕の問いに、両親は何も答えてくれなかった。
 教えてくれないのには、何か訳があるのだろう。僕はそう悟って、それから、その事は考えない様にしている。どこの誰か解らない人が、僕を助けてくれた。その事を忘れな様にして生きて行けば、僕が人に掛ける迷惑は、減らせるんじゃないか。そう思っている。
「そうなんだ」
 りっちゃんは静かに呟いた。僕は、なんとはなしに、自分のつま先を見ながら歩いた。暗闇に、時たま浮かび上がる靴を、じっと見つめる。
 神社から、お祭りから、一歩ずつ離れて行く。その事が、僕達の間に図々しくも寝転がっていた。少なくとも、僕にはそう思えた。いつもはりっちゃんの方から話し掛けてくる事だってあるのに、ずっと俯いたまま、一言も発さない。
「ねえ、来週の商店街のお祭りにも、行く?」
「うん」
 いい返事は貰えたはずなのに、僕の言葉はりっちゃんに届かずに、夜の闇に溶けていってしまった。
 一言も話さないまま、バス停へと着いてしまった。
「じゃあ、私の家、この近くだから」
 りっちゃんはそう言うと、もう一度、ぬいぐるみのクマを抱き直した。
「これ、ありがとう。その……、凄く嬉しかった」
「……」
 どういたしまして、の一言が出てこない。
「だからさ、あの……」
 りっちゃんは、言葉を詰まらせて、悶々としている。僕には、助け舟を出す事も出来ない。
 りっちゃんは、何を言おうとしているのだろう。
 やがて、りっちゃんはまっすぐに僕を見た。でも、僕が見つめ返すと、すぐに目を泳がせてしまう。結局、目を逸らしたまま、りっちゃんは言った。
「明日も、待ってるから」
 そう言うと、りっちゃんは草履を鳴らして、浴衣の裾を押さえながら、物凄い勢いで駆けて行ってしまった。
「あれ?」
 思い返してみれば、こうして翌日の約束をしたのは、これが初めてじゃないだろうか。これまでは、約束なんか無しに、まるで偶然の寄せ集めの様に、屋上で会っていた。ふっと、気が向いた時に屋上に行けば、何時でもりっちゃんはそこにいて、本を読んでいた。
 それが、どういう事か解らないけど、逆に僕を不安にした。
 どうして、僕は不安になったんだろう。
 翌日の約束を交わす、と言う事は、それはその事が覆らないと言う事だ。覆る事を心配して、やきもきする事も無い。だから、普通に考えれば、約束を交わせば、安心出来るはずなのだ。
 それに、りっちゃんが約束を破る、と言う事も考え難い。短い付き合いだけど、そう言う事はしない子だと、僕は解っている。勝手な決め付けかも知れないけど、そう言うずる賢さとは無縁なりっちゃんなのだ。
 だったら、何で僕は不安になったのだろう。
 考えているうちに、僕は一つの可能性に思い当たった。
 約束をしなければならない、と言う事は、逆にそのままではまずいからなのだ。約束をして、繋ぎ止めて置かなければならない、何かがあるのだ。
 また明日、と言うりっちゃんの言葉を思い出す。
 これまでも、毎日の様にりっちゃんには会っている。それなのに、わざわざこんな約束をしたのは、約束をしなければ、会えなくなるかも知れないからなのだ。もしかしたら、りっちゃんはどこか遠くへ、行ってしまうのかも知れない。
 そこまで考えて、僕ははっと我に帰った。
 りっちゃんの放った、たった一言に、こんなに考えさせられている僕がいる。それは、どう考えても不自然な事だった。一人の人間の一言に、こんなに焦ったり、不安になったりしている。
「ああ、もう」
 僕は、頭をガリガリと掻くと、バス停の時刻表を見た。当分、バスは来ない。
 仕方ない。歩こう。
 風が吹いた。昼間はあんなに暑かったのに、夜の風からは湿気と熱が抜けている。頬を撫でていく風が、今の僕には心地よかった。熱を持った頭が、冷えて行くのを感じた。
 僕は、大きな伸びをして、わざとゆっくりと歩いた。
♢
 翌日、僕は約束通りに屋上へ行った。
 いつもの様に、りっちゃんは屋上にで本を読んでいた。暑くなったフェンスに背中を預けて、静かに座っている。
「やあ」
 僕の挨拶に、りっちゃんは、本から目を上げて応えた。
「来てくれたんだね」
「まあ、約束だったしね。それに、なんか、屋上に行かないのが逆に不自然になってさ」
 これは本当の事だった。習慣とは怖い物で、毎日昼頃になると、自然と足が向いてしまうのだ。
 りっちゃんは、と見ると、いつもの笑顔で、僕を見ている。
 何もかもがいつも通りだ。僕は、りっちゃんの隣に腰掛けて、いつもの様に街を見渡した。七月の終わりの街は、まるで何か重い物にのしかかられているかの様に、動きが無かった。遠くの道路を走る車も、川原の土手を走っている人も、みんなやる気が無い様に思えた。
 じめっとした風が吹く。
「昨日は、ありがとう」
 りっちゃんの声が、風に乗って聴こえた。彼女は間を置いて、更に言葉を続けた。
「楽しかったよ」
「楽しかったなら、良かった」
 また、二人の間に沈黙が訪れる。今日の空気はなんだか変だ。何となく、重苦しい。何かが、僕の肩の上に乗って、押し潰そうとしているみたいだ。
 でも、その「何か」に、僕は勝てる気がしなかった。
 僕は、黙って空を見上げた。大きな雲がぽっかりと浮かんでいて、僕を押し潰そうとしているのは、これなんじゃ無いかとさえ思える。
 空を見ていられなくなって、僕は街を見下ろした。さっきまでと変わらずに、街は昼下がりのけだるさに包まれている。むわりとした空気に包まれて、街はどんどん温まっているようだった。
 街を一通り見渡してから、僕はフェンスに背を向けた。こうして見る景色は、この町で一番空が大きく見える。
 横目で、りっちゃんの様子を窺う。さっきまで立っていたのに、もうフェンスに寄りかかって座りながら、本を読んでいる。いつ見ても、同じ姿勢で読んでいる。たまには寝転がったり、立ちながら読んでも良さそうな物だけど、そんな所は、一度も見た事が無い。
 よく見ると、制服のスカートのポケットから、赤いお守りが顔を見せていた。
 確か、僕はあれを見た事があるはずだ。記憶を漁って、どうにか思い出す。
 ふっと、目の前に、何度も夢で見た景色が浮かび上がった。
 そうだ、僕の部屋だ。
 僕の部屋の壁に、確か掛かっていたはずだ。あれは、十年前の正月に、近所の神社で両親にねだって買ってもらった物だった。幼い僕の目に、お守りはとっても綺麗に映っていた。
 そこまで思い出して、はたと思考が立ち止まった。それ以上、思い出せないのだ。結局、あのお守りは、どうしたのだろう。正月に買ってもらって、どこへ行くにもそれを持って行っていた。でも、そのうち僕が大きくなってから、失くさない様に家の壁に引っ掛けていたはずだ。幼い頃のつたない字で、名前を書く位大事にしていたのに、それが、何でりっちゃんのスカートにあるのだろう。
 考え始めると止まらない。僕は自分の悪癖を解っているから、偶然お揃いだったんだ、と思う様にした。
 それにしても、あれはりっちゃんとお揃いだったのか。そう思った途端、僕は急に、あのお守りの在処が気になり始めた。僕は壁に掛けた所まで覚えているのに、それ以来、そのお守りを見ていない。部屋のどこかに紛れ込んでしまったんだろうと思って、そのままにしていた。
 家に帰ったら、探そうか。
「あのさ」
 僕は、りっちゃんに声を掛けた。
「そのお守りさ、もしかして、そこの日枝神社で買ったやつ?」
 りっちゃんは、首を振る。
「ううん。これは、貰った物なんだ」
「あ、そうなんだ」
 僕はまた、何を喋っていいか解らなくなった。それでも僕は、頑張って次の言葉をひねり出す。
「実はさ、僕も同じお守り、持ってるんだ」
 どうしてだろう。それだけの言葉なのに、一瞬、りっちゃんは悲しそうな顔をした。
 でも、それは一瞬の事で、次の瞬間には、いつものりっちゃんの笑顔があった。
「へええ。そうなんだ。これさ、もう何年も前に貰った物なんだけど、どうしても手放せなくてさ。良い事なのか解らないけど、こうしてずっと持ってるんだ」
 幾分か、重苦しい空気が晴れた。僕は、軽くなった心を感じて、りっちゃんに応える。
「そうなんだ。僕もさ、小さい頃、それが凄く欲しくて、親にねだって買ってもらったんだ。結局、どこか行っちゃたんだけど、懐かしくて思い出したよ」
 りっちゃんは、ニコニコして、僕の顔を見ている。僕も、楽になったからか、多分笑っていたと思う。
「大事にしてたはずなのにな」
 僕の言葉に、りっちゃんは朗らかに応えるのだった。
「まあ、そのうち、戻ってくるんじゃないかな」
「まあ、確かに。探し物って、得てして探してない時に出て来たりするもんね」
♢
 その日、家に帰ってから、僕はお守りをもう一度探した。
 押し入れの中も、机の引き出しの中も、小さい頃に使っていたおもちゃ箱の中も、探せる所は大方探したけれど、お守りは出てこなかった。
 多分、僕の探せない所に、隠れているのだろう。
♢
 八月に入ってからこの数日、晴れ間は顔を見せていなかった。かれこれ五日間くらい、厚い雲が空を覆っている。
 今日も、朝起きると、ぱらぱらと静かな雨音が聴こえた。僕は、暫く布団から起き上がらずに、その音を聴いていた。
 たまには雨も、良い物だ。
 この所、りっちゃんは梅雨の時と同じ様に、屋上へ出る踊り場で本を読んでいた。暗くて暑くて、じめじめしていて埃っぽいけど、それでもどうやらりっちゃんはあそこに拘っているようだ。
 しかし、雨は僕の心をゆったりともさせた様だった。その日の午前中は、何をするでも無く、ずっとごろごろと寝転がって、夏休みの課題の本を読んでみたり、居眠りをしてみたり、とにかく色々な事をバラバラとしていた。
 部屋の空気を入れ替えようと、窓を開けると、外は夏とは思えないほどの涼しさで、僕は思わず、
「ほう」
 と、溜め息を吐いてしまった。ガラス窓をあけ、網戸一枚にすると、余計に雨音がよく聴こえる。屋根や、道路や、植え込みや、色々な所に当たる音がした。
 時計を見ると、いつの間にか十二時を回っていた。リビングへと行くと、既に両親は出勤していて、家の中はガランとしていた。ぺたぺたと鳴る足音を聴きながら、戸棚から素麺を探し出す。片手鍋に湯を沸かし、その間に麺つゆを薄める。
 さて、この後はどうしよう。
 学校の屋上に行くのは決定事項として、その後はずっと暇なのだ。暇に飽かせて、夏の宿題は大方終わったし、する事も無い。残っているのは、読書感想文くらいで、それも、残りの一ヶ月のどこかですれば良いのだ。
 時間が有り余っている。
 僕は、リビングから外を眺めた。庇から絶え間なく雨粒が落ちて、縁側を濡らしている。こんな天気の中、外を歩くのも、案外楽しいのかも知れない。
 僕は、沸騰した湯に素麺を撒いて、鼻歌まじりに菜箸で掻き混ぜた。

 制服に着替えて、傘を持って外に出る。ぴちゃぴちゃと水溜りを踏みながら、僕は学校へと歩いた。
 雨の日の商店街は、静かだった。夏の暑い盛りは、毎年商店街は静かになる。八百屋のおじちゃんも、魚屋のお兄ちゃんも、みんな暑さにやられたかの様に、店の中に籠ってしまう。だけど、雨は、店の中まで染み込んで、この町の息の根を止めてしまったかのようだった。
 そのうち、バス停に着いた。僕が着くのとほぼ同時に、バスも到着した。傘を畳んで乗り込む。乗客は、僕を入れても三人しかいなかった。この町から、僕以外の人間が消えてしまったんじゃないか、と、僕はそんな事を考えてみる。
 もしそうだとしたら、僕とりっちゃんは、屋上で二人きりだ。誰もいなくなった町を見下ろしながら、取り留めの無い話を、何時間でも、何日でもするんじゃないか。夜になったら眠り、朝が来たら起きて、お腹が減ったら何かを食べて。
 案外、それも楽しいのかも知れない。
 いや、楽しくは無いのかも知れないけど、それでも、そうしていれば、僕はその非常事態を忘れられるだろう。
 バスの窓には、小さい雨粒がびっしりとへばりついていて、その上、窓が湿気で曇っている。そのせいで、外の景色は輪郭がはっきりとしない。車のライトや、店の灯が、ぼんやりとした光の玉になって、ゆっくりと通り過ぎて行く。僕は、それをぼんやりと見送った。
 やがて、車内アナウンスが、高校の最寄りのバス停の名を告げた。ゆるゆると立ち上がって、僕はバスを降りた。
 雨は、まだしとしとと降り続いていた。暑さを持っていない湿気が、体にまとわりつくようだ。どこかべたついた空気を切って、僕は学校へと歩き出す。
 体育館からは、バスケットボール部の声が聴こえた。ドリブルをする音や、バッシュが床とこすれるキュッと言う音も、今日はよく響いている。天井に着いている橙色の水銀燈が、変に目に眩しかった。
 校庭には、誰もいない。いつもはサッカー部や野球部が走り回っているのに、今日の校庭は動きが無かった。雨の中に、灰色に沈み込んでいる。
 校舎の中は、外よりも暗かった。長期の休みの間だから、廊下も教室も、蛍光灯が消してある。途切れ途切れに、窓から光の線が忍び込んで、床や天井を照らしている。
 僕は、昇り馴れた階段を、昇り始めた。
 自分の足音だけが、冷たく階段に響いて行く。
 やがて、僕は最後の踊り場に着いた。くるりと回って、屋上へ出る扉へと続く階段を、見上げた。
 そこには、りっちゃんの姿は無かった。
 一瞬どきりとしたが、すぐに心を落ち着ける。
 別に、りっちゃんが先に来ているとは限らない。これから来るのかも知れないし、もしかしたら、こんな日に、屋上に出ているのかも知れない。
 まだ、慌てちゃいけない。
 僕は、十数段の階段を登りきって、ドアノブに手を掛けた。
 ドアノブは、くるりと回って、重そうな音を上げながら、扉が開いた。
 僕は、焦って屋上を見渡した。
 目に入って来た光景に、心臓が一回、大きく波打つ。
 制服姿の女の子が、仰向けに倒れている。どう見ても、りっちゃんだ。セーラー服は、長い事雨に打たれていた様で、冷たそうに、体に張り付いている。
「大丈夫?」
 半分裏返った声で、そう叫ぶ。
 返事は来ない。
 急いで近寄って、顔を覗き込む。顔は真っ白で、血の気が無かった。胸が上下しているから、息はしているんだろうけど、それも弱々しい。薄い瞼が、力なく閉じられていて、僕は何となく不吉な物を考えてしまう。
 どうしよう。
「ねえ! どうしたの?」
 それでも、りっちゃんの目は開かない。どうか、僕に気付いてくれれば、僕の声を聴いてくれれば、どうにかなるのに。まるで、透明な棺に閉じ込められているようだ。
「ねえってば!」
 さっきよりも、焦りの色が濃くなって来た。でも、りっちゃんは動かない。胸の動きだけが、僕に少しの冷静さを残してくれていた。
 でも、駄目だ。こうやって声を掛けていても、時間の無駄だ。
 どうしよう。
 そうだ、保健室だ。
 そう思った僕は、りっちゃんの体の下に手を入れて、抱え上げた。意識が無い人間は重い、とよく言うけれど、全くそんな事はない。見た目以上に、軽かった。
 どうにかして、抱え上げたりっちゃんを、おんぶする形になる様にする。
 耳元へ、弱い息がかかる。僕は、慎重に何段か階段を下り、そして、転がる様に、全速力で駆け下りた。
 保健室のある一階まで降りると、僕はりっちゃんを背負いながら、保健室の扉まで走った。
「すみません!」
 げんこつで、保健室の引き戸を叩く。がたがたと扉の揺れる音が、静かな廊下にこだました。
 返事が無い。僕は、重い引き戸をがらりと開けて、保健室の中に入った。
 部屋には、誰もいなかった。部屋の電気は消えていて、ベッドの上も、椅子の上も空っぽだった。
 背負って来たりっちゃんを、ベッドに寝かせる。スカートから覗いたふくらはぎに触れた時、僕は思わず手を離してしまった。
 冷たかった。血が通っていない様な冷たさなのだ。
 もう一度、今度は掌に触れてみる。冷たい。
 柔らかくて、小さくて、そこまではあの祭りの日と同じなのに、暖かさだけが足りないのだ。
 僕は、恐ろしくなった。りっちゃんが、何か得体の知れない物にとらわれて、どこかへ行ってしまうのかも知れないと思った。それが当たりか外れか、そんな事は、今の僕には解らない。
 とにかく、りっちゃんを引き止めておきたかった。
 僕は、もう一度りっちゃんの手を握る。冷たいけれど、僕の手で、いくらかは温められないだろうか。
 保健室には、誰かのジャージが置いてあった。セーラー服の上から、どうにかしてそれを着せる。隣のベッドから、毛布と布団を取って来て、あるだけの布団を、りっちゃんにかぶせた。
 そして、僕はベッドのそばに椅子を持って来て、座った。両手で、固くりっちゃんの手を包み込む。
「りっちゃん。りっちゃん」
 僕は、何度もそう呼びかけながら、何かを祈って、目を固く閉じた。
♢
 僕が目を覚ますと、もう外は真っ暗になっていた。電気をつけていないこの部屋は、もう墨を塗った様に暗くなっていて、りっちゃんの冷たい手だけが頼りだった。
 りっちゃんをここに一人にする訳にはいかないから、僕も今夜は一緒に泊まり込もう。
 そう僕が決めた、まさにその時だった。
 りっちゃんの寝言が聴こえた。
「もうすこし……。もうすこし……」
 だんだん、嫌な予感がしてくる。
「お願いですから……もう少し……」
 寝言には変わりないのだろう。だけど、本当に懇願する様な調子で、そう言うのだ。僕は、息を殺して、続きを聞き漏らさない様にした。
「たっちゃんと……、一緒にいさせて……、くだ……さい」
 はっとする、僕は、保健の先生の机から、懐中電灯を持って来た。りっちゃんが起きない様に、りっちゃんのスカートのポケットを照らす。
 あった。あのお守りだ。
 僕は、りっちゃんの体に触れない様に注意しながら、お守りを引っ張り出した。赤いお守りが、闇に浮かび上がった。お守りの布は、ずいぶんとくたびれていて、結んである紐も、かなり汚れている。
 ゆっくりと、お守りを裏返す。
 静かな雨音が、さらさらと外から聴こえてくる。
 お守りの裏側には、汚い字で、
「くろべ たつや」
 と、書いてあった。
 僕は、それを見て、僕の不吉な考えが、だんだんと現実味を帯びて行くのを感じた。
 そっと、お守りを元に戻して、またりっちゃんの手を握る。
 もう、僕は寝られそうに無かった。
♢
 気付くと、もう保健室は明るかった。夜通し、僕は考え事をしていた。明け方頃から記憶が無いから、たぶん寝てしまったんだろう。
 僕は、ベッドに突っ伏して寝ていた。体を起こしてベッドを見ると、布団は捲られていて、りっちゃんはそこにはいなかった。
 見渡すと、りっちゃんは窓辺に立っていた。もう顔色も良くなっていて、頬にもほんのりと赤みが指している。元気になったようだ。良かった。
「もう、起きて平気なの?」
「うん、大丈夫」
 りっちゃんはそう言って、元気そうに頷いた。でも、僕には解る。絶対にこれは、何か隠している笑顔だ。
「本当に?」
「本当だよ」
 そして、それをごまかし切ろうとしているようだ。
 無理矢理聞き出す事も無いけど、出来れば、話して欲しい。僕が力になれたなら、僕は嬉しいのだ。
「何で、急に倒れたの?」
 僕のこの質問に、りっちゃんは黙ってしまった。やっぱり、隠したい事は、倒れた理由にあるみたいだ。
「別にさ、話したく無ければ、話さなくても良いけど」
 僕に打ち明ける事で、りっちゃんが辛い思いをするなら、僕は別にそんなこと、知らないままで良い。
 りっちゃんは、まだ、窓辺に立って外を見ている。昨日までの雨が嘘の様に、空はからりと晴れ渡っている。雲一つなく、まるで冬の朝の様に、空が高い。
 永遠に続くと思っていた夏も、いつかは終わりが来るんだ。僕はなぜか、そんな事を考えた。
「私、隠し事してた」
 りっちゃんの、小さい声が聞こえる。それでも、広い保健室によく響いた。
 僕は、ごくりと唾を呑む。これから、何を聞いても良い様に、身構える。りっちゃんは、見るからに辛そうだ。それなのに、聞き手の僕が負けたら、駄目じゃないか。
「だからさ、お願い。わがままを一つ聞いて」
 りっちゃんは、いつの間にか僕の方を向いていた。目が、まっすぐに僕を捉えている。もう逃げられない。僕は、まっすぐにりっちゃんの言葉を受け止めなくちゃいけない。
「解った。何でも言って」
 やっとの事で、僕はそう言葉を返した。りっちゃんは、幽かに微笑んだ。本当に、一秒の何分の一位の長さだったけど、確かに、りっちゃんは微笑んだ。
「ありがとう」
 りっちゃんはそう言って、目を閉じた。胸元に手を置いて、深呼吸を一回、二回。そして、目を開いて、僕をまっすぐに見た。

「私ね、本当は、死んでるんだ」

 何度も予想してみた事だったのに、何を言われても受け止めようと覚悟したのに、僕は結局臆病者だった。ちらっと、嘘であって欲しいと、思ってしまったのだ。
 でも、そんな僕を置き去りにして、りっちゃんの告白は続いた。
「もう、バレちゃったみたいだし、全部喋っちゃうね。
 たっちゃんは覚えてるかなあ。たっちゃんが五歳の夏に、女の子の友達がいた事。それが、私。あ、フルネームを、教えてなかったね。私の名前は、葉山律って言うんだ。多分、たっちゃんも初めて知ったと思うな。
 で、その年の夏も、私はこの町に里帰りしてたんだ。毎年、幼稚園が夏休みになってから、私はこの町にあるおばあちゃんの家に来てたの。
 おばあちゃんもおじいちゃんも、あんまり私をどこかに遊びに行かせてはくれなかった。多分、私の事が厄介だったのかも。だから、毎年暇で暇で、退屈ばかりの夏を過ごしてたの。
 でも、ある日、たっちゃんにあったんだ。
 覚えてなさそうだね。たっちゃんは、おばあちゃんの庭に忍び込んで来たんだよ。なんか、友達と一緒に隠れんぼしてたんだよね。ちょうど庭を散歩してた私が、偶然隠れてたたっちゃんを見つけて、話し掛けたの。『何してるの?』って。
 たっちゃんはもう、本当に慌ててさ、『ここにいた事は、絶対に秘密にして欲しい』って言って、大慌てに慌てて、塀を乗り越えて出て行こうとしてた。
 でも、私は退屈で仕方なかったから、たっちゃんが来てくれた事は幸運だった。だから、私も慌てて、たっちゃんを呼び止めたの。
 で、それから二人で縁側に座って、日が暮れるまで色んな話をしたんだ」
 いや、覚えている。忘れるはずがない。あんなに楽しかった夏を、僕が忘れるはずはない。
 それよりも、僕が驚いたのは、僕自身が安心している事だった。やっぱり、あの夏の想い出は、本当だったのだ。
 りっちゃんは、更に続けた。
「で、その夏は色んな事をして遊んだんだ。秘密基地も作ったし、お祭りにも出掛けた。『たからもの交換、しよ』って言って、たっちゃんのたからものを貰ったりしたよ」
 あのお守りは、そうしてりっちゃんの手元に渡っていたのだ。だけど、交換って言うなら、僕は何を貰ったんだろう。
「私は、夏がこんなに楽しい物だなんて、知らなかったんだよね。ずっと夏が続けば良いとさえ思ってた。だけど、そうは行かなかった。
 あの日は、たっちゃんと一緒に川原で遊んでた。私は川原で、綺麗な花を摘んでいたんだ。
 で、ふと目を上げると、たっちゃんが川に入って行く所だった。私は、ちょっと心配に思いながら、遠巻きに見てた。
 でも、たっちゃんが胸くらいまで浸かったのをみて、さすがに止めようと思ったんだ。だから、大声でたっちゃんを呼んだんだけど、聴こえなかったみたい。私も、たっちゃんを追って、川岸まで走り寄った。
 でも、遅かった。たっちゃんは、私が川に足を浸したと同時にバランスを崩して、すぐに流れに飲み込まれちゃった。私は、咄嗟に川に飛び込んで、どうにかたっちゃんの体を捕まえたんだ。
 けど、やっぱり子供が助けに行ったって、どっちかは死ぬんだよね」
 僕の頭は、真っ白になった。全ての言葉は、ここでは無意味な様に感じられた。
「結局、私は、たっちゃんの命を守る事が出来た。もっと一緒に遊びたかったけど、仕方ないよね。しかも、私はそれで十分だったし。
 川から引き揚げられて、気付いたら私は、『自分の体だった物』を、見下ろしてた。お医者さんが何か言って、そしたら、こっちに駆けつけたお母さんもお父さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも、みんな泣いてた。みんな、私の事には気付いてなかった。多分、見えなかったんだと思う」
 お祭りの事を思い出す。確か、出店の店主も、りっちゃんには気付かなかった。
 じゃあ、何で僕には、見えるのだろう。
「それを見てたら、いきなり声が聴こえたんだ。あなたは死んだんだって。もう、今までと同じ様にはいられなくて、そのうち消えて行かなきゃ行けないんだって。男の人のでも、女の人のでもない声で、もの凄く冷たい声だった。
 だから、私は、必死でお願いしたんだ。まだ消えたくありません。どうか、もう少したっちゃんのそばにいさせて欲しい、って。
 そうしたら、『声』は、それを受け入れてくれた。でも、そのうち時が来たら、また呼びに来るって。
 それから、私はたっちゃんを、見続けて来たんだ」
 僕は、りっちゃんにずっと見守られていたのだ。
「でも、もうそれも終わりみたい。昨日、私が倒れたのは、『声』が言うには、エネルギー切れなんだって。この姿でいるって言う事は、物凄くエネルギーを必要としてて、もうそろそろ私は消えちゃうみたい」
「何でだよ!」
 僕は、自分でも解らないうちに、そう叫んでいた。保健室の白い壁に、僕の声が吸い込まれて行く。
「りっちゃんは、それで良いのかよ!」
 りっちゃんは、黙り込んでいる。僕は、そう言ってから、まずい事を言ってしまった事に気付く。
 りっちゃんは、僕のせいで死んだのだ。
「あ……。ごめん」
 僕は、頭を抱え込んでしまった。なんて事を言ってしまったんだろう。
「ううん。謝らないで」
 りっちゃんは、困った様に笑って、すっと目を逸らした。
 胸が締め付けられる様な感じがした。止めてくれよ、そんな悲しい顔をするのは。Z
「じゃあね。昨日は、ありがとう」
 がらがらと扉を開け、りっちゃんは保健室を出て行く。僕はそっちを向かないで、遠ざかって行く足音だけを聞いていた。ぱたぱたと言う足音は、だんだん遠ざかって行って、やがて、僕には聴き取れない位、小さくなった。
 突然、僕の心がざわつき出した。言い様のない焦りが、心臓を叩く。
 だめだ。引き止めなくちゃ。
 はじかれた様に、僕は駆け出した。保健室の扉を開けて、廊下に出る。
 りっちゃんの姿は、もうなかった。
♦
 白い病室で、僕は三日ほど過ごして、退院した。
 久し振りに浴びる陽の光は、肌を刺す様な暑さで、その刺激が懐かしかった。
 湿って重くなった様な空気を、肩で押しながら歩く。
 いつの間にか、ツクツクボウシが一番目立つ様になっていた。
 今年も、夏の終わりが来る。
♢
 それから二週間近く、僕は屋上へ行かなかった。
 残っていた課題をやろうかとも思ったけど、これがなぜか捗らないのだ。読書感想文だけ残して、後は全て終わらせていたけれど、この読書感想文と言うのは、どうにも苦手だ。
 その二週間、僕は何をしていたかと言うと、まず僕は、図書館へ行った。新聞の僕が五歳だった年の新聞の縮小版を、あるだけ漁っていた。
 どの新聞にも、紙面の大きさの違いこそあれ、僕とりっちゃんが溺れた事故の事は載っていた。僕の名前は載っていなかったが、どの新聞にも必ず、「死亡したのは葉山律さん(5)」と書かれていた。
 やっぱり、りっちゃんの言っていた事は、本当だったのだ。
 正直、僕は新聞記事を見るまで、まだ心のどこかで、「これは質の悪い悪戯だ」、と言う思いが残っていた。だから、こうやって真実を知って、僕はある意味で気が抜けてしまった。
 知ってしまえば、それが事実だった、と言う事実だけが残る。だから、僕はこの事に、前くらいの緊張感を持っている訳じゃなかった。
 でも、言い方によっては、りっちゃんは幽霊とも言えるのだ。僕は、あんまり科学信者ではないから、幽霊なんて物も、もしかしたらいてもおかしく無いかもしれない、とは思っている。だけど、それとこれとは全く別の話で、いざ目の前に死んだはずの女の子が現れたと解ったら、僕は結局驚いて、受け入れる事がなかなか難しかった。
 本当に、僕は情けない。
 たった一つのりっちゃんのわがままさえ、僕は叶えてあげられない。
 この気持ちが、僕の足を重くしていた。それは自分でも、痛いほどに解っている。
 解っているのに、この悔しさを、どこにもぶつけられない。一人で、そんなくすんだ気持ちを、抱えるしかないのだ。
 僕は、自室の窓から、外を見やった。
 あれから、夏は大きく表情を変えた。
 刺す様な暑さは無くなって、代わりに体を包み込む様な暑さがやって来た。朝夕はだんだんと涼しくなっているし、空もだんだんと高くなっている。
 夏の日は、また遠ざかろうとしている。

 その日の夕方、僕は久し振りにぶらぶらと外へ出ていた。ここの所、何か用がある時しか外に出なかったから、何となく今は宙ぶらりんな気持ちだ。
 涼しさを含んで来た風を浴びながら、僕は商店街をぶらぶらと歩いた。
 お盆休みの今は、商店街を歩く人もまばらだ。店もシャッターを降ろしている所が多く、通りは橙色の光に満ちているようだった。
 そのまま、商店街を抜けて、川原の方へと歩いて行く。
 川原の土手を歩く。普段はランニングをする人や、犬の散歩をする人がちらほらといるけれど、今日はそんな人影もまばらだった。
 町から、確実に人が少なくなっている。
 あり得ない事だけど、もしかしたら、僕の空想した世界に、近づいているのかも知れない。
 この町から、僕以外の人間がいなくなる。僕と、りっちゃんだけが、取り残される。
 二人で、屋上から、誰もいない町を眺める。駅前の商店街、ちょっと遠くにある団地、学校のグラウンド、どこにも人がいない。ただ、時間だけが流れて行く町。
 それは、とても寂しくて、綺麗な景色に違いない。
 そんな事を考えながら、土手を歩く。
 川は、低い夕日を跳ね返して、きらきらと光っている。
 ふと、足を止める。
 土手に面した一軒の家が、庭で何かを燃やしている。門の前に、おじいさんが一人立って、火を見つめている。
 火は、素焼きの皿の上に載っていて、何か棒の様な物を燃やしていた。
 僕は、暫くそれが何の火か解らなかった。でも、僕はその場を動く事も出来なかった。
 おじいさんも、愛おしげに火を見つめて、少しもその場を動こうとしなかった。ちろちろと可愛い火が、おじいさんの顔を橙色に照らす。
 僕は、火から出る煙を、目で追った。煙は薄くなって、夕闇に溶けながら、空高く昇って行った。
 僕は、いつの間にか、空を見上げていた。
 そして、その小さな火が何なのか、思い出す。
 はっ、とした。
 僕には、やらなければいけない事がある。
 僕は、走って家へと向かった。

 家に着くと、ちょうど、お母さんは買い物から帰って来た所だった。
「お母さん!」
 玄関の扉に手を掛けたまま、お母さんは振り返った。
「あら、どこ行ってたの?」
 お母さんのいつも通りの顔を見て、僕は勝手にじれったくなって来た。心を落ち着けて、ゆっくりと話す。
「訊きたい事があるんだけど、答えてくれる?」
「うん。何でも良いわよ」
 お母さんは、まだ余裕の表情で、新聞受けから夕刊を引き抜いた。エコバッグを持った手に新聞を持ち替えて、ポケットから鍵を出す。
 きっとこれは、いつもの日常の一場面なのだ。そう思うと、僕は無性に腹立たしくなって、でも、それはお母さんに向けるべき物でもなくて、やり場のない怒りだけが、僕のお腹の中に陣取った。
 だから僕は、お母さんに、言葉を突き刺した。
「調べたんだけどさ。僕の言ってた、女の子の事」
 お母さんの顔から、笑みが消える。もう、僕を騙しきれるとは思っていない。微笑みがはがれて、すっと真面目な顔が出て来た。
「それが何か、大事な事なの?」
「うん、これ以上ない位、大事な事」
 遠くで鳴いていたヒグラシが、息をひそめた。
 息も出来ない様な静けさが、僕を締め付ける。ずっしりと重い空気が、僕の肩にのしかかる。知らない間に、僕は地面を踏みしめていた。
 ゼリーみたいな空気を、一杯に吸い込んで、僕は口を開く。
「何で、隠してたの?」
 その一言で、お母さんは全てを悟ったようだった。僕に背を向けて、玄関のドアを開けた。中に入って、買い物袋を、玄関に置いた。
「ねえ、答えて……」
「ちょっと、ついて来て欲しい所があるの」
 お母さんは、僕に何も喋らせたく無いみたいだった。僕に伝える事だけ伝えて、それで終わりにしたいと思っている風だった。
 僕は、そんなんじゃ嫌だった。お母さんは、何で僕にりっちゃんの事を黙っていたのだろう、僕はまだ何を知らないんだろう、僕は、何をしなきゃいけないんだろう。全部に答えを出してからじゃないと、りっちゃんに謝る事すら出来ないと思った。
 だから、お母さんが隠し続けて来た事を、僕は知らなければいけなかった。
 お母さんは、僕の知りたい事を隠したまま、ずんずんと歩いて行った。家を出て、裏手の高台へ続く坂を登って行く。
 僕は、何も考えていなかった。ただ、交互に右足と左足を前に出して、ただ無心にお母さんの後をついて行った。僕は、僕の知りたい事だけに興味があった。
 お母さんが、僕の質問に答えてくれるのか、それだけが心配だった。
 だらだら続く坂の途中で、お母さんは道を折れた。辺りはまだ住宅街だったけど、そこまで来て、僕はやっとお母さんがどこへ向かっているのか、解った。
 やがて、長い木の塀が見え始めた。ここまで来て、僕の予想は確信に変わる。夕暮れ時だからかも知れないけれど、さっきから、人を見かけない。
 静かな道をしばらく歩くと、瓦の屋根を載せた、門が現れた。
 お母さんは、その門をくぐった。僕は、一瞬、門の前で立ち止まった。門を見上げて、息を吸い込む。眼を閉じて、えいっと門をくぐった。
 門をくぐった途端、僕は逃げ出したくなった。自分で探っておきながら、自分で知りたがっておきながら、実際に自分の眼で見るのは、やっぱり怖かったのだ。
 門の向こうには、石畳の道が続いていた。。
 道の両側に、たくさんのお墓が並んでいた。全部同じに見えて、でも、一つ一つはやっぱり違う形をしている。お花が備えてある物もあれば、苔が生している物もある。
 そんなお墓の群れの中を、お母さんは迷う事なく進んで行った。右左にお墓を見ながら、僕はだんだん、下だけを見る様になった。
「ねえ、どこまで行くの?」
 僕の問いかけに、お母さんは答えなかった。ただ、一つのお墓の前で、ふと立ち止まった。
 他のお墓と何も違わない、一つのお墓の前に、僕は立った。何も言われなくても、僕はこれが何か、解った。
 僕は、一歩前に踏み出して、もう一度しっかりと、お墓を見つめた。
 「葉山家之墓」と、しっかり掘られた、どっちかと言うと新しいお墓だった。お花は供えられていないが、墓石の綺麗さが、まだお参りに来る人がいる事を示していた。
 それは、りっちゃんがまだ忘れられてない、と言う事と一緒だった。
「あなたの記憶は、正しかったのよ」
 お母さんの声が聴こえる。
「あなたには、確かに仲の良い女の子の友達がいた」
 ざあ、と風が吹いた。近くの木が揺れて、僕は何かに襲われる様な、怖さを覚えた。
「あなたは調べたと言っていたから、もう知っているのかも知れないわね。彼女は、いや、りっちゃんは、十年前の夏に、亡くなったわ」
 僕の後ろから、お母さんの静かな声が続く。何故だろう、振り返りたく無かった。
「りっちゃんは、本当に良い子だった。毎日のようにうちに来て、あなたと遊んで、夕方になったら帰って行った。あんまり詳しく家の事を聞いた訳じゃないけど、とっても溌剌としてて、何より、あなたと遊ぶのが楽しくてしょうがなかったみたい」
 祭りの夜を思い出す。あの夜、りっちゃんは本当に楽しそうに、出店を回っていた。
「でもある日、りっちゃんは死んじゃったの」
 僕は、拳を握り込んだ。拳の中に、汗がじわじわとしみ出してくる。
「川で溺れたあなたを助けようとして、りっちゃんは溺れてしまった。あなたが中州に打ち上げられているのを、近くを通りかかった人が見つけたのだけれど、そのとき、りっちゃんはあなたにしがみついたまま、亡くなっていたそうよ」
 僕は、耳を塞ぎたくなった。
 僕は幼なじみの女の子の存在を、信じていた。お母さんもお父さんもお姉ちゃんも、その子を妄想の中だと言う。そんなみんなが、僕を騙そうとしているんだと思っていた。
 でも、今の僕はどうだ。女の子が死んだ事すら知らず、今だって逃げ出したくなっている。一人の女の子の、生きている間の想い出を、僕は捨てようとすらしているのだ。
 そして、僕は悟った。
 みんな、僕を守ってくれていたのだと。
 かけらでも、助けられた時の事を覚えていたら、僕は何か大きなトラウマを抱えたままだったかも知れない。
 女の子の存在を曖昧にしたままだったからこそ、僕は楽しい事や、面白かった事を思い出しては、
「これは妄想じゃない」
 と言い張ってたのだ。
「結局、あなたは助かって、りっちゃんは亡くなった。でも、あなたは、りっちゃんの命を貰って、今こうして生きているの」
 両掌を、まじまじと見る。最後に触った時、りっちゃんの手は冷たかった。りっちゃんは冷たくなる事を選び、僕はそのおかげで暖かいままでいられる。
 どうしよう。
 僕は、りっちゃんに迷惑を掛けてしまった。
 そんな僕が、毎日りっちゃんの元を訪れて、遊んだり一緒に過ごしていたなんて、厚かましいにも程がある。
 りっちゃんは決して人を貶したりはしない。だけど、僕の事は、多分、恨んでいる。
「だから、今こうして教えてあげたんだから、たまにはりっちゃんに会いに来なさい」
 お母さんは、ふう、と大きく息を吐いた。
 僕は、りっちゃんに会いに行かなければならない。唐突にそう思った。
 さっき見た、おじいさんと火を思い出す。
 今日は、お盆の最終日で、あの火は、送り火だったのだ。
 僕はあのおじいさんも、彼が見送っていた人も知らない。だけど、おじいさんは僕に、やらなければいけない事を、教えてくれていた。
「お母さん、教えてくれてありがとう」
 僕は、りっちゃんのお墓に背を向けた。僕は、もうこれ以上ここにいたって仕方ない。
「じゃあ、僕、行ってくるから」
「え? 行ってくるって、どこに……」
 お母さんの言葉を待たずに、僕は駆け出した。
 もう、ここにいる必要はない。
 だって、りっちゃんは、ここにいる訳じゃない。
 いつもの、あの場所にいるはずだと、僕は確信していた。

 坂道を駆け下りて、僕は高校への道を急いだ。
 バス停まで行って、ちょうど来たバスに飛び乗る。バスの窓から、外を眺めると、もう、空の半分は藍色に覆われていて、橙色の空は逃げる様に西に固まっていた。
 僕は、気がせいていた。手すりに掴まりながら、足踏みだってしていたかも知れない。
 やがて、バスはのろのろと学校前のバス停に着いた。僕は、バスから転がり降りると、校門へとダッシュした。
 学校へ続く一本道を、脇目も振らずに走る。ただ、一秒でも早く、辿り着きたかった。
 しかし、校門は閉まっていた。お盆休みの間だからか、校舎にも人っ子一人いない。でも逆に、それは好都合だ。僕は、何の躊躇いもなく校門を乗り越えると、校舎へと駆け寄った。
 だが、校舎の鍵は閉まっていた。僕は、何度かガタガタと昇降口の扉を揺らしてみたけれど、微塵も開く気配がなかった。
 大丈夫だ。まだ、校舎に入れないと決まった訳じゃない。僕は校庭に回ると、非常階段を、最上階の五階まで駆け上った。薄い階段板を踏む、テンテンテン、と言う軽い響きを聞きながら、僕は五階に辿り着いた。
 重そうな扉に着いたドアノブを、捻る。
 何の抵抗もなく、ドアノブは回った。僕は、すかさず肩で扉を推し開けた。長い事開いていなかったのか、扉は低い音で軋みながら、ゆっくりと開いた。
 校舎の中に、夕日は差し込んでいなかった。教室では、机が藍色の空を移して、まるで何かの画面が並んでいるようだ。長い長い廊下には、既に夜がやって来ていた。
 忍び足で廊下を通り過ぎて、いつもの階段に辿り着く。
 僕は、ここまで来て急に、悪い事をしている気になった。どうしよう。そもそも、りっちゃんは本当にここにいるのだろうか。鍵の掛かった門を乗り越えて、学校の敷地に入ってしまった。ここの扉が開いていたのだって、もしかしたら偶然かも知れない。もし、これがバレたら、僕は先生たちから、かなり油を搾られる。
 だから、僕は階段を目の前にして、かなり長い事立ち止まってしまった。
 行け、行け、と、心では思うのに、体が嫌だと言って、言う事を聞かない。
「ああ」
 いつの間にか、独り言が漏れていた。
「情けないな、僕は」
 その一言で、僕は気付いてしまった。
 結局、先生に怒られるのなんて、これっぽっちも怖くは無いのだ。
 りっちゃんに会うのが、怖くて仕方がないのだ。
「僕は、迷惑を掛けてばっかりだ」
 だから、僕には言わなきゃ行けない事がある。
 ごめんと。
 いくら謝っても駄目だろう。りっちゃんは、僕の為に命を落とした。僕の為に、未来を捨てた。僕の為に、幸せを捨てたのだ。
 僕は、りっちゃんを苦しめて、今こうして生きている。
 だから、謝らなければいけない。
 謝ってどうこうなる事じゃないのは、十も承知だ。だけど、僕が知らない振りをするより、よっぽど良いに違いない。
「ほんと、情けないな」
 僕は、震える膝を叩いた。どんどん、叩く力を強くする。りっちゃんが、この階段の上にいる。僕の大好だったりっちゃんが、きっと、待っている。
「行くか……」
 そう思った途端、膝の震えが止まった。恐る恐る、一歩踏み出す。よし、大丈夫だ。もう一歩踏み出す。ふらふらしたりは、しないようだ。
 一歩、一歩、ゆっくりと歩いて行って、僕はあの、埃っぽい踊り場に辿り着いた。雨の日は、ここで色々話したりした。今でも、その光景をありありと思い出せる。
 屋上へと繋がる扉に、手を掛けた。冷たいドアノブに触れる。
 扉は、開いた。
 扉の隙間から、生暖かい湿った空気が流れ込んで、あっという間に僕の体を取り囲んだ。そのまま、扉を押して開ききる。
 夕焼けが、僕の眼を灼いた。
 低くなった夕焼けの、最後の輝きは、眼も開けられないほど眩しかった。僕は、思わず眼を閉じてしまう。でも、瞼の上からでも、陽の光の暖かさを感じた。
 だんだんと、瞼を開いて行く。開けた瞼の隙間から、容赦なく光が差し込んでくる。負けじと、眼を見開く。
 
 光の中に、彼女がいた。
 
 この町を見下ろす様に、胸を張って、フェンスのそばに立っている。髪は夕方の風になびいている。
 そして、その背中には、大きな「翼」があった。
 僕は、眼を閉じるのも忘れて、惚けた様にその姿を見ていた。
 やがて、その人は、こちらを向いた。逆光で、顔はよく見えないはずなのに、その顔が笑顔である事は、どうしてか、解った。
 体から力が抜けて行く。立っているのがやっとだった。
 微笑んだ彼女は、おもむろに口を開いた。
「来てくれたんだね」
 僕は、彼女の姿の迫力に負けない様に、どうにか、大きな声を出した。
「うん、来たよ」
 そして、彼女の名前を呼ぶ。
「りっちゃん」
 りっちゃんは、その言葉を聞いて、幽かに微笑んだ。そして、すぐにその微笑みを引っ込めると、真面目な顔になって、また町の方に向き直ってしまった。横顔も、凛々しかった。
 さあ、行け。僕は、りっちゃんに謝罪の言葉を、言わなくちゃ行けない。今を逃すと、もう永遠に言えない気さえした。
 息を深く吸い込む。でも、それと同時に。
「私は、もう、行かなくちゃならないんだ」
 りっちゃんはそんな事を言うのだ。
「行かなくちゃって、どこに?」
 僕は、今さっき決めた覚悟も忘れて、そう尋ねた。でも、その答えを、僕は知っている気がした。
 暫く、静かな時が流れた。永遠の様な一瞬が過ぎて、りっちゃんの声が風に乗って聴こえた。
「ここじゃない、どこかだよ。とっても遠い所」
「どれくらい、遠いの?」
「それは、私も知らない。でも、遠い所って言う事だけは、知ってる」
「なんで、そんな所に、いっちゃうのさ」
「『声』が、そう言ってるからだよ。もう、こっちにはいられないんだって」
「そんな声、無視すれば良い」
「無理だよ」
「無理じゃないよ。こっちにいてよ。まだ、りっちゃんと一緒に、したい事があるんだ。まだ、見たい物があるんだ。まだ、食べたい物があるんだ。だから」
「駄目だよ」
 りっちゃんのその声は、冷たく僕を突き放した。氷柱みたいな鋭さで、僕を突き刺した。何を言おうとしていたのか、全部忘れてしまった。ただ、僕は口を開けたり閉めたりしながら、声にならない声を上げていた。
「ごめんね。私は、もうエネルギー切れなんだ。こっちの世界で、この姿でいるのは、どうしても無理なんだって」
 前にも、りっちゃんはそんな事を言っていたはずだ。
「それにさ、私が死んだ時の願いは、もう叶っちゃったしね」
 りっちゃんはそう言って笑った。や
 でももし、例えその言葉が本当だったとして、やっぱりそう割り切るのは、無理だと思った。願いが叶ったなら、絶対に、新しい願いが生まれるはずだ。それなのにりっちゃんは、無理矢理物わかりが良い振りをしている。
 そんな笑顔は、見ていて、心がチクチクした。小さい心の傷が寄り集まって、だんだん大きな亀裂になっていく様な気がした。
 全部、僕のせいだ。僕が、あんな馬鹿な事をしなければ。
「りっちゃん」
 僕は、胸を絞る様にして、そう呼びかけた。声が、風にかきけれて行く。
「りっちゃん」
 でも、大きな声が出ない。りっちゃんに届かない。
「りっちゃん」
「りっちゃん」
 どうしても大きな声が出し難い。何かが僕を押し潰そうとしている。
「りっ……」
 声が出なくなった。
 りっちゃんを連れ去ろうとする何かが、僕を邪魔だと思って、こうしているのかも知れない。
「っ……!」
 声が出ないのに、僕は口を開けたり閉めたりした。そうすれば、少しは声が出る気がしたのだ。でも、声どころか、息の欠片すら出て来やしない。
 だんだんと、息苦しくなって行く。
 苦しくて、膝を付いて、そして両掌を地面に付けてしまった。
 思わず、遠くのりっちゃんへと手を伸ばしてしまう。
「……っ!」
 でも、りっちゃんは僕から眼をそらした。ぎゅっと眼をつぶって、僕を見ない様にしてしまった。
 やっぱり、僕には謝る事すら許されないのだろうか。
 伸ばした手から、力が抜けてくる。体を支える肘が、がくりと曲がるのが解った。
 その瞬間だった。
「もう行きますから! だから、もうこんな事はよしてください!」
 りっちゃんの声だった。涙を流していた。頭を両手で抱えて、何かに懇願していた。
「たっちゃんは悪く無いのに! なのに! なのに!」
 りっちゃんは、空へ噛み付きそうな勢いで、叫んだ。
「なんで苦しんでいるんですか!」
 次の瞬間、りっちゃんは惚けた様に黙り込んでしまった。口を開けて、ぼうっとして、しばらくすると、膝から崩れ落ちてしまった。
「ああ、私のせいだったんだ」
 りっちゃんのその言葉で、僕は解った。たった今、『声』がりっちゃんに話し掛けたのだ。『声』が、りっちゃんを向こうへ、力づくで引きずって行こうとしている。
 僕は、それを止めなきゃならない。
 僕は、四つん這いで、りっちゃんの元へと這って行った。りっちゃんの足下まで辿り着いて、やっとの事で腕にしがみつく。
「りっちゃん……、行っちゃ…………、ダメだ……」
 半分も声にならなかった。ただかすれた声みたいな息が、ヒューヒューと出てくるだけだった。
「そんな『声』なんかに……、負けちゃ…………、ダメだ…………」
 りっちゃんは、僕を見下ろした。一瞬泣きそうな顔をしたが、すぐに微笑んで、しゃがみ込んだ。僕の目の前に、りっちゃんの顔が来る。
「ありがとう」
 小さな、囁く様な声が聴こえた。
 そして、りっちゃんは立ち上がる。きっ、と空を睨みつけて、叫んだ。
「解りました! そっちへ連れて行ってください! だから!」
 そして、りっちゃんは胸一杯に息を吸い込んだ。
「もう、これ以上たっちゃんを苦しめないで」
 りっちゃんは、涙を流していた。
 頬に一筋、夕日を照り返しながら、落ちて行った。
 その光が、今の僕には、この上なく眩しかった。
「私は、たっちゃんに感謝してる」
 りっちゃんは、僕の隣へしゃがみ込んだ。大きな翼が動いて、風を起こした。
 だんだん、息苦しさが無くなって来た。
 僕は、りっちゃんの右手を握った。そうしていないと、今すぐにでも、りっちゃんがどこかへ行ってしまいそうだった。
「私は死んじゃったけど、たっちゃんのそばにいられたから、色んな物を見る事が出来た。たっちゃんは私の事、気付いてなかったと思うけど、私はずっとたっちゃんのそばにいたから、少しだけ長生き出来たみたいな感じだった。
 それにね、たっちゃんが私の代わりに色んな物を見てくれるなら、私はそれで良いんだ」
 違う。りっちゃんは、死ななくてよかったんだ。なのに、そんな事を言うなんて、どう考えてもおかしい。
 その時だった。突然、天から声が降って来た。
『願いを、聞き入れた。もう時間だ』
 冷たい、無機質な声だった。男か女かも、若いのか老いているのかも、解らない声だった。
「たっちゃん、私、もう本当に行かなきゃ」
 りっちゃんはそう言って、立ち上がった。僕も、手を繋いだまま立ち上がる。
「今まで、ありがとう。楽しかった」
『いつまでそうしているのだ。早くしろ』
「うるさい!」
 久し振りに、声が出た。すーはーと息をしてみる。大丈夫だ。
「お前は、誰なんだ! りっちゃんを苦しめるなら、僕が許さない」
『私に名前などない。ただこうして、世界をあるべき姿になる様に、回しているだけだ』
「死ななくていい人間が死んで、あるべき姿な訳ないだろ」
『それをお前が言うとはな』
 今一番、この声を憎いと思った。
『お前が、この者を殺したんだぞ』
 僕は、何も言い返せなくなった。それだけは、変えようもない事実だったから。
「たっちゃんは悪く無いよ。たまたま、私がドジ踏んだだけだから」
 りっちゃんは優しい声でそう言うと、急に口調を変えた。
「いい? 私をそっちへ連れて行きなさい。そうしたら、もう、二度とたっちゃんを苦しませないで」
 こんな時に限って、声は返事をしなかった。
 気付けば、右手にあったりっちゃんの手を、ほとんど感じていなかった。向こうが透ける位、色が薄くなっている。
「じゃあね、たっちゃん。たっちゃんは、まだこっちに来ないでね」
 そう言うと、りっちゃんは大きく翼を動かした。強い風に、僕は思わず顔を覆ってしまった。
 次に眼を開けると、りっちゃんは翼をはためかせて、頭上高くに飛び上がっていた。
 そうだ。言わないと。
「りっちゃん、全部僕のせいだ。いくら謝っても足りないだろうけど、謝る!」
 りっちゃんは、僕を見下ろして、悲しそうな顔をした。
「ごめん! 本当に、ごめん!」
 返事は、なかった。
 ただ、一回翼を大きくはためかせると、りっちゃんは高く高く、藍色の天に昇って行った。
 今になって、りっちゃんが何だったのか、気になった。天使にも見えたし、幽霊みたいに、透けてもいた。高く高く昇って行って、星々の世界に行ったのかも知れないし、自分が星になったのかも知れない。
 ただ、りっちゃんはまぎれもなく、翼を持っていた。
 だから、もう二度と、手は届かないのだ。
 いや、もう手を触れる事も、許されないのかも知れない。
♢
 数日後、僕はりっちゃんのお墓に行った。
 お墓は相変わらず綺麗だったけど、違う事が一つあった。
 墓前に、白いクマのぬいぐるみが置いてあったのだ。
 確か、これはりっちゃんにあげたはずのぬいぐるみだ。僕は、お参りをして、そのぬいぐるみを持ち上げた。
 腕の所に、お守りが結びつけてあった。布はもうよれよれになっていて、みすぼらしく汚れていた。
 でも、確かに、誰かがこれを大切にしていた事だけは、解った。 
 お守りが、妙に柔らかい。結んである紐をほどいて、中を覗き込むと、紙切れが一枚、折らずに入っていた。


 もう二度と謝ったりしないで
 楽しく生きて              
                     律

 僕は、思わず空を見上げてしまった。
 僕は謝ろうとしただけだけど、もっと他に、伝えなきゃ行けない事があったのだ。
 りっちゃんのおかげで、僕はこうして生きている。それも、まぎれもない事実だ。それなのに、僕は、自分の罪をを雪ごうとばかりして。
 恥ずかしさよりも、何よりも先に、悔しさだけが訪れた。
 りっちゃんは、こんなにも僕を思ってくれていたのに。りっちゃんは、こんなにも僕の幸せを願ってくれていたのに。
 僕は、自分の事ばっかりだ。
 お墓の方を向こうとしたけど、止めた。僕は、空を見上げたまま、ぽつりと呟いた。
「ありがとう」
 風が吹いて、僕の声をどこかへ運んで行った。
 秋の始まりの空は、思ったよりも、高かった。
かなへび
2014年08月15日(金) 08時38分03秒 公開
■この作品の著作権はかなへびさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
今年もまた夏が終わり、秋がやって来ますね。
そんな感傷に浸りながら書いた物です。よろしくお願い致します。

この作品の感想をお寄せください。
No.1  陣家  評価:20点  ■2014-10-22 03:17  ID:xirF3gxu5AI
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拝読しました。

>その日、僕が高校の屋上を訪れたのは、全くの偶然だった。
>四時間目の体育の時間、ふと校舎の屋根を見上げた俺の目に、奇妙な物が目に入ったのだ。
こう書かれると、すでに主人公は屋上にいるものだと思ってしまいます。
短いスパンで時制を移動させるのは混乱の元になります。

回想シーンをちょこちょこ挟むのはマンガやアニメではさほど難しくはないですが、小説ではとても難しいテクニックです。
そのせいでかなり読みにくく感じました。

壁にカケスの羽をディスプレイするのは奇妙な趣味としか思えませんが、特に理由も明かされないのでもやもやします。
その後もどう見たってりっちゃんが思い出の女の子なのは分かりそうな物なのに主人公の朴念仁っぷりにいらいらさせられてしまいます。
オチも想定通りというか、安直なかんじでした。
でも、りっちゃんは生き生きとしていて魅力を感じました。
なので、なおさらもっといい終わり方をして欲しいと思ったのかもしれません。
総レス数 1  合計 20

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