愛はオハラ座と共に
ここはフランセーヌ王国、王都パリス。キラキラと街燈輝く町並の一角に、パレ・ガルニエと呼ばれるパリス・オハラ座はある。その外観はさして華やかとは言えない。薄い灰色の外壁に十二の円柱が立ち並び、角灯がいくつかゆらめいている。古臭い外観、といっても過言ではない。だが中に入った者は皆驚愕するであろう。まず白の大理石で造られたグラン・エスカリエ(大階段)が、左右から腕を交錯するように伸び交わり、その上に敷かれた赤カーペットが観客を夢の舞台へと誘う。その先にある、金色の床に炎のようなシャンデリアが映る広い廊下はグラン・フォワイエといって、シーズンにもなれば上流貴族が幕間に噂話に興ずるものだ。   
今は稽古の時間で、パレ・ガルニエには歌姫の美しいアリアが響き渡る。
「ストップストップー!! ソフィー! ちょっとやめてくれ」
 その豪奢なオハラ座の舞台に立つソフィーは突然、アリアをやめさせられた。監督は頭をかきかき、がらんどうの客席で歌姫を見つめジェスチャー混じりに熱弁をふるう。
「その、なんというかソフィー。君は発声や声量、その他全てにおいて完璧なのだけど、その、そう! 感情だけが足りないんだよ! このオペラで君の歌うアリア『許しを請う哀れな羊』は、大切な恋人の王子が夜の女王に奪われてしまった王女の悲哀そのものだ。もっと感情をこめて、さあ1、2、3」
 そうまで言われたソフィーは息を吐き吸って、再度歌い出す。次の瞬間、
「はーい、そこまでよー!」
 という女の甲高い声に遮られた。ぷりぷり舞台袖から登壇してきた声の主は、高飛車な調子で吐き捨てる。
「このつまんないままごとはもうおしまい!これからはくっそくだらない小芝居しか出来ないヴェリエ劇団にかわって、我がセーヌ劇団の崇高なオペラが始まるのよー! さあおどきなさい!」
「何だってこのデ……!」
 自分達が丹精こめて作りあげるオペラを、ままごとなどと評されて、ヴェリエ劇団一同怒りがこみ上げ彼女に掴みかからんとする。だが言った本人は召使にその相手をさせ、でっぷんでっぷんの身体をよじらせ衣装係にまくしたてる。
「ちょっとー! このドレスサイズ合わないんだけどー! もうちゃんとしてよねえーこれだからぐずは嫌いなのよー」
 衣装係は素早く舞台の上に登って、セーヌ劇団の歌姫ランヴェーラのドレスを繕う。
「何よ本当はぼっちゃり系女子ランヴェーラ様が、失恋でやけぐいしたせいでサイズが狂ったんじゃないの」
 と本音を漏らせばあたりは騒然、ランヴェーラがヒステリーを起こし稽古は中止になってしまう。
 ランヴェーラは黒い髪と黒の両眸を持つ、それは美しい歌姫なのだが、性格がすさんでいる上になによりちょっと太い。いや、ちょっとというか、例えるなら漬物石五十個分、
「ちょっとそこーもっと可愛いたとえにしなさいよー踏みしだくわよー」
 ……例えるなら林檎五千個分くらいの重量の巨体を誇っている。ヴェリエ劇団の歌姫、やせっぽちのソフィーとは大違いだ。彼女がやせっぽちなのはある事情があるのだが。
「とにかく! とっとと出ていってー! 稽古の邪魔なのよ!」
 しかしセーヌ劇団は、この歴史はあれど人気の芳しくないヴェリエ劇団よりははるかに力もあり人気も高い。逆らう事は出来ない。ヴェリエ劇団の皆はしぶしぶ荷物や大道具を片付けて舞台を去っていく他ないのだった。
 ドア係にドアを開けてもらってから、ソフィー付きの化粧係アイーダはキンキンと金切り声で喚いた。
「なんなのランヴェーラの奴! ちょっと人気があるからって調子に乗って!」
「仕方ないわよアイーダ。あちらの方が人気も知名度も実力もあるのだもの」
 そうソフィーがたしなめても、アイーダの怒りはおさまらない。
「いいえソフィー! あなたのアリアは絶品だわ! 舞台上の演技だってひけはとらないはずよ! それに!」
アイーダはバラ一つない控室にソフィーを通し、楕円の全身鏡を彼女へと向けた。
「この長い波打った美しいブロンド! 琥珀色の瞳! 高い鼻梁に紅い唇! ソフィーはこんなに美しくて実力もあるのに、どうして有名にならないのかしら。ああ、あのランヴェーラのように、資産家の男をたぶらかして貢がせて……」
「アイーダ、落ちついて」
 ソフィーの優しくも強い声音がそれをなだめる。
「いいのよ、私はこれで」
 そうしてにっこりと彼女は笑い、
「明日は六時から稽古ね。よろしく頼むわよ。またね」
 とアイーダのふっくらした頬にキスをした。アイーダは真っ赤になって背を向けドアへ走っていく。
 バタン。一人になった控室で、ソフィーが呆れたように呟く。
「……ミカ、来ているんでしょう?」
「ぬわっ」
 背の高い箪笥の陰から姿を現したのは、ひょろりとした上背のある、汚れたシャツに鼠色のズボンを纏った、瓶底眼鏡のいかにも貧しそうな青年であった。
「見、見つかってしまったか……」
 彼はおずおずと恥ずかしそうにソフィーに近づいた。
「今日の君もとても綺麗だったよ。はい、ソフィー。ごめんよ。こんなものしか買ってやれなくて」
 そう言って彼女に手渡すのは、一本の華やかな色合いをした黄色のバラ。
「まあ! ミカ、こんな素敵なもの、私にはいらないと言ったでしょう」
「で、でも……そりゃあ僕は文なしで、君のこの控室を一杯にするようなバラは送れないけど、でも、少しでも君を……」
 喜ばせたくて……と言いたかった唇がソフィーの唇に塞がれる。
「ソフィー」
「さ、帰りましょう私の天使様。子供達が待っているわ」

 二人が出会ったのはひと月半前、雪のちらつく寒いパリスの裏道だった。真冬というのにコートも着ていない薄着の青年が、冷えた石畳の上に倒れ伏しているのに、ソフィーだけが声をかけたのである。それからソフィーは行くあてもないというその青年を、『自分の子供達を守ってくれる』ことを条件に、一緒に住む事を許した。ソフィーも人を見る目には長けている。彼のその汚れのない、まっすぐなスカイブルーの瞳を、ソフィーは信じる事にしたのである。その短い間に、ソフィーは彼に恋し、ミカエルもまた彼女に恋をした。ミカエルは普段日雇いの人夫などの仕事をしてはなけなしの金でソフィーの舞台を見にやってきた。いくらチケットをあげると言ってもきかなかった。
 白い壁のところどころすすけたアパルトマンの一室に入ると、ソフィーとミカめがけて子供達が飛んできた。
「ソフィー! ミカ!」
 そして二人にまとわり腕を回す。
「遅くなってごめんね。さみしくなかった?」
「ううん、大丈夫」
 この十人にもおよぶ子供達は皆孤児であった。それをソフィーが救い育てているのだ。しかしいくら名門劇団の歌姫でも十人をまかなうギャラはなかなか貰えない。夕食はいつも貧しかった。それゆえソフィーはやせっぽちのままだった。それでも幸せだった。古い暖炉の燃える居間で、子供達に囲まれて愛する人の隣で眠りにつく日々は。

 そんな折であった。
 パレ・ガルニエでの稽古中、ソフィーは突然監督に呼ばれ控室に戻された。それからアイーダによる化粧が施され、ドレスに着替えさせられると、普段は寄る事もない『皇帝ボックス』、昔フランセーヌが帝国だった頃の名残の席へ通された。そこには――。
「何であんたがいる訳―?」
 さも嫌そうな顔を向けるランヴェーラに、お付きの召使。それからシート席には、半仮面をつけた艶やかな唇の青年が足を組んで座っていた。その彼に代わり、華やかなドレスを纏った侍女がランヴェーラ、ソフィーへ声をかける。
「ここにおわす御方は恐れ多くもフランセーヌ王国ブランディーノ王子殿下でいられます。高貴なこの御方がこちらの劇場を代表する歌姫のどちらかを、妻に迎えたいと仰せになっています」
「えっええっ!!」
王子はゆっくりと立ちあがると、驚愕する二人へにこやかに言い放った。
「お前達二人の評判は宮中にも届いている。二人ともに美しく、俺様の好みでもある。それゆえ次の舞台『魔鈴』は、セーヌ劇団、ヴェリエ劇団双方に、その完成度、そして貴様らの実力を競って見せてもらおうか。それに勝ち得た方が我が妻だ。ではな」
「お断りします」
 席を立ちあがりかけた王子がゆるりと優雅に振り向く。
「今、何と言った女」
 ソフィーは身ぶるいしながらもなんとか言葉を紡ごうとする。
「王子様の妻の座? 私にはそんなもの必要ありませ……きゃっ」
 その唇が後ろから回ってきた手によって塞がれた。そのままソフィーは監督によって裏の廊下へ連れて行かれる。
「何をするんです! 私にはあんな勝負受けられません!」
 そう言って監督の手を強く振り払うソフィー。これに監督は困った顔つきになり、頭を垂れ必死に頼み込む。
「すまないソフィー。しかし今我が劇団は貧窮に喘いでいる。君以外の若手も育っていないし、大道具なんかの金物職人や彫刻家に払う費用も捻出出来ない有り様だ」
「……っ」
「本当に君には申し訳ないと思っている。だがこの劇団存続の為には、殿下のお力がパトロンとして必要なんだ。この勝負、受けてくれないだろうか」
 ソフィーは眉根を寄せ目を伏せたまま、しばし黙りこんだ。確かに、この劇団には大きな恩がある。路傍でアカギレだらけの手で花売りをしていた天涯孤独のソフィーを、拾いあげ育ててくれたのはこの劇団である。抗いたくとも、恩を忘れる事は出来ない。それにパトロンがつけば、子供達にもいい暮らしをさせてやれる……。一瞬、ミカエルの悲しむ顔が脳裏をよぎった。
「……分かりました」
「ソフィー?」
「この勝負、お受けします」
「あっありがとうソフィー! さ、じゃあさっそく遠しの稽古だ!」
 稽古が終わり解散になっても、ソフィーの自宅へ向かう足取りは重かった。
(どうしよう。あの時は引き受けてしまったけれど、ミカエルに何て話せばいいのかしら)
「ただいまー」
「お帰りなさーい!」
 ドアを開けると、すぐさま子供達がソフィーに飛びかかってくる。それから彼女の腕を取ると、子供達はその手首に何かを巻きつけた。
「こ、これは……?」
手首には銀の細いブレスレットが瞬いていた。
「プレゼント! ソフィーとミカに!」
「僕達がくず拾いをして稼いだお金で買ったんだ」
「ごめんねソフィー。そんなものしか買えなくて」
 そう言ってしょんぼりする子供達を、ソフィーはぎゅっと腕を回して抱きしめた。
「何言っているの。私、すごく嬉しいわ。ありがとう。こんな綺麗なもの舞台でだってつけた事はないわ。ほら、本当にキラキラして……」
 それはソフィーの瞳が潤んでより輝かしく見えるのだったが、無論そんな事は言わない。子供達は嬉しそうに飛び跳ねている。
 その日、ミカは遅くになって帰ってきた。ソフィーがその腕に、揃いのブレスレットを巻いてやると、彼は誰からか察したのか眼鏡を外し、何度もその目元をぬぐった。

 ソフィー達ヴァリエ劇団による演目『トリスティアンとイゾールテ』は好評だった。グラン・フォワイエにはコルセットをしめ美しい絹のドレスを纏った上流婦人達がひしめきあい、舞台の入り具合から衣装にわたるまで細部に及んで意見を交わし合った。
「特にあの歌姫のアリアは良かったざますね」
 ソフィーの渾身のアリアも評判がよいようだった。
「ええそうですわね。ああそうですわ。皆さんあの噂をお聞きになりまして? 何でも時期王位継承者、第一王子様が危篤だとか……」
 彼女らの噂話はひそやかに紡がれていく。
 舞台を終え疲れ切った身体でソフィーが控室に戻ると、目の前の光景に彼女は圧倒された。控室にはむせかえるような匂いの濃い花束が、ところせましそこをおどきという風に詰め込まれていたのである。
「こっこれはっ……!」
「ごきげんよう、俺様の歌姫よ」
 腕を組み壁にもたれかかっていたのは、先日ランヴェーラかどちらかを妻に……と言っていたブランディーノ王子殿下だった。
「おっ王子様っ」
 ソフィーは慌てて片膝をつき敬意を払わんとする。そんな彼女の手を取り立たせると、この半仮面ながら美しいかんばせを予感させる王子は、ソフィーの右手にキスを落とした。
「ブランディーノ王子殿下っこのバラ達はあなた様が!?」
ブランディーノはにやり、と歯を見せる。
「そうともソフィー。全てお前の為に用意したものだ。喜んでくれるかな? 未来の我が妻になりうる乙女よ」
 そこで突然、
「ソフィー! 見て見て! ブランディーノ様から新しい化粧道具や衣装をいっぱいって! 失礼しやした!」
 アイーダがドアを開け、閉じ、凄まじい勢いで逃げ去った。ソフィーは益々困惑の色を深めて面に出す。
「どうだ? 気に入ったろう? 他にもお前の欲しいものは何でもくれてやろう。花か?宝石か? それとも金?  名誉?」
 ブランディーノの腕が悩ましげにソフィーの腰に回る。美しい王子による贅を尽くした数多の誘惑。
(ソフィー)
だがソフィーの脳裏には、彼女を呼ぶ貧しい優しい青年の声しか響かなかった。
次には、バチンっ!
「んなっ」
右頬を叩かれた王子は目を見開いてソフィーを見据える。ソフィーはふうふうと手の平に息を吹きかけ、それから深々と頭を下げた。
「王族にご無礼を働きましたこと、お許し下さい。けれど私には、こんな幾千の花より宝石より、一本のバラの方が大切なんです」
お許し遊ばして。ソフィーがそう言った時にはもうドアは閉まっていた。
「ふうん、なかなか面白い女だ」
 王子はこれに怒るどころかより興味が湧いたようだった。

 公演が終わり、家路につきドアを開ける。子供達は皆居間で毛布にくるまって眠っていた。
(本当に、皆天使みたいな寝顔だこと)
「ん、ソフィー?」
ソフィーの寝着の裾を、はしで寝ていた少女が取った。
「どうしたのドリゼラ。怖い夢でも見たの?」
「んーん」
 彼女はそれから、澄んだ青い瞳でソフィーを見つめこう問うた。
「ソフィーは、どこにも、行かないよね?」
 この少女は両親に捨てられて孤児になったのだった。
「ええ、ええ。もちろんどこにも行かないわよ」
 そのままソフィーは彼女の毛布に身を滑らせると、優しい子守唄を歌いながら、何度も何度も言い聞かせた。
「私達はずっと一緒よ」
 翌日、女王陛下並びに王子殿下の御観劇の日取り一月七日を前に、ヴェリエ劇団にある事件が起こった。稽古の為朝早く来ていたアイーダが、衣装部屋のドレスがめちゃくちゃに裂かれているのを発見したのである。すぐに警察が入ったが、犯人は分からなかった。
 アイーダはがっくりと肩を落とすソフィーの傍らで怒りのままにまくしたてた。
「絶対犯人はランヴェーラ達よ! ソフィーの邪魔をしたいんだわあのミジンコめっ!」
「何にせよ今日の稽古は中止ね。小道具もやられてしまって、こんなんじゃ通し稽古も出来やしないもの」
「ソフィー! アイーダ!」
 と、控室に監督がドアを開けて走り込んできた。
「今大量のドレスと小道具が届いたんだ!」
「きゃあ! 神の恵み! ブランディーノ様よきっと!」
 あの方が……。華やかなドレスを見つめながら、ソフィーはますますやるせない気持ちに襲われるのだった。
 稽古も終わり帰る道すがら、ソフィーは月のない夜道を、心地よい疲労感のままに歩を進めていた。
(今日のご飯は何がいいかしら、そして……)
 ミカエルは帰っているかしら。これが彼女の頭を悩ませた。言うしかないのは分かっている。けれど、言ったら全てが終わりになる。それだけは――。その時。パキッと、後ろで誰かが枯れ枝を踏む音がした。ソフィーは何気なく振り返る。ソフィーの視線の先、黒のコートを纏った厳めしい目つきの男達が三人、こちらを見ていた。いや、目があってしまった。
(この人達、劇場にもいた!?)
 ソフィーは思わず走り出すが、男達もすかさずそれについてくる。少しでも足を緩めたら、その手が自分の襟首掴んでしまいそうだ。
アパルトマンまであともう少し! 急にソフィーは腕を強く引っ張られた。
「きゃああああ」
「大丈夫かい?」
 腕を取ったのはミカエルだった。

「急いで走っている君を見かけてね、何事かと思ってついてきたんだよ」
 家に入り、ソフィーを抱きしめたミカエルの胸で、彼女は泣きじゃくる。
「怖かった怖かった怖かった」
 ミカエルが涙に濡れた頬を撫でてやる。
「大丈夫だよソフィー。僕がついているから、ね」
 二人がそんな会話をしている時、湯気を吐く窓の隙間を、外よりじっと見上げている男達が幾人かいた。

 そうしていよいよ一月七日。運命の舞台当日がやってきた。
「はあ、緊張するわ……」
 蚤色のドレスを着、アパルトマンの玄関から子供達と、そしてミカエルに見送られるソフィー。彼女の身は緊張で震えている。
(どうしよう……ミカに結局言えなかった。私は、どうしたら……)
「大丈夫だよソフィー。舞台が終わったら…」
「え? ミカ、今何て」
 ソフィーが小首を傾げた時であった。
「きゃあっ」
「ソフィー!!」
 ミカエル達の目の前で、漆黒の馬車より伸びる手がソフィーの身体をさらっていった。馬丁は馬をしたたかにむちで叩き、さらにスピードをあげ走り去っていく。
「くっ」
 通りかかった馬車を素早くとめると、子供達にこう言い聞かせミカエルは馬車に飛び乗った。
「君達は家でおとなしくしているんだ。後で必ずソフィーと迎えに来る!」
縄でしばられ、口にハンカチを巻かれたソフィーは、パリス郊外の無人墓地に連れていかれた。
「くっ」
 彼女の身が馬車から放り投げられ、墓石に叩きつけられる。いかにも品性いやしそうなぶくぶく太った男達五人は、にやにやしながらソフィーを取り囲む。
「すまねえねー歌姫ちゃんよ。ただランヴェーラ様からたっぷり貰っててねえ」
「……っ!」
やっぱりか、という思いがソフィーの胸に広がった。彼女はドレス事件の事でも飽き足らず、今日のヴェリエ劇団の公演もディーヴァ不在で失敗させ、自分は妃の座につこうとしているのだ。妃の座に興味はないが、なんという卑怯な行いだ。
「そうだ。ランヴェーラ様から言われてたんだ。彼女を二度と妃になれない身体にしてやれと。うへへすまねえなー歌姫」
 彼らがナイフを取り出したので、ソフィーは強く目を瞑った。
(もう、駄目だわっミカエルっ)
 突然、馬のいななきと共に馬蹄の音が森をくぐって鳴り響いた。続いてミカエルの鬼気迫った叫び声が、ソフィーの耳にも届いた。
「ミカエル!」
 ミカエルは男の一人に力いっぱいぶつかると、その手にあったナイフを奪い、他の男達へ振りかざした。
「ソフィー! 逃げるんだ! 早く舞台へ!」
 隙を見てソフィーの縄を切ってやったミカエルは、ソフィーを馬車の方角へ押し出した。
「でもっ嫌っ嫌よミカエルっ」
「いいから早く行けっ」
 ミカエルはソフィーを捕えようとする男達ともみくちゃになりながらソフィーへと必死に叫ぶ。
「オハラ座で会おう」
 ソフィーは馬車に飛び乗りオハラ座についてのち、すぐさま泣きながら警察を呼んだ。
 オハラ座では四層ボックス席からも、二層のガレリア席からも歌姫を待つ声で溢れかえっていた。それを無事舞台を終え皇帝ボックスに通されたランヴェーラがふふんと、にやけ面で見下ろしている。そこでにわかに、彼女の召使の一人が皇帝ボックスに入ってきた。
「ランヴェーラ様! あの女が、ソフィーが舞台に立っています!」
「ええっ」
 ランヴェーラは驚き目をこする。ヴェリエ劇団の舞台は半刻の遅れの後始まった。最初はヤジの嵐だったが、ソフィーの情熱的な演技で観客はじょじょに静まっていった。やがて見せ場のアリア『許しを請う哀れな子羊』が歌われようとしたところで、息を吸うソフィーの目には涙がたまっていた。
『ああ! 無慈悲な夜の女王よ! どうか返して下さいませ! この世に唯一の私の王子を!』
 ソフィーは祈るような気持ちで、ミカエルを思う感情をこめてアリアを歌い続けた。ミカエルの優しい声、優しい腕、優しい笑顔。震えるまでの愛おしさが、彼女に至上のアリアを歌わせる。
『私の王子を返して頂戴!』
 ワーッ!!!! 舞台が終わると観客達はみな目に滴をためながら立ち上がり、惜しみない拍手を送った。
「あわわ」
「決まりだな」
 もはや腰も抜けんばかりのランヴェーラの隣の席を、王子は立った。舞台に花束を持った王子が登壇する。
「さあ、フランセーヌ王国第二王子の妃ソフィーよ。今ここで俺と誓いのキスをするのだ」
 などと言って、もはやミカエルの事で頭がいっぱいなソフィーの唇を奪おうとする。
「待ってくれ!」
 劇場に一陣の風のような声が走った。血ぬられた右腕をおさえ、息を切らして舞台にあがるのはミカエルだった。ソフィーは気も失わんばかりの安堵の気持ちでへたりこむ。お互いに涙し、固く抱擁しあう二人を、ランヴェーラが口汚く罵った。
「ご覧あそばせ王子! この女は貧乏で貧相でさえないこの男と密通してますのよー! この女なぞすぐに処刑して、私を妃に!」
 この訴えにブランディーノ第二王子は冷笑を以って報いる。
「ああ、ランヴェーラ、お前は死刑だな」
「……へっ」
「王族に対する罵詈雑言は極刑に値する。まして俺の尊敬する兄上の事を言ったのではな」
「ええええええ」
 ランヴェーラの顔から血の気がひき、ソフィーは驚いて目の前の恋人を見る。ミカエルは困ったような声で言った。
「ブランディ、……母上は……元気かい?」
「ええええええええええええええええ」
 観客はこりゃ面白くなってきたと一斉にはやしたてる。
「ほ、本当に、あなたは王子様なの?」
ソフィーの問いかけに、第一王子ミカエルが眼鏡を取り、第二王子ブランディーノが半仮面を外す。その涼しい目元と、スカイブルーの瞳は全く同じであった。
「全く、兄上が宮廷を家出するものだから、周りには危篤という事にしてごまかしましたが、母上は大層しょげていらっしゃいましたよ」
「僕は、怖かったんだ……母上の言いなりに王座につく事が。今までの人生、自分で決めた事や、貧しさ苦しさに、触れてこられなかったから。それで身一つで家出して、行き倒れになった。金もない、身分もない、何もない僕を助けてくれたのが、ソフィーだったんだ」
「それで、彼女の家に住み始めたのですか?まあ、俺様と母上の放ったスパイにすぐ家を知られてしまった訳ですが。お二人の様子を見る為にあえて手は出すなと含んでおきましたがね」
「スパイ?」
「いつぞやソフィーを追ってきた奴だよ」
 ああ! とソフィーも合点がゆく。あのいつぞやの三人組はソフィーを追ってきたのではない。第一王子ミカエルを探していたのだ。
「それで、これからどうなさいます? 王座を捨てて、その歌姫と暮らしますか?」
「えっ」
 この言葉に、ソフィーは思わず顔が青くなる。ミカエルが、全ての栄光を、フランセーヌ王としての輝かしい将来を、自分の為に捨てる?
「そっそんなの駄目よミカエルっ」
「お待ちなさい」
 そこへもう一人、壇上に登った女性があった。ソフィーは思わず片膝をつけ、ドレスの裾を広げた。結いあげた銀髪に理知的な顔、フランセーヌ王国女王陛下のおでましだ。
「ミカエル、お前に王座を捨てる、その覚悟はあるのですか?」
「あります」
 ミカエルの強い眼差しが、女王を射抜く。
「ふっふっふっふほほほほほほ」
 突如、女王とブランディーノが笑いだした。笑いが静まった後、女王がまず口を開いた。
「失礼ソフィー。実はこの歌姫二人を競わせるのも、全部あなたの品格を確かめる為の作戦だったのですよ。金や名誉に目がくらまないか、ライバルを無理やり蹴落としたりしないか、何より弱きものに優しいかどうか。それを見極める為に息子と仕組んだテストだったのです」
「それと兄上の覚悟を見極める為でもありました。結果は俺様の睨んだ通り。ソフィー嬢はお優しくまっすぐなお方。それに兄上の全てを投げ打つまでの覚悟も素晴らしかった。おまけに二人は深く愛しあっているご様子。これは母上……」
「結婚を認めましょう。真の愛を知ったお前に、王座もくれてやります。さ、次なる王に、皆のもの拍手を!」
 あたりに割れんばかりの拍手が轟く。その中心で二人はひしと抱きしめあう。
「ミカ……私、あなたの妃になっていいの?」
「もちろんさ。さ、まずは家に帰ろう。あの子達に報告しなくちゃね」
                   了
ItsO
2014年05月25日(日) 07時43分31秒 公開
■この作品の著作権はItsOさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
いろいろ突っ込みどころはあると思いますが、楽しんで読んで頂けると幸いです。

この作品の感想をお寄せください。
No.2  ItsO  評価:--点  ■2014-05-30 18:44  ID:UYAFkVqZLRo
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感想ありがとうございます!
仰る通りで、30枚というくくりの中で書かせて頂いたので、
かなり唐突な展開や荒削りな面が見えてきたことと思います。
丁寧に紡ぐ、ありがとうございます。
今後この言葉をモットーにやっていきたいと思います。
拙い作品をありがとうございました!
No.1  時雨ノ宮 蜉蝣丸  評価:30点  ■2014-05-28 18:30  ID:zDRD8db0e6M
PASS 編集 削除
こんにちは。読ませていただきました。

なかなか好きなテイストの話でした。登場人物の性格やポジションがはっきりしていて読みやすかったです。
一方で展開や描写がかなり荒削りなのが目につきます。もっと丁寧に紡いだ方が、物語的に繊細さが増して、すっきりラストに入れるんじゃないかなぁと。とってももったいないです。
よく言えば王道、悪く言えばベタって感じでしょうか。

でもこの物語に関しては、王道のままでいいと思います。
頑張ってください。ありがとうございました。
総レス数 2  合計 30

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