金魚と猫の話
 ある老夫婦の棲む古い家の金魚鉢に、一匹の真っ赤な金魚の女の子がおりました。そしてこの家には金魚の他に、一匹のオスの黒猫も飼っておりました。猫は金魚鉢の中を覗き込むのを日々の日課にしていて、丸く輝く二つの碧玉が水面から覗く度、仲間の金魚たちはサッと石の陰や水草の林、おもちゃの家の中に隠れるのでありました。
 ところが、その金魚の子だけは一切隠れようとせず、ただじっと揺れる二つの碧玉に見惚れるばかりでありました。不思議な事に、猫はその無防備な金魚だけは決して襲う事はありませんでした。
「どうしてお前は隠れないのだい?」
 ある日とうとう仲間の金魚は訊ねました。
「お前はあの碧く光る目玉が恐ろしくはないのかい?」
「恐ろしい、ですか」
 金魚の子は、黒くまあるい目をきょとんとさせて仲間に言いました。
「私はあの碧があまりにも美しくて、つい見惚れてしまうのです。つい隠れる事を忘れてしまうのです」
「お前、それはまるであの目玉に恋をしているようじゃないか」
 仲間達は皆、そんな馬鹿な事があるかと、ぷくぷく泡を吐いて笑いました。ですが金魚の子は赤い顔を更に赤く染めあげて、黙りこくってしまいました。
 その途端、仲間の金魚達は慌てふためきました。何といってもこちらはちっぽけな金魚、あちらは大きく恐ろしい猫です。報われる報われないの話どころではありません。仲間達は「あいつだけは止めておけ」と必死で金魚の子を宥め賺し、叱りつけ、どうにか説得しようとしましたが、金魚の子は頑として聞き入れません。
 そうこうしている内に再び水中に影が差し、見上げた水面から例の碧玉が赤く揺れるものを捕らえようと覗き込んできたので、仲間達は一目散に物陰に泳ぎ去って行きました。ぽつんと残った一匹の金魚の子だけが、ジッと黒い目で碧玉を見つめておりました。猫が立ち去るまで、ずっと見上げておりました。

 ある暑い夏の日の事です。老夫婦の元に夫婦の息子一家がやって来ました。どうやら孫息子達の夏休みを利用して、老夫婦の家に遊びに来たようです。まだまだ幼い兄弟達が毎日廊下を走り回ります。騒がしいのを嫌った猫は息子一家が来た日から姿を見せなくなり、金魚達は喜んで元気に泳ぎ回っておりました。ただ、たった一匹、あの金魚の子だけは、姿を見せなくなった猫に想いを馳せ、毎日水面近くに浮かんで彼が来るのを待っておりました。
「あいつも難儀な相手に惚れてしまったものだ」
「全く、あのケダモノのどこが良いのか…」
 金魚の子は仲間から何を言われても、ただひたすら水面近くで猫を待ち続けました。再びあの碧玉が覗き込むのを、今か今かと待っておりました。
 その時、廊下を走ってきた小さな少年が、金魚鉢を置いていた棚に勢い余ってぶつかってしまいました。
 棚は大きく揺れ、激しく波打つ水が飛沫を上げて鉢から零れ落ちました。幸い鉢が倒れる事は無く、金魚達がホッと胸を撫で下ろそうとした時です。
「あっ」
 水面近くにいたあの金魚の子だけが、波しぶきと共に鉢から飛び出してしまったのです。水から出てしまった金魚は生きていけません。哀れにも木の板に落ちてしまった金魚の子は呼吸ができず、ただただ苦しげに喘ぐしかありませんでした。
 棚にぶつかった子供は痛かったのでしょう、わんわんと泣き出しました。しかし金魚の子はそれどころではありません。薄れゆく意識の中、金魚の子はあの碧だけを思い出していました。
「せめて最後に、あなたを見たかった。せめて最期は、あなたに食べられて終わりたかった…」
 すると、金魚の子の最期の願いが届いたのでしょうか。今まで寄り付きもしなかったあの猫が金魚の子の前に姿を現しました。霞む視界の中、それでも恋焦がれてきた碧玉だけははっきりと見えました。金魚の子は嬉しくて、最後の力を振り絞って猫に懇願しました。
「水の中からあなたをずっとお慕いしておりました。あなたの碧い瞳に恋焦がれておりました。しかし私はちっぽけな金魚の身、所詮身の程知らずの想いでございます。せめてもの残り少ない私の命、あなたに差し上げます。どうか、あなたの手で、この苦しみから私を救って下さい」
 そう言い終わるや、金魚の子はぐったりとして動かなくなりました。丸々と膨らんだ白っぽい腹が僅かに上下していましたが、今にも止まりそうです。猫は一瞬目を眇めると、ゆっくりと身を屈んで金魚の子に口を寄せました。
「ああ、遂に食われてしまう」
 仲間達が皆そう思い、視線を背けた時です。ぽちゃん、と何かが鉢に入れられた音が響きました。恐る恐る落ちてきたそれを見ると、なんと外に落ちて猫に食べられた筈のあの金魚の子でした。やっと戻ってきた水中に驚いた金魚の子は、必死に水を吸い込みました。金魚鉢の上傍には、あの猫が水中を覗き込むように座っておりました。
「大事はないかい?」
 猫は静かに金魚の子に問いました。金魚の子は突然の事に吃驚してしまい、ただぶくぶくと泡を吐きながら頷く他ありませんでした。仲間の金魚も、何が起きたのか信じられないようです、猫が来たというのに誰一匹として隠れようとはしません。
 仲間の一匹がおっかなびっくり猫に訊ねました。
「お、お前は猫だろう? 我々を食らう猫だろう?」
「そうだ、俺は猫だ。紛う事無く、お前達を食らう猫だ」
「なら、何故こいつを食わなかった?」
「なら、何故こいつは隠れない?」
 猫は碧玉を眇めて言いました。
「俺は猫だ。お前達を食らう猫だ。俺はお前達を掬って食ってやろうと見張り、お前達は俺に食われまいと逃げ隠れた。だがこいつだけは一向に逃げる素振りを見せない」
 猫はニヤリと口を開き、鋭く尖る牙を金魚達に見せつけました。よく研がれた爪を出して見せつけました。恐ろしさに震え上がる金魚達を見た猫は増々機嫌が良さそうに鼻を鳴らします。
「俺は猫だ。逃げまわる小さいお前達を捕らえ、食らう猫だ。お前達は俺に助命を乞い、俺はそれを無慈悲に食らってきた。だがこいつだけは俺に食って欲しいと言う」
 猫は視線を移し、金魚の子をじっと見つめました。
「挙句の果てには金魚の癖に猫の俺を好いていると言う。全く、おかしな事を言う金魚だと、興味を引いた。食って殺すのは簡単だが、それだと面白くもなんともない。生かした方が面白いと思った、ただそれだけさ」
 子供の泣き声を聞きつけ、こちらに向かう大人達の足音が聞こえてきます。
 猫は金魚の子の浮かぶ高さまで身を屈めると、冷たいガラスに鼻先をくっつく寸前まで近づきました。
「金魚の娘よ、あの言葉に違いはないか。お前の命を俺に捧げると誓うか」
金魚の子は迷わず答えます。
「誓います。私が死ぬ時はあなたに食べられる時だと、誓います」
 廊下にやって来た子供の母親が悲鳴を上げています。子供が泣き喚き、床には金魚鉢の水が毀れ、猫が鉢に近づいているのを見れば、誰だって猫が金魚を捉えるつもりだと思うでしょう。それは猫だって重々承知しておりました。
 猫は一瞬ガラスに鼻先をくっつけると、素早く身を翻して外へと駆けだして行きました。金魚の子は猫の姿が消えるまで、ガラスに頭先をくっつけて見送りました。そこは先程猫が鼻先をくっつけたところでありました。

 それから後、猫は以前にも増して金魚鉢を覗きに来るようになりました。金魚の子は嬉しそうに猫を見つめ、猫も穏やかに鉢に寄り添います。仲間達もとうとう猫と金魚の子の仲を許し、猫がやって来た時には二匹をそっとしてやりました。猫も金魚達を襲おうとはしませんでした。
 そうして何年か過ごした後のある年の冬。金魚の子は病に侵され、とうとう死にかけようとしたその時です。遂に猫は金魚の子を水から掬い上げ、そのまま咥えてどこかへ去って行きました。
 それからあの猫がその金魚鉢を訪れる事は二度とありませんでした。
翠春
2014年02月06日(木) 04時55分07秒 公開
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■作者からのメッセージ
初めまして、翠春と申します。
初投稿で勝手が分からずドキドキしておりますが、皆様どうぞよろしくお願いします。

この作品の感想をお寄せください。
No.9  お話を知る人  評価:50点  ■2014-02-28 16:45  ID:vzfIYBAtcfc
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初めまして。読ませていただきました。

猫に恋する金魚の話。綺麗にまとまっていると思います。猫が金魚を助けるシーンが個人的には好きです。
>>そのまま咥えてどこかへ去って行きました。
末尾が全て『……でした』で終わっているので変えたほうがいいかもしれません。

読めてよかったと思います。
No.8  翠春  評価:--点  ■2014-02-16 03:14  ID:yk3giTsa7KU
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>gokuiさん
初めまして。

異種ものが凄く好きで、特に捕食者と被食者が仲良くしているといいなぁと思って書きました(あらしの夜にシリーズみたいな)。児童書とか大好きです。

仰ってる通り、他でもちょこちょこと書いてます(サイトは持ってませんが)。
いつもはプロットだけで終わらす事が多いんですが、これは久しぶりに最初から最後まで書きました。

感想ありがとうございました。
No.7  翠春  評価:--点  ■2014-02-16 03:04  ID:yk3giTsa7KU
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>おさん
初めまして。読んでくれはっておおきにありがとうさんどす。
おや、もしやおさんも京都の方でしょうか?
実は以前見学させていただいた京の町屋をちょっとイメージしていました(笑)

間違いのご指摘ありがとうございます。
確かにこのままだと文章がちょっと気持ち悪いですね…早速直してまいります。

感想ありがとうございました。
No.6  gokui  評価:40点  ■2014-02-13 23:15  ID:WOz5G1X2KrY
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 読ませていただきました。
 良いですね、異種動物間の交流物語。実際はこのような交流はあり得ないんでしょうけど、ほのぼのしてて、こうだったら良いなあと思ってしまいます。
 初投稿ということですが、他で書いていらしたのですかねえ。一つの物語としてちゃんと楽しめました。面白かったです。
No.5  お  評価:40点  ■2014-02-08 00:45  ID:UWN2hhhpo6.
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こんちわ。
や、や、素敵なええ話どした。
なんとなくね、京都の古民家、京町家の風景が浮かびました。

ラストの一文ですかw
僕ならそうですね、まず、改行しますね。
あとは、金魚鉢「を」訪れる ……かな。
細かな修正はしだすと切りがないものですが、全体として、雰囲気として、とても好かったことはたしかです。
No.4  翠春  評価:--点  ■2014-02-06 23:35  ID:yk3giTsa7KU
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>時雨ノ宮 蜉蝣丸さん
初めまして。読んで頂きありがとうございました。

金魚の子をお気に召していただけたようで、とても嬉しいです。
私も金魚と猫が大好きで、堪らずこれを書いた次第です。…家の金魚は猫に食べられましたが…

漢字と文章のご指摘ありがとうございます。
実は以前、最後にもうワンシーンがあったのですが、それがちょっと知人に不評で削ってしまったんです(私も削った方が良かったと思っています)。その為に「さっぱり〜」のままになっていました。
確かに、終わりとしてはそちらの方がいいですね。
ありがとうございました。
No.3  翠春  評価:--点  ■2014-02-06 23:19  ID:yk3giTsa7KU
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>ウィルさん
初めまして。読んで頂きありがとうございました。
金魚と猫への愛だけを込めて勢いで書き上げたものですが、そういって頂けて嬉しいです。

漢字についてですが、すみません…うっかり変換ミスです…ご指摘ありがとうございました。早速直したいと思います。
No.2  時雨ノ宮 蜉蝣丸  評価:40点  ■2014-02-06 18:30  ID:2yvcLrrqfRc
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こんにちは。初めまして。読ませていただきました。

いいですね。好きなタイプの話です。金魚の女の子が可愛いです。
金魚も猫も大好きで、物語も綺麗だったと思います。細かいことを言うならば、最初の
>>石の影や水草の林
『影』ではなく『陰』ではないですか? そういう意向であれば見当違いですが。
あとラストの一文は、
>>金魚鉢に訪れる事はさっぱり無くなりました。
『さっぱり無くなりました』よりも、『二度とありませんでした』のような『〜でした』型の方が、しっかり終われるかな、と。

何にせよ、いい作品でした。綺麗な作品っていいですね。
ありがとうございました。
No.1  ウィル  評価:30点  ■2014-02-06 17:37  ID:q.3hdNiiaHQ
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拝読いたしました。
とてもいい恋ですね。

異種間の恋というのは童話でもたまに見かける話で、それらに劣らず綺麗に描けているとおもいます。

>せめて最後に
ここは最後ではなく最期のほうがいいかもしれませんね。
総レス数 9  合計 200

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