Frozen Past
 人生とは、不公平で厳しいものだ。
産まれた場所や時代で、その一生は大きく左右されてしまう。
人は誰も、産まれてくる場所を選ぶことはできない。
残念だが、それはどうすることもできない事実だ。
僕たちは、与えられたカードでゲームをするしかないのだ。
しかし、与えられたカードをどう使って生きていくかは、自分次第だ。
人生という舞台では、自らの手でチャンスを作り出すことが許されている。
手持ちのカードでどうにもならなければ、努力という切り札を使えばいい。
不公平なこの世の中で、唯一平等な権利だ。
この権利をフルに使って、僕はここまで必死に生きてきた。
そしてこれからも、やっと手にした<平凡な生活>を守るために、代わり映えのしない、ありきたりな人生を送っていくつもりだ。
それで充分だ。暖かい家庭も大きな家も、僕はもう望まない。
一度失った物は、二度と取り戻せないことを知っているからだ。
僕が望むことはただ一つ、この平穏な日々がいつまでも続くことだけだ。
そう思っていた僕の人生は、一つの出来事をきっかけに大きく変わり始める。

 僕は、家路を急いでいた。
薄暗い路地を、コートのポケットに両手を突っ込んで足早に歩く。ロンドンの古臭さの残る街並みと、身を刺すような冬の寒さがいっそう心地よく感じられるのは、覚えたばかりのアルコールのおかげだろう。
「三件目の誘いを断ったのは、正解だったな」
白い息を吐きながら、自分へ言い聞かすかのように僕は呟いた。つい先程まで一緒に飲んでいた仲間たちは、今も賑やかなパブで咽返るような熱気に包まれていることだろう。
 僕の足取りも思考も、まだまだしっかりとしている。いつもなら、意気揚々と次の店へと足を運んだはずだ。しかし、何故だか今夜は気が進まなかった。
いつもなら楽しくて仕方ないはずの街のざわめきも、肌にまとわりつくようなパブのぬるい空気も、仲間たちの笑い声でさえも、どこか僕の不安を募らせた。いまいち盛り上がりきれないまま二件をはしごし、さぁ次の店だというタイミングで帰ることにして仲間にそう告げた。
「トレヴァー、熱でもあるんじゃないのか!」
幼馴染でもあり今では職場仲間となったライアンが笑いながら僕を引きとめようとしつこく絡んできたが、のらりくらりとどうにか切り抜けた。ノリが悪いぞ、などとふざけてヤジを飛ばす仲間たちの声に手を振って、一人帰路へついたのだ。
 彼らとは、ほぼ毎週末のように飲み歩いている。家へ帰るのが明るくなってきてから、なんていうことも珍しいことではなかった。僕は酒に酔っ払って醜態を晒すのが嫌いなため、飲みすぎて昨晩の記憶がない……なんてことは一度もないが、他の仲間たちはそんなこともしょっちゅうのようだ。

 考えてみれば、ライアンの言う事にも納得だ。明日は休みだというのに日付も変わらないうちに帰るなんて、確かに熱でもあるのかもしれない。
 まだどこかざわつくような胸の感覚を気にしながら、僕は足を止めた。時計を確認すると、時刻はまだ二十三時前だ。せっかくの週末に、このまま家に帰って寝てしまうのも少しもったいないような気もする。やはり、今からでも仲間の向かったパブへ行こうか。彼らは笑いながら、僕を迎え入れてくれるだろう。来た道を戻ろうと、体を回転させる。しかし、どうしても足を先に進める気にはならなかった。
 このままパブへ向かってはいけない、そう本能が語りかけてくるような感覚だ。無理やり無視をしてしまおうかとも思ったが、その一歩を踏み出すことを全身が拒否しているように思えた。もう一度体の向きを変え、家へと予定通り歩き出した。こう言う時は、自分の直感や本能に従う方が良いと思えたからだ。
 自分の不審な行動を思い返すと、小さな笑みがふと白い息の花びらとなって宙に舞った。夜道でたった一人、何をくるくると回っていたのだろうか……。先程の僕の様子を誰かに見られていたら、さぞかし怪しかったことだろう。
寒いのは苦手だが冬独特の張り詰めた、しかしどこか少し浮かれたような雰囲気のするこの空気が、僕は大好きだ。冷たい空気を思い切り吸い込んで、冬の匂いを楽しんだ。どこか懐かしくもあり、悲しくもさせるその空気は重たく僕に纏わりついた。ざわつく胸を凍りつかせるようにもう一度深く息を吸い込んで、寒さに背中を丸めながらアパートへと続く路地へと進んで行った。
 自宅アパートの前には、公園とは名ばかりの小さな広場がある。昼間は、お年寄りや子供連れなどが散歩している姿を見かけるが、夜になると、そこは柄の悪い若者たちのたまり場となっている。なにも彼らを怖がるほど臆病者ではないが、難癖をつけられて絡まれるのは面倒だ。なるべくなら、揉め事からは避けて生きたいと願うのは、誰しも同じことだろう。少し遠回りにはなるが、深夜に帰宅する際には裏の通りからアパートへ入ることにしている。裏の通りは、深夜になると人気がなくなり不安を駆り立てるような暗い道だが、この道で危険な目に合ったことは一度も無く、そんな話を聞いたこともなかった。そのため僕は、飲み込まれるような細い路地を独りで歩くことに、何の抵抗も抱いていなかった。むしろ、この街に独りで取り残されたかのような、偽りの孤独を楽しんですらいた。

 ちょうど裏通りへの角を曲がり終えた時、少し先に数名の男たちがいることに気がついた。五人ほどの男たちもこちらに気がつき、何やら話をしている。暗い夜道で、数メートル程先でたむろする彼らの表情は見えず、足を止めずに頭を働かせた。
 この道を通るのを止めて、公園の傍を通って帰ろうか。同じ様に若者がいる可能性は高いが、街頭もあるので明るく比較的人通りも多い通りだ。万が一の事があったとしたら、この路地よりは生存率も高いだろう。しかし、ここで引き返すことは弱虫のようにも思える。彼らの姿を見て、怖気づいて逃げ出したと思われるのはどうしても嫌だ。
 アパートはもう、すぐそこに見えている。何も引き返すことはないだろう。そのまま、彼らの前を通り過ぎればいいだけのことだ。歩く速度を変えずに、自分の足元を見つめながら距離を縮めていく。男たちは小声で何かを話しているが、動きを見せるような素振りはない。楽しそうに、仲間内で笑いあっているようだ。よかった、どうやらタチの悪い連中ではなさそうだ。足元を見つめていた顔を上げて、歩く速度を速めた。不要な心配事をしていた自分が、間抜けで臆病者のように感じられた。早く家に帰って、一人で飲み直そう。かっこ悪い自分も、弱虫な自分も忘れてしまおう。
 しかし、その考えは一際大柄な男の一声で崩れ去った。
「よぉ兄ちゃん、どこへ行くんだい」
ニヤニヤと笑いながら、酒臭い息がかかるほどに近づいてくる。
反射的に後ろへ下がり、男との距離を開けようとしたが、別の男がそれを拒むように僕のすぐ後ろに立っている。しまった、囲まれた……。
「もう家へ帰るんだよ。パブで有り金を使っちまってさ」
ポケットに入れていた両手を出して、相手に手のひらを見せるように広げながら、なるべく明るく答えた。ここで喧嘩腰になって、相手を刺激したくなかったからだ。金を持っていないとわかれば、すぐに解放するだろう。
「そうか……。実は、俺らも金がなくなっちまってね。缶ビールも買えねぇのよ」
大柄の男は変わらずニヤニヤと続けた。周りを囲むように立つ他の男たちも、薄ら笑いを浮かべながら僕を見ている。僕は何も言わずに、ただ目の前に立つ大柄の男を見ていた。
「俺らみてぇな連中を雇ってくれるような会社はなくってよ、ロクに仕事もしてねぇんだ。兄ちゃん、綺麗なナリしてるじゃねぇの。不公平な世の中だと思わねぇか? なに、貯金まるまる頂こうってわけじゃねぇさ。今夜の酒代でかまわねぇ、ほんの少し恵んでくれねぇか」
 まさかこの男は、僕に金を降ろせと要求しているのか? 僕をバカにするようにヘラヘラと笑うこいつらが、酒を買うために? 冗談じゃない。
幼い頃に両親を失った僕は、孤児院へと入れられた。決して恵まれた環境とは言えないその施設で、僕は必死に生きてきた。就職先は自慢できるような大きな企業ではないし、人一倍勉学に励んだわけでもない。どちらかと言わなくても、勉強は苦手だ。学生時代も、授業中はほとんど自分の世界へ入り浸って上の空な事の方が多かったくらいだ。それでも道を逸れまいと、死に物狂いで<普通の生活>にしがみついた。他人から見れば退屈で無価値な日々は、僕にとって何よりも儚く大切な物なのだ。
 それを、こんな奴らに踏みにじられるなんて耐えられない。
自分の置かれた環境から抜け出す努力もせず、人のせいにばかりしている被害者ぶった奴らが僕は何よりも嫌いだ。腹の底から渦を巻いて湧き上がってくるドス黒い感情を押し殺すように、握った拳に力を込めた。
「断る。道を空けてくれ」

 当初の計画通り、何事もなくここを通り抜けられる可能性は限りなくゼロに近づいた。感情を抑えきれずに、声に怒りが滲んでしまった。僕の反抗心を飢えた獣のように敏感に嗅ぎ付けた男たちは、その目をギラつかせて僕を睨んだ。このまま反抗し続ければ、奴らが力に訴えてくるまでに、そう時間はかからないだろう。
それでもいい。そう簡単に、こんな汚い奴らに金を渡してたまるか!
リーダー格であろう大柄の男は、あの腹の立つニヤつきを既にその顔から消していた。
「生意気だな。兄ちゃん、てめぇの置かれた状況を理解しなきゃなんねぇな」
そう言いながら男は僕から一歩離れ、距離を置いた。
僕は返事をせずに、周囲へと目を配らせていた。なんとかこの路地から、最小限の怪我で抜け出す道を探すために。無傷のまま家に帰るのは、もう諦めている。こんなことになるのなら、あの時パブへと行っておけばよかった。僕の本能と言うものは、なんて役に立たないんだ。自分の的外れな胸騒ぎに呆れていると、男がまた口を開いた。
「もう一度だけ言うぞ。いいか、これが最後のチャンスだと思え。金を渡す気はあんのかって聞いてんだ」
先程までのヘラヘラした話し方ではなく、脅すような言い方で男が睨みつけてくる。命が惜しければ、ここで大人しく従うのが一番なのだろう。もしかしたら、先程男が言ったように、本当にビール代だけの小さな額しか取られないかもしれない。喧嘩をしたところで、あまりにも不利な状況だ。頭ではわかっているが……どうしても抑えきれない。
「生憎だが、お前らのようなクズ共に恵んでやれるような金は持ち合わせていなくてね。だが喜べ。酒なんかよりも、よっぽどお前らに必要な物の在り処を教えてやれるぜ」
 男は何も言わずに、まだ僕を睨んでいる。その瞳には怒りがありありと浮かんでいるが、僕の『代案』に少し興味を惹かれているように見える。
僕の言葉に腹を立てて、周りの奴らが口々に罵ってくるのを目の前の男が制し、僕にこう言った。
「必要な物ねぇ……。なんのことだか、教えてもらおうじゃねぇの。答えによっちゃあ、今までの無礼も見逃してやるかもしれねぇぞ」
睨むような目つきをしながらもニヤニヤと笑う男に、僕はあえて思い切り近づいた。男は一瞬ギョッとしたが、離れる隙を与えずに先程の質問に答えてやる。
「向こうの教会のすぐ隣だよ。ホームレスシェルターは」
ホームレスシェルターとは、住む家の無い貧しい人々のために政府が用意した、寝泊りのできる施設だ。もちろん、こんなチンピラのために用意されたものではないが、嫌味としては充分の効果を発揮してくれたようだ。
僕が言い終わるや否や男は殴りかかってきたが、僕との距離があまりにも近かったおかげで、男は充分に体制を整えることができず、僕に大したダメージはなかった。
 これは昔、ライアンが教えてくれた喧嘩のやり方だ。フェアな戦い方ではないが、相手が複数いる今は、そんなことを言っている場合ではない。僕はすぐに足を一歩引いて男の胸倉を掴み、お返しに一発、力いっぱい殴りつけた。男の歯に拳が当たり、鈍い痛みが走った。それを合図にしたかのように、僕を囲んでいた男たちが一斉に襲い掛かってきた。暴力なら施設で嫌というほどに鍛えられたが、相手は五人だ。一人を相手にしている隙に、背後から別の男に殴られてしまう。初めから結果は見えていたが、頭に血が昇ると冷静に判断ができなくなるのは昔から変わらない。しかし今は、自分の短気さを悔いている場合じゃない。かなりマズイ状況に追い込まれている。僕は咄嗟に屈みこみ、対面している二人の男の足を掴んで思い切り引いた。足をすくわれた二人は、悪態をつきながら尻餅をついて倒れた。
 次の攻撃をしかけようと体を起こしかけた瞬間、頭に衝撃が走った。
 一瞬、視界が真っ白に染まり小さな光がチカチカと周りを飛んでいる。その場に崩れ落ちそうになるのを何とか踏みとどまり、目をきつく閉じて奪われた視界を回復させようとした。腕を広げフラつく僕に追撃してくる者はおらず、代わりに悪意に満ちた笑い声が響いた。
 目をゆっくり開けてみると、ボヤけてはいるが何とか前を見る事ができた。何が起きたのか理解できず後ろを振り返って見ると、割れたビール瓶を持った男がこちらを睨んでいた。男の足元に散らばったガラスの破片を見て初めて、それで殴られたのだと悟った。他の男達も口元に汚らしい笑みを浮かべ、ただじっとりと僕を観察しているようだ。
 頭に手をやってみると、掌にべっとりと血がついた。自分の身に何が起きたのかを理解した途端、激しい痛みが僕を襲ってきた。紅く染まった自分の手のひらを見つめながら、なんとか倒れないように足に力を入れてふんばろうとしたが、痛みと眩暈でまともに立っていることすらできない。僕を殴った男の手から、大柄の男が乱暴に割れた瓶を奪い取ったのが見えた。
 まずい、あの男は僕を殺すつもりだ……。前かがみになったままの僕の胸倉を掴もうとした男の手を振り払い、距離をとるように後退した。抵抗する力が残っているとは思っていなかったのか、男は簡単に僕から離れた。
しかしむやみに動いたのが良くなかったのか痛みが酷くなり、目を開けているのも辛くなってきた。とうとううずくまるように倒れこんだ僕を、大柄の男が力任せにひっくり返し仰向けにさせた。ニヤついた顔で覗き込み、割れた瓶を僕の喉に押し付けている。腕を伸ばして男を払いのけようとするが、うまくいかずにかわされてしまう。ギザギザと歪に尖った瓶の先が、かすかに喉に食い込んでいるのを感じる。
 男は完全に勝ち誇った顔で、僕を見下ろして笑っている。どうにか、男たちの隙をついて逃げなければ……。大声で助けを呼ぶか? いや、この辺りは人通りも少なく、僕の声が誰かに届く可能性は低い。声を出した瞬間に、瓶を突き刺されてしまうだろう。このまま待っていても、助けが来ないのはわかっている。最後の力を振り絞って、逃げ出すチャンスを作り出す方へ賭けてみることにした。
 男へと伸ばしていた腕の力を一瞬緩め、相手を油断させる。男は僕が降参したと思ったのだろう。力を入れて伸ばしていた上半身を丸めて、瓶を持つ手との間隔を詰めた。一気にケリをつけるつもりのようだ。腹の立つにやけ顔が近付いて、気分が悪くなる。
僕は男がその手に力を込める前に、男の顎を下から力任せに殴りつけた。顎は人間の弱点のうちの一つだ。うまくやれば、力のない女性でも男を失神させることができると言うが、今の僕では失神させるほどの威力は出せなかったようだ。
 男は上体を大きく逸らしたあと、崩れ落ちるように地面に片手をついた。その隙に逃げようともがいたが、周りの男たちに押さえつけられ、またしても身動きが取れなくなってしまった。男たちは口汚く僕を罵りながら、地面へと押し付けてくる。僕が顎を殴った男も、すでに体勢を整えて僕を睨んでいる。そして、まるで僕の抵抗をあざ笑うかのように先程と同じく、僕の息の根を止めようと瓶を突きつけてきた。抵抗しようにも、この状態では僕に勝ち目はない。
 僕の人生もここまでだと、どこか冷静に悟っていた。
なんて惨めな最期なんだ。仕事を始めて、やっと自分の好きなように生きられると思っていたのに。きっと僕は、前世でよっぽどの悪事を働いた罪人だったのだろう。でなければ、僕の不運続きの人生はあまりにも悲惨すぎるじゃないか。いや、今回の原因は前世ではなくて、僕の無謀さだろうか……。

「兄ちゃんよ、強い者には大人しく従っとくのが利口ってもんだ。来世では、もっとうまくやるんだな」
酒臭い息を吐きながら、男が話しかけてくる。
「強い者に従え」施設にいた頃、何度となく聞いたような台詞だ。施設の全てを嫌い、そこから抜け出そうともがいた僕の最期に投げかけられる言葉がこれとは……皮肉なものだ。笑いすら込み上げてくる。もういい、一息でやってくれ……。このまま両親の元へと旅立てるなら、それで構わない。来世なんてない方がいい。ただ、静かに眠らせてくれ。
 僕はこのために、仲間との楽しい時間を切り上げて薄暗い路地へとやって来たのだろうか。襲い来る痛みへの恐怖を和らげようと、僕は自分の思考へと意識を集中させることにした。男の襟元を掴んでいた両手を離し、広げるように大の字になり目を閉じた。
 瞼には笑顔の両親、そしてライアンが浮かんでいる。ライアンはきっと、僕を先に帰したことを、生涯後悔するだろう。あの時、自分がもっと引き止めていれば……と。せめて、ライアンには別れの言葉を言いたかった。悲しませるようなことになってすまないと、一言謝りたかった。ライアンと過ごしてきた子供の頃からの記憶が一気に蘇ってくるような、不思議な感覚に見舞われていた。幼少期に良い想い出を持っていない僕は、滅多に施設にいた頃を振り返る事はない。だが、これが最後と言うなら話は別だ。彼から貰った優しさを思い出し、そしてこれからの彼の人生が幸せなものであるように願った。僕の分まで、楽しい人生を送って欲しい。

 死を覚悟した僕の肌を、氷のように冷たい風が優しく撫でた。やり残した事はいくつもあったように思えるが、不思議と心は落ち着いていた。喉を切られる痛みと苦しみに耐えれば穏やかに眠れるのだ。それも悪くはないだろう。
しかし喉元に押し付けられていた瓶は、僕の喉を切り裂くことはなかった。代わりに、短い悲鳴と何かが落ちるような鈍い音が聞こえたのだ。今まで僕の腹に乗っかっていたはずの男の重さも、一瞬のうちに消えてしまった。痛みは全く感じない。実は僕はもう死んでいて、ここは天国だか地獄だか知らないが、死後の世界だったりするのだろうか。
 得意の空想は、相変わらずズキズキと痛む頭の傷によって遮られた。死後の世界など存在しない事など、痛い程わかっている。そんな物があるのなら、両親は一度くらい僕に会いに来てくれたはずだ。
何かがおかしい。様子を確認しようと薄く目を開いた。ニヤついた男も瓶も、視界には入らない。仰向けになったまま視線を足元へ向けると、一人の男が立っているのが視界に入った。他の奴らはどこへ行ったのか……? 男はこちらをじっと見ているだけで何もしてこない。彼は一体、何をしているのだろう。
 頭の痛みに耐えながら、僕は上体を起こした。痛みに、思わず声が漏れる。頭の傷から首元へと薄く血が伝っていくのがわかり、気持ちが悪い。しかし傷口の確認をするよりもまず、この状況を理解しなくてはならないと足元の男へと目を向けた。

 そこに立っていた男は、先程まで僕の息の根を止めようとしていた奴の仲間ではなかった。それどころか、僕を襲っていた男たちは皆、冷たい道の上に倒れている。動く気配もなく、ただぐったりと。死んでいるのだろうか……? だとしたら、目の前にいる男が殺したのだろうか? なぜ、そしてどうやって……。僕が目を閉じてから、男たちが倒れたであろう音に目を開けるまでは、ほんの数秒しかなかったはずだ。
わけがわからないまま男に目線を戻すと、男は片ひざをついてこちらに少し身を乗り出していた。まるで、僕を観察するように。僕もまた、しっかりと彼の姿を眺めた。
 暗いブロンドヘアに、鋭く光るような青い瞳。月明かりしかない薄暗い路地でも、ハッキリと彼の顔が見てとれた。絵に描いたように整った顔立ちだが、驚くほどに青白いのは月明かりのせいだろうか。彼は僕の様子を伺うようにじっと見つめたまま、動きを見せない。あまりに鋭いその瞳に、思わず言葉を失った。誰も信用していないような、冷たく、悲しい瞳だ。その瞳に、どこか懐かしさを感じたのは気が動転しているからだろうか。いや、確かにこの瞳には見覚えがある。どこか遠い昔……まだ僕がほんの赤ん坊だった頃の記憶。ゆらりと浮かびかけた記憶の影は、すぐに形を歪ませて消えてしまった。
いつまでもこうして、黙って見つめているわけにはいかない。恐らく助けてくれたのであろうこの男に、一体何がどうなったのか、そして彼は一体何者なのかを訪ねようと呼吸を整えた。息を吸い込んだその時、あるものに目が止まった。
「まさか……」
僕の呟きは、弱弱しく冷たい空気に吸い込まれた。男に聞こえたのかどうかも危うい程、小さなか弱い声だった。驚きのあまり呼吸を止めた僕に、彼は気がついたようだ。鋭い瞳で僕を睨むと、勢いよく飛び上がった。足に力を込めるように、文字通り<飛び上がった>のだ。そしてそのまま、夜の闇へと消えてしまった。
 頭の痛みも、つい先程まで命の危機にあったことも、不良共になにがあったのかも、今となっては全てどうでもいいことだ。何としてでも、もう一度彼に会わなくてはならない。彼は、僕が十四年間捜し続けた男に違いない。

 昨夜、あの路地からよろよろと家へ帰った僕は、ずっとあの男を捜す方法を考えていた。しかし、これといった手段は思い浮かばずに途方に暮れていた。大きなため息が、目の前に置かれた紅茶に緩やかな波を立てた。
朝日が差し込む窓辺に座り熱い紅茶を飲むのが、一人暮らしを始めてから休日の日課となっている。大きなカップに入っているのは、レモンもミルクも入れていないイングリッシュブレックファーストという種類の紅茶だ。こんなありきたりの日常に、僕はずっと憧れていた。

 僕が三歳の頃、両親は小さな田舎町からこのロンドンへと移り住んだ。裕福というわけではなかったが、人並みの暮らしをしていたように思う。
僕は日曜日の朝に、父さんと窓辺の椅子に座り紅茶を飲むのが大好きだった。と言っても僕はまだ幼い子供だったため、紅茶ではなく父さんが温めてくれた甘いミルクを飲んでいたわけだが。
 ここイギリスでは紅茶にはミルクを入れて飲むことが多いが、父さんは何も入れないイングリッシュブレックファーストティーを好んで飲んでいた。父さんの持つ大きなカップから漂う紅茶の香りを、僕は特別な物のように感じていた。父さんは僕を膝に座らせ、紅茶の香りを嗅がせてくれた。熱いカップに、僕が触れないように気をつけながら。窓からは、洗濯物を干す母さんの姿が見えていた。母さんを見つめる父さんの優しい瞳と、時折こちらを振り返り、父さんと僕を見つめる母さんの笑顔。僕は、父さんの暖かい腕と紅茶の香りに包まれていた。
 しかし、そんな暖かな日々は唐突に、そしてあまりに残酷に終わりを告げる。
 僕が四歳になったばかりの頃、両親は僕を連れてピクニックへ行った。父の運転する車で向かった小さな公園の様な広場だったのは確かなのだが、それがどこだったのか僕は未だに正確な場所を知らない。ぼんやりと残った記憶だけを頼りに、両親と過ごした最後の思い出の地を求めた事もあった。しかし僕が覚えているのは、二人の笑顔と最後に見た変わり果てた姿だけだった。
その公園で僕たちは虫取りをしたり母さんの作ってくれたサンドイッチを食べたりと、楽しい休日を過ごしたのだ。勢いよく転んでしまい泣く僕を、母さんが抱き上げてあやしてくれた事をよく覚えている。父さんは笑って僕の頭を撫でていた。男の子のわりに、トレヴァーは泣き虫だな、と優しく言いながら。 そんな平凡な一日の、帰り道でのことだ。
 細い山道だったことは、はっきりと覚えている。遊び疲れてクタクタだったが、眠ってしまえばそこで楽しい一日が終わってしまうと、僕は無理やり意識を保とうとしていた。しかし、車の揺れはとても心地よい揺りかごのように僕を包み、眠りへと誘ってくる。
ウトウトしながらも睡魔と必死に戦う僕に、母さんが優しく声をかけてきた。明日、またみんなで遊べばいいのだから眠りなさい、と。その言葉に安心した僕は、眠気に抵抗するのを止めて、夢の世界へと落ちていった。
 それからどれくらい経ったのかはわからないが、凄まじい衝撃と僕の名を叫ぶ母さんの声で目が覚めた。僕が目を開けて見た光景は、後部座席に座っていた僕に片腕を伸ばす父さんだった。しかしその手が僕に届くことはなく、両親の叫び声だけが僕を捕えていた。

 気がつけば、僕は車の外で立ち尽くしていた。崩れた車体の隙間から父さんが僕を見つめていた姿は、強烈に脳裏に焼きついている。その目には涙が浮かんでいた。震える手を伸ばして僕の頬に触れると、悲しそうに微笑んだ。そして一言僕に詫びた後、僕を永遠に愛していると涙声で囁いた。幼い僕にはそれが何を意味するのかが理解できず、ただ呆然と父さんの目を見つめていた。父さんの目は僕の姿を映したまま、その輝きを失ってしまった。
小さな声で何度か両親を呼んだが、当然返事はなかった。とてつもなく心細くて不安だった気持ちは、今でも薄れることなく心の内側にこびりついている。母さんの言った<明日>が、もう永久に訪れることがないということを、まだ僕は理解していなかった。
 動かなくなった父さんの手を握ろうと手を伸ばしたその時、僕は背後の気配に気がついた。日が落ちていたためか、容姿などは黒く塗りつぶされ思い出せない。僕の背後にいたその男は片ひざをつき、僕と目線を合わせた。
何かを言おうとしたのか、薄く口を開けた時、遠くから声がした。救助を呼んでくれた目撃者が、こちらへと向かってきていたのだ。すると、目の前の男は勢いよく飛び立ち消えてしまった。昨日の男が、そうしたように。
男は目の前から消えてしまい、事故を目撃していた一人の中年男性が入れ替わるように僕らの元へとやってきた。悲惨な状況に言葉を失いながらも、僕に怪我がないかなどと質問していたように思う。しかしその言葉は届いておらず、僕は事故直後の記憶を取り戻していた。
 倒れた車体を切り開き、バックシートと運転席の隙間に埋まっていた僕を助け出してくれた人物が確かにいたはずだ。優しく僕を抱き上げた男の顔は、覚えていない。しかしその首からシルバーの十字架のネックレスが下がっていたのを、ハッキリと覚えている。十字の交わるポイントには、小さな青い石が輝いていた。

 なんの変哲もない、ただのアクセサリーだ。ずっとそう思っていた。昨夜僕を助けた男の首に光る、それを目にするまでは……。
 ただの偶然だろうか? 十字架のネックレスだけなら、確かにそうだろう。この世に同じようなデザインのものなど、それこそ掃いて捨てるほどある。しかし……僕の危機を救ってくれたこと、人間とは到底思えない跳躍力で飛び去ったこと、そして全く同じネックレス。これら全てが偶然などと考える者は、恐らくこの世にはいないはずだ。
 昨夜見た彼の顔を思い浮かべた。あの青い瞳を、ずっと昔に見ていたような気がしてならないのだ。あの目を見るたびに安心して、暖かい気持ちになった。彼の目を思い出すと、なぜかそんな記憶が微かに浮かぶのだ。しばらく目を閉じて考えていた僕は、あることを思い出した。
「そうだ、ルドルフの目だ」
 ルドルフとは、僕がまだ両親と暮らしていた頃から大切にしていたトナカイの縫いぐるみの事だ。赤い鼻で、青い目をしたルドルフが僕は大好きだった。彼は、いつだって僕の傍にいてくれた。今でも、キラキラと輝くルドルフの青い目を鮮明に思い出す。作り物のように輝くあの男の瞳は、幼い頃に持っていた縫いぐるみを思い出させたようだ。

 まだ湯気の立つ紅茶をむりやり喉へ流しこむと、僕は手早く身支度をして、昨夜の路地へと向かうため家を出た。玄関に鍵をかけている間に、隣の部屋のドアが開き中から女性が出てきた。
 彼女は、ジェニーさんという名前の、五十代くらいの優しい女性だ。僕と年の近い息子さんがいて、現在は海外で生活をしているらしく、何かにつけて僕の世話をやいてくれるのだ。どうも、息子とあまり会えない寂しさを紛らわせているようだ。
 彼女は僕の様子を見るなり、悲鳴に近いような大きな声で僕の名を呼んだ。おろおろと慌てた様子で僕へ近づき、怪我の様子を確認している。なんでもないですよ、と小さな声で落ち着かせようと言った僕の言葉を無視して、心配そうな目つきで見回している。そして僕の襟に付いた血を見て、倒れてしまうんじゃないかと僕の方が心配になるほどうろたえて声を上げた。
「ちょっとあなた、頭を怪我しているじゃないの。病院へ行かないとダメよ!」
大丈夫です、とか、病院は高いので行けません、などと言えるような空気ではなく、僕は仕方なく嘘を付くことにした。
「えぇっと……これから病院に行く予定なんです。だから、心配しないでください」
安心させようと、僕は笑顔でジェニーさんに告げた。これで大丈夫。きっと彼女は満足して僕を解放するだろう、という僕の淡い期待は、彼女のため息によって吹き飛ばされた。
「今日は日曜日で、近くの病院はお休みよ。簡単な手当てしかできないけど、うちへいらっしゃい」
 そう言うと、僕の返事を待たずに腕を引っ張り彼女の部屋へと案内された。
家の中は綺麗に物が整頓されていて、僕の部屋と同じ間取りとは思えないほどに広々としていた。僕をソファに座らせると、慣れた手つきで傷口を消毒してくれた。消毒液が傷口にしみて焼けるように傷んだが、声を出すのもかっこ悪いと思い歯を食いしばるようにして耐えた。そしてジェニーさんは僕の頭から手を離すと、救急箱のような小さな箱からガーゼらしき白いものと、包帯を取り出したのだ。
「ジェニーさん、包帯なんて大げさですよ!」
僕の言葉なんて、まるで聞こえていないとでも言うような態度で、僕の頭へと包帯を巻き始めた。
「明日になったって、あなたどうせ病院へは行かないでしょう。せめて、できることをさせてちょうだい。思ったよりも傷が深くなくて、本当によかったわ」
 すっかり落ち着いた様子でそう言うジェニーさんに、僕は何も言えなくなってしまった。包帯を手にしたジェニーさんから逃れようと、思い切り逸らしていた上体を元に戻し、大人しく従うことにした。
「あまり、ご両親に心配かけるようなことをしてはだめよ。離れて住んでいても、親は子供のことが心配で仕方ないのだから」
僕の後ろに座ったジェニーさんが、くるくると包帯を巻きながら穏やかに声をかけた。彼女は、僕に両親がいないことを知らないのだ。今の言葉は恐らく、遠い異国で暮らす息子さんへのメッセージだったのだろう。僕は、はいとだけ答え、母さんがまだ生きていたら、こんな怪我をした僕を心配しただろうか……と空想の世界へ旅に出ていた。もし父さんがいたら……もしこれが母さんだったら……こんな空想にふけるのは、二人を失ってからというもの、僕の癖となっている。
 やがて手当てが終わり、気をつけるのよ、という言葉と共に僕を見送ってくれた。玄関に置かれた鏡に映った自分の姿に、思わず顔をしかめる。頭に巻かれた包帯は、いかにも怪我をしましたとアピールしているようで、今すぐにでも外してしまいたくなる。
 ジェニーさんは、どうして怪我をしたのかと、一度も聞かなかった。僕は足早にアパートを離れ、近くの花屋で色鮮やかな花が入れられた小さな鉢を買って、またアパートへと戻った。花を届けに来た僕を見たジェニーさんは驚いていたが、とても喜んでくれたようだ。顔をつける様にして、花の匂いを楽しんでいる。手当てをしてくれたお礼を言い、今度はゆっくりと歩いてアパートから離れた。昨夜の路地へと、もう一度戻るために。

 路地に着くと、そこには割れたビール瓶が落ちていた。倒れていた男たちはもういない。朝のニュースにも、新聞にも載っていなかったところを見ると、死んではいないのだろう。そんなこと、僕にはどうでもいいことだが。
昨夜、あの男は僕を助けてくれたはずだ。十四年前にも、そうしてくれたように。
 ずっと僕を見ていたのだろうか? それならどうして、姿を隠すように潜んでいるのか。そもそも、本当に同じ男なのだろうか。とにかく、もう一度会わなくては何も先には進まない。しかし、どうすればまた姿を現してくれるのかも、まだこの近くにいるのかどうかも分からない。
「見ているなら出てきてくれ!」
 何の手段も思い浮かばない僕は、とりあえず大声で叫んでみた。また彼に会える可能性があるとしたら、彼から僕の前へと姿を見せてくれること以外にないだろう。僕が彼を見つけ出すことが不可能なのは、わかっている。通行人が路地の向こうから僕を見返し、気まずそうに目を逸らして足早に通り過ぎていく。
 そのまましばらく待ってみたが、近くに人の気配はない。もう一度叫んでみるか? いや、ここは路地とは言え、朝や昼間は意外と人通りの多いところだ。あまり目立つようなことは避けたほうが無難だろう。不審者として通報されるのは、僕もごめんだ。
 何もできずにただそこに立っていると、ポケットの中で携帯がやかましく鳴り響いた。ディスプレイには、ライアンの名が表示されている。何よりも早起きが苦手なライアンがこの時間に起きているということは、昨夜はそう遅くまで飲んでいなかったのだろう。
「もしもし?」
携帯を耳に押し当て、返事をする。
「トレヴァー! よかった。お前、今どこにいるんだよ? 俺、お前の部屋の前まで来てるんだ」
 日曜の午前中からライアンが出歩くなんて、よほどの用事だろうか。少し動揺しているような声色なのが気になる。
「少し用があってね。そう離れた所にいるわけじゃないから、すぐに帰るよ。そこで待っててくれ」
そうライアンに告げると、携帯から耳を離した。冷たくて硬い、無機質な携帯が頬に触れる感覚が、僕は大嫌いだ。
「また来るからな。君に会えるまで、何度だって……」
空に向かい小さくそう呟いてから、家に向かい歩き始めた。

 家に着くと、ライアンは落ち着かない様子で玄関前をウロウロと歩き回っていた。背後から僕が声を掛けると、両腕を広げて大げさに数時間ぶりの再会を喜んだ。
「おいおい、どうしたって言うんだよ。とにかく家に入ろう。こんなところを見られて、誤解でもされたらたまったもんじゃない!」
僕を抱きしめている親友の腕を解きながらそう言うと、ジーンズのポケットから鍵を取り出し、ドアを開けて招き入れてやる。ライアンは大きな足音を立てて部屋に入ると、ボロいソファへ音を立てて座り込んだ。
「なんだっていうんだよ、そんなに慌てて」
ライアンに話しかけながら、やかんに火をかける。今では電気のケトルが主流になっているが、紅茶を淹れる時はやかんでお湯を沸かすのが僕のささやかなこだわりだ。味の違いなど分かるほど舌が肥えているわけではないが、電気のケトルではどうも色気がないような気がするのだ。電気ケトルくらい買ってやるぞ、とうちへ来るたびにからかってくるライアンだが、今日はそんな気分ではないらしい。
 やかんが微かに立てる音を聞きながらライアンに目をやると、まだどこか落ち着かない様子で、ボサボサの髪を手で立たせるような動きをしている。
「お前、そんな怪我しておいて、まさか何もなかったなんて言うつもりじゃないよな?」
黙って紅茶を淹れる僕の背中へ、ライアンが責めるような口調で投げかけた。済んだ事で、わざわざ心配をかける必要もないだろう。酔っ払いに絡まれて、怪我こそしたが何とか逃げ出したということにしておこう。口を開こうとしたその時、ライアンが続けた。
「殺されかけたってのに、朝からどこ行ってたんだよ」
ライアンは僕を心配する余り、かなりイラだっているようだ。殺されかけた、とはどういう事だろう。僕の頭の包帯を見て、ただそう思っただけだろうか? それにしては、僕の身に何があったのかを知っているような口調だった。まさか、昨夜のことを知っているのだろうか?
ティーポットとカップを二つ手に持ち、ライアンから少し離れて腰を掛ける。
「昨日の夜、お前を襲ったうちの一人はな、俺のいとこなんだよ。前にも言っただろ、別の施設で育った俺のいとこだよ」
僕が何も言わずに紅茶を注ぐと、ライアンは申し訳なさそうに話し始めた。
ライアンは、僕と同じ施設にいた二つ年上の兄貴分だった。僕が施設に入れられてから数日後に出逢い、それからほぼ毎日のように共に過ごしている。家族のいない僕たちは、お互いを本当の兄弟のように思っているのだ。そういえば、別の施設にいとこがいるが少年院を出たり入ったりしているという話を、昔聞いたことがあるような気がする。
 僕を殺そうとしていたうちの一人が、たった一人の親友の身内だなんて! 僕は目を丸くしたが、話の邪魔をしたくなかったので黙って聞いていた。
「それでな、今朝早く、本当に明け方頃さ。チャーリーが、あ、いとこな。アイツが俺を訪ねて来たんだよ。いとことは言え、そんなに付き合いがあるわけじゃない。アイツは本当に手がつけられないからな。俺は、あまり付き合いたくないんだ。わかるだろ?」
早口で話すライアンに、僕は話の続きを促すように二、三度軽く頷いた。
「でな、アイツがうちに来てさ。酷く怯えてたもんで、ひとまず家に入れてやったんだ。そうしたらアイツ、お前の家の近くの路地で人を襲ったって言うじゃねぇか。しかも、丁度お前が帰った頃だ。まさかとは思ったけど、襲った奴の特徴とかを俺はアイツの胸倉掴んで聞き出したんだ。俺がそんな反応すると思ってなかったみたいで、アイツも面食らってたよ」
得意顔でライアンがこちらを見てくる。なるほど、既に事件の当事者から話を聞いていたわけか。それなら、あんなに心配して駆けつけたのも納得だ。
「で、その特徴がまさかの僕だったから、心配して来てくれたってわけか。心配かけて悪かったよ。確かに、チャーリー達が金を奪おうと襲ったのはこの僕だ。でもホラ、この通りピンピンしてるさ」
僕は両手を広げて、ライアンに笑いかけてみせた。ピンピンしている、と言うには少々無理がある姿かも知れないが。ライアンはそんな僕の姿を見て、険しい顔つきになった。
「チャーリーは、俺がぶっ飛ばしておいたから安心しろ。お前が無事に帰ってなかったら、どんな手を使ってでも仕返ししてやるとも言っておいた。でもお前……どうやって助かった? チャーリーが言うには、アイツの記憶があるのはな、お前が仰向けに倒されて殺される一歩手前までなんだ。気がついたら隣にいた仲間が倒れて……それから……」
ライアンは顔を曇らせた。僕から話さないことをイラついているような、心配しているような顔だ。ライアンが未だに過保護なのはひとまず置いておいて、先を聞く事にした。
「それから?」
僕が先をうながすと、ライアンはふぅと短く息を吐いて、神妙な顔をして続けた。
「黒い影が……自分の方へ向かってくるのを見たって言うんだ。それで……他に覚えているのは、その影が身に着けてたシルバーの……」
ここまで言いかけてライアンは紅茶を飲んだ。昔、事故から救い出してくれた人物の話を、ライアンには僕の十三歳の誕生日に話していた。混乱した子供の記憶だ、とロクに相手にしてくれなかった大人たちとは違い、とても真面目に聞き、そして信じてくれた唯一の人物だ。
「そのあと気がついたら、チャーリーも仲間達も路地で倒れていたって言うんだ。瀕死だったはずのお前の姿もなかったって。だから俺……その男がお前のことを連れてっちまったのかと……」
ライアンは、紅茶の入ったカップを包むように持った自分の両手を見つめていた。僕が何か言うのを待っているのだ。本当に僕のことを心配して、ここまで来てくれたのだろう。助けてくれた男の正体はわからないが、ライアンを悲しませるようなことにならなくて本当によかった。昨夜の無責任な行動を、今では心から反省している。
「僕はそのあと歩いて帰ってきたよ。チャーリーは、僕に与えたダメージを誇張して言ったようだな。瀕死だって? 僕はただ、反撃のチャンスを待ってただけさ」
明るく陽気に言ってみたが、ライアンはまだカップを見つめている。この様子ではきちんと話をするまで納得しないな、そう思った僕は、全て正直に話すことにした。
「昨日も、その男は僕を助けた後いなくなってしまったんだ。だから……さっきな、その路地に行っていたんだよ」
ライアンはハッと顔をあげた。その目には驚きが滲んでいる。
「お前……何考えてんだ! わざわざ、またあの路地に戻った? なんでそんな危険なマネするんだよ!」
ライアンは怒りに震え、紅茶がカップから零れている。
「ライアン、落ち着いてくれよ。彼は、もう二度も僕の命を助けてくれてるんだ。正体がなんであろうと、悪い奴だなんて思えないよ」
ライアンは信じられない、とでも言うように目をぐるっと回した。
「助けただけとは限らないだろう。なぜお前のピンチに都合よく二回も現れる!? それに、助けるならお前がそんな怪我をする前に助けに来れたはずだ!」
僕の頭に巻かれた包帯と、腫れ上がった拳を見ながらライアンが声を荒げた。顔には、目の下と口元に痣ができている。
「頭の包帯は、今朝ジェニーさんにやってもらったんだよ。大した怪我じゃないのに、大げさに包帯を巻かれただけさ。ほら、彼女には僕らと同じ年頃の息子さんがいるだろ? だから、いつだって心配しすぎるんだよ。他の怪我だって小さなもんさ。むしろこいつを喰らった奴を心配してやれよ」
僕は怪我をしている左手の拳をライアンに見せながら、笑ってウィンクをしてみせた。ライアンは呆れたようにため息をついてから、紅茶を飲み始めた。まだ少しイラついているような目つきをしている。
「なぁライアン。僕は、ライアンには本当に感謝しているんだ。出会ったその時からずっと、僕の兄貴でいてくれたよな。困ったことがあれば、いつだって助けてくれた。施設の意地悪なレーガンさんに嫌がらせをされた時も、でっちあげの罪で叩かれた時も僕を守ってくれてた。今だって、僕の事を本気で心配してくれてるよな。ライアンは僕の親友でもあり、本当の兄貴だと思ってるよ」
 僕は、ライアンから目を逸らさずに本心を伝えた。彼がいなければ、僕はどうなっていたか想像もつかない。もしかしたら、僕も昨夜の男たちに混じって自堕落な生活を送っていたかもしれない。それどころか、下手をすればまともな友人どころか、知り合いすら居ないような惨めな人生になっていた可能性すらある。ライアンは照れたように笑い、僕の肩を軽く叩いた。
「でもわかってほしい。この男を捜すことを、僕はやめない。絶対に見つけてみせる。あの男は、絶対に僕の事を知っているはずなんだ。偶然なんかじゃない」
ライアンは少し考えたように僕を見つめていたが、僕の意思が固いことを悟ると少し笑いながらこう言った。
「お前は昔から、泣き虫のくせに頑固だよな。わかった、俺もできることは手伝う。困ったことがあれば、なんでも言え。ただし、無茶はするなよ。約束だぞ。いいな?」
そして、握った拳を僕に突きつけてきた。僕は怪我をしていない右手でそれに答えた。
「言っておくけどな、昨夜のお前の行動は、誰が何て言おうが無茶だからな。いくらなんでも、五人相手に喧嘩を売るなんてバカだぞ」
僕の顔にできた痣を見つめながら、ライアンは言った。
「だからって、あんな奴らに金なんか渡してたまるかよ。ライアンだったらどうした? 同じ事をしただろ」
答えは聞かなくてもわかっていた。僕と同じくらい喧嘩っ早いライアンが、大人しく金を渡してあの場を切り抜けるなんて考えられない。ライアンは手に持っていたカップをテーブルに置くと、体ごと僕の方へ向いて得意げに笑った。
「当たり前だ。ただし、結末はお前とは違ってたぜ。俺は五人とも病院送りにしてただろうからな。もちろん、俺様は無傷だ」
言い終わると、大真面目な顔をして親指を立てて見せた。相変わらず明るいライアンの言葉に僕は笑ってしまったが、頭の傷に響いて痛んだため、ライアンの肩を軽く叩きふざけて悪態をついた。痛がる僕を見て、ライアンも笑っている。
 ライアンがわかってくれたのはよかったが、僕には男を捜す手がかりすらない。この近くにいるかもしれない、という推測しかないのだ。
ライアンが思いの外長くうちに留まったため、辺りはすっかり暗くなっていた。心配かけたお詫びだ、と彼は僕の家で昼飯を食べ、散々くつろいで帰って行った。しまいにはソファに寝転がって、地響きかと思うほどの大きないびきをかきながら寝ていたくらいだ。
 ライアンを見送った後、僕はもう一度あの路地へと戻ってきた。今朝来た時に宣言した通り、彼を見つけるまで何度だってここへ来るつもりだ。
昨日のこともあり、薄暗い路地へまた一人で行くのは少しだけ寒気がした。少なくともチャーリー達は二度とここへは近寄らないだろうが、タチの悪い連中など腐るほどいる。もう一度ここで襲われれば、また彼が現れるかもしれないとも思ったが、またあんな目にあうのはごめんだ。自分の頭に浮かんだ悲惨なアイディアを振り払うように頭を振った。そのせいか、後頭部の傷が鈍く痛み思わず顔をしかめて立ち止まった。きつく目を閉じて、痛みの波が過ぎ去るのを待つ。しばらくそうしてから、ゆっくりと目をあけた。
 その目に映ったものは、散らかった路地の通りではなく『彼』だった。

 昨夜見た時と同じように、緩いウェーブの入った暗いブロンドの髪。長い前髪から覗く、光るような青い瞳で僕を見ているが、鋭さは昨夜ほどではないようだ。そして、シャツの胸元から見えるあのネックレス。彼は無造作に積まれていた木製の箱に、しゃがむように座っていた。その姿は、まるで黒豹のようにしなやかで美しく、またこちらの警戒心をかき立てた。
何かを話そうとするが、声が喉に詰まって出てこない。彼の冷たく哀しそうで、どこか不思議な感覚になる瞳をみつめながら口をパクパクしていると、彼は低く言葉を発した。
「何故ここへ来た」
 あまりにも早口で低い声に、聞き逃しそうになる。彼から目を逸らさずに、深く息を吸い込んだ。凍てつくような夜の空気が、先程よりも冷たさを増して肺がキリキリと痛んだ。まだ、心臓は今までに無いほどのスピードで鼓動を刻んでいる。何か話さなくては……そう思うのだが、呼吸がうまくできずに言葉が出てこない。
彼もまた、僕から目を逸らすことなく体勢を変え、木箱の上へ優雅に足を組んで座った。
「お前が出て来いと呼んだんだろう。何の用だ」
 先程よりもゆっくりと彼は言った。アメリカ英語のアクセントで話しているので、イギリス人ではないようだ。目は相変わらず冷たく光っているように見える。
 拳に力を込め、一息短く吐く。緊張のせいか、怪我をしているはずの左手にも痛みは襲ってこなかった。
「僕は……君の事を知ってる。十四年前に…………」
僕がそこまで言うと、彼はその鋭い目を少しだけ見開いた。僕が覚えていたことを驚いているのだろうか。そして何も言わずに、僕が話し続けるのを静かに待っている。
「君は、僕を助けてくれたんだろ。十四年前と……昨夜も……。ずっと捜してたんだ」
 彼のネックレスを見つめながら、とぎれとぎれに話していた。
「何が望みだ」
 ハっとするほどに鋭く、刺すような声で彼は問いかけた。その瞳はまるで怒っているようで、それでいて哀しそうにも見えた。彼の感情は、その表情からはまるで読み取れない。むしろ、感情などないかのように、冷たい表情が仮面のようにはりついている。
「望み? 僕はただ、君の事を知りたいだけだ。なぜ二度も助けてくれたのか、君は誰なのか……一体何者なのか……」
彼はじっと、こちらを見つめている。口をきつく結び、何かを考えているように見える。
 しばしの沈黙が続いた後、彼は木箱から降りて僕の前に立っていた。
一体いつの間に……。目の前にいたのに、木箱から降りる気配すら感じなかった。
 僕の驚きを感じ取ってか、彼は一瞬唇を緩ませた。しかしすぐに険しい顔つきへと表情を戻した。
「俺は誰でもない。お前の人生とは何の関わりも無い。二度と俺を捜すな。ここへも来るな」
冷たい口調で、抑揚もなく彼はそう言った。
「十四年間、君を捜したんだぞ。やっと今、君が目の前にいるのにそんなことできない」
 自分で思うよりも早く、僕の口から言葉が出ていたことに僕自身が一番驚いていた。彼は眉間に深いしわを寄せて、僕から離れるように一歩後退した。
「関わりも無いなら、なんで僕は君のことを覚えてるんだ。なんで君は……僕を二回も助けたんだ」
目を閉じた瞬間に彼がいなくなってしまいそうで、早口で彼に問いかけた。このまま僕の目の前から姿を消したら、彼は二度と僕の前には現れないような、そんな気がしていた。
「あの時、崩れた車から僕を出してくれたのは、君なんだろう? どうして話してくれないんだよ」
 彼の目を見ながら、僕は彼の上着の襟を掴んで力を込めた。捜し続けた男が、目の前にいるのに何も話してくれないもどかしさから、僕は男への警戒心も忘れ、イラだっていた。
 腕に力を入れて、思い切り揺さぶったはずなのに、彼は微動だにしなかった。まるで、石造りの壁にくっついている服の襟元でも掴んだかのように、硬く重たい感触に、僕は思わず襟を持ったまま動きを止めてしまった。彼は、尚も冷たい瞳で僕を睨みながら、片手で僕の手を払いのけた。僕から目を逸らし、襟を引っ張って乱れた上着を直している。
「お願いだよ。ちゃんと話を聞かせてくれ。でないと、君が話してくれるまで、僕は毎晩だってここへ来るぞ」
 僕は拳に力を込めるように握ったまま、まだ少し震えている声で抗議した。彼は間違いなく、僕の人生に深く関わっているはずだ。彼は冷たく光るその目をきつく閉じ、片手で顔を隠すように覆った。そして顔を下に向けたまま、目をゆっくりと開けて僕を見据えた。
「好きにしろ。俺の知ったことか」
 冷たくそう言い放つと、彼は昨夜と同じように突然姿を消してしまった。彼が飛び立とうとしている仕草さえ捕らえることはできず、一瞬のうちにいなくなってしまったのだ。

 記憶に微かに残るあの男を、僕はずっと捜してきた。とは言っても、今までは捜しようすらなかったため、想いを巡らせるだけだったが。
しかし、今は違う。あの男は確かに存在している。幼かった僕が見た、幻などではなかったのだ。このまま諦めるなんて絶対にできない、そう決心した僕は、先程まであの男が座っていた箱とは反対側の壁に沿って置かれた大きなゴミ箱に腰をかけた。
 アルミ製のそのゴミ箱は、冬の外気にさらされ氷のような冷たさで僕の体温を奪っていく。それでも、ここを離れてたまるか。そう思いながら、腕にはめている腕時計に視線を落とした。時刻はまだ十九時前だ。明日、仕事を休んでだって、たとえ寒さで凍りついたとしても、僕はここから動かないと決めた。ライアンに言わせれば、この行動は<無茶>になるだろうか。
&#8195;
 辺りはすっかり静まり返り、人の気配が少なくなってきた。
ここへ腰かけてから、かれこれ四時間が経つ。僕を包む空気は夜の雰囲気を湛え、暗闇をより深くしていく。ポケットに両手をつっこみ、少しでも寒さを和らげようとするが、大した効果は期待できずに身体がブルブルと震える。指先の感覚は、既にもうない。挙句の果てには、寒さのせいか頭痛までしてきた。こうなるとわかっていれば、もっと厚着をして、帽子やマフラーなどありったけの防寒具を身につけて来たことだろう。
 間違いない、これは誰から見ても立派な無茶である。だが、ここまで粘って、今更のこのこと寒さに身を縮めて帰るほど僕は弱くない。何日だってここにいてやる、白い息と共に小さくそう呟いた。声は先程あの男と話した時とは、比べ物にならないほどに震えていた。実際、いくらだってここに居続ける覚悟はある。しかし問題はこの寒さだ。いくら覚悟があったって、体温を奪われ続ければ人間には限界がある。もしかしたら、一晩もしないうちに凍死してしまうんじゃないか……そんな不吉な考えを、頭を振って無理やり消し去る。ポケットから手を出し、息を吹きかけて少しでも温めようと、身体を丸めて無駄な努力をしていた。すると、突然頭上から声が聞こえた。

「何のためにそこまでするんだ」
 顔をあげると、やはりそこにはあの男が立っている。彼は先程の木箱へと寄りかかるように立ったまま、相変わらず冷たい目で僕を睨んでいる。顔の前にあげていた両手を下ろして、またポケットに突っ込んだ。ポケットのなかでは、きつく拳を握っていた。呼吸を整えて、ゆっくりと話し出す。
「あの事故からしばらくして、僕は大人たちに、車から誰かが出してくれたと話したんだ。でも、誰一人信じてくれなかった。それどころか、僕の頭がおかしくなったとまで言われて、いろんな検査を受けさせられたよ。まだ小さな子供だったのに……」
 寒さに震える僕の声を、彼は黙って聞いていた。瞳の冷たさは、どこか僕を哀れむようなものへと変わっていた。
「だから僕は……自分で車から出たと嘘を付くようになった。もう、誰も信じてくれないと思ったからだ。それでも、心の中ではずっと君の存在を信じていたんだ。確かに、誰かに助けて貰った記憶があるのに、そんな人はいなかったと、救助に来た人や目撃者達にも言われた。本当に僕はおかしくなったんじゃないかと、怖くて眠れない夜もあった。それならいっそのこと、あの日起きた全ての事を忘れられたらいいのにとも思った。でも……やっと見つけたんだ。お願いだ、何も知らないなんて言わないでくれ」
歯がガチガチとなるので、最後のほうは言葉として成り立っているかも不安なほどだったが、どうやら彼には伝わったようだ。呆れたような表情で、僕を見ている。
「確かに、あの日車からお前を抱えて出したのは俺だ。お前は何もおかしくない。それでいいだろう。もう帰るんだ」
 どういった心境の変化か、彼は優しさのこもった声で僕にそう告げた。しかしこの寒さの中四時間も待って、たったそれだけの答えで満足なんてできるはずもなく、僕は彼に噛み付いた。元々寒いのが苦手な僕は、真冬に外で四時間も待たされて非常にイライラしていた。勝手に待っていたのは僕の方だとはわかっていながらも、口調や態度が荒くなるのは止められなかった。
「あの日も、昨夜も、偶然あの場に居合わせただけだなんて言わせないぞ。十四年も待って、そんな言葉だけで納得するとでも思うか? それに、凍死の危険を冒してまで君を待ったんだぞ。もっとちゃんと話すのが、礼儀ってもんじゃないのか」
震えないように、全身に力を込めて話さなくてはならない。一つの単語を口にするだけでも、ものすごい体力を使う。手を握り、歯を食いしばる僕を彼がじっと見つめている。
「全てを知る覚悟が、本当にお前にあるのか。知りたくなかったと、後悔するかもしれないぞ。俺は、お前が思っているような人間じゃない」
重く、腹に響くような低い声だ。腕を組んで僕の答えを待っている。今の問いかけは、話してくれる気になったということだろうか……。それなら、僕の返事はとっくの昔に決まっている。
「構うもんか」
 拭いきれない不安と、得体の知れない存在と対峙する恐怖を悟られないように、声に力を込めて言ったつもりだったが、彼はニヤリと意地悪く笑った。精一杯の強がりは、どうやら見破られたようだ。彼はもう一度ため息をつくと、寄りかかるのを止めて、空を仰ぐように見上げている。
「僕の勝ちだな」
 ゴミ箱から飛び降りて、彼に一歩近づきながら勝ち誇って声をかけた。別に勝負をしていたつもりはないが、結局彼は戻ってきた。僕の粘り勝ちのような気がして、少し嬉しかったのだ。
「どうかな」
先程までの厳しい口調を一転させ、意地の悪そうな言い方で彼がはっきりと言った。そして、僕がその言葉の意味を訊ねる暇も与えずに、彼は僕の腰に手を回し飛び立った。
 何が起きているのかもわからず、悲鳴をあげることすらできなかった。気がつけば僕たちは、どこかのマンションの一室のバルコニーらしき場所に立っていた。
「ちょ……何かするなら先に言ってくれ! 今、僕に何をした!?」
 力任せに掴まれていた腰が、少しだけジンジンと痛む。腰に手をやり、少し前かがみになってから痛みを落ち着かせた。
睨みつけてやろうと顔を上げると、彼は僕のすぐ隣に立っていた。とても背が高く、痩せている。マンションの最上階では、月がより明るく彼の姿を照らし出していた。
 薄暗い路地で光を放っているように感じさせた彼の瞳は、病的なまでの鋭さを感じさせることを加味してもまだ、未だかつて見た事が無いほどの美しさだ。
 彼は僕を見下ろしながら、くるりと背を向けた。
「甘ったれるなよ。俺だって、楽しくて男の腰に腕を回したわけじゃない」
足音を立てずに大きな歩幅で僕から離れた彼は、バルコニーにある大きなガラスの扉を開け、中へ入っていった。
「そんなことを言ってるんじゃないだろ! 何であんな風に飛べるんだ! あんた一体……」
 動揺を隠そうともせずに、僕は彼に大声で話しかけながら後を追って部屋の中へ入った。
 しかし部屋の中を見た僕は、つい先程までの興奮も彼への質問も、全てを忘れて見入ってしまった。
 黒を基調としたシンプルな部屋だが、大きな革張りのソファや金の蜀台……。そこにある全てが高級品に思えた。大きなマンションだが、天井にはライトらしき物は付いていない。芸術のことにはまるっきり疎い僕でさえ、壁に飾られている数枚の美しい絵画は、美術館などに展示してあってもおかしくないようなものだと言う事がわかる。
 思わず部屋中を見回した僕の目を、捕らえて離さない物が一つあった。写真たてに入れられた、小さな古い写真。僕はそれを手にとって、マジマジと眺めた。心なしか手が震えているように感じるが、寒さのせいなのかどうかはよくわからない。
 写真の左端には、困ったような笑顔で写る男。そして真ん中には、小さな赤ん坊を抱いて笑う若い男女。間違いない、この二人は僕の両親だ。ということは、この赤ん坊は僕だ。そしてそこに写る男は、どう見ても今僕の前にいる彼と同一人物だ。しかし、写真の中の男と、目の前にいる人物は、全くといっていいほど同じ顔をしている。若い頃から変わっていない、などというレベルではなくて、本当に『同じ』なのだ。僕が赤ん坊の頃の写真だと言うのに……そんなことがあるだろうか? しいて言うならば、写真の中の男の方が、優しい顔をしているくらいだ。
「それは、お前が産まれた翌日だよ」
 戸惑う僕に、彼は高そうな蜀台に置かれた赤い蝋燭に灯を燈しながら言った。顔を上げると、部屋の数箇所で蝋燭が揺らめいていて、暖かい明るさを放っていた。彼に目を戻すと、いつの間にか大きなソファへ座りこちらを見ている。向かいのソファへ座るよう、彼が片手で促す。薄暗い部屋に座る彼の姿はまるで悪魔のように美しく、人を不安にさせる雰囲気がある。しかし何故か、僕は彼に対して恐怖ではなく、親しみを感じ始めていた。
 トボトボと僕は歩き出し、力なく腰掛けた。一見固そうに見えた革張りのソファはとても柔らかく、心地よく僕を包んでくれた。彼は僕のほうへ身を乗り出すように、両肘を脚へ乗せ手を硬く組んでいる。目線は僕から外さない。何を考えているのかは、全く掴めない。
「お前が産まれた翌日、ブラッドはとても嬉しそうに俺を訪ねてきたんだ」
 今までとは打って変わり、低く優しい声で話し出した。僕を安心させるような、声や口調とは対照的に、視線は鋭いままだ。そして彼は、僕の父さんのことをブラッドと、とても親しげに呼んでいた。
「父さんを知っているの?」
 産まれたばかりの僕を抱く両親と一緒に写真に写っているのだから、知っていて当然なのだが、僕の頭は酷く混乱していて当たり前のことがわからなくなっていた。僕の間抜けな問いかけに、彼の目がふと優しさをおびた。
「あぁ。始めて会った時、お前の父さんはまだやんちゃな子供だった。彼は高い木に登って降りられなくなっていたんだ」
 当時を思い出してか、彼は小さく笑った。青白く鋭いが、美しいその顔がほんの一瞬だけほころんだように見えた。
「助けを呼ぶことも、自力で降りることもできない子供を、俺はただ見ていたんだ。どうするつもりなのか、とても興味を惹かれてね。すると彼はとんでもない行動に出た。いきなり飛び降りたんだ。大人でも登るのに一苦労するような高さの木から、突然。昨夜のお前の無謀すぎる喧嘩も、さっきの馬鹿な行動も間違いなく父親譲りだ」
彼はニヤリとこちらを見た。僕は少し恥ずかしくなり、先をせがんだ。
「それで、父さんはどうしたのさ」
「俺が受け止めたんだ。自分でもなぜあんなことをしたのか理解できなかった。人間に関わる気など更々なかったし、昔から子供は苦手だった」
『人間と関わる気はない』さりげなくそう言った彼の言葉を、頭の中で何度も繰り返した。やはり彼は人間ではない、別の何かだと言うのか……そんなことがあるのか?
 脱線しかけた僕の思考を引き戻すかのように、彼が続けた。
「ブラッドは大きな茶色の瞳で僕を見つめてこう言ったんだ。助けてくれてありがとう、ってね。とんでもない馬鹿だと思ったよ。安心しきったように俺を見つめる子供を見て、俺は無性に腹が立った。だから、彼を抱きかかえたまま怒鳴りつけたんだ。あんな所から飛び降りるなんて怪我でもしたいのか、と」
あまりにも普通すぎた彼のお説教に、僕は思わず吹き出してしまった。彼もつられてか、下をむいて少しだけ微笑んだ。初めて路地で話した時の印象とは大分異なり、冷たさを帯びた雰囲気の中にも、どこか僅かに優しさを感じさせるような口調で彼は話し続けた。
「お前の父さんは、こう言ったよ。 だってお兄さん、下を見てよ。昨日の雨でぬかるんでるでしょ? だから、大丈夫だと思ったんだよ、と。本当に呆れて、何も言えなかったな。俺はブラッドを立たせて、まっすぐ帰るようにと言ったんだ」
 彼は顔をあげて僕を見つめた。
「それでも、あの小さな人間がどうしても気になってバレないように後をつけたよ。家に着くまでに、何か事故にでも合って無事に帰りつかないんじゃないかと思ったんだ。それからは、何度も彼の前に姿を見せるようになった。あの小さな温もりを、感じていたかったのかもしれない……」
そう小さく呟くと、彼は遠くを見つめた。
「初めてお前の母さんとのデートが決まった時も、結婚を申し込むという前夜も俺はブラッドとともに過ごした。結婚して、お前が産まれてからもそうだ。ただ、お前に物心がつき始めたころから、俺は一定の距離を置いていた。歩くことすらままならない小さな赤ん坊にとって、俺はお世辞にもいい存在とは言えないと思ったからだ。ブラッドもアデラも、そんな俺の考えを尊重して無理にお前に関わらせようとはしなかった。だがあの日だけは違った。一緒に行かないか、と何度も誘われたんだ」
 あの日……。それが何を指しているのかなんて、聞く必要もなかった。僕らが会った日、事故に合った日だ。
「だが、家族のピクニックに俺が着いていくのはおかしな話だと断ったんだ。家族水入らずで楽しんで来いと。俺は今でもこの言葉を後悔している。俺が一緒にいれば、助けられたかもしれない……いや……」
小さな声でボソボソと呟いたので、最後のほうは聞き取れなかった。彼はがっくりと頭を下に向けて足元を見つめている。
「でも、僕のことは助けてくれたろ。あれからずっと……僕の居場所を知ってたわけ?」
 彼は顔を上げ、愛情に満ちたようで哀しげな瞳を僕に向けた。
「あぁ。見ていたよ。お前が施設に入れられた時も、ライアンと共に辛い日々に耐えていた時も」
 施設という言葉で僕に急激な怒りが込み上げた。
「それなら……どうしてもっと早く来てくれなかったんだ。僕があそこでどんな生活をしていたか知っていたなら……!」
「さっきも言ったろう、甘ったれるな。俺はお前の保護者じゃないんだ。昨夜のようなことでもない限り、お前の前に姿を現すつもりもなかった。幼かったお前が、俺のことを覚えていたのは最大の誤算だ」
 父さんの思い出話を語ってくれていた時の彼とは違い、初めて彼の声を聞いた時と同じ、低く冷たい声。襲い来る悲しみと絶望感を、無理やり追い払った。怒り以外の感情をコントロールするのは得意だ。今は、他に大切なことがある。感傷にはあとでゆっくり浸ればいい。
「そうか……。まぁいい。それで、あんたは何者なのさ。人間じゃないのはよくわかった。あの写真を見る限り、年もとらないんだろ? 名前はあるのか? どこで生まれた? いつから生きてるんだ」
彼は固く組まれた手を見つめている。そして深くため息を吐いた。
「いいか、保護者じゃないと言ったのはお前のためだ。俺なんかと関わるな。お前をここに連れてきたのは、俺の自己紹介なんかのためじゃない。ブラッドの話を聞かせてやろうと思ったからだ。他に話すことは何も無い」
彼は冷たく言い放つと、音も無く立ち上がり玄関のドアを開けて、ガラス玉のような無表情な瞳でこちらを見ていた。その動作から、彼が僕に帰って欲しがっているのは明らかだ。しかし、せっかく見つけた彼から何も聞けないまま帰る気など、僕にはこれっぽっちもなかった。
「冗談じゃない。僕だって、今更あんたに保護者になってもらおうなんて思っていないさ。ただ、僕の命を救ってくれた人のことを知りたいだけだ。なんで僕を助けておいて、何も説明してくれないんだよ。関わる気がないなら、なんで昨夜も僕を助けたりしたんだ。僕はあそこで死んだって構わなかったのに……。関わるなだって? 勝手に関わってきたのはあんたのほうじゃないか!」
 拒絶された悲しみが怒りに変わり、いつになく大声で僕は怒鳴っていた。これで完全に追い出されるな、そう思った次の瞬間、彼は僕の目の前にいた。
僕の胸倉を掴み、彼の顔に引き寄せている。美しいその顔は怒りに満ちていて、蝋燭と月明かりという頼りない照明しかない薄暗い部屋の中でも、僕を震え上がらせるには充分すぎるほどの迫力だった。彼の背後では、ドアが閉まる重たい音が響いた。
「今なんて言った」
 人から発せられたとは思えない程の恐ろしい声で彼は言った。いや、人ではないのだから当然か……。
「どんな思いでブラッド達が死んでいったかわからないのか」
彼の腕は怒りで震えていた。僕の胸倉を掴んだまま、怒りのこもった瞳で見下ろしている。
「わかるわけがないだろう! 僕はまだ子供で、何があったのかも、両親のことすらほとんど覚えていないんだ。あんたは、肝心なことは何一つ話してくれないじゃないか!」
 僕の人生に大きく関わっているはずのこの男は、父さんとの思い出を聞かせただけで、僕に全てを理解しろと言うのだろうか。そして、若くして亡くなった両親の無念さを知り、立派に生きていけと説教でもするつもりか。僕が知りたいと思う事を何一つ聞けないまま、すごすごと立ち去るなど僕にはできなかった。
 情けない涙声で訴えた僕の主張は、どうやら認められたようだ。彼はしばし怖い顔をしたまま僕を睨んでいたが、そっと手を離して向かいのソファへと腰を降ろした。足を開いて座り、下を向いている。どんな表情をしているのかは見えない。
「何が知りたい」
俯いたまま、彼は小さく聞いてきた。声からは先程の怒りは感じられない。とりあえず、一番気になっていることを聞いてみることにした。
「あんた……名前は?」
彼は怪訝そうな顔でこちらを見つめてきた。意味がわからず僕も見つめ返す。すると彼は、しかめていた表情を解いて小さく笑った。彼が見せた中では一番の笑顔だ。僕は予想外の彼のリアクションに、言葉が出せずにただ呆然と彼を見つめていた。
「聞きたいことなど山ほどあるだろうに、最初の質問が俺の名前か。なんとも間抜けな奴だな」
言葉とは裏腹に、彼の顔にはぎこちない笑顔が滲んでいる。僕も軽く笑ってみせた。
「ウィルフレッド」
「え?」
 唐突に彼が言葉を発したので、本当に間抜けな声を出してしまった。
「お前が俺の名を聞いたんだろう。ウィルフレッドだ。ウィルフレッド・ヴィンセント・フロックハート」
「ウィルフレッド……」
僕は思わずその名を繰り返した。
「そうだ。お前のミドルネームは、ブラッドが俺の名から取ったんだ。ロクなことにならんからやめろというのも聞かずにな」
 そう、僕の名前はトレヴァー・ウィルフレッド・フェリスだ。まさか、探し続けていた彼の名が、僕につけられているなんて思いもよらなかった。僕に彼の名前をつけるほど、父さんは彼のことを慕っていたのかと思うと、なんだか不思議な気持ちになった。両親には兄弟もおらず、年老いた祖父母も僕と関わろうとはしなかったため、両親を失ってからは彼らのことを知る人に会った事がなかったからだ。
「それで……ウィルフレッド。あんたは何者なんだよ」
僕は未だ整理のつかない頭で、力なく質問した。
「俺らの種族に名があるのかどうかは知らんが……お前ら人間の言葉を借りるなら……」
「借りるなら……?」
僕は身を乗り出した。それと同時に彼は少し身を引き、僕との距離を保った。
「ヴァンパイアだ」
 ヴァンパイア……。そんなものが、本当にこの世に存在するというのか? にわかには信じがたい話だが、目の前にいるこの男は確かに人間ではない。もしかしたら、本当に……。その時、僕は唐突に先程の話を思い出した。
「でも、ちょっと待ってよ。あんたが父さんに初めて会った時、父さんは子供なのに一人で遊んでいた。そうだろ?」
何が言いたいのかを汲み取ろうとするような表情で、彼が頷いた。
「ってことは、少なくとも日が出ている時間帯のはずだ。ヴァンパイアは、太陽に当たれないだろう? それに……そのネックレスだって……」
僕は彼の首に輝く十字架のネックレスを見た。
 ウィルフレッドは一瞬ポカンとすると、小さく声をあげて笑い始めた。その姿は、とても人間らしく見えた。僕は彼が落ち着くまで、しばらくその様子を眺めていた。
「お前は本当に間抜けだな。そんなものは、人間の作り出したおとぎ話に過ぎない。俺たちは真夏の太陽の下だって歩けるし、食事も取るし、十字架だってこの通り、ただのアクセサリーだ。聞かれる前に言っとくが、ニンニクもただの食い物だ」
彼はニヤリと笑って、首についたままのネックレスを握って見せた。なんだか僕は急に恥ずかしくなって下を向いていた。
「あぁそうかい。それなら、血を飲んだりコウモリに変身したりっていうのも嘘なんだろ。ヴァンパイアってのも、思ったほどかっこいいもんじゃないな」
笑われた恥ずかしさの余り、子供のような口調になってしまった。彼は口元に意地の悪い笑みを浮かべたまま、鋭い目で僕を見ている。
「そうだな。ほとんどのことがただの伝説だ。もちろん、コウモリなどという小さな生物には姿を変えられない。もっとも、変える必要もない。お前も見ただろう。俺たちは人間よりも、はるかに強い筋力を持っている。わざわざ姿を変えてまで空を飛ぶ必要はない。だが、そうだな……食生活の一部だけは当たっていると言えるな」
そう言うと彼は急に真顔になり、獣が威嚇するように唇を軽く開いた。僕の想像を裏切り、そこには牙なんてなく、ただ真っ白な歯が並んでいただけだった。
「だって、あんたさっき……普通に食事をするって……」
思わずソファの背もたれにぴったりと背中がつくまで後退しながら吐き出すように言った僕の言葉に、彼は頷いた。
「あぁ。人間と同じように、同じものを食べるさ。人間よりも、頻度は断然少ないけどな。血は俺たちにとってなくてはならないものだ。だが、そのために人間を殺すようなことはしない」
「殺さないで……どうやって血を飲むんだよ……」
あまりに現実離れした話しに、思わず弱弱しい声になってしまう。
「深夜の通り、一人で歩いている人間を狙う。昨日のお前みたいにな。俺たちには、催眠術に近い能力が備わっている。それを使って、血を頂く間だけ眠っていてもらうってわけだ。血を飲むと言っても、催眠から覚めたあとの少しの間だけ、軽い貧血になるくらいのもんだ」
人を殺すことはないとはいえ、深夜の暗い路地で倒れた人間から血を飲んでいるウィルフレッドの姿を想像して身震いがした。そんな僕に気がついたのか、彼は話を止めこちらの様子を伺っている。
「怖いか」
 すぐに首を振ることはできなかった。僕の手が小さく震えていることにも、彼は気がついているだろう。一息吐いて、呼吸を整える。
「全く怖くないと言えば嘘になる。でも、あんたは僕を助けてくれたじゃないか。それに、あんたは父さんと母さんの友達だ。あんたを怖いと思う理由はないだろ」
震える手に力を込めて、彼に本心を告げた。彼は僕が産まれた時から傍で見守っていてくれた、命の恩人だ。その正体が人間ではなかったとしても、その事実に変わりはない。
彼はしばらく僕の様子を見ていたが、ふと体の力を抜いてソファにもたれかかった。
 ここで僕は、先ほど彼が口にした催眠術という言葉が、急に気になりだした。
「ねぇ、さっき、施設にいたライアンの事も知ってるって言ったろ。ライアンがあんなに僕の事を守ろうとしてくれてるのって、もしかして……あんたの言った、催眠術と何か関係があったりするの?」
出会った時から、ライアンはずっと僕を守ろうとしてくれている。今だって、過保護なくらいに僕を心配している。それは、両親を失った僕のために、彼が仕掛けた催眠術のせいなのでは……。もしもそうなら、いつかライアンの催眠は解けてしまうのだろうか。そして、僕の事など気にかけることもなく、どこかへ行ってしまうのだろうか……。一瞬で不安に襲われた僕見て、彼は小さく笑った。
「いや、彼に催眠をかけた事は一度もない。あいつは、心からお前を想っているよ。だから、俺はあの施設にお前を置いたままにしたんだ。あいつも言っていただろう。兄貴は、弟を悲しませるような事はしないと」
彼が口にした言葉に、心から安心した。よかった、ライアンは誰かに操られていたわけではなかった。彼が僕の兄でいてくれたのは、彼の意思だった。しかし、つかの間の安堵は、すぐに驚きに変わった。彼がさっき言った言葉は、また一人になることを怯えていた幼い僕に、ライアンが言ってくれた言葉だ。何故、彼がそれを知っているのか……。
「ちょっと待って。あの時も見てたって事? もしかして、ルドルフを持ってきてくれたのって……」
 施設に入れられた日の夜は家に置きっぱなしだったはずのルドルフは、翌朝目を覚ますと何故か僕の腕の中にいた。当時は、ルドルフが僕を心配して来てくれたのだと信じて疑わなかったが、ある程度成長してからは、家の整理をしていた祖父母が僕が眠りについてから持ってきたのだろうと考えていた。しかし、祖父母がルドルフの存在を知っているとは思えず、ずっと不思議だった。それからも、僕はルドルフを大切にしていた。しかしある日、学校から戻るとどこにもルドルフはいなかった。必死に探す僕に、レーガンさんはこう言った。男の子が、いつまでも縫いぐるみなんて持っているんじゃない、と。ルドルフはただの縫いぐるみではなくて、僕の大事な友達だった。その友達を、勝手に彼が捨てたのだと悟った僕は、何も言わずに思い切り体当たりをして、その勢いのまま両手で何度も殴った。思わぬ僕の反撃に彼は一瞬怯んだが、すぐに僕を突き飛ばして部屋を出て行った。悔しくて、悲しくてたまらなかったが、無力な僕に出来ることなど何もなかった。
 ルドルフを持ってきたのは祖父母ではなくて、今僕の目の前で口元を歪ませているヴァンパイアだったのだろう。彼は不意に立ち上がると、写真の飾ってあるすぐ下にある小さな引き出しを開け、信じられないものを片手に持って戻ってきた。
「嘘だろう、信じられない……。懐かしいな。あんた、そんな小奇麗な格好をして、ゴミ捨て場から漁ったわけ?」
 なんと、彼が持ってきたのはあの日のまま何も変わらない、優しい目をしたルドルフだった。ルドルフを僕に手渡した彼は、さっきまでと同じように、向かいのソファへと腰を降ろした。完璧な容姿で高そうな衣服に身を包み、身なりにも気を使っていそうな彼がゴミ箱からくたびれた縫いぐるみを拾い上げるなんて、想像しただけでおかしかった。かつての友達が戻ってきた嬉しさと、彼の優しさを感じたようで、くすぐったくて思わず笑ってしまう。
「生ゴミと一緒に捨てられていたら、間違いなく拾わなかった。お前の元に戻してやろうとも思ったが、またあいつに捨てられるのが落ちだろう。それにあの時のお前はもう十歳で、縫いぐるみを抱いて眠るにはかなりきつい年齢だった」
 澄ました顔でそう言った彼を、僕は軽く睨んで見せた。きつい年齢だろうと何だろうと、僕には大切な存在だった。そんなこと、彼もわかっていたであろう彼は、穏やかな瞳で僕を見つめていた。まるでビー玉のように、輝く青い瞳で。

 それから僕は、彼にたくさん質問をした。正確な年齢は教えてくれなかったが、少なくとも今から三百年以上前にアメリカの小さな街で産まれたことや、もともとは彼も人間で、ヴァンパイアに噛まれて転化してしまったということを話してくれた。しかし、なぜ噛まれるようなことになったのかと聞いたときには、はぐらかされてしまった。
「だって、あんたを噛んだって言うヴァンパイアは、あんたをヴァンパイアに変えてやろうっていう明確な意思を持って噛み付いたわけだろ? いきなり、面識もないヴァンパイアに噛み付かれるなんてこと……あるの?」
 僕の質問に、彼は大きなため息をついて呆れ果てたような顔をしている。
「普通は、面識のあるヴァンパイアなんていないんだ。噛んだ奴の思考など……俺にわかるわけがない」
最初は間抜けな質問をした僕をバカにするような、どこか哀れむような目をしていたが、途中からその表情を一変させ、声にも怒りが満ちているような気がした。自分をヴァンパイアに変えた奴を、彼は恨んでいるのだろうか。しかし、そのあまりの迫力に僕はこれ以上この話を続ける勇気が持てなかった。
「あんたは、今までに誰かをヴァンパイアに変えたことがあるの?」
小さな声で遠慮がちに聞く僕の姿を、彼は目を逸らさずに見ていた。同じ様に 彼の目を見ていた僕に、彼はニヤリと笑いかけて身を乗り出した。
「本当に知りたいか」
口元は笑っているが、目は全く笑っていない。僕はソファの背もたれにめり込むほど、彼から距離を取った。声が出せずに、返事ができずに居た。知りたいような、知るのが怖いような気もする……。すると彼は、冷たい目を和らげて小さく笑って体勢を戻した。
「俺は、今のところ誰も変えてない。今後、変えるつもりもない」
落ち着いた声で、優しく答えてくれた。僕が固まっていることに気がついていたのだろう。
「誰もってことは……。あんた、今まで誰といたの? ずっと独りでここにいたのか」
 微笑んでいた彼の表情は、一瞬で曇ってしまった。僕の目を見たまま答えようとしない。と,言うことは恐らく、僕の予想は当たっていたのだろう。
「俺がヴァンパイアになってからは、ブラッドが唯一の友人だ。彼が子供だった頃は、友人と呼ぶのもまた違ったが」
そう答えた彼の声は、非常に穏やかだが、暗く寂しそうに感じた。彼は、恐ろしい程の年月を一人で過ごしてきたようだ。人間だったころの友人や家族とは、変わってしまってからも付き合いがあったのだろうか? まだまだ聞きたいことは山ほどある。僕が興奮気味に次の質問をしようとした時、彼はそれを遮るように片手を上げた。
「俺の話はこれで終わりだ。そろそろ帰るんだ。夜が明ける」
この時初めて、外が明るくなってきていることに気がついた。
「あぁ、今日も仕事だっていうのに……」
 徹夜を覚悟した僕は、ため息をついて背もたれに身体を預けた。一晩くらいなら眠らなくても大丈夫、という元気なライアンとは違い、僕は最低でも七時間は眠りたいのだ。
「それが人間の務めって奴だろ。お前の変わりに俺が寝ておいてやるから、さっさと帰ってシャワーを浴びるんだ。お前、自分が酷い臭いを放っていることに気がついているか?」
彼は、わざとらしく顔をしかめてそう言った。あぁ確かに、昨夜のゴタゴタからシャワーを浴びていないな……。そこまで考えたところで、彼の一言に引き付けられた。眠る、と確かに言ったはずだ。
「ヴァンパイアも眠るの? それは…その…ベッドで? それともまさか……」
 呆れた顔で天井を見上げるような素振りを見せると、彼は部屋の奥へと歩いて行き、天井から架かっていた重たそうな黒いカーテンを開けた。そこには立派なベッドが置いてあり、綺麗に整えられていた。僕が今までに見た事が無いような、高級ホテルなんかに置いてありそうな大きなベッドだ。僕の家にある、固くて寝返りを打つたびにギシギシと音を立てるベッドとは、比べ物にならないくらい寝心地がよさそうだ。僕だって、一度くらいこんなベッドで寝てみたい。しかし、ヴァンパイアがこんな豪華なベッドで眠るなんて……。古びた棺で眠る彼の姿を想像していたことは、黙っておくことにしよう。
 気がつくと彼は、数時間前と同じように玄関のドアを開けて立っていた。しかし、その顔にはどこか優しい笑みが浮かんでいるようにも見える。ゆっくりと玄関まで歩いて彼に向き直る。
「どこかに消えたりしないよな?」
不安があからさまに声に出てしまった。また笑われるかと思ったが、彼の反応は予想外のものだった。
「今更消えはしない。だが、ここへ頻繁に来るのは控えるんだ。俺たちが人間と関わることを、よく思わない奴らが多くいるのも事実だ」
彼は途中から表情を険しくさせ、怒りを飲み込むかのようにささやいた。そんなにたくさんのヴァンパイアがこの街にいるのだろうか。
「俺は、お前を守るとブラッドと約束したんだ。昨日のように死に急ぐような事はもうするな。また痛い目に遭いたくなければ、小さなプライドなど捨てて遠回りをするんだな。それから、次からはまずお前の鈍い直感を疑え。俺だって、常にお前の傍にいるわけじゃないぞ。ブラッドとの約束を破らせないでくれ」
険しかった表情を少しだけ緩め、僕をからかうような口調で彼が付け加えた。僕があの路地を引き返して、公園沿いの道から家へ帰ろうかと迷っていたことを、彼は知っていたかのような言い方だ。と、言う事はまさか……。
「もしかしてさぁ……。あんた、僕が瓶で殴られるずっと前から見てたんじゃないの?」
探るように言った僕の顔を見て、僕の命の恩人でもあるヴァンパイアは、意地悪そうに右側の口角を吊り上げた。白い歯が蝋燭の明かりで照らされ、滑らかな光を放った。
「少しは痛い思いをしないと、お前は自分の無謀さに気付かないだろ」
開いた口が塞がらない、とは正にこの事だった。目も口も大きく開けたまま、責めるように彼を見つめた。彼は何も言わずに、口元はそのままで少しだけ優しい目をした。
「少しはって……結構痛かったし。どうせ文句言ったって、甘ったれるなとか言うんだろ」
自分の頭に手をやって、ぶつぶつと文句を言う僕を彼は片手でドアの外へと押しやった。
「そういうことだ。わかったならさっさと帰れ」
冷たい言葉とは裏腹に、彼は少しだけ笑ってそう言った。先程のヴァンパイアのことも聞きたかったが、仕事の時間もある。僕はただわかったと頷き、部屋を後にした。
 彼は、見えなくなるまで僕の姿を見つめていた。
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 家に帰った僕は急いでシャワーを浴び、朝食にシリアルと牛乳を詰め込んだ。頭に巻かれていた包帯は、もう外した。まだ痛むが、血はでていないので問題ないだろう。親切にしてくれたジェニーさんには申し訳ないが、包帯を巻いたまま職場へ行くなんてごめんだ。
 ベッドの上に投げ出されていたルドルフを手にとって、窓際の小さなスペースにちょこんと座らせた。男の部屋に縫いぐるみなんて気味が悪いが、彼をクローゼットの奥に仕舞い込むなんて僕にはできなかった。ふとルドルフの目を見て、あることに気がついた。
 記憶にある通り、確かに青い目をしている。しかし、その目はガラスやビー玉ではなくて、青い布で模られたものだった。
「おかしいな……。もっと、キラキラしてたはずなのに……」
寝ていないためか、彼との話のせいか、興奮が冷めやらぬままに仕事へと向かった。

 ロッカールームで作業着に着替え、重い足を引きずるように持ち場へと急ぐ途中、僕が襲われた夜に直前まで一緒に飲んでいたジャスパーに会った。彼は僕の姿を見るなり、驚いて駆け寄ってきた。僕が襲われたことはライアン以外誰も知らないので、当然のリアクションかな、などと焦った様子で走ってくる彼を見ながら考えていた。
「おいトレヴァー、どうしたんだよ。何があったんだ」
 ジャスパーがあまりに大きな声でそう叫んだせいで、周りにいた顔見知り程度の人たちも何事かと集まってきてしまった。人の注目を浴びるのは、昔から苦手だ。視線が気になって、何も言えなくなってしまうのだ。僕の怪我を見て、一体どうしたのかと数名の同僚たちが心配そうに次々聞いてくる。
「あ、あぁ……これは、何でもないよ。飲んだ帰り道に、不良たちにしつこく絡まれてね。それだけさ」
 僕は人の輪の中心で、ボソボソと答えた。すごく居心地の悪い状況ではあるが、みんなが僕のことを心配してくれているのが伝わり、ありがたいことだと思い丁寧に礼を言う。
「心配してくれてありがとう。でも、本当にたいしたことないんだ。朝から騒がせてしまって、なんだか申し訳ないな」
少し笑いながらそう言った僕に、年長者のクーパーさんが口を開いた。
「まぁ若いうちはいろいろとあるだろうよ。それだけの怪我で済んでよかったと思うべきだな。助けが入ったのか?」
 まずい、なんとかごまかさなくては……。
「そうなんです。たまたま近くを人が通りかかって……。警察を呼ぶぞと叫んでくれたんです。そうしたらあっという間に不良たちは逃げて行ってね。命拾いしたよ」
あまり得意ではない嘘を誤魔化そうと、早口でまくしたてた。そこで運よく予鈴がなったので、自然と解散となり、僕は好奇の目から抜け出すことができた。
 僕の仕事は工場の作業員だ。ガラスを作っている工場で、出荷のための製品チェックをするのが僕の役割だ。隣の作業場にはライアンがいる。寝不足で疲れた様子の僕を気にしながら、テキパキと作業をこなしている。彼は昔から手先が器用で、壊れた自転車などを拾ってきては乗れるように改造してくれていた。もちろんその度に、レーガンさんに見つかっては、おしおきという名の暴力を受けていたわけだが。
「おい、お前顔色が悪いぞ。まさか昨日俺が帰った後も、アイツを捜してたんじゃないだろうな」
 作業をする手を止めないまま、ライアンは聞いてきた。ウィルフレッドには彼の正体を誰にも明かすな、ときつく忠告されていた。僕だって、いくらなんでも軽々しく正体を話すほど馬鹿じゃないとその時は反抗したが……。ライアンにこれほどまでに心配そうに聞かれると、全てを話してしまいたくなる。なにせ彼は、僕が誰よりも信頼している兄貴だ。僕のことを影ながら見守っていたのは、不死身のヴァンパイアだったと告げたとしても、疑うことなく信じてくれるだろう。そして、僕の身を心配する余り大騒ぎをするだろう。それは避けなくてはならない。
「あぁ。彼のことならもういいんだ。忘れることにするよ。手がかりも何もないんじゃ、捜しようもないしな」
寝不足でボーっとした頭で嘘をついた。ライアンに嘘をつくのは初めてのことだ。思っていたよりも辛い。彼は作業の手を止めずに、僕の顔を見つめている。僕は嘘をついている罪悪感から、目を逸らしたまま手元のガラスを見つめていた。
「お前は、昔から本当に嘘が下手だ。お前の下手くそな嘘のせいで、俺のいたずらがレーガンにバレたのも一度や二度じゃねぇってこと忘れたか?」
呆れるように頭を振って、彼はそう言った。イラつきを隠そうともせずにこちらを睨んでいるのを、肌に突き刺さるような視線で感じている。ライアンは頭が悪く、いつもふざけているくせに、妙に勘がいい。しかし、ウィルフレッドのことを言うわけにはいかない……。
「フェリス! 手を止めるな!」
 主任の怒号に驚いて顔を上げた。すると、こちらを監視する主任の後ろに、埃っぽい工場にはあまりにも場違いな存在が目に入った。
 背が高く、ウェーブのかかった暗いブロンドに光るような青い瞳……。彼は主任の後ろから僕をじっと見ていた。呆気にとられる僕の耳に、はっきりと彼の声が届いた。
「この間抜けめ。だが、ライアンは信じてもいいだろう。話してやれ」
とがめるように僕を睨んだあと、少しだけ微笑むような形の唇へ人差し指を当てて、その姿を消した。
「おいトレヴァー!」
 ライアンのささやき声で我に返った。主任は僕にむかって歩き始めている。返事をしない僕にイラついていることを、その表情がはっきりと告げている。今のはいったい何だ? 僕にしか見えてないのか? そこで、昨日のウィルフレッドの言葉を思い出した。
「俺たちには催眠術に近い能力が備わっている」
きっと、今のも彼の力なのだろう。他には、どんなことができるのだろうか。
「フェリス! やる気があるのか!」
主任は僕のすぐ傍で怒鳴っていた。彼に謝り、慌てて作業に戻る。主任はイライラとした様子ながらも、傍を離れていった。彼が近くにいなくなったことを確認してから、ライアンに視線を戻した。ライアンは器用に作業を続けながら、心配そうに僕を見ている。
「後で全て話すよ」
僕は小声でライアンにそう言った。
 昼休みの鐘がまだ鳴り終わらないうちにライアンは持ち場を離れ,それぞれの作業場を回り込むように僕の方へ走ってきた。そんな彼の様子を見ながら、外に出ようと手で合図をした。
 工場にある小さな売店でサンドイッチと水を購入して、工場の裏庭へ来る。ここは余り人が来ないので、寒ささえ我慢すれば話をするには持ってこいだ。僕とライアンは混雑した食堂を嫌い、よくここで昼食を取っていた。壁に背をつけて、二人で並んで座る。ライアンはよほど腹が減っていたのか、サンドイッチを三口ほどで平らげてしまった。そして一気に水を飲むと、二つ目のサンドイッチを手にとってこちらを見つめた。
「で、昨日何があったんだよ。お前、自分の顔を鏡で見たか? 真っ青じゃないか。まさか、例の男になにかされたんじゃないだろうな」
ライアンは興奮気味に僕に詰め寄って来る。片手で彼を制して、一口水を飲んだ。
「落ち着けよ。僕は何もされてないよ、大丈夫。それに、僕はもう四歳の子供じゃないんだ、そんなに心配するなよ。顔色が悪いのは、昨日寝ていないからだよ」
笑いながら答える僕にライアンは少しほっとした様子を見せながらも、まだ少しイラついている。僕はサンドイッチをかじりながら、まず何から説明すべきかと考えていた。
「あのな……何ていうかその……例の男は見つかったよ。と、言うよりも向こうから姿を現してくれたんだ。それで……」
 どう話せばいいのか、思わず言葉に詰まった僕をイラついた様子でライアンが急かす。
「それで、なんだよ? 結局その男は誰だったんだよ」
「彼は、その……僕らとは違うんだ」
寝ていないせいもあり、頭が働かずにボーっとしてしまう。ライアンは座ったまま僕の方へと上体を向けて、さっぱり意味がわからないといった顔で僕を見ている。
「彼は父さんが子供の頃からの友達で……」
 下を向いていた僕は、突然ライアンに腕を掴まれて話すのをやめた。驚いてライアンに視線を向けると、彼は手に持っていたサンドイッチを地面に落として、口をポカンと開けたまま前を見つめている。どうしたのかとそちらに目をやると、なんとそこにはウィルフレッドが座っていた。僕らと対面するようにあぐらをかいて座っている。しかし、薄汚れた作業着に身を包んだ僕らとは違い、気品に満ちていてどこか冷たい空気をまとったままだ。僕はライアンと同じように、言葉を失ってしまった。
「やぁライアン」
ウィルフレッドは滑らかな口ぶりで話し始めた。その冷たい目と冷ややかな口調に、ライアンは完全に固まってしまった。
「俺のことは彼から聞いてくれ。俺はただ、様子を見に来ただけだ」
 ライアンの様子を感じ取ってか、先程よりも少しだけ親しみのある声で言った。外は凍えるほど寒く、ウィルフレッドも高そうな革のジャケットを着ているが、彼の口からは白い息は漏れていなかった。
「ちょっと待ってくれよ! さっきのことと言い、突然……」
 ここまで言いかけて、僕はようやくあることに気がついた。
「まさか……今までも、ずっとこうして僕の傍にいたのか? 」
 そういえば今までも悪ガキに殴られそうになったり、レーガンさんの暴力が酷くなると、必ずといって良いほど相手の頭上に砂の詰まった袋が落ちてきたり、近くに積んであった箱が崩れてきたりとギリギリで逃げられることが多かった。喧嘩っ早く頑固な僕は、色んな人から目をつけられることも多かったが、今まで大きな怪我をしたことは一度もなかった。ずっと、運がいいだけだと思っていたが……。
 ウィルフレッドは鋭い目つきを一瞬緩めると、右側の口角を吊り上げて笑った。意地の悪そうな嫌味な笑顔だったが、どこか優しさも感じられたのは、僕の思い込みではないだろう。そしてその次の瞬間には、彼はもう消えていた。いや、正確には僕らからは見えない所へ行ったのだろう。僅かに舞い上がる、砂埃だけを残して。
「どうやら僕には、過保護な兄貴と超過保護な伯父がいるみたいだな」
まだ呆然としているライアンに向かって、僕は笑いながら言った。ウィルフレッドも、間違いなく聞いているだろう。保護者になる気はないなどと冷たく言ったくせに、と僕は少し嬉しくなったがそれは言わずにおいた。
 その後は、昼休みを全て使って昨夜のことを説明しなくてはならなかった。僕が話をしている間、ライアンは一度も口を挟まずに真面目な顔をして聞いてくれていた。僕の話が終わると、額をぽりぽりと掻きながら、うぅん……と小さく唸った。信じ難い話に、さすがに混乱しているのだろう。額が赤くなる程強く掻き毟るのは、昔からライアンが考え事をしている時に決まって見せる仕草だ。子供の頃から毎日のように一緒にいる僕でさえも、めったに見る事はないが。ライアンは、その場の空気や直感だけで生きている野生児みたいな所があるので、あまり深く考えたりはしないそうだ。
 つい先程目の前で起きたこともあり、ライアンは疑うこともなく、予想していたよりも更にすんなりと信じてくれたようだ。額から指を離すと、僕のほうを見てこう言った。
「その話、お前じゃなかったら笑い飛ばしてる所だけど……、信じるよ。実際に、この目で見ちまったしなぁ……。こんなことってあるんだな。ヴァンパイアか……」
 まだどこか硬い表情をしているが、ライアンは瞳の奥をキラリと輝かせた。そして、映画のようでカッコいいと騒ぎだした。段々とボリュームの上がっていく彼の声を、静めようと僕が口を開いた瞬間、彼は突然静かに呟いた。
「でもあれだな、やっぱり怖ぇもんだな。あんまり騒いで目つけられねぇようにするよ、俺。あんな目で睨まれたら、さすがの俺だってちょっとな……」
なるほど、わざわざウィルフレッドが姿を見せたのはこのためかと納得せざるを得なかった。それでもライアンは、興奮気味にウィルフレッドについて僕に質問をしてきた。ヴァンパイアがこの世に存在するなんて、他に誰がこんな話を簡単に信じてくれるだろか。
 ライアンは、今まで一度だって僕の話を疑った例がない。施設にいた時、備品が壊れていたり、物が無くなったりする度にレーガンさんは何故か僕を犯人扱いした。いつまでもメソメソして、ライアンにしか心を開かなかった僕のことが単純に気に入らなかったのだろう。やってもいないことで怒られるのは、泣き虫だった僕でも納得のいく話ではない。否定して歯向かえば歯向かうほど、レーガンさんの怒りは増した。そんな時も、いつだってライアンだけは僕の味方でいてくれた。僕の前に立ち塞がって、なんでトレヴァーを信じないんだ、と怒鳴ってくれることも多かった。しかもライアンは、その後決まって真犯人を見つけ出していた。真犯人を引き摺るように僕とレーガンさんの前に連れてきて、二人ともトレヴァーに謝れ、と普段のライアンからは想像もつかないような怖い顔で迫っていたのを覚えている。自分もヴァンパイアになりたいなどと口走り、よくわからないポーズを決めている親友の姿を見ながら、僕は暖かい気持ちになっていた。
 短い昼休憩が終わると、僕たちはノロノロと持ち場へと戻った。昨夜一睡もしていない僕は、既に限界を感じていた。工場の単純作業というのも、なかなか疲れるものだ。
「おい、主任に具合が悪いから早退したいと言ったらどうだ」
ライアンは、紙コップに入ったコーヒーを飲み干して、僕にそう言った。
「いや、大丈夫だよ。なに、あと四時間くらいどうってことないさ」
 本音を言うと、今すぐにでも帰ってベッドへ潜り込みたかった。しかし、僕の心は今までに無いくらい晴れやかだ。四歳で大好きだった両親を失ってから、僕は天涯孤独だと思っていた。もちろんライアンのことは実の兄のように思っているし、彼もまた僕のことを大切に思ってくれているのは感じている。それでも、やはり幼い頃に両親から与えられた愛情を、僕は無意識に追い求めていたのだろう。心にぽっかりと空いてしまった穴を埋める何かを、ずっと探していた。それを僕は、ウィルフレッドの冷たさを帯びた瞳の中に間違いなく見つけたのだ。まるで父親のような、暖かな愛情。もし、あの時事故に巻き込まれなければ、僕も父さんと同じ様にウィルフレッドと過ごしたのだろうか。僕と両親とウィルフレッド、そしてライアン。一度だけでもいい、五人で笑いあうことができたなら、どれだけ幸せだろうか。来るはずのない未来を空想するのは、僕の得意技だ。僕の空想では、度々両親とライアンが同時に登場する。両親が生きていたら、ライアンに出会うことはなかったのだと思うと、何とも言えない気持ちになる。人の縁とは、実に不思議なものだ。
 午後の仕事は、本当にきつかった。眠さが邪魔をして立っているのもやっとなほどで、主任がいつまた怒鳴りに来るかとライアンは気が気ではなかったようだ。
 終業の鐘が鳴り響くと、僕はすぐに手元の作業台を片付けてそそくさと帰りの支度をした。ライアンは笑いながら僕の隣へ来て、並んでロッカーへと歩いて行った。
「さぁ、やっとお勤め終了だな。どうする? 飯でも食って帰るか?」
ロッカールームでタバコを咥えながらライアンが僕に問いかけた。
「いやぁ、もう僕は目を開けているのも大変なんだ。今日はまっすぐ帰るよ」
僕はぶ厚いコートに袖を通しながら答えた。ライアンは、確かにそうだなと言う様に肩をすくめた。ロッカーの扉を力任せに閉めると、僕は出口へと歩き出した。ライアンも後ろから着いてきている。ライアンは最近、暗い緑色のニット帽を被っている。防寒のためだろうが、そのセンスはいかがなものかと僕は思いながらも、口にはださなかった。今は、ライアンと喧嘩をする体力は残されていない。
 工場の出口でライアンと別れ、僕は家へと向かって歩き出した。
 工場の中とは違い、外では冷たい空気が少しだけ眠気を楽にしてくれた。だらだらと足を引きずるように歩きながら、工場と家の間にある小さな教会の前を通っていく。
 僕は信仰深いわけではないし、神様とやらも信じてはいない。もっとも今なら、その存在すら完全に否定することはできないが。少なくとも、皆が思っているような神様など実在しないはずだ。信じる者しか救わないなんて、それのどこが神だと言うのか。と言うより、信じていたって救われる事のほうが少ないのではないかとすら思っている。
 施設にいた頃は、毎朝祈りを捧げなくてはならなかった。初めのほうこそ、真面目に祈りを捧げていた。いつか両親が迎えに来て、この地獄のような日々から抜け出せるように、と。しかしそんな奇跡が起こるはずもなく、自分の力で抜け出さなくてはならないのだと思い知るまでにそう時間はかからなかった。
 人生というものは、実に不公平だ。しかし、努力をして少しでも良い生活を手に入れることは誰にも可能だ。神に祈ったり、置かれた環境を嘆いたりする暇があるなら、努力をした方がよっぽど幸福への近道だ。
ライアンも僕と同じ考えだが、努力をするならもっと前向きに人と関わりを持つようにしろ、とよく忠告を受ける。僕は人と関わるのが苦手で、ライアン以外の人とはあまり話さないからだ。ライアンの言うことはよくわかるが、人と深く付き合うことで、いつかその関係が壊れてしまうことや、失うことを心のどこかで恐れているのかもしれない。そのせいか、女性との付き合いも長続きした例しがない。
 物思いにふけりながら、教会の上にそびえる大きな白い十字架を見上げた。こぢんまりとした教会には、不釣合いなほど立派な十字架が堂々と僕を見下ろしている。ヴァンパイアが十字架に弱いというのが、ただの伝説なのはよくわかった。だが、ウィルフレッドが十字架のネックレスを肌身離さずに着けているのは、何か理由があるのだろうか。彼の部屋に置かれた高級品揃いの装飾品たちや、彼が身につけている服などとは違い、あのネックレスだけはそう高いものには見えないのも気になる。彼はその見た目とは裏腹に、意外とお茶目な所があるみたいだし、もしかしたらただの皮肉かもしれないな。そう思うと、何だかおかしくて僕は一人で笑ってしまった。十字架のネックレスのことは、今度直接聞いてみることにしよう。とにかく今は、体を横にして眠ってしまいたい。
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 目覚まし時計の不愉快な音で、快適だった夢の世界から目を覚ました。小さな時計を、恨みを込めるかのように叩きつけて、鳴り響いていた金属音を止めた。暖かくて心地よい眠りから無理やり引き戻されたのだから、時計を恨むのも仕方のない事だろう。こんなに小さな時計から、何故あんなにも不快で大きな音が出るのかと不思議に思うくらいだ。
 叩きつけた手でそのまま時計を持ち上げて、時間を確認する。時間は朝の六時。普段僕が目を覚ます時間よりも一時間以上も早い。この時間に時計が騒いだのは、壊れているわけでもなくて、もちろんこの僕が昨夜眠る前にそう設定したからだ。毎年、この日だけは早起きをして、ある場所へ向かうのが僕の日課だからだ。
 冷たい水がお湯に変わるのを待つ間も、足元から全身が冷えていくようだった。顔を洗い、歯磨きをしている間にやかんに火をかけて窓を開けた。冷たい空気が流れ込んできたが、今日は珍しく陽がさしていた。明るく、ほのかに暖かい日差しを浴びながら、僕はただ外を眺めていた。
 紅茶を片手にソファへ座りこんだ僕は、昨日着ていた上着のポケットから財布を取り出した。折りたたみ式の、安い偽物の革で出来た財布を開くと、古びた一枚の写真が目に留まる。幼い僕と、両親が写ったものだ。この写真がいつ撮られたものなのか、僕は知らない。両親に挟まれ、笑顔でカメラへ両手を伸ばしている幼い自分の姿は、まだ一歳か二歳程に見える。子供もいないし、あまり小さな子と接するのは得意ではない僕だから、写真だけで子供の年齢を当てるのはもはや不可能に近い。ぺたりと座りこんでいる写真の中の僕が、既に歩けていたのかどうかもわからないくらいだ。
 この写真は、僕が施設で六歳の誕生日を迎えた時にレーガンさんから渡された物だ。僕が施設に入居した時に祖父母から預かった物らしいが、幼かった僕がきちんと保管できるとは思えなかったから、と二年ほど彼が所持していたらしい。いくら子供だからって、二度と会えない両親の写真を無くしてしまうようなことなんてあるものか、と当時は思ったが、施設に入ったばかりの頃の僕は誰とも口をきかず、毎日一人で泣いてばかりだった。そんな僕に、家族の写真を渡せば余計に立ち直れなくなるとも考えたのかも知れない。そう思えば、すぐに写真を僕に渡さなかった彼を責めることはできない。
 財布をポケットに乱雑につっこんで、熱い紅茶を飲みほした。そこでソファから立ち上がり、手に持ったままだった上着に袖を通す。腕時計をはめながら時間を確認すると、六時半を少し回った所だった。時間は充分にある。鏡で身なりを確かめることもせずに、僕は静かに家を出た。
アパートの脇にある自転車置き場へ向かう途中、ジェニーさんと顔を合わせた。晴れた朝は、散歩をするのが好きなのだと以前聞いた事がある。きっと今朝も暖かい陽を浴びて散歩を楽しんでいたのだろう。彼女は僕に気付くと、優しい笑顔を浮かべて挨拶をしてくれた。
「おはよう、トレヴァー。怪我の具合はどう? あの後、きちんと病院へ行ったのかしら」
彼女の前に立って、手で自分の頭を撫でるような仕草をして見せた。病院へ行っていないことくらい、彼女はわかっているような口調だった。
「おはようございます。もう良くなりました、ありがとうございます。病院は必要ないですよ。これ以上、僕の頭が悪くなることもないと思うし……」
顔をしかめてそう言うと、彼女は楽しそうに、それでも上品に声をあげて笑った。その軽やかな笑い声に思わず、つられて僕も笑ってしまう。
「まぁ、トレヴァーったら。それでも、無茶はしたら駄目よ。それにしても、今朝は随分と早いのね。もう仕事へ行くの?」
どうやら、僕はすぐに無茶をするタイプだと皆に思われているようだ。ライアンやウィルフレッドと同じような事を、ジェニーさんにまで言われるなんて。
「ライアンにも、そう言って叱られました。無茶はしないって約束させられたんで、もう心配いらないですよ。今朝は、ちょっと用事があって……」
要件を濁した僕の顔をじっと見つめたジェニーさんは、いつもの優しい笑顔に戻ると、良い一日をね、と告げてアパートへと戻っていった。
 自転車置き場の、奥の方へと追いやられた自転車を引っ張りだすのに少々時間を取られてしまった。一年の内に数えるほどしか乗らないので、たまに乗る時はいつも苦労させられるのだ。少し埃っぽいハンドルを軽く手ではたいて、僕は自転車へまたがった。
自転車に乗るのは好きだ。周囲の景色をぐんぐんと追い越して、風にでもなったようで気分がいい。ハンドルを握る両手が悴むようで、上着の袖を無理やり伸ばして手を覆っていた。そのせいで袖が引っ張られて、腕がきちんと伸ばせなかったが寒いよりは大分マシだった。
 顔に冷たい空気を浴びながら二十分ほど自転車を飛ばし、僕は目的地に到着した。敷地内まで自転車で入り込み、大きな木の横に自転車を止めた。ハンドルにぶら下げているのは、途中で購入した小さな花束だ。それを手にとって、僕は小さな石の前へ向かい、しゃがみ込んだ。
 その石には、僕の両親の名前が刻まれている。名前の下に刻まれているのは、二人の誕生日と今日の日付だ。今日は、二人の命日だ。つまり、僕たちが事故に遭った日だ。袋から花束を取り出して、墓石の前へと手向ける。僕は、顔に笑みを浮かべていた。なぜなら、そこにはもう一つ、花束が飾られていたからだ。僕が持ってきた物よりもずっと立派で、とても綺麗だ。
「ウィルフレッドが来たんだね」
姿の見えない両親に語りかけるように、小さな声で呟いた。ロンドン生まれではない両親は、仕事上や近所の人々との関わりしかなかったようで、死から十年以上も経った今では、お墓参りに来る友人や知人はいなくなっていた。そのため、この花を持ってきたのがウィルフレッドだと言うことは簡単に想像がついた。
 しばらくそこで、僕は両親へ話しかけていた。もちろん返事など聞こえてはこないが、二人はきっと聞いてくれているはずだ。二人がここへ埋葬されてから、僕はそう信じていた。辛い事や悲しい事があれば、必ずここへ来て話を聞いてもらっていた。そしてそんな時は必ず、ライアンが迎えに来てくれていた。息を切らして、ぜぇぜぇと肩をはずませながら、彼は決まってこう言った。「近くまで来たから、寄ってみたんだ。偶然だな」この言葉が嘘である事は、鈍感な僕ですら分かっていた。遅くなっても施設に戻らない僕を心配して、街中を駆け回っていたのだろう。両親も、ライアンには感謝しているはずだ。
「また来るからね」
そろそろ、仕事へ行かなくてはならない時間だ。重い腰を上げて、僕は両親の元を後にした。坂道をスピードに乗って下りながら、いろんな事を考えていた。僕は、両親の事をほとんど知らない。彼等は、何故地元で埋葬されなかったのだろう。地元に埋葬されていれば、学生時代からの友人などが来てくれる事もあるかも知れないのに……。
頭に浮かぶ疑問符に意識を集中させすぎていたようで、誰かが僕の名を呼ぶまで、僕は全くと言って良いほど前を見ていなかった。と、言うかどこも見ていなかったのだ。完全に自分の思考の中に飲み込まれていた。
 突然の衝撃に、僕は思わず声を漏らした。何か大きな力で抑えつけられたような、そんな感覚だった。そして息をつく間もなく、僕の目の前を大きなトラックが猛スピードで駆け抜けていった。自転車の前輪とトラックの車体は、まさに目と鼻の先、と言った具合だった。ゆっくりと右側へと顔を傾けると、冷たい青い光が飛び込んできた。
「あ、えっと……」
 思わず口ごもる僕を掴んだまま、彼は冷たく光る瞳に力を込めた。左手で僕の上着の襟を掴んで、右手で自転車ごと僕を受け止めている。彼がいなければ、さっき通り過ぎたトラックに撥ね飛ばされていたであろう事は明らかだった。怒ったような瞳をしている彼は、大きな溜息をついて僕から両手を離した。
「おはよう……」
 自転車にまたがる僕を見下ろしたまま何も言わない彼に、とりあえず挨拶をしてみる事にした。他に、何と言えばいいのかわからなかったからだ。もちろん、彼が挨拶を返してくるなどとは思ってもいない。申し訳なさそうな顔で彼を見つめる僕に、彼はもう一度小さく溜息をついた。
「お前は何が何でも、俺にブラッドとの約束を破らせたくて仕方ないようだな」
 怒っていると言うよりも、呆れた口調だった。何も言い返せず黙って前をみた僕に、彼は続けて声をかけてきた。
「考え事をするのは家にいる時だけにしてくれないか。お前は昔から、周りが見えなくなるほど考え込む癖がある。俺の仕事を増やさないでもらえると助かる」
 先ほどよりも、少しだけ優しさを含んだ口調だった。見上げてみると、もう怒ったような表情はしておらず、どこか優しげで暖かい瞳をしていた。この瞳を、僕は懐かしく思った。あの夜路地で、初めて彼に助けられた時と同じように。きっと、まだ両親が生きていた頃、彼はこんな風に僕を見ていたのだろう、と何となくそう感じた。彼の部屋に飾ってあった写真には、優しそうな雰囲気を纏った彼が写っていたからだ。
「うん、なるべくそうする。それより花を供えたの、あんただろ? 去年までは花なんてなかったから……」
 自転車から降りて、僕は両手で自転車を押しながらゆっくりと歩き出した。自転車を挟んだ隣では、僕の歩調に合わせるようにゆっくりと歩くウィルフレッドが並んでいる。僕の質問に、彼はあっさりと答えた。
「今までもずっと、花は手向けていた。お前が帰るのを待ってからな」
そう答えた彼を見ると、彼は僕を見ることもせずに口を開いた。
「気になっている事があるんだろ。答えてやるから、今の内に聞いておけ。また事故に遭いそうになった時、俺が近くにいるとも限らないぞ」
冷たい口調にも聞こえたが、口元は微かに歪んでおり笑いを堪えているようだった。
「笑えないよ、その冗談……。じゃあ聞くけど、父さん達のお墓、なんで二人の故郷じゃなくてロンドンなのかなって。二人は、生まれ育った地に帰りたかったんじゃないかな」
ウィルフレッドはちらりと横目で僕を見た。そしてすぐに前へ向き直ると、両手を高そうな革ジャンのポケットへと滑り込ませた。
「確かに、ここには二人の友人と呼べる者はいなかった。それでも、お前がここにいた。だから、俺がロンドンに埋葬させたんだ。いつでもお前が二人に会いに行けるように」
彼の言葉に、僕は思わず立ち止った。僕が止まったことに気付いたウィルフレッドも、歩みを止めて僕を見た。その顔を穴があくほど見つめる僕を、ただ何も言わずに見据えた。
「あんたが? でも、おじいちゃん達がみんなロンドンに来てただろ。そういう手配は、全部彼等がやったのかと……。って言うか、おじいちゃん達とも関わりがあったの? 僕、ほとんど会った記憶ないんだけど……」
僕が祖父母に会った記憶があるのは、一、二回だった。ロンドンに経つ前に会ったようなぼんやりとした記憶と、両親が亡くなってから施設に入れられた時に会ったくらいだ。それから一度たりとも、会った事も話した事もない。今も、どこに住んでいるのかも知らないくらいだ。ウィルフレッドは、僕の質問に首を振った。
「いや、直接会った事はない。ブラッドもアデラも、若いころから両親とは折り合いが悪くてな。お前を引き取ろうとすらしなかったんだ、想像はついていただろう。二人の結婚にも反対していたし、ずっと疎遠だった」
ますますわからない。それなら何故、ウィルフレッドが両親の埋葬について口出しが出来たのか。祖父母は知りもしないウィルフレッドの言うことに大人しく従ったのだろうか。質問しようとする僕を遮って、ウィルフレッドはニヤリと笑った。
「詳しい説明は、今度してやる」
 そして、また前を向いてすたすたと歩みを速めた。まるで、僕の歩くスピードに合わせるのに疲れた、と言わんばかりに。小走りで彼を追いかけて、再び横に並んだ僕は、別の事を聞いてみることにした。
「よくわかんないけど、今度説明して貰うよ。それとさ、もうひとつ聞きたい事があるんだけど」
 横目で僕を見る彼を覗き込むようにしながら、片手を自転車から離してポケットから財布を取り出した。財布を開いて彼に見せるように腕を伸ばすと、ウィルフレッドは僕の手から財布を受け取った。ついさっきまで、確かに両手はポケットに入っていたのに……。
 写真を見たウィルフレッドは、一瞬とても優しい笑みを浮かべた。しかしすぐに顔には悲しみが浮かび、瞳を曇らせてしまった。
「僕が持ってる、数少ない家族写真なんだ。いつ撮った写真なのか、それがどこなのかもわからないけど。あんたなら、もしかして知ってるんじゃないかと思って」
何とも言えない表情で写真を見つめる彼は、小さな声で答えた。
「知ってるも何も、この写真を撮ったのは俺だよ。二人は俺にも写るように誘ってくれたが、俺はどうも……写真が苦手なんだ。それで、代わりに撮ったやったんだ。産れて初めて、俺が撮った写真だよ。ロンドンに来る前、俺が住んでいた家で撮った写真だ」
そう言いながら写真を見つめるウィルフレッドは、とても自然に優しく笑っていた。その表情と写真に写る幼い僕を見て、点でしかなかった記憶が線で繋がったような気がした。十年以上、モヤモヤと頭の中に充満していた霧が突然晴れたようで、僕は興奮気味に声をあげた。嬉しくて、堪らなかったのだ。
「そうか……ルドルフじゃない。あの青い目は、あんただったんだ。僕、ずっとあんたの事知ってたんだ。そうだろ? その写真も、僕が両手を伸ばしてる理由がやっとわかった。あんたに手を伸ばしてるんだ」
写真を見つめていたウィルフレッドは、僕を見て小さく微笑んだ。そして右側の口角を釣り上げて、意地の悪い笑顔で僕を見つめた。
「本当に、いつも僕の傍にいたんだな。僕はあんたが…………」
 伝えようとした言葉は、喉の奥でつっかえてじんわりと僕の心を温めた。
 僕の方を見ていたウィルフレッドは、ふいに険しい顔をして目を逸らした。そしてもう一度僕を横目で見ると、片方の眉毛を上げてこう言った。
「時間切れだ」
意味がわからない、と反論しようとした時、彼は指をぴんと伸ばして少し先を指差した。長い指を辿った先で僕の目にとまったのは、車道を挟んで向かいに佇むライアンだった。向こうも僕達に気付いているようで、立ち止ってこっちを見ている。ライアンから目を離して隣に立つウィルフレッドを見ると、何か言いたげな瞳を隠すかのように無表情だった。
「前を見て歩けよ」
そう言って彼は目線をライアンへと動かし、僕に彼の所へ行けと無言で伝えた。
「今度、ちゃんと説明してくれよな。全部だぞ」
そう言う僕に、彼は少しきつい目をしたが小さく頷いてくれた。僕ももう一度頷いて、彼に背を向けてライアンへと駆け寄った。道を渡りきって、ライアンの横に並んだ僕はウィルフレッドの方を振り返った。流れる車やバスの隙間から彼も僕を見ていたが、一瞬の間にその姿は見えなくなった。

「珍しいな、自転車なんて」
ライアンは、僕の姿を見てそう呟いた。まだ眠そうな顔をしている。
「うん。父さん達の所へ行ってたから。そこで、たまたまウィルフレッドに会ったんだ」
 もう少しでトラックに轢かれそうだった事は、わざわざ報告する必要もないだろう。目をこすっているライアンには調度いい目覚ましになるかも知れないが、また怒られるのは勘弁願いたかった。
「あぁ、そうか。今日って……」
僕を気遣うような表情をしたライアンに、僕は笑って見せた。
「うん。こんな寒い時期にピクニックに出かけた僕の両親って、ちょっとおかしいよな」
ライアンも少し笑って頷いた。
「そうだな、ちょっとな。でもよ、晴れた日に家族でピクニックなんて、いい両親じゃねぇか。俺、何かそんなの憧れるぜ」
 ライアンの言葉は、心からの物だった。僕は幼くして優しかった両親と別れてしまったが、確かに彼等の優しさや愛情は記憶に刻まれている。僕達が施設で出会う前、彼がどんな生活をしていたのか、僕は知らない。それでも、ライアンには優しい家族がいた思い出なんてないのだろうという事だけは知っていた。
「そうだね。僕は、恵まれてたと思うよ」
そう言った僕に、ライアンは歯を覗かせて笑いかけた。

 仕事中は、いつものように物思いにふけっていた。朝、僕がウィルフレッドに言いかけた言葉。それは、僕はあんたが大好きだった、そんな言葉だった。口に出すのが恥ずかしくて、飲み込んでしまったが。
 彼に路地で助けられた翌日、彼の部屋で感じた親しみも当然の物だったと今ならわかる。
 施設に入ったその日の夜も、僕はずっと泣いていた。いつの間にか泣き疲れて眠ってしまっていた僕は、夜中に目を覚ました。その時、僕は暗闇に輝く青い瞳を見た。そしてその胸元に潜り込み、縋りつくように泣いたのだ。青い瞳の持ち主は、僕を優しく抱き締めてくれていた。再び気がついた時にはもう朝で、僕はルドルフを抱いていた。ずっと夢だと思っていた。産れて初めて感じる不安から、そんな夢を見たのだろうと。でもそれは、夢ではなかったのかもしれない、僕は幼いころから彼に懐いていたし、優しい彼が大好きだったのだろう。記憶の中に浮かぶ、優しい青い瞳は、今でも僕の傍で輝いている。&#8195;
 ボーっと考え事をしているが頭は妙に冴えていて、今朝見ていた夢を色鮮やかに思い出していた。
 事故に遭ったあの日、僕の目を見ながら涙を浮かべる父さんの姿だ。父さんの声は、今でもはっきりと耳に残っている。
「トレヴァー、ごめんな。これでお別れだ。父さんも母さんも、ずっとお前を愛しているよ。永遠にね。大丈夫、トレヴァーは一人じゃない」
 痛みに耐えるように、途切れ途切れに父さんが遺した言葉達は、今でもはっきりと覚えている。あれ以来、寂しくて心が壊れてしまいそうになった時はいつもこの言葉を思い出しては励みにしてきた。
 そしてもう一人夢に出てくるのは、僕に目線を合わせてしゃがんでいるウィルフレッドだ。この夢を見るのは初めてではないが、これまでとはっきりと違う点は彼だった。今までは、彼の姿は黒く塗られた影でしかなかったが、今では美しく冷たい目をした彼の姿がはっきりと浮かぶ。そして、何かを言いたそうに口を開く。そこで目が覚めてしまい、彼が何を言おうとしたのかはわからないままだ。
 あの時、彼は一体何を伝えようとしたのだろう。彼の事だから、聞いても答えてはくれないかもしれない。それでも今日の仕事帰り、彼の家へ寄ってみることにしよう。他にも、彼に聞きたい事や話したい事は山ほどある。

 普段よりも一日を長く感じながら、単純で面白味のない作業を機械的に続ける。ライアンはこの仕事が気に入っているようで、相変わらず器用にテキパキと捌いている。
 この工場は、ライアンが十八歳で施設を出るときに決めた就職先だった。彼が施設を後にしてからの二年間、僕はライアンのアパートに寝泊りすることが多くなった。高校へ行ってとりあえず授業に出席だけすると、ライアンが仕事を終える時間までは適当にフラフラしていた。学校の友達とファストフード店などへ行くこともあったが、どうも彼らと話をするのは疲れてしまうので苦手だった。僕が施設育ちだからと言って色眼鏡で見てくるような輩はあまりいなかったが、彼らといる時の僕は、いつも自分を偽って無理やり彼らの話に合わせていた。面白くもない話で笑ったり、興味もない話に合図地をうったり……。
 これと言ってやりたいことも得意なこともなかった僕は、十八歳になると自然とこの工場の求人へ応募していた。ただ、ライアンがいたからという理由だけで決めた仕事だ。それに、学校の成績も悪かった僕に出来る仕事など限られている。スーツを着て、毎日会議をこなすような仕事は絶対に無理だ。かといって、きつい肉体労働なんてやりたくない。そんな僕には、ある意味丁度良い仕事ではあった。仕事内容や待遇に特に不満はないが、ライアンほどはこの仕事に向いていないのは事実だが。しかし工場勤務のいい所は、ほぼ毎日定時で帰れるところだ。そういった意味では、僕もこの仕事を気に入ってはいる。
 そんなことを考えながら、僕はいつものようにダラダラと一日の仕事を終えた。今日はこのままウィルフレッドの所へと行くつもりなので、工場を出てすぐの通りにあるテイクアウトレストランでラザニアを買って帰ることにした。

「ライアン、本当に一緒に来ないの?」
 白く広がる煙を眺めながら尋ねた僕に、ライアンが答える。
「あぁ、俺はいいよ。話したい事もたくさんあるんだろ。俺がいちゃ、お前もあいつも変に気を使うだろ」
そう言ったライアンは、タバコを咥えたまま子供の頃から変わらない笑顔を見せた。
「それにしてもお前、本当にここのラザニアが好きだな。好んで食べる変わり者は、世界中を探してもお前くらいだと思うぜ」
 人がせっかくライアンの優しさに感動していたのに、その余計な一言で台無しだ。
「なんでみんながここの料理を嫌うのか、僕にはわからないな」
僕はそう言い返すと、近くにあった灰皿へと短くなったタバコを押し付けた。調度出来上がった二人分の料理を受けとると、僕は店員へお礼を言った。ライアンの言葉が聞こえてなければいいが……。
「あの男が、そんなもんを食うとは思えねぇけどなぁ」
 ライアンは笑いながら、まだタバコを吸っている。いつもの帽子に、それよりも少しだけ明るい緑色のジャンパーを着ているライアンに、工場を出る前にそのセンスを指摘したことを根に持っているようで、やけに絡んでくる。彼に言わせると、ご自慢の緑の瞳に合わせたファッションだそうだ。言われてみれば、彼は昔からよく緑色の服を好んで着ていたように思う。そんなこだわりがあったなんて、今までまるで気がつかなかった。
 料理の入った紙袋から暖かさを感じながら、まだケラケラと笑っているライアンを黙らせるように一睨みして見せた。ライアンはおどけた様子で更に笑いながら、タバコを灰皿目掛けて指ではじいた。吸殻が見事に灰皿へと吸い込まれたのを見て、得意顔でガッツポーズをしている。
「まぁ、ゆっくり不味いラザニアを楽しめよ。じゃーな」
 これ以上僕の機嫌を損ねる前に帰ろうと思ったのか、彼は早口でそう言い、足早に立ち去った。緑色の後姿を見送ってから、袋を抱き締めるように抱えながら歩き出した。
 僕は、ウィルフレッドの食の好みをぼんやりと考えていた。このラザニアは、幼い頃に食べた母さんの作ってくれたラザニアを思い出させてくれる。週に一度はここでラザニアを買って食べているが、どうも僕以外の人には不評のようだ。ウィルフレッドは何て言うだろうか……。
 そんなことを考えているうちに、彼の部屋の前にいた。小さく二回ノックをすると、ゆっくりとドアが開きウィルフレッドの姿が見えた。少し長めの髪の毛を、顔にかからないよう後ろへ撫で付けるようにかきあげている。過去何度か見た彼の姿と同じ様に、今日も全身黒い服を着ている。服が黒いせいで、彼の青い瞳はよりいっそう光り輝いているかのように見えるのだろう。改めてその姿をよく見ると、真っ黒な服に青白い顔で、映画などに出てくるヴァンパイアのイメージそのものだ。一目見てすぐに、ヴァンパイアだと思い浮かばなかったのが不思議なくらいだ。下唇にかかるほど長い牙が生えていないのが残念だ。観察するようにじろじろと彼の姿を眺める僕を、眉間に皺を寄せて軽く睨んだ。
 彼の姿を見ながらボーっと立っていた僕を無言で招き入れると、ウィルフレッドは不快そうに鼻の頭に皺を寄せた。
「トレヴァー、お前が大事そうに抱えているそれを、まさか俺に食わせるつもりじゃないだろうな」
 彼は細長く骨ばった人差し指を、僕の胸元に抱えられた紙袋へ向けた。
「そのまさか、さ。ラザニアなんだから、食べるつもりに決まってるだろ。わざわざ、あんたの分まで買ってきてやったんだぞ。ライアンも誘ったんだけど、何か気を使ってくれたみたい。ゆっくり家族の話を聞いて来いってさ」
 聞いているのかどうかも分からないが、僕は一人で喋りながらガザガサと紙袋からラザニアを取り出す。ミートソースとチーズの焦げた匂いが僕の食欲を刺激した。ウィルフレッドを見ると、グラスに入った赤ワインを飲みながらソファの背もたれに軽く腰かけるように立っている。
「いいね、ワインか! さぁ、食べようよ。お腹すいて倒れそうだよ、僕」
ソファに座り込んで、両手を擦り合わせ彼に話しかける。諦めたようにため息をつくと、彼は大股でキッチンへ向かい、小さな冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。そしてまた大股でこちらへ戻り、僕の前へと座った。その手に握られたミネラルウォーターは、僕の方へ突き出されている。
「おいおい、冗談だろう? 極上のラザニアを買ってきた僕には、ワインを出すのが礼儀ってもんじゃないかな」
冗談めいた笑顔を作りながら彼を見つめるが、彼は体勢を崩さずに片方の眉をあげて僕を見ている。更に文句を言ってやろうと身を乗り出すと、彼は空いている方の手でそれを阻止した。
「お前が本当に極上の料理を持ってきたら、ワインを飲ませてやる。このワインはな、お前の全財産を投げうっても買えないくらいの代物だ。お前みたいなお子様にはまだ早いな。生憎うちにジュースはなくてね、水で我慢してくれ」
今にも笑いだしそうな表情でそう言った彼は、これ見よがしにワインを口に含んだ。
「なんだよ、ケチなヴァンパイアだな。それに、誰がなんて言おうとこれは極上のラザニアなんだ。食べてみてくれよ」
笑い出しそうだった表情を一変させた彼は、とても嫌そうな顔でラザニアを見つめた。紙袋の中に入っていたプラスチックのフォークを彼に手渡すと、嫌そうな顔でそれに手を伸ばした。そしてラザニアに恐る恐る手をつけ、ゆっくりと口へと運ぶ。僕は身を乗り出してその反応を待った。彼は更にゆっくりと飲み込むと、一口ワインをすすり咳払いをした。
「お前の味覚がおかしいのは……そうだな、アデラのせいかな」
おかしくて仕方がない、と言うように彼は笑いを噛み殺している。彼は本当に表情がころころと変わる。アデラと言うのは僕の母さんの名前だ。
「アデラは、とても個性的な料理を作る達人でね。俺は彼女の夕食の誘いをどう切り抜けるか、いつも悩まされたよ」
ラザニアを見つめながら、彼は美味しそうにワインを飲んでいる。
「うぅん……僕には、すごく美味しいラザニアなんだけどな……。なぁ、それってつまり、母さんは料理が下手くそだったってこと?」
ラザニアを口一杯に頬張りながら聞いてみた。まさか母さんの料理が美味しくなかったなんて、考えたこともなかった。
「仮にそうだとしても、お前には極上だったろうよ」
ウィルフレッドは、ソファの背もたれに寄りかかってワイングラスを回している。なんだか、テレビのコマーシャルさながらの絵だ。フォークはラザニアにかかっていたアルミホイルの上に無造作に投げ出されている。二口目を食べる気は更々ないようだ。
「そう言えばさ、あんた前に、ヴァンパイアは人間ほど頻繁に食事をしないと言っただろ? どれくらい食べなくても大丈夫なの」
大きなフォークでラザニアをすくいながら彼に聞いてみた。
「さぁ……。意識して数えたことはないな。五日位なら、何も食べなくても問題はない」
ガツガツと食べる僕をボーっと見つめながら彼は答えた。あれだけの強さを誇るヴァンパイアが、五日も何も食べなくても大丈夫だなんて……。やはり彼らの主なエネルギー源は、人間の血なのだろう。殺すことはないとは言え、人々がヴァンパイアを恐れるのも無理はない。彼は穏やかに微笑んでいる時でさえも、どこか近寄りがたい空気を醸し出している。恐らく、人間の奥深くに眠っている本能が、彼に近づくなと警報を鳴らすのだろう。
人間にとってヴァンパイアは、一番の天敵なのかもしれない。彼らの主食は、僕たち人間というだけでなく、抵抗する術すらないほど、圧倒的に強いのだから。
 なんとなく、部屋の周りを見渡してみた。とても綺麗に片付いていて、ほこり一つ落ちていない。彼が自分で掃除機をかけたり、雑巾がけをしたりするのだろうか……。そんな姿まるで想像できない。と、いうよりも彼が僕たちと同じ様な生活を送っている姿すら、想像することができない。想像力に関しては、人一倍の自信があるのに……。
「ねぇ、あんたは仕事をしているわけじゃないだろ? なのに、なんだってこんなにいい暮らしをしてるんだよ。まさか、何か悪いことでもしてるんじゃないだろうな」
 夢中でラザニアを口に入れながら、初めてここを訪れたときからの疑問を問いただしてみた。ミネラルウォーターを流し込み、口いっぱいに入ったラザニアの熱を冷ます。
「話すか食べるか、どちらかにしろ。熊の方がよっぽど上品に食事をするぞ」
ウィルフレッドは、自分の分のラザニアを僕の方へ押しやりながら呆れたように言った。僕の分のラザニアがなくなっていることに気が付いたようだ。このラザニアはウィルフレッドの口にも合わなかったようだ。差し出されたラザニアを引き寄せ、また口へと押し込む。うん、やっぱりすごく美味しい。
「金には困らないんだよ、俺は。何も法に触れるようなことはしていないさ。そんな法は、この世に存在しないからな」
ニヤリと笑った彼は、空になったグラスへワインをそそいでいる。ワインボトルをテーブルに置き、真面目な顔で僕を見つめた。何かを考えているような表情だ。そして、あの時と同じように軽く口を開いたが、何も言わずに窓の向こうへと視線を変えた。
「そんな法は存在しないって?」
 彼の意味深な発言に興味を惹かれて、僕は初めて食べる手を休めて顔を上げた。彼は窓の外をうつろげに見つめながら、何かを考えているように見える。答えてくれる気はあるのだろうか……。僕はそんな彼の姿を、ただじっと見ていた。
 すると、突然彼の目が僕を捕らえた。いつものように、意地悪そうに右側の口角を上げて笑っている。しかし、口を開くような素振りも無く、ただ僕の目を見ている。数分前の僕の質問に、答えてくれるつもりはないようだ。彼が、ゆっくりと瞬きをした。
 気がつくと、僕の目の前にあったはずのラザニアは、ウィルフレッドの前へと移動していた。彼は動いていなかったし、もちろん僕は何もしていない。ラザニアとウィルフレッドを、僕の視線が交互に彷徨う。意味がわからなくて、言葉にもならないような声を出して混乱していた。そんな僕の様子を見て、ウィルフレッドは声をあげて笑っている。今まで見せた中で、一番の大笑いだ。いつも彼の表情にこびりついている冷たい影は、その笑顔の中には存在していなかった。
「ラザニアは、お前が自分で俺に差し出したんだ。俺が取ったわけじゃないぞ」
そう言いながら彼は、僕のほうへとラザニアの入った器を滑らせた。相変わらず、とても楽しそうに笑っている。
「僕が……? あんた、僕に何をしたんだよ。不気味なヴァンパイアパワーを使うのはよしてくれ」
笑われている恥ずかしさと、全く理解のできない状況に少しイラついて、ぶっきらぼうに答えた。ウィルフレッドは、驚くことにまだ笑っている。ワイングラスを持ったままの手を膝に置き、前かがみになって僕を見ている。
「いい加減説明してくれてもいいだろ。あんた、ちょっと情緒不安定だぞ」
僕のふて腐れた文句を聞いて、彼は無理やり笑いを飲み込んだ。そして何度か咳払いをしてから、話し始めた。
「さっきのお前の様子を見れば、どんな奴だって笑うさ。お前、芸をする猿にそっくりだったぞ」
押し殺した笑いが、再度込み上げてきたのか、彼はまだ少し笑っている。
「はいはい、あんたを楽しませることができて光栄ですよ」
僕はわざと、威嚇をする猿のような声を出して、歯をむき出しにして見せた。それを見たウィルフレッドは、笑いながらワインを飲んでいる。しかしワインを飲み終える頃には、少し微笑んではいるが、その表情はいつもの冷たさを取り戻してしまっていた。
 僕は、彼の表情が戻ってしまったことを悲しく感じていた。ウィルフレッドには、さっきのように笑っていて欲しいと、どこかで望んでいることに気がついた。きっとそれは、早くに旅立った僕の両親も望むことに違いない。僕がいつものように、空想にふけりかけたその時、ウィルフレッドが口を開いた。
「前に、俺らには催眠術に近い能力があると言ったな。それを使ったんだよ。世の中には、とんでもない悪事を働いて大金を巻き上げている人間が結構いるんだ。そいつらから、今みたいに自ら進んで寄付してもらうというわけだ。相手も悪人だ、何の遠慮もないだろう」
低い声でそう言うと、彼は悪魔のような表情で笑って見せた。その表情に、一瞬鳥肌が立ったが、相手が悪人ならば僕も特に責めるつもりもない。
「催眠術、か。便利なもんだね」
能天気な僕の発言に、ウィルフレッドは一瞬顔をしかめた。そして、僕はこの前彼が教えてくれなかった事の答えに辿りついた。
「そうか、だからか。おじいちゃん達にも、催眠術を使ったんだな。だから父さん達はロンドンにいるんだ」
 ウィルフレッドは満足そうな、不敵な笑みを浮かべた。その表情が、僕の推測が当たっていると言っている。不思議な雰囲気を纏う彼を、僕はただ眺めていた。彼の放つ異様な程に人を寄せ付けないオーラは、彼がヴァンパイアだからなのか、それとも彼が<彼>であるからなのか……。
「ねぇ……ヴァンパイアになる時って、どんな感じ? つまり、噛まれた時って……」
 少し冷めてしまったラザニアをちまちま食べながら、僕は彼にずっと聞きたかったことを質問した。噛まれたらすぐに、ヴァンパイアとして目覚めるのだろうか?
 彼はワイングラスを見つめたまま、また黙り込んだ。僕は彼から目を逸らさずに、食事を続けていた。彼が話し出すまでの間に、僕は二皿目のラザニアを食べ終えてしまっていた。水をグビグビと飲みながら、彼の言葉を待っている。
 彼は静かにグラスを置くと、ゆっくりと語り出した。
「噛まれた所から、自分の体内を流れる血が凍っていくような感覚だ。とても冷たく、硬直して動くことすらできない。やがて心臓の動きが鈍く、遅くなっていくのがわかる。痛みはないが、筋肉まで凍り付いていくようで、酷く体力を消耗する。そのまま……二日ほど耐えていた。そして徐々に身体が軽く、溶けていくように動かせるようになる」
 噛まれたことで、人間がヴァンパイアになるということは、何か毒のような成分に感染するといった感じなのだろうか……。それなら、一番初めにこの世に誕生したヴァンパイアは、誰に噛まれたのだろうか? もともとヴァンパイアとして産まれた者もいるということだろうか? 今までは、ヴァンパイアというよりもウィルフレッドに対する質問が多かったが、ヴァンパイアの催眠術を目の当たりにして、僕の好奇心が大きく膨れ上がった。
「あんたを噛んだヴァンパイアも、他のヴァンパイアに噛まれたってこと?」
テーブルにひじをついて、大きく前に身を乗り出しながら話し掛けた。
「直接聞いた事は無いが、そうじゃないのか」
彼は一瞬嫌そうな顔をしたが、すぐに無表情になりそっけなく答えた。どうもウィルフレッドは、彼をヴァンパイアに変えた者のことをよく思っていないようだ。
「じゃあ、最初にヴァンパイアになった人は? 誰に噛まれたの? 産まれつきのヴァンパイアっているの?」
僕は早口で、更に身を乗り出しながら次々に質問をした。ウィルフレッドは顔を天井に向けるような姿勢で、背もたれに寄りかかっていて聞いている。いや、もしかしたら聞いていないのかも……。
「知るか、そんなこと」
ウィルフレッドは体勢を変えることもなく、とても面倒くさそうに呟いた。思った通り、ほとんど聞いていなかったようだ。
「おかしな奴だな。普通、気にならない? 自分のルーツじゃないか」
 僕の一言に、彼は身体を起こして僕を見つめた。睨むような、鋭い目をしている。怒っているのだろうか……。
「俺は好きでこの生き方を選んだわけじゃない。ルーツというのは、自分の人生の起源とやらを知ることだろう。俺の人生は、あいつに噛まれた時に終わったんだ」
いつものように低い声でそう言うと、彼はまた窓の外へと視線を移してしまった。その瞳には、怒りというよりも悲しみや寂しさが浮かんでいるように見えた。その横顔を見ていると、なんだか僕まで悲しくなってきてしまった。
「あんた、家族はいないの?」
少し間をおいてから、小さな声で彼に聞いてみた。彼は視線を少し下に落として、黙り込んでいる。
「死んだよ」
 どうにか僕の耳に届くくらいの、消えてしまいそうな声で囁いた。瞳には、先程よりも深い悲しみが渦巻いている。
「それは、そうだろうけど……。結婚とか、してなかったの?」
彼はゆっくりと僕へと視線を向けた。悲しそうだが、優しい目をしている。
「俺が人間ではなくなったその日から、家族にはあっていない」
彼が結婚していたのかどうかは答えてくれなかったが、ヴァンパイアに変わった時には家族がいたようだ。どうして、会わなくなってしまったのだろうか……。彼は相変わらず悲しみと優しさを含んだ目で、僕を見ている。
「それは、あんたがヴァンパイアになったから、会うのをやめたってこと? 家族を守るために?」
 彼は何も言わなかったが、僕を見たまま小さく頷いた。今なら彼に噛み付いたヴァンパイアのことを、なぜそこまで憎んでいるのかが痛いほどわかる。ウィルフレッドは何もかもを奪われ、突然ヴァンパイアにされたのだ。どれほどの孤独と苦しみを抱えながら、永遠の命を持て余しているのだろうか。友人だった父さんも若くしてこの世を去り、彼はまた一人になってしまった。僕を見守り続け、実際に二度も命を救ってくれた彼に、僕ができることは何も無い。
 彼の視線から、悲しみが伝わってくるようで涙がこぼれそうになった。それを隠すように下を向いて、手元に置いてあった水を一気に飲み干した。
「なんでお前が泣くんだ」
ウィルフレッドは、笑いながら僕を見ている。眉尻を下げて、小さく首を振りながら呆れたように。
「何言ってんだよ。泣いてるわけないだろ」
できる限り目に力を込めて、ウィルフレッドを睨みつけてみた。それでも彼は、相変わらず微かに笑っている。
「どうかな。お前は、昔からすぐ泣くからな」
まるで、父親のような口調で彼が言った。照れ隠しにもう一度睨んでみると、彼は少し微笑んでから窓の外へと視線を泳がせた。
 しばらくそのまま、黙って座っていた。するとふいに、ウィルフレッドが鋭い声で僕に話し掛けた。
「もう帰るんだ」
 そんな……まだ聞きたいことや、話したいことが山ほどある。
「何だよ、急に」
 僕は抵抗しようとしたが、彼が窓から僕へと戻した視線に、何も言えなくなってしまった。また、あの冷たい目をしている。ついさっきまで、楽しそうに笑っていたのに……。
 この目をされたら、反抗できるような人間は世界中どこを捜してもいないだろう。僕は、これ以上抵抗するのを仕方なく諦め、そのまま何も言わずにゆっくりと席を立ち、玄関へと歩き出した。玄関のドアを開けて振り返ると、ウィルフレッドはソファに座ったまま僕に背を向けている。小さな声で、じゃあなとだけ言い、僕は彼の部屋を後にした。彼からの返事は聞こえなかった。
 冷たい空気の中、僕はゆっくりと歩きながらウィルフレッドについて考えを巡らせていた。彼は、笑ったかと思えば、次の瞬間にはまた冷たく突き放すような態度をとる。まるで、笑ってしまったことを後悔するかのように表情を冷たく凍りつかせるのだ。僕にはそれが理解できずにいた。ただの気分屋ではなく、何か理由があるような気がしてならない。彼は、なぜだか僕との距離をかたくなに縮めようとしない。他のヴァンパイアがよく思わない、と前に言っていたが、それなら彼が僕のことを見守る事だって良く思われないはずだ。もちろん、他のヴァンパイアの反感を買うような真似をしたくないという彼の考えは理解できる。しかし、それなら何故初めて話を聞かせてくれた時に、わざわざ彼の家へと僕を連れて行ったのか。他の場所でもよかったはずだ。そもそも関わる気が本当になかったのなら、助けた後にわざわざ僕の前にもう一度姿を見せた理由はなんだろうか。あのまま彼が姿を消していれば、僕には彼を見つけ出す方法などなかったのだから。父さんの友人だったという理由だけで、彼はずっと僕を見守ってくれていたのだろうか。
 僕は、なんとなく彼に父親に対するそれと似た感情を抱いている。しかし彼は、僕がそう思うことすら拒否するような態度を見せる。そこにはまだ、僕に話していない理由があるはずだ。どんなに追求しても、彼が話してくれることはないだろうが。

&#8195;
 終業を知らせる鐘が鳴り響く。今日は工場内でちょっとしたトラブルがあり、いつにもまして忙しかった。一日中対応に追われた僕とライアンは、くたくたになってロッカールームへとやってきた。壁沿いに並ぶロッカーの真ん中に、細長い古いベンチが置いてある。そこに腰かけ、家まで歩いて帰るだけの体力を回復させようと体を少し休める。ライアンにいたっては、ベンチの両側に手足を放り投げ、器用に寝転がっている。
「参ったね。こんなに忙しいんじゃ、特別手当でも付けてもらわないとな」
ライアンが目を瞑ったまま不満を漏らした。確かにライアンは仕事も早く要領もいいので、ダラダラとしている僕に比べると、倍近く仕事をしているだろう。
「主任に言ってみろよ。ライアンは大のお気に入りだから、ひょっとするかもしれないぞ」
 ライアンは寝転んだまま僕を睨みつけてきた。実際は、僕たち二人は主任からかなり目をつけられていて、お気に入りとは程遠い存在だからだ。と、言うのもライアンまで目をつけられてしまっているのは僕のせいなのだ。
 入社してから三週間ほどが経ったある日、僕はすごく体調が悪くて主任に早退させて欲しいと頼んだことがあった。しかしその日、優れないのは僕の体調だけではなかった。不運なことに、主任の機嫌も悪かったのだ。本当に体調不良なのか、サボりたいだけじゃないのかとしつこく問い詰められた僕はいい加減うんざりして、そこまで疑うなら結構だと啖呵を切って仕事へと戻ったのだ。しかし、高熱のなか立ち仕事などできるはずもなく、フラフラの僕を見てライアンがキレてしまったのだ。ライアンはどういうことなのかと主任に詰め寄り、怒鳴りあいの喧嘩をしていた。第三者のライアンが出てきたことで主任の機嫌はますます悪くなり、僕のことを一人では何もできない弱虫だと罵りだした。この一言で、もちろん僕も怒鳴りあいに参加することとなったのは言うまでもない。騒ぎを聞きつけた課長が駆けつけ、体調不良を訴えた従業員を早退させなかった主任を叱り、すぐに僕を帰らせた。もちろん、上司に失礼な態度を取ったということで、僕とライアンも後日こっぴどく怒られたわけだが。 それ以降、主任は僕たちのことを嫌っているのだ。
「そんなことを言おうもんなら、返って減給されちまうよ」
ふて腐れたようにそう言うライアンに、僕は同意した。
「間違いないな。大人しくしてるのが一番さ」
 僕は立ち上がり、ロッカーを開けた。そうだな、と返事をしてくるライアンの声を背中で聞きながら、ロッカーのなかにあるはずもない物を見つめていた。
「なんだよ、どうした?」
僕の様子に気がついたライアンが声をかけてくる。なおも返事をしない僕に、声をかけながら隣へやって来た。そして、ライアンも同じように言葉を失った。
 そこにあったのは、紫色の大きな花だ。薄い紫色の、細い花びらが密集するように生えているその下は、たくさんのトゲで埋め尽くされている。今までに見たことのない花だ。僕は仕事中も貴重品は身につけているため、面倒なこともありロッカーに鍵をしていない。つまり、僕のロッカーを開けることは内部の者なら誰でもできるということになる。
「その花……。お前にも、花を贈るような女がいたなんてな」
 ライアンは無理やり明るい声で僕に話しかけてきた。しかし僕には彼女もいないし、女性にモテるようなタイプでもないことは、もちろんライアンも知っている。なにより、こんな気味の悪い花を贈る女性はいないだろう。そんなこと、ライアンだってわかっているはずだ。間違いなく、誰かの嫌がらせだろう。それに僕が気づかないように、無理やり女性からのプレゼント説を押したのだろう。
「ライアン、どう見てもこれは僕に好意を抱いている人物からの贈り物じゃないよな。まったく、くだらないことをする奴もいるんだな」
 僕は近くのゴミ箱にその花を投げ入れると、ロッカーから上着を出した。ライアンは苦笑いを浮かべてこちらを見ている。
 意味のわからない状況に、多少不安はあったが特に気にはとめなかった。僕はすぐにカっとなる癖があるので、工場内にも殴り合い寸前の喧嘩までいった奴も何人かいたからだ。きっと、過去の喧嘩を根に持った暇人の嫌がらせだろう。
 ライアンと僕は、誰が花を入れたのか話しながらロッカールームを出た。僕はなんとなく、隣のロッカーを使っているデイヴじゃないかと話した。以前僕は、デイヴに窃盗の疑いをかけられたことがあるのだ。なんでも、着替える際にズボンのポケットからお札を数枚落としてしまったことがあるらしい。ロッカールームを出てからそれに気がつき、慌てて戻るとそこにお札はなく、代わりに僕が着替えていたと。もちろん僕がロッカールームに入ったときには、お札なんて落ちていなかった。しかし、彼は僕が取ったと思い込み怒り出したのだ。落とした本人が取りに来たのだから、素直に返すべきだと怒鳴り散らし、僕を泥棒呼ばわりした。僕はお金を拾っていない、と説明しても全く聞く耳を持たず僕に詰め寄って来た。仕事で疲れていた上に、身に憶えのない罪を被せられた僕はついカッとなって、彼をロッカーへと叩きつけるように押し返した。そこで、他の同僚が入ってきてなんとかその場は収まったが……デイヴは納得していなかったのだろう。迷惑な話だな、とライアンも少し苛立ちを見せていた。
 翌朝、僕がロッカールームの扉を開けると、ライアンとデイヴが言い争っているところだった。慌てて間に入り、ライアンをなだめる。
「トレヴァー。こいつ、しらばっくれるどころか、俺らが施設育ちだからって盗みをして当然だなんて言いやがった」
ライアンは、かなり興奮した様子でそう言った。顔を赤くして、まだデイヴを睨んでいる。デイヴへ目をやると、同じようにライアンを睨みつけている。デイヴはかなり小柄なので、背の高いライアンを見上げるような形になっているのが少し面白かった。しかし、ここで笑っては火に油だ。冷静にライアンに話しかける。
「こんな奴の言う事なんて、放っておけばいいさ。花だって、実際にはなんの被害もうけちゃいないんだし、どうでもいいよ」
 ライアンを落ち着かせようと、ゆっくりと話した。すると今度は、デイヴは僕に掴みかかってくる。ライアンが酷く怒っているので自分は冷静でいなくてはと思うが、朝からこんなことをされれば、やはり頭にくるものだ。僕は負けじと、彼の胸倉を片手で掴んだ。
「だから俺は、花なんて知らないって言ってるだろうが! お前が俺の金を盗んでおいて、わけのわからない言いがかりをつけてくるとは、さすがまともな教育を受けてねぇな!」
 そう荒々しく言いながら、両手で僕の胸倉を掴んでいる。僕は特別背が高いわけではないが、それでも一般的な成人男性くらいの身長はあるので、両手で押し返すと彼は簡単に離れた。
「だから僕は、お前の金なんて知らないって言ってるだろうが。まともな教育とやらを受けていても、何度同じ事を言われても理解できないのか」
 デイヴの言葉を借りてそう吐き捨てた僕に、もう一度詰め寄ろうと一瞬動いたが、相手が二人では勝ち目はないと悟ったのだろう。ぶつくさと文句を言いながら、扉を思い切り開けて出て行った。彼を見送ってから、僕とライアンは目を合わせた。
 デイヴの暴言はさておき、花のことに関しては嘘をついているようには見えなかった。本当に別の誰かなのでは、と思い始めていたがライアンはデイヴが犯人だと決めてかかり、まだ怒りが収まらないようだった。ぶつぶつと文句を言って、荒々しくロッカーの扉を閉めた。
 その日は一日中花のことを考えていた。あれは、何ていう花だろうか……。デイヴじゃないとするなら、誰が何の目的で僕のロッカーへ入れたのだろうか。そもそも嫌がらせだとしても意味不明だ。もし僕が、嫌いな誰かのロッカーに嫌がらせとして何かを入れてやろうと考えたとしたら、花などまず選ばない。それがいくら不気味な形をした花だとしても。嫌がらせにするなら、生ゴミだとかタバコの吸殻だとか、なにかしら汚らしい物を選ぶのが人の心理ではないだろうか。いや、もちろん僕はそんな陰湿な嫌がらせなどやろうとも思わないが。
 もしかしたら、ライアンの言う通り本当に僕に想いを寄せる女性からのプレゼントなのでは……などと一瞬だけ考えてみたがその可能性はまずないだろう。この職場には女性社員が少なく、そのほとんどと僕は話したことがない。それに、女性から男に花を贈るなんて、あまり聞いた事がない。普通は逆だろう。一度だけ事務員の可愛い子に声をかけられたが、ライアンのことを紹介してほしい、と言う何とも残念なものだった。ライアンは僕と違い社交的で、誰とも仲良くできるので女性からも人気がある。現に、この工場で勤め始めて二年半ほどが過ぎるが、社内の女性社員数人と付き合っていたことがある。僕に声をかけてきた子とも数ヶ月だが付き合いがあったようだ。

「なぁ、お前が泣かせた女の子が、お前のロッカーと僕のを間違えたってことはないか?」
 昼休みに、サンドイッチに大きな口で喰らいついているライアンに聞いてみた。ライアンはもぐもぐと口を動かしながら、わざとらしく驚いた顔をして僕を見返した。
「おいおい。俺ほどの紳士に何を言ってるんだ、お前は」
少し笑いながらそう言うライアンに、僕はあえて真面目な顔をしたまま話し続けた。
「ない話でもないだろう? あの可愛かった子、あの子はお前から別れを切り出したんじゃなかったのか? いや、待てよ。もしかしたら……いつも一緒にいる僕に誰かが嫉妬したとか……。ほら、お前の後ろで作業してるコーディは、よくお前のことを見ているし」
 ここまで言った所で、ついに我慢できずに吹き出してしまった。コーディというのは、学生時代はラグビーをやっていたという大きな男だ。勘弁してくれよ、と言いながらタバコに火をつけるライアンを見ながら、僕は大笑いしていた。
「それに、紳士は口に物をいっぱい詰めたまま話したりしないと思うぞ」
 笑って息も絶え絶えになった僕の肩を、ライアンがふざけ半分に小突いてくる。じきにライアンもつられて、タバコの煙を吐きながら笑い出した。花のことはまだ気になるが、誰の嫌がらせであろうと気にする程の事でもないだろう。
&#8195;
 一週間の仕事を終え、僕は窓辺に座り紅茶を飲んでいた。花のことや、デイヴとの言い争いのこともあり落ち着かない気持ちだったが、差し込む朝日は変わらず僕を穏やかな気持ちにさせてくれた。
 今日でウィルフレッドと再会してからニ週間が経つ。あまり頻繁に彼に会いに行くなという忠告を守り、彼に会ったのは先週の火曜の夜に食事をした時が最後だ。食べていたのは、僕だけだったが。今日は会いに行こうか、それともこれは『頻繁』だろうか……。正直に言うと、僕は彼に会いたくて堪らなかった。僕の両親の事や彼自身について、もっと話を聞きたい。彼がどんな人生を送ってきて、なぜ影から僕をずっと見守っていてくれたのか、きちんと教えて欲しい。僕の子供の頃の話を、ただ笑いながら楽しく話がしたい。彼は、十四年間探し続けた僕の家族なのだから。
 紅茶をゆっくりと飲んでから、僕は家を出た。彼に会いに行こうと決めたのだ。僕のアパートから彼の家までは、歩いて二十分程だ。ずっと、こんな近くにいたなんて……。
 彼の部屋の前で、呼吸を整えた。彼はどんな反応をするだろうか? 快く迎え入れてくれるだろうか? それとも……やはりあの冷たい目で追い返されるだろうか……。
 ここまで考えた所で、自分の思考にゾッとして強く頭を振った。僕は恋する乙女か! 何も悩むことなんてないじゃないか。ただ、目の前にある扉をノックすればいいだけのことだ。一度あげた左手を下げ、右手を上げた。左手はまだ少し痛むからだ。
 すると、突然扉が開いた。ぶつかりそうになって、咄嗟に一歩後ろへ下がる。
「いつまでそこにいるんだ。用があるならさっさと入れ」
 ドアの隙間から低い声が響いたかと思うと、彼は扉を押さえてそこに立っていた。見下ろすように僕を見ている。僕がここに立っていることに、気付いていたみたいだ。
「や、やぁ」
ノックしようと上げていた右手をぎこちなく彼に振ってみせた。彼は表情を変えずに、ドアを更に大きく開けてくれた。そして背中を向けて、さっさと歩き出した。
 部屋の中は大きな窓から光が差し込み、意外なほどに明るかった。しかし、ソファは光の当たらない場所を選んだかのようにひっそりと置かれている。
気がつけば彼は、既に僕に背を向けて座っていた。この間と同じように、対面して腰を掛けた。改めて彼の顔を見ると、先週見たときよりも少しだけ顔色がいいように感じた。
「今日は、やけに顔色がいいんだね」
 少し誇張して彼に声をかけてみた。それまでぼんやりと遠くを見ていた彼の視線は、一瞬で僕の目を捕らえた。
「昨日、極上の食事をしたからな」
 呟くようにそう言うと、僕を脅すように恐ろしい笑顔を作った。笑顔と呼ぶにはあまりにも冷たいその表情は、彼の言った『食事』が何だったのかを説明していた。背筋の凍るような想像を、無理やり追い払うようにブルブルと頭を振り、彼に目を戻すと彼の表情はまた元の仮面のようなものへ戻っていた。どこか懐かしむような目で僕を見ている。
「で、今日はどうしたんだ」
相変わらず低く小さな声で彼が言った。片手はコインを器用に指の上で転がしている。
「いや……どうって……特に用は無いんだ。ただ、あんたがどうしてるかなって……」
 もごもごと言い訳をするような口調で僕は話した。彼の冷たい目を見ることができずに、指の上を滑るように移動するコインを見つめていた。すると、彼は指の動きを止めてコインをテーブルに置いた。少しためらったが顔を上げて彼と目を合わせる。何かを考え込むような、真面目な顔をしている。何とも言えない、ピリピリとした空気が流れているように感じた。もしかしたら、僕は歓迎されていないんじゃないだろうか……。僕を助けたのも、父さんの息子だからと言う義務感からだったのかもしれない。
 その冷たい空気を変えようと、僕はロッカーに入っていた花の話とデイヴの話をした。もしかしたら、どこかで見ていて知っているかもしれないな、とも思いながら。
 ウィルフレッドは、意外なほどに花の話に興味を持った。相変わらずに真顔のまま、どんな花だったのかと聞いてくる。どうやら、常に僕を見ているわけじゃないようだな……と当たり前の事を思って少しだけホッとした。促されるままに、僕は彼に花の形状を説明した。
「紫色の花びらの下に、トゲがいっぱいついた変な花だよ」
 すると彼の表情は一段と険しくなった。怒ったような、困惑したような表情を浮かべている。じっと僕を見つめ何も話さない。両手は膝の上で、がっちりと組まれている。手には、かなり力が入っているように見えた。
「なんだよ……」
 沈黙に耐え切れずに、僕が口を開いた。ウィルフレッドは眉間にしわをよせて、険しい顔つきのまま言葉を発しない。それどころか、目をきつく閉じてため息をついてしまった。
「来て欲しくなかったみたいだな。あからさまに迷惑そうな顔してくれちゃってさ。あんたは好き勝手に僕を監視して、僕はあんたを訪ねることすらもダメなのかよ。僕はあんたのことを、ずっと捜してたんだぞ……それなのに……」
 彼の態度がまるで僕を拒絶したようで、酷い悲しみが支配していくのがわかった。冷たく、吐き気にも似た感情が腹の辺りで渦巻いている。下を向き、全身にグッと力を込めた。彼にはきっと、泣くのを我慢している子供のように見えているだろう。
「トレヴァー、よく聞くんだ」
 今までに聞いた彼の声の中で、最も優しい声だ。驚いて顔をあげると、彼はとても優しい表情で僕を見ていた。その瞳には、やはり僕が見つけ出したあの愛情が浮かんでいる。全てを飲み込んでしまうような、暗く深い哀しみと共に。
「お前に来て欲しくないわけじゃない。前にも言っただろう、俺はお前の保護者にはなれないんだ。俺なんかと関わらない方がいい。お前のためなんだ」
「僕のため……」
僕はオウム返しで、彼の言葉を繰り返した。
「そうだ。だから、もうここへは来るな。俺も、もうお前の前には二度と姿を現さない。ただ覚えておくんだ。俺はこれからもずっとお前を見守っている。お前は安全なんだ」
小さな子供に言い聞かすかのように、彼はゆっくりと優しく僕に語りかけてくる。もちろん僕がそんな話に到底納得できるはずもなく、落ち着いて話す彼に抵抗した。
「嫌だ! そんなの絶対に嫌だ。安全だって? そんなもの僕は望んじゃいない。そんなの絶対に認めないからな」
彼は目を閉じて下を向いている。
「トレヴァー、言うことを聞くんだ。俺と関わるな」
彼は先程よりも声を低くして訴えてくる。どうして突然突き放すようなことをするのか、僕には理解できなかった。
「なんで……どうしてだよ。一人にしないでくれよ」
もうほとんど涙声になった僕の小さな声も、彼の耳には届いたはずだ。彼は深いため息をついた。迷惑そうな素振りはなく、心底困っているように見えた。
「一人じゃない。ライアンもいるだろう。それに、何も俺はお前を見捨てようってわけじゃない。今までと何も変わらない。これまでだってお前は……」
「ずっと寂しくて仕方が無かった! ライアンのことは、確かに兄のように愛してる。だけど、僕はいつも孤独だった。あんたを探すことでその孤独を紛らわせたんだ。やっと逢えたのに……突き放すようなことを言わないでくれよ。それならなんで、あの時わざわざ僕の前に現れたんだよ。こんな風に突き放して、傷つけるためかよ。お願いだ、傍にいてくれよ……もう、あんな想いをするのは嫌だ……」
 彼の言葉を最後まで待たずに、ついに僕は泣き叫ぶように本音をぶちまけた。彼に会うのはまだ数える程だが、僕にとって彼は既に家族のような存在になっていたのだ。両親が亡くなってからずっと、僕の事を見守ってくれていたと知った時から、彼の事を父親のように感じるようになっていた。頬に流れる涙を手で拭うと、下を向いたまま黙り込んだ。彼の顔を見るのが怖かった。
「トレヴァー、顔を上げるんだ」
 彼の呼びかけに、戸惑いながらも顔をあげた。そこで見た彼の表情に、僕は心臓が止まるような衝撃を覚えた。彼は、とてつもない苦悩を抱えた表情で僕を見ている。瞳には、絶望と苦しみが浮かんでいる。僕が何か言おうとするのを、彼が遮った。
「お前の両親は、俺のせいで殺されたんだ」
ゆっくりと、はっきり発音するように彼はそう言った。唖然とする僕を尻目に彼は続けた。
「前にも言ったな。俺の仲間の中には、人間と深く付き合うことを良く思わない奴もいる。俺らの存在を、人間に知らせるべきではないと考える奴らも多くいるんだ」
彼は静かに続けた。
「俺がブラッド達と付き合うのを、俺の創造者は嫌ったんだ」
彼の表情が途端に険しくなる。聞きなれない言葉に、僕は思わず口を挟んだ。
「あんたの……創造者?」
事故で亡くなったはずの両親は、実は殺されていたと言う。それも、目の前にいるウィルフレッドのせいだと。頭が混乱して擦れた声になってしまった僕の質問に、彼が答える。
「俺を……ヴァンパイアに変えた奴だ。奴は独占欲が強くてね。どういうわけか、まだ人間だった頃の俺に興味を持ったんだ。部屋に侵入した奴は、寝ている俺に襲い掛かりそのまま転生させた。それから俺は、長いこと奴と二人で過ごしていた。奴からしか、この体で生き抜く術を教われなかったからだ。だが奴は、まともな思考回路を持ち合わせていなくてね。一緒にいることにもうんざりした俺は、奴の隙を狙って遠くへと離れることにしたんだ。それで、アメリカからイギリスへと渡って来た。ブラッドと出会ったのは、俺が奴から離れて数年が経っていた頃だ。俺は安心しきっていた。でも奴は……俺の居所をずっと知っていたんだ。ある夜、奴は俺の元を訪ねて来た。奴と一緒にアメリカへ戻れと言いに来たんだ」
 彼は、激しい憎悪を浮かべた恐ろしい表情をしている。彼の創造者だというそのヴァンパイアは、なぜそんなにもウィルフレッドを気に入っているのだろう。話を聞く限りでは、ウィルフレッドはかなり冷たい態度を取っているようだが……。気になったが、今は話の邪魔をせずに聞いていることにした。
「俺がブラッドから離れる気がないことを悟ると、笑い声をあげながら消えたんだ。俺は追いかけなかったよ。奴の、俺に対する執着心には吐き気がする程うんざりしていたし、消えてくれるならそれでいいと思った。それでもしばらくはブラッドから目を離さなかった。奴が何をするかわからなかったからだ。だが何も起こらないまま時間が過ぎ、やがてアデラと結婚しお前が産まれた。俺は、もう奴のことなど気にもしてなかった。諦めて消えたのだと思っていたんだ」
目頭の辺りを親指と人差し指でつまみ、また彼はため息をついた。ふと僕を見つめると、また話し始めた。
「だがあの日……奴はまた俺の前に現れた。そして嬉しそうにこう言った。『さぁ、邪魔者はもういない。目を覚ますんだ』ってな。一瞬で鳥肌が立ったよ。奴が、次の言葉を発する前に俺はお前たちを探しに行った。匂いを辿れば難しいことじゃない」
 ここまで早口で話すと、彼は両手で頭を抱えてしまった。
「見つけた時にはもう……車は原型を留めてなかった。呼びかけにも誰も反応しなかった。俺はその場にただ呆然と立ち尽くしていた。お前のかすかな泣き声が聞こえるまではね」
 顔をあげ、優しい瞳で僕を見つめる。
「俺は無我夢中で鉄の箱と化した車をひっぺがして、お前を抱きかかえた。俺の心配をよそに、お前は無傷で不思議そうに俺の顔を見つめていたよ。その時だ、ブラッドが意識を戻したのは。お前の名を呼んでいた。覚えているか?」
 僕はただ頷いた。堪えていた涙が、再び溢れ出す。
「ブラッドはもう助けられる状況じゃなかった。アデラは即死だったろう。ブラッドが事切れたあと、お前はゆっくり振り向いて、俺を見たんだ」
黙って涙を流す僕を、彼はじっと見つめている。そして、小さく口を開いた。
「すまない。二人を助けられなかった。全部……俺のせいだ」
 僕が十四年間考え続けていた答えが、今やっとわかった。
「あの時、あんたが言おうとした言葉は今の台詞だね?」
 俯いていた彼は、驚いたように顔をあげて僕を見た。
「そうか、そこまで覚えているのか……。そうだよ。ずっとお前に謝りたかった。奴はあれから、俺の前に姿を見せていない。捜しているが……奴は俺よりも遥かに長く生き、俺よりも上手だ。簡単には見つけられないだろう」
「そいつは……今もあんたの居場所を知ってるの……?」
 ウィルフレッドを連れ戻そうとして、僕たちを襲ったのなら、どうしてそのまま行方をくらますようなことをするのだろうか。父さんたちの死を悲しむウィルフレッドを見て、共に行動することはできないと悟ったのだろうか?
「お前のロッカーに花を入れたのは、間違いなく奴だ」
彼は僕の目を見たまま、ゆっくりと言った。その言葉に、果てしない恐怖が僕に襲い掛かる。
 その花はアーティーチョークという名の花だということ、更に花にはそれぞれ花言葉と呼ばれるものがあると教えてくれた。僕にとってアーティーチョークは、スーパーの野菜コーナーに並べられている丸い野菜だった。あんな気味の悪い花を咲かせるなんて、今まで知らなかった。
「アーティーチョークの花言葉は『警告』だ。これは、奴からの警告なんだ。あいつは、今度こそお前を殺すだろう。だから、俺に関わるなと言うんだ。俺はお前まで失えない。最初から、俺はお前から離れているべきだった。お前が言った通り、俺が勝手にお前に関わったんだ。許してくれとは言わない。俺が、お前の人生を壊したんだ」
 今にも消えてしまいそうな小さな声で呟いた彼の瞳は、いつになく哀しさを映し出している。あの時僕が怒りに任せて言った台詞を繰り返したウィルフレッドは、今にも泣き出しそうにも見えた。そんな事言わないでくれと、言葉を出すことがどうしてもできなかった。
「お前を助けた翌日、路地まで俺を探しに来た時だ。あの時、お前に姿を見せる気はなかったんだ。しばらくすれば、諦めて家へ帰るだろうと思って見ていた。しかし、何かを振り払うように頭を振ったお前の姿がブラッドと重なったんだ。彼もよく、自分の考えをああして消し去ろうとしていたよ。その姿を見たら……どうしてもお前と話がしたくなった。気がつけばお前の前に座っていたんだ。お前を、余計に傷つけることになってすまない。でもな、お前とこうして話せたことは何一つ後悔していないよ。できればこのまま、お前の傍で見守りたかった。だが、それはできないんだ。お前を守る為だ、わかってくれ」
 優しくも哀しげな声で囁くように話す彼の瞳は、今では少し微笑んでいるように見える。すると突然、鋭い目つきで僕の方へ身を乗り出した。彼に体を掴まれた感覚を感じた次の瞬間、僕のアパートの玄関前にいた。彼は僕の隣に立っている。
「ブラッドの分まで、幸せに生きてくれ。俺はずっとお前の傍にいる。ただ、お前には俺の姿が見えないだけだ。俺の力の事は憶えているな? お前が望むなら、俺に関する全ての記憶を消してやる。幼い頃に見た、俺の記憶もだ。そうすれば、俺のことなど考えずに生きていけるだろう」
 彼が僕を二度も助けてくれた事実も、父さんの親友がずっと見守ってくれていたことすらも忘れろと言うのか。そんなこと、僕は望んでなどいない。
「冗談じゃない。僕は、あんたのことを一生忘れない。僕が今生きているのは、あんたがいたからじゃないか。自分が辛いからって、忘れたりするもんか」
 僕が小さな声でそう呟くと、一瞬、本当に一瞬だけ彼は僕を抱きしめた。そして、一瞬の内に彼の姿は見えなくなっていた。きっと、泣こうが喚こうが彼は姿を見せてはくれないだろう。そう感じた僕は、玄関を開け部屋に入った。
 いつもの場所で熱い紅茶を飲みながら、いつもより鮮明に父さんの笑顔を思い出していた。そして、最後に聞いた僕の名を叫ぶ母さんの声。土砂崩れだと思っていたあの衝撃は、ヴァンパイアの攻撃だったのだろう。ウィルフレッドはこの十四年間、どんな想いで僕を見守っていてくれたのだろうか。家族同然に過ごした僕の父さんと母さんを助けることもできずに、自らの人生を変えてしまった奴に奪われてしまった。ずっと自分のことを責めていたのだろう。彼の苦しみは、僕には想像もできない。僕は目を閉じて呟いた。
「少しの間だったけど、あんたに逢えてよかった。またいつか、話ができる日を待ってるよ」
 翌朝、僕はいつもより早く起きていた。
 いつもの窓辺に座り、テーブルに置かれた紅茶から上がる湯気をただ眺めている。なんだか仕事に行く気になれず、力なく硬い椅子の背もたれに寄りかかっていた。いつもより早起きをしたせいか、今になって眠気が襲ってくる。家を出るまでには、まだ充分時間がある。このまま少しだけ眠ってしまおう……。

 紅茶の置かれたテーブルを挟んだ向かい側の椅子に、父さんと母さんが並んで座っている。二人は穏やかに微笑みながら、僕を見つめている。これは夢だ。夢でもいい、僕が両親に会える唯一の方法は、あの日からずっと夢を見ることだけだったからだ。
「父さん。僕、ウィルフレッドと話をしたよ。父さんの友達だろ?」
 父さんは返事をしない。夢に出てくる両親は、いつも何も言わない。恐らく、僕の記憶の中に彼らの声が刻まれていないのだろう。当時は二度と聞けなくなるなんて思ってもいなかったのだから当然だ。わざわざ覚えようとする必要などなく、会いたい時にはいつだって、傍にいてくれるものだと信じて疑うことすらしなかった。
「母さんが、料理が苦手だってのも聞いたよ。知らなかったな」
 相変わらず父さんも母さんも、にこにこと微笑んでいるだけだ。何も言わない両親の幻に、僕はただ一人話しかけていた。
 すると、二人は突然席を立ち、僕に背中を向けて歩き出した。追いかけようと、僕も慌てて席を立った。しかし、いつのまにか僕らの周りは大きな海のようになっていて、二人はザブザブと音を立てながら水の中へと進んでいく。遠くの景色は白く霞んでいるが、細い枯れ枝のような木が生い茂っているように見える。二人は振り返らずに、胸元まで水に浸かって歩き続けている。
「父さん! 母さん! 待って、そっちへ行ったらダメだ!」
 大声で叫ぶが、二人は歩くスピードを緩めない。
「置いていかないで! 一緒に……僕も連れて行ってくれよ……」
 泣きながら叫んでも、声は擦れてしまって波の音にかき消されてしまう。それまで穏やかな波を描いていた海も、様子を変えて荒れ狂い僕を飲み込もうと打ち寄せてくる。必死に手を伸ばして、二人を引きとめようとするが、僕の身体は波に弄ばれるようにぐるぐるとまわっている。
「行かないで!」
 自分の叫び声で目が覚めた。硬い椅子に変な体制で寝ていたせいか、酷く頭が痛む。なんて嫌な夢だ……。今も心臓がバクバクと動き、情けないことに、微かに手も震えている。ストレッチをするように身体を伸ばしながら、壁に掛かっている時計を確認すると、そろそろ家を出なくてはならない時間だった。湯気を立てていたはずの紅茶は、すっかり冷めてしまっていた。冷たくなった紅茶を一気に飲み干すと、僕は上着を掴んで家を出た。
 どうしてあんな夢を見たりしたのだろうか。夢に出てくる両親は、いつも優しく微笑んでいて、僕を一人残してどこかへ行ってしまうことなどなかったのに……。冷たい空気に顔をしかめながら、いろいろと考えようとしたが頭がガンガンと痛み邪魔をしてくる。どうせ、今僕が考えることは今日一日を幸せに過ごさせてくれるようなものではないはずだから、それで構わない。全ての神経を、頭痛へと集中させた。実際、そこにあるはずもない心を、冷たく突き刺すような痛みに比べれば、頭痛のほうがよっぽどマシだ。先程見た夢のせいか、もう僕の前に姿を現さないと言ったウィルフレッドが見せた悲しい瞳のせいか、もしくはその両方のせいなのかはわからないが、僕の心を寂しさが埋め尽くしていた。僕は少し小走りになりながら職場へと向かった。
 ロッカールームの部屋を空けるときには、息が切れているほどの速さで走っていたようだ。それにすら気がつかなかった……。人の居ない静かなロッカールームを見回して、ベンチへと腰を掛けて息を整えた。なるべく、なにも考えないように目を閉じて……。
 どれくらいそうしていただろうか。荒々しい足音がそれまでの静けさをかき消し、ガチャリと大きな音を立ててドアが開いた。ゆっくりと目を開けて、入ってきた人物を確認すると、見慣れた笑顔が飛び込んできた。
「おっトレヴァー。なんだよ、そんなとこに座って。着替えねぇのか?」
ドカドカと足音を立てて僕の前を通過し、ロッカーの前で立ち止まったライアンの後姿を見ながら、僕は無意識にここまで走ってきた理由がわかった。何も言わずにライアンと並んで立ち、自分のロッカーを開ける。ライアンは不思議そうに僕を見ていたが、少し笑っている僕を見て、彼もまた笑って着替えだした。
「なにニヤニヤしてんだよ、気持ち悪い。いいことでもあったのか?」
僕の様子を横目で確認しながら、ライアンは軽い調子で話しかけてくる。僕の様子が少しおかしいことに気がついているのだろう。
「ライアンのアホ面が恋しくてね。会えて嬉しいよ」
僕も同じように、軽い調子でふざけながら返した。ライアンはオエっと声に出して僕を小突いてきた。アホ面とは失礼だな、と怒ったふりをしているライアンは、僕のおどけた態度に少し安心したようだ。彼がいてくれて、本当によかった。

 いつも通りにその日の仕事を終えた僕たちは、帰りにパブに寄ることにした。飲んで帰ろう、と提案したのは僕だ。
「珍しいな、お前が平日に飲みに行こうって誘ってくるなんて」
パブのカウンターに腕をかけて、ビールはまだかと店員の行方を眼で追っているライアンが言う。僕は週末には喜んで飲みに行くが、平日はなるべく早く家に帰ってゆっくりしたいのだ。家で一人くつろぐ時間が、普段はとても好きだからだ。でも、今夜は一人で帰りたくなかった。あの部屋に帰ればまた、冷たい悪夢が襲ってくるようで怖かったのだ。自分がこんなにも弱虫だなんて思わなかった。今まで、自分の力でなんでも切り抜けてきたと思っていた。しかし、それは大きな間違いだったんだ。僕の傍には、いつでもライアンがいてくれた。そして危険な目に合えばウィルフレッドが影から助けてくれていた。僕は、二人のために何ができるのだろうか。僕はいつも助けてもらうばかりで、何の役にも立っていないじゃないか。激しい自己嫌悪の波を、安いビールで無理やり飲み込んだ。そんな僕の姿を、ライアンが何も言わずに横目で見ているのがわかる。
 僕たちがやって来たのは、いつも行くお気に入りのパブだ。ライアンを含んだ数人で集まり、酒を飲んでいた。僕はまだ最初のジョッキを手に持ったまま、みんなの会話に愛想笑いをしていた。実際は、彼らが話す内容はちっとも頭に入ってきてはいなかった。
「なんか俺、具合悪くなってきちまったよ……」
飲み始めて一時間ほどで、ライアンが頭を抱えてそう言った。酒に強いライアンにしては珍しいこともあるものだ。いつもは、最後の一人になるまで飲み続けても、しっかりとした足取りで帰っていくのに……。他の仲間達も、冗談交じりにライアンを心配していた。
「トレヴァー、悪いけど送ってくれないか」
ライアンが飲むのを切り上げて帰るなんて、しかも家まで送って欲しいだなんて、よっぽど具合が悪いのだろうか。もともと、心ここにあらずといった感じだったので、僕はライアンを送っていくことにした。
あの二人きっとできてるぞ、などと言うジャスパーの冗談を聞いたライアンは、わざとらしく僕の肩にもたれかかってきた。彼は僕よりも背が高いので、不自然に膝を曲げるような体勢で歩きにくそうにしている。
「なんだ、余裕じゃないか。いくら僕が女にモテないからって、冗談キツイぞ」
そう言いながら、僕はライアンを片手で押しのけた。そうフラついた様子もないので大丈夫だろう。仲間たちは、僕らの様子を見て大笑いしている。ライアンも他の仲間からは見えないように、僕に笑いかけてきている。施設にいたころ、何かしらのいたずらを仕掛けた時に、内緒だぞ、とこっそり僕に見せた笑顔の面影がそのまま残った子供のような笑顔だ。具合の悪そうな様子はまるでない。そのままパブを出て、隣のコーヒーショップでライアンはコーヒーを二つ買った。
「お前の大好きな紅茶じゃねぇけど、我慢しろよ」
一つを僕に手渡しながら、ライアンは笑ってそう言った。そして、立ち竦む僕を残して、すたすたと歩き始めている。どういうつもりなのだろう……。
「おいライアン、具合が悪いんじゃないのか」
ライアンは熱いはずのコーヒーをグビグビ飲みながら、こっちへ振り返った。珍しく真面目な顔をしている。
「なんかあったんだろ。お前、朝からおかしいぞ」
ライアンは僕の目を真っ直ぐ見て言った。どうやら、具合が悪いと言ったのは僕を連れ出すための口実だったようだ。ライアンには適わないな……。そう思いながら、彼へと歩み寄った。僕が隣に並ぶと、ライアンも歩き始めた。
僕たちは街をふらふらと歩きながら、話をしていた。両親の死の真相、そしてウィルフレッドにはもう会えないということを、僕はゆっくりと話した。ライアンは何も言わずに僕の話を聞いてくれていた。話し終わっても何も言わず、飲み終わったコーヒーのカップを、道路わきにあったゴミ箱へと投げ捨てた。ポケットに手を入れて、鼻を啜りながら僕がコーヒーを飲み終わるのを待っている。僕も何も言わずにコーヒーを飲んでいた。

「ありがとな。話、聞いてくれて」
長い沈黙の後、僕はライアンに向かって礼を言った。ライアンは僕の肩を叩いて頷くと、先程と同じように屈託なく笑った。ライアンは最後まで何も言わなかったが、一緒に居て話を聞いてくれただけで充分だ。
そろそろ帰ろうか、僕がそう口を開こうとしたその時だった。道路を挟んだ反対側の通りから、大きな声が響いた。
「ライアン!」
二人して声のしたほうを見ると、そこには僕がウィルフレッドと対面するきっかけとなった男たちがいた。皆片手には缶ビールを持っていて、道路を横切ってこちらへ向かってくる。缶ビールを買う金は、あの時のように誰かを脅して奪ったのだろうか。ライアンは僕と男たちを交互に見て、キョロキョロしている。そんな様子のライアンに気がつくこともなく、男たちはすぐ傍に来ていた。
「ようライアン。ダチか? どうだ、一緒に飲みに行くか」
この間とは打って変わって、親しげに僕へと話しかけてきた。僕のことを覚えていないのだろう。ライアンもほっとした様子で、もう帰るんだよ、とチャーリーに話している。だが、あの一際大柄の男だけは僕の顔をじっと見ている。僕があの時の男だと、気がついているのだろうか。僕はなるべく目を合わせないようにして、ライアンのほうを見ていた。
チャーリーの口元に、うっすらと青あざが見えて、思わず笑いそうになってしまう。まだ残っているなんて、ライアンは一体どれだけ強く彼を殴ったのだろう。
 チャーリー達は、まだ早いのだから一軒くらい付き合えと、ライアンにしつこく絡んでいる。大柄の男は、相変わらず僕を見ているのが横目でわかる。すると、男のうちの一人が、僕に話しかけてきた。
「なぁ、あんたからもライアンを説得してくれよ。せっかく会ったんだからよ」
 馴れ馴れしく僕の肩に手を置いて、大きな声で喋りかけてくる。僕は思わず顔をしかめ、肩を少しずらして手を振り払ってから、小さな声で答えた。
「いや、明日も早いんだ。またの機会にするよ」
 僕がそう言うと、目の前にいた男がハッと目を見開いて声をあげた。どうやら思い出したようだ。僕に気がついた他の男たちも一斉に顔を見合わせて、ソワソワとしている。
「そうか……帰るって言うならしょうがねぇな。またな、ライアン」
 ライアンのいとこのチャーリーは、早口でそう言うと僕の顔を見ないようにして立ち去った。ライアンと僕は、小走りで逃げていく彼らの様子を見ながら、顔を見合わせて声を出さずに笑っていた。あの時彼らを叩きのめして僕を救ったあの影は、僕が召還した『悪魔のような何か』ということで落ち着いたらしいぞ、とライアンが笑いながら教えてくれた。
 彼らからしてみれば、得体の知れない物体に襲われて気を失い、気がついたら先程まで倒れていた男もいなくなっていたのだ。挙句、その男は普通に街中を歩いていたのだから、さぞかし驚いたことだろう。

 そのまま僕たちは、他愛もない話をしながら家路へついた。家に着いてから手早くシャワーを浴びて、ベッドへ横になるとすぐに眠くなってきた。ライアンに話を聞いてもらったおかげで、朝から僕の中で渦を巻いていた寂しさは、ひとまず消えてなくなっていた。
 目を閉じて、夢と現実の間を彷徨っているような感覚でウトウトしていると、どこからか声が聞こえたような気がした。それは、最後に聞いた母さんの叫び声だ。僕の寂しさは、完全に消えることはないのだと知らしめるような声だった。これは、僕の心に潜む闇が作り出した幻聴だ。意識の中から全てを追いやって、このまま寝てしまおうと決めた。頬に伝うのは涙なのか、まだ乾かしてもいない髪の毛からこぼれた雫かもわからないまま、無理やり意識を封じ込めるように眠りへと落ちていった。

 ウィルフレッドが僕に姿を見せなくなってから、三週間ほどが経とうとしていた。彼と実際に関わりを持っていたのは、ほんの二週間ほどだ。なんてことはない、それまでの日常へ戻っただけだと言い聞かせていたが、本当は彼に会えなくなってしまった悲しみから、立ち直れていなかった。あの悪夢も、あれから頻繁に見るようになり、眠ることにさえ怯えていた。毎日をただ無気力に過ごし、ライアンにも心配をかけていた。仕事場の工場へと足を運びながら、昨日のライアンとのやり取りを僕はぼんやりと思い出していた。

「お前、いつまでウジウジしてるつもりだよ」
 仕事からの帰り際、落ち込んでいる僕に、ついにライアンが不満げに声をかけてきた。片手には火をつけたばかりのタバコを持っている。なにも僕だって、好きでこうしているわけではない。ウィルフレッドと関わることが危険だということも理解している。しかし、僕の知らない両親の昔話も、僕を間抜けだとからかうような彼の口調も、全てが失われてしまったようで、言葉にできない喪失感を抱えている僕の感情を理解してくれないライアンに、自分勝手な苛立ちすら覚えていた。
「あいつのことが恋しいとか、寂しいとか、そんなんじゃないんだ。ただ彼は……僕の両親を知るただ一人の存在なんだよ。父さん達がいなくなってからも、僕の事を守ってくれていたし……。だから彼のことも、なんとなく家族のように感じてるんだ」
 ライアンのタバコから細く上がる煙に目をやりながら、ボソボソと呟いた。
「なんだよ、それ。お前があいつに懐くのも、家族みたいに感じるのも勝手だけどよ、いつまでもウジウジされたら、こっちまで気分悪いぜ。俺はお前の両親のことを知らないから、俺にはもう用はないってことか」
 タバコを地面へ投げ捨て、足で踏み消しながらライアンは言った。ライアンは親に愛されなかった記憶からか、人から必要とされないことを酷く嫌う。もちろん僕は全くそんな風に思っていないし、ライアンだってそんなことはわかってはいるはずだ。ただ、いつまでもじめじめと落ち込む僕を見て文句の一つでも言いたくなったのだろう。否定しようと口を開いた時にはもう、ライアンは僕に背を向けて歩き始めていた。
 結局昨日は、そのまま口をきかずに帰宅してしまった。僕が落ち込んでいた時、いち早く気がついて話を聞いてくれたのは、他でもないライアンだ。彼は僕が一人じゃないとわからせようとしてくれていたのに、僕の態度は酷いものだった。きっと、無意識のうちに、ライアンの優しさに甘えていたのだろう。
ライアンの言う通りだ。僕は、あの日からずっとジメジメと『可哀相な自分』に酔いしれていた。いつの間にか僕は、自分が一番嫌っていたはずのタイプの人間になっていたようだ。これではいけない。ライアンに会ったらすぐに、きちんと謝ろう。そして、仕事帰りにはパブに酒を飲みに行こう、そう思いながら家を出た。ライアンはきっと、酒をおごれよ、そう言って笑いながら許してくれるだろう。
 思えば、お互いに喧嘩っ早い割に、僕達は喧嘩らしい喧嘩をしたことがない。記憶にあるのは、今回のを除けば一回だけだ。あれはライアンと出逢ってすぐの頃だった。まだ心を閉ざしていた僕は、ライアンや他の子ども達と遊びまわる気になれず、お腹が痛いと嘘をついて一人部屋に籠っていた。外で遊んでいたライアンは、十分置きに僕の様子を確認しに戻ってきていた。そしてその視察が四回目を数えた時、ただルドルフを抱きしめて座り込む僕を見て、ライアンが僕にこう問いかけた。
「本当にお腹が痛いのか? ずっとここにいて、トイレにも行かないじゃんか。お前、嘘ついたのか? 俺と遊ぶのが嫌だっただけか」
 そう問いただすライアンの声は徐々に震えていき、僕が顔を上げた時には目に涙を溜めて小さな両手を握り締めていた。ライアンが僕の事を本気で心配してくれていた事や、彼が怒っているのは僕に嘘をつかれた事が悲しかったからなのだと、当時の僕は気付けなかった。唖然とする僕を残して、ライアンはぷいと背中を向けて走り去った。さすがの僕も、何かとんでもない事をしてしまったという事だけはわかっていた。優しいライアンを泣かせてしまった事に動揺した僕は、ルドルフを抱きしめたままライアンを追いかけた。部屋を出てすぐの所で涙を拭っていたライアンを見つけ、僕は声をかけた。
 嘘をついた事を謝ると、ライアンは音を立てて鼻を啜って笑いかけた。いいんだよ、気にすんな、と言って。でも、もう絶対に俺に嘘をつくなよ、とも彼は付け加えた。
 幼い頃から毎日を共に過ごしていても喧嘩をしないで来られたのは、ライアンが大人だったからだ。僕がわがままを言っても、気分が落ち込んでライアンに冷たく当たっても、彼は決して僕に腹を立てることはなかった。いつだって僕の味方で、いつだって笑顔で僕を元気づけようとしてくれていた。職場へと向かう僕の足は、自然とそのスピードをあげていた。
 工場の始業時間は早く、朝の八時だ。いつもよりも少しだけ早く着いた僕は、ベンチに座ってライアンを待っていた。さっき買ったばかりの暖かいコーヒーを片手に持ち、まず何て声をかけようか……と落ち着かずにソワソワとしていた。途中、デイヴが入ってきて思い切り舌打ちをされたが無視をした。ここで喧嘩をしたら、あとからやって来るライアンに本当に愛想を尽かされるかもしれないと思ったからだ。
 しかし、ライアンはいつまで待っても現れなかった。もしかしたら、僕とロッカールームで顔を合わせるのを気まずく思い、ライアンも早く来ていて、先に作業場へと向かったのかもしれない。そう思った僕は、待つのを止めて作業場へと向かうことにした。ところが、作業場についてもライアンの姿はなかった。
「なぁ、今朝ライアンを見た?」
 自分の持ち場に置かれた椅子に座って、眠たそうにしていたコーディに声を掛けてみた。彼は閉じていた目を嫌そうに開けて、僕を視界に入れた。少し考えてから、うん、と首を縦に振った。と、言う事は職場には来ているのか。
「いや、待てよ……。違うな、あれは昨日だ。今朝は、一度もライアンは見ていないよ。珍しいな、喧嘩でもしたのか」
 ちょっとね、と軽い返事を返して誰もいないライアンの持ち場を眺めた。
 やがて始業の鐘が鳴り、三十分を回ってもライアンはやって来ない。朝礼を終えた主任が、ライアンの遅刻の理由を知っているかと僕に尋ねて来たが、僕にもさっぱりわからない。主任は不満そうな顔をしながら、時計を見てイライラしている。ライアンは時々寝坊をして遅刻することがあったので、昨夜も飲みすぎて寝過ごしているのだろうか。僕と喧嘩をしてイライラしていただろうから、深酒をしたのかも知れない。
「電話してみます」
 そう主任に言うと、ロッカールームへ向かい携帯を取り出す。単調な呼び出し音は鳴っているが、一向に出ない。よほど熟睡しているのだろうか……?
 仕方なくその場は仕事に戻り、主任には連絡がつかないことを報告した。結局ライアンは昼休憩にも電話にでることはなく、とうとうその日は姿を見せなかった。無断で欠勤するなんて、いくらいい加減のライアンでも初めてのことだ。もはや、主任はカンカンに怒っている。僕は帰りにライアンの家へ向かうことにした。

 ライアンのアパートは工場から徒歩五分程の場所にある、ボロい建物だ。六階建てだと言うのにエレベーターはなく、階段で上らなくてはならない。しかも最悪なことに、ライアンの部屋は最上階にあった。階段を駆け上がり、部屋のドアをノックする。何度叩いても返事は無く、ドアを叩く僕の手も次第に力を強めていった。
 なんだよ、うるさいぞ! そう文句を言いながらライアンが乱暴にドアを開けるのを僕は期待していたが、聞こえるのは空しく響くノックの音だけだった。
 さすがに心配になった僕は、一階に住む管理人の部屋を訪ねた。しばし彼の部屋に来ることがある僕は、管理人とも顔見知りだ。管理人のロビンさんは気のいい老婦人で、明るく人懐こいライアンのことをよく気に入っているようだった。事情を説明すると、部屋の鍵を開けてくれると言う。彼女も、ライアンのことを心配しているようで、慌てた様子で全部屋の鍵を保管している金庫のようなものを開けている。
 二人でライアンの部屋まで向かうが、彼女は膝が悪く階段を上ることがとても大変なようだった。二階辺りまで上った所で、とうとう苦しそうに立ち止まってしまった。膝を手で押さえて、必死に呼吸をするように肩を上下に動かしている。ぜぇぜぇと呼吸をする音が、筒のようになっている階段に響いた。
「ゆっくりで大丈夫です」
手を貸しながらも、落ち着かない様子でそう言った僕の気持ちを感じ取って、彼女は鍵を僕に渡してくれた。
「私に合わせていたら、明日になってしまうわ。あなた、先に行ってちょうだい」
 上品な口ぶりで、優しく微笑んでくれたロビンさんに礼を言うと、僕は先程と同じように階段を勢いよく駆け上がり、ライアンの部屋の鍵を開けた。ガチャリと重たい音が鳴ったのを確認して、鍵を引き抜いた。ドアを開ける前に、何度か深呼吸をして呼吸を整えた。心臓が激しく脈打っているのは、階段を駆け上がったからか、それともライアンの身を心配しているからだろうか。
 恐る恐る部屋のドアを開けると、小さな部屋が見えた。玄関から差し込まれた光によって、散らかった部屋が浮かび上がる。そこにライアンの姿はなく、食べかけのサンドイッチがテーブルの上に放置されていた。職場に姿を見せず、部屋にもいない。いよいよ僕の気も動転し始めた。これは普通の状況ではない。階段を猛スピードで降り、途中でぜいぜい言っているロビンさんに手を貸してから鍵を返す。ライアンの安否を気に掛けるような言葉を言っていたような気もするが、僕の耳には届いていなかった。ライアンは、一体どこへ行ってしまったのだろう。
 ライアンのアパートから離れ、一度自宅に戻ろうと考えた。冷静にならなくては……。それに、何かあればウィルフレッドだって気がつくはずだ。大丈夫、何も心配することなんてないさ。自分に言い聞かせるように、その言葉を何度も繰り返し口に出した。しかし、嫌な予感を拭いきれず、心臓はドクドクと素早く鼓動を刻んでいる。

 自宅アパートの鍵を開け、部屋にゆっくりと足を踏み入れる。今朝家を出た時と変わらない、僕の部屋だ。いつもの風景に、少しだけ心を落ち着かせることができた。ゆっくりと深呼吸を繰り返してから、念の為もう一度ライアンに電話をかけてみようと、部屋の中を歩きながら、ズボンのポケットから携帯を取り出した。携帯を耳にあて、ふと、テーブルに目をやった。そこには、暗い緑色のニット帽が置かれていた。間違いない、ライアンの帽子だ……。どうしてここに……? 耳元では、相変わらず単調な呼び出し音が鳴り続けている。帽子を手に取ろうと腕を伸ばした時、帽子の横にノートの切れ端のようなものが置かれていることに気がついた。帽子へ伸ばしていた手で、その紙切れを掴む。
 そこに書かれていた言葉に、一気に血の気が引くのがわかった。
&#8195;
トレヴァー君

ライアンは私と一緒にいる。南町の外れにある廃校へ来るならば無事に帰してやろう。

アダム

 とても達筆な字でそう書かれたノートを手に、僕はブルブルと震えていた。どうしてライアンが……そして、アダムとは一体誰なのか……。頭が酷く痛み、今にも気絶しそうだ。手の震えは止まらない。頭の中をかき回されるような感覚の中で、僕は一つの仮説を思い浮かべていた。このアダムとは、ウィルフレッドに関係している人物であるはずだ、と。彼が言っていた、人間と関わるべきではないと唱えるヴァンパイアか、あるいは……彼の創造者だ。でなければ、ライアンを拉致する理由も、それを僕に伝えて居場所を明かす理由もないからだ。狙いはライアンではなく、僕とウィルフレッドをおびき寄せることに違いない。
 小さな声で、ウィルフレッドの名前を呼んだ。もしも、アダムが彼の憎む創造者だとするなら……彼も今頃捕まっているのではないだろうか? 今にもパニックになりそうな僕の目の前に、彼が音もなく現れた。
「ウィルフレッド!」
 彼が無事だった安堵から、僕は思わず彼に抱きついた。
「あぁウィルフレッド、どうしようライアンが……。アダムって誰なんだよ。なんでライアンを……」
 動揺する僕の肩に手を置いて、彼はアダムと名乗る者からのメモを読んでいる。彼は険しい顔で僕を見た。その表情から、ライアンをさらったアダムと言う男が、ウィルフレッドの創造者に間違いないと僕は悟った。
かつて、僕の両親の命を奪い、ウィルフレッドを苦しめた奴が今、僕の大切な親友であるライアンの命を脅かしている。かつてない恐怖と怒りが、僕をいっそう混乱させた。
「どうしてあんたの創造者は、今更ライアンをさらったりするんだよ……。僕はあんたから距離を置いたじゃないか……」
 ウィルフレッドの険しい瞳には、様々な感情が入り乱れているように見えた。
「俺のせいだ。まだお前を気にかけて、守ろうとしているのが気に入らないんだ。すまない、お前を守ることに気をとられて、ライアンが狙われる可能性まで頭が回らなかった」
 影から見守っていてくれたウィルフレッドを呼び出し、関わるなと言う彼の言葉を無視したせいで、ライアンまで巻き込んでしまった。ウィルフレッドのせいではなくて、僕のせいだ……。
「僕、廃校に行かなくちゃ。ライアンが僕を待ってる」
ウィルフレッドは少し考えるように黙ってから、険しい表情のまま僕を見た。
「一人では行かせない」
 そう言うと窓から遠くを見るような仕草を見せた後、ふーっと長く息を吐きながら僕の両肩へ手を乗せた。彼の冷たい息が顔にあたる。
「何があっても勝手な行動をするな。本当なら、あんな奴のところへお前を連れて行くようなことはしたくない。だが、ここで待っていろと言ってもお前は聞かないだろう。ここへ一人で置いて行って、勝手に追いかけて来られる方が厄介だ。だから、仕方なく連れて行くんだ。いいな、俺の言う通りにするんだ」
 僕は黙って頷いた。ライアンを助けるためなら、僕はなんだってするつもりだ。もちろん、みすみすとウィルフレッドを渡すつもりも毛頭ない。アダムという奴の望みは、ウィルフレッドを取り戻すことだけだろう。
 頷いた僕を見て、ウィルフレッドはもう一度ため息をついた。焦りの中にも、呆れた表情をうっすらと浮かべている。
「お前が大人しく言う事を聞くなんて思ってない。どうせ、何が何でもライアンを助けるつもりなんだろう」
 彼の言った事があまりにも図星すぎて、思わず口ごもってしまう。もごもごと口先で言い訳をする僕に彼は優しい瞳を向けた。
「ライアンは、俺が必ず助けると誓う。頼むから、危険な真似だけはしないでくれ」
 彼の瞳には、優しさと悲しみが混在している様に見えた。アダムと言う男に奪われた僕の両親の事を想っているのだろうか。わかった、と返事をした僕に彼は更に続けた。
「トレヴァー、俺を信じるか?」
 突然、何を言っているのかと思ったが、その質問に答えるのは息をするように簡単だ。


「背中に乗れ。廃校まで走るぞ」
 ウィルフレッドは僕に背を向けると、早口でそう告げた。走る? 今までも、彼に体を掴まれた次の瞬間には、別の場所に立っていたことはあったが、走っていたのか……。あまりの速さに、僕は瞬間移動のように感じていた。
「かなり飛ばすぞ。落ちたら怪我じゃすまないから、しっかり掴まれ」
 僕が彼の背中に飛び乗ると、低い声でそう言い、いつの間にか開け放たれていた窓から飛び出した。
 走っている間は凄まじい風を感じて目を開けていることができなかった。彼の首へしっかりとしがみ付き、ぎゅっと目を閉じてライアンに出会った頃の事を思い出していた。

 僕は、毎日部屋の隅で膝を抱えて泣いていた。施設にいる他の子供に遊ぼうと誘われても、俯いたまま返事もしなかった。事故現場に助けがやって来た時から、僕は言葉を話せなくなっていたのだ。目の前で両親を失った精神的ショックから来たものらしいが、そんな僕に手を焼くと考えた祖父母は引取りを拒否した。僕に聞こえていないと思った彼ら四人のやり取りは、今でも鮮明に覚えている。表立ってはっきりとは言わないが、お互いに押し付けあおうとしていたのが、わずか四歳の子供にも見え見えだった。そして、母方の祖母が僕の目をまっすぐ見てこう言った。
「ねぇトレヴァー。あなたのためには、施設に入ったほうが幸せだって思うのよ。お友達もたくさんいるし、優しくしてもらえるわ。きっと楽しいわよ」
 僕はただ、祖母の目を見たまま首を縦に振った。それを見た祖父母たちは、心から安心したように微笑んでいた。
「みんなで、必ず会いに行くわ。心配しないでね」
 僕の機嫌をとるような、猫なで声で祖母は言ったが、結局僕が施設を出るまで誰も会いになんて来なかった。最初から、期待はしていなかったが。
 やがて、陰気で反抗的な僕をレーガンさんは嫌うようになり、何かにつけて木の棒で叩いた。あまりの痛みに、更に泣く僕をレーガンさんは怒鳴りつけた。そんな時に、ライアンはレーガンさんと僕の間に割って入ってきたのだ。
「やめろよ! 大人が、こんなに小さな子供を殴るなんて卑怯だぞ!」
 両腕を広げて僕の前に立ったのは、わずか六歳の少年だった。今思えば、まだ身体の小さな少年が怒り狂う大人の男に反抗するなど、どれだけの勇気を振り絞って僕を助けてくれたのだろうか。悪態をついて離れていくレーガンさんを見送った後、泣きじゃくる僕の前にしゃがんでこう言った。
「あいつの前では泣いたらダメだ。あいつはな、泣き虫が大嫌いなんだよ。どうしても泣きたい時は、俺が一緒にいてやるから!」
外で遊んでいたのだろうか、泥まみれの顔で少年は僕に笑いかけた。
「どうして……?」
やっとのことで僕が発した言葉に、彼は誇らしげに答えた。
「今日から俺は、お前の兄ちゃんだからな。兄ちゃんってのは、弟を守るもんなんだぞ」
 えっへん、とでも言うようなポーズで僕に笑顔を向ける少年は、片手を差し伸べて待っていた。少し戸惑いながらその手を掴むと、少年は小さな手に力を込めて僕を起き上がらせてくれた。それからずっと、ライアンは僕を守ってくれていた。ライアンを通じて、他の子供たちと打ち解けることもできた。この時からポツポツとだが、言葉も戻り始めた。
 言葉を取り戻した僕は、施設にいた大人たちに、あの日僕を助け出してくれた男の話をした。どうしても見つけたいから、一緒に警察へ行ってほしい、と。まだ幼かった僕は、警察に行けば誰でも見つけてもらえると思っていたのだ。しかし、誰一人僕の話を信じることはなく、事故のショックで幻覚を見たなどと言われた。たくさんの医者に、同じ話を何度もした。彼らが僕に話を聞くのは、助けてくれた男を見つけようとしてくれているからではなく、僕の頭が正常かどうかを確かめるためなんだと気がついた時、僕は産まれて初めての嘘をついた。車からは、自分で這い出たのだと。
 そしていつからか、僕はこの話をしなくなった。
 そのまま時が流れ、僕の十三歳の誕生日に、ライアンは大きな十字架のついたキーホルダーをくれたのだ。それを見て、僕は思わずライアンに男の話をした。何を言っているんだ、と笑われるだろうと思いながら。しかし彼は、笑うことなくあっさり僕を信じた。そして、ふざける様子もなくこう言ったのだ。
「お前が見たって言うなら、俺は信じるよ」
 あの時僕は、人生で初めて『嬉し泣き』と言うものを体験した。これに関しては、ライアンは腹を抱えて笑っていたが。
 後から聞いた話だが、ライアンには三歳下の弟が『いた』らしい。詳しいことは聞いていないが、両親から虐待を受けていたということだった。僕らが出会った時、ライアンだけがあの施設にいたことを考えると、弟はあの時点で既に亡くなっていたのかもしれない。彼は僕に、幼くして命を落とした、守ってやることのできなかった弟の影を見ていたのだろう。お互い社会に出てもまだ僕を守ろうとしてくれるライアンが、今どんな目に合っているのか。無事でいてくれるだろうか。想像するだけで頭が割れそうになった。

 ふと風が止み、ウィルフレッドの声が聞こえた。
「着いたぞ」
 僕は彼の背中から滑るように降りた。本来、僕の家からこの廃校まではどんなに急いでも二時間はかかるはずなのに、ほんの数分で着いてしまった。
「屋上だ」
 彼は真っ暗な校舎の屋上を見上げて呟いた。すると僕の体を掴み飛び上がった。一度くらい、前もって一声かけてくれてもいいのに……などとのん気なことを考えている間に僕たちは屋上に立っていた。
 辺りは真っ暗で、僕の目では何も見えない。キョロキョロと落ち着かずにライアンを探しているが、ウィルフレッドが僕にあたるほど近くで、目の前に立ちふさがるように立っているのは、その気配で感じている。
 突然、煌々とライトが屋上を照らした。廃校になった屋上にあるはずもない、ナイター用の大きなライトだ。予想していなかった眩しさに、一瞬目がくらむ。目を薄く開いて、片手で光を遮りながら、ウィルフレッドから一歩ずれるようにして前を見据えた。
 そこには、ライアンが力なく立っていた。
「ライアン!」
 思わず走り出そうとする僕を、ウィルフレッドが片腕で制した。どうして止めるんだと、彼に食って掛かるように訊ねる僕に、彼は何も言わずにライアンの方を見るように顎で合図をしてきた。もう一度ライアンを見つめると、その後ろのライトの当たっていない所に人影が見えた。僕が息を飲むと同時に、その影は光の下へとゆっくりと移動した。
 ライトが暴くように照らしたその姿は、ウィルフレッドと同じ種族とは思えないほどに醜い男だった。&#8195;
 錆びた鉄のような茶色の髪の毛は短く切られ、ガリガリに痩せた背の高い男だ。ギョロリとした大きな目を、嬉しそうに見開き笑っている。裂けたように大きく開かれた口からは、汚らしい黄色い歯が見えていて頬はげっそりと痩せこけている。そして、その片腕でガッチリとライアンを抱くように捕まえている。ライアンも背が高く、身長だけ見れば二人にはそう差はないように見えるが、僕たちを見て身をよじろうとするライアンを、片腕だけでいとも簡単に押さえ込んでいる。
 思わず一歩後退した僕を、ウィルフレッドが隠すように距離を詰めた。彼は激しい怒りと恐怖が入り交じったような表情で、ニタニタと笑う男を睨み付けている。先程僕を制するために伸ばした左手は、まだそのまま僕の前へ置かれている。きつく握り拳を作り、小刻みに震えている。怒りに震えているのか、それとも……。
「やはり君も来たか、ウィルフレッド。随分と久しぶりじゃないか。相変わらずに神々しい姿をしているな。そう思わないかね? トレヴァーくん?」
 アダムは大きな声でそう叫んだ。ウィルフレッドとの再会がよほど嬉しいのか、声は興奮に満ちている。ふいに名前を呼ばれたことにも驚いたが、それよりもアダムの優しさすら感じさせる穏やかな話し方に意表を突かれた。響き渡るほどの大声だったが、その声は不思議なほどに落ち着いていて叫んでいると言うよりも、まるでテレビの音量を上げたかのように自然だった。
 アダムの表情には変わらず喜びの笑みが浮かんでいる。僕からすればウィルフレッドの冷たい瞳の方がよほど恐ろしかったが、ライアンは彼の片腕の中でガタガタと震えている。目は涙に濡れ、よく見れば顔に殴られたようなアザができていた。ライアンが涙を流しているところなど、今まで一度も見た事が無い。目の前にいるヴァンパイアの恐ろしさも忘れ、怒りだけが僕を支配していく。
「お前! ライアンに何をした!」
 人生で初めて、腹の底から叫び声をあげた。アダムは醜い笑みを消し、ウィルフレッド越しに僕を睨んだ。
「ほぉ、なかなか勇気のある小僧じゃないか。だがな、私は君にも、このライアン君にもまるで興味がないのだよ」
 何の感情もこもらない声で喋りながら、彼はライアンをゆさゆさと揺すった。ライアンはひぃっと小さく悲鳴をあげさめざめと泣いている。僕らが来るまでに、よほど酷く痛めつけられたのだろうか……。あまりに弱弱しいライアンの姿に、酷く胸が痛んだ。
「ウィルフレッド、まだ君はそんなちっぽけな人間になど構っているのか。トレヴァー君にも、きちんとメッセージを送ったつもりだったが……伝わらなかったかな?」
 穏やかな口調のまま、アダムは語りかけた。やはり、あの花をロッカーに入れたのはアダムだったようだ。僕の両親を奪った奴がそんな近くにいたなんて、今まで考えたこともなかった事実に鳥肌が立った。何も言い返せずにいると、アダムが更に口を開いた。
「まぁいい。今日は君にチャンスをやろうと思って来たのだよ、ウィルフレッド」
 アダムは僕たちの前に姿を見せてからずっと、ウィルフレッドから目を逸らしていない。
「チャンスだと? ふざけるな。俺は二度と貴様と関わる気はない」
 声を荒げることもなく、鬼のような表情を変えずにウィルフレッドは告げた。いつになく冷たく、怒りと憎しみのこもった声だ。
 ウィルフレッドから反応があったことが嬉しかったのか、アダムは歓喜の声をあげた。
「あぁウィルフレッド! 素晴らしい! 君は何一つ変わっていないな! だから私は君に永遠の命を与え、仲間に加えたのだ!」
 ライアンを抱いていない方の腕を広げながら、アダムは続けた。
「君の完璧なまでに美しい容姿に、低く響くような声……。人間にしておくにはあまりにもったいないことだ。下等な人間のままでは、いずれその完璧さも失われてしまう……」
 目を大きく見開いたアダムはしっかりとウィルフレッドを見つめていた。
「君は、この世で最も美しい生き物だ! そしてそれは、永遠に保たれる……素晴らしいことだと何故認めない!」
 アダムは突然、地の果てまで響くような声で叫んだ。ライアンは膝がブルブルと震えている。
「貴様の下らない趣味など理解する気もない。ライアンを離せ」
ウィルフレッドは、落ち着き払った声で凄んだ。
 アダムはチラリと僕に視線を向けてから、またウィルフレッドへ向き直った。すると大きなため息をついて、また穏やかに話し始めた。
「君の目を覚ましてやろうと、あのくだらん夫婦を消してやったと言うのに……君はまるでこの世の終わりかのごとく嘆いていたな。少し悲しみに暮れる時間を与えてやろうと思ったが……君はいつまでもトレヴァーくんの傍を離れなかった。挙句の果てには、自ら正体を明かすような愚かな真似をして……。おかげでそこの小僧はすっかり君に懐いて、周りをウロチョロとしているじゃないか。もういいだろう、ウィルフレッド」
 あくまでも優しげな口調で諭すかのように話し続けるアダムを、ウィルフレッドは今にも襲い掛かりそうな前傾姿勢を取りながら睨みつけている。牙をむき出しにする獣のような表情で、鼻筋にしわをよせて恐ろしい顔をしている。
「くだらん夫婦だと……。貴様、次の言葉は慎重に選べ」
 先程の落ち着いた声とは異なり、低く唸るような声でウィルフレッドが言う。彼の怒りがビリビリと空気を揺らしているのが伝わってくる。
「良いだろう。ではトレヴァーくん、君に選ばせてやろうじゃないか」
 ウィルフレッドから目を逸らさずにアダムは僕へ話しかけてきた。
「選ぶ……?」
「そうだ。このライアンくんを無事に取り返したければ、君にはウィルフレッドを諦めてもらおう。ウィルフレッドに関わることは私が許さない。わかるだろう? 彼はな、君などが気安く関わっていいような生き物ではないのだよ」
 ウィルフレッドを見ると、不快感をあらわにしながらアダムを睨み付けている。もう前傾姿勢は取っておらず、まっすぐ立っているが腕はまだ僕を庇うように伸ばされている。
「ウィルフレッド。もちろんトレヴァーくんがこの条件を飲んだなら、君にもトレヴァーくんに関わることは止めてもらおう。それが守られなければ、私はすぐにでもライアンくんを殺そう。惨たらしく、痛めつけてな」
 ライアンは助けを乞うように、僕を見つめている。
「トレヴァーくん、もし君がこの条件を飲む気がないというなら、今すぐこの場でライアンくんを殺さなくてはならない。それが、取引と言うものだ。わかるだろう? あぁ、安心したまえ、その場合は一瞬で終わらせてやろう」
 さも僕のために提案してやっているんだぞ、というような口調で話す横で、ライアンは震えている。恐怖の余り声も出せないようだ。
「何も難しいことはないだろう。ん? 幼い頃からの大切な友人と、知り合ったばかりの……それも、君のご両親が命を落とす原因となった男だ」
 アダムはニタニタとしながら僕を見てくる。僕の両親を殺した張本人であるアダムが、両親の死をウィルフレッドのせいであるかのように話したことで、僕の全身に怒りが電流のように駆け巡った。反射的に言い返そうとしたその時、アダムが更に口を開いた。
「それに、確かに二人を攻撃したのは紛れもない、私だ。だが……君のお父さんに止めを刺したのは、誰だったかな」
 気持ちの悪い声で、顔にはこの世のものとは思えないほどに醜く、悪意に満ちた笑みを浮かべてアダムが言った。その言葉に、ウィルフレッドは凍りついたように動かなくなった。先程まで僕の前に出されていた腕をダラリと下ろすと、アダムを睨んだまま立ち尽くしてしまった。
「父さんに……止めを? 何を言ってるんだ、お前が僕の父さんを殺したんだろ」
 意味がわからずに、凄むつもりが弱弱しい問いかけとなってしまった。ウィルフレッドは何も言わずに、僕の前に立ったままアダムを睨んでいる。アダムはニヤニヤと笑ったまま、ウィルフレッドと僕を見ていた。
「あぁトレヴァーくん、可哀相にな。どうやらウィルフレッドは、真相をきちんと君に話していないようだな。だめじゃないか、ウィルフレッド。彼には知る権利があるぞ」
 子を咎める親のような、それでいて愉快そうな口調で話している。
「真相……? どういうことだよ。父さんたちは、あいつに殺されたんだろう?」
 ウィルフレッドの目を見ながら僕は小さな声で言った。ウィルフレッドは何も言わず、ただ哀しげな瞳で僕を見ている。
「トレヴァーくん。君のお父さんはな、私の攻撃を受けた後もしばらく生きていたよ。それは君も知っているだろう。だが、そこにいるウィルフレッドがその命を奪ったのだよ。君のお父さんの血を、一滴残らず飲み干してね。辺りに充満していた血の匂いで、我を失ったかな? 残念だが、彼は君が思い描いているようなヒーローではないぞ。君とは全く異なる生き物だ。そう、私と同じようにね」
 楽しくてたまらないといった様子のアダムなど、もはやどうでもよかった。ウィルフレッドは何も言わずに、僕を見つめている。
「あいつの言うことなんて、嘘なんだろ。あんたが父さんを……そんなの嘘だって言ってくれよ。なんで黙ってるんだ」
 ウィルフレッドの答えを待つ僕の耳を、不愉快な笑い声が支配した。アダムはライアンを抱えたまま、こちらを見て笑っている。
「どうだライアン君、ここからの眺めは最高じゃないか。君の大切な親友は、君のことも忘れ、実の父親の命を奪ったヴァンパイアにすがりついているぞ。皮肉なものだな」
 ウィルフレッドから目を離し、アダムとライアンへと視線を向けた。ライアンは震えながら、ウィルフレッドを睨んでいるように見える。
「お前……トレヴァーを守ってきたんじゃないのか」
 あまりにもか細く、今にも消えてしまいそうな声でライアンが呟いた。恐怖からか、声は大きく震えていた。それでもまだ、彼は僕を守ろうとウィルフレッドを睨んでいる。そんなライアンを見ていると、いろんな感情が爆発しそうになった。今にもこぼれそうな涙を無理やり飲み込み、ウィルフレッドへと向き直る。ウィルフレッドもライアンを見ていた。とても哀しそうに、そしてまた、強い決意を感じさせるような目つきだ。
 すると、突然くるりと体勢を変えて僕をとらえた。
「あいつの言ったことは本当だ。俺が言った事は、全て忘れるんだ」
小さな声でそう言うと、哀しい目をしたままアダムの方へと視線を移した。
「俺はもうトレヴァーには関わらない。だからライアンを解放しろ」
 はっきりとそう言ったウィルフレッドの言葉を聞いて、アダムは満足そうに笑っている。こうなることを、奴は最初から読んでいたのだろう。
「トレヴァーくん、君もそれでいいね?」
「ちょっと待ってよ」
 アダムの言葉は無視して、既にアダムへと向かって歩き始めていたウィルフレッドの腕を掴んで引き留めた。その瞬間、アダムの顔から笑みが消えたのを視界の端で捕らえた。当のウィルフレッドは、驚いたように僕を見ている。
「トレヴァー、お前何を……」
ウィルフレッドが言いかけた言葉を遮って、僕は続けた。
「さっきの条件を飲んだら、ウィルフレッドはどこへ行くわけ? あいつと一緒に行くのかよ。鈍感な僕だって、あんたがあいつを憎んでいることくらいわかるよ。それなのに、抵抗もしないでのこのことついて行くつもり?」
 アダムは、悪魔のような顔をしてこちらを睨んでいる。
「お前のような小僧に、あいつなどと呼ばれるのは実に不快極まりないな。それから、ウィルフレッドから手を離してもらおう。君が触るなどおこがましいぞ」
 恐ろしい顔をしているが、声だけは相変わらずに気味が悪いほどに優しい。
「トレヴァー、他に方法はないんだ。お前はライアンと生きていくんだ。さっき聞いただろう……俺のことなど忘れろ」
 彼は、僕の腕を振りほどいて再びアダムへと歩いていく。ウィルフレッドが父さんの血を飲み干したという話は、どうやら本当のようだ。しかし、そんなことは後で確認すればいい。今は他に、やるべきことがある。
「冗談じゃない! あいつはさっき、僕に選べと言ったんだ。あんたじゃないぞ!」
 ウィルフレッドの腕を再び掴もうと手を伸ばした途端、僕の足は地面から離れていた。
「何度言えばわかるんだ小僧。ウィルフレッドに触れるな」
 アダムは僕の首に手をかけて体を持ち上げていた。息ができずに、言葉にならない声が漏れた。視界の角で、ライアンが崩れるように座り込んでいるのが見えた。アダムの口調からは、不気味な優しさは消えうせていた。
「アダム、止めろ! お前の狙いは俺だろう! 俺はもう決めた、だからトレヴァーから手を離してくれ」
 ウィルフレッドが叫びながらアダムに掴みかかる。こんなにも慌てる彼を見るのは初めてのことだ。息ができずにジタバタともがきながら、頭だけは何故か冷静だった。
 アダムはちらりとウィルフレッドに目をやると、再び醜い笑顔をその顔に浮かべた。その笑顔を崩すことなく僕を見上げると、片手で僕の身体を持ち上げたまま歩き始めた。首に食い込む指の痛みと、苦しさから僕は足を大きくバタつかせて抵抗していた。
「アダム! 何をするつもりだ!」
 ウィルフレッドは素早く回り込むかのように、アダムの行く手を阻んだ。僕の視界に入っているものは、屋上の柵だ。アダムが何をしようとしているのかは、わざわざ考える必要もなかった。アダムは、屋上から僕を落とすつもりだ。ウィルフレッドは、そうはさせまいと恐ろしい顔でアダムの前に立ちふさがっている。
「トレヴァーから手を離せ。今すぐにだ」
 先程よりも少し落ち着きを取り戻したような声で、ウィルフレッドがアダムに警告をする。
 僕の意識はもう限界に近づいている。もはやジタバタともがく力すら頼りなくなってきている。着地点がどこであろうと構わない、頼むから今すぐその手を離してくれ……。そう思うほど、苦しくて辛い。アダムの手を掴んでいた両手にも、もう力は入っていない。
 左手を僅かに上げてウィルフレッドに伸ばした。彼は僕の目を見ると、小さく頷いた。もう大丈夫だ。根拠の無い安心感が、既に僕を包んでいた。ウィルフレッドに伸ばした手を力なく落とした。
 それを見たアダムは、僕に気持ちの悪い笑顔を向けた。
「苦しいな、トレヴァーくん。ウィルフレッドもああ言っている事だ。離してやろう」
 とても優しい言い方でそう言うと、僕の呼吸は一気に楽になった。しかし、落ち着いて呼吸をしている余裕など、どこにもなかった。
 なぜなら、僕の身体は宙に浮かびあがり、屋上の柵を大きく飛び越えていたからだ。このままでは下の地面へと叩きつけられてしまうが、僕にできることは何も無かった。ライアンが、大きな声で僕の名を呼んだのが聞こえた。ライアンを捜そうと、目をキョロキョロと動かしたがその姿を映すことはできないまま、僕の視界は真っ黒な空に支配されてしまった。自分の身体が風を切る音だけが、耳に響いている。
 ほんの数秒後、僕の身体を激しい衝撃が襲った。思わずきつく目を閉じたが、どうやら僕は生きているようだ。それどころか、何の痛みもない。ゆっくりと目を開けた僕が見たものは、予想していた通りのものだった。ウィルフレッドの鋭く光る瞳。彼は僕の身体を片手で支えて、片ひざと片手を地面について着地していた。僕が目を開けたのを確認すると、そのままもう一度屋上へと飛び上がった。落ちたり飛んだりで、僕の身体はぐちゃぐちゃになりそうな感覚だった。
 屋上に降り立ったウィルフレッドは、視線をアダムから外さずに僕を降ろした。僕はライアンへと視線を向けた。ウィルフレッドが投げ飛ばされた僕を追いかけている間、アダムに何かされていないかと不安になったからだ。
ライアンは先程までと同じ様に、座り込んでいた。僕が無事に戻って来たのを見て、安心しているようだった。
「お見事。さすが、素早いな」
 アダムは楽しそうに笑いながら、ゆっくりと拍手をしてこちらを見ている。
 僕の隣に立っていたウィルフレッドが一瞬動いたような気がして隣に目をやると、既にその場に彼の姿はなかった。そして次の瞬間には、ウィルフレッドの恐ろしい怒鳴り声が響き渡った。
「ブラッドもアデラも…………ナンシーさえ俺から奪っておいて、トレヴァーまでそう簡単に奪えると思うな」
 驚いた僕が声のした方に目を向けた時には、ウィルフレッドはアダムの胸倉を両手で掴みアダムの身体を持ち上げていた。
「どうした、ウィルフレッド。せっかく私が提案してやっているチャンスを、棒に振る気か。君から全てを奪いたくなるのは、どうも私の性の様でね。それに、私の記憶が正しければナンシーとやらの命を奪ったのは私ではない。ブラッドとか言った男と同様にな」
 あくまで落ち着き払った声で、ニタニタと笑いながらアダムが答えている。あの状況からでもまだ、自分の方が優勢だと自信があるのだろう。ナンシーと言う女性が誰なのかはわからないが、その名を口にした時彼はとても苦しそうな表情を浮かべた。きっと、彼にとって大切な人だったのだろう。
まるでゲームを楽しむかのように、愉快そうに話しながらアダムはウィルフレッドの手を振りほどき、素早く動いた。
 僕たちの目では何がどうなったのかは全く見えなかったが、いつのまにかアダムはウィルフレッドの首に手をかけ跪まずかせていた。ウィルフレッドは必死に抵抗しているが、アダムの腕は力を弱めない。
「私を失望させないでくれ、ウィルフレッド。君は何度失敗すれば学習するんだ。君に、私を殺すことはできない。そこにいるお友達を守ることもできないのだ」
 真顔でそう言ったアダムは素早く動き、ウィルフレッドの背後から腕で首を絞めている。ウィルフレッドから一瞬、苦しそうな声が漏れた。
「やめろ! お前が消したいのは僕じゃないのか」
我を忘れた僕はそう叫びながら、二人の目の前で約束を破って無茶な行動に出た。ウィルフレッドの首を絞めているアダムに向かって行ったのだ。思い切り体当たりをしたが、まるで車にでもはねられたかのような衝撃だった。対してアダムは、先程まで消し去っていた気持ちの悪い笑顔をその顔に戻して、僕を見ていた。
「トレヴァー、やめるんだ……」
 擦れた小さな声で、ウィルフレッドが苦しそうにささやいた。この状況で、僕がアダムから彼を助けられるだなんて思うほどバカじゃない。だけど、どうしても黙って見ていられなかったのだ。
「君も命知らずだな」
 そう言ったアダムは、ウィルフレッドから腕を離し僕に向かって距離を詰めた。アダムの腕から解放されたウィルフレッドは、すぐさま僕とアダムの間に割り込んだ。
「アダム、やめてくれ」
 アダムの胸元に広げた手を当てるようにして、ウィルフレッドが呟いた。その声色は、諦めたような、落ち着いたような不思議なものだった。ウィルフレッドは今までも、ああしてアダムの命を狙ったことが過去にもあるのだと、先程のアダムの台詞から僕は悟っていた。アダムは、ウィルフレッドよりも強く、適わない敵なのだと。
「では本題に戻ろうか。トレヴァーくん、君の気持ちは決まったかね?」
まるで、今までのことは全て冗談だとでも言いたげな優しい言い方でアダムが問いかけてきた。両手を腹の辺りで組み、僕が返事をするのを待っているようだ。
「やめろ。その必要はない」
 静かに呟いたのはウィルフレッドだった。彼は一歩、アダムへと大きく歩み寄った。アダムは、ただじっとウィルフレッドを見つめている。とても愉快そうに……そして、背後からウィルフレッドを見上げている僕のことをバカにするかのように笑いながら。
 続いて彼の口から出た言葉を聞いて、さっきの発言は僕にかけられたものだったと気がついた。僕はてっきり、アダムへ抵抗して言ったものだとばかり思い込んでいた。
「もう決めたと言っただろう。俺は、ここには残らない。それで満足だろうアダム」
 興奮を隠しきれない様子で、アダムはウィルフレッドへ歩み寄った。ウィルフレッドは、僕の前に立ちアダムから顔を背けて、目を逸らしている。
「それでいい。我々は、この血が身体に流れ込んだその瞬間から、人間とは次元の異なる高貴な種族なのだ。そもそも、人間などとは付き合うべきではないと、やっとわかってくれたようだな」
 上機嫌にペラペラと喋るアダムを睨むように見つめながら、僕はもう一度ウィルフレッドの腕を力いっぱい掴んだ。もちろん、だからといって彼が僕に引っ張られるようなことはなく、捕まれたことにすら気がついていない様子だったが。
「待てったら!」
 僕は今までで一番大きな声で抵抗した。アダムは、驚いた顔で僕を見つめている。
「おいおいウィルフレッド、こいつは頭がおかしいのか。友人と共に、ここから無事に帰れる唯一の手段だと言うのに。それともなにか? ウィルフレッドを賭けて私と決闘でもするつもりか。君がそのつもりなら、応えてやっても構わないぞ」
 アダムは愉快そうに笑い声をあげた。ウィルフレッドは僕へと近寄り、小さな声で警告してきた。
「トレヴァー、もうやめるんだ。取り返しのつかないことになるぞ」
「僕はまだ、答えてないぞ」
 アダムが大袈裟に両手を広げてこちらに向き直った。
「ほぅ、それでは貴様はウィルフレッドと引き換えに、ライアンくんを差し出すと言うのかね?」
 先程よりも凄みのある声で僕に詰め寄る。ライアンは、信じられないと言った顔で僕を見ている。小さな声で、弱弱しく僕の名を呼んでいるのが聞こえてくる。胸が張り裂けそうで、あまりにも辛いが僕の答えは最初から決まっていた。
「もし、それを選んだら……あんたは二度とウィルフレッドに近付かないと約束するか」
 アダムは驚いた顔をしながらも、心から楽しむような目でニタニタと笑っている。
「この私に条件を出すつもりか。面白い、いいだろう。非常に残念だが、君の勇気を称えて、聞き入れてやろう」
 今まで以上に不気味な笑顔で、僕を見つめてくる。そしてウィルフレッドへと一瞬視線を移してから、興奮気味に捲し立てた。
「時間切れだ、トレヴァーくん。君の答えを聞かせてもらおうか」
 一呼吸置いてから、僕はアダムへと一歩踏み出した。ウィルフレッドが一瞬ピクリと反応したのが見えた。
「僕は……ウィルフレッドを選ぶ。ライアン、わかってくれ。僕にとって彼がどれだけ大事か知っているだろ?」
 ライアンは絶望を目に浮かべ震えている。
「トレヴァー……。俺たちずっと一緒だったじゃないか。お前が、そいつを捜してたのは知っているさ。でも……そいつはお前の父親を……嘘だ……」
 ライアンはついに声をあげて泣き出した。アダムに命を奪われる恐怖だけが原因ではない。弟のように守ってきた僕にあっさりと捨てられたのだから当然だ。こんなにも取り乱しているライアンを見るのは初めてだった。ライアンはいつも笑っていて、僕を安心させてくれていた。
「ライアン、僕を許してくれ。大丈夫、あいつは一瞬で楽にしてくれると言ったじゃないか。頼むよ、僕のことを思うなら……」
 僕の頬にも涙がつたった。僕だってライアンを失いたいわけがない。しかし、これしか道はないのだ。これしか……。
「気でもふれたかトレヴァー! お前、自分が何を言っているかわかってるのか!」
ウィルフレッドはついに声を張り上げた。僕の胸倉を掴み、その顔を近づけてくる。
「もう決めたんだ」
 静かに呟いた僕の答えを聞くと、ウィルフレッドは僕を掴んでいた腕の力を緩めて、ライアンに視線を向けた。真剣な眼差しで一点を見つめている。
アダムはこの状況を楽しんでいるのか、手を胸元で合わせニヤついている。
「ではトレヴァーくん、君の決断はそれでいいのだね?」
 穏やかに語りかけてくるアダムに頷いて、早口で答える。一刻も早く、終わりにしたい。
「あぁ。頼む、一瞬で終わらせてくれ。痛みも何も分からないように……。約束してくれ」
 涙が次から次に流れ、視界が歪む。ウィルフレッドは僕の前に立ち、まだライアンを見ているようだ。
「トレヴァー……」
ライアンは僕に向けて片手を伸ばし、はっきりと僕の名を呼んだ。そのまま動くこともできないライアンに、アダムはゆっくりと焦らすように近づいて行く。
「さぁライアンくん、トレヴァーくんの意志は固いのだ。わかってくれ、これは私にとっても残念な結果だ。何せ、私もウィルフレッドを諦めなくてはならない。どうやら私は、君の価値を見誤ったようだ。最期の言葉はあるかな?」
 アダムは優しい口調でライアンへ話しかけている。ライアンは何も言わず、涙を流しながら僕をただ見つめている。不思議と、僕に裏切られた怒りはその瞳に浮かんでいない。そこに見えるのは深い絶望と、恐怖のみだ。
 アダムはライアンの前に片ひざを付くと、片手を大きく振り上げた。その手でライアンの息の根を止めるつもりだろう。目を逸らしたい衝動をぐっと堪えて、無理やりその動向を見届けようとした。
 一瞬の内に、ライアンの顔に血しぶきが飛んだ。目を見開いたライアンは、身動き一つ取らない。振り上げていたアダムの手は、今ではライアンの前に力なく降ろされている。アダムは下を向くように頭を下げ、自分の胸元へと手を当てた。すると次の瞬間、アダムは僕とライアンの丁度中間くらいの場所へ姿を現した。僕に背を向けて、先程と同じ様に膝をついている。そしてその後ろには、いつの間に移動したのか、ウィルフレッドがピッタリとついているのが見える。左腕でアダムの動きを封じるように首を絞めており、右手はウィルフレッドの体に隠れて見えない。僕の位置から、アダムが右手をライアンへと伸ばしているのが見える。その右手は、真っ赤に染まっていた。
 僕はウィルフレッドの背後から回り込んで、ライアンの隣へ行きひざをついた。ライアンは呆然とウィルフレッドとアダムを眺めている。目を大きく見開いて、瞬きすらしていない。隣に僕が来たことにも気付いていないようだ。
「ライアン」
 肩を揺さぶって呼び掛ける。僕の声に、ライアンがハッとしたようにこちらへと視線を向けてきた。
「トレヴァー……お前……」
 涙に濡れた瞳で僕を見つめ返してくる。何が起きているのか、理解できていないようだ。それも無理はない。ウィルフレッドの動きは余りにも素早く、僕たち二人の人間の目では追いつけなかったからだ。ウィルフレッドの動きが一秒でも遅れていたら、あるいは一秒でも早く動いてアダムに反撃されていたら、ライアンはその命を奪われていただろう。
 僕は膝をついたまま、ライアンの肩を抱いた。そして、二人のヴァンパイアへと視線を投げた。
&#8195;
 さっき見えなかったウィルフレッドの右腕は、ここからならよく見ることができた。アダムの体を貫通し、血塗れの握り拳が肘の辺りまでアダムの胸から突き出ている。ウィルフレッドはアダムの体を支え、耳元で何やら囁いている。瞳には憎悪の感情がはっきりと浮かびあがっているが、口元は微かに笑っているようにも見える。何を言っているのかはあまりにも小さな声なので、僕には聞こえない。アダムはピクピクと痙攣しながらも、ウィルフレッドを掴もうと腕を後ろへ向け、空を掴むような動きをしている。ああなってもまだ息があるのか……。
 ウィルフレッドは一気に右腕を引き抜くと、アダムの身体を支えながら自分の方へと向きなおらせた。さっき、アダムが僕にしていたように首に手をかけて持ち上げている。一瞬、ウィルフレッドが首を素早く傾けた。いつも以上に鋭く、刃物のような目つきでアダムを睨む彼の目の上からは、血が流れている。首をかしげたように見えたのは、アダムからの攻撃をかわすための動きだったようだ。アダムは、自分の命が尽きかけている事を悟り、ウィルフレッドを道連れにするつもりだったのだろうか。それとも、創造者である自分の命を奪おうとしている彼への怒りが、そうさせたのだろうか。ウィルフレッドは、目に血が入らないように片目を器用に閉じている。そして、アダムの首を掴んでいる手に力を込めた。メキメキと嫌な音が、僕たちの耳にも届くほどの音量で響いている。
 そのまましばらくの間、アダムを睨みながら首を締め付けていたが、僕たちが気づいた時には、アダムは崩れ落ちて膝をついていた。何が起きたのかは見えなかったが、どうやらアダムはまだ生きているようだ。崩れ落ちたそのままの体勢で、頭を垂らしてゆらゆらと揺れている。肩を大きく揺らしながら呼吸をしているのがわかる。その喉には、ウィルフレッドの手形がくっきりと浮かんでいる。爪が食い込んでいたのか、数箇所から僅かに血が流れ出ているのが見える。
 ウィルフレッドはそんなアダムを、冷たい目で見下ろしていた。ある日突然、わけもわからないまま自分の人生を狂わせた男の最期を、どんな気持ちで見ているのだろうか。僕はウィルフレッドに気を取られていて、アダムのことを全く見ていなかった。どちらにしろ、僕の目では見えなかったかも知れないが……。

 気がついたときにはもう、アダムの指先は僕の喉に触れていた。すぐ隣で、ライアンが息を飲んだのがわかった。アダムがつけた首の傷は、ヒリヒリと痛むが大した傷ではないようだ。傷口に手を当てて確認すると、僅かにだが血が出ているのが確認できた。ヴァンパイアの攻撃を受けてこれだけの怪我ですんだのは、アダムの身体に大きな穴が空いていたからだけではない。
 うつ伏せに倒れるアダムの背中を、ウィルフレッドが片足で踏みつけて動きを制しているのだ。アダムはまだ、怒りに満ちた目で僕を睨んでいる。
「どうしたアダム。独りで逝くのは寂しいか」
 ウィルフレッドは機械のように感情のない声でそう言いながら、アダムを踏んでいる足に力を込めた。アダムは悔しさと苦痛の混ざり合ったようなうめき声をあげている。
 ウィルフレッドは、アダムを片手で立たせると、崩れ落ちそうになるアダムを抱き抱えた。アダムは何かを言いたそうに口を動かし、微かに声を出している。ウィルフレッドの名を呼んでいるようにも聞こえるが、はっきりとはわからない。口からゴボゴボと音を立てながら血を吹き出しているので、言葉なのか呻き声なのかもわからない程だ。
 ウィルフレッドは左腕だけで彼の体重を支え、右手で彼の首をへし折った。骨の折れる鈍い音が辺りに響き渡り、僕は顔をしかめた。真っ直ぐとアダムの目を見たまま、何も言わなかったウィルフレッドの右手はまだアダムの首を掴んでいる。そして、そのまま回すように引き、なんとアダムの頭を首からもいでしまった。地面へ崩れ落ちた体の上に、捨てるようにアダムの頭部を投げたウィルフレッドは、悲しんでいるようにも見えた。
 そこまで見届けて、僕はまたライアンに目をやった。ライアンは、つい先程まで本当に殺されると思っていた恐怖からか、目の前で起きたことにまだ追いつけていないのか、まだぼんやりとウィルフレッドを見ている。僕はライアンの肩を軽く掴みながら、顔を覗き込むようにして彼に声をかけた。
「ライアン、もう大丈夫だよ。巻き込んで悪かった」
 ライアンは瞬きをすると、大粒の涙をポロポロと溢して僕に抱きついてきた。
「僕がお前を裏切るって、本気でそう思ったのか? 見くびらないでくれよな」
 まだ動揺しているライアンをしっかりと抱き締めてやる。そして体を離して顔を見る。殴られたアザこそあるものの、大きな怪我はしていないようだ。
「何が起きたんだよ? あいつ……どうなったんだよ」
「ここへ来る前にな、ウィルフレッドと作戦を練ったんだ」
 僕は少し笑いながらライアンの手を引いて立たせてやった。初めて会った時、彼がそうしてくれたように。
「作戦?」
 ライアンは立ち上がり、僕とウィルフレッドを交互に見ている。ウィルフレッドは、まだ動かなくなったアダムを立ちすくんだまま見下ろしている。
「そうさ。ウィルフレッドは、アダムがどう出るかわかってたんだ。きっと、僕に二つの選択肢を与えて選ばせるはずだってね」

「トレヴァー、俺を信じるか?」
 あの時、突然そう尋ねたウィルフレッドに僕は即答をした。そんな僕に一瞬優しい笑みを見せた彼は、すぐにその笑顔を消し去った。
「あいつは、お前に選ぶように迫るはずだ。俺か、ライアンの命かどちらかをな」
 最初、何を言われているのか理解できなかった。そしてそれを理解した途端、全身の血が凍りつくような寒気が走った。言葉を失った僕を気遣うような口調でウィルフレッドはゆっくりと話した。
「それがあいつのやり方なんだ。散々苦しめて、どちらにしても誰かを見捨てるように仕向けてくる。ライアンがどれだけ泣き喚こうが、お前は俺を選ぶと言うんだ。できるか?」
 ウィルフレッドはさっき、必ずライアンを救うと言ってくれた。つまり、僕が彼を選ぶと言う事で何かウィルフレッドにとって事が上手く運ぶようになるのだろう。よくわからなかったが、できるさ、と頷いて見せる。
「今お前が想像しているよりもずっと辛いぞ。ライアンは、お前に裏切られたと思い絶望にも近い表情を見せるだろう。泣いてお前に助けを求めるかもしれないぞ。それでもまだ、俺を選ぶとライアンの前で言えるか?」
 辛辣な表情でウィルフレッドが言った。この時、僕は彼の言葉の意味を深く考えていなかった。確かに彼の言った通り、想像していたよりも遥かに辛い作戦だった。
 それでも、今僕の隣にはライアンもウィルフレッドもいる。それだけで、僕には充分だった。

「トレヴァーが素直に君を選ぼうが、俺を選ぼうが、あいつは俺の隙を見てお前たち二人とも殺していただろう。それも、惨いやり方でな。あいつは昔からそういう奴だ」
 ウィルフレッドが、いつのまにか僕のすぐ隣に来ていたことに話しかけられて気が付いた。視線はまだアダムの亡骸に向けられている。
「それじゃあ……全部演技だったのか、最初から……」
ライアンは力なく呟いた。
「あぁ。真っ向から戦いを挑めばあいつは僕かライアンを人質にして、ウィルフレッドは動けなくなるだろうって。でも、あんたは演技じゃなくて半分本気だったろ?」
 僕はウィルフレッドへ視線を向けながら話した。着ていた上着を脱いで、ゴシゴシと額から流れる血を拭っている。しばらく傷口に上着を当てるようにしてから、手に持っていた上着を投げ捨てた。上着を脱いだため、彼は薄いシャツ一枚しか着ていないのにも関わらず、寒そうな素振りは一切見せていない。
 彼が僕から離れて、アダムに付いて行くと言い放った時に僕は感じたのだ。反撃するチャンスを得られなければ、彼は本当に行ってしまう、と。だから僕は、半ば強引にこの作戦を実行させたのだ。
「元々、真っ向勝負では俺に勝ち目はなかった。チャンスがあるとするなら、奴が他の事に集中している時だけだ。自分へ向けられた攻撃に気がつかない程に奴が集中することなど……一つしかない。人間を痛めつける時だけだ。その隙を狙わない限り、奴の命を狙えるような者はいないだろう。奴はな、ああ見えて一流の……ヴァンパイアなんだ」
 ウィルフレッドはこちらを向き、ヴァンパイアという人間の付けた名前にニヤリと笑った。意地の悪い、いつもの笑い方だ。本気でアダムと共にここを去ろうとしていたのかどうかは、彼は答えなかった。
 僕も、彼に笑顔を返した。しかし僕の笑顔を見た彼は、またすぐに悲しげな顔へと変わり、僕から目を逸らした。驚くことに、額の血はもう止まっていた。
「トレヴァー、お前は大丈夫なのかよ」
 ウィルフレッドを見ていた僕に、ライアンが思い出したように声をかけた。アダムから受けた攻撃のことを言っているのだろう。
「あぁ、なんともないよ。でも、もっと早く助けてくれてもよかったんじゃないのか」
 またアダムへと視線を戻していたウィルフレッドに、首についた引っ掻き傷を見せ付けるように顔を傾けながら冗談ぽく文句を言った。ウィルフレッドは僕から目を逸らしたまま、悪かった、とだけ呟いた。いつものように僕を甘ったれの間抜けだとからかうことはしなかった。
「それで……あれは、どうするんだよ……」
 ライアンがアダムの残骸を指差しながらボソっと口にした。ライアンは多少落ち着いてきているが、まだどこかうろたえている様に見える。
 僕とウィルフレッドも、地面に転がるヴァンパイアの亡骸へ目をやった。壊れた人形のようにぐったりと横たわる姿は、残忍なヴァンパイアではなく普通の人間の死体にしか見えず、僕は思わず目を逸らした。ライアンに言われるまで、僕は全く気にしていなかったが、確かにこのまま残して帰るわけにはいかない。どこか人の居ない所へと運んで埋めるか? それとも、重りをつけて海にでも沈めてしまおうか……。
 そんな僕を尻目に、ウィルフレッドはつかつかと大股で亡骸へ歩み寄り、アダムの亡骸の上に手をかざしたように見えた、と思った次の瞬間には大きく火の手があがった。
 青く燃えた炎はすぐに燃え尽き、そこには亡骸はおろか、焦げ後すら残っていなかった。炎から離れた場所にいたわけでもないのに、炎の熱を感じることは全くなく、むしろひんやりとした冷気が肌にあたったような気がした。僕もライアンも、ポカンとその様子を見つめていた。
「な、なんだよ……今の……」
 情けない声を出したライアンと、同じく情けない顔をしているであろう僕に、ウィルフレッドはウィンクをして見せた。
「いつまでそうして突っ立っているつもりだ。もう帰るぞ。お前らは明日も、仕事とやらに行かなくてはいけないんじゃないのか?」
 腰に手を当てて、ウィルフレッドは少しだけ笑っている。この姿を見れば、アダムの言っていた事がなんとなくわかるような気がした。僕は、こんなにも美しく気品に溢れた人を見たことがない。まだどこか落ち着かない頭で、そんなことを考えていた。
 ぼんやりと彼を眺めていると、僕の視線に気がついたウィルフレッドは目を逸らして下を向いて歩き出した。
 アダムが口にした、父さんの最期。それを確認する方法は一つしかない。しかし僕には、それを聞き出す勇気がなかった。真相を知るのが怖いというのもあったが、なによりもアダムが父さんの死因について触れてから、ウィルフレッドは僕と目を合わせなくなった。この危機を無事に乗り越えたことで、いつもより柔らかい表情をしているようにも見えるがどこかぎこちない。この質問をしてしまったら、彼はまたどこかへ消えてしまうんじゃないか、何故かそんな気がしてならない。

「えぇ、嘘だろう! 二時間はかかる!」
 屋上に響き渡る大きな声で抗議をしたのは、僕だ。なぜなら、ウィルフレッドはここから家まで歩いて帰るなどと言い出しているからだ。必死に訴える僕に目もくれず、ウィルフレッドは変わらず落ち着いた様子のまま、
「そうだな、急いだ方がいいと思うぞ」
なんて言ってみせた。それどころか、既に僕たちに背を向けて歩き始めている。
「また、背中に乗せて走ってくれよ! 二時間も歩いて、明日仕事に行くなんて冗談だろ」
 僕は彼の態度を無視して、いかにも疲れています、と言いたげな口調で必死に頼み込んだ。なるべく明るく、何も考えていないかのような口ぶりで。ウィルフレッドの放つ重たい空気に、この場が支配されてしまわないように……。
「二人もいるのに、どうしろと言うんだ。俺の背中は一つしかないんだ。大体、さっきお前を背負ったのは急いでいたからだけにすぎない。甘ったれるな」
 彼は冷たく言い放ち、すたすたと大股で歩いている。
「歩こうぜ、トレヴァー。俺は、まだ命があってお前も無事なら、二時間くらいどうってことないさ」
ライアンは、ガラにもなく悟りを開いたような笑顔でそう言った。
「らしいぞ、トレヴァー」
ウィルフレッドが振り返りもせずに僕に言う。
「はいはい、わかりましたよ! 歩けばいいんでしょう!」
 僕はぶつぶつと文句を言いながら歩き始めたが、嬉しくもあった。僕は、誰も失っていない。それだけで、本当は何時間だって歩けるくらい力が湧いてくる。
 アダムの所へ向かう前、ウィルフレッドは僕に先程の作戦を持ちかけてきた。皆無事に帰ることができる可能性があるとするなら、その作戦が唯一の道だと言って。しかし、ウィルフレッドはこうも言っていた。
「いいか、もしもこの作戦通りに事が進まなかった場合、俺はお前の命を最優先に動く。その時、俺やライアンが犠牲にならないとは約束できない。例えそうなったとしても、勝手な行動だけはするな」
 いつになく低い声でそう告げる彼に、僕はただわかったとだけ答えた。実際には、そんな約束を守るつもりなど更々なかった。ライアンもウィルフレッドも失うわけにはいかなかったし、そうなるくらいなら自分が犠牲になったほうがマシだと思っていた。大切に思う誰かを失うなんて、僕にはもう耐えられない。
 僕たちは、三人で無言のまま歩いた。特にライアンは心身ともに疲れきっていて、話す余裕もなかった。少し前を歩くウィルフレッドは、時々振り返りながら僕たちの様子を伺っていた。歩きつかれてくたくたになり、歩くペースはどんどん遅くなっていくが、ウィルフレッドはそんな僕たちを急かすこともなく、同じようにゆっくりと歩いていた。やっとライアンのアパート前へ着いた時には、足は棒のようになっていた。
「じゃあなライアン。明日は、仕事を休んでゆっくりするといい。主任には僕から言っておくよ」
 そう言ってライアンを見送った。あぁ、とだけ返した彼の目は、もはや開いているのかさえも危ういほどだった。これから、階段という最大の難所もライアンを待ち受けている。あの様子では、すぐに眠ってしまうだろう。
 そこから、僕とウィルフレッドは並んで歩いた。僕のアパートはもうすぐだ。二人とも何も言わずに、アパートの前までやって来た。
「寄っていかない? 聞きたいことがあるんだ」
 僕は覚悟を決めて、ウィルフレッドに声をかけた。このまま、事実を曖昧にさせておくことはできないだろうと思ったからだ。彼は一瞬戸惑いを見せたが、小さく頷いた。

 家に入り、右腕についたアダムの血を洗い流したウィルフレッドにタオルを渡し、僕はソファへと腰をかけた。ゆっくりと紅茶を淹れながら、さりげなくウィルフレッドを観察する。
 彼は素早く腕を拭くと、袖を正し、やはり優雅に音もなく座った。うちにあるボロボロのソファと、彼のコラボはなかなか笑えるものがある。そう思いながら彼の前に紅茶を置くと、彼はそれを飲みながら僕に視線を向けた。今までのように、冷たさと鋭さはない。優しさと愛情に満ちた視線だ。真っ直ぐ向けられた彼の視線に少し戸惑って、目を逸らしてどうでもいいことを口にした。
「あ、あんたには紅茶よりもコーヒーの方がよかった? 確か、前に貰ったのがあったと思うけど……」
 ウィルフレッドは紅茶の入ったカップをテーブルに置くと、小さく首を振った。
「いや、この国のコーヒーは泥水のような味がする。紅茶で結構だ」
 失礼な、と彼に抗議の視線を向けたが、アメリカとはコーヒーの淹れ方に違いがあるらしいという話を聞いたことがある。以前パブで出会ったアメリカから来たと言う旅人も、イギリスのコーヒーは美味しくないと文句を垂れていた。
 僕の視線に、悪気はないさ、とでも言うように両手を軽く挙げた彼の袖に付いた、既に黒くなっている血に目がいった。
「ヴァンパイアも、怪我をしたら血がでるんだな。それに、あのアダムって奴はあんたよりだいぶ顔色はよかったみたいだし」
少し苦笑いをするような表情を浮かべてから、彼は足を組んだ。
「俺たちは、お前らよりも遥かに強いというだけで体の構造はさして変わらない。人間よりも量は少ないが、同じ赤い血が通っているさ。俺の顔色は……人間だったころから大して変わっていない」
 まさか、彼の青白さが人間だったころから変わっていないなんて……。彼の顔をまじまじと見つめ、思わず吹き出してしまった。彼の顔色は、よく聞く『ヴァンパイア伝説』そのもので、てっきりヴァンパイア特有のものだと思い込んでいた。
「本当かよ。あんたみたいに真っ青な人間、僕見たこと無いよ。どこか悪かったんじゃないのか?」
 ケラケラと腹を抱えて笑う僕を、彼が鋭い目つきで睨んでくる。その顔に残る額の傷は数時間前に廃校を後にした時よりも、明らかに良くなっている。ヴァンパイアというものは、怪我の回復すらも早いと言うのだろうか。
「あんたの傷……ちょっと治ってきてないか? ついさっきついた傷なのに!」
 驚いた僕が声を上げると、彼は軽く傷に手を触れて答えた。
「あぁ、これくらいの傷なら一日もしないで跡形もなく消える。それよりも、お前にあんな想いをさせる事になってすまなかった。ライアンの涙は、お前には堪えただろう」
 まだ充分に痛む僕の首についた傷よりも、遥かに大きな怪我だったのに……。唖然とする僕に、彼が優しい声で言った。
「確かに、簡単じゃなかった。でも、別にあんたのせいじゃない。それに、あんたは約束通りにライアンを助けてくれたじゃないか。僕を気遣ってくれるのは有難いけど、いい加減何でも自分のせいだと思い込む癖は直した方がいいな」
 僕を心配するような顔をしていたウィルフレッドは、小さく首を振って少しだけ目を伏せた。
「他に聞きたいことがあったんじゃないのか」
 驚異的な治癒能力と彼が見せた悲しげな表情に気を取られて、他のことに気が回っていなかった。
「あ、あぁそうだ……忘れるとこだった……」
 彼は小さく声をあげて笑った。呆れているような、今この時間を楽しんでいるかのような、落ち着いた笑い方だ。彼の見せた笑顔に、僕は心から安心していた。
「あの時、あいつの胸を……貫いた時。あんた、なんか言ってただろ? なんて言ってたのかな……って」
 彼はまた声をあげて笑った。間違いない、アダムを始末してからのウィルフレッドは変わった。彼をまとっていた冷たいオーラはもうない。僕の家に着いてからは、あの哀しげな目も見せなくなっていた。嬉しくなって、つられて僕も笑った。
「お前は、本当に間抜けな奴だな。そんなことよりも、聞かなくてはならないことがあると思うがな。まぁいい」
彼は柔らかい笑顔を一瞬だけ崩して眉間にしわを寄せると、また僕に笑顔を見せた。
「あの時俺は、奴にこう言ったんだ。『残念だな、アイツの勝ちだ』ってな」
 そう言うと彼は、紅茶の香りを嗅いでからゆっくりと飲んだ。
「アイツって……僕のこと?」
彼は答えなかったが、変わらず穏やかに微笑んでいる。その姿を見て、もうひとつ聞きたかったことを思い出した。
「ねぇ、あんたのそのネックレスだけど……。十四年前からずっとつけてるよな。何か意味があるの?」
 彼は自分の胸元で輝くネックレスへと視線を落とした。少し考えているように見える。そしてふとその顔に笑みを浮かべると僕を見て問いかけてきた。
「お前、ヴァンパイアはなぜ十字架が苦手だと言われているか知ってるか?」
 僕はあまりおとぎ話や伝説には興味はないが、それくらいは知っている。
「ええと……ヴァンパイアは闇の生き物で、神聖なものである十字架はヴァンパイアにとって相反するものだから、とかそんな理由じゃなかった?」
彼は笑いながら頷いた。手は十字架を握っている。
「そう。それを知ったまだ少年だったブラッドは、俺は闇の生き物なんかじゃないと泣きながらこれをくれたんだ。まるで、俺が悪の象徴であるかのように扱われているようで悲しいと言ってね。もちろん、俺はそんなくだらんこと全く気にしていなかったが、子供にあんな風に泣かれたら受け取らないわけにはいかないと思ってな」
 十字架を握りしめながら、彼は感慨深げに下を向いていた。父さんとの思い出を振り返っているのだろうか。口ではああ言っているが、その後ずっと身に着けているところを見ると、本当はとても嬉しかったのだろう。
 彼が身につけている物の中で、ネックレスだけが高級品じゃなかったのも、これで納得だ。当時子供だった父さんが買った物なのだから、ほとんどおもちゃのようなものだろう。ウィルフレッドが身につけることで、そこまで安物には見えないのがなんだか悔しい。
 彼はふと顔を上げると、観察するような目つきで僕を見た。
「お前……他に聞かなくてはいけないことがあるだろう」
 先程までとは違い、真剣な声だ。僕は少し間を空けてから彼に問いかけた。
「アダムが言ったこと……本当なんだろ。否定もしなかったし。でも……何か理由があったんだろ? そうだよな?」
 もう、くだらない質問でごまかすことはできない。しっかりと彼の目を見たまま、前のめりになる。目を逸らせば、一瞬のうちに彼が消えてしまいそうでじっとその目を見ていた。彼はしばらく黙って下を向いていた。僕も何も言わずに、ただ彼の言葉を待っていた。
「俺がお前を車から出した後、ブラッドが目を覚ました。アダムは車を破壊するだけじゃなく……ブラッドとアデラの体も引き裂いていたんだ。お前の命まで奪わなかったのは、子供があの状況で助かるとは思わなかったか、お前を孤児にすることで俺の罪悪感を強めようとしたかのどちらかだろう」
 彼は小さな声で、ボソボソと話し始めた。きっとこれは、彼にとってすごく辛い話なはずだ。そしてもちろん、聞いている僕にとっても。

「ブラッドは意識があるのも不思議な状態だった。お前に触れて詫びた後、俺に殺してくれと頼んできたんだ。あまりの激痛に耐えかねてな。どちらにしても、ブラッドが生き延びるのは不可能な状態だった。だから……俺は……」
 前に僕を助け出した話をしてくれた時と同じように、彼は頭を抱えてしまった。泣いているのだろうか、少しだけ震えているように見える。
「黙っていて悪かった。隠したかったわけじゃない。だが、どうしても言えなかったんだ。お前を見ると、あの時のブラッドの苦痛に満ちた表情と、最期の言葉を思い出すんだ」
「最期の……言葉って?」
 思っていたよりも冷静に、ウィルフレッドの言葉を聞く事ができている自分に驚いていた。彼の口から説明される過去の記憶が、まるでスクリーンに映したように僕の目の前に広がっていくような気がした。
「トレヴァーを頼む。ブラッドは激痛に悶えながら、俺の目を見てはっきりとそう言ったんだ。俺がブラッドの血を飲み干したのは、それが一番楽に逝ける方法だと思ったからだ。俺が……あいつの命を吸い上げている時も、あいつはお前の頬に触れながら見つめていたよ。わかっただろう? 俺は、お前の傍にいる事すら許されないんだ。お前の父親を殺したのは俺だ」
 ウィルフレッドはまだ頭を抱えてうずくまる様に座っている。彼から全てを聞いて、僕は安心していた。僕の思った通り、彼はヒーローだ。血の匂いに狂ったモンスターなんかじゃない。
「ありがとう」
 僕の言葉に、ウィルフレッドは驚いた顔を向けた。どうやら泣いていると思ったのは気のせいだったようだ。大きく目を見開いている。
「なんて言った?」
 まるで僕が何かとんでもないことでも言ったかのような顔をして、僕を見つめている。
「だから、ありがとうって。あんたにとって、父さんは友達だったんだろ。なのに、アダムに襲われて……怪我をして苦しむ父さんのために、そうしてくれたんだろ。あんただって傷ついたはずだ。それなのに、父さんを苦しみから解放してくれて、ありがとう。父さんだって、きっとそう思ってるはずだよ」
 僕はウィルフレッドから目を逸らさずに言った。子供の頃から見守ってきた父さんの命を、自らの手で終わらせなければいけなかった彼の気持ちは、一体どんなものだっただろうか。きっと彼は、今でも苦しんでいるはずだ。彼の見せる哀しみに満ちた瞳は、そのせいだろう。ウィルフレッドは体勢も表情も変えないまま、彫刻のように固まってしまった。今、何を考えているのだろうか。
「ねぇ、ちょっと大丈夫? 石かなんかになっちゃったわけ?」
 彼の見開いたまま瞬きもせずに固まっている目の前で、手をヒラヒラと振ってみる。
 彼は一瞬のうちに体勢を崩して、また頭を抱えてしまった。一体どうしたのだろうか……。何て声をかければいいのかがわからなくて、ただオロオロとその姿を見つめていた。
「本当にそれでいいのか。お前の気が済むまで責めていいんだ。二度と顔を見たくないと言うのなら、俺はそれに従う。お前の命を助けたことに恩を感じているなら、その必要はない。ブラッドと約束したから助けたわけじゃない。これ以上、自分の気持ちを押し殺すな。お前は……」
 事実を聞けば、僕は彼を恨み、父さんの命を奪ったと責めるとでも思っていたのだろうか。彼の事だ、間違いなく、そう思っていたのだろう。小さな声だが、ハッキリとした口調で語りだした彼の言葉を最後まで聞かずに、僕は遮った。
「ちょっと。僕があんたに助けてもらったお礼に、父さんにしたことを忘れようとしてるとでも言いたいわけ?」
 彼は話すのをやめ、顔をあげた。眉間に深いしわを寄せて、考え込むような顔をしている。僕はわざとらしくため息をついてから、話しだした。
「あんたの家で、初めて話を聞かせてもらった時からずっと思ってたけどさ……あんた、とんでもなく悲観的に物事を見る癖があるよな。僕はそんな器用に嘘がつけるような性格じゃないよ。知っているだろ?」
 僕は、今この状況で作れる限り精一杯の笑顔を彼へ向けた。
「そもそも僕は、あんたが父さんの命を奪ったなんて思ってないよ。あんたは、父さんの命がアダムに奪われるのを止めてくれたんだ」
顔を少し傾け、意味がわからないと言うような顔をしている。
「だってそうだろ? そのまま放っておいたら、アダムの攻撃のせいで結局死んでいたんだ。それも、酷い痛みに苦しみながらね。それをあんたが、救ってくれたんだよ。あんたはさっき、父さんの命を吸い上げたって言ったけど、それは違う。父さんは、あんたの中に生きているじゃないか」
 そう言って僕は、彼の胸に輝く十字架を指差した。ウィルフレッドはしばらく呆然と座っていた。何を考えているのか、どこを見ているのかもわからない。
 しばらくそのまま彼を見ていると、目を閉じて深く息を吐き出した。
「俺は悲観的なわけじゃない、現実的なだけだ。お前の両親が命を落としたのは、紛れもなく俺の責任だ。だが……お前のおかげで、気持ちが少し軽くなった」
 体を楽にし、背もたれによりかかりながら少しだけ微笑んで彼は言った。僕は言葉を返す代わりに、ウィルフレッドの真似をして意地悪く笑ってみせた。彼は一瞬、眉間にしわを寄せると、下を向いて笑い出した。僕に真実を話して、少しは楽になったのだろうか。
「まさか、お前に慰められる日が来るとは夢にも思ってなかったよ」
 今までに聞いた事のないような声で、笑いながらウィルフレッドが言った。目を細めて笑い、小さく首を振っている。彼は、笑うと目尻が下がっていくらか優しい印象になる。
「ネガティブなヴァンパイアのお世話をするのも、楽じゃないよ」
 僕は大げさにため息をついて、腕を組みながら彼を見つめた。ウィルフレッドは、調子に乗るなよ、と低い声で言いながらテーブルの上に無造作に散らばっていたビール瓶のふたを、僕に向かって指ではじいた。あまりの速さに、手で掴むことができずに、僕のおでこに間抜けな音を立てて当たった。ウィルフレッドは痛がる僕を見て、いつものように意地悪そうに笑っていた。瓶のふたが当たっただけとは思えないほどに痛かったが、おでこを撫でながら、僕も笑い飛ばした。

「そういえば、あんたって花が好きなの? とてもそうは見えないんだけど……」
 前に僕のロッカーに入っていた花の話をした時、ウィルフレッドはすぐに花の名前と花言葉とやらを言い当てた。彼は花に詳しいのだろうか? 彼を見ていると、小さなことまでたくさんの疑問が湧いてくるようで、つい質問攻めにしてしまう。
「失礼な奴だな。俺ほど花の似合うヴァンパイアは、世界中を探しても見つからないぞ」
 片方の眉をあげて、得意げに彼は言った。ボロボロのソファに足を組み、背もたれに腕を広げて堂々と座っている。哀しげな瞳を消し去り、今では冗談を言う余裕も出てきているようだ。
「いや、まぁ確かに……似合いはするよな」
そんな姿を見つめながら、花を持つ彼を想像してみた。彼の無愛想な性格と鋭い声には似つかわしくないが、確かにその麗しい容姿には申し分なく似合うはずだ。
 僕の返答を聞いたウィルフレッドは、これでもかと言うほどに眉間にしわを寄せている。
「似合うって言ったのは自分だろ?」
おかしくなって、僕は笑いながら答えた。彼は片手で顔を覆っている。僅かに見えるその顔は、心底嫌そうな表情をしている。ますますおかしくなって、僕は笑いが止まらなくなってしまった。きっと彼は、僕が否定すると思ったのだろう。
 その美しい容姿故にアダムに人生を狂わされたのだから、そういった類のことは言われたくないのかもしれない、と呼吸を整えながら気がつき慌てて彼の表情を伺ったが、怒っているわけではないようだ。呆れたように僕を見ているが、口元は少しだけ微笑んでいる。小さなため息をついて、呆れた様子を見せている。
「俺が花に詳しいのは、母親の影響だよ。毎日花を摘んできては部屋に飾っていた」
 笑いの収まった僕に、彼が説明した。嫌そうな顔こそしていないが、まだニヤついている僕をこれ以上笑わせまいと軽く睨んでいる。
「へぇ、お母さんのね……。あんたって、絶対お母さん似だろ」
彼は答える代わりに、先程よりも鋭い目で睨んできた。出会ったばかりの僕なら、完全に萎縮して黙ってしまっただろうが、今の僕は彼の表情がただの冗談であることがわかっている。ウィルフレッドとこんな風に会話できることが嬉しくて、つい笑ってしまう。こんなにも嬉しいと感じるのは久しぶりのことだ。ウィルフレッドはもう僕を睨むのを止めて、穏やかな瞳で微笑んでいる。

「さて、そろそろ帰るとするよ。ここにいると、朝までくだらん質問につき合わされそうだからな。明日、主任にどやされても守ってくれる過保護な兄貴は休みだぞ。ついでに、超過保護な伯父もしばらく休みだ」
彼はお返しだ、と言わんばかりに意地悪そうに笑ってそう言いながら、立ち上がって歩き出した。僕が立ち上がった時にはもう、ドアに手をかけていた。
「もう、あんたに関わるななんて言わないよな? 一緒にいてくれるんだろ?」
 僕は急に不安になって、彼に聞いてみた。ウィルフレッドは真顔でこちらを向き、じっと僕を見ている。さっき言っていた通り、額の傷は既にうっすらとしか残っていない。
「お前は父親似だな。髪や瞳の色も、無謀なところも父親譲りだ。甘ったれなところもな」
 冷たくそう言ったが、瞳にはもう哀しみは浮かんでいない。そして、ニヤリと笑うと僕の顔をじっと見つめた。僕の中に見える、父さんの面影を探しているのだろうか。
「お前が望む限り、俺はここにいる。それがブラッドとの約束でもあり、俺自身の望みでもある」
 僕を安心させるような口調でそう言うと、既に体はドアの向こうへ出ていた。
「あ、待って。最後にもう一つだけ」
 もう一つ彼に聞きたい事を思いだした僕が声をかけると、彼は足を止めて振り返った。
「あの日、僕達がピクニックに行った公園がどこだか知ってる? もう一回行きたいんだ」
彼は一瞬、何とも言えない感情を浮かべた後、下を向いて咳払いをした。
「あぁ、知ってるよ」
 顔を上げた時、彼は少し悔しそうな顔をしていた。救えなかった僕の両親の死を、今でも悔やんでいるのが伝わってくる。
「もう少し暖かくなったら、ライアンを誘って行こうと思うんだけど……良かったら、あんたもどうかな……」
 穏やかな日差しの下で、僕達とピクニックを楽しむウィルフレッドなんてあまりにも違和感がありすぎて想像もできない。きっと、彼はため息をついて僕の誘いを断るだろう。と、思っていたのだが何故か彼は穏やかな笑顔を浮かべて見せた。
「何だよ、珍しく嬉しそうだな」
「お前達がピクニックに行った前日、ブラッドと約束したんだ」
 ウィルフレッドが突然口にした脈略の無い言葉に、思わず顔をしかめる。
「え? 何の話?」
「ブラッドの誘いを、俺はあの日断った。その代わり、次に誘われた時は必ず行くと約束をしたんだ」
 そう言った彼は、意味ありげに笑いかけた。彼の言葉の意味を理解した僕も、思わず笑っていた。
「きっと父さん達も、今頃喜んでるよ」
 僕の言葉に真っ白い歯を覗かせて笑ったウィルフレッドは、小さく頷いた。そして、軽やかに僕に背を向けると首を少しだけ回して横目で僕を見た。
「紅茶、旨かったよ。ゆっくり寝るんだな。じゃあな」
 音も無く歩き出したウィルフレッドの履くいかにも高そうな革製のブーツを眺めながら、ぽつりと返事を返す。
「うん、おやすみ……」
 閉まりかけたドアから彼の声が響いた。
「シャワー浴びろよ。お前、臭うぞ」
「またそれかよ! わかってるよ、うるさいな!」
 ドアが閉まる直前、彼の笑い声が聞こえた気がした。

 身体にこびり付いた全てを洗い流すように、熱いシャワーを浴びた。首につけられた傷がヒリヒリと痛んだが、無理やりザブザブ洗い流した。冷え切った身体に、熱いお湯がじんじんと傷む程染み込んでいく。固いベッドに疲れ果てた身体を投げ出して、天井を見つめながら物思いにふける。
 両親のことを実際に知っているウィルフレッドの存在は、僕にはとても大きな意味がある。それまで、両親のことは記憶の断片に浮かぶ映像でしかなく、まるで誰かの記録映画でも観ているかのごとく、現実味のないものだった。しかし、彼の口から両親との思い出や、彼らの僕に対する想いを聞くことで、僕の中にある両親の記憶は、色鮮やかに息を吹き返したかのようだった。仕方のない事故だったとわかっていながらも、どうして彼らは僕だけを残して逝ってしまったのかとずっと思い続けてきた。何故、僕だけが助かってしまったのかと悔やんでいた。両親と一緒に死んでいたほうが、こんな生活よりもよっぽどよかったと、幼い僕は全てを恨んだ。そんな僕を、助けてくれたウィルフレッドはどんな気持ちで見ていただろう。両親は、どう思っていただろうか。
 暖かい気持ちで、僕は目を閉じた。瞼には僕に向けられたアダムの最期の表情が浮かぶ。強い憎しみを、まっすぐに僕へと投げかけていた。この光景は一生忘れることができないだろう。しかし明日からは、平穏な日常がまた始まる。まるで、今晩のことなどベッドの中で見た悪夢でしかなかったかのように。
 何よりも幸せなことは、ありきたりな毎日だと僕は知っている。僕は寝返りをうち、心地好い眠気へと身を任せた。僕の心を支配していた寂しさも、悪夢への恐怖心も綺麗さっぱり消えうせていた。
生きてさえいれば、人生なんてどうにでもなる。全ては、本人の気持ち次第なのだ。

 雨の音で目を覚ました僕は、薄目を開けて窓を見た。空はまだ薄暗く、冷たそうな雨が窓ガラスを伝っていた。何時ごろだろうか……。雨のせいで暗いのか、それともまだ夜が明けきっていないのだろうか。眠気と頭の重さと戦いながら、体勢を変えて枕もとにある小さな時計に目をやる。残念ながら、僕の期待は大きく外れた。仕方なくノソノソと起き上がり、冷たい水で顔を洗って無理やり目を覚ました。シリアルと牛乳で簡単な朝食を取ってから、慌しく家を飛び出した。
 冬のロンドンの、よくある濡れた景色を眺めながら職場へと向かった。大きな十字架も雨に濡れて、テカテカと輝いていた。
 ロッカールームの扉を開けると、そこにはライアンが立っていた。丁度着替え終わったようで、緑色のジャンパーのポケットから煙草を取り出していた。
「おぉ、トレヴァー。おはようさん」
意外なほどに元気そうに声をかけてきた。僕はジャンパーを脱ぎながら、彼に声をかけた。
「今日は休むと思ってたよ。大丈夫か?」
 着替えながらライアンの顔をよく見てみる。少しだけ疲れたようにも見えるが、顔色も悪くない。僕は少しホッとしていた。昨日のことがトラウマにならなければいいと思っていたからだ。
「あぁ、一晩ぐっすり寝たら回復したさ。なんだよ、俺がそんなに弱いと思ってたのか」
 ライアンは笑いながら僕の肩を小突いてきた。ジーパンから作業着へと着替えようとしていた僕は、思わずよろめいてしまった。そんな僕を見て、笑い声をあげながらベンチに座っているライアンを軽く睨んでズボンを履く。昨日、延々と歩いたり投げられたりしたせいか、身体のあちこちが痛む。
「弱いとは思ってないけどさ、あんなことがあったんだ。一日くらいゆっくりしてもよかったんじゃないか」
僕の問いかけに、ライアンは少し考えてから答えた。
「確かに、すげぇ衝撃的な体験だったよな。でもよ、今こうして俺らは無事なわけだし。お前に助けられたお礼も言ってなかったしな」
着替えが終わって、ライアンへ向き合っていた僕に、突然真顔で言われたので少し気恥ずかしくなってしまった。
「なんだよ、急に真面目くさって。ガラじゃないぞ。それに、助けたのは僕じゃなくてウィルフレッドだろ。僕は何もしてないどころか、お前を裏切ったと思わせたんだぞ」
 真面目な空気に耐えかねて、冗談めいたような口調で明るく答えた。ライアンは相変わらず真面目な顔をしている。
「裏切ったのは演技だろ。お前は、俺の姿を見るなりあのアダムって奴に食ってかかったろ。なんつうか……嬉しかったよ。ありがとな、助けに来てくれて」
 僕の必死の抵抗も空しく、ライアンは真面目な空気を保ったまま話し続けた。こうなったら、僕も真面目に答えないわけにはいかない。ライアンと真面目に話すなんて、もしかしたら初めてかもしれない。
「何言ってんだ。当たり前だろ。弟だって、たまには兄貴を守らないとな。ほら、そろそろ鐘がなるぞ」
 あの時と同じように、僕はライアンへと片手を伸ばして立ち上がらせた。ライアンも笑って手を掴んだ。
「そうだな、早く行かないと主任に怒鳴られちまう」
並んで歩き出した僕たちを急かすように、始業の鐘がなった。僕らが作業場に着くと、丁度主任が朝礼を始めようと作業員を集めているところだった。ライアンと滑るように、さりげなく列に混じった。なんとかバレずに間に合った……と目配せをしたその時だった。
「フェリス、バートレット。遅いぞ、何をしていたんだ」
 主任が静かな声で僕らの名前を呼んだ。ただでさえ目をつけられている僕らが遅れてきて、見つからないわけがないか、と肩をすくめた。僕が口を開く前に、ライアンが切り出した。
「すみません、主任。昨日の朝、バイクにひき逃げされてしまって怪我をしてるんです。トレヴァーはここまで僕に手を貸してくれたので遅くなっただけです。時給は僕の分から引いて貰えますか?」
 いつもは反抗的なライアンが、素直に謝った上に時給を引いてくれて構わないなどと言ったものだから、主任も面食らったようで黙りこくってしまった。ライアンにしては珍しく、かなり丁寧な態度だった。それにライアンの顔には、アダムにやられた痣が残っているので説得力も抜群だ。他の作業員達の目もあってか、主任はそれ以上追及するのをやめてしまった。うまくいけば、時給も引かれないかもしれない。なにせ相手は事故の被害者で、怪我人なのだから。点呼を取り、注意点などを聞いてから朝礼は解散となった。僕はわざとらしくライアンに肩を貸して、作業場へとゆっくり歩いていく。
「昨日のお前と同じくらい、名演技だったろ」
 ライアンが得意顔をしながら、小声で話しかけてきた。
「バカ言え。僕の足元にも及ばないさ」
 二人で笑いながら作業場へとついた。ライアンは何かを探すようにキョロキョロとしながら仕事の準備をしている。
「なぁ、あいつ、今もどこかで見てるのかな」
さっきよりも小声で話しかけてくる。どうやら探し物はウィルフレッドのようだ。
「どうかな。アダムもいなくなったし、そんなに危険があるわけじゃないだろ。多分、あいつも疲れて寝てるんじゃないか」
 主任が厳しく目を光らせているので、手を止めずにライアンに返した。花のことも彼は知らなかったし、わざわざ毎日様子を見に来ているわけでもないだろう。そう思いながら、手元を照らす為のスタンドのスイッチを入れようと手を伸ばした。ライアンはそれもそうかと言うように頷いて、作業に取り掛かろうとしている。
 これから製品チェックをするガラスの入っているダンボール箱を開けながら、ライアンは目を輝かせて聞いてきた。
「あいつ、やっぱり棺で寝るのかな?」
 本物のヴァンパイアに質問できる機会を与えられて、この質問をしない人間は恐らくいないだろう。少年のようにキラキラとした目で僕を見つめるライアンを、少し楽しませてやろうかという悪戯心が僕に芽生えた。
「あぁ、彼の家に行った時に見せてもらったよ。あんなのに入って眠るなんて……ゾッとするよな」
 僕は大げさに声のトーンを落とし、ブルっと震えてみせた。ちらりとライアンを見ると、少年のような笑顔をさらに大きく浮かべて僕を見ていた。
 ライアンにしては珍しく、作業をする手が完全に止まっている。そんなライアンの様子がおかしくて、僕は今にも笑い出しそうだったが、ネタばらしはまだ早いだろう。もう少し、夢を見させてやろう。
「実際、コウモリになって空を飛ぶなんてどんな気分だろうな。棺で寝たり、人の血を飲んだりするのは勘弁だけど、空を飛ぶのは興味があるよな」
 ライアンに負けじと、ワクワクしているような笑顔を作って話しかける。
 するとライアンは、今までの楽しそうな表情を一転させて、真剣な顔をして前を見ている。嘘だと気づかれてしまったのだろうか。しばらく何も言わずに考え込むような仕草を見せたあと、ライアンはこちらを向いてとんでもないことを言った。
「なぁ、あいつに噛んでもらえば、俺もヴァンパイアになれるんだよな……」
 予想すらしていなかった親友の発言に、驚きのあまり言葉を失ってしまった。確かに、ライアンが初めてウィルフレッドの姿を見たあと、彼はヴァンパイアになりたいと口走っていたが、まさか本気で言っていたなんて……。僕は慌ててライアンを説得しようと、僕たちの間にある箱やら小さな台なんかが置いてあるスペースを乗り越えるように身を乗り出した。
「おいおいライアン! 冗談だろう? 何言ってるんだよ」
 ライアンは作業を続けたまま、僕に一瞬視線を向けるとまた細かい作業を続ける目元へと視線を落とした。大真面目な顔をしているところを見ると、どうやら本気のようだ。
「なぁ、本気で言ってるのか? ヴァンパイアになりたいだなんて……なんでそんなこと」
からかうつもりだった僕の言葉が、余計な一押しとなってしまってなければいいのだが。
 ライアンは黙ったまま作業をしている。ふざけているわけでもなく、特別大真面目というわけでもない、あくまで普通の様子で仕事を続けている。
「バカなことを言ってないで真面目に働け」
 突然耳に響いた声に驚いて、手に持っていたガラスを落としてしまった。一度落としてしまったガラスは割れていないか、製品として問題はないかなどの確認をしなくてはならない。余計な仕事が増えてしまったことに、僕は肩を落とした。ガラスを落とした音に、周りの視線が一瞬こちらへと集まる。しかし、ライアンだけはガラスを手に持ったままの姿勢で固まっている。どうやら、さっきの声はライアンにも聞こえたようだ。しばし固まっていたが、すぐに落ち着きを取り戻して目だけをキョロキョロと動かしている。
「僕たちから見えるところにはいないと思うけど……」
 小声でライアンに話しかける。ライアンは僕の声を無視して、まだウィルフレッドの姿を探しているようだ。
 午前中を落ち着きなくソワソワと過ごした僕に対して、ライアンはまるでいつも通りといった様子だった。僕がからかおうとしていることに気がついて、逆に僕が騙されているのだろうか? それならいいのだけれど……。親友までヴァンパイアになってしまったら、ただでさえ奇想天外な僕の人生に、頭がついていけなくなってしまう!
 お昼を食べようといつもの場所へとライアンと向かう道のりも、先程のことを問い詰めたくて仕方なかったが人目もあるのでやめておいた。人気のない、裏庭へと出た所で僕はライアンの腕を掴んで問いかけた。いつの間にか雨は止んでいて、どんよりとした曇り空がロンドンを覆っていた。
「おいライアン、さっきの話、冗談だろ?」
 半ばすがるような声で質問した僕を、ライアンは軽く笑い飛ばした。
「いーや、本気だぜ。俺はヴァンパイアになりたいんだ」
笑ってはいるものの、ふざけている様子はない。どうやら、本気で言っているようだ……。
「何言ってるんだよ。さっき僕が言ったコウモリの話なら、ヴァンパイアになったって変身なんかできやしないぞ」
 何食わぬ顔でサンドイッチに貪りついているライアンに、僕は必死に話しかけた。しかし、ライアンは僕の心配などどこ吹く風といった感じで、至極落ち着いている。
「なんだよ、あれは嘘かよ。まぁいいさ、俺は別に、コウモリになりたいわけじゃないぞ」
 口いっぱいに入ったサンドイッチを飲み込んで、軽い調子でライアンが言う。
 その時、ライアンに何て言おうかと考えを巡らせている僕の耳に、今ではすっかり聞きなれたため息が届いた。
 ライアンから目を逸らし、正面へと視線をやるとやはりそこにはウィルフレッドが立っていた。腕を組み、足の力を抜くように立ち、地べたに座っている僕たちを見下ろしている。瞳に冷たさはないが、呆れているように見える。
「さっきの話、聞いてたんだろ? 頼む、俺も仲間にしてくれ!」
少し緊張した様子だが、興奮気味にライアンがまくし立てた。ウィルフレッドが返事をする前に僕は口を挟んだ。
「ライアン! お前何考えているんだよ!」
 僕たちのやりとりをウィルフレッドは何も言わず、顔色ひとつ変えずにただ眺めている。
「俺がヴァンパイアになったって、何も変わらないだろ? 前に、血を飲むために人殺しもしないと言ったじゃないか」
 何故僕が止めるのかがわからないといった様子でライアンは僕を見た後、返事を聞こうとウィルフレッドへと真剣な視線を向けた。
 実際、僕もなぜ止めるのかと聞かれれば明確な答えは出せない。しかし、親友が自ら人間としての人生を終わらせようとするのを、黙って見ているわけにはいかない。
「黙ってないで、あんたからも何か言ってくれよ。まさか、仲間にしようなんて考えてないよな?」
 余計な事を言うな、とでも言いたげな視線をライアンが投げかけてくるが気がつかないふりをした。ウィルフレッドは相変わらずに表情を変えないまま、ため息をついた。
「お前がヴァンパイアになりたいなどと戯言を言う理由は何だ。仲間にして欲しければ、俺を納得させてみろ」
 笑ってこそいないが、楽しんでいるような声でウィルフレッドは答えた。
チャンスがあるのかと、ライアンは先程見せたようなキラキラした目でウィルフレッドを見つめながら、はじかれた様に立ち上がった。
「だって…………かっこいいじゃないか。年も取らないし、考えられないくらいに強くて。おまけに太陽も十字架も大丈夫なんて、無敵だろ。それに、ヴァンパイアは伝説の生き物だ。誰だって憧れるのが普通じゃないのか」
 ウィルフレッドからは適度に距離を保ったまま、早口でライアンは身振り手振りを交えて熱弁している。自分の人生を大きく変えようとする理由が、そんなものだなんて……。僕は脱力しかけたが、ライアンはあくまで本気のようだ。
 ひとしきり熱い想いを語ったライアンは、黙ってウィルフレッドの返事を待っている。
 ウィルフレッドは、その目に力を込めてライアンを見返した。その迫力にライアンは固まっているが、相変わらず目は輝かせている。恐らく、今の脅すようなウィルフレッドの目つきは彼の思惑を大きく外れ、ライアンの決意をますます強めたことだろう。
「年も取らないということは、お前が今大切に思う全ての人の死を、看取らなくてはならないということだ。トレヴァーもいずれお前を置いて先に死ぬだろう。お前が結婚したいと願う相手もだ。独りになるんだぞ。それでもまだ、変わりたいか」
 よかった……。ウィルフレッドにはライアンをヴァンパイアに変える気はないようだ。
「更に転生してからの数ヶ月は、全ての感覚が研ぎすまされたことへの対応に追われて苦しむことになる。今までは見えなかったもの、聞こえなかったものが全てお前の感覚の中へ断りなしに入ってくるんだ。それに、お前が何よりも苦しむことになるのは……」
ここまで言うと、じっとライアンを見つめた。ライアンはただ噛まれれば、簡単にヴァンパイアになれるわけではないと知ったからか、表情には先程よりもためらいが見える。
「血への渇望だ」
 静かに、吐き捨てるようにウィルフレッドは続けた。ライアンの馬鹿げた希望を、心変わりさせようと淡々と事実を述べていく。
「しばらくして、身体が完全に変わってしまえばそう頻繁に血を飲むことはなくなる。しかし、噛まれてすぐの頃は身体を変えるために必要な膨大なエネルギーを、血から得ようとする。今のように、トレヴァーの近くになど寄ってみろ。理性など働かないぞ。俺に噛まれた後のお前には、もはやトレヴァーを親友として見る事すら至難の業だろうな」
 ライアンの視線は、表情も変えずに腕を組んだままのウィルフレッドから、僕へと向けられた。ヴァンパイアになりたいという想いに、初めて迷いを見せている。
「トレヴァーは抵抗することもできずに、お前に血を飲まれておしまいだ。変わりかけているうちは、血を飲むことを途中で止めるなど絶対に不可能だ。血を飲み干して冷静さを取り戻した頃に、もう動かなくなったトレヴァーを見てお前は何を思うかな。トレヴァーだけとは限らない。一緒に働いている仲間や、道で通り過ぎた近所の住人……その命を全て奪うことになっても、もう人間に戻る術はないんだぞ」
 今のは、ウィルフレッドの経験談だろうか……。彼が家族から離れた理由も、恐らくこれが原因なのだろう。自らの手で家族を傷つけることのないように別れを選ぶしかなかった彼の悲しみがどれほどのものだったのか、想像するだけで胸が張り裂けそうになった。
 ライアンは神妙な面持ちで僕を見つめたまま、自分の気持ちを確認するかのように考え込んでいる。僕もウィルフレッドも、何も言わずにライアンを見つめる。
「俺がトレヴァーを殺して血を飲むなんて、そんなこと……」
 ライアンはうなだれる様に下を向いて、地面を見つめている。自分ではコントロールできない欲望によって、理性を失うと聞かされ動揺しているようだ。
「血を求めるお前にとっては、トレヴァーですらない。甘い香りを放つ餌としてしか認識できなくなる」
 ウィルフレッドは冷たく言い放ち、ライアンへと一歩歩み寄った。
「ライアン、なぜわざわざ自らの人生を捨てるようなことを望むんだ。バカなことを言うな。冷静になれ」
 先程までとは違い、優しい口調でライアンを説得している。ライアンは小さく頷くと、複雑な表情で僕を見つめた。僕がぎこちなく笑ってみせると、ライアンも困ったように笑い、ウィルフレッドへと向き直った。そして、この先長いことウィルフレッドを悩ますこととなるであろう、爆弾発言を放つ。
「でも、俺諦めないからな! 今すぐ変えてくれなんて言わないさ。もっと精神力を鍛えて、人間のままのトレヴァーと笑いあえるくらいになってからだって遅くはねぇもんな。俺、自分の欲望なんかに負けねぇって証明してやるさ」
 てっきり諦めると思っていた僕たちは、驚きのあまり返す言葉が見つからなかった。
 ウィルフレッドに至っては、未知の生物にでも出会ったかのような表情でライアンを見ている。
「それに、万が一俺が理性を失ってトレヴァーに襲い掛かったとしても、おたくがトレヴァーを守るだろ。力ずくで止めてくれよな」
 すっかりその気になって、生き生きとしだしたライアンにウィルフレッドは完全に呆れているようだ。
「実際にはそんなことありえないが、百歩譲って俺がお前の強さを認めたとしよう。だとしてもお前のような騒がしい奴を仲間にすることなど、一生ない」
 腕を組んだ姿勢で首を振るウィルフレッドは『一生』という言葉に力を込めて言った。それでもライアンは自信満々の笑顔で、説得してみせるさ! とハシャイでいる。
 あんな目に合っておきながら、どういうわけかは分からないが、ライアンは本気でヴァンパイアになりたがっているようだが、ウィルフレッドが考えを変えてライアンに噛み付くことはないだろう。そう思えば、何も心配することはない。ライアンの意思だけでは、ヴァンパイアに変身することはできないのだから。
 呆れた表情でそっぽを向いて立っているウィルフレッドの前で、いかに自分が我慢強いかと必死にアピールするライアンを見ながら、僕は笑っていた。
これから先も、こんな日々が続くことだけを願って‐。
白鳥 乃奈
2016年02月16日(火) 11時15分36秒 公開
■この作品の著作権は白鳥 乃奈さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
数年前に初めて書き上げた長編です。
個人的に大好きなヴァンパイアを描きたくて書いた作品です。
この作品はまだ誰にも呼んで貰った事がないので、多くの方のご意見を聞かせて頂きたいです。

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