妖精の楽園の女王
 〜プロローグ〜

 楽園の中を、ディーゼは彷徨い歩いていた。
 傷をつくり、薄い血が散った体を叱咤しながら。だが彼の動きは鈍く、気を抜けばそのまま倒れるであろうことは目に見えていた。そのことは、自分でもよく理解している。
 楽園とは名ばかりの、鬱蒼とした森の中。木々の枝や棘に肌を切られ、重傷ではないものの、体のあちこちでは血が滲んでいた。黒いシャツに銀の上着、シャツと同様黒のズボンも、所々破れてしまっている。
 金髪というには色のくすんだ砂色の髪は、肩まで伸びてはいるが整えられてはいない。そんな余裕は到底ない。
 おまけに四日間飲まず食わずの状態で、餓死寸前だった。体力なんかすでにない。意地と僅かばかりの気力を奮い立たせているだけだ。
「……っ」
 が、残されたそれらさえも、尽きてしまったらしい。
 ふっと全身から力が抜け、ディーゼは思いきり地面に倒れていた。衝撃はあまり感じなかった。視界がぼやけて、自分がどうなっているのかも分からなくなる。
 そんな中でも、唯一、認識出来たものがあった。
 自分の手首にある、一つの腕輪。そこに嵌められた、赤く輝く石。恨めしく、けれど手放せない、それ。
「……あら?」
 その時、どこか遠くで人の声が聞こえた気がした。柔らかく、少し高い声音。恐らく、女のもの。
 なぜ、こんな所に人が。なぜ、こんな所に女が。
 しかし疑問が湧くだけで、答えに行き着くことはなかった。今の状態では、頭を使うなんてとても出来なかった。
 狭まる視界の中で、最後に見たものは。
 長く赤い髪。そして、人影だった。



 第一章 妖精の楽園に住む者

 不思議な心地がしていた。眠気を誘われる、寝心地のいい感覚。安心する感じ。
 ここ最近味わっていなかった安らぐ気分とともに、ディーゼは目を覚ました。
 そこに空はなかった。いつもなら暗い空が広がって、鬱陶しい森が視界に埋め尽くされるはずなのに。今は白い天井が見える。
「あ、気がついたみたいね」
 と、不意に近くから声をかけられて、反射的に上半身を起こした。だが同時に体の節々に痛みが走り、一気に全身が重くなる。空腹が限界を超えているせいか、吐き気すら込み上げていた。
「別に何もしないから、大人しくしてた方がいいわよ」
 ディーゼの様子に気づいたのか、気遣うような言葉をよこされる。どことなく張りのある、しかし嫌味のない口調に、ディーゼは声のする方を向いた。
 少し距離を置いた先で、少女が椅子に座っている。そのすぐ隣には一人の青年が、無言で、こちらを睨みつけるようにして仁王立ちしていた。
 話しかけてきた少女の方は、ディーゼと同じ十八歳ほどだろうか。腰まで届く長い豊かな髪は、バラのように鮮やかな赤色をしていて、右側に寄せ一つにまとめている。
 ドレスのような服装も、髪と同じ赤い生地で出来ていた。しかし毒々しさはなく、むしろ少女の雰囲気を華やかなものにしている。
 目が合うと、少女は口元に笑みを浮かべた。
「わたしはヘルマ。彼と一緒に森を見まわってたら、あなたが倒れてるのを見つけたの。あなた、名前は?」
 猫のように鋭い、紫水晶の瞳で見据えられる。彼、とはそばにいる無愛想な青年のことだろう。唐突に名前を尋ねられ、答えていいものか判断に迷ってしまう。
 恐らく、というより確実に、自分はこの少女――ヘルマに助けられたのだろう。だが、彼女たちが何者か知らなければ目的も知らない。自分を助けたのも何かの企みがあるゆえ、というのも捨てきれない。一度考えてしまうと、素直に名乗る気にはなれなかった。
 すると、ヘルマのそばにいる青年がぎろりと睨んできた。さっさと言う通りにしろ、と目が語っている。あまりの目つきに、ディーゼはたじろぎそうになった。
「言いたくないなら無理強いはしないけど」
 青年が脅していることに気づいていないのか、ヘルマの態度は変わらない。このままでは視線で射殺されかねないので、渋々ディーゼは名乗ることにした。
「……ディーゼだ」
 ぼそっと吐き捨てると、ヘルマは一瞬きょとんとする。けれどそれが名前だと分かったのか、微かに笑顔になった。
「そう。ディーゼ、ね」
 そこでいったん会話がやむ。ヘルマの顔を凝視し続けているのも妙なので、ディーゼは周囲に目を向けた。
 自分は寝台の上にいて、今は上半身のみ起こしている。室内は広く造られているようで、この場に三人いても全く窮屈に感じなかった。壁はほのかに水色を帯びた白。床には毛足の長い絨毯が敷かれていた。まるで屋敷の一室のよう。
「……ここはどこだ?」
 無意識のうちに口を開く。この部屋はとても綺麗に整えられているようで、だからこそ違和感があった。
 自分は、先ほどまであの森にいたはずだ。
「あら。もしかしてあなた知らないの? 妖精の楽園のこと」
 意外そうなヘルマの反応に、ディーゼは反射的に首を振った。
 それ自体は知っている。というか子供でも知っていることだ。それに自分は、数日間その楽園を彷徨っていたのだから。
 この国――マーリネ王国には、妖精が存在すると言われていた。
 だが、妖精は国や民から忌避されている。遠い昔、不干渉だった妖精と手を取り合おうとした際、彼らは妖精術(ようせいじゅつ)を使って人間を攻撃したからだ。その力は炎で人を焼き殺し、水球に閉じ込めて窒息死させるなど、様々なものがある。
 以来、国内で妖精が発見されれば、即刻対処がなされていた。といっても、妖精の方もそれは承知しているのか、姿を晒すことはそうそうないらしい。
 また、これは信憑性に欠けているようだが、高位の妖精になると妖精術だけでなく、記憶を操る力も秘めているとか。
 そして、ディーゼが彷徨っていた森――妖精の楽園。そこは、一度足を踏み入れれば二度と戻れない魔の森だった。ディーゼ自身も本気で信じていたわけではなかったが、実際に出られなかったことは経験済みなため、どうやら事実らしい。
 そういった恐ろしい力が働いていることから、妖精の仕業だという噂が広がり、妖精の楽園と名づけられたそうだ。小さい子供は悪いことをすると、「妖精の楽園に連れてってしまうよ」と脅されるらしい。
「それくらい知ってる。妖精の楽園なんて所に、何でこんな綺麗な建物があるんだって訊いてるんだ。それにあんたたち、何でこんな所にいるんだ」
「それは……」
 問うた瞬間、ヘルマの表情が陰る。言えないことなのか、隠していることでもあるのか。やはり何か企んでいるのではないかと、つい邪推してしまう。
「俺を助けてどうするつもりだ。何をたくら……っ!」
 その時、唐突に殺気を感じて肌が粟立った。
 本能だったのか。ディーゼは無意識的に首を横にそらす。
 その行動は正解だった。いつの間にか、視界の真ん中に仏頂面の青年が映しだされている。更に視界の端を見れば、思いきり壁に喰い込んでいる剣の刃。
 間違いなく喉を狙われた。本気で殺すつもりだったらしい。ディーゼのように反応がよくなければ、一瞬であの世に旅立っていただろう。
「な……、っ」
 状況に頭がついていかず、身動きが取れない。混乱するディーゼとは裏腹、青年は一瞬だけ驚いた顔をしながらも、すぐに睥睨してきて低く告げた。
「……姫に無礼な口をきくな」
 凄みのある、意思の強い声音だった。しかしディーゼは動転してしまっており、何を言われたのか頭に入ってこない。
 どう切り抜ける? そう考える暇も与えてもらえず、青年は剣を引き抜き、再び構えようとした。
「シルヴァス、やめて」
 と、そこへ凛とした声が響く。ぴた、と青年の動きが止まり、剣先もディーゼの目の前で停止した。正に、女神の一声のようだった。
 が、止められた青年は不服そうに彼女を振り返る。
「ですが、姫…」
「やめなさい。あなたね、その敵と見なした相手を片っ端から殺そうとする癖、直してっていつも言ってるでしょう」
 何やら不穏な会話がなされている。が、青年はさんざん渋った後、嫌そうに剣を鞘に収めた。ついでに、こちらを睨みつけることも忘れずに。
 そこでようやく、シルヴァスと呼ばれた青年のことをまともに見た。
 年の頃は十九、二十歳くらい。恐ろしい剣刃と同じ銀色の髪は背中まであるようで、頭の上で一つに結わかれている。長い前髪は中心で綺麗に分けられていた。
 灰色の上衣に、裾の広がった黒いズボン。腰に巻かれたベルトには、先刻命を奪われそうになった剣が下がっていた。
 腕を組み、延々と睨んでくるその態度は、こちらに恨みでもあるのかと訊きたくなるほどだ。
「ごめんなさい、彼はとても真面目すぎる人なの。不快な思いをさせたわね、謝るわ」
 目を伏せて真剣に謝罪してくるヘルマは、本気ですまないと思っているらしい。彼女に謝られても意味がないような気もしたが、今までの悪い気分は少しだけ飛んでいた。
「あ、あー……いや、いい」
 とりあえず、そう言っておく。ここで許さないと言ったら、今度こそ殺されるのは明白だった。
 ヘルマはホッとしたように胸を撫で下ろす。すると、シルヴァスが割り込むように彼女に近寄った。
「姫、そろそろあの者の所へ戻った方がよろしいのでは」
「あ、そうだったわね。きっと寂しがってるわ」
 思い出したようにヘルマは立ち上がると、申し訳なさそうにディーゼに向き直った。
「ごめんなさい、わたしちょっと行かなきゃいけない所があって。別の人に頼んで食事を持ってきてもらうから、少し待っててちょうだい」
 それだけ言い残し、ヘルマはすたすたと部屋を出ていってしまう。声をかける前に扉が閉まってしまい、出ていく前、またシルヴァスに睨まれた。
 しん、と部屋全体が急に静かになる。未知なる場所へ一人取り残されたような虚無感に、襲われる。
 しばらく、ディーゼは寝台の上から動けずにいた。



(……何だったんだ、今のは)
 しばしぼーっと空気を眺めてから、ディーゼは心の中で呟いた。
 体力の限界で倒れ、知らない場所で目を覚ましたかと思ったら、見知らぬ青年に殺されかけた。ヘルマという少女はそこまで悪い人物には見えないが、こんな体験をした後ではおちおち寝てもいられない。
(逃げるべき、か……)
 一瞬そんな考えがよぎったが、すぐに打ち消した。
 恐らく屋敷か何かであろうこの場所の構造も分からず、向こうが何人いるかも知らない状態で脱出など不可能だろう。少なくともそんなところをシルヴァスに見つかれば、即座に一突きされるのは必至。
 仮に屋敷を出られたとしても、今度こそ飢死するだろう。妖精の楽園から出ることは叶わない。また何日も彷徨って、一人死んでいく未来が見える。
 ならば、今はここでじっとしていた方が道は開けそうだ。
(そういえば、あいつ鍵をかけなかったな)
 ふと、ヘルマたちが出ていった時のことを思い返す。お互い様ではあるが、向こうからしてもディーゼは身元の知れない人物だ。鍵もかけず一人にさせるなど、ちょっと不用心ではなかろうか。
 寝台から下り、確認しにいってみたが、やはり取っ手は気持ちよく回る。もしや鍵をかけるまでもないと思われているのだろうか。逃げだしたとしても捕まえる自信があると? 舐められているのだとしたら、いい気分はしない。
「あっれ〜、何しようとしてるのかな?」
 その時、突然扉の向こう側から声がし、ディーゼはぎょっとして取っ手から手を放した。反射的に距離を取ると、ゆっくり扉が開けられる。
 入ってきたのは、ヘルマでもシルヴァスでもなかった。二十三、四歳ほどの、一見した限りでは好青年っぽい人物だ。
 さらさらとした紅茶色の髪は肩の位置まであり、遊ばせたように毛先のいくつかが跳ねている。
 首元に巻いたスカーフに、たっぷりとした赤紫色の外套。ぴったりとした白いズボンに長靴。皺も乱れもなく、全て完璧に整えられていた。
 ただ。にっこりと笑うその顔は、どことなく胡散臭い。
「まあ、別にいいけど。これ、ディーゼ君の食事ね」
 ディーゼが答えなかったことを対して気にもせず、彼はてきぱきと持っていた銀盆の中身を机上に置いていく。豚肉と青野菜の炒め物、白身魚の素焼き、冷製スープ……。漂う香りだけで、ディーゼの腹の奥がきゅっと痛くなった。もう丸四日間、何も口にしていないのだ。
 思わず食いつきそうになって――はたと、ディーゼは思いとどまる。今し方の好青年の台詞に、気になるものがあった。
「……何で俺の名前を知ってるんだ」
「うん? ああ、さっきまで廊下にいたから」
 警戒しながら尋ねてみれば、非常に簡潔な言葉が返ってくる。あまりにも当然のことのように言われ、ディーゼは困惑せざるをえなかった。
「盗み聞きか、仲間なのに」
「人聞きが悪いな〜。君が突然理性を放り投げて姫様に襲いかかった場合に備えて、ずっと控えてたんだよ。まあシルヴァス君がいれば問題ないかもしれないけど、万が一ってこともあるし。あ、もしかしてこっちだけ名前を知ってるのが嫌なのかな? だったら僕はキストだよ」
 勝手に解釈して勝手に名乗られる。おまけに人を猛獣みたいに言ってくれているが、喧嘩を売っているのだろうか。
「あ、それ姫様に頼まれて持ってきた食事だから、味わって食べた方がいいよ。毒とか入ってないから。もしスープ一滴でも無駄にしたら……許さないよ?」
 にっこり、と笑顔を向けられる。言っていることと表情が全く噛み合っていない。微かに寒気を覚えたが、顔には出さないでおいた。
「なぁ、何で俺を助けたんだ」
 さりげなく話題を変える。好青年――キストはそれに突っ込むことなく、素直に答えてくれた。
「僕が助けたわけじゃないんだけどね〜。まあ、姫様の優しさがディーゼ君を助けてくれたんだよ」
 恥ずかしげもなく、キストはすらすらと話す。優しさ、というところがいかにも気障っぽい。が、それが似合わないわけではないので癪に障る。
「あーそうかい……。じゃあ、何であいつは姫なんて呼ばれてるんだ?」
「ディーゼ君は質問が多いね〜」
 少し面倒くさそうな表情を向けられる。だが無視していると、キストは勝手に喋りだした。
「姫様は姫様。そのままだよ」
 にっこり、と笑われる。恐らく、仕返しをされた。
 ディーゼは舌打ちすると、「もういい」とだけ言って食事に手をつけた。キストのせいで忘れていたが、自分は餓死寸前なのだ。話している場合ではなかった。毒の心配はあったが、ディーゼに害を与えたところで向こうが得するとは思えない。案の定、しばらくしても食事に問題はなかった。
 そんな態度を取ってもキストは怒りもせず、外套を翻して扉へ向かっていく。
「あ、そうそう」
 と、思い出したように声が上がった。スープを飲む手を止めないまま、ディーゼは視線だけキストの方を向く。
 すると、彼は――。
「もし、姫様に手出したら……殺しちゃうよ」
 にっこり、と満面の笑みを浮かべ。最後だけやや低い声で言い残すと、キストはぱたんと扉を閉めていった。
 スープを口に運ぶ手が止まっていた。おぞましい台詞に、また空腹を忘れられそうだった。
 ――なぜ、ここは。
 あんな、物騒な奴しかいないのだ。



 走って、走って。逃げる、逃げ続ける。
 ディーゼは必死に走っていた。前を行く存在に置いていかれないように。息を切らして、悲鳴を上げる足を叱咤して。
『っ、はぁ、親父っ、待てよ!』
 もう我慢出来なくなって、ディーゼは前方の背中に怒鳴った。疲労が最高潮に達したこともあるが、それよりも走り続けることが嫌になって立ち止まる。
 すると、先頭を走っていた父も足を止めた。同じ距離を駆けていたはずなのに、父はほとんど呼吸を乱していない。それもなんとなく癇に障る。
『っ、いつまでこんなことやるんだよ! 俺は、もう限界だっ。あんな、簡単に人を……!』
 今まで溜め込んでいた思いが溢れてくる。ずっと我慢していた。が、もう無理だ。
 父はおもむろに振り返ると、辛そうな顔をしてディーゼを見つめてきた。そんな顔をされても、どうしろというのだ。それだけでは何も分からない。
『おいっ、おや…!』
 がっ、と鈍い音がした。けれど、その音はすぐに遠くなる。言いかけた自分の言葉が続かなくなる。
 腹部に衝撃が走った、と思う暇もなく。ディーゼは、ゆっくりと意識を手放していった。



「……ぅ」
 呻き声を漏らしながら、少しずつ目を開ける。気分はあまりよくなかった。
 どうやら夢を見ていたらしい。嬉しくもないが、しっかり覚えている。そういえば食事をした後、急に食べ物を入れたせいか胃が驚いたようで、腹が痛くなったから横になったのだった。そのまま眠ってしまったのだろう。
「……」
 正直、あまり思い出したいものではなかった。
 ディーゼの父親は、マーリネ王国の王宮に仕える騎士だった。
 一言で騎士といっても兵団、騎士団、聖楼(せいろう)騎士団とあるのだが、父は最高位である聖楼騎士団にまで上り詰めていた。
 聖楼騎士団は本来ならば貴族で、なおかつそれなりの実績がなければなれないものだが、父は平民。例外中の例外だが、実績のみでその位を手に入れたのだ。
 ――なのに。
 父は、王宮から追われる立場になった。
(親父……何で、あんなこと)
 今でも信じられない。理解も、出来ない。
 ――父は、王宮からある物を盗みだしたのだ。
 それはすぐに露見し、父はお尋ね者状態。当然、聖楼騎士団の位は剥奪されている。そして父はディーゼを連れ、国中を逃げ回った。母親は物心ついた頃からいない。
 何度も追手に襲われ、父はその度に戦っていた。戦って、相手を死に追いやっていた。ディーゼも戦うことはあったが、それは正当防衛で、進んで前に出たことはない。
 そんな日々が、どれくらい続いた頃だったか。ディーゼはとうとう我慢出来なくなって、父を問い詰めた。
『っ、いつまでこんなことやるんだよ! 俺は、もう限界だっ。あんな、簡単に人を……!』
 父が王宮から盗んだ物は聞かされていた。けれども、なぜ盗んだのか、盗んでどうする気なのか、肝心なところは一切話してもらえなかった。そんな状態で父が人を倒していくものだから、我慢も限界を迎えてしまう。
 すると、父は辛そうな顔になって。唐突に、本当に何も告げず、腹を殴打してきたのだ。意識を失う瞬間まで、父はずっと同じ表情をしていた気がする。
 ――そうして気づいたら、妖精の楽園にいた。
(親父は……俺を捨てたのか)
 気を失った後、父が妖精の楽園へ運んだ。そう考えるのが筋というものだろう。父の意思に反したから、捨てられたのだろうか。
 その時、自分の手首がきらりと光った気がして、ディーゼは寝返りを打った。横向きになり、己の腕を見つめる。
 透明で、光を弾き返す腕輪。その中央に埋め込まれた、赤い石。
 これこそ、父が王宮から盗みだした代物だ。
 一緒にいた時は、一度も預けられたりなどしなかった。にも関わらず、妖精の楽園で目覚めた時には手首に収まっていた。
 ……もう分からない。
「親父は、何がしたかったんだよ……」
 腕輪をした方の拳を握りしめ、ディーゼは唸る。
 王宮の人間に追われる生活を送っていたから、必然的に父から戦いの術を教わっていた。だが、剣だけはどうしても教わりたくなかった。
 何も告げない父の剣と、追手の剣。何度も何度も命を散らすそれらを、手にする勇気はなかった。だから父に教わっていたのは体術だ。それも護身術程度だが。
(本当に、どうするかな)
 父の居場所など分かるはずもない。絶望的な状況に重いため息をつきそうになった、次の瞬間だった。
 遠くで硝子が弾けたような、痛々しい音が耳をつんざいた。
「!」
 反射的に寝台から飛び下りる。この部屋を出た先、恐らく左の方向から聞こえてきた。
 どう考えても面倒事の予感しかしない。自分がわざわざ首を突っ込む必要性もないだろう。だが、一度聞いてしまうと知らんぷりするのも難しく。
 いつまでも寝ていても始まらない。ディーゼは思いきって部屋を飛びだした。
 廊下に出ると左右に道が続いている。やたらめったら走っていたら迷子になりそうだ。自分がいた部屋の位置と周囲の景色を記憶し、左の道を駆ける。
 しばらく進んでいると、何か重たい物が叩きつけられるような、鈍い音が響いてきた。これは本格的に危険の香りがする。もしかすると、入り込むのは得策でないかもしれない。
 そして一つの扉の前、騒ぎの元になっているだろう部屋に辿り着き、ディーゼは逡巡してしまった。が、ここまで来たなら引き返すわけにもいかないだろう。
 意を決し、敢然と扉を開け放つ。次いで、視界に飛び込んできたのは――。
「な……!?」
 机や椅子が引っくり返り、物が散乱している、荒れた室内。小さめに造られた棚が倒され、足場を封じていたりもした。
 更に、部屋の両脇にはそれぞれ膝をついている人物がいる。彼らの足元には硝子の破片が散っており、片手に武器を握りながら体勢を整えようとしていた。頬や腕から血を流す二人は――シルヴァスとキストだ。
「! 姫っ!」
 そして、部屋の中心。そこには硝子の欠片を握りしめた、見たことのない女が立っていた。その視線の先――壁と背中をくっつけて身構えているのは、シルヴァスが叫んだ少女。
(ヘルマ……!?)
 そう認識している間もなく、中央にいた女が行動に出る。硝子の欠片を振り上げ、一心にヘルマへ向けて突き刺そうとしていた。
 その目は異常だった。狂気に捕らわれているとでもいうような、ただ相手を食い潰そうとする目。硝子を握る手から大量に出血していても、多分痛みなど感じていないかもしれない。
 長剣を手にシルヴァスが立ち上がったが、恐らく間に合わない。女がヘルマに迫る。血だらけの硝子が牙をむく。それでもヘルマは唇を噛み締め、ぐっと身構えていたが――突然、見えない何かを投げつけるように手を振るった。
 刹那、ヘルマの元から何かが顕現する。それは光を帯びた、無色の蝶のようだった。光の粒をまき散らせながら、真っ直ぐ女の持つ硝子へ突っ込んでいく。そして。
「ぎゃっ!」
 女の悲鳴とともに、硝子の欠片が弾け飛んだ。まるで、見えない力にはたかれたかのように。同時に無色の蝶は消えていて、女は腕を庇いながら一歩よろけた。
(あ、あれは……っ)
 その技を一通り見て、ディーゼは驚きを隠せなかった。確証はない。けれど、剣や拳での直接的な攻撃では決してなかった。あれは、まさか。
(妖精術……!?)
 仰天している間にも、彼女たちの方へ迷わずシルヴァスが踏み込んでいく。走ったまま長剣を構え、躊躇なく女を狙っていた。
 冷たい銀の瞳。あれは本気だ。確実に、急所を狙っている。
 ディーゼの時のように。
「シルヴァス!」
 入口に立ち尽くしたままでいると、ヘルマの焦ったような声が反響した。なかば呆然としてしまっていた意識を集中させると、シルヴァスの剣先が首の位置、紙一重のところで止められている。女神の一声によって。
「姫っ……」
 だが、シルヴァスの顔は苦渋で満ちている。つられたようにヘルマの表情も曇ったが、それでも首を縦に振ろうとはしていなかった。
 束の間の沈黙。しかし、最初からそんなものは許されていなかった。
「うあぁ――――っ!」
「っ!」
 腕を庇っていたはずの女が奇声を上げる。すぐ横にいたシルヴァスを突き飛ばし、両手がヘルマの首元へ伸びた。不意打ちだったのだろう、シルヴァスは剣を構えられていない。
「姫ッ!」
 ヘルマも反応が遅れたのか、それとも疲弊しているのか、先ほどの技を使う暇はないようだった。悲痛なシルヴァスの声がし、ヘルマは紫水晶の瞳を閉じる。
 ――瞬間。
 激しく地面が揺れ、轟音が鳴り響いた。いきなりの、数秒間での出来事だったため、何が起きたのかよく分からなかったが――ディーゼの見たものが、正しければ。
 割れた窓の外から、斧が飛んできた。それはヘルマと女を隔てるように飛び込んでき、二人の間の床に突き刺さっている。咄嗟に身の危険を感じたのか、女は何歩か飛び退っていた。
 そして、窓の外からは。
「おーおー、食材探しから帰ってきてみりゃ、えらいことになってんなぁ。……遅くなってわりー、お嬢」
 ひょっこりと、片手に食材の詰まった籠を手にした男が顔を出す。彼はこの場には似つかわしくない、清々しい笑みを浮かべてみせた。
 よっ、と声を漏らしながら窓枠を飛び越えてくる。三十、とまではいかない……二十八、九歳くらいか。やや盛り上がった筋肉の目立つ男だった。
 額に白いバンダナを巻き、そこから黒い髪が溢れている。髪自体は短いが、量は少し多そうだ。
 首のまわりにも薄い布が巻かれており、後ろへ長く垂らされている。二の腕がむきだしになったシャツの前には、交差する形になったベルト。目を引く赤いズボンも特徴的だった。左の二の腕に浮かぶクロユリの模様も、どこか野性味を感じさせる。
「ゾノ! 来てくれると思ってたわ」
 筋肉質な男に向けて、ヘルマが嬉しそうに声をかける。ゾノと呼ばれた男は目をぱちくりさせたが、すぐに顔を赤くして後頭部を掻いていた。
「うっ! ……ぅ、あっ」
 と、感動的な場面のそばで、何やら苦しげな呻き声が聞こえてくる。そちらを見れば、女の体をキストが拘束していた。両腕の動きを封じ、握っている短刀で女の顎を持ち上げる。
「悪いけど……姫様に手出すような人は」
 くるり、と短刀の向きが変えられる。
「こうしないとね」
 にっこり、と残虐な笑みを浮かべ。一瞬で、女の胸に短刀が沈み込んでいった。
 狂ったような悲鳴が轟く。耳がおかしくなるようだ。だがそれも徐々に小さくなっていき、完全に声が聞こえなくなった瞬間、女は動かなくなった。
 キストは容赦なく短刀を抜き取る。それを見て、ヘルマは酷く動揺しているようだった。
「キスト……」
 責めるような、けれど労わるような声音。それ以上続けない、いや続けられない様子のヘルマに、キストは優しげな笑みを向けた。
「姫様、ここは妖精の楽園なんだよ。何でこの人が入ってきたのか知らないけど、一度来ちゃったんならもう出られない。今やっとかないと、また姫様を狙いにくるんだよ。……やらなきゃ、姫様がやられるんだ」
 キストの台詞に、微かに悲壮感が漂っているのは気のせいだろうか。だが彼の真意などディーゼには分かるはずもなく、話はどんどん進んでいってしまう。
「まーまー、まずはお嬢を休ませてやろうぜ。ここじゃ、とても落ち着けねぇだろ。あーあ、片づけもしねぇとなぁ。っばー、疲れた……」
「そうだな。だが疲れるほど動いてはないだろう。……さ、姫。とりあえず俺と移動しましょう」
 ゾノが部屋中を見回してげんなりし、シルヴァスはヘルマに手を差し伸べている。彼女はまだ複雑そうな顔をしていたが、明るく振る舞うことにしたのか、「えぇ」と言ってシルヴァスの手を取った。そのまま、部屋の入口へ向かってくる。
 そこでようやく、ディーゼは自分が何もしていなかったことに気がついた。



 第二章 女王の憂い

 一日休んだだけでも、だいぶ体が楽になってきた。
 寝てばかりいると落ち着かないので、ディーゼは屋敷内をそぞろ歩きしている。変なことをしなければ、ヘルマは注意もせず自由にさせてくれていた。無防備すぎやしないかとも思ったが、時々背後で殺気を感じることがあるため、多分シルヴァス辺りに見張られているのだろう。ヘルマの命令か、独断かは知らないが。
 深いため息をつきかけた時、ふとディーゼは足を止めた。奥の方にあるテラス、そこにちょうど考えていた人物の後ろ姿があったからだ。
 どうするか迷ったが、ここで突っ立っていたら怪しまれるだろう。主に隠れている殺人鬼に。後ろからぶすりとやられたらたまらない。話したいこともあったので、ディーゼは思いきって声をかけた。
「……なに、やってんだ、そんな所で」
 ぎこちなくなってしまった。だが彼女は気にした様子もなく、赤い髪を揺らしながら振り返る。ディーゼの姿を認めると一瞬びっくりしていたが、すぐに口元を緩ませた。
「あら、ディーゼ。ちょっと……ぼーっとしてただけよ」
 初めて会った時と同じような、しかしどこか憂いを帯びた顔。やはりそっとしておくべきだったかもしれない、とディーゼは早くも後悔し始めた。
 昨日の騒ぎが起きた後、ヘルマとはまともに話していない。過保護じゃないかと思うほど男三人が彼女の身を案じ、連れ去ってしまったからだ。まぁ確実に命を狙われていたのだから、無理もないかもしれないが。
 ――なので、ディーゼはあの騒ぎが何だったのか、全く知らない。
 なんとなく自分もテラスに出て、ヘルマの隣に立つ。手すりに身を預けた彼女は、景色の向こう、どこか遠くを見つめている気がした。
 訊くべきか、訊かないべきか。何度も迷って、わざわざヘルマに話しかけた小さな理由を思い出し、ディーゼは咳払いをした。
「なぁ」
 短く呼びかける。ぶっきらぼうなそれにも構わず、ヘルマは「なに?」と訊き返してきた。
 もし地雷を踏んでしまったら、その時はその時だ。
「あんた、何で殺されそうになってたんだ?」
 その瞬間、ヘルマの顔が強張った。手すりに置いた自分の両手に視線を落とし、黙り込んでしまう。
 さすがに直球すぎただろうか。けれど無理に訊きだそうとは思っていない。が、あんな場面を見せられて、何も訊くなというのは難しい話だった。
「それに……あんたが使ってた技。あれ、妖精術じゃないのか?」
 妖精術という力を、実際この目で見たことがあるわけではないが。それでも昨日見たあれは、人が努力して使えるようになるものとは思えなかった。炎で焼き殺すとか、水の中に閉じ込めるとか、話に聞いていたような力ではなかったけれど。でも本当に妖精術だとしたら、彼女は……?
 ヘルマはまだ口を引き結んでいたが、不意に手すりから身を離そうとした。だがドレスの裾を踏んでしまったのか、小さな悲鳴を上げて体が傾く。
「……!」
 咄嗟に腕を伸ばす。その手でヘルマの狭い肩と細い腰を支え、なんとか頭を打たせずに済んだ。ホッ、となぜか安堵の息が出る。
「意外とそそっかしいな、あんた」
「……ふふ、ごめんなさい。もうだいぶ慣れたつもりだったんだけれど、こういう服であちこち動き回るのはやっぱり難しいみたいね」
 助けてやったのに笑われる。でもそれが無邪気なものだったため、ディーゼはあまり怒る気になれなかった。
 その時、殺気を感じて我に返ると、自分が未だにヘルマを抱くように支えていることに気がついた。かっ、と頬に熱が集まり、慌てて体を離す。
「っ……で、俺の質問には答えてくれるのか」
 目を合わせられない。いきなり解放されたヘルマはというと、きょとんとした様子でディーゼを見ていた。だがそれも束の間、すぐに真顔になって俯きがちになる。
 再び重い空気となり、辺りは沈黙に支配された。何だか申し訳なくなってきてしまい、もういいと口を開きかけた、瞬間。
「……あれは、妖精術よ。でもわたしは妖精じゃないわ」
 唐突に、ヘルマはそう言った。一瞬何と言ったか理解出来ず、目を瞬いてしまう。
 妖精じゃ、ない? 妖精術を使うのに?
 混乱していると、ヘルマは「どこから説明するべきかしら……」と頬に手を当てながら呟いた。
 そして、今度もはっきりと言う。
「わたし、王女だったの」
 王女、とディーゼの頭の中で何度も反響する。目の前にいるヘルマが、王女。
「マーリネ王国の第三王女。凄いでしょ」
 ちっとも嬉しくなさそうに、自慢する風でもなく、ヘルマは明るく言い放つ。それは自嘲するような、吐き捨てるような雰囲気を醸しだしていた。
 その口調に、表情に、彼女の弱さを感じた気がして。ディーゼは意識を集中させ、ヘルマの言葉に耳を傾けた。
 すると気持ちが伝わってしまったのか、ヘルマは複雑そうに顔を歪めた。
「わたしは王女だったけど、存在は凄く曖昧だった。わたしも、周囲の人たちも、わたしが王女だって分かってるはずなのに、わたしの身元は不安定で。わたしが生まれた瞬間を見た人がいなければ、わたしの両親を証明するものもなかったの」
 衝撃的な発言に、ディーゼは目を瞠った。頭が更に混乱してくる。
「どういう意味だ? 両親が証明出来ない、って……」
「わたしにもよく分からないのよ。もちろん、他の誰も。でも、第三王女だって事実だけは皆分かってたの。だからわたしは、王女として王宮で過ごしていた」
 無理矢理納得するように、ヘルマは言いきる。しかし次の瞬間には、真剣だった顔つきに影が下りていた。
「けど、お父様……国王陛下以外は、わたしのことを認めたがらなかったわ。どこで、誰から産まれたかも分からない人間を王女になんて、って。だからわたし、王宮ではずっと浮いてたの」
 説明してくれているのに申し訳ないが、ディーゼはやはり理解出来ていなかった。
 王女だと分かっているが、不明な点が多いから排斥している? そもそも、何でこのようなことが起こっているのか。
「お父様は、きっと自分の娘だって言って、唯一わたしを大切にして下さったの。でも、あの日……お父様や王妃様、それに大勢の騎士の前で……わたしは、使えてしまったの」
「……妖精術、か」
 ぽつりとこぼすと、ヘルマは弱々しく頷いた。その顔が、心なしか泣きそうに見える。
「あの日、どうして使えるようになったのかは分からないけれど。妖精は忌避すべきもの。そう教え込まれてる国で、妖精術が使えるわたしはすぐ問題になったわ。今まで積もってたものもあったし、ね」
 ただでさえ、いい気分はしていなかっただろう王宮で。ヘルマは、更なる異端の目を向けられたに違いない。
「本来なら死刑だったわ。あの時、妖精術が使えるわたしは人間に化けた妖精だって言われてたから。それに第三王女っていう微妙な立場だったし。でも、お父様が必死に反対して下さって……最終的に、ここへ閉じ込めるということで、話は終わったの」
 それで、ヘルマは妖精の楽園にいるのか。妖精の力が働いているとまことしやかに言われている、この森に入れることで、彼女の死を避けた。
 けれど、人によってはその選択は死より残酷だと思うのではないだろうか。何が起こるか分からない、忌避している妖精がいるかもしれない楽園に、閉じ込めるのだから。
「死んだ方がまだ楽だったんじゃないのか、って思ってる?」
 こちらの心を読んだかのように、ヘルマは問うてきた。ぎくりとして彼女を見れば、真っ直ぐにディーゼを見据えている。
「そういう道もあったかもしれないけれど……それでも、わたしに生きていてほしい、ってお父様は言って下さったのよ。別れる前、最後の日に、確かにね」
 そう言ったヘルマの表情は、穏やかだった。
 生きてまた会いたい、という気持ちが伝わってくる。父親のことが大好きであることが、分かる。
 なんともいえない気分になってしまい、ディーゼはさりげなく顔をそらした。
「それで、わたしが妖精術を使えるようになったことは国中に広がって。ちょうどその頃に起きた一部の事件……例えば原因不明の焼死体とか、窒息死してる人とか、そういう人たちの犯人には、わたしが選ばれるようになったの」
 信じられない台詞に、ディーゼは息を吸うのも忘れそうになった。
 犯人に選ばれる。そんな皮肉るような言い方をするということは、実際に彼女がやったわけではないのだろう。
 焼死体、窒息死。妖精術での炎や水の力から結びつけられているのだろうか。高位の妖精は記憶を操ることも可能だというが、そっち方面の疑いはさすがになかったのだろう。
 しかし、犯人が明らかな場合はさすがにヘルマのせいにされないだろうが、それでもこれはあんまりではないのか。
「そんなの、あんたは完全に無実だろ。本当にどうにもならなかったのか?」
「もちろんわたしは人を殺したことなんてないけれど、信じてはもらえなかったわね。……昨日わたしに襲いかかってきた人も、亡くなってしまった人と関わりがあったのかもしれないわ。妖精の楽園に迷い込んででも、わたしを殺したかったのね。時々、いるのよ」
 気丈に振る舞っているように見えるが、こんな仕打ちをされて、平気でいられるとは思えなかった。話すだけでも辛いはずだ。しかもこの言い方じゃ、昨日のようなことが初めてじゃないという雰囲気である。
 ディーゼは妖精のことを、そこまで忌むべきものとは考えていなかった。昔人間を攻撃したというが、自分は妖精がそういうことをする場面を知らない。それだけ、妖精は人間に関与していないということだ。だから、善悪の区別がつかない。
 けれど、彼女の心を酷く傷つけてしまったような気がして、ディーゼは酷い罪悪感に襲われた。
「……悪い。嫌なこと思い出させて、話させて」
 謝罪の言葉はするりと出てきた。弱音を吐こうとはしないヘルマが、見ていられない。
 ヘルマはというと、驚いたように目をぱちくりさせていた。
「けど、あんたにはちゃんと仲間がいるんだろ。まぁ、かなり扱いは難しそうだけど、あんたのことは本気で慕ってるんだろうし。その、あまり気にしない方がいい」
 自分でも余計なことばかり言ってるな、と思う。命を狙われているのに気にしないでいられるなんて、どんな図太い人間だ。自分は本当に、人を励ますということが下手で嫌になる。
 だがヘルマは意に介していないようで、むしろ先ほどより表情を明るくさせていた。
「……ふふっ、あなたは、励ましてくれるのね」
 小さく、呟かれる。普段は華やかな雰囲気だが、今のヘルマは可憐な花を思わせた。
 そうして一歩、踏みだしてくる。
「妖精術を見られたからには話すしかないって、諦めてたけど……ありがと」
 両手を後ろにまわして、微笑まれる。偽りのない光を向けられて、またもや顔に熱が集中し始めた。
「っあ、あぁ、そうか……。あぁ、そういえばあんたがここにいる理由は分かったけど、じゃああいつらは何なんだ?」
 あいつら、とはもちろん例の男三人のことである。殺人鬼と、腹黒と、まだ話してもいないが筋肉質だった男。
 妙にヘルマを慕っているが、彼らが一緒にいる理由など見当もつかない。姫と呼ばれていたのは、彼女が本当にお姫様だったからだろう。別の呼び方もあった気がするが。
「あぁ、彼らは……それぞれ理由があるのよ。シルヴァスは王宮に仕えてた元騎士で、キストはああ見えて商人、ゾノはしばらく後に妖精の楽園に来た人で、詳しいことは聞いてないわ。でも、三人ともわたしの力になってくれる人たちよ」
 思わぬ内容に、色々と驚愕してしまう。奇しくも、シルヴァスが王宮に仕える騎士だったとは。位が同じなら、父と面識もあったかもしれない。
 更にキストが商人……まだかなり若いように見えたが、それでも相当のやり手ではあっただろう。あれだけ笑顔が上手ければ、皆ぼったくられるに違いない。
 訊いたはいいが余計に恐ろしさが増した気がして、大きくため息をつきかけた、その時。
「っぐ!?」
 突如頭が重くなり、かと思いきや弾かれたように軽くなる。何だと思って周囲を見回すと、ヘルマが何かを受け止めていた。
「シュララ! 何でこんな所に……」
 受け止めた生き物らしき相手を見て、ヘルマが目を大きくさせている。どうやらディーゼは、頭を踏み台にされたらしい。
 微かに怒りを覚えるその生き物は、犬のような狐のような姿形をしており、全体的に白い毛並をしていた。ぴんと張った耳と足の先、二股に分かれた尻尾の先だけは淡い赤色をしている。
「……何だ、それ」
「あぁ、この子はシュララっていって、ここに来た時に森で拾ったの。凶暴じゃないから魔物には思えないし、かといって普通の野生動物とも違う気がして。それに懐かれちゃったみたいだから、屋敷に連れてくることにしたのよ」
 要するにペットということか。懐かれたから家に持って帰るとは、子供かと突っ込みたくなる。
「ぜぇー、はぁー、ま、待ちやがれイヌギツネ――っ!」
 と、廊下の方から大きな足音と怒鳴り声が聞こえてきた。ディーゼとヘルマが同時に振り向くと、広い肩を上下させながら、一人の男がテラスの前で立ち止まる。黒い髪に、筋肉質な体……。
「ゾノ! そんな息切らして、どれだけ走ってきたのよ」
「はぁ、っばー、こ、この廊下を一直線……」
 それは決して疲れるような距離ではないんじゃなかろうか。広い屋敷とはいえ、廊下を何本も全力疾走しなければ疲労はたまらないと思う。……と、ディーゼは密かに心の中で呟いた。
「一直線、って……ふふ、あなたって本当に疲れやすい体質よね」
 ヘルマはにこやかに笑っている。これだけ筋肉があるのに廊下一本で疲れる体質というのは、ある意味深刻だと思うのはディーゼだけか。
 しばらく見守っていると体力が回復したようで、ゾノはがりがりと後頭部を掻いた。
「いやー、わりーお嬢。そいつが部屋から飛びだしたもんだから追っかけたんだけど、まー速いこと速いこと」
「別にいいわ。シュララは、四六時中わたしのそばにいたがるし。ディーゼと初めて話した後、向かったのもこの子の所なのよ」
 思わぬところで水を向けられ、「はぁ」と相槌を打つ。ご主人に足を運ばせるとは、なんとも贅沢なペットだ。いや、今は自分からすっ飛んできたみたいだが。
「ん? そういや、こいつは……」
 今更ながらディーゼに気づいたらしいゾノが、じろじろと眺めてくる。居心地の悪さを感じていると、ヘルマが口を開いた。
「あぁ、彼はディーゼよ。話したでしょう?」
「森で倒れてたって奴か。ふーん……まー、お嬢が認めてんならいいか。俺様はゾノだ。まーよろしくな」
「っ、あ、あぁ……」
 巨大な手にばしぃっと肩を叩かれ、苦痛に顔を歪める。体力はないが腕力はあるらしい。もう本当によく分からない。
 そんなディーゼを見てか、そばでヘルマがくすくす笑っていた。いや、こちらは軽く被害に遭っているので助けてほしいのだが。
 しかし。ヘルマがそうして笑っていられるのは、多分、彼らのおかげなのだろう。あんな過去があったら人間不信になってもおかしくない。それでも、こんなに活き活きしているのは、そういうことなのだろう。
 ただ、疑問に思うことはある。あんな仕打ちを受けたヘルマが――どうして、自分を助けたのか。
 笑顔でいられるといっても、それはシルヴァスたちの力だと思う。どうして、赤の他人であるディーゼを助けようと思えたのだろうか。あんな過去があったからこその想い、なのだろうか……。
 それに、ヘルマ本人は妖精ではないと言っているが。妖精でないなら、なぜ妖精術が使えるのか。
 本当のことは分からないけれど。なんとなく、ディーゼは全ての不安を拭いきれずにいた。



 日が暮れ、ディーゼは与えられた部屋に戻ろうとしていた。寛大にも、ヘルマはディーゼ用の部屋を貸してくれたのだ。広い屋敷だから、部屋も余っているのだと。
 ちなみにこの屋敷は、ヘルマたちが妖精の楽園に入った時からあったものらしい。彷徨うことになりながらも天は見捨てなかったのか、それからはここで暮らしているそうだ。
 あれから少し、ヘルマのことを考えるようになった。別に変な意味ではなく、気になることが山ほどあるからだ。
 王女で妖精術が使えて……と、正直驚かされてばかりだった。最低限の、もしかしたらそれ以上の事情を話してくれたのはありがたいが、謎は余計に深まっている。
 考えても頭が痛くなるだけだった。とりあえず頭の中を空っぽにしようとして――何やら、揉めるような声が聞こえてきた。
 何だと思って足を止めると、広間の方が騒々しい。何か問題でもあったのだろうか。そう思って、扉を開けてみれば――。
「それで、姫を元気にしてさしあげられる具体案はあるのか」
「元気が出ねぇ時は、やっぱ体動かすのが一番だろ! 筋肉を鍛えるのはどうだ?」
「……ゾノ君、姫様をむきむきにさせる気? そんな姫様は、ちょっと見たくないなぁ〜」
「…………。同感だ。断固拒否する」
「何でためんだよ。何を想像したんだよ。しかも顔怖いっての。は〜あ、そういうキストは何かいい案あるのかよ?」
「そうだねぇ……綺麗な花や宝石をプレゼントするのはどうかな」
「この森から出られねぇのにどうやんだよ」
「あはは、そうだね。シルヴァス君は何か考えついた?」
「……」
「……」
「…………」
「シルヴァス君、深く考えすぎ」
 ――と、どこから突っ込めばいいのか分からない会話が延々と続いていた。正直、思いきり言ってやりたい。お前ら何やってんだ、と。
 あまりにも憐れみの視線を向けすぎてしまったのだろうか。開けっ放しにしていた扉の方へ、シルヴァスが目を向けた。ディーゼの存在に気づくやいなや、ただでさえ目つきの悪い瞳が冷ややかに細まる。
「……貴様。そんな所で何をしている」
「あー、いや……」
 ヘルマ至上主義の男ら三人に呆れて突っ立っていた、などと言えば一突きにされるだろう。物凄い形相で睨んでいる殺人鬼であれば、確実に。
 言い訳を考えていると、「まぁまぁ」と言ってキストが笑顔になった。今にも剣を抜きそうなシルヴァスの肩に手を置き、なだめている。
 たとえどんなことがあったとしても、シルヴァスとだけは二人きりになりたくない。切実に。
「お、そーだ。こいつにも訊いてみたらどうだ?」
 いいことを思いついた、とでもいうようにゾノが手を打つ。大体話は分かっていたが、一応ディーゼは訊いておいた。
「訊くって、何を」
「あー、ほら……昨日あんなことあって、お嬢落ち込んでるだろ? いや、表には出してねぇけどさ。だから、どうにかして励ましてやれないかと思ってよ」
 予想通りの返答。だが、そこまで心配せずともヘルマなら問題ない気もする。ディーゼに過去を明かした時は別としても、その後は普通だったように見えた。それに。
「……あんたらが一緒にいてやれば、それが一番いいと思うけど」
 多分、そうだと思う。深く考えたわけではない。
 けれど、ヘルマはこの三人のことを信頼しているようだった。信じて、頼りにしている。確信があるわけではないが、恐らく間違いないだろう。そして、王女でありながら奇異の目で見られ、命さえ狙われたことがある彼女が求めるのは。
 ――物ではなく、温もりなのではないだろうか。
 そう考えての発言だったのだが、なぜか三人は両目を見開いてディーゼを凝視していた。何か変なことを言ったかと眉根を寄せると、キストが咳払いする。
「……君がそんな気障なことを言うとは思わなかったよ」
「あんたには言われたくないけどな」
 かちん、ときたので言い返す。キストは応えた様子もなく、にっこりと意味深に笑ってきた。
「けど、そうか……一緒にいる、ね……。っばー、ちょっと頭使いすぎて疲れた、俺様座るわ」
 喋っている途中で急に腰を押さえ、ゾノがどっかと椅子に座る。いや、あんた立って喋ってただけじゃないのか、というか頭使って疲れたはずなのに何で腰押さえてんだ、と突っ込みたいのは必死に我慢。
 他の二人を見ても、キストはにこにこしているだけ、シルヴァスの目つきは変化なし。
 はぁ……と、重いため息をつきそうになった、その時。
「あら、あなたたち」
 がちゃり、と扉が開く音とともにヘルマの声がした。広間にいた、ディーゼを含む男性陣が同じタイミングで振り向く。
 視界に映ったのは、少々驚いているヘルマと、その隣に寄り添うように立つ女の子――女の子?
「お、おい、そいつは誰だ?」
 挨拶も忘れてしまう。慌ててディーゼが尋ねると、ヘルマは隣の女の子に目を向けながら「あぁ、言うのを忘れてたわね」と呟いた。
「彼女は、シュララが人型を取った姿よ。どうしてなのか分からないけれど、この子、人の姿にもなれるみたいで。だから、身の回りのことを手伝ってもらってるの」
 当たり前のことのように告げられたが、いきなりすぎてわけが分からない。が、そう言われてみると、赤の混じった白髪なんかはシュララの毛並を思い起こさせる、かもしれない。なんにせよ、こんな冗談を言う必要性はないだろう。
 それに、身の回りの手伝いをしてもらっている、というのは納得だ。王宮育ちの王女様が、いきなり侍女も女官もいない屋敷で生活出来たとは思えない。シルヴァスたちがいたとしても限界がある。
 その点、今のシュララなら女の子の姿をしているし、問題ないだろう。それでも、世話係の役が一人だけというのは大変だっただろうが。
「姫、何かあったのですか」
「え? あぁ、わたしこれから湯浴みをしようと思って。先に入ってもいいかしら?」
 小首を傾げてヘルマが訊いた瞬間、男三人の体がぴくりと反応した。シルヴァスは微かに頬を赤らめて俯き、キストはにっこり笑顔、ゾノはぼりぼりと後頭部を掻いて何やらぶつぶつ言っている。――とりあえず。
 揃いも揃って何を想像しているんだろうか、こいつらは。
 しかし。三人の代わりに「いいみたいだぞ」と答えたディーゼに対し、「ありがと」と鈍感な態度を見せるヘルマも、正直どうなのだろうと思った。



 ――結局。
 次の日の夜、ディーゼはヘルマを広間へ連れてくるよう頼まれた。「いいから来てくれ」とだけ言うと、ヘルマは訝しげな表情をしながらも、動物姿のシュララとともについてきてくれた。内容を喋るわけにいかないとはいえ、少し強引すぎたかもしれないが。
「あら……っ」
 それはともかく。到着した広間の扉を開けた途端、ヘルマは感じ入ったような声を漏らした。その反応に、少なからずディーゼはホッとしていた。
 明かりを消し、代わりに何本もの蝋燭で照らされた広間は、暗すぎず、幻想的な雰囲気を放っている。中央にある長テーブルの上には、薄切り肉のソースがけや鶏肉の野菜包み、温野菜の香草油和えにかぼちゃのスープ、果物をしぼった飲み物など、豪華な料理がずらりと並んでいた。
 その近くで出迎えるようにしているのは、忘れてはならない男三人。
「姫、お待ちしていました」
「やぁやぁ、ようこそ姫様」
「よっ、待ってました、お嬢!」
 各々の台詞を投げかけ、拍手が続く。だがヘルマは状況についていけないらしく、ぽかんとして部屋中を見回していた。
「ちょ、あなたたち、これは一体……?」
「いーからいーから、お嬢はここ座れって!」
 戸惑うヘルマに構わず、ゾノは無理矢理彼女を椅子に座らせる。ヘルマに近い席へゾノ、シルヴァス、キストも腰を下ろしていき、最後にディーゼが席についた。
「じゃあ、皆でいただこうか」
「おう! 乾杯だ!」
 言下に、男三人がグラスを掲げる。慌ててディーゼも同じようにし、ヘルマもぎこちなくグラスを突きだした。
 かちん、と気持ちのいい音が反響する。広間の中が普段よりは暗めなせいか、やけに耳に響いた。
 とりあえず、手にしていたグラスに口をつける。リンゴの甘酸っぱい味が口内で広がった。シルヴァスとキストも少しグラスを傾け、ゾノは一気飲みしている。
 あの男三人組は結局、ヘルマと少しでも長く、一緒にいられて一緒に話せる方法を選んだようだった。流れで強制的にディーゼも手伝わされることとなったが、ヘルマの驚く顔が見られて、ちょっと気分がいい。なんだかんだ準備も苦痛ではなかった。
「ねぇ……これ、全部あなたたちが? 今日の食事はわたしが用意するはずだけれど」
「姫は気になさらなくていいのです。どうか気を遣わず、ゆっくりして下さい」
 シルヴァスの気遣いたっぷりの発言でも、ヘルマは納得しなかった。
「でも、何だか悪いわ。……あ、ゾノ、グラスが空になってるじゃない。わたしが……っ、きゃっ」
 あらかじめ飲み物が入った容器を掴み傾けようとしたところで、ヘルマの悲鳴が上がる。慣れてなさそうな手つきで扱おうとした途端、容器の蓋が外れて中身がこぼれそうになったのだ。
 が、惨事になる前にゾノが素早く動く。「おっと」と声を漏らしながら、ヘルマの手と容器を見事に支えた。
 ゾノが優しく苦笑する。
「危ねぇから、お嬢は本当に座って食べて話しててくれるだけでいい」
「……ごめんなさい。もう慣れたと思ってたのに、やっぱり迷惑ばかりかけてるわね、わたし」
 己の手を見つめながら、ヘルマは悔しそうに呟く。
 けれど、それは仕方のないことのような気もした。ヘルマは王宮で育ったのだ、飲み物など淹れたことすらないに違いない。どのくらいここで生活してきたのか知らないが、初めはさぞ苦労したことだろう。
 ゾノももちろん、怒ってなどいないようだ。
「うあー、お嬢が謝ることじゃねぇんだって! 俺様たちは、お嬢に元気になってもらいたいだけなんだよ。だから、んな顔しないでくれ。頼む」
 ゾノが懇願すると、ヘルマはゆっくりと顔を上げた。少し悲しげな上目遣いをされたからか、ゾノの体がぴしっと硬直している。
 シルヴァスとキストも同様に穏やかな顔をしていると気づいたのか、ようやくヘルマは笑顔になった。
「……ありがと」
 礼を言って席についたヘルマを、男三人は温かく見守っていた。スープに手をつけ始めた彼女を、穴が開くのではないかと思うくらいに見つめている。逆に彼女は食べにくいんじゃないだろうか。
「そういえば、あんたたち食材はどうやって手に入れてるんだ?」
 ふと疑問に思って、ディーゼは訊いてみた。今夜はかなり豪華な食事となっているが、ヘルマたちは妖精の楽園から出られないはず。誰も近寄りたがらない森の中に、食べ物を売っている者がいるとも思えない。では、どうやって。
「森には鳥獣がいるし、果物や木の実も生ってるのよ。綺麗な湖もあって、屋敷の裏庭には小さな畑があるから、野菜はそこで育ててるわ。最初は、キストが用意してくれてた食材を使ってたけれど」
 答えてくれたのはヘルマだった。が、ディーゼの疑問はまだ尽きない。
「俺は四日間森の中を彷徨ってたけど、鳥獣も木の実も見当たらなかったぞ」
「あぁ、森の入口付近にはないみたいなの。もっと奥まで行かないと。それにここの森、同じような景色ばかりで迷いやすいから、ディーゼは何度も同じ道を進んでたのかもしれないわね」
 より詳しく説明され、合点がいく。なぜ入口付近にのみないのか、それはまだ謎だが、今のところはそれ以上訊く気にならなかった。
 ――と、近くからぶつぶつ呟く声が聞こえてくる。
「はぁー、やばい、さっきは思わず抱きしめそうになった」
 バンダナの巻かれた額を押さえ、悩ましげに言ったのはゾノである。訊かずとも内容の詳細は分かる。違う意味でディーゼがため息をつきそうになった時――なぜか、シルヴァスにきっと睨まれた。
「おい貴様。姫に妙な真似をしたら、どうなるか分かっているんだろうな」
「いや俺何も言ってないんだけど」
 何で自分が脅されているのだ。理不尽にもほどがある。ヘルマに手を出すなど、こんな環境では考えられるわけもないのに。
「へぇ〜、ディーゼ君、そんなこと考えてたんだ」
「考えてないから言った本人に言えよっ」
 キストにまで明るい笑顔を向けられる。おぞましいことこの上ない。少しでも気を紛らわしたくて、ディーゼは目の前にあるソースのかかった薄切り肉を口に含んだ。
「あ、シュララ!」
 そこへ、ヘルマの焦ったような声が届く。フォークを口に含んだまま目を向けると、彼女のペットであるシュララが、勢いよくディーゼの腕に乗っかってきた。
「うわ、な、何なんだっ」
 男どもだけでなく、ペットにまで目をつけられてしまったのか。噛まれるくらいのことを覚悟していたが、予想に反してシュララは大人しかった。
 どういうわけか知らないが、ディーゼの腕輪――というより、そこに埋まっている赤い石に顔を寄せている?
「もうシュララ、どうしたのよ……あら?」
 追いかけてきたヘルマが、不意にディーゼの顔を見て声を漏らす。じっと見つめてくるので訝しんでいると、彼女の顔が近づいてきて――。
「っ……!?」
 口元に、何かが触れた。布越しに伝わる、柔らかい肌の感触。何が、起きた。
「ほっぺにソース、ついてたわよ」
 そう言って、無邪気にくすくす笑う。ヘルマの服の袖には、薄切り肉にかかっていたソースがついていた。
 元王女とはいえそんなことしていいのかとか、口で言えばいいじゃないかとか、そんなこと考えている場合ではなかった。ディーゼが感じたのは恥ずかしさでも、胸が熱くなるようなものでもない。
 恐怖だった。
「貴様……舌の根の乾かないうちに……。いい度胸だな」
 からん、と乾いた音がする。多分、鞘が投げ捨てられた音。
 咄嗟に席を立とうとしたが、隣から魔の手が伸び、がっしと捕まえられた。
「姫様に手出したら……殺しちゃうって、言ったよね」
 にっこり、と神も逃げだしそうな笑顔が迫る。いや、だから手を出したのは自分じゃない。どうしてこいつらは、こうも思い込みが激しいのだ。
 どこからか「おーおー、やっちまった」と、他人事のような台詞が聞こえてきた。いや何もやってないから助けてほしい。切実に。
 この後、広間中が大騒ぎになり、女神の一声で一気に静かになったのは言うまでもない。
 身を危険に晒し、ディーゼが気づいたことは、ヘルマと彼らとの絆が、とてもとても固いということだった。



 第三章 元王女と元騎士

 寝台に腰かけ、ヘルマは膝の上にシュララを乗せていた。
 カーテンを開けた窓からは光が差し込み、彼女の私室を明るく照らしている。森の中にある屋敷だというのに、清々しい日差しだ。
 人型になったシュララに手伝ってもらって、ヘルマはすでに着替えている。王宮では全て侍女がやってくれたが、これからはなるべく一人で出来るようになりたかった。
 こういう環境の中で、何でもシルヴァスたちに任せきりにしたくない。頼りっ放しではいけない。ただでさえ命をかけて守ろうとしてくれているのだ、あまり迷惑をかけたくなかった。
 当然、最初は悪戦苦闘の連続だったが。一人で後ろのリボンを結ぼうとしたがゆるゆるで、ドレスが落ちてきそうになった、なんてこともあった。
 ドレスといっても、ここで着ている服はそう豪華な物でもない。上下が一体化した、いわば長いスカートとでも呼ぶべきか。生地は悪いわけではないが、レースがふんだんに使用されているわけでもなく、スカートを膨らませるパニエも着用していない。だが、ヘルマはそれで十分だった。
「あっ……」
 その時、ぴょん、と膝からシュララが離れていった。そのまま近くのミニテーブルに着地し、動きづらそうに体の形を変えている。ミニテーブルの上には小物やグラス、暇潰しに読んでいた本などが置いたままになっているのだ。
 片づけようと腰を上げかけた時。スッ、と横から入り込む影があった。
「俺が片づけます、姫」
 的確にこちらの意図を読み取った発言に、ヘルマはちょっと驚いてしまう。空気に溶け込むように、先ほどからそばに立っていたのはシルヴァスだった。
 それくらい自分でやると言う前に、彼はてきぱきとミニテーブルの上を綺麗にしていく。ヘルマの出る幕もなく、何だか複雑な気分になってしまった。これでは元騎士というより、本物の世話係みたいだ。
「ありがと、シルヴァス」
「いえ」
 素っ気なく聞こえる短い返事だが、シルヴァスの顔は穏やかだ。それが嬉しくて、同時に悲しくも思った。
 王宮から追いだされた時、シルヴァスは自らヘルマについてきてくれた。もちろん必死に止めたが、彼は頑として意見を曲げず。――そのまま、ともに妖精の楽園に入ってしまったのだ。
 ちなみにキストも、ここに入る直前、ヘルマを追いかけてきて一緒に行くこととなってしまった。理由を訊いたら少し寂しそうな顔をされて、まだ教えてもらっていない。
 キストはあの若さでも商人だったから、王宮に来ることはあったし、顔を合わせたこともあったが……まさか、それだけの理由でついてきたわけではあるまい。
「姫」
 悶々と考えていると、突然シルヴァスに話しかけられた。我に返り、急いで声のした方を見上げる。
「どうしたの?」
「……なぜ、あの男を助けたのですか」
 低い声で問われ、ヘルマは真剣に耳を傾ける。キストやゾノのことなら、シルヴァスは「あの男」と呼んだりしない。ということは、ディーゼのことか。
「なぜって、森で倒れてたのよ? あのまま見て見ぬフリなんて出来ないわ」
 思ったことを述べただけだったが、シルヴァスのお気には召さなかったらしい。
「……姫は、優しすぎます」
 あんなことがあったのに、という言葉が続きそうなほど、苦渋に満ちた表情だった。連動するように、ヘルマの胸もちくりと痛む。
 自分でも不思議だとは思っていた。王宮で異端視され、無実の罪で命を狙われかけているのに、決して人間不信になることはなかったのだ。
 もちろん、その度に心は傷つく。けれど、人から距離を置こうとはどうしても思えなかった。まるで、相手から離れるなと強制されているかのように。
 だから、シルヴァスたちが大袈裟なくらいヘルマを守ろうとするのも、ヘルマ自身のせいなのだ。こんなところでも迷惑をかけていると思うと、本当に嫌になる。
「姫、一つだけお願いがあります」
 改まったようにシルヴァスが口を開く。彼の瞳はどこまでも真剣で、怖いくらいだった。
「今後、俺が敵にとどめを刺す時……止めないでほしいのです」
 ずきん、と先ほどより酷い痛みが走ったのはなぜだろう。
 ヘルマはすぐに反応出来なかった。シルヴァスはマーリネ王国の元騎士だ。人を斬ったことだってあるだろう。でも、それでも。
 ヘルマのせいで、簡単に人を斬れるような人間に、なってほしくなかった。
「先刻も言ったように、姫は優しすぎるのです。そして無防備すぎる。この間のようなことを……二度と、姫に味わわせたくないのです」
 この間のこと。訊くまでもなく、怒りに狂った女に襲われた時のことだろう。
 あの時、急所を狙って一気に決めようとしたシルヴァスを、ヘルマは咄嗟に止めていた。ヘルマのために、シルヴァスが罪を背負う必要なんてなかったから。
 けれど。キストが言ったように、やらなければやられるのも事実で。結局、彼に人を殺させてしまった。自分は一切、手を汚さず。
「……だったら、これからは無防備にならないよう気をつけるわ」
 絞りだした台詞は、あまりにも格好のつかないものだった。完全に口先だけの言葉になってしまっただろう。さすがにシルヴァスにも呆れられたかもしれない。
「……そうですか」
 が、彼は静かに呟いただけだった。妙に淡々とした声音に、ヘルマが小首を傾げそうになった、刹那。
 シルヴァスが足を踏みだしたと思った途端、たったの一歩で間近まで接近される。驚く暇もなく手首を掴まれ、同時に体が傾いだ。寝台の上で横たわる体勢になり、微かに体重がかかってくる。
 反射的に閉じていた目を開ければ、お互いの息がかかりそうな位置にシルヴァスの顔があった。一つにまとめられた彼の銀髪が、ヘルマの頬に流れてくる。そのくすぐったさに、肩がぴくりと動きそうになった。
「こんなに隙だらけで、ですか」
 畳みかけるように、吐息とともに言葉をぶつけられる。初めは呆然としてしまったヘルマだったが、徐々に元の感覚を取り戻してきた。
「……ずいぶん思いきったことをするのね」
 言下に、拘束されていない方の手をシルヴァスの後頭部にまわす。ぐい、と押し寄せた瞬間、「な…っ」と焦ったような声が漏れてきた。触れる寸前、危ういところまで近づけて、止める。
「でも、あなただって隙だらけなんじゃないかしら」
 からかうように言うと、シルヴァスはがばっと体を離した。彼はすぐに後ろを向いてしまったが、起き上がって見てみると首が真っ赤になっているのが分かる。ちょっとしたお返しのつもりだったのだが、やりすぎただろうか。
「っー……俺はどうかしていたようです。気安く姫に触れるなど、ご無礼をお許し下さい」
「あら、別に初めて触ったわけでもないじゃない。それに、あなたは理由もなくこんなことしないわ。気にしてないわよ」
 深い意味はなかったのだが、シルヴァスは息を呑んで更に首を紅潮させている。「姫……」と悩ましげに呟かれたが、それもため息とともに溶けていった。
 分かっている、彼が心配してくれていることくらい。痛いくらい、伝わっている。
 だからこそ、ヘルマはどうしようもない気分を持て余すのだった。



「姫、足元に注意して下さい」
 くっつきすぎず、かといって離れすぎていない位置に立ち、シルヴァスは気遣わしげに言う。ヘルマは苦笑しながらも頷いた。
 あの後、ヘルマはシルヴァスを連れて屋敷を出ていた。何が起こるか分からない森の中を歩いているのは、食材を集めることと、妖精の楽園について調べるためである。
 森の中を見てまわったところで何も分からないかもしれない。分かったとしても、ここを出れば今度こそ命を奪われるだろう。
 けれど何もせずただ暮らす、ということも出来なかった。危険が潜んでいる可能性があるなら調べておいた方がいい。なので、定期的にこうして森中を歩きまわっているのだ。
 自分の前を行くシルヴァスは、堂々と背筋を伸ばしている。どうやら先刻のことは吹っ切れたらしい。でも話をぶり返せばまた動揺しそうで、ヘルマは笑いそうになってしまった。
「姫?」
 不思議そうな顔が振り返ってくる。ヘルマはハッとして首を左右に振った。まだ笑ってもいないのに感じ取るとは、どんな神経を持っているのだろうか。
(……あら?)
 ささやかな疑問を抱いた直後、ヘルマはふと足を止めた。足音で気づいたのか、少し先に行ったところでシルヴァスも立ち止まる。
「姫、どうしたのですか」
 ヘルマはすぐに答えられなかった。
 木々が重なり合い、似たような風景が広がる森の、ある一点。交錯している灌木の間で、何かが光った気がしたのだ。よく目を凝らしながら、一歩近づいてみる。
「シル…」
「! 姫ッ」
 呼びかけた彼の名は、切羽詰まった叫び声によってかき消された。
 急に抱きしめられたかと思えば、そのまま体が横に飛ぶ。地面に叩きつけられるような衝撃があったが、ヘルマに痛みはなかった。シルヴァスが下敷きになってくれたからだ。
「シルヴァス!?」
 急いで離れようとした瞬間、背後で爆発音のようなものがする。反射的に振り向いた時には、宙に煙が浮かんでいるだけだった。
 大きな爆発ではない、範囲も狭いものだろう。だが、当たっていれば無事でいられなかったかもしれない。
「姫っ、下がっていて下さい!」
 ヘルマを解放するやいなや、シルヴァスは長剣を引き抜いて走りだした。同時にまた、木々の間から光が現れる。その動きを正確に読み取ったように、シルヴァスは迷わず剣を一閃させた。
 ヘルマからはよく見えなかったが、赤色の光を発する何かが真っ二つに裂かれる。と思った瞬間、シルヴァスは後ろへ跳躍した。地面に着地する寸前、斬られた何かが爆発する。先ほどの爆発音と、同じだ。
 シルヴァスの舌打ちが聞こえた。休む暇もなく光は次々と現れ、彼の元へ殺到していく。その中で、ヘルマはようやく光の正体を見定めた。
 赤色の光を放つ蝶。剣や拳での直接的なものでない、その攻撃。
(まさか、妖精術……!?)
 ヘルマは愕然としてしまう。恐らく、シルヴァスも気がついているだろう。妖精術が使われているということは、やはりこの森には妖精がいるのか。それとも……。
「……!」
 深く思考を巡らせてしまったのが、まずかったのか。斬り伏せていくシルヴァスを頼りっ放しにしていたのが、いけなかったのか。
 背後に殺気を感じて、ヘルマは咄嗟に振り返った。目の前に映しだされたのは、美しい蝶。そして赤。
 無意識のうちに腕を交差させた直後、身を焼かれるような熱と爆風が体を包み込んだ。
「姫――っ!」
 どこかでシルヴァスの悲痛な声がする。わたしは大丈夫。そう言いたいのに、なぜか意識がどんどん遠のいていって。
 抗えないまま、ヘルマは闇に身を沈めた。



 ヘルマが倒れた、と聞いた時、ディーゼはにわかには信じられなかった。
 だが、現実から逃れることは出来ず。僅かに傷を負ったシルヴァスに抱えてこられ、ヘルマは現在彼女の部屋の寝台で眠っている。頬や首筋には煤のようなものがついており、左腕の服は破れていた。
「ディーゼ君っ、姫様は!?」
「お嬢! 大丈夫か!」
 ばたん、と乱暴に扉を開けて入ってきたのはキストとゾノ。二人とも顔色を悪くさせ、飛びつく勢いで寝台へ向かってきた。
 寝台の前で椅子に座りながら、ディーゼは小さく答える。
「……まだ、一度も起きてない」
 それを聞くと、二人は目に見えて落胆していた。悔しげに顔を歪め、じっとヘルマを見守っている。そんな中、キストだけは彼女の元へ近づき、怪我の具合を確かめ始めた。
 幸運にも、怪我自体はそんなに重そうではない。破れた服から覗く肌は赤く腫れ上がっていて、どうやら火傷したようだ。気を失っているのは、襲われたショックによるものだろう。
 キストも気づいたようで、用意してきたらしい救急用の箱から湿った布を取りだす。軽く押し当てて冷やし、包帯を巻くと、そっと腕を寝台に戻していた。さすが商人、用意周到な上に応急手当ても出来るらしい。
「ん……」
 その時、微かにヘルマの呻き声がして、いち早くキストとゾノが反応した。ディーゼも立ち上がり、彼女の顔を覗き込む。
「姫様!」
「お嬢!」
 呼び声に答えようとしているのか、ヘルマの瞳が少しずつ開いていく。綺麗な紫水晶が、徐々に大きくなっていった。
「あ……あなた、たち」
「よかった、気づいたんだな」
 一安心して、ディーゼはぽつりと呟く。対照的にキストは寝台に手をついたり、ゾノはヘルマの手を握ったりなど過剰な反応を見せていた。
「姫様……はぁ、あまり僕に心配かけないでほしいな」
「そーだぜお嬢! 俺様本気で心配して……っばー、安心したら、一気に疲れが」
 怪我人の前でやかましいとディーゼは思ったが、ヘルマは申し訳なさそうに「ごめんなさい」と謝る。その様子を見たら見たで今度は、
「姫様が謝る必要はないよ」
「そーだぜお嬢! もっと心配かけろ!」
 ……一体どっちなのだ。
「それで、ヘルマ。何があったんだ」
 二人の好きにさせていたら話が進まない。ディーゼは咳払いしてから本題に移った。
 すると、そこで初めてヘルマの表情が強張る。
「シルヴァス、シルヴァスはどこ!?」
 そのあまりに悲痛な声に、ディーゼはもちろんキストとゾノも驚いているようだった。が、ディーゼは冷静に返答する。
「あんたを寝かした後、すぐ部屋を出てったけど」
 そう、シルヴァスはこの場にはいない。
 慌てて屋敷へ入ってきたシルヴァスに手伝わされ、ディーゼはヘルマを寝かせたのだ。それを確認すると、『……姫のそばにいてくれ』と、普段の殺人鬼ぶりからは想像もつかないことを言われ、止める間もなく出ていってしまった。
 しかしそのことを伝えると、ヘルマは顔を青くさせて寝台から抜けだそうとした。けれども、着ているのは長いドレスのようなスカートのまま。足元が絡まったのか、ヘルマは小さく悲鳴を上げて頭から落っこちそうになった。
 間一髪、近くにいたディーゼが受け止める。長い赤毛が、顔の横を掠めた。
「……本当に危なっかしいな、あんた」
「ご、ごめんなさい」
「! あ、謝んなくていいから、大人しく寝てた方がいい」
 お互いの体勢を思い出し、ディーゼは急いで離れる。恐る恐る二人をうかがったが、殺気らしきものは漂っていなかった。今回は仕方ないと思ってくれたのか。いや、むしろ助けなかった方がぼこぼこにされていたかもしれない。
「寝てなんかいられないわ! シルヴァスだって怪我してるはずなのに、それに……っ」
 死刑にならずに済んだ、と思ったら今度はヘルマが騒がしい。彼女は珍しく切羽詰まった様子で、何が何でも大人しくするつもりはないようだった。
「おい、どうしたんだ。あのさつじ……あいつには、そんなに目立った傷もなかったぞ。何でそこまで必死になるんだ」
 大袈裟にすら見えるヘルマの態度が解せず、思わず尋ねてしまう。すると彼女はハッとしたように固まり、顔を俯かせてしまった。
 謎が余計に深まる。あまり言いたくないことなのだろうか。なんとなく察したディーゼは話題を変えようとしたが、その前にヘルマが口を開いた。
「キスト。ゾノ。……シルヴァスの様子を見てきてもらえる?」
 その声は静かで、やけに室内で響いた。頼まれた二人はすぐに返事をせず、迷うようにディーゼとヘルマを交互に見ている。多分、ヘルマと二人きりにさせるのが不安なのだろう。
「お願い、できるかしら」
 凛、とした声音。時々耳にする、気高い雰囲気を滲ませる声だった。こういうところを見ると、やはり元は王女だったのだなと実感する。
「……分かったよ、姫様がそう言うなら」
「だな。何かあったら呼べよ、お嬢」
 キストは肩を竦め、ゾノはひらひらと片手を振りながら、渋々部屋を出ていった。ぱたん、と扉が閉まると、妙な静けさが残る。
 なぜ、ディーゼだけがとどまることになったのか。教えてくれるものはいなく、彼は我慢出来なくなって沈黙を破った。
「何だ、俺に話でもあるのか」
 問うても、ヘルマはしばし黙り込んでいた。彼女の中では、様々なことがぐるぐる回っているのだろう。それが何なのかは見当もつかないが、ディーゼはじっと待つことにした。
 ――やがて、ヘルマが深く息をつく。
「シルヴァスのこと……少し、話しておこうと思って」
 予想もしなかった発言に、ディーゼは目を丸くしてしまった。改まって何を言うかと思えば、シルヴァスのことを?
「そんなこと、勝手に喋っていいのか」
 シルヴァスは恐らく、いや高い確率でディーゼを敵視している。少なくとも好意は抱かれていない。そんな人物に、自分のことを話されたら彼はどうするか。串刺しだろう。
 だが、ヘルマはゆるゆると首を振った。
「彼、敵に対しては容赦がないでしょう? 確実に急所を狙って、確実に倒そうとする。それは……決して、シルヴァスが非情だからじゃないの」
 それについては身をもって経験済みだ。シルヴァスには何度殺されかけたか分からない。
 けれど、それには理由がある?
「それに彼……わたしのせいで、騎士の位を剥奪されたのよ」
「な……!」
 またしても衝撃的な事実を告げられ、声が漏れてしまう。一体何がどういうことなのか――尋ねようとした、刹那。
「姫様っ!」
 ばたんっ、と再び扉が乱暴に開けられた。息を切らしながら入ってきたのは、数分前出ていったキストとゾノだ。尋常でない雰囲気に、ディーゼは嫌な予感を振り払えない。
 どうしたのと訊いたヘルマに、ゾノは汗を流しながら、答えた。
「屋敷中、探したんだが……シルヴァスが、いない」
 瞬間、ヘルマの表情が凍りついた。



 シルヴァスにとって、情けというのは不要なものとなっていた。
 あの時、目の前で。
 両親を――殺された時から。
 憐れんだのが間違いだった。生かそうとしたのがそもそもおかしかった。
 自分たちを襲ってきた夜盗など、殺しても問題なかったはずなのに。
 夜中、突然家の中に忍び込まれて。いち早く気づいたシルヴァスは、両親を守るためすぐに応戦した。
 傷は負ったが、負けはしなかった。本格的ではないが、剣術は父に多少教わっていたのだ。その父も体力に限界がきているので、今は教わっていないが。
 夜盗は倒したが、命まで奪うつもりはなかった。そこまで非情になれなかったのは己の弱さだが、痛めつけておいたし、尻尾を巻いて逃げるだろうと思っていたのだ。
 ――悲鳴が上がったのは、その時だった。
 気づいた時には、後方にまわっていた夜盗の一人が両親に斬りかかっていた。シルヴァスも無意識のうちに剣を振るったが、視界に映ったのは夜盗の亡骸と、目を開けない両親だった。
(……強く、ならなければ)
 そう決意するのに時間はかからなかった。
 だから志願して、王宮に仕える兵士になったのだ。兵団であれば、ある程度剣が扱えれば誰でも入れる。
 それからはひたすら腕を磨き、努力を重ね、シルヴァスは僅か一年で騎士へと昇格した。
 ヘルマと出会ったのはその頃だ。
『わたしにも手伝わせて』
 初めて聞いたのは、確かそんな甘い声。
 兵士や騎士の集う練兵場、そこに一輪の花が咲いていた。全員が練習のための戦闘を終え、適当な所で休んでいる。怪我人が出るのも日常茶飯事で、彼女はその手当てを手伝おうとしているようだった。――いや、待て。
(なぜ、王女殿下が……)
 ここは一国のお姫様が来るような場所ではない。同行させられたらしい侍女もおろおろしている。騎士たちも怯えたように、しかし拒絶も出来ないのか体を強張らせていた。
 そういえば、マーリネ王国の第三王女は王宮内でいい目を向けられてない、と聞いたことがある。身元に不明な点が多いらしく、ゆえに排斥されているとか。自分たち騎士や兵士も、必要以上に関与するなと言われていた。
 そんな彼女が、手当てをしている。自ら。なんともいえない光景である。
『あなたも、その腕を見せて』
 と、急に近くから声がして意識を向ける。
 しかし振り向いた途端に腕を掴まれ、勝手に手袋を取り外された。文句を言う暇もなく、かゆくもないような傷を消毒され、軽く包帯で巻かれる。強引な上に大袈裟な処置だ。
『ふふ、これで大丈夫ね』
『……』
(変わったお姫様だ)
 それは自然な感想。けれど、それからなんとなく、シルヴァスは彼女が気になるようになってしまった。
 ただ強くなる。それだけを考えてきた、鍛練するだけの無色の日々。そこに、突然華やかな色が混ざった気がしたから。
 といっても、だから何かがあったというわけでもなく。その後何度か彼女は現れ、でもやがて練兵場に顔を出さなくなった。国王陛下の耳にでも入って止められたのかもしれない。
 再び無色の日々に戻りつつあった、ある日のことだった。
(あれは……!)
 鍛練を終え、騎士宿舎に戻ろうとしていると、何やら回廊を歩いている人物を見つけ、シルヴァスはぎょっとした。
 しかも彼女が、そのまま王宮の外に向かって森の方へ行こうとするものだから、慌てて駆け寄ってしまう。
『殿下! 何をなさっているのですか!』
 声が届いたのか、彼女はくるりと振り返る。歩きづらそうなドレスで、赤い髪を揺らして。侍女もつけず一人でいるようで、シルヴァスはため息をつきそうになってしまった。
 が、そこでハッと立ち止まる。騎士ごときが第三王女に気安く声をかけるなど、普通は考えられない。しまった、と臍を噛んだが、当の王女様は全く意に介していなかった。
『あら、あなたは確か騎士の人ね。わたしは、ちょっと森に行こうと思ってたのよ』
 騎士かどうかは格好で分かるはずだが、それよりも後半の発言が引っかかった。
『森、って、お一人でですか!?』
『えぇ』
『えぇって、立場をお考え下さい! いやそれ以前に危険です!』
 必死に引き止めるが、彼女はまるで危機感を抱いてないようで、外の景色を真剣に見つめている。そしてぽつりとこぼした。
『でも、森に行ってみたいのよ。何だか呼ばれてる気がするの。でも侍女たちに言ったら止められちゃうから、内緒にしておいてくれる?』
 言っていることは分からないが、からかっているわけではないらしい。紫水晶の瞳が、あまりにも真剣だったから。
 その後も考え直してもらおうとしたが、王女様は全く言うことをきかず。何をしても本当に一人で行ってしまいそうで、シルヴァスは自分でも考えられない行動に出ていた。
『……なら、俺も同行します』
 口にしてから自分でもびっくりした。一体何を言ってるんだ、ここは他の人間に知らせるべきだろう。でも、あの瞳を見ていたら、そんなこと出来なくて。
 彼女の方も驚いたような顔をしたが、やがて眩しいくらいの笑顔を向けられた。
『あなたの剣は真っ直ぐだったけど、あなたも同じみたいね』
 さりげない一言だったが、なぜかそれはシルヴァスの胸に強く響いた。
 何だ、この高鳴りは……。妙な居心地に違和感を覚えた、次の瞬間。
『! 殿下っ』
 気づいた時、体は勝手に動いていた。一瞬で剣を引き抜き、彼女の前に飛びだす。正面から何かが出てきたと同時、シルヴァスは剣を薙いだ。
 耳をつんざくような呻き声は、目の前にいる獣のもの。しかし、森に入ってもいないのにどうして獣が? 疑問に思っていると、獣が血を流しながらも立ち上がろうとした。一度では浅かったらしい、次は確実に――。
『待って!』
 が、その一声で咄嗟に体が固まる。瞬きの間に出来た隙を、獣は見逃さなかったようだ。
 鋭利な牙と爪が迫り、シルヴァスは咄嗟に横へ逃げる。受け身を取って体勢を整え――しかし、すぐに血の気が失せた。
 シルヴァスの後ろには彼女がいたのだ。獣は進路を変えようとせず、真っ直ぐ、彼女へ噛みつこうとする。
『やめろ――っ!』
 地面を蹴って、剣を突きだす。重い、確かな感触。血が飛び散る音。
 ぱたり、と獣は動かなくなった。
 そして、獣越しに見えるのは――真っ赤に染まった王女の姿。
 頭がぐらりと重くなった。剣を放り捨て、シルヴァスは彼女の元へ駆け寄る。
 だが怪我をしている様子はなく、かかっているのは獣の返り血のようで、心底ホッとしてしまった。けれど、王女を血で染めてしまったことに果てしない罪悪感が生まれる。
 しかし。本当の悲劇は、これからだった。
『っ、っ……きゃああ――っ!!』
 回廊中に響く、女の絶叫。振り向けば、侍女らしき者が真っ青な顔で立ち尽くしていた。恐らく、姿を消した王女を探しにきていたに違いない。
 ――それからは、本当に大騒ぎだった。
 謁見の間、というより国王の前に連れてこられ、シルヴァスは他の騎士に拘束されていた。彼女は着替えてから、拘束はないもののシルヴァスとともに立たされている。
 事情は全て説明した。が、王女を森に連れていくなど言語道断、ということで、騎士の位を剥奪するとともに王宮からの追放を告げられた。
『待って下さいお父……陛下! 彼は悪くないのです! 全てわたくしの責任なのです!』
 彼女の反論も虚しく、国王の指示でシルヴァスは騎士に腕を引かれる。すでに覚悟は出来ていた。彼女の気持ちは、痛いほど嬉しい。これは、自分の責任だ。
『やめなさいっ!』
 だがその時、最後の悲劇が起こった。
 前触れもなく、彼女の体が光り。シルヴァスへと伸ばされた手に、力が集まっていき。
 ――放たれた。
 幸い、それは不完全なもので怪我人が出ることはなかったが。剣でも、拳でもない、魔法のような不思議な力。
 それは初めて、彼女が妖精術を使用してしまった瞬間だった。



 ヘルマには何を言っても無駄だということが分かった。
 シルヴァスがいないと聞いた途端。目覚めたばかりで怪我までしているというのに、全くいうことをきかず探すと言いだしたのだ。止めても振り払われ、結局ディーゼたちはお供することとなってしまった。
 ヘルマは森の、ある一点へ向かっていた。その間にシルヴァスの話も聞かされていた。
 ヘルマのことしか頭にない、ただの殺人鬼だと思っていたが。彼にそんな過去があったなんて、知らなかった。
 それに、もしかしたら。シルヴァスは、自分のせいでヘルマが王宮を追放されたと自責の念に駆られているのではないだろうか。あの時自分と出会わなければ、ヘルマが妖精術を使う日など来なかったかもしれない、と。
 だから、ヘルマとともに妖精の楽園に入ったのか。彼女を守るために、彼女に償うために。
「シルヴァス!」
 その時、隣でヘルマが大声を出した。その名にハッとして、ディーゼは思考を中断させる。
 具体的にどこだか分からない、森の一部。ヘルマの話によると、先刻シルヴァスといた時に襲われた場所らしかった。ここに、彼がいるかもしれない。
 ――ヘルマの直感は当たったようだ。
「シルヴァス……」
 木々の間を睨みつけるようにして佇む、銀髪の青年。彼は抜き身の剣を手にし、ずっとこちらに背を向けていた。
 ヘルマが近づこうとする。だが足音で気づいたのか、シルヴァスはびくりと肩を震わせてから叫んだ。
「来てはいけません姫っ!」
 裏返りそうなほど必死な声に、ヘルマの足も止まってしまう。キストとゾノも驚いたような顔をし、ディーゼは息を呑んで様子をうかがった。
 シルヴァスは背中を向けたまま。ヘルマも無言。お互いを探るような嫌な沈黙が流れ、やがてシルヴァスが、静かに口を開いた。
「……俺のそばに、来てはいけません」
 今度は感情を押し殺したような、儚げな声音だった。聞いているこちらの方がいたたまれなくなる。後ろを向いていても、表情が浮かんでくる。
「俺には、姫を守る資格がありません」
「……どういうこと?」
 吐きだされていく想いに、ヘルマは優しく問いかける。それでも、シルヴァスが放つ物悲しい雰囲気は変わらない。
「一番近くにいながら……俺は、あなたを守れなかった」
「……」
 ヘルマは何も言わなかった。それは多分、シルヴァスの発言を認めたわけではなくて、否定しても無駄だということが分かっていたのかもしれない。
「あなたがここに来たのは、わたしたちを襲った相手を倒すため、なのよね」
 あえてシルヴァスの言葉を無視するように、ヘルマは違う話をする。シルヴァスは特に気にしていないのか、抵抗することなく答えた。
「そうです」
「殺すの?」
 直球な問いかけ。ディーゼはぎょっとしてしまったが、ヘルマの瞳は真剣だった。その紫水晶の宝石には、ひびが入り込む余地などない。
 だから黙っていた。これはきっと、ヘルマとシルヴァスの問題だ。部外者が出しゃばるべきではない。
 しばらくして、シルヴァスはもう一度言った。
「そうです」
「あなたはやっぱり……敵と判断した相手なら、躊躇いなく殺すのね?」
「そうです」
 まるで壊れた機械のようだ。同じことの繰り返し、しかしそこには、咎めることの出来ない想いの強さが見え隠れしている。そんな気がした。
「なら……」
 ヘルマは「ふぅ」と息をつき、くるりと身を翻す。
 そのままシルヴァスから離れていき、何をする気かと思った途端、彼女はキストの前で立ち止まった。突然やってこられたキストは不思議そうにしていたが、ヘルマは意に介さず手を突きだした。
「キスト、短刀を何本か持ってたわよね。一本貸してくれないかしら」
 唐突に、小さめの声でヘルマはそう言う。無反応であることから、多分シルヴァスには届いていない。だがディーゼとゾノ、そしてキストは、言葉を失うほど驚愕させられていた。
「なっ、姫様、急に何を…」
「貸しなさい」
 凛とした声音がキストの台詞を遮る。それは懇願ではなく、かといって命令する風でもなかったが、どことなく逆らいがたい雰囲気を醸しだしていた。
 キストは納得した様子ではなかったが、一向に動かないヘルマの手のひらを見つめ、おもむろに懐へ手を持っていく。そこから小ぶりな短刀を一本取りだすと、躊躇しながらもヘルマへ差しだした。
 ヘルマは礼を述べて受け取り、またシルヴァスの元へ向かう。止めることも出来ず、ただ見守っているうちに、ヘルマは音を響かせて立ち止まっていた。
 そうして、ゆっくりと、シルヴァスへ短刀を向ける。
「なら、わたしを殺しなさい」
 その一言は、不思議なくらいはっきり聞こえた。シルヴァスにとっては、もっとよく聞き取れたに違いない。
 誰もが耳を疑った刹那、シルヴァスは弾かれたように振り返った。
「っ……!?」
 ようやくこちらを向いた彼の顔は、驚きだけで満たされている。無理もない。ずっと慕っていた彼女に殺せと告げられ、振り返ってみれば武器まで突きつけられていたのだから。
「な……にを、言っているのですか」
「わたし、あなたに武器を向けてるのよ? つまりあなたの敵。殺すべきでしょう」
 冷静に、あくまでも冷静にヘルマは言葉で攻撃する。シルヴァスが混乱しているのは言うまでもなかった。
「おやめ下さい! そんなこと、俺に出来るはずがありません!」
 シルヴァスも必死に抗う。するとヘルマの顔が一瞬歪み、次第に顔を俯かせていった。連動するように、真っ直ぐだった剣先も下がっていく。
「……で」
 震えた、か細すぎる声。シルヴァスも聞き取れなかったらしく、ヘルマの方へ耳を寄せたのが分かった。
 今度は、はっきりと届く。
「だったら言わせないでっ、こんなことっ!」
 顔を上げ、響き渡ったそれは、涙声だった。
 涙は、出ていない。ヘルマはやけを起こしたように短刀を投げ捨てると、更にシルヴァスに近づいていった。すぐそばまで迫っても、シルヴァスは顔を強張らせるだけで、逃げようとはしなかった。
「お願いだから……一人で、手を汚さないで」
 縋るようにシルヴァスの上着を掴むヘルマに、彼の銀の瞳が大きく揺れた。
 恐らく、ヘルマは。どうしても、伝えたかったのだろう。
 敵と見なせば、抵抗しようがしまいが構わず命を奪う。ヘルマを守るために、自分だけが汚れていく。そういうことを、平気でやってほしいと彼女が思うはずがない。
 当然、どうしようもない時だってある。でも、見逃してもいい場合だってあると思う。
 今し方の、ヘルマの時のように、きっと躊躇う気持ちを思い出してほしかったのだと思う。
「真面目なあなたのことだから……わたしが王宮を追いだされたのも、自分のせいにしてるんでしょう?」
「……」
「わたし、知ってるわ。あなたの剣はどこまでも真っ直ぐで、力強くて、真面目なあなたらしいって、ずっと思ってたのよ」
「……」
「殿下って呼ばれると、何だか距離を置かれてる気がして、『お姫様って呼んで』って言ったら、あなたは照れくさがって、それでも真面目に『姫』とだけ呼んでくれたわよね」
「……ひ、め」
 シルヴァスらしくない、不安定な言葉を支えるように、ヘルマは両手に力をこめた。
「あなたが戦わなくちゃいけないのは分かってる。だったら、わたしも戦うから。皆に忌み嫌われる妖精術だとしても、あなたたちを守れるなら、わたしは使えるから。ね……」
 埋めかけていた顔を上げ、ヘルマは泣きそうになりながらも、微笑んだ。
「もう、一人でいかないで」
 ヘルマの想いがどれだけシルヴァスに届いたのか、それは本人にしか分からない。二人の世界に入ることは、決して出来ない。
 けれど、それでも。
 ずっと握りしめていた長剣を、シルヴァスが不意に落としたのは。彼が別のものを掴んだ証ではないかと、ディーゼは信じていた。



 第四章 欠片の散る場所

 ひとまず、嵐は過ぎ去ったようだった。
 ヘルマもシルヴァスも、今では元通りの生活を送っている。気のせいかもしれないが、以前よりシルヴァスの雰囲気も柔らかくなっていた。といっても、なぜかディーゼを斬ろうとする癖は直っていなかったが。
 あの後は誰かに襲われることもなく、皆で屋敷へ戻っていた。妖精術を使う姿なき相手の正体は気になるが、それから数日は平和な日々が続いている。
 なんとなく外の空気を吸いたくなって、ディーゼは中庭にやってきていた。森の中ではあるが、明るい日差しが差し込んでいる。自然が豊富な、よい空気のある場所。
(そういえば、まだヘルマに礼を言ってないな……)
 ふと、そんなことを考えた。
 初めて会った時は全く信用出来なかったから、素直に礼なんて言えなかった。でも数日ここで過ごしてみて、彼女たちを悪人だとは思えなくなってきている。
 癖はあるものの(特に男三人)、考えてみれば衣食住の世話もしてもらっているのだ。もちろん、食材集めや掃除など可能なことは手伝っている。それでも、もし企みがあったらこんなに親切にされない。
 ちゃんとお礼を言うべきだろう。だが非常に今更な気もして、なかなか言いだせない。さて、どうしようか……。
 ぐるぐる悩んでいると、不意に見知った人物を発見した。
「あれ、ディーゼ君。こんな所で何してるんだい?」
 木に寄りかかりながら腕を組んでいるのは、にこにこした笑顔の似合うキストだった。紅茶色の髪や整った服装は、周囲の清々しい景色と相まって光を放っている。
「いや、ただ外の空気を吸いにきただけだ。あんたこそ何やってるんだ」
「うん? じゃあ僕も空気を吸いにきただけだよ」
 にっこり、と笑顔になりながら返される。だがそんなことをされても困る。相変わらず掴みどころのない性格に、ディーゼはため息をついた。
 聞こえよがしにやったつもりだが、キストは笑ったまま。完全にお手上げ状態になってしまい、でも何だか悔しくて、ディーゼは違う話を振った。
「そういえばあんた、商人なんだってな」
 突然すぎたかもしれないが、キストは気にした風でもない。ちょっと目を大きくさせただけで、普通に答えてくれた。
「うん、そうだよ。まぁ意外だって思うかもしれないけどね」
 意外というより、初めて聞いた時は驚愕させられた、といった方が正しかった。
 腹黒なところは商人そのものだと思う。が、キストはまだ二十代前半だろう。その若さで商人、という事実に驚かされたのだ。どれほどの実力を持っていたのかまでは知らないが。
「意外というより、凄いと思ってな」
「ははっ、君に褒められるとは思わなかったよ。でもそうだね、僕の父が商人だったから、それで必然的にって感じかな。……まぁ、あの家自体は好きじゃなかったけど」
 ふと、キストの瞳が冷たく細まった。しかしそれも一瞬のことで、すぐ元通りになる。理由を知りたいとは思ったが、とても訊く勇気は出なかった。
「それでも商人になったのか」
「うん、探し物をしていたからね」
 探し物。その単語に、ディーゼは強い興味を引かれた。キストが求めるもの――それは、一体何なのか。
「探し物?」
 疑問が溢れるままに尋ねる。するとキストは「知りたい?」とからかうように笑い、ディーゼの目を見据えてこう言い放った。
「姫様だよ」
 堂々と告げられたそれに、ディーゼは一瞬言葉に詰まってしまう。キストは照れるでもなく、面白そうにこちらを観察していた。
 姫様。間違いなくヘルマのことだろう。キストは彼女を探していた? だが、キストも自らヘルマとともに妖精の楽園へ入ったと聞いたし、嘘である可能性は低い。
 では、なぜヘルマを探していたのだろう?
「……! ディーゼ君、それ、って……」
 その時、キストの仰天したような声がして、ディーゼは我に返った。キストは今までの余裕の笑みを消し、ディーゼのことを凝視している。
 いや、違う。キストの視線は、ディーゼの手首に向けられていた。そこにあるのは腕輪、更に嵌まっているのは赤い石。父に捨てられ、目覚めた時につけていた装飾品。
 これがどうかしたのだろうか。特に割れているわけでも、怪しい光を放っているわけでもない。
「この腕輪に見覚えでもあるのか」
「え……あ、いや、何でもないよ」
 ばつが悪そうに目を逸らし、キストは歯切れの悪い言い方をする。てっきり商人として品物を扱っている時に見かけたのかと思ったのだが、そういうわけではないのだろうか。
「あ、じゃあ、ごめん。僕ちょっと用事を思い出したから、屋敷に戻らせてもらうよ」
 にこり、と笑顔を見せ、キストは足早に去ってしまった。なんとなく笑顔がぎこちなかったが、いくら考えても原因は分かりそうにない。
 腕輪を見つめてみる。父が王宮から盗みだした、正体のよく分からない物。父はどうして、これを自分に預けたのだろう。そして、どうしてほしかったのだろう。
 分からない。分からないが。
 手放す気になれないのは、どうしてなのだろう。



「おー、ディーゼ! わりーけど手伝ってくれねぇか!」
 いきなりそう切りだされたのは、ディーゼが屋敷に戻ってすぐのことだった。
 声の主はゾノ。彼は廊下の向こうからやってきて、両手に大きな籠を持っていた。
 何やら今晩の食材を採りにいくらしい。だが、ゾノは例の通りすぐに疲労がたまる性質で、それで手伝ってほしいということだった。
 断る理由もなかったので承諾すると、籠を一つ放り投げられる。危うく取り落としそうになったが、ゾノは張り切って屋敷を出ていった。あれなら一人でも大丈夫そうに見えるが。
 文句は胸のうちに秘めておき、ディーゼはゾノの後についていった。外に出ると、屋敷を迂回するように裏の方へまわる。そのまま進んでいき、周囲はあっという間に緑で包まれた。
「この森の食材は、ちょいと奥の方まで行かねぇと見つからないんだ」
 どこまで行くのだろうと思っていた矢先、ゾノがさりげなく説明する。そういえばヘルマを励ます食事会をした時、そんなような話は聞いていた。
 黙々と歩き続けていると、やがてゾノが「あーほら、見えてきたぜ」と遠くを指差す。そちらに目を凝らして、ディーゼは景色の違いに驚愕してしまった。
 今までただの木だったそれらには、赤や黄色といった鮮やかな果実が生っている。近くには湖もあり、透明な湖水は喉を潤してくれそうだ。また、湖とは別に川もあるようで、時々魚が跳ねている。姿は見えないが、鳴き声がすることから鳥獣もいるようだ。
「俺様は魚を取るから、お前は果物の方を頼むぜ」
 呆然としていると、ゾノが川の方へ歩きだす。彼は「よっ」と声を漏らしながら籠を置くと、その場でしゃがみこんだ。
 身構えるように片腕を後方へ持っていき、じっと水面を注視している。二の腕に浮かぶクロユリの模様が、筋肉の動きに合わせて形を変えていた。そんな風にしていたら魚が逃げるんじゃないかと思った刹那、ゾノは前触れもなく水面へ腕を突っ込んだ。
 ばしゃんっ、と派手な水音が耳に届く。ぎょっとしている間にゾノは腕を引っこ抜き、辺りに水飛沫を散らせていた。光に反射してきらきらしているのはいいが、彼の手には動かない魚がいる。
「……おい、まさか一瞬で殺したのか」
「いーや、気絶してるだけだ」
 なぜ言いきれるのだろう。というより水面下で何があったのだろう。いやそれ以前にどうやって素手で捕まえたのだろう。滑らなかったのだろうか。不思議で仕方ない。
 ディーゼが疑問符を溢れさせている間にも、ゾノは魚を捕獲していく。腕を突っ込み、引き抜き、手にした魚を籠に入れていく。その慣れた動作には脱帽するが、ディーゼには更に気になることがあった。
 魚を捕まえた後、ゾノは必ず立ち上がってから籠に入れているのだ。そして再びしゃがみ、同じ作業を繰り返す。明らかに足腰が疲れる動きだ。
「……なぁ」
「あー、何だよ?」
「何でわざわざ、しゃがんだり立ったりするんだ」
「そりゃ筋肉鍛えるために決まってるだろ。これは結構いいんだぜ」
「……余計に疲れるからやめた方がいいと思うんだけど」
「仕方ねぇだろー、筋肉鍛えるのが趣味なんだからよ」
 疲れやすい体質のくせに、筋肉を鍛えるのが趣味……なんとも面倒くさいことである。そこまで筋肉をつけられたことは褒めてやりたい。が、このままではディーゼの仕事が増えそうな気がして頭が痛くなった。
 多分言ってもきかないと思うので、ディーゼも自分の仕事に取りかかる。適当な木を見つけ、枝に足をかけながら果実の所まで登っていった。木登りなどしたこともなかったが、意外と出来てしまうものらしい。
 足元に注意を払いながら、手近なところから果実をもぎ取っていく。どれもいい香りの漂う、瑞々しそうな物ばかりだ。ヘルマたちが普通に食べ、ゾノも何も言っていなかったことから、特に毒のある物はこの辺にはないのだろう。
(……ん?)
 その時、ディーゼは違和感を覚えて森の奥を注視した。
 遠くの方に太い木が存在している。その幹の下方には大きな穴が開いていて、真っ暗な闇が詰まっていた。
 特に何かがあるわけではない。けれど、なぜか目が捉えてしまったようだ。
「なぁー、ディーゼ」
 と、不意に下から声が上がった。ハッとして首だけ振り返れば、ゾノは体を動かしたまま作業を続けている。喋ったら絶対に体力なくなるから本当はやめてもらいたいのだが。
「お前、お嬢のことどう思ってんだ?」
 しかし、その一言で頭の中が凍りついた。一瞬何を問われたか分からず、「は?」とぼやいてしまう。
 けれど、ゾノは真面目に訊いているらしい。彼の口調や背中が、揶揄ではないことを語っていた。
「どう、って言われても……」
 が、急にそんなこと言われても困ってしまうわけで。しかもゾノの質問は大雑把すぎて、どう答えればいいのか分からない。
 だからといって無回答も許されない雰囲気だったので、ディーゼはどうにか回答を絞りだした。
「最初は……急に知らない所に来て、あんたたちのことも疑わざるをえなかったけど。ヘルマの言動とか、あんたたちの仲のよさを見てたら、あまり気にならなくなってたな。冷静に考えてみれば餓死寸前のとこを助けてもらったんだし、今ではヘルマに感謝してる」
 とりあえず、思ったことを正直に告げたが。こんな感じでよかったのだろうか。
 ただでさえ心配だったのに、なぜかゾノは沈黙している。いつの間にか魚も取っておらず、ただ川のそばに仁王立ちしていた。両手の先から、ぽたぽたと雫が垂れていく。
 そうして不意に体を反転させると、こちらを真っ直ぐ見上げてきた。
「ふっ、そうか」
 微かに笑われる。馬鹿にされたのかと思って睨みそうになったが、すぐにそうではないことに気がついた。
 もしかしたら、ゾノは。ディーゼがヘルマのことをどう思っているのか、危害を加えようとしていないか、確かめようとしたのではないだろうか。
「……あのさ」
 そう考えたら、なんとなく口を開いてしまっていた。ゾノは「あー?」と叫んで耳を傾けてくる。
 訊いてはいけないことかもしれない。でも、訊いてみたくなった。
「こんなこと言っていいのか分からないけど……あんたは、ヘルマが妖精術を使えてもなんとも思わないのか」
 シルヴァスとキストは、自らヘルマとともに妖精の楽園に入ったと言っていた。ならば恐らく、妖精術のことなど気にとめていないのだろう。気にしていたら一緒になど行けない。
 ディーゼ自身も、妖精に対して偏見はあまりなかった。人が努力しても使えない不思議な技、記憶を操る術。特に後者は現実性がなくて理解しにくい。
 だが、ゾノは後からヘルマと知り合ったと聞いている。大体の人間は妖精というものを忌避しているものだ。ゾノは、大丈夫だったのだろうか。
 するとゾノは一瞬目を瞠り、それから苦笑してみせた。
「あぁー……妖精、な。俺様も、そんなにこだわってないんだわ」
 妖精にこだわらない。それは嘘ではなさそうだ。ただ、表情がぎこちなく見えるのは気のせいだろうか。
 が、そういった曖昧なものはすぐに飛んでいくこととなった。
「っばー、あー、まずい疲れてきた。今日の分は足りるだろうし、そろそろ帰ろうぜ」
 予想を裏切らず、ゾノは嘆きながら腰やら足やらを叩き始める。だから無駄に動くな喋るなと忠告したのに。いや、喋るなとまでは言わなかったが。
 ゾノの言う通りにしてやり、ディーゼは枝の上から飛び下りた。寄り道せず、屋敷を目指す。
 半分もいかないうちに、ディーゼが二つ分の籠を持つことになったのも、ある意味予想の範囲内だった。



 屋敷の広間には全員が集まっていた。
「あら、ディーゼ。ゾノ。おかえりなさい」
 扉を開けて中に入った途端、柔らかな声がする。
 広間の中央付近ではヘルマが、両手にカップを持ちながら椅子に座っていた。更に彼女の肩には、犬だか狐だか分からないシュララが乗っかっている。向かい側にはシルヴァスがおり、やや離れた所ではキストが壁に寄りかかっていた。
 ディーゼとゾノは、先ほど入手してきた食材を厨房に置いてきたところだ。そして報告がてらヘルマを探していたところ、広間に辿り着いたわけである。
「大丈夫? 怪我とかしてない?」
「あぁ、それは大丈夫だ。途中で二人分の荷物を運ぶことにはなったけど」
 疲れが蘇ってきて、嫌味ったらしい言い方になってしまう。ゾノが「こ、細かいことは気にすんなよ〜」と慌てたように言うと、キストたちも状況を理解したようだった。
「ゾノ君は相変わらずだね〜」
「貴様、もう少し体を鍛えた方がいいんじゃないか」
「いや、体鍛えるのは一応俺様の趣味なんだが……」
 軽く打ちのめされているゾノ。そんな彼らのやり取りを見て、ヘルマはくすくすと笑っていた。こういった会話も相変わらずだ。
 平和。その言葉を表現したかのような風景。微笑ましい限りだが、ディーゼは複雑な気分にならざるをえなかった。
 自分は、いつまでここでこうしているのだろう。流されるように日々を送ってしまっているが、自分はここにいていいのだろうか。あまり考えたことはなかったが、ふとした時、頭をよぎってしまう。
 何か、すべきことがあるのではないか。知らず見つからない答えを求めてしまう。結局どうすることも出来ないのだが。
「……ん?」
 一人で考え込んでいると、視界の端で光るものを見つけた。意識せずちらりと目を向けて、次の瞬間、ディーゼは凍りつく。
 赤。そして威圧的な光球。一つのそれが、ゆっくりと、地面を這うようにして迫っている。
 ヘルマの、元へ。
「! ヘルマっ!!」
 咄嗟の行動だった。ディーゼは床を蹴ってヘルマの方へ飛び込み、彼女を抱えたまま転がる。ヘルマの小さな悲鳴、シュララの鳴き声、カップの割れる音が同時に響いた。
 そして、爆発音。
 すぐに起き上がり、周囲を見回す。さっきまでヘルマが座っていた椅子は、焼け焦げたように変色し、崩れていた。シルヴァスたちも異変に気づいたようで、すでに武器を構えている。今し方の爆発によるものか、窓硝子も見事に割れていた。
「何者だっ、姿を見せろ!」
 油断なく長剣を手にしたシルヴァスが吠える。室内の状況は一変、不気味な静けさに包まれた。ディーゼは慎重に立ち上がり、ヘルマを背中に庇う。
 すると、身の毛がよだつような殺気を感じた。広間にいる全員の視線が、割れた窓硝子の方へ向く。
 そこから、ゆっくりと、侵入してくる者がいた。
 一瞬、人間とは思えなかった。透き通ってさえ見える淡い水色の髪。短く整えられたそれは、宙に漂うように揺れている。
 そして白い布を巻いたような、汚れのない服装。胸元を飾るクロユリの模様。神秘的で、神々しく、目を焼かれそうな輝き。
 だが、もっとも驚愕すべきは。その背中から伸びる、透明な四枚の羽だった。
「あらまぁ、また失敗しちゃったわ」
 人間ではないそれは、口元に手をやって残念がった。無邪気な声音とは裏腹、彼女から膨れ上がる殺気は消えていない。
 一体、何が起きているのか。ディーゼは呆然とするしかなかった。
「……貴様、何者だ」
 果敢にも誰何したのはシルヴァスだ。彼の目は鋭く細められ、注意深く相手に向けられている。
 すると、彼女はおかしそうに口端を上げた。
「ご挨拶が遅れてしまったかしら。わたくしは、全ての妖精を統べる者――妖精の主、アジーネよ」
 彼女の言葉で、広間中に緊張が走った。
 誰もが信じられなかっただろう。しかし、彼女は面白そうな視線をよこしてはいるが、それは冗談を言って楽しんでいるのとは違う気がした。
 それに、彼女の不可思議な雰囲気。背中から生えた羽。これで人間だと言われた方が信じられない。
「……妖精さんが、僕たちに何の用だい?」
 ぎりぎりと音が出るほど短刀を握りしめ、キストが問いかける。一応、彼女の言葉を信用したらしい。
 それを聞くと彼女――アジーネは、冷ややかな目をディーゼに向けてきた。……いや、違う。
「その子を処分するために決まってるじゃない」
 アジーネの目は、指先は。ディーゼの背後、ヘルマへと向けられていた。
 指されたヘルマは驚きで両目を見開いている。そこに隠しきれない恐怖があるのも、分かってしまった。
「あの森で襲ってきたのも貴様か」
 凄むシルヴァスに臆しもせず、アジーネは「えぇ」と頷いてみせる。シルヴァスの剣先がぴくりと震えた。
「……何で、どいつもこいつもヘルマを狙うんだ? ヘルマが一体何したっていうんだよ」
 理不尽な状況、不遜な妖精の態度にいらいらしてきて、ディーゼも声を荒げていた。
 だが予想に反し、アジーネは憤ることなく、ぽかんとディーゼを見つめている。やがて失笑すると、堪えられないとでもいうように笑い始めた。
 何が面白いのか全く分からない。無言のまま冷えた眼差しを送っていると、ようやくアジーネは笑いを止めた。
「ああ、おかしい。そう、あなたたちは知らないのねきっと。じゃあ教えてあげるわ。そうすれば納得してくれるはずだもの」
 楽しそうに、アジーネは声を弾ませる。彼女の様子が不気味で仕方ないのは、果たしてディーゼだけだろうか。
 途轍もなく嫌な予感がする。この後告げられる台詞を聞いてしまったら、何かが壊れそうな気がする。
 ――聞いてはいけないっ。
「あなたたちが一緒にいるその子は、人間じゃないのよ」
 でも、止められない。
 自分の耳が信じられなかった。否、信じたくなかった。けれど、一番応えているのは、間違いなく。
 が、気遣う余裕さえディーゼにはなかった。本当に地獄に落とされるのは、まだまだこれからだったから。
「けれどね、妖精術が使えるようになったみたいだけど、妖精でもないのよ」
 ただでさえ理解が追いつかないところに、更に言葉を投げられる。
 人間でも、妖精でもない。でも妖精術が使える。
 アジーネは何が言いたいのだろう。もう、口を挟むことが出来ない。
 アジーネが、愉悦を含んだ笑みを浮かべた。
「その子は、わたくしが生みだしたただの記憶。それに実体を持たせただけなのよ」
 言っている意味が、分からなかった。
 理解出来ていないのはディーゼだけではないようで、シルヴァスたちも声すら出せないようだ。ヘルマも口を閉ざし、肩を震わせている。
「意味が分からない、って顔をしているわね。でもあなたたち、妖精の特性を知っているはずでしょう?」
 意外にもヒントを与えてくれたのだろうが、正直さっぱりだった。
 妖精について知っていることといえば、人間には使えない妖精術が扱えること。今まで何度か見た、あの蝶が現れるもの。その程度のはず……。
「――!」
 が、その時ディーゼの脳裏に蘇るものがあった。
 確か、妖精は。記憶を操る力もある、と伝えられていなかったか。あまり信憑性がないせいか、噂程度だったが。
 あれは、事実だったのか。
「うふふ、そこの彼は気づいたみたいね」
 アジーネがこちらを見て笑う。シルヴァスたちの視線も感じたが、ディーゼは何も言えなかった。
「妖精の主であるわたくしは、記憶を操ることが出来るのよ。全ての妖精が使えるわけではないけれどね。そしてわたくしは、マーリネ王国の第三王女という記憶を生みだし、見た目は人間の体と変わらない実体を持たせた」
 それが、あなたなのよ。
 アジーネは容赦なく告げた。闇の底へ、突き落とすように。
「なかなか信じられないようだけど、あなただって気づいていたんじゃなくて? 身元が不明でありながら、それでも第三王女だと誰もが信じ込んでいたこと。妖精術が使えるのに、自分は人間だと頑なに信じていたこと。その違和感と、矛盾に」
 ぴくっ、とヘルマが反応する。
 言われてみればディーゼも不思議に思ったことはあった。特に深く考えてはいなかったが、まさか、それも。
「わたくしが、王宮の人間に記憶を植えつけたのよ。あなたが第三王女である、とね」
 瞬間、ヘルマの目はこぼれ落ちそうになった。彼女の瞳は虚ろになりかけており、紫水晶の輝きが、今は見えない。
 どうにか気を奮い立たし、ディーゼは大声を出した。
「仮に事実だったとして、何でそんなことする必要があった? 何でヘルマを狙う必要がある?」
 精神的にぎりぎりの状態のディーゼとは対照的に、アジーネは余裕たっぷりに答えた。
「王宮の動きを調べるためよ」
 その声は、今までより低く尖って聞こえた。
「かつて仲間に手を出し、仲間を奪ったマーリネ王国の動きを探るために、滅ぼすためにその子を行かせたの。でも失敗しちゃったみたいね。わたくしが生みだし、かつ妖精の実体を与えたせいか、下級の妖精術まで使えるようになってしまって、王宮を追放されてしまったみたいだし」
 はぁ、とアジーネは聞こえよがしに嘆息する。
「王宮内では疎まれるだろうと思ったから、わざわざ人を信用する性格にしたのに、これじゃ力の無駄だったわね」
「! お前、まさか……っ」
 ヘルマが、他人を怨まないのは。酷い扱いをされても、見ず知らずのディーゼを助けるような優しい人物だったのは……。
「あぁ、記憶を生みだした時にわたくしが細工したのよ。だって、人間不信になって部屋に引きこもられたら困るじゃない。向こうの動きが分からなくなるもの。その子を通じて、わたくしは情報を得るのだから」
 そんな、そんなことのために、ヘルマは好き勝手利用されたのか。彼女にとっての大切な思い出を、踏みにじられているのか。
「だから、その子は人間でも妖精でもないの。そうねぇ、何て言ったらいいのかしら……あ!」
 小首を傾げていたアジーネが、思いついたように声を出す。そして無邪気に、残酷に言った。
「ニセモノ、かしら?」
 ぅっ……、とヘルマの口から息が漏れた。今だけは、彼女の顔を見れないと思った。
 ふつふつと沸いてくるのは激しい感情。理由は分からない。でも、これは怒り。
「おい、いい加減にしろ。勝手に生みだしといて勝手に殺そうとして、ヘルマの気持ちはどうなるんだっ!」
 ヘルマには本当に世話になっている。彼女がいなければ、自分は今頃生きてなかったかもしれない。
 だから、そんなヘルマを傷つける相手が許せなかった。人として、いや妖精だとしても、こんな仕打ちが許されるはずがない。
 しかし、アジーネの双眸は冷ややかだ。
「何をそんなに怒っているの? 使えない子にはお仕置きすべきでしょう? あ、ついでに教えてあげるけど――わたくし、あなたにも用があるのよ」
 え、と間抜けな声を出しそうになった。アジーネはディーゼを見据えている。ディーゼにも、用がある……?
「あなた、というより、あなたが持っている腕輪なのだけれどね」
 続いた言葉に、誰かが息を呑んだ。だが確認している暇はなかった。
「記憶を生みだすこと自体はあまり大変ではないの。ただ、実体を与えるというのが厄介で。多くの力を使うし、この世で同じ外見の体は作ってはいけない決まりもあってね」
 なぜだろう、非常に嫌な予感がする。
「だから、その石の…」
 アジーネが言いかけた刹那。
 彼女の言を遮るように、鈍い音が響き渡った。同時に、ディーゼの手首に痛みが走る。
「っ!」
 反射的に手首を支え、そして、違和感を覚えた。
 何かが足りない。いつもと違う。急いで手首を見てみれば、血の滲む皮膚があった。
 そこにあった腕輪は、ない。
「キ、スト……!?」
 ヘルマの掠れた声で、ハッと我に返る。
 辺りを見回してみれば、片手に短刀を持ち、もう片方の手に何かを握りしめたキストを見つけた。彼は、悲痛な表情をこちらに向けていた。
「……ごめんね、姫様。ディーゼ君」
 それだけを言い残して。
 キストはくるりと背を向けると、別の窓を割ってあっという間に姿を消してしまった。彼の手の中、ディーゼの腕輪が光ったように見えた。
 ……一体、何が。
 わけが分からず固まってしまうディーゼたちの近くで、暢気な台詞が発せられた。
「あらあら、先を越されちゃったわ。まぁでも、どうせこの森からは出られないものね。彼の方は後にして……」
 窓を見ていた顔が、不意にヘルマの方へ向けられた。
「まずは、あなたから処分してしまいましょう」
 突きだされたアジーネの手のひらに、光が収束していく。白く、けれど奥底は赤い、戦慄しそうな力が。
「姫っ!」
 いち早く動いたのはシルヴァスだった。動けないヘルマの前へ彼が飛びだしたと同時、アジーネの手から光が放たれる。
 シルヴァスは剣で受け止めようとした。いや、もしかしたら斬るつもりだったかもしれない。が、その光は傷つきもせず、溢れんばかりの威力でシルヴァスを押していく。
 ぴき、とひび割れるような音がした瞬間。光は爆発し、シルヴァスの姿は一瞬で見えなくなった。
「シルヴァスっ」
 咄嗟にディーゼは叫んでいたが、爆風がこちらまで襲ってきて助けるどころではない。眩しくて目も開けられない。ヘルマは無事だろうか。それに、シルヴァスは……!
 やがて光が薄れてくると、なんとか目を開けることが出来た。しかし、視界に飛び込んできたものにディーゼは愕然とする。
「っ、シルヴァス!」
 駆け寄ったのはヘルマだった。転ぶようにしてシルヴァスの元へ行き、倒れている彼の体を揺する。シルヴァスの服はあちこち焦げ、顔は苦痛に歪み、今は立ち上がる気力もないようだった。
 あの力は何だ。ヘルマが妖精術を使っていた時は、いつも光る蝶が出ていたはずだ。だが今し方の術は蝶など出ず、それとは比べものにならない威力を秘めていた。
 ディーゼの疑問を感じ取ったのか、アジーネは嘲笑うように口角を上げた。
「妖蝶(ようちょう)を出現させての妖精術は下級レベルなのよ。わたくしが、その程度の力しか持ってないとでも思って? 最初は手加減してあげたけれど、もう面倒くさくなってしまったわ」
 何から何まで見下した態度。もう、ディーゼも限界だった。
 無言で前に出ていき、アジーネの目の前に立ち塞がる。護身用に習得しただけの体術で、どこまでいけるかは分からない。それでも、ディーゼは身構える。
 アジーネが憐れむような表情になった。
「わざわざ見せてあげたのに…………? なっ、あなた……!」
 が、彼女の表情は一変、僅かな驚きの色を帯びた。呆然としているディーゼにはお構いなく、アジーネはまじまじと見つめてくる。攻撃する様子は、ない。
 そして、アジーネは微かに後ろへ下がった。
「まさか……いえ、今はやめておきましょう。とりあえず……ああ、ちょうどいいところにいたわね」
 一人でぶつぶつと呟き、アジーネはふとある人物に気づいたようだった。
 そうして、初めの時のような冷たい瞳に戻る。
「あなた、そこで倒れている人間を運びなさい」
 冷気を帯びたような命令。慣れたような口調。そして、命じられているのは。
「ゾノ……っ!?」
 アジーネが現れてから一言も発していなかった彼に、皆の視線が集まっていく。ゾノは白くなるほど拳を握りしめ、深く俯いていた。
 だが不意に顔を上げると、大股で歩み寄ってシルヴァスを奪う。抵抗するヘルマを悲しげに振り払って、荷物を背負うようにシルヴァスを抱え上げた。
「ゾノっ、どうして! やめて、シルヴァスを放してっ!」
 ヘルマの願いも虚しく、ゾノは後ろへ跳躍する。着地したのは、アジーネの隣。
 何がどうなっているのだ。もう本当にわけが分からない。錯乱状態になっているディーゼに、親切心からか、それとも痛めつけるためか、アジーネが丁寧に教えてくれた。
「うふふふっ、あなたたち本当に何も知らないのね。いいわ、教えてあげる。――彼はね、妖精の奴隷なの」
 アジーネの楽しそうな笑い声が響く。けれどそれよりも、ディーゼはたった一つの単語だけが引っかかっていた。
 妖精の奴隷。それは何だ。ゾノがそうなのか。一体、どうして。
「さっき言ったでしょう、記憶に実体を持たせるのは厄介だって。あの力を使ったせいで、わたくしは長い眠りについてしまったの。けれど彼が奴隷になってくれて、わたくしに力を流してくれていたのよ。おかげでやっと動けるようになったわ」
 まさか、と。ディーゼの中で、ある可能性が浮かび上がってくる。
「まさか、ゾノが疲れやすい体質なのは……」
「あぁ、わたくしに力を吸い取られていたからかもしれないわね。うふふ、長いことご苦労だったわね。でも、奴隷は主には逆らえないのよ」
 アジーネが残忍な笑みを浮かべる。それは恐らく事実なのだろう。でなければ、ゾノがあんなに大人しいはずがない。
「そうそう、その仲間は返してもらうわよ」
 突然そんな風に言われ驚いているヘルマの元から、ぴょんと何かが走り去っていく。シュララだ。
「この子は元々、あなたの監視役としてそばに置かせていたのだもの。……それじゃあ、あなたたち。そうね、そこの彼を見たら気が変わったわ。処分はもう少し後にしてあげる。それまで――絶望を味わっていなさい」
 広間中に高笑いを反響させ、アジーネは羽をはばたかせながら姿を消した。ゾノも、シュララも、彼女の後を追っていってしまう。
「ゾノっ! ちっ、待てよ!」
 ディーゼがどんなに叫ぼうと、全て無駄で。ぐちゃぐちゃになった広間は、ただの静かな空気に包まれてしまった。
 失くしものだらけの部屋で、ディーゼとヘルマだけが取り残された。



 第五章 白い絆

 時が止まっている。
 そんな居心地だった。静かで、静かで、何も感じない。
 ヘルマの後ろ姿さえ、ぼやけそうだ。
 でも、彼女を見失うわけにはいかない。放っておくわけにはいかない。
 しかし、どうすればいいのか分からない。
 ディーゼ自身、放心状態だった。突然、前触れもなく起こった、今し方の出来事が信じられなくて。
 けれど、ヘルマはそれ以上のはずだろう。
「……シルヴァスはね」
 と、不意にか細い声がディーゼの耳に届いてきた。
 割られた窓、倒された机や椅子。荒れ果てた広間で、ヘルマは立ち尽くしている。俯いているので表情はうかがえない。ただ、発せられた台詞は地面に吸い込まれていた。
 それでも、ヘルマは続ける。ディーゼは、聞く。
「王宮にいた時から、本当に真面目な騎士だったの。あんなにやめてって言ったのに、結局こんな所までついてきてくれて。それからだって、ずっとわたしのこと守ってくれて。いつも、そばにいてくれたの」
 いきなり語られたことではあったが、ディーゼは問い詰めることが出来なかった。ただ、黙っているしか出来なかった。
 それは正しかったのかもしれない。
「キストは、笑顔の裏に別の感情を隠してたりするけれど、彼の言うことはいつも正しかったわ。それに、わたしのことを本当に考えてくれていた。いつも、導いてくれたの」
 ヘルマの言葉の欠片は続く。ころころと投げだされ、壊れていく。
「ゾノはすぐに疲れちゃうけれど、いざという時には駆けつけてくれて、わたしを助けてくれたわ。わたしが落ち込んでる時は励ましてくれて、元気をくれた。いつも、支えてくれたの」
 すらすら出ていた声が、少しずつ震えてくる。涙が、混じる。
「シュララはこの森に入った時に見つけて、毎日わたしの手伝いをしてくれたわ。一人じゃ服も着れなかったけれど、シュララがいたから平気だった。……いつも、救われてたの」
 床に染みが生まれていく。それが何なのか分かった途端、もう聞いていられなくてディーゼは口を開いた。
「ヘル…」
 が、呼ぼうとした名前は続かない。
 突如、柔らかい衝撃に襲われたからだ。
 一瞬遅れて理解する。温かい体温、背中にまわされた細い手。ぎゅ、としがみついてくる弱い力。
「ヘル、マ……」
 驚きすぎて変な声が出る。しかしヘルマには聞こえなかったのか、ディーゼに構うことなく想いをぶつけてきた。
「みんな、いつも一緒にいてくれたのっ……いつも、わたしのそばに、いてくれたの……っ」
 彼女はもはや、涙声を隠そうともしていなかった。未だに動揺しているディーゼに抱きついたまま、全てを晒けだしてくる。
「でも……みんな、いなくなっちゃったわ」
 小さな、小さな声なのに。ディーゼの耳には、こびりついて離れない。
 こんなに弱々しいヘルマは初めてだった。明るくて、たまに危なっかしいが、それでも気丈に振る舞っている姿ばかり見てきたから。
 ただ――ディーゼは思う。
「わたし……生き物じゃ、なかった」
 きっと、ヘルマは。
 自分の正体に関しても、衝撃を受けていたかもしれないけれど。
 一番辛かったのは、仲間が散り散りになってしまったこと、なのだろう。
 王宮で厄介者扱いされた彼女にとって、自分を支えてくれる人の温もりは何よりも大事だったはずだ。それは部外者であるディーゼにも分かる。
 だが、その仲間は一人残らず奪い去られ。更に、自分が人間でも妖精でもないと告げられ。それはつまり、ヘルマが王女ではないことを示す。王宮内で唯一ヘルマを普通の目で見てきたという国王――父親とも、血は繋がっていないことになる。
「……俺は、さ」
 口が、自然と動く。何か言わなければ、というより、これだけは言いたい、と思った。
「女を励ますとか、出来ないけど……。その代わり、あんたの好きにしていいから。俺のこと、好きなようにして構わない。だから、さ……」
 後頭部に手がいき、無意識的に髪を掻いてしまう。くすんだ、自分の砂色の髪の毛。
 中途半端な自分でも、もし温もりになれるなら。自分にしがみついていることで、少しでも落ち着くのなら。
「あまり、泣くな」
 支えに、なってやりたい。
 でも、こんな時まで、自分という男は不器用らしい。この状況で泣くなだなんて、考えてみれば酷以外の何物でもない。むしろ、好きなだけ泣けと言うべきだった。
 早くも後悔するディーゼだったが、ヘルマは文句を垂れるどころか、更に強くくっついてきた。ぎょっとして後ずさりそうになってしまったが、どうにか耐える。
 ――あぁ、やはり自分は、こういうことに向いていない。
 元気づけようと口を開けば小っ恥ずかしい思いをするし、泣いている彼女を抱きしめ返すどころか、背中をさすってやることすら出来ない。
 けど、それでも。
 今ヘルマが、どんな理由だとしても、ディーゼを求めてくるのなら。
 自分なりに応えよう、と思えるのだった。



 人間じゃなかった。
 妖精でもなかった。
 わたしは何なの。
 一人部屋にこもり、寝台に突っ伏して、ヘルマは埒もないことを考えている。ディーゼが胸を貸してくれたおかげで思いきり泣くことが出来、すっきりしたと思ったのだが、そう簡単にいくわけもなかった。
(分かってはいたわ……わたしだって)
 人間なのに、妖精術が使える。身元がはっきりしないのに、王女だという記憶だけがある。
 おかしいとは思っていた。違和感には気づいていた。
 でも、答えなんか分かるわけがない。
 ……いや。
 自分はきっと、分かりたくなかった。
 真実を知るのが怖かった。こんなの普通じゃない。普通じゃない自覚は、あったのだ。だから、王宮では皆に疎まれてきた。
 それでも。こんな得体の知れないヘルマでも、そばにいてくれた仲間がいた。
 嬉しかった。人に気持ちを向けられるということは、こんなにも温かいのだと実感した。このまま彼らと、ずっとここで暮らしたいと本気で思っていた。
(……馬鹿ね、わたしったら)
 あぁ、本当に馬鹿みたいだ。
 そんな甘い願い、最初から叶うはずもなかった。
 だからこれは、罰が当たったのかもしれない。自分の正体を秘密にして、彼らと一緒にいようとしたから。
 ――だけど。信じたくなかった。
 自分が、ただの記憶でしかないなんて。それが実体を持っているだけだなんて。信じたいわけがない。
 けれど、信じなければ何も取り戻せない。仲間も、今までの自分も、信じてきた気持ちも。
 ……いや、そもそもこれは『自分』の気持ちなのだろうか? ただの記憶でしかないものに、感情なんてものが生まれるのだろうか?
(だめ……逃げちゃ、だめだわ……)
 自分に言い聞かせる。自分を奮い立たせる。
 もう、彼らはヘルマのことを受け入れてくれないかもしれない。自分は、生き物ですらない。
 でも、それでも。
 仲間がほしかった。そばにいてほしかった。
 一度知ってしまった、温かい存在。今更手放すなど、出来なかった。
(……ディーゼ)
 黙って慰めてくれた、ただ一人残った人を思う。
 彼も、いなくなってしまうのだろうか。生き物ですらない自分のそばになど、いたくないと思っているだろうか。
 それが事実なのだろうけれど。でも、やっぱり悲しい。
 紫水晶の瞳から、一つ、雫がこぼれ落ちた。



 あれから、色々と変わってしまった。
 ディーゼの胸でさんざん泣いた後、ヘルマは一時的に落ち着きはしたものの、元通りというわけにはいかなかった。ディーゼに支えられて自室に戻ると、そのまま三日間も寝込んでしまったのだ。
 それも仕方のないことだろう。ディーゼだって、何が起きてしまったのかちゃんと理解していない。
 なぜ、キストが腕輪を奪っていなくなったのか。なぜ、ゾノが妖精の奴隷になっているのか。シルヴァスとシュララを取り返せるのか……。
 考えても無駄なのは分かっている。が、考えずにはいられないのも事実だった。
 最も腑に落ちないのはキストだ。ディーゼから腕輪を奪っておきながらも、アジーネと手を組んでいるようではなかった。一体、彼は何をしようとしている……?
 と、その時。ヘルマに差し入れを渡すため部屋に入ろうとすると、向こう側から急に扉が開いた。
「うわっ」
「あら、ディーゼ」
 扉とぶつかりそうになって回避すると、出てきたヘルマがびっくりしたように呟く。むしろ驚いたのはこっちだ。まぁヘルマが悪いわけでもないのだが。
「ヘ、ヘルマ? どうしたんだ」
 ヘルマが自ら部屋を出るなど珍しい。寝込んでいたこともあるが、この三日間はずっと閉じこもりっ放しだったのに。
 尋ねると、ヘルマは真顔で言った。
「みんなを探しにいくわ」
 ぽかん、と口を半開きにさせてしまう。今、ヘルマは何と?
 そんなディーゼにはお構いなく、ヘルマは何かから逃れようとするかの如く踵を返そうとする。ディーゼは慌てて呼び止めた。
「ま、待てよ! 探すって何で急に、というかどうやって!」
 真意の分からない背中に問いかける。
 すると、ヘルマはゆっくり振り返ってきた。真摯な紫水晶の瞳を光らせて。
「分からないけれど、動くしかないでしょう? わたしならもう平気よ。いつまでも泣いていられないもの。十分気持ちの整理はついたわ」
 嘘だ、とディーゼは直感した。
 声は震えていないし、気丈な態度を見せているけれど。まだまだ、彼女は甘い。
 ヘルマの目元は真っ赤で、未だに腫れてしまっている。目の下には隈も出来ており、せっかくの綺麗な顔が台無しだった。
 それに。明るく、強い口調は決意に満ちたもののように思えるが。ディーゼからすれば、ただの空元気にしか思えなかった。そうすることで、自分を誤魔化しているようにしか見えない。
 でも、彼女だって何も考えていないわけではないだろう。さんざん泣いて、さんざん悩んで、それで決断したのかもしれない。だから、こんなに強がっている。
 なら、自分がすべきことも決まっている。
「……じゃ、俺も一緒に行く」
 はっきり告げると、ヘルマはこぼれ落ちんばかりに目を見開いた。信じられない、と全身で語るように。
「いい、の……?」
 不安そうな、救いを求めるような声音。先ほどまでの気高い雰囲気はどこにもなく、今のヘルマはただの少女だった。
「わたし……あなたとは違うのよ?」
 どうしてだろう、その一言は胸にぐさりときた。まるで、自分と彼女との間に壁を作られたような気がして。
 けれど同時に、あぁやっぱり、とも思った。
 やっぱり、ヘルマは気持ちの整理なんかついていなかったのだ。本当にそうであれば、こんな風に訊いたりしない。やはり、一人には出来ない。
「俺は気にしない。あいつらだって多分気にしない。俺は、あんたに命を救われたんだ。今だって感謝してる。だから……ってわけじゃないけど、俺はあんたの力になるつもりだ」
「それはわたしじゃないわ。聞いたでしょう。そういう風に設定されていただけ。今感じてる気持ちだって、本当にわたしのものか分からない! わたしは……わたしは、どこにもいないの」
 ヘルマの瞳が潤み始める。固めていたはずの決意はどこへやら、もう本音がただ漏れだ。
 だが、本音だからこそ許せないことがある。伝えなければならないことがある。
「……じゃあ、全部嘘だったっていうのか。シルヴァスとキストとゾノは、仲間じゃなかったってことか。あいつらを信頼してた気持ちも、全部、あんたのものじゃなかったのか」
「違うわっ!」
 捲くし立てると、弾かれたようにヘルマが叫んだ。腹の底から出したような声に、彼女はハッと口元を押さえる。
 ディーゼもびっくりしてしまったが、その間にヘルマは気持ちを切り替えたようで、毅然とした面持ちになった。
「そんなこと、思ってないわ。わたし、みんなのこと大好きだった。今でもそうよ。これだけは……絶対に嘘じゃないって、信じたい」
 必死の形相で連ねるヘルマに再び驚かされながらも、ディーゼは安心すると同時、嬉しい気持ちになっていた。
 迷うことなく、躊躇うことなく、ヘルマは即答した。嘘ではない証だ。
 やはり、ヘルマはヘルマだ。
「でも……正直に言えば、怖いわ。もう、シルヴァスたちは、わたしのことを受け入れてくれないかもしれない」
 が、急にヘルマは弱気になってしまう。ずいぶんと感情の起伏が激しいが、今だけは大目に見るべきだろう。
「あいつらが好きなんだろ。だったら大丈夫だ。ヘルマだって、信じてるから探しにいこうとしたんじゃないのか?」
 顔を上げ、ヘルマはじっとディーゼを見つめていたが、やがて微笑むと、しっかり頷いた。
「えぇ、そうよね……そうよね……あ、でも」
 大事なことを忘れていた、とでもいうように、ヘルマは満面の笑みでその言葉を言ってくる。
「あなたのことも、もちろん大切な仲間だと思ってるわ。……ありがとう。大好きよ、ディーゼ」
 ぽかん、と口が半開きになるのも当然だと思う。唖然として、言葉を失ってしまうのも当たり前だと思う。
 ――このお姫様は、一体何を仰っているんだろうか。いや、彼女の言った『好き』が変な意味でないことは分かっている。シルヴァスたちに向けるような、仲間として好きという意味だろう。だが、この状況は……。
「ごっ、誤解を招くような言い方、するなよ。っー、それより、シルヴァスたちを探しにいくんだろ」
 羞恥心を誤魔化すため、無理矢理話を変える。幸いヘルマは突っ込んでくることなく、覚悟を決めたように首肯した。
 とはいっても。屋敷にいないことは確実だが、闇雲に探したところで解決はしないだろう。森は広いし、深追いしすぎれば迷うことになるかもしれない。
 どうするべきか――悩んでいた時、ふとディーゼの中で閃くものがあった。
「そういえば……ゾノと食材を採りに行った時、変な物を見つけたんだ。穴の開いた木の幹で、中にも入れそうだった」
 もしかしたら――。ちらりと視線を向けると、ヘルマも同じことを考えたらしい。
 あそこにアジーネが、仲間たちがいる確証はない。しかし、他に手がかりもない。
「行きましょう、案内して」
「あぁ」
 そうと決まれば即決行。ディーゼはヘルマとともに、屋敷を後にした。
 ゾノと食材採りに行った道を思い出しながら、ディーゼは慎重に進んでいく。時々後ろを振り返って、ヘルマがついてきているか確認した。
 どこにアジーネがいるか分からない。それに、ヘルマの調子も万全とは言いきれないだろう。彼女を守ってやれるのは今のところディーゼだけだ。自分が、しっかりしなければ。
 そのヘルマは疲れた様子も見せず、文句も言わず、黙ってついてきてくれている。信頼してくれている、と考えるのは自惚れかもしれない。
 けれど女の子なのに、しかも一応は王族として育てられたというのに、ここまで頑張れるところは素直に凄いと思う。もし仮に、それさえ作られたものだったとしても。その中に何か、ヘルマがいるはずだと信じている。
 ――と、その時。
「!」
 がさっ、と草が踏まれたような音が響き、ディーゼとヘルマは同時に足を止めた。
 声は出さず、目だけで確認する。ヘルマが小さく顎を引いたのを見、ディーゼも頷き返した。
 さりげなくヘルマを背後に庇う。音のした方を注視し、いつ来てもいいように身構える。
 すると、一際大きな音がして、人影が飛びだしてきた。
「な……っ!」
 危うく攻撃しそうになって、ディーゼは踏みとどまる。突如現れた人物が誰か、視認したからだ。
「! シルヴァス!」
 悲鳴のような声を上げ、ヘルマが駆け寄っていく。向こうも気づいたようでこちらを見上げたが、すぐに呻き声を漏らし、どさりと倒れてしまった。
 そう、出てきたのはシルヴァスだった。普段一つにまとめていた銀髪は下ろされているが、間違いないだろう。
 しかし、あまり喜べる事態ではなかった。シルヴァスは体中傷だらけで、服も肌も汚れ、満身創痍だったのだ。ヘルマが抱き起しても、目を閉じたまま動かない。
「ヘルマっ、とりあえず屋敷に運ぶぞ」
 動転してしまっているヘルマの肩を叩き、それからシルヴァスの腕を取る。そのまま自分の肩にまわし、立ち上がらせようとすると、ハッとしたようにヘルマが動いた。
「わたしも手伝うわ」
 言下に、もう片方の腕をヘルマが支えてくれる。礼を述べ、ディーゼとヘルマはタイミングを合わせながら、元来た道を辿りだした。



 シルヴァスは、丸一日寝たきりの状態だった。
 何があったのかも訊けず、もどかしい時間が過ぎていくばかり。しかもあまりに突然のことで、ディーゼもヘルマも混乱しっ放しだった。
 そんな状況でも、ヘルマはずっとシルヴァスに付き添っていた。寝室で横になっている彼の体を拭き、傷口に薬を塗り、包帯を何度も巻き直していた。
 シルヴァスはいつこんな怪我を負ったのだろう。どのくらい森の中を歩いていたのだろう。こんなに体力を消耗させてまで、一体何を……。
「シルヴァスっ!」
 その時、隣でヘルマの声が上がり、ディーゼは我に返った。同時に、彼女が呼んだ名前に身が引き締まる。
 寝台の方を見れば、シルヴァスが呻きながら身動ぎしていた。そして薄らと両目が開いていき、ヘルマの方を見た瞬間、大きく見開かれる。
「姫っ……っ、く」
 勢いよく上半身を起こしたせいだろう、シルヴァスは顔を顰め、脇腹の辺りを押さえた。ヘルマが慌てて彼の体を支えようとする。
「無理しないでっ。……大丈夫? ある程度手当てはしたんだけれど、他に怪我してるとこはない?」
 不安の色に染まりながら、ヘルマはぺたぺたとシルヴァスの体に触れる。
 が、現在のシルヴァスは上半身裸で、一部包帯でぐるぐる巻きになっていたりする。ヘルマが素肌に触ってくる度、彼の体はぴくっと震えていた。
「っ、ひ、姫…っ、あの…!」
「なに? どこか痛い?」
「い、いえ、その、ん……っき、傷に響きますので、あまり、触れるのは……」
 顔を紅潮させ、動揺しまくりのシルヴァス。傷に響く、というのは多分嘘だろう。いや、もしかしたら痛かったのかもしれないが、それ以上に感じたものがあったはずだ。きっと。
 もちろん、そんな男心にヘルマが気づくはずもなく。シルヴァスの言ったことを信じたようで、「ご、ごめんなさいっ」と謝罪して手を離した。シルヴァスは安心したように(でもどこか残念そうに)息をつき、肩から力を抜いたようだ。
 そこでヘルマは、今まで以上に真剣な表情になった。
「それで、シルヴァス……何があったの?」
 まだ目覚めたばかりだが、あの反応なら話すくらいは可能だろう。ヘルマもそう判断したのかもしれない。時間は、あまりたくさん残されているわけではないのだ。
 シルヴァスも承知しているようで、先ほどの真っ赤な顔から一変、すぐ真顔になる。だが、普段は鋭い銀の瞳には陰りがあった。
「俺は……目を覚ました時、あの妖精の元にいました。ゾノも一緒です。そして今いる場所のことを姫に伝えなければと、脱出を試みたのですが、途中で見つかり、ゾノに襲われました」
「ゾノに……!?」
 ヘルマが絶句する。ディーゼも愕然としてしまったが、有り得ない話ではなかった。ゾノは妖精の奴隷だ、とアジーネは言ったのだ。恐らく、逆らえなかったのだろう。
 あまり気分のいい話ではない。
「ゾノたちはどこにいるの?」
 凛とした声で、ヘルマは力を込めて尋ねる。動揺していないわけがなく、彼女はそれを隠しているのだろう。それでも、堂々とした態度を保とうとしている。
 ヘルマは人間よりも、妖精よりも、ずっと心が強い。
「この屋敷の裏側に行った、森の奥です。森の中でも一番大きい木の内部、そこにゾノたちはいます。……キストは、見かけませんでしたが」
 最後の一言だけは、妙に小さく告げられた。途端、しん、と室内が静かになる。
 どうやら、キストの居場所までは分からないらしい。今回の言動で最も不可解なのもキストだ。不安はつきまとう。
「じゃあとりあえず、ゾノを助けに行かないか」
 だが、立ち止まっていても仕方ない。まずは出来ることからやるべきだ。そう思ってディーゼが提案すると、ヘルマとシルヴァスも頷いてくれた。
「姫、少し待っていて下さい。着替えてきます」
 言下に、シルヴァスは寝台を下りてしまう。結ばれていない銀髪が背中で揺れ、自由に踊った。
 ヘルマがぎょっとしたように止める。
「な、何言ってるのシルヴァス! あなた目覚めたばかりでしょう! 怪我だって完治してないし、それに……」
 言いづらそうに、ヘルマの声がしぼんでいく。唇を噛み締め、何度も躊躇し、やがて思いきったように言った。
「わたしは……もう、お姫様じゃないのよ? あなたが……命をかけてまで、守る必要なんてないのよ」
 言い終えてから、ヘルマは悲しげに目を伏せた。
 自覚があるからこそ、辛い。シルヴァスを巻き込みたくない。でも一緒にいてほしい。……そんな複雑な気持ちが、痛いほど伝わってくる。
 しかしシルヴァスは、迷う素振りも見せず、最初から決めていたかのようにすらすらと述べた。
「俺にとっての姫は、あなたしかいません。あなたが何者だろうと、俺はあなたに心惹かれたんです。王宮で、誰にどんな目を向けられても、堂々と自分の意思を貫いていた、あなたに。だから俺は、命をかけて姫を守ります」
「シルヴァス……」
 ヘルマは驚くと同時に泣きそうになっている。まさか、そんなことを言ってもらえるとは想像もしていなかったのだろう。が、ディーゼが近くで聞いていることも考えてほしい。
「それに、俺の怪我は大したことありません。だいぶ眠ってしまったようですが、それは森の中、緊張に包まれながら一日中歩き続けていたせいでしょう。もう大丈夫です。それより、一刻も早くゾノの元へ向かうべきです」
 ヘルマのことを気遣い、かつ反論を許さない口調。その意思の固さに完敗したのか、ヘルマは微笑と苦笑を混じらせ、しっかりと頷いた。
「それに……」
 と、今し方までの穏やかな雰囲気が消え、シルヴァスはぎろりとディーゼを睨んできた。突然すぎて身に覚えもなく、体に力が入ってしまう。
「姫とこいつを二人きりにはさせられませんから。いつ何をしでかすか知れません」
 ヘルマはぱちぱちと目を瞬かせていたが、すぐにくすっと笑いだした。ディーゼはもちろん、重いため息。
 ヘルマと二人でいた時、泣きつかれた上に抱きつかれたなどと口走れば、串刺しはまぬがれないだろうな、とこっそり思うディーゼだった。



 ゾノの目の前は赤だった。
 熱くて、息苦しくて、視界が霞む。机も、椅子も、家具も、何もかも燃えている。
 気を失っているのか、二人の妹と弟が一人倒れていた。開けっ放しの扉の向こう、隣の部屋では、ぐったりとした両親の姿がある。
 もう駄目だと思った。諦めるしか方法はない。
 こんな細身では。男らしい筋肉なんかついていない、女みたいな体では。家族を助ける力など、とてもなかった。
 悔しかった。力が欲しかった。目頭が熱くなったのは、煙が目に染みただけではなかったかもしれない。
『……助けたいか?』
 頭に響いてくるような、不可思議な声がしたのはそんな時だった。家が真っ赤に染まる中、ゾノはわけが分からず周囲を見回す。
『お前が願うなら、我が主がお力を貸して下さるだろう』
 意味が分からないながらも、言葉の内容はすんなり入ってくる。ゾノの気持ちが、揺れていく。
『ただし。願えばお前は、我が主に仕えることになるがな』
 どこか嘲笑を混ぜたような物言い。だが、ゾノはそれに気づくどころではなかった。
 拒絶すれば家族は助からない。何もしなくても家族は助からない。だったら、偉い人間に仕えることくらい何だというのだろう。
 そう、この時。ゾノは、どこかの偉い貴族に奉公にでも行くことになるのだろうと、勝手に想像していたのだ。
『……頼む! 力を貸してくれ!』
 だから、願ってしまった。契約してしまった。
 妖精の奴隷になるだなんて、微塵も思わなかったから。



 ヘルマとシルヴァスとともに、今度こそ目的地に辿り着く。
 自然、先頭を歩いていたのはディーゼだった。ヘルマは精神的に、シルヴァスは体力的にまだ万全とはいえない。殿だけはシルヴァスに頼んでしまったが、それ以外ではなるべくディーゼが請け負うようにしていた。
 縦にも横にも、他の木々とは大きさの違う巨木。洞窟の穴のようにぱっくりと開いた入口に、ディーゼたちは敢然と足を踏み入れた。
 巨木の中は真っ暗ではないものの、外と比べればかなり薄暗い。道幅は狭くも広くもなく、先ほどと同様一列になって進んだ。会話は、ない。
 足音もあまり立てないようにしていたため、静かすぎる時間が続いた。油断は出来ない状況。ヘルマもシルヴァスも緊張しているに違いない。
 そうして歩き続けていると、広い場所に出てきた。緑に包まれた、舞踏会のホールのような場所。しかし、華やかさや輝かしさとはまるで縁がない。
 ――そこに、二つの影があった。
「あらまぁ、来ちゃったのね」
 片方の影が無邪気そうな声を発する。鮮やかな水色の髪が爽やかに揺れる。
 そして、その隣にいるのは対照的な黒髪をした男。手には戦斧を持ち、ずっと斜め下を向いてしまっている人物。
「ゾノ……」
 ヘルマが弱々しく名を呼ぶ。届いているのかいないのか、ゾノは無反応だった。ヘルマの拳がぎゅっと握られる。
 そんな彼女を気遣うフリもせず、妖精の主は明るく口を挟んできた。
「それで、あなたは何をしにきたのかしら?」
 分かっているはずなのに、わざとらしく尋ねてくる。ディーゼは思わず眉を顰めたが、恐らく訊かれているのは自分ではない。我慢して黙っていることにした。
「――ゾノを、助けにきたのよ」
 一歩前に踏みだし、ヘルマは毅然と言い放つ。少し声が震えていても、そんなの大した問題ではない。
 名前を出されたゾノは、驚いたように顔を上げた。だがヘルマは彼の方を見ず、アジーネを凝視している。紫水晶の瞳は、鋭く光っていた。
 が、アジーネは突然声を上げて笑いだす。おかしくてたまらないというように、延々と。聞いているだけなのに耳が変になってきた。
 やがて笑い疲れたように、アジーネはため息をつく。
「あぁ、おかしい……。知ってる? 奴隷になることを望んだのは、彼自身なのよ」
 瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。ヘルマとシルヴァスも同じだったようで、目を瞠ったまま固まってしまっている。
 だが、ディーゼは見ていた。アジーネが話した直後、ゾノが慌てたように口を開きかけたところを。言葉になることはなかったが、彼の表情が悔しげに歪んだところを。
「ゾノ! あんたは本当にそんなことを望んだのか。何か理由があったんじゃないのか!」
 気がつけば、ディーゼは叫んでいた。この場にいる全員の視線を感じながら、それでも答えを待った。
 ゾノは黙っている。唇を噛み締め、戦斧を握りしめ、表情を見せまいとしている。
 もどかしい思いでいると、アジーネが面白そうに口端を上げた。
「うふふ……なら、分からせてあげるわ」
 綺麗な顔が、残虐な色に染め上げられる。
「殺しなさい」
 冷たい命令。刹那、ゾノの体がびくっと反応し、一瞬躊躇った後――動いた。
 いち早く行動に出たのはシルヴァスだった。目にも止まらぬ速さで長剣を抜き、振り下ろす。金属同士のぶつかる音が響いた時、シルヴァスとゾノは武器を挟んで対峙していた。
 何が起こっているのか、すぐには理解出来なかった。が、呆けている場合ではない。ディーゼはヘルマを背後に庇いながら、相手の動きを観察した。
 アジーネは楽しそうに笑みを浮かべたまま、戦う者たちを眺めている。攻撃してくる様子はないが、そんな保証はない。
 一方ゾノは、感情を隠すようにしながら戦っていた。斧と剣。対し、ディーゼは体術を扱う。とても援護など出来そうになかった。下手に手を出せば、逆にシルヴァスを危機に陥れることになる。
「っく……貴様っ」
 そうこうしている間にも、戦況は変わっていく。シルヴァスが斧を弾き返し、ゾノが再度振りかぶり、受け止め、返し……。
 単純な動きにみえて、シルヴァスの消耗は激しいようだった。何しろ細身の長剣で、重みのある戦斧を押し返しているのだ。明らかに分が悪い。
 それに、シルヴァスの怪我も完治しているわけではない。もし傷が開きでもすれば、更に体力を削られる。
 どうすればいい――焦燥に駆られた時、不意に後ろから服を引っ張られた。
「ディーゼ」
 振り返るまでもない、ヘルマだ。ディーゼは前方を見据えながら、後方に耳を傾けた。
「ゾノの左の二の腕と、アジーネの胸元を見て」
 耳元で囁かれる。訝しく思いながらも、ディーゼは言われた通りにした。
 瞬間、ハッと息を呑む。ヘルマが示した二ヵ所には、ある共通するものがあったのだ。
 クロユリの模様。確かに、二人にはそんなものがあった。しかし、普段ゾノの二の腕にあったそれは黒だったのに対し、今は白く光っている。二つとも、だ。
 まさか。あれがあるせいで、ゾノは奴隷を課せられているのか。あれを壊せば、ゾノは自由になれるのか。ディーゼの中に希望の光が差すが、酷なことにすぐ絶望の影が覆ってきた。
 ゾノの二の腕には、クロユリは刺青のように描かれている。こちらを壊す、あるいは引きはがすことは不可能だろう。自分ではがせるものなら最初からやっているはずだ。
 アジーネの方はというと、まるで装飾品のように胸元についている。こちらを狙うしかないのだろう。が、そう簡単にはいくまい。
(キストがいれば……)
 思わずそんなことを考えてしまってから、ディーゼは首を振った。ここにはいない、しかも勝手に姿を消した相手を頼ってどうする。けれど、彼が遠距離から短刀を投げてくれれば、と考えずにはいられなかった。
 ディーゼが必死に頭を働かせていた、その時。
「わたしがやるわ」
 凛とした、力強い声がした。ぎょっとして振り返ってしまうと、真剣なヘルマの顔が飛び込んでくる。
 まさか、妖精術を使ってクロユリを壊そうというのだろうか。隙を突けば確かに可能かもしれないが、もし、失敗したら……。
「本気で言ってるのか。あいつはヘルマを…」
「守られるだけなんて嫌よ。わたしだってゾノを助けたいの。今まで、ずっと助けられてきたんだから」
 ディーゼの台詞を遮り、ヘルマははっきりと告げた。絶対に譲れない、そんな気持ちが態度に表れている。こうなったら何を言ってもきかなそうだ。
 ディーゼは苦笑した。
「……分かった。何かあったら俺が助けにいく」
 きかないなら、ともに頑張るしかない。そういうのは嫌いじゃない。ただ、心配なだけで。
 するとヘルマは若干びっくりしたようだったが、任されたというように首肯した。そうしておもむろに、片手を後ろに持っていく。気づかれないよう妖精術を発動させるつもりなのだろう。
 ならば、ディーゼがやることは一つ。シルヴァスとゾノが距離を取った瞬間、地面を蹴った。
 横から思いきり拳を突きだす。寸でのところで気づかれ、攻撃は斧に吸収された。本当に素手というわけではなく、武器代わりの分厚い手袋を装備してはいるものの、じんと痺れが走った。
 すぐに後ろへ跳躍し、離れる。ゾノは狙いを変えたようで、ディーゼの方へ向かってきた。どこか、悲しげな顔で。
 それでいい。この位置なら、アジーネからヘルマを隠せる。ゾノとシルヴァスが来ることで、更に壁は厚くなる。後は、耐えるだけ。
 激しい攻防が続いた。体力と気力が次々と減っていく。汗が流れ、砂色の髪が張りついてくる。荒い息をつきすぎて、喉が痛くなってきた。
 それでも、シルヴァスが時々援護してくれるだけありがたい。ディーゼと違い、彼は明らかに力量があるようだ。元騎士というだけはある。
 だが、そろそろ限界だ。力ではゾノの方が格段に上。押し潰される――そう覚悟した、次の瞬間。
 ひゅ、と何かが横を通りすぎていった。目で追っている余裕はなかった。が、ディーゼにはその正体が手に取るように分かる。感じられる。
「! あぁっ…」
 それを証明するように、アジーネの悲鳴が反響した。何があったのか、それは分からない。けれど、きっとヘルマがやったのだ。
 アジーネの悲鳴が上がると、ゾノの体が一瞬で動かなくなった。そして連動するように、呻き声を漏らしながら二の腕を押さえる。戦斧が手から離れ、痛みに悶え始める。
 そこでやっとアジーネの方を見ると、彼女も胸元を苦しげに押さえていた。両手の隙間から細い光が漏れている。黒と白の、淡い光。
 ――そうして、二つのクロユリは砕けた。
 ゾノが地面に膝をつく。アジーネはぐったりと背中を丸めている。荒い息遣いが響く中、シルヴァスは呆然としながらも長剣を構え、ヘルマは妖精術を発動させた直後の体勢のまま腕を突きだしていた。
 果たして、上手くいったのか。緊張に縛られていると、アジーネがゆっくり顔を上げた。己の胸元、白い布を巻いたような服を見て、綺麗な顔が歪む。
「こ、の……わたくしに生みだされた分際で……ただの記憶の分際でっ!」
 高いきーきー声で喚き、アジーネは手のひらに力をためていく。ヘルマに攻撃されることはないと油断していたのか、ディーゼたちの戦闘に気を向けすぎたのか。クロユリの模様は確かに消せたようだ。あの様子であれば、ゾノもきっと解放される。
 しかし、安心している場合ではなかった。アジーネの妖精術が放たれる。禍々しい炎の塊が肉薄する。術を使った反動があるのか、ヘルマは反応が遅れていた。あのままでは、直撃する。
「ヘルマっ!」
 無意識的に体が動いていた。ディーゼは咄嗟にヘルマを抱きしめ、横向きに地面を転がる。背中に熱を感じたが、激しい痛みを伴うほどではない。
 体が止まったと同時に起き上がり、アジーネを注視する。続く攻撃がないことを確認し、倒れているヘルマに手を差しだした。彼女はその手を取ると、なんとか立ち上がる。
「どうして……?」
 と、後ろの方で低い声がした。感情を殺したような、アジーネのものだ。
「どうして、その子を守ろうとするの? その子を守ることに、何の意味があるというの?」
 心底分からない、というようにアジーネは問いを重ねる。ヘルマを否定するような物言いには腹が立ったが、ディーゼはすぐに答えることは出来なかった。
 どうしてヘルマを守るのか。改めてそう訊かれてしまうと、なぜか返答に詰まる。ヘルマは倒れていた自分を助けてくれた、命の恩人だ。そして少しずつお互いのことを知っていって、魅力のある人物だとは思うようになった。
 それだけ……ただ、それだけ?
「……ねぇ」
 一人悩んでいると、答える前にヘルマが口を開いた。問いかけている相手はディーゼではなく、アジーネのようだ。
「わたしは、あなたが期待した通りのことを出来なかった、使えない存在なのかもしれないわ。生き物ですらないわたしが、彼らと一緒にいてもいいのかって、何度も迷った」
 唐突な話だったが、意外にもアジーネは黙って聞いていた。背中を押されるように、ヘルマは続けて話す。
「でも、それでもいいって言ってもらえたの。ただのニセモノなのかもしれないけれど、『わたし』を守るって言ってくれたの。わたしも、誰一人欠けずみんなと一緒にいたい。ただそばにいたいの。だから、わたしは……」
 胸の前で拳を握り、ヘルマは毅然とした態度で、言った。
「わたしは、死なないわ」
 ――必ず、みんなと一緒に歩む。
 はっきりと、強く、断言する。けれど、体は微かに震えていた。
 恐らく、ヘルマは全ての勇気を振り絞っていたのだろう。彼女の発言は嘘ではないと思う。それでも、仲間が全て戻ったわけではない。不安なのだ、きっと。
 アジーネはずっとヘルマだけを見つめていた。無表情を貫いて、まるで心の奥底を覗こうとしているかのよう。いや、というよりも、心そのものを見つけようとするかのようだ。
「……そう」
 長い沈黙の後に紡がれたのは、冷ややかな一言。納得しているようではないが、あからさまな怒りも向けていない。
「ここから北、赤い実の生る木が途切れた所を真っ直ぐ進んだ先」
 そして、突然脈絡のない言葉を告げられた。意味が分からずディーゼは眉間に皺を寄せたが、ヘルマも同じ気持ちのようで、小首を傾げている。
「そこに、あの石を持っていった人間がいるわ。出来るものなら、仲間を連れ戻してみることね」
 どこまでも冷たい声でアジーネは言い放つ。それは親切心から教えているというより、再びヘルマを絶望させようと企んでいるような感じがした。ディーゼの中で、抑えがたい怒りが溢れてくる。
 だがこちらが何か言う前に、アジーネは一瞬で姿を消してしまった。空気に溶けるように、前触れもなく。
 ……とりあえず、命の危機は去ったらしい。ホッと一安心しそうになったところで――まだ問題が残っていたことを思い出した。
 目線を移動させる。長剣を鞘に戻したシルヴァスの近くでしゃがみ込んでいるのは、ゾノだ。彼はすでに息を整えており、落ち着きすぎているくらいじっとしていた。二の腕にあったクロユリは、ない。
 ディーゼは何も言えなかった。が、ヘルマは違った。彼女はディーゼの元を離れると、真っ直ぐゾノの前に行き、顔を覗き込むようにかがむ。
「……ゾノ」
 名前を呼ぶ声音は、どこか不安定だった。ゾノの方もぎこちない動作で、ほんの少し顔を上げる。
 ヘルマは精一杯、微笑もうとしていた。
「どうして、妖精の奴隷になったのか……話してもらえる?」
 ヘルマにとっても、ゾノにとっても、もしかしたらそれは辛い内容だったかもしれない。それでも、ヘルマは訊いた。
 それでも、ゾノは話した。長い、長い沈黙の後で。
 隠していたもの全部、吐きだすように。
「……俺様の家は、昔火事にあったんだ」
 ぽつり、と大きな欠片が転がりでる。ディーゼも、ヘルマも、シルヴァスも目を瞠った。
「親父と、お袋と、弟と、妹が二人倒れてた。あの頃、俺様は女みたいにひょろっとした体型で、力なんかこれっぽちもなかった」
 こんな状況ではあるが、思わぬ事実にディーゼは仰天してしまう。
 疲れやすい体質だが、筋肉を鍛えるのが好きな筋肉バカ。自分と同じ高さの斧を腕一本で投げられてしまう腕力の持ち主。外見からも実力からもそれを知っていたので、細見のゾノなど想像出来なかったのだ。
「このまま死ぬと思った時……声が聞こえたんだ。助けを乞えば、自分たちの主が力を貸してくれる。その代わり、俺様は主とやらに仕えることになる、ってな」
 そこまで聞けば、ディーゼにもなんとなく予想がついた。ゾノが考えもしなかっただろう、悲劇の一歩を踏んでしまったことに。
「どこかの偉い貴族にでも仕えるんだろうって、簡単に考えてたんだ。よく考えりゃ有り得ねぇけど……あの時は、まともに頭が働かなかった。意識のない家族を助けることしか、頭になかったんだよ」
 訴えるように、誰かに言い訳するように、ゾノの声が荒れる。彼の拳は震えていて、今にも地面を殴りそうだった。
「受け入れたら、体が急に水に包まれて。気づいた時には、火が消えてた。家族皆びしょ濡れで、でも、家族皆助かったんだ」
 多分、妖精術を使ったんだろうな、とゾノは付け足す。妖精は、確かにゾノとその家族を救った。裏切らなかった。だけど。
「家族全員の意識が戻ってすぐ――俺様は体が変になってることに気づいた。ただ歩いてるだけなのにだるくなって、酷い時は倒れることもあった。そしたらまたあの声がして、今度は姿を現したまま、主復活のために俺様の体力を流し続ける、って言われたんだ」
 そう宣言された時、ゾノは何を思ったのだろう。今みたいに、辛い表情を隠せずにいたのだろうか。
「あまりに体力が持たなかったから、俺様は体を鍛えざるをえなかった。家族に心配かけられなかったし、妖精に力を貸してもらったなんて言ったら、面倒なことになると思ったんだ」
 ゾノが体を鍛えることには、そんな理由があった――ただ筋肉を鍛えるのが好きなわけでは、なかった。
「けどある日……しくじっちまってさ」
 はは、と乾いた笑い声が漏れる。
「例の妖精と話してるとこ……村の奴らに、見られちまったんだ」
 どすん、とゾノは地面に腰をつける。片膝をつきながらしゃがんでいた体勢が、きつかったのかもしれない。
「村の人間も妖精を毛嫌いしてたから、もう大騒ぎ。最初は殺されそうになったが、そしたら一緒にいた妖精の恨みを買うんじゃねぇかって妄想しだして、結果、俺様は妖精の楽園に放り込まれた。……俺様の家族が村からの追放で済んだことだけが、唯一心の支えだった」
 だから、ゾノは妖精の楽園にやってきた。そこで、ヘルマたちと出会った。
 村から追放されただけなら、まだ生きる道はある。遠くの田舎村へ行くなり、国を渡るなりすれば、いくらでも生活出来る。でも、ゾノは……。
「……黙ってて、悪かった。途中からやってきた俺様を……途方に暮れてた俺様を、何の見返りもなく助けてくれたお嬢に……嫌われたくなかった。妖精の奴隷だって言って、気味悪がられたり、距離を置かれたりするのが……嫌だったんだ」
 鼻をすする音が聞こえる。涙こそ流していないが、彼は泣いているのかもしれない。
 そんなゾノを、ヘルマはじっと見つめていた。ただ黙って、耳を傾けて、そして唐突に手を伸ばし、ゾノの手に自分の手を重ねる。ゾノは反射的に引っ込めようとしたようだが、ヘルマは放そうとはしなかった。
 続けて、こんなことを言う。
「ゾノ……あなたも聞いたと思うけれど、わたしは生き物じゃないわ。でもね、わたしみんなのことが大好きなの。あの屋敷で、一緒に過ごしてきたみんなのことが好き。さんざん悩んだけれど、やっぱり一緒にいたい。……あなたは、一緒にいてくれる?」
 それを聞いた途端、ゾノはこぼれ落ちんばかりに両目を見開いた。今言われたことが信じられない、という気持ちが声に出さなくても分かるほどに。
「い……いい、のか? 俺様は、妖精の奴隷だった身で……ずっと、隠してたのに……」
 おろおろと確認するゾノに、ヘルマは笑おうとしてみせる。一見した限りでは普通の笑顔だったかもしれないが、ディーゼからすれば、頑張って笑おうとしているように思えた。
 だが、ゾノにとっては十分だったらしい。ぐっと唇を噛み締め、体に力を入れたかと思うと、そのままヘルマを抱きしめてしまった。
「きゃっ……ちょっと、ゾノっ」
「俺様は気にしないっ……お嬢がどんな奴でも、気にならねぇ。むしろ今のお嬢のままでいい。俺様は……ずっと、お嬢のモンだ。好きにしてくれ」
「ゾノ……」
 呟くヘルマの声が掠れている。表情もどこか苦しげだ。
 筋肉のついた、太い木のような腕に手。そんなものにしめつけられていれば、ヘルマの細い体が悲鳴を上げるのは当然だった。彼女の声音で気づいたのか、ゾノはハッとしたように手を放す。
 そうして申し訳なさそうに謝り倒していたが、ヘルマは何度も頷き、くすくすと笑っていた。次第にゾノも謝るのをやめ、一緒になって笑う。
 ――あぁ、やっぱり。
 ヘルマはヘルマなのだと、ディーゼは再認識した。
 欠片は、それ一つでは輝けない。でも、集まれば温かい光を纏う。
 多分、彼女がいれば。皆、誰も欠けることなく、一つになれる。
 残る最後の人物を頭に描き、ディーゼはそう、思った。



 遺産が全て自分の物になると知った時、キストはうんざりしていた。
 亡くなった父の遺書にそう書かれていたのだ。父は商人、母は貴族の出だった。
 だが母は三女で財産を与えられなかったらしく、父に近づき、結婚までこぎつけていた。この際相手の身分などどうでもよかったらしい。父はそのことに気づいていたのかいなかったのか――この結果を見れば、気づいていたのだろうが。
 そして、それを黙って見過ごすような母ではなかった。今までキストに関心など向けていなかった彼女は、たちまち敵意を向けるようになった。
 何度殺されかけたか分からない。キストを殺して、遺産を我が物にしようとするあの目。
 他に兄弟はいなかったから、たった一人で、キストは逃げ続けていた。家を出ようにも、母は何かと理由をつけて離そうとしない。どんなことをしてでもキストを仕とめたかったのだ。
 吐き気がした。貴族の出で、今だって裕福な生活をしているのに、まだ足りないか。人間はどこまでも強欲で、意地汚い。
 いっそ死んでみようか――そんな風に諦めかけていた時だった。キストの考えを覆すような純粋な出会いがあったのは。
 この時も母の息がかかった使いに追われ、森の方へ逃れていた。いい加減慣れてきていつものように振り切った時――同じように、人間に追われている子がいた。
 まだ十七、八歳くらいの女の子。腰まである赤い髪を振り乱しながら、数人の追手から逃げているようだった。
(どうして、女の子が……? あの追っ手は何だ)
 訝しいとは思った。どちらが悪いのかもキストには分からない。
 でも。あの時短刀を投げて、追手の足を止めてしまったのは。
 憎悪の眼差しを光らせながら、どこまでも追いかけてくる人間。それらから死に物狂いで逃げる彼女が、自分と重なったからかもしれない。
 突然の刃で追手の勢いが弱まった隙を突き、キストは彼女の手を取った。森の中には隠れる場所がたくさんある。追われる度に逃げ道を変え、今回はたまたま森のこの場所を選んでいたのだ。
『大丈夫かい?』
 追手の気配が消えてから訊くと、彼女は答えず震えていた。キストを恐れているのか、先刻の恐怖が抜けきっていないのか。どちらにせよ痛々しかった。
『君は、どうして追われているんだい?』
 別の問いを重ねても、彼女は口を閉ざしたまま。多分言いたくないのだろう。
『ここに隠れればたいがいは見つからないよ。なるべく木や草が密集した所を選ぶんだ。中に潜り込めるような所はやめた方がいいよ。真っ先に手が伸びる所だから』
 嫌なら無理に聞きだすこともない。念のため助言してあげると、彼女は不可解そうにキストを見上げてきた。キストは苦笑し、彼女が完全に落ち着いてから、その場を後にした。
 翌日、浅い眠りから覚めて一人で朝食を終えると、なんとなく彼女のことが気になってしまった。
 元々、この家には一日中ほとんどいない。街の入口には母の使者が交代で構えており、街から出ることは叶わないから、森に行ったくらいでは咎められないのだ。森から違う場所へ出る道はない。徹底しすぎていて笑ってしまうほどだ。
 だからこの日も、森へ向かった。キストが導いてあげた場所へ向かって。幸運にも襲われることはなかったので、すぐに辿り着く。
 すると――。
『あ……』
 本当にいた。そんな都合よくいないだろうとも思っていたので、頓狂な声を漏らしてしまう。
 彼女はびくっと過剰に反応し、ぴったり木と背中をくっつけた。それでは逃げられないだろうに……思わず笑いそうになってしまう。
 その後も彼女のそばにいて話しかけていたが、なかなか普通に接してくれる気配はなかった。日が暮れて家に帰り、命の危険を感じながら翌朝を迎え、また森に通ったのは――彼女が、普通の人間とは異なる何かを持っていたからだろうか。
 彼女はずっとあの場所を離れていないのか、何度会いに行っても必ず出会えた。そうして接するうちに、あの追っ手とは違うと判断してくれたのかもしれない。彼女は少しずつ、心を開いてくれるようになった。
 出会ってから一週間後に名乗り合い、小さな会話を繰り返す。彼女が追われていた理由はまだ聞かされていなかったが、それは彼女の気持ちに任せることにした。
 そうするうちに、どんどん彼女のことを知っていって。
(あぁ……なんて……)
 なんて、まっさらな子なのだろう。
 芽生えたのはそんな気持ち。彼女は裏表がなくて、考えていることがすぐ顔に出た。それをからかえば頬を赤らめ、恥ずかしそうに俯く。面白い話をすれば、にっこりと笑う。大人しいが、偽りのない表情を向けてくる。ただキストと、向き合ってくれる。
 冷酷な仮面しかかぶれない母とは大違いだ。へこへこ従うだけの下部とも違う。
 夜、眠る時でさえ身の心配をしなければならないのに。彼女といる時間は、こんなにも温かくて、居心地がいい。
 ――愛しい。
 自分の想いを自覚するのに、そう時間はかからなかった。
 そんな時、キストは彼女から驚くべき事実を告げられる。
 妖精なのだ、と。
 突然、彼女は明かしたのだ。その証拠に、彼女は妖精が持っている羽を出してみせた。それは隠すことも可能らしく、ずっと見せずにいたのだという。追われていたのも、妖精だと正体がばれてしまったかららしい。
 このまま黙っているのは心苦しかった、と彼女は言った。悲痛な面持ちで、怯えたように。もしかしたら、キストに嫌われる覚悟でいるのかもしれない。いつまでも隠せるはずがなかったから。それは、どれだけ勇気のいることだったろう。
 だが、そんなことでキストの想いは揺らがなかった。妖精より人間の方がよっぽど醜いと思っていたし、キストは『彼女』が好きなのだ。
 そう伝えたら。彼女はいっぱいまで目を見開き、とても驚いていたが、次第に泣き始めてしまい、キストを大いに困らせてくれた。
 でもそれは、悲しみの涙ではなく。同じ気持ちで嬉しかったのだと、彼女は教えてくれた。
 驚きの事実の連続にこちらこそ仰天させられたが、それ以上に、キストは狂おしいまでの気持ちに包まれていた。
『僕のお姫様……愛してるよ』
 抱きしめ、抱きしめ返され、体と心で彼女を感じ取る。
 何度唇を重ね、何度触れ合ったことか、もう分からない。
 愛おしくて、そばにいたくて、たまらない。心が、壊れそうになる。
 ――なのに。
 なのに、どうして邪魔をするのだろう。自分たちが、何をしたというのだろう。
 平和で平凡な時間は、簡単に踏み潰されて。二人で、いつものように話していただけなのに。
 彼女が追手に見つかり、タイミング悪くキストもしつこい母の下部に見つかったのだ。
 一緒に逃げたかった。だが、彼女の手を取る前に、引き離されて。
 お互い追手に引きずられるようにして、何も出来ず、距離だけが離れていった。
 あの時、彼女が流した涙の色を。透明な、純粋さを表すようなそれを。
 キストは一生、忘れることは出来ない……。



 周りの木や草が密集したそこは、人が隠れるのにもってこいだな、とディーゼは思った。
 しかし、探していた人物は隠れようとしている様子でもない。ただ木に寄りかかって、物思いに見つめている。
 ――赤い石を。
「……キスト」
 黄昏れるように立っている彼を呼んだのは、ヘルマだ。その瞳は真剣で、声は硬い。
 キストは何も言わなかった。なぜ彼のいる場所が分かったのかも、なぜ全員で来たのかも、訊こうとしなかった。
「……やっぱり、逃げられないみたいだね」
 と、無言だったキストが前触れもなく呟く。何から逃げていたのかは知らないが、彼の声音はとても弱々しかった。にっこりとした笑顔も、人をからかうような口調も出てこない。
「――何で、俺の腕輪を奪ったんだ」
 話がこじれる前にディーゼは問う。あまりにも直球すぎたかもしれない。だがキストは慌てもしなかった。
 ただ静かに、再び黙ってしまう。言いたくないというより、どこか物思いに耽っているような雰囲気だ。だんだん焦れてくるというのに、なぜか促すことは出来なかった。
 ……そうして、長い長い沈黙が過ぎた時。
「僕はね、商人だった父親と貴族の母親の息子なんだ」
 キストが、語り始めた。その声音は、びっくりするくらい冷めていた。
「でも父の遺産が全部僕に与えられることになったせいで、僕は母に恨まれるようになった。何度も殺されかけて、いつの間にかそれが当たり前になってたよ」
 キストの言葉は無機質で、感情が込められていない。なんとなく説明的で、まるで機械のようだ。
 が、次の瞬間、闇が光で跳ね返されるように、キストの表情が柔らかくなる。
「でもそんな時、妖精の女の子に出会ったんだ。純粋で、裏表がなくて、今まで出会ったどんな人とも違っていた。……彼女だけだったんだ」
 何の話をしているのか、彼女とは誰なのか。ディーゼはよく理解出来なかったが、それでも確実に分かったことがある。
 彼女の話をするキストは、幸せそうだということ。
「けど……僕も彼女も追手に見つかって、引き離された。助けたかったのに、助けられなかった」
 涙を止めてあげられなかった。
 小さく、キストはこぼす。
「だから僕は、隙を突いて追手の手から逃げたんだ。邪魔してくる相手は殺した。もう、そんなこと構ってられなかった」
 奪われた彼女を助けにいくのに必死だった、そういうことだろう。そのために、キストは手を汚すことも厭わなかった。
 その事実には少なからず衝撃を受けたが、きっと、嘘ではないだろう。
「追いかけて、必死に探しまわったけど、彼女はどこにもいなかった。あちこち探して、けどある時、偶然耳にしたんだ」
 言い終わった後のキストの顔は、この世の終焉を見てきたかのように暗く沈んでいた。
「マーリネ王国の王宮に一匹の妖精が連れていかれた。そして王宮は妖精の力を手に入れようとし、その妖精の力を抽出して――妖精の力を押し込めた石を編みだした、ってね」
 今度は驚愕どころではなかった。ディーゼだけでなく、一緒に聞いていたヘルマたちも目を見開いている。
 ほとんどの人間にとって、妖精は忌むべき存在。人間にはない強い術が扱える。それを恐れたのか、はたまた戦などに備えて利用しようと考えたのか――。
 その妖精というのが、キストの言っていた彼女なのか。
「彼女かどうかは分からなかった。確かめようとしても王宮にすら入れなくてね。だから確実に王宮に入るために――商人になったんだよ」
 王宮に潜入するために。彼女かどうか確かめるために。そういうこと、なのだろうか。
 確かに商人であれば、王宮に入れる可能性はある。そこらの商人では無論無理だが、出入りの商人になれれば不可能ではない。こっそり侵入して危険をおかすより、キストは確実な道を選んだのだろう。
 この若さで商人になったわけは、こういうことだったのだ。
「兵団に入る手もあったけど、僕はとても剣を振り回せるような人間じゃなかったからね。短刀が精一杯なんだ。だから父に教わったことを思い出しながら死ぬ気で努力した。その頃にはもう、運よく母の手は伸びなくなってたしね。もう僕が近くにいないって気づいたのかな。大体、遺書なんて燃やされれば無意味になるんだし……多分あの人は、僕が怖かったのかもね」
 遺書は燃やせば済む。だが、それに気づく前にキストの命を狙ってしまった。ゆえに、報復されるのが怖かったのだろう、と。冷静に、キストは付け足した。
「けどね……」
 にっこり、と浮かべた笑みは、今まで見た中で一番悲しかった。
「僕が一人前の商人になれた頃には……彼女は、王宮から盗みだされてたんだよ」
 その一言に、ディーゼは体の奥がひやっとするのを感じずにいられなかった。
 王宮から盗みだされた石――。ディーゼの父は以前、王宮から石を盗んで逃げ続けていた。その理由は、一切話さず。
 そんな、まさか……だが、ディーゼには否定のしようもない。
「噂を聞いた後も王宮に通っていたから本当だと思う。それこそ商人としてあちこち渡り歩きながら、ただ彼女だけを探していた。そんな時に……」
 ふっ、とキストの口元が切なげに笑う。
「君と出会ったんだ、姫様」
 ヘルマが息を呑んだのが分かった。全てを悟ったような、全てが繋がってしまったような、驚きと悲しみの表情を浮かべて。
「正直、夢を見ているのかと思ったよ。けど君は、彼女と瓜二つで。その赤い髪も、声も、全部彼女のものだった。性格はもっと大人しかったかもしれないけど、そんなの些細なことだ。ただ、君は……」
 キストとヘルマの顔が、同じタイミングで歪む。
「僕のことを、全く覚えてなかった」
 淡々と語られたその台詞には、しかし溢れんばかりの感情が込められていただろう。悲痛すぎて、辛くて、見ていることが出来ない。
「やっと会えたと思ったら、彼女が第三王女になっていたから驚いたよ。混乱して最初は何も考えられなかったけど、きっと、彼女は転生してくれたんだって思うようにしたんだ。それか、石から解放されて影響が残ってるか。なんにせよ、また最初からやり直そう、ってね。……でも、それも多分違うんだろうね」
 自嘲気味に話すキストに、ヘルマは顔色を悪くさせながら黙り込んでいる。シルヴァスとゾノが心配げに見守る中、ヘルマはゆっくりと、己の意見を吐きだした。
「……アジーネは、この世で同じ外見を持つ体は生みだせないと言ってたわ。だから、多分……石に閉じ込められた彼女の体を、使った。そこに、記憶を植えつけた。彼女は、もう……命を、落としてしまっているから」
 思いもよらなかった内容に、ディーゼはだんだん話についていけなくなる。だがじっくり考えようとすれば、納得のいく答えに行き着くような気がした。
 以前、キストはヘルマを探していたと言った。しかし正確には、ヘルマと同じ姿をした妖精だったのだろう。彼女たちは同じようで、同じじゃない。
 にっこり、とキストはわざとらしい笑顔になった。
「うん、僕も同意見だよ。……うん、多分彼女は、もうどこにもいないんだ」
 無表情に、けれど寂しげに。呟いて、キストは不意にディーゼを見た。
「ディーゼ君の腕輪を見た時、なんとなくだけど彼女の気配を感じたんだ。王宮で石の特徴を聞いてたこともあるけど、それ以上に、なんていうかね。とどめにアジーネの言葉を聞いて、ほぼ確信した」
 でも、彼女には、もう会えない。
 それが分かっているからなのだろうか。口にせずとも、キストの気持ちが流れ込んでくる。救いを求めて、心が泣いている。
 だがディーゼには、どうしても腑に落ちない点があった。
「……もし、命を落とした妖精に記憶を植えつけて、その体を使ったとして――どうして、ヘルマは普通に動けるんだ?」
 石に閉じ込められている彼女は、すでに亡くなっている可能性が高いという。なら、その体は正常に機能するのだろうか。普通ならばとても考えられない。
 その問いに答えたのはキストだった。
「命あるものは、その生を終えると全ての記憶を洗い流す――あちこち歩き回ってた時に書物から得た情報なんだけどね、高位の妖精は同じ妖精になら命のエネルギーを与えることが出来るみたいだよ。たとえ死んでしまっていてもね。けどもちろん簡単なことじゃない。生き返れても妖精術は使えなくなるし、力を与えた方の妖精は相当な体力を消費する。何より――蘇っても、記憶が洗い流されてるわけだから、以前と同じ性格であるとは限らない」
 本当かどうかははっきりしないけどね、とキストは苦笑混じりに付け足す。しかし、ディーゼは疑う気にはなれなかった。なんとなく――真実のような気がして。
「けど……そもそも、何でヘルマだったんだ」
 よく分からないことはもう一つある。死んだ妖精に命を吹き込んでまで、アジーネ自身酷く体力を削ってまで、なぜこんな方法を取ったのか。普通に妖精に記憶を植えつけるのでは駄目だったのか。
 ディーゼの心の先まで読んだのか、キストは淀みなく答えた。
「これもしょせん、書物から得たものだけど。今現在生きている者の記憶をいじると、記憶の混濁が起こるみたいなんだ。少し記憶を植えつける程度なら平気だけど、彼女の場合は人間不信にさせないよう細工までされてる。普通にやれば、最悪パニックを起こして自我を失ってしまうらしい。だから、記憶を全て洗い流した者でないと駄目だったんだろうね」
 理屈は、分からなくもなかった。
 だがやはり、アジーネの言動は許せるものではないと思う。自分の都合で妖精の命を操っているようにしか見えないのだ。ヘルマがどんな気持ちでいるか、知ろうともしないで。
「……い」
 と、そばでか細い声が聞こえてきた。見れば、ヘルマが俯いて肩を震わせていた。
「ごめん、なさい……わたし……ずっと、あなたを騙していたのね」
 涙を懸命に堪えているような声音。そうするのは、キストが泣いていないからだろうか。
 当のキストは、謝罪されると目を白黒させた。
「どうして君が謝るんだい? 君は何もしてないよ」
「でも……それでも…っ」
 それでも。
 ヘルマは、キストに残酷な夢を見せ続けることになってしまったのだろうか。それは、誰が悪いのだろうか。
 いや、そう考えるべきではない。
「……キスト。その石、どうするつもりなんだ」
 口だししない方がいいのかもしれないが、頃合いを見計らって尋ねてみる。
 が、キストは無言。じっと彼女を見つめ、何かを思案しているようだった。
「余計なことかもしれないけど……俺は、それを持ってもう一度、全員でアジーネの所に行くべきだと思う」
 予想外の台詞だったのだろう、その場にいる誰もが驚きに目を瞠っていた。確かにいきなりすぎたかもしれないが、言ってしまったので一気に続ける。
「その石は妖精が関わってる。けじめをつけた方がいいだろ。それに気になるんだ。俺を見て、アジーネが攻撃をやめた理由が」
 初めてアジーネが姿を現した時。彼女はなぜか、ディーゼにだけは手を出そうとしなかった。どうしても、その理由が知りたい。
 だが、キストは沈黙したままだった。ずっと赤い石を見つめ、それだけしか頭にないというように、壁を作ってしまっている。
 キストの気持ちも分からなくはない。けれども、このまま逃げていられるわけでもない。決断してもらわなければ――思いきって促そうとした、刹那。
「キスト」
 凛とした声で彼を呼んだのは、ほかでもない、ヘルマ。驚くディーゼには気づいていないのか、彼女はキストだけを凝視していた。
 そして強く、儚く話しだす。
「わたしは……あなたが探していた人じゃないわ。本当なら、この世にもいなかった。生きる資格なんてないのかもしれないし、あなたを傷つけた自覚もあるわ。でもね……」
 そこで区切ると、ヘルマは不器用な明るい口調になった。
「わたし、あなたと一緒にいて楽しかったわ。これは嘘じゃないわよ。それだけ、覚えててくれてればいいから……キストは、キストの思うようにして」
 遠回しに、自分の元を離れてもいい、とヘルマは言っているのだろう。後ろでゾノが口を開きかけたようだったが、無言でシルヴァスに制止されていた。
 今は自分たちが口を挟むべきではないだろう。これはキストとヘルマの問題――そして、キストの気持ちの問題なのだ。
 異様な静けさは、果たしていつまで続いていたのか。もはや感覚が分からなくなっていた。
 ――が、それは唐突に破られる。
「……ははっ」
 小さな笑い声。しかし、その声は徐々に大きくなっていき、ディーゼの耳に何度も響いてきた。でもどうしてか、それは虚しく響く。
 やがて笑いを収めると、キストは遠くの空に目をやった。
「……違うんだ」
 ぽつり、と漏らされた一言は、空気に溶けて消えていく。
「違うんだよ、姫様……本当は、分かってるんだよ」
 涙こそ流していないが、キストの言葉の全てが震えていた。何かを認めようとするように、何かと戦おうとするように。
「気づいてたよ……気づかないわけがなかったよ。どんなに似てても、姫様は彼女と違うところだらけだった。それを気づかないフリして、僕はずっと逃げてたんだ」
 ヘルマは呆然と立ち尽くしている。キストはこちらに振り向くと、今度は真っ直ぐヘルマを見据えた。
「だから、姫様は悪くない。そして僕は、姫様と彼女を重ねていながら……彼女を忘れられないまま、姫様と一緒にいる時間を楽しんでいたんだ。けど……まだっ」
 言下に、キストはヘルマへと手を伸ばした。ぎょっとする彼女の腕を掴み、くるりと反転させ――そのまま、背後から抱きしめる。
「! キスト…っ」
「……ごめん、姫様」
 それは何に対する謝罪だったのか。キストはもう口を開かず、痛みを堪えるようにしながらヘルマに腕をまわしていた。彼女は困惑していたが、決して振り払おうとはしない。
 そうして、皮が破れそうなくらい唇を噛み締めたキストの口から――。
「…………リアナ…っ」
 今まで聞いたこともない、掠れた声が飛びだしてくる。瞬間、ヘルマの瞳が大きくなったが、すぐに閉じられてしまった。
 光のいたずらか。その拍子に、彼女の瞳から何かが流れでた気がした。



 第六章 想いを紡いで

 それからしばらくすると、キストも落ち着いたようだった。
 彼が話せるようになると、ヘルマは改めて尋ねていた。自分と、一緒にいてくれるのかと。
 キストは吹っ切ることが出来たようで、快く頷いていた。そこに偽りや気遣いはなく、本当の意味で、ヘルマは仲間を取り戻していた。
 悩んでも、泣いても、ヘルマは前に進み続けた。ニセモノと言われても、彼女の意思でここまで来た。
 やってきたこと全てが実を結んで、今の結果が得られたのだろう。人間でも妖精でもなかろうが関係ない。そんな彼女だから、ディーゼは力になりたいと思った。信じた通りだった。
 そしてディーゼたちは、現在ある場所へ向かっている。全員で決め、妖精の主――アジーネの元へ。
「あー……そういや、シルヴァス」
 と、森の中を歩いている途中、ゾノが言いづらそうに口を開いた。シルヴァスは目線だけゾノに向ける。
「何だ」
「そのー、悪かったな。今更だが、お前がアジーネの所から抜けだした時、手加減なしでやっちまっただろ?」
 後頭部をがりがり掻きながら、ゾノはすまなそうに謝る。対して、シルヴァスは全く表情を変えずに返答した。
「構わない。大体、あの時はアジーネに逆らえない状態だっただろう。気にするな」
 シルヴァスの怪我は完治しているわけではなかったが、歩いたりする分には問題なくなっている。気遣われているのではないと分かったのか、ゾノはホッと息をついた。
 ゾノが妖精の奴隷であったことは、キストにも先ほど話してある。三人がばらばらになった時、キストはいち早く去ってしまったから、ゾノの正体を知らずにいたのだ。最初はキストも仰天していたようだが、事情が事情なこともあり、すぐに納得していた。
 全ての欠片が一つに戻った気がして、ディーゼは胸が熱くなるのを感じていた。
 そうしてともに歩き続けているうちに、目的の場所へと到着する。お喋りがやみ、ディーゼも緊張に包まれた。
 妖精の楽園の中でも、最も大きいだろうと思わせる巨木。先刻まで、ゾノを取り戻しにいっていた場所。そこに、ディーゼたちは立っている。
 言葉はない。自然と、ディーゼから足を踏み入れていった。
 外よりは薄暗い道を黙々と進んでいく。どのくらい距離があったかは知らないが、時間的にいえば短くも長くも感じた。
「あらまぁ、また戻ってきたの」
 最奥の広い場所に出ると、早速無邪気な声が響いてきた。瞬発的に身構えると、ディーゼたちの前にゆらりと現れる者がいる。
 透き通るような水色の髪。純白そのものの服。四枚の羽。
「お仲間も取り戻したみたいね。……ますます気に入らないわ」
 堂々と立つ妖精の主――アジーネは、先ほどとは打って変わって低い声を出す。それがヘルマに向けられているのは言うまでもない。
「わたくしからの使命は果たさなかったのに、そういうことはちゃんとするのね。あぁ、それとも反省して自分から責任を取りにきたのかしら?」
 言下に、アジーネは片手を突きだして力を集め始める。何をする気なのかは一目瞭然、ディーゼは咄嗟に声を張り上げた。
「待ってくれ!」
 瞬間、気がそれたのかアジーネの力が拡散していく。軽く睨まれたが、ディーゼは臆せずに続けた。
「なぁ、どうしてあんたはヘルマを狙うんだ。そこまでする理由なんかないだろ」
 ディーゼにとっては当たり前のことだったのだが、どうやらアジーネにとっては違ったらしい。理解出来ない、というように首を振られる。
「そんなの決まっているでしょう。人間の監視をするはずが、人間に妖精術を晒すことになって、しかも追放される形でここに戻ってくるなんて――その子は妖精の誇りを、傷つけたのよ。それにその子の力を追って、人間がまたやってこないとも限らないわ」
 容赦ない言葉の羅列に、感情をむきだしにしたのはゾノだった。
「おいおい、元々お嬢を生んだのはそっちなんだろ? だったら、そっちに不手際があったんじゃないのか?」
「本来、復活させた妖精は術を使えなくなるわ。扱いにくい人格でもなかった。失敗なんて有り得ないはずなのよ」
「? じゃあ何で、ヘルマは妖精術を使えるんだ」
 そういえばキストも言っていた気がするが、それだと矛盾している。ディーゼの疑問に、アジーネは考え込むようにしてから説明した。
「妖精術は、妖精の感情によって威力が左右する。怒りの感情が強ければ威力は絶大になるし、誰かを守ろうとすることでも強くなる。その影響で、不完全ながらも使えるようになってしまったのかもしれないわね」
 それは初めて聞く内容だった。確かにアジーネの言う通りなら、ヘルマが妖精術を使いこなせない理由も納得出来る。本当に自分は――人間は、妖精のことを知らない。
 だから知らなければならないと、ディーゼは直感的に思った。
「あんたの話を聞いて、ずっと思ってたんだけど――どうして、そんなに人間を憎んでるんだ」
 今だって人間を監視するだとか、人間に妖精術を晒しただとか、あからさまに人間を嫌悪している。隠そうともせず、憎しみを露にしている。
 人間のほとんどが、妖精を忌むべき存在と判断していた。それは妖精の方も同じなのか。それ以前に、どうしてこんなことになってしまったのか。
 真実が知りたくて尋ねると、アジーネは口元を歪ませ、馬鹿にしたように笑った。
「どうして? そうよね、人間は自分に都合のよいように話を歪ませるのが大好きだもの。なら、教えてあげる」
 スッ、とアジーネの瞳が鋭くなった。
「昔、人間とわたくしたち妖精は不干渉を貫いていた、それは知ってるわね。不可侵契約、とまではいかないけれど、人間はわたくしたちの力を恐れていたわ。だから関わろうとしてこなかった。けれどある時、今から何百年も前の王が訪れてきたのよ――愚かな理由を用意して」
 アジーネの怒りが伝わってくる。肌がぴりぴりして、痛いくらいに。
「王は、わたくしたち妖精の力を借りたいと言ったわ。今更何かと思えば――今後の戦に利用したいと、人間はそう言ったのよ」
 アジーネの台詞に衝撃を覚えながらも、ディーゼは思ったより冷静でいられた。多分、少なからず予想していたからかもしれない。ヘルマたちも同様のようだ。
「当然断ったら、人間たちは武器を振りかざしてきたわ。返り討ちにしてやったけれど、本当に呆気なかったわね。その時に言ってあげたのよ。『ここは妖精の楽園、妖精でない者が入り込めば外には出られない場所。でも、今回は特別にわたくしの術で出してあげる。だから二度と来るな』って」
 妖精の楽園の話は、まさかここから来ているのだろうか。その場で全員殺すよりも、畏怖の念を植えつけ、二度と来ないようにさせる――アジーネの狡猾さがうかがえるようだ。
 ……いや、今はそれよりも。
「なのに、そちらの世界ではずいぶん愉快な話になっているようね。何だったかしら、人間がわたくしたちと手を取り合おうとしたら、いきなり襲いかかられた、みたいな内容だったかしらね。……寝言も大概にしてほしいわ」
 今まで言い伝えられていた、当たり前だと思っていたものが崩れた。そちらの方が、問題だった。
 アジーネが虚言を吐いていないという確証はない。が、こんな嘘をディーゼたちに振りまいたところで無意味だろう。言い伝えというものがねじ曲がっているのも、よくある話。
 彼女が人間を憎む理由は分かった。――が、ディーゼが最も知りたいことが、まだ残っている。
「なら……そんなに人間が嫌いなら、何で俺を殺さなかった」
 あの時。初めて、アジーネが現れた時。ディーゼは確実に殺されると思った。自分だけじゃない、きっとヘルマたちだって。
 でもそうはならなかった。ディーゼを見て、アジーネは攻撃を躊躇ったのだ。その理由だけが、どうしても分からない。
 だがアジーネは黙り込んでしまった。彼女の表情は複雑で、よく読み取れない。言いたくないとも、躊躇しているとも、あの時の行動を後悔しているようにも、見える。
 それでもディーゼは諦めず、ある物を突きだした。
「これ……本当はあんたの所にあるべき物だよな。これさ、元々俺が持ってたわけじゃなくて、親父が王宮から盗んだやつなんだ。理由は一度も教えてくれなかったけど」
 手にしているのは、腕輪。その中にある、赤い石。
 ここに来る途中、キストから預かっていたのだ。一応ディーゼが身につけていた物だからという理由もあるが、それよりも、これについて訊きたいことがあったから。
 予想通りというべきか、アジーネの顔色が一気に変わった。透き通るような瞳が、驚きで見開かれている。
 ――そして、確かめるように、初めて問いかけられる。
「……あなたの父親の名は、何というの」
 唐突すぎて、ディーゼは目を瞬かせてしまったが、確かな手応えを感じ、素直に告げる。
「ヴァノアだ」
 あまり、好きではない名前。ずっと何も教えてくれず、急に息子を放り捨てた、父親の名。なのに、こんなに鮮明に覚えていたのはなぜなのか。
 けれども、すぐにそんなことは気にならなくなった。アジーネの様子が目に見えて変化したからだ。
「そう……」
 小さく呟いて、アジーネは空気を見つめる。今だけは、ディーゼたちの方など向いていなかった。
「確かに、そんな名前だったわね……確かに、似ているわ」
 意味深な独り言を漏らし、一人で納得されてしまう。だが、ディーゼたちからすれば何が何だかまるで分からない。
「どういうことだ。何か知ってるなら教えてくれないか」
 相手が敵だということは承知しているが、訊かずにはおれない。長い間知らないままだった、知らなければならない真実が、今目の前にある気がして。
 しかし覚悟もしていた。自分たちは人間。もう十分色々な話を聞かされた。そう都合よく、こちらの要望に答えてくれることはないだろう、と。
 が、その考えはいい意味で裏切られた。
「……ヴァノアは……愚かな王を追い返してから、初めてここにやってきた人間よ」
 まともな返事があったことと、その内容に驚きを隠せない。そんなディーゼに構うことなく、アジーネは続けた。
「無謀すぎるとしかいえないけれど……わたくしに、人間と争うことをやめるよう言ってきたの。王を追い返してから人間はこの森に来なかったけれど、人間の様子を探るために下級妖精を放っていて、運悪く見つかってしまった場合は争いになっていたから。まぁ、偵察はことごとく失敗してしまったから、結局その子を生みだす結果になったのだけれど」
 理解する前に、ディーゼの頭ははちきれそうだった。そのような話は一度も聞いたことがない。そんな危険を冒していただなんて、一度も……。
 そこで、まさか、とある考えが浮かぶ。妖精の主の元へ行ったなら……まさか、現国王の元へも?
 振り払おうとしたが、意思とは反対に様々なピースが嵌まっていく。兵団から騎士、騎士から聖楼騎士団へと上り詰めたのも、少しでも国王と話す機会を得るため? 自分も父も平民だ。どう考えたって国王に謁見、というより争いをやめるよう進言など出来るはずがない。
 でも、聖楼騎士団は元々身分の高い者がなれるもの。国王の身辺の警護を任されることがほとんどらしい。それならば、もしかしたら。
「何で……何で、親父がそんなこと……意味が分からない」
 別に特別な人間でもない、ごく普通の人物だった父。なのになぜ、わざわざこんな危険な真似をしたのだ。
 するとアジーネは、迷うように沈黙してから、口を開いた。
「人間と妖精が出会えば争いになると言ったでしょう。……その被害に遭ったのだそうよ、彼の妻は」
「な……」
 今度は二の句が継げなくなる。驚きの連続ばかりで、もう頭が痛い。
 確かに、物心ついた頃からディーゼの母親はいなかった。死因を訊いても教えてくれなかったから、もう諦めて気にしないようにしていたのだが――こんな形で、真実を知ることになるなんて。
「だから争いをなくしたいのだと、彼は言ったわ。まあ信用はしていなかったのだけれど、害意はなかったようだから、やれるならやってみればいいと思ったわ。なんとしても国王を説得して、また戻ってくると言って、彼は嵐のように去っていったのよ」
 あぁ、やはり。ディーゼの中で、何かがすとんと落ちていった。
 しかし、アジーネの表情は途端に曇る。
「けれど、それ以来彼は森に来なかった。もう諦めたものと思っていたから、忘れてしまっていたけれど……まさか、その子供に出会うなんて」
 おかしそうに、けれど自嘲するように笑うアジーネを見て、ディーゼはハッとする。いや……きっと違う。
「違う。多分、親父は諦めたんじゃない。この石を……妖精の力が封じられてるこれを、あんたに返そうとしたんだ」
 なぜだか、そう思えた。
 王宮から盗み、王宮の騎士らに追われ、父は逃げ続けていた。理由なんか教えてくれなくて腹が立っていたが、一つだけ、ディーゼには分かることがあったのだ。
 ――石を手に逃げる父の瞳には、決して己の欲望の色はなかった、と。
 だからこそ、我慢して父についていった。父を信頼していた。……結局、捨てられてしまったが。
(! まさ、か……っ)
 でも。複雑な情報が絡み合った瞬間、ディーゼはある考えに辿り着く。それは、ただの自分の願望かもしれない。でも、まさか。
 石とともに、ディーゼを妖精の楽園に置いていったのは――ディーゼを、守るためだったのだろうか。
 恐らく、国王への説得は失敗したのだろう。でなければ石を盗んだりなどしないはず。そして父は次にどうするか悩み――妖精が閉じ込められている石を、盗むことにした。
 もしかしたら、国王はそれを戦に利用するつもりだったのかもしれない。だが、なくなってしまえば意味もなくなる。妖精が姿を現さなければ、人間は妖精の楽園に入ろうとはしない。結果的に捕まっていた妖精も、アジーネの元に戻ってくる。
 そうすれば、ヴァノアの息子であるディーゼだけは匿ってくれるかもしれないと、父は賭けたのだろうか。自分と逃げ続けるより、その方が安全かもしれないから。
 だが、そうはならなかったのは。推測でしかないが――アジーネがヘルマを生みだしたことで、ちょうど眠りについてしまっていた時だったからだろう。
 アジーネは父が諦めたものだと思っていた。ならば、父に期待せず自ら行動してもおかしくない。なんて、タイミングが悪いのだ。
 ――全てが、繋がった。自分は、捨てられたわけでは、きっとなかった。
 とてもすぐには信じられないが――今は、すぐにでもやらなければならないことがある。
 ディーゼは、ちらっとキストの方を向いた。目だけで意図を伝える。それだけで彼は察してくれたようで、少し寂しそうに頷いてくれた。
 礼代わりに頷き返し、ディーゼはアジーネを見据える。
「アジーネ、この石はあんたに返す。そうすれば人は森に来なくなるし、争いも起こらない。ヘルマはあんたの思い通りには動かなかったかもしれないけど、人と関わらなければ問題は起きない。だから…」
「人間と争うな――と?」
 正に言おうとしていたことを続けられ、ディーゼは首肯する。
 戦わずして解決出来るなら、それに越したことはない。向こうにとっても悪い条件ではない、はず。
 静かな空間には緊張が満ち――アジーネは、答えを示した。
「それは、きっと無理な話ね」
 どん底に突き落とすような、相手を切り伏せる一言。咄嗟にディーゼは何か言おうとしたが、遅かった。
「もう、遅すぎるのよ」
 奇しくも、重なった刹那。
 アジーネの全身から、大量の光が溢れだした。
 ディーゼは目を庇いながらヘルマを腕に抱き、後方へ跳躍する。シルヴァスたちも左右に分かれたようだった。光による圧力が、びりびりと肌を刺激する。
 やがて眩しすぎる光が消えた時、アジーネは片手を突きだしていた。手のひらの中心へ集まっていくのは、威圧するような力。
「まずは、かつての愚王がいた、マーリネ王国から滅ぼす」
 更に吐きだされた、とんでもない発言。とても聞き流せるものではなかった。
 かつて妖精が傷つけられたとはいえ。人間が愚かだったとはいえ。アジーネの行為を許してしまえば、今より酷い悲劇が生まれるのは必至。止めなければ、ならない。
 自分は正義の味方でも何でもない、ただの平凡な人間だ。国や世界を救おうなんて、そんな大それたことは考えていない。けれど。
 父が果たせなかったこと――その責任を、取りたいと思う。
「――はぁっ」
 なるべく攻撃の届きにくい位置にヘルマを残し、ディーゼは地を蹴った。妖精術が完成する前に接近し、気合とともに拳を叩きつける。
 収束しかけていた光の塊と、ディーゼの拳。衝突した瞬間、目がちかちかしそうな火花が散った。
 だが顔を顰める暇もなく、力に押し返されてよろけてしまう。すぐに身構えると、アジーネも片手を押さえていた。術の妨害は成功したようだ。
「くっ…」
 悔しげな呻き声を漏らすと同時、アジーネは再び術の詠唱に取りかかる。が、それは一瞬後に中断された。
 アジーネの顔が強張ったかと思うと、彼女は横に手を突きだす。そこからアジーネを守るように円形の光が現れ、何かと衝突した。見れば、銀色の髪をなびかせたシルヴァスと彼の長剣が光に反射している。ぎりぎりと力が拮抗しているのが、遠くからもうかがえた。
 そこへ、反対側から鋭利な物が飛んでいく。シルヴァスの攻撃に集中していたのか、アジーネの反応は若干遅れたようだ。避けきれず、嫌な音を立てて彼女の肩に突き刺さる。
 それは短刀だった。そして離れた位置には、武器を放ったままの姿勢でいるキストの姿。
「おらっ、隙あり!」
 大きなチャンスが出来たところで、すかさずゾノが飛びだしていく。鍛え上げた腕が振り上げられ、そのまま戦斧が下ろされた。
 間一髪、アジーネは後ろへ回避したものの、脇腹と羽が数枚傷ついている。人間とは違って鮮血は流れず、光の粒子が漏れでているようだった。
 と、アジーネの表情が忌々しそうに歪む。
「小賢しい……っ」
 アジーネの両腕が天に向けられ、カッ、と光った刹那。嫌な予感がし、ディーゼは反射的に彼女から距離を取った。
 数瞬の後、その場が白で埋め尽くされる。続いて、耳をつんざくような轟音。地面が鳴動し、体を焼かれるような衝撃が走り抜けた。
 視界は白から黒へと変わっている。閉じてしまっていたらしい目を開けると、ディーゼはいつの間にか仰向けに倒れていた。
 急いで起き上がると、左腕に痛みを感じる。腕の一部が火傷しているようで血も流れており、どうやら雷のような術に打たれたのだと理解した。
「! な…っ」
 が、周囲に目をやった途端、ディーゼは絶句する。
 しゅうしゅうと煙を上げる巨木の中、ディーゼ以外の男三人はまだ倒れたままだった。シルヴァスは長剣を、ゾノは戦斧を杖代わりに膝立ちにはなっているが、服も体もぼろぼろだ。キストは元々戦闘に向いていないせいか、上半身だけでも起こそうとしている。
 そこでハッとし、ディーゼは背後を振り返ろうとした――が。
「! あぁっ!」
 悲鳴が聞こえ、無意識のうちにそちらを向く。そこではアジーネが、爆発する蝶に振り回されていた。蝶を扱う妖精術が使えるのは、彼女しかいない。
 そう悟った瞬間、ディーゼは無理にでも立ち上がり、駆けだしていた。痛みを訴える体を叱咤し、真っ直ぐ、アジーネの元へ向かう。まだ構えられていない。いける。
 そうして間近まで肉薄した、直後。目を瞠るアジーネへ、ディーゼは渾身の一撃を叩き込んだ。
 痛いほどの手応えを感じるとともに、アジーネの体が羽のように吹き飛ぶ。分厚い木の壁に叩きつけられ、どさりと地面に落下した。
 鳩尾を直撃していた。妖精の体力がどれほどのものかは知らないが、キストやゾノのつけた傷も含めれば、相当なものになっただろう。
 案の定、アジーネは咳き込むだけで起き上がろうとしない。戦闘中のうるささが嘘のように、辺りはしんと静まり返ってしまっている。
 ディーゼは首だけ背後を振り返った。そこには疲れた様子ながらも、無事を知らせるように微笑んでいるヘルマがいる。
 頷き、ディーゼは歩みだした。ゆっくりと、アジーネの元へ。
「っ……まだ、よ……!」
 が、刺激してしまったのか、近づいた瞬間に力が膨れ上がる。咄嗟のことで回避してしまい――ディーゼは後悔した。
「! ヘルマっ!」
 アジーネの術が向かった方、そこにはヘルマがいる。まだ妖精術を使用したばかりで、まともに動けないはず。
 どう頑張っても間に合わない。シルヴァスたちも動けそうにない。頭の中が絶望の色に染まりかけた、次の瞬間。
 光が、弾けた。
 霧散するように光が溶けて消えていく中で、ぼんやりとヘルマの姿が見える。嵐のような風が巻き起こり、赤いドレスの裾がはためいていた。
 やがて元の視界に戻った時――ディーゼは目を疑ってしまう。それは、交差させていた両腕をどけたヘルマも同じようだった。
「シュラ、ラ……!」
 透明にも見える白銀。燃え盛るような朱。
 不思議な色合いの髪を揺らめかせていたのは、人型を取ったシュララだった。犬とも狐ともいえる姿にもなれる、懐かしい生き物。ヘルマのサポートという名の監視を担っていたはずの妖精。
「な……なぜ、あなたまで……っ」
 最も驚愕していたのはアジーネだった。どうやら彼女が呼びだしたわけではないようだ。その証拠に、シュララはゆるゆると首を左右に振っている。
「……主」
 その小さな唇から、声が紡がれた。そういえば、シュララの声を聞くのは初めてだ。
「彼女は、もうリアナではありません。見た目は変わらないかもしれませんが、彼女はすでに彼女の気持ちと意思を持ち始めています。それは一人の立派な――ヒトです。どうか、仲間の命を奪わないで下さい」
 感情が読み取りにくいながら、芯の強い印象を抱かせる少女。ヘルマは動転してしまっているのか、大きく目を見開いてシュララの背を見つめている。
 アジーネは自虐的に笑んだ。まるで仲間に裏切られたとでもいうような、痛々しい顔で。
「アジーネ」
 そんな彼女を見据え、ディーゼは口火を切る。憐れんでいるわけでも、今までのことを責めようというわけでもない。
 ディーゼは彼女の足元に、赤い石を置いた。
「これは返しておく。……あんたも、分からないわけじゃないだろ。今あんたが人間に手を出せば、余計に話はこじれていく。人間だって妖精だって、今より死ぬことになる。そうならないために、今まで不干渉を貫いてたんだろ」
 アジーネは赤い石とディーゼを交互に見ていたが、次第に表情は険しいものへと変わっていった。
「だから、わたくしたちが我慢しろと? 先に手を出したのは人間なのに? だから人間など…っ」
「じゃあ何で、この森には人間が住むような屋敷があるんだ」
 突然だったのか、それとも痛いところを突かれたのか。その両方かもしれないが、アジーネは押し黙った。
 気になってはいたのだ。妖精がいる森に、どうして屋敷があるのか。妖精が住んでいるわけでもないのに。
「俺たちが生まれるより遥か昔は――あんたたちも、人間と関わることが少しはあったんじゃないか」
 ただの憶測だ。証拠もない。けれども、なんとなくディーゼはそう思えた。希望的観測といわれればおしまいだが、そういったことがなければ、アジーネが父に期待した理由の説明がつかないから。
 アジーネは目をそらし、沈黙していた。それが答えであることも、何かに迷っていることも分かったが、ディーゼは口を挟まなかった。
 が、アジーネはまだ渋っている。
「昔と今は違うわ。人間は、わたくしたちを恐れているから自分からはやってこないというけれど、そんな保証だってない。実際にこの森へ来たらどうするつもり? さすがに何千、何万で攻められれば、わたくしだって無傷ではいられないわ」
「……」
 思わずディーゼは口を閉ざす。言うべき言葉がないわけではない。むしろ用意されていたかのように、頭の中に浮かんでいる。しかし、言葉にしてしまっていいのか。
 アジーネの話を聞いて感じた、考えたことがある。そしてこのままでは、きっと彼女は納得しない。
 覚悟を、決めなければ。
「……なら、俺が守る」
 は、とアジーネは口を半開きにさせる。心外なことに、ヘルマたちも同様だった。いや、相談もせず宣言したので当然の反応かもしれないが。
 だが、アジーネの話を聞いて、思ったのだ。
「俺は、ずっと親父に捨てられたと思ってた。けど、多分それは違くて……親父は、人間と妖精が争いを起こさないよう一人で努力してた。何も教えなかったのも、俺を巻き込まないようにしたんだろ」
 腹が立つ。当時のディーゼに具体的に何が出来たとは思わないが、それでも、一人で置いていかれた気がして。
 だから、追いつきたい。
「俺は親父の責任を取る。どうせ帰る場所があるわけでもない。親父が出来なかったことは、息子の俺がやり遂げる」
 本気の訴えに、アジーネは唖然としていた。この人間は何を言っているのだと、全身が語っている。
 だがそれでも、アジーネの表情が晴れることはない。
「つまり何かしら? 人間のあなたがここに居座ると? 図々しいにもほどがあるけれど、それ以前にあなた一人で何が出来るの?」
「一人じゃないわ」
 その時、アジーネの台詞を打ち消すように凛とした声が響いた。ハッとして振り返れば、強い眼差しを向けてくるヘルマがいる。
「わたしも無関係じゃないもの。ディーゼがその気なら、わたしも努力するわ」
「お嬢がやるんなら、俺様もやらねーわけにはいかねぇよな」
 傷の痛みは引いたのか、ゾノはいつの間にか立ち上がっていた。戦斧を逆さまに持ち、どん、と地面に突き立てている。
「まぁ、妖精には傷ついてほしくないし、彼女も悲しむだろうしね」
 木の壁に背中を預けながら、キストも口を開く。まだ疲労の色が濃く残っているが、その顔は清々しい。
「……不本意ではあるが、俺も貴様に手を貸そう」
 最後に素直でないことを言ったのは、もちろんシルヴァスだ。大方ヘルマがいるから仕方なく、といったところだろうが、それでもいい。
 胸が熱い。こんな感覚は、ヘルマたちと出会わなければ味わえなかったと思う。今し方の言動はディーゼの独断だというのに、彼女らは力になると言ってくれた。元々余所者であったはずの、自分に。
 満たされるような気持ちで、ディーゼはアジーネに向き直る。今はとりあえず、心の中だけでありがとうと、仲間たちに伝えながら。
「……」
 アジーネはじっとディーゼを注視し、黙っていた。それからヘルマたち全員に視線を動かし、小さく息を吐きだす。
「……では、こうしましょう。あなたたちは、人間の愚行を見つけ次第解決するための存在。わたくしたちはその見張り役。よって、この森に滞在させる」
 森に滞在。それは人間の住む地域よりも、妖精の住む森の中で目を光らせていた方が何かと有利だから、というのも含まれているかもしれない。けれど、それはつまり――。
 誰かが何かを言うより先に、アジーネはヘルマへと目を向けた。
「一人のヒト……何だか、目を覚まされた気分ね。思えばわたくしは……仲間を救うことを第一に考えていたはずなのに、誰かに命じるばかりで、仲間の命を傷つけてばかりだったのね……」
 人間に、妖精に、そしてこの空気に。ようやく大事なことに気がついたかのように、アジーネはしおらしく、でもはっきりと告げる。
「許してもらえるとは思ってないけれど、ごめんなさい。あなたにも……協力を、お願いします」
 その意味が分からないはずがない。ヘルマだって、シルヴァスたちだって同じだろう。
 体中が一気に熱くなり、今まで敵だったことも忘れて礼を述べようとした――瞬間。
 背中に柔らかい感触があって、ディーゼの思考が一瞬停止した。次いで甘い香りまで漂ってきて、状況が理解出来なくなる。
「――ありがと」
 正に、自分が言おうとしていた一言。
 耳元でそれを聞きながら、ディーゼはしばらく動けずにいた。



 〜エピローグ〜

 屋敷のバルコニーを、涼やかな風が通りすぎていく。まるで自分たちを励ましてくれているような、優しい風だった。
 あの日、妖精の主であるアジーネと向き合ってから、特に問題や事件は起きていない。今のところ、平和そのものの日々が続いていた。
「戻らなくていいの、ディーゼ? ここ結構寒いわよ」
 その時、話しかけてきたのはヘルマだった。ディーゼの隣に立つ彼女の肩には、犬だか狐だかの姿になっているシュララもいる。
 シュララがヘルマとともにいるのは、シュララの意思だった。アジーネは意外にもそれを認めてくれて、ずっとヘルマと一緒にいるのだ。
「あぁ、俺はいい。ヘルマこそ体は大丈夫なのか」
「えぇ、なんともないわ」
 そうか、と呟くと心地いい沈黙に包まれる。そのままなんとなく、お互い景色の向こうを見つめた。
 そうしていると、自然に目を閉じてしまう。暗闇の中、風に揺られ、頭の中がからっぽになっていく。
 けれど、そうするとどうしても思い出してしまう人物がいた。
 ――親父。
 今まではなんとも思っていなかった。捨てられたと思い込んでいたのだから、考えたくもないとさえ思っていた。
 でも、そうではなかったのかもしれない。気づかされると、なんともいえない気分になる。
 あの石も、ディーゼも安全と思える場所に置いていき、その後も父は一人で逃げ続けたのだろう。
 ……生きてくれて、いるのだろうか。
 答えなど分かりきっている。いくら剣の腕が立つ父でも、王宮の人間から、一生逃れることなんて不可能だ。あれから、月日もかなり過ぎている……。
 感傷的になってしまい、ゆっくりと目を開けようとしたディーゼは――不意打ちを喰らい、一気に見開いてしまった。
「え」
 自分でも間抜けだと思う声が出た。それくらい、意味が分からなかった。
 隣を見れば、勝ち気なヘルマの顔が飛び込んでくる。細められた紫水晶の瞳、いじらしくも美しい唇。
 そして、先ほど頬に触れてきた優しい感触……。
「な……っ、なに考えてんだばかっ」
 理解した途端、頭が沸騰してしまった。いくら否定したくても分かる。今のは――確実に、キスされた。
 が、ヘルマはあっけらかんとしたまま微笑んでいる。
「何って、今までのお礼のつもりよ」
「は……はぁ? そんなの口で言えばいいだろっ」
「だから口でしたじゃない」
「いやあんた本当になに言って……」
 もうわけが分からない。ディーゼは錯乱状態だというのに、ヘルマはにこにこしたままだ。
 頭痛がし始めた時――ふと、強烈な殺気を感じた。物凄く嫌な予感しかしないのだが、絶対に避けては通れない道のような気がする。とても悲しいことに。
 恐る恐る後ろを振り返って……やはり後悔した。
「き、さまっ……汚れた手で姫に触れるなっ!」
「う〜ん、ディーゼ君もはめを外したくなっちゃったかなぁ。……でも、殺しちゃうよ?」
「あーあー、可哀想に」
 ヘルマ至上主義の男三人組。一人はともかく、うち二人は生かして帰してくれそうにない。とても。
 恐らく、見られたのだろう。だが決して、ディーゼから触れたわけじゃないしはめを外したつもりもない。訴えたところで聞きやしないだろうが。
「あぁくそっ、なんとかしてくれヘルマ!」
 こういう時、三人を鎮められるのは彼女しかいない。
 なのに。ヘルマは機嫌よさそうに笑っているだけで、何もしようとしなかった。酷い裏切りにあった気分のまま、猛獣の如く襲いかかってきたシルヴァスとキストから逃れる。というかゾノも見守ってないで止めてほしい。
 罵声や武器を飛ばされながらも、それでも、彼らを本気で嫌いになれない自分はおかしいのかもしれない。
 ただ、彼らがそうするのはヘルマを想うがゆえ。そしてそのヘルマが笑顔でいられるなら、不思議とディーゼも笑顔になれる。理由は、分からないけれど。
 それに――こういう雰囲気は、自分は割と好きみたいだ。
 妖精の楽園。
 ここに来て、確かにその名の通りだったと、ディーゼは心から思うのだった。

 おわり  
カイリ
2012年08月04日(土) 13時57分53秒 公開
■この作品の著作権はカイリさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 初めまして、カイリと申します。
 本作は、どちらかというと少女向けのファンタジーとなっております。
 自分ではこれ以上問題点に気づけないため、突っ込みどころがあれば指摘していただければと思います。
 よろしくお願いします。

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