妖狐
 仲間数人でハイキング来たのだが、一人だけはぐれて道に迷ってしまった。低い山だと侮ったのがいけなかったのだろう。
 うろうろと歩き回ってすっかり方角も見失った。生憎の曇り空で日の落ちるのさえ気がつかなかった。
 そうこうするうちに足は棒の様になり歩く気力も萎えてしまった。
 途方に暮れた私は道端に腰を下ろしすっかり暗闇に沈む遠くの山並みを眺めていた。
 ふと気がつくと十歩かそこらの向こうで一匹の狐がすっくと立ち上がってこちらを見ていた。
 すっかり暮れ落ちているにも関わらず、狐色の毛並みがまるで光を放っている様に鮮やかだった。
 どれくらい見詰め合っていただろう。
 やがて狐は『付いて来い』とでも云う様に踵を返して数歩遠ざかった。
 私が思わず立ち上がると狐は一度立ち止まり、振り返って私を見ると又、前を向いて歩きだした。
 私はこれが狐に化かされる、という事かと訝しがりながらも、好奇心には抗うことは出来ずにとぼとぼと狐の後ろを付いて行った。
 狐は度々振り返っては、私が居るのを確認して又歩くのだった。その表情には喜怒哀楽と云う様なものは見受けられないが私には満足そうな顔をしている様に思えた。
 初めは気がつかなったが、狐の白い尻尾の先がほんのりと明るく灯っており、私の足下を照らしている。道理でこの暗闇の中でも石ころに躓いたりしない筈だと一人で合点がいった。
 しかし、これはいよいよ化かされたな、という思いも益々強くなった。
 随分歩いたような気もするし、さして歩いていないような気もする。私はすっかり足の痛みも忘れて雪洞の様な狐の尻尾に魅入られていた。
 やがて狐が歩みを止めると、そこは少しの地面の開けた場所であった。
 狐はそこで、最初に見た様にすっくと立ち私をじっと見詰めている。私も狐の目をじっと見詰め返した。
 これは暫く動きそうも無い、と私は思い丁度手頃な岩が在ったのでそこに腰掛けた。
 すると狐はやっと納得が行ったのか、その場でぐるぐると廻り歩いたと思うとひょんと蜻蛉を切って人間の少女に化けた。
 丈の短い赤い着物や髪形は随分と昔の出で立ちの様にも思えたが、ちょこりとお辞儀をする仕草が愛らしく、我知らず笑みさえ浮かべる始末であった。
 少女は私の顔をちらと窺うと、手近な石ころを二つ三つ程拾い上げてお手玉を始めた。
 はじめは小さく投げていた石を段々と高く放り上げると石はやがて少し大きな赤い玉に変った。
 私は思わず手を叩いて笑う。
 少女は気を好くしたのか、赤い玉を更に高く放るとその場でくるりとターンしてから見事に赤い玉を捕まえて又宙に投げた。
 私が更に歓んで手を叩くと、少女もにっこりと微笑んでから、赤い玉をもう少し高く投げ上げた。
 すると、今度は赤い玉は太鼓のバチよりもやや長い程の白い棒に変った。
 白い棒がくるくると回転しながら宙を舞う様はいつかテレビで観た事があるサーカスか何かのショーの様であった。
 私が感心して観ていると白い棒は黄色い輪になったり、又赤い玉に戻ったり、数が増えたりもして、随分私を楽しませた。
 そうして一度に何十個もの玉を放り投げて全て掴み取ると、一瞬の内に両手からは玉が消え、少女は控えめに両手を拡げて私に挨拶をよこした。
 私は楽しくなって手が痛くなるほどに拍手を送った。
 少女は何度もお辞儀をすると、やがてするすると私に近づいてきて片手を差し出した。
「おじさん。楽しかったならご褒美を頂戴な」
 少女は少し吊り目で黒目がちの円らな瞳をきゅうっと瞑って見せる。
 私はそこで我に返った。
「いや、私はご褒美なんて何も用意していないぞ」
 口から出た言葉は僅かに震えていた。
「そんな筈はないわ。あたしは知ってるもの。おじさんは確かに持っている筈」
 少女の目が更に吊り上る。
 私は狐が人を化かす時には何を奪うのだったかと、いろいろと考えてみた。
 魂を奪うのか、心臓を喰らうのか、或いは尻子玉だったか、等と要らぬ想像が廻りだす。
「嫌ねぇ。尻子玉は河童でしょ」
 声に出してもいない考えに応えられて私は心臓が飛びだす程に驚いた。
「大丈夫よ。別に食べたりしないから。あたしが欲しいのはその背中の袋に入ったちょこれーと。さっきから甘い匂いがぷんぷんしてるわ。隠したってダメよ」
 狐はそうして顔を近づけてくる。いつの間にかその顔は大人の女に変っていた。
 確かに手付かずの板チョコがリュックの中に入っていた。
 チョコレートが欲しいとは変った狐だ、と私は思った。
 充分に楽しませてもらったし、チョコレートくらいくれてやっても良いかとも思ったが、何か腑に落ちないものがあり考えて見た。
 チョコレートは登山用の非常食も兼ねていた。このまま幾日も山から下りられなかったらと考えると、一枚の板チョコと水筒の水は私の命綱とも言えるかも知れない。
 もしかすると狐はそうやって私の体力が失われて行くのを見越しているのではないだろうか。
「いや、チョコレートは駄目だ。何か他の品物ではどうだろう。例えばこの双眼鏡は?」
 私はリュックから安物の双眼鏡を取り出して見せた。
「要らないわ。家に帰れば拾ったものが幾つもあるもの」
「じゃあこれは」
 私は小さな折り畳み傘を取り出して拡げて見せた。それとは別にカッパを持っているので、この後雨が降っても困る事は無い。
「狐はこうもり傘は差さないの。蛇の目の綺麗なのなら貰っても良いけど。それより今はちょこれーとよ。あたしはちょこが大好きなの」
 一瞬女の目に赤い炎が見えた気がした。
「いや、しかし――」
「折角良いものを見せたのに、ちょこもくれないなんて。化かして殺して奪ったって善かったのに……」
 それを聞いて私は縮み上がった。
「いやそれだけはご勘弁を。チョコレートは差し上げますから、命ばかりはお助け下さい」
 私はリュックから板チョコを出し、両手に持って捧げた。
「あら。本当にくれるのね。全部貰っても良いの?」
 嬉しそうに呟く女は一層妖艶な笑みを浮かべた。
「はい。もう、これ全部差し上げます。なんなら今度来た時にはもっと沢山。油揚げも付けますから」
「油揚げは要らない。間に合ってるから」
 狐女は私からチョコレートを取り上げると、楽しそうに包み紙を剥がしてチョコレートを割り小さな欠片を口に放り込んだ。
「やっぱりちょこれーとは美味しいわ。このちょこは特に美味しい気がする。これって特別なのかしら?」
 確かにそれは戴き物の舶来の品だった。
「ええ、戴き物なのでなかなか自分では買えないものです」
 それを聞くと狐は少し寂しそうに俯いた。いつの間にかまた少女の顔に戻っている。
「そうなの。でも仕方ないわね。じゃあこの一枚を大事に食べる事にする」
 狐女は私をみて微笑んだ。
「そうそう、貴方は道に迷ったんでしょ? ちょこれーとのお礼に麓まで送って行ってあげる」
 そう言うと元の狐の姿に戻りすたすたと歩きはじめた。
 私は慌ててその後を追った。
 私は歩きながら考えた。送ってくれるならそれだけでチョコレートの一枚や二枚少しも惜しくは無かったのに。
 狐は今は私の心を読む気は無いのか素知らぬ振りで歩き続けるばかりである。
 やがて麓が近づくと人里の灯りが段々近くに見えてきた。
 狐はひょんと飛び上がって蜻蛉を切るとまたまた先程の少女の姿になった。
「ここまで来ればもう平気ね。道は一本だから。あたしはこれで家に帰るわ。じゃあ」
 どうやら人の姿でないと人の言葉は喋れないらしい。
 そう云って背中を向けると既にその姿は狐に戻っていた。
 私はじゃあ、と声を掛けると麓へ向かって急ぎ足になった。
 登山口には多くの人が集まっていた。一緒に来た仲間も安心した様な顔で私を迎えてくれた。
 どうやら私が行方不明になっていたらしい。らしいも何も本当に遭難しかけていたのだが。
 私が狐に助けてもらった話しをすると、地元の老人が笑いだした。
「あんた狐にからかわれたね。そもそも此の山は道が綺麗に整備されとるし、道標も多い。そりゃああんた。道に迷った時点で狐に化かされておったんじゃ。
 この山の狐は昔から悪戯好きでの。困ったもんじゃ」
 私は何故か急に恥ずかしくなって、命拾いをした悦びもすっかり萎れてしまった。


 おわり
G3
2012年06月13日(水) 22時36分35秒 公開
■この作品の著作権はG3さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
枯れ木も山のにぎわい。

ごぶさたしてます。

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No.11  G3  評価:--点  ■2012-09-16 23:38  ID:v1oYWlDv7GQ
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脳舞さん、ありがとうございました。放置しててスミマセン。
もう少し前に気がついていたのですが、打たれ弱い体質で少し寝込んでいました。
犬にチョコはダメだったのですね。ネギがダメなのは知っていましたが、チョコは存じませんでした。原文の方は何か違うものに変えたいと思います。
妖力を得たから平気になった、とかじゃダメですよね。。。
もっと自分に厳しくしなきゃかなぁ、と反省するしかないですね。
そして性懲りも無く新しいのを載せてしまったので、よろしければそちらもよろしくです。
No.10  脳舞  評価:20点  ■2012-07-22 20:50  ID:vbFRuyuhwTI
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 読ませて頂きました。お久し振りです。
 キツネってイヌ科だからチョコレートはまずいんじゃないかなあ、てんかんとか起こしちゃうんじゃ……と話の本筋と関係ないことを気にしてしまう私です。
 まあ、チョコレートでひっくり返っちゃうキツネのお話も面白いかも知れませんが。

 閑話休題。
 意外性はまったくと言って良い程にないお話だと思いますが、キツネが可愛らしいのでついつい読んでしまいますね。
 ゆうすけさんと同じことになってしまいますが、G3さんの過去作品をいくつも読んだことのある身としてはもっとデキる人だったような印象があって、おや、と首を傾げてしまったり。毒にも薬にもならないと言えば幾分か言葉は悪いですが、点数の評価通り「うん、普通」と言わざるを得ないようにも。
 決して悪くはないのですが、G3さん作という事前情報が妙に足を引っ張ってしまっていて。途中で読むのを止めようとは思わないのですが、数作品まとめて読んだ中にもしこれがあったら多分読んだことを忘れてしまいそうな印象です。起承転結の「転」が少し寂しいのかも知れません。
 なんて言いつつも、童話っぽい話を書いてみようかなあなんて引っ張られそうな自分がいます。最後まで読んじゃったので私の負けです。
No.9  G3  評価:--点  ■2012-06-29 23:35  ID:v1oYWlDv7GQ
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ゆうすけ様 ありがとうございました。
 狐少女、気に入ってくれて嬉しいです。その割りに評価は厳し目ですが(ToT) 彼女は人間ではないので、どこか人間とは違う倫理観を持っている様です。
 というか、私って以前ははじけてたんでしょうか? なんだかこの頃記憶も曖昧であります。では、この次はもう少し捩れたモノを出せる様にしたいと思います。

青山 天音様 ありがとうございました。
 遠野物語――柳田国男氏のモノが積読に入っていますが、いつ読むのかわからないです。
 ともあれ、狐と少女とがリアルに感じて頂けたのなら良かったです。個人的には狐の体毛や尻尾の質感なんかが表現できたら良かったなぁと感じています。
 又、彼女(実は元の狐が雌だったとは限定してませんが)がチョコレート好きなのは、山登りする人が持っていそうな食べものであるのと、女の子が好きそうなもの、という単純な理由で決めました。基本的には何でも良かったのですが。

 またよろしくお願いいたします。
No.8  青山 天音  評価:30点  ■2012-06-26 21:29  ID:i1YITvLeLvw
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青山 天音と申します。
読ませていただきました。なんというか、『遠野物語』を思い出しました。
思い出話のようなかたり口調でとても読みやすかったです。
狐の描写がとてもリアルで少女に化けたときのキャラクターも魅力でその両方の在り様がきちんと描き分けられており、こういった狐が本当に居るような気がしました。
少女に化けた狐のキャラクターが「ちょこれーと」に執着する辺りが人外の存在でありながらとてもかわいらしく描かれていて好感が持てました。
No.7  ゆうすけ  評価:20点  ■2012-06-23 17:04  ID:dZDA6s9Jnbw
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お久しぶりです。枯れ木も山のにぎわい要員のゆうすけです。

狐少女のかわいらしさがいいですね。残忍さとお茶目さの同居ですね。
さて、旧旧旧サイトからG3さんの作品を読んだことのある私としては、もう一ひねり期待してしまいます。毎度勝手に期待しちゃって申し訳ないんですけど、もっとはじけたものを読ませていただいた記憶があるので。
狐少女に惚れてしまうとか、狐少女に惚れられてしまって勝手に嫁に来られてその日は晴れなのに雨でこれがほんとの狐の嫁入りだとか。
ではまた。
No.6  G3  評価:--点  ■2012-06-22 23:45  ID:v1oYWlDv7GQ
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相馬様 いつもありがとうございます。
毎度ながら励まされます。本人は意外と童話とかは意識していなくて、書いていたらこうなってしまった、という結果です。ちょっと前に内田百閧フ「冥途」という短編集を読んだのですが、その中に「短夜」という狐に化かされる話しがあって、そんな感じで狐に化かされる話しを書こうとした訳でこんな文章になってしまったのですが、結局はトホホな自分のカラーは拭えませんでした。
しかし客観的に見るとこの狐少女はなかなか可愛いいので、これはこれで良いのかなとも思ったりします。
また何か書けたらUPしますのでその節はよろしくお願いします。

白星奏夜様 ありがとうございます。
好きと云って頂けて非常に嬉しいです。本当はちょっと恐いというか妖しい感じにしたかったのですが、自分には難しかった様です。結果的にはこんな狐なら化かされても良さそうですが、実は必要なら人間を殺す事に躊躇は無いという性格にしたつもりです。その辺の感覚のズレの様なものがもっと解り易いと面白いかと思うのですが、なかなか難しいです。

できれば、そう遠くないうちに又UPしたいと思います。
No.5  白星奏夜  評価:30点  ■2012-06-19 22:15  ID:ZnM0IRCgEXc
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こんばんは、白星と申します。

とても好きなお話し、でした。狐が憎めなくて、良い味を出しているように感じました。ちょっと化かされてみたいかも、と思ってしまったり。

油揚げは要らない。間に合ってるから
このセリフが、とても笑えて、気に入りました。あ、間に合っているのね。みたいなとても良い心地よさがありました。
チョコレートが好きになった理由も、きっと可愛らしいというか、素敵な理由があるのでしょう。勝手にそう想像してしまいました。
楽しい一時を、ありがとうございました。
失礼致します、ではでは。
No.4  相馬  評価:40点  ■2012-06-18 21:59  ID:nq40zp5acOM
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 拝読しました。
 
 挿絵が欲しいなと思うくらいの童話っぷりが良かったと思うのですが。それならそれで「訝しながら」や「悦び」は言い回しを考えたほうが良かったんじゃないですかね。
 そう訳で無いのなら「一人で合点がいった」よりも「独りごちた」のほうがしっくりする気もしますが、口に出していない以上「合点」でも合ってるような……気になった程度です。

 チョコをもらうが為に大道芸じみた事を見せて上げる狐少女が妙に可愛かったり、んー、やっぱり挿絵が欲しいところですね。

 主人公はこの奇妙な体験をもうちょっと貴重なものだと回顧すれば(ハッピーエンド志向的には)良かったかなぁ、なんて思う次第です。

 楽しい作品でした。次回作も(本当に勝手ながら)期待しています。
No.3  G3  評価:--点  ■2012-06-17 23:49  ID:v1oYWlDv7GQ
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さかさき様 ありがとうございます。
 昔はあまり文章の事は気にしなかったのですが、段々欲が出てくると少しは気を使うようになるようです。その代わりに書くのがすっかり遅くなりました。恐そうに見えてお茶目、みたいに書きたかったのですが、あまり恐くは無かったですね。

ウィル様 ありがとうございます。
 もっと昔話風にしようかとも思ったのですが、現代の方が書きやすかったので、ちょっと中途半端かもしれません。 キツネにチョコは・・・やっぱりいけないんでしょうね。

 またよろしくお願いいたします。
No.2  ウィル  評価:30点  ■2012-06-15 01:04  ID:yqFASJqAhJQ
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拝読しました。
とても読みやすく、最後まですらすら読めました。
民話と童話の間くらいで、子供から大人まで楽しく読めそうです。

キツネにチョコ、チョコレート中毒にならないか心配ですね
No.1  さかさき  評価:30点  ■2012-06-14 18:54  ID:PYzYlhHjl7Y
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読みました。

文章の書き方が凄く好みで読みやすかったです。
チョコレートが欲しいと言う狐のお茶目さが
童話っぽくてなかなか可愛らしいですね。
最後のオチも気持ちよく読み終えられた感がありました。
総レス数 11  合計 200

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