火の国より来たる者


 里のはての岩壁には、ぽっかりと空いた穴がある。
 さして大きなものではない。大人なら、少し身を屈めなければくぐれないほどのものだ。あらゆる光を吸い込むような、黒々とした穴。その先は、暗闇の路へと続いている。
 そこへ足を踏み入れることは、禁じられている。例外はふたつ。男たちが銀を掘りにゆくときと、葬儀のときだ。
 暗闇の路のなかばには、死者の川がある。
 轟々と音を立てて流れる、冷たい川だ。人が死ねば、なきがらはそこに投げ込まれる。
 死者は川をどこまでも下ってゆき、やがては水底の国にたどりつく。彼らはそこで、永遠の眠りにつくといわれている。
 暗闇の路は、死そのもののような、深い静寂に包まれている。それでいて闇の中には、驚くほど多くのものが息をひそめている。音を立てずに地を這う、目のない蛇。毒をもつ蜘蛛。それから、川を下りそこねた亡霊たち。
 道すじはひどく入り組んでいて、そこで上げた声は、響く端からほうぼうに跳ね返って、耳を惑わす。ひとたび迷えば、けして無事に戻ってはこられない。
 けれど、その長く危険に満ちた路を、どこまでもたがわずに正しく辿ることができたならば、その先ははるか彼方の地、天上にあるもうひとつの世界へと続いている。
 火の国。
 その大地は、燃え盛る炎に包まれているという。


    1

「今日からサフィドラの月になるのね」
 その日の早朝、母さんが感慨深げにそういったのを、よく覚えている。部屋の中にまでほのかに霞のかかる、しっとりと涼しい朝だった。
 その言葉を聞いたわたしは、ちっともいうことを聞かない縫い針から視線を上げて、母さんの顔を見上げた。母さんは、近頃とみに白髪の増えた頭をかしげて、わたしの手元をのぞきこんでいた。
「年があらたまるのをいい機会と思って、お前もそろそろひとつ、何か大きなものを仕上げてはどうかしらね」
 母さんの声は、心配げな色を帯びていた。もう少し針が上達しないことには、嫁いだ先で困ることになりますよというのが、そのころの母さんの口癖だった。
 けれどわたしはそのとき、ほかのことに気を取られていた。サフィドラの月という、聞きなれたはずの、けれどいつ聞いても不思議な響きのする名前のほうに。
 サフィドラ、レヴェ、ルークス、エオン、ヤクシェ、イディス、ユヴ……。ぜんぶで十七ある月の名前は、どれもきれいだけれど、音の響きがよいという以外に、意味があるようには思えない。そういうものだと思っていたけれど、考えてもみれば、そんなにたくさんの名前で暦を呼び分ける必要なんて、どこにあるのだろう。
 ようやく言葉を覚え始めたばかりの幼い子どもらには、一の月二の月と、数字で暦を教えるくせに、彼らが少し大きくなると、今度は正式な長い名前で覚えなおさせる。わざわざそんなことをする意味が、どこにあるのだろう。
「ねえ。月の名前って、なにか意味があるの」
 母さんはすぐに答えず、日々の仕事に荒れた指先で、そっと額を押さえた。叱りつけたいのをこらえるときの、母さんのくせだ。
「さあ、どうかしら。もともとは星の名前からとられたと、導師が仰っていたと思うけれど」
 ずいぶん前に聞いたことだから、忘れてしまったわ。母さんはそんなふうにいって、小さく首をすくめた。
「星って、なあに」
「さあ、何かしら。難しいお話は、母さんにはわかりませんよ」
 それよりも、と母さんが厳しい顔をしたので、てっきりお説教が続くものと思って、わたしは首をちぢめた。けれどそうではなかった。母さんはゆっくりと、噛み含めるようにいった。
「わかっていると思うけれど、今日は火の国の使者さま方がお見えになる日ですよ。続きは裁縫室でなさい」
 はい、と返事はしたけれど、いわれるまでわたしはほとんどそのことを忘れかけていた。あわてて裁縫道具を抱え込んで立ち上がると、母さんがまたため息をつきかけて、飲み込んだ。


 姉さんたちはみんなしっかりしているのに、あなただけ、いつまでも小さい子どものままみたいね。そんなふうに、何度ため息をつかれたことだろう。そのたびに首を縮めて、お説教をやり過ごしながら、わたしは実のところ、ちっとも反省していなかった。母さんも、姉さんたちも、みなでよってたかってわたしを子ども扱いするのだから、いつまでも子どもっぽいのは当たり前だ。
 ヒカリゴケに淡く照らし出される通路ヤァタ・ウイラを歩きながら、わたしはそのとき、まだ月の名前のことを考えていた。
 星、とは何のことだろう。
 小さいころから、一度なにかを気にしだすと、答えを知るまでずっと気になり続ける性質だった。ソトゥの月だけがほかの月の半分ほどの日数しかないのはなぜだろう。どうして日が経つことを、月が満ちるというのだろう。ひとたび気になりだすと、疑問は次から次へと湧き出してくる。わたしはこのとき、暦に秘められた謎に、すっかり夢中だった。
 長い通路の先には、裁縫室がある。姉さんたちはすでにそちらに行って、縫い物なり、糸紡ぎなりに、精を出しているはずだった。
 けれどわたしはその手前の、勉強室の前で足を止めた。母さんは、裁縫室で縫い物の続きをやるようにといったけれど、要は邸の奥に大人しくひっこんでいさえすれば、それでいいのだ。
 サフィドラの月の頭から三日間、この邸に暮らす未婚の娘たちはみな、奥の部屋に篭もらなくてはならない。表のほうの部屋には、使者の方々をお泊めするからだ。
 母さんたちは、導師のご指示を仰いで忙しく立ち働いている。男の人たちは今年の荷をあらためて、火の国よりもたらされた物珍しい品々に、目を輝かせているころだろう。わたしたちだけが、にぎやかな表から切り離されている。わたしにはそんなふうに思えてならなかった。
 使者はいつも、男のひとたちばかりのようだった。女性の使者さまはいらっしゃらないのですかと、導師に訊いてみたことがある。もし許されるものなら、火の国の話を聴いてみたいと思ったのだ。
 ――さて。女性にょしょうの使者は、すくなくとも私がこのお役目についてからは、お見かけしたことがないが。
 わたしががっかりして肩を落とすと、導師は困ったように微笑んで、ゆっくりと仰った。
 ――火の国からこの里へいたる道のりは、とてもけわしく恐ろしいものだというから、たとえ火の国の御方といっても、女性の足で通り抜けるのは、難しいのではないかな。
 いわれてみれば、もっともな話だった。いつだって導師はそんなふうに、わたしの考えの足りないところを、やんわりと気付かせてくださる。
 導師はお優しい。教えを請えば、たいていのことは詳しく答えてくださる。月の名前のことも、お訊ねすれば、教えてくださるだろうけれど……。
 垂れ布をくぐって勉強室に入ると、立ち並ぶ書架が、持ってきた手燭のあかりに淡く照らし出された。この部屋だけの、独特のにおいが鼻をくすぐる。古びた紙とインク、それから埃のにおい。
 誰もいない勉強室は、静かだった。
 奥の裁縫室からは、ときおりはしゃいだ高い声が漏れ聞こえてきていた。自分もそちらにいって姉さんたちの話に混じろうかと、思わなかったわけではない。けれどわたしはそうしなかった。ひとりでいるのが好きなわけではない。だけど、お裁縫はもううんざりだった。向かないのだ。
 昔からずっとそうだった。まわりの娘たちと違うものに興味を惹かれ、皆が喜ぶものにはあまり関心を持てない。べつに意地を張ってそうしていたわけでもないのだけれど、自然といつもそうなった。
 皆がわたしのことを変わり者だと思っているのは、知っていた。わたしのそういうところが母さんを心配させているのも、わかっていた。けれどそれでも、好きではないものを好きだということが、わたしにはどうしても耐え難かった。
 わたしはため息を飲み込んで、奥の書架に向かった。
 目に付いた本を取り出すと、それはずしりと手に重かった。その列の書架には、とくに古い書物が集めてある。表紙に張られた布は、端がほつれてしまっていた。綴じ糸もすでにもろくなって、雑に扱えば、ばらばらになってしまいそうだった。
 机まで運んで、明かりのそばでそっと表紙を開くと、中のページに記された文字は、すでに古び、薄れかかっていた。そろそろ写本をつくるべき時期にさしかかっているようだった。
 わたしは以前から、導師が古い本を書き写されるのを手伝っていた。裁縫は苦手だけれど、読み書きならば、姉さんたちの誰よりも上手にできる。けれど母さんは、それをあまりいいことだとは考えていないようだった。
 いずれお嫁にいってしまえば、本など読むこともないのよと、母さんはいう。それが本当なら、嫁ぐというのは、なんてつまらないことなのだろう。
 書物に記されているのは、古い叙事詩のようだった。在りし日、族長イグラン――というように、そのつづりは読めた――が、無用のいくさに明け暮れるあまりに、とうとう神々の怒りに触れて、水という水を奪われてしまった。渇きのために苦しむ一族に、ひと柱の美しい女神が心を痛め、天より降り立った。女神は道を示し、わたしたちの祖先を新たな地へ導いた。この豊かな水の溢れる楽園、エルトーハ・ファティスへと。
 本の中には、その長く苦難に満ちた旅のことが、活き活きと綴られていた。
 それは、いつか耳にしたことのある物語だった。母さんが寝物語に聞かせてくれたのではなかっただろうか。
 けれど、記憶の中の話とは、細部がかなり違っていた。それに母さんの語った内容は、この書物のように詳しくはなかったと思う。己の過ちを悔いながら、民を率いて道を切り拓く族長の、人間的な苦悩に満ちたようす。それに、巫女の口をとおして語られる女神の託宣の、謎めいた、神秘的な響き……。
 読みながら、わたしは何度もため息を漏らした。母さんは子ども向けに話して聞かせるために、話の難解なところをすべて省いてしまったのだろうか?
 その書物のなかには、知らない言葉がたくさん出てきた。わからないところでは手を止めて、その単語をそっと指でなぞり、不思議な響きの音から自分なりの(きっとそのいくらかはとんだ見当はずれの)想像をめぐらせながら、わたしは夢中になってそれを読んだ。
 読み終えていっときの間、わたしの心は古代の英雄たちの姿から離れることができなかった。
 時がたって興奮がいくらかしずまると、今度は嵐のような疑問が押し寄せてきた。これは何百年前の話なのだろうか。この地が、苦難の果てにようよう見出された楽園だというのなら、その前にわたしたちの祖先が住んでいた場所は、どのようなところだったのだろう。神々に水を奪われる前の、その土地は。
 少なくともここより、ずっと厳しい土地だったのだろう。深い暗闇にうち沈む、寒々しいところだろうか? それとも話に聞く火の国のように、灼熱の土地なのだろうか。あるいは水を奪われるその前には、こことよく似た土地だったのだろうか。
 導師にお訊きしてみたいと思ったけれど、この三日間は、勉強室にお見えにはならないだろう。使者の方々をもてなすのに、お忙しいはずだから。自分が入ってきたほうと反対側、ト・ウイラへ続く戸口をちらりと見て、わたしはため息をついた。
 奥の裁縫室のほうで、誰かが歌っているのが、かすかに響いていた。耳を澄ませば、それは一番上の姉さんの声だった。

 ――愛しいひとの名を呼んで、
   乙女は駆ける、暗闇の路を。

 それは、古い恋歌だった。
 炎の乙女の歌。火の国からの使者に恋をした乙女が、帰りゆく使者のあとを追いかけて、越えてはならぬ火の国との境を、とうとう踏み越えてしまう。そして乙女は炎に焼かれ……。
 その歌が、わたしは昔から好きになれなかった。正直にいえば、悲しいばかりで、辛気臭い歌だと思っていた。どうせ歌うのなら、もっと楽しい歌がいい。
 対抗しようと思ったわけではないけれど、つい、ちがう歌を口ずさんでいた。豊穣の歌。豊かな実りを大地の女神に感謝する歌だ。
 それは本当ならば、女が歌うようなものではないのだけれど、ときおり男のひとたちの畑のほうから聞こえてくるのを、耳で覚えていた。その喜びにあふれた力づよい音律が、わたしはとても好きだった。
 誰かの足音が、近づいてきた。それでもわたしは、歌を止めはしなかった。母さんたちか、姉さんたちの誰かだろうと思ったので。
 けれど、その予想は裏切られた。
「――いい声だな」
 心臓が、止まるかと思った。
 あろうことか、それは、男のひとの声だった。いまこのとき、この場所に、導師以外の男のひとが、いるはずがないというのに。それどころか声は、ヤァタ・ウイラから聞こえた。女たちしか使ってはならないはずの通路から!
 声の主は戸口のそば、ほとんど垂れ布のすぐ向こうから、話しかけてきたようだった。布に、うっすらと人影がうつっているのが見えた。
「もう、歌わないのか」
 不思議そうに、通路の声はいった。低く、語尾のやわらかい、不思議な響きの声だった。
「すまない。邪魔をしただろうか」
「いえ……」
 ようやく、どうにか喉から声を絞り出すことができた。声の礼儀正しい響きからは、少なくとも悪い人ではなさそうだと思えて、それでいくらか、わたしは落ち着きを取り戻した。
 そちらがわの通路は、ヤァタ・ウイラですよと、そう声の主に教えようと思った。けれど口が勝手に、違うことをいっていた。
「もしかして、火の国からの使者さま?」
 訊いてしまってから、考えが言葉に追いついた。それ以外に考えられることがあるだろうか?
 男のひとの言葉には、あまり聞かないような古風ないいまわしが混じっていたし、それに抑揚や声の響きも、どこか変わっていた。第一、里の男で知らずにヤァタ・ウイラに闖入するものなど、いるはずがない。
 そうと知っていてわざと入り込んだ狼藉者の話ならば、耳にしたことはあるけれど、それにしては声の主は礼儀正しかったし、なによりここは、導師のお邸なのだ。使者のいらっしゃるこの大切な時期に、それほど愚かなことをする男がいるとは考えづらかった。いたずら盛りの子どもならともかく、声は、大人の男のひとのものだった。
「ああ……いや、そうだな。お前たちが、火の国と呼ぶ場所から、荷を運んできた」
 ああ、なんていうことだろう! 使者さまとお話しができるなんて。わたしは小走りに戸口のほうへと駆け寄った。
 気分が高揚していた。母さんや導師に知られれば、ひどく怒られるだろう。わかってはいたけれど、そんな心配よりも好奇心のほうが勝った。
「今日の早朝に、ようやく着いたところだ。ほかの者は皆、まだ休んでいる。……ひとり早々に目が覚めたはいいが、ここの暗さに惑わされて、どうやら道に迷ってしまったようだ」
 弁明する声は、とてもまじめな調子だった。それがどうにも可笑しくて、わたしは小さく吹き出した。
「いやだ、お邸の中で迷うなんて」
 そういってから、慌てた。あまりに無礼な口のききようだっただろうか。とても偉い方なのだということは知っていたけれど、そうといって、使者にどんなふうに礼を尽くすべきかなんてことは、誰からも教わらなかった。それも当然のことだ。わたしたちは、使者にお会いすることそのものを、厳しく禁じられているのだから。
 けれど、使者はわたしの無礼を咎めるふうでもなく、ただ困惑したように呟いた。
「ここは邸の中、なのか」
 何を不思議に思っていらっしゃるのだろう。わたしはちょっと首をかしげた。火の国では、お邸というのはもっと立派なものなのかもしれない。
「いや、すまない。妙なことをいうと思っただろう。……邪魔をしてすまなかったな」
 使者が立ち去ろうとする気配を感じて、わたしはあわてた。こんな機会、もうあるとは思えなかった。とっさに垂れ布の近くまで駆け寄っていた。
「ねえ、火の国のお話を、聞かせてくださらない?」
 そう口に出してしまってから、わたしはうろたえた。相手は家族でもなければ、導師のようなお爺さんでもない、大人の男の人なのだ。
「あの、わたし……その」
 なにか言い訳をしなければならないと、そう思うのだけれど、焦るとよけいに言葉が出てこなかった。少しして、垂れ布にうつる影が揺れた。
「どうした」
 うながされて、わたしは恥じ入りながら、小声でたずねた。
「その、はしたないと思う?」
 訊きながら、いたたまれなかった。垂れ布の向こうから、使者が喉の奥で笑うのが聞こえた。
「お前はまだ、子どもだろう」
 とっさに反論できなくて、わたしは口を開閉させた。
 たしかにわたしは歳のわりに幼いと、姉たちからも母さんからも、口癖のようにいわれている。自分でもちょっとそう思うふしはある。けれどいくらなんでも、男の人に話しかけて、子どもだからと笑って済ませてもらえるような年ではない。
 けれど、そう誤解してもらえるのなら、わたしにとっても都合のいいことではあった。憮然として、わたしは答えた。「そういうことにしておくわ」
 使者が、今度は声を立てて笑うのが聞こえた。こっそりふくれながら、わたしはその場に座り込んだ。
「地上の、どんな話を?」
 使者はどうやら、子どものわがままにつきあってくれるつもりになったようだった。面白がるようにそう囁く声は、けれど、意地悪そうではなかった。
 わたしは気をとりなおして、顔を上げた。訊きたいことは、いくらでもあった。火の国の人たちは、どんな姿をしているのか。いつもたくさん運んでくる、あの不思議な品々は、だれがどうやって作っているのか。火の国をつねに覆っているという炎に焼かれても、ちっとも熱いと感じないのか。どれくらいの数の人がいて、どんな暮らしを送っているのか……。
「火の国のことを、あなたがたはなんというの?」
 まっさきに口から飛び出したのは、そんな疑問だった。
 使者はさっき、お前たちが火の国と呼ぶ、という言い回しをした。ならば、彼らは自分たちの国を、ほかの名で呼んでいるのだ。
「俺たちの町は、ファナ・イビタルという。中央砂漠にある、大きく美しい、オアシスの町だ」
 いいながら、使者は少し口ごもったようだった。わたしが話を理解できないでいる気配が、沈黙に乗って伝わったのかもしれない。
「オアシス、という言葉はわかるだろうか。砂漠は?」
「いいえ。それは、どんなもの?」
 使者は少し、言葉をさがすような沈黙を落とした。それからゆっくりと説明を足した。
「ここと違って、地上はとても暑く、ひどく乾いているのだ。見渡すかぎり、焼けた赤い岩の大地か、そうでなければ、乾いた砂を敷き詰めたような地面が広がっている。その中にときおり、水の湧く場所がある。その水場のことを、オアシスと呼ぶ。そうした水のそばに、人が集まって暮らしている」
 使者はいったん言葉を切った。それから、わたしの頭に砂漠の情景が沁みるのを待つような間をおいて、続けた。
「それらの中でもっとも美しく、とびきり豊かなオアシスが、ファナ・イビタルだ」
 声は全体に落ち着き払っていたけれど、そのことを口にしたときだけ、子どものように、自慢げに弾んだ。
 地上、という言葉にはなじみがなかったけれど、きっと火の国のある場所のことなのだろう。それよりも、火の国の人も水がなければ渇くのかと、わたしはそのことに驚いた。
 灼熱の大地で暮らすことができるのは、かの国の人々が、けして炎に焼かれることのない、特別な肌を持っているからだと教わっていた。それなのに、水がなければ生きてはゆかれないのだと思うと、それはとても、不思議なことのような気がした。
 ファナ・イビタル。口の中で、そのきれいな響きの音を転がすと、それは神々の住まう天のどこかではなく、生きた人の暮らす里なのだという感じがした。
 その考えは、わたしに先ほどの本を思いださせた。母さんの話ではいかにも英雄然として、神々の眷属のようにしか思われなかった人物が、書物の中では活き活きとした、ひとりの人間として描かれている……
「ここのように水の豊かな土地は、地上ではとても珍しい。羨ましいことだ」
 そう囁いた使者の声には、憧れるような響きがあった。その声音が、言葉の内容よりもなお雄弁に、遥かな土地の乾いた風を、わたしに想起させた。
「火の国は、とても遠いところだと教わったわ。どれくらい遠いの?」
「ああ、そうだな。地上までは一日も歩けば着くが、ファナ・イビタルへは、そこからさらにひと月ほどだ」
 ひと月! わたしは自分の耳を疑った。それがどれほどの距離なのか、見当もつかなかった。試したことはないけれど、里の端から端まで歩いても、二日もかからないだろう。
 わたしがあんまり驚いていたからだろう、使者は笑って付け足した。「途中のオアシスに立ち寄りながらの旅だ。ひと月のあいだ、ずっと歩き詰めというわけではない」
 それにしたって、途方もない話だった。それに、荷のこともある。使者とお話しするのはこのときがはじめてのことだったけれど、火の国から運ばれてきた荷ならば、わたしも見たことがある。あんなにたくさんの荷物を、ひと月もかけて、ここまで背負ってくるというのだろうか。
 わたしがそういうと、使者は首を振った。
「荷は、駱駝をたくさん連れてきて、運ばせるのだ。いまも、里の外で待たせている。仲間が一人残って、面倒を見ているが」
 ふと気づいたように、使者は言葉を途切れさせた。「ああ、駱駝も見たことがないだろうな」
 駱駝というのは、火の国に棲む動物なのだと、使者はいった。四つ足で歩き、気性が大人しいのだと。また賢くて、人のいうことをよく聞くのだとも。
「この里には、人より体の大きな動物はいないようだな」
 使者の言葉に、わたしは何度も頷いた。鼠や蝙蝠よりも大きな動物がいるのだということも、獣がひとのいうことを聞くだなんていうことも、とても信じられないような気持ちだった。それこそおとぎ話か、神話の中の出来ごとだとしか思えなかった。
 人よりも体の大きな動物。そんなものがたくさんいるのなら、食べるものは足りるのだろうか。蝙蝠だって魚だって、ものを食べる。大きい動物なら、食べものもたくさん必要とするだろう。
 ああ、だけどあれほどたくさんの荷を、惜しげもなくもたらしてくださるのだから、火の国はきっと、とても豊かな土地なのだろう……。
 なにかをひとつ訊ねるたびに、ますます疑問はあふれかえるようだった。
「さっき、暗くて迷ったと仰ったけれど、そんなにここは暗い?」
「ああ、俺たちにとってはな。……お前たちのその眼には、暗闇の中でも、ちゃんとものが見えるのだろうが」
 その返答に、わたしは目をしばたいた。
「暗いところでは、明かりを使うわ。あなたがたは違うの?」
「いや、同じだ。けれど、俺たちが明かりがないと何も見えないような暗がりでも、お前たちはなんなく歩き回っている……」
 使者は、ため息のような声でいった。
「はじめてお前たちの同胞に会って、その眼を見たときには、とても驚いた。地上でも、明るい色の瞳をした人間は、稀に見ないではないが。お前たちの瞳は、どういったらいいか……そう、暗がりの中で、うす青く光るだろう。あんな眼をもった人間は、ここ以外では見たことがない」
「青い? ひとの目が?」
 わたしが素っ頓狂な声を上げると、使者は訝しげにいった。「俺には、そのように見えるが」
「そんなふうに考えてみたことなんて、なかったわ」
 わたしの声は、よほど途方に暮れていたのだろう。使者はゆっくりと言葉を考えるようにして、説明を足した。
「いままで会ったここの人々は皆、うすい灰青というか、そのような色の目をしているように見えたな。あるいは、青という言葉のさす色が、お前たちと俺とでは、少し違うかもしれないが……」
 その言葉の内容を、少し考えて噛み砕いてから、わたしはわかったような気になって、うなずいた。
「そうかもしれない。言葉か、あるいは、色の見え方が」
「見え方、というのは?」
 訊ねかえされて、わたしは向こうに見えるわけでもないのに、大きくうなずいた。
「たまに、ほかの人と違う目のつくりをしていて、明かりのあるところでも、うまく色が見分けられない子どもが生まれてくるのだそうよ。記録に書いてあったわ。あなたがたとわたしたちとでは、もとから色の見え方が違うのかもしれない。同じものを目にしても、同じような具合には、見えていないのかも」
 使者はいっとき黙り込んだ。なかなか返事がかえってこないことに、わたしが不安になりだしたころ、囁くような声で、ようやく使者はいった。
「面白いことを考えるものだ。……お前は、字が読めるのか」
 ええ、と頷いてから、わたしは少し声を沈ませた。「おかしいかしら?」
「いいや。なぜ?」
「女が読み書きなんかできたって、それが何になるのって、姉さんはいうわ。母さんも」
 わたしはいって、うつむいた。そもそも、里で書物の集められている場所といったら、この導師のお邸くらいのものなのだそうだ。何か知りたいことがあればみな、導師を訪ねてここまでやってくる。わたしたちが特別で、ふつうの家で暮らしていれば、書物に触れる機会などほとんどないのだと、母さんはいう。
 ずっとこのお邸で育ったわたしには、それは、なかなか飲み込みにくい話だった。けれど母さんは、繰り返しわたしにいってきかせる。導師はとても偉い方で、本当なら、わたしが気安くお話しをできるような相手ではないのだと。
 姉さんたちやわたしは、たまたま父さんが早くに死んでしまったために、里のしきたりに従って、導師の邸においていただいている。導師はお優しいから、本当の家族と思うようにといってくださるけれど、わたしたちはそれを当然のことと思ってはならないのだと。
 ひととおりのお説教のあとに、かならず母さんはいう。あなたはいずれお嫁にいくのだから、字が読めたって、何にもならないのよ。
「さて、学があって悪いことはないように思うが」
 わたしはぱっと顔を上げた。けれど使者は、ふと考えなおすように、苦笑した。「ただ、そうだな。学のある女を煙たがる男は、いるかもしれないな」
「なぜ?」
 わたしはとっさに訊きかえした。わたしがよく知っている男のひとといったら、導師くらいのものだけれど、導師はわたしが新しいことを学ぶと、とても喜んでくださる。
 使者は苦笑の気配をさせた。
「さて、なぜだろうな」
 それはいかにも、大人が子どもを煙にまくときのいい方だった。わたしはちょっと唇をとがらせた。けれど、抗議するよりも早く、垂れ布にうつる使者の影が立ち上がった。
「あまり長居をすると、探されてしまうな」
 使者は今度こそ、立ち去るようだった。衣擦れと、それからかすかに、なにか金属のぶつかって鳴る音がした。
「また、お話しできる?」
 使者はすぐには、答えなかった。わたしは息をつめて、返事を待った。
「……そうだな、明日も来よう。暇を見つけることができたなら。お前は、明日もこの部屋にいるのか」
「昼間はずっといるわ」
 そう答えながら、もどかしくてならなかった。聞きたいことはいくらでもあったし、明日かならず使者がいらっしゃるとは限らないのだ。ああ、どうしてもっと大急ぎで、色んなことを訊かなかったのだろう? わたしは歯噛みした。
 それでも、これ以上使者を引き止めて、もし彼がこの場所にいることが誰かに知られてしまえば、きっと次はない。そう考えるくらいの分別はついた。
「来た方向へ戻って……そうね、よく見えないのなら、左手を壁についたままゆくといいわ。角をふたつやりすごしてから、今度は反対側の壁に手をついて進んで、最初の角を折れると、広間に出ます」
 戸口の布にかすかにうつった使者の影は、こちらを振り返ったようだった。
「ありがとう」
 そういった使者の口調は、子どもにかける言葉にしては、いささか丁重すぎるように思えた。気恥ずかしいような、いたたまれないような、複雑な気分をもてあまして、わたしは口早に言葉を重ねた。
「きっと、いらしてね」
 その声は自分の耳にも、いかにも幼い子どものおねだりと聞こえた。恥ずかしさのあまり、頬が熱くなるのがわかった。
 布ごしに、かすかに笑いを含んだ声がした。「努力しよう」
 やがて足音が立ち去ったあとも、わたしはその場に座り込んだまま、呆然としていた。たったいまあった出来事が、夢ではないのかと思えて。
 そんなふうに思うくらい、勉強室は元の通り静まりかえっていて、布一枚へだてたヤァタ・ウイラには、もう何の気配もなかった。
 いや――立ち上がり、そっと垂れ布をくぐって通路に顔を出すと、ほんのわずかに、空気が違っていた。かすかに甘く、涼しげな匂い。いつか、使者さまがたの荷のなかにあったという香料を、導師が見せてくださったことがある。どうやって使うのか見当もつかない、やわらかい石のような塊。それの匂いと、よく似ていた。
 けれど、それはほんとうにかすかなもので、じきにわからなくなってしまった。
 姉さんはまだ奥の裁縫室で、炎の乙女の歌を歌っていた。まるで時間が経っていないような気もしたけれど、気づけば、机の上の手燭はすでに消えかかっていた。
 戸棚から新しい蝋燭を取りだして、わたしは書き物机に戻った。そうして本のページに手をかけたまま、長いあいだ、ぼんやりしていた。
 奇妙な魅力にいろどられた空想の切れ端が、幾度となく頭の中にひらめいては消えていった。火の国からやってきた使者。見渡すかぎりどこまでも広がるという、砂の大地。とびきり美しいという彼のオアシス……。
 明日も来ようと、使者はいった。ならばそのときに、何をたずねよう。今度はよく考えておかなければならない。知りたいことは限りなく、そう、星の数ほどあった。
 星の数ほどセイラ・ウェルヤという言い回しを、そういえばわたしは、この勉強室にある古い書物の中で覚えたのだった。そういうひとくくりの言葉として覚えていて、語源なんて考えたこともなかったけれど、母さんのいう星とは、このウェルと同じものだろうか。
「トゥイヤ、そこにいるの?」
 その母さんの声がして、わたしはほとんど飛び上がるように椅子を蹴立てた。母さんがここにきたということは、もうかなりの夜更けということだ。使者の方々に夕餉を出して、その始末が終わるまでは、とても娘たちの様子を見にくるような暇は、ないはずだから。自分がとんでもなく長い時間、ぼうっと心を飛ばしていたらしいということに気がついて、わたしは驚いた。とっくに消えていた手燭に、母さんが新しい蝋燭を挿した。
「食べるものを持ってきたのよ」
 そういって母さんは、わたしの顔を、心配げに覗き込んだ。「姉さんたちのところに運んであったのに、食べにこなかったというから」
「ごめんなさい。本に夢中になっていたの」
 自分の声に、嘘の気配がにじんでいないか、ひやひやしながら、わたしはそう返した。
 そうして、ようやく気づいたのだけれど、お腹はとっくに空っぽだった。当たり前だ。朝の早い時間にここにやってきて、それからずっと食べることも忘れていたのだから。
 母さんが持ってきてくれたエトヤ豆のスープは、すっかり冷めていたけれど、どちらにしても、じっくり味わうような余裕はなかった。大慌てで流しこむと、ゆっくり食べなさいというお小言が降ってきた。
「ねえ、母さん」
 空っぽになったスープ皿を、母さんに手渡しながら、わたしはなんでもないふうを装って訊いた。「使者の方々って、どんなふうな人たちなの?」
「さあ。母さんは直接お会いするわけではありませんからね」
 なあんだと、思わずがっかりした声を出すと、母さんの目がつりあがった。
「こっそり広間をのぞいてみようなんて、思ってないでしょうね」
 大慌てで首を振ると、母さんはいっとき疑わしげにわたしを見下ろしていた。それからふっと、短いため息を落とした。
「そんな愚かな真似をするほど、もう小さい子どもではないわね?」
 はい、と生真面目な顔をとりつくろって頷くと、母さんはもう一度、今度は長いため息をついた。
「あなたはほんの小さなころから、好奇心が強すぎて、お母さんはいつも苦労のしどおしでしたよ。……今日はもう遅いわ。裁縫室の姉さんたちのところにいなさい」
「……はい。でも、明日もここに来ていいでしょう? 読みたい本がたくさんあるの」
 母さんが渋い顔をするのに、慌てて言いつのった。「だって、ふつうのときは、こんなに一日中勉強室にいられる機会なんてないもの」
 裁縫室などは、そもそも女たちしか使わないけれど、勉強室はそうもいかない。というよりも、むしろここは本来、男の人たちが使うための部屋なのだ。それを、彼らの用のないときに、わたしたちが使わせてもらっているというのが正しかった。
 導師は里のみんなの先生だから、ここには色々な人がやってくる。毎年ユヴの月になると、大人になる手前の年頃の少年たちが導師のもとにあずけられて、さまざまのことを学ぶ。けれどそれ以外のときにも、何かあると皆、導師の知恵をあおぎに、ここまでやってくる。水場のようすがおかしいときにも、作物の出来がよくないときにも、複雑な諍いが起きてしまって誰もが仲裁に困るときにも。
 そして、そうやって導師を頼ってくる人たちのほとんどが、男の人だ。それだから、わたしたち女は、あまりここに長くはいられない。
 母さんは肩を落として、けれど、頷いてくれた。「いいでしょう。でも、少しはお裁縫の練習もなさいね」
「ありがとう、母さん!」
 わたしは思わず声を上げて、母さんの細い肩に飛びついた。それを慌てて受け止めながら、母さんは苦笑した。
「ほんとうに、あなたは本が好きなのねえ」
 その呆れた、けれど優しい声を聞きながら、ほんの少し、気が咎めるような気がした。
 けれど本当のことを口にしてしまえば、叱られてすむような話でないのはわかっていた。だから、素直にはしゃぐふりをして、わたしは裁縫室へと向かった。


 裁縫室の戸口をくぐると、姉さんたちは皆そろって、仮の寝床の支度をしていた。わたしたちがいつも使っている部屋にいくには、使者の方々をお泊めしている部屋のそばを通らなくてはならないので、予備の敷布や毛布や枕を、あらかじめ運びこんでいたのだった。
「ずっと見かけないと思ったら、また本なんか読んでたの?」
 そういったのは、二番目の姉――三月ほど前にそれまで長く一番年上だったイラバが嫁いだことで、二番目に年かさになった、カナイだった。その声には嘲笑のひびきがあって、いつもだったらかちんときているところだったけれど、わたしはこのとき、半ばうわの空だった。「ええ、そうなの。つい夢中になってしまって」
「本なんて、何が面白いの」
 信じられないというふうに、カナイはいった。「まあ、あんたは導師のお気に入りだから、点数稼ぎをするのもわかるけれど」
 姉がそういう底意地の悪い口をきくのは、いまに限ったことではなかった。それにまともに反論することは、とっくの昔に諦めていた。本の中に記されているものごと、たとえば古い時代の人々の暮らしや、これまで作物を改良してきた一々の工夫、物語の中の神々や乙女たちのようす、そうしたものがどれほど面白いかということを、わたしがいくら言葉を尽くして語っても、姉の心にはそれらの事は、ちっとも響かないらしかった。
「どんな本を読んでいたの?」
 とりなすようにそういったのは、三番目の姉だった。
「すごく、古いお話。わたしたちの祖先が、この里へ移り住んできたときの。姉さんは聞いたことがある?」
 姉はあいまいに首を傾げた。
「さあ、あったかもしれないわね」
 わたしは落胆した。母さんはしばらく忙しいし、姉さんたちが知っていれば、記憶の中の母さんの話や、書物のなかの物語と比べられるかと思っていたのだ。というのも、わたしの記憶のほうが、母さんの話と違ってしまっているかもしれなかったので。なにせわたしは幼い頃、とても夢見がちな子どもで、ときには聴いたお話の続きを、勝手に自分で作ってしまったりしていた。
「さあ、そろそろ寝ましょう。もう遅いわ」
 一番上の姉さんがいうと、下の姉さんたちもその言葉に従って、それぞれの寝床にもぐりこんだ。
 明かりが吹き消された。かすかなヒカリゴケの明かりだけが残る室内で、眼を閉じずに、ぼんやりと天井を見上げていた。
 ――いい声だな。
 使者はたしかにそういった。そのときの声が、きゅうに耳の奥に蘇って、わたしは暗闇の中で、ひとり赤面した。
 いい声ですって! 姉たちを起こして、話して聞かせたいくらいだった。けれどじっとこらえて、わたしは毛布のうえから自分の胸を押さえた。心臓の音があまりにうるさくて、姉たちに聞こえるのではないかと、心配になった。
 だけど、本当かしら。そう思ったとたん、浮かれていた気分が急速に沈んでいった。今まで声を人にほめられたことなんて、あっただろうか。姉さんたちは三人とも(嫁いだイラバもあわせれば、四人とも)、とても美しい声をしている。母さんや、ほかの姉さんの母さんたちだってそうだ。けれどわたし一人は、昔からちょっと低くてかすれた、あまり可愛らしいとはいえない声をしているような気がして、わたしはそのことをひそかに気にしていた。
 声の美しいのは、裁縫がじょうずなのと同じくらい、女にとっては素晴らしいことだと、誰だってそう思っている。そしてそのどちらも、わたしには持ち合わせがない。読み書きならばわたしが一番だなんて、そんなふうに強がってみせても、ちっとも気にしないでいられたわけではなかった。
 いい声だといったあの言葉は、もしかしてただのお世辞だったのだろうか。ひとたびそう疑ってしまうと、もうそうとしか思えなくなった。
 だけど、火の国の女の人たちは、わたしたちと声の感じが違うかもしれない。その思いつきに、わたしは縋った。
 目の見え方が違うというくらいなら、耳の聞こえ方だって、ずいぶん違うのかもしれない。そんなふうに、わたしは自分を慰めた。わたしたちにとってはそれほど良い声ではなくても、使者様の耳には、きれいな声に聞こえたのかもしれない。
 けれど、その考えがただの慰めだということは、自分でよくわかっていた。
 使者さまは、ほかにどんなお話をされていたかしら。
 落胆から自分の考えを逸らそうとして、わたしは記憶をたぐった。私たちの目が、暗いところでは青く光ると、使者はいった。たしかに人の目は、暗闇のなかではかすかに光るけれど、火の国のひとたちは違うのだろうか。
 彼らの瞳は、どんなふうだろう。わたしたちとそんなに違うのだろうか、形は、色は?
 ああ! たったひとこと、訊いてみればよかったのだ。あなたの瞳は何色をしているのって。いまさらのように気づいて、わたしは自分のうかつさを悔いた。
 明日、訊いてみようか。ああ、でも、それこそはしたないと思われるだろうか。
 それより、使者さまはほんとうに明日、勉強室までやってこられるのだろうか。急に不安になって、わたしは胸をぎゅっとおさえた。誰にも見つからず、じょうずに広間を抜けだしてこられるだろうか?
 もう眠らなければと思うほど、目はますます冴えて、わたしはじっと天井に目を凝らしていた。ヒカリゴケの明かりにも、時間によってわずかに強弱がある。夜にはいくらか暗くなって、よくよく目を凝らさなければ、部屋の中の様子はわからない。
 姉さんたちの寝息を数えながら、ようやくうつらうつらしては何度も目が覚めて、そうこうしているうちに、やがて遠くから、夜明けの鐘が響いてきた。
 はれぼったい目をこすりながら、寝床から這い出すと、姉さんたちの誰かが明かりを灯した。
「あーあ、たいくつねえ!」
 食事の支度をしながら、カナイが叫んだ。三日間ものあいだ、外に出ることも許されないというのは、たしかに姉さんの性分には合わないだろう。
 カナイは裁縫がじょうずだけれど、けして好きではないのだ。いつだって、とてもつまらなさそうに針を使っている。それでも、その手は魔法のように針をあやつって、あっというまに布地にきれいな刺繍を縫いつけてゆく。それなのに裁縫が好きじゃないなんて、わたしには不思議でしかたなかった。あれくらい上手にできれば、わたしだって裁縫が好きになっただろう。
 母さんが夜のうちに持ってきてくれた食べ物は、まだたくさん残っていた。四人でそれを等分して、いつもよりゆったりとした朝食が始まった。
 この三日間、洗濯は母さんたちがかわってくれるし、菜園の世話も、ほかの子たちに頼んである。閉じこもらなくてはいけないのは、このお邸の娘たち、わたしたち四人だけなのだ。あとの子たちはこのお邸に近寄らないようにして、ふつうに過ごしている。
 姉たちはそれぞれ、いまやっている手仕事の相談などをしながら、ゆっくり食事を味わっていた。けれどわたしはひとり、いそいで口の中に食べ物を詰め込むと、さっさと立ち上がった。
「勉強室にいるわ」
 そう声をかけると、姉さんたちの間からため息と、からかうような笑い声がそれぞれに上がった。
 カナイの意地の悪い視線を横顔に感じたけれど、わたしは気にせず、くるりと背を向けて部屋を出た。あきれられはしても、誰も止めないとわかっていた。


 廊下を小走りに駆け抜けると、わたしは勉強室の前で足を止めた。そうしてひとつ、息を吸い込んだ。
「どなたか、いらっしゃいますか」
 返事がないのを確かめて、念のためもう一度、声をかけた。返事がないと思えば、中にいるひとが本を読むのに夢中になっていて、気づかなかったということもある。何年も前に、それで一度、恥ずかしい思いをしたことがあった。
 前の日は、今の時期ならばまさか誰もいないだろうと思っていたので、声さえかけずに入ったけれど、本当ならそれはとても無作法なことだ。まして、先にあの方がいらしているかもしれないのに、同じことをする度胸はなかった。
 手燭に気をつけながら戸口の布をくぐり、静まり返った勉強室に入った。
 書き物机の上に手燭を置くと、ごとりと重い音がした。石の机は、何百年もここで使われ続けているうちに磨り減って、天板がまっすぐではなくなっている。手を放しても手燭が傾かないことを確認して、わたしは奥の書棚に向かった。
 本に読みふける気にはなれなかったのだけれど、もし誰かが様子を見にやってくることがあれば、そのときに何もせずにぼんやりしているというのも、言い訳に困るような気がした。
 この日も涼しく、前日のように霞が出てはいなかったけれど、人のいない部屋の空気は、ひんやりしていた。適当に選んだ古い書物を持って、わたしは机についた。そうしていっとき、表紙を開いたり、また閉じたりしていた。
 けれど使者は、なかなかやってこなかった。わたしはやがて、自分を落ち着かせようと、本のページをめくりはじめた。そうしていっときの間、ちっとも頭に入ってこない文面を流し見ていた。
 途中、はっとして手を止めたのは、火の国という文言が目に飛び込んできたからだった。
 ――火ノ国ヨリ来タル使者、数ハ七、何レモ天ヲ突ク偉丈夫ニテ、頭髪マタ眼ハ黒色、膚モ暗キ色ヲシテ、古ノ作法ニテ祝詞ヲ述ベ……
 とても背が高い人たちなのだわ。そう思うと、なんだか妙にそわそわした。昨日の使者も、ここに書かれているような姿をしているのだろうか。それともこの記録のときにいらしたのが、たまたまそういう方々だったのだろうか。
 これは何年前の記録だろう。文体の古めかしさからして、二百年か三百年前、あるいはもっとだろうか。代々の導師が残しておられる正式の記録ならば、冒頭に必ず日付が記されているのだけれど、この書物はどうやら誰かの私記、ちょっとした覚え書きをまとめたもののようだった。
 なかなか見つからない日付をさがすことを諦めて、もとのページに戻った。続きには、そのときの里の状況が記されていた。
 ――其ノ節、草苗ノ病アリ、麦実ラズ、餓エニ因リテ死スル者数拾余ノ折、使者ノ下サレシ麦、乾酪ナル食物、干シタル果実等、数多ニテ、長、跪キテ謝意ヲ述ベ……
 ぎくりとして、わたしは文字をなぞる手を止めた。
 とても、偉い方々なのだわ……。ようやくそうした実感がわいてきた。昨日の自分の物言いを思うと、冷や汗が出るようだった。長がひざまずいて礼を述べるような方々なのだ。導師よりも、長よりも、もっと偉いひとたち。
 そのときト・ウイラのほうから足音が近づいてきて、わたしはびくりと肩を竦めた。
「中にいるか?」
 前の日に聴いたのと同じ、やわらかな声だった。今度はト・ウイラのほうから、見当をつけてやってきたらしかった。もしかすると、誰かにヤァタ・ウイラの意味を教わったのかもしれない。
 あれほど使者の訪れを望んでいたにもかかわらず、わたしは戸口に駆け寄るのをためらった。ひと呼吸、いや、ふた呼吸だろうか。声も出せずに息を呑んでいると、ふたたび声がした。「――まだ、来ていないか」
 呪縛を解かれたように、わたしは立ち上がった。
「使者さま」
 どうにか振り絞った声は、自分でわかるくらい、震えていた。
「なんだ、いたのか。……どうかしたのか」
 使者の声は訝しげで、そこには怒っているような気配はなかったけれど、それでもわたしは肩を縮めた。
「その、わたし、昨日は失礼な口を……」
 いいかけた言葉が途中で細って、消えた。布越しに、使者が笑う気配がしたのだった。
「なんだ、今日はずいぶんとしおらしい声を出す」
 からかうようなその声は、優しかった。「気にすることはない。どうせ、ほかに誰が聞いているわけでもないのだから」
 そう悪戯っぽく笑う声に、心臓が撥ねた。ああ、秘密という言葉は、どうしてあんなにどうしようもなく魅力的に響くのだろう?
「だけど――」
 まだためらうわたしを制するように、使者はいった。
「それに、俺も、お前の話に興味がある」
 はっとして、わたしは顔をあげた。使者の気配は、たしかに生身の人のそれとして、布一枚隔てた向こうにあって、わたしの言葉を待っていた。
 もう、無理に振り絞らなくても声は出た。
「ほんとう?」
「そんな嘘をついてどうする」
 使者の声は、まだ可笑しそうに笑っていた。
 ようやく胸のつかえがとれると、訊きたいことが、いっぺんに体の底からあふれてきた。けれど、その勢いがあまりに強すぎて、わたしはかえって言葉を詰まらせた。
 やがて使者のほうから、何気ないふうに口を開いた。
「先ほど、お前たちの畑を見せてもらった。土の畑と、水耕池のほうと。なかなか美しいものだな。水がいいのか、土がいいのか……。あのようなわずかな陽射しで、よくあれほどの作物が作れるものだ」
「わずか?」
 素っ頓狂な声が出て、わたしはとっさに自分の口を押さえた。大声を出したら、姉さんたちに聞こえるかもしれなかった。
 わたしが驚いたことに、使者は戸惑ったようだった。
 男の人たちが世話する畑を、わたしは見たことがないけれど、女たちの管理する菜園と、それほどつくりは違わないと聞いていた。
 菜園には毎日きまった時間、目の眩むようなまばゆい光が降り注ぐ。光輝の神の恩恵だというその白い光は、作物が育つには不可欠のものではあるけれど、同時に、恐ろしいものでもある。眩しすぎるのだ。不用意に昼間の光を見つめすぎて、失明してしまったという人さえいる。
 それを、わずかな光だなんて。驚きの波が弱まると、持ち前の好奇心が、胸に突き上げてきた。
「火の国は、昼間の畑よりももっと明るいのね?」
 使者は、あっさりと頷いた。
「地上では、むしろ陽の光は強すぎて、水を干上がらせ、草木を枯らせてしまうのだ。といって、陽がなければそもそも作物は育たない。水さえもっとあればと、いつも思う」
「水……」
 わたしが呆然と呟くと、使者は苦笑まじりに続けた。
「地上にここのような、豊かな水があれば。あるいはここにもっと明るい陽射しが入れば、どれほど豊かな実りが望めるだろうかと思う。ままならぬものだ」
 ため息のようなその言葉は、わたしに、一冊の書物を思い起こさせた。古くから続く、作物についての綿密な記録、そこに記された、途方もないような工夫の積み重ねを。
 わたしは記憶を手繰りながら、そのことを使者に話した。魚の脂を利用して作る肥料。いくつもある畑の、光の射す具合に応じた作物の選択。同時に近くに植えるものの組み合わせ。ひとつの作物を収穫したあとは、続けて同じものを作らないこと。そのうえで一年を通して実りの偏らぬよう、細かく計算して作られた暦。あるいは間引きの時期や病害への対処……。数え上げればきりのないような、そうしたさまざまの手順を、いまある形に整えるまでに、どれほどの苦労と積み重ねがあったかということ。
 豊穣の神は、ただ恩恵を伏して待ち、己の知恵を尽くそうとしないものには、けして加護を与えてはくださらないと、その記録の序文には、記されている。そうしたことを話すうちに、使者が小さく唸った。
「たいしたものだ。そうしたことを、すべて書物で学んだのか」
 その声の、感心したような調子のなかに、子どもにしてはというような含みを感じて、わたしはちょっとむくれた。
「あなたが思っているほど、わたし、小さな子どもじゃないわ」
 その抗議に対して帰ってきたのは、笑いぶくみの謝罪だった。「これは失礼した」
 それがいかにも子どもをなだめる調子だったので、わたしはますます拗ねて、自分のくつのつま先を握りしめた。そうしてから気づいたのだけれど、わたしのほうから使者の影がうっすらと見える以上に、机上に置いた手燭のあかりは、わたしの影を垂れ布へと投げかけているのに違いなかった。
 気づいてみれば、座り込んで身を乗り出している自分の格好は、話をせがむ小さい子どもそのままだった。きゅうに頬が熱くなった。きちんと座りなおして姿勢を正すと、布越しに、またかすかな含み笑いが届いた。
「このような場所に、ずいぶん多くの人が暮らしていられるものだと、不思議に思ってはいたのだが」
 感心したように、使者はいった。わたしははっとして顔を上げた。
「けれど、人の数は……」
 いいかけて、わたしは口ごもった。その先を口に出すことが、恐ろしかったのだ。それは、これまで誰にもいったことのない話だった。
「どうした?」
 わたしはためらい、けれど、結局はそれを口にした。
「人の数は、少しずつ減っているの」
 そのことを、このときまで誰にも話したことはなかった。導師にさえも。訊いてはならないことではないかと、そういう気がしたので。だからなるべく、意識に上らせないようにつとめていた。
 だけど、わたしはずっと、怖かったのだ。誰かに不安を打ち明けたかった。口に出して、ようやくわたしはそのことがわかった。
 その怯えは、声にもにじんでいたのだろう。使者はなだめるような声でいった。「どれくらい減っているのか、わかるか」
「三百年前には千二百あまりの人がいたと、記録には残っているわ。それが少しずつ減っていって、いまでは、もうじき千を割る」
 ほかの誰も、そのことを憂いているような素振りがないことが、わたしには怖かった。どうして誰もそのことに気づかないのかと、そう思ったこともあったけれど、目に見えてどんどん人が死んでいるというわけではなく、それは長年にわたるゆっくりとした変化だったから、普通にしていれば、気づかなくても無理のないことなのかもしれなかった。
 けれど、このままずっと人が減り続けていったら? 百年後はまだ大丈夫かもしれない。でも、五百年、千年が経てば?
 抱え込んでいた不安を吐き出して、わたしはようやく口をつぐんだ。使者は、いっとき沈黙したあとに、ようやくいった。
「そうしたことを、誰に教わった?」
 誰からも、とわたしは答えた。わたしは何年も前から、導師が記録をつけたり、写本を作ったりされるのを手伝っていた。そうした中で、あるときそのことに気づいた。それから古い記録を辿っていった……。
 なかなか返事がかえってこないので、わたしはますます不安になって、自分の服の裾をきつく握りしめた。やはり、口に出してはいけないことだったのだろうか。それとも、使者が気を悪くされるようなことを、なにかいってしまったのだろうか。
 やがて使者は、半ばひとりごとのように呟いた。
「智というのは、こうしたものなのか」
 その声は、何かに驚いているようだった。その反応をどう受け取ったらよいのかわからなくて、わたしは戸惑った。どうやら自分が褒められているらしいということにも、すぐには気づけなかった。
「十年後にオアシスの水が枯れることをおそれる者は、いくらでもいる。だが、男たちのうちでどれほどが、千年先の部族の行く末に、思いをめぐらせることができるだろう?」
 その声は、どこか熱を孕んでいた。
「それにしても、たいしたものだ。ファナ・イビタルならば、そうした記録の管理は通常、部族の中でも特に選ばれた男たちが任されるものだが」
 わたしはそのあたりでようやく自分が褒められていることに気づいたけれど、喜ぶよりもむしろ、うろたえた。やはり、自分のようなものがこうしたことを口にするのは、分をわきまえないことなのだ。それだけがはっきりとわかった。
 すっかり黙り込んでしまったわたしに、ようやく気づいたのだろう。こちらの様子をうかがうように、使者の影が揺れた。
「どうした?」
「わたしは何も、そんな……」
 その声は、よほど萎縮していたのだろう。使者はふっと、我にかえったようだった。
「いや、驚かせてすまなかった。何も咎めてはいないのだ。ただ、そうだな。もしお前が……」
 いいかけて、使者は口をつぐんだ。「いや……、なんでもない」
 使者はあのとき、なにをいいかけたのだろう。わたしは語られなかった言葉の先を、想像した。もしわたしが、男だったなら? それとも……
 もしわたしが、火の国の人間だったなら?
 なぜ自分が、そんなことを思いついたのか、自分でもわからなかった。けれど、その思いつきは、思いがけないほどの強さでわたしの胸を掴んで、激しく揺すぶった。
 もしも。
 それはひどく荒唐無稽な空想だった。もしも自分が神様だったならと、幼い子どもが思い描くのと、なんら変わらない。その上、そう――とても不遜な考えでもあった。
 けれど、子どもが夢想することを、誰に止められるだろう? わたしはその頃、まだ幼かったのだ。少なくとも、子ども扱いをされてむっとするくらいには。
 わたしの内心の葛藤には気づかないようすで、使者は感慨深げに続けた。
「ファナ・イビタルの族長の邸にも、書庫はあり、教師はいる。その門戸はつねに開かれている。学ぼうと思えばその機会はあったのに、俺はそうしたことに、ほとんど興味をもとうとしなかった」
 使者はそういって、ため息をついた。わたしは我にかえって、使者の言葉に耳を傾けた。
「そうだな。お前の年の頃には、ただ剣の腕を磨くことばかりを考えていたように思う。そのほかに学ぶことといえば、迷わず砂漠を渡るための知恵くらいで……」
 つい可笑しくなって、わたしはくすりと笑った。「きのうはお邸の中で、迷っていらしたのに?」
 考えてみれば、それこそ不敬も甚だしい言い分だったのだけれど、使者はちょっと苦笑しただけで、怒りはしなかった。
「このような暗さではな。星さえ読むことができたならば、砂漠のどこであっても、迷いはしない」
「星? いま星と仰った?」
 驚いたわたしは、とっさに身を乗り出して、廊下と部屋とを隔てる布を掴んだ。その剣幕に驚いたのか、使者がのけぞるような気配があった。「どうかしたのか」
「星を、知っているの?」
 わたしの声は、よほど興奮していたのだろう。使者は面食らったようだった。けれどわたしの頭の中は驚きでいっぱいで、恥じる余裕もなかった。
「知っているも何も……ああ、そうか。星を、見たことがないか」
 言葉を切って、使者はなぜだか、答えをためらったようだった。けれど少しの沈黙のあとに、返事があった。「ああ。よく知っている」
「教えて。それは、火の国にあるものなの?」
 そうだ、と使者はいった。
「どう説明したものか……。星というのは、天に輝くしるべなのだ。夜ごとに遥か高い空にあらわれる、小さな光の粒だ」
 使者はまたそこで言葉を切って、少し考えるようだった。待ちかねてわたしが身を乗り出していると、かすかに笑うような気配があった。けれど今度は、むくれるような余裕はなかった。
「夜になると、数え切れないほどたくさんの星が、空いっぱいに輝きだす。それが時のたつにつれて、ゆっくりと頭上を巡ってゆく。ひとつひとつはとても小さいが、ほかの何よりもたしかな輝きだ。砂漠を旅するものを、つねに導いてくれる」
 その光景を、わたしは頭のなかに思い描こうとしたけれど、それは成功したとはいいがたかった。
「天井に光るしるしが描かれているの? ト・ウイラの壁に、二本の線が刻まれているみたいに?」
 答えに迷うように、使者がかすかに首をかしげるのが、うっすらと布にうつる影と、空気の動く気配でわかった。「まあ、そのようなものだ。星は、ひとが作ったものではないが」
 驚いて、わたしは目を丸くした。「では、誰が作ったの?」
「さて。色々な話がある」
 使者はまた少し考えてから、ゆっくりと、いくつかの物語を語りだした。
 ――砂漠で迷って死んだ男がいた。干からびたその遺骸を見たひとりの賢者が、死したる旅人を哀れんで、その手にしていた杖を掲げると、それが空高くへまっすぐにのぼり、煌々と輝くみちしるべとなって、以来、砂漠を渡るものを末永くたすけるようになった。
 ――あるオアシスにひとりの鍛冶師がいた。男は妻を大変に愛し、仲睦まじく暮らしていたのだが、その腕があまりにすばらしかったために、あるとき神々の目に留まり、星を鍛える者として天に召し上げられてしまった。男の妻はひどく嘆いて泣き暮らし、夜毎に神々を呪った。天高くからそのようすを見ていた夫は、一夜にひとつの星を地上へと流し、妻への慰めとした。
 ――銀を巧みに磨いてうつくしく輝かせる、とびきりのわざを持った細工師がいた。それを知ったずる賢い商人が、細工師をだましてその粒を安くで買いたたいた。商人は粒を持ってほかの人々のところへ行き、高く売りつけようとした。これは地上に落ちた星であり、手にすれば願いが叶うと、そんなふうに騙って。最初の客を騙そうとしたその夜、たくさんあった銀の粒はすべて、音もなくひとりでに商人の手を離れて、そのまま天高く上っていった。呆然と見上げる商人の前で、それらはほんものの星になってしまった。
 どれも、聴いたことのない話ばかりだった。わたしは息をつめて使者の話に聞き入った。途中、何度もこの話を書き留めることが許されるなら、誰かに話して聞かせることができるのならと考えた。
 星というものは、小さな光の粒なのだと、使者は教えてくれたけれど、その色やあかるさは、ひとつひとつ違っているらしかった。
 話を聞きながら、わたしはたくさんの光の粒が頭上に輝いているところを、なんとか想像しようとしてみた。けれど、それらの印象はいつのまにか、見慣れたヒカリゴケの明かりと、重なってしまうのだった。
 星はゆっくり動いているというけれど、いったいどうやって動くのだろう。星というのは、生きているのだろうか。
 けれどそうたずねる前に、影が揺れて、衣擦れの音がした。
「もう行ってしまうの?」
「ああ、そろそろ戻らねば。来年の荷のことも、導師殿と、もう少し打ち合わせねばならないのでな」
「明日もお話しできる?」
 使者は、少し困ったようだった。「いや。明日は、出立の支度で忙しい」
「そう……」
 肩を落として、わたしは唇を噛んだ。引き止めたかった。もっと色んな話を聴きたかった。けれどそれが、ひどくわがままなことだというのは、自分でもわかっていた。
 わたしはじっと、垂れ布越しにかすかにうつる影を見つめていた。引きとめるまいと口をつぐむのでせいいっぱいで、旅の無事を祈る言葉どころか、話を聞かせてくださったことへの礼さえ、口にできなかった。
 やがて、影がゆれた。
「それでは、達者でな」
 使者は今度こそ、立ち去るようだった。その足音に縋るように、わたしは声を上げていた。
「お名前を、教えてくださる?」
 足音が止んだ。
 ほんのわずかなためらいのあとに、使者は名乗った。「ヨブ。ファナ・イビタルの、ヨブ・イ・ヤシャルだ」
 ――ヨブ。その名をけして忘れないように、わたしは口のなかで繰り返した。どこに書きとめるわけにもいかないと、重々承知していたので。
「――知恵の女神の娘よ、お前の名はなんというのだ」
 その大それた呼びかけを、畏れ多いと感じるだけの気持ちの余裕さえなかった。わたしは慌てて名乗った。「トゥイヤ」
「いい名前だ」
 使者は、微笑んだようだった。顔を見たわけではないけれど、その言葉に、やわらかな笑みの気配が滲んでいた。
「お前の名もまた、星にちなんでいるようだ」
 わたしはひどく驚いた。トゥイヤというのは、はるか昔、空に星がまだなかったころの世に、いちばん最初に輝くようになった星なのだ。ヨブはそう説明してくれた。
 まだわたしが驚きから醒めないでいるうちに、ヨブはいった。「エルトーハ・ファティスのトゥイヤ。また会おう。来年の、サフィドラの月に」


 使者の足音が遠ざかり、すっかり聞こえなくなってしまうと、彼がそこにいたという痕跡は、やはり何も残ってはいなかった。
 ヨブ・イ・ヤシャル。聞きなれない響きの名前の気配だけが、古い書物のにおいと混じって、部屋の中に、まだ漂っているような気がした。
 話していた時間は、どれほどのものだっただろうか、あっという間に過ぎたようにも思えたし、百年も話しこんでいたようにも感じられた。
 トゥイヤ。使者がわたしの名を呼んだ、その抑揚が、耳に残っていた。彼が口にすると、ほんのすこし響きが変わって、まるで別の人間の名前のように感じられた。
 来年のサフィドラの月に。
 夢から醒めたように、わたしは目を瞬いた。長い時間おなじ姿勢で座り続けていたために、体はすっかりこわばっていたけれど、手のひらは火照って熱かった。
 ふらつく足取りで書き物机にもどると、短くなった灯心が、音を立てて炎を揺らした。


    2

 日常はすぐに押し寄せて、いつもの忙しない朝がやってきた。
 菜園の世話は早朝、日の射す前からはじまるし、そのためにはもっと早い時間に水汲みをしておかなくてはならない。洗濯や掃除や竈の番、危なっかしい手つきでの繕いもの、そうした雑事のくりかえしの日々。けれど、それらの時間は、以前とすっかり同じものではなかった。
 表面的にはなにひとつ変わっていない。それでも日々のささやかな出来事をとらえるわたしの心は、以前と少しずつ違ってしまっていた。
 菜園で、頭上から降り注ぐ光を受けるたびに、これよりもずっと眩しいのが当たり前だという、火の国のありように思いを馳せずにはいられなかった。ヤァタ・ウイラの足元に刻まれた模様を眺めているとき、天高くに数え切れないほど輝くという、星々のすがたを空想した。
 写本をつくるために、紙束を前に羽根ペンを手にしているときだけが、以前とまったくかわらなかった。心は自然と針のように引き絞られて、目の前の作業に集中した。紙もインクも、とても貴重なものだ。気を散らして書き損じるなんて、とんでもない話だった。
 けして間違いのないよう、一字一句に心をとぎすませて、わたしは古い書物を引き写していった。言葉が古くてわかりづらい言い回しがあれば、紙の余白に注釈を加える。虫に食われたり、インクが劣化して読めなくなった箇所は、導師と相談しながら失われた言葉をさぐり、ときには空白のままとして先に進んだ。写本を作る作業が、わたしはとても好きだった。ひとつの記録と濃密に向きあう、その時間が。
 まだ十四歳だったわたしにとって、一年というのは、途方もなく長い時間だった。そのあいだ、わたしは何度も何度も使者の語った言葉を思い返した。
 火の国には水が乏しいという一方で、なぜ彼らは毎年、あれほどたくさんの品々を運んでこられるのだろう。火の国の天に輝くというしるべの名前が、なぜわたしたちの暦や、わたしの名前に使われているのだろう。考えることはいくらでもあって、けれど、そのほとんどが、答えのみつからない問いだった。
 ひとりで考え込む時間が増えるにつれて、母さんのため息も増えたようだった。けれどその頃のわたしには、人のようすを気にするだけの余裕もなかった。新しく目の前に開けた世界に、夢中だったのだ。
 ようやく母さんの態度の変化をはっきりと意識したのは、その年も終わりに近づいてからのことだ。


 ある日、乾いた洗濯物を抱えて部屋に戻る途中で、誰かの話し声が聞こえてきた。
 声は、知っている人のものだった。ひとりはカナイの母さん。もうひとりはその兄、つまり、カナイの伯父だった。
 盗み聞きをするつもりはなかったのだけれど、部屋の前を通るあいだ、いやでも会話は耳に飛び込んできた。
「カナイにもそろそろ、相手をみつけてやらなきゃならんのだろう」
 わたしは一瞬、部屋のほうを横目に見た。姉さんの縁談がなかなか決まらないという話は、その前にも何度か耳にしていた。
「それがなかなか、いい人がいないのよ」
「バルトレイはどうだ。あれは真面目な、いい男だぞ」
 バルトレイ。その名前は、わたしも知っていた。
 成人前の男の子たちは、ユヴの月になると、この邸に学びにやってくる。ふつうはそのひと月のあいだに限ってのことだけれど、ときには書物に興味を持って、そのあともここに通うようになる人がいる。
 そういう男の人たちがいまも何人かいて、その中から誰かがいずれ、導師のあとを継ぐことになるだろうといわれている。バルトレイは、その中のひとりだった。わたしは直接話をしたことはないけれど、ときどき導師が仰るのを聞くかぎりでは、カナイの伯父のいうとおり、気持ちのいい人物のようだった。
「だめなの。あの人はカナイにとっては、父方のはとこにあたるのよ」
 カナイの母さんはそういって、ため息を落とした。「ままならないものね」
 三代さかのぼるまでに父祖を同じくするものとは、婚姻をゆるされない。その戒律は、わたしも知っていた。
 けれどずっと昔には、そうではなかったのだそうだ。
 わたしたちの祖がこの地に移り住んできたという、あの古い物語のなかには、いとこ同士であるという夫婦が登場した。不思議に思って、導師にお尋ねしたことがある。古い時代にはそうしたことは珍しくなかったようだと、導師は教えてくださった。
 いつ頃から、どうして禁じられるようになったのか。気になるならば、自分で調べてごらん。導師はそうも仰った。古い記録を順に紐解けば、そうした戒律が出来たのは、いまから三百年ほど前のことのようだった。そしてそれは、当時の火の国の使者よりもたらされた助言なのだという。そうすることが何の役にたつのかは、記録の中には見当たらなかったのだけれど……。
 ともかく、その戒めがさまたげとなって、姉さんの婚約は、なかなか決まらないらしかった。カナイの曽祖父というひとには、とてもたくさんの子どもがいたのだそうだ。そのためにカナイには、血縁のある人が多い。
 部屋の前を通り過ぎていくらもいかないうちに、当のカナイが向かい側からやってくるのが見えた。
「姉さん」
 わたしはとっさに、カナイを呼び止めていた。このまま歩いていけば、二人の話が聞こえてしまうに違いなかった。そうなればカナイの機嫌は悪くなるだろう。
 なかなか相手が決まらないことを、姉はどうも、屈辱的なことのように感じているふしがあった。まだ嫁ぐのに遅すぎるという年齢ではないし、相手が決まらないのは、カナイのせいではないのだけれど。
 足を止めて、カナイは怪訝そうな顔をした。それもそうだろう、わたしのほうからカナイに話しかけることは、近ごろではあまり多くなかった。
「なによ」
「母さんを見なかった?」
 とっさの思いつきでそうたずねると、カナイは迷惑そうに首をすくめた。「さあ、知らないわ」
 そう、とあいづちをうったはいいけれど、あとに続ける話は何も思い当たらなかった。迷っていると、カナイのほうから口を開いた。
「それより、あんた、まだ洗濯も終わらせてなかったの? あんたひとりだけ裁縫も料理もへたなんだから、せめてほかのことぐらい、手早くこなしたら?」
 とげのある声でそれだけ言い捨てると、カナイはさっさと歩き出してしまった。
 わたしはため息をついて、自分の手の中の洗濯物を見つめた。
 どうしてカナイはわたしを嫌うのだろう。
 カナイが誰にでもおなじように意地の悪い口をきくのなら、がまんできる。でも、ほかの姉さんたちとは、仲良くしているのだ。ちょっとした失敗を、いちいち咎め立てることもなく。
 わたしの何が、あんなにカナイを苛立たせるのだろう。手先が不器用なことが? それとも、おかしなものばかりに興味をもつことが?
 いつからわたしたちは、こんなに険悪になってしまったのだろう。わたしは肩を落とした。昔からずっとそうだったわけではなかった……。
 わたしは気を取り直して、顔を上げた。わたしたちの交わした声はそれなりに大きかったから、向こうで話していたふたりも、カナイがいることに気づいただろう。
 カナイの相手が、早く決まるといい。あまり褒められたことではないかもしれないけれど、そのころ、わたしはよくそんなふうに考えていた。カナイも嫁いだあとまで、わざわざわたしに意地悪をいうために顔をだしたりはしないだろうから。


 そんなことがあってから、数日も経たないうちだった。じぐざぐになってしまった縫い目を相手に、わたしが苦戦していると、母さんが自分の針を止めて、ふと思い出したようにいった。
「そろそろあなたの嫁ぎ先のことも、考えなくてはならないわね」
 わたしはぎょっとして顔を上げ、その拍子に針を指に刺した。
「ほら、気をつけて。なにやってるの」
 わたしは慌てていった。「母さん、わたし、まだ十四よ」
 だけど、母さんは眉を吊り上げた。
「早すぎることはありませんよ。それに、話が決まってすぐにお嫁にいくわけではないもの。準備だっていろいろあるのだし」
 カナイの件といい、母さんたちが急にそろってそんなことをいいだしたのには、理由があった。エオンの月が迫ってきているのだ。
 婚礼は毎年きまって、エオンの月に執り行われる。去年はイラバが嫁いでいった。今年は、いまいる姉たちのうちで一番年かさの姉、シーリーンが。いま母さんが縫っているのは、その祝いに贈るための壁掛けだった。
「だけど、母さん」
 わたしが抗議の声を上げると、母さんは眉をひそめた。それでもくじけずに、わたしはいった。「わたし、お嫁になんか行きたくないわ」
「馬鹿なことをいわないの」
 母さんがそんなふうに強い剣幕でものをいうのは、めったにあることではなかった。わたしは首をすくめたけれど、引き下がりはしなかった。
「だって、お嫁にいったら、もう本は読めないのでしょう」
 母さんは手にしていた縫い物を床に置いた。その表情は、初めて見るくらい、険しかった。
「本を読むのが、お前の仕事ではないのよ」
「だけど……」
「わきまえなさい」
 ぴしゃりといって、母さんは首を振った。「いつまでもここにご厄介になっているわけにはいかないのよ」
 ぐっと言葉に詰まって、顎を引くと、母さんは眉間を指先で押さえて、ため息をついた。
 わたしは邸の厄介者なのだろうか。その考えは、ひどい悲しみをわたしにもたらした。導師はわたしがいつまでもここにいたら、お困りになるのだろうか……。
「トゥイヤ、よく聞きなさい。嫁いで子どもを産み育てるのは、すべての女の大切なつとめなのよ。いい家庭を作って、幸せになることもね」
 ふっと声音をやわらげて、母さんはいった。「心配しなくても、かならずいい人を探してあげるから。あなたを不幸せにするような、おかしな人のところになんて、お嫁にやったりしませんよ」
 わたしを安心させようとするように、母さんは微笑んだ。けれどわたしの心はちっとも晴れなかった。
 母さんは矛盾したことをいっている。二度と書物に触れることもなく、この世界について新たに何も学ぶことができないというのなら、夫となる人がどんなにいいひとだろうと、わたしの幸せはそこにはない。
 だけどわたしがそういうと、母さんはそんなものは甘えだといって、また眉を吊り上げるのだった。
 母さんが、わたしのためを思ってくれているのはわかっていた。だけどわたしは嫁ぐ相手に不満があるのではなく、このお邸を出てよそに嫁ぐということそのものが、嫌でたまらないのだ。
 微笑したまま、母さんはいった。
「不安に思うかもしれないけれど、子どもを持ってみればわかるわ。わたしはお前を産んで、とても幸せでしたよ」
 話がかみ合わないのが悲しくて、悔しくて、わたしはそれこそ子どものように、声を荒げてわめいた。「そうじゃないの。そういうことじゃないのよ……」
 いいあう声は、響いていたらしかった。次の日になって、姉さんたちにからかわれた。
「おかしな子ね。わたしは早いことお嫁にいきたいわ。この辛気臭いお邸をさっさと出て!」
 そう明るく笑ったのは、三番目の姉だった。
「あんたの母さんのいうとおりよ。ここを出て行きたくないなんて、そんなのあんたが甘ったれてるだけだわ。どうせおおかた、男のひとが怖いんでしょ」
 カナイは鼻の頭にしわをよせて、そんなふうにいった。「自分の父親だって知らないんだから、無理もないかもしれないけどね」
「カナイ、それはあんまり意地悪ないいかただわ」
 シーリーンが眉をひそめて、そんなふうにカナイをたしなめたけれど、わたしは打たれたように固まっていた。カナイは鼻を鳴らして、そっぽを向いてしまった。
「大丈夫よ、きっといいひとが見つかるわ」
「そうよ。心配いらないわ、うんと優しくて、トゥイヤのことを大事にしてくれるようなひとが、きっと見つかるから」
 ふたりの姉さんたちは、口々に慰めてくれたけれど、それらの言葉はわたしの心に、ろくに届かなかった。
 カナイのいうとおりなのだろうか? わたしは黙り込んだまま、そのことを考えた。父さんは、わたしが生まれる少し前に死んでしまったという。わたしは生まれたときから、ずっとこのお邸にいた。たまたまほかの姉さんたちにも、兄や弟はいないし、導師にも子どもがない。だから、わたしにとって男の家族は、導師ひとりだった。
 わたしにとっては、ずっとそれが当たり前のことだったけれど、姉さんたちは違う。姉さんたちにはみな、多かれ少なかれ、それぞれの父さんが生きていたときの記憶がある。それまで暮らしていた場所、ここではない家についての思い出が。
 だからわたしは、こんなに嫁ぐことがいやなのだろうか? 男のひとのことを知らないから、漠然と不安を感じているだけなのだろうか。だから姉さんたちのように、恋物語に強く心を惹かれたりしないのだろうか。
 たしかな答えは、すぐに見いだせそうにはなかったけれど、わたしはひとつ、大事なことに気がついた。少なくとも、母さんはそう思っているのだ。
 そう考えれば、これまでの母さんの頑なな態度のわけが、わかったような気がした。
 もうすぐお嫁にいくシーリーンが、ぽつりといった。
「不安になるのも、ちょっと、わからないではないわ」
 とっさにわたしが縋るような目を向けると、シーリーンはわたしを安心させるように、微笑を返した。「でも、大丈夫よ。イラバだって、いい人のところに嫁いだじゃない」
 わたしは落胆して肩を落とした。
 誰にもわかってもらえないのだと、そう思った。悲しくてたまらなかった。姉さんたちは、書物にも、その中に記されている世界のありようのことにも、ちっとも興味がないのだ。本が読めなくなるということが、わたしにとってどれだけつらいものなのか、誰もわかってはくれない。
 それに嫁いでしまえば、もう使者さまとお話しできる機会だって……。
 けれどそれは、誰にもいえないことだった。母さんにも、姉さんたちにも。
 ほかの人には絶対にいわないでと、そんなふうに秘密をわかちあえるほど親しい女の子は、わたしにはいなかった。ただのひとりも。
 菜園や水場、あるいは竈で、近くの家の女たちとは、毎日のように顔をあわせる。年の近い子も何人かいる。雑事の合間に、ちょっとした短い会話をかわすことは多い。だけど、それだけだった。
 彼女たちの興味は、まだ見ぬ婚約者や、恋物語や、そうでなければ彼女らの家族のことに限られていた。わたしは本ばかり読んでいる変わり者で、そのうえ、導師のお邸の娘なのだった。
 何も、特別に避けられたり、嫌われたりというようなことではない。けれど彼女らとわたしのあいだの距離は、いつまでも埋まることがなかった。わたしがほんのちょっとでも真面目な話をすると――それが書物のことや、導師のお話のことではなくて、たとえば菜園に埋める肥料のくふうだったり、暦のなかに見出した不思議な法則のことだったりといった、彼女らにとってもけして全くの無縁ではないはずの内容であっても、彼女らはちょっと目を瞠って、首をかしげるのだ。トゥイヤはとてもかしこいのね。あなたのお話は難しくて、わたしにはよくわからないわ。導師のおそばで育ったひとは、やはり違うわね。
 そう、非はいつだって、わたしのほうにあるのだった。自分でも、よくわかっていた。ほかの女の子たちが好きなことに興味をもてず、皆が関心のもてないことばかりを愛するわたしがいけないのだ。
 どうしてわたしひとり、こんなふうなのだろう。
 ことさらに天邪鬼になって、わざとみんなと違うことを好きになろうとしたつもりはなかった。気づいたときには、皆が好むことをあまり好きになれず、皆があたりまえにできることがうまくやれなかった。人より得意なこともいくつかはあったけれど、それはほとんど誰からも喜ばれず、姉さんたちを呆れさせ、母さんの眉をひそめさせるばかりで。
 わたしが情熱をもって語ることを、導師だけはいつだって微笑んで聴いてくださる。だけど導師は誰のいうことにだって、やさしく耳を傾けてくださるのだ。わたしのいうことは、ほかのひとにはいつだって、まともに理解されることも、共感されることもなかった。しかたのない子ねと、やさしく呆れられることはあっても。
 そう、ヨブ・イ・ヤシャル、あの方のほかには。
 あのひとがわたしの話に興味があるといってくれたことが、わたしには、とても大切だった。たとえそれが、単なるものめずらしさのためだったとしても。
 遠く離れた国の使者さまには伝わる言葉が、いつも一緒にいる母さんや姉さんたちには、どうしてこんなにも伝わらないのだろう。
 いくらそばにいても、たくさん言葉を交わしても、本当にいいたいことをちっともわかってもらえないのは、もどかしくて、寂しい。
 そんなふうに思うのは、とてもぜいたくなことだ。わかっている。この邸のなかでいちばん末のわたしは、母さんたちからも、姉さんたちからも、よけいに甘やかされて、可愛がられてきた。それなのに、それ以上の何を望むというのか。そんなのは、ただのわがままだ。
 だけど、わかっていても、わたしはいつでも寂しかった。
 わたしはずっと、理解者に餓えていたのだ……。


 エオンの月が目の前に迫り、ひと月をかけての婚礼がはじまろうとする頃になると、わたしはため息をつくことが増えた。シーリーンが嫁いでしまったら、寂しくなる。
 当のシーリーンはというと、毎日とても忙しそうだった。婚礼衣装を自分で縫うのが近ごろの流行りだったし、そのほかの嫁入り道具だって、いくら支度をしても、しすぎることはないのだそうだ。あれこれと忙しなく母さんたちに相談するシーリーンの声は、いつも明るく弾んで、新しい暮らしへの期待に満ちていた。
 姉さんたちにとっては、このお邸は仮の住まいで、いつか出て行くべき場所だった。わたしだけが多分、そのことを本当にはわかっていなかった。
 それを思えば姉さんたちが、学ぶことにあまり興味をみせなかったのは、賢明なことだったのかもしれない。好きになってもしかたのないものから、距離をおくというのは。
 そんなふうに考えると、自分がいかにも愚かしく、みっともないように思えてきて、気分は重く沈んだ。
 ふつうの衣服や日用品につかう布は、水草からつくる糸で織るけれど、婚礼衣装のそれは、火の国よりもたらされた、特別の布をつかう。滑らかな手触りの、白い布だ。縫いあがった衣装を、試しにまとってみせたシーリーンは、美しかった。
 いよいよ明日からエオンの月になるというその晩、イラバが邸に泊まりにきた。前に嫁いでいった姉さん、わたしにとっては血の繋がった唯一の姉だ。
 シーリーンも嫁いでしまうし、久しぶりに姉妹でゆっくり過ごそうということのようだった。イラバはその腕に、ちいさな男の子を抱いていた。姉たちは歓声をあげて、かわるがわる赤ん坊を抱いた。
「みんな、元気そうでよかったわ。もっと早くに顔を見にきたかったのだけれど、一度出てしまうと、ここはなかなか敷居が高くて」
 そういってはにかんだイラバは、以前よりも、少し痩せたようだった。
 その腕に、青黒く変色したあざがあることに、誰もがすぐに気づいた。ちょっとね、といって、イラバはわけを話そうとしなかったけれど、おそらく赤ん坊の父親が原因だろうということは、誰もが察していた。婚姻のときにはとても優しそうに見えた、イラバの夫。だけどそれを口に出してしまえば、いまからまさにお嫁にゆこうというシーリーンの幸福に、水をさすことになる……。
 わたしは口を引き結んで、姉さんの腕にしがみついた。
「あらあら、小さな子どもみたいね」
 イラバはそう笑ったけれど、わたしはその手を放さなかった。
 間近でみるわたしの甥は、まだ歯も生え揃わないようすだった。その丸い頬にそっとさわると、赤ん坊の肌はおどろくほどすべすべしていて、やわらかかった。くすぐったかったのか、赤ん坊は声を上げて笑い、わたしの指を、そのちいさな手で掴んだ。よだれでべとべとした指がくすぐったくて、わたしは戸惑った。
「可愛いでしょう?」
 イラバが目を細めてそういうのに、頷き返しながら、わたしは唇を噛んだ。母さんのいったことを思い出した。たしかに、子どもは可愛い。だけど……
 姉の腕に広がる痣に、わたしはそっと触れた。イラバは困ったように笑った。
「たいして痛くないのよ。なんでもないの」
 その言葉を素直に信じることは難しかったけれど、それでも寝息を立て始めたわが子を揺するイラバの横顔は、まるで本当になんでもないというように、穏やかだった。姉さんの長く白い指が、赤ん坊のやわらかい髪をそっと梳くのを、わたしは飽かずにじっと見つめていた。
 ――姉さん、いま、幸せ?
 喉のところまで出かかった質問を、わたしは何度も飲み込んだ。そうではないのだといってほしい自分が、浅ましいような気がして。


 もしわたしが、火の国に生まれていれば。
 その考えは、ふとした拍子に何度も胸の奥から立ち上ってきては、わたしの心を遠くへ飛ばした。その考えがあまりに不遜だというのはよくわかっていたつもりだけれど、それでも夢想は、それ以上に魅力的だった。
 もしわたしが、火の国で生まれ育っていたならば、何かが違っていたのだろうか?
 火の国でも、部族の記録をあつかうのは一部の男の人たちなのだと、ヨブはいった。それなら火の国でもやはり、女が学びたがるのは喜ばれないのかもしれない。そういえば、賢い女を好まない男もいるともいっていた。
 もしも、わたしが火の国の、それも男として生まれていたなら。それならもっと気兼ねなくいろいろなことを学んで、その知恵を、ひとの役に立てていられたのだろうか。あるいは天に輝くというしるべを読んで、みわたすかぎりに広がるという砂の大地を、自在に渡ることができただろうか。
 空想はひどく胸を高揚させたけれど、いつもそんな夢物語ばかりを考えていられたわけではなかった。
 エオンの月には、婚姻にまつわるさまざまな儀式が執り行われる。花嫁であるシーリーンの身内として、わたしも当然、それを手伝わなくてはならなかった。
 シーリーンの夫となる人とも、何度か言葉をかわす機会があった。なんだか気弱そうな話し方をする人だな、と思ったけれど、それ以上の印象はなかった。
 姉さんはこのひとのことを、好きになるのだろうか。ただ漠然と、そんなことを思った。そうして、幸せになるのだろうか。
 普段よりも忙しくはあったけれど、慌しいのはほかの人たちも同じことで、誰も勉強室を使わない日は、普段より多かった。それでかえって、わたしは本を読む時間をとることができた。
 ある日、古い帳面をながめていた。火の国からの荷について書かれたものだ。そのほとんどが、ごく淡々とした記録だったけれど、そのときの変わった出来事や、使者の仰った言葉なども、併せて書き留められていた。
 じきに日暮れというころだった。ト・ウイラのほうから足音が近づいてきて、わたしは本を手に立ち上がった。誰か男のひとがここを使うのなら、いそいで出て行かなければならないので。
「入るよ」
 穏やかな声に、わたしはほっとして、本を机に戻した。いらしたのは導師だった。
 垂れ布をくぐって中に入ると、導師はわたしの顔を見て、微笑まれた。
「ゆっくりお前の顔を見るのは、何日ぶりだろうね」
 導師には、新たに生まれた夫婦への祝福をさずけるお役目があって、毎日のように、色々な祝いの場に呼ばれていた。なんせこの年には、里じゅうで十二組もの婚姻があったのだ。
 書棚に向かうと、導師は一番手前の棚から、一冊の厚い書物を取り出した。それがあまりに分厚く、重そうだったので、わたしは思わず駆け寄って導師を手伝った。
「ことし夫婦になった者たちの名を、控えておかねばな。早いうちに手をつけねばと思いながら、いまになってしまった。手伝ってくれるかね、トゥイヤ」
 近ごろ導師は眼のぐあいがあまりよくなくて、普通に過ごすにはともかく、読み書きに不自由するようになった。わたしは導師の口にした名前を、ひとつずつていねいに帳面に記していった。その中にはもちろん、シーリーンの名もあった。
 全ての名を書き終えると、導師は感慨深げに、ため息をついた。
「シーリーンが嫁いで、寂しくなったな」
 はい、とうなずいて、わたしはそっと、羽根ペンを拭った。ときおり蝋燭の灯芯がくすぶって、炎が大きく揺れる。その明かりに照らされて、導師はいっとき瞑目した。それから目を開いて、わたしの手元を見た。
「今日は、何を読んでいたのかね」
「火の国の記録です」
 わたしは答えて、さっきまで読んでいた記録を開いてみせた。導師はうなずいて、かすかに首を傾けた。
「何か、面白いことは書いてあったかね」
「荷の中身が、その年によってずいぶん違うのを、なぜだろうと考えていました。この年には、麦が不作だったのだろうかとか、次の年にはずいぶんたくさんの銀を運んでいかれたのだなとか……」
 そう答えると、導師はゆっくりと頷いた。
「さて、天つ国の方々にも、なにか私たちにはわからないご事情が、おありなのだろうが」
 導師はそこで言葉を切って、やわらかく苦笑した。
「お前は昔から、なぜ、と問うのが得意だった」
 わたしは反応に困って、首をかしげた。導師は懐かしげに目を細めて、机の上で、ゆっくりと指を組んだ。
「答えるのには、なかなか骨が折れた。思いもつかぬことを訊いてくるのでな」
「ごめんなさい」
 とっさに謝りはしたけれど、わたしはあまり悪びれてはいなかった。笑いを含んだ導師の声は、あきれているというよりも、むしろ楽しげだったので。
「火の国のことに、興味があるのかね」
 どきりとして、わたしはとっさに背筋をのばした。「少しだけ」
 導師は頷いて、わたしの顔をまじまじと覗き込んだ。その瞳は、母さんのそれと同じように、白い薄膜のかかったようになっていた。けれどその瞳にはいつでも、ほかの誰の目にも見たことのない、ふしぎな輝きがあった。
 導師はなにかご存知なのだろうか。内心では不安を感じていたけれど、わたしはなんでもないふうをよそおって、言葉を足した。
「わたしには、不思議に思えてしかたがないのです。火の燃え盛るという国で、どうして人が生きていられるのか。そのようなおそろしい場所で、どうしてあんなふうにたくさんの豊かな品々が得られるのか……」
 その言葉に、嘘はなかった。導師はゆっくりとうなずいた。
「古い物語もそうだが、トゥイヤ、お前は、いまここにないものに、心を惹かれる向きがあるようだ」
 わたしは叱られているように感じて、首を縮めた。けれど導師は、いつもどおりの穏やかな声で、ゆっくりと続けた。
「遠くのものに思いをめぐらせるのは、悪いことではない。だが、すぐ傍にあるものにも、もっと目を向けてみるといい。みなお前のことを、心配している」
 わたしははっとして顔を上げた。みな、というのは誰のことだろう。姉さんたちか、母さんか。母さんが嫁ぐのを厭うわたしの強情さに困って、導師に相談したというのは、いかにもありそうなことだった。
 何か反論の糸口をさがそうとしたけれど、導師の眼を見つめかえしているうちに、何もいえることはないような気がした。導師は本当のことを仰っている。母さんはわたしのことを心配している。わたしの幸せを願ってくれている……。
 わかっている、間違っているのはわたしのほうなのだ。
 導師に頭を下げて、記録をもとの棚に片付けると、わたしは静かに勉強室を後にした。
 ヤァタ・ウイラを歩きながら、急に悲しくなって、わたしは唇を引き結んだ。どうしてわたしは自分の気持ちを、導師に打ち明けてしまわなかったのだろう。いえばよかったのだ。わたしは嫁ぎたくはないのです。ずっとこの邸においていただけませんかと。
 いえなかったのは、隠していることの重さが、胸をふさいだからだった。ああ、どうして秘密というものは、あんなに魅力的なくせに、ときが経つにつれて心に重くのしかかってくるのだろう?


 その年も終わりに近づき、ソトゥの月も残りわずかとなった頃、とうとう母さんが口火をきった。
「あなたも、名前くらいは知っているかしら。ムトという人がいてね。シーリーンのいとこにあたるのだけど。年が明けたら十七になるそうだから、あなたの二つ上ね」
 わたしは身構えて、手にしていた食器を置いた。けれど母さんは、何気ない調子をよそおって続けた。
「とても穏やかで、真面目な人らしいのよ。導師にもお聞きしてみたけれど、いい青年だと仰ったわ。導師がそう仰るなら、何の心配もないわね」
「母さん」
 わたしはとっさに声を上げたけれど、母さんはそれを無視した。「導師のほかにも、いろいろな人から話をきいたのよ。ほかにも評判のいい人は何人もいたけれど、この人が、一番あなたに合っていると思うの」
「母さん、待って」
「話を進めるけれど、いいわね?」
 呆然として、わたしは母さんの眼を見つめた。母さんは微笑んでいたけれど、その眼はとても真剣だった。有無を言わせない、強いまなざしが、わたしをじっと見つめ返していた。
 けれどわたしは、引かなかった。
「ちっともよくなんかないわ。わたしは――わたしは、お嫁になんかいきたくない」
 母さんは笑顔を消して、眉をひそめた。
「まだそんなことをいっているの?」
「いつまでだっていうわ――」
 わたしはいって、まっすぐに母さんの目を見つめ返した。息を吸い込むと、喉がひきつれた。
「女が本なんか読んでも仕方がないなんて、どうして母さんはそんなふうに思うの? たくさん勉強しても、何の役にも立たないの? ただ女だというだけで?」
 言い募るうちに、涙が滲んだ。「このお邸から引き離されて、もう本も読めなくなって、それでわたしが幸せになれるなんて、どうしてそんなことがいえるの? 相手がいいひとかどうかなんて、そんなことじゃないの。わたしは――」
「少し落ち着きなさい」
 母さんはぴしゃりといって、短くため息をついた。その目の色を見て、わたしは失望した。母さんの瞳には、理解の色どころか、わたしのいい分について考えてみようとする気配さえ、ちっとも見当たらなかった。
「そんなにすぐのことではないのよ」
 母さんは、静かな声――なるべく穏やかな調子を心がけようとしているのがわかる声で、噛み含めるようにいった。「でも、あなたもじきに十五になるのよ。もう子どもではないわ」
 母さんはわたしに喋らせまいとするように、早口に続けた。なにも心配いらないのよ、お前はずっとこのお邸で育ったから、不安になるのもわかるわ。だけどみんな最初はそうなのよ。わたしもそうだった、嫁ぐ前にはお前と同じように、不安でいっぱいだったわ。うんと悪い想像もした。でもね、あの人と一緒になれてとても幸せだった。イラバやお前を産んで、幸せだった。大丈夫、トゥイヤにも、これからたくさんの幸せが待っているわ――
 わたしは耐えられなくなって、部屋を飛び出した。母さんが慌てて追いかけてくるのがわかったけれど、足を止めはしなかった。走って、走って、闇雲に邸から遠ざかろうとした。
 悲しかった。どんなに言葉を尽くしても、なにひとつ伝わらないことが。母さんがちっともわたしのことをわかろうとしてくれないことが。それなのに、母さんはあくまでわたしの幸せを考えてくれているのだということが。
 走って、走って、途中でカナイの母さんとすれちがって叱られたけれど、それも振り切って、わたしは邸の外に飛び出した。誰とも話したくなかった。
 邸からずいぶん離れて、水辺へたどりつくと、わたしはやっと足をとめて、壁のくぼみに背中を預けた。ここには夜は誰もやってこないし、もし近くを誰かが通っても、ここなら水音がわたしの気配を押し包んでくれるのではないかと思ったのだ。
 そのままずるずると座り込むと、服越しに岩壁の冷たく硬い感触が伝わってきた。そこでじっと膝を抱えて、長い時間、水の流れを見つめていた。
 水面は黒々として、ところどころが白くきらめいている。ここの天井はひどく高くなっていて、菜園ほどではないけれど、上からかすかに光が降ってくる。ヒカリゴケの淡い明かりとはまた違う、その独特の光は、夜にはあるかないかのわずかなものだけれど、昼間にはもっとはっきりしていて、水面できらきらとまばゆく輝く。いまは、黒い水面がわずかにきらめく程度だった。
 水のそばは、空気が冷たく澄んでいる。わたしは何度も大きく息を吸って、気持ちを落ち着けようとしたけれど、その試みは、なかなかうまくいかなかった。
 嫁ぎたくないというのは、わたしのわがままなのだろう。本が読みたいというのも。里の多くの女たちは、書物になど触れることさえないまま生きてゆく。みなそれで不自由なく暮らしている。母さんのいうとおりだ。
 なぜ、わたしはそれで満足できないのだろうか。ほかの多くの女たちのように。
 ただ知りたいのだ。まだ見ぬものを、この眼で見てみたい。
 そう考えること自体が、強欲なのだろうか。戒律は、欲得をかたく戒めている。人より多くのものを得ようと思ってはならない。すべてのものは平等に分け与えられなければならない。
 食べ物や着るものを、欲張ったことはないつもりだったけれど、不相応に知識を得たいと思うのも、それと同じことだろうか。考えてもわからなかった。わかりたくなかっただけかもしれない。
 それでも、水の音をずっと聞いているうちに、いくらか気分がやわらいできた。
 日をおいて、母さんともう一度話をしてみよう。今度はできるだけ、感情的にならないように。そんなふうにようやく考えられるようになった頃には、かなりの時間が経っていた。
 遠くで、慌しい足音が交錯していた。探されているのかもしれない。
 母さんは心配しているだろう。気づくと急にいたたまれなくなって、わたしは立ち上がった。
 そこに、カナイがやってきた。
 姉さんはわたしに気づくと、足を止めて、うんざりしたように首を振った。それから来たほうを振り返って、こっちにいたわ、と一声叫んだ。その声が通路に反響して尾を引いて、遠くで誰かが叫び返した。
「あの……」
「馬鹿じゃないの」
 怒った声で、カナイはいった。「皆があんたに甘いからって、いくらわがままをいっても通ると思ってるんなら、あんたは馬鹿だわ。自分がどれだけ恵まれてるか、わかってるの?」
 何も言い返せなくて、わたしは黙り込んだ。いつものようにカナイに腹を立てるのも難しかった。
 カナイからしてみたら、わたしはさぞ腹立たしいにちがいなかった。姉さんは早く嫁ぎたいのに、うまくゆかない。わたしは嫁ぎたくないのに、お嫁にいかされそうになっている……。
 どうして逆ではなかったのだろう。代われるものなら代わりたかった。
「ごめんなさい」
 謝ると、カナイは舌打ちして歩き出した。足音がひどく怒っている。話しかければ、ますます機嫌を損ねそうだった。
 カナイの背中を追いかけて歩きながら、わたしは子どもの頃のことを思い出していた。小さい頃、わたしが道に迷って戻れなくなったり、おかしなところに入り込んだまま眠り込んでしまったとき、いつだって探し出してくれたのは、カナイだったのだ。ずっと昔には、わたしたちは、仲のいい姉妹だった。
 あの頃に戻ってしまったかのような錯覚を覚えて、わたしは切なくなった。本当にそうだったなら、どんなにいいだろう。まだカナイと険悪になる前。いつかお邸を出なければいけないだなんて、そんなことを考えてもみなかった頃に。


    3

 そしてサフィドラの月がやってきた。
 姉さんたちに断って、わたしは早朝から勉強室に向かった。書き物机の上にそっと手燭を置くと、灯心が揺れて炎が躍った。
 わたしはまだ読んだことのない本を選んで、机に広げたけれど、内容はちっとも頭に入ってこなかった。ページをめくるたびに顔をあげて、落ち着かない思いでト・ウイラ側の戸口を見た。そうしていればヨブが早くやってくるというわけでもないだろうに。
 裁縫室のほうでカナイが歌っているのが、かすかに聞こえていた。炎の乙女の歌。ああ、一年前にも、誰かがあの歌を歌っていた……。
 待つあいだ、次から次に不安が差し込んでは、わたしの胸を引き絞った。ヨブは約束を覚えているだろうか。覚えていたとして、ここまでうまく人目をさけてやってこれるのだろうか。
 短くなった蝋燭をかえたとき、かすかな足音が耳に届いた。はっと顔を上げて、わたしはト・ウイラのほうを凝視した。あわてて駆け寄るのは、かろうじてこらえた。もしかしたら、導師かもしれないのだから。
 けれど足音が近くに迫ると、そうでないことがわかった。足取りが違う。それに、衣擦れに混じって、金属のかすかに擦れあう音がした。ほとんど椅子を蹴立てるような勢いで、わたしは立ち上がった。
「使者さま」
 戸口に駆け寄って呼びかけると、笑いを含んだ声が返ってきた。「久しいな」
 記憶の中とたがわない、語尾のやわらかく溶ける声だった。
 その声を聞いた途端、あれから一年もの時間が経ったというのが、嘘のように思えた。あの日の続きが、そのまま目の前にあるような気がした。
 逸る気持ちを抑えて、わたしはたずねた。
「今年もまた、ひと月ちかくも歩いていらしたの?」
「ああ」
 使者はうなずいて、それからまた少し、笑ったようだった。
「去年、俺が話したのを、覚えていたのか」
 わたしは目を見開いた。覚えていたか? 覚えていたのかですって!
 忘れられるはずがなかった。叫びだしたい衝動を堪えて、わたしは何度も強くうなずいた。
「覚えているわ。砂漠のなかの美しいオアシス。夜になると天に輝く、道しるべの光――」その声は、自分でも気恥ずかしくなるほど弾んでいた。「ねえ、また星の話を聞かせてくださる?」
 使者が、喉の奥で笑うのが聞こえた。
「まるで幼い子どものようだな。好奇心でいつもはちきれそうになっている……」
 わたしはうろたえて、熱くなった頬を手で押さえた。
「だってこんな話、ほかの誰ともできないし、一年も……」
 しどろもどろになって言い訳をすると、使者は小さく笑い声を立てた。それから、ゆっくりと星にまつわる話を語りだした。
 ときおり天から降ってきて、天の神々の言伝てをつげるという、ほうき星のこと。地上に落ちてきた星を、拾ってしまった男の話。空の上でぐるぐると永遠に追いかけっこをしている、二匹の鼠の話もあった。思わず笑い声を立ててしまったわたしは、あわてて自分の口元を抑えた。姉さんたちに聞こえてしまわなかっただろうか?
 しばらく耳を澄ましたけれど、幸い、誰かがやってくる気配はなかった。
「火の国の天は、とてもにぎやかなのね」
 わたしがため息とともにそういうと、ヨブはまじめな調子でうなずいた。
「ああ。空に輝く星の数は、とても多い。とうてい数えきれぬほどにな」
 それからヨブは、星の数を数えようとして、毎夜毎夜、砂漠の真ん中に座り続けて、いつしかすっかりお爺さんになってしまった男の話を教えてくれた。ひとが老いて死ぬまでずっと数え続けても、なお数え切れないほどの数というのは、どれほどのものだろう?
 星のひとつひとつはごく小さな光だけれど、それがあまりにたくさん空に輝いているものだから、その明かりで、くっきりと足元に影が落ちるのだと、ヨブはいった。
「いまの時節でもそうだが、イディスの月の頃になると、見上げるのが眩しいほどになる」
 はっとして、わたしは顔を上げた。
「月のイディスという名前は、星と関わりがあるの?」
 ヨブはなぜか、その問いに答えるのを、わずかにためらったようだった。ひと呼吸ほどの間のあとに、返事があった。
「その月の夜半によく見える星の名前が、そのまま月の名前にあたる。いまならばちょうど真夜中に、青白く輝くセタ=サフィドラを見ることができるという具合に」
 ああ、やっぱり月の名前には、ちゃんとしたわけがあったのだ! 嬉しくなって、わたしはさっきの不自然な間のことも、すぐに忘れてしまった。
「わたしたちの暦は、あなた方からもたらされたものだったのね。ねえ、ソトゥの月がほかの半分しかないのはなぜ?」
「ああ、それは、星のめぐりのためだ」
 今度はあっさりと、ヨブは答えた。
「星は、ゆっくりと天を巡るといっただろう。その周期が、一年なのだ。十六か月と半分でちょうど、星がもとの位置に戻る」
 ため息をついて、わたしは頭上を見上げた。そんなことをしても、この眼に星が見えるはずもないのだけれど。
 天井に描かれた模様が、いつも決まったとおりの速さでゆっくりと巡っていくようすを、わたしは想像しようとした。それはとても、不思議なことのように思えた。
「どの星もそろって、同じ速さで動いているの?」
 そうだ、とヨブはいった。わたしは首をかしげて、考えた。
「星ではなくて、星の描かれた天井が、まるごと動いているのかしら……。だけど、それは誰が動かしているの? どうやって?」
「さて。神々の偉大なる御手によって、と話にはいうが」
 ヨブは言葉を切って、一呼吸おいてから、ゆっくりと話し出した。火の国に伝わる古い話によれば、星が天を巡るようになったのは、世界のはじまりから、長いときが経ったあとのことだったの。
 世界のはじまりには、ただ暗闇のみがあり、やがてその中で闇がこごって、大地が生まれた。大地の上には、死があった。死せるものと死せる獣だけが、そこに存在していた。やがて途方もなく長い時が過ぎた頃、星が生まれ、火の国の空に光がともされるようになった……。
「星ははじめ、空を巡ることのない、ただの光の粒だったという。あるとき空がゆっくりと回り始め、そうして昼と夜とが生まれた。生きた人間、生きた獣が大地の上に暮らすようになったのは、それからのことなのだそうだ」
 それはとても、不思議な話だった。聞き終える前から、いくつもの疑問がわたしの頭の中に渦巻いていた。
「でも、そのときのようすを誰が伝えたの? 人はまだその頃、生きていなかったのでしょう。それとも、死者が書物を残したの? 死者はそのころには、生きているもののようにふるまえたのかしら……」
 口に出してそういってから、自分で恥ずかしくなった。それこそ子どものような疑問だった。これはお話なのだ。神話は、なにもかもが本当に起こったこととは限らない。
「さて、どうだろうな」
 ヨブも堪えかねたように笑ったけれど、その声音は温かかった。そのことに勇気付けられて、わたしは話を続けた。
「でも、どうしてかしら。死者が先にいたことになっているのね。生きていた人が死んで、死者になるのがふつうでしょう?」
「生まれてくる前には、誰もが死んでいる」
 歌うような抑揚で、ヨブはいった。「砂漠ではそのようにいうが、さて、どうだろうな。少なくとも俺は、自分の生まれてくる前のことを、覚えてはいない。覚えているという者に会ったことも、まだないな」
 それにしても、学問に興味を持たなかったというわりに、ヨブは、いろいろな話を知っているようだった。わたしがそういうと、苦笑が返ってきた。
「これは学問や書物とは、かかわりのないことだ。砂漠の男なら誰でも、物語や詩の百や二百は諳んじてみせる。お前たちだって、書物ばかりではなく、歌や物語によって子どもらにものを教えたりするだろう?」
 それはそのとおりだった。書物には興味のない姉さんたちが、炎の乙女の物語には、目を輝かせる。
「そのような物語は、それぞれに示唆に満ちてはいるが、お前がそうしてみせたように、遠い先を見通すような知恵は、そこにはない」
 ヨブはそんなふうにいったけれど、わたしは首をかしげた。そんなふうに考えてみたことはなかった。むしろ古い予言などは、お話として語り継がれてこそいるけれど、書物にはほとんど残されていない。
 だけどわたしがそのことを口にするよりも先に、垂れ布の向こうで影がゆれ、かすかな衣擦れの音がした。
 もう行ってしまうの。そういいたいのを、かろうじて飲み込んだ。話したいことは尽きなかったけれど、引き止めるわけにはいかなかった。
 わたしはおそるおそる、去年にたずねたのと同じ言葉を口にした。
「また明日もいらっしゃる?」
 訊きながら、これもまたわたしのわがままだろうかと、そう思った。
 迷惑に決まっている。帰りの支度もあるだろうし、長い道のりにそなえて、しっかり身体も休めなければならないのだから。
「ああ。また明日」
 けれどヨブは、そう答えて、その声には、かすかに微笑みの気配があった。


 その夜、ふたりの姉さんたちと何か話をしたと思うけれど、わたしはやはり、なかば上の空のままだった。カナイにいつもの意地悪をいわれても、気づきもしなかったかもしれない。
 昼にヨブから聞いたたくさんの話を、何度も思い返して、どきどきする胸をおさえては、明日のことを心配した。気を抜くと、悪い考えばかりがどんどん胸の底から浮かび上がってきた。ヨブは忙しくて時間が取れないかもしれない。誰にも見咎められずに勉強室までやってくることができないかもしれない……。
 どうか、明日も話せますように。わたしは何度となく祈ったけれど、それを誰に祈っていいのかは、ちっともわからなかった。
 部族をお守りくださるどの神に祈るにも、それは、あまりにあつかましい願いのように思えた。わたしは部族の禁を破り、導師にさえ隠して、火の国の使者と口をきいているのだった。そのことを思えば、いったいどの神様がわたしの願いなど聞き入れてくださるだろう?
 夜が更けても、なかなか寝付かれなかった。何度も寝返りを打っては、姉さんたちの寝息に耳を澄ました。
 あまりにいつまでも眠りが訪れないので、いっそのこと、そっと抜け出して勉強室へゆこうかとも考えた。そんなことをしたところで、こんな真夜中に、ヨブがやってくるはずもないのだけれど。
 ああ、それにしても、今日の出来事はほんとうにあったことだろうか。ついにはそんな考えまで頭をよぎるようになった。もし眠りに落ちて目覚めたら、何もかも夢だったら?
 けれど昼に交わした会話の記憶はたしかなもので、夢などであるはずがなかった。
 ヨブ・イ・ヤシャル。あの方がいらして、星の話をきかせてくれた。
 夜明けを告げる鐘が鳴り、寝床から出ると、一睡もできなかっただけあって、体が重かった。けれど、頭はしっかりと冴えていた。
 姉さんたちはふたりともまだ寝具のなかにくるまって、寝返りを繰り返していた。
「おはよう!」
 声をかけて二人の肩を揺すると、姉さんたちは、そろって訝しげな顔をした。
「どうしたの、今日はやけにご機嫌ね」
「機嫌がよすぎるんじゃない?」
 カナイは眉をしかめて、手のひらで眼をこすった。「まあ、あんたは好きな本を、めいいっぱい読めるからね」
 寝床を片付けて朝食をとりながら、カナイは唇をすぼめた。
「ああ、つまらないったら。毎年毎年、こんなところに三日も押し込められて」
 けれどそういいながらも、カナイはそれほど不機嫌ではないようだった。どちらかというと、表情は明るい。なにかいいことがあったのだろうかと、わたしはもう一人の姉さんと顔を見合わせた。
 食事を終えたあと、姉さんたちはそれぞれに裁縫道具を広げた。カナイの手にあるのは、いつも使うのとは違う、太い針だった。
 不思議に思って見ていると、姉さんが縫っているのは、どうやら帯のようだった。男の人が身につけるものだ。導師に差し上げるものだろうか、それとも伯父さんにだろうか。
 このごろカナイは、急に裁縫が好きになったようだった。どういう気持ちの変化があったのだろう。不思議に思いはしたのだけれど、それよりもヨブがほんとうに今日もやってくるかどうかのほうに気を取られていたので、わたしはそのことを、あまり深く考えてみようとはしなかった。もともと姉さんは、針の扱い自体は上手だったのだし、最近になって楽しさに目覚めたのかもしれない。そんなふうに考えたきり、忘れてしまった。
 わたしも一応、言い訳ていどに針をつけたけれど、すぐに片付けて、落ち着きなく立ち上がった。
「勉強室のほうにいるわね」
 よく飽きないわね、と呆れたような声が飛んできたけれど、わたしは足を止めもせず、いそいそと裁縫室を出た。
 その日に手にとった書物は、何代か前の導師が遺した、覚え書きのようなものだった。今度は少しまともに読むつもりだった。前日のように不安に押しつぶされそうになりながら待つよりも、少し気を紛らわしていたかった。
 書かれている内容のほとんどが、淡々とした日常の記録だった。誰それのところに女子が生まれた。姪から婚礼の祝いに壁掛けをもらった……。何気なくページを繰っていたわたしは、途中、どきりとして手を止めた。
 レヴェの月の第五日、早朝より水が濁り、それを口にした二人の男児が、高熱を出して命を落とした。記録には、そのようなことが書かれていた。
 動揺したのは、少年たちの痛ましい話に同情したためだけではなかった。わたしの父もまた、急な病で落命したと聞いていたからだ。
 あとに続く文面は簡潔なものだったけれど、その筆致は乱れていた。疫が出たときの作法に従い、二人の亡骸は速やかに死者の川へと運ばれた。二人の父親が、ちょうど銀を掘りに出ているところで、流す前に会わせてやることのできなかったのが、哀れだった……。
 病によって死んだ人の亡骸は、弔いさえ待たずに、すぐに死者の川に流される。それは、古くからの定めだった。そうしなければ死の穢れが凝って、ほかの人々にも障るのだという。疫神が、その骸に依って力をふるうのだそうだ。だから遺された者がどれほど泣いて縋っても、けして遺体を運ぶ足をゆるめてはならない……。
 父さんもそんなふうにして、大急ぎで川に流されてしまったのだろうか。母さんはそのときのことを、詳しくは語りたがらなかったから、わたしのほうから改めて訊ねたことはなかった。
 手記によると、そのあと半日ほどで、用水の濁りは元通りになったそうだ。それからも大事をとって、さらに丸一日は水を使わなかった……。
 水以外のものには異常がなかったか、そのときの導師が里を見回って気づいたことや、ほかの人々から集まってきた話の仔細が、事細かに書き取られていた。そのページには、さらに後年のものだろう、別の人物の手跡による検討や覚え書きが、いくつも重ねられていた。
 智とはこうしたものかと、一年前、ヨブはいった。過去を詳細に記録し、それについて複数の人が考えをめぐらせ、時とともに工夫を重ねてゆく。知恵とは、書物とは、そのようなものだ。
 里の男のひとたちが重んじている、そうしたものごとに、なぜ女だというだけで、触れることを望まれないのだろう。そんなことは男の人たちにまかせておきなさいと、母さんはいう。
 ゆううつな物思いに捉えられかけたころ、待ちかねていた足音が響いて、わたしは顔を上げた。駆け寄りたいのをこらえて待つ、ほんのひと呼吸ほどのあいだが、とても長く感じられた。やがて衣擦れの音とともに、ヨブの声がした。
「来ているか」
 わたしは戸口のそばに駆け寄ると、いつものように、そこで膝を抱えた。「来年の荷のお話は、もう済んだの?」
「いいや。いまはみな、まだ休んでいるのでな」
「こんな時間に?」
 わたしが驚いて訊きかえすと、ヨブはなんでもないように答えた。
「砂漠では、夜に旅をするのだ」
 深夜にここを発つと、翌日の昼過ぎに暗闇の路の果てにたどり着く。そこでしばし休んで、日が暮れるのを待ってから火の国に入るのだと、ヨブはいった。
「そうなの……」
 なぜ夜に、と訊ねることは、そのときには思いつきもしなかった。不思議に思ったのは、ずっと後になってからのことだ。それよりも、出発の話が出たことに寂しさを覚えて、わたしは黙りこんだ。
 話ができるのは、今日まで。明日にはまたヨブは旅立ちの支度におわれて、その夜に、発ってしまうのだ……。
 わたしの元気のないのに気づいたのかどうか、ヨブはふと、声を和らげた。
「今日も、本を読みながら待っていたのか」
 ええ。うなずくと、ヨブは感心したように唸った。
「ここにどれほどの書物があるのか知らないが、その調子では、じきに読みつくしてしまうのではないか?」
 その声には、からかうような調子があったけれど、わたしはますます悲しくなった。
「無理よ」
 その声は、自分でそうと思うよりも、悄然としていた。垂れ布の向こうで、ヨブが首をかしげたのだろう、かすかに影が揺れた。
「なぜ」
「ここは、男の人たちが使っていないときだけしか、わたしには使わせてもらえないし、それに……」
 わたしはうつむいた。喉の奥に、熱いかたまりがあるようで、言葉はなかなか出てこなかった。「いつか嫁いでこのお邸を出ることになれば、もう本を読むことなんて、できなくなるわ」
 いって、わたしは唇を噛んだ。無性に悲しくなった。ヨブと話せる時間はかぎられている。こんな話をしたいわけじゃなかった。
 そうかといって、ヨブは黙り込んでしまった。沈黙のなかに言葉をさがす気配を感じて、わたしは無理に明るい声を作った。
「だからいまのうちに、なるべくたくさんの本を読んでおくの。ねえ、火の国のお話を、聞かせてくださる?」沈黙をおそれたわたしは、いそいで言葉をかさねた。「わたしくらいの年のころには、剣の練習をしていたと仰っていたけれど」
 ああ、とヨブは頷いた。
「砂漠の男なら、誰でもそうだ」
「誰でも? ひとり残らず?」
「そうだ。男にとって剣を使えないのは、恥だからな」
「そんなの、古いお話の中だけのことだと思っていたわ。いまも、剣をもっている?」
 答えのかわりに、金属のぶつかる音がした。それは美しい音だったけれど、わたしはどきりとした。刈り入れの鎌よりも大きな刃物なんて、目にしたこともなかった。
「ときには水をもとめて、他の部族と争うこともある。砂漠をわたるときには、追いはぎのたぐいも出るしな」
 追いはぎ、という言葉を、わたしはしらなかった。けれどその言葉の物騒な響きだけは感じ取って、とっさに身を縮めた。
「わたしたちの祖先は、あまりに争ってばかりいたせいで、神々の怒りにふれて、水を奪われたのだそうよ」
「そしてお前たちは、ここへやってきた。すべての争いを捨てて……」
 歌うような声で、ヨブはいった。その言葉の中にある、憧憬のような気配に、わたしは戸惑った。
「争いなど、遠い過去のものとして生きてゆけるのなら、それがいい」
 言葉をきって、ヨブは少しのあいだ、何かを考えるようだった。
「だが、あいにく砂漠に争いは絶えぬ。それに、気の荒い獣もいることだしな。……お前たちの一族の男たちも、暗闇の路と呼ぶのだったか、里の外に出るときには、短刀のひとつもさげてゆくだろう?」
 その問いに、わたしは答えられなかった。
「よく知らないの。わたしにはずっと、男の家族がいたことがないから。父さんは、わたしが生まれる前に死んでしまったのだそうよ」
 その日の朝に思い浮かべた、死者の流れてゆく光景が、話すわたしの瞼の裏をよぎった。
「俺と同じだな」
 ヨブはぽつりと、言葉を落とした。「俺も、父という人の顔を知らぬのだ。戦で命を落としたのだというが」
 ああ。意味のない音が、唇からこぼれた。何か、いうべきことがあるような気がしたけれど、そうしたことに対してふさわしい言葉を、わたしは知らなかった。顔も知らない父さん。ときおり母さんの話の中に顔を出し、言葉の端々にわずかな気配ばかりの残る、影だけの家族……。
 少しのあいだ、ふたりとも黙っていた。やがてわたしは静かに口を開いた。喋ろうと思ったというよりも、言葉が勝手に唇からすべりでてきたようだった。
「この里では、死んだ人の亡骸を、死者の川に流してしまうの。そこの水はね、ほかの水場と違って、とても冷たくて、すごい勢いで流れてゆくのよ。火の国にもそういう場所がある?」
 いいや。囁くように、ヨブはいった。「砂漠では、死者がでると地面に穴を掘って、そこに埋めてしまう」
「ああ、では死んでしまった人たちも、ずっとそばにいるのね」
 死んだあとも近くにいるのならば、残されたものは心強いだろう。わたしは単純にそう考えたのだけれど、ヨブはわたしの言葉を、意外に思ったようだった。
「面白いことをいう。だが、なるほど、そのように考えることもできるのだな」
 布一枚を隔てているだけで、話している距離はとても近いのに、それは、どこか遠いような声だった。歩いてひと月かかるという彼のオアシスに、ヨブは、心を飛ばしているのかもしれなかった。
「ふつう、死者の魂は肉体を離れて、冥府に旅立ってゆくのだという。地の底には、抜け殻となった体だけが残って……」
 冥府、という言葉には、おぼえがあった。古い物語のなかで使われていたのだ。それは、死者の国の別称のようだった。
「わたしたちのほうでは、死者の流れをずっと下っていった先に、水底の国があるというの。死んだひとたちは皆、そこで静かに眠っているのですって」
 そこはきっと、とても寂しい場所だろう。子どものころ、はじめて水底の国のことを聞かされたときに感じたことを、わたしは鮮やかに思い出した。眠れる死者のゆらゆらとたゆたう、冷たくて暗い水……。
「あなたがたの冥府は、わたしたちのゆく死者の国とは、きっと違う場所ね」
 そういったとたん、なぜだか胸が痛んで、わたしは戸惑った。
 ヨブがふと、優しい声を出した。「さて、どうだろうな。いずれ、いやでもわかるだろう」
 その声が、まるでおさない子どもをあやすときのような柔らかさをもっていたので、わたしは急に恥ずかしくなった。
「あきれてる?」
「いいや。何故?」
「わたしが、あんまり何もしらないから」
 ヨブが首を振る気配があった。
「人はみな、己が暮らす場所のほかのことは、驚くほど知らぬものだ」
 その言葉はわたしの胸にふわりと落ちて、そのままお腹の底まで、染みとおっていった。そんなことも知らないのといって、カナイに無知を笑われるたびに、わたしはいつも恥ずかしくて、悔しかった。姉さんこそ、書物の中に書かれているようなことを、何もしらないじゃない。そんな反発を、こらえて飲み込むばかりで。
 ヨブは柔らかな声で続けた。「遠い異国には、驚くほど奇妙な暮らしを送る人々がいるという。それこそつくりごととしか思えないような……」
「遠い国?」
 わたしは自分の耳をうたがって、目を見開いた。
 さきほどまでの話の中身など、どこかに吹き飛んでしまうくらい、ヨブの言葉は、大きな衝撃をともなっていた。「遠い国って? ねえ、火の国のほかにも、まだべつの国があるの?」
 勢い込んで訊いたけれど、ヨブはなぜか、返事をためらったようだった。そのわずかな間に、わたしは違和感を覚えた。昨日もヨブが一度、答えを言いよどんだことを思い出した。
 うっかり口を滑らせたというふうに、その間合いは感じられた。ヨブには何かわたしに、あるいはこの里の人間に、教えてはならないこと、隠さなければならないことがあるのだろうか。そのことにやっと思い至った。けれど、飛び出した問いをひっこめて口の中に押し戻せるほどには、わたしは器用ではなかった。
 それでもヨブは、かすかなため息のあとに、ゆっくりと話を続けた。
「ああ。だが俺も、あまり詳しいことは知らないのだ。この世界にいくつの国があって、どれほどの数の人々が暮らしているのか……。そうしたことを正しく知っている者は、おそらく、どこにもいないだろう」
 わたしは今度こそ、言葉をうしなった。
 この瞬間まで、わたしにとって世界とは、このエルトーハ・ファティスと、そこから続く暗闇の路とのことだった。その範囲、手で触れることのできる世界でさえ、自由に歩き回れるところはかぎられており、まだ見ぬ場所はいくらでもあった。火の国のことも、ヨブからその話を聞くまでは、本当に存在する場所だという実感をもてずにいた。
 けれど、その外にもさらに広がる世界があるという。ヨブの話しぶりからすれば、おそらくは、たくさんの国と、果てしなく続く、途方もないほど広大な大地が。
 それは、どのような土地だろう。どの場所も火の国のように、炎の燃え盛る乾いた土地なのだろうか。それとも中には、こことよく似た、水の豊かな場所もあるのだろうか。そこにはどのような人々が住んでいるのだろう。ヨブのいう、まるで異なる暮らしというのは、どういうものだろうか。
 勢い込んで、わたしはたずねようとした。けれどヨブは、それを制するように、静かにいった。
「だが、それらの国々は、ほんとうに遠い場所にあるのだ。歩いてひと月どころではない、遥かなところに。俺も、これまで一度も行ったことはないし、おそらく生きているうちに、行くことはないだろう」
 ああ。わたしはため息をついた。無知の闇の向こうから鮮やかに立ち上ってきた世界は、ふたたび物語の中の幻想へ戻っていった。けして見ることも触れることもかなわない場所に。
 わたしの声は、よほどがっかりしていたのだろう。ヨブはすこし、慌てたようだった。
「だが、そう。人から人へ、遠い異国より、荷が受け渡されることはある。俺がこうして年に一度、この里までやってくるように。……そら」
 声がして、垂れ布が揺れた。見ればその下、布の端が床にふれている部分から、何かが差しこまれるところだった。
 ほんの一瞬、わたしはヨブの手を見た。大きく骨ばった、手の甲を。
 記録にあった使者の風体から漠然と想像していたような、漆黒の色ではなかった。自分の手とくらべれば、いくらか浅黒い色をしてはいるけれど、ごくあたりまえの人間の手に見えた。
 その手が布の向こうに戻ると、何か細長いものが残った。手のひらに収まるほどの、小さな塊。それは蝋燭の光を受けて、眩しくきらめいた。
「もともとお前たちの里で採れた銀を、異国の細工師が彫ったものだ。……手にとって、見てみるといい」
 わたしは長くためらったあとに、おそるおそる手を伸ばした。指先にふれた感触は、ひやりと冷たく、見た目からは意外なほど重かった。
 手のひらに載せると、それはとてもなめらかな手触りをしていた。
 わたしは眼を凝らし、まじまじとそれを眺めた。銀というものは、もっとごつごつとした、鈍い色の塊であるはずだった。いずれ火の国へわたる荷のひとつとして、お邸に運び込まれた銀の塊を、見せてもらったことがある。こんなものを運んでいって、どうするのだろうと、そんなふうに思っていた。けれど目の前にある細工は、記憶の中の銀塊とは、まるで違うものとしか見えなかった。
 銀の表面には、細かな彫りが入っていた。顔を近づけてよく見れば、それは、なにかの生き物をかたどっているようだった。
 それが何かに似ていると思って、わたしは首をかしげた。それから思い出した。菜園の入り口の壁に彫ってある、守り神の彫刻に、よく似ているのだ。
「この獣は、火の国の神様?」
「いいや」
 ヨブは首を振った。「それは、鳥だ」
「とり……? それは、その遠い国の生き物なの?」
「そうだ。砂漠の空にも、ときおり舞っている。翼があるだろう。それで空を飛ぶのだ」
「蝙蝠みたいに?」
「蝙蝠より、ずっと高いところを、優雅に飛ぶ。……そうだな、書き物をするといったが、鳥の羽で出来たペンを、見たことがないか」
 とっさに振り返って、わたしは書き物机へ視線を走らせた。紙は里の男たちが作るけれど、ものを書くときに使うペンは、火の国から持ち込まれたものだと聞いている。
 あの複雑なつくりをした羽が、もとは生き物の体の一部なのだという事実に、わたしは驚いた。けれど同時に、腑に落ちるような気もした。はじめて導師に字をおそわった幼い日、いったいどのような人間の手が、これほどにこまかい造形をなしえるのだろうと、しげしげと眺めてはため息をついた。あれは、細工ではなかったのだ。
 手の中に視線を戻せば、銀色の小さな鳥は、とても優美な姿をしていた。この生き物が、どのように翼を動かして空を舞うのか、知りたいと思った。
「俺たちの部族はいつも、この里の銀を外へ運んでゆくばかりだからな。回りまわって、お前たちの手元に戻るものが、ひとつくらいあってもいいだろう」
 その言葉の意味を理解するのには、すこし時間が必要だった。何度か瞬きをしたあと、わたしはようやく気付いた。つまり彼はそれを、わたしにくれるといっているのだ。
「それは髪飾りだ。髪に挿してみるといい」
 わたしは喜ぶよりも、むしろ恐れた。「でも、こんな……」
 手の中の鳥と、垂れ布の向こうの影とを交互に見て、わたしはうろたえた。遠い異国からはるばる運ばれてきたというくらいだから、とても価値のある品なのではないだろうか。
 もし彼がそれを、使者のひとりとして、里の皆に対してくだされるのであれば、わたしは気にしなかったかもしれない。けれどわたしが個人として、おいそれと受け取っていいようなものだとは、とても思えなかった。
 迷うわたしを促すように、ヨブはいった。「それは俺の私財だから、気にしなくていい」
 その声には、まるで気負うようすはなかったけれど、それでもわたしは、なおためらった。受け取るにも、返すにも思い切りが足らなくて、いつまでも戸惑っていると、やがてヨブが、ふと思いついたようにいった。
「どうしても気になるというのなら、それの代価と思って、何か歌を、歌ってくれないか」
「歌?」
 わたしはびっくりして、聞き返した。からかわれているのかとも思った。わたしの歌なんかが、こんな細工に見合うとは、とても思えなかったので。
 けれどヨブは、どうやら真面目にいっているようだった。はじめて会った日のことを、わたしは思い出した。いい声だといった、あのときのヨブの声が、まだ耳に残っていた。
 ためらいを振り切って、わたしは腹をくくった。
「――何の歌を?」
「お前の好きなものを」
 そういわれて、なぜわたしは、あの歌を選んだのだろう。
 いや、そのときには選んだという自覚もなかった。最初の一節は、それくらい自然に、唇から滑り出ていた。

 ――麗しき乙女、ひとり、
   明け方、水辺にて憩う。

 それは、自分の声ではないようだった。いったいわたしの歌声は、こんなふうにやわらかい響きをしていただろうか? 歌うこと自体が久しぶりだったせいか、わたしは自分の耳に届く音に、戸惑った。

 ――迷い込みたる男、
   乙女をみとがめていう。
   うるわしき者、汝が名は。

 歌が終わらないうちから、後悔していた。
 炎の乙女は、その場にいるはずのない男の人の存在に驚いて、あわてて逃げ出してしまう。けれどなぜか彼女は、その日のできごとを誰にもいえないまま、次の日の朝、ふたたび水辺へやってくる。二人はすぐに惹かれあい……。
 途中で、わたしは歌い止んだ。その続きでは、乙女は去ってしまった使者を追って、暗闇の路へと入り込んでしまう。男のことを思う一心で、乙女は暗く恐ろしい路を越え、そして命を落としてしまう。火の国の炎に焼かれて。
 悲しい気持ちになって、わたしは俯いた。どうしてこの歌にしたのだろう。自分の愚かしさが胸を刺した。歌なんて、ほかにいくらでもあるのに。もっと明るくて、聴いていて幸せな気持ちになれるような歌、贈り物の礼にふさわしい歌が。
「よい歌だ」
 だけどヨブはそういって、静かな声で、続きはあるのかと聞いた。わたしは首を横に振った。「あるはずだけれど、詞を忘れてしまったわ」
 わたしの嘘にヨブが気づいたかどうかは、わからなかった。ヨブはそうかといって、立ち上がった。わたしははっとして、書き物机のほうを振り返った。蝋燭は短くなって、じきに燃え尽きてしまいそうだった。
「もういってしまうの?」
 前の日には飲み込むことのできた問いを、このときは押しとどめることができなかった。ヨブは少しためらうような素振りをみせたけれど、無理をいっていることは、自分でよくわかっていた。彼がなにかを答えるよりも先に、わたしは言葉を重ねた。
「また来年も、いらっしゃる?」
 ヨブは少し、返事をためらったようだった。困らせているのだと思うと、悲しくて、けれどもう来ないといわれたらと思うと、もっと辛かった。
「――おそらくは。そのときは、またここで」
 柔らかな声の残響を残して、ヨブはいってしまった。
 遠ざかっていく足音を耳で追いながら、わたしはじっと座り込んで、自分の膝を抱えていた。垂れ布をくぐってト・ウイラに踏み込み、ヨブを追いかけて引き留めたいと、そんな馬鹿げたことを考えている自分に、戸惑いながら。
 追いかけて、それでどうするというのだろう。追いすがって、もう少しだけここにいてと、そう懇願すれば、ヨブは彼の役目を後回しにして、足を止めてくれるだろうか? それでほかの使者さま方や、あるいは導師が、姿の見えないヨブを探しにきたら、わたしはどう言い訳をする気なのか?
 やがてすっかり足音が聞こえなくなると、わたしはきつく自分の腕を掴んで、目を閉じた。去年のように、夢見心地でぼうっとしてはいられなかった。
 一年! 一年後なんて、どうしようもなく遠い未来のこととしか思えなかった。わたしはほんとうに一年後、まだこのお邸にいられるのだろうか?
 母さんはわたしの結婚を、そんなにすぐのことではないといった。おそらく今年のエオンの月ということはないだろう。まだ嫁入り道具の用意だって、手付かずだ。けれど、ヨブは来年のことをはっきりとは約束しなかった。おそらく彼にだって、確実なことはわからないのだ。来年がだめだったとして、その次の年は? わたしには、二年後はもうここにいないかもしれない。
 もう一度会えるという、確信が欲しかった。
 わたしは手のひらの熱でぬくもった鳥を握り締めて、いつまでもじっと、その場にうずくまっていた。


    4
 
 どこか上の空のまま、わたしの十五の年は過ぎていった。
 想像の中のものでしかないはずの遠い風景は、いつの間にかわたしの中に深く根付いてしまっていた。まばゆいほどの星明かりに彩られた、広く高い空。乾いてひび割れた大地の上に点在するオアシス、まばゆい光にきらめくその水面。水辺で眼を輝かせて剣を振るう子どもたちの姿。はるかな遠い異国に暮らすという細工師が、背中を丸めて銀の髪飾りに鳥を彫りつける、その工房に響くであろう鑿の澄んだ音でさえ、わたしはまるでこの耳で聞いたことがあるかのように、ありありと思いうかべることができた。それらの空想が、実際の光景とどれほどかけはなれているかは、知りようもなかったけれど。
 ああ、この目でほんとうの砂漠を見ることができたなら!
 サフィドラの月が終わりかける頃になっても、ふとすると心はすぐに現実を離れて、空想の中をさまよった。
 ヨブはまだ、旅の途中だろうか。そんなことを考えながら針を使っていて、ただでさえ不器用なこの指が、まともな縫い物をできるはずがない。何度目かに指先に穴をあけたわたしを、カナイが鼻で笑った。
「あきれた。本当にいつまでたっても、ちっとも上達しやしないのね。十にもならない子だって、もっとましなものを縫うわ。恥ずかしいったら」
 わたしは顔を上げて、カナイを睨んだ。似たようなことは、ほかの姉さんたちだって口にする。だけどそれらの言葉にはいつでも、しかたのない子ねという、親しみを含んだからかいがあった。カナイは違う。その声には、わたしを傷つけたくてしかたがないという、悪意がはっきりとにじんでいた。
「そんな調子で、あんた、いったいどこにお嫁にいくつもりなの? あんたみたいなおかしな娘をもらってくれる人なんて、里じゅうを探したって、みつからないんじゃないの」
 カナイの意地悪な態度に、わたしはとっくに慣れて、あきらめていたつもりだった。だけど、ときには堪えるひまもなく、かっとなってしまうこともある。
 このときがそうだった。わたしはヨブが行ってしまって気がふさいでいたし、以前よりも嫁入りの話を頻繁に繰り返すようになった母さんに、苛立ってもいたのだった。
「お嫁に行きたいなんて、一度だって思ったことはないわ」
 叩きつけるようにそういうと、カナイは鼻で笑った。
「へえ。それで、どうするの。本とでも結婚する気? 虫食いだらけの、ほこりっぽい紙きれの束と? ああ、それならあんたにはお似合いかもしれないわね」
 わたしはカナイに掴みかかろうとした。実際のところ、ほとんどその寸前までいったのだった。頭の芯がじんじんと痺れていた。悔しかったし、悲しかった。カナイがとっさにすくめた肩を、掴んで、思い切り揺さぶってやりたかった。どうしてそんなことしか考えられないのと、問い詰めたかった。
 書物のなかで、どれほど豊かな物語が読まれるのを待っているか、カナイは知ろうともしない。古い時代を生きた人々が、いまのわたしたちとどんなに異なった暮らしを送っていたか。この里の外に、どれほど広大な世界が広がっているかということを。たった一度でも、想像してみたことがあるかと、問いただしたかった。
 けれど、そうした思いが、どんなに言葉を尽くしても、カナイに届くことはないのだと、胸のどこかでわたしはそのことを、わかりすぎるくらいにわかっていた。それに、わたしにはあまりにも、いえないことが多すぎた。誰にも話せないことが……。
 わたしは結局、振りあげかかった手を下ろして、カナイに背を向けた。なによと、虚勢と侮蔑の交じった声が追いかけてきたけれど、わたしは振り返らなかった。そのまま裁縫室を出て、足早に歩いた。
 どうしてカナイはわたしにだけ、あんなふうに意地悪な口をきくのだろう。
 ほかの人に対しては、カナイはふつうに接している。ときおり皮肉な口をきくことはあっても、それは誰かがそそっかしい失敗をしてカナイに迷惑をかけたときか、そうでなければ、明らかに相手に非のあるときだ。それなのにわたしにだけは、取るに足らないような小さなことまで一々あげつらって、意地悪をいう。カナイはわたしのすることなすこと、全てが気に入らないのだ……。
 どうしてこんなふうになってしまったのだろう。
 悲しくなって、わたしは唇を噛んだ。姉さんたちも次々に嫁いで、いまはもう三人しかいない姉妹なのに、どうしてこんなふうに、いがみあっていなくてはならないのだろう。
 どんなふうに振る舞えば、カナイを苛立たせなくてすむのだろう。そんなふうに、冷静に考えてみようともした。けれど、どうしてカナイはわたしのことを、これっぽっちもわかってくれようとしないのだろうと、そんなふうに拗ねてみせる自分の声のほうが、いつも少しだけ、勝っていた。
 気がついたときには、わたしは勉強室の前にいて、ぼんやりと立ち尽くしていた。垂れ布を透かして、中からかすかに明かりが漏れていた。
「どなたか、いらっしゃいますか」
 声をかけると、中で誰かが本を机に置くような気配があった。「入っておいで」
 かえってきたのは、導師の声だった。その声音は、とても温かかった。わたしはためらったけれど、結局は垂れ布をかきわけて、勉強室へと足を踏み入れた。
 部屋のなかにはいつものように、古い紙とほこりと、それから蝋燭の燃えるにおいがしていた。わたしが空気を動かしたためだろう、炎がかすかに揺れて、壁にうつる導師の影をそっと揺すぶった。
 中にいらしたのは、導師おひとりだった。
 男のひとと同じ部屋で、それも二人きりで過ごすなんて、それこそ家族でなければ、とんでもない話だ。けれど男といっても、導師くらいのお爺さんだったら、うるさくいう人もそういないし、なにより導師はわたしたち姉妹に、ほんとうの家族と思うようにと、そう仰ってくださる。
 それでも姉さんたちは、導師とさし向かいで話すのが、とても苦手なようだった。カナイやほかの姉さんたちが勉強室によりつかないのは、ただ本が好きでないからというだけの理由ではない。
 緊張するというのは、わからないことではなかった。導師はとても偉い方なのだから。でも、それと同時に、おひとりの人間なのだ。
 そんなふうにわりきれないと、姉さんたちはいうけれど、導師ははやくに奥様をなくしていらして、子どもがない。わたしたちに家族と思ってほしいと仰っているのは、ほんとうのことだと思う。姉さんたちが距離をおくのを、導師が寂しく思っておられることも、わたしはずっと前から知っていた。
「トゥイヤ、先に頼んだ記録の写しは、どれくらい進んだかね」
 わたしは棚から紙束を取り出して、導師にお見せした。
「もうあとほんの少しです。お急ぎでしたら、いま、続きをおわらせてしまいます」
「いいや。二、三日のうちに仕上げてくれれば充分だ」
 導師はいって、微笑んだ。「お前はほんとうに、読み書きが達者になった。この家の男たちの誰ひとり、お前ほど早く正確に書物を写すことはできないだろう」
 わたしは頭を下げた。導師は子どもたちのよいところを、手放しでたくさん褒める方だ。そのお言葉も、そんなふうなものの一つだったのだろう。けれど、わたしは急に胸が詰まってしまった。
「どうしたね」
 穏やかな声に促されて、わたしは胸のつかえを吐き出した。
「わたし、お嫁になんかいきたくありません」
 導師は首をかしげて、話の先を促された。それに勇気を得て、わたしはずっといえずにいた一言を、ようやく口に出した。
「ずっとこのお邸の娘でいさせていただくわけにはいきませんか」
 わたしの剣幕に、蝋燭の火がゆれて、机にうつる影が歪んだ。導師は瞬きをして一呼吸おき、それからゆっくりと仰った。「そういうわけにはいかない」
 わたしは失望して肩を落とした。導師がそれをおゆるしにならないのであれば、わたしが何をどう母さんに訴えたところで、きいてもらえるはずがなかった。
 だけどここを出て、わたしの居るべき場所がどこにあるというのだろう。読み書きの機会を奪われて、遠い異国の話を耳にすることもなければ、菜園を任されることすら、おそらくはない。女はただ家事と歌を歌うことと、夫の言葉に相槌をうつ以外には、何も求められない。そのような暮らしの中で、わたしにできることがあるだろうか。
「お前の母からは、相手はムトを考えているときいたが」
 導師はそう仰った。わたしは頷いたけれど、導師の顔を見ることはできなかった。
「あの子がここに学びに来ていた、ほんのいっときの様子しか、わたしは知らないが。しかし話をした印象では、とても気持ちのよい青年だったよ。何ごともおろそかにしない、思慮深い子だった。お前とはきっと、気が合うだろう」
 導師もまた、わたしが子どもじみた人見知りから結婚を怖がっているのだと、そう思っておられるようだった。わたしはうつむいたまま、ただ唇を噛みしめていた。導師はかすかなため息を漏らして、それから仰った。「さて、どうしたものか。お前の望まぬことを、強いたくはないのだが……」
 けれど、ここにずっと留まることを許すわけにはいかないのだと、導師はみなまで仰らなかったけれど、その声の響きだけでも、十分すぎるほど伝わってきた。
 少しのあいだ、沈黙が落ちた。それから導師はふっと、遠くを見るような目をされた。
「智恵が必ずしも、人を幸福にするとは限らぬ……」
 ゆっくりと、導師は諳んじた。それは、古い物語からの引用だった。「お前の母の心配も、私には、わからないではないのだ」
「――智に対して眼を塞ぎ、真実を求めることをやめてしまったならば、たとえこの心臓が動き続けていたとしても、わたしの魂は死にいたるでしょう」
 わたしもまた、べつの書物からの引用で答えた。「知ることをやめ、考えることをやめて、どうして生きていられるというのです?」
 導師は困ったように微笑まれた。けれどその笑みの中に、喜びもまた含まれていたように、わたしには感じられた。それともそれは、都合のよい思い込みだっただろうか。導師にとっての自分が、ただきかん気の強い末娘というだけではなくて、役に立つ弟子のひとりでもあったと考えることは。
「お前のように健やかで賢い娘を、この邸に縛り付けて、年寄りの世話ばかりさせておくわけにはゆかぬ」
「縛るだなんて。わたしはここが好きなのです」
 ああ、わかっているとも。導師は優しく仰ったけれど、わたしは悲しくなった。
 思えば小さいころには、よくわがままをいって、こんなふうに導師にあやされたり、なだめられたりしていた。思い出して、わたしは唇を噛んだ。導師にとってもまた、わたしのいうことは、所詮は子どものわがままなのだ。
 わたしが何をいっても、みな、幼い子どもをあしらうように、お前はまだ嫁いで子を持つ幸福を知らぬだけなのだという。女たちばかりか導師でさえそうなら、この餓えるような思いを、誰がわかってくれるだろう。まだ見ぬ遥かな地を、遠い過去や未来のことを、どうしようもなく知りたいと願い続けてしまう、この心を。
 失望するわたしの様子を、導師はいっとき、その白い膜のかかった目で、見つめておられた。
「さて。何か、考えてみることにしよう」
 いつまでも嫁がずにいてよいとは、いえないが。導師はそんなふうに、微笑まれた。「お前の幸せは、私の望みでもあるのだよ」
 その優しいまなざしを見つめ返したとき、いっそ隠し事の何もかもをさらけ出してしまいたいという、唐突な衝動に駆られて、わたしは息を詰めた。来年の不確かな約束のこと。使者が歌うように語った遠い火の国の情景。懐にずっと隠し持っている、銀の髪飾りのことを。
 けれど結局、わたしはただ黙って頭を下げ、やりかけの写本を棚に片付けて、勉強室を後にした。


 その頃から、わたしはときおり、夜更けにひとりで邸を抜け出すようになった。
 母さんも姉さんたちも、すっかり寝静まっている時間。誰かに見つかったら、ひどく叱られるに決まっていたけれど、それでもいいと思っていた。
 足音を忍ばせてひとけのないヤァタ・ウイラを辿り、邸の外へ出ると、いつもほんの少し、息がしやすくなった。
 人目につかぬようにと、明かりのひとつももたずに出かけると、夜の通路は暗かった。ヒカリゴケの明かりは、夜になると弱まる。それでもよく見知った路だけあって、歩くのにさしたる苦労はなかった。何より、わたしはもっと、暗い場所を知っていた……。
 わたしはかつて、暗闇の路に足を踏み入れたことがある。
 葬儀のために、皆とつれだって死者の川のほとりまでいったことなら、誰にでも経験のあることだろう。けれどそうではなく、いつかの幼い日、わたしは誰にもいわず、ひとりで里を抜け出したのだった。
 なぜそんなことをしようと思ったのか、じつはよく覚えていない。姉さんたちと喧嘩でもしたのかもしれないし、いつか参列した叔母の葬儀のときに、お前の父もこの川をくだっていったのだよと、そう聞かされたためだったかもしれない。
 十になったばかりの頃だった。うるさく鳴る心臓をしずめようと、自分の胸に手をあてて、もう片方の手で壁をさぐりながら歩いた。真っ暗闇の中を、ひとりきりで。
 里の中なら、昼間であればどこにいても、いつも誰かの話し声が反響して聞こえているものだ。しかし暗闇の路では、自分の足音のほかには、ほとんど何の音もしなかった。
 静寂というものを、わたしはそこで生まれてはじめて体験した。立ち止まるたびに、自分の耳がおかしくなったのかと思って、何度も頭を振った。死者の川を下った先にある、水底の国というのは、こんな場所だろうかと、そう考えたのを覚えている。
 その静まり返った場所で、かすかな生き物の気配がするたびに、わたしは震え上がって足を止めた。母さんから寝物語に聞かされていた、暗闇の路にひそむおそろしい獣、毒をもつ蜘蛛や蛇たちや、ひとの心に忍び込んで惑わすという姿のない魔物の話が、頭の中をぐるぐると回っていた。
 里から遠ざかるほど暗闇はますます深くなり、まったく何も見えなくなるまでに、たいした時間はかからなかった。
 分かれ道がたくさんあって、迷えば戻れないという話が、きゅうに身に迫って感じられた。わたしは歩きながらずっと、片方の手をごつごつした岩肌に触れさせていた。この壁を辿りながら引き返せば、必ずもとの場所にたどり着くはずだと、自分に言い聞かせて。
 やがてわたしは暗がりで転び、膝をすりむいて、ひとりで泣いた。その声が暗闇の中で幾重にも反響することに怯え、泣き止んで、嗚咽をこらえた。跳ね返るうちに篭もって歪んだ自分の声が、魔物のそれのように思えたのだ。実際に、残響が暗闇に吸い込まれて消える一瞬、わたしは自分のものではありえない誰かの呼びかけを、その中に聞いたように思った。こっちへおいで、と。
 怖くて、怖くて、それでも勢いよく走って逃げるには、あたりは暗すぎた。足を引き摺り、泣きべそをかきながらもと来た路を辿って、ようやく里の明かりが見えたときには、わたしの顔は涙でぐちゃぐちゃだった。邸に戻って家族に顔を見られる前に、どうやって人にしられずに顔を洗うか、わたしは子どもなりに知恵を絞らねばならなかった。あのとき、まるで半日もずっと歩き続けていたかのように思えていたけれど、帰ってすぐに、日暮れの鐘が鳴った。実際にはたいした時間は過ぎていなかったのだ……。
 あの静寂、おそろしいもののひそむ真の暗闇にくらべたら、ヤァタ・ウイラのちょっとした暗がりなどは、どうということもなかった。すぐ近くに誰かが寝息をたてていることがわかっている、このような場所では。
 菜園にたどりついて、わたしは足を止めた。
 空気は、とても清々しかった。首を上げて、わたしは深呼吸を繰り返した。ここの天井は、とても高い。高すぎて、どこに天井があるのかわからないほどだ。
 もっとも、天井が見えないのはそのためばかりではなく、いつも光が差し込んでいるからでもある。明るすぎて、たしかには見定めがたいのだ。
 夜に降り注ぐ光は、その時どきによってずいぶん明るさが変わる。それでも昼間とは違って、もっとも明るいときでさえ、眩しすぎて目のつぶれるほどにはならない。
 隅に座り込んで、胸元からそっと髪飾りを取り出すと、銀細工は天からの光を受けて、きらきらと輝いた。
 いつ見ても、細工の鳥は美しかった。その生き物が、高いところを優雅に飛ぶという様子を、わたしは想像した。
 髪に挿すといいとはいわれたけれど、けしてほかの人に見られるわけにはいかなかった。わたしはこの細工をずっと身につけて、水浴びのときにも、けしてほかの娘たちの目に触れることのないように、慎重に衣服のあいだに隠していた。
 それにしても、この細工のきれいなこと!
 銀なんて、あんな重たいばかりの塊をたくさんもっていって、火の国の人たちはいったい何に使うのだろう――以前にはそんなふうに不思議に思っていたのだけれど、その答えが手の中にあった。磨いてこれほど美しくなるというのなら、ひと月も歩いて運ぶだけの甲斐もあるだろう。それにこうやって光の中で眩しく煌めくのなら、ここよりもずっと明るいという火の国にあっては、いっそう美しく輝くに違いなかった。
 この細工を差し出したヨブの手を、わたしは何度も思い出した。大きな浅黒い手の甲。長く、節くれだった指。それでもわたしたちの手と、それほど大きくは違わないのだと、そう思ったことを。
 ああ、けれどヨブはたしか、はじめてわたしたちの姿を見たときには、驚いたといっていた。目が青く光るとも。だけど、手が二本しかないとはいわなかったし、怪物のように違うということはないだろう。
 ヨブと話していて、驚くことは数え切れないほどあったけれど、それでも彼が、人間ではないもっと特別の存在で、ひとのいうような神の使いなのだとは、わたしは思っていなかった。そう、導師がとても偉い方であるのと同時に、ひとりの人だと思うように。
 こんなことを口に出していえば、それこそ不遜だといって咎められてしまうだろうけれど。


 不遜。不遜というなら、わたしはもっととんでもないことを考えていた。
 きっかけは、暦だった。ヨブの話を聞いたとき、わたしたちの暦はかつて火の国からもたらされたのだろうと、わたしはそう考えた。
 だけど、自分で思いついたこととはいえ、その仮定は、どこか妙な気がした。わたしは何度となく、その違和感の理由を考えてみた。そうしてあるとき気付いた。わたしたちの祖先のもとに、この里にはじめて火の国からの使者がおいでになったのは、いつのことだったのか?
 そのときの記録を、わたしはたしかに、この目で見たことがあった。そしてその記録には、すでに暦が記されていたのだ。ファティス暦三年、サフィドラの月の一日と。
 どういうことだろう? 暦が火の国からもたらされたというのは間違いで、使者がやってくる前から、すでにわたしたちはそれを用いていたのだろうか。けれどそれならば、月の名前に、火の国に独自の言葉を使っていたのはおかしい。
 いや――わたしは首を振った。そもそもその記録自体、最初に書かれたものの写しなのだ。あとになって、誰かが後年の暦にあわせて日付を書き換えたのかもしれなかった。
 それとも、移住よりももっと前から、わたしたちの祖先は、火の国の人々と何かしらの親交があったのだろうか。そう考えれば、無理がないように思えた。
 そんなふうに考えていたとき、突拍子もない思いつきが、わたしのなかにぽっかりと浮かび上がってきた。
 わたしたちの祖先は、はるか昔、神々から水を奪われて、やむなくこの里へ移り住んできたのだという。長くけわしい、暗闇の路をこえて。
 ――暗闇の路の、そのむこうには、何がある?
 その考えに至った瞬間、わたしは激しく首を振って、あわてて自分の思いつきを打ち消そうとした。けれど一度考えついたことは、消えてなくなってはくれなかった。
 わたしたちの祖先は、火の国からやってきたのではないの?
 だからわたしたちは、星の名前を用いた、かれらと同じ暦を使っているのではない?
 セイラ・ウェルヤ。星の数ほど、というその言葉のことを、わたしは思い出した。そのいいまわしもまた、火の国からやってきたのだろうか? そんなふうに、遠い異国の想像しがたいようなたとえが、わたしたちの言葉に、当たり前のように深く根付くものだろうか? 誰も疑問には思わなかったのだろうか、ウェルとはなんだろうかと。
 わたしたちの祖先は、空に広がる数えきれないほどの星々を、その目で見ていたのではないの?
 暗闇の路はとても複雑に入り組んで、長く広く、どこまでも続いているという。火の国へ続く路は、そのなかのひとつに過ぎないのだと。だからその考えは、ほんとうにただの思いつきで、何も確証のあることではなかった。
 だけどもし。もしもその突拍子もない思いつきが、本当のことだったとしたら。
 わたしたちは、火の国へゆくことだって、出来るのではないだろうか。この眼でみわたすかぎりの砂漠を、星のしるべが無数に煌くという天を見ることだって、できるのではないか。
 ひとの暮らす火の国が、燃え盛る炎に包まれた土地だなんて、ほんとうにそんなことがあるだろうか。火の国の人々は、神の加護によって炎に焼かれることのない肌を持っているのだと、これまでいわれたとおりに信じてきたけれど、そのようすを目の当たりにした者が、いったいどこにいるだろう。
 かつて炎の乙女は、火の国に踏み入って、炎に焼かれて死んでしまった。けれど、あの歌がただの作り話ではないのだと、誰に証を立てることができるだろう?
 その考えが頭をよぎるたびに、わたしはぎくりとして身をすくませた。心臓は恐怖に縮み上がり、忙しない鼓動を鳴らした。
 何度となく、自分に言い聞かせようとした。そんなのは子どもじみた空想だ、自分につごうのいい夢物語だと。
 だって、もし仮にその考えが当たっているのだとしたら、どうして誰も火の国へいってみようとしないの? そう思う一方で、もうひとりの自分がいう。みな、まさかそのようなことは、夢物語にも思わないからだ。
 火の国へゆけば、炎に焼かれて死んでしまう。もしそれらの話が嘘だとしたら、誰がなんのために、そのような嘘をついたのか。
 あれほど詳細な記録を残しつづけている代々の導師が、なぜ移住の前のことは、ほとんど記していないのだろう。もっとも古い記録は、そう、あの神話なのだった。一族の移住にまつわる英雄譚。あれよりも古い記録は、残されていないのだ。
 そのことを、これまで一度も疑問に思わなかったわけではなかった。けれど、過酷な旅のあいだには、誰も書物を持ち歩くような余裕はなかったのだろうと、そんなふうに納得していた。以前の記録はそのときに失われてしまったのだろうと。
 だけど、それがもし、故意に隠されているのだとしたら?
 ――智恵が必ずしも、人を幸福にするとは限らぬ。
 導師の声が、ふいに耳に蘇った。知らないままでいるほうが幸せなこともある。導師が引用したもとの書物は、そのような訓話ではなかっただろうか。
 考えは四方に散り、だからといって何ができるでもなく、わたしは自分の想像に怯えた。
 ああ、人にはいえないようなことばかり!
 炎を待たずとも、自らの考えの罪深さに焼かれて死んでしまうのではないか。ときにはそんなふうに考えることさえあった。そんなとき、わたしは手の中の銀細工を握り締めて、恐怖が去るまで、じっと膝を抱えていた。


 やはり菜園へ忍び込んで物思いに耽っていた、ある晩のことだった。
 長い時間をそこで過ごしたあと、わたしは服についた土を払い、立ち上がった。戻って寝床に潜り込むつもりだった。
 空気はつめたく澄んで、見上げると、天から降り注ぐ白い光は、眼の痛くなるような眩しさだった。ヨブの語った砂漠の空、眩しいほどになるという星明かりも、こんなふうだろうか。そんなことを思いながら、わたしは菜園をはなれた。
 そのとき、人の話し声がした。
 わたしはとっさに息をつめて、その場で立ち止まった。誰だろう、このような時間に。耳を澄ますと、話し声はどうやらすぐ近く、竈のあたりから聞こえているようだった。
 近くの家々の女たちが共同で使う竈だ。真夜中に用のあるものなどいるはずがない。訝しく思って、わたしは耳を澄ました。
 よく聞けば、ひとつはカナイの声のようだった。わたしは意表をつかれた。カナイがこんなふうに夜中に抜け出すことがあるなんて、思ってもみなかった。けれど考えてみれば、あのお邸の中が窮屈でたまらないというのが、姉さんの口癖だった。もし彼女がひとりでここにいるのだったら、わたしはそれで納得しただろう。けれど、聞こえてきたのは二人ぶんの声だった。
「――帯をありがとう、カナイ」
 わたしは打たれたように立ちすくんだ。それは低い、男のひとの声だったのだ。
 先にカナイが縫っていた、男物の帯。急に裁縫が好きになったカナイの、嬉しそうに針を使う横顔が、脳裏をよぎった。
「このつぎは、いつ会えるの?」
「――わからない」
 わたしはぎゅっと自分の服の裾をつかんだ。カナイの声は、いつもの調子とはまるで違っていて、切実な、すがるような響きをしていた。
 それと対照的に、男のひとの声には、ためらうような間があった。
「だけど、もう会わないほうが……」
「いや、そんなの!」
 叫んで、カナイは口をつぐんだ。声が響いて、誰かに聞かれることをおそれたのだろう。それからひそめた声で、カナイはいった。「ねえ、お願いよバルトレイ――」
 どきんと、強く心臓が跳ねた。わたしはその名前を知っていた。導師のもとに通う青年たちのひとり。カナイと曽祖父を同じくするという、そのひとの名前だった。
 わたしは状況を理解して、悲鳴を上げそうになった。かろうじてそれを飲み込むと、足音を立てないように、じりじりと後ずさって、菜園へ引き返した。
 握りしめた手が、ひどく冷たくなっていた。お願いよと、すがるようなカナイの声が、耳の中をぐるぐると回った。
 ああ、なんてことだろう。カナイ、それはきっと許されない。
 どうしたらいいのだろう。引き返して、ふたりを思いとどまらせるべきなのだろうか。ほかの人に知られる前に、もう会うのはよしたほうがいいと。だけど、カナイがわたしのいうことなんて聞くはずがない。
 それならばそっと、誰かに耳打ちするべきなのだろうか。導師か、そうでなければ、カナイの母さんに。けれどそんなことをして、どんな騒ぎになるか……。
 知らないうちに、自分の手が服の上から、銀の髪飾りをきつく握り締めていることに気がついて、わたしはうろたえた。
 カナイをたしなめる? どんな顔をして?
 わたしのしていることが、カナイのそれと、どれほど違うというのだろう。わたしはあの方と恋仲にあるわけではない。けれど、ほかの人の眼からみたら、なにひとつ変わらないように映るのではないか。いや、使者さまに無礼を働いているという点を考えれば、わたしのほうがよほど、罪は重いのだ……。
 だけどわたしは、そのことを認めたくなかった。わたしたちの場合は、ふたりとは違う。わたしが遠い異国の話を聞かせて欲しいとせがんで、あの方はその子どものわがままに、ただつきあってくれているだけなのだから。けれど、そう考えた瞬間、なぜかわたしの胸はひどく痛んだ。
 自分が何に傷ついているのか、どうしてこれほど動揺しているのか、わからなかった。混乱したまま、わたしは長い時間、じっと菜園のすみでうずくまっていた。
 長い時間が過ぎたあと、ふらつきながら立ち上がり、もう二人の姿がないことを確認して、お邸に戻った。
 けれどそんな状態で、寝付かれようはずもなかった。わたしは寝床の中で、まんじりともせずにひと晩をすごした。どうしたらいいのだろう。わたしはどうするべきなのだろう。
 ぐるぐると答えのでないことを考え続けて、やがて夜明けを迎えたとき、わたしはようやく心を決めた。昨夜耳にした会話のことを、誰にも明かすまいと。


 一年はひどく長かった。
 けれど、早くときが過ぎることを待ちわびつつも、わたしはその同じ心のどこかで、そのときがやってくることを、恐れていたような気がする。
 来年のサフィドラの月、ほかに誰もいない静まり返った勉強室で、ひとり落胆するくらいなら、いっそのこと、また会えるかもしれないいつかの日を、永遠に待ち続けているほうが幸せなのではないかと、そんなふうに考えるときさえあった。
 年の瀬も近づくころには、母さんは、わたしの婚礼衣装を縫いはじめていた。結婚の話になると、わたしは不機嫌に黙り込んだり、逃げ出したりしたけれど、それで話をなかったことにできるわけではなかった。わたしが何をいっても、何をしても、母さんにしてみれば、それは子どもの駄々にすぎないのだった。
 いっそ、何かとんでもないことをしでかしてみてはどうかとも考えた。とてもこのような娘を嫁にもらうわけにはいかないと、誰もが思うように仕向けることはできないだろうかと。
 けれどいざとなれば、そんなふうに母さんや導師の顔に泥を塗ることを、行動に移す度胸がなかった。
 勉強室にいるあいだは、そうした憂鬱から離れて、たくさんの魅力的な物語や、過去の歴史に心を飛ばすことができた。けれど、わたしがきっとそれらの半分にも眼を通せないであろうことが、ときには勉強室で書き物机に向かっているときにさえ、わたしの心を沈ませた。
 ある日、導師が仰った。
「心の用意が整わないというのなら、婚礼を先延ばしにすることはできるだろう。相手がどうしてもいやだというのなら、話をとりやめて、ほかの若者をさがすことだってできる。だが、時間を止めてお前をいつまでも子どものままでいさせてやることは、誰にもできないのだよ」
 それはけして咎めたてるような語調ではなかったけれど、それでもわたしには、その言葉がとても堪えた。自分がいっているのがただのわがままで、導師や母さんのいうことが正しいのだと、わたしは知っていた。けれど正しいからといって、心が沿えるわけではなかった。
 やがてソトゥの月も間近になったころ、前触れなくイラバが子どもを連れて、泊まりにきた。顔を出した理由を、姉さんはいわなかった。ただ久しぶりに遊びにきたのだというふうに、母さんやわたしを抱きしめた。
 イラバの子どもは、もう赤ん坊ではなかった。姉さんの裾につかまり立ちをして、不明瞭な言葉でなにかをいっしょうけんめいに喋ろうとしていた。
 ほかの姉さんたちも、喜んで甥にかまいつけて、それで興奮した甥は、顔を真っ赤にして何度も高い声を上げた。母さんが眼を細めて孫の姿を眺めているのを見て、母さんがイラバを呼んだのかもしれないと、わたしは考えた。意固地になって嫁入りをいやがるわたしを、説得するために。
 けれどイラバは、わたしを叱りもしなかったし、何かをいいさとそうという気配もさせなかった。
 女たちでそろって食事を囲み、ひとしきり互いの近況を交換しおわると、広間はふっと静かになった。みなそれぞれに洗い物も終えて、縫い物の続きをするか、部屋に戻って休むかしていた。
 イラバは眠りかかった子どもを抱えて、やさしくゆさぶりながら、歌をうたってやっていた。それは、耳になじんだ歌だった。炎の乙女の歌。
「子守唄に、その歌なの?」
 わたしが聞くと、イラバは自分でも気づいていなかったというように、ちょっと眼を丸くして、それから悪戯っぽく笑った。
「あら、そうね。変だわね」
 そういって、けれどイラバはその歌の続きを口ずさんだ。あいかわらず、姉さんの声は美しかった。
 蝋燭を手元によせて刺繍をしていた母さんが、深くため息をついた。
「よして頂戴。みんな、あんなおかしな歌にして、面白おかしく好き勝手なことばかりいうけれど、あのひとはそんな女じゃなかったわ」
 わたしたちは驚いて、母さんを振り返った。
「母さん、炎の乙女を知っているの?」
「知っているもなにも。母さんの生まれた家の、すぐお隣の娘だったのよ。年もひとつしか違わなくて、よく話したわ」
 姉さんとわたしは顔を見合わせた。姉もまた、初耳のようだった。
「もっとずっと昔の話だと思ってたわ、百年とか、二百年とか前のことだと」
「そんなはずがないでしょう。エヴェリーシカが亡くなったのは、イラバ、あなたが生まれるほんの少し前でしたよ。可哀そうに、川に落ちてね」
 その言葉に、わたしは二度驚いた。
「炎の乙女は、火の国の炎に焼かれて亡くなったのではないの?」
「いいえ。そりゃあ、顔も手足もひどい火傷をしてね、ずっとあとが残ってしまっていたけれど。眼も、ほとんど見えていなかったのではないかしらね。結局、エヴェリーシカはお嫁にもいかないまま……。気の毒なことだったわ」
 深く息を吐いて、母さんはこめかみを揉んだ。
「だいたい、あなたたちが妙な歌にして歌うような、色っぽい話ではなかったのよ。ああ、かわいそうなエヴェリーシカ。あの子はたしかに、使者さまのあとを追いかけていったのでしょうよ。だけどね、あの子にはわけもわかっていなかったのよ」
「どういうこと?」
 わたしが訊くと、母さんはきつく眉間に皺を寄せたけれど、ため息をついて、教えてくれた。
「エヴェリーシカの頭のなかは、すこし、ひとと違っていたのね。そう、彼女はずっと、小さな子どものままだったの。見た目は年頃のきれいな娘でもね」
 そこで言葉を切って、母さんはわたしをちらりと見た。「トゥイヤ、あなたはまたべつの意味で、いつまでも子どものようだけど」
 わたしはその言葉に気が咎めたり腹を立てたりするよりも、話の中身に気を取られていた。
「じゃあ炎の乙女は、何もわからずに暗闇の路に踏み入ってしまったの?」
「そうよ。あのことがあるずっと前から、あの子はよく、ふらふらとおかしなところに迷い込んでいたものだから、しょっちゅう皆で探したわ。ひとの家に上がりこんでみたり、ト・ウイラに入り込んでみたり」
 そう話す母さんの肩は落ちて、ひどく悲しげだった。もっとよく彼女のようすを気にかけていれば、大事にならずに済んだのではないかと、いまでも母さんは思っているようだった。
「あのおかしな歌では、使者に恋焦がれてなんて、無責任なことをいっているけれど、あの子をよく知っている人は誰も、そんなことは思わなかったわ。男のひとのあとを追いかけていくことを、はしたないとさえ、あの子は思いもしなかったでしょうよ」
 追ってきた娘の存在に、使者さま方が気づいてくださらなかったら、あの子はきっとそのまま死んでいたでしょう。母さんはそういって、遠い過去を見通すような眼をした。
「気の毒に」
 姉さんはいって、そっと祈りのしぐさをしたけれど、わたしは薄情にも、他のことに気をとられていた。炎の乙女が使者を追いかけたせいで死んだというのは嘘でも、火の国が、膚を焼かれ眼がつぶれてしまうような、恐ろしい場所だということは、ほんとうの話だったのだ……。
 考え込むわたしの様子がおかしいことには、母さんは気づかないようだった。
「だから、あんまりおかしな歌を歌わないで頂戴」
 そういって、母さんは立ち上がった。「お茶のおかわりを用意するわ。カナイ、手伝ってくれる? あなたの淹れるお茶はおいしいものね」
 カナイをつれて母さんが出てゆくと、イラバはため息をついた。それから腕の中ですっかり眠り込んでいるわが子を、優しく揺すぶった。
 その姉のしぐさを見つめながら、わたしは子どものようだったという乙女について、じっと考えていた。子どものような心をもった、無邪気な少女――危険もわからず、ただ子どもが大人になついてそのあとを無心についていくように、使者の背中をおいかけていった……。
 少しして、イラバがいった。
「ねえ。炎の乙女は、ほんとうに恋をしていなかったのだと思う?」
 内緒話のときの声だった。イラバの眼は、悪戯っぽく輝いていた。
「わからないわ……」
 わたしはどきりと心臓が跳ねるのを自覚しながら、なんでもない調子を装って、首を振った。姉が何かに気づいているのかと思ったのだ。けれど、そうではなかった。姉は、みずからの過去を振り返っていたのだった。
「暗闇の路は、とても長くて険しいというわ。わたしだったら、好きでもない人を追いかけるのに、そんな遠くまでいったりできないわ。いくら心が子どもだったとしてもね」
 姉の言葉に、わたしははっとした。それから思わず声をひそめた。
「姉さん、好きなひとがいたの?」
 ふふ、と笑って、姉は肩をすくめた。
「昔の話よ。ほかの人にはいわないでね」
「それは、義兄さんのことではないのよね?」
 小声でわたしが聞くと、姉は面白がるように、わたしを見た。
「ええ。……あなたがそんな話に、興味を持つなんてね」
 わたしはどきりとして、動揺をごまかすように、いそいでいった。「ねえ。そのひとを追いかけてゆかなかったことを、後悔している?」
 姉は少し、考えるように眼を閉じた。それから、穏やかな声でいった。
「いいえ。いま、わたしはとても、幸せだもの」
 わたしは納得のいかない思いをもてあまして、姉の横顔を見つめた。けれど、よく見れば去年には姉の腕にあった青あざは、すっかり消えてしまっていたし、いつになく痩せていた去年とはちがって、姉の頬の線には、丸みが戻っていた。それに、腕の中の子どもをのぞきこむ姉の瞳には、嘘があるようにはみえなかった。
 なぜか裏切られたような気がして、わたしはイラバから目を逸らした。
 好きではない人のところに嫁いで、幸せだなんて、どうしたらそんなふうに思えるの。その問いかけは、すぐ口元までこみ上げていたけれど、わたしがそれを口に出すことは、ついになかった。


    5

 そうしてまたサフィドラの月がやってきた。
 朝から、母さんと言い争いになった。そろそろ婚礼衣装も仕上げなくてはならないわね。そういいだした母さんに、わたしは声を荒げた。わたしは嫁ぎたくなんてないっていってるじゃない。
 何度声を嗄らしても、母さんはまともにきいてくれなかった。
「みんなそういうの。でもね、大丈夫。何も心配いらないのよ。不安なのは最初だけのこと。よい家庭をもって幸せになるのは、あなたの義務でもあるのよ」
 一年半ものあいだ、ずっと同じことを言い続けて、けれどそれらはひとつも伝わることはなく、いつまでも話はすれ違い続けた。かみ合わない口論は虚しく、わたしの言葉は次第に強くなり、しばしば母さんをひどく傷つけた。
 どうして伝わらないのだろう。
 その頃わたしは、母さんを憎んでさえいたかもしれない。けれど本当はその怒りが、筋違いであることを、自分でよく知っていた。わかってくれないというわたしのほうこそ、母さんにいわずに隠している秘密が、いくらでもあるのだった。隠したいことは隠し、いいたいことだけをいって、それで理解してもらおうなんて、そんな都合のいい話があるだろうか?
 話はいつものようにかみ合わないまま、その日、奥に追い立てられて、わたしは勉強室に篭もった。
 朝の喧嘩からあとを引いていた苛立ちは、じきに、不安にとってかわった。ああ、本当にあの方は今年もいらっしゃるだろうか? いらっしゃらなかったとしたら、来年は?
 来年。来年、わたしはこの邸にいられるのだろうか。母さんは、できれば今年のエオンの月には、わたしを嫁がせたいと思っている。わたしは十五で、それはお嫁に行くのに遅いということはないけれど、けして早すぎもしない齢だった。
 せめてもう少し待ってと、いくらわたしが縋りついたところで、母さんはそう遠くないうちに、話を進めてしまうだろう。そうすれば、イラバのようにこのお邸にたまに顔を出すことくらいはできるかもしれないけれど、サフィドラの月の一日に、ここでヨブを待つことは、もうできない。
 その考えが繰り返し頭をめぐっては心を乱し、わたしは何度も立ち上がっては、書き物机に戻った。息が詰まるようだった。
「来ているか」
 垂れ布の向こうから、懐かしいその声がしたとき、わたしはこらえかねて、泣き出した。
「ええ」
 それでも、なんでもないふりを装って返事をしたけれど、その声が震えていることに、ヨブは気づいたようだった。
「泣いているのか」
 わたしは頬を拭い、嗚咽を飲み込んで、震える息を吐き出した。それから無理に、明るい声を出した。
「なんでもないの。ねえ、また、星の話を聞かせてくださる?」
 ヨブは困惑したようだったが、やがて、あの低くやわらかな抑揚の声で、星の話をひとつ、語って聞かせてくれた。ひとの定めをつかさどるという星の話を。ときにひどく残酷で、ときにひとに希望を与える、ひときわ大きく天に輝く白い星……
 その話が終わるころには、わたしは泣き止んでいた。
「どうかしたのか」
 そう問いかけるヨブの声は穏やかで、けれどほんの少し、うろたえていた。
 ごめんなさい、気にしないで。そういおうとした口は、けれど違う言葉をこぼしていた。「知りたいと願うことは、そんなにわがままなことかしら」
 きっとそんな話をされても、ヨブは困るだけだろう。わかっていて、それでもいわずにはいられない自分の幼さを、わたしは恥じた。子ども扱いされることが、いやだったはずなのに。けれどいちど話しだせば、あふれてくる言葉を押しとどめることはもう難しかった。
「わたし、もっと色んなことを知りたいわ。外の世界がどんなふうか、この目で見られるものなら、見てみたい。それが無理なら、せめてお話や書物の中でもいいから、少しでも知りたいの」
 ヨブは黙って話を聞いていた。一度止まったはずの涙が、ふたたびこみあげてくるのをこらえながら、わたしは続けた。
「でもみんな、わたしがそういうと、そんなのはわがままだというのよ。そんなことを知りたがるわたしは、おかしいというの。わたしはおかしいかしら? 幸せって何? 目を閉じて耳を塞げば、それで幸せになれるだなんて、そんなことがあるかしら」
 途中からはもう支離滅裂だった。わたしは自分でもそのことに気づき、恥じて、口をつぐんだ。
 ヨブはしばらく考えるように黙っていた。それから、低い声でいった。
「多くの者は歳をとるにつれて、しだいにその目を曇らせてゆくものだ。真実を目の当たりにすることをおそれ、未知なる物を理解しようとすることをおそれ、己の築いてきたものの見方を、かたくなに押し通そうとする」
 わたしは膝を抱えて、その声に耳を済ませた。
「幼い頃に誰もがそうだったように、まっすぐに世界への興味を持ち続けていられるというのは、得難いことだと、――俺はそのように思う」
 その声は、優しかった。それなのに、わたしは再び泣かないようにするのに精一杯で、あいづちさえ、まともに返せなかった。
「思えば俺は、いつも欺瞞で己の目を曇らせることばかりしてきたような気がする。常に疑い、決めつけ、己の心を騙しながら、生きてきたように思う……」
 わたしは驚いて、目を瞬いた。その拍子に睫毛から涙がこぼれて、床に落ちた。
「あなたがそんな方だとは思えないわ」
「さて、どうだろうかな」
 ヨブは苦笑した。それから何かいいたげに口を開きかけて、思いとどまる気配が、布越しに伝わってきた。
 いっときして、ヨブは切れ切れに、今年の荷の話をはじめた。火の国での作物の出来、遠い異国から運ばれてきた荷。どんなふうに星を辿って、ここまでやってきたか。途中で見舞われた砂嵐……。
 嵐という言葉を知らなかったわたしに、ヨブは、風の激しく吹き荒れるさまを、苦労しながら説明してくれた。
 わたしは言葉すくなに相槌をかえしながら、せめて一言も聞き漏らすまいと、耳を澄ましていた。それ以外に何もできることはないのだからと、自分に言い聞かせて。
 ときおり灯心がじりじりと音を立て、蝋燭のあかりが揺れた。ヨブの声は低く、音楽的な抑揚をもって、心地よく響き続けた。
「トゥイヤ? 誰と話しているの?」
 わたしはびくりと肩を跳ねさせた。
 声がしたのは、ヤァタ・ウイラのほうからだった。ヨブが立ち上がるのが、垂れ布ごしのかすかな音でわかった。足音を立てないように、遠ざかっていく……
 声は、カナイのものだった。どうして、いまなの。わたしがここで本を読んでいても、いつもなら近寄ってこようともしないのに。叫びだしたいのをこらえて、わたしは半ば壁にしがみつくようにしながら、よろよろと立ち上がった。
 ヨブの話し声は、いつもどおり低くひそめたものだった。裁縫室まで声が届いていたとは思えない。
 それとも、それまでこんなふうなことが一度もなかったことのほうが、幸運だったのかもしれない。けれどそう納得するのは難しかった。
 苛立ちを押し殺し、なんでもないような声を作って、わたしはいった。
「――誰もいないわ、姉さん。ひとりごとでもいっていたかしら?」
 ヤァタ・ウイラから垂れ布をくぐって、カナイが入ってきた。その表情は、はじめからひどくけわしかった。声がするまで、カナイが近づいてくる足音に気づかなかった――そのことの意味に、わたしはようやく気付いた。
「ごまかしたってだめよ」
 カナイはト・ウイラのほうに視線を投げて、そういうと、振り向いてわたしを睨んだ。
「何もごまかしてなんかいないわ」
 カナイはじっと、光る目で、わたしを睨みすえた。何を訊かれても、しらばっくれてみせるしかない。わたしは無表情をよそおっていた。カナイはそんなわたしを見て、皮肉げに唇だけで笑った。
「誰と会っていたの? いつまでも子どもみたいに本に夢中だなんて、わたしたちみんな、すっかり騙されてたってわけね」
 ふっと、笑みを消して、カナイは厳しい声を出した。
「わかってるの? あんたの母さんがこのことを知ったら、どんな顔をするかしら」
「ねえ、さっきから何のことをいっているの。姉さん、何か勘違いしてるんじゃない?」
 よくもまあ、そんなふうにしらを切って見せたものだ。自分でもそんなふうに思うくらい、自分の口から出た声は、平然としたものだった。
 けれど、それも声ばかりで、けして心から冷静でいられたわけではなかった。わたしは自分でも気付かないうちに、服の上から、首から下げた銀細工のあたりを、握りしめていたらしかった。カナイの視線が下りて、自分の胸元をいぶかしげに見たことで、わたしは遅れてそのことに気付いた。
「あんた、何を隠してるの」
 わたしはとっさに後ろに下がって、カナイの視線から逃れようとした。けれどカナイのほうが早かった。カナイは有無をいわせず詰めよってきて、すばやくわたしの腕を掴むと、服の胸元に手をつっこんだ。
「やめて」
 わたしは悲鳴を上げたけれど、カナイの手は容赦なく首にかかっていた紐を探り当て、手繰りよせた。銀の髪飾りが蝋燭の光に晒されて、きらめいた。
「何よ、これ。あんた、まさか――」
 カナイの顔色が変わるのが、はっきりとわかった。わたしは必死で、言い逃れを探そうとした。苦し紛れでもなんでもいい、カナイを煙に巻けるような説明。
「何の騒ぎだね」
 わたしたちははっとして、それぞれにト・ウイラに続く入り口を振り返った。
「導師……」
 カナイもまた、青ざめているのがわかった。どこまで話が導師の耳に入ったのか……わたしはとっさに髪飾りを隠そうとしたけれど、そのときにはすでに、導師のまなざしは、手の中の細工に注がれていた。
 導師はゆっくりと首をめぐらせて、カナイの表情を見ると、目を細めた。
「喧嘩の原因は、その細工かね」
 その言葉に勢いを得て、カナイはいった。「そうです、導師。この子、いったいどこでこんなものを――」
 いいかけたカナイに、導師は軽く手のひらをみせて、首を振った。そして、信じがたいことを口にした。「その細工なら、私が与えたのだ」
 カナイは絶句した。
 わたしのほうが、より驚いていた。導師がなぜそんなことを仰るのか、わけがわからなかった。けれどカナイがわたしを振り返るのに、とっさに頷いてみせた。
 いっときカナイは険しい顔で、わたしの顔を睨んで、それから導師に向き直った。
「いったいどうなさったんです、こんなもの」
「使者のお一方が、気まぐれに下さったのでな。私に妻のないことを、ご存知なかったようだ。といって、せっかくのご好意を無碍にもできぬ」
 導師は平然といって、それから少し、面白がるような顔をした。カナイはいくらか鼻白み、それでもなお食い下がった。
「どうしてこの子に――?」
「全てのものは等しく分かち合い、分かち難いものがあらば、末子に与えよ。――私は戒律に従ったまでだ」
 導師はゆっくりと、噛み含めるようにそう仰った。それもまた書物からの引用であり、里のすべての掟の根源でもあった。
 カナイは、それで納得したわけではないようだった。唇を噛みしめ、眉を吊り上げていた。けれど、それ以上導師にたてつくことも、カナイにはできないようだった。姉さんは振り返り、きっとわたしの顔を睨みつけて、それから手を放した。
 苛立ち任せに足音を荒げ、カナイが部屋を出て行くのを、わたしは呆然として見送った。
 導師を振り返ると、思いがけず静かなまなざしが、そこにあった。
 なぜ、あんなことを仰ったんです。その一言が舌に張り付いていたけれど、とうとう口の外に出ることはなかった。
「トゥイヤ、少し、話がある」
 導師のほうからそう切り出されとき、わたしはてっきり、細工の出所について、厳しく問い詰められるのだと思った。怒りに興奮していたカナイをなだめるために、機転をきかせてわたしをかばってくださっただけで、けして見逃そうというわけではないのだと。
 けれど、導師は思いがけないことを仰った。
「星を手にしたいと望んだ男の話を、聴いたことがあるかね」
 わたしは驚きに打たれて、顔を上げた。髪飾りをわたしにくださったのが、火の国の使者であることを、導師はご存知なのだ……。そうとしか思えなかった。
 いつから導師はご存知だったのだろう。たったいま、わたしの手の中の細工をご覧になって、それではじめてそうと気づかれたのだろうか? けれどそれにしては、導師の顔に、驚きの色は見当たらなかった。
 導師は声を荒げることもなく、ごく静かに続けられた。
「星の光に憧れて、それを手にしたいと望みつづけた男は、あるとき、とうとう星を地上に落とすことに成功した。けれどいざ星を手にしたかと思うや、男は星の火に焼かれて、死んでしまった……」
 その言葉は、不思議な抑揚に満ちていて、ヨブの語りをわたしに思い出させた。そのまなざしは静かで、導師が何を思っていらっしゃるのか、ただ見ただけでは、とてもわかりそうになかった。
「手の届かないものに憧れることは、誰しもあるだろう。けれど、そうしたものを本当に手に入れようとするのは、とても不幸なことだ」
 噛み含めるように、導師はいった。「トゥイヤ、お前は賢い子だ。ほんとうは自分でも、わかっているのだろう?」
 わたしは唇を噛んで、うつむいた。導師の声には、けして叱責するような調子も、責める響きもなかったけれど、それでも仰っていることの意味は、明らかだった。
 わたしは星を望んでいるのだろうか?
 導師はそれ以上、何も仰らなかった。ゆっくりと踵を返して、部屋を出てゆかれた。
 手のなかで、細工が蝋燭のあかりを受けて、きらめいていた。それを見つめたまま、わたしはいつまでも、じっと俯いていた。


 やがて、裁縫室に戻ったとき、カナイは無言で針を使っていた。不機嫌なのはあきらかで、わたしが部屋に入っても、姉さんは視線を上げようともしなかった。
 わたしもまた、何もいわなかった。ふたりともが無口にしているのを見て、下の姉さんが心配そうに、何くれとなく声をかけてくれていたけれど、カナイもわたしも、短く相槌をうつばかりで、せめて何ごともなかったふりをつくろおうという努力さえしなかった。
 食事は喉を通らず、わたしは姉さんたちと口をきくことさえ億劫に思えて、すぐに床についた。
 眠れるはずもなかった。やがて明かりが吹き消され、わずかなヒカリゴケの光が、かろうじてものの輪郭を浮かび上がらせていた。わたしはじっと、部屋の隅の暗がりを凝視していた。カナイの母さんが刺繍をしたという壁掛けの、古びてもまだほつれない、裾の始末のあたりを。
 ヨブは明日、いらっしゃるだろうか? 導師はあの方に、何か仰っただろうか……。そんな不安ばかりが胸の中をぐるぐると回って、わたしはまんじりともせずに、横たわっていた。
 やがて、眠ることを諦めて、わたしは静かに体を起こした。
 音を立てずに部屋を出た。ヤァタ・ウイラを進み、いつもの習慣で、勉強室の前で耳を澄ました。このような深夜に、誰がいるとも思えなかったけれど。
 垂れ布をくぐって中に入り、自分の呼吸を十ほど数えて、わたしは口を開いた。
「入ってきたら?」
 途中から、カナイが同じようにそっと部屋を出てきたことに、気づいていた。
 垂れ布が揺れて、案の定、姉さんが入ってきた。カナイは肩をすくめた。
「深夜の逢引ではないというわけね」
 わたしは何もいいかえさなかった。何をいっても、カナイは疑いとともに聞くだろうと思ったので。
 長い沈黙ののちに、やがてカナイが口を開いた。
「――使者さまなのね?」
 その声は、断定的な響きを帯びていた。ああ、いつからカナイは勘付いていたのだろう?
「何のこと」
 しらばっくれようとしても、カナイはひかなかった。
「知らない人の声だったわ。いまの時期に導師以外の男の人が、こんなところにいるはずがないもの。ほかに考えられないわ」
 奇しくもその理屈は、わたしが二年前に、ここで考えたのと同じ筋道だった。わたしはカナイの目を、じっと見つめ返した。
「姉さん。話を聞いて……」
「あなた、自分が何をしているかわかっているの? ……導師にお話しするわ。あんたの母さんにも」
「待って」
 わたしはカナイの腕に縋った。カナイは信じられないという顔をして、その手を振り払った。
「違うの、何もないの!」
 わたしの声は、ほとんど悲鳴だった。「姉さんが思っているようなことじゃないの。ただほんの少し、お話を聞いていただけなのよ。火の国のことを」
「話しただけ? だけ、ですって?」
 カナイは取り合おうとしなかった。「信じられない。あんた、自分の立場がわかっているの?」
「お願いよ、姉さん」
 わたしは必死だった。いつか己の立てた誓いを、忘れるほどには。「わたしも、知ってるのよ」
 カナイの顔が強ばった。
「……何を知っているんですって」
「あなたとバルトレイのこと」
 それは、自分の声ではないようだった。その一瞬、カナイの表情が見る間に歪むのを、わたしは見た。
「わたし、聴いてしまったの。アディドの月の、十日のことだったと思う。眠れなくて、夜中に外を散歩していて」
 カナイは目を光らせて、わたしを睨み返した。
 いまや立場は逆転していた。わたしは間をおかずに口を開いた。自分でぞっとするほど、それは、冷静な声だった。
「誰にもいわないわ。姉さんも黙っていてくれるなら」
 カナイはいっとき、言葉を失って、ぶるぶると手を震わせていた。やがてその手が振り上げられても、わたしは動かなかった。
 わたしだって、カナイに対して、腹が立っていた。その感情が半ば、八つ当たりなのだと、自分でもわかっていたけれど。
 仮に姉さんが気づかなかったとしても、導師がご存知だったのなら、結果は同じことだったかもしれない。わたしの理性の声はそういったけれど、それでも、カナイさえいなければという気持ちを、胸の中から追い払ってしまうことはできなかった。
 なぜなの。どうせ何も口出しなんかしなくても、ヨブと話せる機会なんて、あともう数えるほどもなかった。邪魔する必要なんて、どこにあるの。言葉はいくらでも喉の奥からせりあがってきたけれど、わたしはそれらを全て呑みこんで、ただカナイの目を見つめ返した。
 わたしの頬を叩くと、カナイは背中を向けた。
「あんたがそんな女だなんて、思ってもみなかった」
 その声には、力がなかった。
 カナイは立ち去った。
 足元がふらついた。暗がりでうずくまって、わたしは自分の中からこみ上げてくる感情の奔流に、じっと耐えた。それは怒りだったかもしれないし、もっと違うものだったかもしれない。
 やがてのろのろと立ち上がり、書き物机の前に座ると、眼の奥がちかちかと痛んだ。苦しかった。自分がいった言葉が、カナイの裏切られたという表情が、ぐるぐると回っていた。ときおり発作のように、乾いた嗚咽の切れ端がのどの奥に絡んだけれど、涙は出てこなかった。
 そのまま勉強室で夜明けの鐘を迎えても、下の姉さんが様子を見に来る気配はなかった。カナイがどんなふうにいったのかわからないけれど、ともかく、そのことが有難かった。その頃になると、カナイへの苛立ちはすでに冷めて、どこか遠いものとなっていた。
 じっとしていると、不安を伴う益体もない考えばかりがとめどなく頭をよぎったけれど、もう、本を読んで時間を潰すことさえ考えきれなかった。
 いま導師は何を思っていらっしゃるのだろう。疲れて重い思考の中で、ときおりそのことを思い返した。
 あんなふうに遠まわしにいわなくったって、ただひとことお叱りになれば、あるいはお命じになればよかったのだ。もう使者には会わないようにと。導師はなぜそうされなかったのだろう? 誰もはっきりと言葉に出さなければ、それがなかったのも同じことだと、そんな欺瞞をよしとされる方ではないはずだった。少なくとも、わたしのよく知る導師は。
 それともそれは、情けだっただろうか。わたしにあと一日だけの時間を与えようという。
 けれど、その日、ヨブは来なかった。


 三日目も、わたしは朝から勉強室を訪れ、そこでじっとヨブを待った。二度、食事を摂るために裁縫室に戻り、少しばかり胃にものを入れたけれど、それ以外のときを、ほとんどずっと勉強室で過ごした。
 去年も一昨年も、三日目には出立の準備で忙しいからと、ヨブはやってこなかった。今年も同じだろう。頭ではそうわかっていたけれど、もしかしたらという望みを捨てきれなかった。
 昨日、ヨブはどうしてやってこなかったのだろう。そればかりを考えていた。
 導師が何かヨブに仰ったのだろうか。わたしを遠まわしにいさめたように。それでヨブはやって来られずにいるのか。
 そうでなければただ単に、人目を盗むことができなかったのかもしれない。それとも、来年にはまた話せるだろうと、そんなふうに思っているのだろうか……。
 色んな考えがよぎっていったけれど、ひとりでいくら考えても、わからないことだ。いつからか、わたしは考えるのをやめた。そうすると、不思議と心は静かになった。
 凪いだ心の中で、次第に決意が形になるのを、わたしはどこか他人事のように眺めていた。
 やがて、わたしは書棚へ向かい、過去の記録をひっくり返しはじめた。銀の採掘と、それから、葬儀についての記録を。


 その日の深夜、わたしは勉強室でも裁縫室でもなく、物置に使っている、狭苦しい小部屋にいた。
 皆、すでに寝静まっている頃合いだ。夜が明ければ姉さんたちは、邸の奥に篭もる暮らしから解放されて、自分たちの部屋に戻るはずだ。母さんたちも大仕事を終えて、ほっと胸をなでおろしているころだろう。わたしがいないことに、いつ気づくだろうか?
 深夜に里を発つのだと、ヨブはいっていた。
 じっと耳をすまして、わたしは周囲の様子を探っていた。使者さま方が旅立たれた直後には、見送りのために、人が多いだろう。その気配が去るのを、待たなければならなかった。
 邸内の物音が静まり返るのをまって、わたしはそっと、小部屋を忍び出た。
 通路で息をひそめて広間の気配をうかがい、すっかり人のいなくなった隙をついて、通り抜けた。表へ出ると、三日ぶりの屋外で、ひとつ、大きく息を吸い込んだ。
 明かりはもたなかった。目立つに決まっているからだ。そういっても、夜中に外を出歩く酔狂な人が、どれほどいるかはわからなかったけれど。
 誰かに見られても、知ったことではないと、そういう自棄のような気持ちもあった。それでもト・ウイラに入り込むときには、ひどく落ち着かない思いが胸を揺さぶった。
 けれど幸運なことに、わたしは誰とも会わなかった。
 導師の命で、誰かに見張られているという可能性も、考えてはいた。どうやって目を盗み、あるいは振り切るか、いくら考えたところで、確実なすべなんて思いつかなかった。けれど、そんな心配も杞憂に終わった。
 どうして導師はそうされなかったのか。わたしがこのような行動に出ると、少しもお考えにならなかったのだろうか。
 そうではないと、わたしは思った。こんなことを人に話せば、どれほどひそかに命じたところで、次の日には里じゅうに知れ渡っているだろう。導師はわたしについての悪いうわさが広がることを、避けてくださったのだ。
 そうでなければ、わたしの分別を、信じてくださったのだ……。その考えが頭をよぎった、そのときにだけ、いくらか気が咎めるような気がした。
 けれどわたしは、足を止めはしなかった。
 里のはての岩壁を前にしたとき、思い立って、わたしは紐で胸元にさげていた髪飾りを取り出した。ほんのわずかな明かりのもとでさえ、細工の鳥は眩しいほどにきらめいた。その輝きにしばし見とれたあとで、わたしはそれを髪にさした。それから、里の外へと足を踏み出した。
 暗闇の路は、遠い記憶のなかのそれと、少しもかわらなかった。
 里の通路のように磨かれてはいない、ごつごつした壁につかまりながら、足音を立てないよう、そろそろと歩いた。ほんの少しの距離を歩いただけで、あたりはわずかの光も射すことのない、真の闇に塗りつぶされた。
 それでもまだ里の近くにいるあいだは、さまざまな物音が聞こえていた。遠くで響く水音や、どこかの家の中で宵っぱりの人が立てる物音。けれど、じきにそれらもいっさい届かなくなった。それでもわたしはなお息をひそめ、衣擦れさえ立てないように、そっと歩いた。
 静寂がいよいよ深まるにつれて、抑えきれないかすかな息の音や、自分の心臓の音さえも、うるさいほどに耳の奥に反響した。どれほど慎重に歩いても、わたしはときおり小さくつまずき、壁にしがみついては、その鋭い岩肌ですり傷を作った。
 いつしか、炎の乙女の歌が、頭の中を繰り返し流れていた。
 子どものような心を持っていたという、美しいひと。わけもわかっていなかったのだ、あの人は恋など知らなかっただろうと、母さんはいった。
 イラバの言葉をもまた、わたしは思い出した。思い人でもない相手を追いかけて、そんなに遠くまでいったりできるかしら。
 本当は、彼女には、何もかもわかっていたのではない? その日を逃せば、もう使者とは会えなくなってしまうことも、彼を追っていけば、己の命が危ういということも。承知の上で、それでも追わずにはいられなかったのではないの?
 やがて、充分に里から離れたところで、わたしは足音を殺すのをやめた。
 暗闇の中で足取りを速めると、自分の呼吸がひどく耳についた。
 何ひとつ見えない視界の中、自分が目を開けているのか、瞼を閉じているのかさえ、じきにわからなくなった。手足にふれる岩肌の感触と、自分の呼吸の音、ほんのわずかな空気の流れ。それだけが全てだった。
 時間の感覚はすぐに消えて失せ、自分がどれほどの距離を歩いたのか、まるでわからなくなった。
 気持ちばかりが急いていた。こんなことで、本当に追いつけるのだろうか。使者さま方は、とっくに暗闇の路を抜けだしてしまったのではないだろうか。何度もそう考えた。
 けれど、体の大きな動物にたくさんの荷を牽かせてゆくのだから、その分、使者さま方はゆっくりと行かざるを得ないだろう。そんな不確かな推測だけが、希望だった。
 ひたすら、壁にすがるようにして歩き続けていた。そのうちに、自分がいまほんとうに歩いているのか、自分の足で立っているのかということさえ、確かにはわからなくなった。ほんとうは自分の体は寝床の中にいて、いま自分は夢の中を彷徨っているのではないかという考えが、頭の隅をちらついて、そのすぐあとには、そうとしか思えないような気さえしてきた。感覚の喪失が恐ろしく、数歩を歩くごとに、指先が痛くなるほど壁を掴んだ。そうしながら、ただ、自分の呼吸の音ばかりを数えていた。
 何の前触れもなかった。
 踏み出した足が、空を踏んだ。
 とっさに右手の壁に、縋ろうとした。けれど壁は、すぐ先で途切れていた。指先がかろうじて、ごつごつした岩のへりを掴んだ。浮遊感が背骨をつらぬき、勢いあまった体が壁に激しくぶつかった。息が詰まった。
 どうやって自分が踏みとどまったのか、覚えていない。気付いたときには、地面に体を投げ出して、這いつくばるように突っ伏していた。右足から抜けた沓だけが、闇に呑まれていった。
 沓が何かにぶつかって跳ね返りながら、はるか下方へ落ちてゆく音が、ぞっとするほど長く、いつまでも響いていた。
 心臓がうるさく鳴っていた。体のあちこちがひりつくように痛んだ。冷たくなった指で自分の腕を抱くと、右腕が擦り剥けて、はがれかかった皮膚と、ぬるりとした血の感触があった。
 立ち上がったとき、まだ膝が震えていた。力の入らないつま先で、足元を探った。ぽっかりと、そこから先の地面が消え失せていた。
 次の一歩を踏み出すのには、勇気がいった。
 食いしばった歯の間から、震える息を吐いて、わたしはじりじりと、足で地面を探った。大丈夫、左側にはちゃんと足場がある。にじるようにして、少しずつ移動した。空に突き出した手が、左手の壁に触れるまで。
 壁につかまりなおすと、わたしは思い立って、残った左足の沓を脱ぎ捨てた。
 そうしてみると、ずっと歩きやすくなった。足の裏は痛むけれど、たしかな感触が伝わってくる分、足を踏みしめやすい。どうしてもっと早く気づかなかったのだろう。
 まだ頭のどこかが痺れたようになっていたけれど、それでも歩きだせば、どうにか体は動いた。震える息が収まるまでに、少し時間がかかった。
 いくらもいかないうちに、低い水音が耳に届きだした。はじめ、それは自分の中を流れる血の音と区別がつかないくらい、かすかなものだった。けれどじきに、澄んだ水のにおいが鼻をくすぐった。
 死者の川が、近いのだ。
 じきに辺りが広く開けたのが、目には見えないながらも、わずかな空気の流れから察された。壁についた手に、いままでとは違う、やわらかい苔の感触がある。その一部が剥がれて、ぱらぱらと落ちた。
 あたりはひんやりと湿っていた。水が岩肌から染み出しているのだ。
 おそるおそる、壁際を歩くと、途中で水溜りに足をとられて、転びかけた。ぱしゃんと、水の撥ねる音が、驚くほど遠くまで反響した。
 擦りむいた手のひらを服の裾で拭いながら立ち上がると、苔や水のにおいにまじって、なにか、獣くさいようなにおいがした。
 ヨブの話を思い出していた。荷をたくさんの駱駝の腹に括って、彼らに運ばせるのだという。きっと滞在中、駱駝たちをここで待たせていたのだろう……。
 さらに進むと、水音はますます大きくなっていった。それはやがて、耳を聾するような、轟々たる響きへと膨れ上がっていった。
 まだ見ぬ駱駝の痕跡を追うように、空気のにおいを確かめながら歩いていると、水の匂いもまた、音と同じく強まっていった。
 路の湾曲したところを行き過ぎると、急に、視界がぼんやりと開けた。
 小さな青白い光が、あたりをふわふわと舞っている。その下で、黒々とした水の流れが、光を弾いていた。
 死者の川は、記憶のなかにあるよりも、なお流れを増しているようだった。
 その勢いに気を呑まれて、わたしは僅かのあいだ、その場に立ち止まっていた。
 空中で光っているのは、小さな虫だ。いつでもここに、たくさん群れをなして舞っている。
 遺体を川に流すと、彼らのいくらかが、ふらふらと釣られるようにして、下流のほうへとついてゆく。死者の魂の、水先案内をしているのだという。まれに彼らがついてゆかないことがあって、そういうとき、死者の魂は里に未練を残して、彷徨っているのだそうだ。
 いまは虫たちは、ゆったりと明滅しながら、川面を飛び交っている。彼らの明かりは、暗闇にすっかり慣れた目には、まばゆいほどだった。
 水辺の空気は、冷え冷えとしていた。川の水はさぞ、冷たいだろう。一瞬、顔も知らぬ父が激流に飲まれてゆくところを、この目で見たような気がして、わたしは目を瞬いた。
 これまでにどれほどの死者が、この流れを下っていったのだろう。この先にあるという水底の国に流れ着くまでは、どれほどの間、冷たい水に揉まれなくてはならないのだろうか。
 やがて首を振って、わたしは歩き出した。
 ここから先の道は、記録を読みあさっておぼえた道順だけがたよりだった。そのうえ、記録には採掘場までのことしか記されていなかった。火の国までほんとうに行ったことのあるものなど、里には誰もいないのだ。炎の乙女のほかには。
 路は、複雑に分岐しているという。自分が迷わないでいられるという確信なんて、どこにもなかった。
 馬鹿なことをしていると、わたしは胸のどこかで、ちゃんとわかっていたように思う。けれど、足を止める気はなかった。暗闇の中で迷い、二度と戻れなくなってもかまうものかと、心のどこかで思っていた……。
 川が視界から消えていっときしても、しばらくは完全な暗闇には戻らなかった。不思議に思って天井を振り仰ぐと、弱々しい光が、はるかな頭上にあった。ヒカリゴケではない。もっと遥かな高みから、おぼろげに注いでいる、白い光。菜園や水場のように、ここもわずかながら、光輝の神の恩恵にあずかっているらしかった。
 そのためかどうか、それまであまり意識せずに済んでいた生き物の気配が、急に強まった。虫の這ってゆくのが、何度も視界の隅をかすめた。遠くで、水音に紛れそうなほどかすかに、せわしない羽音が響いている。蝙蝠だろうか。
 壁にふれる手に、あるいは裸足の足裏に、何度となく小さな虫の這う感触がした。沓を捨ててきたことを、わずかに悔いた。
 けれど視界があるぶんだけ、それまでよりずっと歩きやすかった。なかば小走りに、わたしは進んだ。
 いくつかのわかれ道を過ぎると、やがてぽっかりと左手の壁が消えた。その先は、深い暗闇に沈んでいる。この先は、銀の採掘場に続いているはずだった。
 わたしはふたたび、右手の壁に手をついた。採掘場に向かう路を折れず、まっすぐに進んだ先の道のどこかが、火の国に通じている。書物にはそのようにあった。
 そんなあやふやな話にでも、縋るほかなかった。それにそのあたりから、路はどうやら、ゆるやかに傾斜していた。火の国は、ずっと高いところにあるという。上るほうへと向かえば、それだけかの地へ近づくのではないか。それもまた、ひどく頼りない根拠ではあったけれど……。
 じきに路は、再び暗闇に沈んだ。水音はもう聞こえない。けれど、小さな生き物たちの気配は消えなかった。足元は、硬い岩ばかりではなく、場所によっては砂礫まじりになり、あるいは柔らかい苔か、土のようなものが広がっていた。
 何度か、分かれ道らしきところがあった。そのたびに足を止めて眼を凝らし、ときには何歩か足を踏み出してみて、より傾斜の上っていると思われるほうを選んだ。それが正しい路だという確信は、どこにもなかったけれど、ときおり思い出したように、かすかな獣の匂いがした。そのことに勇気付けられながら、ひたすら歩いた。
 ある瞬間、その中に異なるにおいをかぎ当てて、わたしは立ち止まった。わずかに甘く、涼やかな、香の匂い。
 記憶のなかにある匂いだった。
 突き上げる衝動に背を押されて、とっさに走り出そうとした、そのときだった。
 何か、土でも岩でもないものを、踏んだ。
 そう思った次の瞬間、右のくるぶしに痛みが走った。わたしはつんのめって、地面に手をついた。尖った石で、再び手のひらを擦りむいたようだったけれど、それよりも、足の痛みのほうがひどかった。
 太い針で刺されたような疼痛、それに、痺れるように熱い。とっさに手を伸ばした、その指先に、ぬるりとした感触があった。
 何かが音を立てて、勢いよく撥ねた。
 悲鳴を上げた、と思う。頭が真っ白になっていた。暗闇の中で、何かが身をくねらせて、暴れている。わたしのくるぶしに喰らいついている。
 痛みよりも、嫌悪感が勝った。わたしは足を振り回そうとした。けれどうまくいかなかった。右足は痺れて思うように動かず、痛みは次第に増していった。
 恐慌をきたしたわたしの耳が、かすかに遠くの物音をとらえた。
 足音だった。行く手のほうから、誰か、近づいてくる……。
 助けてと、叫ぼうとした。けれど声は、かすれた悲鳴にしかならなかった。
 光がさした。
 松明の炎だった。先ほどまでの恐怖も、痛みさえも一瞬忘れて、わたしはその人を見た。明かりを手に、駆け寄ってきた人物を。
 背がひどく高い。小さな松明の頼りない明かりでさえ、その肌の浅黒いのが、はっきりとわかった。
 視線がぶつかった。驚きに見張られた、黒い眼。その視線が動いて、わたしの髪を見た。そこに挿した、髪飾りを。
「トゥイヤ……?」
 ヨブ。呼びかけは声にならなかった。
 駆け寄ってくるヨブの手が、わたしのほうへと伸ばされた。いつか垣間見たのと同じ骨ばった大きな手に、わたしは縋った。
 ヨブはわたしの足元を見て、表情を険しくした。その途端、忘れていた痛みと熱とが、いっぺんに蘇った。
「動くな。これを持っていろ」
 いわれて、わたしは震える手で松明を受け取った。おそるおそる痛む足首に視線を向けると、そこにいたのは、胴体の太い、蛇だった。白い鱗をくねらせて、蛇はしっかりとわたしの足に牙を突き立てていた。
 ヨブの手が、見慣れぬ衣装の懐から、小刀を取り出した。彼の手が華麗な装飾の鞘からそれを抜き放くと、銀色の刃が炎に照らされて、ぎらりと輝いた。
 その短刀が、蛇の胴体をひといきに貫いた。
 とっさに、目をかたく閉じた。
 手から、ヨブが松明を取り上げたのがわかった。再び眼をあけたときには、ヨブが小刀を拭って、その刃を松明の炎で炙っていた。
 彼が何をしているのかわからずに、わたしは瞬きを繰り返した。
「痛むかもしれないが、じっとしていろ」
 短くいって、ヨブはその刃を、わたしの足に向けた。
 ヨブの手は迷いなく、蛇の牙の痕を切り開いた。
 わたしはとっさに身をすくませたけれど、痛みは、よくわからなかった。足首から下が、痺れていた。
 されていることの意味が、よくわかっていなかった。短刀を地面においたヨブが身をかがめるのを、ただ見つめていた。
 蛇の毒を吸い出すのだと、気づいたときには、その唇がくるぶしに触れていた。
 とっさに上げそうになった悲鳴を飲み込んで、わたしはきつく目を閉じた。
 足首が、熱い。
 痛みもわからないほど痺れているというのに、血を吸い出す唇の感触だけが、やけに生々しく感じられて、とても眼を開けていられなかった。
 それは、ほんの短い時間のはずだったけれど、わたしにはひどく長く感じられた。吸われている傷口の熱、足首を押さえるヨブの大きな手、松明のはぜる音、炎のにおい。
 吸い出した血を地面に吐き出して、ヨブは深く、ため息をついた。目をあけて彼の表情を確かめるのが、怖かった。呆れているだろうか。苦りきっているのではないか……。
「トゥイヤ」
 名を呼ばれて、恐る恐る、目を開けた。
 思いがけず、ヨブの顔が近くにあった。
 黒い瞳と、見た瞬間には思ったけれど、間近に覗き込めば、どちらかというとその眼は、濃い灰色をしていた。
 何か、いわなくては。そう思うのと同時だった。新たな足音が近づいていることに気づいた。
 ヨブもまた、同じことに気がついたようだった。行く手の路を振り仰いで、ヨブは一瞬、険しい顔をしたけれど、すぐに振り返って、わたしの足の傷を確かめた。その手がためらいなく短刀の柄布を外して、わたしの足に巻きつける間に、人影が近づいてきた。
「何事かと思えば、これはまた……」
 湾曲した路の先からあらわれたのは、やはり背の高く肌の浅黒い、男の人だった。ヨブと同じく、見慣れない、ふしぎな衣装を身にまとっている。
 その使者は、ヨブとわたしを交互に眺めて、どういったらいいのか、ひどく嫌なふうに笑った。それから、わたしの顔のそばに松明を寄せた。
 わたしがとっさに顔を背けるのも気にしないようすで、使者はまじまじとわたしの顔を覗き込んだ。それからヨブのほうに視線を戻して、喉の奥で笑った。
「ふん。真面目くさったやつだと思っていたが、どうして、なかなかやるものだ」
 ヨブはその言葉を聞いて眉を顰めたけれど、口に出しては、何も反論しなかった。ただ無言のまま、短刀を拭って鞘に戻した。そのようすを見て、はじめてわたしは本当の意味で、自分の愚かさを思い知った。
 青ざめながら振り仰ぐと、使者は、まだ笑っていた。ひどく冷たい、胸の悪くなるような笑い方だった。
「さて、どうしたものだろうかな。長に報告しないわけにはいくまいが」
 わたしはとっさに、声を上げようとした。何をいおうとしていたのか、自分でもたしかにはわかっていなかった。弁明だろうか、反論だろうか。とにかく、すべてはわたしの愚かしさの引き起こしたことであって、ヨブには責のないことだと、伝えなくてはならなかった。
 けれど、ヨブはわたしを手で制した。それからひとこと、そっけなくいった。「好きにするといい」
 使者は鼻で笑った。
「そうするさ」
 待って。いおうとしたわたしに首を振って、ヨブはいった。「この娘を里まで送り届けてくる。先に行っていてくれ」
「そうするほかに、どうしようもなかろうな」
 使者の声には、やはり嘲弄の響きがあった。わたしは焦りと苛立ちで、混乱していた。苛立ちは、その使者に対するものでもあったけれど、それ以上に、自分自身に向けたものでもあった。
 わたしたちが里の掟によって、使者さまの眼に触れる場所から遠ざけられていることは、よくわかっていたつもりだった。なのにどうしてわたしは、その可能性を考えてもみなかったのだろう。使者さま方もまた、彼らの一族の掟によって、同じことを禁じられているのに違いなかった。
 使者の足音が反響しながら遠ざかっていっても、わたしは顔を上げきれなかった。
 己の幼さを、いまこのときこそ、呪わずにいられなかった。
 暗闇の路のなかで迷い、ひとりで朽ち果てることになってもいい。たとえ火の国の炎に焼かれて死んでもかまわない……。心のどこかで、そんなふうに思っていた。けれど、騒ぎになればヨブがどれほど困るか、そのことを、わたしはたった一度でも、まともに考えただろうか? もし考えていたなら、こんな愚かな真似を、できるはずがなかった。
「トゥイヤ」
 ヨブの声は、苦しげだった。
 自分のせいで、困らせている。そう思うと、どうしようもなく耐え難かった。いっそ消えていなくなってしまいたい、とさえ思った。
「ごめんなさい……」
 自分の喉から溢れた声が、まるきり叱られた子どものようで、その幼さを、わたしは憎んだ。
 ヨブはいっとき、何かをいいあぐねるようにしていたけれど、やがて一度立ち上がり、そばに屈みこんだ。「松明を持って、負ぶされるか」
 いわれていることを理解するのに、間がいった。いっときぽかんとして、それからわたしはあわてて首を振った。
「そんな。自分で歩けるわ」
「その足で?」
 ヨブの声には、怒っているような気配はなかったけれど、わたしは慌てて立ち上がろうとした。けれどすぐに痺れた足をひきずって、つんのめった。
 転びそうになったわたしを支えると、ヨブは何もいわず、背中を向けた。それでもまだ躊躇わずにはいられなかったけれど、結局、わたしはその肩にしがみついた。
「ごめんなさい」
 悲しくて、情けなかった。自分が何をしてしまったのか、ヨブにどれだけの迷惑をかけてしまったのか、考えれば考えるほど、苦しかった。
「謝らなくていい」
 その声は優しくて、そのことが、かえってわたしには辛かった。
 しがみついた背中は、広かった。松明を気にしながら体重を預けると、あの涼しげな香と、それから、汗のにおいがした。
 歩き出したヨブの背で、揺られながら、わたしは何度も言葉を飲み込んだ。
 何をいえばよかっただろう。どうしてももう一度、あなたに会いたかったのだと? この目で砂漠の空をみられるのなら、それで死んでもいいと思ったと?
 唇を噛んで、わたしは顔を伏せた。何をいっても、自分の愚かしさを思い知らされるだけのような気がした。
「傷跡が、残るかもしれないな……」
 ふいに、ヨブがいった。それは、ひどく悔やむような声だった。彼が気に病む筋合いのことなど、なにひとつないはずなのに。わたしはそれが、申し訳なくて、いたたまれなくて――そして、嬉しかった。
 気にかけてもらうことが、嬉しかったのだ。自分の救いようのない愚かさに、目の前が暗くなるようだった。
 里に、戻りたくなかった。このまま一緒にいたいと、火の国までついてゆきたいのだと、まだそんなことを思っている自分を、救い難いと思った。
 わたしの飲み込んだ言葉に、ヨブは気づいていただろうか。
 里に引き渡した荷の中に、薬があるはずだというようなことを、ヨブはいった。それから、何かをいいかけては、言葉を飲み込む気配があった。
 足の痛みは引かず、いつまでも痺れたように熱かった。ときどき手が、汗で滑った。
 死者の川のほとりで、わたしは松明を取り落としそうになった。ただ黙って負ぶわれていただけなのに、体が熱く、重かった。ヨブは立ち止まって、ゆっくりと屈みこんだ。
「少し、休もう」
 ヨブはそんなふうにいったけれど、彼自身の足取りには、ちっとも疲れているようなようすはなかった。気遣われていることが申し訳なくて、とっさに意地を張ろうとしたけれど、肩越しに振り返ったヨブの眼を見て、結局、わたしは頷いた。
 腰を下ろした岩肌は、わずかに湿っていた。光る虫が、明滅しながらふわりと近づいて、また遠ざかって行った。
 隣に座ったヨブが、小さく苦笑するのがわかった。
「それにしても、明かりももたずに、よくあのような場所まで歩いてきたものだ。やはりお前たちの目は、特別らしい」
 すぐそばに身を寄せ合って話をすることに、いまさらのように、わたしは少し、緊張した。死者の川の流れは速く、その水音に負けないように口をきくには、そうするほかになかったのだけれど。
 暗闇の中でものが見えていたわけではないけれど、細かく説明する気はしなかった。わたしは黙って首を振った。
 何度かためらうような気配のあとに、ヨブがいった。
「すまなかった」
 わたしは振り返った。ヨブが何を謝っているのか、すぐにはわからなかった。昨日、勉強室にやってこなかったことだろうかと、まずそのことを考えた。けれどそうではなかった。ヨブは続けた。
「酷いことをした。いくら地上のようすを話して聞かせたところで、連れていってやれるわけでもないのに」
 それはやはり、悔いるような声だった。
 わたしはうまく出てこない言葉のかわりに、いそいで首を振った。謝ったりしないでほしかった。
 だって、わたしは嬉しかったのだ。遠い国々の、広い世界の存在を知って。ヨブの声で語られる、遠い異国の風景に、思いを巡らせることができて。
 その光景を、もしこの眼で見ることができたなら、ヨブと一緒に火の国へゆけたならと、そんなふうに、身の丈に合わぬ望みを抱いたのは、わたしの欲深さゆえのことだ。ヨブが気に病まなければならないことなんて、何ひとつないはずだった。
「あれは、去年だったか。お前たちの祖先がこの地にやってきたときの話を、していたな」
 きゅうに聞かれて、わたしは戸惑いながら頷いた。ヨブはまた少し迷って、それから何かを思い切るように、首を振った。
「そのときの話は、俺たちの部族にも伝わっている」
 その言葉の意味を考えて、わたしは目を見開いた。ヨブは頷いた。
「もともとは、同じ部族の民だったのだ。争いによって、分かたれるまでは。――少なくともファナ・イビタルには、そのように伝わっている」
「だけど……」
 わたしは声を上げかけて、途中で口をつぐんだ。それから、ヨブの顔をまじまじと見つめた。
 川の上を飛び交う虫たちの放つ、ほのかな白い明かりに、濃い灰色の瞳が照らしだされている。浅黒い肌の色、ひどく高い背丈。わたしたちの祖がもとは同じ一族だっただなんて、信じられるだろうか。容貌ひとつとってさえ、これほどまでに異なっているというのに。わたしたちの祖は、火の国からやってきたのではないかと、自分で想像しておきながら、いまになって、信じられないような気がしていた。
「この話は、秘められているのだ。この里の者だけではない。ファナ・イビタルの人々にさえ、ごく限られた者のほかには、話すことを禁じられている……」
 いままで黙っていて、すまなかった。ヨブはそんなふうにいった。
「だがお前は、教えずとも、自分で気がついたかもしれないな」
 ヨブはふと、視線を川に向けた。つられてわたしも、黒々とした水面を見た。激しい音を立てて流れてゆく、冷たい水を。
「古くには、ひそかに里の娘を娶ろうとした長も、いたのだそうだ」
 ヨブは眼を伏せて、囁くようにいった。はっとして、わたしは顔を上げた。
「つれてゆかれた娘の眼は、地上の光には、耐えられなかったという。長く地の底で暮らすうちに、お前たちの体は、この暗闇に慣れてしまったのだろう」
 わたしは話に耳を傾けながら、じっと、ヨブの横顔を見ていた。その濃灰色の瞳に、飛び交う光が映りこんでいるのを。
「ファナ・イビタルにたどり着いたときには、娘の眼はすでに、光を失っていたそうだ。長は秘密を隠すため、邸の奥に娘を閉じ込めた。慣れない旅も、体に触ったのだろう、娘はじきに病みつき、ひと月を待たず、命を落としたのだと……」
 言葉を切って、ヨブはそっと、わたしの髪に触れた。そこに挿した、銀の髪飾りに。
 その指先がためらうように、揺れた。そして、長い迷いののちに、ゆっくりと離れていった。
「――できることなら、お前に、砂漠の空を見せてやりたかった」
 ヨブの、苦しげに揺れる眼が、熱を孕んで、わたしを見た。
 そこに自分の顔が映りこんでいることに気づいたとき、諦められると、はじめてそう思った。
 水音が高く低く、反響を繰り返していた。
 見つめあっていた時間は、それほど長くはなかったはずだ。やがてヨブは眼を伏せて、いった。「行こう」
 黙って頷くと、わたしは差しのべられた手に捕まって、立ち上がった。ヨブはふたたびわたしを背負ってゆこうとしたけれど、それを断って、わたしは自分の足で、どうにか歩き出した。痺れはまだひどかったけれど、そうせずにはいられなかった。
 ヨブの手を借りて、足を引き摺りながら、ゆっくりと歩いた。並んで歩くあいだ、不思議と、あまり悲しくはなかった。いまこのときを最後に、もう二度と会うことも話をすることも、おそらくないだろうと、わかっていたけれど。
 長いような、短いような時間が過ぎて、やがて、里の入り口が見えたところで、そこに人影を見出して、わたしたちは立ち止まった。
 佇んでいたのは、導師だった。
 ヨブやわたしが何かをいうより早く、導師は膝を折って、ほとんどひれ伏すように、礼をとった。ヨブへの感謝の意をあらわす言葉が、その口からこぼれたけれど、それは普段の話し方とはまるで異なる、どこか儀式めいた、ひどく丁重なものだった。
 ヨブは手をさしのべ、導師を引き起こして、その礼をやめさせた。それから短く、わたしの足の傷と、その薬のことだけを、手短に説明した。導師はそれに何一つ問い返すことなく、深々と頭を下げた。
 導師は何もかもご承知のようだった。
 それまでつかまっていたヨブの腕から、手を放した。その一瞬、視線が絡んで、離れた。
 そっと腕を引く導師の手に促されて、わたしはその場に膝をついた。けれど、導師がそうしたように、顔を伏せて礼をとることはせずに、踵を返して去るヨブの背を、じっと見つめていた。それはきっと、ひどく無礼なことだったのだろうけれど、導師は何も仰らなかった。
 ヨブの姿が闇に溶け、足音がすっかり聞こえなくなったところで、一度、記憶が途絶えている。


 あとで聞いた話によると、わたしはそこで意識を失って、高い熱を出したらしかった。
 気がついたのは翌朝で、いつもの、自分の寝床の中だった。そのときにはすでに熱も引き、意識ははっきりしていた。足の傷跡が、いまさらのように痛み、ひきつれるばかりで。
 母さんは、何も知らされていないようだった。わたしは水場で転んだ拍子に怪我をして、その傷が原因で熱を出したのだと、母さんは思っていた。
 熱が下がったことを喜びながら、母さんは一方で、手足の傷があとに残るのではないかと、そのことをひどく心配していた。わたしが曖昧に話をあわせていると、導師がおいでになった。
「熱は、すっかり引いたようだな」
 穏やかな声だった。
 導師は、わたしの怪我の様子をお尋ねになったきり、母さんのいるうちは、ほかに何も仰らなかった。
 じきに母さんが水を汲みに部屋を出ると、導師は深く、ため息を吐かれた。
「どうして私が、あそこにいたと思う。カナイが血相を変えて、私のもとに駆け込んできたのだよ。お前がいなくなったといって」
 意表をつかれて、わたしは顔を上げた。導師は穏やかなまなざしで、わたしを見下ろしておられた。
「自分が問い詰めたせいで、お前が早まった真似をしたのではないかといって。ひどい顔色をしていたが、それでも真っ先に、私のもとへやってきた。……あれも、お前とはまた違う意味で、賢い娘だ。他の人間に話せば何を言われるか、よくわかっていたのだろう」
 あとで礼をいっておきなさい。導師はそう仰って、かすかに苦笑を浮かべた。そして、もうひとつ、深く息を吐かれた。
 わたしは俯いた。叱責されるとばかり思っていた。叱られるどころか、罰を受けるだけのことを、わたしはいくらでもしただろう。けれど導師は、まったく違う話をされた。
「昨日の昼に、ムトと話をした」
 急な話のうつりかわりに、わたしは困惑して眼をしばたいた。けれど導師はそんなことには気も留めぬようすで、ゆっくりとお続けになった。
「お前が嫁いだあとも、私の手伝いをさせたいのだが、どうだろうかと訊いた。ムトが何と答えたと思うかね」
 見当もつかなかった。首を振ったわたしに、導師はかすかな微笑を浮かべて、答えを口にされた。
「お前がそれを望むのならと、ムトは即答したよ。――よい青年ではないか」
 なぜだろう。それまで平気だったのに、その言葉を聞いたとたん、急にひどく胸が痛んだ。
 ヨブに手をひかれている間には堪えられた涙が、いまさらのように次々に溢れて、わたしは嗚咽を漏らした。導師の手が、そっと、肩の上におかれた。
 いつかのエオンの月に、わたしは顔も知らぬ夫のもとに嫁ぐだろう。
 運がよければ子どもをもって、イラバがそうしたように、懐かしげに眼を細めるかもしれない。この胸の痛みも、焦がれるように求めたものも、何一つ忘れることなく、それでも微笑むことの出来る日が、やってくるのだろうか。いまはまだ、わからなかった。
 導師はいつもとかわらない静かな口調で、お続けになった。
「千年をかけてここに蓄えられた記録も、知識も、そのほとんどが、ト・ウイラの領域のことばかりだ。女たちは、よほどの困りごとでもなければ、私のところまでは相談にやってこない。私のあとの役目を継ぐのは、正式にはバルトレイを考えているが、ほかに誰か、女たちの記録を残すものがいればと……。そんなふうに考えることは、以前よりあったのだ」
 以前のわたしなら、その言葉に、ただ無邪気に喜んだだろう。けれどこのときばかりは、ただ胸が苦しかった。
「トゥイヤ、頼まれてくれるだろうか?」
 わたしは頷きながら、子どものようにしゃくりあげて泣いた。戻ってきた母さんが、驚いて駆け寄ってきても、嗚咽を止めることはできなかった。




 あれからずいぶん時が経ったいまでも、ときどき、夢に見る。
 見渡す限りの砂の大地。その空に、眩しいほどにちりばめられた、数えきれぬほどの光の粒。砂漠の空の高いところを優雅に舞う、美しい羽根の鳥を。
 その鳥は、髪飾りの細工と同じ姿をしている。

HAL
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2012年03月17日(土) 16時10分20秒 公開
■この作品の著作権はHALさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 長い話をお読みくださいまして、本当にありがとうございました。

 前回投稿させていただきました「夜明けを告げる風」とつながる話ではありますが、単独でも読めるように書いたつもりでしたので、完結ルールには触れないかと考え、思い切って投稿させていただきました。……が、そうした部分を客観的に把握するのが難しく、もし単独では意味不明になってしまっている点などございましたら、申し訳ありません(汗)

 忌憚ないご意見を賜ることができましたら幸いです。
 ご指導方、どうぞよろしくお願いいたします。

(追記)3月20日、ご指摘いただいた誤字を修正しました。

この作品の感想をお寄せください。
No.19  HAL  評価:0点  ■2012-08-27 19:56  ID:zJ4AqtFLv0s
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> お様

 ありがとうございます! そして昨日はチャットのほうでもありがとうございました。

 わー褒められちゃった! お様に褒めていただけると、すごく嬉しいです。
 それはそれとして、大きな瑕疵なくも四十点ということで、足りない十点は、実をいうと自分でも重々わかっているつもりです。(もしかしたら好みの問題もあるかもしれませんが、それだけではなく)
 なんとか殻を破りたいです。

 これを書き終えてからの半年で、ひとつ、自分なりに挑戦をしました。(一話を読んでくださったと仰っていたあれです)
 結果的には気負いすぎたせいか筆が滑り、完成度的には色々とお粗末なものになってしまっているのですが(涙)、出来はともかく、ひとつだけ、これまでやろうとしてもやれなかったことが達成できました。そのぶん課題も色々と出てきましたが、ここからまた頑張れるような気がしています。

 またいっとき試行錯誤の日々なので、これからも何度となく粗だらけ瑕疵だらけのものを投稿するかもしれませんが、またお時間ありましたら、ご指導いただけると嬉しいです。
 ありがとうございました!
No.18  お  評価:40点  ■2012-08-25 19:34  ID:.kbB.DhU4/c
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==============================
どもどもん。
拝読しました。
が、何も言いません。
沈黙をもって答えとしよう!
まぁ、早い話、脱帽ですわ。
「人」が良い、「人と人の交わり」が良い。
まぁ、趣味的には背景もっと凝っても良かったのかなぁと思うところもないではないけども、あくまで趣味的な部分で本質ではないので、それはそれで、まぁ、それということで。
うーん、こんちきしょう!
ラストについては、一方で大胆に飛び出してしまえぃ! という気持ちもなくはなかったけども、これはこれで良かったんだろうなぁとも思います。作品のコンセプト変わっちゃうしねー。
何も言わないという割りにけっこう言ってんじゃんw

さぁ、次は厨二小説ですか。楽しみにしています!
No.17  HAL  評価:0点  ■2012-05-03 17:11  ID:Ox4C2eApmPI
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> うんこ太郎さま

 かさねがさねありがとうございます。誤字ではないにしても、わかりにくい表現でしたし、教えていただいてよかったです。どうしてもその表現でないと、というこだわりがないのであれば、より広く伝わりやすい言葉を選ぶのがいいと思っていますので、ご指摘、とても参考になりました。特に「安くで買う」のほうなど、東日本では通用しない言葉なんだとわかって、勉強になりました。感謝です。

 また何か気付かれたことがありましたら、ご指導いただけると嬉しいです。ありがとうございました!

----------------------------------------

> 陣屋さま

 ありがとうございます。お仕事がお忙しいとのこと。そんな中で読んでくださって、感謝です。しかもファンタジーが不得手でいらっしゃるとのこと。長い話を読んでくださって、申し訳なくも、有難いです。
 お仕事、あまり無理されないでくださいね……というのも難しいかもしれませんが、どうかお体ご自愛くださいますよう。

 さておき、読みづらかったですよね。申し訳なかったです。ストーリーにせよ文体にせよ、軽重については、ほんとうに悩ましいところで……。
 欲を言えば、もともとそのジャンルになじみのない方にも、広い間口で楽しめる話であるに越したことはなく、けれどあまりにライトに徹し過ぎても、今度はファンタジー好きの方には物足りないものになりかねないですし……。自分自身の読者としての嗜好も、やや重苦しいくらいの作風が好きですので、軽くなりすぎずかつ読みやすい、というような書き方を、模索しないといけないなと思います。
 ほのぼのしたシーンだったり、コミカルな会話だったり、そういうものを適宜入れていければ、また少し違うのかなとも思うのですが、どうにも不得手で。話の中にじょうずに緩衝材をいれるテクニック、勉強したいなと思います。
 あるいはもっとメリハリのきいた、スピード感のある話だったら、ずっと違うだろうな、なんて思ったりもします。動きの大きなダイナミックな展開、なかなか書く力が身に付かなくて。いつかはそういうものも、きちんと書けるようになりたいです。

> 錐体細胞と桿体細胞の比率
 気付いていただけて、嬉しいです。彼らは地上の人に比べると、かなり色の認識が弱いつもりで書いています。ご指摘の通り、もっとそのあたりを活かした描写をできればよかったのですが……。トゥイヤの一人称ですから、本人が意識しないだろうことは、むやみに書きづらくて。一人称の弊害ですね。話の本筋から逸れずにいられる範囲で、何かそのあたりがもっとよくわかる小さなエピソードを入れられればよかったです。
 結果的にできたことは、色に関する描写をなるべくおさえたくらいでした。菜園など、わりと明るい場所もあるので、完全に色を認識しないということもないだろうということで、塩梅に悩みましたが……。

 ラストは、仰るような読み方をされてしまう可能性も、多少頭にはありました。かつての彼女だったなら、おそらく嬉しいばかりのはずだったその言葉を、いまのトゥイヤには、喜べない。そういう描写をしたかったのですが、それがあざとく、水を差すように感じられたのであれば、純粋にこちらの力不足です。失敗点は失敗点として心に刻みつつ、精進します。

「言う」をひらがな表記するのは、何年か前からの習慣で、亡くなられた藤原伊織氏がそういう表記をされているのが、読んでいてとてもうつくしくて、つい真似したくなってですね……。(動機が不純でお恥ずかしいのですが/汗)以来、古めかしい文体で書くときには云うか謂うを使い、それ以外ではひらがなで書くようにしています。仰るとおり、漢字のほうがわかりやすいのは承知しているのですが、つい愛着のほうが勝ってしまって。
 それならそれで、語順や文脈を工夫して、誤読させない書き方をすればいいと思うのですが、徹底できていませんでした。お恥ずかしいです。

 ご指導、ご感想、ほんとうにありがとうございました! また機会がありましたら、ご無理のない範囲でご指導いただけると嬉しいです。

----------------------------------------

> ゆうすけ様

 お忙しい中、ありがとうございます! 自分のところもそうなんですけど、年度はじめはやはりお忙しい方が多いですね。何事も体が資本、ということで、どうかご自愛くださいますよう。

 感情移入していただけたということで、とても嬉しいです。投影というよりはむしろ願望でしょうか。どのキャラクターにも大なり小なり自分の影はあるのでしょうけれど、それでも、自分にそっくりな主人公は描けないです。書いたら多分、同族嫌悪で苛々すると思います(笑)ちなみに部屋は死ぬほど汚いです(笑)

 星や死生観にまつわる挿話は、書いていてとても楽しかったです。お気に召したのであれば、とても嬉しく思います。

 トゥイヤのその後、もっとはっきりわかるように書いてもよかったですね。漠然とした案としてはあったのですが(この小説自体を、トゥイヤが老後になってひそかに書きためた、という形式にするなど)、いざ書いてみようとすると、作中時間と語りとの距離感がどうも難しくて。精進が足りませんでした。せめて、おぼろげにでも想像できるようになっていればいいなと思います。

 恥ずかしながら、ピアズ・アンソニイは未読です。そうか、ギャグなんですね。ファンタジーで、ギャグ。どんなのだろう……。オススメありがとうございます。どこかで見かけたら手に取ってみます。

 お忙しいところにこの長い話を読んでいただき、そのうえ温かいお言葉までいただきまして、本当にありがとうございました! お言葉を励みに、引き続き精進していきたいです。
No.16  ゆうすけ  評価:50点  ■2012-04-30 12:42  ID:dZDA6s9Jnbw
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拝読させていただきました。っていうかやっと読めた〜。
多忙の中でも、わざわざ読みたいと思わせる前作があればこそまた読んでみたいと思っておりました。そしてそれだけ高い期待度をもって読ませていただきました。読み終えて、子供の頃に朝のテレビで「ペリーヌ」「フローネ」「トムソーヤ」とかを観終えた時のような、純粋な心で楽しめたような、心のアカを落とせたような、とにかく楽しめました。

穏やかに始まる物語。きっちり丁寧に描いていこうという心意気を感じました。
どこか昭和初期を思わせる女性の扱い、異世界なのになぜか懐かしいような、不思議な感覚です。
読書好きで好奇心旺盛……HALさん自身の投影かな、とか勝手に妄想したり。
とにかくこの主人公の心の描写が最高です。
異世界への憧れ、智への欲求、現状への不満。
異世界の女の子を俯瞰で眺めている感じが、いつしか目線が重なってくる「感情移入」丹念に描かれていればこそだと思います。主人公と同じ気持ちを抱かせてくれる、これはとても楽しい読書タイムです。

前作と同じ世界ですね。さすがは「異世界構築の匠」(勝手に命名してすいません)
星の話など、神話っぽい話がファンタジー好きとしてシビレます。民の歴史も厚みがあって興味深いです。
HALさんは几帳面で綺麗好きな性格なのかな、部屋はしっかり片付いているみたいな。

一人追って行くシーン。落ちて死んだらどうしようとハラハラドキドキです。
結局帰ってきてしまい、ほろ苦い思い出となってしまうわけですね。
その後とうなったかとか気になってしまいます。部族初の女性導師になるとか……その智恵で部族を救うとか……女性導師の昔語りみたいな話にしても面白いかなとか……。


おや、陣屋さんも多忙だったようですね。オヤジ感想書きとして頑張っていきたいものです。
ピアズ・アンソニー、「魔法の国ザンス」かな。これ私大好き。ギャグが若干鬱陶しいですけど面白いですよ。

ではまた。
No.15  陣家  評価:50点  ■2012-04-29 12:20  ID:1fwNzkM.QkM
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おはようございます

今さらですがやっと読み終わりました。
などと言うと、語弊がありますが、と言うよりお怒りになると思いますが。

私事ではあるのですが、このところ仕事がハードなおかげで、読み進めるうちにいつの間にか寝てしまい、数日後にはどこまで読んだか忘れてしまっていて、最初から読み直して……などど言うことを繰り返してしまって、なかなか読了に至りませんでした。

美しいのでしょう。文章が軟らかで心地よく、まるで子守歌のように気持ちが穏やかになって、自然にまぶたが降りてきてしまう。
もしかしたらモニタからθ波でも出てるんじゃないだろうかと思えるほどの強力さでした。
いや、ただの睡眠不足なんですが……。

HALさんが下に書かれている感想返信の中で僕の長文投稿に勇気づけられたとのことで、恐縮です。
僕の大量の駄文がなにがしかのお役に立てたということで、とても光栄に感じております。

そしてとても恥ずかしいです。
ここまで緻密な設定、人物描写、多彩な語彙、文章表現を完成させるのにどれほどの時間、労力、情熱、努力が費やされたのか、それを思うと自分がどれほど本を読んでいないか、読んで来れなかったか、あまりにもそのことが身につまされて、それを思い知らされる思いでした。

だから単なる一読者としての感想をつけることができません。創作姿勢というもののなんたるかを垣間見てしまっているせいなのでしょうが。
そして多分、それだからこそ僕にとっては作品の重さと、筆者様の真摯な創作姿勢が重なって重かったです。
受け止めきれないくらいに。

でもそれはおそらく、一読者としての自分に資質が無いだけであって今作が素晴らしいことに変わりはありません。
実のところ、自分がファンタジー、特にハイファンタジーに嗜みが無く、いつも挫折してしまう根気の無い読者なのが最大の原因なのですが。
勢いで買ったピアズ・アンソニーの分厚い文庫本が何冊も手つかずで本棚に眠ってたりします。
すいません、変なぼやきみたいになっちゃって……。

穴居民族? 九つの丘の伝説を思い出しました。HALさんは設定マニアなんですね、その点ではとても共感しています。
長年暗がりの中で暮らしてきた結果として錐体細胞と桿体細胞の比率までもが変わってしまっているのではないかといったことをほのめかすような描写まであり、すごいなあと驚かされました。この辺の設定は暗がりでもよく見えるというトレードオフで実際に色の区別が付きにくいという設定をストーリーに組み込んでも面白かったかな、と思いました。一族の背負った宿命めいたものとして。

ラストは……どうなのかな……恋はなくともキャリアがあれば、という救い? にはちょっとトゥイヤの純粋さに水を差すような感じに受け取ってしまいましたが、曲解でしょうか……。すいません。

ただひとつHALさんの文章で気になるのが
言う、という漢字を完全に排除されているところですね。
そういう、ああいう、などどと同音異義語が多く、自動更正機能が使えないため、非常に更正に手間がかかる漢字なのは、文を書かれた人がだれしもすぐに気づくことなのですが、下のように、

>母さんはいう。
>妙なことをいう
>噛み含めるようにいった。
>囁くようにいった。
等のようにひらがなにしてしまうことで、意味がわかりにくい文章になってしまっているのがもったいないと思いました。

いつも通りの役に立たない感想ですいません。
これからも美しい文章のお手本をとして勉強させて頂きいたいと願うばかりです。
ありがとうございました。

No.14  うんこ太郎  評価:0点  ■2012-04-29 08:41  ID:7KchoCYyAto
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HAL様

丁寧なご返信をありがとうございます。いやあ、冷や汗をかいております。
神様は一柱、二柱と数えるのですね…。
人柱(ひとばしら)と読み違えておりました、お恥ずかしい(^^;。
人柱(ひとばしら)の女神さまってねえ、いろいろ間違っておりました。

安くで買う、これも正しい使い方なのですね。人様にあれこれと言う前に、まず自分がまちがって
いないのかどうか、きちんと調べないといけませんね。
でも、いい勉強になりました。ありがとうございます。

では、次作もとても楽しみにしております。

それから疲れ目についてはご自愛ください。
輪切りにしたキュウリを十五分ほど瞼にのせておくと効果があるようです。
No.13  HAL  評価:0点  ■2012-04-28 21:11  ID:vzyxqfQ.u7g
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> うんこ太郎さま

 返信が遅れまして、失礼いたしました! かさねがさね、ありがとうございます。再読までしていただけたとのこと、とても嬉しいです。
 十二国記、書店で見当たらなかったとのこと、残念です。ちょうど今年の七月から、新たに新潮文庫版が発売されるということですので、もしどこかでお見かけになることがあれば、お手にとってみていただければ嬉しいです。(と、あまりしつこくオススメするのも何なのですが・汗)

 わたしはちかごろ疲れ目でチカチカしてます(涙)……なんて話はさておきまして、トゥイヤの想像している星空は、おそらく本物とはかけはなれたものだろうと思います。というか多分、高い天井に光る小さな石が貼りついて、ぐるぐる回っているところを思い描いているんだろうなという気がして、書いた方としては「ちょっと間抜けなイメージ……?」などと思っていたのですが、こんなふうにすてきな受け取り方をしていただけたと知って、とても嬉しいです。

 ご指摘、母親との件について。書きあげてから振り返ってみれば、思いがけず成長ものとしての側面が強くなっていて、恋愛については、本当に恋といっていいのかも迷うくらいの薄味になってしまいました。完全に言い訳になってしまいますが、この話を最初に構想したときには、もっと恋愛小説的な側面の強い話のつもりだったんです。それで、叶わなかった初恋の話としての結末しか頭になくて、その余韻を残そうと、母親との和解については書かずに、そのまま流してしまいました。
 作品テーマというようなものを、深く掘り下げて考えて書いていなかったのですが、はじめは、トゥイヤの母もかつては叶わない恋をしていた、という展開を書くつもりでした。それがどういうわけか、書いているうちに、ふと気がつくとイラバがその役割を負っていて、母親はそういう柔軟さのない、価値観の凝り固まった人になってしまいました。
 そうしたのは無意識のことで、ほんのちょっとの筆の勢いだったと思うのですが、もし初めの予定のとおり、母親の過去について書くことができたなら、結末での母娘の関係もまた、すこし違ったものになったのではないかと思い、少々悔いが残っています。

 ヨブの名前の件、これは自分でも、しまったなあと思いました……。「夜明け〜」を書こうと思ったときには、彼の名前は初めからそこにあって、キャラクターとして形を得たその瞬間から、私の中で、この人物はヨブでした。しかしあとで冷静になってみれば、キリスト教にご縁のある方なら、ご指摘のとおり、ヨブ記を連想されるだろうなと……。
 特定の宗教を想起させる名前というのは、表現上の意図があるのでなければ、避けるに越したことはないと思いまして、一発置換で別の名前に変えてしまおうか、と思ったんです。ですが、書いてしまったあとでは、もうほかのどんな名前もしっくりこなくて……。さんざん迷った挙句にそのままにしました。書きだす前の思慮が足りませんでした。お恥ずかしい限りです。

 アーミッシュ、ですか。寡聞にして存じませんでしたが、興味深い話です。争いを捨てるために読書を禁じる……。読書という異文化理解のツールを捨てることが、どうして争いを捨てるための手段になると思われたか、ぱっと聞きには不思議に思えます。機会を見つけて調べてみたいです。ありがとうございます。

 ひと柱は、誤字ではない……つもりですが、いわれてみれば、わかりづらいですね(汗)一柱、という字面がなんとなくおさまりが悪い気がして、仮名に開いた記憶があります。しかし、「人柱」と誤読しかねませんし、もっといい表記なり語順なりがあったのではと思います。配慮が足りませんでした。
「安くで買う」のほうは、何がおかしいのかわからなくて、検索したら、関西・九州の言い回しだそうです。標準語だと思いこんでました……(大汗)「安く買い叩いた」などのほうが一般的ですね。ありがとうございます。

 貴重なお時間を割いていただき、再読してくださったばかりか、詳細な感想まで賜りまして、ほんとうにありがとうございました!
 書き終わって時間のあいたいま、自分であらためて読み返してみれば、筆の拙さばかりが目について、なにかといたたまれないのですが(涙)、ひがまずくじけず、いただいたお言葉を励みに、精進してまいりたいと思います。
No.12  うんこ太郎  評価:0点  ■2012-04-25 11:05  ID:iIHEYcW9En.
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 たびたびすみません。ええと、ファンタジーのおすすめをご紹介していただきありがとうございます。十二国記をさっそく買いにいったのですが、手に入らず、他でHALさんがおすすめしていた家守綺譚を買ってきました。途中まで読みましたが、おもしろいです(名もなき毒も買いました、楽しみです)。
 さて、「火の国より来たる者」、再読させていただきました。前回あまり感想らしい感想が書けなかったので、追記したいと思いました。やっぱり長いお話は読み返す楽しみがあるからいいですね!

 まずこの作品の魅力はいったいなんだろうと考えてみましたが、私はトゥイヤの心の成長だと思いました。

>表面的にはなにひとつ変わっていない。それでも日々のささやかな出来事をとらえるわたしの心は、以前と少しずつ違ってしまっていた。
 菜園で、頭上から降り注ぐ光を受けるたびに、これよりもずっと眩しいのが当たり前だという、火の国のありように思いを馳せずにはいられなかった。ヤァタ・ウイラの足元に刻まれた模様を眺めているとき、天高くに数え切れないほど輝くという、星々のすがたを空想した。

 トゥイヤは書物を読むことをきっかけとしてヨブに出会い、未知の世界に想像を巡らせ、そして現実の風景(日々の生活)のなかに新しい意味をみつけていきますね。そうしてそういう世界の意味を、一本一本糸のように紡ぎながら、新しい世界を織り上げていく。 
 今まで夢にも思わなかった火の国や、星空といった、そういう未知の風景までひっくるめて、より一層大きな世界に、よろこびと畏れを感じながら歩みを進めていく。トゥイヤが世界に想いを巡らせることは、読者が作品世界を構築していくこととも重なるようです。読書という象徴的な行為を通じで、そういう二重の意味で、トゥイヤの見ている世界は読者に伝わってくるのだと思います。
 星空を見ることは叶いませんでしたが、トゥイヤが想いをめぐらせることのできる星空は、火の国の星空よりもずっとうつくしいものにちがいないと思います。本を読むことで、ちょっとでも世界がちがうように見えたら、普段見慣れていた日常が違った意味合いを持ってくれたら、これは素晴らしいことだと思います。そしてこの物語を読んだ後に私が見た星空も、いつもとはすこし違って見えた気がします。ありがたいことです。
 もしかしたら私にも火の国の星空がちらっと見えちゃったのでしょうか。えっ、疲れ目でちかちかしてるだけ? そ、そんなことないはずだと思いますが……汗。

※ ※ ※

 さて、せっかくなので、これはどうかな、と思ったことも書いていきたいと思います(でも実は私にとってはこの作品は家守綺譚よりもおもしろいくらいなので、あまりご指摘できることもないのですが…)。今後の作品のための何らかのご参考となればとも思い書いてみましたが、見当ちがいのことであれば、お聞きながしください。
 まず、この物語をトゥイヤが世界という本を読み進めていく成長の物語と捉えた場合、母親とトゥイヤの関係にもっと踏み込むことができたのではないかという気がしました。最後の場面で、トゥイヤが火の国へ向かったことを母親は知らされていなかったというのは、どうも安易な気がします。私には母親とトゥイヤの関係は、(カナイとトゥイヤの関係よりも)この作品で書かかれるべき(もしくは踏み込めば書くことができた)課題のひとつであったような気がしたのですが。
 それから細かいところでは、ラクダと砂漠と黒い目はどうしてもアラブ世界を連想させてしまうので、ヨブ(ヨブ記)という名前はもしかしたらあまりよい選択ではないかもしれないと思いました。
 それからこれは作品とは全く関係ないのですが、またHALさんはすでにご存知かもしれないのですが、アーミッシュという十五世紀頃?からの宗教団体があって、彼等はエルトーハ・ファティスのように争いを放棄しています。
 彼らには「(聖書以外の)読書をしてはいけない」という戒律がありますが、この戒律からだけでも争いを放棄することの難しさがうかがえるように思えます。この集団はとても興味深くて、このような方々の価値観や習俗を調べてみることも今後より堅牢な作品世界をつくるためのご参考になるのではないかと思いました。

最後に誤記ですが…。

>ひと柱の美しい女神
これはちょっと誤記かどうか定かではないのですけど…。私の読み違いであればすみません。

>細工師をだましてその粒を安くで買いたたいた

いろいろと偉そうにすみません。
No.11  HAL  評価:0点  ■2012-04-08 20:11  ID:GWjTszogzt6
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> Phys様

 ありがとうございます……! 嬉しいご感想を頂戴して、小躍りしております。

 完成度が高いなんてとんでもない、大小のアラがあちらこちらにあり、恐ろしくてまともに正面から読み返せずにいます(汗)もう少し冷静になったら、一から読み返して、あらためてあらためて反省点を洗い出そうと思っています。

 ご指摘のとおり、設定上の制約により舞台がとても狭くて、動きも乏しくならざるを得なくて……。そのうえ叶わない恋であることが前提だったので、なんで身の程しらずにも、わざわざそんな苦しい設定を書くことにしたのかと、書きながら自分で何度も思いました。
 ちょうどこれを書いている最中に、ツイッターである方が「悲恋を面白く書くのは難しい」という話をされているのを見かけてしまって、思わず目が泳ぐやら、途中でやめて投げ出そうかなと思ったりもしまして。
 そんな調子だったので、動きの少なさを感じなかった、世界の広がりを感じていただけたとのお言葉が、ものすごく嬉しかったです。

「夜明けを告げる風」とあわせて読んでくださったとのことで、有難いと同時に、冷や汗が出ます。片方だけならごまかせるけれど、両方を読み比べることで出てくるアラが、たくさんあったのではないかと……(汗)

 トゥイヤのような、好奇心あふれる子どもでいらっしゃったとのこと。そういう方に読んでいただけたこのご縁を、有難く思います。「夜明け〜」を書いた昨年の五月には、同時に漠然とした構想があったのですが、その最初のプロットの段階では、トゥイヤはもっと落ち着いて分別のある、おとなしい女の子の予定でした。いまより、恋物語的なニュアンスが強くて。
 だけど、そのまま寝かせていてもなかなか彼女の顔が具体的に見えてこなくて、何か月も書きだせずに、温めっぱなしになってしまっていて。半年ほど経ってようやく、いまのトゥイヤがおぼろげに見えてきだして、それでなんとか形になりました。
 おかげで書くのにずいぶん時間がかかってしまったけれど、こうして嬉しいお言葉をいただけたので、そういうご縁だったのだなと思います。登場人物に感情移入していただけたということが、とても得難く、何よりも嬉しいことだと思います。

 本作については、この結末が先にあって書いた話でしたが、自分でも、もっと力をつけて、幸せな結末を書けるようになりたいです。大団円の、誰もが笑顔で読み終われるような物語を。

 イラバやカナイについて、ほんの少ししか出てこない彼女らの物語まで汲んでいただけて、とても嬉しいです。書き込みが足りなかった気がして、悔いが残っていましたが、力不足で書ききれなかったところを、読みながら補完していただけたのなら、とても嬉しいです。

 いつも温かいお言葉で背中を押してくださって、本当にありがとうございます。お言葉を励みに、引き続き精進していまいりたいと思います。
 ありがとうございました!
No.10  Phys  評価:50点  ■2012-04-08 10:55  ID:jqtBBUxUvS.
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拝読しました。

こんにちは。本作、とにかく素晴らしい作品でした。完成度の高さに震えた、
と仰っていた太郎さんと同じ思いです。唯一違う点と言えば、私は『ちょっぴり』
どころではなく『ぼろぼろ』泣いてしまいました。

みなさん素敵な感想を残されているので私が言うようなことは何もないのかも
しれませんが、溢れる想いを形にしておきたいので、以下に思ったことを書か
せてください。

まずは全体的な印象からです。
文章表現と登場人物の魅力についてはもう圧巻、という他ありませんでした。
どれだけの鍛錬と読書経験を積めばこれほどのものが書けるのでしょうか。
HALさんの書き手としての信念、熱意の結晶のような作品として私は受け取り
ました。

書き手としての私はまだまだ経験が浅く、TCで小説を書かれている皆さまほど
読書家でもないので、これほどの世界を描くことはきっと望むべくもないこと
だと思います。でも勉強するのは自由なので、じっくり読ませて頂きました。
まさに珠玉の作品でした。

本作で最も私が心動かされたのは、動きの少なさを感じさせない緻密さです。
長編作品としての体積の中で、その多くを占めるのは心理描写や葛藤であり、
描かれる場面も『サフィドラの月』でヨブさんと会う場面が多くを占めます。
エルトーハ・ファティスという閉じた世界の中で生きるトゥイヤさんが物語の
基点になっている以上、壮大な冒険も、驚きの展開もないのだろうと読み手は
考えるかもしれません。平凡な書き手が書いたなら、きっと退屈なおはなしに
なりかねない題材だとさえ思いました。(失礼を承知で書きます)

しかし、本作にはそんな心配は不要でした。主人公さんの少女らしい感性が、
豊かな想像力が、未知への憧れが、本作の世界観を限りなく広く、壮大なものに
昇華しています。小説という形式を使ってこれほどのものが生み出せるなんて、
という事実に、理屈抜きで震えてしまいました。

ここから少しだけ個人的な事情になりますが、私はトゥイヤさんと(たぶん)
同じで、小さい頃から身の回りにある『分からないこと』を検証したくていつも
うずうずしているような子供でした。本当は大学に残って一生を研究に捧げる
ことを夢見ていたのですが、現実を見て就職し、今に至っています。

それゆえ、トゥイヤさんの心情の一つ一つが強く心に響いて、彼女の胸の内は
とても他人事には思えなかったです。この話は自分のために書かれたものなん
じゃないか、と錯覚してしまうくらい、物語にのめり込むことができました。
他のみなさんの評価を見て頂ければ、そう感じたひとは私だけではないと思い
ます。(この作品がそれだけ共感を呼べる品質を担保しているのであって、
決して読み手たる私の思い込みではないはずです……汗)

もっと幸せな結末にして欲しかった、というのはトゥイヤさんに自分を重ねた
上での感想かもしれません。でも時間が経ってからじっくり読み返してみると
この物語にはこの結末が似合うのかな、と思い直しました。

それから、イラバさんの手首の痣、掟を破ったカナイさんの恋、女性としての
幸せに苦悩し、葛藤するトゥイヤさん。彼女たちそれぞれに与えられた物語が
とにかく切なくて、堪らなかったです。夜明けを告げる風、での男性二人語り
とのコントラストもあって余計にそう感じました。非常に丹念に作り込まれた、
上質なシリーズ作品を読ませて頂きました。

私はきっと、この作品を読めたことを忘れません。
また、読ませてください。
No.9  HAL  評価:0点  ■2012-03-31 21:18  ID:kcikUZk4JHs
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> 白星奏夜さま

 返信が遅れまして、大変失礼いたしました!
 お読みいただき、ありがとうございました。カナイを気に入っていただけたとのこと。わたしにとっても思い入れのあるキャラクターで、彼女の振る舞いについて、読まれた方にちゃんと伝わるように書けただろうか、もっとうまく書けたんじゃないのかと、悔いが残っていました。ですので、お言葉がとても嬉しかったです。

 十二国記は名作ですよね! 昔から何度も読み返してきた特別な作品です。(どうにか続きが出ることを願い続けています……)
 宮部みゆきさんも大好きで、著作の八割方読んでいると思うのですが、実はファンタジー作品だけなぜかちょっと苦手なところがあって、英雄の書はまだ読んでいないんですよね。迷っていたのですが、コメント拝見して決心がつきました。近いうちに読んでみようと思います。

 ほんとうは大団円のハッピーエンドも書けるようになりたいのですが、難しいです。ご都合主義だろうとなんだろうと、やっぱり物語はハッピーエンドが一番、と思うのですが、自分で書くとなると……。悲劇を書く方が易しいというのを、このごろ前にもまして痛感します。

 お言葉を励みに、引き続き精進してまいります。温かいお言葉の数々、本当にありがとうございました!
No.8  白星奏夜  評価:50点  ■2012-03-27 18:38  ID:NnSVjWbdC36
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こんにちは、白星です。
感想が遅くて、ごめんなさい。最後の切なさに、胸が熱くなりました。個人的には、意地悪をしながらも、なかなか心が添い合わないながらも、トゥイヤのことを気にかけているカナイに心を奪われました。脇役ではあるのですが、そうとうは思えない絶妙な配役でした。
恐縮なのですが、HAL様のお好きな十二国記やその他のものは私も大好きなのです。なので、作品を読んでいると、奇妙に落ち着くというか、とても安心感があります。
――智に対して眼を塞ぎ、真実を求めることをやめてしまったならば、たとえこの心臓が動き続けていたとしても、わたしの魂は死にいたるでしょう
この言葉がとても好きでした。私の格言にしたいくらいです。
とても、素晴らしい物語でした。全てが幸福に終わるわけではない。宮部みゆき先生の『英雄の書』もそういう話しでしたが、大好きです。しかし、そこに希望を残す、とても書きがいがありますし、読みがいがあると思います。
拙い感想、失礼しました。
No.7  HAL  評価:0点  ■2012-03-24 21:39  ID:IoS60Cxqxyg
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> 楠山歳幸さま

 ありがとうございます! 思わぬ高い評価をいただきまして、戸惑いつつも喜んでいます。

 異世界ファンタジーは、日常臭い生活感のあるものが好きで、自分でもそういうものを書きたくて、本筋にはあまり関係のない細部の設定ばかり、つい時間を割いてあれこれと考えてしまいます。
 書きもしない部分がほとんどになるのを承知の上で、それでも楽しくてシュミ的に考えているつもりが、考えればやっぱりどうしても盛り込みたくなって、ついつい話の筋を追う上では必要のない情報もかなり入ってしまい……。
 それが筆のつたなさのような気がして恥ずかしいのですが、もしそういう細部が、今回、舞台装置としてお話に活かせていたのであれば、とても嬉しいです。

「ほろ苦いハッピーエンド」と評していただいて、とても嬉しいです。手放しの大団円を書ききるだけの力がなかなか身に付かず、報われなかった恋の話ではありましたが、この結末をハッピーエンドとして受け取っていただけたのなら、書いてよかったのだと思えます。

 温かいお言葉をいただきまして、ほんとうにありがとうございました! お言葉を励みに、引き続き精進してまいります。

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> 李都さま

 わ、お久しぶりです! 読んでいただけて嬉しいです。ありがとうございます!

 世界観を褒めていただいたのが、すごく嬉しいです。本当はもっと、ストーリー構成をしっかり切れるようにならないといけないという思いがあるのですが、結局いつものように、主筋に関係のない舞台の細部にばかりこだわってしまいました。そのくせ考証の甘いところが多々あったりしますし、お恥ずかしいのですが……。
 嘘のないとまでいっていただいて何なのですが、本当にこの地下の環境で千人からの口を養えるのかとか、たかが千年で人間の体がそこまで暗闇に適応できるものなのかとか、現実のヒカリゴケは光を反射するだけで自力では光らないとか、数え上げればアラが色々と……(汗)

 獣の奏者や精霊の守り人、大好きです。あれだけの壮大なお話を真似しようたってできませんが、影響は大なり小なり受けていると思います。読みながら思い出していただけるようなところがあったのであれば、やっぱり嬉しいです。

> 初恋は実らなくても
 未熟で不器用な初恋の話が、実は大好物です……。この年になってから純情乙女な主人公を、しかも一人称で書くことには、いたたまれなさがかなりありまして、書いていてふと休憩に顔を上げた瞬間などに、つい我に返ってしまってツラかったりしたのですが(汗)近頃、なによりもまず自分が好きなものを書かなければという気持ちがあって、なんとかふりきって書きました。書き終わって、やっぱり恥ずかしいです……。ですが、また書きたいです。

 夜明けを告げる風まで続けて読んでくださったということで、ありがとうございます! あちらも前半が冗長だったり、盛り上がりが足りなかったりと、いろいろ不出来な箇所の目立つ内容になってしまいましたが、思い入れのある(趣味丸出しの)内容なので、お気に召していただけたのならすごく嬉しいです。

 温かいお言葉の数々、本当にありがとうございました!
No.6  李都  評価:50点  ■2012-03-21 01:14  ID:L6TukelU0BA
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お久し振りです HALさん 李都です
拝読させていただきました

こんなにも世界観を徹底されていて、そこに生きる人々を丁寧に丁寧に息ずかせているなんて……
こんな作品が書けてしまうHALさんに脱帽
すごく引き込まれました
民族学的な目線と人の心は、(個人的に好きで読んでることもありますが)上橋菜穂子さんの作品に近いものを感じさせました
少女の葛藤、唄の中にある戒め、人の生き方、純粋な知的欲求ゆえの危うさなど、ちらちら近い匂いを感じました
こういう丁寧に世界観を描いている、嘘のないファンタジーがすごく好きです

最後も落としといて救いをもってくる ニクい演出ですね
初恋は実らなくてもなんかきゅっとキますね 大人な味付けです

この作品を読んでから『夜明けを告げる風』も読ませていただきました
うーん、これまた美味
どちらもぺろりと美味しくいただきました

ますますHALさんのファンが増えますね こりゃ
私もますますファンになりました
拙い感想ですみませんでした
書かずにはいられなかったので(^^;

また読ませてください

ではまた



No.5  楠山歳幸  評価:50点  ■2012-03-20 23:41  ID:3.rK8dssdKA
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 読ませていただきました。

 うんこ太郎様と重なり恐縮ですが、すごいの一言でした。
 死者の暗い川、小民族の生活みたいなのがありありと浮かぶようでした。また、会話の中に浮かぶ満天の星空、雰囲気がものすごく伝わりました。重厚な設定に加え人物描写の素晴らしさ、女性の地位への思い、ほろ苦いハッピーエンド、年甲斐もなくじんと来ました。小説の威力を見せつけられました。
 
 箸にも棒にもならない感想、申し訳ありません。ありがとうございました。
No.4  HAL  評価:--点  ■2012-03-20 18:14  ID:371ETsysh9I
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> うんこ太郎さま

 ありがとうございます!
 こちらに投稿するには長めの話ですし、まず読んでいただけるかどうかも心配だったのですが(そういう意味では、陣屋さまの長編が同板に投稿されていたことが、すごく励みになりました)、最後までお読みいただき、その上このようなあたたかい感想まで賜りまして、感謝しております。

 前作をご存じなくても問題なく読めたということで、ほっとしております。なかなか自分で書いたものを自分で客観的にとらえることができなくて、充分な情報を入れられているかな、世界観がうまく伝わらなかったりしないかなと、不安を持っておりました。

 風景を思い浮かべながら読んでくださったとのこと、とてもうれしいです。ファンタジーは、書き手の技量云々以上に、読まれる方の感性に大きく依存するところがあるなと、あらためて感じた次第です。

 壮大、なんていってもらったことがこれまであっただろうかと、喜んでいいやらあわてていいやら、おたおたしております。いつもやたらに小ぢんまりした話ばかり書いており、本作についても、実際に作中で書いている舞台はごくせまいものですし、ストーリーとしてもあくまで一人の少女の人生という枠を出ておらず、とくに話中で歴史も動かなければ女神さまが降臨してくるでもなくて、なにかこう、身に余るお言葉をいただいた気がします。でも嬉しいです。
 作中の世界の時間の流れや、舞台の外の世界のひろがりみたいな部分を、もしかするとこちらで書いた以上に、汲んでいただけたのかなと思います。とても有難いです。

 ファンタジー、あまり読まれないのですね。ぱっと見には、十代の若い方向けの作風が多い印象があるジャンルですが、探せば「西のはての年代記」「十二国記」「獣の奏者」など、大人にこそ楽しめるハイファンタジーの良著がたくさんありますので、いつかお気が向かれましたら、ちょっと守備範囲を広げてみられては……なんて、こそこそオススメしておきます。

 誤字のご指摘も、ありがとうございます! 蒼いについても、誤変換です。何度も推敲したつもりでしたが、見落としがありました。お恥ずかしい!

 ご感想、ご指摘、ほんとうにありがとうございました! お言葉を励みに、引き続き精進してまいりたいと思います。

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> 沙里子さま

 いつもありがとうございます!
 自サイトで連載している間、たびたびお声をかけていただいたことが、とても励みになりました。その説はありがとうございました!

 書きかけてから失敗したなあと思ったのが、設定上、実際に作中に出てくる舞台は、暗くて湿った地下洞窟の、ごく限られた空間の中だけになってしまい、それもそれもメインの場面は布越しに二人で話しているだけのシーンの連続という、ものすごく変化に乏しい地味な話で……。
 にも関わらず、沙里子さまの感想を拝読すると、この地下洞窟が美しい舞台のように思えてくるのが不思議で、とても嬉しいです。
 読み手のかたの豊かな想像力によって、書いた方の力量を超えた効果が得られるときがある……というような話を、書き手の方々が仰っているのをときどき耳にします。とりわけ架空の世界を舞台にした小説では、そういう側面が強いんじゃないかなあと、あらためて感じます。素晴らしい読み手にめぐり合うことのできたこのご縁が、とても有難いです。

 名詞は、感覚的にしっくりくる語感が見つかるまで音をひねくりまわしたり、外国人名などから、イメージに近い音を拾ってきたりして探し当てています。(……って、説明になっていませんね・汗)
 そういえば、トゥイヤはなかなか決まらなくて。話のタネは去年の五月には頭の中にあったのに、なかなか主人公のキャラクターがつかめなくて、ずっと書きだせないでいたのですが、トゥイヤの名前が決まった途端、ようやく彼女がどういう子なのかがわかりかかって、それでやっと形になりました。

> 二人が一緒になることはできないのだと頭では分かっていても、
 もしかしたら……というのの、ちょっとの塩梅で、とてもがっかりされてしまうのではないか、後味の悪いラストになるのではないかと、書いているときにも悩んだし、書きあげてからもまだ判断がつかなくて、サイトで連載しながら、話数が進むごとに反応が怖くておろおろしていました。(恋愛ものとして読むには、あまりにヨブが情けないことだし!)書いている人間がそんなに確信なくおたおたしていてどうする、という気もします(汗)
 読んでくださった中には、実際にがっかりされた方もおられるんではないかと思っています。そんな中、沙里子さまのかけてくださったお言葉に、大いに救われました。失敗点や力不足はあれども、とにかく諦めずに書きあげてよかったと思えました。

 こちらこそ、ほんとうにありがとうございました! いただいたお言葉を宝物にして、引き続き精進してまいります。

----------------------------------------

> ねじ様

 かさねがさね、ありがとうございました! 連載中にねじ様が送り続けてくださったコメントに、たくさん勇気をいただきました。

> 読んでいる間、私はトゥイヤだったと思います。
 小説を書いていて、これ以上に嬉しいお言葉って、そうはないんじゃないでしょうか。

 大人になろうとしている子どもの話を、いつまで書けるだろうかと思うと、ちかごろときどき、怖いような気がします。まだ二十代のいまでさえ、書いた後に我に返ると、つい自分の年齢を思い出してふといたたまれないような気がするのに(汗)、そのうちすっかり子どもだったときのことなんて忘れてしまって、書けなくなってしまうんじゃないかって思って。
 実際に、この話を書きながら、トゥイヤ自身の思いについて考える以上に、導師の本心、カナイの気持ち、ヨブの本音のことを、ずっと考えていた気がします。

 トゥイヤの一人称では、そういう大人の事情を、充分に伝わるように表現できた気がしなくて(ただ書くだけなら、もっと露骨に書きこめたのかもしれませんが、そのうえで後味悪くなく結ぼうと思うと、自分の腕では難しくて……)、自分で選択した視点とはいえ、なにかと悔いが残りました。わたしに腕さえあれば、この話をもっとちゃんと面白く書けたはずなのではないかと……。
 でも、ねじ様にこんなふうにいっていただけたのなら、やっぱり彼女の一人称で書いてよかったんだと、ようやく思えました。

 物語のバランス、よかった……でしょうか。ほんとうならすごくうれしいです。冗長ではないか、退屈ではないかと思って、ひやひやしながら連載していました。最後の盛り上がりも、話全体の長さと構成に対して、あっさりしすぎなんじゃないかとかも……。
 ヨブの出てこない期間の話なんか、もっと縮めて、さっさと先に進んでしまったほうがいいんじゃないかという自分と、カナイや母親との関係をちゃんと書かないと、トゥイヤの一人の人間としての像が結べないという自分との間で、ゆらゆら揺れっぱなしでした……。どうも、そういうのを客観的に判断して折り合いをつけることが、なかなかできなくて。

 実際にそのあたりで、話の進まなさに飽きて読まれなくなった方も、いらっしゃるんじゃないかと思ってるんですけど。
 飽きさせない短いサイクルで話を動かして山谷つけるのと、漏らしてはいけない情報を話の動きのなかできっちり織り込むのと、ちゃんといっぺんにやれるようになりたいです。

 お言葉を励みにして、またがんばります。ほんとうにありがとうございました!
 長編、初稿を書きあげられたとのこと、読める日を心待ちにしております!
No.3  ねじ  評価:50点  ■2012-03-19 23:18  ID:uiv4pJVFId6
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読ませてくれてありがとうございます。と、思いました。実を言うとそんなことはめったにないんですけど。

連載していたときから読ませていただいていて、最終話ではぼろぼろ泣いてしまいました。
結局、大人の言っていることは真実の全てではないにしろ、生きていくうえでは正しいことが多い、ということ。それがわかっていても従うことができない苦しさ。幸せという短い言葉の後ろにある大きなもの。なんだか色々なことを考えました。
火の国を見ることが叶わなくとも、トゥイヤにその路を歩かせてくれたことを作者に感謝しました。読んでいる間、私はトゥイヤだったと思います。すごいことです。

技術的なことをいうなら、物語としてのバランスが特に素晴らしかったです。物語とトゥイヤの心情が無理なく流れていました。推敲の大切さを思い知りました。私も頑張ります。
No.2  沙里子  評価:50点  ■2012-03-19 18:02  ID:KU96/wZ.vu6
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とてもすばらしかったです。
連載を追いながらツイッターで簡単に感想を書かせて頂いていましたが、最終回を読み終わったあとは胸が詰まってしまって何から書けばいいのか分からず、しばらく画面の前で呆然としていました。
結局書けずじまいだったことを申し訳なく思います。壮大な物語が美しく切なく収束された、すばらしいラストでした。

布越しの淡い逢瀬からはじまるトゥイヤの恋の物語だけでなく、女としての生きかた、ひいては人間の幸福についてがあますところなく丁寧に描かれていて、一文一文をかみしめるように読みました。
そしてエルトーハ・ファティスの世界の美しさ。
地の底で暮らす青い目をした人々、透きとおった水辺、光の射す菜園、エトヤ豆のスープ、石造りの机、淡いヒカリゴケ……。ため息が出るほどうつくしい世界。
いつもは文章を読むとその映像が浮かんでくるのですが、この作品は読みながら舞台のイメージが湧いてきました。映像でも絵でも写真でもないのは初めてです。
青い照明のした、薄い紗越しに言葉を重ねてゆくトゥイヤとヨブの姿がはっきりと浮かんできました。HALさまの書かれる文章の喚起力のすごさを再度実感しました。
(ところでHALさまの小説に出てくる名前や名詞の響きは軽やかで、どれも舌に馴染みます。どうやって考えておられるのかいつも不思議に思っています。)

二人が一緒になることはできないのだと頭では分かっていても、最後の最後まで「もしかしたら何とか共に生きていけるのではないか」と期待してしまいました。
結局二人が結ばれることはなく切なさで胸がいっぱいになりましたが、一方で強い希望の光が見えるラストに救われました。

素晴らしい物語を、本当にありがとうございました。

No.1  うんこ太郎  評価:50点  ■2012-03-19 05:35  ID:iIHEYcW9En.
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すごい、すばらしいの一言でした。

僕は「夜明けを告げる風」は読んでいませんが、この作品の完成度の高さに震えてしまいました。
文字を追いかけている間、砂漠の風景が、満天の星空が、暗い川が、
僕の脳内にもひろがっていました。
そしてトゥイヤの心は満天の星空よりも純粋で強くて美しいこと!

いい歳ぶっこいて、ちょっぴり泣いてしまったことも白状してしまいます。

これだけ壮大な世界がHALさんの心の中には広がっているのですね。

ファンタジーはあまり読んだことがないのですが、本当に良かったです。

ありがとうございました。
そして、長編お疲れさまでした。

※誤記見つけましたので、ご報告しておきます。

>無知の闇の向こうから鮮やかにに立ち上がってきた世界
・・・「に」が重複していました。

あと、これは誤記なのか分からないのですが、最初は「青い」とされた目の色が
終盤で「蒼い」と変わってしまうところに違和感を感じました。
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