神様はヘ音記号がお気に入り
プロローグ

 その時、少女は神様になった。
 気が付けば、少女は真っ白な空間の中にいた。
 眼前には、畳一畳程はあるだろう、巨大なモニターが置かれていた。画面がざらついている。今にも何か映し出されそうだ。
「ここはどこ? 一体、わたしをどうするつもりなの?」
 疑問が、声となって出る。
 少女の疑問は、すぐに解決することになる。
 とんとん、という音を聞いて、少女は後ろに目を向けた。
 直後、前方のドアが開き、やけに背の高い老人が入ってきた。
「三〇三号室はこちらかのう、やけに離れてるもんで、わしも疲れたわい」
 そう言って老人はいったん戻り、部屋を確認し、再び中へと入った。
 少女は、老人をただただ見ていた。その背の高さ、見る者を圧倒させる威圧感を漂わせていた。
 老人は、辺りをきょろきょろ見回している。目が悪いのだろう、少女には気付いていないようだ。
「あ、あの……」
 少女が口を開くと、老人もそれに気付いたらしい、にっこりと微笑んだ。
「おっとすまぬ。ちょいと目が悪いもので」
 やっぱりそうだったのかと心の中で突っ込みを入れつつ、少女は先程まで脳裏に浮かばせていた疑問を老人にぶつける。
「ここはどこですか? わたしをどうするつもりですか?」
 老人は、穏やかな顔でこう言った。

「ここは、天国じゃよ」

 一瞬、少女の顔が凍りついた。が、冷静になってみると、その答えで納得したのか、頷く仕草を見せた。
 少女は、死んだのだ。
 不思議と記憶があった。確か、突然の事故死だったような……。
 はっ、と少女は我に返った。二つ目の質問に老人が答えていない事に気が付いたからだ。
「安心しなさい。別に何もせん」
 少女の心中を読んだかのように、老人は続けた。
 少女はほっと胸を撫で下ろした。
「ただし、少しやってもらいたい事がある」
「やってもらいたい事……ですか?」
 少女は首をかしげた。まあ、当然の反応だろう。
「その前に、名前は、みすずちゃんかな?」
「はい、そうです」
 みすずと呼ばれた少女は、老人の問いかけに対してはっきりと答えた。
 みすずの心には、二つの想いがあった。『やってもらいたい事』に対する期待と恐れである。
「ほほ、元気があってよいのう。これなら翔君の神様を任せられるわい」
「神様?」
 みすずはきょとんとした。話の核心が見えてこない。
「おお、すまぬ、言い忘れておった。みすずちゃん、君は今日から……」
 老人はいったん話を切った。そして、こう言った。

「……神様になったのじゃよ」

 神様。
 雲の上から人間を見守っている存在。
 みすずには、そういうイメージがあった。
「神様……ですか……」
 信じられないと言いたげに、みすずはぼそぼそ言った。
「そうじゃよ。なあに、やる事はただ一つ、翔君をここから見守る事、それだけじゃ」
 それって神様なのか、と疑問に思いつつも、みすずはなるほどといった顔をした。
「目の前にモニターがあるじゃろう? そこから翔君を見るのじゃよ」
 老人は、モニターを指差した。さっきのざらざらした画面とは違い、生まれて間もない赤ちゃんが映っている。
「可愛い……ですね……」
 自分にもこんな時期があったのだと思いつつ、みすずは老人に尋ねる。
「見守るだけでいいんですか?」
「さよう。神様といえども、人間の人生に手出しは厳禁じゃ」
「何故ですか?」
「手出しをすれば、彼らは操り人形そのものになってしまうじゃろう? 彼らに自由な人生を歩ませる為にも、手出しはしてはならん」
 みすずは、なるほどと頷くしかなかった。
 『神様』という存在は、願いを叶えてくれる、そういうものだと思い込んでいた。
 けれど、現実は違った。
 それは、みすずが抱いた妄想でしかなかったのだ。
「じゃあ、翔君をよろしく頼むよ。みすずちゃん」
 そう言い残して、老人は部屋から出て行った。
 一人残されたみすずは、ただ、生まれたばかりの翔の姿を眺めていた。
「可愛い……」
 みすずは、その言葉を何度も繰り返した。
 生前、両親が言ってくれた様に……。

 それから、十七年の歳月が流れた。
 今日もみすずは、モニターの前に居座り、遅刻ぎりぎりで教室に着いた翔の姿を見ていた。
 つい最近まで赤ちゃんだった翔は、やがて幼稚園、小学校、中学校と順調に成長していった。途中で、みすずも目を塞ぎたくなるほどの悲劇が起きたが、翔はそれにもめげず、たくましく成長したのである。
 そして今、翔は高校生になり、青春を満喫していた。
 みすずは、そんな翔が羨ましかった。
 自分にも、そんな時期があったはずなのに。
 『神様』の仕事は、はっきりいって退屈だった。
 ただモニターを眺めているだけなのだから、無理もない。
 最近、みすずの心には、ある願望が生まれていた。
 もう一度……青春を味わいたい。
 しかし、自分はもう死んでいる。それは痛いほどわかっていた。
 それは、叶わない夢、と思われた。
 しかし、結果、その夢が叶うことになろうとは、誰が想像しただろうか。

 ある日、みすずが小休憩を取っていた時の事だ。
 突然、ドアが開き、あの老人が入ってくる。
 みすずは、慌ててモニターの前に戻った。
「やあ、みすずちゃん、お久しぶりじゃのう」
「ノックくらいして下さい。びっくりするじゃないですか」
「おお、すまんすまん」
 老人は、はっはっはと笑うと、真顔になった。
「みすずちゃんはようがんばっとるのう、感心したわい」
「ありがとうございます」
「じゃが、がんばりすぎるのもどうかと思うんじゃ」
 ついさっき休憩してたんですが、と言いかけて、やめた。
「たまには休憩も必要じゃと思うんじゃが、どうじゃ?」
「そうですね」
 とりあえず、みすずは相槌を打った。
「そうかいそうかい。みすずちゃんは、生前何かやり残した事はあるかい?」
「やり残した事、とは少し違いますが、やりたかった事はあります」
「ほう。何じゃ?」
「吹奏楽のコンクールに出る事です」
 老人は、なるほどといった顔をした。
「わたしの学校は部員が少なくて、出られなかったものですから」
「ふむ。実は、みすずちゃんにいい話がある」
「何ですか?」
 老人はにこりと微笑んで、
「時間制限つきじゃが……」
 そして、こう言った。

「……みすずちゃんを、現世に蘇らせられるんじゃよ」

 みすずは、一瞬信じられないといった顔をした。が、この十七年間、科学では説明出来ないような事を体験してきた自分だ。すぐに元の顔に戻った。
「どのくらいの時間ですか?」
「んーと、ざっと三カ月程じゃろう」
 三か月。
 それを長いと感じるか、短いと感じるかは、自分次第という事だ。
「お願いします、わたしを蘇らせて下さい」
 みすずは、老人に向かって頭を下げた。
「焦る事はない。明日までじっくり考えてみるのじゃ」
 老人はそう言って、部屋を後にした。

 翌日。
 みすずは、『人間』になった。

第一章

 安房翔は、今日も部活を休んで帰宅の最中だ。
 中学からやっていた吹奏楽部があると聞いて、必死に勉強し、なんとか県内トップクラスの進学校、県立習篠高校に入ったはいいのだが、翔を待ち受けていたのは、予想だにしなかった現実だった。
 まず、吹奏楽部だが、部員が異常に少ない。顧問を入れても、せいぜい二十人程しかいないのだ。これは、翔が事前に調べなかったのも悪いが、それにしても少なすぎる。
 そして、進学校だけあって、やはり授業のレベルが高い。最初はなんとか食らいついていた翔も、今じゃ学年で下から数えて三番目辺りまで落ちぶれていた。さすがに留年は避けたいので、部活よりも勉学を優先している状態だ。
 もともと、翔は真面目な性格なので、勉強はそれほど苦ではないのだが……。
 ちなみに、部活を休んだ理由は勉強をする為ではない。いや、それもあるにはあるが、それ以上に、他の理由があった。
 翔には、両親がいない。
 中学を卒業した直後の春休み、事故で亡くなってしまったのだ。
 今、翔は、残された家で一人ひっそりと暮らしている。
 もともと、内向的な性格の翔には、友達と呼べる存在がいない。
 けれど翔は、別に寂しいとは思わなかった。事故の印象が余りにも大き過ぎた為だ。
「やばい、バイトまで三十分しかない」
 翔は、歩く足を早めた。本当なら走ってもいいのだが、翔は自分が相当の運動音痴だという事を知っている為、そういった選択はしないのだ。
 やがて、我が家が眼中に入ってきた。どこにでもありそうな、ごく普通の一戸建て住宅だ。
 ふと、翔は足を止めた。
 疲れたのではない。
 門の前に、人が立っている。
 郵便配達だろうか。だとしても、翔には手紙を出した覚えはない。
 それとも、セールスマン? あるいは、宗教勧誘?
 色々と浮かんだが、どれも違う気がした。
 翔は、再び歩き出した。

 一歩ずつ近づくにつれ、来客の正体が明らかになってきた。
 少女。
 歳は翔と同じ位だろうか。
 背は翔よりやや低く、腰の辺りまで伸びた黒髪が、さらりと風に靡いていた。
 古風に言えば、みめかたちが整っている、とでも言うのだろうか。
 そこに立っていたのは、美少女だった。
 まだ、翔の存在に気付いていないらしく、澄んだ青い目は、空を見つめている。
「ねえ君」
 意を決して、翔は声をかける。
 少女はゆっくりと顔をこちらに向け、直後、

「翔さん!」

 翔に飛びかかってきた。
 突然の事に、翔は慌てて構えの姿勢を取った。
 少女を抱きしめる為ではない。
 少女が、怪我をしない為だ。
 翔はそのまま、後ろに倒れ込んだ。
 一瞬意識がもうろうとする。が、それはすぐに晴れた。
 翔さんと言った少女が、まるで太陽のような微笑みを浮かべていたからだ。
「会いたかったです、翔さん!」
「……え?」
 翔には、状況が読み込めなかった。
 なぜ、目の前の少女が自分の名前を知っているのだろうか。
 そもそも、この子は誰?
 疑問が浮かぶ。
「あ、ちょっとどいてくれないか? 立ち上がれない」
「あ、すみません」
 そうして少女はゆっくり起き上がる。
 翔もようやく体勢を立て直し、その場に立ち上がった。
「あ……」
 二人同時に声が出る。視線が重なり合った。
 翔は見てはいけないような気がして、少女より先に視線をそらした。
 そらしたのはいいんだが、その視線の行き先が少々まずかった。
「小さいな……」
 翔が次に見たのは、少女の胸だった。
「え……」
 少女は自分の胸を見つめ、みるみる顔を赤く染めた。
「ち、小さいなんて言わないで下さい!」
 中途半端に怒った声で、少女は言った。
「あ、ごめん」
 翔も、何か後ろめたくなったらしく、軽く頭を下げた。
「ところで、君誰? 何で俺の名前知ってるの?」
 先に本題に入ったのは翔だ。
 少女ははっ、と我に返って、
「わ、わたしはみすずっていう者です」
 みすずは、二つ目の質問には答えなかった。
 翔は、頭を抱えている。過去の情報に、みすずという言葉がないか探しているのだ。
 しかし、翔の脳裏に、みすずという言葉は初耳だった。
「どこかで俺と会ったか?」
「はい、いつも、見てました」
 話が噛み合わないと思いつつ、翔は、
「そうか」
 と答えた。
 みすずが嘘をついているようには見えなかったからだ。
「あの、翔さんは、吹奏楽部ですよね?」
「そうだけど、それがどうかしたの?」
「チューバ重たいですよね。わたし、チューバ吹きだったので、よくわかりますよ」
「へえ、奇遇だね」
 となると、自分と同じ習篠高校の生徒だろうか。
 しかし、その予想は、あっさり外れる事となる。
「どこの学校通ってるんだ?」
「光が浜高校に通ってました」
 光が浜高校は、翔の住む街、習篠市から数十キロは離れている。
 市内から通学出来ない事もないが、かなり面倒だ。
 となると、近場の人間じゃないな、と翔は一人心の中で頷いた。
 だとしたら、何故自分の名前を知っているのだろうか。
「なあ、もう一度聞く。何で俺の名前知ってるの?」
 みすずは急に真顔になった。
「信じてくれますか?」
 翔は、これは重大な理由なんだなと、自らも気を引き締めた。
「うん、何だよ?」
「翔さんをずっと見てきたからです」
 みすずが発した言葉は、先程のそれとほとんど変わらない物だった。
 よほど重大な事だと勝手に察知していた翔は、予想外の返事に唖然としている。
「それだけか?」
「はい、それだけです」
 どうやら本気らしい。
「それって、もしかして……ストーカー?」
「ち、違います! ストーカーとは似て非なる者です! 神……いや何でもないです!」
 何か言いかけてみすずは口を閉ざした。どうやら、神なんたらかんたらが答えらしい。
「まあ、いいや」
 これ以上問い詰めても何も得られないと考えた翔は、そのまま歩き出した。
「じゃあな。この辺変な奴ら多いから、気を付けろよ」
 しかし、数歩歩いた所で、左腕に痛みが走った。
 あろうことか、みすずが、がっちりと翔の腕を握り締めている。
「どうしたんだよ?」
 当然のごとく、翔が尋ねると、みすずは、
「翔さん家に泊めてもらえますか?」
 翔は、目を丸くした。
 何を言い出すのかと思ったら。
 泊めろだって?
 男でも拒否するのに、ましてや女じゃ……。
「駄目ですか?」
 声色を変えて、みすずがじっと見つめてくる。
「駄目だ」
 即答。
 途端にみすずの顔が暗くなった。
「お、おい」
 悪い事をしてしまったのかと、翔は戸惑う。
「家はどこだ?」
「ありません」
 即答に、翔は耳を疑った。
 家がない……つまりホームレス。
 気の毒だが、翔の家には二人で暮らせるスペースはあっても金がない。
「悪いけど、他を当たってくれないか」
 当然の返答。
 するとみすずは、さらに顔を暗くして、
「わかりました。なら仕方がないですね」
 なんとかわかってくれたようだ、と思えたのもつかの間だった。
「わたしが知ってる翔さんの秘密を、皆にばらしてやります!」
 全然わかってない!
 身に覚えがあるのか、翔は慌てて、
「ま、待ってくれ、それだけはやめてくれ!」
「じゃあ泊めてください!」
「わ、わかった、泊めてやる!」
 途端にみすずの顔が明るくなった。
「翔さん大好きです!」
 再び飛びついてくるみすずに、今度は不意打ちだったのか、翔は不自然に倒れ込んだ。
 気が付いて起き上がると、通りすがりの人達が威圧感のある目で見てくる。
 みすずはそれにも気付いてないようで、
「翔さん大好き!」
 ただひたすらそう叫んでいた。
 翔はそんなみすずの手を取り、ずるずると門の奥へと引っ張っていった。

第二章

 朝陽のシャワーを浴びて、翔は目を覚ました。
 ごそごそと時計の方を振り向くと、午前七時を指している。
 今日は土曜日だ。実質『帰宅部』の翔にとっては、少々早すぎる起床だ。
 翔はそのまま、再び寝付こうとしたのだが……。
 直後、身体に妙な感触を覚えた。
 スポンジのように柔らかな何かが、ぴったりと翔の身体にくっついている。
 まるで、翔を誘惑しているかの様だ。
 翔の背筋に震えが走った。恐る恐る顔を右に向ける。
 黒髪の少女が、だらだらよだれを垂らしながら眠っていた。どんな夢を見ているのか、すぐに想像出来る。
 その少女とは……紛れもない、みすずだった。
 翔は、速攻飛び起きた。
 よだれから自分の顔を守る為でもあるが、それ以前に、みすずが添い寝している事に驚いたからだ。
 翔は、みすずの身体をゆする。
 みすずはというと、奇声を発した後、のっそりと起き上がった。
「か……翔ひゃん……おひゃようごじゃいましゅ……」
 まだ寝ぼけているのが見え見えだ。
「おはよう。何で俺の布団で寝てたんだ?」
「か、翔さんが、こっちおいでって言ったんで……」
「そんな事言ったか?」
「……夢で」
「夢でかい!」
 思わず突っ込んでしまう。
 そもそも、なぜこんな事になってしまったのか、答えは夕べにさかのぼる事になる。

 翔がみすずを無理矢理泊める事になったあの後、幸いにも何事も起こる事はなかった。ただ、一つだけ小さいながらも、問題が発生した。
 寝場所である。
 翔の家は三人家族だったので、部屋自体は二人で使用するには十分過ぎるほどあるのだが、翔は、遺品が多数残されている両親の部屋に赤の他人を入れたくなかったのだ。そのため、実質的に、みすずの寝場所は一階のリビングか和室しか選択肢が無くなった。さらに、万が一みすずが何かしでかした時の事を考えると、翔も普段寝場所に使っている和室が一番だと考えたのだ。みすずにその事を話したところ、大喜びした。
 ただし、みすずが翔の布団に侵入してくるのを防ぐために、翔の布団とみすずの布団には一メートル程の隙間を確保した。いくら寝ぞうが悪かろうとも、この隙間を超えてまでやってくる事はないだろうと思ったからだ。

 しかし、結局予想は外れた。
 みすずの寝ぞうが、想像以上の酷さだと翔は思い知ったのだった。結果、みすずはこれからはリビングで寝る事になった。
 さっきの出来事もあって、完全に目が覚めた翔は、仕方がないと言わんばかりに、台所へと向かう。みすずも、その後をついていく。
 翔の家には、基本的にカップラーメンしか置かれていない。手軽に作れるからというのもその理由だが、それ以前に、料理が苦手だからだ。学校の調理実習で火事騒ぎを起こした事もある程だ。
 棚から適当にカップラーメンを取りだし、湯を注ぐ。もはや日課となりつつある、朝の風景だ。
 話題の新曲を口ずさみながら完成を待っている所を、みすずが聞いてくる。
「カップラーメン好きなんですか?」
「好きというより、それしか食べる物がないから」
「栄養偏りますよ」
「料理苦手なんだよ」
 するとみすずは、黙ってしまった。
 三分後、完成したカップラーメンをすすりながら、みすずは尋ねる。
「今日も部活じゃないですか?」
「そうだな。でも行くのめんどいから、パス」
「何でですか?」
「めんどいからだよ」
 同じ事を何度も言わせるなと、翔は少々いらだちを覚えた。
 なぜ今日が部活の日だと知っているのかは、あえて聞かない。
 自分は、相当執拗なストーカーにあっているとわかっているからだ。
 しかも、そいつと同居してるなんて……。
 ……こんな美少女ストーカーと一緒に。
「じゃあ、わたしが行ってもいいですか?」
「はあ?」
 あまりに予想外の言葉に、翔は思わず間抜けな返事をしてしまう。
「いい訳ないだろう、そもそも、俺の学校知ってるか?」
「知ってますよ」
 みすずはあっさり答えた。本当に知っているらしい。
「とにかく、駄目だ」
「何でですか?」
「自分で考えろ」
「わかりません」
「嘘つけ。考えてないだけだろ」
「わたしは嘘はつきません!」
 これでは、無限ループに陥りそうだと悟った翔は、
「駄目な物は駄目だ」
 きっぱりと、言った。
 しかし、その程度で引き下がるみすずではなかった。
「わかりました。わたしが行ってはいけないのなら……」
 今度は何を言う気だろうか。
「……翔さんが行ってください!」
 意外にも普通だった。
「俺は行かないぞ」
「命令です」
「行かないっていってるだろ、つか何様のつもりだよ!」
「いいんですか、ばらしちゃって」
「う……」
 悪魔め、と心の中で呟きつつ、翔は、
「わかったわかった、行きゃいいんだろ、行きゃ!」
 言ってしまった。
「その代わり、家で大人しくしてろよ、絶対くんじゃねーぞ」
「はいっ!」
 口の動きと表情が一致していない。
 いやな予感がしてならない。
 そんな余計な不安を残しつつ、翔は家を後にするのだった。

 翔の通う高校、習篠高校は、翔の家から歩いて二十分程の距離の所にあった。
 校庭からは、野球部のバットの爽快な打撃音などが聞こえてくる。
 そして校舎内からは、微弱ながらも翔の所属する吹奏楽部の音色が響いてきた。
 翔は、一年生の最初の部員紹介の時以来、一度も部活に来ていない。いわゆる幽霊部員という位置付けにされていた。
 チューバは、長年担当者がゼロだった為、身体の大きな翔は、半強制的にそれと決められてしまった。決してチューバが嫌いという訳ではなかったが、中学で散々吹いてきた為、そろそろ別の楽器をやってみたいと思っていたのだった。
 しかし、半強制的とはいえ、最終的に入部を決めたのは翔の方だ。入部したからには責任が伴う訳だが、翔はそれを放棄してきた。
 その為、翔は自分が相当無責任な人間のレッテルを貼られたのではないかと思い込み、今日まで部活に顔を出していなかった。
 正直なところ、翔はみすずに少しだけ感謝していた。顔を出すか出さないか迷っていた所を、無理矢理ながらも決断させてくれたからである。
 やがて昇降口に到着し、靴を履き替える。平日以外に学校に来るのは初めてなので、少し新鮮な気分だ。
 外よりもはっきりと音が聞こえてくる。どれも未完成形の音ばかりだ。チューニングは波を打っているし、音階はもはや音階とは言い難いものだ。
 翔の中学の吹奏楽部は、県大会金賞という輝かしい成績を残していたが、ここ習篠の吹奏楽部は、コンクール出場が数回、最高成績は県大会銀賞と、お世辞にも素晴らしいとは言い難い成績を残していた。まあ、音を聴けば、納得がいくが。
 そのまま、音楽棟へと向かう。途中、数人のクラスメイトに会ったが、お互い気付かずすれ違った。
 音楽棟は、静まり返っていた。部員は皆校舎に移動してるらしく、翔以外に人影の姿は見当たらない。
 無駄に重い扉を開き、楽器倉庫へと入る。掃除はほとんど行われていないらしく、歩く度にホコリが舞い上がる。
 チューバは、楽器倉庫の奥に無造作に押し込められていた。全身の力を使って、引っ張り出す。まるで秘宝を掘り出したかのような気分だ。
 ケースを開けると、チューバが蛍光灯の光を反射して輝いた。その状態、まるで新品そのものだ。
 チューバを持った途端、足元がふらついた。相当身体がなまっているのが見て取れる。
 きらびやかな外見とは裏腹に、中身は、かなり酷い状態と化していた。管やピストンはかちかちに固まって動かない。
「こりゃ、相当やばいな……」
 翔はバッグからバルブオイルとスライドグリスを取り出し、かちかちに固まった管やピストンと格闘を始めた。
 その直後、
「あれー? もしかして安房君?」
 翔の左側から、女子の声がした。突然の事だったので、危うくチューバを倒しそうになった。
 翔が振り向くと、そこには、見覚えのない、赤髪の女子の姿があった。
「誰?」
「ひっどーい! クラスメイトの事忘れるなんて!」
 いや、別に忘れてもおかしくないだろうと翔は心の中で突っ込んだ。
「で、誰?」
「なよろだよ、雛本なよろ」
 雛本なよろ……。
 そういや、そんな奴もいたかもしれない……。
「もしかして、疑ってる?」
「別に疑ってねーよ」
「いや、その目は疑ってる証拠だね」
「何の根拠があって言ってるんだよ!」
「こう見えて、彼氏いないんだよ……」
「そういう意味かい!」
 翔は突っ込むと、再びチューバに目を戻し、格闘を始めた。
「ねえ、安房君」
 しかし、なよろの口は閉じることを知らない。
「何だよ?」
「もしかして、部活に来てくれたの?」
「見りゃわかるだろ」
「ありがとう! これでやっとコンクールに出られるよ!」
 なよろは、軽くバンザイをした。
「え、いや、俺はただ、楽器の手入れしに来ただけで……」
「一緒に金目指して頑張ろう、安房君!」
 翔の話を完全に無視している。
「じゃあ、教室で待ってるからね」
 そう言い残してなよろは、その場から立ち去った。
「はあ……」
 厄介な事になった様な気がする。
 そもそも、みすずにはあくまで『部活に行く』としか言っていないのだ。
 よく考えれば、部活に行けばいい訳だから、何も楽器の手入れなどしなくてもいい訳だ。
 余計な事をしたと翔は、少し後悔した。なよろに会ってしまったせいで、練習に参加しなければいけない空気が漂っている。
「仕方がない……行くとするか」
 ついに翔は陥落した。というよりは、自滅だが。

 翔の教室は、校舎の東側外れの方にある。昇降口から最も遠い所にあるのだ。
「あ、来た来た、おーい、安房君ー!」
 前方三十メートル程先で、なよろが手を振っている。まるで待ち合わせをしているカップルの様だ。
 翔は、何とかチューバを教室にかつぎ込んだ。
 教室には、翔となよろしかいない。他の部員は、どうやら撤収してしまったようだ。運動部の掛け声だけが、聞こえてくる。
「ごめんね。忙しかったら、帰ってかまわないから」
「いや、せっかく来たんだし、ちょっと吹いてみようかな」
 翔はチューバを手に取った。このひんやりとした感触、それはたちまち翔を『チューバ奏者』へと変えた。
 実に一年振りである。ただ、そのブランクは大きかった。チューニングすらまともに合わない。
「まあ、予想通りだな」
 数分間だけ吹いて、翔はチューバを置いた。
 対照的に、なよろは、練習を続けている。トロンボーンのスライドが、今にも外れそうな勢いで動いていた。
「なあ、雛本さん」
「なよろでいいよ」
「え、いきなり慣れなれし過ぎないか?」
「なよろって呼んで」
「……わかった、なよろ」
「何?」
「何でそんなに一生懸命になれるんだ?」
 なよろはトロンボーンをおろし、悩む仕草をして、こう言った。
「みんながいるからかな」
「みんなって、部員の事か?」
「うん。あたし、誰よりもトロンボーンが上手くなりたいから」
 だからなよろは、練習をしている。
 たとえ、他の部員がいなくなっても。
「それに、言い忘れてたけど、あたし、部長だから。みんなを引っ張っていく為にも、練習しなきゃ」
 翔は、なよろの言葉に感心した。
 なよろは、ちゃんとした理由を持っている。
 『一生懸命になれる』理由を。
 比べて、自分はどうだろうか。
 中学の頃だったら、ちゃんと言えたはずだ。
 なのに、今は……それが見つからない。
 当然と言えば当然かもしれない。今、翔は『一生懸命になれてない』のだから。
 でも、何か新たな理由が生まれてきそうな予感を、翔は抱いていた。

 気が付けば、時刻は十二時を回っていた。
 あれから翔は、久しぶりに真剣に練習した。まだまだ音はぜい弱だが、少しずつ形になってきた。コンクールまでまだ二カ月以上ある。これならまだ間に合いそうだ。
 なよろはというと、休む間もなく練習している。来た時はへなちょこだった音は、今はしっかり出ていた。
「そろそろ、昼飯にするか」
 バッグを開いたがすぐ、翔は思い出した。
 まさかこんな時間までいる事を想定していなかったので、弁当を作らなかったのだ。
「ちくしょう」
 仕方がなく、翔は立ち上がり、そのまま教室を後にしようとした。
「ちょっと待った!」
 が、なよろに道を封じられた。
「何だよ、ちょっと買い出しに出かけるだけだ」
「ちっちっち。その必要はない!」
 翔の頭に、疑問符が浮かんだ。
「あたしの弁当わけてあげる!」
「いきなりかい!」
 まあ、翔にも少しは予想できたが。
「悪いよ、俺は飲み物だけで我慢する」
「ちょっとKY過ぎない? 女の子が誘ってるのに!」
「知るか」
「ひっどーい!」
 その後も数分間なよろは翔を説得したが、翔は意志を貫き通した。
「ふん、後で腹減った言っても知らないから!」
 ようやくなよろも諦めたのか、床に座り、弁当箱を取り出した。
 翔は弁当箱の大きさに戸惑いつつも、いったん教室を後にした。

 翔は早くも後悔の念にかられていた。
 女子の弁当、しかもあんな美少女のを食べるチャンスを、翔は自分から捨ててしまったのだ。
 下手すりゃ、もう一生食べられないかもしれない。
「惜しい事したな」
 想いが、言葉にも表れる。
 そういえば、みすずは今どうしているのだろうか。
 一人ひっそりと、カップラーメンを食べているのだろうか。
 それとは関係ないが、どうもさっきから誰かの視線を感じる。
「まさか、そんな訳ないよな」
 そのまさかが、数分後起ころうとは、誰が想像しただろうか。
 翔は、自販機の前に立った。
 お気に入りのコーヒーを選び、その場を後にする。
 五月なのにもかかわらず、気温は三十度近くまで達していた。
 コーヒーを口の中に注ぎ込む。ほどよい甘みと苦みが、翔の味覚を刺激した。

 やがて、翔は教室に戻ってきたのだが、その場の光景に目を疑った。
 なよろがいる事に変化はない。しかし、もう一人人がいる事が、さっきとは違った。
 その人とは……みすずだった。
 何故か知らないが、なよろと向かい合って談笑している。
「あ、安房君。この子彼女なの?」
 なよろはかなり誤解をしているようだ。
「いや違う。つか、何でお前がここにいるんだよ!」
 翔はなよろには目も暮れず、みすずを睨みつけた。
「翔さんがお弁当忘れたから、持って来たんですよ」
「余計な事するな!」
 なよろはにやりとして、
「えー。安房君、さっきまで腹減った腹減った言ってたくせに」
「おい、それを言うな!」
「ふふふ。乙女の純情を踏みにじった罰だよ」
 それって罰なのかと疑問に思いつつ、翔は、
「とにかく、ここは部外者は立ち入り禁止なんだ。早く帰れ」
「せっかく来たのにですか?」
「ああ、帰れ」
「いいじゃん、安房君。ばれなきゃ」
 なよろが敵にまわった。
 お前、一応部長だろ、それでいいのかよと心の中で突っ込みつつ、翔は、
「わかった。弁当だけ渡して即帰れ」
「最低! みすずちゃん、こんな奴に弁当渡しちゃ駄目だよ」
「わかりました! やっぱり渡しません!」
「変な方に乗るな!」
 結局、翔はみすずを帰すのをあきらめ、みすずから弁当を受け取る始末となった。みすずはなよろの弁当をわけてもらっている。
「で、安房君。みすずちゃんは本当に彼女なの?」
「違う! 断じて違う!」
 翔は、なよろに昨日の出来事を話した。さっきのノリとはうって変わって、真顔で聞いてくれた事に翔はほっとした。
「なるほど、つまり安房君とみすずちゃんに接点はない訳だ」
「まあ……そういうことだ」
 なよろは少しうつむいてから、
「あたし、みすずちゃんの事もっと知りたい。あ、安房君も」
「よしてくれ、俺の平和な日常が崩れかねない」
「いや、知らないとまずいね。安房君の性癖とか」
「やめろ、マジで平和が崩壊する!」
「ははは、冗談だよ」
 なよろは少々真顔で話しているので、翔にとっては、冗談を冗談と受け止められない。
「でもあたし、みすずちゃんとも安房君とも、友達になりたい」
「ああ……それなら別にいいよ」
「何今の間は? もしかして冗談だと思ってる?」
「いや、思ってない」
「言っとくけど、本気だから」
「あっそ」
「何その態度? 嬉しくないの?」
「別に」
「ひっどーい!」
 こんな会話を交わしつつ、三人だけの昼食は、あっという間に過ぎていった。

 午後に入って、翔はなよろから渡されたコンクール曲の譜読みに集中していた。なよろは既に譜読みを終えたらしく、本格的にトロンボーンを吹いている。みすずはというと、それをただ眺めているだけだ。翔に話しかけてくる気配はない。
 約半分譜読みを終えた所で、翔の目が止まった。
 このコンクール曲には、普段は滅多にない、チューバのソロがあるのだ。チューバの高音域の限界近くの音が並んでいる。今の翔の実力では、とても出る物ではない。
 予想外の強敵に翔はうなだれた。
「どうかしたんですか?」
 その反応に興味を示したのか、みすずが近付いてくる。
「ああ、ちょっと難しい部分があってな」
「ちょっとチューバ貸してくれますか?」
「別に構わん。しばらく吹かないから」
 そうしてみすずはチューバを手に取った。かすかに笑みを浮かべている。久しぶりに吹けるという事で、内心嬉しいのだろう。
 みすずは一瞬だが、曲の中で一番高い音を出す事に成功した。それを見ていたなよろは、みすずの元に駆け寄り、
「みすずちゃんすごい! 楽器吹いてたの?」
「はい、チューバを吹いてました」
「なるほど。安房君よりも上手いね」
「おい、そりゃちょっと傷付くぞ」
「あ、ごめんごめん、でも本当だし」
「はあ……」
 新たなライバル出現に、翔はため息をついた。
 でも確かに、みすずは上手い。
 みすずがコンクールに出れば、何かいい結果になりそうな気がしてならない。
 翔にとっては、その方が楽でいいのだ。
 しかし、みすずは習篠の生徒ではない。
 もしコンクールに出ると決まったら、翔は、嫌でも部活に参加しなければならない。
 そうしないと、周囲の信頼にも影響する。
 翔は、吹奏楽部を辞めるつもりはなかった。
 今更、快く出迎えてくれる部活があるとは思わないからだ。
 それに、翔は、吹奏楽が好きだった。

 その後も、地道に譜読みを続けた結果、何とか曲の終端まで到達する事が出来た。
 気が付けば、時刻は三時近くを回っていた。
「そろそろ帰るか、みすず」
「はい!」
 二人が教室を出ようとした所で、なよろが声をかける。
「あ、一緒に帰ろう!」
「ぜひぜひです」
「ま、いっか」
 そうして、三人は、校舎を後にした。
 校庭では相変わらず運動部が汗を流している。翔が二人の美少女を連れているのに気付いた輩達は、
「よお、モテ男!」
 なんてからかってくるが、翔は動じない。
 男子数人からモテ男コールを浴びた翔は、校門を出た直後、ふと止まった。
「どうしたの?」
「家どっちだ?」
「あっち」
 なよろは翔の家と同じ方向を指差した。
「マジか。じゃあな」
 翔はダッシュしようとしたが、あえなくなよろに腕をつかまれる。
「ちょっと待った! さっきいいって言ったよね?」
「何をだよ?」
「一緒に帰っていいって」
 確かに、翔は『ま、いっか』と了承していた。
「どこまでかは言ってないぞ?」
「うん、だから、翔君ちまでね」
「ちょっと待て、俺はそこまで了承してな……」
「わたしは賛成です」
「決まり! じゃ、帰ろう!」
 そう言ってなよろは先頭に立ち、立ち尽くす翔の腕を無理矢理引っ張っていく。
 翔も、もはや抵抗は無駄だとわかり、大人しく後に続く。
 なよろが飼い主なら、翔は飼い犬だろう。相当乱暴な飼い主だが。
 結果的に、なよろは途中で別れる事になったのだが、翔を見ていた数人のクラスメイトの男子が、翔をモテ男だと誤認して、週明け、翔を問い詰める事となる。
 翔にも、余計な問題がまた一つ生まれてしまったのだ。

 やがて帰宅した二人は、それぞれ自分のやる事をやった。翔は、週明けの小テスト対策の勉強をし、みすずは、テレビを見ながらのんびりしていた。
 翔がテスト対策勉強を終え、リビングに戻ると、みすずが突然、
「ごめんなさい。約束破って、ごめんなさい」
 翔は、少々戸惑った顔をして、
「いやいいよ。俺の為に弁当届けてくれたんだろ?」
「そうですけど、約束破っちゃったし……」
「気にするなって」
 翔は、みすずの肩を軽く叩いた。そして、こう言った。
「ありがとな。みすず」
「はい! どういたしまして」
「最近のコンビニ弁当は侮れないな。って」
「はい?」
「お前、金はどうした?」
「あちこち探したら出て来ました」
「勝手にあさるな!」

第三章

 週明け、月曜日の朝。
 翔は、いつもの様にみすずとカップラーメンをすすっていた。
 テレビからは、どこぞの市で殺人事件が起きたなり、お祭りが開かれているなりと、平凡なニュースばかりが流れてくる。
 カップラーメンを半分ほど残した状態で、みすずは口を開いた。
「今日は学校ですか?」
「ああ」
「一緒に行ってもいいですか?」
「駄目だ」
 翔は即答した。土曜日の件はあくまでもやむを得ずの事だったからだ。
 幸いにもばれなかった。いや、見られたのでばれてるかもしれないが。
 もしばれていたら、退学とは行かないまでも厳重注意位はあるだろう。教師に目をつけられる事になるのは、あまり嬉しい事ではない。
 みすずは、それ以上だだをこねようとはしなかった。みすずなりに理由を理解したらしい。
「じゃ、行ってくる。大人しくしてろよ」
「いってらっしゃーい」
 みすずの目に映る翔がどんどん小さくなり、やがて見えなくなった。

 大通りをただひたすら歩く。車の走行音が嫌という程耳に響いてくる。
 時刻はまだ午前七時前だというのに、太陽は容赦なく光を放っている。
 翔の身体からも、じわりと汗がにじみ出てきていた。
 まだ夏も始まったばかりだというのに。
 やがて交差点に差し掛かる。ふと、向こう側に、見覚えのある人の姿を確認する。
 なよろだ。こちらに向けて手を振っている。
 翔の周囲には、既に数人の習篠の生徒がいた。
 やがて信号が青に変わり、なよろが翔の元にやってきた。
 他の生徒は特に気にした様子もなく、ぞろぞろと歩いてゆく。
「おっはよ、翔君。会うなんて奇遇だね」
 翔はいつの間にか呼び方が変わっている事に気付きつつ、
「おはよ。朝練か?」
「うん。翔君も?」
「まあな」
「よし。なら一緒に行こう」
「え、ああ」
 今回は、なよろも無理矢理翔を引っ張っていく様な事はしない。
 時折、男子生徒が翔をうらめしげに見つめてくる。今にも略奪のチャンスを狙っているかの様だ。
 一方の翔は、そんな彼らを逆なでする様な真似はせず、ただなよろとのおしゃべりを満喫した。
 いつの間にか、二人は昇降口にいた。
「あっついね、まだ夏始まったばっかなのに」
 なよろも、暑さに少々まいっているようだ。
 まあ、校舎内はクーラー完備だから、特に問題はないが。
 音楽棟には、数人の部員が既に練習を開始していた。相変わらず張りのない音だが、土曜日聴いた時と比べたら、いくぶんマシになっていた。
 翔がなよろに聞いた所によると、普段は彼女が一番乗りするらしい。ただ今日は、翔を待っていた為、そうはならなかったそうだ。
「そんなわざわざ、練習時間削ってまで、待ってなくてもいいんだぞ」
「いや、あたしがそうしたかっただけだから」
「あっそ」
「嬉しくないの?」
「別に」
「ひっどーい!」
 また、いつものやりとりが始まった。
 二人は、音楽棟の脇にある個室に入った。コンクール曲の初合わせをする為だ。
「じゃ行くよ、せーの!」
 なよろの掛け声で、練習は始まった。
 しょっぱなから、翔は出遅れた。なよろだけが、どんどん先に行ってしまう。もともとチューバは、遅れやすい楽器ではあるが、それにしてもそれは許容範囲を超えていた。
「ストップ! 遅れてる!」
 たまらず、なよろも演奏を止める。
 翔は、自分となよろの実力差を、改めて思い知ったのだ。
 なよろからアドバイスを受けた後、再び演奏を開始する。が、結果は先程とほとんど変わらない。
「んー」
 なよろも予想以上の酷さに頭を抱えている。
「悪いなよろ、俺のせいだよな」
「うん」
 即答かよ、と翔は突っ込みつつ、
「まあ、まだコンクールまで時間はあるし、俺も少しずつ頑張るから」
「甘い!」
「え? 何が?」
「時間はあっという間に過ぎる! 早くテクニックを磨かないと、すぐ年寄りのじいさんばあさんになるぞ、翔君!」
「何の話をしてるんだよ!」
 結局その後の練習は、個人練という事になった。
 翔もなよろから指摘されたテンポの乱れを修正するのに必死になった。

 やがて、朝練が終わり、教室へと続く長い廊下を歩いていると、
「おはよう、安房」
 翔は、少し考え事をしてたので、一瞬気が付かなかったが、すぐにはっとなり、後ろを振り返った。
 そこには、顧問の黒田がいた。黒髪で美形な男の為、女子生徒から人気が高い。
「おはようございます。何か用ですか?」
 まさかみすずの事じゃないかと、翔は少々不安になった。
「いや、特に用という程ではないんだが……雛本から聞いたぞ、部活に来たんだってな」
 翔はなよろなら絶対にばらしてないと信じて、
「はい、楽器の事が気がかりになったんで……」
 半分嘘をつく。
「そうか……コンクールに出る気はあるか?」
「一応、譜面は雛本さんからもらいました」
「なるほど。つまり、出るという事か」
 黒田は少しうつ向いて、
「雛本には言ったんだが……」
 少し難しい顔をして、こう言った。

「今の人数じゃ、コンクール出場は難しいかもしれない」

 翔はなるほど、と頷くしかなかった。
 もともと二十人余りしか部員がいないのだから、無理はない。
 複雑な表情をする翔に、黒田はさらに話した。
「チューバが一人入れば、考えられなくもないんだが……」
 ん、と翔は考えた。チューバなら、自分のすぐ近くに経験者がいるじゃないか。
「ところで安房。お前、土曜日に部外者の女の子を学校に入れたそうだな?」
 どうやら、なよろは翔を裏切ったらしい。
 翔はうつむいて、
「すんません」
「いや待ってくれ。その女の子が元チューバ吹きだと聞いたんだが、本当か?」
 紛れもない、本当である。
「はい、そうです」
 翔は自信げに言った。
「その子がお前と同居してるのも本当か?」
 なよろは、一体どこまでばらしたのだろうか。
 翔は覚悟を決めて、
「はい」
「なるほど」
 意外にも黒田は怒らず、独りぼそぼそとつぶやいている。
「俺は、出来ればお前らにコンクールの床を踏ませてやりたい」
「でも、部員が足りないんですよね」
「ああ。なあ安房、いきなりだが……」
「何ですか?」
「その子を習篠に入れる事は出来ないか?」
 あんた教師だろ、それくらい自分で調べろよと突っ込みつつも、
「転入、とかなら出来なくはないと思います」
 言ってしまった。
「わかった。すまないが、その子と交渉してくれないか」
 翔は一瞬悩んだ。
 部員の為だけにみすずの人生を変えてしまうのは、みすずに悪い気がしたからだ。
 かといって、ここで断れば、部員全員がほぼ確実にコンクールの切符を失う。
 出られるか出られないかは、翔にかかっていた。
「……わかりました。交渉してみます」
 黒田は穏やかな笑みを浮かべ、翔の肩を叩いた。
「よろしく頼んだぞ」
 翔は、自ら重荷を背負う事になった。

 翔は、自らの選択が、はたして良かったのかどうか考えていた。教師の声も、チョークをすべらす独特の音も、耳に入ってこない。
 ほぼ授業不参加状態で、そのまま昼になった。土曜日の目撃者達が、時折翔の元に寄ってくる。
 翔は彼らに適当に答えを返しつつ、教室を後にしようとする。
 そこへ、
「翔君。ちょっと話があるんだけど」
 なよろがやってきた。
「ああ、俺も話が」
「了解。じゃ、屋上行こう」
 二人は、教室を後にした。
 屋上は、陽が容赦なく当たっていて、暑かった。先程までクーラーが効きまくった空間にいたのだから、なおさら暑く感じる。
「黒田先生から聞いた? コンクール出られないかもしれないって」
「ああ、聞いたよ」
「チューバが一人必要だって事も」
「聞いた」
「みすずちゃんが習篠の生徒だったらよかったのにね」
 どうやらなよろも、反対はしていないらしい。
「その事なんだけど……」
「何? どうしたの?」
「……みすずを転入させてほしい、って黒田が頼んできたんだ」
「ふーん、なるほどね」
 なよろは話を理解したらしく、
「あたしは、みすずちゃんがいいなら、それでいいと思うよ」
「そうか」
 すべては翔ではない、みすずにかかっているという事を、翔は認識するのだった。

 午後になって、ようやくもやもやが晴れたのか、翔は授業に集中していた。
 放課後、翔は部活に参加せずに帰宅した。できるだけ早いうちに、この問題に蹴りをつけたかったからである。
 みすずはのんびりテレビを見ていたが、翔が帰宅したのに気付いたのか、ダッシュで玄関に来た。
「おかえりです」
「ただいま。ちょっと話がある」
「ん? 何ですか?」
 みすずは首をかしげる。
 翔は、リビングにみすずを座らせた後、古びた習篠高校のパンフレットを持ってきた。
「これは何ですか?」
「見りゃわかるだろ。俺の高校のパンフレットだ」
「何で持って来たんですか?」
「みすず……」
 翔は顔を引き締め、話し出した。
「俺の高校の吹奏楽部は、部員がとても少ないんだ」
「そうみたいですね」
「今年はコンクールにも出られそうもないんだ」
「そうですか。それは残念ですね」
「あと一人部員が入ってくれたら、出られるんだけどな」
「そうなんですか」
「で、その一人の楽器が、チューバなんだ」
「そうですか」
 みすずは何が言いたいのと言いたげな顔をしている。
「で、だ。みすずはチューバ吹いてたんだよな?」
「はい、そうですが?」
「いきなりだけど、俺の高校に転入して、吹奏楽部に入ってくれないか?」

 みすずは口をぽかーんと開けていたが、すぐに笑顔になり、
「え、いいんですか?」
「ああ。みすずがいいのならな」
 みすずはさらに笑顔になり、
「いいですよ! ぜひ!」
「了解」
 翔は、内心ほっとした。
 もしみすずが断ったら、今までの部員の努力は何になるのだろうと思っていたからだ。
 黒田からは、後日編入試験を行うという電話が来た。
 
 そして試験当日。
 みすずは余裕の表情で問題を解いていった。
 翔はただただ、みすずが合格してくれる事を祈っていた。
 
 翌日。
 みすずは、再び『高校生』になった。

第四章

 日曜日の朝。
 翔は、先週の日曜日購入した新しい服に着替えてる最中だ。
 それをみすずは、まだかまだかと待ち構えている。
 彼女の服装はというと、制服だ。翔が服を買った結果、みすずの分が買えなくなってしまったからだ。
 みすずは、その時多少顔をふくらませたが、結果的に制服という新しい服を手に入れたため、今は比較的上機嫌だ。
「翔さん、まだですかー」
「おお、待ってくれ……よし、入っていいぞ」
 みすずは入った途端、
「おお……普通ですね」
「普通……確かにそうだな」
 翔もしぶしぶ同意した。
 翔の服装と言えば、トランペットが印刷された白Tシャツに、グレーのズボンと、お世辞にも派手とは言えない物だからだ。
 二人はその後、リビングに移動した。
 翔は、テーブル上に地図を広げた。今日の目的地、光が浜海浜公園の地図である。
 みすずも、久しぶりに故郷に帰れる事に浮かれている様子だ。
「午前九時、公園正門前に集合。公園内をぶらぶらした後、弁当。それから……」
 みすずは真顔になり、翔の話に耳を傾けている。
「じゃ、行くぞ。みすず」
「はい!」

 習篠駅の南口に、なよろは立っていた。
 約束の時間までまだ三十分近くあるのだが、嬉しさのあまり、早めに来てしまったのだ。
 なよろは、周囲も認める程の美少女だ。短く切られた赤髪が、快活さを引き立たせている。
 だが、その美貌の割には、彼氏が出来た事がない。それは、彼女が美少女過ぎるのもあるかもしれないが、それ以前に、少々冗談が過ぎる為でもある。
 なよろは、基本的に自分から人を誘う事は滅多にない。部員に対しても、あくまで部員という程度の認識しかないのだ。
 ただ、翔とみすずは例外だ。比較的同じパートだからというのも理由かもしれないが、なよろは二人を信頼し始めていたからだ。
 十分ほどたち、なよろの視界に二人の姿が入ってきた。なよろが手を振ると、二人もそれに気付いたのか、振り返してくる。
「おはよう。なよろ」
「おはよ。早いね。あたしもだけど」
「早く目が覚めたんだよ」
「うん、あたしも。じゃ、いこっか」
 そうして三人は、改札を通る。
 日曜とはいえ、都心まで三十分の距離のこの駅は、やたら人気が多い。
 時折、みすずやなよろの事を危ない目で見てくる男達がいるが、彼女達自身は翔との会話に夢中になっていて、気付かない。
「でもなんで公園? あたしは別に構わないけどさ」
「金がないんだよ」
 他の行き先として、ネズミーランドなどが挙がっていたが、翔の財力のなさで、あえなくボツとなった。
 次は絶対連れてってよねと言いつつ、なよろは、
「そういえばみすずちゃん、なんで制服なの?」
「翔さんが貧乏だからです」
「いや、ちょっと服買ったら金がなくなって……」
「ひっどーい! そういう時は女の子を優先させてあげるべきじゃないの? レディーファースト!」
「俺の金だし!」
 なよろといると、一日一回は突っ込みを入れる必要がある様だ。
 数分後、電車が到着した。大量の学生が降り、車内は思った以上にがら空きとなった。
 空調が効いた車内は、外とは別世界だ。
 ころころ変わる車窓を眺めながら、翔はみすずに話しかけた。
「楽しみか?」
「何がですか?」
「故郷に帰れるのが」
「はい!」
 実は、翔が光が浜海浜公園を選んだのには、理由があった。
 行くついでに、みすずの正体をつかめないかと思ったからだ。なよろも、みすずの事が気になるらしく、了承してくれたのだ。
 電車は大きくカーブし、乗り換え駅へと到着した。ここからさらに一時間ほど快速に乗れば、目的地のすぐ近く、光が浜駅だ。
 気温は先程にも増して上昇し、三人の身体からは汗が出始めていた。
「あっついねー。翔君、のど乾いた」
「自分で買ってこいよ」
「お金出すから買ってきてくれない? あたしお茶で」
「わ、わたしもお茶欲しいです」
「わかったわかった。めんどくせえ」
 翔は、自販機の前に立ち、お茶とコーヒーを購入した。
 なよろはお茶を手に取ると、一気に口に注ぎ込んだ。
「なよろさん、あんまり飲み過ぎるとお腹壊しますよ」
「あ、大丈夫大丈夫。多分」
「多分かよ!」
 そうこうしている内に、電車がホームに入ってきた。グリーン車も付いている、長距離用車両だ。
 車内は、先程の電車以上に空いていた。わざわざ田舎方面に行く人が少ない為だろう。
 なよろは、テーブルに持ってきた駄菓子を広げた。一体何円分だろうか。
「好きなの食べていいよ」
「量やばくないか? 太るぞ」
「大丈夫大丈夫。今まで大丈夫だったから」
「ずいぶん怪しいな!」
 適当に突っ込みつつも、三人は菓子を口に運ぶ。
「そういえば、みすずちゃんすごいね。試験ほぼ満点だったんでしょ」
「は、はい、そうです」
「あたし、ギリギリ入った身だからさ、ちょっと羨ましいな」
「そうだったのか?」
「うん。翔君は?」
「俺は余裕もない危なげもない位置で受かった」
「うわー。裏切られた」
 なよろはスナック菓子をぽりぽり食べながら、
「みすずちゃんが入ってくれたおかげでコンクールにも出られるし、仲間も増えて一石二鳥だよ」
「確かにそうだな」
 翔も、それには同意だ。
「ライバルも出来たし」
「ちょっと待て、俺は?」
「さあどうかなー」
 なよろは、適当にはぐらかす。
 先程までビル街だった景色は、やがて住宅地、田んぼとどんどん田舎色を強めていった。
 やがて、到着を知らせるアナウンスが流れた。
 光が浜駅ロータリーは、思った以上に閑静だった。客引きやティッシュ配りの姿はともかく、そもそも人の姿が見当たらない。
「かなり田舎に来たもんだな」
 翔はコーヒーを飲み干し、大きく伸びをした。
「そうだね。もう少しで到着だから、早く行こう」
 なよろは、軽くスキップしながら歩を進める。残る二人も、その後に続いた。
 途中、みすずの母校である光が浜高校の前を通った。みすずは、校庭で活動する生徒達を見ながら、懐かしそうな目をしていた。
 まもなく三人は、目的地、光が浜海浜公園に到着した。駐車場には何台もの車が停まっている。休日だからだろう、かなり多くの人が来ている様子だ。
「着いたねー」
 なよろは、やり遂げたと言わんばかりに、肩をぐるぐる回している。
 翔は、辺りを見渡した。数百メートル程向こう側に、海が見える。
「じゃ、行くか」
「うん、行こう」
「はい!」
 三人は、散歩道に入った。思春期の男女が来るのは珍しいのか、時折すれ違う老人や家族連れがこちらを見てくる。
 散歩道は、木々が日光を遮断し、おまけにそよ風が吹いていて、涼しかった。
「なあみすず」
「何ですか?」
「ここに来た事あるか?」
「はい。何度も来ました」
「いいね、みすずちゃん。こんなリゾートみたいな場所がすぐ近くにあって」
「俺達の近くにもあるだろ」
「あるけど……お金かかるし」
「さっきは自分から金出したくせにな」
「何? もしかしておごってくれるの?」
「そういう意味じゃねえ!」
 こんな感じで適当に突っ込みを入れつつ、三人は散歩道を二周した。
「そろそろお昼だね」
「ああ。腹減ったな」
 なよろは芝生の上にシートを広げ、弁当を取り出した。中身は卵焼き、唐揚げ、タコさんウィンナーとなかなか豪華だ。
「おお、すげえじゃん。一人で作ったのか?」
「うん。重かったんだからねー」
「ご苦労様です」
 いただきまーす、と三人同時に言った後、一番に箸を運んだのはみすずだった。
 卵焼きを取り、口へと運ぶ。
「おいしい?」
 なよろは少々不安げな顔をしていたが、
「はい、おいしいです」
「よかったー」
 みすずの返事を聞いた直後、顔をほころばせた。
 翔も満足そうになよろの弁当を食べている。美少女の弁当を食べるという夢が、今実現したのだった。
「なあみすず」
 唐揚げを飲み込んでから、翔が尋ねる。
「何ですか?」
「学校楽しいか?」
「はい! とっても楽しいです!」
「羨ましいねー。おじさんなんて退屈で退屈でもう死にそう……」
 その顔でおじさんと言っても、説得力がないだろ、と翔はなよろに突っ込む。
 ちなみにだが、みすずは一年生、翔となよろは二年生だ。
「そっか、よかったな」
「はい!」
 これだけ元気があれば、大丈夫だろう、と翔は納得した。
「友達出来た、みすずちゃん?」
「はい! 出来ました!」
「何人位?」
「三人です」
「恵まれてるね……あたしなんか……」
「いないのか?」
「ちょっ、KY! 最後まで聞いてよね!」
「ああ、悪い悪い」
 翔は適当に謝った。
「いるよ。翔君とみすずちゃんだけだけどね」
 意外だな、と翔は思った。なよろの性格なら、もっと友達がいそうな気がするのだが。
「他にはいないのか?」
 なよろは、弱弱しく、
「……うん」
「まあ焦る事はないさ。俺だって最近までいなかったし」
「……そうなんだ」
「みすずが高校最初の友達、なのかな」
 みすずは目を大きく見開いて、
「わたし……翔さんの……友達……ですか?」
「ああ……友達だ」
 みすずはぱっと顔を明るくした。
「ただし、それ以上の関係になるつもりはない」
「ひっどーい! あたし、翔君とみすずちゃんのペア、すっごいお似合いだと思うよ」
「俺はそういう事はしないんだ」
「嘘つけ! 顔に書いてあるよ! 俺はみすずの事が大……」
 すんでの所で、翔はなよろの口を押さえる。
「……あ、ごめんごめん。冗談だよ」
「冗談に聞こえないから困るんだよ」
「ははは。ごめんごめん」
「皆仲良しですね」
「それもそうだな」
 それから三人は、弁当が空っぽになるまで、会話を楽しんだ。

 午後になって、三人は海浜公園を後にし、みすずの手掛かりを探しに街の散策を始めた。
 街と言っても、辺りは田んぼや畑が大部分を占めており、建物はぽつぽつ点在するにとどまっていた。
 探すといっても、内容はさっきと全く変わらず、雑談一筋だ。
「暑いな」
 気温は午前以上になっていた。暑いわけだ。
 細い直線道路を、ひたすら歩く。時折通る農業用トラック以外に、車を見かけることはない。
 あてもなく歩いているため、体力は無駄に奪われていた。
「みすず。お前の家はどこだ?」
 みすずは少しうつ向いてから、
「あっちです」
 西側を指差した。多少家が多い地区の様だ。
 三人は西へと進路を変えた。
 陽は相変わらず容赦なく三人に降り注いでいる。
「光が浜って、広いねー」
 なよろがつぶやく。
 翔はそれに同感した。
 翔達の住む習篠が狭いだけかもしれないが。
 もう一時間は歩いているというのに、一向に目的地に到着しないのだ。
「みすず。本当にこっちなのか?」
「はい。確かそうです」
「わかった。行ってみるっきゃないな」
 次第に話題も尽きたのか、三人とも無言の状態が続くようになる。
 今はただ、みすずの実家を探す事に集中したいのだ。三人の心が一つになる。
 やがて、家々が眼前に近付いてきた。思ったよりも戸数が少ない。地区というよりは集落といった方が正しいかもしれない。
「着きました。ここです」
「やっと着いたねー」
 翔は相当参っている。普段運動をしないツケが、ここでやってきたのだ。
 集落は、閑散としていた。人が住んでいるのかも怪しい。
 みすずは、一軒一軒注意深く観察しながら、実家を探し始めた。翔となよろも、後に続く。
 ふと、みすずの足が止まった。視線の先には、空き地がある。
「ここです」
 みすずの声には、自信の色が見えた。
「ここって、空き地?」
 なよろはえっ、と首をかしげている。
「はい。ここです」
 そこには、わずかな木材の残骸があるのみだった。どうやら取り壊されたらしい。
「ここまで来て、収穫はこれだけか」
 帰ろうと翔は言ったが、みすずはなかなか足を動かそうとしない。
「どうしたんだ?」
「あ、すいません。懐かしくて」
「そうか」
 翔はみすずの想いを理解した。故郷に帰ってきたのだから、無理もない。
 翔となよろは、近くの廃材の上に腰かけた。
「よかったね。みすずちゃん、あの状態だけど、実家の場所わかって」
「ああ。そうだな」
「でも今までどこで暮らしてたんだろうね?」
「確かにな」
 それも気になる。が、翔はあえて聞かないことにした。
 みすずには、それ以上に大きな秘密があると、認識し始めていたからだ。
 三人はみすずの実家跡地を後にし、続いて光が浜市役所へと向かった。もしデータが残っていれば、みすずが誰なのか判明する訳だ。
 やがて、役員がやってきた。みすずは、落ち着かないとでも言いたげに、足をぶらぶらさせている。
「みすずさんですが……一九九三年に交通事故で亡くなっています」
「そうですか……」
「他にみすずさんという名前の人は、見つかりませんでした」
「わかりました。どうもありがとうございました」
 結局、市役所では何の収穫もなかった。

 帰りの電車で、翔は、考えていた。
 みすずは、一体何者なのかと。
 何らかの理由で住民票を得られなかったのだろうか。
 しかし、そんな事があり得るのだろうか。
 そう思っていたが、翔は、みすずが出会ったときに発した言葉を思い出した。

 『ち、違います! ストーカーとは似て非なる者です! 神……いや何でもないです!』

「神……神様?」
 聞いていたのか、なよろは、
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
「えー、教えてよ」
「多分そのうちわかる」
「何その中途半端な自信は?」
 みすずはというと、うとうとしている。
「わかった。話すよ」
「うん。是非そうして」
 そうして翔は、みすずが口に出した言葉をなよろに教えた。
「神……神様って事?」
「俺もそれしか浮かばなかった」
 なよろは難しい顔をして、
「え、いくらなんでも、そんなわけないと思うけど」
「あいつが言ったんだ。真顔で」
「うーん」
 なよろは額に手を当て、直後笑顔になった。
「まあ、みすずちゃんが人間だろうと神様だろうと、あたしがみすずちゃんの事大好き、という事は変わらないから」
「信じるのか?」
「みすずちゃんが言ったんでしょ? 翔君なら疑うけど」
「俺の扱い酷くないか? まあ、信じられてもそれはそれで困るかもしれないが……」
「ごめんごめん。あ、そろそろ着くよ」
 電車はゆっくりと、習篠駅に到着した。

「じゃあ、また明日ね」
「おう、またな」
 翔とみすずの視界からなよろの姿が……見えなくなった。
「今日は疲れたな。みすず」
「はい、とっても疲れました」
「みすず……」
「何ですか?」
 翔は少々顔を引き締めて、
「ごめんな……お前を探るようなことしちゃって」
 みすずは、微笑んで、
「いいですよ、別に」
 さらに、こう続けた。
「隠し事をしているのは、わたしの方ですから」
「そうか」
「その時が来たら、すべて話します」
「わかった。もうこれ以上追及しない」
 翔は、夕陽を見つめた。
 夕陽は、今にも地平線に隠れそうだ。
 それは、昼の終わりを意味していた。
 同時に、別れの日が迫っている事も意味していた。

第五章

 一週間後の日曜日。
 翔は、いつもの様にソロパートの練習に明け暮れていた。
 みすずは、基礎を中心として、さらなる音の強化に努めていた。
 なよろはというと……今は黒田に呼び出されていて、不在だ。
「なよろさん、遅いですね」
「そうだな」
「様子見に行きましょうか?」
「やめとけ」
 翔は手でみすずを制した。みすずも、素直にそれに従った。
「よし、合わせるか」
 はい、とみすずが返事した直後、ドアが開いた。
 なよろだ。苦しげに息を吐いている。相当なスピードで走ってきたのだろう。
「今すぐ音楽室に集合して! 大事な話があるから!」
 それだけ言い残して、なよろは消えた。
 翔は、突然の招集に少々戸惑ったが、すぐに、
「行くぞ。みすず」
「はい」
 平静さを取り戻した。
 音楽室には、部員全員が集まっていた。ざわざわと騒がしい。いきなりの事だから、無理はないかもしれないが。
 少したって、黒田が入ってきた。部員達とは反対に、落ち着いた様子だ。
 黒田は、静かにと一言言った後、こう続けた。
「いきなりで申し訳ないんだが、習篠祭りの代理演奏をする事になった」
 部員からざわめきが飛ぶ。
 習篠祭りとは、習篠市最大の祭りだ。毎年六月中旬ごろに行われる。来場者数は推定五万人を超えるという。
「静かに。周辺の学校にも連絡を取ったが、どこも予定がいっぱいみたいなんだ。曲はコンクール曲で行く。本番は二週間後だ」
 二週間後……時間がないことだけは、翔もよくわかった。
「十分後に合奏開始。解散」
 部員達が一斉に動き始めた。緊迫した空気が漂っている。
 個室へと戻った翔は、なよろに尋ねる。
「参加を決めたのはお前か?」
 なよろは、複雑な顔をして、
「うん。チャンスは多い方がいいから」
「だからって、二週間しかないんだぞ。ちょっと無責任過ぎないか?」
「ごめん。みんな喜ぶと思って」
「いや謝らなくてもいいけど、時と場合を考えろよ」
「うん。わかった」
 本当にわかったのかと翔は複雑な顔をしつつ、譜面台を折りたたんだ。
「みすず、早くしろ」
「あ、はい、すいません」
 みすずは、急いでチューナーをかばんにしまった。

 音楽室には、すでに人数分の椅子が置かれていた。チューニングを終えた部員達が、ぞくぞくと入ってくる。
 三人は、自分たちの椅子を確保すると、
「じゃ行くよ、せーの!」
 なよろの掛け声で、他より遅いチューニングを始めた。
 合わない。合わせようと思えば思うほど、ずれていく。
 ついに黒田が壇上に立ち、時間切れとなる。
「さっきはすまなかった。いきなりの事かもしれんが、どうか理解してくれ。それじゃ、チューニングを始める」
 黒田は指揮棒をゆっくりと振った。まずはフルート、続いてクラリネット、サックス、トランペット、ホルン……。
 そして、なよろの番。
 小さいながらも張りのある音が、音楽室に響く。
「よし。チューバ」
 二人の番が来た。
 さっきは全くと言っていい程合わなかったが、どうだろうか。
 最初に翔、続いてみすず……。
 ふと、黒田は指揮を止めた。
「安房だけ、もう一回」
 翔は指示の通り、もう一度音を出す。
 黒田は指先で机を叩きながら、
「音がこもってる。一年の方がよく響いてるぞ」
「はい、すいません」
「じゃ、全員で」
 しかし、翔の音は、他の部員の音とはまるで形が違う物だった。その為、上手く響かない。
「安房」
「はい」
「最近になって楽器を触った事は俺も知ってる。だが、舞台に立つ以上、個人のレベルがばらばらなのは通用しない。早く追いつけ」
「はい」
「一年の方がまだいい。それを自覚しろ」
「わかりました」
 翔は、そういうしかなかった。
 吹奏楽は、基本チームプレーだ。一人のレベルが低いと、全体のレベルも低くなってしまう。一人が、部員全員の足を引っ張る事も考えられるのだ。
 事実、翔は、足を引っ張っていた。
 黒田は、不完全なチューニングを終えると、こう言った。
「みんな、お互いの音をよく聞け。一人として、違う音が出てはいけないんだ。吹奏楽はチームプレーだ」
 続いて、ロングトーン、音階などの基礎練習に入った。曲作りに重点を置いていた翔は、あまり基礎練習をしていなかった。その為、
「安房、音が揺れてる」
 などと、次々に駄目出しを食らった。
 チューニングと基礎練習で一時間程が経過した。
「よし、いったん休憩」
 翔はコンクール曲の譜面をただ眺めていた。これだけは、自信がある。配られてからほぼ毎日、見てきたからだ。
「翔君」
 そこに、なよろが声をかけてくる。
「どうした?」
「ごめん。あたしがもっとパート練してれば、こんな注意されなくて済んだよね」
「そんな、気にするなよ。お前のせいじゃないって」
「そう……」
 なよろは、そのまま持ち場に戻っていった。
「休憩終わり、始めるぞ」
 よし、ついに来たと翔は心の中で思った。
 曲が始まる。他の部員達は未完成ながらも、自らの担当するフレーズを奏ででいく。
 やがて、翔のソロが来た。翔は思いっきり息を吹き込んだ。
 が、直後、指揮が止まった。
「安房、音を爆発させるな。フォルテは強くというよりも、大きくと捉えろ」
「はい」
 それは、翔にとっては初耳だった。
 演奏再開。翔は言われた事を意識して吹く。が、上手くいかない。
 なんとか出るようになった高音域は、もはや音といえる状態ではなくなっていた。
 翔はどんどん演奏から乗り遅れていった。孤独な演奏が続く。
 ついに耐えかねたのか、黒田は指揮を止め、少々険しい顔でこう言った。
「安房。お前のソロはカットだ」

 翔は一瞬、言葉を失った。
 すぐに、
「わかりました」
 といったものの、身体から力が抜けていくのがわかった。
 その後も翔は、度々黒田から注意を受け、結局、初回の合奏は散々な結果で終わった。
 個室に戻った所で、なよろが、
「こりゃ今まで以上に本気で練習しないと駄目っぽいね」
「そうだな」
「黒田先生に頼んでみるよ、部活延長出来ないかどうかって」
「よろしく頼んだ」
 そうして、なよろは個室から出ていった。
 部屋には二人だけが残された。翔はみすずに、
「お前、頑張ってるな」
「そうですか? 翔さんだって頑張ってますよ」
「本当か?」
 みすずは笑顔で、
「はい!」
「そっか……」
 翔は複雑な気持ちになった。いくら仲間とはいえ、みすずは確かに翔のライバルなのだから。
「みすず」
「はい、何ですか?」
「必ずお前を超えてやるから、覚悟しとけ」
「わかりました。わたしも翔さんには負けませんよ!」
 翔は少々苦笑いした。
「帰るか、みすず」
「はい!」
 二人は個室を後にした。

 翌日。
 黒田が部活の延長を許可した為、最終下校時刻を過ぎても、部員達は練習に励んでいた。
「じゃ、もう一回ロングトーンやって」
 なよろの指導もこれまで以上に真剣になった。
 あれから翔は、朝練を基礎練習に使い、基礎を磨いてきたのだ。
 少しずつではあるが、三人の音は一つにまとまってきた。
 そして、問題のコンクール曲。
「チューバソロから、せーの!」
 基礎をやったせいか、音に自信がこもっていた。
 小一時間程練習をした所で、練習は終了となった。
 習篠祭りまで、あと十三日。

 さらに翌日。
 今日も翔達は早朝から練習していた。
 三人の音はよりいっそう完成度を増していた。
 翔には、少しばかりか余裕が生まれ始めていた。
 習篠祭りまで、あと十二日。
 そして、一週間がたった……。

「じゃあ最初から」
 翔は、いつにも増して真剣な表情をしていた。
 他の部員達の流れに乗るように、チューバを吹く。
 黒田も、次第に注意をしなくなっていった。
 翔が練習したかいもあってか、音は一つにまとまってきた。
 さらに六日がたった……。

 いよいよ、明日は習篠祭りだ。
 黒田も、部員の事を考えてか、早めに合奏を切り上げた。
「明日は本番だが、変に緊張することはない。いつも通りの演奏をすればいい。解散」
 ぞろぞろと、部員達が音楽室から出ていく。翔も、急いで楽器を片づける。そこへ、
「安房」
 黒田が近付いてきた。
「何ですか」
「だいぶ良くなったぞ」
 翔は、少々驚いた。また駄目出しされるのではと思ったからだ。
「落ち着いてやれば、必ず成功する。だからゆっくり休め」
「は……はい」
 そう言い残して黒田は、音楽室を出て行った。
 みすずとなよろは、
「翔さん、明日は頑張りましょう」
「そうだよ。思いっきり習篠サウンドを響かせちゃおう!」
 翔は、少々うつむいたが、
「よし、頑張ろう」
 すぐに前を向き直り、二人と握手をした。

 夜中。
 翔は、眠れずにいた。
 みすずが隣で眠っている訳ではない。
 何週間か前のあの事件以降、リビングで寝させているからだ。
 そう、翔は、本番の事を考えていたのだ。
 舞台自体は、中学で何度も経験したはずだった。
 なのに、翔は不安になっていた。
 中学では、人数が多かったので、ミスをしても、同じパートの部員がフォローしてくれた。
 しかし、今は、そうではない。
 ミスをしたら終わりも同然なのだ。
 みすずやなよろや他の部員達に迷惑をかけたくないから、なおさらだ。
 翔は、みすずを起こさないようにそっと起き上がり、玄関のドアを開けた。
 当然、周囲は真っ暗だ。
 時折、蚊が飛んでくる。
 翔は蚊を適当にはらいながら、持ってきたコーヒーを開けた。のどが潤される。
 郵便受けには、広告のチラシが溢れるほど入っていた。が、その中に一通、違う物が紛れ込んでいた。
 ……手紙だ。差出人は、翔の親戚からだった。

 翔君、元気にしているかい?
 こっちは元気。みんな元気だよ。
 苦しくなったら、いつでも来て構わないからね。

 無理だな、と翔は思った。
 みすずがいる以上、この場を離れるわけにはいかないからだ。
「翔さん?」
 翔が振り向くと、そこにはみすずが立っていた。
「どうしたんですか、こんな夜中に」
「お前こそ、どうしたんだ?」
「眠れなくて……」
「お前もか」
 翔はこっちこいと手招きした。みすずはにっこり笑って翔の隣に座る。
「明日が本番ですね」
「ああ。正確には、今日だけどな」
「へへ、そうですね」
「嬉しいのか?」
「はい。だって、翔さんやなよろさんと一緒に舞台に立てるんですから」
「そっか」
 みすずは少し寂しげな顔になって、
「でも、やっぱり不安です」
「俺もだ」
「失敗した時の事ばっかり浮かんでくるんです」
「みすず」
「はい?」
「つまらないこと考えて弱気になるなよ」
「はい……」
「お前は俺以上に頑張ってきたんだ。大丈夫だよ」
「翔さんは?」
「俺は……」
 翔は、一瞬黙ったが、すぐに、
「大丈夫」
 自信に満ちた声で言った。
「みんなに嫌な思いはさせない。絶対だ」
「わかりました。信じてますよ」
 そうして、みすずは中に入っていった。
 翔はもう一度、
「大丈夫」
 とつぶやき、その場を後にした。

 翌朝。
 いよいよ、今日は習篠祭りだ。
 翔は今、荷物の最終チェックをしている。
 みすずはもうチェックを終えて、玄関にいた。
「翔さん、早くして下さいー」
「ああ。もう少しだけ待っててくれ」
 つけっぱなしになっていたテレビを消し、翔は気を引き締めた。
「よし。行こう」
「はい!」
 二人がいなくなった家は、たちまち静穏になった。

 学校に到着すると、なよろが既に楽器の積み込み作業を始めていた。
 時折、汗を拭き取っている。今日も暑くなりそうだ。
「おはよう。なよろ」
「おはよう。翔君にみすずちゃん」
「手伝おうか?」
「うん。是非お願い」
 なよろがティンパニの片足を持った。翔はもう一方を持つ。
「せーの!」
 なよろの掛け声で、ティンパニが持ち上がった……と思いきや、上がったのはなよろの方だけだった。
「翔君、意外と体力ないんだね」
「ほっとけ」
 みすずが加わり、何とかトラックに積み込む。
 続いて、翔とみすずはチューバを持ってくる。ただでさえ重い楽器は、ケースの重さもあって、さらに重く感じる。
 みすずは、ケースをずるずる引きずってくる。翔はそれを見かねて、
「みすず。後ろ持ってやるから引きずんな」
「あ、はい。すいません」
「そこは一人で持ってあげるのがベターじゃない、翔君?」
「みすずの仕事がなくなるだろ」
「ああ、確かに、言われてみればそうかも……」
 なよろは、それ以上何も言わなかった。
 やがて他の部員達も積み込みに加わり、三十分もしない内にすべての楽器を積み込む事が出来た。
 そこに、黒田がやってきた。普段とは違い少々穏やかな表情をしている。
「いったん音楽室に集合しろ。話がある」
 部員達の動きにはきれがあった。明らかに本気モードなのがうかがえる。
 全員が集まったのを確認して、黒田は、
「緊張し過ぎるな。普段の合奏だと思え」
「はい!」
 全員の声が一斉に発せられた。
「じゃ、行こう」
 ぞろぞろと、部員達が音楽棟を後にする。
 会場までは、歩いて三十分程だ。やはり緊張しているのだろう、会話はほとんど聞こえてこない。翔達三人も空気を読んだのか、終始無言で歩き続ける。
 やがて、到着。会場には既に大勢の人だかりが出来ていた。
 翔達は楽屋で出番を待つ。時折、みすずの身体が震えてるのを見て、翔は、
「大丈夫だ。心配するな」
 小声でエールを送った。
 いよいよ、翔達の番が来た。黒田がステージ上に現れた途端、大きな拍手があがった。
 そして……黒田が指揮棒を振り、演奏が始まった。
 部員達は緊張をものともせず、自分達の音を響かせた。
 それは、翔達三人も例外ではなかった。
 ソロをカットされた分、それ以外のパートを重点的に練習してきたかいがあってか、翔は、ほぼノーミスで演奏を続けた。
 みすずは、翔に励まされた結果か、自信を持って演奏を続けた。
 なよろは、そんな二人の循環に乗ったのか、流れのある演奏をした。
 数分間は、あっという間に過ぎていった。
 やがて、黒田が指揮棒を下ろした途端、演奏前以上の大きな拍手があがった。
 成功だった。間違いなく。
 楽屋に戻った翔は、こっそりと、涙を流した。
 怖かったのだ。失敗するのではないかと。
 しかし、その涙には、成功した事に対する感動といった理由も含まれていた。
「いやー、大成功だったねー」
 なよろは肩を叩いている。彼女も緊張していたのだ。
「はい!」
 みすずも、上機嫌のようだ。
「まだ、改善の余地はたくさんあるけどな」
「翔君は、騒がないんだね」
「当たり前だろ。本当の本番はこれからなんだから」
「それもそうだねー。ははは」
 冷静な反応をしている翔だが、彼自身も成功した事は嬉しかった。
 けれど、浮かれている場合ではない事に、翔は既に気付いていた。

「うわー、雨降ってるよ」
 天気予報は大きく外れた。今にも窓を突き破りそうな程勢いのある雨だ。
「しまった。傘を忘れた」
「あたし、持ってきてるよ。入る?」
「遠慮しとく」
「ほんとKYだね、翔君は」
「みすずを入れてやってくれ」
「ああ……なるほど、そういう事ね。了解」
 翔は、頭にバッグを抱えて走り出した。
 その脇を、黒田の車が通った。
「頼めば乗せてやるのに……愚か者」
 そうつぶやいて、アクセルを全開にするのだった。

第六章

 翌日。月曜日。
「行ってきまーす」
「おう」
 みすずを送ると、翔は再び寝床に入った。風邪をひいたのだ。
「やっぱ無理すんじゃなかった」
 遅すぎる後悔。
 あの後、翔は誰の助けも借りずに雨の中を突っ走っていった。
 結果、このありさまだ。
「風邪で学校休むなんて、何年ぶりだろうな」
 おそらく、小学生の時以来だろう。
 あの頃は、両親がそばにいてくれた。
 けれど、今はいない。
 それだけは確かだった。
 翔は、辺りを見渡した。
 視界に、閑散としたリビングが入った。毎日、みすずとカップラーメンをすすったり、雑談したりしている場所だ。
 みすずがいないだけで、印象はこんなにも変わる物なのだろうか。
 何気ない日々が、ずっと昔の事の様に感じられた。
 時刻は朝の七時を過ぎたばかりだ。
 普段なら、通学の最中だろう。そして、交差点でなよろと会い、いつもの一日が始まるはずだ。
 翔は、二つの面から貴重な時間を無駄にしていた。はっきりと、翔自身が気付いていたのは、一つだけだが。
 その二つとは、コンクールの練習時間と、みすずといられる時間である。
 翔は、ゆっくりと起き上がり、台所の棚へと向かった。いつもの様に、カップラーメンを一個、棚から引っ張り出す。
 お湯を注いでる最中、ふと、翔はみすずの言葉を思い出した。
『栄養偏りますよ』
 一見何でもない忠告に見えて、翔にとっては重大な警告だった。
「料理……作ってみよっかな」
 思わず、言葉がこぼれる。
 みすずに言ったら、どんな返事が返ってくるだろうか。
 そういえば、翔は、みすずが料理しているのを見た事がない。彼が料理をさせようとしないのだから、当然の事ではあるが。
「みすずの手料理か……気になるな」
 みすずには許可一つ取らず、勝手に料理を作ってもらう方向で翔は納得した。
 三分後。翔は完成したカップラーメンをすすり始める。
 つい最近まで、翔は孤独だった。
 そう、孤独だったはずだ。
 このような状況は、何度も経験したはずだ。
 なのに、今、改めて孤独を感じている。
 それも、以前よりはるかに強い孤独を。
 まるで、翔の家だけが、現実世界から切り離されたかのようだ。
 翔は、半分近くの麺を残し、食事を終えた。
 カップラーメンに飽きたという事もあるが、それ以上に、身体が受け付けないのだ。
 テレビをつけると、ちょうど天気予報をやっていた。
 予報によると、雨は午前中で上がるらしい。ただ午後も、すっきりと晴れるよりは、曇り空という事だった。
 まるで、今の翔の心中の様だ。
 翔は大きく伸びをすると、携帯音楽プレーヤーの再生ボタンを押した。
 マイナスな気持ちの時は、音楽は励みになる。
 だがその音楽も、孤独という空間を埋めるには小さ過ぎた。
 一曲聴いた所で停止ボタンを押し、床に寝転がる。
 思った以上にする事がないと、翔は気付いた。
 毎日、学校に通っているからというのもその原因だろう。
「仕方がない……勉強するか」
 翔は、亀並みのスピードで起き上がり、リビングを後にした。
 翔の部屋は、二階にあった。亡き両親の部屋に挟まれるような形で存在していた。南向きの窓からは、雨の音が聞こえてくる。
 翔は、机に腰掛け、世界史の教科書を開いた。覚えれば解けるのが、世界史の良い点でもあり悪い点でもある。
 覚えれば解ける……それは、吹奏楽も同じなのかもしれない。未知の記号、つまり問題を覚え、演奏する事によってそれを解き明かす。
 ふと、翔の手が止まった。ページは三分の二ほどめくられている。そのページに書かれていた事に、翔は注目した。
 そのページには、過去に実在していた独裁者達の説明がされていた。彼らは、自己の利益だけを追求し、恐怖政治を行って、最後には処刑されたり、自殺したりと波乱の人生を遂げていた。
 陰謀が渦巻く世で、彼らは何を考えたのか。
 翔は、そんな彼らと自分自身を照らし合わせてみる。彼らと翔の共通点、それは、形は違えど、孤独だったという点だろう。
 翔は、教科書を閉じた。雨はやや弱まってきたようだ。
 時計を見ると、朝の八時。あれから一時間程しか経っていない。
「暇だな」
 翔は仕方がなく、今度は数学の教科書を開いた。が、公式がまるで頭に入ってこない。英語にも手を出してみたが、今度は文法が入ってこない。
「ちくしょう」
 その言葉は、今、翔が出来る数少ない反抗の表れだった。
 教科書を投げ出し、カーペットに寝転がる。
 思いっきり、拳で床を叩く。が、痛みが返ってくるだけで、何も起こらない。
 何度も叩いている内に、手が赤く染まっていった。
「何やってんだろ、俺」
 真っ赤に染まった右手を見て、翔は我に返った。全く無意味な事をしていると気付いたのだ。
 翔は、部屋を後にした。特に用が無くなった為だ。
 雨は小降りになりながらも、確かに降っていた。
 寝床に戻る。ほぼ無音の状況の中、翔は再び目を閉じたのだった。

「翔君ー!」
 翔の耳にかすかな声が入ってきた。左右を振り向くが、誰もいない。
 ドアが開く音。おそらく、みすずが帰ってきたのだろう。
 翔は、ゆっくりと起き上がり、軽く深呼吸をした。
「ただいまですー」
 直後、みすずの声が聞こえてきた。
 ゆっくりとした足取りで、廊下に出る。
 みすずの後ろには、なよろの姿があった。
「お邪魔しまーす、って、翔君じゃん!」
「そうだけど、何か?」
「もっと酷い状態だと思ってたのに、心配して損した」
「ああ。俺は元気だ」
「そ。ならよかった」
 翔はなよろの右手に視線を移した。どこの家にでもありそうな、ビニール袋が握られている。
「何か買ったのか?」
 なよろは急に顔を引き締め、
「うん。翔君の夕飯」
 翔は少々首をかしげ、
「俺の?」
「うん。正確には夕飯の食材」
 翔は認識した。なよろは夕飯を作ってくれるらしい。
「でも、悪いよ。カップめんあるし」
「それだから体調崩すんでしょ。みすずちゃんから聞いたけど、毎日カップめんなんだって?」
「ああ。料理作れないから」
 なよろは少々顔をふくらませ、
「作らなきゃいつまでたっても作れないでしょ!」
「別に。カップめんあるし」
「ああもう! みすずちゃん、押さえて」
 いきなり、みすずは翔の両手を押さえた。翔は暴れるが、運動不足に病気という事もあって、あっさり封じられてしまう。
「ふふふ。覚悟なさい」
 少々不気味な笑いを浮かべて、なよろは翔の両足をつかんだ。翔も抵抗をやめる事にした。何か楽しい事が待っていそうな予感がしたからだ。
 しかし、待っていたのは楽しい事ではなかった。
 なよろは、翔を台所に仰向けに置くと、無理矢理手を引っ張り、立ち上がらせた。女子とは思えない程の強い力だ。
「いってーな。何すんだよ」
「つべこべ言わない! ほら、包丁持って!」
 なよろは包丁の刃を下に向け、翔を脅す。脅迫罪で訴えられてもおかしくはない。
 翔は、なよろの料理教室に強制的に参加させられていた。
 しぶしぶ、翔は、包丁を手に取る。
 まな板の上には、いつ置いたのだろう、きゅうりが置かれていた。
「切って」
「何でだよ」
「いいから切れ」
 普段滅多に見せないなよろの鬼の様な形相に、翔はしぶしぶきゅうりに手をかける。
「もう一本」
 一本、二本、三本……次第にきゅうりの山が出来てゆく。
「もう一本」
「……」
「もう一本」
「……」
「もう一本」
「……って、一体何本切らせんだよ!」
「つべこべ言うな」
「う……」
 結局、翔は十本のきゅうりを刻んだ。
 続いてまな板には、にんじんが置かれた。先程と同様、翔はなよろの命令にしぶしぶ従う。
 続いてだいこん、なす、トマト、レタス……。
 結局翔は、約三時間野菜と格闘する羽目になった。
 ボウルには野菜の山が出来ていた。一体、何を作るつもりなのだろうか。
「みすずちゃん、マヨネーズ持ってきて」
「はい!」
「ドレッシングも」
「はい!」
「鎖も」
「はい!」
 最後のは一体、何に使うのだろうか。
 なよろは、マヨネーズ一本、ドレッシング一本を野菜の山に振りかけた。
 左手には、鎖が握られている。
 野菜の山を、翔の家にある中で最も大きな皿に移し替え、テーブルへと運ぶ。
「さあ、め、し、あ、が、れ」
「いっただきまーす……って! 何だこれは?」
「見りゃわかるでしょ、サラダだよ」
「ああ、そっか……って! 俺が聞きたいのはそんな事じゃない! 何だこの量は!」
 高さ三十センチはあるだろうか。
「ふふふ。普段食べないからだよ」
 翔は顔を赤くして、抗議した。
「俺は食わないからな!」
「あれー? そんな事言っちゃっていいのかなー?」
 なよろは、左手に隠していた鎖を翔に見せた。
 この後どうなるかは翔も想像出来たらしく、
「わかった……食えばいいんだろ、食えば!」
 野菜の山に箸を伸ばし始めた。
 味は言うまでもない、野菜の味だ。
 しかし、ただの野菜の味ではない。どこか懐かしい味がした。
 今はもう食べる事の出来ない、母親の料理の味。
 翔は、半分程食べた所で箸を置いた。
「残すの?」
 なよろが真顔で聞いてくる。
「食える訳ないだろう! つか、お前らも食えよ!」
 なよろはいたずらに笑って、
「やーだよーだ。翔君の為だもの」
「ですね」
「それにあたし、野菜そんな好きじゃないし」
 自分は好きでもないくせに、他人には無理矢理食べさせるとは。
「鬼め! 悪魔め!」
「いいのかなー、おじさん傷付いちゃうよ」
「別に構わん」
「ひっどーい!」
 結局翔は、自らの限界を超え、特盛野菜サラダを平らげた。
 かかった時間、二時間。
「これで病気が悪化したら、お前らのせいだからな」
「普段野菜を食べない翔君が悪い!」
「そうです!」
 どうやら二人とも、自らの正当性を主張し続ける様だ。

 翌朝。
 翔は、快適な目覚めを味わった。
 昨日まで病気だったのが嘘の様だ。
「おはようございます。翔さん」
 みすずがにっこりとあいさつしてきた。
 あの後、みすずに朝料理を作ってほしいと頼んだ所、意外にも快く引き受けてくれた。
 はたして、何を作ったのだろうか。
「朝飯は何だ?」
 みすずは天使の様に微笑んで、
「野菜サラダです」
「頼むからもうやめてくれ!」

第七章

 コンクール本番までちょうど残り一カ月。
 今日も翔は、いつもの様に合奏に参加していた。
「じゃあ、チューバソロから」
 黒田の声。部員達の返事。どこを取っても、以前とは変わっていた。
 みんな、生き生きとしているのだ。
 指揮棒に合わせて、翔の音が音楽室に響く。
「ストップ」
 黒田は指揮棒を下ろし、あごに手をやった後、こう言った。
「安房、ソロを頼む」
 翔は一瞬、信じられないといった顔をしたが、すぐに、
「はい! 頑張ります!」
 はっきりと言った。
 地道な練習の成果が、今現れたのだ。
 合奏終了後、翔は鼻歌を歌いながら、
「努力は報われるのさ、なあみすず」
 かなり上機嫌そうに尋ねる。
「そうですね!」
 みすずも翔の気分に影響されたのか、一緒に鼻歌を歌い出した。
「仲いいねー、二人とも」
 思わずなよろが突っ込む程だ。
「あ、翔さん」
 ふと、みすずは歌うのをやめた。さっきとは打って変わって、真顔だ。
「ん、どした?」
「あの、家に帰ったら、大事な話があります」
 翔は、一瞬何かと思ったが、予想がついたのか、すぐ、
「わかった」
 真顔で答えた。
「あ、あたしもいい?」
 すかさず、なよろが尋ねてくる。
「はい、いいですよ」
「わかった。後でね、翔君にみすずちゃん」
 そう言ってなよろは、個室から姿を消した。
 二人だけになった個室は、三人の時と雰囲気が違った。
「なあみすず」
「何ですか?」
 みすずは譜面台をたたみかけて、翔に向き直った。
「本当に、なよろにも言っていい事なのか?」
「はい」
 みすずは即答した。さらに、
「むしろ言わなければいけないんです」
「そうか」
 翔はそれ以上、質問しなかった。
 昇降口を出ると、空は既にオレンジ色に染まっていた。
 時間が時間のせいか、人気はほとんど見られない。そのおかげで、楽でもあるのだが、少し寂しくも感じる。
「翔さん」
「何だ」
「夕日が、きれいです」
「そうだな」
 二人は、はるか西の彼方の夕日を見つめた。もうすぐ、昼が終わりを告げる事を、夕日は嫌でも教えてくれる。
 そう……終わりを告げる事を。
 翔は、持っていたガムを取りだし、口に放り込んだ。
 味がなくなってきた頃、二人は家に到着した。
 門の前には、なよろの姿があった。よほど急いできたのだろう、かっこうは制服のままだ。
「ちょっと早く来ちゃったよ、へへ」
「早過ぎだろ。今開けるから待ってろ」
 ドアが開いた。三人が続々と中に入ってゆく。
 翔は、テーブルの手前に座った。なよろも隣に座る。反対側には、みすず。
「で、大事な話って何だ?」
 いきなり、みすずは立ち上がり、翔達に向かって頭を下げた。
「翔さんみすずさん、本当にありがとうございます」
「えっ、ああ、うん」
 なよろもそれには戸惑っている。無論、翔もだ。
「話はそれだけか?」
 みすずは翔をじっと見つめ、
「いいえ」
「そうか。じゃ、話してくれ」
「はい」
 みすずは、少しだけ全身を震わせた。
「信じられないかもしれませんが……」
 みすずは、そこでいったん話を切った。
 沈黙。
 みすずはなかなか口を開こうとしない。
 一体、どうしたというのだろうか。
「ああ、何だ」
 思わず、翔が口を挟む。
「実は、わたし……人間じゃないんです。神様なんです」
 再び、沈黙。
 それを破ったのは……。
「そうか」
「うん。知ってるよ」
「……翔さんの」
 ……全員だった。
 みすずはえっ、と言いたげな顔をして、
「信じるんですか?」
 なよろはにっこり微笑んで、
「だって、みすずちゃんの言う事だもの。信じない訳ないよ」
 翔も、
「お前が嘘をついてる様には見えないからな。どう見ても」
 二人は、みすずが『神様』だと認めたのだった。
 みすずは一瞬顔を明るくしたが、すぐに真顔に戻り、
「翔さん、なよろさん」
「何だ」
「何、みすずちゃん」
「わたしの事、嫌いになっちゃいましたか?」
「何でだよ」
「神様だから」
 その言葉を聞いた途端、翔は立ち上がり、みすずの元へ駆け寄った。
「馬鹿。何考えてんだよ!」
 みすずは再びえっ、と言いたげな顔をした。
「そんな訳ないだろう! 俺はみすずの事が好きだ、大好きだ!」
 なよろもみすずの元へ行き、
「そうだよ! あたしはみすずちゃんが大好き、今のみすずちゃんが大好きだよ!」
「翔さん、なよろさん……」
 直後、みすずの目から透明な液体がしたたり落ちた。
 涙だ。
 みすずは泣いている。
 本当に信頼できる仲間に出会えたからだろう。
「ありがとう……ございます……」
 涙を拭って、みすずは再び顔を引き締めた。
「話の続きです」
 みすずは少しうつむいて、
「実はわたし、この世界には後一カ月程しかいられないんです」
 それは、なよろは当然の事だが、翔にも初耳だった。
「そんな……」
 翔は、拳に力を入れた。
「コンクールまでか……」
 みすずは、首を横に振って、
「わかりません。コンクールを一緒に迎えられるのかどうかも」
 翔は、再び立ち上がり、みすずの元に詰め寄った。
「嘘だろ? 何かの悪い冗談だろ?」
「本当です」
 冷たい息といっしょに、みすずは答えた。
「わたしがこの世界にやってきたのも、生前には果たす事の出来なかった夢を果たす為です」
 なよろは、ちょっと待ったと言いたげな顔をして、
「それは何?」
「吹奏楽コンクールに出る事です」
 みすずは、静かに答える。
「わたしの学校は、部員の数が少なくて、コンクールに出る事が出来なかったんです。だから、一度でいいから、コンクールに出てみたいと思っていたんです」
 翔は、疑問をぶつける。
「何で、みすずはこの世界に蘇ったんだ?」
 みすずは、窓を通して空を見つめ、
「神様のリーダーみたいな人が、私に提案してくれたんです。少しの間なら、この世界に蘇る事が出来ると」
「つまり、輪廻転生って訳だね」
 なよろが口を挟んだ。
「はい。そう考えていいと思います」
 みすずも、それを認めた。
「話は、それだけです」
 みすずは立ち上がり、その場を後にしようとしたが、翔に進路を阻まれる。
「みすず」
「何、ですか」
「俺もなよろもお前の話を全て信じる」
「そうですか」
「でも、いくら真実でも、言っていい事と悪い事がある。それだけは心にとめとけ」
「はい。わかりました」
 みすずはそう言い残し、廊下へと消えた。
 難しい顔をする翔に、なよろが、
「みすずちゃんはきっと、翔君やあたしに知ってもらいたかったんだよ」
「……そうかもな」
「だから、そんなみすずちゃんを責めちゃ駄目だよ」
「そうだな」
 翔は、既に後悔していた。
 みすずは、おそらく、秘密を打ち明けようか迷っていたのだろう。
 だが、結果的に、打ち明けた。
 それには、翔には想像も出来ない程の恐れがあったに違いない。
 みすずは勇気を出したのに。
 翔は、その勇気を受け入れようとしなかった。
「謝ってくる」
 翔は、みすずの背中を見つけ、
「みすず。頼む。こっちを向いてくれ」
 みすずは、少し間があったものの、翔の方に顔を向けた。
「ごめん。みすず。俺お前の事何にもわかってなかったんだ」
 みすずは、軽く頷き、穏やかな顔で、
「いいんですよ」
「ほ、本当に、いいのか?」
「はい。むしろわたしが謝らないと。隠し事して、ごめんなさい」
 翔は、みすずに一歩近寄った。
「いいんだ。もうわかったから」
「翔さん……」
 突然翔は、みすずを抱きしめた。みすずは、少々驚いている。
 そんな二人を、なよろは無言で見守っていた。

「じゃあ、また明日ね」
「ああ。じゃあな」
「じゃあねです」
 なよろが帰り、再び二人の空間が出来上がった。
「翔さん」
「何だ」
「お腹空きました」
「よし。何か食べるか」
「カップラーメンはもう嫌です」
「仕方ねえな」
 翔は、棚からチラシを引っ張り出し、テーブルに並べた。
 ピザ、寿司、釜飯……。
「翔さんの手料理が食べたいです」
「断る」
「今日じゃなくてもいいですから」
「……わかった。その内な」
「はい!」
 相変わらず元気だ。
 ただ、翔にはその元気が、寂しさを隠す為の仮面にしか見えなかった。
 結局、夕飯はそばになった。
「おいしいです」
「そうか。よかったな」
 翔も、久々に冷たい料理を食べた。
 カップラーメンばかりだった翔にとっては、その味は妙に新鮮だった。
 ましてや、美少女と食べるそばなど、初めてだった。
「ごちそうさま」
 気が付けば、時刻は夜の十時近くを回っていた。
「みすず」
「何ですか?」
「俺の部屋で寝ないか?」
 みすずは一気に顔を明るくして、
「はい! 寝ます!」
 翔に飛びついてきた。
 翔も、既に構えを取っていた。
 こんな、馬鹿な騒ぎをしていられるのも今の内だという事を、翔はひそかに感じていたのだった。

 翌朝。
 翔は、ふと身体に妙な違和感を感じた。
 左側を向くと、みすずがいつの日と同じように、よだれを垂らして寝ていた。
 今度は、翔も覚悟していた事だけに、彼は冷静だった。
「おはよう、みすず」
「おはようございます、翔さん」
 あいさつも何の変哲もない。
 朝食は、目玉焼きにウィンナーと、だいぶ豪華になってきた。ちなみに全てみすずが作った物だ。味も申し分ない。
 そして、時間になる。
 二人は、家を出て、部活へと向かう。
 途中、あの交差点でなよろと会って、そこから、三人の楽しいひと時が始まる。
 学校に着いた翔は、クラスメイトからモテ男とからかわれつつ、音楽棟へと向かう。
 そして、合奏が始まるまで、ひたすら個室で個人練習を行うのだ。
 今日も翔は、ソロパートの練習に励んでいた。
 夕べの話の後、翔は『大切なもの』を見つけたのだ。
 一生懸命になれる理由を。
 そう、その理由とは……。
 『君』と夢を共有しているから。
 『君』と一緒に夢を追いかけているから。
 そう『君』のためなら、一生懸命になれるのだ。
 それが、翔がたどり着いた結論だった。
 やがて、合奏の時間がやってくる。
 翔は、みすずに一声かけた。
「頑張ろうな」
「はい!」
 みすずも、それに答えた。
 黒田が壇上に立った途端、一斉に部員達が起立した。
 彼らには、もう何の迷いもなかった。
「では、合奏を始める」
 黒田は、いつもの落ち着き払った声で言った。
 そして、合奏が始まった。チューニング、ロングトーン、音階……どれも磨きがかけられていた。
 翔も、自分の持てる力を全て発揮し、音を響かせた。
 一生懸命になれる理由……今なら言える。
 そう、みすずの為、そして……自分の為だから。
 そして、いよいよ、コンクール曲の番がきた。
 軽快な指揮で、演奏は始まった。部員達は、既にお互いの音を理解していた。三人も例外ではない。
 相手の音に最もマッチする音を、探し出す。それも、吹奏楽の楽しみの一つではないだろうか。
 一人一人が作り出した小川は、やがて交わって川となり、さらに大河となり、大きな流れを作り出していった。
 やがて、チューバソロがやってきた。既にはっきりとした流れが出来ていた為、その流れに乗るのはたやすい事だった。
 翔は、習篠祭りよりもさらに完成度の高い演奏をした。
 気が付けば、黒田が拍手をして、演奏が終わっていた。
 部員達の心が一つになった証拠だった。

「今日の合奏、大成功だったね」
 合奏終了後、個室で、なよろは大きく伸びをしながら言った。
「そうだな」
 翔も、それには同感だった。
 今日の合奏は、信じられない程とんとん拍子に進んだ。
「翔君、午後空いてる?」
「空いてるけど、何で?」
「ちょっとCD買いたいんだけど、付き合ってくれる?」
「ああ。了解」
 これまで、ほぼ毎日部活と勉強漬けの日々を過ごしてきた。
 たまには、息抜きも必要だろう。
 それも、練習の内だ。
 翔は、ぼうっと突っ立っているみすずの手を引っ張り、個室を後にした。

 CDショップは、駅前の店が多い通りにあった。この通り、別名『習篠銀座』という二つ名がある。
 なよろ達三人は、まさに今、お目当てのCDをあさっている最中だ。
「あったあった。ジョンの新曲」
 どうやらなよろは、それを発見したようだ。ジャケットにはピアノを演奏する黒人男性がプリントされている。
 それは、ジャズだった。
 なよろがジャズ好きとは、翔も初耳だった。
「へー。お前、ジャズ好きなんだな」
「うん。大好き」
 そう言ってなよろは、CDに頬ずりした。まだレジを通っていない『売り物』のはずだが。
 翔にとって、CDショップは新鮮だった。
 それもそのはず、翔は普段、音楽をダウンロードするからだ。わざわざCDショップに向かう理由もないのである。
 翔がCDショップの内装に目を奪われている時、みすずは一枚のCDを取りだし、眺めていた。
 それは、クラシックのCDだった。傑作選らしく、裏側には名曲のタイトルがずらりと並んでいる。
「みすずちゃん、これ欲しいの?」
 なよろが尋ねてくる。
「はい」
 みすずは平坦な声で言った。
「お金持ってる?」
「持ってません」
 なよろはぼうっとしている翔の手を引っ張り、
「翔君、お金持ってる?」
「持ってない」
 なよろはうーんと、困った顔をして、
「みすずちゃんごめん、あたしもそんなにお金持ってないんだ」
 直後、なよろは、翔の耳元でこうささやいた。
「今度あたし達で買ってあげよう」
「それで、渡すのか?」
「うん、ただし、ただ渡すだけじゃつまんないから……」
 翔は何するんだよ、とでも言いたげな顔をしている。
「サプライズ的な感じで、どう?」
 翔は一瞬考えたが、すぐに、
「わかった。そうしよう」
 みすずは、少々目を細めて、
「二人で何の話してるんですか?」
 なよろは、慌てて、
「いやー、何でもないよ」
 怪しいのが見え見えだが。
「さて、みすずちゃん、翔君、帰ろう」
「はい!」
「おう」
 三人は、店を後にした。

 それからの日々は、あっという間だった。
 時間が惜しくなってきたので、翔達は、基礎練習よりもコンクール曲に重点を置くようになった。
 翔は、ただ、願っていた。
 みすずが、コンクールまでこの世界にいられる事を。
 出来れば、もう少し、出来るだけ長くいてほしい。
 翔がみすずに放った言葉……。
『俺はみすずの事が好きだ、大好きだ!』
 それは嘘でも冗談でもなかった。
 翔の、純粋な真意だった。
 毎日、翔は怯えた。
 『今日』来るかもしれない別れに対して。
 それに負けそうになった事もあった。
 しかし、みすずやなよろの支えもあって、何とか、翔は壊れずに時を刻み続けた。
 気が付けば、翔は、もうじき訪れる『別れ』を受け入れていた。
 出会いがあれば、別れもある。
 それは、決して曲げる事の出来ない摂理なのだから。

 明日は、コンクールだ。

第八章

「それじゃ、今日は解散」
 黒田の一声で、最後の合奏が終わった。
 明日がコンクールということもあってだろうか、午前中で部活は終了した。
 椅子を片付ける翔の元に、みすずが寄ってくる。
「いよいよ、明日ですね」
「ああ。そうだな」
 翔は妙に冷めていた。
 理由は単純だ。熱くなる必要がないからだ。
 しかし、もう一つ理由があった。
 今熱くなっては、本番、力を発揮出来ないと考えたからだ。
 ここで力を消耗しても無意味だと、翔は確信していた。
「明日は頑張ろうね! 翔君にみすずちゃん!」
 なよろは、思いっきり翔とみすずの背中を叩いてきた。
 そんな元気そうな彼女も、心の底では不安を感じていた。
 二種類の不安だ。失敗に対する不安と、成功に対する不安である。
 翔は、程度を考えろとなよろに軽く説教してから、
「俺も出来る限りの事はする。だから不安になるな」
 みすずにそう、言った。
「はい!」
 みすずは、笑顔で返した。
 その顔に、偽りという文字は書かれていなかった。
「じゃ、帰るか」
「うん、帰ろう」
「はい!」
 三人は、音楽棟を後にした。

 踏切を、電車が猛スピードで駆け抜けていった。
 電車に終着駅があるように、翔とみすずの関係にも、終着駅がある。
 三人は、それぞれの想いを抱えながら、歩を進めていた。
 太陽は、ちょうど活動の真っただ中だ。気温は軽く三十度を超えていた。
 翔は、自販機で買ったコーヒーに口を付ける。
 おごりという事で、みすずとなよろにも買ってあげた。
「コーヒー……苦いですね」
「当たり前だろ、コーヒーなんだから」
 どうやらみすずの口には、合わなかったらしい。
 一方、なよろはというと、既に飲み干していた。
「もう一杯おごってよ」
「自分の金で買え」
「KY」
「ぶっとばしてやろっか?」
「ああ、わかったわかった。買うよ、自分のお金で」
 なよろは少し冷や汗を流した後、近くの自販機へと向かった。
「暑いですね」
「それはもう聞き飽きた」
「じゃ、寒いですね」
「マジかよ、お前は何者だ」
「冗談ですよー」
「何かいらっとくるわ……」
 適当に会話を交わしていると、なよろが戻ってきた。
「おまたせ。今日この後どうする?」
 翔はあごに手を付け、
「明日本番だし、各自待機って事で」
「了解。じゃ、明日会おうね」
「おう、またな」
「またねですー」
 そうして、なよろは車の後ろに消えた。
「さて、さっさと帰ろう」
「はい!」

 夜になった。
 みすずがいつもの様に夕飯を作っていた所、
「あいたっ」
 どうやら、怪我をしたらしい。
 翔も気になって、駆け寄る。
「どこ怪我したんだ?」
「指です」
「よかった……」
 みすずは、不思議そうな目をしている。
 もし指じゃなかったら……みすずは、諦めざるをえなくなったかもしれない。
 コンクール出場を。
「気を付けろよ。こんな事で怪我されたら、こっちも困る」
「はい。すいません」
「別に謝らなくてもいいけどな」
 翔は、再びリビングに戻った。
 テーブルに置かれた紙に、熱心に目を通す。
 今日配られた、進行表の紙だ。
 ミスは許されない。
 みんなの為にも、そして、みすずの為にも。
「翔さん?」
 気が付けば、完成した料理を持って、みすずが立っている。
 よほど、集中していたのだろう、時間が経つのも忘れてしまったようだ。
「ああ、悪い」
 今日は、少々豪華な夕食だ。翔には実に数年ぶりの、トンカツだ。
 キャベツの千切りを飲み込むと、みすずが、
「今日は縁起をかついでみました」
「なるほど。ありがとな」
「はい! どういたしまして」
 みすずは笑った。
 純粋に、笑ったのだ。
 夕飯を終えると、翔は、少し早めに風呂に入った。
 湯船につかっている最中、翔は自分でも信じられないような事を口にした。
「みすずと風呂入ってみてーな……」
 翔は、はっとなった。辺りを見渡す。みすずの姿はない。どうやら聞こえてはいないようだ。
 けど、それが、翔とみすずの関係の深さを証明していた。
 一緒に風呂に入りたい……それは欲望ではなく、願望だった。
 やがて、風呂から上がった翔は、最後のチェックを行い、寝床に入った。
 今日は、素直に寝なければいけない。
 みすずは、隣の部屋に横になっていた。
「お休みな……みすず」
「お休みなさい、翔さん」
 そして、翔はみすずとの最後の夜を、過ごした。

 翔は、舞台に立っている。
 今はちょうど、コンクールの真っただ中だ。
 顧問の振る指揮棒が、あちこち動き回る。
 翔も必死についていこうとする。
 が、ただ一人、遅れていく。
 顧問の顔が、次第に険しくなり、やがて翔ばかりを睨んでくる様になる。
 その顔を見て、翔は、意欲をなくし、さらに周囲から遅れていく。
 演奏終了。翔は泣きたい想いをこらえ、客席へと向かう。
 周囲の視線が突き刺さって、痛い。
 そして、結果発表の時。
「三番、習篠市立習篠中学校、銅賞」
 翔は、耳を疑う。
 だが、それが結果だ。
 真実だ。
 帰りのバスは、重い空気に包まれている。
 ああすればよかった、こうすればよかったといった声が飛び交う中、一人の部員が翔に向かって、
「お前のせいだ」
 翔は、奈落の底に突き落とされる錯覚に陥る。
「お前のせいだ」
 別の部員が、さげすんだまなざしで言う。
「お前のせいだ」
 やめろ。
「お前のせいだ」
 やめろ……。
「お前のせいだ」
 やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!

第九章

「……さん、翔さん」
「……ん、みすず」
「大丈夫ですか? うなされてましたけど」
「……ああ、大丈夫」
 夢か、と翔はほっとした。正確には、夢というより記憶だが。
 しかし、最悪の目覚めだ。
「今何時だ?」
「大丈夫ですよ。まだ六時ちょっと過ぎです」
 集合は八時だ。十分余裕がある。
 翔はもう一度、ほっとした。
 みすずは、にっこり笑うと、立ち上がり、台所へと向かった。
 翔は、窓の外を見た。雲が点々としているが、雨が降りそうな感じはしない。
 まるで、翔達に味方してくれたかのように、空は晴れ渡っていた。
 のっそりと起き上がり、洗面所へと向かう。
 翔は、眠そうな顔をしていた。さっきまで寝てたので、当然といっちゃ当然だが。
 しかし、洗顔した途端、視界がはっきりしてきた。
 そう、今日は……コンクールだ。
 これまで、積み重ねてきた力を発揮させる日だ。
 そして……おそらく、みすずと立てる最後の舞台だ。
 鏡の中の自分と向き合う。そして翔は、
「俺は、お前には負けない。絶対」
 弱い自分に対して勝利宣言をした。
「翔さん、朝食出来ました」
「おう。なあ、みすず」
「何ですか?」
「お前もやらないか?」
 翔は、鏡の前にみすずを手招きした。
「そうですね。せっかくだから、やっときます」
 みすずは、鏡に向かって、
「あなたには絶対負けません! 何があっても絶対に負けません!」
「よく言った。みすず」
「てへ、なんか恥ずかしいです」
「そっか」
 打倒自分宣言を終えた二人は、リビングへと向かった。
 朝食は、いつも通りだった。ただし、効率的な栄養補給が出来るようなメニューだ。
 ご飯をほおばりながら、みすずは、
「いよいよ今日ですね」
「そうだな。あっという間だな」
「わたし、全力で頑張ります!」
「俺もだ。お前に嫌な思いはさせない」
 みすずは、えっ、と言いたげな顔をして、
「わたしは、コンクールに出られるだけでものすごく嬉しいですよ」
「そっか。でも、出るからには金賞取ろうな!」
「はい!」
 みすずの返事には、自信が表れていた。
 その返事に、翔はまた、ほっとした。
 最後までしつこく残っていたマイナス思考は、これで完全に吹っ飛んだ。
 その後の最終チェックも問題なく終えた。
 すると翔は、突然携帯を取り出し、みすずに、こう言った。
「写真撮ろうぜ」
 みすずは、いきなりの事に少々戸惑ったが、すぐに、
「はい! 撮りましょう!」
 そして、シャッターが切られた。
 これで翔は、みすずとの思い出を実体化させた。
「よし。じゃ、行くぞ、みすず」
「はい!」

 二人の足取りは、堂々としていた。
 まるで、パレードの行進の様に。
 途中で、なよろも加わり、勢いはさらに増していく。
 もう、三人を止められる者はいなかった。
 集合三十分程前に、三人は学校へと到着した。
 楽器を取り出し、最後の確認を行う。
「せーの!」
 なよろの掛け声。
 完全に戦闘モードだ。
 基礎練習を終えた所で、時刻は八時になった。
 本当に、コンクール前最後の練習が、終わった。
 部員達が一斉に楽器を下げ、音楽室に集まってくる。
 壇上には、黒田がいた。
 白いスーツに身をまとった黒田は、それはそれで似合う。
「全員集まったな。では」
 そうして、黒田は、こう言った。
「賞など気にする必要はない。持てる力を全て出し切ってくれれば、俺は満足だ」
 部員一斉に、返事をする。
 既に、団結度は百パーセントを超えていた。
「健闘を祈る。解散」
 黒田が音楽室を出ていった途端、室内は急に騒がしくなった。
「静かに。部長から話があるから」
 副部長の女子が、声を張り上げた。途端に、室内はしーんと静まり返った。
 なよろが立ち上がり、壇上へと向かう。
 いつにも増して堂々としたいでたちに、翔は感銘を覚えた。
「今日は、いよいよ本番です。まだ、不安や恐れを持っている人もいると思います」
 一部の部員が、頷いた。
「その気持ちは、わかります。あたしだって、実は今も小さな不安を抱いてます」
 なよろは大きく息を吸って、
「でも、それを表に出してしまったら、負けなんです!」
 確かにそうだ。
「せっかく出るんだから、チャレンジ精神を持って下さい! 努力は決して人を裏切る事はありません!」
 翔は、自分の行いを振り返った。
 自分は、どのくらい努力してきたのだろうか。
 部活に真面目に来るようになったのが、およそ二カ月前。
 でも、他の部員達は、それ以前から練習に励んでいた。
 だからこそ、自分は、追いつこうと必死になって練習してきた。
 そして……おそらくだが、翔は、追いついた。他の部員達に。
 つまり、努力は十分にしてきたという事になる。
「今日は今までで一番の演奏をしましょう! 以上です」
 なよろは、やけに熱のこもった演説を終えると、壇上を後にした。
 途端に、部員達が動き出した。翔も早足で個室に向かう。
 翔は、みすずにバッグを任せ、チューバを運び出した。古びた金具が今にも外れそうで少々怖い。
 翔のバッグの中には、朝、みすずと撮った写真入りの携帯電話が入っていた。
 二台のチューバを運び終えた翔は、続いてパーカッションの積み込みを手伝った。
 いくら力が弱いとはいえ、仕事をしないのには罪悪感があったからだ。
 やがて、みすずも加わり、全ての楽器がトラックに積み込まれた。
 翔達はトラックを見送ると、バス停を目指し歩き出した。
 会場の県文化会館は、バス停からバスで三十分ほどの所にある。県内最大級のホールである。
 部員達は、一部の事務的な会話を除いては、ほぼ無言だった。
 あれほど言われても、緊張が尽きる事はないのだ。
 バス停に到着。フロントガラスに『県立習篠高等学校』と書かれたバスが、轟音と共に到着した。
 バス独特の車内臭に吐き気を覚えながらも、翔は、日程表を読み返していた。
 そうこうしている内に、三十分はあっという間に過ぎ、部員たちは、決戦の地、県文化会館に到着したのだった。
 入口前の広場には、既に多くの観客や他校生が来ていた。
 部員達は、プラカードを持った係の生徒に誘導され、会場の中に入った。
 翔達の出番は一時間後だ。
 ロビーに設置されているモニターからは、他校の演奏が流れていた。
 その演奏を極力聴かない様に、翔は耳以外に意識を集中させた。
 数分後、楽器が到着した。
 手早く楽器を取り出し、楽屋に呼ばれるのを待つ。
 本番は、確実に迫ってきていた。
 やがて、係の生徒が動き出すと、部員達もそれに続いて動く。
 楽屋へと続く長い廊下を歩く。
 壁も床も真っ白だ。飾り気などなかった。
 そして、床がつるつる滑る。転べば、大変な事態になる。
 幸い、転ぶことはなかった。楽屋に到着。
 中は、教室二部屋程の広さしかないが、元々、二十人程しかいない習篠吹奏楽部にとっては十分な広さだ。
 黒田は、若干乱れた髪を軽く整えてから、
「チューニングを始める。フルート」
 フルートの女子が元気に返事をした。
 そして、チューニングが終了した所で、ドアが開いた。
 楽屋には、使用時間制限があるのだ。
「いよいよ、本番か」
 しばらく口を開いていなかった翔は、誰にも聞こえないような声でぼそっと言った。
 ステージへと続く階段を上る。
 チューバは大きい楽器なので、手すりにぶつからないか非常に怖い。
 何とか難関を突破すると、そこはステージ袖だった。
 一つ前の学校が演奏をしている最中だ。
 翔は、静かに深呼吸をした。
 みすずはというと、手に人の字を書いている。やはり、緊張しているのだ。
「みすず」
 翔は小声で、
「楽しもうな」
「はい!」
 みすずも小声で言った。
 そう、楽しまなければ。
 賞を取る以前に。
 だって、好きでやってるんだから。
 そして、一つ前の学校の演奏が終わった。
 翔は、一気に気を引き締めた。
「プログラム十九番、県立習篠高等学校。指揮、黒田海斗」
 淡々と読み上げるアナウンス。
 今、翔の視線の先には、何千人という観客が映っている。
 その中に、五人の審査員も混じっていた。
 黒田が姿を見せた途端、会場は拍手の海になった。
 そして、直後、しーんと会場が静まり返る。
 そして、黒田が手を挙げ……演奏が始まった。

 最初の主役は、木管楽器だ。
 柔らかくも力強い音が、ホールのあちこちをいきかう。
 ホールは、たちまち習篠色に染まった。
 チューバは、最初の数小節は休みだ。
 とはいえ、この休みは、休憩の時間ではない。
 流れを読む時間なのだ。
 出番の時、スムーズに入る為の。
 そして、木管のゆったりとしたフレーズが終わり、曲はメインに突入した。
 翔とみすずは、伴奏だ。しかし、気を抜く訳にはいかない。
 伴奏が崩れれば、曲全体が崩れてしまう為だ。
 ただ淡々と、しかし表情豊かに、伴奏を刻んでゆく。
 この後、再び木管の出番。その後はいよいよ、翔のソロだ。
 軽快な部分が終了し、木管のやさしい音色が、ホール全体を包みこむ。
 ブレスの音が聞こえるのではないかというくらい、繊細な音だ。
 翔は一瞬、観客を見つめた。
 一部は目を閉じている。聴き入ってる証拠だろう。
 そして、やさしさにすっぽりと覆われたホールを、また違った空気が包み込む。
 翔のソロが、来たのだ。
 まず一音。重厚な音が、ホールに響く。
 そしてまた一音。
 その時、翔の目には、今まで見えていなかった物が、見えていた。
 音が……音が、見える。
 翔の周囲には、既にたくさんの音があった。
 その音は、色も形もみんな違っていた。
 個性が、出ていたのだ。
 部員一人一人の、個性が。
 ただ、音の大きさだけは、全て同じだった。
 そこには、統一感が出ていた。
 翔は、そのバランスを崩さない様に、一音一音奏でた。
 そして、ソロは何事もなく終わった。
 曲は終盤。アップテンポで終止線がどんどん近付いてくる。
 翔も、最後の力を振り絞り、一音一音に力を込めた。
 そして、最終小節、翔は最後の音を吹ききり……演奏が終了した。

 演奏前を上回る盛大な拍手が上がった。
 楽屋を出てから、みすずは、
「疲れました」
「そうだな」
「でも、なんか気持ちいいですね」
「そっか」
「はい、やり遂げたって感じがして」
「そうだな。俺もだ」
 部員達は休む間もなく、結果発表を聞きに再びホールへと戻る。
 ホール内はざわめき声で溢れていた。
 審査員を拍手で見送ると、ホールは一気に静まり返った。
 直後、主催者がステージ上に現れた。その後ろに、金賞のトロフィーがずらりと並んでいる。
「それでは、第五十回県吹奏楽コンクール高等学校ジュニア部門の結果発表を行いたいと思います」
 ちなみにだが、ジュニア部門は、県大会より上の大会が存在しない。
 賞は、金賞、銀賞、銅賞に分かれ、言うまでもないが、金賞が一番優れた演奏をした事になる。
「それでは。一番……」
 物音一つしない。
「……ゴールド金賞!」
 翔達の右斜め後ろから、歓声が上がった。
 いきなりかよと翔は、心の中で突っ込んだ。
 トロフィーに目をやる。あと四本しかない。
 出場校数は二十校だから、確率は二割ちょいだ。
「二番……」
 再び、静寂。
「……銀賞」
 この学校の生徒は、今一体どんな顔をしているのだろうか。
「……十番……銀賞……十一番……ゴールド金賞……十二番……銀賞……」
 次々に読み上げられていく。
 金賞の度に、どこかから歓声が上がった。
 トロフィーはどんどん姿を消し、ついに残り一本となった。
 次はいよいよ……翔達の番だ。
「十九番、県立習篠高等学校……」
 翔は、拳を額に当てた。
 みすずは、コンクールに出られればそれで嬉しいと言っていた。
 確かに、それでも文句はない。
 コンクールに出る事すら出来ない人達が、山ほどいるからだ。
 けれど翔は、みすず、それでいいのかと思っていた。
 お前は何の為にコンクールに出たんだ?
 俺やなよろと一緒に舞台に立つ為か?
 それならもう、習篠祭りで立ったじゃないか。
 お前が出た理由……それは、少しでもいい賞取って、この世界での思い出をより深いものにしたかったからじゃないのか?
 今だけなら、神様の存在を信じれる。
 どうか神様、最後は幸せな夢……いや現実を……素晴らしい思い出を、みすずに与えて下さい。お願いします。
 翔が神様に祈った直後、主催者の口が開いた。

「……ゴールド金賞!」

 一瞬、時間が止まった。
 が、直後、
「きゃああああああああああああああああああああああああ!」
 翔は、はっと我に返った。
 左側でみすずが、飛び上がっていた。
 口を開けたままの翔に、右側に座っていたなよろが、
「翔君、金賞だよ、金賞!」
 今まで見た中で一番輝いた笑みを浮かべていた。
 翔は一瞬、えっとなったが、
「よっしゃー!」
 男らしい喜び方をした。
「君達、静かにしなさい」
 注意をする声も耳には届かない。
「お静かに。今回の演奏は、どこも非常にレベルが高かった。それでは、続いて特別賞の発表をしたいと思います」
 再びホールが静まり返った。
 特別賞は一本のみ、特に優秀な団体に贈られる。
「ハマヤ賞は……」
 翔は正直、十分満足していた。
 ハマヤ賞などいらない位、満足していたのだが……。
「十九番!」
「きゃあああああああああああああああああ!」
 今度は、なよろが飛び上がった。
 そういえば、部長なのに、ステージに行かなくていいのだろうか。
 疑問である。
 何はともあれ、習篠高校吹奏楽部は、金賞とハマヤ賞受賞という、前代未聞の快挙を成し遂げたのだった。

「なよろさん。トロフィー持たせて下さい」
「了解。はいどうぞ」
 なよろは、トロフィーが入った箱をみすずに手渡した。
「あ、俺も」
「翔君には重すぎると思うよ」
「チューバ吹きの力をなめるなよ」
「前ティンパニごときでくたばってたのは誰かなー?」
「まだそんな事を……つかティンパニだって重いし!」
 いつもの突っ込みを入れる。
「でもいいよ、持って」
 なよろの意地悪そうな顔が、穏やかな顔になる。
「みんなで掴んだ物だもの」
 翔は、みすずから箱を受け取った。ずっしりと重い。
 これまでの部員達の汗と涙が詰まっているから、そう感じるのだろう。
「しかし信じられないよね、ダブル受賞って」
 なよろが、はっはっはと笑っている。かなり上機嫌だ。
「そうだな。みすず」
「はい! 何ですか?」
 みすずも上機嫌そうだ。
「よかったな」
「はい!」
 みすずは、元気よく頷いた。

 帰りのバスは、それはそれは騒がしかった。
 学校に戻ってきた部員達は、楽器を片づけると、少々くつろいでいた。
「音楽室に集合して!」
 そこに、なよろの声が響く。
 ぞろぞろと、部員達が集まる。その足取りは、いつもより軽い。
「みんな、ご苦労だった」
 黒田は、珍しく、笑みを浮かべていた。
 彼自身も、予想外の事に喜んでいるのだ。
「おかげで、素晴らしい賞をいただく事が出来た」
 一部の部員が、頷く。
 直後、黒田は顔を引き締め、
「だが、ここで浮かれてはいけない。これはあくまで通過点だからな」
 確かに、そうだ。
 翔達は、あくまで県、それもジュニア部門のトップに躍り出たに過ぎないのだ。
「来年は、B部門も検討してみる。みんなのさらなる活躍に期待している。解散」
 部員達がさあ帰ろうと立ち上がった直後、
「ちょっと待った!」
 なよろが叫んだ。部員達の動きが止まる。
「安房君。みすずさん。前に来て」
 なよろが手招きする。
 何だ、と思いつつも、二人は前に向かう。
「この二人には大変頑張ってもらいました」
 まあ、確かに頑張っただろう、二人は。
「安房翔君!」
「は、はい」
「安房君は、理由はよくわかりませんが、ある日突然部活に来てくれて、コンクールに参加すると言ってくれました! 部活動の危機を救った英雄です!」
 多少、事実と異なるが、翔は特に気にしない。
「そして、約一年のブランクにもめげず、必死に練習して、みんなを支えてきてくれました。拍手!」
 小さいながらも、全員が拍手をした。
「みすずさん!」
「はい!」
「みすずさんは、コンクール出場が絶望的だった時、急きょこの学校に編入して、部活に入ってくれました! 安房君と同じく、危機を救った救世主です! 拍手!」
 再び、拍手が起きた。
「じゃあ解散」
 黒田は、もう一度言った。
 帰り道、翔は、少々顔を赤くしていた。
 怒っているのだ。
 対象は誰かというと……紛れもない、なよろだ。
「お前、時と場合を考えろよな!」
「あーごめん。恥ずかしかった?」
「めちゃくちゃ」
「ふむ。でも、それもいい思い出じゃない?」
「あのなあ」
 ああ言えばこう言う。これじゃ無限ループになりそうだ。
「でもさ」
 なよろが、翔に微笑み、
「やっぱり、翔君のおかげだよ」
 翔は、一瞬立ち止まった。
「お前のせいだ」
 過去の、思い出したくもない記憶と、リンクしたからだ。
 でも、すぐにまた歩き出し、
「あ……ありがとな。なよろ」
「え、あたし何にもしてないよ?」
「いや、なよろがいなかったら、俺きっと壊れちまったかもしれない」
「そっか……うん、どういたしまして」
 そう、お互いが、お互いを支えあったからこそ、結果が生まれたのだ。
 一人のおかげではない。みんなのおかげだ。
「あ、あの、わたしは?」
「うん、みすずちゃんもだよ」
「はい! ありがとうございます!」
 みすずが答えた。

 時刻は、もうすぐ夕方五時を迎えようとしている。
 みすずは、家で一人のんびりテレビを見ていた。
 翔はというと、どこかに出かけたらしく、不在だ。
 足をばたばたさせながら、テレビに見入っていると、
「みすずちゃん、聞こえるかね」
 どこかから、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「はい、聞こえます」
 みすずもそれに答える。
 それは、あの老人の声だった。
「そうかい。みすずちゃん、大変申し訳ないんじゃが……」
「はい」
「……そろそろ時間切れの様じゃ」
「……はい」
 みすずは、ゆっくり頷いた。
 そうなる事は、みすずも嫌になるほど知っているからだ。
「何時ですか?」
「今日の十二時じゃよ」
「……そうですか」
 つまり、あと七時間。
 みすずは、ふと、顔が濡れているのに気付いた。
 それは……涙だった。

 その頃、翔の家の近くの公園に、翔となよろはいた。
 なよろの手には、紙袋が握られている。
「翔君。はい、これ」
「ええ? お前が渡すんじゃないのか?」
「ねえ翔君」
「どうした?」
「やっぱり、あたし、行かない」
 なよろは、まっすぐ翔の目を見て、言った。
「何で?」
「多分みすずちゃんは、翔君と一緒にいたいんだと思う」
「みすずに嫌われてるって言いたいのか?」
「違う!」
 なよろははっきりと、否定した。
「みすずちゃんはきっと、あたしよりも翔君の方が大切だと思ってるよ。それにあたし……」
 なよろはうつ向き、直後、泣き始めた。
「耐えられないよ……みすずちゃんの別れを見るなんて」
 翔は一瞬考えたが、すぐに、
「わかった」
「うん……ありがとう……」
 そして、翔は泣いているなよろをそっと抱きしめ、その場を後にした。

「ただいま」
「おかえりなさーい」
 みすずが、駆け足で玄関にやってくる。懐かしい、光景だ。
 翔は、靴にたまった砂を出す。そこへみすずが、
「翔さん」
「どうした?」
「今日の十二時、帰ります」
 翔は一瞬、動きを止めた。
 受け入れたはずなのに。
 翔は、受け入れ切れていなかったのだ。
「そうか」
 翔は無理矢理笑顔を作って、
「じゃあ、早く作らないとな。ははは」
「何をですか?」
「リビングで待ってろ。あ、そうだ」
 翔は、左手にぶら下げてあった紙袋をみすずに見せた。
 みすずは、何ですかと言いたげな顔をしている。
「なよろから、お前にプレゼントだ」
 途端に、みすずの顔が明るくなった。
「わーい! 何ですか何ですか?」
「自分で確かめろ」
 みすずは、その場でそっと袋を開けた。
 その中に入っていたのは……一枚のCDと、カードだった。
「ありがとうございます!」
「俺に言うな。なよろ……いや、なよろの家に向かって言え」
「はい! どこですか?」
「自分で調べろ」
「けち」
「何だと?」
「じょ、冗談ですよー」
「ああそうか」
 みすずは、なよろの家があると思われる方角に向かって何度も礼を言った。
 数分後。
 翔は、台所にいた。
 台の上には、今にも溢れんばかりの大量の食材が並べられていた。
 二人前にしちゃ、少々多過ぎただろうか。
「よし。作るか」
 改めて気合いを入れ直し、翔は野菜を切り始めた。
 切る事だけは、この前のなよろの料理教室で散々やってきた。
 しかし、そうすぐに身に付く物ではないらしい。
「いって」
 さっそく、指を切ってしまう。
 しかし、みすずが喜ぶ顔を思い浮かべると、痛みもどこかに吹っ飛んでいった。
 一通り、食材を切り終わると、翔は、鍋を取り出した。
 ふと、中学時代の思い出が蘇ってきた。
 フライパンから目を離した直後、突然引火したのだ。
「でも、今の俺はそうはいかない!」
 誰に対してなのかわからない宣言をしつつ、翔はコンロの栓をひねった。
 ぼわっと火が付いた。
 翔はそれにひるむ事もなく、鍋に食材を投入した。
 やがて数分後。
 翔は野菜に箸を突き刺してみた。箸は見事に突き刺さった。そろそろ大丈夫だろう。
 次に翔は、米をとぎはじめた。
 慣れない手つきで時折米粒をこぼしながらも、なんとか炊飯器に投入する。
 それから翔は、残った野菜を皿に盛り付け、ドレッシングをかけた。
 納豆も準備した。後は、ご飯が炊きあがるのを待つだけだ。

 いったんリビングに戻る。
 みすずは、なよろからもらったカードに目を凝らしていた。
 テレビでは、ちょうど天気予報をやっており、明日も晴れるという。
 しかし、翔は、もうみすずと朝を迎える事は出来ない。
 一緒に朝陽を浴びる事も出来ない。
 翔は、複雑な気持ちになった。
 やがて、炊飯器から音が聞こえてきた。
 完成だ。
「出来たぞ。みすず」
「はい!」
 翔の後ろに続き、皿を持ち運ぶ。
 そして……。
「いただきまーす」
 二人で迎える最後の夕食が、始まった。
 翔は、一応味見はしていた。翔の味覚が正しければ、味は悪くないはずだが……。
「どうだ?」
「……とても美味しいです」
「そうか。ならよかった」
 みすずは、次々と皿を空っぽにしていった。
「そんなにがつがつ食うと、腹壊すぞ」
 思わず、翔が突っ込む程の勢いだ。
「だって……美味しいんですもん」
「そうか」
 結局、みすずはご飯もおかずも全て平らげた。
「何だか眠くなってきました……」
「お前、本当にわかりやすいな」
 思わず、翔も笑ってしまう。
「眠たかったら、寝てもいいぞ。俺の腕でも構わん」
「じゃ、お言葉に甘えて」
 そうして、翔は、みすずの元に、腕を差し出した。
「翔さん、大好きです……」
「ああ。俺も大好きだ」

 それから、三時間程が経った。
 翔は、ふと目を覚ました。
 しまった。本当に寝てしまった。
 時計を見る。
 もうすぐ十一時。
「みすず、起きろ、十一時だ」
「……はい」
 みすずは、ゆっくりと起き上がった。
「翔さん」
「何だ?」
「腕枕って、思ったほど楽じゃないですね」
「んなの当たり前だろう。それより、みすず」
「何ですか?」
「外に出よう」
「はい」
 二人は、玄関のドアをゆっくりと開け、外に出た。
 辺りは漆黒の暗闇となっていた。玄関前の小さなライトだけが、足元をそっと照らしている。
「星、見えませんね」
「そうだな。都会だからな」
 翔は、せめて今だけでいいから、満天の星空を見せてくれと祈った。
「翔さん」
「どうした?」
「かっこよかったです。本番」
「そうか。お前もだよ、みすず」
「えへ、なんか照れちゃいますね」
「今は誰もいないから、見せてくれないか、みすずの照れ顔」
「翔さんの意地悪」
「はは。冗談だよ」
「翔さんが冗談言うなんて珍しいですね」
 翔は、あごに手を当てた。記憶の限りでは、翔が冗談を言ったのは、初めてだ。
「俺だって、冗談位言いたくなる時だってあるさ」
 そう、少しでも、この現実から逃れたい。
 別れという名の現実から。
「翔さん」
「ん?」
「ごめんなさい」
「何で?」
「いきなり、押しかけてきちゃって」
「気にするな。俺だって求めてたんだ。人を」
 そう、翔は、求めていた。
 一緒に話し合える人を。
 喧嘩し合える人を。
 泣き合える人を。
 そんな時、みすずは、来てくれた。
 翔の心の溝が、また一つ埋められたのだ。
「ありがとな、みすず」
「何がですか?」
「この世界に来てくれて」
 翔は、みすずの目をじっと見て、
「お前がいたから、俺は変われたんだ。お前がいなかったら、俺は、きっと変われなかった」
「そうですか……わたしも、ありがとうございます!」
「何が?」
「こんなわたしを、温かく迎えてくれて、本当にありがとうございます!」
「なるほど。なあ、みすず」
「何ですか?」
「もう一枚、写真撮らないか?」
 翔は、ひそかに持ってきた携帯を取り出した。
「はい! 撮りましょう!」
 みすずは既にピースサインを出している。
「まだ早いぞ」
 起動まで一分弱。その時間さえも、翔は惜しく感じた。
 翔が、レンズをこちらに向ける。
「じゃ行くぞ。はい、チーズ」
 何の変哲もない掛け声の直後、シャッター音が聞こえた。
「どうだ、みすず」
 画面には、笑顔でピースサインをする二人が写っていた。
「はい。とてもいいですよ!」
 みすずも満足している様子だ。
 翔はそれに笑顔で頷くと、携帯をポケットにしまった。
「みすず」
「何ですか?」
「今、こんな事いってもどうしようもないけど、俺、みすずとしたい事があるんだ」
「……何ですか?」
「一緒に風呂に入りたい」
 みすずは急激に顔を赤くして、
「ええっ? 駄目ですよ!」
「そうだよな。悪い悪い」
「あ、でも……いいですよ」
「マジで? よし、じゃあ行こう」
「冗談ですよー」
「こんやろー!」
「ははは」
 直後、みすずは、真顔になって、
「でも、冗談じゃないかもしれません」
「そっか」
 翔も、みすずが何を言いたいのか理解したらしく、口を開いた。
「翔さん」
「何だ?」
「わたし……翔さんの事……大好きです」
 いきなり彼女は、翔の脇腹に手を回した。
 翔も不意打ちだったらしく、一瞬びくっとなる。
「えへへ。翔さんは照れ屋ですねー」
「はは。そうかもな」
 翔も、みすずの脇腹に手をかけた。
 みすずの顔が、すぐ近くに迫ってくる。時折、息が顔にかかる。
「みすず」
「はい」
「俺も、みすずの事が大好きだ」
「はい!」
 そうして翔は、みすずをぎゅっと抱きしめた。
「翔さんの身体……あったかいです」
「お前が冷た過ぎるんだよ」
「えへ、そうかもしれませんね」
 もし時間があったら、もしみすずが神様じゃなく、人間だったとしたら、きっと二人は結ばれていただろう。
 しかしそれは、あくまでもしもの話だ。
 そう、みすずは神様であり、人間ではない。
 翔は、携帯を取り出した。時間まであと五分もない。
「翔さん」
「何だ?」
「あの……」
「何だ」
 翔は少々焦った。みすずが、なかなか続きを言おうとしないからだ。
「……キス、したいです」
「ああ。俺もだ」
 そうして、二人は、ゆっくりと顔を近づけ……お互いの唇を触れ合わせた。
「……今のは、カウントしなくていいですよ」
「いや、カウントさせてもらうよ」
「翔さんがそうしたいのなら、そうして下さい」
「ああ」
 やがて、三秒前、二、一、ゼロ……。
 十二時になった。
 すると、空が突然光り出し、何かが降りてきた。
 階段だ。天国への……階段。
「さようなら……」
 みすずは立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。
 が、直後振り向き、翔の頬に……キスをした。
 突然の事だったので、翔も体勢を崩しそうになる。
「お前、いい加減にしろよな!」
「えへへ、油断した翔さんが悪いんですよー」
 直後、みすずは、どこか遠くを見つめる顔で、
「さようなら……」
 もう一度言った。今度は本気らしい。
 翔もゆっくりと、みすずの後ろにつく。
 しかし、みすずは、数歩歩くと立ち止まった。
 再び、くるりと振り向き、
「翔さん……」
「どうした?」
「何で……別れって……こんなに……悲しいん……ですか……?」
 みすずの目から……涙が……落ちた。
「馬鹿野郎……泣くんじゃねえよ」
「わたし……」
「それ以上……何も……言うんじゃねえよ!」
 翔は、みすずに飛びついた。
 目には大粒の涙を浮かべ、翔はみすずの制服に顔を付けた。
 こらえきれなかった。
 もう、限界だった。
 翔はそのまま、みすずの元で泣き続けた。
 みすずは、翔の頭をやさしくなで、こう言った。
「わたしは……ずっといますよ……翔さんの……心の中に……永遠に……だから……泣かないで下さい」
 翔は、ゆっくりと顔を上げた。顔は真っ赤に染まっていた。
「わかった。じゃあ、お前ももう泣くなよ」
「はい……」
 翔は、ゆっくり身を起こすと、後ずさった。
 出来るだけ、長くみすずを見ていられるように。
 みすずは、階段の一段目に、足をかけた。
 そして、二段目、三段目と、徐々に翔の元から離れてゆく。
「今まで、本当に……ありがとうございました!」
「おう。寂しくなったら、またいつでも来いよ」
 その日が来るかは、誰も知らない。
 けど、言わなくちゃいけない。
 一言でも多く、君と話したい。
 その想いが、溢れ返る。
「さようなら……さようなら……さようなら、翔さん!」
 直後、階段が光り出し……跡形もなく、消え去った。
「みすずうううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう!」
 翔の叫び声が、夜の闇に散った。

エピローグ

「遅い! もう一回!」
 真夏の校舎に、一人の女子の声が響いた。
 彼女の名は、雛本なよろ。
 今日も、同級生、安房翔と練習の最中だ。
 一通り練習を終えたなよろは、
「あっついねー、翔、コーヒー買ってきて」
「自分で買ってこいよ」
「ひっどーい! 女の子に真夏の廊下を歩かせるつもり?」
「クーラー効いてるだろ」
「どっちにしろ面倒くさいよー」
「……ったく、仕方がねえなあ」
 翔は、個室を飛び出した。
 自販機で、いつもの様にコーヒーを買う。
 ふと……翔は何かを思い出した。
 誰かの……少女の……顔を。
 そう、その少女とは……。
「よっ、安房」
 ふいに背中を叩かれた。
 運動部のクラスメイトだ。
 翔も適当に返事を返す。
 特にからかう様子もなく、クラスメイトは行ってしまった。
「翔ー、もう、遅いから来ちゃったじゃん」
「ああ、悪いなよろ。ほれ、コーヒー」
「あ、どもー」
 翔はコーヒーに手をかけた。
「ああ。もう一杯!」
「早! つか、今度は自分の金で買えよ」
「けち」
「ぶっとばしてやろうか?」
「最低! 鬼! 悪魔!」
「……はあ」
「冗談だよ。ちゃんと自分で買いますよ」
「是非そうしてくれ」
 翔は、コーヒーを口に運んだ。いつもの味だ。
「そういえば、もうすぐ二学期だな」
「ああ、そっか……って、もう!」
「どうした? もしや宿題が終わってないとか……」
「ええっ、終わってるわよ、うん……」
「怪しいな」
「うるうるうるさい! ほら行くよ!」
「いって。引っ張るなよ、おい!」
 朝の校舎に、二人の声が反響していた。
 今日も、暑くなりそうだ。
 そんな姿を見た一人の少女は、
「二人とも、仲良しこよしです」
 少し寂しげに、微笑むのだった。
神峰
2012年02月08日(水) 19時28分11秒 公開
■この作品の著作権は神峰さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
吹奏楽をテーマに、青春感動ノベルを目指しました。
ご意見ご感想をよろしくお願いします。

この作品の感想をお寄せください。
No.2  神峰  評価:--点  ■2012-02-09 11:57  ID:/PerYWhcoRo
PASS 編集 削除
白星奏夜さん、長文ながらも読んでいただき、誠にありがとうございます。
まず、改行についてですが、これは、某新人賞に応募した作品なのですが、その当時の文章をそのまま使用しています。読みづらかったのでしたらすみません。
それから、みすずと翔の関係……これは、盲点でした。
言われてみれば、そうですね、納得しました。
そして、最後、これは僕も気にしてたことなんですが、理由を簡単に。
「人間」になったみすずには、他の人間の人生に影響を与えることはあっても、実質的に彼らを操作する力はない。だから、神様の長(老人のことです)は、みすずが「人間」になることを提案した。
こんな感じでしょうか。わかりづらかったらすみません。

ちなみにですが、僕は中学高校吹奏楽部でした。
好きなシーンは、騙し討ちキスのシーンですか。最後は特に気合いを入れて書いたので、気に入ってもらえて嬉しく思います。

最後に、最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
No.1  白星奏夜  評価:30点  ■2012-02-09 00:41  ID:3onKz9sLr9I
PASS 編集 削除
はじめまして、こんばんは。拝読致しました。
まず、一言。お疲れ様、です。なんというか、すごい時間かけたのではないかと。作品を書ききることが宿題の私にとって、書ききった作者様は素直に尊敬します。
他人様の作品(愛娘)に何か言うほど偉くはないのですが、せっかくなので一言二言。改行が多いのがちょっと気になりました。敢えてそうしてらっしゃるなら何も言えませんが、まとめられるならその方が良いのでは〜(汗
あと、みすずと翔の関係が少し弱く感じてしまい……。みすずの死因や、翔の親の死因がどちらかのせいで起こったみたいな展開ならもっと二人の関係や動機が絡んだようなそうでないような(そのような記述があればすみません
最後は、人間界に接触してはならない規定だったはずなのに、何故にそれが緩和されてしまったのかとか(読み込み足らずでしたら申し訳ない

続けて……作者様は吹奏楽経験者でしょうか。でなくて書き上げられたのなら、凄いです。あとは、私の妄想ですが、なよろちゃん好きです。何か、某恋愛アニメの(虎と龍が出てくる)みの○んや、なんたらが鳴く頃にのみ○んを思い出してしまいました。あと、みすずという名前と、こういうラストを見るとどうしても某有名泣きゲー(アニメ)の彼女を思い浮かべて涙が浮かびます。
長々書いてすみません。最後の振り返りざまに騙し討ちキスが作品の中でとても好きなシーンです。拙い感想、失礼しました。ではでは。
総レス数 2  合計 30

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